神社仏閣巡り珍道中

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2022/11/06 23:09(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。

22/05/09 22:30 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。

No.3536620 (スレ作成日時)

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No.351

まぁ、私がいかにあがいたところで、付け焼き刃な知識でしかなく、しかも老朽化し、萎縮した脳みそはすぐにキャパオーバーするため、ここに細々と書くのもあまり意味がないのであろうとは思うのですが。

とりあえず、この総社町といわれる辺りには古墳群があり、総社二子山古墳などは県内最大規模ともいわれ、ここが豊城入彦命の墓であるという伝承もあるとかで、かつては陵墓に準ずる扱いを受けていたといわれているそうです。
ちなみに群馬県は古墳大国を名乗っているようで、古墳の数は一万基以上あるのだそうです。


さあ、話を総社神社さんに戻しましょう。(とはいえそもそもがあの、国府だとか国司だとか、延喜式とかの辺りが、総社神社さんの公式ホームページに書かれているので、あながち脱線しているわけではないのですが)

『総社』という言葉自体が、ある地域内の神社さんの御祭神を集めて祀ったものを指しているものであるので、総社神社さんといえばそういった神社さんであることを語っています。
国司の国内巡行を省略するため国府近傍に国内の神さま方を集めて創建されたのが始まりで、たまたまそれを豊城入彦命さまが創建された神社さんに合祀した、ということなのでしょうか。

総社神社さんは何度か火災の被害に遭っており、治承四(1180)年には足利俊綱に焼き払われているようです。
総社神社さんは現在地とは異なる場所にあったという説もあるようで、現在地からほど近いところにある宮鍋神社さんという神社さんのあるあたりが焼失前の旧社殿があったのではないかとされたとの話もあるようです。

さあ、やっとこちらの宝物、懸け仏さまに話が戻ります。

こちらの掛佛さまは二体。さまと普賢菩薩さまと弥勒菩薩であります。

弥勒菩薩さまは、天正四年に奉納された物で材質は鉄製、径二十九糎の円盤形をした表面に高さ一、六糎の厚さで柔和な顔をした彌勒菩薩が半肉彫りに鋳出され、菩薩の内円部に鍍金の跡が残っているといいます。

普賢菩薩さまは天正十七年にに奉納された物で径九、四糎の青銅板の表面に「総社大明神」と銘書きされているそうです。

こちらは造られた年月日も残された物で、徳蔵寺さんのものと元が1セットであったわけではなかったです。
こちらの二点ですら造られた年数に多少のズレがあり、かたや鉄製、かたや青銅製、こちらすらがセットということもありませんでした。

No.352

上野総社神社さん、彫り物が本当に細やかで、日暮らしの門ならぬ日暮らしの神社さん、なのです。

木目をしっかり活かした繊細な花、そして草。
やはり木目を活かしそういった柄であるかのような虎。今にも動き出しそうな足先の指、爪、関節。
玉眼が埋めてあるわけではないのに、鋭い眼光。
軒下にまで彫られた彫り物も、決して気を抜かず手を抜かず彫られています。
魚が彫られていれば、どう見ても〝鱗〟でしかないんです。尾びれだってあの薄くて繊細なひれそのもの、なんです。
木目がうまく活かされて魚の模様となっています。
人物にいたっては豊かな表情が彫り起こされています。バランスの取れた今にも動き出しそうな身体。

それは皆、白木のまま。
彩色などは施されていません。

本当に、本当にすごいのです。
大好きな神社さんであります。


緑ゆたかでありながら、青空の広がる明るい境内も大変気持ちが良いのです。
いくつか大変大きな木があります。
樹齢の伝承も五百年を超えるものがいくつもあり、中には樹齢伝承八百年のものも。
この樹齢八百年ともいわれる木にいたっては根が浮いていたり、うろがトンネルとなっており、そのうろの間は人が何人かその中で休めるくらいのものとなっており、そのうろの中の高さも4、5メートルはあろうかというもの。
その木のそばが落ち着くんですよ。

本殿の裏手をひだりに少し歩くとあるのですがね。

そうそう本殿の裏手にはたくさんの道祖神さまがおられます。

稲荷社もあって、そこにお狐さまの小さな像をお授けいただいて、お狐さまに願い事を書いてその稲荷社の隣に納めるのです。

御本殿は拝殿とは異なり彫刻に彩色が施されています。

あー、もう書いているだけでまた参拝に参りたくなります。


そうそう、こちらの花手水は度々ネットや新聞で取り上げられるくらいであります。
花屋さんがお作りになっているそうですが、もう手水鉢が大きな大きなブーケのよう♡
大小いろいろな、種類もいろいろな色とりどりの花が、ため息が出るほど美しく活けられています。

御朱印も充実しており、それもまたネットによくアップされています。


いろいろな世代の人がさまざまな思いを抱いて訪れる、訪れたい、神社さんであります。


 (総社神社さんの花手水)

No.353

このあと 釈迦尊寺さんに参拝させていただきました。


こちらのご由緒もまた古く、五八七年三十一代『用明天皇』の御代にまでさかのぼります。
『蘇我馬子』が、『物部守屋』を滅ぼしたとき物部氏に加担した中臣『羽鳥連』と妻『玉照姫』は上毛野国青海に流罪となったといいます。玉照姫は『聖徳太子』の乳母であり、都を去る折に太子の守仏、闇浮壇金一寸八分の釈迦尊仏を、太子より授けられだと伝えられます。

六八六年、『天武天皇』の勅令により大赦が行われ羽鳥連の孫『羊太夫』が、上洛して勅赦を受けたといいます。
定慧和尚が玉照姫の敬信した釈迦尊仏の由来を尊信し、翌年上野国蒼海に御下りになり、七堂伽藍を建立、釈迦尊仏を安置して釈迦尊寺と号したのがこちらのお寺の始まりとされています。
持統天皇即位亥年朱鳥元年、青海羊太夫の開基、開山は定慧和尚と言われているといいます。


実はこの羊太夫、群馬県民ならそのほとんどがその名を知っている【多胡碑】に関わる超重要人物に当たる人物になるのですが、あまりにも古い時代のことであり、実のところは詳細は不明、らしいのですがね。
ただ、多胡碑が日本三古碑の一つであること、国の特別史跡であることは確かな事実です。
何故群馬県民であれば知っていると確信を持って言っているかといえば、┉そう、あの上毛かるたのおかげなのですがね。


当初は法相宗に属し数百年繁栄を極めたが、寿永の頃(1182〜1185年)天下は大いに乱れ寺門も衰退したとされます。

┉この西暦○年というあたりを見れば、歴史に詳しくなくとも、さもあらんと思う頃。
平清盛が亡くなり、平氏が都落ちし、壇ノ浦の戦いのあったちょうどその頃、ですよね。
あ、『鎌倉殿の十三人』を見ていた方ならば記憶に新しい辺りとなるのでしょうか。┉私は時折観るくらいですので、その辺りは疎くてすみません。

文永年間(1264〜1275年)となって、臨済宗門、鎌倉建長寺より蘭渓和尚が来てこちらを再興されたという記録があるようですが、その辺りはあまり詳しい記録がないようです。


永禄元(1558)年、永源寺というところから芳伝和尚なる方が来て、諸堂の修理を行い大いに面目一新し、これ以降曹洞宗となったといいます。

が。

No.354

が。

そのわずか五年後の永禄六(1563)年。
甲州勢の兵火により釈迦尊寺七堂伽藍地面高三百六十石余り残らず焼失してしまったというのです。

┉はあぁ。
〝残らず〟、┉ですからねぇ、当然あのご本尊であった、聖徳太子由来の釈迦尊仏さまも、┉なのでしょうねぇ。
このくらいの時代は、武田氏やら上杉氏やらが群馬県のいろんなところでも戦をしていたようですからねぇ。( 注〕あくまでも私の個人的な見解、┉見解という言葉がすでにあまりにもったいないもの、であります)

そのため釈迦尊寺さんは末寺であった竜松寺に引移り、現在に至るのだそうですが、その後も宝歴十(1761)年の火災で焼失してしまったといいます。
さらに再建しましたものの、さらにまた明治四(1871)年の大火で類焼してしまったといい、同年仮本堂を建立されたといいます。
そして、昭和八年に現在の本堂を新築して今日にいたっているとのことであります。┉と、こちらのホームページに書かれていました。
昭和八年に建てられたとは思えないくらい、きれいなお寺さんであります。

こちら、境内もまたとても良く整備されたお寺さんでありました。

その整備された境内の中に、新しくて近代的な保育園があり、それがまた隣接ではなく併設されておりまして、参道の真横が保育園の正面玄関、なんですよ。
なんだかあまりうろうろすると不審者になりそうで、庫裏の場所すら見つけることなく、御本堂の前で参拝しただけでお寺さんを後にしてしまいました。

No.355

その後向かったのは同じく前橋市の【光巖寺】さん。

実はこちらへは夫は初めての参拝となります。一度私一人で参拝しており、ずっと行きたかったようです。
が、厳密に言うと夫はこちらの境内には大学生の頃訪ねてきているとのこと。
実は。
こちらのお寺さんの境内に『宝塔山古墳』が含まれているのです。

まぁ、その辺についてはまた後ほど書いていこうと思います。

こちらは江戸時代初期この辺りを治めた秋元長朝(あきもとながとも)が母の菩提寺として造営したものといいます。
その名も【秋元山江月院光巖寺】。
母の光巖院から命名したと言われています。

二百メートルほどの参道を進むと広い駐車場の向こうに楼門が見えてまいります。
この楼門は赤く、通し柱でニ階には欄干がなく、あまり見ない門であります。実は私、この門を初めて見たとき、西遊記などのセットに出てきそうな門だなぁと、なんともまぁ俗っぽいことを思ったものです。
龍宮門、と呼ばれることもあるといいます。

その楼門は通ることはできないのですが、楼門の先は秋元氏の霊廟となっております。
この霊廟がまた赤い。
秋元長朝公は赤がお好きでいらしたのでしょうか?
御本堂といっても十分通るほど大きく立派な霊廟であります。

秋元氏は関ヶ原の合戦の直後、総社一万石に封ぜられたといいます。
それまでJR新前橋駅の北方にあった城を、今の総社の位置に移して現在の総社町の中心街となる城下町を築いたといいます。
それまで城があった地域は「元総社」と呼ばれ、現在に至っています。

