神社仏閣巡り珍道中
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。
そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神様、仏様、どうかお導きください。
22/05/09 22:30 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。
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雲巌寺の方丈は【獅子王殿】という名があるのだそうで、方丈内にその、獅子王殿と書かれた扁額があるといいます。
天正の兵火の前に海岸閣(、┉すみません、調べたのですがわかりませんでした)の本尊であった聖観世音菩薩尊像と、中興開山無住妙徳禅師木像が安置されているといいます。
また、歴代祖師並びに檀信徒先祖の霊牌等が安置されているといいます。
『洞中の山色四時好し 雲外の渓声一様に寒じ(すさまじ)』は、開山【仏国国師】の語、なのだそうですが、方丈内のこの〝獅子王殿〟なる扁額と対になるようにかかげられているのだそうで、かの第五十八世【三無室(水月庵)憲道老師】と第五十九世【忘路庵大敬老師】がそれぞれ揮毫されたものなのだといいます。
ま、みんな見てはいないもの、なのですがね。
ちなみに、
【洞中の山色四時好し 雲外の渓声一様に寒じ】は書き置きとなる御朱印に書かれる語であります。
そして方丈の隣に神龍池があり、禅堂がある、┉ということです。
この禅堂、昭和二十二年に、やはり水月庵憲道老師が、この雲巌寺、古道場の衰微を憂い、再興と宗門興隆のためにとのことで、雲巌寺専門道場として開単したものだといいます。┉見えないんですけどね。
この禅堂が【獅子窟】というそうです。
ちなみに。
このエリアに【竹林塔】と呼ばれる塔があって、そちらが【開山仏国国師】さまの墓所であるのだといい、そこは宮内庁所轄の御陵ということになるそうです。
┉それは入れないエリアだわ。
境内案内、┉境内略図にはあって、入れないエリアは他にもあって。
『熊野神社』さんがあるようなのでお参りさせていただこうと、珍道中ペア、二人でない知恵をいろいろしぼってはみたのですが、そこに行く道は見当たらず。
ちょうど熊野神社さんの見えるあたりに赤い、┉ちょうど人が一人通れるくらいの立派な鳥居がありますが、そこから先は小山の斜面、その小高い小山の上に熊野神社さんが建てられています。
大きなお社ではなく、覆屋があるように見えました。
(おそらくは)馬頭観音さまがお祀りされている所の脇に、細い縄が張られ紙垂がつけられておりましたので、おそらくは何かの行事の折に、そこから関係者の方々のみが上がって行って、神事を執り行なうのではないかと推察いたしまして、あらためて鳥居のもとに戻って、遥拝させていただきました。
┉これなども、その境内略図にそのように一言書き添えていただいてあれば、決して無理やりお参りをしようと企てているわけではないので、はなから遥拝いたしましたもの、ですのに。、┉もしやこれも何か深い意味を込めた教え?
そこまでの深い教え(が込められていたとすれば)この珍道中ペアでは、その教えの意味に到達することができませぬ。
そのすぐそばには、新しそうな白木の三仏殿(?)があるのですが、その建物のある結構広いエリアにもどこからも入ることができませんでした。あ、なにやら風流な門がありましたので、そこからなら入れそうなので、やはりここも関係者の方が、何かの行事の折に入られるだけのところ、ということになるのでしょう。
ただ、ここの建物。
拝殿があって、幣殿があって、本殿がある、ようにしか見えない。
┉それじゃあ、まるで神社さんじゃない。
はいそうなんです。
すぐ近くまでは行けないものの、低い塀なので覗くまでもなく見えているので、外観はそうとしか見えない造りになっています。
そして、┉先程書いたように、『三仏堂(?)』。
そうなんです。
立派な建物ですのに、境内略図にその建物自体の名前はなく、【三仏塔】とのみ記載されているのです。
なので、その建物の中にいにしえの塔が祀られているものなのか、それともこれ自体が塔なのか、┉。
学のない私には神社さんの造りとしか見えず、〝塔〟という認識は持てなかったのですが、これをもって塔、なのかもしれません。
森閑とした地にあります雲巌寺さんはあくまでも禅寺で、観光目的の寺ではない。
『観光案内は致しません。聖域の逍遥をお楽しみ下さい』
と書かれておりましたので、何もお聞きすることなく、珍道中ペアが珍道中ペアらしい逍遥をさせていただきました。
雲巌寺さんのそばの自然豊かな道の逍遥もまた風情あるものでありました。
『水戸黄門公御手突石』なる物もありました。
たしかにここ雲巌寺さんは山一つ隔てすぐ茨城県です。
そう、ここ雲巌寺さんは徳川家とも関わりのあったお寺さんのようでした。
なんでも家光公に経を教えたのが当時の住職だったようです。
このあと、那須神社さんに伺っておりますが。
お知らせを一つ。
栃木県の『足利市立美術館』で、
十月十日(月・祝日)まで、
【あしかがの歴史と文化 再発見!】
という特別展が開かれております。
その展示品の一つに、
もともとは足利市の『菅田山光得寺』さん所有の、
現在は東京国立博物館にございます、
【大日如来坐像】が展示されております。
作風からおそらくは【運慶】作と言われ、かつて東京国立博物館において開かれた特別展【運慶】において、展示されたものであります。
本来は御厨子の中におられる大日如来さまが、御厨子から出た状態で、間近で拝観することができます。
その御厨子も美しいもので、御厨子におられるお姿も必見ではございますが、
この、
御厨子からお出になられた、なかなか拝見することのできない貴重なお姿もお薦めです。
他にも、┉土偶とか、┉歴史的に価値あるものがたくさん展示されていました(何が?と聞かれると、うーん、なんだったろうか?)
そ、そうそう、土器とか、勾玉とか、青銅鏡とか。
小さな、全長4、5センチくらいの銅造の御仏の立像とかもありました。
ちなみに。
この大日如来坐像。
いま話題の『鎌倉殿』、頼朝公の義弟にまつわるものと言われております。
源姓足利氏(、┉っていうそうです)第二代足利義兼公が拝んでいた
『三尺七寸御厨子内、俗号負、金剛界大日并三十七尊形像』にあたると考えられると言われています。(『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』より)
ちなみに。
足利義兼公にまつわる悲話がございます。
私はこの珍道中を始めて、初めて知ったものでありますが、義兼公のことも、この悲話のことも、結構有名なお話のようですので、ご存じの方もおられるかもしれません。
とはいえ。
なかなか足利市、もしくは東京国立博物館まで足を運ばれるのが難しい方も多いことかと思います。
この大日如来坐像もネットで検索して簡単に観られることかと思います。
まずは義兼公の悲話をお読みいただき、あらためて『大日如来坐像』の画像(あるいは実物)をご覧いただければ、義兼公の深い哀しみが伝わってくるかと、┉思う、おばさんでありました。
そんな足利家2代当主・義兼を描いた短編アニメーション作品が、現在、足利市立美術館で上映されています。
アニメーション作品【鶉の鳴かぬ里ー足利義兼伝ー】であります。この作品、宇都宮市にある文星芸術大学の繁村周助教とクリエーティブディレクターのRa Venさんが共同監督を務めた12分の短編作品であります。
あとでネットで調べ知ったのですが、なんでもこの作品、
アメリカの国際映画祭「IndieFEST Film Awards」のアニメーション部門と歴史・伝記部門の2部門で入賞したということでありました。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、現在の足利市のあたりを治めた足利家ニ代当主・義兼を題材に、侍女の計略で自害した妻・時子と、戦でなくなった人々の鎮魂のため僧侶となった義兼の生きざまを、切り絵と実写を織り交ぜた映像にギターの幻想的な音楽を合わせて描かれた、┉少なくとも幼児向けではないアニメーション作品でありました。
この作品がネットで観られるかどうかまでは検索できなかったのですが┉。
ところで。
同じく【うずらの鳴かぬ里】というタイトルの、足利市に伝わる昔話があります。やはり義兼公にまつわる話でありますが、内容はこのアニメとは全く異なります。
下野守【源義家】公の曾孫【足利義兼】公は、【源頼朝】が藤原泰衡追討に従い奥州へ向かう路から使者を使わし、戦勝祈願のため足利に【樺崎寺】を建立しました。
義兼は、頼朝の親戚で、その妻は頼朝の妻である政子と姉妹の北条時子です。義兼は、この樺崎寺のある樺崎に住んでいました。その、樺崎に伝わる話です。
【うずらの鳴かぬ里】
ある時、義兼は鎌倉からの帰りに鶉を捕まえて帰ってきました。
