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香港ナイト

レス61 HIT数 1188 あ+ あ-

葉月( AmcTnb )
22/11/02 10:27(更新日時)

雑多な喧騒の街が、男と女の運命を変えようとする。


頂点と底辺の間で、人々は傾き、揺れ動き続ける。



No.3559647 22/06/11 10:53(スレ作成日時)

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No.1 22/06/11 11:07
葉月 ( AmcTnb )

香港に行きたいと言いだしたのは、ユキのほうだった。
香港。カジノバーにルーレット場。ネオンがきらめく歓楽街。食べ尽くせないほどの広東料理。怪しげなブランド品を値切って買う闇ルートの店。
ーーたしかに、どれをとっても、ユキの好きそうな街ではある。
そして、いつものように、ユキのもくろみ通り、「香港行き」は、あっけなく決定された。まあ、俺も別に異存はなかった。
次に会う時にはもう、ユキは、香港のパンフレットを一揃(ひとそろ)い持って来ていた。ページをめくると、わざとらしいくらいエスニックな色彩が並んでいる。
「あなた、広東(かんとん)語できる?」
「まあ、日常会話ぐらいはね。でも、あそこは、英語を使う人間も多いだろ?」
「そうね。よく考えたら、日本語だって、わりと通じるかもね」
「ああ。アジアの定番の観光地で、日本語が通じない所はないよ」
ユキは、すごく楽しそうに、真っ赤なネイルの指先で、パンフレットのページをめくっていた。

No.2 22/06/12 11:47
葉月 ( AmcTnb )

「ねえ、なんだか、いい旅になりそうよね」
俺は、気だるい気持ちで、革張りのソファーに体を伸ばし、「そうだな」と、適当に相づちを打った。


考えてみれば、それは、「婚前旅行」といってもよかったのかもしれない。結婚を念頭に置いて付き合う期間が婚約期間とするならば、俺達は、けっこう長い間、婚約者のままだった。
結婚までいかない理由は、まず「仕事」だ。
ユキは、外国人でも名前を知っている、国内の大企業に勤めていた。そこの、社長秘書なのだ。
もうずいぶん長い事、秘書についていたため、ユキは、その会社の幹部でも知らないような機密事項さえも、しっかり把握している。事実上、彼女の地位は、幹部達より上のようだった。
しかし、彼女はわりと控え目なタイプなので、その立場をカサにきるという事はない。ただ、自分の置かれた位置にきちんと座って、会社を見渡しているだけなのだ。
俺はといえば、イベント関連の会社で、精力的に仕事をこなしていた。ユキの会社のように大きくはない。どちらかといえば、こじんまりとした会社だ。
イベントといっても、バカ騒ぎ系のイベントではなく、各企業の接待としてのイベントだ。うちでは、それの総合プロデュースをしている。

No.3 22/06/18 11:25
葉月 ( AmcTnb )

わりと競争が激しい業界の中で、我が社は他を出し抜いていた。理由は単純。安くあがるのだ。質を落とさずに価格が安い。誰だって、そっちのほうがいい。
なぜ、安くあげられるのか?それも単純だ。社員が少ないから、人件費がかからない。うちの社員はみな、若くて小回りがきく奴らばかりだ。他社の社員の2、3倍の仕事をする。そして、それに見合う報酬をもらっている。良い循環体系だ。だから、結束も固い。

No.4 22/06/18 11:35
葉月 ( AmcTnb )

俺も最初は、使いっぱしりのような事ばかりしていた。
新しい会社だったので、俺が入った頃は、暗中模索状態だった。いやな思いもたくさんした。一応、代表は、俺の学生時代の先輩だったが、同じ苦境を乗り越えるうち、ほとんど同志といってもいいような間柄になっていた。
俺は時々、想像してみる。俺の日常生活に「結婚」という二文字をインプットしたシュミレーション。それは、今の生活と何も変わりはないようで、何かが違っている世界。
ユキがいる。それは当たり前だ。妻となったユキは、今と何かが変わるのだろうか。
彼女は、結婚というのを意識しているようでもあり、まったく執着がないようにも見える。どちらともつかない。

No.5 22/06/21 11:34
葉月 ( AmcTnb )

はたして彼女は、会社での今の地位を捨てて、俺との結婚生活という枠の中に入ってくれるのだろうか?
いや、仕事は、続けたっていい。結婚したらそれまでという決まりはないだろう。それよりは、ユキ自身のあり方だ。彼女は、生活の中に、仕事を持ち込まないでいてくれるだろうか?
いろいろと考えを巡(めぐ)らせるうち、「結婚」という事が、ひどく煩雑で面倒な事に思えてくる。
俺は、結婚には、向かない男なのかな、
ーーいつか見た昔の映画のビデオの中で、若い男が、そうつぶやいていた。いかにも、ジェームス・ディーンの影響を受けた、という感じの、B級専門の役者だったが。
あの時、となりにいたユキは、何か言っていた。

No.6 22/06/21 11:47
葉月 ( AmcTnb )