秋元氏は三年間年貢を免除し、領民に巨大な岩の掘削にあたらせ利根川から引水するという治水工事をしたことで知られています。
その取り入れ口の巨石を取り除くにあたり、天狗が助けでもしてくれなければ到底除けないと言われた岩を取り除くことができたことから、天狗が助けに来てくれたという伝説が生まれ、天狗岩用水と呼ばれることとなります。
その用水は今でも利根川西岸の広い地域で潅漑用水として使われています。
秋元氏が転封になるまでの統治はわずか三十年ほどであったようですが、農民はこの秋元氏の治政に感謝し「力田(りょくでん)遺愛碑」という碑をこの霊廟のすぐ側に建てました。
封建時代に農民が君主を讚えて建碑したというのは大変珍しいものだそうです。


No.356

【お彼岸】

秋のお彼岸が近づいています。
お彼岸は、春と秋に行うお墓参りのこと、または年に2回ご先祖様を供養する日とされています。このお彼岸は日本にしかなく、仏教のおおもとであるインドにはこのような習慣はありません。

仏教では、ご先祖様がいらっしゃる世界である【彼岸】は西に位置し、私たちが生きている【この世(此岸)】は東に位置しているとされています。
春分・秋分の日には、太陽が真東から昇り真西に沈むことから、此岸と彼岸が最も通じやすくなると考えられるようになりました。

┉『通じやすくなる』、なんかすこぉし怖い響き。
ビビりなおばさんはそう言われると何やら落ち着きを無くしますが。

このような仏教の考え方に、「ご先祖様を大切にする」という日本古来の考え方が結びつき、現在私たちに馴染みのあるお彼岸という仏教行事が生まれたとされています。お彼岸は、長年続いている日本独自の仏教行事のひとつであります。

お彼岸は、三月の「春分の日」と九月の「秋分の日」の前後三日を合わせた七日間があたります。
初日を「彼岸入り」、春分・秋分の日を「中日(なかび・ちゅうにち)」、最終日を「彼岸明け」といいます。
春分の日と秋分の日は毎年決まった日に設定されるものではなく、昼と夜の長さが同じになる日を春分・秋分の日としています。これは、国立天文台による調査をもとに、閣議によって決められるのが一般的です。

では、お彼岸はいつになるのかといいますと、
彼岸の入り 9月20日(火)
彼岸の中日 9月23日(金)
彼岸明け  9月26日(月)
となります。

「彼岸」という言葉は本来仏教の言葉であり、本来の意味は「煩悩を脱した悟りの境地」を指します。
私たちが生きているこの世を此岸(しがん)というのに対して、煩悩や迷いから脱した仏様の世界を彼岸というのです。
しかし、私たちが普段耳にする「お彼岸」は仏教的な本来の意味ではなく、期間中に執り行われる法要や墓参りを指すのが一般的です。

お彼岸の始まりは聖徳太子の時代にまで遡るともいわれ、非常に古くから日本に根付いている風習となります。


お彼岸は、地方によって過ごし方がそれぞれ異なります。お墓参りやお仏壇の掃除などが一般には広く行われていますよね。

No.357

前スレで述べました「地方によって過ごし方が違う」という例を挙げますと、沖縄の場合はお彼岸にお墓参りを行わないといいます。
その代わり火の神「ヒヌカン」にお供物をしたり、「ウチカビ」と呼ばれるお金を模した紙を燃やしたりする習慣があるといいます。

もっとも、私、貧乏でなおかつ出不精でありますので、ご想像通り沖縄へ行ったことがありません。
なのでこれはあくまでも調べたものに書いてあった、というだけで、これが沖縄全体のものなのか、沖縄の一部でのことなのかはわかっていないので悪しからず。

一般には、お仏壇や仏具、お墓をお掃除し、お花や食べ物などをお供えします。そんなお彼岸のお供え物として一般的なのは「ぼたもち」や「おはぎ」。

「ぼたもち」と「おはぎ」はそもそも同じ食べ物を指しますが、これは時期によって言い方が異なります。
「ぼたもち」と「おはぎ」は漢字で書くと、「牡丹餅」「お萩」となり、春のお彼岸の時期は牡丹の花、秋のお彼岸の時期は萩の花が咲くことが由来とされています。

ぼたもちやおはぎのほか、故人様の好きだったものなどをお供えしますが、昨今の墓所へのお供物は、カラスや野生動物がそこへ来ることを防ぐため、持ち帰ることとなっていることがほとんどですので、お墓のあるお寺さんや霊園の決まりをご参照ください。

「彼岸法要」に参列するのも、お彼岸の良い過ごし方と言われています。
彼岸法要とは、お彼岸に合わせて寺院で執り行われる合同法要で、「彼岸会(ひがんえ)」とも呼ばれるものです

お彼岸はお盆と行うべき事柄は似ているのですが、お彼岸とお盆ではそもそもの意味が違ってきます。

お彼岸は、私たちの住む「この世(此岸)」と、ご先祖様のいる「あの世(彼岸)」が最も近づく日とされており(、┉この表現、何かもう少し怖くないものはないものかなぁ)、ご先祖様に感謝の気持ちを伝えるための精進期間。

対して、お盆はご先祖様があの世からこの世に帰ってくる日とされており、それゆえお盆ではお墓参りはもちろんのこと、迎え火でご先祖様をお迎えし、送り火でお見送りします。

まぁ、私の家にはお迎えするお仏壇すらがありませんので、未だに迎え火も送り火も炊いたことも間近で見たこともないのですが、ね。


ちなみに。
私は粒あん派、夫はこしあん派。
春秋関係なくそれぞれが好きなものを食べます。


No.358

┉光巖寺さんの秋元家霊廟に話を戻します。

こちらの霊廟の敷地内(きちんと塀が設けられ門もあります)霊廟の建物の斜め左側あたりに、見上げるほどに背の高い石造の塔、┉それも七重の塔が立っています。
おそらくは四メートルはありましょう。

今までに見たことのないほど大きく立派なものであります。
光巖寺さんは江戸時代の初期とかに作られたお寺さん、この塔はもっと古いもののように思われます。┉まぁ、そういった鑑定眼はまるで当てにならない私ですので、すぐそばに立てられている説明の看板を┉読めない。錆びてしまって所々字も読めず、すぐに諦めてしまいました。
絶対この塔、なんらかの文化財扱いになっていましょう。ネットで検索すればすぐに出てくるはず。

それにしても。

本当に見事しか言いようがない、素晴らしい塔です。
石造ながら屋根の端っこのところがきちんと反っているんです。しかも軒天のところも板を組んで作ったかのようにきちんと彫り、再現しているのです。┉凄くないですか?
窓もたくさん作られていて、しかもいろいろな形があるんです。花頭窓とか、四角にしても桟があったり、なかったり。
石工さんの強いこだわりと高い技術がこれでもかというくらいに詰まった凄い凄い石塔であります。
柱ならば定規をあてて彫ったように真っ直ぐですし、塔のてっぺんの相輪も丁寧に丁寧に張り込んであります。
花頭窓の左右には花瓶に生けられた花が、それも左右で異なる花が生けられている凝りようで、
また、六観音さまが彫られたいるのですが、これがまたシルエットだけなのですが、実に美しいのです。しなやかにお立ちになられたお姿、千手観音さまもおられます。

はあぁぁぁ、素敵。
はあぁぁぁ、凄い!


『安山岩製。高さ417cm。相輪、七層の屋蓋、塔身、二重基台から成る。上下基台の上端には反花座が彫られ、塔身および上部基台の各四面は縦割りに3区に分けられている。基台正面には中央に格狭間状に切った孔と香炉が彫られ、その左右両区に花瓶が配されている。一方、両側面には各々3体ずつ六観音像が平板状に彫られている。塔身の正面は中央に四角い孔をあけ、その左右両区に大きく南無阿弥陀仏と彫っている。反花座を含めたこれらの彫刻の技法は室町時代の特徴を良く表わ
している。
この塔は総社町高井の東覚寺跡にあったものと伝えられる』
ということです。

No.359

この光巖寺さん、寺名は〝秋元の姓〟と〝『長朝』公の戒名である『江月院殿巨岳元誉大居士』〟より、〝母親春(はる)の戒名である『光厳院殿心月等清大師』〟より【秋元山江月院光厳寺】と命名され秋元氏の菩提寺となります。


しかし、寛永10年(1633)二代藩主秋元泰朝(あきもと・やすとも、1580〜1642)は幕命により甲斐国都留谷村に1万8千石に加増されて転封、30年余に亘る秋元氏による総社での治世は終わると共に廃藩となります。しかし泰朝公は転封先から悪政に苦しむ旧領民への支援を行っていたといいます。


┉凄くないですか?
転封先では転封先での新たな生活があり政があり、幕府との関係も大変だったのではないかと思うのに、そこからかつての旧領民への支援を続けるって。
父の背中を見、そして力を合わせて大岩を取り除き用水を作った領民の姿を見て過ごした総社の地を、民をいつまでも大切に思ってくださっていたんですねぇ。
ありがたいことです。

余談ですが泰朝公は、谷村転封後、領国の発展に寄与し、用水の開削や養蚕の奨励に勤めたといいます。
父の用水路開発策に習い、桂川から城下までの約14Kmの堰を開削して飲み水の確保と供給を確保、領民には桑を植えさせ絹や紬の生産を中心とした織物産業を打ち立てます。
水の確保により豊かになること、桑を植え蚕を育てて織物産業へとつなげるなど前橋の地で学んだことを転封先で広め、その地を、そこに住まう民を豊かにしたというわけであります。
秋元の方々はどこへ行こうとその土地に馴染む努力をされ、その土地の発展と民の生活向上を心がけて下さった、名君であられたのですね。


本来、菩提寺となったお寺は当主と共に移転するのが普通だったと聞いています。
しかしながら光厳寺は当主の転封に伴って移転せず総社に留まり、
以降秋元氏が、
宝永元(1704)年、武蔵国河越へ、
明和4(1767)年、出羽国山形へ、
弘化2(1845)年、上野国舘林へと、それぞれ栄転を伴う転封を繰り返すなかで歴代当主を供養しています。


ちなみに。
境内地内にある古墳の墳頂に、長朝公以降の歴代当主のお墓が建てられているのでありました。

No.360

群馬県の県都とはいえ、このおばさん、前橋市の総社町、元総社町という町単位のところでどれだけ筆を割くのだろう。
さすがに自分でもそう思うのですが、止まらない。

つらつらと書き連ねております、この何スレか、徳蔵寺さんから始まって、たった一日の間のそれも何時間かのお話に過ぎないんですよ。

そう、その徳蔵寺さん。
そここそが光巖寺さんの開山には欠かすことのできないお寺さんであったわけで。

当時江戸幕府により、新しい寺院を建立することを禁じられていたため、総社神社さんの近くにあった徳蔵寺さんを移転したていで、こちらの光巖寺さんを造っているわけですから。