時子夫人も大喜びでわざわざ金の籠を作らせ、鳴き声を楽しみに大切に飼いました。
ところがある夜のこと、義兼が眠っていると揺り起こされました。
揺り起こされて不機嫌な義兼が、「なんだ!!」と怒鳴り付けると、
「私は立派な金の籠に飼われているうずらです。大変可愛がっていただいていますが、楽しくて歌っているわけではありません。古巣を慕い、広い野原が恋しくて毎日泣いているのです。どうかこの籠から放してください。」と泣き伏しました。
その泣き声に目を覚ました義兼が辺りを見回しても誰もいません。今のは夢だったのです。
そのまま夜を明かした義兼の耳に籠の鳥の第一声が入りました。
「そうだ、うずらの願いを聞き入れてやろう」と、義兼は夫人と相談しうずらを野に放すことにしました。そしてこう言い聞かせたのです。
「お前は美しい鳴き声を持っている。良い声を聞くとまた飼いたくなるし、他の者に捕らえられることにもなる。これからはこの里では決して鳴くなよ」
それ以来、樺崎ではうずらの鳴き声をきかなくなり、うずらの鳴かぬ里と言われるようになりました。
この話は、義兼が召し抱えていた侍女を親元に帰してやった例え話とも言われているそうです。
いずれにしても義兼公の優しい人柄が伝わってまいります。
この、【樺崎寺】こそが、あの【大日如来坐像】が祀られていたお寺でありました。
かの悪令、神仏分離令による廃仏毀釈によって、樺崎寺は【樺崎八幡宮】となって、大日如来坐像はすぐそばにある光得寺さんに移された、という歴史があります。
前々レスで紹介させていただいた、アニメーション映画【うずらの鳴かぬ里】が、YouTubeでご覧になれることが判明いたしました。
ただ、おばさんYouTubeの紹介のしかたが今一つわからず、
【うずらの鳴かぬ里】
で検索していただき、YouTubeのもの開いていただければご覧になれるかと思います。
【樺崎八幡宮】は、正治元(1199)年、この地にあった【 法界寺(=樺崎寺)】で入寂した源姓足利氏二代義兼公の子義氏が、父の菩提を弔うべく、法界寺の諸堂宇を整備するとともに八幡神を勧進したことに由来します。
義氏は父の入寂した跡に『赤御堂』と称した御堂を建てたとされています。
義兼公がここに祀られて以降、ここ法界寺が足利氏歴代の廟所となり、【鑁阿寺奥の院】に位置付けられました。
樺崎八幡宮はたしかに鑁阿寺の鬼門の方角にあたります。
義兼は、晩年【鑁阿】と号し、建久年間に生母菩提のためこの地に法界寺を創建しています。
義兼自身もここに住み、念仏三昧の日々を送ったといいます。
鑁阿寺は元々は足利氏の邸跡であり、その名の由来は実に義兼公にあったようですね。
戦国期になり足利氏が力を失うと法界寺(この頃はすでに樺崎寺と呼ばれていた?)は衰退してしまいます。
江戸時代、足利氏の末裔によって現在の八幡宮社殿が再建されますが、かつて義兼公の建てた面影は全く無くなってしまっており、前々レスで前述いたしましたように、明治時代の神仏分離で樺崎八幡宮として存続が図られ、法界寺のいくつかのものはほど近いところにある光得寺さんに運ばれたものの、そのほとんどは紛失してしまったようであります。
衰退してしまっていたとはいえ、元は広大な土地に、かの『毛越寺』を模し、池を中心とした浄土庭園を持っていたという将軍家ゆかりの寺院、失われたものの中には、あの御厨子入りの【大日如来坐像】同様、運慶作とされた同じく大日如来坐像がありました。
そちらの大日如来像は遠くアメリカの地にまで渡ってしまったといいます。
なんという悪令。
┉今はそのもう一つの大日如来坐像も、再びオークションにかけられたのち日本には戻っているようです。
「吾妻鏡」によりますと、
治承五(1181)年、足利義兼公は、初代鎌倉将軍源頼朝の意向で、頼朝公の正室北条政子の同母姉とされる北条時子を妻とします。
足利義兼は源頼朝と同じく河内源氏義家流であり、源頼朝の門葉とされています。(┉もはや掘り下げて知ろうとすらしていません)
更に足利義兼の母と源頼朝の母とは
義理の姉妹で、血縁としては叔母姪にあたるといい、
北条時子との婚姻により足利義兼は
源頼朝と相婿という更に強い関係で結ばれ、幕府内でも高い地位を得ていったといいます。
足利義兼と時子との間には、足利家当主となった嫡男である義氏と、
一時は三代将軍源実朝の正室候補にもあげられた熱田大宮司野田朝氏室があります。
また夭逝した瑠璃王と薬寿御前もおります。
かの運慶作と伝わる大日如来坐像二点は足利義兼の発願に拠るものとされており、
「鑁阿寺樺崎縁起並仏事次第」には
台座に瑠璃王と薬寿御前の遺骨が
納められたと記されています。
そんな仲睦まじく思える二人。
ですが、北条時子の死に関しては
以下のような伝説が伝承されています。
夫である足利義兼が、
時子を足利庄に置いて鎌倉に出府していた間のことです。
時子が野外にて、侍女の藤野が井戸から汲んできた生水を飲んだところ、しばらくして時子の腹が膨れ、まるで妊娠したかのような状態になってしまったといいます。
これを藤野が義兼に、
時子が足利忠綱(藤姓足利氏)と
不義密通して子を孕んだと告げたため、義兼は時子を疑ってしまいます。
そうした夫の態度に対し時子は、
「死後わが身体をあらためよ」
と遺言して、自害してしまいます。
遺言のとおり時子の遺体を改めると、腹から大量の蛭が出てきたといいます。
また、不義密通を疑われた忠綱もまた、命を落としています。
義兼は大いに悔み悲しんで時子を篤く弔い、その件の井戸を塞ぎ、藤野を牛裂きの刑に処したということでありました。
これを【蛆子伝説】といいます。
(私はあまりに切ないこの伝説を、悲しすぎて虚しくて、今までここにあらわすことができませんでした)
夫が昨晩、つぶやきました。
「これ以降、大河(ドラマ)は救われることがあるんだろうか」
┉いや、ないであろう。
あと残りがどれだけの回数あるかわからないけれど、これ以降救われるような史実は思い浮かばない鎌倉時代だ。
そんなことは私なんかより百も千も承知しているくせに。
あまりの人物表現と出演者の方々の素晴らしい演技に、すっかり魅せられ、まるで今の自分を取り巻く人たちかというくらいの親近感を抱いてのことでありましょう。
そう、┉全く救われない、血で血を洗うようなドロドロの人間関係が繰り広げられていくはずです。
それでも。
そんな時代であっても、人々は希望をもち、力強く生きています。
日々の小さな発見であったり、出会いであったり、何かことを成した小さな達成感だったりに、幸せを感じ、乗り越えて今、現代に繋いでくれました。
私たちも、┉。
コロナ禍、ということでがんじがらめになり、さらには経済の不安定さ。物価の高さ。
コロナのために職を失われた方。
生きづらさだったり、生きること自体の辛さを感じています。
それでも。
命あるかぎり、与えられた命を全うしつつ後の世を生きる子孫のために、何かを残し、何かをつなぐ。
そうして日本の歴史、地球の歴史は紡がれてきました。
それはその日のちょっとした小さな幸せでいいのだと思う。
何かを残すとかを思って負担に思わなくてもいいのだと思う。
その日、何かに笑えたり、ほほえめたり。
┉たとえそれすらができない、微笑むことすら無理な環境だったとしても、そんな辛い思いを抱えても頑張って生きていること、生きて明日へつないでいるということ、それだけでいいんだと思う。
かつて人たちは、与えられた命を全うすることに感謝して、今日生きられたこと、明日何か出来る身体があることに感謝して生きていたし、生きてきた。
そうあればいい。
それだけでいい。
そう生きていたい。
そう生きていきたい。
さて、長々と綴っております、足利市立美術館の足利市の歴史と文化に関するものを展示している特別展。
実はもう一点、樺崎寺から光得寺さんへと運ばれた御仏のお像がおられます。
その名も【黒地蔵】さま。
こちらも光得寺さんの境内にはおられず、ただしこちらは同じ栃木県足利市内の光得寺境外堂におられます。
┉はずだったのですが、長いこと修理修復のためお堂をお留守にされておられ、何度も何度も、その境外堂へと足を運んだものであります。
足利のある小学校の東に岡崎山という小高い山があり、結構急な階段を登って行くと光得寺さんが管理する墓地があります。
┉初めて訪れた時などは、一見して墓地でしかないその空間に、墓所を持つでもなく檀家でもない自分たちがいるということに肩身の狭い思いと、そこはかとない怖さを感じ(どうしよう)と思ったものです。まぁ、畏れという感情でしょうか。
それでもなお登ってまいりますと、
墓地にはあまりない、しっかりとした造りの御堂があり、ホッとしたのも束の間、お詣りさせていただこうとお堂の前に立ったところ、
「?」
『黒地蔵』さま、どこをどう見てもおられません。
(現在、修理・修復の為に山を下りています。)と小さく貼り紙がしてあるではないですか。
それから何度か足利市を訪れるとこの黒地蔵さまの小山を訪れたのですが、いつ行ってもお留守。
もしや、また何かお買い物にでもお出かけになられておられる?
