神社仏閣巡り珍道中

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2022/11/06 23:09(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。

22/05/09 22:30 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。

No.3536620 (スレ作成日時)

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No.301

ご住職さまが御本堂にお客さまをお連れしてお越しになられました。
実はご住職さま、私がご家族の方に対応していただいている時にも一旦席をお外しくださり、
「今日は来客の対応中でそのあとも時間が取れず、申し訳ない」とわざわざお声がけくださっていたのですが、こちらでも何度も何度も頭をお下げくださっています。

┉いやいや、私などアポ無しで突然訪れているしがない参拝者の一人に過ぎません。かえってそのようなお気を使わせ申し訳ない。
また参りますのでと、心の中で申し上げて、本堂を後にいたしました。


御本堂へと上がってきた石段の脇に、優しいピンク色の彼岸花が綺麗に咲いておりました。
もう秋がすぐそこまで来ているのですね。

などと申してみましたが┉朝晩こそ涼しくはなりましたが、この日は大変暑い日でありました。
それでも、そのここに、淡いピンクの彼岸花を見かけるようになりました。
彼岸花とは申しておりますが、ヒガンバナ科の花というだけで、きっと洋風のおしゃれな名前があるのでしょう。
花の名も知らないおばさんでありました。


あらためて見上げた御本堂は大変大きくそびえております。1810年に建てられたものだといいます。
大正時代にはこの大きな大きな屋根が茅葺きであったといいます。
すごいなぁ。
改修に改修を重ね、以前はこの倍は間口があったと映像でご住職がおっしゃっていました。

その時代の宗泉寺さんを一目見てみたかったなぁ┉。

No.302

こちら宗泉寺さんの半鐘は享保十三(1728)年の作。

半鐘に偈文が彫られています。
【諸行無常】
【是生滅法】
【生滅滅已】
【寂滅為楽】
これは涅槃経という経文の一部だそうです。

その説明として貼られていました紙には、弘法大師作と伝わるいろは歌が書かれていました。


色は匂へど散りぬるを(諸行無常)
 …香りよく咲いた花もたちまち散り、

我が世誰ぞつねならむ(是生滅法)
 …人が生まれやがて死ぬのは世の自然の流れ、

有為の奥山今日越えて(生滅滅已)
 …苦しみの山々を今日越えて、

浅き夢見し酔ひもせず(寂滅為楽)
 …もう浅はかな夢もなく迷いがない


一瞬一瞬が常に変化している。
だからこそ、この一瞬が何物にも代えがたい貴重な時間であり、
この世の無常を感じ執着を捨て、諸々の物事を善い方向に向かわせ、前向きで安らかな日々を送りましょう。

と添えられていました。



柔らかな語り口でこの半鐘の説明をされていたご住職さまの一つ一つの言葉が心に沁み、この鐘を一目見たくてこちらに来たかったというのが一番の理由でありました。

いつかご住職さまとお話しする機会がありますように。もしくはご住職さまのお話を直にお聞きする機会を得ることができますように┉。

No.303

実は今、BS日テレが桐生市で『神業スタンプラリー』なるものを開催しています。
あまりテレビを観る習慣がなく、ここ近年に至ってはほとんどテレビを観ることなく過ごしているわが家は、BS放送を受信するような工事すらしていないため、本当に偶然知ったのでありますが。

そもそも知ったのが桐生天満宮でありますし、やってみようかと思ったのも鳳仙寺さんがそのスタンプを捺す場所にふくまれていたから。
あくまでも神社仏閣巡りの一環でありました。
┉とはいってもこう見えて私懲り症でありまして。
やるならばコンプリートを!と張り切って、それでも一か月かけてようやく全ての箇所をまわることができました。

そのスタンプラリー、五カ所以上で一回、十カ所以上で二回、十五カ所以上だと三回の抽選ができるということで、コンプリートしておりますので三回抽選ができました。

「うわぁ、赤だ!これ一番いいやつですよ」
と、当たりのときの鐘を鳴らされました。
おおっ!すごいじゃん、私。暑い中頑張った甲斐があったよ。

┉まぁあとはハズレの、シール一枚か、桐生市の写真を葉書にしたもの二枚のどちらかを選ぶというものでありましたが。

当たりは桐生織のぐんまちゃんの図柄の御朱印帳でありました。



┉このぐんまちゃんの御朱印帳を持って、群馬県のPRができるような日が来ることを願って、祈りましょう。

色は何通りかあったのですが、私はこれを選びました。



刺繍や織物の盛んな桐生市の御朱印帳は、一部では有名、┉なんだそうです。初耳でありましたが。

No.304

群馬県桐生市の【鳳仙寺】さんに参拝してまいりました。

なにしろあのBS日テレのスタンプラリーに鳳仙寺さんがあったから参加したくらい、鳳仙寺さんが大好き。
いつ来ても心落ち着き、癒されるお寺さんであります。

緩やかな坂道をくねくねと登ってまいります。
その坂の入り口に標柱があって、そのすぐそばにも駐車場があるのですが、ここからそれなりには登ることとなり、夫と行きますといつも上の御本堂そばにある駐車場まで車で行くことになります。

標柱があって。少し行くとみぎてにこちらの山を護る鎮守三社の赤い鳥居が見えてまいります。
小高い丘の上となっていて、鳥居から先はまるで見えず。その坂を一人で登るにはちょっと、┉なのですが、夫は下から歩くのは気が向かないらしく、いつもそこを素通りすることとなります。
なのでこちらの、鎮守三社を一度もお参りしたことがないのでありました。天神山護法大善神さま、白山妙理大権現さま、土地護伽藍神さまがお祀りされていると書かれた看板が立てられています。

もうすでに境内となるのではありますが、一般のお宅が建っていたり、以前は宿泊や休憩のできる施設などまであったくらいです。
長い歴史あるお寺さんも維持等、いろいろあってのことかと思います。

鳥居を過ぎるとみぎてに『鳳仙寺威徳の滝』があります。
滝ですよ?滝。
もうそれだけでテンションが上がります。まぁ、さほど大きなものではないのですが、細い白糸のような水がやさしく流れ落ちています。

湧水が小さな小川を作って、境内のあちこちを流れています。
苔むした道や橋、低木と高い木がほどよく生えた、マイナスイオンたっぷりの、風情ある境内となっております。

そんな石橋の先、山門が見えてまいります。
緩やかな石段が続きます。

石段の途中に『勅使門跡』という、小さな小さな石標があります。
ああ、ここに勅使門があったんだ┉。
そんな歴史ロマンに浸りながら、しばしそこで足を止めて。

うーん、やっぱりいいなぁ。
やっぱり好きだなぁ、鳳仙寺さん。



No.305

周囲を豊かな自然に抱かれて四季おりおりのたたずまいの中、静寂閑雅な緑陰の別天地が形成され、
全山が真っ赤に燃え上がるツツジ満開の春。
目の覚めるような青葉で、心まで緑に染まってしまうほどの夏。
自然の織り成す綾錦に感嘆させられる紅葉の秋。
そして、全山静寂で木枯らしの音さえ御仏の声に聞こえてくる冬。
文字通り「静寂閑雅」な霊地にあります。
唐人白山の『鳳凰飛舞仙人遊楽之霊地也』から、寺号を【鳳仙寺】とし、瑞兆の帰結から山号を【桐生山】とされました。

とは、鳳仙寺さんのホームページから。

私の書いた拙い文章とは雲泥の差、┉と申したら泥にすら失礼に当たりましょう。


鳳仙寺さんは、戦国時代の世、天正二(1574)年に、『由良成繁』公が自らの手で開創されました。

由良氏が桐生氏との合戦に勝利し桐生領を支配下に収めたのは、前年の天正元(1573)年でしたが、その年は城代家老に新領地を支配させ、成繁公が実際に桐生入部したのは、
嗣子『由良国繁』公に『金山城』を譲り隠居してからのことでありました。
成繁公は、勅使門の備わった荘厳で広大な伽藍を桐生入部の年に落慶させ創建させ、自らの菩堤所として開山させました。

領主開基の寺として創建された鳳仙寺の寺運は、まさに盤石でしたが、開創五年にして、はやくも、領主・成繁公ご逝去という不運に見舞われます。
しかし嗣子・国繁公の変わらない寺への篤心で無事乗り越えます。

寺が存亡の一大危機に晒された最初は、その十二年後の安土桃山時代の天正十八年(1590年)のことであったといいます。
『豊臣秀吉』公の天下統一への最終戦となった小田原攻めの折、
領主・国繁公が小田原・北条方に味方したため、小田原方敗戦によって桐生城が廃城となってしまいます。しかも、秀吉公の怒りに触れて、領主・由良氏が桐生領を召し上げられ、改易だけは免れたものの嫡男・由良貞繁は常陸(現 茨城県)牛久への転封を命じられてしまいます。
寺としては突如として、最大の庇護者を失ってしまったのですから、たいへんな危機に遭遇してしまったわけです。

そんな鳳仙寺さんを救ったのが、秀吉公から関東支配を任された『徳川家康』公であったといいます。


うーむ、歴史って深いものだと、鳳仙寺さんの歴史を見るだけでもつくづく思います。



No.306

そんな徳川家康公の温情もあって、再び隆盛した鳳仙寺さんは、江戸時代中期の元禄元(1688)年には
『曹洞宗別格地(常法幢)』の格式を得たといいます。
『別格地』とは本山に次ぐ格式で、『常法幢』とは出世道場(住持が天皇からの勅宣によって定められる道場)という意味であるといいます。
鳳仙寺さんの格式の高さが窺えます。

徳川の世となりました享保十二(一七二七)年、幕府の要職・奥高家に出世した『由良成繁』公六代の孫・『横瀬貞顕』公が、子息『貞国』公を伴って鳳仙寺を訪れたといいます。
貞顕公は、由良成繁公百五十年遠忌を厳かに営まれた上で、成繁公の墓石を大型五輪塔に修建されたといいます。
これが桐生市の史跡に指定されています、現在の墓石であります。また貞顕公は、この時、先祖供養として経文二巻を写経して進納もされたといいます。

昔の方たちは祖先を大切にされたものであります。

No.307

山門に向かって歩きますと、向かって左側にぽつんと【石堂】が一つ。

石堂とは内部に石仏や塔を安置する寺院建築を模したお堂型の石造物、┉以前私が名前が分からず、ただでさえ語彙力がないというのになんとかお伝えしようと、しどろもどろに
中に御仏がおられる、石でできている建物の形をした石造のもの、┉のような表現をしていたものです。
そう、石堂、というそうです。
言われてみれば、それ以外に付ける名前はない、くらいにピッタリな名前です。

中にお入りになられているものが何かは暗くてわからないのですが、この石堂、屋根に鬼瓦のつもりなのか顔が彫られているのです。
これは初めて見ました。

その先に山門、┉楼門でありますが、そびえます。
が。その手前に参道を挟んで左右に、参道を見守るように向かい合って座るお地蔵さまが二体おります。

こちら、向かって左側におられるのが『疣地蔵』さま。
江戸時代から『心の疣』の疣を治す佛さまとして今なお里人の信仰厚く今日に至るのだといいます。
最近はがんの治癒祈願の方がお参りされているようです。

一方の、反対側におられるお地蔵さまは┉。

No.308

もう一体のお地蔵さまは『ひとこと』のお地蔵さま。
ひとこと。
そう一願一言と書いてひとことと、カナがふってあります。
『このお地蔵さんは唯一願(=ひとつねがい)』を一言でお願いすればどんな事でも必ず叶えて下さると伝えられる大変あらたかな地蔵さんです。
安楽ポックリの往生も叶えられると伝承されています。
約三百年前に造られた大変古いお地蔵さんです。
願い事を一言で。┉これ、私のように煩悩だらけの人間ですとけっこう難しいものです。

欲深なおばさんは願い事を一つにできず、ひとことさんの前でいつも手を合わせるだけ、なのでありました。

門はすぐそこです。
門を護られるのは持国天さまと増長天さまであります。
そうなんです。
鳳仙寺さんは仁王さまではないんです。ちなみにこの二天さまが立たれている囲いを金剛柵というのだそうです。
天井には立派な龍が描かれています。
この辺りでは見ることのない立派な楼門は宝永元(1704)年の建築となります。

せっかくの(?)楼門ですが、二階へと上がっていく階段はさすがに閉ざされています。
┉この門の御開帳とかあるのでしょうか?