記憶の中で、ゆっくりと情景が形となる。俺の部屋で、背丈ほどのシュロの葉が、エアコンの風に揺らいでいてーー
結婚は、適性じゃなくて、判断力よね。
そう思わない?
そうだ。そう言ってた。ソファーにもたれ、ピザの断片を食べながら、そう言ったユキの言葉自体が、映画のセリフのようだった。
それで俺も、何か、気のきいた事を言おうとして、少しひねりがある言葉を言ったような覚えもある。しかし、自分がその時、何と言ったか、どうしても思い出せない。


あの時はたしか、おごってやると言った友人が、なかなか約束のバーに姿を現さず、あげくのはてに携帯で、「悪い、今度必ず」とキャンセルを告げられ、怒る気にもなれず、ひとりぼんやりと喧騒の中で壁の木目を眺めていた時だ。

No.7 22/06/25 11:17
葉月 ( AmcTnb )

ひどく酔っ払ってしまおうか、それとも軽く済まそうか、少し考えて、一人で酔いつぶれるほど飲むような年でもないなと思い、ジントニックをゆっくりと味わっていた。
さっきから、気になるカップルがいる。男はTシャツにジーパンというラフな格好で、女は体の線に沿(そ)った薄いデニム地のワンピースだ。
男が何か話しかけるたびに、女の艶のある黒い髪がゆらりと揺れる。女は男に微笑み、相づちをうつ。
ここからでは、前髪でかくれて、女の赤い口元しか見えない。
特に目立つというわけでもないのに、視線が、いつのまにかその二人へと引き寄せられる。
そのうち、会話は、途切れたようだ。
なんとなく、男は、女をもてあましているようにも見える。その男に対して、女のレベルが数段高いのだ。

No.8 22/06/25 11:28
葉月 ( AmcTnb )

最初、女と目が合った時は、まだ、偶然で済ませる事もできた。
大きな流れの中で、二つの小さな石が、コツンとぶつかり合うようなものだ。お互いの存在は認められても、速い流れの中で、それから先の意識は分断されていく。
それでも、俺は、再びその女と目が合った。その時、女は、座っていたスツールに片手を置い半転させ、明らかにこちらを向いていた。俺のほうを見ていたのは確かだが、その瞳には、まだ、そのままやり過ごしてしまおうかというような、迷いみたいなものがあった。
三回目。もうその時には、はっきりと、俺達はお互いの存在を、視線の先にとらえていた。

No.9 22/06/29 10:43
葉月 ( AmcTnb )

そのまま言葉を交わさずにいるのは不自然なようにも思えてきた。
しかし、相手には男がいる。男が席を立った時を見計ろうかと思って、じっとグラスを握っていたら、ふと、女のほうから、やってきた。
「こんばんは」
すごく親しい相手に声をかけるように、女は、気軽に、俺の前の席へ座った。
「この店にはよく来るの?」
「今までに2、3回くらい。それほどよく来るわけじゃない」
「そう。私は初めて。ね、タバコ吸ってもいい?」
そう言って、女は、細いタバコに火をつけた。
しばらく沈黙が続き、俺は、一応聞いてみた。
「連れの人は、いいの?」
「ああ、あの人?うん、大丈夫じゃない?もともと、お仕事の延長みたいなものだし。あの人、しょっちゅう携帯でメールのチェックしてるのよ。たぶん、私がいなくても、そう淋しくないと思うわ」
彼女の話し方は、外国映画の吹き替え版の声優のように、洗練されつつくだけていた。

No.10 22/06/29 10:53
葉月 ( AmcTnb )

この女の仕事って何だろう?普通のOLには見えないし、水商売にしては、少し固い雰囲気もある。
「君の仕事は?」
女は、タバコを指ではさんだままひじをつき、少し目をふせて笑った。
「隔離病棟の看護士」
俺は、少し驚いてたずねた。「本当に?」 
「嘘よ」女は、おかしそうに、クスッと笑った。
「でも、似たような仕事ね」
それ以外、俺達は、特にこれといった話もしなかったように思う。
そのうち、連れの男が、俺達の所まで来て、彼女に「また飲もうな」と言い残し、去っていった。なんとなく、ホッとしたようにも見えた。

No.11 22/07/02 11:40
葉月 ( AmcTnb )

俺は、彼女と向かいあっていると、不思議な心地よさを感じた。
他の女達に一分間くらいしゃべって説明しなければならない事柄を、ほんの一言でわかってもらう事ができるような、そういう、お互いの心の「共有感」というのだろうかーー 深い部分でふれあう事ができた。
別れぎわ、俺は、彼女に聞いた。
「また会える?」
彼女は、ペルシャ猫のように肩をすくめて、言った。
「ごめんなさい。私、自分のスケジュールが、すごく立てにくい状況なのよ」
でも、それは、断りの言葉ではないように思えたので、もう少し押してみる。
「携帯は?」
「私、『仕事用の携帯』しか、持ってないの。 、、、、あなたの携帯は?教えてくれる?」
そこで俺は、自分の携帯の番号を教えた。女は、自宅の電話番号を教えてくれた。
「一人暮らしなの。留守電にメッセージを入れてくれればいいかもしれないわ」
女は、ほとんど酔っていないように見えた。

