神社仏閣巡り珍道中

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2022/11/06 23:09(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。

22/05/09 22:30 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。

No.3536620 (スレ作成日時)

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No.151

オオムラサキの舞い立つ石段をしばらく登っていくと、目の前にコンクリート製の…不敬をおそれず書くならば、あの運動会の入場門のような門が現れます。
いやぁ、ほんとに、あの運動会の入場門に何一つ飾りつけのないものそのものにすら見えます。扁額とかもない(あると鳥居っぽくなるからか?)そんなコンクリート製のものです。

そこを抜けると、あぁ、境内に着いたのだと思いました。
ひだりての岩肌に、お地蔵さまを真ん中に向かって右側に着物姿の剃髪された男の方の像、左側にやはり着物姿で羽織を召された上品そうな老女の像が祀られています。

その岩に沿って前に進むと葛折のようになった道を進むようになっており、そこにはズラーっと並んで建物があります。
一番手前にある建物の前に〝御朱印はお参りの前にお預けください〟的なことの書かれたものが貼られています、が、鍵がかけられてそこには呼び鈴もありません。
諦め先に向かう私に夫が声をかけます。
「こっち、こっち!」
…その建物をぐるっと横に回ると、側面に御守や御札、絵馬等の授与品が平台に置かれた授与所になっていました。
そこには呼び鈴がついております。
やはり夫のフォローなくしては本当にただの珍道中でしかない私でありますようで。

御朱印帳をお預けし、先に(再び)進みます。
横にズラーっと並んだ建物のいくつか先に御本堂があります。
ありますが…。
そのゆく道のひだりてにある建物群から見渡すような景観と、くだんの布引観音さまのおられる観音堂が見えるではないですか!

絶景かな、絶景かな!

…などと思っている私を見透かした夫から声がかかります。
「ここが御本堂のようだよ」
…はい。

御本堂の前にはそこから入ることはできぬよう柵がつけられています。
ほのかな灯りにご本尊さまが浮かび出されています。
お参りをして。

今度こそその絶景を堪能しましょう。
石の柵で囲われた下には今歩いてきた参道があります。
見上げながら歩いてきた岩山が見えます。
それを大きな大きな枝垂れ桜の木越しに見る景色といったら…。
この枝垂れ桜が咲いている頃には一体どれだけ素晴らしい景色となるのでしょう。

No.152

と、ここで。

四万六千日(しまんろくせんにち)といわれる観音菩薩さまのお縁日があります。
そのお縁日に当たる日に観音菩薩さまを参拝いたしますと、四万六千日参拝したのと同じ功徳が得られるという、まあ、なんとも裏ワザ的な日でございます。
今までの人生のほとんどを信心深くなく送ってきたとはいえ、さすがにこの裏ワザを使って補おうとするほどにはずうずうしくはないのではありますが…。

そしてまた、その功徳日は旧暦でいくのか、現代の暦で良いのかといった疑問が湧くところではありますが、とりあえず、東京都の浅草寺さんにおける『ほおずき市』が昨日今日と開かれているようで、そのほおずき市こそがまさに〝四万六千日〟の功徳日のお縁日なのだといいます。

東京都台東区の浅草寺の本尊である観世音菩薩さまのお縁日の一つであるほおずき市は、毎年 七月九日、十日がその日にあたるようです。
もとは「千日詣り」といったようで本来はこの日に参詣すると 1000日参詣したのと同じ功徳が得られるとされていましたが、享保年間(1716~36)頃から 4万6000日参詣したのと同じ功徳があるとされるようになったといい、「四万六千日」と呼ぶようになったといいます。
縁日には浅草寺が雷よけの護符を配り、境内に「ほおずき市」が立つのだということですが…私は今までこのほおずき市に出向いたことはなく、このコロナ禍でまた感染者数か急増の傾向にある昨今。ましてや土日があたっていることもあり、その人出を思うだけで、到底参詣する気持ちともなれず。
実際のほおずき市がどうであり、浅草寺さんでどんなことがなされているのかは不明であります。

ですが、やはりお縁日と聞きますと、何やら参拝したくなりまして、聖観世音さまがご本尊でありますお寺さんにお参りをして参りました。

鐘を撞き、御本堂において読経させていただき、お灯明をお願いいたしました。
お灯明を上げてくださると、何やらお唱えくださり、太鼓を鳴らしてくださいました。

功徳云々より、私の場合、日々の穢れや煩悩をお祓いいただければと願うだけでございます。

えっ?そんな大変なことを祈願するなんて、…ですよねぇ。
いつも図々しいおばさんであります。

No.153

布引観音さまの正式名称は、天台宗【布引山釈尊寺】さん。
信濃三十三観音霊場の第29番札所にあたるといいます。

御本堂を過ぎ、その真正面にある景観を堪能して。先に進もうと前を見ると、目の前に岩山に組み込まれるように建つ御堂が目に入ります。
御堂の真正面に紫陽花の木が茂っていて近くヘ寄ることができません。
山門と同じような格子の戸であるのは確認できます。
山門同様今は使われなくなってしまった御堂でありましょうか。
しっかりと建てられ、立派な鬼瓦の乗った瓦葺きの御堂です。
正面には近寄れませんので、横からそおっとその建物を拝しますと、見事な彫刻も施されています。
…まぁ使われていないというのは私の勝手な見解ですが、ね。
でもこのおばさんが近寄って見ようと思うことすらなかったくらいにものの見事にお堂の真正面には紫陽花の木が茂っている…。横からの入り口はなく中へは入れそうにありません。
何かたいそうもったいない気がいたします。(御朱印を授けていただいた際お聞きしましたので後述いたします)
その御堂の横には可愛らしい石造の牛が横たわって通る人の顔を見上げています。とても人懐っこい顔をした牛の像でありました。
そしてその牛の横を通ると岩肌に沿ってちょうど直角に曲がったところに、また御堂があります。
これは新しそうにも見えます。どなたがお祀りされているかはわかりませんでした。こちらは岩山に組み込まれてはおらず、普通に建てられております。(ここも後ほど…)

その隣にはまた、岩から御堂の前面だけが出ているかのような小さな御堂がありました。向拝の彫り物も丁寧な造りのものです。
やはり格子戸でガラスなどははめられていないので、中を覗かせていただいたところ、どちらかというと神棚のような造りの厨子にお顔は拝せませんでしたが胸の前に笏をお持ちの像がお祀りされています。
聖徳太子さまでありましょうか。


布引観音釈尊寺さんは、岩を削っての伽藍がいくつも安置されておりました。

江戸時代には「断崖の観音様」として絵図で紹介されるなど、街道を往来する人が足を延ばし賑わったようで、大正15年(1926)~昭和11年(1936)まで布引電気鉄道が敷設され、参道の入り口には布引駅があったといいます。

きっとその頃には山門を通って参拝していたのではないでしょうか。

No.154

布引観音さんの歴史は古く、二つの説があるようです。
神亀元(724)年に行基によって開かれたという説、
天平二十(748)年に聖武天皇の勅願で行基が一宇を建立し、聖徳太子作の聖観世音菩薩像を安置したのに始まるという説があります。

天文十七(1548)年、武田信玄が落雁寺入道、布下仁兵衛を攻めた時に落雁寺城・堀ノ内城・桝方城が兵火にかかって焼失し、釈尊寺の諸伽藍も灰燼(かいじん)に帰したといいます。

弘治ニ(1556)年、望月城主滋野左衛門佐が本堂を再建しましたが、享保八(1723)年、野火の為再び炎上してしまいます。
寛延ニ(1749)年、小諸城第二代城主牧野康周(やすちか)公により本堂が再建され。本堂屋根には天台宗の寺紋が掲げられています。
その後江戸時代後期に大規模な修復工事がなされたとされています。


それにしても絶景です。
ついついそちらに目がいってしまいます。
ここから見える断崖は「布引渓谷」「信濃邪馬渓」とも呼ばれ、眼下には千曲川が流れ、浅間山や城下町小諸も一望できます。

その景色の中見えます観音堂は、まさに断崖絶壁に建てられた懸造りの赤い御堂。長い長い柱に支えられて建つ姿は緑に映えて思わずため息がもれます。

…先に進みましょう。
おおっ!
岩山を四角にくり抜いたトンネルです。

横幅は広いところは横に並んで七人くらい通れそうなトンネルで、狭いところでも二、三人は並んで通れる幅なのですが、高さは百八十五センチほど。
夫の頭上スレスレです。
まぁ、先が見えているくらいの長さではありますので、すぐにトンネルは抜けます。
トンネルを抜けた先、ひだりてには岩の飾り棚のようなところがあって、そこには六地蔵さまと、閻魔さまと奪衣婆さんの像が並んで祀られています。
それにしても…。
やたらと小石が山のように積まれています。
石の上、石塔の上、石仏の前。
これ以上積めない限界まで積んであります。
お地蔵さまの足元にも閻魔さまや奪衣婆さんの膝の前にも…大きな岩に囲まれてはおりますが、こんなに小さな石はあまり落ちてはおらず、懸命に小石を拾い集めてからその目的物の前に来るのでしょうか?