No.309

鳳仙寺さんは何度目の参拝となるのか、┉かなりの回数お邪魔させていただいて、今回初めてふと、この楼門の上にはどなたがおられるのかと気になりました。

そもそも、門をお守りになられておられるのは持国天さまと増長天さまの二天さまのみ。四つの金剛柵、門の裏側は像ではなくて木の板に描かれた金剛力士さまが祀られています。
他の二天さまは一体どちらにおわすのでしょう。(これはずっと気になっていましたが┉)

答えを探すべく開いた鳳仙寺さんのホームページに、しっかりと書かれておりました。



『┉二階内部には、広目・多聞天。弥勒観音。吉祥天。釈迦牟尼如来像。阿難陀。大迦葉。十六羅漢等が安置されていたが、明治維新期の廃仏毀 釈の難を逃れるために、本堂内(一部は天井裏)に避難され、現在は十六羅漢等一部が本堂に、他は山門二階に遷座されている。
十六羅漢像は慶友尊者を含めた十七躰であり、これら諸像は、延亨四(1747)年、町屋(現天神町)の長沢三郎兵衛が寄進し、その後明治二十六年、板鼻の仏師法橋祐慶が修理している。
この時、釈迦牟尼如来、阿難陀、大迦葉、弥勒観音、吉祥天、持国、増長、広目、多聞の諸像も修理された。禅宗様釈迦三尊は大変珍しい。
各尊像は彫刻としても細部の表情にいたるまで、見事な写実で、確かな木仏師・彩 色師によって造像彩色されたものと考えられる。

明治二十一年に楼門を茅葺き屋根から瓦屋根に改築致しました。』


おおっ!
なんとこの楼門の上に広目天さまと多聞天さまがおられるのですか。
┉長い間の謎が一瞬にして解けました。しかも多聞天さま=毘沙門天さまのお妃であられる吉祥天さまもおられる!
お釈迦さまはこちらにもお祀りされておられましたか。(こちらの御本尊さまであられます)お弟子さまの
阿難陀さま、大迦葉さまも。
弥勒観音菩薩さまもおられるようです。

なんとありがたい門を、今の今まで上に御仏がおられることすら気づかずに通させていただいていたのでしょう。
あまりに歴史を感じる門であるためついついくぐる部分に気を取られ、今回の参拝で、初めて(!)楼門であることに気づいたのです。
┉ああ、夫の名誉のため書いておきますが、あくまでもそんな迂闊な奴は私ただ一人であります。
間違いなく珍道中トップクラスの〝ありえないこと〟でありましょう。
やれやれ。

No.310

山門を抜けると池があり、大きな岩があり、大きな大きなかやの木があります。
ですがまずは山門のひだりてにあります、鐘楼を見上げます。
こちらの梵鐘は上がることすら出来ぬようになっておりますので撞くことはできないのですが、見上げるだけで心が癒されます。

こちら、鳳仙寺さんの梵鐘は桐生市内で最古の梵鐘となります。
鳳仙寺梵鐘は、寛永十八(1641)年鋳造で、総高117センチメートルあります。桐生市の重要文化財指定を平成元年に受けております。

かつて桐生市内の寺社には27口の梵鐘が存在したのだといいます。が、幕末の海浜防備による【毀鐘鋳砲令】と、太平洋戦争時の【金属類特別回収令】によって全国的に梵鐘の類が供出され鋳潰されたという哀しい歴史があり、桐生市のお寺もそうした供出を幕府や政府から命令され供出しております。

これによって桐生市内の梵鐘は壊滅状態となったのでありましたが、鳳仙寺梵鐘は、そのつど「名器である」「歴史的に価値がある」と評価されて供出をまぬがれたといいます。
なお、桐生市でこの供出の難をのがれた梵鐘は、鳳仙寺梵鐘の他に、時鐘用として機能していた『円満寺』さんの梵鐘があります。

さらに鳳仙寺梵鐘は、鋳造年のうえから群馬県内でも3番目に古い梵鐘だといいます。

が。
現在その梵鐘は本堂内に安置され、もう二度とその音色を聞くことはできません。
現在の鐘は平成の世に造られたもので、機械が自動的に時間で撞く、現代の鐘、であります。

市の重要文化財指定を受けなければ、その音色を今も聴くことができていたのでしょうか┉。


ちなみに鐘楼も古い物と思われるのですが資料が見つかりませんでした。

No.311

そして。

あちこち見ては立ち止まるおばさんがようやく御本堂の方へと目を向けますと、真っ先に目に入ってくるのは、大きな岩とそのそばにあります池と、池の中におられる観音さま、そして大きな大きなかやの木であります。


その池の中にあります岩の上に小さな舟があり、その舟の中に観音様が座っておられます。
なんともお美しい、そして穏やかなお優しいお顔の観音さまでございます。
一葉観音、と申されるそうです。

曹洞宗の開祖【道元禅師】さまが、中国へ渡海した時に嵐に会い、道元さまが観音教を唱えると一葉に乗った観音様が現れ、海が穏やかになったという話に基づいているといわれます。
この一葉観音さまを初めて拝した時の感動といったら!
もうほかも見ずに、ただただこの池のほとりにずっと佇んでおりました。

家に帰って、┉この感動を絵に残すことはできないかと、懸命に鉛筆を走らせてみましたが。
┉絵の才能も無いことをすっかり忘れておりました。

今、さまざまな画法、さまざまなタッチで御仏の姿をお描きになる方がおられ、いつか私も!と思っていたのではありますが、これほどに画才がないとは┉。

実は息子や娘が鉛筆画を描くことがあり、それがいかにも繊細で、うまくぼかしたり陰影などつけたりしてある、私から見るとなかなかの絵でありまして。

幼少期、決して絵の上手い子たちではなかったので、これはもしや私にも?などとひそかに思っていたのですが、┉そんな甘い物では決して、ええ決して!ありませんでした。

とにかくバタくさい、にへら〜っとほくそ笑む顔をした、観音さまのコスプレをした人を描いたかのような絵でありました。
愕然とし、そのスケッチブックをほとんど家人が触れることのない本と本の間に隠しこんだものです。

とはいえ。
いまだに仏画への夢は潰えてはいませんが、とりあえずは鉛筆を動かしすという初歩から始める必要があります。


あ、また、いつもの脱線であります。


脱線ついでに。
庭のムラサキシキブが、その実を少しずつ紫色に変え出しました。
ネズミの額ほどのわが家の庭にも秋が訪れ出していました。


(ムラサキシキブ)

No.312

その池のすぐそばに、石幢(せきどう)と呼ばれる、さほど高さのあるものではない石塔があります。

石幢は、多仏塔とも言われ、なんでも「本堂の本尊前に飾られる幢旙(どうばん)の形を石造物にしたもの」とされるとのことで、全国的に造立数は少ないようです。

形態には単制と重制とがあるということで、鳳仙寺の石幢は『重制石幢』と呼ばれるもののようです。
重制石幢はちょうど燈籠の火袋部分にあたる『龕部(がんぶ)』と呼ばれる部分に、御仏の小さな像を六~八体浮き彫りとしたものとなります。
ちなみに桐生市内の石幢は、ほとんど地蔵菩薩が刻まれています。

こちらのお地蔵さま、なぜか朱が塗られております。
いつかご住職さまにその朱色の謎をお聞きできたらいいなぁ。
そんな機会があれば、という意味と、私が忘れていなければ、という、二つの条件下となりますが┉。

そして。
本堂の前で枝を大きく広げてそびえ立つ大樹。桐生市の保存樹に指定されているカヤ(榧)の木であります。

開山お手植えの樹と伝えられており、樹齢は、『保存樹指定』を受けた段階(昭和五十二年)で四百三十余年と推定されている『古木』であります。
高さは29・5メートル、幹の周囲は3・72メートルといわれます。

かつてはこのカヤの実をお駕篭に乗せて、はるばる江戸幕府にまで献上したと伝えられます。

それにしても、お駕篭にまで乗せて運ぶカヤの実って、┉一体どんなことに使われるものなのでしょう?
その昔、カヤの実は脂質が豊富で滋養のある栄養源であったといわれています。
実を精製して作る油は、食用油としても灯火用としても利用されていたといいます。

ほほぉ。

まぁ、お駕篭に乗せたのはあくまでも献上品であったから、なのでしょうが、これまた初めて知りました。
とはいえ、こういったカヤの木に実る実を見る機会はあったとしても、カヤの実を売っている光景は今までもなかったですし、おそらくはこれからもないこと、┉なのではないかなぁ。


このカヤの木。
大きな木でありながら、決してそれを主張せず、境内に溶け込み、御本堂をそっと見守る、そんな印象をさえ受ける木であります。

No.313

さて御本堂へ、と石段を登ろうとすると必ず目につく大きな石、┉これはもう岩と称されるのでしょうか┉『献霊水の庭石』といわれる石があります。

鳳仙寺14世の代、宝暦四年頃、長沢是水翁なる人物が、百両余りの大金を投じて、低い沢より曳き上げ施主名を刻して献納したもの、なのだそうです。
ちなみに当時の百両は、石工職人の手間賃換算で六年六カ月分に相当するといいます。(施主名、┉ですか、今度参拝させていただきました折に拝見してみましょう)

ところで。
同時期、同村の長沢市太郎左衛門なる人物が常法幡金として、金百両を寄進したのだそうで、世の人は、その信仰心を誉め称えたといいます。
それはそうですよね、石工の手間賃六年半分、ですものねぇ。
そしてその、市太郎左衛門さん、是水翁に対し「同じ大金投じて石組1つ、何の益になる」と、失笑を浴びせたのだそうです。
是水翁これに答えて曰く、
「その百両、使い果たしてしまう事も有り得るが、この大石には施主名が彫り付けてあり、後の世になっても、ただ捨てる筈もない。また捨てるにも10人や20人では動かすことも出来ない。思うに何れを是とし何れを非とするか」。

 以上は、広きこの世に名を残す種として、江戸時代の書物『齢松佳琴集』に大きく是水翁の名を残している。

ちなみに長沢是水翁、享保18年(1733)生。39才の安永元年、父の後をうけ、名主兼代官となったといい、任期中の徳望は厚くその逸話は多いといいます。
国学を学び、書家としても筆法の奥義を極めた能書家であったといわれます。
筆道練達祈願の為、宮内天満宮を自力で造営しており、現在の桐生天満宮境内社機神本殿がこれであるといいます。



┉たしかに。
令和の世を迎えても、巨石は今なお残っております。
ただねぇ。
お二方とも余分な一言をおっしゃらなければいいのに、┉ねぇ。
えっ?
もしやそういう〝事〟を世の人に伝えるためのあえての会話?