No.12 22/07/03 11:29
葉月 ( AmcTnb )

それから半月ほどして、電話が入った。
「私。ユキよ」
「ああ、、」すぐにわかった。しかし、初めての電話で、昔からの友人のように話しかけてくる。
「このあいだ会ってから、時々ふっと、あなたにまた会いたいなと思ってたの。あなたは?」
「俺は、ずっと、会いたいと思ってた」
電話の向こうで、クスクスと笑う声が聞こえる。
俺は、思わず、ソファーの上にきちんと座り直した。
今までの女たちからの電話といえば、ソファーに寝ころんで、音を消したテレビのリモコンを操(あやつ)りながら応対したものだが、その時の俺は、まるで、部活帰りの高校生が、少し前かがみにベンチに腰をかけて、彼女と電話しているような感じだった。

No.13 22/07/03 11:43
葉月 ( AmcTnb )

彼女と親密な関係になるのに、時間はかからなかった。
俺の経験からいって、付き合う女には二種類ある。
付き合いだすと、お互いに下降していくタイプと、上昇していくタイプだ。
二人して下降していくのも、楽といえば楽だが、あとに何も残っていかない。
具体的にいうと、能率が悪くなってくる。自堕落な休日、というのが増えてきたりする。そのうち、相手がいないほうが、自分を律することができる、という事に気づく。そうなると、別れは目の前だ。
ユキとは、上昇していけるタイプだ。お互い仕事が忙しい事もあって、たまに会える日は、秒単位で貴重だった。
そのうち、俺達は、旅行に出かけるようになった。
バリ、グアム、ハワイ、そういうおだやかな所から始まり、やがて、ブラジル、モロッコ、スペインなど、やや刺激的な所を選ぶようになってきた。
社長秘書という仕事のわりに、ユキは、けっこうスムーズに休暇をとる事ができた。ボスである社長が、年に数度、きちんと休暇をとる人物だったからだ。

No.14 22/07/08 11:08
葉月 ( AmcTnb )

外国に出ると、ユキは、少し大胆に、年齢より若い格好をする。
渋谷や新宿の若い者たちがしているような、動くとヘソが見えるようなやつだ。
俺が、彼女から聞かれる前に、「似合ってる」というと、彼女はうれしそうに微笑む。
そういう大胆な格好をする反面、見知らぬ男から声をかけられたら、俺の後ろに隠れてしまうようなしおらしさもある。
俺は、だんだんと、そういうユキのことを、大切に思い始めていた。
彼女といると、男と女の関係を越えた、人間愛のようなものを感じた。人は、こうやって家族というものを見つけていくのかなと考えたりする。
結婚という漠然とした概念をたぐり寄せ、現実に形作っていかなくてはと思う。ユキのために。
家庭のやすらぎというものをなんとなく想像して、まあそういうのも悪くないかもしれない、と思いはじめたのも、その頃だった。


香港には朝着いたが、二人して半日眠っていたので、動きはじめたのは昼すぎだった。

No.15 22/07/08 11:19
葉月 ( AmcTnb )

二人とも、いつも、出発の前日まで(どうかすると直前まで)仕事に追われている。追ってくる仕事をふり払うように飛行機に乗り込み、現地に着くと、まずとりあえず半日くらい眠るのだ。
それは、我々の、日常から非日常への通過の過程の一部だった。目を覚ましたとたん、二人ともすっかり非日常の国の旅人になりきっている。
とりあえずホテルを出て、にぎやかにざわめく街を歩きまわり、目についた食堂でチャーハンを食べた。厨房のほうで、勢いのある広東語がとび交っている。日本で嗅いだ事のない香辛料の匂いが、俺達のテーブルまで漂ってきた。
「今夜は、うまい中華を食べに行こうか」
「いいけど、お店はわかるの?」
「友達に教えてもらった所がある。かなり香港通のヤツだから、信用できると思うよ」

No.16 22/08/01 09:51
葉月 ( AmcTnb )

その後、俺達は、香港の街をひととおり歩きまわった。
あちこちに張り巡らされた漢字だらけの看板。怪しげな露店商。
何かを見据えるような目付きで歩いている香港の人達。そういうものにもだいぶ慣れてきて、ユキは、俺とずっと手をつなぎたがっていた。
彼女は、胸元に小さいレースの縁取りがある白い半袖のブラウスに、グレーのパンツをはいていて、ウェイブの髪は、薄く茶色がかっている。
大陸から来る熱い風が、香港の雑踏の中を吹き抜けていく。
ユキは、いろいろとデザイナーズブランドのディスカウントショップをまわっていたが、決めかねる様子で、結局何も買わなかった。

No.17 22/10/02 12:05
葉月 ( AmcTnb )