ん?
さらに進むと、可愛らしいユーモラスな狛犬さまたちです。
好きだなぁ、この狛犬さん。二へぇと笑っておられるようなお顔立ちです。

No.155

たくさんの石が積んである様子が見られたと述べましたが、これ、群馬県ではあまり見られないものなのです。地域によってはこの石の積まれたところを見ることもありましたが、以前から長野県には多く見られると感じておりました。
というか、どちらかと言うと群馬県が少ない?

このような〝積石〟、山道のほか、神社などでも見かけます。
石の信仰にルーツがあり、神さまを祀ることを目的にしているからなのだといわれているようです。

また、あの世へと旅立った魂を静める、追悼の意味で積石をする習俗もあるのだそうです。

誰がいつ積み上げたのか…ちょっと独特な、神秘的な雰囲気であります。

No.156

何日か前のレスで書きましたように、本日七月十二日から十六日まで、七十二候の『蓮始開』にあたります。
今年は早くから酷暑だったせいか、私の住まう辺りの蓮はすでに満開の時を迎えてはおりますが…。

多くの仏さまが蓮華座におられるように仏教と蓮の花の繋がりは深いものであります。

もともと仏教が成立する以前から、
インドでは蓮は聖なる植物とされていたようですが、泥の中から生えながら、穢れのない清浄な花を咲かせる蓮の花は、仏教の「煩悩にまみれた者が悟りを開いて仏の境地に達する」という理想に合致していることもあり、その教義にもとりいれられていきます。

『法華経』の〝華〟は『白蓮華』、白い蓮のことだとする説があるようです。
泥の中に根を張りながら穢れない清浄な真っ白な花を咲かせる白い蓮は煩悩に俗されない清浄な心を思わせるためといいます。

また、『華厳経』で説かれる蓮華蔵(れんげぞう)世界の〝蓮華〟は『紅蓮』、赤い蓮を指すという説もありました。

蓮華層世界とは、『全ての世界は、
廬舎那仏(るしゃなぶつ)の中に含まれている』という華厳経で説かれる世界のこと。紅蓮華は、仏の慈悲から生じる救済を象徴するという説のようです。

私がよく見かける蓮のそのほとんどはピンク。私という人物が仏の道から遠く離れているから、でしょうかね。うーん。

それでも。
青い夏空に凛と咲くピンクの蓮も、心が浄められるような思いがいたします。

No.157

…こいつ、よく話のあっちこっちするやつだったが、暑さでいよいよ脳が溶けたか?と思われましても否定できない。
それは暑さのせいではないかもしれないけれど、確実にボケが進んだ自覚があることと、今回やたらと話があちこちしている自覚もあるからで。

布引山釈尊寺さんに話を戻す…と見せかけているように見える形で申し訳ない。
にへぇっと笑っているようなお顔立ちの狛犬さんについて少し書きます。

この狛犬さん、安永4(1775)年九月の建立とあります。
江戸時代中期の『江戸狛犬』といわれる狛犬さんのようです。
ほとんどの石工たちが、まだ狛犬というものをよく知らずに造ったとされ、『江戸はじめ』と呼ばれているそうです。
江戸に限らず、全国的に散らばっている「初期型狛犬」ということにもなります。
個性が出やすいのとはいえ、やはりいくつかの共通点はあるようで、
まずからだの特徴として、
①全体に小ぶり。
②渦巻き模様など装飾的な要素が少なく、平板。
③前脚の間をくり抜いていないものが多い。
④尾も目立たず、ほとんどないものもある。
お顔の特徴としては、
①彫りが浅い。
②巻き毛や牙などの「パーツ」が少ない。
③鼻や目が小ぶりで、あまり恐くない。
となります。

そう、小ぶりで、あまり恐くないんです。…そう聞くだけでかわいくないですか?

群馬県にもよく似た狛犬さんがおられるのですが、もともと狛犬さん好きな私としては、もう声が出ちゃうくらい可愛らしい。
そう、また狛犬さんの周りでうろうろといい加減時間を費やした私であります。
えっ?夫ですか?
…夫も写真撮影の順番待ちをしていました。似た者夫婦?
いえ、全くかけらも似ていません!

No.158

狛犬さんの護る参道を少し進むと、また岩肌に組み込まれた御堂があります。やはり格子戸のはめられた赤い御堂です。『愛染明王』という額が掛けられています。

さらに視線を真っ直ぐに向けると。
立派な屋根の赤い御堂が見えます。よく見るとそれは側面。
側面からの入り口にあっても屋根の妻のある丁寧な入り口となっており、それも当然、ここしか入り口はない、正面は断崖絶壁の懸崖造りの観音堂さんです。
そう、布引観音さまの御堂です。

崖に沿うように建てられたのではなく、やはりこちらも御堂自体は崖を掘って崖の中にあります。
というか崖を掘った空間が御堂となっているようです。
懸崖造りで張り出した部分で参拝いたします。その天井にも格子に一枚一枚異なる絵がはめ込まれていて、奉納者の名前が書かれています。
美しい風景画です。
板に直接筆で描かれており、常に外気にさらされているため、だいぶ薄れてきてしまってはおりますが…。
お賓頭盧さまの木像も御堂の前におられます。
御堂の中は…薄暗くほとんど中の様子は拝することはできませんでしたが、金色の光背のある御仏の像が三体安置されているように見えました。
小さな、やはり金色の御仏の像が棚に何体もおられるようにも見えます。あくまでも、私にそう見えたと、いう程度にとらえてやってください。薄暗いだけでなく、大きなお賽銭箱とお賓頭盧さまで、格子戸の側にまで行けないので。
調べたところ、ご本尊の『聖観音』さま、『十一面観音』さま、『馬頭観音』さまであられるようです。
そして小さな御仏の像は百体の観音さまのようでした。

釈尊寺は幾度も火災に見舞われていますが、岩屋の奥深くにあった観音堂も、そしてそこに安置されている宮殿(くでん)と呼ばれる厨司も、鎌倉時代の正嘉ニ(1258)年建立のまま残っているのだといいます。

鎌倉時代、ですよ?
クレーン車もない研削機もない時代です。…それがここまで入って来られるものかどうかは素人なので置いておいていただいて。
断崖絶壁の岩山に高さ二十メートルともいわれる懸崖造りの御堂ですよ、…すごいなぁぁ。

ご本尊は秘仏とのことで、本来その宮殿内(もしかしたらその宮殿自体も奥は岩山を掘ったものなのかもしれません)におられるのでしょうか。

No.159

宮殿は昭和二十六(1951)年に修理復元されたとされています。それまで一度も手を加えられていなかったもののようです。
やはり薄暗い洞窟の中にあるのでよくは見えなかったのですが…。
何やらその宮殿、国の重要文化財のようです。国宝じゃないんだ…。

この宮殿の妻の部分にある(という)『梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)』というものがつけられているということで、これ、日本唯一の鎌倉時代の遺物らしいです。
写真とかの展示もないので、どんなものかすらわからないのですが、なんでも、従来は絵巻物として鎌倉時代に存在したことが知られているだけであったようです。
それがこの宮殿によって当時の現物の存在が明らかになったという何やら大変貴重なもののように素人のおばさんは思うのでありますが、ね。