だからこの日徳蔵寺さんを参拝していた時には、秋元氏が無理やり徳蔵寺さんを移転させしかも名前を改名させているということを知り、秋元氏に対してあまり良い感情を抱かなかったのです。なんだかあまりに横暴な気がいたしまして┉。

けれども秋元公を知れば知るほど、素晴らしい人物、素晴らしい君主であられたことに気づくんです。

そんなわけで。
光厳寺の創建は、慶長十二(1607)年。
総社城及び城下町をの完成した総社藩初代藩主秋元長朝が、徳蔵寺(現 前橋市元総社町)の亮應和尚を招いて開山したのが始まりというわけで。

ところが。

寛永十年(1633年)二代藩主秋元泰朝の時に三十年に渡り治めてきた総社領から甲斐国へとに移封となりますが、前述した通りこの時光厳寺は随行せず、その後、徳川幕府に庇護されます。
寛永三(1626)年に二代将軍秀忠より寺領三十石が安堵され、さらに慶安二年(1649年)には三代将軍家光より十六石が加増され、合わせて四十六石の朱印地を賜ったといいます。

天台宗の地方寺院としては規模の大きい修業寺として多くの僧侶を養成するなど寺運も甚だ隆盛したと云います。
それは何より現存する建物の大きさが物語っております。
一例を挙げれば文化十(1813)年に建てられたという庫裏は屋根も大きな百二十坪もの建物であります。

江戸年間にも特に大きな火災に遭う事もなく光巖寺さんの境内には多くの古い建築物が残っております。


No.361

光巖寺さんというより、秋元公及び秋元家、そして総社及び元総社の地にすっかり魅了されて、同じ話を何度も繰り返しておりますおばさんですみません。

現実ではもっとのめり込んでいて、かつて一人で光巖寺さんを訪れた折、『総社秋元公歴史まつり』なるものが開かれるというポスターを見かけたことを思い出し、それを調べて、問い合わせ先になっている総社町公民館兼市民サービスセンターに電話をさせていただき、今年開催が予定されていることまで確認したくらいであります。


が。
さすがにいったん秋元公については筆を置き、光巖寺さんそのものに話を戻そうと思います。

No.362

前述したように光巖寺さんは、秋元家がこの総社の地を去られたのちも、徳川幕府に庇護され、当時、天台宗の地方寺院としては規模の大きいお寺さんとなります。

境内は広く、秋元家の霊廟のほか、しっかりとした造りの大きめな御堂『元三大師堂』があります。その元三大師堂と渡り廊下でつなっているかにみえる薬師堂があり、そのお隣に、見る限りは新しい大きな背の高いお像が二体建てられています。
ボケ封じの観音さまとお地蔵さまが並んで優しく微笑んでおられました。
そのボケ封じ観音さまの前でやたらと長く熱心に手を合わせていたのが夫。
彼は自分のことを祈っていたのか、それとも、┉私?

元三大師堂の横には優しいお顔立ちの古い石仏さまが並んでおられます。


で。
この光巖寺さん、やたらと門が多いのです。
まず最初に目につく真っ赤な楼門は扉が閉ざされたままでありますが、私どもがこの日くぐらせていただいた長屋門があり、ここは門と言いつつその門の横に通路なのか物置なのかが造られている実用的なものであります。

そして薬医門。
こちらは鎌倉時代末期か室町時代初期(14世紀中頃)の武家や公家の屋敷に現れた門形式の一つで、後に城郭、社寺にも使われるようになったというもので、本柱が門の中心線から前方にずれているところに特徴といいます。
本柱と控柱をむすぶ梁の中間の上に束や蟇股をのせて切妻屋根をのせた門です。
元来は門扉はなく、医師の家の門に使われ病人の往来を妨げないとされていた門であるため『薬医門』。
また城門としても使われてい『矢喰』があてられた、という説もあるようです。
光巌寺薬医門は、城門として使われていたものを移築しており、城をめぐる厚い築地のなかにおさまるようつくられていると書かれていました。
装飾は、四つの紋(三巴・五三の桐・立ち沢瀉・剣片喰)が唯一のもので、お城の門としては簡素に作られているように見えます。江戸初期あるいはそれ以前の建造と推定されているもののようです。


この薬医門のすぐ横に一際背の高い鐘楼があります。かなりの高さがあり、すぐそばで見上げたら梵鐘が見えないくらいであります。
こちらの鐘楼も秋元家霊廟や楼門と同様赤い色をしています。
赤が流行りの時代だったのか、秋元公がお好きな色だったのか┉。

No.363

最初にこの光巖寺さんのことを書いた際、夫はこの光巖寺さんの門の中、御本堂のある境内内には足を踏み入れたことはないけれども、こちらのお寺の境内の中に含まれる宝塔山古墳には大学生の時分に来たことがあったようだと書いております。


前橋市総社町周辺には多くの古墳が点在し、総社古墳群といわれています。
その中の一つである【宝塔山古墳】は、群馬県内最大級の方墳といわれ1944年国指定史跡に指定されたといいます。
それがそっくりそのままお寺の敷地の中にある、ということとなります。
初めて一人で訪れたとき、何やら不思議すぎて、そして怖かったことを今も忘れません。
忘れられません。

なんでも。古墳があった場所というのは、『聖なるところ』、『むやみやたらと立ち入ったり、ましてや耕したり、何かを建てたりしてはならないところ』として、言い伝えられ、それゆえそのまま残っていたり、何かを建てるにしてもそれこそ神社であったりお寺さんであったりすることがほとんどだったようです。

そんな宝塔山古墳は薬医門を出た細い道を隔てた石垣の上、細い石段を登っていきます。
その途中には光巖寺さんの歴代和尚さまのお墓や石仏さまが数多く並んでいます。
┉怖くないですか?

古墳を目指して丘を登っていたら、埴輪でもない石室や石棺でもない、それよりはずっと新しいにしても、私にしてみればやっぱり古いお墓や石仏さまがずら〜っと居並ぶ空間に唐突になったんですよ。
一人で古墳を訪れるのだって怖くてかなりの勇気が必要だったというのに、それがいきなり墓地ですから。

ドキドキドキドキ。


遠くから手を合わせて、なるべくそちらを見ないように先に進んでまいりました。

そして┉。

じゃーん、出たぁ!

いやいや、まさにザ・古墳といった、四角く切った石を組んで造られた石室への入り口がありました。
いや、まさにザ・古墳、です。




No.364

ええ、これは前回一人で訪れたときの私の心の内の再現です。

今回は歴史オタクの夫と一緒です。
当然行くんだろうなあ。
┉?、あれ?

えっ?、行かない?
以前行ってるからいいのかなぁ?
秋元氏歴代のお墓のある墳丘へ登る階段のある方へ向かってスタスタ歩いていきます。
「ねえ、こっち、知ってる?」
「ん?、なんかあるの?」

そうかぁ。
┉そうなんです。
駐車場に車を停めると大きな古墳である丘と、そこに何があるかを書いた大きな看板とが目に入り、そこへ向かってしまいがちです。
墳丘には秋元氏の歴代のお墓が並んでいて。
でもそれってありがちなことなので。
それで古墳を見たと思い、この古墳を後にした方は結構な数おられたのではないかと思うくらいです。
実は墳丘の上からは石室のある裏手にアプローチできないようになっているらしいのです。

石室の入り口を見たときの彼の反応といったら┉。

ええどうぞごゆっくりご覧になってください。

┉。

えっ?ええっ!?

夫ってば石室の中に入って行ってるではないですかあぁぁ。

嘘でしょ?
なんで入る?何故?

だってそこかつてのお墓。だよ?

土葬でも火葬でもないご遺体が安置されていた場所だよね?
たしかに今はもうそこ、┉ここにご遺体は安置されてはいないでしょう。でしょうが、ね。



、┉私がこわいんだってば!

No.365

三時ちょうどに目が覚めた。
雨が降り出しているようだ。

今回発生している台風は『今までに例のない危険なもの』と報じられています。
数年前の、大きな車が紙のように吹き飛ばされて原型を留めないほどになった、あの恐怖しかなかった台風よりも┉?
シャッターや金属製のトタンがまるでアルミ箔なようにクシャクシャになって破れて転がっていた、あの台風よりも┉。


コロナ。
異常な物価上昇。
┉etc.
もう十分に苦しみ痛めつけられていると思うのになあ。

思えば歴史をふりかえってみても、日本は巨大な台風に見舞われている。
あの鎌倉の大仏の大仏殿を跡形もなく流し去ったような台風もあった。

どんなに科学が進歩しようと、人はあまりにも無力だ。


けれど┉。
┉それでも生きてきた。
幾度となくあった自然災害を乗り越えて、人は生きて、今に命を繋いできた。
壊されても、
流されても。

生きて、再建してきた。
┉人の力だって凄いのだ。


今は無事を祈って通り過ぎるのを待つしかない。それが現実だ。
昨日神仏に祈願してまいりました。
あとは、┉台風に備えて気づいたことをしておくのだな。

日本中のみなさまのご無事をお祈りいたします。

No.367

秋元氏の功績に心奪われてついつい長々と綴っておりました光巖寺さんを後にして、次に参拝させていただきましたのが、同じく群馬県前橋市総社町にあります【元景寺】さん。

こちらも実は秋元家ゆかりのお寺さんであり、長朝公が建てたお寺さんであります。

元景寺さんの創建は天正十八(1590)年、秋元長朝公が、父親である秋元景朝の菩提を弔うため自然玄悦禅師を招いて開創したのが始まりとされ、寺号は景朝の戒名「春光院殿気山元景大居士」から『気雲山春光院元景寺』とされました。

実は私、ご存知の通り、全く歴史というものに(も)詳しくなく、というよりどちらかというと無知。
でもふと思うに、この天正年間って、江戸時代なるまでにはまだ少し早い時代にあたるはず。
そうですよね、天正十八年というのは1590年であるとここに書いたくらいで、そしてまさにこの年こそがあの小田原征伐が起こっています。
長朝公はまだこの地を拝受してはいないのです。
いくらなんでもひと様の治める地に、寺は建てられないでしょう?