薄青い夕闇が街並みを包みはじめて、気がつくと夜の入口へとさしかかっている。
俺は、友達から教えてもらった中華の店を探すことにした。
仕事の関係で覚えた広東語を使って、歩いていた地元の人間らしい人々に話しかけたが、まあだいたい通じているようで、迷う事もなく店にたどり着いた。
客を威圧するようながっしりとした中国風の門をくぐり、店の中へ入ると、きらびやかなシャンデリアが煌々と輝いている。
タキシードを着た恰幅(かっぷく)のいいオールバックの男が、人の良さそうな微笑みを浮かべ、俺達を奥の席へと案内してくれた。途中、チャイナ服のすそをなびかせた若いウェイトレスと何人かすれ違う。

No.18 22/10/08 11:31
葉月 ( AmcTnb )

席に着いた俺は、グラスのミネラルウォーターを飲み干し、深く息をついた。
小ぶりの北京ダックのコースを頼み、明日の予定について、ユキと話し合う。
「海岸のほうへ出て、うまいビールが飲みたいな」
「思いきって、マカオのほうに出てみる?」
「それもいいね」
やがて、ダックが運ばれ、コックが慣れた手つきで切り分けていく。
ユキが先に一口食べて、「おいしい」と言った。
「うん。俺が前に仕事で食べたのより、こっちがうまい」
大雑把(おおざっぱ)に仕切ってあるまわりのテーブルのあちこちで、歓談する声が聞こえてくる。テンションの高い広東語が、四方八方を飛びまわっている。
そういう店内の騒がしさの中に、何か異質な響きを感じた。
何か、トラブルか。この街では、トラブルは珍しくない。
まあ、そのうち収まるだろうと思いつつ、俺は、本能的にその騒ぎの根源を探して、視線を飛ばした。
皿が割れ、料理がこぼれる音がする。

No.19 22/10/09 11:03
匿名 ( AmcTnb )

さっきの、オールバックの男が、猛烈な広東語をまくし立てている。
女の怯(おび)えた悲鳴が聞こえた。
「何?」
ユキと俺が、ほとんど同時に立ち上がった時、ライフルを両手で構えた男が、視界に飛びこんできた。
男と俺は、反射的に目があった。やけに落ち着いた底に、何かを含んでいる瞳だ。男が、ゆっくりとこちらに向き直る。
「、、、、お前ら、日本人か?」
ゆっくりと、広東語で、男が言った。
「そうだ」
答えると、男の目が、一瞬険しくなる。
「よし、お前ら二人は残れ。後の者は、店から出て行け」

No.20 22/10/09 11:13
匿名 ( AmcTnb )

店の中にいた客達が、男の様子をうかがいながら、おびえた表情で足早に出口へと向かう。
それを見つめるユキの表情が、こわばっている。
最後に残ったオールバックの男が、何か言いたげに俺のほうを見ていたが、やがてあきらめ、何も言わずに立ち去って行った。
男は、俺に向かって、銃口を向けたまま、
「お前は、広東語はわかるのか?」
と、鋭い目つきで言った。
「ああ、でも、英語のほうが得意だ」
俺がそう答えると、男はしばらく黙り、やがて、英語で、
「わかった。いいか、これから俺の言う事に逆らうな。男が電話する間、そこから動くな」と言い、壁際(かべぎわ)のコードレス電話へと向かい、受話器を取った。

No.21 22/10/10 11:28
葉月 ( AmcTnb )

男は、どうやら警察に電話したようだ。
広東語で何かを要求を告げている。
最初、冷静に話していた男も、途中から少し興奮して早口になってきたので、ほとんど聞きとれなかった。何か、病院、と言っているが、よくわからない。
ただ、わかるのは、警察たちが要求を飲まない限り、俺達の安全は保障されない、という事だ。
男は、唐突に電話を切り、俺達のほうを見て、再びライフルの銃口をこちらへ向け、「そこに座れ」と言った。
ユキは、おそるおそる座り込んだ。顔が青白くなっている。
俺も、指示通り、ユキに寄りそうように座り込み、そっと彼女の背中に腕をまわした。ピンと張りつめた背中が、小刻みにふるえている。

No.22 22/10/10 11:39
葉月 ( AmcTnb )

男は、俺達を冷ややかに見おろしていた。
浅黒い肌で、骨ばった顔つきだ。動物的な鋭い視線で、俺達二人を観察するかのように、じっと見つめ続けている。
俺は、この事態が現実のものだという事が、実感として理解できなかった。なんでこんな事になったんだ。ただ恋人と二人で中華料理を食べに来ただけじゃないか。
男は、なおも、俺達一人一人をじっと見つめている。
俺は、頭の中で、もしこいつがユキに手を出した時にどう対処するかを考えていた。隙(すき)をついてライフルを奪えれば一番いいが、そう簡単にはいかないだろう。
さっきまで俺達が座っていたテーブルに、ナイフがある。
テーブルまで、約1メートル。あのナイフを、どうにかできないだろうか。
もし今とっさにナイフに手をのばし、俺が撃たれたら、ユキを守る者がいなくなってしまう。俺は、ゴクリとつばを飲みこんだ。

No.23 22/10/10 11:46
葉月 ( AmcTnb )