私の目には、小さな、神さまをお祀りするお社のような建物に見えました。元の色は黒?だったのでしょうか。部分的に翡翠色に塗られた部分があり、その扉は金箔が施されていました。
岩肌に接して安置されています。

これ…。国として保護していかなくていいのかなぁ。
国宝と重要文化財ではその扱いやら、保護が全然違うと思うのだけれど…。その辺はおばさんがいくら語ろうが何にも変わらないし、変えられないし、調べたところで虚しいので、この辺で。

No.160

こちら布引観音さまは、まさにそろそろ蓮の花が咲こうとしておりました。
崖に立てられた柵の外側に鉢が置かれ、そこに蓮が植えられています。
蓮が咲いたらそれはこの見事な景観のうちに咲くものであります。
それはまた見事であろうなぁ。


で。
忘れそうになりましたが、あの使われていないのではないかと思ったという御堂と、岩山に組み込まれてはいない御堂について、御朱印をお授けいただく際にお伺いいたしました。
使われていないのではと思った御堂は『護摩堂』なのだそう。使われているかどうかまでは、さすがにちょっとデリケートなものなのでお聞きしませんでした。
そして、何やら新しそうな、崖に埋め込むように建てられていないと申しました建物。
それ、な、なんと!新しいどころか、室町時代の建物なのだとか。
つまりは観音堂の次に古いものということとなります。
こちらはどこか別のところにあった『白山社』を、何やら移動する必要が生じ、粗末な扱いはできないということでこちらに移築したとのこと。
…「なにやら新しそうな…」とか書いてましたよね。
ええ、白木の、私には新しいものとしか見えなかった建物です。室町時代、だそうです。
骨董品とかならいざ知らず、白木の建物の新しい古いもわからないなんて。

珍道中もいいところです。
もはや時空すら超えましたかね。

No.161

布引観音堂さんの横に布引岩というのがあるそうです。
おそらくは白く見える岩肌のことを指すのだと思います。

布も岩になりましたか…。


さて、こちらで御朱印をいただきました際、いただきました〝縁起〟が以下となります。

読んでかみ砕くのに時間がかかる私でありました。
白い紙に赤い字で、牛と老婆の姿を交え書かれたものでありました。

 [布引山釈尊寺縁起]

牛に引かれて布引の 山々布引く釈尊寺 御寺を詣る人々は 山の縁起をたづね見よ
  
寺は聖武の御時に 僧の行基が開基より 西行法師も三年へて 晒らす御歌を残しけり
  
それその昔なつかしく 千曲川辺の赤岩や 信心浅き夫婦等が 世にも稀なる言ひ傳ひ
  
或日媼は留守居して 川に布をば晒せしが 一匹の牛現れて 布をば角にかけり行く
  
媼驚き後追いて 北へ走れば善光寺 思はず詣る御仏の 光り仰ぎてひざまづく
  
戻りて仰ぐ布引や 山風時にあれいでて それかと見れば岩上に 晒せし布を吹きつけぬ
  
今布岩の名もそれよ 取るにすべなき岩壁を 見る見る媼は日を過し いつか化石となりにけり
  
翁媼を探しきて 化石となれる悲しみに 岩にまばゆき布見つつ 烟と遂に消へ失せぬ
  
後人それを憐れんで 祠を立ててまつれるか 牛と化せしもありがたや 聖徳太子の観世音
 
霊験日々に新たにて 光りかがやく布引の 山の真清水くむ人は 心すまさぬものぞなき

No.162

さて。
小諸といえば、小諸城、小諸城址である懐古園…くらいしかパッと頭に浮かばないのが私。

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ

有名な島崎藤村の詩でありますが、遊子=旅人であります私は、その古城のほとりに行ったとて、雲が白いことに心が弾んでしまうくらいですし、そもそもが小諸城って誰のお城?というところからつまづくくらい。
まぁ、布引観音さん、釈尊寺さんに参拝いたしましたので、牧野氏が城主であった時期もある、ということは学びました。
廃藩置県の頃まで城主のいたお城であったことも、かつて子供たちと共に懐古園に行って学んでおります。

でもその最後の城主は誰だ?

…そんな奴でございます。
懐古園は駐車場料金と別に入場料も
かかるので、たいそうもったいない。
なので今回は懐古園ではなくて小諸にあるお寺さんをまわらせていただきました。

そのひとつが夫のおすすめでありました【海應院】さんであります。

No.163

この【海應院】さんは、夫が事前に調べて行きたいと思っていたところということで向かい…向かうのですが、そう、あの珍道中の隠れた立役者、メーカー純正ナビさんが、またまたとんでもない案内をしてくれたのと、この小諸というところは、古くからの土地柄ということなのでしょう、駐車場がほぼない状態で、海應院さんの周りをぐるぐると走ることになります。
それでも私どもも…夫は、ですね、…夫はナビの癖を学習してその先をさらに読むようにしてはいるのです。
ナビ上に示される地図を見て、正面と思しきところ、駐車場と思しきところ、そこへの道を見て、それでナビに指示を出すようにしているのですが、今回はその正面がどちらにあたるか、駐車場と思しきものはどこかが、一切読めなかったのです。

で。
最悪銀行さんの駐車場に、と思ったところでお寺さんの駐車場を発見したという次第で。
これはナビに分かろうはずがない。

ということでようやく到着した海應院さん。なぜか裏口から入りました。通用門が開けられていたので、もしやここから入るのか?と思って入ってみました。どうやらその通用門、この辺りを散策される方々のために開放してあるようで、御本堂の真横に出る門でありました。

ん!?

うわぁぁ。まず目に入ってきたのは大きな松の木。そしてお寺の境内を横切るように建てられた渡り廊下であります。庫裏と、鐘楼と、それから…檀家会館のような建物になるのでしょうか。雨が降っても傘をささずに移動できる瓦の葺かれた風情あふれる渡り廊下です。
私はその渡り廊下に目がいったのですが、下調べしてあった夫は松を見ていたようです。
私はこの時もう松の方はまるで眼中になかったので、それは後々書くとして。
まずは御本堂前で合掌参拝させていただき、私たちは正式な入り口を目指して歩きだしました。…そう、二度も前を通った細い山道です。
山門の横にこちらの御由緒書きが二種類、立看板となって設置されていました。こちらもきちんと屋根のある例えるなら大きな伝言板のようなものとなっています。

曹洞宗 福聚山無量寺海應禅院というのが正式な名称のようです。
天文五(1536)年の開山のようです。
本寺は群馬県松井田にあります補陀寺だとされています。


No.164

この海應院さん。
天文五(1526)年の開創で、当時は小諸城内五軒町というところの左端にあったといいます。

慶長五(1600)年、後の二代将軍『徳川秀忠』公が関ヶ原に向かう道を『真田昌幸』に阻まれて小諸に足止めされた折、海應院住職が間に入って和睦を成立することができただそうです。
その御礼として秀忠公から【下馬札】と、徳川家の印の入った団扇と、高麗焼の茶碗を賜り、それは今も本堂に展示されているのだといいます。
【下馬札】があるお寺ということで、江戸の時代が終わるまで、参勤交代の大名は駕籠や馬から降りて寺の前を通過していました。

慶安ニ(1649)年に今の場所へと移動となるのですが、これは元あった所が城主の御用地にあたるということで替地として元々寺のあった現地を与えられて現地に移動したということのようです。

寛文時代と寛政時代に火災があり、ことに寛政五(1793)年の火災でこの時、古い記録や寺宝がことごとく失われたと記されています。
しかしながら、秀忠公より賜った下馬札等と、前庭の老松は再度の火災にも残ったといいます。

前庭の松は平成十二(2,000)年
現在で樹齢三百七十年といわれ【潜龍の松】、と呼ばれるものであります。

なお、【コモロスミレ】というこちらの境内で発見された天然記念物があるそうで、濃い紫の八重の花を咲かせるものなのだとか。
今もこちらの参道に咲くのだといいます。

No.165

そんな大人向けと子供向けの二種類の説明が、山門の外に大きく掲示されています。
こちらのお寺さんの寺紋は長野県善光寺さんと同じものでありました。
善光寺さんの寺紋は『本田善光』卿の家紋であるとされます。
ちなみに善光寺の寺紋は『立葵紋』、そして徳川家の家紋はあの有名な『三つ葉葵紋』
実は本当は家紋というものは平安末期とのことで、本田善光卿の家紋ということですと時代関係の辻褄が合わないらしいのですが、ね。