まぁ、たぶんそのような奥深いことはない、そのまま、思ったままを言い合った〝会話〟だったのでしょうね。
大丈夫。
そんな両者の煩悩も今は御仏のお力で浄化され、鳳仙寺さんの今を支えてくれています。

No.314

鳳仙寺さんの御本堂が落慶したのが天正二(1574)年。以来、一度も火災や風水害に逢うこともなく現在を迎えました。

建築以来、〝星霜すでに四世紀半〟。
なんとも長い年月であります。
その間、何度かの補修がなされています。
江戸時代中期の新田義貞公四百回忌に屋根替え、明治三十四年に屋根替え、昭和二十九年、そして近年では昭和六十一から六十三年にかけて改修がなされています。
しかしながら落慶当時の形態をそこここに残し、室町期から江戸期の寺院建築様式を遺憾なく現代に伝えている建築物であるといいます。

本堂の広さは百坪(330平方メートル)あるといい、なるほど大変広いものであります。

八室構成となっている大規模な方丈形式本堂であり、かつ曹洞宗本堂の伝統的な形式をよく伝える建物なのだといいます。

それにしても内陣・須弥壇の荘厳なこと。内部に太い柱、梁が巡らされ、どっしりとした中にも厳かさを感じる御本堂であります。

そして。
見上げますとそれは見事な天井画が。本堂の内陣、大間、はもちろん、御本堂入ってすぐの廊下の格天井にも圃かれております。
内陣には龍が両かれ、また十二支などの花鳥獣が圃かれております。
大間には四十二面すべてに花鳥獣が両かれているといいます。
が。
天蓋、縁幡が吊るされていて見えにくい部分が多いのがなんとももったいないと申しますか、残念で┉。
廊下の格天井は七福神をはじめ人物が十八面、花鳥獣が九十八面圃かれているといいます。こちらも左隅に駕寵が、中央に額が飾られていて、見えにくい部分もありはいたしますが、なにぶんにも広い御本堂の広い天井のそこかしこに描かれた絵ですので、もはや見きれないのが先に立ちます。
天井画の修復は素人が考えても難しいのでしょう、惜しいかなかすれてしまったものもいくつもありました。

古い御本堂ではありますが、大変良く清められ、廊下など艶やかな光沢をすら感じられます。


こちらも近年高齢化時代に備え車椅子のスロープを設けられました。

No.315

御本堂に一歩足を踏み入れた時から、その長い歴史、重厚さ、荘厳な感じを肌で感じます。
とはいえ、それは決して圧倒されるものではありません。
┉優しく、まるで訪れた人全てを歓待してくださっているような気すらを感じるのであります。
あたたかな、穏やかな、┉。

入ってすぐの土間の部分ですらそう感じるお寺さんであります。

歴史の重みを感じさせる大きなお賽銭箱、┉それ一つとっても、こちらのお寺さんの風格を感じます。
すでに庫裏におことわりしてありますので、御本堂に上がらせていただきます。
すでに述べました磨きあげられた廊下を歩きます。思わず天井画を見上げてしまいますが、まずは参拝です。
大きな扁額が掲げられ、とても建物内部の扉とは思えないような重厚にしてそれでいて細やかな細工のある扉に区切られた中へと入らせていただきます。
外陣にはズラリと十六羅漢さんが並んでいます。一体一体が大きく、そしてよく見かけるようなポーズではなく、まさにお釈迦さまの説法を聞こうとするかのように椅子に座られておられる像であります。
一体一体頭の後ろに輪光があります。よく、┉お地蔵さまの像などで見られる丸い輪っか、┉と言ったらわかりやすいでしょうか、なんとも不敬な表現となりますが。
幢幡は四つ。一つ一つが大きなものですが、御本堂が広いのでその大きさすら感じさせません。
ひときわ大きく立派な天蓋はその細工の細かさに圧倒されます。

そしてこちらの天井画もやはりいくつかは薄れて見えづらくなってしまっておりますが、廊下のものとはまた違った細やかなタッチで花鳥が描かれています。

あれこれを置くことなく、極めてシンプルに、あくまでもお勤めに必要なものだけを、使いやすい、おそらくは宗派の決まり通りに配置された内陣であります。
華美なものは一切ない、それだからこそこちらの寺格、その重みを感じさせる須弥壇の前であります。

┉とは書いてはおりますが、そのような聖域にはさすがに近寄ったりは致しませんので、どうかご安心ください。

ここへ足を踏み入れる時はあくまでお寺の方のご同伴があって、なおかつあちらから「どうぞ」と言われた時のみの場所であると、弁えております。

私は今までの人生で御仏に礼を尽くさずまいりましたので、失礼だけはあってはなりません。(知らずにしでかしていたりして┉)

No.316

鳳仙寺の御本尊さまは、【釈迦牟尼如来】さまです。
白象に座す【普賢菩薩】さまと、獅子に座す【文殊菩薩】さまとを脇侍とする【釈迦三尊仏】です。

主尊の釈迦如来さま、実はシュッと引き締まったお顔立ちのかなりのイケメンなのであります。(相変わらず不敬なおばさんです)。

失礼に当たるかと思い、写真を撮らせていただいたことはないのですが、もしお撮りしてよければどんなにか嬉しいことか┉。

そんなイケメンで現代風なご本尊さまであらせられますが、実は鳳仙寺開創当時から本堂に安置されている古仏。すでに四百五十年近い永い歳月をここに座して過ごされておられるのです。

さてその須弥壇の向かって左側には達磨禅師さまの像と広目天さまの御像が並んでおられます。
広目天さまがここにおられる、┉とはいえこちらの広目天さまの尊像はあの山門、楼門の表を護られておられる二天の尊像とは大きさが異なります。?何故こちらには広目天さまだけがお祀りされている?

推察するに。

実はこちら、御本堂の廊下にお厨子に入ってお祀りされている毘沙門天(=多聞天)さまがおられるのです。
こちら鳳仙寺さんは『毘沙門天』さまの寺とも言われ、桐生市の七福神巡りの一寺となっているのです。

楼門をお護りなさる二天さまと多聞天さま。参拝者の目に触れる四天の、残る一天の広目天さまがおられないのは片手落ちとお考えになったのでは?

まぁこれはあくまでも、このおばさんの一考察に過ぎないので、どうかお聞き流しください。

そして向かって右側。
┉!!
おられました!

『大権菩薩』さま!!


そうだ、そうそう、こちらで拝見したんだった!

なるほどたしかに。
鳳仙寺さん、曹洞宗のお寺さんでございます。
こちらで拝見していたんだ!
あの、遠くをご覧になられるように額に手を当てておられる像!

┉こんなにも早くに、答えをいただくことができました。




No.317

鳳仙寺さんの御本堂、寺宝とされるものを、惜しげもなく、それこそケースに入れる等もせず一段高くなった床の間のようなところに展示しておられます。

【新田義貞】公の鎌倉攻めの戦利品であるとされる【地蔵菩薩仏頭】、であります。
初めて拝した時、私はいろいろな意味で軽くパニックでありました。

えっ?何、何?
お地蔵さまの首だけってどういうこと?
まさか鎌倉攻めで勝利して御仏の首を落として持ってきたわけではないのでしょうね。
そもそも何故、新田義貞公が鎌倉攻めの勝利の記念に持ち帰ったとされる仏頭が桐生市の山の中にある(、┉鳳仙寺さんごめんなさい)お寺さんに奉納されているの?

専任ガイドであります夫に、矢継ぎ早に質問したことを今もはっきりと覚えています。

おそらくは、と前置きしながら、 
鎌倉攻めの戦利品の仏頭がこちらにあるのは、開基・由良成繁公が新田氏の子孫であったということに由来しているのではないか、ということでありました。
そして仏頭というのはこの辺りでは見かけることはないけれど、当初から御仏の頭だけを造る、といったものもあるということで、おそらくこのお地蔵さまは切り落として持ってきたということではないだろうとのこと。
思わずホッとしたことを忘れられません。


仏頭は、鎌倉時代(1192-1333)の作と推定されているとのこと。
まぁ、新田義貞公が生品神社で旗揚げをして攻めのぼり、鎌倉を落としたのは元弘3(1333)年のことでしたから、その時存在していた仏頭であれば、当然、最低でも鎌倉時代の作ということになりましょう。

仏頭には、まだ金箔が残っていて、往時の荘厳さを現代に伝えています。   
ご本尊から向かって右側の奥まった部屋に安置されています。

その隣に御仏の立像が安置され、その隣にまた、寺宝とされる初代開基の箱笈が展示されています。



お寺の方が伴われているわけでもなく、何処の馬の骨ともわからぬ輩に御本堂を開放されて、惜しげもなく寺宝を剥き出しで展示している┉。
ありがたいと思う反面、セキュリティ面は大丈夫なのかとちょっと心配になる私なのでありました。

No.318

寺宝とされるものはまだまだ他にも。
廊下の天井に吊るし置かれた二つの御駕篭、┉こちらはかなり重厚な造りであります。
そして廊下の壁にかざられた額には【御朱印状】が。これはさすがにコピーしたものなのでしょう、セロテープが貼られた跡がいくつもありましたし。


┉まぁ御駕篭を持ち出そうとするにはかなりの労力と時間がかかりましょう。

昨年、どこかのお寺さんでお寺に人がいる間にもかかわらず御仏像が盗まれた事件の記憶が、私の中ではまだ生々しく残っており、それはかなりの衝撃でありましたので、ついついそんな老婆心が(猜疑心?)止まらないおばさんとなっております。

でも寺宝、寺宝と掲げながら、檀家さんとても見たことがないというお寺さんもあるのがむしろ一般的な中、鳳仙寺さんのように、寺を訪れた方全てが見られるようにとしてくださっておられる姿勢には、本当にありがたくて頭が下がるものであるのです。

どんな宗教もうたっております。
『盗みはいけない』
そう、ほんの一握りのそうした心を持つ者がいけないのです。間違っているのです。
本来、そんな疑いの心を持ってセキュリティの設備を導入したくはない、┉というか考えもしないのが、こうした人へ尊い教えを伝える方たちでありましょう。




No.319

さて、再び境内へ。
他にも御堂はありますが、今回は割愛いたしましょう。

そしてこちらには由良成重公のお墓がございますが、御本堂の脇を通って、少し小高いところにあるようで、┉ええ、実は私、何度となくこちら鳳仙寺さんに参拝させていただきながら、いまだに成重公のお墓参りをさせていただいたことがありません。
なんかお墓となりますとなりますと、身内でもない一おばさんが参拝してお気を悪くされないかとか思ってしまうものでして┉。
まぁ、つまるところビビり、というやつであります。
なんとなく、ですね、怖いというか┉。
もうとうの昔に転生されておられますでしょうけれど、ね。
ビビりはそこんとこ、ダメなんです。
お寺さんにお墓はあまりにも一般的、なんですけれどねぇ。