とにかく、慎重にしよう。警察も来るはずだ。
こんなやつにやられてたまるか。俺は、ユキと一緒に、無傷で日本に帰るんだ。日本に帰ったら、すぐにでもプロポーズしよう。
ユキは、さっきからずっとふるえている。俺は、彼女の背中にまわした右手に力を込めた。
男は、やがてゴブラン織りの椅子に腰をおろした。
長い時間が経(た)ったような気がしたが、腕時計を見ると、俺達がこの店に入ってから、1時間も過ぎていなかった。

No.24 22/10/11 19:39
葉月 ( AmcTnb )

ふいに壁際の電話が鳴り、ユキがビクッと体を震(ふる)わせた。
男が受話器を取り、広東語で話しだした。なにやら、苛立(いらた)だしいニュアンスが伝わってくる。どうやら、交渉は、うまくいってないようだった。
再び男は、叩きつけるように電話を切った。
男が話をやめた後、鋭い静寂が辺りを包みこんだ。
「お前たちはーー」突然、男が、クセのある英語で、静寂を破った。
「夫婦か?」
「いや、まだ結婚はしていない」
俺が答えると、男は、「そうか」と言い、再び俺とユキを見つめたが、その瞳から少し険(けわ)しさがとれたような気がする。
俺は、思いきって、男に尋ねてみた。
「なぜ、俺達を人質に選んだ?」
男の視線が、鋭くなった。しばらくたって、男は、きっぱりと言った。
「日本人だからだ」

No.25 22/10/11 19:52
葉月 ( AmcTnb )

「なぜだ?日本人が嫌いなのか?」
「俺は、日本人を憎んでいる」男の動物的な目が、まっすぐに俺を見据える。「俺の祖父は、中国人だ。お前ら日本人が戦争中、中国大陸でやってきた残酷な仕打ちを知らないとは言わせない。俺はずっと、祖父からその事を聞かされて育ってきた。日本人は、野蛮な血が流れた、金儲けがうまい人種だ」
男は、椅子から立ち上がった。
「俺は以前、食堂で働いていた。その時、日本人の観光客を山ほど見てきた。一緒に働いていた女の子は、何度も、酔った日本人から卑猥な事を言われてきた」
「ちょっと待て」
俺は、男を遮(さえぎ)った。
「それは、一部の下らない日本人だ。俺のまわりにいる日本人は、みんなまともな人間だ。お前は、あまりに日本に対して偏見的すぎる」

No.26 22/10/12 10:08
葉月 ( AmcTnb )

「なんだと、、、、」
男の視線が鋭さを増す。となりで座っているユキが、おびえた表情で俺を見つめている。
「それに、俺達日本人も、戦争でアメリカから原爆を落とされた。だが、今アメリカを憎んでいる日本人なんてほとんどいない。その当時の世相が、人々の心を狂わせたんだ。お前は憎むべき対象を間違えている」
「黙れ!」
男は、ライフルの銃口を俺達に向けた。ユキが反射的に顔を背(そむ)ける。
「お前は人質だ!今の状況がわかってないのか!」
俺は、口をつぐんだ。
しばらくの間、緊張した空気が漂った。やがて、男はライフルを下ろし、俺達を見下ろして、静かに言った。
「俺は、お前達を殺すつもりはない」


二時間ほどが過ぎていった。
その間、一度電話が入ったが、どうやら男の要求は簡単には受け入れてもらえないようだ。男の顔に、静かな怒りが浮かんでいる。

No.27 22/10/12 10:14
葉月 ( AmcTnb )

俺達は、壁にもたれて座っていた。傍(かたわ)らのユキは、ひどい緊張感が続いたため、ぐったりとうつむき、じっと、白く冷たい床の一点を見つめている。
男は、銃口を上に向けたライフルにもたれるように椅子に座り、何か考えているような表情をしていた。
「質問してもいいか」
俺が、沈黙を破った。男が、じっと俺を見つめる。
「お前の要求は何だ?」
男の瞳の奥が、かすかに揺れたような気がした。
「俺の兄の事だ。」

No.28 22/10/12 10:25
葉月 ( AmcTnb )

「兄は、血液のガンだ。すぐにでも骨髄を移植しないといけないが、俺達には金がない。兄に治療をして、病気を全快させることーー これが、俺の要求だ」
「、、、、しかし、骨髄移植というのは、ドナーが必要だろう?ガンというのは、金さえ積めば治るという病気ではない。お前の兄さんと骨髄の型が一致するドナーがいない事には、どうしようもないだろう、、、、」
男は、きつい目で俺をにらみつけた。
「お前も、警察の連中と同じ事を言うんだな。男だって、こんな手荒な真似はしたくなかった。だが、苦しんでいる兄を見殺しにはできない。病院は、金がないと、ドナーさえも探してくれない。みんなそうだ。力のある奴らは、力のない者の事など、相手にはしない。俺には、こうするしか方法がなかった」

No.29 22/10/14 10:03
葉月 ( AmcTnb )