この黒地蔵さま、『荒縄地蔵』、『豆腐喰い地蔵』などとも呼ばれていたと【足利の昔話】に伝えられます。
【黒地蔵】
昔々、まだ黒地蔵様が樺崎寺の地蔵堂に祀られていた頃の事。
ある秋の夜更けに村の豆腐屋の戸を叩く、見なれぬ坊主姿の若者が在りました。
(続く)
(【黒地蔵】続き)
豆腐を求めるその者に豆腐屋の主が「どちらからお出でかな?」と尋ねてみましたが、愛想無く「村の者です」と返すのみで、坊主姿のその者は求めた豆腐を持って立ち去りました。
そうしてその日以来、その坊主姿の者は毎夜豆腐屋を訪れ、一丁の豆腐を求めては闇夜に消えるように立ち去るようになったのです。
はじめは売れ残りの豆腐を買いに来てくれるありがたい客と思った豆腐屋の主も、話し掛けても愛想も崩さず無表情で不愛想な客を次第に不気味に感じるようになってゆきました。
そしてその客が狐狸妖怪の類では無いかと心配した主が、その客の話を知り合いに相談したところ、娯楽の少ない時代のこと、またたく間に噂が村中に広がり、興味にかられた者がその者の顔を拝みに来るようになりました。
「あの顔、どこかで見た事がある」
「間違えない。俺はあの顔を知っている」
と、言い出すものが現れます。
しかしどうにも思い出せないのです。
そこで或る晩、いつものように豆腐を買って帰るその者を村の若者が気づかれないように灯りを消して密かに後をつけてみると、その姿が村はずれの地蔵堂の近くで不意に闇に消えてしまったのです。若者たちは急いで手元の灯りに火を入れて辺りを探し回りますが、結局、坊主姿のその者を見つける事が出来ませんでした。
諦めた若者達は地蔵堂の前に集まり村に戻ろうとすると、彼らの手にした灯りが地蔵堂の中を微かに照らし出したのでした。
「あっ、この顔!」
若者たちが手にしていた灯りに照らし出されたお地蔵様の顔は豆腐屋で見た得体の知れない坊主の顔その者だったのです。
そしてその口元は今、豆腐を食べたと言わんばかりに濡れているでは無いですか。
大慌てで村へと戻った若者の話を聞いた豆腐屋の主が、改めて坊主姿の者から受け取ったお金を確かめると、それはいつの間にか木の葉に変わっていました。
村人たちは相談し、お地蔵様が二度と出歩かぬ様にと荒縄で縛ってしまいました。それ以来お地蔵様が豆腐を買いに来る事は無くなったそうです。
いつとは無しに、黒地蔵さまは安産と夜泣きの効験があると信仰されるようになり、願いが叶ったお礼にお豆腐がお供えされる習慣になったそうです。
┉まぁ、夜泣きされる悩みもなく、ましてや自身の安産祈願は必要なく、黒地蔵さんにお豆腐をお供えする機会もない私ではあるのですが、会えないとなるとお会いしたいのが、人というもの。
そんな黒地蔵さまが、なんと修復を終えられて(実際にはまだお手にお持ちになられる錫杖などが修復を終えてはいないようですが)、
この足利市の特別展に展示されておられるとのこと。
ええ、いそいそと出かけましたよ。
一目惚れ、┉などと申し上げたらおそれ多く不敬罪に当たりそうですが、東京上野の国立美術館で一目拝して虜となった、あの【大日如来坐像】さまと。
一目お会いしたくて足繁く通うもののお会いできずにおりました【黒地蔵】さまに、
一度にお会いできる、おそらくは一生に一度の、またとない大チャンスです。
┉が。
一度としてお会いしたことのなかった私が申し上げるのもなんですが┉。
そうした修復や復元等に知識もましてや技術などかけらもない私が申し上げるのもなんなんですが、┉ありえない修理が施されたのではと思ったのが隠さず申し上げます私の本音であります。
外の囲いもないお堂におられる木像であります黒地蔵さまです。
修理すらが難しいところもあったのかとは思います。┉思うのですがね。
まずもって、【玉眼】という、生きた人の目をそっくり再現したかのような目がはめ込まれておりました黒地蔵さまのがその玉眼自体をやり直しているのですが、寄り目になっちゃっているんです。
しかもこの科学の発達した現代の技術をもってしたとは到底思えない造りなのです。┉。
加えて、です。
坐像のお地蔵さまは今にも立とう、すぐに歩き出そうとされておられることが多く、実際修復前の(写真で見る)黒地蔵さまはきちんと、衣から足が出ておられたのです。
┉が。
足がそっくり無くなってしまっているではないですか!
ちゃんとちゃんとあったんですよ?
あったものを無くしてしまう理由っていったい、┉?。
もう、はてなマークと怒りマークしかありません。
困ったものがいたらすぐに助けに行けるようにと足があったものを、不自然な衣で包んでしまったように修復してしまっているのです。
あの足は一体どうしてしまったのでしょう。
再度付けることが難しいにしても、新たに似たものを作ってつけるのが修復なんじゃないんでしょうか。
ありえない┉。
暑いと人間怒りっぽくなるものかと思うのですが、この黒地蔵さまを拝観いたしましたのは、
暑くもなく寒くもない適温に設定された美術館の中でのことですので、決してそのような環境下ではなかったのですが┉。
まぁ、私という人物が怒りっぽいということは確かなことなんです、がね。
まぁ、小山の上の黒地蔵さんのお堂の隣には、新築されたお堂が並んで建っておりましたので、
修復の工房から、美術館と、ご自身の意思ではなく移動しておられます黒地蔵さまが、見慣れた景色の中にある新しいお堂に戻られるのもあと少しのことなんでしょうね。
そのときはお寺さん、美味しいお豆腐をご用意されるのかしら。(๑>◡<๑)
あ、┉もしかしたらもう二度と歩き出すことのないように、足を無くしてしまった?
┉それはあまりにお気の毒です。
まぁ、かつては荒縄で縛られるような荒っぽいことをされたお地蔵さまではありますが、┉やっぱり足は大事です。(くどい)
神奈川県鎌倉市にも黒地蔵さまがおられます。
こちらもまだお会いしたことのないお地蔵さまでございます。
【黒地蔵日】と呼ばれる日に参拝するのがずっとずっとの夢なんですが、┉。
今年、八月十日午前0時から正午までとされる【黒地蔵盆】は、一般の人々にも参加できる形で執り行われたのでしょうか
┉黒地蔵盆でなくともいいから、参拝したいぞぉぉ!
鎌倉に行きたいぞぉ!
さて。
ようやく【那須神社】さんに話を戻します。
雲巌寺さんに向かう途中、『道の駅・那須与一の郷』というなんともインパクトのある道の駅の看板を見かけます。
「帰りに寄ってみようか」などと言いながら、その道の駅の横を通りながらどんなとこだろうと窓から見ていた私。
「!、神社さんがある!」
そう、道の駅の駐車場と細い道を隔て、標柱があるのをしっかと見てとりました。
「那須神社さんだって!」
一方の夫は
「ふぅん、那須与一は大田原の出身だったんだぁ」
と感慨深そう。┉私の話、聞いてました?
┉そんな一抹の不安を抱いていたものの、雲巌寺さんをあとにして車に乗り込んだとき、
「次は那須神社さん、だね」
よぉ〜し!さすがだ。
┉なにが、よぉ〜しなんだか。
そんなわけでもと来た道を戻ります。
途中、鮎釣り、だの、鮎の塩焼きだのの看板やらのぼり旗やらのあるお店がたくさん並ぶ道となります。
『那珂川』という川沿いの道です。
鮎の塩焼きかぁ、┉。
いやいや、これから向かうのは神社さん。
とりあえずはこのままなにも食べずにまいりましょう。、┉まぁ、鮎の塩焼きに心がゆれたのは私だけ、ですしね。
『道の駅 那須与一の郷』の建物が見えてきました。
「ここ、ここ!、┉だけど駐車場らしいものは見当たらないなぁ。┉もしかして道の駅の駐車場と兼用だったりする、のかなぁ」
「どうせ帰りには道の駅に寄るし、置かせていただいてここから歩かせてもらうのはどうだろう?」
とは私。
那須神社さんは標柱の間は狭く、しかも先は参道の両脇は林のようになっています。車が通れるようにはされていません。
あるいはこの道の駅との細い道を行くと神社さんの駐車場があるのかもしれません。
「そうだね。絶対道の駅寄るものね」
とは夫。それでも一番端っこの、ほとんど停められていない駐車区画に駐車しました。
走らなくとも神社さんは逃げないというのに、一刻も早く行きたくて、ついつい小走りになる私。
全く子どもと同じです。
うーん。
なんと自然豊かな、心休まる参道でしょう。
長い長い参道です。
全く社殿は見えません。
┉えぇっとぉ〜、間違えてないよね。那須神社さんの参道を歩いているんだよね?
と少し不安になるくらい長い参道に感じます。といいますのも、参道の左右の土地はさほど広くはないのです。その境内の幅を考えると、そんなに広い境内を想像できないのです。
おぉ、鳥居だ!
よかった、ここは参道で間違いなさそうです。
┉また鳥居が。
ですがやっぱり建物らしいものは見えてきません。
それでもその二つ目の鳥居をくぐると、大きな木に囲まれた参道がぱぁっと開けて、狛犬や手水舎が見えてきました。
この那須神社の手水舟は1642年に黒羽藩主である大関高増公によって奉納されたもので、国の重要文化財に指定されているとのこと。
深い緑色の龍がその浄めの水を注いでいます。
その手水舎のそばにはミストが出るよう設置されていました。
ありがたい。
誰も見ていない(夫は除く)のをいいことに、ミストを浴びてしばし戯れてしまいました。
目の前にそびえる鮮やかな色彩の立派な楼門にテンションが上がっていたのかもしれません。
┉そう、太鼓橋を隔て、今まで見たことがないようなポップな色合いの、楼門があったのです。
朱色の門に、赤、青、緑、黄色。特に彫り物とかでそういった色合いを使っているのではなく、組まれた飾り木の先端にそんな色が塗られている、神社には斬新な感じの門です。
とはいえこの楼門、決して新しいものではなく寛永十九(1642)年に造影されたものとのこと。
扁額は、┉!
『八幡宮』⁈
えっ?
那須神社さんって、八幡宮?