さて話を変えて。

山門のすぐ横に白壁の建物が目につきます。
その扉が開いていたことは私が参拝させていただいた折には一度もありませんでしたが、こちらは『経堂』であるとのことです。
白壁で塗られた建物は鞘堂で、その中に経堂がすっぽり納められているようで、なんでも中心の柱を軸に八面 の経架が設置されていて、手押しで自在に回転させることができる構造になっているといいます。

八面の経架のうち、中央には『双林大士』を安置し、残りの七面に延宝七(1679)年版行の鉄眼版一切経六千九百五十六巻が蔵されているといいます。
今日でも軸柱と差肘木との仕口に弛緩が見られず、スムーズに回転させることができるというこの輪蔵の製作年代は言い伝えによれば天明三(1783)年とされています。

ちなみに。
『一切経』とは漢訳された仏典の集大成のことで、経(仏の説法)、律(教徒の生活規律)、論(教義についての学者たちの記述)の三部門から成っています。

実は一切経、江戸初期に天海大僧正が、幕府の命により天海版を印刻しましたが、木活字を使ったため、ほとんど普及しなかったといわれます。
それを『鉄眼和尚』さまが勘案し、 求めに応じて自由に印刷ができる、 固定木版を用いた利用価値の高い【鉄眼版一切経】を版行しました。
この版木は、現在、国の重要文化財となって、『万福寺宝蔵院収蔵庫』に大切に保管されています。
しかも、この版木での一切経が現在も敬虔に刷られていて、国内外に刊行されているといいます。
┉すごいなぁ。すごくないですか。
はあぁぁ。


No.320

鉄眼和尚さまは数々の困難を乗り越えて彫った木版は何と六万枚・・10数年の年月をかけてついに完成したといいます。

木版を彫るにあたって、鉄眼さまは、一枚の木版に入れる文字数を、タテ二十字でヨコ二十行、つまり一枚の版木に四百字を入れることに決めたのです。

そう。なんと!ここに原稿用紙一枚四百字のルーツがあるのです。

ちなみに鉄眼さまが完成させた大蔵経は、七千三百三十四巻にもなったといいます。

その我が国の文化に大きな影響を及ぼした『鉄眼版一切経』が鳳仙寺輪蔵内には在る、といいます。


私には経堂がいつ開かれるのはわかりませんし、その経堂が一般の参拝者に開放される日があるのかどうかもわかりませんが、それでもたくさんのお経が収められているという経堂遠見上げては、手を合わせ拝んでいる┉おばさんなのでありました。

No.321

かつて、ご先祖さまが開基開山されたお寺を、あの明治の悪令により廃寺の道を選ばれたという、ご一族の血筋の方にお会いし、今も守られておられるお寺の寺宝をお見せいただくという、またとない機会を得ることができました。

それは、いつものように偶然たどり着いた御堂をお参りさせていただいたことから始まりました。

こちらの御堂はあくまでも個人的に所有される御堂ではあるのですが、大変きれいにお祀りされていて、御堂のある境内から周囲の道路に至るまで、いつ参拝させていただいても、塵はおろか、木の葉一つ落ちておらず、雑草一本生えていないというよくお守りになられている御堂であります。
そもそも御堂も建て直された新しいものであります。

元あったお寺さんは大変広い敷地にあり、境内に神社さんもあり、ちなみにその神社さんは今なお存続し土地を護られている、氏神さまであります。(神職の方はそちらにお住まいではないようです)

かの明治の悪令により、当時のご住職は大変なご苦労をなされたようです。
とはいえ、こちらのお寺さんは寺子屋など地域に根づいた、地域の人々に大切に大切に思われていたお寺さんであったが故に、結果としては廃寺される形となりましたが、御堂や御堂のあった土地までは取り上げられることなきよう、地域の方々が共に働きかけてくださったようです。

今なお、毎日お堂に手を合わせに訪れる方が何人もおられ、お祀りされている御仏のお縁日ともなると遠くから訪れる方があとを絶たないようです。

このお堂を存続されておられます子孫の方も、その御仏を大切に守り、ご先祖さまを大変尊敬しておられ、お堂を建て直したり、御仏像の傷みを修復されるため名古屋の方にまで修復を依頼されたようです。

あくまでも個人の所有されるものですので、浄財等もなく、公的な支援もなく。個人的にご負担され、後の世に残そうとされてのことであります。
なんと尊いことでありましょう。

ただただひそやかに、ご先祖の守ってこられた教えをご自分たちだけはと守られ、お寺であった頃の御仏像や御厨子などを淡々と守られておられるお姿に、心洗われ、身が引き締まる思いがいたしました。


本当に良い経験をさせていただきました。
何よりもこの良き方々に出会えましたことに感謝しかありません。



No.322

かの明治政府の悪令と、よく私は口にしておりましたが。

┉実は明治政府としてはあくまでも神社の神事に僧が関わることを正そうとしたものだったようです。

長い年月をかけ神道は徐々に仏教と習合し、長らく神仏習合の時代が続いておりましたが、近世となり、儒学や国学が盛んとなり、神道から仏教色を排除する運動が起きていたものでありました。
長い徳川政権が終わり、天皇が再び脚光を浴びる明治時代となり、天皇家の祖である神々、神道を国教しようとした動きの一環であったようです。

明治政府が出した法令としては、決してジェノサイドを指向したような内容ではなかったようだったのですが、結果としてあのような仏教からの乖離につながり、また破壊的な破棄へとつながっていってしまったというのが真相なようです。

神社とても白木の鳥居のみが許され、色等塗られている鳥居は白木のものに差し替えるよう言われております。

何よりも当初明治政府の出した神仏判然令は、

・神社にある仏像は、村役人立ち合いの上、故障のないように寺院へ渡すこと。
でありました。
また、
・神社の狛犬はそのままでよいが、唐獅子はすぐに取り除くこと。
等、あれほどの破壊を命じるものでは無かったはずだったのです。

そして結局のところ政府が目指したところの自国的国教政策は放棄されています。

何故に神仏分離が一斉に廃仏毀釈に至ってしまったのか。
それは江戸時代において、仏教国教化権益、身分特権に安住した僧侶への反感、儒教や国学により廃仏思想が高まっていたことなどがあり、
さらには地方官が寺院財産の収公を狙ったことなども一因したようでありました。

開国、そして長く続いた徳川幕府の時代、武士というものの時代の終息。
押さえつけられていた者、生活が不安定となった者。
世の中も国も不安定であったことも、何かを破壊することによって不安を払拭したり、あるいは不満を爆発させたりという行為となり、その矛先がお寺、仏具や仏像へと向けられてしまったのでしょうか。




破壊されたものは元へは戻らない。

破壊に要した何十倍、何百倍もの労力を要し時間を要してようやく再建に至る。

時代は教えてくれているというのに、今なお世界でそうした動きは続き止まらない。

自然による破壊もあるという時代において、どうして愚かな行為は止まらないのか。


No.323

そもそも江戸時代からすでに廃仏思想は始まっていました。

それは実に徳川幕府の成立の頃に、すでにその元となる基盤作られていたのです。

徳川幕府が、宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教でありました。
それは幕府成立初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたことに起因し、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の民を檀那寺へ所属させます。

が、これにより百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なくなりました。
それはあくまでも切支丹禁制の目的の下に成立したものでありましたが、結果として檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人々の上に臨むことになったのです。

さらにこれにより、葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、寺は檀家からの寄進のほか、葬式による収入も殖え、経済的な地位は急速に高まるのであります。
僧侶の身分を優遇するのは、幕府の政策の一つなので、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、庶民の上に立つことになっていきます。

しかし、このことが江戸時代における僧侶の堕落をもたらすのでありました。

堕落であるかはとにかく天海上人は僧でありながら、と同時に政治家、為政者でありましたでしょう。
┉巷には僧侶志願者が溢れました。

そんな僧侶の堕落ぶりに、まず儒家により、更に国学者により、酷評を下します。

『仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。今の僧は盗賊なりと言えり。』
『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごりは甚だし。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』
等々、その浪費振りと搾取のさまを指弾しています。


政治家で真先に排仏論を唱えたのは、あの【水戸光圀】公(1628-1701)であったといい、亡くなられるときには僧を遠ざけ、儒法を以て葬ることを命じられたといいます。
領内を調査して、いかがわしい淫祠寺院を破却し、破戒の僧尼をビシバシ還俗させたといいます。


江戸時代、そうした長い年月をもって、お寺や僧侶への反感は募り積もっていたのです。


No.324

世人の多くが、仏教界の腐敗に愛想をつかしていたところへ、【大政奉還】という形で、徳川の世が終わりを告げます。
そこへ薩長が天皇の名をもって『王政復古の大号令』で王政復古を宣言するのです。

明治維新の動乱の中、
「神道の力をもって、王室を復古し、もって神道を隆盛ならしめねばならぬ。神道を盛んにするには、まず第一に、廃仏毀釈の必要がある」とかかげた薩長新政権が打ち出した思想政策によって、直接的には仏教施設への無差別な、また無分別な攻撃、破壊活動へとつながっていくのでありました。

これにより日本全国で奈良朝以来の貴重な仏像・仏具・寺院のおびただしい数破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗を強制されることとなるのです。

これは実に千年以上の永きにわたって創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動でありました。
文化財の破壊という点のみでいえば、イスラム原理主義者による文化財の破壊より規模は遥かに大きかったのはいうまでもありません。


本来、私ども大和民族は、それまで千年以上の永きに亘って「神仏習合」というかたちで穏やかな宗教秩序を維持してきたのです。
平たくいえば、神社には仏様も祀っり、わけ隔てなく敬ってきたのであります。

それが、全国規模でのあの破壊活動となってしまった┉。

人の怨みを買うというのはまことに恐ろしいことであることがよぉ〜く分かります。


中でも奈良【興福寺】や内山永久寺の惨状は、筆舌(ひつぜつ)に尽くし難いものだといいます。

興福寺だけで実に二千体以上の仏像が、破壊されたり、焼かれたりしたことが分かっているといいます。
僧侶は、ほとんど全員が神官に、文字通り“衣替え”したり、還俗することを強制されました。

経典は、町方で包装紙として使われるというゴミ同然の扱いを受けます。
五重塔にいたっては二十五円(一説には十円)で売りに出されたといいます。薪にするためにと売りに出されたのです。
多くの宝物は、混乱に乗じた略奪等によって散逸し、二束三文で町方に出回ったといいます。


興福寺と共に我が国四大寺の一つという格式を誇った内山永久寺に至っては、徹底的に破壊され尽くし、今やその痕跡さえ見られないといいます。
姿を残していないのです。
この世から抹殺されてしまったのです。

あぁぁぁ、なんと愚かしいことを。

No.325

┉この後、九百字ほど、考察しまとめていたのですが、己がミスで一瞬にして消えてしまうという、〝いつでもなんでも珍道中〟をしでかしておりました。

ぼう然自失ってこんな時に使えばいいんだっけ?
などと自問自答しつつ、どうしてもすぐにもう一度取り組む気になれず。

┉少し前には「くっそぉ」などとお里の知れる言葉を吐きながらもすぐに打ち出していたものですが、これも老というものでしょうか。
はあぁぁというため息一つついて、立ち直れずおりました。