「、、、、お前、さっき日本人の事をとやかく言ってたが、お前だって同じ香港の人間達に、不満があるんじゃないか、、」
俺がそういうと、男の顔色がみるみる変わっていった。
「黙れ!!」
男は、椅子から立ち上がり、壁際に座り込んでいた俺の所へ来て、勢いよく、開襟(かいきん)シャツの首もとをつかみ上げた。
ライフルが、鋭い音をたてて、床にすべり落ちる。
しばらく、男は、凄まじい形相で俺の顔を睨(にら)んでいた。
俺は、黙って、男の目を見つめ、襟口をつかまれたまま、その怒りを受け止めていた。

No.30 22/10/14 10:12
葉月 ( AmcTnb )

自分でも、なぜ、ここまで立場を悪くするような事を言ってしまうのか、わからなかった。傍らにユキが一緒に捕らえられているのに。
ただ、この粗雑な青年を前にしていると、なぜか、心の奥にある本心が、そのまま口をついて出てきてしまう。
男は、俺を殴りはしなかった。何かを諦(あきら)めたように、ふっと俺をつかんでいた手を放したので、俺は少しよろけながら、また、床に座り込んだ。
その場に立ちすくんだ男の顔から険(けわ)しさが取れ、なんだか、少年のような、頼りなげな表情が浮かんでいた。

No.31 22/10/14 10:31
葉月 ( AmcTnb )

しばらくして、男は、低くかすれた声で、話しだした。
「俺だって、これが正当な手段だとは思っていない。ただ、俺は、社会に向けて訴えたかった。力のない者が、力のある者に立ち向かっていくには、不当な手段を取るしか、道が残されていないという事を」
男の背に、煌々としたシャンデリアの照明があたり、逆光の中でのその姿は、取り残された小動物のように見える。
男は、自分の感情をもて余したように、床に腰を下ろし、片ひざを立て、放心したかのように、じっと、瞳をふせていた。

No.32 22/10/15 10:57
葉月 ( AmcTnb )

そんな様子を見ていると、俺は、思ったよりも男が若い事に気がついた。
最初、見た時は30代に見えたが、こうやって見ると、まだ20代のように見える。無軌道で、傷つきやすい年代だ。
ライフルを手にしていない男は、羽根を取られたセミのように、痛々しいバランスの悪さがある。そこらの街角で、フラストレーションをもて余して地べたに座り込み、時を費やしている若僧達と同じだ。なんだか、誰かに保護を求めている孤児のように見える。
俺はなんとなく、こいつは犯罪者には向かないんじゃないか、と思い始めていた。

No.33 22/10/15 11:03
葉月 ( AmcTnb )

他の人間を踏み敷いて、自分の野望を押し通すタイプとしては、あまりにもその内面に潜むものが、センシティブすぎるように思える。
しばらく経ってから、俺は、男に尋ねてみた。
「君の名前は?」
男は、テーブルの脚にもたれ、あぐらをほどいたようにだらしなく中途半端に両足を投げ出し、沈痛な面持(おもも)ちで答えた。
「リー」
リーの傍らには、ライフルが放り出されたままだった。

No.34 22/10/15 11:13
葉月 ( AmcTnb )

ライフルは、ライフルとしての存在価値を失ったかのように、寡黙に床に転がっている。リー自身も、ライフルに対して、執着を失っているように見える。まるで、子供が、新しいおもちゃに飽きてしまった時のような、無造作な光景だった。
俺の横に座っているユキは、もう感情の一部が崩れ落ちているようだった。無表情で座り続けている。
先程(さきほど)の、俺とリーとのいさかいの間も、一瞬おびえたものの、ただ表情を変えず、虚(うつ)ろな顔で、じっと成り行きを傍観していた。
その様子を見て、俺は、ふと、祖母が亡くなる一か月ほど前、俺の事を忘れてしまった様子を思い出した。

No.35 22/10/16 11:13
葉月 ( AmcTnb )

俺とユキとリーは、無言のまま、静まりかえったレストランの一角で、じっと座り込んでいた。客が、食べかけて置いていった料理が、それぞれのテーブルの上で、音もなく色あせていく。
何時間か前までは、ここは、陽気な関東語でざわめいていた。今となっては、その光景が、昔見た映画のワンシーンのように、おぼろげに記憶の底に沈んでいる。

No.36 22/10/16 11:23
葉月 ( AmcTnb )

少したって、リーが、「お前たち、ちゃんと食事してないんじゃないか?腹が減ったなら、その辺りの料理を食え。いくら食っても、どうせとがめる者は誰もいない」と、俺達に聞いてきた。
俺はユキに、「食うか?」と尋ねたが、彼女は、力なく首を振った。俺も、「腹は減ってない」と、断った。
リーは、「そうか」と言い、しばらくじっとテーブルの上の料理を見て迷っている様子だったが、結局、青磁の急須(きゅうす)から、片手でお茶を一杯湯呑みに注いで飲み干し、料理には手をつけなかった。

No.37 22/10/16 11:31
葉月 ( AmcTnb )