┉隣では夫が楼門を見上げ、
「こちらが那須与一が矢が当たるよう祈念した八幡さまだったのかぁぁ」
┉その口調たるや、ひれ伏して拝むんじゃないかと思うくらい、感動に満ちています。
一方の私は夫とほぼ同時に心の中で「うーん、やっぱり八の字は鳩なんだぁ」と思っておりました。
┉私だとて、那須与一が『南無八幡大菩薩、どうかあの扇の真ん中を射させてください』って祈り、見事小舟に立てられた扇の真ん中に矢を命中させたことぐらい知ってますよ。
ただ、私は目の前にそびえる楼門に関心がいっていた、ただそれだけの違いなんですって。
なかなかイケメンの、若々しい隋神さまお二人に見とれていただけというわけでもありませんって。
那須神社の創建は、今から1600年以上昔の第16代仁徳天皇の時代と伝えられており、当時の下野国造であった奈良別名が下野国国家鎮護とし御神体である金瓊(きんけい)を埋め石祠を建立したのが始まりとされます。
┉ちなみにこの金瓊を埋めたとされる場所は現本殿の裏手に祠として祀られているとのことなのですが、あまりに草深く、裏手にまわることは断念いたしました。
当初、御祭神は『天照大神』『日本武尊』『春日大神』であったといいます。
延暦年間(782~806)には坂上田村麿が東夷東征の際、この地を訪れ戦勝祈願として宇佐八幡宮の分霊『応神天皇』を勧請し、その名を【金丸八幡宮】としたといいます。
【源義家】公も戦勝祈願で金丸八幡宮を参拝し見事勝利した事で家臣である『須藤貞信(那須家の祖)』に命じ、社殿の造営や参道の整備を行い社領50石を寄進していると伝えられます。
(参道にある桜はこの時植樹されたものと伝えられている)。
その後、この地を統治した那須家の崇敬社となり、【那須与一】が文治元年(1185)に屋島の合戦での戦功により那須の総領になると、金丸八幡宮の御加護として自らの太刀や弓を奉納しています。
例大祭には京から神職や伶人を呼び、舞楽の奉納や、流鏑馬の騎式などを行ったと伝えられており、流鏑馬は、今も古式ゆかしく行われています。
┉そう、あの長い長い参道(約300メートルとのこと)こそ、流鏑馬が行われている場で、そう聞けば納得の長さであります。
その後、那須家の支配が弱まると一時衰退しますが、
その後周辺を支配した黒羽(くろばね)城主大関氏の崇敬社となり天正5年(1577)に本殿・拝殿を再建し銅製鰐口などが奉納されています。
また五代藩主により社殿の改築と楼門の建造(現在の楼門)がおこなわれています。
松尾芭蕉も参拝しているようです。
春と秋の例大祭に奉納される永代々神楽、獅子舞、流鏑馬の行事なども有名だといいます。
那須神社の獅子舞の起源はさだかではありませんが、大関増清が応永年間(西暦1394年~西暦1428年)に、余瀬に白旗城築城の際、地鎮として舞われたものであると伝えられているそうです。
明治六(1873)年に現社名となり、今に至っている、とのことであります。
楼門を抜けると、参道の長さと比べ拍子抜けするくらい、すぐに拝殿・本殿となります。
1577建立とされるこちらの拝殿と本殿は白木のままのもので歴史ある雰囲気を醸成していました。
扁額の文字もぼやけてよく目を凝らさないと読めないものとなっています。┉よく見ると所々に赤や黒に塗られた跡が残っております。
もしかしたら当初は彩色が施されていたのかもしれません。
あまり大きくはない社殿であります。
ところで。
この拝殿参拝中、すぐ後から楼門をくぐって来られた年配の女の方が、ずぅーっと、ずぅーっと、声だかに、話し続けておられ、やれ、今までまわってきた神社さんのことやら、こちらの神社さんのことや、今までまわられた観光地のことまで、参拝中真後ろで話されておりました。
神さまの御前でありますので、心を込めて参拝をしたい。
┉神さまのお力をお借りして、できうる限り平常心を保ち、参拝をさせていただきました。
せっかく、┉なんとか穏やかな気持ちとなり参拝できましたので、出来るだけその方の方を見ないように軽くおじきをして、その場を離れました。
そのあと、ふっと雲巌寺さんにあった墨書きの看板を思い出したものです。
『高聲、高笑、┉他の迷惑となる所作は堅く停止、┉』
┉。
というか、やはり拝殿前は神前、静かに敬虔な気持ちでおられる方が良いかと思いますが、┉。
年配の方にあっても、そうしたことができぬ方は結構多いように思います。
ああ、また煩悩おばさんが、また余分な愚痴を書いてしまった。
御朱印があるとのことで、社務所でお願いしたところ、┉。
ん?
綺麗な蓮の花が大きく描かれた色紙が置かれています。
うーん、綺麗♡
バックにあるのは満月、でしょうか。
白い蝶が今まさに蓮の花に止まろうとしている、┉そんな美しい絵の描かれた色紙です。
何やら小さな字が書かれています。
おおっ!
八溝山麓十宝霊場巡りの色紙のようです。この色紙に色紙用の御朱印をお受けするようになっているようです。
よく七福神巡りなどで、そうした形で印をお受けするようになっていたりいたします。
しかしながら、おそらくはこの霊場を全て巡ることは難しいことと思われます。
何故なら高速を使っても二時間ほどかかっており、┉何より私が高速道路を走ることが大変苦手だから。
┉年々その苦手意識がひどくなるのは、ドライブレコーダーの普及に伴い近年増えている映像、┉煽り運転であるとか、事故のリアルな映像を、テレビ画面で見る機会が大変増えたことに起因してもいようかと思うのであります。
以前は家族旅行などでも運転しておりましたし、幕張メッセだのディズニーリゾートの駐車場だのまでの往復を一人でしていたくらいですから。
とにかく運転が楽しくない。
そんな私ですので、高速を使ってまで遠出するくらいなら行かない選択をするかと思います。
【八溝山麓十宝霊場】巡り。
┉まぁ、全てを廻らなくとも、この色紙だけでも綺麗ですし。今日これからいくつかは回れそうです。
「あのねぇ」
夫にこの十宝霊場巡りを拙く説明しました。
「おお、それはそれは。こちらに寄らせていただいて、この色紙に気づかなければ、知らずに帰っていただろうに、ありがたいことだねぇ」
┉うーむ。まぁ賛同してくれることは予想通りではありましたが、何やらやたら感謝の気持ちが強いような┉。
まるで彼の心が、
雲巌寺さんで浄められ、ここ那須神社さんで清められたかのようです。
┉ま、まぁ、今日これから八溝山麓霊場巡りはできるってことで。
┉狐狸の類いでなければよいのだけれど、┉。
大丈夫か、霊場巡りだし。
まず向かったのは【明王寺】さん。
那須神社さんから約四キロ、今来た道を戻っていきます。
ここの道を一日で二往復することになろうとは┉。
黒羽町という町の中心部を南北に貫く国道沿いに、町中のお寺さんといった感じの門が見えます。
その斜め向かいに駐車場、大変わかりやすいお寺さんでありました。
国道に面した山門には寺紋の入った白い暖簾のような幕が掛けられています。いかにもそれが上品な感じで、すでにワクワクしているおばさんが一人。
門から正面に大きな伽藍の御本堂がみえます。
門から香台、御本堂と一直線なのがなんとも気持ちがいい。その参道脇には松が多く植えられています。
向かって右側には大きな枝垂れ桜の木が、程よい感じに枝を垂らし、多くもなく少なくもない葉を繁らしています。
そして左側、御本堂近くには大きな百日紅が、ちょうど満開の時を迎えていました。
蝉が鳴くのもまた風情があり、よく手入れされた心地よい境内です。
御本堂の戸は大きく開け放たれています。まずは外から拝ませていただいて┉入っても良い?
そんな、困ったときの御朱印、
┉というわけでは決してないのですが、やはりただお呼びたてするよりは話の導入にはまたとない物となります。
立派な授与所がありました。
こちらはいくつかの霊場にあたられています。
が、┉どなたもおられず、呼び鈴を押すと、大変品の良い年配の女の方が対応してくださいました。
こうした時、コロナ禍ということで、できるだけ手短にお話させていただくよう心がけておりますが、
とはいえ、いきなり来たやつに、本堂に上がらせていただいていいかと問われる側のお気持ちはどうなのかなぁと正直思ってはおります。
まぁ、ダメならダメで、とそんな気持ちでおりますが、こちらでは快くお許しくださいました。ありがたいことです。
中に入りますと新しい感じがいたします。
実はこちら、明治十二(1879)年に町の大火で全焼してしまったとのことで、御本堂は昭和三十(1955)年に再建されたものだといいます。
比較的新しいこともありましょうが、何よりお手入れが行き届いておられる。
赤い毛氈が敷かれており、その上には大きな天蓋がありました。
こちらのご本尊さまは不動明王さまであられます。
煌びやかな、明るい光を放つ金色の須弥壇の奥に大きなお不動さまがお立ちになられておられます。
その前には護摩壇が、┉たぶん護摩壇らしい造りになっているように見えます。
そして、┉御本堂向かって左側にはびっくりするほど大きな大きな屏風があります。
いかにも人の良さそうな、着物を着崩した笑顔のおじさんと。
鱗の一枚一枚、爪の鋭さに思わずハッとするような龍の墨絵、┉なのでしょうね、でもすごくリアルなタッチのモノトーンの絵でありました。
あまりに見事すぎてお写真を撮ろうとも思わず、ネットで検索すれば出てこようかと思えば、まるでヒットせず。
初めて見たほど大きな大きな屏風絵でした。
高岩山明王寺さんは、天文ニ(1533)年室町時代後期に興定法印というお坊さんによって現在の黒羽町築地という土地に創建されたといいます。
その後、天正四(1576)年、黒羽藩領主大関高増公が黒羽城築城した際、現在の黒羽町に移転されたといわれています。
高岩山明王寺は、真言宗智山派のお寺で不動明王をご本尊とし、脇仏本尊として聖観世音を祀っています。
那須三十三観音霊場の観音さまとなっておられます。
御本堂をあとにして境内堂をお参りさせていただきます。
手水舎(兼手桶置き場)のすぐそばに、授与所のような建物があり近づいてみますと、┉!