一晩寝て、どうしたいかあらためて考えてみました。

考察・まとめがダメだったのなら、さらに掘り下げてしまえ。

〝老兵は死なず〟
ただ消え去るようなおばさんではなかった。

ということで、まだこの『廃仏毀釈』をもう少しだけ掘り下げていこうと思います。 (やれやれ┉)

No.326

奈良における廃仏毀釈の波は、東大寺や法隆寺、薬師寺、西大寺、唐招提寺などに及んでいます。
その中でとくに激烈を極めたのが興福寺であったということであります。


┉この、『ザ・修学旅行!』的なお寺さんに、私も修学旅行で行っております。┉というか修学旅行以来行けずにいるのでありますが。
だから、そんな黒歴史はとりあえず封印された、まずは歴史として学ぶべきということで、建立についてであるとか、寺宝であるとか、その素晴らしさのみを学ぶだけで天平の甍を後にしていました。

その時「いつか思う存分ゆっくりと時間をかけて拝観に来るぞぉ!」と思ったことを思い出しました。
今の珍道中の素地はすでにその頃からあったのですねぇ。



興福寺さんは殊に多くの貴重な仏像が焼かれ、そして国内外に流出したたされます。

興福寺さんは現在でも境内面積2万5000坪を有する巨大寺院であります。広くて修学旅行などでは到底見切らない、それこそが何回にも分けて拝観するような寺院であったと記憶しております。(それしか記憶にないかどうかは、┉伏せます。笑。)

しかしながら、宝暦年間(1760年ごろ)に描かれた「興福寺春日社境内絵図」を見れば、その境内規模は現在の数倍はあったと推定できるといいます。
現在の奈良国立博物館、奈良県庁、奈良地方裁判所、奈良ホテルまでことごとく興福寺があった場所に建てられているというのですから、その広さたるや!

戦国時代から江戸時代にかけて、興福寺・春日大社合一の知行地(支配権が及んだ土地)は2万1000余石と定められていたといい、当時の興福寺は大乗院・一乗院を筆頭に、末寺計107寺を抱えていたといいます。

そして興福寺は、歴史的に春日大社と縁が深かったとあります。
平安時代に本地垂迹説に基づき、興福寺は春日大社を支配下に収めています。
鎌倉時代に入れば、大和国の守護の任に当たるなど興福寺の権限は強大なものになっていったといいます。


ところが。
慶応四(1868)年四月、大和国鎮撫総督府より、春日大社における『権現』などの神号の廃止命令が下ったといいます。
えっ?慶応、┉ですか?
それってまだ徳川時代、ですよね。

えぇっ!?
慶応三年の十一月に大政奉還されていますが、すぐにすぐ明治の元号になってるってわけじゃあなかったってこと?


No.327

┉まぁ、この辺はすみません、本当無知なもので。

字義通りには1868年は慶応四年にして明治元年であり、明治と改元されたのは九月八日のことのようです。
おや、タイムリーにも明日じゃないですか。


つまりはもう徳川的には大政奉還しておりますが、まだ明治時代というわけではなかった、┉あと少しで明治という元号になる、という〝時〟のこと、というわけですね。

まぁ、そんな頃からもうすでにそういった動きがあったということで。




No.328

話を少し戻します。

前述した通り、慶応四(1868)年四月に大和国鎮撫総督府より『神号の廃止命令』、┉たとえば『権現』などという、まさに神仏習合しているものの廃止令が下ります。かの【神仏分離令】であります。

この神仏分離令が出されるや否やの四月一日、奈良からもほど近い滋賀の『日吉大社』で神官たちによる廃仏毀釈が勃発したといいます。

えっ?日吉大社って、┉神社さんでしょ?


日吉大社は全国に3800社以上の「日吉」「日枝」「山王」と名のつく神社の総本宮。たとえば、首相官邸や国会からも近い赤坂・日枝神社も、日吉大社の分霊社にあたります。

【日吉大社】は平安京の表鬼門(北東)に位置することから、災難除けの神様として古くから崇拝されてきました。
ところが。
伝教大師最澄によって比叡山延暦寺が開かれてからは、その勢力下に置かれることになったのだといいます。日吉大社は延暦寺の守護神として、位置付けられたのです。

これにより仏を神が守るという上下関係ができあがり、日吉大社は延暦寺に支配されていったのだといいます。
そして、僧侶と神官の間にもそうした上下関係が生まれ、神官は神事に携わることすら許されず、掃除等の雑務にあたるなど、神官は永きにわたって虐げられていたというのです。

神仏分離令が出されるや、四十数人規模の武装した神官たちが、「神威隊」を名乗って、日吉大社に乱入したといいます。

『神威隊』を率いたのは、日吉大社社司で新政府の『神祇事務局事務係』の任についた者であったといい、延暦寺の三執行代(延暦寺を構成する東塔・西塔・横川の3エリアの代表者)にたいして、日吉大社神殿の鍵の引き渡しを要求したといいます。

執行代は、
「神仏分離の布告はまだ、天台座主より下達されていない。鍵の引き渡しは座主の許可がいる」
として要求を頑として拒否します。僧侶と神官の間でしばしの間、押し問答が続いたといいます。

埒があかないとみた神威隊は、本殿になだれ込み、祀られていた仏像や経典、仏具などに火を放ったのです。


┉比叡山延暦寺は実にニ度目の焼き討ちに遭っていたのです。
延暦寺は全国で最初に廃仏毀釈が行われた仏教施設なのであります。

No.329

日吉大社の『神威隊』により火を放たれた仏像や経典、仏具などはその数実に百二十四点、鰐口や具足、華籠などの金属類四十八点は持ち去られたといいます。
焼き払われた仏像は本地仏のほかに阿弥陀如来、不動明王、弁財天、誕生仏など。
経典の中には600巻になる大般若経や法華経、阿弥陀経などが含まれていたといいます。

これはあくまでも『日吉大社』に祀られていたもの、であります。故にこれだけの被害に留まっている、ともいえます。

また、この暴徒の中には社司から雇われた地元農人数十人が含まれていたとされています。
当時、坂本の地は延暦寺が支配しており、小作人たちは年貢の重荷を背負わされていました。江戸幕府の庇護のもと、長年にわたって既得権を得てきた延暦寺に対する地元民の反感は、神官同様に燻り続けていたと察することができます。

日吉大社の暴動は宗教クーデターの様相を呈し、瞬く間に全国に知れ渡ることになっていったといいます。そして、波状的に各地に広がり、全国で廃仏毀釈運動が展開されていったのだといいます。


実はこの日吉大社の暴動に強い衝撃を受けたのは他でもない、神仏分離政策を推し進めた当事者、明治新政府であったといいます。

長年、僧侶から虐げられてきた神官の逆襲に燃える気持ちは尋常ではありませんでした。それが大衆をも巻き込み、熱狂的な破壊活動まで発展したことは、新政府にとっては全くの想定外であったのです。

新政府は、日吉大社の暴動からわずか九日後、太政官布告として
「昔から神官と僧侶は仲が悪く、氷と炭のような関係なのは理解できる。しかし、神仏分離令が出されるや、神官が急に権威を得たような振る舞いをして、私憤を晴らすような動きがある。これは、新しい国造りの大きな妨げになる。今後、仏像や仏具を取り除く際には、その都度、お上にお伺いを立てよ。決して粗暴な振る舞いは許されない」
と、神職らによる仏教施設の破壊を戒めている。

この太政官布告からも、神仏分離政策が神官や市民の間で拡大解釈され、コントロール不能な状況になりつつあることが読み取れます。
 
新政府としては、王政復古、祭政一致を保つためには神と仏の分離は推し進めなければならない。しかし、分離政策はあくまでも粛々とおしすすめたかったのです。

No.330

廃仏毀釈によってより甚大なダメージを受けたとされる『興福寺』さんへと話を戻します。

あの、日吉大社の社僧が抵抗を示したように興福寺の僧侶も抗戦の構えを見せたかと言えばそうではありませんでした。
興福寺の見極めと対処は驚くほど素早かったそうで、早々に塔頭の大乗院・一乗院が、連名で鎮撫総督宛に「復飾(還俗)願い」を提出したといいます。当局に対し、簡単に言うと
「お上には逆らわないので、神職としての地位を保証してほしい」
と懇願したのだそうです。

この申し出に神祇局は、還俗を許可するとともに、興福寺の僧侶に対し『新宮司』の地位を与えたといいます。
春日大社に納められていた仏具類は、すべて興福寺が引き取るよう命じ、完全に神仏を分離させることができたのです。

興福寺からは百三十人ともいわれたすべての僧侶がいなくなり、広大な境内地と七堂伽藍だけが残されたのです。
事実上の廃寺です。


問題は興福寺のその後の処理であっりました。

僧であったものが、身分を捨てるのみならず、経や寺、御仏の像や仏具を捨て去ったのです。
そして自らは還俗し、ある者は宮司という地位をすら得ているのです。
究極の保身、であります。

多くの堂塔は破却処分となりました。

たとえばあの五重塔は二十五円とかいう金額で。
一円が今の金銭価値に換算すると二、三千円といわれます。買主の購入目的は薪にするという理由でありました。
しかしながらその解体費用から採算が合わずこの買主は撤退し、その後結局売却が出来なかったことから、今日、私どもはこの貴重な建築文化財でもある五重塔を目にすることができるという、まさに綱渡りのような状況でありました。

『金堂』は警察の屯所になったといいます。
冬場になると凍えるような堂内で警官たちは焚き火をして暖を取ったといい、薪がなくなれば、堂内に安置してあった天平時代の仏像を引きずり出し、あたかも薪割りのように仏像を割り裂いて火中にくべたというのです。
┉やめてぇぇぇ!

その中には貴重な千体仏も含まれていました。
後年になって焼却を免れた一部の千体仏が発見されますが、無残にも、暖炉にくべる薪の束のように数十体ずつにまとめて縛られていたといい、両手や足先、台座のないものが多かったといいます。

一部の千体仏は、民間に流出し、現在、国内のいくつかの美術館が所蔵しています。


No.331

明治四(1872)年には、興福寺の大方の境内地が明治政府のものとされます。翌五年には塔頭寺院を含め、大方の建築物は打ちこわしになります。

奈良県庁のある場所は興福寺の境内地だったといいます。
大乗院跡は奈良ホテルが建設され、また一乗院跡地には裁判所が建てられました。
現在の奈良公園も奈良国立博物館も元は興福寺の境内地でありました。

その後嘆願により、興福寺の再興の許可が下りるのが明治十四(1881)年のことであったといいます。


廃仏毀釈による興福寺の衰退は、意外なところにも影響を与えます。
興福寺周辺を住処にしていたシカが受難に遭っていたのです。

奈良公園には国の天然記念物のシカが1200頭近く多数生息するといます。
あれだけ市街地にありながら、野生のシカが人間社会と共存している事に、高校生だった私は大変びっくりしたものですが、やはりこれは極めて珍しい事例なのだといいます。
そんなシカと人間との共存の歴史は少なくとも8世紀に遡るといい『万葉集』にもシカの歌が詠まれています。

768年、この地に春日大社が創建されますが、その時、祭神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)がシカに乗ってやってきたと伝えられ、以来シカは神の使いであるとして手厚く保護されてきたのです。
奈良のシカが人に慣れ、安全に暮らせているのは、春日大社という大樹の陰によるものでありました。
そして春日大社もまた御多分に洩れず神仏習合の時期は長かったものです。

シカは興福寺の広大な境内に野生し、興福寺もシカを手厚く保護したておりました。興福寺や春日大社のシカにたいする神格化は著しく、時にシカを殺めた市民が死罪になることもあったといいます。

それが!