実はこの景朝公、当時の関東管領『上杉憲政』公に仕えており、その際まさにこの地、上野国(群馬県)植野勝山の地を与えられていたようなのです。
ただ、天正十五年二月にこの地を与えられ、同年十一月に病で没したということで、当時もまたこの地は秋元氏の治める地であった、ようなのです。

のちに関ヶ原の戦の功績でこの総社の地を与えられたのは父景朝のゆかりの地であったことからだったこともあったようなのです。

こちら元景寺さんの境内は勝山城跡地であります。
総社藩は廃藩となったのちも光巖寺さん同様元景寺はこの地に留まっています。

境内には景朝夫妻の墓所があります。
光巖寺さんは御母堂の菩提を弔うために建てられてはおりますが、お墓はこちら元景寺さんにご夫婦で弔われておりました。
改葬せず、こちら元景寺さんも大切にされたことも秋元公が今なお愛される由縁でありましょう。


No.368

慶長五(1600)年、『関ヶ原の合戦』で東軍が勝利すると、『徳川家康』公の命を受けた秋元長朝公は会津に赴き、『上杉景勝』公に降伏を勧め、これを受け入れさせることに成功します。
この功績によって父親ゆかりの上野国総社に一万石の所領を与えられます。

しかし、長朝が入城した『蒼海城』は『武田信玄』の攻撃によって落城して以来荒廃していました。
そこで蒼海城を廃城にし、その東側の勝山城跡地を利用して新たに総社城を築城したといいます。

長朝公が、天正十五(1587)年十一月に没した父で景朝(かげとも)公の菩提を弔うため、この地にあった〝法現寺〟を改廃統合し、さらに改宗したのが始まりといわれています。
長朝を開基とし雙林寺十一世自然玄悦(じねんげんえつ)大和尚を開山として開創、秋元景朝の法名である『春光院殿気山元景大居士』から山号・院号・寺号をとり気雲山春光院元景寺と称しました。
天正十八(1590)年には本堂が建立され、御本尊釈迦牟尼佛、脇侍文殊菩薩・普賢菩薩が安置されます。


伽藍の主要建造物は、
本堂(延宝五(1678)年再建)、
山門(文政三(1821)年建立)、
鐘楼・庫裡・書院・位牌堂は(文政二(1820)年建立)といわれます。


こちらを初めて訪れたとき、光巖寺さんの山門を出て参道の入り口まで戻り、県道を一キロほど走って、看板を曲がるのですが、曲がってすぐは不安になります。完璧に住宅街、なのです。
それでも参道を少し走ったか走らないかくらいですぐ正面に山門が見えてきました。
ホッとするのも束の間、山門で車道が左右に分かれます。
ちなみにその山門は絶対車が通れる造りではありません。

左側に進むと、幼稚園があり、その幼稚園の駐車場へと停めさせていただきました。まぁ、この日は幼稚園はお休みですので安心して停めております。
ちなみに、駐車スペースは本堂の西側にあり墓地の入口もこちら側にありました。


No.369

元景寺さんの山門に彫られた龍は大変見事で迫力のあるものであります。龍の下には秋元家の家紋『秋元瓜』が掲げられています。
門の左側には緑の黒板があり、ご住職さまがお書きになられるのでしょう、ありがたいためになるお言葉が手書きされた紙が貼られています。

元景寺さんの門から続く参道には淀君の植えられたのいう梅が並木を成していました。
淀君とはあの豊臣秀吉公の側室であるあの淀君です。
浅井長政を父とし、織田信長公の妹お市の方を母とする、あの淀君であります。
この辺りはまた後ほどあらためてふれさせていただきます。


元景寺さんはその境内をギリギリまで使い、幼稚園にしたようで、御本堂と庫裏も幼稚園に限りなく近く┉。
御本堂の入り口も建物の左端にあって、階段を登って入っていくような造りとなっております。
幼稚園との境と、高台となっている庫裏の横に植えられた木々で御本堂の全貌を拝すことができないようになってしまっております。

御本堂の入り口は、三角錐のポールと黒と黄色のポールでふさがれており、しかも赤い三角錐のポールには立入禁止と書かれておりました。
庫裏へもなかなか行きづらく、外から手を合わせ、┉とは言っても、おそらくはただの入り口で、この入り口正面が須弥壇、ご本尊さまの前だとは思えないのですが┉。
そこで失礼するしかないのでそこで手を合わせてお許しいただきました。

御本堂のひだりてには背の高い石造の聖観音さまがお立ちになられ、そのさらにひだりてにはお地蔵さまがおられます。

その前あたりに鐘楼があるのですが、梵鐘はありません。この鐘楼がやはり赤い。
やはり秋元長朝公、赤がお好きでらしたのでしょうか?

御本堂と鐘楼の間に、ちょうど参道を向くような向きで、お堂がいくつかあります。
お堂の横には石仏さまと石堂がお祀りされていました。その前にも小さなお地蔵さまがたくさん安置されています。
この石造の地蔵菩薩さまは室町時代初期のものとのことで、こちらのお地蔵さまの造られた時期を境として、石仏を造る石の材質が、凝灰岩から安山岩に変化していったとのことで、そういった意味合いで重要視されるものとなるようです。
安山岩で彫られた初期のものとなるようです。

No.370

このお地蔵さまと共にお祀りされているという薬師如来さま。
『薬師如来』とだけ書いた木製の立て看板があります。
このお薬師さま、御由緒の書かれた立て看板に『、┉境内の薬師如來(石佛)は市内最古の石佛として信仰を集めております』とまで書かれているのですが、その場所に行ってどちらがそのお薬師さまかがわからない。
┉?

お地蔵さまを中央にして向かって右側に二つ窓のある石堂が、左側には石幢書かれて安置されております。石幢の幢身にはおそらくは観音さまが三体彫られています。
石堂の中にお薬師さまがおられるのでしょうか、薬師如来と書かれた看板はその石堂のそばにあるにはあるのですが┉。
石堂の堂身には何やら浮彫りが二個なされていますがそれも何かはよくわかりません。昔だっこちゃんという玩具があったようですが、それに似た形をしているようにも思われます。

もう一度と思って、何枚か撮らせていただいた写真を見てみますと、┉小さな小さなたくさんのお地蔵さまの像と思っておりました石仏さま、手に薬壺をお持ちのようです。
石堂におられるのがお薬師さまかどうかものわかりはしないのではありますが、少なくともお地蔵さまのお膝元には小さな薬師如来さまがたくさんおられました。

No.371

さらに驚くことに、お地蔵さまが座しておられる台座の下に、観音さまが三体彫られているものかわれているではないですか!
石仏さまを寄せ集めてお祀りしてあることはよくありますが、これは初めて見るパターンです。
しかもよく拝すると、どう考えても不安定。観音さまが彫られている石の部分はお地蔵さまより小さく細いのです。
何かで(コンクリートとか)固定してあるならいざ知らず、もし、ただお乗せしてあるだけでありますと、風雨にさらされ雨風が入り込み、そこへ大きな地震でも来ようものなら大変なこととなりそうなのですが┉?、


このお地蔵さまのお隣には水子地蔵尊、天満天神宮、羽階大権現さまのそれぞれの御堂がありました。
ちなみに。
羽階(はがい)大権現さまは秋元長朝が用水路を造る際に大岩を砕いてくれた天狗さまに感謝して祀ったものであるといいます。

そこでのお参りを済ませ御本堂の左側にまいりますと広い駐車場となり、幼稚園バスが二台止まっていました。

さてここから先は墓地なので、私は以前一人で参拝いたしました折には当然足を踏み入れてはいないのですが、夫はスタスタと歩いてまいります。
そう、こちらには秋元景朝公とその奥方さまのお墓がございます。歴史オタクならば必ずやお参りするところでありましょう。

墓地に向かって立った、まさに真正面に一際大きな塔型のお墓が見えます。
墓所に入ってお参りし、熱心にお墓を拝する夫。私は墓所の外からそっと手を合わせて。

そのお二方のお隣にも立派なお墓がありました。側室のお墓だと書かれています。
まあ、側室のお墓を隣の墓所に┉。どう見ても後世になって墓所を整備しておりますので元々その位置にお祀りされていたかどうかはわかりませんが、永眠の地、ですからね。
心休まるように埋葬してあげていただいきたいものでありますが、あの時代ですと側室がいて当たり前の時代でありますし、殿さまを第一に考えお墓も造るでしょうし、┉あるいは最初からこうした配置だったかもしれません。


実はこちらのお墓、側室の方のものであると看板を立ててまでいるにはいるのですが、┉。
実は一説によると側室の方のお墓ではないともおもての方にある大きな御由緒書きの立看板にしっかと書かれているのです。



No.372

私は前述しておりますよう、墓所の外から手を合わせただけでありましたが、秋元景朝公の戒名は戒名は『春光院殿気山元景大居士』
奥方さまの戒名は
『光厳院殿心月等清大姉(春)』
であります。

側室とされる方のお墓はあまり広くはない墓所の真正面に戒名の書かれた墓石面がございますので私でも戒名を拝することができました。
その戒名は
『心窓院殿華月芳永大姉』。

とはいえ、私、こちらの方々へのお墓参りは手を合わせたのみで、あとは墓地にお祀りされておりました石仏さまを拝しておりましたのですが、ね。


実はこの側室とされる方のお墓こそが、淀君さまのものだとされる説があるのです。お寺さんのものにそうはっきりと書かれておりますくらいでありまして。

No.373

【淀君】さまといえば、私でもその名を知っているくらいのお方。
『浅井長政』公と『お市の方(織田信長の妹)』のご長女で、後に『豊臣秀吉』公の側室となり、『秀頼』公をお産みになられた方であります。
史実では、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において大阪城内にて自害したとされております。

その淀君のお墓が何故前橋に?

淀君に関する伝承)
秋元長朝公が徳川側として【大坂夏の陣】に参陣した際、高貴な女性が助けを求めてきた。長朝はその女性が淀君と察し、密かに駕籠に乗せ中山道を通り、所領である上野国総社に連れて帰ったという。

元景寺には、淀君が当時乗って来た籠の扉(豊臣の家紋入)、淀君の着ていた打ち掛けが、今も残っている。(これらの品々は、秋の秋元祭で公開されるといいます)

それから後、この地では淀君は身分を隠すために、大橋の局「お艶」と呼ばれていた。
その後、総社城や元景寺で何不自由なく過ごしていたが、過去の悲哀に耐え切れずに世をはかなんで利根川に身を投じてしまったという。寛永7年(1630年)のことといわれている。

身を投じた岩をお艶が岩と言うようになった。また昭和34年(1959年)には、岩の上に観音様が建立された。お艶の330周忌のことである。



この岩には全然別の謂れもあるので、あくまでも伝承の域を出ることはありません。

大坂夏の陣での、淀殿の最期を目撃した者がおらず、また遺体も確認されなかったため、逃亡・生存説などの俗説が生まれているといいます。
そのひとつが、群馬にあったということ、であります。

ですが┉。

墓石にあります『心窓院殿華月芳永大姉』という戒名。
この「院殿」というのは、武家時代、将軍や大名の戒名に付けた尊号であると言われています。
こちらに埋葬されておられる方が相当地位の高い女性ということの証とも言えます。
何よりも┉。
この側室とされる方のお墓、立方体の墓石ではなく、小さな屋根のような石がつけられたものとなっているのです。戒名も凝った彫りとなっております。
うーむ┉。


No.374

ちなみに。
こちらのお寺さんの経営される元景幼稚園さん。
幼稚園バスを見て夫が気づいてびっくりしていたのですが、
『春芳学園 元景幼稚園』
というようです。

えっ?