また、実体のない時が流れていった。もう、警察からの電話もかかってこない。リーと相手側との交渉がどのくらい進んでいるのか、見当もつかなかった。
俺は、ぼんやりと、とりとめのない事ばかり考えていた。
最初、日本には、もうこのニュースは伝わったのか、と考えた。
たぶん、もう各メディアで、ニュースとして報道されているに違いない。ーー人質になっているのは、イベント会社に勤務している男性と、社長秘書の女性ーー
俺の会社の人間達は、さぞかし驚いているだろう。

No.38 22/10/17 10:29
葉月 ( AmcTnb )

帰国したら、すぐ大きなプロジェクトの企画に入る予定だったのに、それどころではなくなってしまった。
同僚は、困りきっているだろうな。後輩達に、俺の手がけていた仕事を任せるには、まだまだ力が足りない。
数年に一度くらいの大きな仕事だったのにーー
依頼してきた会社が、この事件を知ってキャンセルしたりしないだろうか。
俺は、すぐにでもその場で携帯電話を取り出したい衝動に駆られたが、もちろんそんな事はできなかった。

No.39 22/10/17 10:42
葉月 ( AmcTnb )

>> 38 次に、家族の事が思い浮かんだ。最近、腰を痛め、外出も少なくなった父。電話口で、体調を尋ねるたび、「片頭痛がする」と答え、このあいだ家に帰った時は、足を引きずっていた母。両親は、一人息子である俺に、早く家に帰ってきてほしいようだ。
顔を合わせる度に、俺と同年代の幼なじみの誰が結婚した、誰に何番目の子供が生まれたーー と、そういう話ばかり聞かせたがる。
暗(あん)に、「早く結婚して、孫の顔を見せてほしい」というプレッシャーをかけてくる。最近は、それがわずらわしくて、家へ帰る足も遠のいていた。
あの二人は、テレビの前で、怯(おび)えているんじゃないか。心ないマスコミが、家に押しかけたりしてないだろうか。

No.40 22/10/18 10:49
葉月 ( AmcTnb )

その次に、以前別れた女たちの事が、次々と脳裏を巡(めぐ)った。
わりといいかげんな付き合いばかりしてたけど、不思議と一人一人のやさしい思い出ばかりが浮かんできた。
俺が体調を崩した時、泊まりに来て看病してくれた女、仕事に行き詰まって会社に徹夜した時、数時間おきに、励ましのメールを送ってくれた女、別れる前に、俺の部屋を隅々(すみずみ)まできれいに掃除して出ていった女、別れた後、一年ほどして急に、プロジェクトの成功を祝うカードを送ってくれた女ーー
その女からは、しばらくして、「結婚する事にしました。あなたの事を思い続ける日々も、そろそろ終わりにしようと思います」というメールが届いた。
そのメールには、「消去してもいいよ」というP.S.がついていた。
俺はしばらく、ユキと付き合い出してからも、そのメールを取っておいたのだが、ある時はずみで、他のメールと一緒に消去してしまった。

No.41 22/10/18 10:59
葉月 ( AmcTnb )

あいつは今ごろ、どうしているだろう。きっと、家事も手につかずに、テレビの前で、俺の安否を知らせる報道を待ち続け、根が生えたようになっているんじゃないか。旦那はそんな彼女を見て、訝(いぶか)しがったりしてないだろうかーー
俺の肩に身を預けるように寄り添い、力なく座り込んでいるユキを、そっと支えながら、女たちの事を次々と考え続けた。
ユキのすぐそばにいながら、女たちの事を思い返しても、何の良心の呵責(かしゃく)も感じなかった。
こんな、精神の極限状態の中では、モラルや公正さなど、少しも意味を持たないように思える。

No.42 22/10/19 10:16
葉月 ( AmcTnb )

リーは、いつの間にか、俺から50cmほど離れた壁際で、俺達と同じように壁にもたれ、座っていた。
銃口を天井に向けたライフルを、しっかりと右手に抱え込んではいたが、もはやライフルは、俺の目にはオブジェ的に映っていた。それは凶器ではなく、リーを何かから守るためのシンボルのようだった。
時の流れの感覚が、マヒしてしまったかのようだ。三人でただひたすら、「何か」を待ち続けている。俺達は、日常の谷間の底に足を滑らせた小動物のようだった。

No.43 22/10/19 10:24
葉月 ( AmcTnb )

リーが、ごそごそと、ポケットから箱を取り出した。タバコだった。
一本口にくわえ、火をつけようとする。
「おい」
俺が呼びかける。リーは、くわえタバコでこちらを見る。
「よかったら、一本くれないか」
その言葉に、リーは、かなりびっくりしたようだった。しげしげと俺の顔を見つめていたが、やがて、俺に、タバコの箱を差し出した。
「ありがとう」
俺は、箱からタバコを一本つまみ出し、ユキの顔の前に示した。
「吸うか」
ユキも、リーと同じように、びっくりした様子だった。無表情だった顔に表情が宿り、少し生気が戻ったように見える。

No.44 22/10/19 10:37
葉月 ( AmcTnb )