こちらこそが、か、観音堂!
ええっ!
授与所のような建物とか言ってしまった。
でもそんな感じなんですよぉ、本当。
優しいお顔立ちの立ち姿の観音さまがお祀りされておりました。
建物をぱっと見で勘違いしてしまいごめんなさいと心の中で申し上げながら参拝させていただきました。
ああ、今日も短道中。
明王寺さゆんの境内に綺麗に咲いていた百日紅の花。
今はどこに行っても、どこを通っても、さまざまな色の、さまざまな形の花の百日紅が咲き誇っています。
そんな百日紅について。
こんな記事を読みました。
百日紅はじつは仏縁のある木とされているといいます。
私はあまり感じたことがなかったのですが、(たぶんあちこちで咲いているので感覚が麻痺している?)お寺さんによく植えられている木だといいます。お盆でお墓参りをしたお寺さんを振り返ってみると、┉たしかに!どのお寺さんにも最低一本は百日紅の木が花を咲かせておりました。
実は百日紅、お釈迦さまが誕生された時に咲いていた【無憂樹(ムユウジュ)】、【別名・アショーカ】の樹の代用として寺院に植えていたといいます。
インドの無憂樹は、赤~橙色の花を沢山咲かせ、花の姿がサルスベリに似ているのだといいます。
インドにおいては、恋愛や結婚、出産にまつわるおめでたい木で、『幸福の木』とされております。
お釈迦さまが妻であるヤショーダラに出会った時も無憂樹が関係していたそうです。
恋する乙女が無憂樹の根元に口づけをして、花が開くと恋が実るといういい伝えもあるのだとか。
憂(うれい)の無き樹、憂が無くなる樹、┉字から見てもまさに幸福な木、であります。
さて、ここでついでに。
手塚治虫氏の【ブッダ】を手に入れることができました。
これを読むことで少しでも仏教というもの、お釈迦さまについての知識が深められればよいのですが┉。
そうは容易いものではない、そんな気がしてなりません。
さて。明王寺さんから向かったのは、やはり八溝山麓霊場巡りの一寺、【威徳院】さんです。
ナビをセットして。
ナビが示してくれた道は人家もほとんどない畑の広がる長閑な道でありました。
そんな道を走っていた夫が突然
「うわぁ♡そうかぁぁ!この辺りだったかぁ」
と何やら大変感動したような声をあげます。┉え、えっとぉ。
いや、┉先ほどまでとなんら変わらない、むしろ道がせばまったような畑と畑の間を走っているだけなんですが、┉ん?これはやはり夫は狐狸の類いに取り憑かれている?
やたらと感謝の思いの強い今日の夫。いや、┉いつもより若干善人になるくらいならそれはそれで共に生きようか?
キツネかたぬきか?
それ以外のものである時突然豹変されるような悪しきものでは困るぞ。
、┉などと自問自答の奇しい妄想をめぐらしていた私。
「多胡の古碑と、以前行った多賀城、それからもう一つ、京都の宇治の方にある古碑があって、日本三古碑って呼ばれてるものがあるんだけど、┉」
┉ヤバ、やっぱり取り憑かれてるわ。
何を突然言い出してるんだこの人は。┉それにしても歴オタなのは変わらないんだ。
┉まさか!
その時代から生きてた何かとか?
┉まぁ、その妄想を楽しんでいたのですけれど、ね。
まぁ、やたらとなんとか古墳とかの小さな看板は出ているところではありました。その辺りをずっと走っていたので、何か彼の心に響くものがあったのでしょう。
おーい、続きは?
「まぁ、ああいった古い古碑の中でも特に有名な『日本三古碑』と呼ばれる一つがあるんだどね、その一つが那須にあるのはわかってたんだけど、どうやらこの近くにあるみたいなんだ。
うわぁ、感動だぁ」
┉はいはい。
あったんですか、心に突き刺さるような何かが。
古碑。
かの上毛かるたにもあります多胡碑、【む 昔を語る多胡の古碑】。
さらに群馬県には上毛三碑(こうずけさんぴ)というものが存在しておりまして、それぞれ多胡碑、山上碑、金井沢碑というものなんですが、三碑とも半径五キロ以内という近接したところにあるんですよ。
これね。
なんかやたらとクローズアップされるんですが、私のように関心のない者にかかると「ふーん」の一言に終わっちゃうんで、申し訳ない。
これは。
これは是非ともちゃんと見ていただきたい。
最高の(私にしては)笑顔を見せて、「よかったねぇ、いつも頑張ってるご褒美をいただけたんだね」
「ありがたいねぇ、本当に。
今日雲巌寺さんに参拝したおかげで、那須神社に参拝することができたし。
那須神社さんを参拝したおかげで、この八溝山麓巡りを知ることができて。
普通だったら絶対参拝することもない、その存在すら知らずに過ごしたろうお寺さんと縁を結んでいただいて。
本当凄いことだよね。
本当にありがたい」
┉。
┉やっぱり今日の夫、心の糸が清らかなものでピンと張られているようです。
が。
駐車場が見当たらない。
とりあえず当初の目的どおりに、威徳院さんへと向かうことにいたしました。
【威徳院】さんは細い道沿いのやや坂となり、ややカーブしたところに、大きなお地蔵さまがおられ、威徳院さんがこちらであることを導いてくださっておられました。
駐車場は┉?
山門が見えますが、その辺りには小さな空きスペースがあるのみです。
それなりに急な坂道をそれなりに登っていくと、鐘楼の向こうに広い空間がありました。
そう。鐘楼。
┉私、今までの人生、ロクな生き方をしてこず、神仏にも関わりを持つことなく生きてきました。
あの煩悩を打ち消してくださるという、ありがたい除夜の鐘も、
鐘を打つことはもちろん、全ての音を聞いたこともなく過ごしてきて、今の煩悩おばさんとなっております。
そのせいなのか、私やたらと梵鐘が好きでありまして。
ましてやその鐘を突いてよいともなると嬉しくなって小躍りしそうなほどワクワクして鐘楼へ向かうほどです。
小走りして近くまできた威徳院さんの鐘楼、鐘を撞いていいとされているではないですか!
やったぁ!、┉ええ、本当にそう思いました、年甲斐もなく。
┉もちろん鐘を撞きたいという思いが、他ならぬ煩悩であるところの欲望であることは言うまでもありません。鐘を撞いて、一つ消えたのは、〝鐘を撞きたい〟という煩悩でありましょうね、やれやれ。
鐘を撞く作法も書いていただいてありました。
鐘を撞く前後に合掌することは存じ上げていたのですが、鐘を撞いた後、合掌した手をすぐに解くのではなく、鐘の音が聞こえる間は合掌したまま心を落ちつけるのが正しい作法であったようで。
大変ありがたい勉強をさせていただきました。
さぁ、お参りさせていただきましょう。
広々とした境内にどっしりと、御本堂がございました。新しい御本堂のように見受けられます。
(┉とはいえ、この私、自分すらが生まれていない頃に建てられたものも新しく感じる人物なのでその辺は後々調べていきます。こちらで書かせていただく上であんまり事実と異なるようではお読みくださる方にも、お寺さんにも申し訳がありませんので)
こちら【威徳院】さんは、大治五(1130)年、真雅上人の開基、
中興は嘉吉ニ(1442)年、天性僧都と伝えられているといいます。
かつて都から東北へ通じる最古の街道『東北道』を巡錫していた真雅上人が、『那珂川』沿いから西の山をご覧になられ、まるで霊牛がゆったりと臥せているような風景が、さも極楽のようであると感じ入られ、こちらにお寺を造られたのが始まりといいます。
上人は、日頃、特に信仰していた『大威徳明王』さまのお陰と【霊牛山威徳院極楽寺】の名をつけたとされます。
明治四年火災に逢い、建造物、什宝、古記録類ことごとく焼失してしまわれたといいます。
そして翌明治五年に建築落成したとのこと。、┉ええっ?め、明治のはじめ、ですかぁ?
ほ、本当に?