〝春〟は景朝公の戒名、
『春光院殿気山元景大居士』にもあり、また奥方さまの生前のお名前が『春』さまであったことから、その辺りから取られたのかなあと推測されますが。
〝芳〟って、一説には側室ともされます、お隣にあるお墓に刻まれた戒名
「心窓院殿華月芳永大姉」にもある一字なんですが┉。

偶然?

何か中国の故事とかにある言葉とかから取られている?

珍道中ペア、心の中でおそらく同様のことを考えてバスの文字を眺めたと思われます。

No.375

今現在の血圧72/42。
ここまで低いと手先が痺れて、立つとふらつき、目の前が暗くなります。
年を重ねると血圧って上がるものだと思っていました。


雨も降っていることでお彼岸のお墓参りは今日は無理、だなぁ。

No.376


動くとつらい今日。
たぶん台風のせい、なのでしょう。
足先手先が痺れ、とにかく力が入らない。動くと息が切れ、だるくてすぐに動けなくなる。

食事の全般と洗濯と。
他の家事は一切、目をつぶって、┉いられないのがどこかのバカ。
動いてはゼーハーゼーハー。

そして動けなくなってはYouTubeで、『歌う僧侶 薬師寺寛邦』さんを聴いている。


なんとありがたい世の中でありましょう。
お経が家にいてお聴きできるのです。

般若心経をお唱えになられる。
そこに邪魔しない音量で、やわらかな音楽が流れている。
ただそれだけ、┉といえばそれだけかもしれません。

ですが先ほどまでざわついていた心がうそのように空っぽになるのです。
息を吸うとそこにしっかりと空気が入って、胸が広がるのを実感するのです。

お経の力。
声の力。
読経する速度。
その空間に音楽が流れていることによる効果。

┉これってすごい効果を産むのかもしれません。


ええっ?と眉をひそめる方もおられることでしょう。
ありがたいお経をなんだと思っているのだと、思われる方もおられましょう。

でも昨今のお寺さん、クラッシックどころかジャズコンサートやらもありますし、ヨガやピラティスもされていますし。

むしろお経な分、お寺さんの布教活動になっているのではないかなぁ。


薬師寺さんのサイトではなく、普通に読経しておられるものをお聴きすることもあります。
よくお聴きしているのは錫杖経というお経です。

┉あくまでも、一人の時、ですが。



でも、┉テレワークをされながら、薬師寺さんのお経を流している方、おられるみたいですよ。
夫に話したら、俺は無理だなって申しておりました。
もっとも彼はながら族(完璧な死語でしょうね)ではないので。
すっごい集中力で、私がそばに行っても気づいていないことまで結構あるんです。

┉そこかな?
彼のすごい歴史の知識量は。





No.377

「三連休には雨の予報。今日の貴重な晴れ間を活かしてください」

ほうっ。
テレビの天気予報の一言コメントに何かを思う顔をした、┉のでしょうね、私が。

「お墓参りは二十五日に二人で行こうね」とすかさず夫。

ちっ。

お墓参りは子どもたちとか、さもなくば一人で行くことがほとんどだったので、ゆったりといろいろなことをお墓に向かって話すのが、すでに私の決まりごとのような、そして癒しの時間でもあり。


けれど、ここひと月くらい血圧が70代から80代で経過していて、やっと動いているため、坂を登ったり、細い通路を歩いたりもあるお墓参りを一人では無理だと思ったのでしょう。

┉ていうか、本来夫も行くのが普通?
でも、ほらウチってお守りさせていただいているお墓もないし。
ただこのところ月命日のお墓参りにも行けていなかったくらい体調不良だったし、それは現在進行形で。

早く元気にならんとなぁ。
養命酒が一本終わるなぁ。

No.378

困ったときの、Google先生。
困ったときのWikipedia。

┉なんですがねぇ。

思わず「薄っ」って言葉が出てしまうくらい、秋元景朝公のことって、書かれていないんですよ。

せっかく調べたことですし、ここに載せておきましょう。(私の頭に、バナナマンさんの某番組のフレーズがあることはいうまでもありません)

【秋元景朝】公は、室町時代後期の大永五(1525)年に秋元政朝の子供として生まれました。
武蔵深谷城主である上杉憲賢公、憲盛公に仕え、正室には当事の関東管領上杉憲政の養女(春:光厳院殿心月等清大姉)に迎えた事で有力武将としての地位を確立します。

秋元氏の出自は『宇都宮頼綱』公の子『泰業』公が十三世紀前半に、『上総国周淮郡秋元荘(千葉県君津市)』を本貫としたのに始まると伝えられます。
複数の一族が分派し、戦国時代の秋元景朝の血族は小糸城(千葉県君津市清和市場字根古屋)を本拠としていたようです。

景朝公は天文十(1541)年に『上杉憲賢』公の意向を汲み『武州榛澤郡上野原(現在の埼玉県深谷市)』の【深谷城】の城代として赴任しています。
ただし、小糸城は秋元家宗家の居城で、分家筋の秋元景朝公は関東管領山内上杉家の家臣として、上野国を拠点としており、深谷上杉家の附家老として上野国から深谷城に入ったとされます。

永禄元(1558)年頃に上杉憲政公が越後に逃れた際には追従せず、元亀三(1572)年、甲斐武田氏、小田原北条氏連合軍が深谷城を強襲した際には主力の一角として応戦したと見られ、
天正元(1575)年の上杉憲盛と小田原北条家との和睦の際には北条家への返状に連署として秋元景朝の名が連ねています。

憲盛の跡を継いだ『上杉氏憲』公が天正六(1578)年に『北条氏政』公の養女を正室に迎えた事で北条家に従属するようになり、
天正十五(1587)年には景朝に上野国植野勝山の地が与えられています。
しかしながら同年十二月に死去、享年六十三歳でありました。

No.379

YouTubeは基本ほとんど見ません。
それがここ最近、毎日何度も何度も見て、聴いております。

癒しの空間がスマホの中にありました。

https://www.youtube.com/c/JapaneseZenMusic

No.380

来週、国葬が開催されます。
あえて開催と申しております。

反対したところで、もはやなす術なく、着々と準備が進んでいることでありましょう。

そうした中、自身の身をもって抗議行動に出た方までが出てしまいました。


奇しくも国葬とはこうしたものだという模範例を見てしまいました。
あの長蛇の列は、みな、女王陛下への敬意と感謝と死を悼む思いからのものです。

当初、家族葬であったことから、安倍晋三氏の死を悼む国民のために国葬とするといった発言もありました。

私はすでに安倍晋三氏の死を悼むための時は過ごさせていただいております。
国費の、┉国民の納めた血税の、ありえないほどの金額を使っての国葬を、私はテレビ画面を通してさえ観たくはありません。

今我が国はそのような国費を使う余裕、国葬をするための時間を費やす余裕はあるのだろうか。


このような内閣は腐っている。


こんなに怒っていても、私の血圧は低いままだ。

No.381

仏教には宗派が多くあり、当然、そうやって分かれるくらいに折り合えないものがあってのもの、┉などということは今の時代においては全くない、のかと思いきや。

┉やはりそこはお坊さんといえども生きた人間、そうした瞬間を垣間見ることもあります。
まぁ、ほとんどのお坊さまは修行を積まれた人格者、こんな右も左も分からないようなおばさんには(ん?)と思わせるだけで、ニコニコと御仏のありがたい御教えへと話を持っていきますけれど、ね。

私は檀那寺を持っていないどころか、仏教徒ですらないので、今、自分の歩みの中で宗教を学ばさせていただいております。
それなので非檀家、一限さんの立ち位置から、宗派の差を知ることもできます。
他の宗派をあからさまに卑下する物言いをなさるお坊さんもおられます。(檀家さんであればことさら、そうしたお話を聞くこともあるやもしれませんが┉)

それってあくまでも個人差だと思うのですが、ね。
あるいは私個人を嫌って、上手に出禁としている手段?


ただ、┉御仏のお教えを授け、教え、人としての生き方を説く立場の方としてはどうかと思うのですが、ね。

聖人君子という職業ではない、ということですか。

まぁ、それも人間臭くていいなと思うこともあるのです。


同宗派のお寺さんでありながらもあからさまに他のお寺さんを卑下したりとかなってくると、ちょっと聞くにたえない。

ま。

いろんな宗派というか、いろんなお寺があり、いろんなお坊さんがおられるということ。

今のご住職に心から尊敬の念を抱いても、次に継がれる方でお寺さんはガラッと変わるということも大いにありえることで。
同じ寺にありながら、自身の寺のご住職の悪口まで聞いた日には、まさに最低最悪な気分であります。
┉あるんですよ、そんなことも。
びっくりでしょう?