まぁそういったものは研究者さんにお任せします。
同じなんだなぁと思っただけで、私にしてはなかなかの観察力と着眼点ということで、もうそれで満足なので。

そういった由来とかの書かれたものはないようです。
ただ、善光寺さんは無宗派でこちらは曹洞宗。厳密にいえば善光寺さんは『大本願』と『大勧進』とがあって大本願は浄土宗、大勧進は天台宗。
まぁ、たまたま、なのかもしれないし。
同じだったよ。へぇそうなんだ。
くらいにとらえてやってください。

No.166

本当は裏口から入っているので、戻る道はすでに通ってはいるのですが、できるだけ見ないように見ないようにと歩いてきて、いかにも山門から歩いて登っていくかに、自分の記憶を改ざんしようとしていたり。

山門を通って。石畳の参道を歩きゆくと私好みの御仏が四面に彫られた石幢があります。
突き当たります。
それを北に曲がると、薬医門様の中門があります。この門の冠木には山号の偏額【福聚山】が掲げられています。
さらに渡廊下門をくぐると本堂が目の前に広がっています。
いかにも大きく広そうな御本堂は、あるいは座禅修行の場ともなっているのかもしれません。

そんな御本堂前は広々とした芝庭園になっていて、そのひだりてには、樹齢380年を超えるという【潜竜の松】が圧倒される存在感で横たわっています。
潜竜というのは、『いまだ湖水・河川あるいは低い雲のなかに潜んでいて、天高く昇らない竜』だといいます。

根元から立ちあがり横に這う松の幹は竜の身体で、松の枝葉は竜が潜み隠れている雲あるいは水煙に見立てることができます。
ひび割れた幹の表皮は、あたかも竜の鱗のように見えます。
地面近くに低く身体をくねらせている松の形は、いかにも今は身を伏せてこれから天への飛翔を狙う竜の趣があります。
この松もまた大変手入れ良くされています。
本当にきれいな庭園…境内です。

御朱印をいただきました。
【福聚海無量】【急急如律令】と書かれています。
き、急急如律令、で、ですかぁ?
安倍晴明さんですかぁ?
…このお言葉の書かれた意味をお聞きしようにも、すでに庫裏の戸は固く閉ざされてしまいました。

帰宅してのち調べたところ、このコロナ禍が速やかに落ち着くようにとの願いを込めてお書きになられているようです。
ちなみに…対応してくださったのは女の方であまり何かをお聞きできるような雰囲気の方ではなく、書き置きの御朱印を渡すとスッと戸をお閉めになりました。
コロナ禍、あまりこういった対応もこころよくはないものかもしれません。申し訳なかったです。

No.167

かつては酒屋さんを営まれていたという、お花好きのご夫婦のお庭は、元はお店の駐車場であったものも含まれてかなりの広さにもかかわらず、所狭しとお花が置かれています。

「あなた〝レンゲショウマ〟をご存知かしら?」
存じ上げないとお答えすると、
「とても清楚で可憐なお花なの。ぜひ見に来て」

クルマで十五分くらいのところにあるそのご夫婦のお宅です。

さて、どうしよう。

コロナ禍、また大きな第七波が訪れてしまいました。

No.169

今日七月十四日は、栃木県日光市の【慈雲寺】さんの法楽の日だと、輪王寺さんでいただいたカレンダーに書かれています。
ほおぅ。

慈雲寺さんは今は無住の、『憾満が淵』にあるお寺さんで、【並び地蔵】別名【化け地蔵】とも呼ばれるお地蔵さまで有名なところです。

うーん。
夫が仕事に出たあとに出発しても間に合うんじゃない?(おいおい、単独かよ!というお声がかかりそうですが。笑)

そこでちょいと輪王寺さんのホームページを確認いたしましたところ、
『毎年お盆中の7月14日にこの慈雲寺にて当地に眠る万霊の回向をしています。
期間:7月14日 午前8時20分 』


…。

今すぐ出れば余裕で間に合うけど、それはちょっと。さすがにご主人さまのお食事のお支度をしないと…。

そうかぁ。
お寺さんの朝は早いよなぁ。…私の朝も早いのだけれど、なぁ。

せめて家から祈ろう。また大きな波がきてしまった新型コロナウイルス感染症の収束を。
若者たちが希望が持てる未来になりますように。
再び人々が、愛しい人と心身を寄り添わせ生きられる世となりますように。


…慈雲寺さんの法楽、〝当地に眠る万霊の回向〟だってば。


No.170

群馬県の私の住まう辺りは八月盆ですが、東京など地域によっては、盂蘭盆会(うらぼんえ)が行われる期間。

お盆は正式には『盂蘭盆(うらぼん)』といい、サンスクリット語で、『逆さに吊るされたような苦しみ』を意味する『ウランバナ』の音写という説と、イラン語で『魂』を意味する『ウルヴァン』の音写との説があるといいます。
日本では盂蘭盆会の期間に盆器に供物を供えることから、略してお盆と呼ぶようになったとも言われています。

お盆の由来は、お釈迦様の弟子の『目連尊者(もくれんそんじゃ)』が、餓鬼道に落ちている亡き母を救うのはどうしたらよいのかと、お釈迦さまにお聞きしましたところ、雨季の『安居(あんご)』という修行が終わる『7月15日の満月の日』に僧達を集め飲食を供養するとよいと言われます。
修行を終えた僧たちに飲食をふる舞い供養したところ、母は極楽浄土へと行くことができたという言い伝えに習い、始まったとされています。

そんなお盆、実は満月と深い関係にあり、旧暦では十五日が満月、朔日は新月ということで、お盆のお中日は必ず『満月』だったということになります。
昨日はあいにくの雨でありましたが、スーパームーンであったそう。

満月の月をご先祖さまはじめ、亡き人と愛でると思うと、なんだかとても風情があります。


また、お盆の時期に、『施餓鬼会』を行うお寺さんが多いよう思います。
もともと施餓鬼会は、期日を設定して行うものではないので、それが春や秋のお彼岸であったり、お寺さんによってまちまちであります。
お盆中に施餓鬼会を執り行なうお寺さんが多いのは、お盆の期間はあの世とこの世の境があいまいになり、ご先祖さまの霊だけでなく、無縁精霊や餓鬼、地獄の精霊もやって来るとされるため、盂蘭盆の期間に施餓鬼会を行い、多くの精霊が救われるよう供養するようになったとも。


そう言われるとなんだかお盆期間がすこぉし怖くなる私でありまして。

うーん。
そういえば子どもの頃、鬼太郎の妖怪ポストが本当にあればいいのにと、思ったことを思い出しました。
怖がりなくせにそういったお話やらテレビ番組が好きな子どもでありました。

No.171

海應院さんでお授けいただいた御朱印に書かれていた【福聚海無量】という言葉。
何かありがたい意味のある言葉なのだろうと調べてみました。
【観音経】の中の最後にある一節なのだそうです。

具一切功徳 慈眼視衆生
福聚海無量 是故応頂礼

具一切功徳 :一切の功徳を具し

慈眼視衆生 :慈眼をもって衆生を視たもう

福聚海無量 :福の聚(あつま)れる海は無量なり

是故應頂礼 :是の故に應(まさ)に頂礼(ちょうらい)すべし

というもののようです。

福聚海無量という言葉は、この御朱印に書かれていることからもわかりますが、この一文だけを切り取って使われることがよくあるようで、掛軸などにもよく見られるもののようです。
福聚海無量の〝聚〟の文字が〝寿〟とされている書もあるようです。

なるほどこちらは【福聚山無量寺海應院】さん。山号寺号、この観音経の福聚海無量からなされています。

しあわせをもたらす功徳の量が海のように広大であるということであり、観音さまの福徳を賛美していった語となります。

ここまできたら、海應院さんのご本尊さまは観音さまなのかと思いきや、釈迦如来さまとのこと。

うーん、ふ、深いなぁ。

No.172

日本では古来死者に鞭打つことは慎むべきという倫理観があります。
〝死んだら仏〟という言葉があるくらいです。

あまりに衝撃的な亡くなり方にショックを受けたこと。
死を悼むこと。
それは多くの国民がそうあった、そうであったと思います。

でもそれと国葬とは違う。
全額国税ということも含めて、あり得ないことです。

もっと国民を見てください。

国民が安倍氏の死を悼む気持ちを、台無しにしていることに気づいてください。

自民党がそういった形で送りたいなら自民党葬という形でいいでしょう?政治献金はあるようですし。

私は死者に鞭打ちたいわけではありません。
国葬というものに反対するだけです。

もう葬儀はすでに執り行われました。増上寺さんは立派なお寺さんです。そこでしめやかに執り行われました葬儀になにが不足しているというのです。
増上寺での葬儀には、家族葬と云いながら多くの著名人が参列していました。
どこで線を引かれるのか、一般弔問者の献花台があり、自分は家族ではないからという良識を持った方がそちらに献花や記帳をしたというわけですか?
だから、全ての人が参列できるよう国葬がしたくなったのですか?