┉やはり、私、骨董や古美術等々の目利きの能力は皆無なようです。
威徳院さんのホームページを何度見直しても、それ以降の建て替えの記述はありません。
いやぁ、せいぜい古く見積もっても、私と同い年くらい、それだって明治初頭という記述をみたからで、平成初頭と言っても、そうであろうと思うくらい新しいものに見えるのです。
┉まぁ、迂闊なうっかりおばさんですので、何かを見落としていたらごめんなさい。
いや、本当に。自己弁護するようですが、白壁に柱や棟、扉、垂木や桁などなど、(私にわかる全て、┉合っているかも怪しい名称ですが)
朱塗りされた、お洒落な、┉あくまでも新しくしか見えない、御本堂なのであります。
しかもその朱塗りの扉の奥には新しい(私には、です)障子戸があり、その戸自体の木すらが新しく、当然貼られた障子もあくまでも白く美しいものなのです。
これは、新しく見えても仕方ない、┉と、思ってやってください。
そしてその御本堂前に焼香台、香炉があるのですが。
これがまた遠目で見るに立派なお堂にしか見えないのです。
┉お堂でありました。
御厨子が祀られた全方位が解放されたお堂でありました。
少しだけ御厨子の扉が開かれていて、それはお美しい聖観世音さまがお祀りされておりました。
なんとありがたい。
でも、この位置付け、初めて見る形です。
御本堂を目の前にして、おばさんがしばしここでぽぁっとしたことは言うまでもありません。
去り難い思いを抱きつつ、御本堂へと向かいます。
扉はもちろん、障子も開いております。
!
大きな、それはそれはお優しいお顔立ちをされた虚空蔵菩薩さまが目の前にお座りになられておられるではないですか。
【虚空蔵菩薩】さまは、『智慧』と『徳』が虚空のように無限に蔵している存在で、その無限の力で命あるものをすべて救うという菩薩さまであります。
虚空蔵菩薩さまは、『虚空蔵求聞持聡明法(こくうぐもんじほう))で広く知られています。
『求聞持聡明法』とは、集中力を高め、見聞きしたことは忘れないという記憶力を得るための難行で、御真言を100日間で100万回唱えるといったものです。
空海も唐に渡る前に、修行を行ったといわれ、室戸岬の御厨人洞での修行は有名なエピソードとなっています。
この虚空求聞持法の修行法の礼拝対象となられる虚空蔵菩薩さまの御像は右手に予願印と言われる掌を見せて下げる印相を、左手には如意宝珠を持っておられるといいます。
ここから虚空蔵菩薩は、『記憶力の菩薩』としても知られています。
それゆえに『十三参り』の御本尊として知られ、子どもに英知をさずけると言われています。
京都では子どもが十三歳になると、虚空蔵菩薩を本尊とする法輪寺に参拝し十三参りする習慣が今でも残っています。
ちなみに。私がおバカなのはこの十三参りをしていないからだということにしているのですが、とはいえ、この十三参りは私どもの住まう辺りではほとんどそう言った慣習がなく、だからといって頭脳明晰な人はあくまでも頭脳明晰で。つまりはただただ私の努力不足ということになのですが┉。
それでも虚空蔵菩薩さまにお会いいたしますと今からでも少しは賢くなれるかもしれないとか、賢くなれなくとも認知症の進行がゆるやかになってくれるかもしれないと、ついつい嬉しくなってテンションが上がる、そこら辺がもうすでにおバカなことを立証しているおばさんであります。
一般的によく言われるお姿は五智宝冠をつけ、右手に智慧の宝剣、左手に福徳の蓮華と如意宝珠をお持ちになられています。
また虚空蔵菩薩さまは丑年、寅年生まれの人の守り神としても知られています。
そんな虚空蔵菩薩さまをご本尊とされる威徳院さん。
ご本尊さまは右手に宝剣、左手に如意宝珠を持っておられます。
そして驚くことにもう一体。
向かって左側にも虚空蔵菩薩さまがおられ、こちらは右手に予願印と言われる掌を見せて下げる印相を、左手には如意宝珠を持っておられました。
至れり尽くせりとはこのことでありましょうか。
朗報です(?)。
威徳院さんの御本堂はやはりまだまだ新しいものであることがわかりました。
平成三十一(2019)年落成のものでありました。
ホームページに載っておらず、でも諦めきれずに検索をかけておりました。
ちなみに、同じく明治の火災で焼失してしまった、この寺の名前の由来ともなったという【大威徳明王】さまの尊像も平成二十二(2010)年に復活されていました。
明治の火災で全焼し、御仏の像も失われてしまわれた、ここ、威徳院さん。
少しづつ御仏の像をはじめ、お寺さんのなくてはならない物を増やして増やしての〝今〟なのですね。
┉いつものように話があっちゃこちゃしており申し訳ありません。
そう。
虚空蔵菩薩さま。
御本堂の開いている扉の外側から、参拝させていただきましたが、どうにも上がらせていただいて大丈夫にしか見えない。(ええ、私の希望的観測ではなく!、┉熱烈なまでの希望があることは確かですが┉)
┉困ったときの御朱印だ!
┉いや、それはもう誤った御朱印の拝受だから。
いやぁ、このときはほぼ本気でそう思って納経所へと小走りで向かっていました。
あれ?
立派な納経所ですが、どなたもおられない。┉大丈夫。
すぐお隣が庫裏だ!
庫裏の前へとやはり小走りで向かいますと、┉!
┉!
まさかまさかの、セルフ押印!
┉う、嘘でしょ?
虚しく印をお借りして押印いたしました。
こ、こんなことって┉。
濃い水色のネコ型ロボットがおなかのポケットから何かを取り出す時の効果音すら流れていたのに(嘘です)。
ん?
これって?
あれだ!
あの八溝山麓霊場巡りの色紙に捺すものと、那須観音霊場の差し替えタイプの御朱印帳用だ!
私のお受けしたいご本尊さまのものは、┉やっぱり納経所で拝受するんだ♡
┉呼び鈴を押しました。
若い女の方の応答なさる声が聞こえてきました。
「ご本尊さまの御朱印をお授けいただきたいのですが」
「あ、はい。それでは隣でお待ちください」
やったぁぁ!♡
テッテレーッ タラーッ
┉という効果音は流れません。何故ならもう手に持っていたから、┉ではなくて!
御朱印をお願いすると、な、なんと、応対してくださった若い女の方の方から
「御本堂にお上がりになってお待ちください」
「うわぁ〜い」┉決して口に出したりしていません。
思った、だけです。
前レスに誤ちがありましたので改めて手直しさせていただきます。
(いつもそんなで本当に申し訳ありません💦)
御本堂入り口から見えた大きな白木造りのお美しい虚空蔵菩薩さま。
思った通り御厨子の前にお立ちになられています。
つまりこちらはお前立ちの虚空蔵さまとなります。
それにしてもお美しい。なんとも優しいお顔立ちであられます。
ところで。この白木造りのお前立ちさまは、┉私には何をお持ちなのかちょっとわからず。
なんだかお月さまにお供えするお団子の山のように見えてしまうのですよ。
そう見えてしまうともうなかなか切り替えがきかないのが固まってころっころに小さくなった脳みその持ち主であります。
一体何をお持ちなのか┉。
それにしても。
さまざまなお姿の虚空蔵菩薩さまが並んで祀られているなんて、なんと贅沢にしてありがたい光景でありましょう。
群馬県では虚空蔵菩薩さまをご本尊にされている寺院はなかなか無いように思われます。それもあって十三参りの習慣がないのかもしれません。
厨子に入られておられるのも、もちろん虚空蔵菩薩さまです。
つまり三体の虚空蔵菩薩さまの尊像が祀られていることになります。
┉賢くなれるかしら。
この御厨子に入られた虚空蔵菩薩さま。
実は明治時代の火災の際、本堂とともに焼失したとみられていた本尊の虚空蔵菩薩像さまであったことが本堂再建に合わせて修復した際、わかったのだといいます。
┉えっ?そんなもの?
火災という突然の出来事を前にしては、なんとしても持ち出したいと思っても不可能な時も多々ありましょう。だから全て焼失してしまったというお話を聞いた時にはさもありなんと思ったもので。
ですが。
┉命からがらお救い申し上げた、はずのご本尊さまの所在、そんなにわからなくなってしまうもの?