人の世でありますなぁ。


No.382

┉一人で行ってしまいました。

夫と一緒に先祖代々のお墓参りに行く時はまた行けばいい。

自分のご先祖さまのお墓参りに行かずして、他のお寺さんの年に一度の御開帳とかに行くことなどできません。
落ち葉を拾い、汚れを洗い流して、ろうそくに火を灯し、お線香に火をつけました。
夫とくることとなっているので、お花とお供えはその時に。
常日頃お守りいただいていることにお礼を申し上げました。


さあて、車を走らせて。

そう、群馬県桐生市の時宗『青蓮寺』さんの年に一度の御開帳です。

私、こちらのご本尊さまが大好きで。
お前立ちご本尊さまも大好きで。

でもこのコロナ禍となって以来、年に一度の御開帳の時くらいしか、檀家でもない私が御本堂へと入ることはできず、まさに一年ぶりにこちらのご本尊さまたちにお会いできるのであります。

こちらのご本尊さまは『銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像』、そう、いわゆる善光寺三尊仏さま。
伝承によりますと、『源頼義』公が融通念仏を信仰し、このご本尊さまを守り本尊とされ、その後、『八幡太郎義家』公の三男『義国』公に伝え、代々の守り本尊とされてきました。
それが『新田義重』公に伝わり、以降代々の新田氏の守り本尊となります。
この『善光寺三尊像』を守り本尊とする者こそが源氏の、新田氏の正統である証として、この群馬県桐生市の青蓮寺さんに伝えられたと言います。

中尊阿弥陀如来さまは、台座共で44.6センチ。向かって右側におられる観音菩薩さまが33.2センチ、左におられる勢至菩薩さまが33.3センチ、鋳銅製鍍金。鎌倉時代の作であります。
この三尊像さま、お顔立ちもお美しいのですが、立ち姿がまた大変お美しいのです。スタイルが良く、お立ちになっている姿がまた綺麗で、衣は流れるよう。
指先から足元までとてもとても美しいのです。
どこを見ても極めて精巧に作られた御像であります。

実は今年の御開帳、私が青蓮寺さんを訪れていた間、どなたも拝する方がおられず、特等席貸切状態で、ずっとずっと拝観していられたんですよ♡
厳かに焼香して手を合わせしばらくは大人しく正座していたおばさんでしたが、係の方が、
「貸切特等席なんだから、立ってでも座ってでも好きなだけ好きなように見ていきなさい」とおっしゃってくださったのをいいことに、中腰になったり、左右横から見たり。

うーん♡


No.383

青蓮寺さんは天正三(1575)年の年に、桐生氏を滅ぼした『由良成繁』により建てられたお寺さんです。

群馬県新田郡岩松郷(現在の太田市尾島)にもまた、時宗の青蓮寺さんがありますが、この岩松青蓮寺が新田氏ゆかりの寺で、寺そのものが〝新田の正統〟を表すものであると考えられていたようで、そのため、由良は新田の正統を主張すべく、青蓮寺の名と、岩松青蓮寺に伝わる本尊を持って、桐生の地に自身の寺を建てたようです。

その岩松青蓮寺と呼ばれるお寺さんは【岩松山義国院青蓮寺】と称され、八幡太郎義家の孫義国公の名から義国院とされたようです。
もっとも、義国公は仏門に帰し義国院と称していただけで、実際にはこの岩松青蓮寺の開基は、六代後の子孫、『岩松(新田)政経』であろうと言われています。

新田政経が義国の法灯を伝承し、岩松郷に一字の伽藍を建立、その後一遍上人が東国に法を弘めに行脚された折に、上人に帰依し時宗に入ったようです。
その岩松青蓮寺、当時は大変栄えた大きなお寺さんであったようです。

由良にとって『われこそが源氏の、新田の正統である』と誇示するための象徴であった二つの青蓮寺さん。

しかしこの後わずか十五年後の天正十八(1590)年、秀吉の北条攻め、小田原攻めが起こり、関東武士として当然北条方に加担した由良は、牛久へと国替えになってしまうのです。

牛久に国替えとなった由良にとって、一族の象徴であった青蓮寺はもはや意味を持たず、そのままこの地に残され、外護者を失い放置されてしまうのでした。

以降、青蓮寺さんは貧乏なお寺さんとして長いこと過ごすこととなり、無住の期間もあったようです。
疫病が流行った時などは隔離の場所ともなっていたようです。


が。

実は青蓮寺さん、実に立派な欄間があり、たいそう立派な須弥壇が伝わるお寺さんなのです。

欄間の見事さといったら。
江戸の当時の有名な彫物師の銘の入ったもの、なのです。
それはそれは生き生きとした表情の人物が、生き生きとした動きで彫られているのです。
須弥壇もまた大きくてしかも丁寧な彫刻が施されている享保の時代から伝わるものであります。

お前立ちのご本尊さまも、〝あの〟運慶の末流により寛永の時代に彫られた物なんです。


No.384

青蓮寺さんのお前立ちのご本尊さま、実は平成七年に解体修理をされた際にその由来がわかったとのことで、それまで全くこのお前立ちご本尊さまについてわからずにいたのだそうです。

その修理の際、阿弥陀如来さまの胎内から二通の古文書等が発見されて、さまざまなことがわかったのだそうです。

この阿弥陀如来さまは、江戸浅草の浄土宗正覚寺さまの第二世の上人さまが近在の多くの人々の寄進を受けて、鎌倉の仏師に造らせたものだったということで、それが寛永十二(1635)年のことだったようです。
ところが。
その後火災に遭われ、阿弥陀如来さまの御像は傷んでしまわれたとのことで寺の蔵にしまわれてしまったのだといいます。

時は流れ、正覚寺さんの第九世となられた念徹上人さまは、群馬県桐生市の出身のお方であったそうなのですが、ある時、ご自分の生まれ故郷の近くにある、青蓮寺さんの話がそのお耳に届いたのだそうです。

なんでも、
「檀家がわずか十五軒という貧乏寺があって、その寺がやっとの思いで本堂を大改修した。ところが、ご本尊さまが秘仏であられるため、本堂に入ってもがらんとした空間だけで拝む仏様もないと檀家が嘆いているという」
という内容。
上人さまはそれを聞き、身を切られる思いをされたとおっしゃられ、亡くなったご自身の御母堂さまの供養にもなろうと、蔵にしまわれたままになっていた阿弥陀さまを修理なされて、青蓮寺さんへ納めたのだといいます。
そのよう書かれた文書は享保(1723)年に書かれており、当時の青蓮寺の困窮した状態や、ご自身の出自、ご両親の戒名などが書かれていたといいます。
その他、御母堂のお遺髪、形見の念珠がおさめられていたようです。

この修理によって、お前立ちさまの由来、代々時宗の寺に何故浄土宗の僧の立派な位牌が祀られているか、わからずにいたことがみな、解明したといいます。

このお前立ちさま、とてもお優しいお顔をされておられるのですが、そんな念徹上人さまの優しさ、念徹上人さまをお育てになられたお母さまの優しさなども詰まっていたから、┉ということもあったのではない、かなぁ。

No.385

この青蓮寺さんの御開帳は毎年秋のお彼岸のお中日、秋分の日に開催されます。

まるでその時に合わせたように、┉青い蓮┉正確にいうと青い睡蓮が咲くのです。
もともと他の睡蓮の花よりも開花時期が遅い品種なのか、あえてこの時期に咲くように開花時期がずらせるものなのか┉、毎年毎年この日に青蓮寺さんにうかがうときまって咲いているのです。


いつ行っても絶えず何かしらのお花が咲いているお寺さんです。

いつだったかは、ご住職さまとお話ししたときに、
「もう少しするとネジバナがたくさん咲くから、もし時間があったらまた来て、見てごらん」
ご住職さまと奥さま、いつもお寺の境内を見て歩かれては、花以外にもいろいろな手入れをされておられる、そんなお寺さんであります。


正直、時宗さんのお寺というのはあまり多くはなく、時宗のお教え自体はよくはわかっていないのですが、この青蓮寺さんに限っては大変好感がもてるお寺さんであります。


時宗というと、歴史の教科書にきまって載っている一遍上人さまの痩せて疲れはてたように行脚される大変インパクトの強いお姿と、さらっと触れるだけ、という感じで授業で学んだ踊り念仏のことしか頭に浮かびません。
正直なところ、軽い衝撃ですらあった時宗との出会い(いや、それは出会ってもいない、ただの授業だから。笑)、その時自分が時宗のお寺さんを訪ねる日が来ることなどないと思ったものでありました。

実際神社仏閣を巡るようにならなければ、時宗のお寺さんを訪ねることなどなかったでしょうし、正直にいえば、珍道中といえども時宗のお寺さんの敷居は高かったのも事実でした。

この青蓮寺さんがその私の中にできていた壁を見事に壊してくださったのです。
とはいえ時宗のお寺さんを参拝させていただいたのはまだ両手にも満たないほど、なのですがね。

かつては大きな伽藍をかまえていたという岩松青蓮寺さんなどは
無住のお寺さんとなっていましたし。

相変わらず時宗とは何かとかはさっぱりわからないまま、ではありますが、桐生市の青蓮寺さんへはもう何度となく足を運んでいる私、でありました。

No.386

先日、まだ相変わらず血圧も低く、ともするとふらぁっとバランスを崩すような体調のくせに、どうしても行きたいとわがままを申し、夫に車を出してもらい(それはいつものことだろう)、群馬県前橋市にある、三夜沢(みよさわ)の赤城神社さんへ参拝させていただきました。

この赤城神社さんというのが、関東地方だけで実に約三百社あるといわれ、その本宮の一つとされるのがこの三夜沢の赤城神社さんとなります。

ん?
本宮の一つ?

そうなんです。
実はこの赤城神社さん、三つの本宮を名乗る神社さんがあるのです。
その神社さんの全てがそれぞれ山頂、中腹、山麓に位置しており、どの神社さんもその本宮にふさわしい神社さんで、延喜式内神名帳に記載の名神大社の比定をめぐり、長きにわたって議論がなされておるものの、未だに決着のつかないこととなっているというものなのですが、実際どの神社さんも、ゆかりある素晴らしい神社さんで、参拝する者たちとしては、もはやそこにはこだわってはいないような┉。

ちなみに延喜式内神社において上野国二ノ宮にあたる神社さんであります。もとは一之宮であったものを貫前神社さんに一之宮の地位を譲ったという言い伝えのある神社さんになります。
(一之宮の立場は譲れるのに、二ノ宮であるという主張は譲れない、ということ、なんですかね。神様同士はそんな人間の取り決めたことなど一切関与しておられないのでしょうにね)

ただあまりにも数多く、ことに群馬県内においてはどこの赤城神社さんかということが重要視されます。
〇〇赤城神社さんと地名なりを冠し、はじめて、ああどこの赤城神社さんのことかとわかるくらいの数でありますので┉。

三夜沢の赤城神社さんについてはもう何度となく珍道中録に記しておりますので、ずっとお読みくださっておられる方には繰り返しとなりますので、念のため申し上げておきます。

こちらは古くから文武の神として、多くの武将が崇敬したとされる神社さんであります。
大己貴命さま、
豊城入彦命さまを主祭神とされています。
豊城入彦命さまが上毛野国を統治する際に大己貴命を奉じられたことが由緒とされています。

大きな大きな白木の鳥居を見上げるだけで身が引き締まり、心洗われる思いのする神社さんであります。


No.387

この見上げるほどに大きな大きな鳥居、何やら白さが増しているような┉。
それもそのはずです。令和三年の十一月に新しいものに立て替えられておりました。
綺麗に研磨しきることなく、ところどころに枝だった場所なのでしょうか、ぼこっと軽く盛り上がったところが残っていて、素朴な感じがあるものとなっていました。
┉それを今まで知らなかったということは、一年近くこちらへお参りしていなかったということ、結構なショックを受け、お詣りの際にお詫び申し上げました。