ならば自民党葬をそういった形で執り行えばいいでしょう。

国葬を執り行なわれる方とはどんな方なのですか?
何を元に誰が決定するものですか?

決定しないでください。

安倍氏関連での税金の無駄遣いは、もうあのマスクで終わりにしてください。



No.173

この海應院さんのそばには、ナビの画面どころかまさに目の前にお寺さんがありまして。
それも一つではなく二つも。ただ、どうナビ上の地図を見ても駐車場があるように見えない。

そこで駅側等に駐車場はないかと、探すためいったんその辺りから離れました。
うーん。…わからない。

古い、城下町の名残が色濃く残るこの小諸の土地はナビに映る道路をみてもどこに出、どこにつながるのか、なかなか読めない。
とりあえず、駅側には駐車場はないらしいことは現地をみてわかりました。
どうしよう。

懐古園に行けば駐車場はあります。
そこから歩くか。
そう話すうち、ナビに本陣主屋というものが映し出されていることに気づきました。そのそばには大手門があり、さらにその辺りに行けば、こもろ観光局というものが!
交番もすぐそばにあります。

そこだ!

しかも大手門があるではないですか!はじめて懐古園を訪れたときとはまるで違った印象であります。



No.174

懐古園を初めて訪れたときは、まだ幼い子どもたちを連れてのことで、そもそもが懐古園が城跡といった認識はなく、動物園など子どもたちの喜びそうなところということで選んだ場所でした。
それでも、中に入って歴史オタクの夫の解説を聞けば、なるほど城址と思われたもので、遊子(当時の私の)はその時の流れに無常を感じ、あわれを感じたりしたものであります。
まぁ、子どもが喜ぶための公園ではなく、あくまでも小諸城の跡を遺そうとしたものでありますので、子どもを喜ばせるといった意味ではあまり面白いところとはいえませんでした。
そして今も城址とかにはまるで興味が持てない私は入場料のみならず駐車場料金まで払って、三度目の来園…をする気にはなれず、駐車場としてのみしか考えておらず、ならば大手門や本陣主屋の方に行けば駐車場もあるやもしれないと、ローリング。
そも、ナビ上にある観光局というところに行けば、駐車場等の情報が得られるだろうと、そこを目指しました。

そのこもろ観光局のすぐ前に。立派な駐車場があるではないですか!
まあ、当然有料駐車場ですがね。
そしてその観光局に伺いたかったのは二つのお寺さんの駐車場情報。そこから歩こうとか考えてはおらず、観光局の隣の空き地に停めて、まずはその空き地に停めて良いものかをお聞きしましたところ、
「前の駐車場に入れてください」
ええぇっ?
他の駐車場のありかを聞くだけで?
有料駐車場に停めなければならないって?
笑顔で話しているものの私の内心は上記したもの。
そんな観光局では小諸はさらなる観光地としての発展は望めないぞ!と内心思いながらの笑顔。
なんて裏表のあるヤツでしょう。

しかぁし。
その駐車場、二時間までは無料とのこと。
内心でだけ怒ってて良かったぁぁ。
でも結局のところ教えてもらったのはそこの駐車場が二時間無料という情報のみ、で終わってるんですがね。

少なくともそこから大手門はすぐそばです。

なんならここから歩いてあのお寺さんまで行って帰ってきても、さらなる追加料金は一時間ごとに百円と駐車場に書いてありました。

よぉし、ここから歩いていこう!

No.175

前回も述べました通り、私、お城そのものが残っているものであれば
それは「おおっ!」とか思い、入れるものなら是非にと希望し、かつてそこに暮らした人たちに想いを馳せたりもするのですが、「かつてここに…」のような、〝穴〟だとか〝崖〟だとかですと、お城の知識というものが皆無ですので、全くイメージできず。

ここ小諸の小諸城のように全国的にも珍しかったという、城下町よりも低い穴城とか言われてもまるでピンとこず…。
やはりこちらも大手門、だとか、三の門とかを見ても、「おおっ!大きい!」程度の感想しか述べられず。
ただ、大手門、三の門の間の距離、さらには懐古園までの距離を思うと、「うーん、お城って大きなものだなぁ」というくらいにはイメージできるかなぁ。

そんな私ですから、夫につきあって大手門を見たというだけで、まさに小学生の社会科見学レベル。
そう、「おおっ、大きい!」と思った、ただそれだけで…。全国のお城好きの方々、すみません。

大手門を見、つらつらと歩いてまいりますと、こんどは鍋蓋城跡となります。鍋蓋城は戦国時代に造られた平山城の跡だといいます。こちらにいたってはもう私にかかっては「へぇぇ」ぐらいの言葉しか出てこない。
でもそれは私だけじゃないんです。
ここ小諸に住んでいたかつての方々もそうだったんです。
鍋蓋城跡、実に昭和の時代に城跡を突っ切って道を通しちゃってるんですよ、えぇ。
そんなわけで私としては『鍋蓋城跡』というよりは伝統建築の並ぶ古き良き時代の商店街を歩いているような感覚でしかありませんでした。
味噌醤油屋さんですとか、骨董屋さん、呉服屋さん等々。

そんな街並みを堪能しながら歩いていると、何やら門が!
そうそう、ここ、ここ!
扁額のかかった、小さいけれど立派な門の、【光岳寺】さんであります。



No.176

その扁額、『天機山』と書いてあります。
そう、光岳寺さんの正式な名称は【天機山傳通院光岳寺】。

光岳寺は『於大の方(徳川家康の生母)』を弔うために、ひ孫にあたる『松平憲良』公が寛永元(1624)年に建立したもの。

慶長7(1602)年に於大の方が死去すると位牌寺となり、於大の方の法名「傳通院殿蓉譽光岳智香大弾定尼」から【光岳寺】と号するようになったといいます。

当初は松平康元公の領地である下総関宿(千葉県野田市関宿三軒家)にありましたが跡を継いだ松平忠良が慶長20年(1615)に大垣藩(岐阜県大垣市)に移封になると大垣に、松平憲良が寛永元年(1624)に小諸藩に移封になると小諸に随行しました。
その際、旧小諸藩主の菩提寺だった『松翁山芳泉寺』の境内を受け継ぎ、改めて開山し【天機山傳通院光岳寺】としたといいます。

正保4(1647)年に憲良が死去すると嗣子がなかった為に改易となると庇護者を失います。
代わって入封した牧野家から庇護され、それから後の明治の世となった折、牧野家の菩提寺である『泰安寺』が廃寺になると歴代牧野家の位牌が移されています。
【光岳寺山門』は江戸時代中期の享保元】元(1716)年に建立された楼門で、内部には釈迦如来像や文殊菩薩像、十六羅漢像が安置されておられるそうです。

【光岳寺総門】は【小諸城】から移築された【足柄門(高麗門造り)】。
案内板によると『足柄門』は、慶長元(1596)年に建造されましたが、寛保2(1742)年の大水害により流失してしまったそうです。
現存するものは明和2年(1765)に再建されたものといいます。
明治5年(1872)、光岳寺山門として移築され、平成12年(2000)に修理・修景事業が行われたようです。