明治初期の廃仏毀釈によって興福寺が著しく荒廃すると、シカを保護する機運が一気に失われます。奈良県の第一代県令は、〝シカは神仏の使いである〟という迷信を払拭するため、シカ狩りを行います。

さらにはスキヤキにされて食べられ、一時期、絶滅の危機に瀕するほどに頭数を減らしたといいます。

今、鹿せんべいをのんびり食べているシカにすらも、当時はそんな廃仏毀釈のとばっちりがあり、絶滅の危機とまでなったいう、┉うーん、人というのはなんと┉『複雑な』生き物でありましょう。


No.332

京都四条大橋は、明治に入り文明開化の名のもとに、京都最初の鉄橋として架け直される計画が立てられます。

その際の材料にされたのが、折しも廃仏毀釈によって壊された寺院の仏具類だったという事実。
私には衝撃的なものでありました。
当時は新しい街づくりが優先され、その矛先もまた仏教寺院だった、というのです。

四条大橋架橋工事のために仏具類が供出された事例として、十六貫八百目(約63kg)もあった大鰐口があったといいます。
これなどは壊されたものなどではなく、あくまでも供出を強要されたものだったようです。
この大鰐口をはじめ、市内の寺院から様々な金属製の什器類が供出され、溶かされて橋の材料にされていきました。

同じく京都において、明治四(1871)年に次のような府令が出されます。
「京都市内の各町内の路傍における地蔵などは無益で、怪しく、人を惑わすものであるから、早々に撤去するように」
この府令によって京都市内の路傍の石像がかなりの数撤去されたといいます。
その同時期に、当時二条城に火の見櫓を建設しており、その台座として地蔵が集めて造られたというのです。
学校の校舎の柱石に地蔵が使われるケースもあったといいます。

これとて氷山の一角に過ぎません。




廃仏毀釈。
┉虐げられ、積もり積もった思いというものがあったのでしょう。

が。

今ほどには科学、何よりも医学の発達していない時代において、人々は、たとえば当時治る見込みのないとされた病や、たとえば異常気象等の自然災害の際に、御仏の像に手を合わせて祈っていたのではないかと私は思うのです。
それは道端にひっそりと立つお地蔵さまでなかったろうか。

昨日まで手を合わせ祈ったお地蔵さまの首を落として、胸は痛まぬものなのだろうか。畏れという感情はなかったのだろうか。

人というのは昨日まで信じたものを、一つ事が起きれば、それを敵として戦い、破壊することができるものなのか┉。


私は曲がりなりにも妻であり母であり、どうしても保守的になろうかと思うのです。

そうした一人一人の生きてきた道程によりさまざまな考え方が生まれるものなのだろうとも思います。



ただ。
今後いかなる時代が来ようと、私は破壊行動や戦争は断固として反対いたします。
そうありたい。
それが今の私の生き方です。


No.333

┉一体何から廃仏毀釈について調べ、こんなに熱く語っていたんだか、すっかり忘れて、自分の書いたものを読み返してしまいました。


ご先祖さまがお寺を開山開基され、そしてあの神仏分離令の発令された明治のときに廃寺されたという廃寺跡と御堂を、今なおその御仏像や仏具をお守りしている方は、純粋にご先祖さまを大変尊敬されておられ、そうかといって、あの時代の流れも、廃寺することになったことも、何一つ恨んでいません。

この方にとって三代前の方が最後のご住職となられます。

三代前の、最後のご住職となられたお方はどうであったか┉。
それはご本人にお聞きするしかなく、そしてそれはもう不可能なことであります。

ただひとつ言えることは、こちらの一族の方々は、大変な人格者であったと思われるのです。
現在、こちらの御堂を守られている方が、古い書類などをきちんと年代を追ってお調べになり、一冊の冊子にまとめられておられ、淡々と事実のみを書いておられるものなのですが、そこここに信者さんや地域の方々とのやり取りがまるで見えてくるような、心温まるものとなっているのです。

お寺さんであった頃、その辺り一帯の子供から大人まで、学びたいと思う方々を全て対象に寺子屋を開かれていたといいます。
そのご住職が亡くなられたとき、教え子であった方々が寄進しあってそれはそれは大きくて立派なお墓を建てているのです。
┉すごくないですか?
私はそんなお話を今まで聞いたことがありません。

まぁ昔の方々は、たとえば身寄りのない方が亡くなられてもちゃんと葬儀をして弔っていました。そんな時お金を出し合ったり、お金がなければ労力などでその方のために動いたりしていた、ということは知っています。
でも、お寺の住職さまですよ?

檀那寺であれば寄進とか年貢とかもあって裕福であろうはずのお寺さん、(だから神仏分離令が出た時、積もり積もった恨みや妬みでお寺の破壊行動などに発展してしまったことは、調べてかいたばかりです)お墓を建てるお金がないはずがありません。黙っていたってその妻や子供が立派な墓を建てたことでしょう。

それをあえて自分たちで建てたいとお寺さんに申し出て、寄進しあって建てているという事実。
実際そのお墓を見せていただいておりますが、そのお墓を建てられた方々のお名前が一人一人入っています。

No.334

また、廃寺を決めた時も、本来ならば手放さねばならなかった御堂と境内地を手元に残せるよう、周りの方々がお上にかけ合い、陳情書も書いておられます。

こちらのお寺の境内にあった石仏さまはたった一体のみ首を落とされてしまったようですが、それ以外は無傷で残っています。


どれだけ愛されて慕われていたかが、伝わってくるではないですか。


その廃寺、とすることも、潔いくらい早い時期に決められています。たしかに、お上からのお達しですので猶予はなかったのでありましょうが、本当に潔く淡々と事を進められた様子がうかがえます。
ご先祖さまが開基開山され、歴代法灯をつないでこられた方ですので、それはそれは深い悲しみやお辛さがあったと思われますのに、何一つあらがいもせず、それを時代として受け入れて。
淡々と廃寺の手続きをされ、還俗され、帰農されたようです。
誰も何も恨まずに、一からのスタートを切り、懸命に汗水たらして、田畑を耕したようです。

名づけ先がこちらだったという方もだいぶおられたようですが、そうした方々もほとんど亡くなってしまわれましたが、その方が語り継いだこのお寺さんのこと、今なお地元では語られているようです。


今、守られている方、そのお子さん、そしてそのお孫さんまでが、そこを守ることを心から受け入れ、誇りに思っておられますことも、なんとも尊く、ありがたいものであります。

お寺さんではありませんが、私の大好きな御堂であり、御仏さまでございます。

No.335

このところやたらと珍道中録を綴っておりますが、実は最高血圧が七〜八十台というたいそう立派な低血圧となっており、起きて動くのがやっとでありまして。
というか、さらにさらに低いらしく自動血圧計が測定不能を連発しております。

しかも息切れや心悸亢進といった症状を、ぶり返した暑さのための思い込み、無理して動いていたせいで、今最低限の日常生活を送るのがやっとな生活を送っております。
冷蔵庫はあと少しで食材が切れそうな有り様で、そんな中でしがみつくように珍道中録を綴っておりました。

お見苦しい点はいつも通りかと思うのですが、それはあくまでも本人がそう思うだけで┉。
誤字脱字、脱線。意味不明な文章等々、ありましたら、┉それは体調のせいではなく、やっぱりボケ、だと思います。

いつもお目汚しをすみません。


皆さまにおかれましてもどうかご自愛くださいませ。

No.336

大きな葉、そして何よりも大きな大きな背丈に、少し不気味な色合いの花を咲かせるこの花の名が、あの『葛』であることを知りました。

葛であることを知った途端、不気味さが私の中から消し飛んでいる現金さ。
川の側の草むらに生えているのをよく見かけるものです。秋の七草でもありました。

この葛、『葛湯』というものの素であるようであり、あの浅草名物【くず餅】の素でもあり、また、【葛根湯】という風邪の初期に飲む漢方薬の元でもあります。 

へぇぇ、良い植物なんだぁ。
初めて意識した時、『不気味』などと思ったことなど棚にあげております現金な私。
秋の七草だし、万葉集にも読まれるほどだし。

何よりもとても有用な植物。

有用なので海外にも移入されました。┉何かイヤな予感がいたします。



そう、定番の話ですが。

アメリカなどでは強い繁殖力がアダとなり『最悪の外来植物』として君臨しているといいます。

はじめはグリーンカーテンとか森林がけ崩れ防止とかで移入したようなのですが、増えすぎて手がつけられなくなってしまったようで┉、
それは「南部を飲み込んだ蔓」の異名がつくほど、であります。

そのヤバさ、なにやら有名なカードゲームでカード化されてるくらいだそうで。

そう聞くとまた私の心中には、うずうずと〝不気味なもの〟という感覚が戻ります。


過ぎたるは及ばざるがごとし、ですかね。

渡良瀬川という川の河原から、かかった橋までに至る道路にまで顔を出している生命力あふれる葛。
何やらその花、フルーティな香りがするようなのですが、やっぱりその不気味さに、近寄ることはできませんでした。


ちなみに私、葛湯というのが苦手であります。苦手なものを知らずに感じていたってことで、┉はないのでしょうがね。



No.337

今日はお薬師さまのお縁日。

実は一昨日くらいから、お薬師さまがおられる群馬県みどり市の光榮寺さんに参拝に伺いたいとひそかに思っていたのです。
でも┉やっぱり立つとふらつくんですよ。
動悸もするし。
指先も痺れているし、頭も重痛い。
ともすると吐き気がする。
(┉ね?熱中症の症状に重なるものがあるでしょう?)

もう一週間、こんな症状が続いています。
お薬師さまのお力をお借りできたらなぁと思ったのですが、┉諦めました。


もうすぐお彼岸です。
焦らずゆっくり体調を整えて。
さいわい、なんとか最低限の家事はできております。
先ほど測った血圧は80/46。
これこそ御仏のお力のおかげかと。


No.338

国葬について、国会中継で答弁がなされていました。

私は国葬反対派。
しかしまぁ、┉やるしかないんでしょうねぇ。


それにしても。
少しも納得のいく説明ができない岸田総理に失望┉
というかほぼ独断で国葬を決定し、内外に知らしめちゃった岸田さんに、その時点で百八十度評価が変わってるし。


要は対外的にも言っちゃったからにはやらなきゃならない。それも失礼のないようにってこと、かなぁ。

「海外から日本国全体、国民に対しての弔意を示されているから┉」

ほぉぉ〜、なるほどぉ。
それはうまい言いようだ。そしてそれは確かに事実でもありましょうが。


野党さんも、「おぉ!」と思うと、路線が統一教会の方へずれていく。もちろん、全くずれているわけではないが。
ただ┉。
今は国葬一本で攻めて欲しかったなぁ。


国費ってだけでなく、┉まぁそれはそれで大変大きな無駄遣いだと思っておりますが、私は国葬そのものに反対なので。


ああ、もう自分でこうやって書いてること自体に苛ついてまいります。

私にとって安倍晋三氏の葬儀は【増上寺】さんでしめやかに営まれたものであり、すでに葬儀は終えています。

 

No.339

血圧が低すぎて、そんな時は立っていることすらツラいから、仕事しててもやっと、やっとだったから、涙を飲んで辞めたのに、┉。

今だってそうだ。
こんな症状で、こんな血圧でよく仕事してたと思うくらいだ。

なのに。
ご近所の人たちがうるさい。

「あんた仕事辞めて何してるの」
なにって┉?