不思議でなりませんが┉。
火災で焼失したと思われた虚空蔵さま。なのでその後は、廃寺となった近くの正法寺の御本尊であられた聖観音菩薩像を移し、本尊としてきたといいます。
件の虚空蔵さまは本堂の建て替えに伴い仮本堂に安置されていましたが、台座などの傷みが激しく、遷座式後、北海道の仏師が修復作業に当たったのだといいます。
そこで、これまで、明治の火災後に作り直されたと思われていたこの像の光背に墨書きが見つかり、
そこには江戸時代後期文政四(1821)年に制作されたことが記されており、実は焼失を免れていたことが分かったのだといいます。
火災後のどさくさに紛れ盗難にあっていたとかではなく、思い違い、勘違いで、実は助け出されていて寺に残っていたのだから、めでたしめでたし、なのでしょうが┉。
ご本尊という立ち位置も外されていた虚空蔵菩薩さまの立場って一体┉。
ご本尊さまのおられる須弥壇の向かって右側には多くの御仏の御像がお祀りされています。
その中央には一際大きな、牛、┉水牛でしょうか?、┉に乗られた、威徳院の寺名の由来となる【大威徳明王(だいいとくみょうおう)さまが安置されています。
大威徳明王さまは、阿弥陀如来さま、または文殊菩薩さまが、人々を教え導くために敢えて恐ろし気なお姿となったとされる明王です。
『大威徳忿怒明王』、『六面尊』、『六足明王』などと呼ばれることもあるといい、顔、手足を六本ずつ持ち、神の使いである水牛に跨っておられます。
六面六臂(び)六足、と称されるようです。
三本以上の足を持つのは大威徳明王さまだけだといいます。
六つの顔は六道をくまなく見渡す役目を、六つの足は六波羅蜜を怠らず歩み続ける決意を表しておられるといいます。
水牛は、それが水陸を自由に進めるごとく、大威徳明王が、〝迷いと悟りの世界〟を自在に往復できるように明王を支えているといいます。
六つの腕のうち二本は中指を立てて両手を組む『壇陀印』という印を結ばれ、残りの四本の手で武器を持ち、怨霊と戦うと言われています。
また、『降閻魔尊(ごうえんまそん)』とも呼ばれ、冥界の王【閻魔大王】を降伏させる仏であるともいわれます。
善人に危害を加えようとする者を調伏し、その呪いを破壊するとされる、ありがたいありがたい御仏さまであられます。
大きな大きな尊像です。┉まぁその明王さまをお乗せしている水牛がさらに大きいのは言うまでもありませんが。
この間にはたくさんの御仏の御像が祀られております。
妙見菩薩さま、迦楼羅さま。
お不動さまは私が気づいただけで三体、お祀りされていました。
そして向かって左側には閻魔大王さまと奪衣婆さま。
さらに、威徳院さんは祈願堂と呼ばれる御堂もあります。
正面に大きなお不動さまが安置されています。また七福神の寿老人もお祀りされておりました。
火災に遭われたのちの再建時、廃寺となったお寺さんの御仏像も移されたとのこと。
そんなこともあるのかもしれませんね。
┉なんの花だろう。
そんな風に思う花を見かけるようになりました。
秋の花が咲きだしたようです。
花もよく知りません。
今はスマホのアプリを使って簡単に検索することができますが、走行中の、しかも駐停車不可能な道ですとそれはさすがに使えない。
なんと、秋の七草でした。
葛の花。
それから藤袴。
これで七つ全部覚えられた、┉かなぁ。
(藤袴)
さて。
この明王寺さんから威徳院さんへと向かう途中、偶然目にした【那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)】。
しばらく走って、
「ねぇ? あの古碑のところって┉どの辺り?」と私が尋ねました。
ぐちゃぐちゃと走行して、私などはさっぱり道がわからなくなってしまうのですが、夫は、┉というよりは他の人はその大多数が、道を覚えているものだから、別段声をかけずにいたのですが、どう考えても、かなり走行している気がしてなりません。
「あっ。すっかり忘れてた」
┉やはりあの区間、狐狸の類、あるいはもっと尊き存在に憑依されていた?
いやいや、日頃の疲れと少し熱中症ギミにでもなっていたのでしょう、┉そう思いたい。
これだけおバカな上にボケた妻を持つ夫が、認知症、などということがあってはなりませぬ。
お〜い、しっかりするのだぞぉ。(夫のことよりまずは自分が、ですがね)
と、いうわけで、通り過ぎてしまい諦めた、『那須国造碑』。
栃木県大田原市にある飛鳥時代の石碑で国宝に指定されているといいます。
永昌元(689)年、那須国造で評督に任ぜられた『那須直葦提』の事績を、息子の『意志麻呂』らが顕彰するために、700年に建立したものだといいます。
『永昌』という元号は唐のものなのだそうですが、
日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の【大宝】まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられているということであります。
延宝4(1676)年、僧【円順】により発見され、
その報を受けた那須郡に領地を有していた水戸藩主の【徳川光圀】が【笠石神社】を創建して碑の保護を命じたといいます。
碑は表面を下にして埋もれていたため、碑文が風化することなく保存されたと推定される。
この辺りには古墳が多く、上侍塚古墳と下侍塚古墳というものがこの辺りに存在しているようですが、いずれも五世紀の築造と推定されており碑の年代(七世紀)よりずっと前のものになるもののようです。
水戸光圀公の命により、笠石神社の御神体として祀られているという〝那須国造碑〟。
御神体ではこの目で拝することは叶わなかったことでありましょう。
うんうん。
ちなみに。
碑身と笠石は花崗岩で、19字×8行=152字の碑文が刻まれているのだといいます。
以前、足利市立美術館に現在おられます【大日如来坐像】さまについて、書かせていただきました。
普段、東京上野国立美術館におられます時には、御厨子の中におられる上、距離があるため前からのお姿もあまりよく拝見できないものが、現在は透明な板越しとはいえ、直近から拝することができ、なおかつ通常は絶対見ることができない、横からのお姿、後ろからのお姿を拝見することのできる、またとない機会でありますため、
この駄文をお読みくださっておられる方の中で、ご覧になりたいと思われる方がおられたならば、一刻でも早い方があるいはその機会を得ることも可能かと、日付順ではなくなるものの先に書かせていただきました。
実はこの急に思い立ち那須に行ったあと、足利市へと行っており、
以前上野の、美術館で一目見て虜となりました大日如来さまにお会いした後、
足利市内のお寺さんへ参拝させていただきました。
その足利市のお寺さんの参拝記を綴っていこうとおもいます。
まず向かいましたのは【金蔵院】さん。
通りから門柱┉標柱を見て、そこをくぐり奥の駐車場へと車を停めますと、大きな池があるのやら鐘楼等も見えるのですが、そこは我慢して。
何故ならば寺紋と宗派の紋の染められた白い布がかけられた門があるのが、車で通り過ぎる際横目で見てとれたから┉。
門をくぐると、みぎてに六地蔵さまや石碑が並んで建つ、覆屋があり、ひだりてには鐘楼がありました。
┉ええ、ご想像通り、おばさん、この鐘は撞いていいものかどうかを見るんです。
おお、撞いて良いと書かれています。
しかも享保十(1725)年に鋳造されたものだと横幕が柱に貼られているではないですか!あの、第二次世界大戦の際、供出を免れたいわくある鐘のようです。
┉などと書いてはおりますが、現実のおばさんはもうワクワクとした思いを隠しきれずとっとと鐘楼に登っております。
合掌し、まずは夫から。
┉高音の、大変澄んだ音であります!
これは!
あまりに美しい、心に残るその響きを残しておきたく録画してまいりましたほどであります。
鐘には梵字がたくさん浮き彫りされており、乳(ち)と呼ばれる部分にも梵字が彫られております。
これは┉音色といい、鐘の造りといい、なんと素晴らしい。
こちら、正式には【名龍山金蔵院観音寺】さん。
こちらの私が鐘の音と姿形に感銘し、動画まで撮った梵鐘は、
『乳(ち)の間に金剛界、撞座に胎蔵界の五仏の種子、池の間の四面に金剛頂経の一説である百字の梵字を陽刻し、一面に鐘銘を記す。これは真言宗の教義を巧みに折り込んだ構図である。また駒の爪には寄進者名等を陰刻する。
享保十(1725)年、法印範宜の代、五十名余の浄財を得て佐野天明の治工太田甚左衛門尉によって作られたものである。
形姿、作技ともよく、銘も貴重で、江戸時代梵鐘の名品である。
太平洋戦争中も供出を免れ、いまも鐘楼にかかる。保存状態も良好である。
昭和五十八年 足利市指定文化財指定』
と鐘楼の登口と反対側に説明文の書かれた大きな看板がありました。
ちなみに。
先ほどくぐらせていただいた山門は『長屋門』と呼ばれる形式の門で、江戸時代に建立されたとのことであります。
山門をくぐって、すぐみぎてには、六地蔵さまや日限地蔵さまが安置されていることは前述いたしましたが、に五輪塔や庚申塔、なども並んでいました。
五輪塔と庚申塔はどちらも市の重要文化財に指定されている。
五輪塔は『南宗氏の五輪塔』と呼ばれるもののようです。
南一族という足利尊氏の執事として活躍した人物の家系のお一人のようです。
庚申塔は二基あって、共に江戸時代のものだといいます。
左側の塔は、光背型の塔で中央に青面金剛像が邪魅を踏まえ立ち、邪魅の下には雲を配して下から像を支えるが如く三猿が並び彫刻が重厚でありました。
右側の塔は、書いてあったものをコピペいたしますと、『笠塔婆形の塔で笠の前面は唐破風になっており、三つの花式の懸魚がついている。塔は角柱で上部が僅かに丸味を呈する。塔身の前面に日月、青面金剛、邪魅、童子二体、三猿、夜叉四体が刻されている。塔には次の紀年銘がある』とありました。
元禄時代のもののようです。
境内は南(遠江守)宗継の居館跡であるのだそうで、ちなみにあの五輪塔はこの方の子孫にあたられます。
およそ六百年前の永享元年(1429年)に真言宗醍醐寺派の僧侶によって開山され、
江戸時代は南宝寺・宝珠院・金剛院・実相院・不動院・能満寺・千蔵院・成就院・神宮寺を末寺とする中本寺であり、また名草弁才天の別当寺でもあったといいます。
そうなんです。
実は以前名草の弁財天さまに参拝いたしましたとき、こちらのご住職さまのことが書かれたご由緒書きの看板がありまして、こちらの名前を覚えておりまして、いつか参拝させていただきたいと思っていたお寺さんだったのです。
こちらのご由緒の書かれたものなどは特にご用意されていなかったため、帰宅してネットであれこれ調べましたところ、な、なんと!
かつて名草厳島神社にあった弁才天像がこちらに安置されているというではないですか!
再拝させていただこう。
そうだ、例年秋に開かれていた足利市文化財公開の日に!