そうなんです。
徳川家、それも家康公の生母に縁あるお寺さんです。
御本堂の屋根には『徳川』『松平』『牧野』の三つの家紋が掲げられています。



No.177

…などと光岳寺さんのあれこれを書いておりますが。
実際は…。

かの小諸城から移築したという山門、足柄門をくぐると、ですね。
ゆるりゆるりとこちらに向かって歩いてくる一匹の猫が♡
このあとの写真はもう、猫の写真集か?ってくらいに、猫、猫、猫♡

歩いてくる様子。近づいて甘える様子。
そんなことではいけないと山門に向かって歩き出しますと、な、なんと猫も一緒に歩いてくる!
そうなるとまた嬉しくて。
こちらのお寺さんでは本当に猫の写真しか撮っていないことにびっくりしました。
屋根の上の〝徳川〟〝松平〟〝牧野〟の家紋どころか、御本堂の写真すらないんです。
鐘楼の脇を過ぎると、猫が先だって歩いて行きます。
もうまるで「御本堂はこちらだよ」とばかりに!
そして御本堂前で参拝している間も見守るように御本堂すぐ前で待っていてくれるのです♡

…変わった模様の猫さんです。白と黒のハチワレかとおもえば、お鼻の辺りに黒猫の座った後ろ姿のような模様があるんです。でーんと座ってしっぽを横に流して座った猫の後ろ姿そのものです。前脚には膝当てがあり。後ろ脚には白と黒の何とも不思議な模様があって、両足には白いソックス。


…すみませんねぇ。

珍道中一家は揃いも揃って全員猫好きなんです。
まぁ、この日はいつもの珍道中コンビしかおりませんでしたけれど。
夫などは猫を見ると猫撫で声となり、顔などはもうとろけてる感じ。

こちら、光岳寺さん。
…レスをあらためましょうかね。

No.178

…と、いうわけであらためて。

光岳寺さんはちょっと複雑な交差点の突き当たりにあります。
伝統建築の並ぶ風情ある通りを歩いて行った突き当たりに、かの小諸城から移築したという足柄門が見えてきます。
足柄門は切妻の瓦葺。お城から移築したという割にはいたく小さな門であります。
近づいていくと少し変わった建築様式であることがわかり、四本の柱があって、うち二本はその切妻の瓦を載せたもので、その柱の前に二本の柱があって、それを冠木でつないであり、その前にある柱にも小さな瓦葺きの屋根がついているのです。
それを高麗門形式というようです。
この高麗門形式というのは、屋根の奥行きを薄くできるため城内からの視覚を遮る面積が少ないため、城門としても好んで採用されたもの、なのだそうです。
…あら。お城では多く見られるものらしいです。
小さいのは置かれた場所柄のようで、二の丸と三の丸の間の土手を崩して道を作ったそ、その通りにかけられた門だったようです。

その足柄門…ではなくて総門をくぐると、猫…ではなくてひだりてに見事な針葉樹があります。まるで空に浮かぶ雲をイメージしたかのような剪定がなされています。
石畳の参道が敷かれ、その正面には大きな楼門がそびえています。

楼門の手前右側には、大きなお地蔵さまの石像が。
大きめなお地蔵さまにさらに大きな光背があります。優しくて、そして凛とした、良き方へ導いてくださるようなお力を感じるお地蔵さまです。

No.179

光岳寺さんの楼門のそばにおられるお地蔵さまの護るお力、そして良き方へと導こうとされるお力の強いこと。
それはこのお地蔵さまの石仏に込めた祈りと願いもあるようです。
『流死精霊爲菩提也』
『○○旅人馬足難除』
と彫られておりました。
たった一枚だけ、それも横から写させていただいた写真からそう読み取れました。
(…猫に気を取られ過ぎたため、向かって左側に彫られた二文字が読めません。泣)

さらにはきっと楼門におられる釈迦如来さま、文殊菩薩さま、十六羅漢さまたちのお力と相まってあるのでありましょう。

こちらのお地蔵さまのお写真を他に撮られた方はおられぬかと、ネットを検索いたしましたが、一枚のみで、その一枚は文字をぼかされたのか一文字も読めず。
お力もある、大変お美しいお地蔵さまです。
楼門や、迎え出てくれる猫に気を取られてしまいがちなところにおられますが、こちらをお訪ねになられる方がおられましたら、ぜひこちらのお地蔵さまもお参りなさってください。
あ、ちなみに、ですが、私、霊感もスピリチュアル的なんちゃらも何もなく、ただの私の直感であります。

そして…。
ネット上、こちらの楼門に登り、釈迦如来さまや文殊さま、十六羅漢さまたちのお写真をお撮りになった方が何人かおられました。
…いつなんだろ。
いた御開帳されるんだろう。

遊子(私)は今ごろになって悲しんでいます。

No.180

群馬県松井田町の【碓氷峠熊野神社】さん、そして長野県軽井沢町の【熊野皇大神社】さんにお参りいたしました。
二ヶ所の神社さんにお参りしたなら一つずつ書けばいいものを…と思われた方もおられましょう。

しかしながら、この二つの神社さんを語るには、このように二つお名前を並べてお書きした方が伝わりやすい。(ただでさえわかりづらい、不思議な日本語を使うおばさんが書いておりますし)

何故ならば。

鳥居のちょうど中央に県境があり、一つの境内に【熊野神社】さんと【熊野皇大神社】さんが鎮座している、世にも珍しい神社さん、なのです。

…通じました?
日本語にすら自信がなく、当然それに付随する語彙力も乏しいおばさんなので、ちょっと変わったものを紹介するときには、ちゃんと正しく伝わっているかどうか、かなぁり心配になります。

元は一つの神社さんだったらしいのです。
かつては〝長倉神社熊野宮〟または〝長倉山熊野大権現〟と称したようです。
時が流れ、社地が信濃國と上野國の境界となり、上野國も入ったために〝熊野宮〟〝皇大神社〟〝碓氷神社〟等さまざまな呼び名があったようです。

社殿は一つの神社さん。
地元では『峠さん』と呼ばれると言います。
社殿はその県境の中央に、そして左右、それぞれの県に宗教法人がある、というわけです。
つまりは戦後、宗教法人法が制定され、都道府県ごとに登録することが必要となったためにこのような複雑にしてユニークな神社さんとなったというわけで、決してそれぞれの県の商売っ気からそうなったわけではないのです。

つまりは社殿は一つながら、それぞれに宮司、責任役員、氏子総代がいて、この一つにして二つの神社さんを維持しているということのようです。
御祈祷も別なら、当然、御守りや御朱印も別々に存在しています。

当然、県をまたいでおりますので、住所も二つ。
熊野皇大神社は、長野県軽井沢町峠町一番地。
熊野神社は、群馬県安中市松井田町峠一番地。
まぁ、県こそ違えど、同じ峠一番地というところも、ユニークといえばユニークな。

そうそう、映画化もされたようで、全国的にも有名となった【安政遠足マラソン】の決勝点でもあります。

No.181

まぁ、私、群馬県人ですからね。熊野神社さんからおまいりしました。

しかしあくまでも社殿は一つ、(しつこい!)なので、社殿の前に置かれたお賽銭箱 、それ自体は一つなんですが、群馬県側には熊野神社さんの、長野県県側には熊野皇大神社さんのお賽銭が納められるようになっているんです。

私は真ん中に立って、熊野神社さんの方にお納めしたのですが、夫はきちんと(?)二つの神社さんにお納めしたのだとか。
うーん。

そうして熊野神社さんの社務所に向かうのですが、な、なんと不在。

一方の長野県側の熊野皇大神社さんの社務所には三人ほどの方が詰めておられます。
(ま、先に熊野神社さんの社務所に行ったのは確かだし)と、皇大神社さんの社務所に入りました。
…。
…真新しくて、売店とかをついついイメージしてしまう、そんな雰囲気の社務所兼授与所でありました。いや、それが嫌いとかイヤとかでなく、むしろ胸がときめいてしまう私。
(おーい、こちらはあくまでも長野県側だぞぉ〜)と自分に言い聞かせたのは最初だけ。ええ、暴走の始まりです。

なにしろ。
こちらの御朱印、日本初の御朱印で有名でありまして、テレビでも何度もとりあげられた神社さん。
飛び出す御朱印、とでも申し上げれば伝わりますでしょうか。
ポップアップする、立体的な御朱印を全国初で授与した神社さんなのです。
…まぁ、『普通の』御朱印にこだわり続けていた私。
でも、そんなの関係ない!
ずっと欲しかったんですってば♡