少し迷って、ユキは、おそるおそるタバコを手にした。すでに吸い始めたリーから、安っぽいライターを受け取り、ユキに渡す。
彼女は、線香花火に火をつけるような要領で、タバコを斜めに構え、ゆっくりとライターで火を灯(とも)す。ちょっとふかした後、体にタバコを馴染(なじ)ませるように、深くスーッと吸い込み、煙を吐く。ほつれ毛が、彼女の疲れた顔を縁取(ふちど)り、顔の動きに合わせて、細かく揺れる。
やがて、彼女は、ゆっくりと泣き始めた。嗚咽(おえつ)が、静かな音楽のように、食べかけの料理が散乱するテーブルの間に響いていく。

No.45 22/10/20 10:35
葉月 ( AmcTnb )

なんだか、ユキの泣き声が、不思議にしっくりとこの場の風景に溶け込んでいた。
遠い昔、音楽室で、きちんと机に座り、「G線上のアリア」を初めて聴いた時の様子を思い出した。
リーは、両膝(りょうひざ)を腕でかかえ込み、途方に暮れた少年のような瞳で、じっと前方を見ている。
ユキは、おごそかに泣き続けた。俺は、なぐさめる気力もない。
だが、彼女の泣き声を聞いていると、少し、人間らしい心というものを、思い出したような気がする。崩れ落ちた感情の中から、何かが動くのが見えてくる。
そうだ、俺達は、まだ、死んじゃいないんだ。

No.46 22/10/20 10:42
葉月 ( AmcTnb )

膝頭(ひざがしら)の上に顔を伏せて泣くユキの右手の指の隙間から立ちのぼる白い煙が、暗示のように、ひとすじの線を作っている。



長い時間が経っているんだと思う。その頃になると、もう、俺は、恐れとか焦りとか、そういったものをほとんど意識しなくなっていた。
人間は、どのような恐怖にも、やがて慣れる事ができる、と、以前何かで読んだ事があるが、これがそういう事なのかなと、ぼんやりと思う。いい事なんだか悪い事なんだかわかりゃしない。

No.47 22/10/20 10:53
葉月 ( AmcTnb )

最初にユキがトイレに行く時、リーは、「変な考えを起こしたら、こいつを撃つ」と、俺に銃を向けた。
「俺は、お前たちを殺しはしないと言ったが、場合によっては、手足くらいは撃つ覚悟はある」
そう言われても、ユキには、逃げ出したりする気力など、全く残っていないようだった。
俺がトイレに行く時も、同じ条件だ。リーが行く時は、俺を同行させた。銃を便器に立てかけて、用を済ませる。
次に奴がトイレに行く時から、俺も一緒に済ませるようにした。こんな場合でも、連れションというのは、何か連帯感のようなものを生み出す。何をどう連帯しているのかわからないが。
リーはいつも、じっと何かを考えこんでいるような表情で、壁にもたれ、座っていた。

No.48 22/10/21 10:15
葉月 ( AmcTnb )

長い時の流れの中で、俺達(といっても、リーと、俺のことだ)は、ぽつぽつと会話を交わしていた。俺から何か尋ねる事もあるし、リーからの時もある。
生まれた街、仕事のこと、両親のこと、、、、
リーの生まれ育った家は、貧しく、苦しい生活を送っていたようだ。貧しい人々が、肩を寄せあって、いたわり合うように暮らす街角ーー その中で、リーは少年時代を過ごしていた。
リーは、広東なまりの英語で、訥々(とつとつ)と話を進めていった。
「兄がーー 兄が、いつも、俺の味方だった。俺は、どうしても、病気で苦しんでいる兄を、助けてやりたいんだ」
「ーーー」俺は、黙って、冷たい床の上を眺めていた。

No.49 22/10/21 10:25
葉月 ( AmcTnb )

「ーーなぜ、香港に来た?」
突然、リーが尋ねた。俺は、しばらくじっと考えて、
「なぜだろうなーー、、、、 最初は、彼女が来たいと言ったからなんだが、何か、何か、この街の空気に惹(ひ)かれるものがあったのかもしれないな」
と、答えた。
「そうか、、、、」
俺もリーも、しばらく黙った。
俺の肩の上には、疲れて深く眠り込んだユキの頭がある。ユキを起こさないように、さっきから右腕が動かせない。
もう、しばらく前からずっと、深夜が続いていた。騒がしい街で飲みまくった奴らが、家に帰るかどうか、考えだす時間だ。

No.50 22/10/24 10:23
葉月 ( AmcTnb )

煌々と明かりをつけたままの店内では、外の暗さはわからないが、辺りに漂う宵闇の粒子のようなものが、夜の深さを教えてくれる。
「日本人は、1人が1台、車を持っているというのは、本当なのか?」
出し抜けに、リーが聞いてきた。少しぼんやりとしていた俺は、あわてて思考をよみがえらせ、「あ?ああ、そうだな、まあ、平均してみると、そういう割合に近いだろうな」と答えた。
「、、、、日本は、豊かな国なんだな、、、、」
ぽつんと、リーがつぶやく。その言葉には、皮肉や非難めいたものは、含まれていない。

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