そういう発言をする人に限って実はずっと専業主婦だったり、私の歳には仕事をしていなかった人だったり。

余計な詮索はしなくていいから!
貴女たちになんの影響がありますか?
貴女たちに何か迷惑をかけていますか?

何してようと個々の問題。
間違いなく、貴女が払ってきた年金は私に支払われることないからね。

そんなに元気で暇ならば、シルバーセンターに登録して貴女たちこそ働けばいい。

専業主婦って罪なのですか?
そんなにいけないものなのですか?

そもそも私、結構いい歳なんじゃない?
ちょっとリタイアが早かっただけくらいじゃないですか。

不定期に友人の仕事は手伝うことになってますが、ね。


ああ、世の中ほんと住みづらいな。

No.340

┉そんなに血圧が下がっている事に気づかず、出かけていたのが
群馬県前橋市元総社町にある【徳蔵寺】さんでありました。
徳蔵寺さんは、【上野国総社神社】のお隣りにあり、かつては総社神社の別当寺であったお寺であります。

天台宗比叡山延暦寺の末流で【功叡山蓮華院】といい、室町時代の文明三(1471)年に、【足利八代将軍義政】公の祈祷所として建立されたといい、往時には寺中七ケ院、末門十七ケ寺を擁し幕府から朱印十六石を下賜され、檀徒三百有余戸を有し、この辺り一帯の信仰の中心をなしていたといいます。

慶長十二(1607)年、惣社(総社)領主の【秋元越中守】が惣社城を築くにあたって、一寺の建立を計ったが、当時新寺院の建立は幕府の禁ずるところであったため、時の名僧天海僧正の内意によって本寺ならびに寺中七ケ院のうち四ケ院を惣社に移しこれを光厳寺と称したといいます。

爾来この地には寺がなくなってしまうのですが、明治五(1872)年にこの地の方たちおよび檀徒の方々が相計り、官にその再建を願い出たといいます。
しばしば光厳寺と折衝して独立し、明治六(1873)年に再建されたのだといいます。
この間実に二百六十六年、この地には寺名のみ残していたことであったこととなります。
もっとも寺中三ケ院の内放光寺はささやかながら終戦後まで残っていたとのことで、その後寺中三ケ院を合併し、現在に至るまでその法灯は連綿と引き継がれているといいます。


┉ほぉぉ。あの明治初めによく寺を再建できたものであります。

境内に入ってまもなく『淡島様』と呼ばれる、傘付きの方形の石塔に衣を召した女の方が浮き彫りされた像がお祀りされていました。

なんでも昭和四年に近郷の多くの婦人の発願により建立された女神さまとされ、婦人の下の病に霊験があるとのことであります。
また、安産祈願、縁結びの神さまとしてお祀りされているところもあるといいます。
江戸時代に淡島願人と名乗る乞食坊主が(←原文のまま)伝えて歩いたとのことで、婦人病に効くと多くの婦女子に信仰されたものだと言います。
祈願し治ると衣類の寄進があったとかであります。それがいかにもボロであったようで、ボロボロの服を身につけていると「淡島様のようだ」などと言われたという逸話が残されているそうです。

No.341

寺標を通り、広くてよく整備された駐車場を横目に通ると、必ずや目に入るのが『淡島さま』。
淡島さまは下の土台から三メートルはあるかと思われる背の高い一際目立つもので、たいへん存在感があります。

そしてそこからまた今来た道の正面に目を向けますと、┉!

素敵!
石仏さま好きにはたまらない、石仏さまが何体も何体も横並びに程良い距離感で並んでおられるではないですか!

いやいやいやいや、まずは御本堂に出向いてご本尊さまに参拝せねば!

抑えがたい気持ちを抑えて、御本堂の方へと向かおうとすると、まさにその石仏さまの小道を、ベビーカーを押した若い男の方が歩いてこられます。
ご近所のイクメンさんかと思ったのですが、その男性が剃髪されておられることに気付きました。
可愛らしい盛りの一、二歳といった感じと思われる男のお子さんのようです。
「お邪魔させていただいております」と一声おかけしますと
「ようこそお越しくださいました。どうぞごゆっくりなさっていってください」と。

お若いのにさすができておられる。

┉ともすれば石仏さまの小道にヘラヘラと向かいそうな私を、キチンと導いて下さった、ということでしょうか。

手水舎がございます。
┉あれ?蛇口が反対側?
あら?石仏さまの小道が参道だった?

No.342

急いで手水舎の前面へと向かいます。
この手水舎と水道、┉竹の水の出てくる口や蛇口が、たいへん風情のあるもので、苔むした岩に見立てたものからその水の出口や蛇口が
顔を出しているのです。
おぉっ!心が穏やかに浄められます。

┉それにしても、御本堂にたどり着く前から何やらやたらと珍道中ぶりを発揮しているような、いないような。

さ、さ、御本堂へと向かいましょう。

御本堂前には、┉え、回向柱?結縁柱?
あの、ありがたくも御本堂におられるご本尊さまと結ばれているという柱が建っております。

そして摩尼車、┉回すだけでお経をお読みした事になるという、ありがた〜い、石でできた柱にちょうど般若心経が彫れるくらいの幅を高さとした円柱をはめ込んであるもので、〝車〟とはついていますが、ちょうど車輪のような石が一つ、柱に開いた穴の中で回せるようになっているもの、┉通じます?

その摩尼車が、結縁柱を中心として左右に一つづつあるのです。
なんとご丁寧に。
ただこの摩尼車、お経が彫られてなかった?うーん。

その摩尼車の解説がかなり長文で書かれた看板がそばに立てられていました(これは一つでしたが)。

まあ、先ほどの摩尼車についての私の拙くも長〜い説明の中にもありましたが、要はゆっくりと丁寧に回すことで、お経を一回読んだこととなる、ということが書いてあるんですがね。
お経というのは受持し、読誦(どくじゅ)し、解説して、書写すること、この四つの行動が大切であると云われているとも書かれていました。
なるほど┉深いお話をさらりと書いてあるところがなんとも深い。


ようやく御本堂の前へと立つことができました。
扁額は金字で浮き彫りされたもので、額の周りはおしゃれに木彫りが施されています。近年 改修工事をされたのでしょうか。

御本堂の戸は、┉施錠されていました。
ですよね、ご住職はおでかけになられましたもの。

そおっと、いつものように覗き見を、┉。

「どうぞ御本堂へもお入りください。そこの呼び鈴を押してもらえば、家人が開けにまいりますので」


後ろからさようにお声がかかります。
┉いつのまにお戻りになられた?
ちょっと前にお出かけになられたばかりのご住職さまが、先ほどと同様お子さんを乗せたベビーカーを押して、結縁柱の向こうからお声をかけておられます。

No.343

「そのことを伝えるためにわざわざお戻りくださったのですか?」

覗いていたバツの悪さより、申し訳なさでいっぱいになり、そう声に出し夫と二人深々と頭を下げました。

「いや、その辺を歩いているだけのただの散歩ですから」

┉いーや、絶対そんなはずはありません。
できるお方はスッと、相手が気にしないように瞬時に言葉が選べるものなのですね。

そしてそのまままた境内をベビーカーを押して歩いていかれました。


┉どうしよう。

わざわざ御本堂へと来ていただいて、戸を開けていただくのもなんですし。
といって、わざわざお戻りになってそうおっしゃって下さったのにこのまま帰るのもどうなんだろう┉。

結果、インターフォンのボタンを押すんですけどね。

御年配の女の方が戸を開けてくださいました。
のみならず、まず内陣の照明を付けて、焼香の炉の火を起こしてくださり、果てに私どもに風が来るよう調節しながら扇風機を回してくださいました。

ああ、誠に申し訳ない。

ご本尊さまは阿弥陀如来三尊像さま。お優しいお顔をされ、しなやかな体つきをなさっておられます。

お隣の間には、護摩木が積まれておりました。月に一度、お不動さまのお護摩供をなさるようです。

「よろしければお出かけになられてください」
「はいっ!」

帰る際には、お盆に檀家の方にお配りになったという、団扇とお線香の箱の入った包みをくださいました。

ただただ、突然やってきただけの一参拝の者達に、このようなおもてなしをしてくださる┉優しい優しいお寺です。

御朱印も対応されておられるお寺さんのようですし、お護摩供の日に是非是非来させていただきましょう。
その日もお忙しいご様子であれば日を改めてまた。


境内の石仏さまにお会いするだけでも、何度でも参拝したいと思うお寺さんでありました。

No.344

御本堂をあとにし、さて石仏さまの方へ、┉あれ?〝順路〟と書いてあります。
〝順路〟といわれても、どう見ても庫裏の方へと向かう通路のような気がいたします。┉檀家さんがお墓参りに来られた際の庫裏への〝通路〟でしょうか。

それでも一応〝通路〟ですから、行ってみることとしました。

新しそうな石の三猿やフクロウなどがほどよく置かれ、散策路のように整備されています。今水は無いのですがかなり大きな池がありました。
そこにぽつんと石塔が建っていました。
案内の看板が立てられています。

『【輪廻塔】 この輪廻塔は、人々が三界(欲界・色界・無色界)六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)の迷いの世界より救いを求めて車輪をまわし南無阿弥陀佛の念佛を唱えるために建立されたものです。(中略)阿弥陀如来の真言を唱えて参拝して下さい。』

と書かれています。
室町時代 明応5年の塔のようです。
傘がある灯籠の下に、かつては摩尼車のような回す部品があったようです。

え?
もちろん阿弥陀如来さまのご真言をお唱えさせていただきましたとも!


さあ今度こそ、石仏さまの方へ♡

おぉ〜、十王さまたちでございます。十王、┉?
十より多い?
一、ニ、三、┉十二?

おかしいぞ、十二ある。

No.345

もう少しだけ近づいて拝見させていただきます。
十、┉十二ではなく十一?

一体は他の方々に比べると、全くお顔もお召しのものも判別できないものとなっています。

そしてもう一体は、┉ん?