それが…。
なかなか参拝できずにいた間に、な、なんと! ポップアップ御朱印が二種類になってしまっていたのです。
お、おぉ〜っ!
一体千円するのです。(値段ではありませんって?いやいや値段も大事な、大切な、…最重要着眼ポイントですって)
あまり悩むのも縁起が悪いような気がいたしますので、新作(?)のデザイン(?)の方の御朱印を授与していただくことといたしました。

こちら、ねぇ。
御守りも大変多くて。
しかも種類と言いますか、形も、なんですよ。
種類にいたっては、例を挙げれば『ロードスター守』とか。
ええ、あのマツダの名車、あのロードスターに特化した御守りです。
(ロードスター絵馬もありました。)
これは未だかつて見たことのない御守りです。ちなみにロードスターのみ、であります。まさにロードスターに特化しております、はい。

No.182

先ほど発見した、長野県の熊野皇大神社さんの公式ホームページ。
楽しいので是非、ぜひぜひ、ご覧になってみてください。

https://kumanokoutai.com/


初めてアドレスを貼り付けるので、正しく開けるのかどうかが、かなり不安なおばさんです。
もしも開かなかったら、『熊野皇大神社』と入力して探してやってください。

No.183

除夜の鐘を百八回たたくのは、人間の煩悩の数が百八個あって、それを祓うために百八回打つのだということはよく言われていることであろうと思います。

私はよく、
自分は煩悩の塊で、到底その数は百八どころではなさそうだと、ここでも何度か書かせていただいております。
…そんな数自慢みたいなことをしていないで、一つでも減らす努力をしろと、自分ですら思うのでありますが。

それが、です。
人間の煩悩は百八個どころではなく、な、なんと!八万四千個だという話を目にしました。
は、八万四千個〜っ?

煩悩(ぼんのう)とは、字の如く私達の心を煩わし悩ますということです。

この煩悩欲、人間誰しも持ち合わせているもので、仏さまは、人間には八万四千の煩悩欲がある、と仰せで、その煩悩に対しての教えとして、八万四千の教えを説かれてあるというのです。

そしてその煩悩を、さらに大きく分けると百八になるといい、さらにさらにそれを大きく分けますと五つになるのだといいます。
それで煩悩のことを煩悩五欲、五大煩悩とも云うのだそうです。

煩悩五欲とは。
・色欲
・飲食欲(おんじきよく)
・金銭欲(きんせんよく)
・睡眠欲(すいみんよく)
・名欲(みょうよく) 
以上を指すといい、この煩悩五欲に囚われ過ぎていると、やがて、人の道から踏み外すような行動が出てくるのだと。

例えば…男女の道で不倫関係や三角関係などを犯してみたり、
金の為だったら強盗もするし人をも殺したりする…また自分をよく見せたいがために、嘘もつけば、人をも平気で欺く、ということです。

この煩悩欲が、社会生活の秩序を乱してしまうというわけで、中国の故人、司馬温公は
「金を用ふるに用ひ様あり、金につかはれ金の番すなと、現世も未来も誤るは貪り也。」
という言葉を残しているといいます。
現在に於いても未来に遭いても、
煩悩欲に執着して大切な道を見失っては何にもならないという意味です。

「凡夫の第一に慎むべき事は、貪といふ字こそ根元なれ。」
「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の欲の根をたち切って、煩悩の枝葉を枯らすを信心と云ふ也。」と続くようです。


煩悩欲に囚われての生活では、本当の幸せは来ないどころか、返って苦しみの因を作ることになるので、煩悩欲を捨てることは出来なくても、煩悩欲に打ち勝っていく日々の生活が大事なことで。



No.184

生きている限り、尽きない物、それが煩悩であり、欲であります。おいしいものを求め、異性を求め、金銭を求め、名誉を求めて人々は苦悩してきました。

飲食欲、色欲、睡眠職、金銭欲、名(誉)欲。

最初の三つは生物としての当たり前の欲に思われますが、ついつい少し度が過ぎてしまうのが人間というもの。

動物はお腹がすけば必要最低限のものを食べますが、人間は特にお腹が空いていなくてもつい「口寂しい」とか言っては何かを口にします。
…ああ、なんと耳が痛いことでしょう。
ある程度おいしくてお腹が満たせればいいのに、それ以上を求めてしまうのが食欲にあたるのだといいます。

他の欲も同じことが言え、色欲とは男女の関係で、動物は繁殖期にのみ発生する欲です。オスはより多く子孫を残そうと、メスはより良い遺伝子を遺そうとします。
しかし人間はコミュニケーションや快楽の目的も多く、時には人の恋人、配偶者までも横取りする生き物です。
睡眠欲は、仏教においては、〝眠る〟、というよりも「だらけていたい」と言った方が近いもののようです。
「動きたくない、楽したい」というわけです。
…ああ、心が痛い。

金銭欲=財欲は金品や宝石類をとにかく集めてため込む欲。
名欲=名誉欲は「私凄いでしょう?褒めて、称えて」といった気持ち。虚栄心などもそこに含まれます。

たしかにこれらは皆、人間にしかない欲のように思われます。


欲は心の中に生まれますが、その発生源は人間を形作る五つの感覚、五蘊(ごうん)であるとされます。
これは人間を形作る心と体のことだとされます。
あらゆる物質を意味する『色蘊』、
物質を見て感じる『受蘊』
対象について考える想蘊』、
「あれをしたいな、しようかな」と思う『行蘊』、
判断や分析等を行う『識蘊』、
の五つから成ります。

一連の感情の中に生じるちょっとした迷いにもたくさんの要素が混じっている、それが人間だとお釈迦様は仰っています。

迷い、欲は煩悩であり、これがあるから色々苦しみます。

よく「上を見ればきりがない」と言います。
見栄のための受験勉強、就職、それが元で心を壊すこともあります。「みんな欲が悪いんだ」
…たしかに欲は苦しみの発生源です。

欲しいけど手に入らない、それは仏教における基本的な苦の一つ、【求不得苦(ぐふとく)】とされます。

No.185

欲は、いずれも煩悩であり、時には悲劇の元になったりもします。
ですがある意味では実は原動力です。
買いたい物があるならお金を溜めればいいのです。
解決策は実はどこにでもあり、仏教においての真実とされる「この体は仮の物で、一時的な物。欲もまた一時的な物である」ということに気づけば、迷いは晴れ、場合によっては悟りを拓くことだってできるということであります。

煩悩五欲は人間として当たり前のもので、それあっての人間であるのです。
煩悩五欲自体は恥ずべきものではありません。
ただそれをコントロールをしないととんでもないことにもなりかねないというものであるということ。
色々と見るから色々と分かるのですが、線引きが難しいのもまた事実です。
道に外れないように欲をコントロールして生きることが、人として生きること、なのかなぁ。

まぁ多すぎる煩悩、欲を、すこぉしでも減らすことが、まずは私の課題、かな。



とりあえず。
今日、殺人的な暑さが戻らなければいいなぁ。
各地で起きている豪雨がおさまって、その被害が少しでも小さなものであるといい。

…これは欲でも煩悩でもないぞぉ。

No.186

…この、下にある写真のカラス、可愛くないですか?

この子、実は、熊野皇大神社さんの御神籤なんです。

長いこと御神籤というものに縁なく暮らしていたこと、さらにはメンタルが絹ごし豆腐でありますため、御神籤を引くというのも実は一大決心が必要な私。
可愛い♡連れて帰りたい。
でも御神籤かぁ…。
そんな葛藤をしながらこの、八咫烏のたっくさん並んでいる箱を覗いていますと、一体一体、顔の造作が違うことに気づきました。
(どの子が「一緒に連れていって」と言っているだろう)
もはや御神籤とは異なる選び方にはいっています。
(この子だ♡)
手のひらにそっと包むように乗せて会計に…授与所の受付に連れて行きました。

うーん可愛い♡

えっ?け、結果ですか?

…御神籤って、さあひくぞぉ!って意欲満々でひいた時って、必ず結果が良かったりするじゃないですか。
少しでも引く前に躊躇うと、あまり結果がよくなかったりする。…そんなこと、ないですか?