その一年前まで建てられていた鳥居を小さく切って、社務所の前に箱に入れられて、セルフでお受けできるようになっていたことで気づいたのですが、┉それを拝受いたしましたことは言うまでもありません。

その前に。
手水舎で身を清めたことは言うまでもありませんが、かつてのように柄杓の置かれてはおりませんでした。

こちらの手水舎は参道の右手にあるのですが、手水舎が池の中に建っているのです。
横から見ると手水舎と池が一体化しているのがよくわかります。
池には大きな鯉が泳いでいて、池をめぐる木々の緑が映ってそれはそれは息をのむほどに美しい手水舎なのであります。

その手水舎から参道を隔てた斜め反対側に社務所があります。

参道からは拝殿のお姿が見えております。
さほどの段数のない石段の先に拝殿のある神域が広がっています。
その神域の下を流れる地下水を集めて、豊かな水を絶えず受けている大きな石の鉢があり、そこからの御神水はいつでも誰でも無料でお受けできるようになっております。
日によっては台車にたくさんの大きなボトルを積んだ方々が列をなしていることもあります。

No.388

普段から語彙力もなく、表現力もない私、正直、三夜沢赤城神社さんのことを書くのには抵抗があります。
あまりにも素晴らしい、清らかで、凛とした気が満ちたこちらの空間を、私には表現できる気がしないのです。

それでも、最初に訪れたころの感動はやはりそれなりの表現をしているのではないかと、以前、┉2017年に三夜沢赤城神社さんを訪れた際の珍道中録を紐といてみました。




┉だめだ、やっぱりだめでした。



『それはもう、幻想的な、圧倒される神々しさ。
聖域とはこういうものだと。
言葉を失なう美しさです。

見上げて空から光が射し込む木々の間に間にある、石段の先に拝殿が見えております。
境内全体が、落ちついたまさに聖域。

ありがたいと、一目見て思うほど、溢れて流れ出る御神水。

やはり、私の拙い文章力ではあらわすことは叶わない』とのみ、でありました。

だよなぁ。



こちら、森の中、と言っても過言ではありません。しかしながらやわらかな日が差し、決して鬱蒼とした感じはないのです。
ことに拝殿、そして神楽殿の辺りは、天気の悪い日であっても明るく、まさに神々しく、光が差しているのです。

決して大きな拝殿ではありません。
白木のままの木が、ゆっくりと歳を重ねて、穏やかな木肌をしています。
優しい色合いです。

そして。
拝殿の正面入り口は、ガラス張りになっているのですが、そのガラス越しの拝殿内のやわらかな穏やかな明るさといったら!

全てが優しいのです。
全てが穏やかで、
しかしながら凛とした澄んだ気に満ちた空間なのです。

はあぁぁ┉♡

ここの神社さんの空間は、体ごと、心ごと、全てを優しくくるんで、包んでくださるのです。

No.389

赤城大明神は、江戸時代、三所明神とも称されていたといいます。
三所とは、山頂の大沼(千手観音菩薩)、小沼(虚空蔵菩薩)、地蔵岳(地蔵菩薩)であります。
元は、大沼・小沼への信仰から発した西宮と、地蔵岳信仰の東宮の、東西両宮が並んで祀られていたようでありましたが、現在は一社となっております。
現在の社殿は、明治になって東宮の地に造営されたもので、西宮の跡地には、鳥居の沓石一対が残っているといいます。

社地変遷の伝承があり、『山吹日記』なるものに
「もとの宮ゐありし所はいま本三夜澤と呼て、是より一里はかり東のかたにあり」とあるらしく、前橋市粕川町中之沢の俗称「御殿」と呼ばれる地か、その北の宇通遺跡付近から遷座したとする説があるということです。

また、宇通遺跡は十世紀頃の寺院遺跡であり、それ以前は、二宮赤城神社の地にあったという説もあるようです。
さらに、これらの社地変遷は西宮が移動したものであるということであります。
┉社地が変遷したらしい、ということしかわかりません。


三夜沢赤城神社さんから、北東に一キロ強の位置に『櫃石』という磐座があるといいます。山深い道を興味二キロほどの歩くらしく、私どもは即座に断念しましたが。

この道は拝殿の横から本殿横へと続く石段を横目にみて反対側の、山へと入っていくような道を進んで行くようです。

本殿脇へと続く石段を上り、坂を登ると、板塀越しに大きな杉の木が見えます。たわら杉と呼ばれています。
たわら杉には『藤原秀郷(俵藤太)が献木したものであるという伝説があるといいます。
また、その囲いの中には『赤城塔』と呼ばれる宝塔が見えました。


こちらの神社さんは、木々からの湿気が霧状に蒸発し、木漏れ日を、淡い光に変える。そのなんとも、神々しい姿に、しばし見とれるのでありました。


No.390

このところ体調が良く、とはいえまだ息切れもし、動悸もするので油断はできないのでしょうが、これで血圧など測ってみて低かったりすると、心理的なものも影響してしまいそうなので、測らないようにしております。

本日絶好調。さては血圧も戻ったか? ┉89/52、やっぱりそんなものか。

とはいえ、あの赤城神社さんに行ったあたりから調子が良いのは確かです。

で。
実はこの赤城神社さんの参拝を終えたのち、かねてから気になっていた、三夜沢の赤城神社さんのそばにあるという【滝沢不動尊】さんへも、欲張って参拝しておりました。

知る人ぞ知るお不動さまであります。

その先には絶景と称される滝沢不動の滝もあります。
ただ、二、三年ほど前は崖崩れの土砂崩れだので、通行止めになっておりましたし、日曜日ごとに御堂を開けていたのもコロナのせいでお休みされているとかで、ずっと行けずに(行かずに?)おりました。

熊鈴必携の道であることには変わりはありませんが、とりあえず滝さえ目指さなければ、ニ、三十分の道のりのようです。そう、歩いてでしか行けない場所にある不動堂であります。

その滝沢不動さまへの登口のそばまで行くのがまた、道がすごい!
細いし、湧水を流す側溝は蓋などないし。落ち葉はもちろん大きな枝また落ちているし、すれ違い不可能と思われるところもたくさんあります。
まぁ、昔の方は裾野から三夜沢赤城神社さんを目指し、さらに山深いところにある滝沢不動尊さま遠目指してひたすら歩いたことを思えば、そこまで車で行けることに感謝、┉ですよね、ほんと。

さあ、その駐車場へと到着いたしました。
┉おや?
駐車場に先に到着されていた方は完璧な登山の格好をされています。

えっ?そ、そんな?

私、普通にズック(笑)にスカート、なんですけど。
もともとは赤城神社さんへの参拝、普段着とはいえ神様のところへお伺いするのに失礼のない格好をしてと思ったものですから、そんないでたちでありまして。


えっ、とぉ、┉。

いいやん!行ってみて無理なら引き返せば。
いつもの巡礼用のリュックで来ていれば、熊よけの鈴もすぐに取り出してセット出来るようになっているのだけれど、いつものバッグだし┉。
┉平気、平気ぃ!

さあ、お不動さまに会いにしゅっぱ〜つ!!


No.391

暑い日が戻ったものの、風は秋を運んできました。

窓を開けると金木犀が香ります。

庭の黄色いコスモスは庭に今咲くたった一輪だけの花で、少し寂しそうにも見えます。

あっという間に秋が来て、あっという間に冬になる。

歳を取ると年月の流れが早くなると聞いたことがあるけれど、ここ数年の異常気象、早く台風の時期がすぎるよう、早く雪の時期が過ぎるよう、祈って過ごすばかりだけれど?

┉まだまだ若いと、いうことにしておこう。

今度の台風は、被害がありませんように。

No.392

滝沢の不動滝は、赤城山最大の瀑布で、赤城山の火口湖『小沼』から流れ出す粕川の上流部、標高約八百二十メートル地点にあります。
落差約三十二メートルあるといわれ、滝壺めがけて勢いよく水が落下するようです。
侵食で形づくられた絶壁を流れ落ちる水流はYouTubeにあげられた動画を観ても雄大にして優美です。

この滝は修行の場でもあり、現在でも滝に打たれる人の姿が見られるのだとか。┉私ども夫婦などは滝を見に行くこと自体が修行でしかない、結構な道なき道であるようでして。途中で道がわからなくなることもあるらしく、コイツ(私)がいては遭難の二文字がはなからチラつく、まさに無謀な行動としか思われません。

この滝に通じる道沿いに【滝沢不動尊】さまがおられます。
今から六百年ほど前の応永十三(1406)年に邑楽郡佐貫荘(現・群馬県明和村)の豪族が、壁岩に形成された風蝕洞に奉納したと伝えられています。
不動明王さまの御像は、丈八十五センチ、重量はなんと百キロ余りの赤銅製の仏像だったといいます。


┉そう、〝だった〟なのです。


実にこのお不動さま、右腕、両足が切断され、火焔や磐石も失われているのだというのです。それゆえ『片腕不動』と呼ばれているのですが、┉あんまりですよね。

かなり険しい山道で、しかもかなりの標高まで、それだけの大きさ、それだけの重さのお不動さまを、車やクレーンなど一切ない六百年も前に運んでお祀りしたというのに。
┉まぁ、現地で造ることもあるようですが、それはそれで材料や加工のための道具や設備を運ぶので大変なことには変わりありませんからねぇ。
佐野の仏師が鋳造したことはわかっているようで、由来の書かれた立看板の書き方では、どうやら造ったものを運んできた可能性が高そうですが。

堂宇は天明四年、同八年と度々火災に遭っているようで、現在の建物は江戸の終わりか明治の初めのもののようです。

まぁ、火災に遭ったからといって、右肩やら両足やらが、仮に取れてしまったとしても、無くなることはあまり考えられず。

実は。
このバラバラになった右腕、両足と台石はそれぞれどこにあるかわかっているようなのです。


┉何故戻さない??