小さな、┉まるで別個な御仏の御像?小さな薄い石に浮き彫りされた、┉えっ?両の手を真横に広げておられる?
まるで幼子の描いた〝人〟の絵のように、手を横に広げ足も広げて立つようなポーズをされておられるように見えます。
┉ああ、私、文才もありませんが画才も全くなく、つまり芸術的センスもないおばさんですので、あくまでも、そんな人物にとって🌱そう見えたというだけ、ですので、本当はどうかは分かりません。

そもそももう一体のお顔もお召しのものも判別できないとしておりますが、もしかして、┉十王さまたちでないのみならず、人の形をした物ですらなかった?
他の十王さまに比してあまりにも姿形がなさすぎるのです。石、という感じ?
閻魔大王さまと共によく隣におられることのある奪衣婆さまでもありません。
閻魔大王さまの法具がお祀りされることもありますが、┉鏡にも、杖にも見えない、┉かなぁ。

あまりジロジロと拝見いたしますと、地獄に行ったときにその罪も追加されてしまいそうな気がして、もうこれ以上失礼な事はやめようと早々にその御前を退去いたしました。


お不動さまの石像もお祀りされていました。
火焔光背の火焔のやたら大きな、┉よく見られるお不動さまは体格の良い、立派な体躯の方が多いよう思うのですが、こちらのお不動さまはたいそう引き締まった体躯をされたお方でありました。
お顔もしゅっと引き締まった、脚などは子どものように細いお不動さまでございます。


屋根をつけた囲い屋のような御堂ががあり、そこには小さな小さな御仏のお像が安置されていました。
浮き彫りの石仏さまであります。
お地蔵さまかと思いましたが、観音さまと思しき方もおられます。
一体ではなく二体のお地蔵さまを一つ石に彫られた御像もございます。
古い小さな御仏の御像を一堂に集めてお祀りした、のでしょうか。

小さな、扉のないお堂ではありますが、しっかりした造りで、屋根などはきちんとした瓦葺きのものであります。
┉地蔵堂として建てられたものでありましょうか。

No.346

徳蔵寺さんの十王さまについて、珍道中ペアで話し合いました。

十王さまのひな壇にはやはり、十王さまの他に大きな石と、小さな石仏さまの、全部で十二、お祀りされておりました。
一体はやはり頭部のない状態の十王さまのお一方であろうと。
そして小さな小さな舟形とも思われる板状の石に彫られたものはもしかしたら人型に見えるだけで、御仏さまのお像ではないのかも、という結論に。

十王さまたちと同じくらいの石が、やはり両サイドに丸く穴が開いていることと、お顔ではない丸、┉円が彫られており、これと同様十王さまが(閻魔さまが)裁きにお使いになられる〝道具〟なのではないかという結論に至りました。

実はこの十王さま、なかなかユーモアのある味のあるお顔をされております。「造られた当初のお姿をみてみたいねぇ」と夫。
┉本当に。

今私が拝見するお姿から想像いたしますとSDガンダム的なフォームをされておられるような┉ああ、またまたバチ当たりなことを。

一体一体お顔立ちは全て異なり、お召し物や手にお持ちの物も異なりますが、そのどの方からもお優しいお顔しか想像できません。
しゅっと引き締まったお顔の方もおられれば、角顔の方もうおられます。どの方もキリッとされてはおられるのですが、少し笑みを浮かべたようにすら見えるお方さえおられます。


いつか十王さまたちにお会いする時、人間たちが少しでも怖がらずに済むように、御仏が長い年月をかけて石の像のお顔を変えてくださったのでしょうか。


No.347

徳蔵寺さんの境内、何体もの石仏さまが、きちんと整列され鎮座されておられます。石仏好きにはたまりません。
大日如来さま、釈迦如来さま。
大変お美しい石仏さまで、露座でおられることが申し訳ないくらいです。
薬師如来さまに阿弥陀如来さま、如意輪観音さま、馬頭観音さま。
みな、少しずつ年代が異なるのでしょう、石工が異なるようで、まるでお姿が異なります。

たいそう整ったお顔で、黙想されておられるようなお地蔵さまは静かにおすわりになられた像であります。

青面金剛さまは二体で、そのうち一体はかなり大きく舟形の光背に彫られております。この青面金剛さまがまた、すっとお立ちになられたお姿で素敵であります。すらっとした御御足、静かに目を閉じられた整ったお顔。うーん、素敵。

不動明王さまは大きな大きな火焔光背の描かれた舟形の光背には浮き彫りされておられます。一際大きな御像であります。やはりずっと真っ直ぐに石座に立っておられるお姿をされています。
青面金剛さまとは異なる石工な気がいたします。

中にはやはり風化してしまわれておられる石仏さまもおられますが、こちらの石仏さま、たいそう保存状態がよく、┉ええ、ご想像通り、まだ居るのかと思われるくらいにずっと石仏さまの周りをうろついておりました私でございます。


さて。

徳蔵寺さんには、三面の懸仏(かけぼとけ)が保存されているといいます。
『懸仏とは円板形の中央に半肉の仏像や神像を表に作り出し神殿や仏殿に提げたもの』だと説明の書かれた看板に書いてありました。
こちらのその三面の懸仏さまはみな銅でできており元は金箔が全面に施されていたようです。
製作されたのは室町時代と考えられるとのことで、それぞれ鏡面の直径が
26.6センチメートルの弥勒菩薩さま、26.7センチメートルの薬師如来さま、24.8センチメートルの観音菩薩さま、とのことであります。

御本堂のどちらかにお祀りされていたものか、それとも寺宝として普段はしまわれているものなのかはお聞きせずに帰ってきております。

いつか、それをお聞きしにまた参拝させていただきます。


そして、ですねぇ。

すぐお隣に【上野総社神社】さんがあるのですが。

そちらにございます宝物にやはり懸仏さまがあるのだそうなのです。

No.348

徳蔵寺さんのお隣に鎮座される【上野総社神社】さんは、上野(こうづけ=群馬県)の総鎮守ということで、上野国(こうづけのくに)の国内全ての神社、五百四十九社の神さまが、集い座す御神地であるといわれる神社さんであります。

『上野総社神社は上野の総鎮守なり、上野総社 神社は国内総神社の神集ひ座す御神地なり、 上野総社神社を参拝するは県内各神社を参拝 するにひとし。』

こちらの神社さんの歴史は古く、
崇神天皇の皇子豊城入彦命さまが東国平定の命を奉じられ、上野にお下りになられた折、
神代の時代に国土の平定に貢献された【経津主命】の御武勇を敬慕しておられ、豊城入彦命さまはこの上野国の地に、軍神としてその御神霊を奉祀して御武運の長久を祈られたといいます。
さらにまた、経津主命の親神さまであられる磐筒男神、磐筒女神の御二方をも合祀せられ、これがこちらの始まりと伝えられています。

豊城入彦の子孫は、代々上毛野国(かみつけのくに)君としてこの地に全盛を施し、こちらを熱く崇敬されてこられました。


┉と、総社神社さんのホームページから読み起こしておりますが、┉私の拙い記憶によれば、崇神天皇さまって、┉古事記とかに出てこられるとかじゃなかったでした?
あの物部と蘇我の争いとかよりもずっとずっと前の、聖徳太子さんとかも生まれてすらいない、仏教伝来すらまだまだの、┉最近あまりにも歴史に(歴史も)疎いことに気づいて、学び出したからこそそんな頭が回るのであって、┉つまりはもう、さっぱりついていけない。

もうこれは、あの私のレベルに合わせた歴史の授業のできる〝旦那様〟にお聞きしなくてはなりません。





No.349

この上野総社神社さんの歴史は、まさに群馬県=上野国の歴史でありました。


ホームページに綴られたものを夫に解説してもらおうと夫に話を持ちかけたところ、まあ語ること語ること。
なにも見ないで、ペラペラと、神代の時代から始まって、国府のこととか、夕飯もまだなのに熱く語ってくれました。

同じように社会科の授業を受けて、どこからここまでの差がついたのか┉。
高校生の歴史の参考書を読んでも、新たに知ることが山ほどある私が聞き流した〝もの〟を、全て彼が覚えていたとしても。それを上回る物を独学で学んだ、┉というとカッコいいけれど、まぁ歴史オタクさんの彼にしてみれば、ただ楽しく掘り下げていっただけなのでしょうけれど。
高校時代、バイクで史跡を巡っていたようですし。

へ?私ですか?
それは┉難関と言われる志望校に合格すべく勉強に勉強を┉したりすることは一切なく、部活にバイトにと青春を謳歌しておりました。

┉そこら辺かぁ、この差は。


群馬県の歴史、長いですよぉ〜。
で、総社神社さんのホームページをご覧いただければお分かりになりますが、以下のことからちゃんと書いてあるんです。
まぁ、ここでは私が夫からの解説を受けて自分でわかるようにかみ砕いていますが。



【大化改新】の詔によって【律令政治】が行われるようになり、それまで地方を治めていた国造は廃止され、新たに大和朝廷から【国司】が任命され、政庁としてしての【国府】が置かれ、その下の各郡には【郡司】を置いて政治を行うようになります。
つまり国府には朝廷から任命された役人がいて国内の治安を守り、班田収授や徴税を行うなどの仕事をしていたのですが、上毛野国の国府は親王の任国であったことから、少し特殊な形態だったようです。
親王が治めている国であるため国司が置かれず、郡司が親王の下で働くといったものだったようです。

当時、佐渡を入れて全国六十八カ国が『延喜式』により〝小国〟〝中国〟〝上国〟〝大国〟の四段階に区分されたようで、上野国はもともとは上国にはいっていたのだそうですが、親王が治めるようになり大国になったようです。
大国には十三カ国あったようで、内三カ国が親王任国でありました。

親王の任国となり上野国の国府は重要なものとなり東国の文化の中心となったといいます。そしてそれがまさにこの総社神社の辺りということ、なのです。



No.350

┉夫や子供たちが嘆きあきれるだろうと、家人の前ではおくびにも出さずにおりますが、『延喜式』と聞いて、えっ?あの神社さんの格式って大宝律令のものだったの?と思ったレベルの私。

これだけ神社さんをお参りさせていただいていて、延喜式内神社さんの何たるかを知ろうともしなかった、ということです。


いやぁ、歴史に(も)あまりにも疎いことに気づいて買った高校生向けの参考書も手軽さを求めたため薄いものだったし、書かれていることも断片的で、子供のお下がりの資料集をみたり、Wikipediaさんにお世話になっている有り様で。

石ノ森章太郎さんが描いた【日本の歴史】を読む方がスッと頭に入るよう思います。
ああいった漫画って、子ども向けのものにしても、註釈まで読むと大人もかなり「ほぉ」と思うような出来栄えとなっているんですよ。(えっ?そんなのは私くらい?)
何故ならば描いている人がそこまで読み込んで、その内容をいかにしたら人に伝えられるかを考えて描き、編集されていますので。


┉まだまだ修行は続きます。
(いやいやそれは修行とは言えない。怠けて入っていなかった知識を学んでいるだけだから!)

一之宮という格式の神社は国司が任国に赴任した折任国内の神社を巡拝することが義務付けられていたわけで、そうすることで県内、┉ではなく国内の各所を巡って様子を知ることができたということもあったのだろうが、群馬県にはその国司さんがいなかったわけでしょう?
いやぁそんなことも知らずにいたわけで、やっぱり、古くからある神社さんやお寺さんをお参りするに当たっては歴史は重要だなぁ、とあらためて思いました。

まぁ、知らなくとも、お祀りされている神様を存じあげていれば。
そこにおわします神さまに礼を尽くしていつもお守りいただきますことに感謝できればいいんですよね。

でもねぇ、特に神社さんはやはり歴史的なものが絡んでくるんです。

あの崇神天皇の皇子であられる豊城入彦命さま、群馬県では神格化されておまつりされた神社さんがいくつもありますし。

戦国の世においてはお寺さんのみならず神社さんまで兵火によって焼失したりもしています。


うーむ、┉がんばろっと。

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