その日は普段公開されていない御仏像が公開されることが多いのです。
とはいえ、この普通の日に参拝させていただきました折にも、市指定文化財となっているという毘沙門天さまの御像を拝することができました。像の大きさは26センチほどですが、大変凛々しく、細かなところまでが細工されておりました。享保十(1725)年の、あの梵鐘を造った太田甚左衛門尉藤原秀次作のものでありました。
大きな、そしてあれほどに音色の良い梵鐘のようなものから、このような仏像にいたるまで、すごい方がおられたものです。なんでもこの方が作った唯一の仏像で、貴重なものであることから、こちらは市指定文化財に登録されているといいます。
外に吊るされた半鐘もまた、太田甚左衛門尉藤原秀次さんが作られたもの。
戦争中に供出されたが、昭和三十九(1964)年に戻って来たとのことでありました。
御本堂を出ますと鐘楼のちょうど反対側に御堂がありました。
のぞいてみますと、┉!
いくつあるのか┉たくさんの厨子が安置されているではないですか!
思わずご住職さまにお声掛けして、お聞きしてしまいました。聞けば廃寺となったお寺さんの御仏の御像を集めてお祀りしている御堂になるのだとか。
いろいろな御仏がおられるとおっしゃっていました。
ということはあまり御開帳ということはなさそうです。┉もしやすると、秋の足利市文化財一斉公開の日に拝することができるやもしれません。
要チェックであります!
【名草厳島神社】さん、通称【名草弁財天】さまは、弘仁年間(810〜824)弘法大師空海が、水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まりとつたえられています。
白い大蛇の道案内により、清水の流れる大きな岩の前に出た大師は、岩の前にすわり、経文を唱えて弁財天を勧請し、前に祠を建てられたという。
元禄六(1693)年、【金藏院】住職が、領地検分の家老に、弁財天宮の再建を願い出て、下附金三両でお舟岩上に石宮を建立したのが、(現在の)本宮である。
明治の神仏分離令により厳島神社となった。
┉。
江戸時代中期に、金蔵院によって巨石の上に石宮、 後に弁財天像(現在も金蔵院弁財天堂に祀られる)が造立されたといいます。
江戸時代の祭典の際には、弁財天を運び祭礼を行っていたということですが、明治維新の神仏分離令により、 厳島神社となり、平成元(1989)年に新たに弁財天を造立したということです。
鎮座している名草巨石群は国指定の天然記念物です。
┉とまぁ、以上が名草厳島神社の中にある、筆で手書きした立て看板に書かれた、ものでありました。
┉ここのところ、やたらと足利市文化財一斉公開というものが話に出てきているかと思いますが、この文化財というもの、やはり古くからあるもの、という事で、神社さんやお寺さんが協賛してくださっていることがほとんどで。
普段は見ることすらできないものを、惜しげもなく、解説付きで拝見することができるという、ありがたい行事なのであります。
二日間にわたって開催されるものなのですが、二日続けて通ったくらい、神社仏閣の好きな方や歴史好きな方には流涎ものの行事でありまして┉。
ところが昨年はコロナのために中止。
そのかわり、┉と言ってはなんですが、いくつかの文化財関連の所を映像で紹介するという、オンライン文化財公開となったのであります。
そのうちの一つ、【宗泉寺】さん。
その映像で、大変穏やかに丁寧にお話くださっていたご住職さまの解説を聞き、是非参拝したいと思っていたのです。
名草という土地から、松田というところにある宗泉寺さんへと向かう道。
「山一つ越える感じかな」と夫。
ナビに入力して進んでまいりました。
「おっ!これは!」、┉はい?
「これは、┉馬打峠を通って行くんだぁ。やったぁ、一回通ってみたかったんだ」
┉また?┉何やら狐狸の類いに取り憑かれた?
あ!
もしかして!
かつて、義兼公が、藤野という侍女に妻時子と不義密通した相手だとという虚偽の報告をされた足利忠綱が、取るものもとりあえず馬で走って逃げたとされる話がありまして。
その際足利から群馬県桐生市の梅田というところまで逃げようとしたという言い伝えがあると聞きました。
忠綱公は梅田の地で討たれて亡くなったという話もあるとか。
「┉ここの道、まさに桐生市に向かっている道でしょ!
この峠を馬で駆けたって、┉忠綱さんじゃない?
馬を早く走らせようと馬を打った峠ってこと?」
夫は呆気に取られたように、
「そ、そういう説もある峠、┉よく覚えてたなぁ」
┉馬打峠で夫の隣、助手席に座る妻の鼻が高々と、まるで天狗のようになっていたことは間違いありません。
夫にとって感動の馬打峠であったかどうか┉。
よくある細いくねくねとした山道、といった感じの峠でありました。
でもせっかく夫があんなに感動していたものですから、馬で走る気持ちを想像して、┉私、介助なしで馬に乗ったことなかったな。しかも同じ所をゆっくりとカッポカッポと歩くだけ。
想像したところでこれではまるで違うなぁ。
忠綱さまはとんでもない誤解をされて、信じてもらうことも絶望的で、ただただ逃げるしかなかった、┉ということでありました。
絶望感を抱きながら暗く細い山の峠道を馬を打ち打ち走る、┉なんと切ないことでしょう。
が。
┉そんな空想もあっという間、のどかな畑の広がる道へとでたのでありました。
そんな道を走って行くと、高台にお寺さんらしいところが見えてきました。
おそらくはあそこが宗泉寺さんでありましょう。
坂を登って。
広い駐車場に車を停めて。
まだまだ石段をのぼるようです。
石段の先には長く白い塀。
そして山門の両脇には仁王さまが登って来る者を見守っています。
なにやらやたらと開放的な、┉風通しのいい石段です。
振り向くと、かなり遠くまで見渡すことができます。
高所恐怖症の人にはちょっぴりこわいくらいです。
門をくぐると。
広い!、┉というものの、御本堂は目の前の石段を登ってすぐです。
その御本堂が横に長いのです。
大きな屋根と、それに覆われるだけの大きな、横にも広い御本堂です。
でもまずは鐘楼へ。
こちらも鐘をついてよいお寺さんです。こちらの梵鐘も乳(ち)の部分が花となっています。うめ、┉梅、でしょうか。
おお!鐘の本体、┉撞座の高さから下の部分、下半分くらいのスペースに鐘の半分くらいを使って人物が三人(、┉だったと思うのですが)描かれています。
側に木も描かれています。
中央に座っておられる方のお話を聞いているように見えます。
御仏を浮き彫りとした梵鐘は何度もみたことがありますが、かなり大きな絵であります。
きっとなにか深い意味のある絵なのだと思うのですが、┉この日はご住職さまは来客中で、お聞きすることはできませんでした。
庫裏でご家族の方が対応してくださり、御本堂に入ってよいとおっしゃってくださいました。
やったぁぁ!
オンラインの文化財公開のYouTubeの動画で拝見したのですが、大変見事な彫り物が施されていたのです。
┉御本堂に上がらせていただけることの、本来の意味をもはや履き違えている。
文化財公開としての映像だったからなぁ。いけない、いけない。
そうなんです。
ご住職さまはきちんとそこを弁えられた解説をされておられたので、御本堂の中のご紹介とはいえ、宗教的なお話はほとんどない、欄間の彫り物のお話であるとか、半鐘のお話であるとかをなさっておられました。
そんな映像を観て、こちらへの参拝を思ったものだから、ついつい本来の意味を履き違えた気持ちとなっていたようです。
それでも、御本堂の前に立ちますと欄間云々、半鐘云々はすっかりなりをひそめ、敬虔な思いとなっています。
ああ、なんと広い御本堂でありましょう!
目の前におられるご本尊さまはお地蔵さまでございます。
向かって左側には達磨禅師さま。
向かって右側には、┉?、め、明治天皇ぅ?
たしかに尊像の前に名札、┉とでも申すのでしょうか、木で作られ筆書きされた札がちょこんと置いてあり、そこには『明治天皇』と書かれたものが置いてあるのです。
が、┉私の存じ上げる明治天皇のお姿とはまるで違ったお姿であります。
あっ!
そうだ、あの昨年の文化財公開の映像で明治天皇ではない〝中国の神様〟というような説明をなされておられた。
何か、┉長い歴史の中でこうした札を立てて置くべき事態があったのかもしれません。
その、┉ご住職さまが映像で中国の神さまとご紹介されていた尊像は、左の手を額にかざして、敬礼、というよりは遠くを見ようとするときの仕草に似たポーズをとられています。
?┉何故?
映像ではよく見えなかったのですが、何度も何度も見直したので間違いなくそのようなポーズをお取りであります。(ご許可をいただくのを忘れたので写真は撮らせていただいてはいないのですが┉)
その、神さまとご紹介された尊像は、
【大権修利菩薩(だいげんしゅりぼさつ)】さまと申されます。
【大権菩薩】とも呼ばれ、禅宗、特に曹洞宗寺院で尊重され祀られる尊格であるそうです。
〝伽藍神〟の一柱とされるといい、大権修利さまは『菩薩』という尊号にはなっているものの、護法善神の一尊と見る向きもあるといいます。
多くの像容は右手を額にあてて遠くを見る姿勢で表現され、身体には唐時代の帝王の服装をまとっておられるのだといいます。
これは、大権さまがもと唐の阿育王山の鎮守であったことに由来しているのだとか。
阿育王山は東海に臨み、海を渡る人々が、山を望んで航海の安全を祈ったといいます。
大権さまがその右手をもって額にかざすのは、遥かにその船を望んでこの無事を祈ったことに起因しているとのことでありました。
なるほど、┉仏法の行く末が常に正しいものであるように祈り見守るお姿、というわけであるようです。
そういえば、以前もどこかでこうしたポーズを取られたお姿の御像にお会いしたことがあるような┉。
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