それにもわけがあったようです。





No.393


私にとっての安倍晋三氏の葬儀はあくまでも終わったもので、死を悼むこともその際にさせていただいております。

あのような形で突然命を奪った犯人はあくまでも殺人犯であり、それ以外の何者でもありません。


だが、私、国葬はあくまでも反対派。

まぁ、終わったことではありますし、一度国内はとにかく国外にまで国葬を執り行なうと声明してしまった以上、中止は不可能であったことも重々承知しております。

ただ。

円安、物価高。
その他いろいろ国民は苦しみ、将来に不安しかありません。
そこで発表されているだけであれだけ膨大なお金が、税金が使われた。
今後発表されるものはどれだけはじめの発表を上回るものとなるのか。

全て税金で賄われる国葬を開催せずに、安倍氏の死を悼む方法はなかったのか?
ただただそう思っているだけです。


とりあえず私は本日テレビをつけずに過ごしております。

今日見ないからといって、一週間くらいは繰り返しテレビで取り上げられることでしょうが。

本日のニュースは一切見ておりませんが、さいわい、ネットで見たいニュースだけを拾うことができるような世の中です。


国葬を全世界に発信し、招待までしているものを、反対する手段はもはやなく、せめて国葬に関して一切ノータッチで過ごすこと。それが私のささやかな国葬反対行動です。


No.394

いつもの脱線、すみませんでした。

【滝沢不動尊】さんに話を戻させていただきます。

まずは歩き出したところへ、と。

すこぉし老朽化した『城南麓滝巡りマップなる立看板があります。
この、車を停めた駐車場を『前不動駐車場』といいます。
その駐車場からお不動さまのところまで、二十分と書かれています。
入山にあたっての注意として、
『・遊歩道は狭く滑ります。
 ・落石があります。
 ・クマ、イノシシが出没します』
だ!
┉ですよねえ。

そこからしばらくは通常考えられるハイキングコース、となります。
しばらくは周りに人がいないのをいいことに普通に声に出して歌を歌いながら歩いて参りました。


あれ、石標が見えてきました。
あれあれ?
あのぉ。
道がな、なんと二手に分かれているのです。
みぎ?それとも左?


No.395

一つは下り坂、もう一つは┉「道、だよね?」と言葉が出たくらい、なんとも心細くなる道で、
「俺がちょっと見てくるからここで待ってて」と夫が偵察宣言をしたくらい。
「一緒に行けばいいじゃない」と言いながらもうすでに歩き出している私。
程なく見えてきました。小さいけれどしっかりとした御堂です。

御堂の天井に頭が届きそうな石造りのお不動さまです。さほど古くはなさそうな。

お参りをして先へと進みます。
とはいえ今きた道を戻るのですが。

こちらの道は比較的広くて、┉まぁとはいえあくまでも〝山の道〟に過ぎませんが。
あれ?御堂が見えてきました。小さな小さな、あまり背の高くはない御堂であります。

『延命猿』と書かれた立看板があります。
┉あらまぁかわいい!

赤いお猿さんが両の手を下げてちょうど泉か何かで手を洗おうとする仕草にそっくりです。
手のひらからはちょろちょろと水が流れています。

No.396

延命猿のいわれは何も書かれてはいませんでした。
おそらくはこのお猿さんの手からちょろちょろと流れ出ているお水が延命水と呼ばれていて、その水の周辺を加工したのだと思われるのですが。
特に延命とか長生きとかには興味がないうえ、お猿さんの手が苔むしてるいて、可愛らしいけれど飲む気にはなれないかなぁ。

でもここまでずっとずっと、歩いてくるしかなかった時代においては、ちょうどここ、この辺りで冷たいお水が飲めるというのは、まさに命が伸びたかと思われるくらいありがたく美味しいものであったことは間違いありません。

お猿さんを設置されたのは可愛らしさでは癒しになっておりますが、何しろ手からこぼれ出る水、取水口が低すぎて飲みづらいのではないかなぁ。
柄のとれた柄杓が置いてありますが┉。

さあて、まだまだ先です。
とは言いつつ直線距離は何百メートルらしいのですがね。

途中、大きな岩が出張っていたり、その岩が何かあったら崩落しそうな絶妙なバランスで止まっているところがあったり。
おそらくは岩、もしくは土砂が大量に流れてそう昔ではない頃にできたのでは?、と思われる斜面とかがありますが、何故か恐いとかではなく、それはそれで自然の偉大さと美しさを実感します。

実際、ニ、三年前に崩れて通行止めになっていた場所であろうところなどはまだ完全に修理修復はなされておらず、注意を促すテープがこれでもかというくらいに張り巡らされていました。
小さな橋が二つあるのですが、その橋の一つがまさにその現場と思われる場所。

そうそう、この不動堂に向かうまさにこの道を使って、この辺りに潜伏していたとされる人物がいるのです。

私より上の世代でないとその人物の名すら知らない方が増えているのでしょうが、ね。
地元群馬県でも知らない若者は多くなっていると思います。
そもそも私自身がこの珍道中を始めて、調べて詳しいことを知ったくらい、ですので。

その人物は┉後半に続く。
(ちびまる子ちゃんのアニメのマネ、ですね)

No.397

┉書き込んで900字、あと少しというところで、本当に些細な、なんということもない凡ミスで全てを消しました。

ダメージは大きかったです。


振ってみたけど、ダメでした。

ダメやん、iPhone!



┉いや、ダメなのは私でした。

No.398

「赤城の山も今宵限り。生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前(てめえ)
たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ」

って┉聞いたことありますか?

せいぜい私世代までか、よほどの博識かでなければ、今はもうほとんどの人が知らない、ですよね。
私とて、これを劇?映画?テレビ?で観たことはなく、これを元にしたパロディやCMを観た覚えがあるくらいですから。
このセリフもうろ覚えだったため調べたところ、大半がまちがえていましたし。

┉これ、『国定忠治』の有名なセリフなんです。

そう、赤城山の滝沢不動尊に向かう辺りに潜伏していたという人物は、何を隠そう国定忠治とその子分たちなのでありました。

そもそもが私、国定忠治自体あまりよくは知らなくて、この珍道中を始めてから、調べて初めてどんな人物だったかを知ったくらいですから。

簡単に申せば、人を殺めてもいる博徒で、関所破り等もあり、追われる身であったようです。

まぁ、その辺は滝沢不動堂にはあまり関係はないのではありますが、立看板に『国定忠治ゆかりの地 忠治見張り岩』などとされているものがあったり、はてはあの顔出しパネルまでが設置されているという┉。

そんなブームがあったんですかね。

顔出しパネルは顔を出す意味すらないほど老朽化が著しかったですが。
そこからほど近いところから滝を望めるらしいんですが、心がけが悪いためか、そこからすら滝を見ることができませんでした。

もう一つ、ほんの二、三メートルに満たない橋を渡ってまもなく、唐突に建物が見えてまいります。

「あ、建物がある。着いたみたいだね、┉。
┉トイレだけど」

┉ええ、こんな山奥ですのに、ありがたいことにキチンとしたきれい(そう)なトイレが設置されていました。潜伏中の忠治とその子分が、┉使ったものではもちろんありません。


おっ!

石造のお不動様の像がたくさん並んでいます。こちらはさして古くはない昭和六十年代に奉納された物のようです。
舟形の光背部分に和歌が彫られた聖観音さまと如意輪観音さまもお不動様とは反対側にお祀りされています。

歌観音と呼ばれる観音像のようです。

No.399

えっ?


えっと、これは門?建物?

楼門、とかではなくて、おそらくいくつか部屋のある建物で。大変不敬な言い方をすれば、大変古い白木のままの木造アパート一階の部分に、中央だけ部屋を造らず、その一部屋分をそっくり使って通路を設けた、┉そんな感じが一番近いと思われます。

その中央部分には天然の木がたまたまそうなった形を活かして門のように仕立ててありま、┉これ、門じゃない!
その使われている木の形というのはちょうどあのVの字の形にほぼ近いもので、それを逆さに立ててあるものを想像していただければ、大体そんな感じ、┉なのですが、そのVな字の形の木の絞まった要は逆さになっている上の方に『しめ縄』があるんです!

┉。
と、鳥居ってことぉ?

なんかすっごい不敬な説明をしていますよね。

でもその門というかトンネルというかをくぐると、その壁には壁一面にこの滝沢不動尊の説明が書いてあるものが設置されているんですよぉ。
これが鳥居、だとすればそれこそが不敬な行為だと思われますが?

さらに裏に回ればもはや〝長屋〟といった風情。使われなくなった電化製品等々も置いて(出して)ありますし。
┉もしかしたらここ、この建物、ここに宿泊して修行とかをされていた物なのでは?

造りとしては昭和初期とかせいぜい明治の終わりくらいのもの?
ガラスはたぶん昭和なものです。

あまりにびっくりして、その門?を振り返り振り返り見てしまいました。真正面、そう広くはないのでまさに目の前に建てられている建物こそがお不動さまの御堂であるというのに、┉。

ええ、ここで書いた文章どころか現地での行動そのものがすでに不敬でありました。

狭い境内ではあるのですが、人々の信仰心がぎゅうっと納められています。
稲荷社があり、地蔵堂があり。
立派な大きな手水鉢とそれに見合うだけの手水舎があります。

まずは手水舎で身を清めましょう。
┉そうそう数々の不敬の念を浄めてお堂の前に参らなければいけません。

No.400

この滝沢不動尊さまの御堂、天明四年、同年八年と火災に遭った話はすでに書いておるかと思いますが、それを嘆かれた、群馬県桐生市の新里町にある『三谷山不動院龍興寺』の第十二代のご住職さまがこれをたいそう嘆かれ、焼失した堂宇再建に一身を捧げられたのだといいます。
その堂宇が今現在の堂宇と思われますが、その龍興寺さんのご住職は堂宇が完成したのち、お子さんであたる十三世に寺を託し、自らここに移り住んだのだそうです。
その後はこのお堂をお守りする方は度々変わり、現在はこの地のある前橋市粕川村室沢区の方々が年間を通してお守りになっておられるようです。

日曜ごとに御堂を開けておられたようでしたが、コロナのために中断してしまってそのままのようです。

うーむ、御開帳はいつなのだろう。

五月の八日という大祭もここ数年は中止されているのでしょうが┉。

それにしても標高八百メートルの足元の悪い山道を登って、日曜ごとに御堂に詰めてくださっておられる地元の方には本当に頭が下がります。


ちなみに。
今、桐生市の新里町にある龍興寺さんは、先代が体調を崩されたのち、ほぼ無住の状態であったものを、昨年、新たに赴任されたご住職さまがお守りになっている状態で、「今は檀家の方々からいろいろお教えいただきながら寺のことを知り、今後どうあろうかを模索しているところなのです」とおっしゃっておられました。
とはおっしゃっておられましたが、お寺の寺伝等もお聞きすればスッとお答えになられていました。

私がここ、滝沢不動尊さまとの関係を知っていれば、もしかしたらお教えいただけたのかもしれません。

龍興寺さんの境内には、滝沢不動尊のお堂までここから何キロ(何里?)離れているという起点のような小さな石塔がある、ということです(気づきはしませんでしたが)

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