…まぁ、そんな感じの結果です。
家に着いたから結果をみたものだから、ひき直すこともできなくて、ちょっとショボンとしたり。

でもね、可愛いんですよ。
玄関で、何か私の心を読み取って話を聞いてくれそうな、つぶらな瞳で見上げてるお顔が♡

とはいえ御神籤って神社でひいたものは、神さまのお言葉なわけで…。

『玉ちはう かみの めぐみの
 風うけて もえ出にでにけり
 のべの若草』

だそうです。

あとは…落ち込み具合から推測してください。



No.187

他にもたくさん、楽しくなるような御神籤や御守りがたくさんあって。
風鈴の御守りなんて、涼やかに見守ってくださりそうですし、そうそう、ペットの御守りどころか、ペットの御朱印なるものもあるようで、
なんかもう楽しいのです。
さながら夢の国のおみやげのショップにいるかのようです。
…これはちなみに本音であって、そういった明るくて楽しい気分になれちゃう授与所なんです。
いかにも商売って感じは全くなくて、…あの夢の国ってショップの店員さんからも夢がもらえるような楽しさがあるじゃないですか。
そんな感じなんです。

『厄玉』なる、素焼きの玉が販売されていて、それに願いを込めて、祓いたい厄の書かれた的に当てるっていうのもありました。
当てたい的の真ん前から、その的目がけて投げようとしていたら、
「その足形のとこから投げるんじゃない?」と夫。
…今回、どーぉしても当てたい的があったのになぁ、もう。

あ、私、球技が(も)大変苦手でありまして。
じゃあもうせめてどこでもいいから的に当たれ!っと投げたところ、バシッと命中!しかもちゃんと割れました。
ただし、命中したのは『病』の的、だったんですがね。

「あそこに当てたかったの?」
…なんか無邪気そうに聞いてくる夫の憎らしいこと。
「…どこでもいいから的に当たれってそれだけを念じて投げたのっ」
「ふぅーん」

夫はやっぱり何か的には当ててはいたけど、その的がなんだったかさっぱり覚えていない私。
「あそこに当てたかったの?」
「まぁね」…あ、そうですかっ。


…それでも。
今年の人間ドックで要精密検査とされたものが、再検査で要経過観察になりました。
これ、即効性があるかもしれない。

No.188

この授与所の中を抜けていくと、パワースポットとされるご神木“しなの木”がございます。
熊野皇大神社さんの授与所は、その造り自体も不思議です。授与所入り口から入って、正面に御守りの平台があり、そこを突き当たりとし直角にひだりてに折れると、正面にガラス張りの拝殿があるのです。
そしてその拝殿を正面としてその左側に、御神木でありますしなのき木が大きくそびえているのです。

「科(しな)」の語源は「結ぶ・くくる・しばる」と言われ、開運・縁結びのご神木として古くより信仰されています。

このしなのの木。
はじめに、木の正面でご参拝をし、願いごとを心の中で思いながら一回りすると、願いが叶うと伝えられているといいます。
とくに願い事がなくても、一回りすることで、“一年寿命が延びる”“しわが一つなくなる”という言われもあるとか!
また、幹にはある一定の角度からしか見えないハートの穴もあるのだといいます。
しなの木は葉っぱがハートの形をしており、それだけでも縁結びのご利益が感じられます。
が、さらに縁結びのご利益を感じさせるのが、しなの木の幹にも“ハートの穴”があること。しなの木を一周しながら、どこにあるか探しながら歩かれる方々がたくさんおられました。

さて。
こちらの世にも不思議な神社さんのご祭神は、本宮(長野・群馬)に伊邪那美命、日本武尊の2柱。
新宮(群馬側)に速玉男命(ハヤタマオノミコト)、
那智宮(長野側)に事解男命(コトサカオノミコト)がお祀りされています。

熊野神のご神徳は幅広く、国土安穏、延命長寿、無病息災、開運招福、出世成功、商売繁盛、病気平癒、厄除け、盗難除け、縁結び、夫婦和合、子宝・安産などと人間の生活全般をカバーするものとなるのだとか。

No.189

神社の縁起によれば、景行天皇40(110)年、大和朝廷の命を受けた日本武尊(ヤマトタケル)は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て【碓氷坂】に差し掛かります。
折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな【八咫烏】が現れ、【梛(なぎ)】の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができたといいます。
尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まりとされています。

尊は碓氷峠に立ち、登って来た方角を振り返って、見ればそこには棚引く雲海が見られ、それに海を連想された尊は、東征の途中に相模灘で入水された弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲ばれ、
辰巳の方角(=東南の方角のことで関東平野が一望できる)に向かって「吾嬬者耶(あづまはや)」(=「愛しき我が妻よ」の意味)と3度嘆かれたといいます。
以後ここより東の国を吾妻(あづま)と呼ぶこととなったとされています。(日本書紀の記述による)


これらの御由緒より、それに因んだ地名が残っています。
神社の裏山の頂上を『留夫山(とめぶやま)』は武尊の足を留めさせた場所の由緒から付いた名前とされていますし、長野原や長倉は、嘆きある原が語源と伝えられています。


実は、こちらの神社さんが県境に建っている「いわれ」や「意義」は明確には分からないのが現状とされています。
ただ、元々山は山の幸を戴き、豊かな水を戴く生命の根源の聖地であり、従って神様の住む場所として昔より崇められて来たことは、碓氷峠に限ったことではありません。
明確な地図を持たない昔、峠を制することはその先の地域を制する為に欠かせぬ要素で、軍事的な要所だったのです。

ましてそこに日本武尊が勧請した神が祀られているとなれば、上州、信州の両国ともに手中に収め、その神徳を戴きたいと思うのはごく当然であったとも思われます。

そのようなわけから戦国時代には国境が激変し、武田信玄は広大な社領を神社に寄進したと伝えられ、その地名も残っているそうです。
その後、時を経て、江戸時代の初めに中仙道の整備と共にお宮の真中を改めて上州と信州の国境にしたのだろうと言われています。江戸時代の途中で国境が変更されたと記録はなく、それがそのまま現在の県境となったということのようです。


No.190

今なお地元では、長野県でも群馬県でも共に【峠さん』と呼ばれ、人間社会のルールの為に2法人となっていますが、信仰上に境が在るわけではなく、「二世安楽」を叶える峠の権現様として里人の信仰を集めています。
春秋の例大祭では現在でも両県の神職が一緒に御奉仕をされているといいます。

…とはいえ。



長野県側の熊野皇大神社さんと、群馬県側の熊野神社さんとでは、一つの神社さんとは到底思えないくらいに、今、方向性が変わっているようだと思わざるをえません。

門の外に立てられた立看板にすでにそれが見てとれます。

『県境にあるため一つの境内ですが二つの神社があります。
熊野皇大(こうたい)神社 長野県軽井沢町 ◀︎左側
熊野神社 群馬県安中市 ▶︎右側

お守り ご祈祷 ご寄付 社務所なども別になっています。


※軽井沢側は、右奥の建物か、階段下の社務所にて承ります。
門の社務所は、群馬県側です。お間違いのないようにお気をつけください。』

…門を入る前から物々しくすら思えます。


群馬県側の熊野神社さんは昔ながらの古色豊かな神社さんで、あえてそれを守ろうとしているかのようにも見えます。
なので、夢の国のおみやげのショップ(これはあくまでも良い印象からそう感じたと言う私の主観です)と見まがうような長野県側の皇大神社さんとは到底間違いようのない違いだと思うのです。
あえてそこまで書く理由はどこにあるのか…。

まぁ、良いようにとらえれば、皇大神社さんの御朱印やら御守りを求めてお越しになられた方が、群馬県側の社務所に入って、あれがない、これが欲しいという〝トラブル〟を避けようとして、ともとれますか。

皇大神社さんはしなの木が御神木で、一方の熊野神社さんは櫟(いちい)の木が御神木。

…両社とも日本武尊の伝説に由来する梛(なぎ)の木ではないのだなぁ、と、今年梛の木の小さな苗木を買って枯れてしまった苦い過去を思い出しながら、ふと思った私でありました。


元は一つという神社さんではありながら、対である随神さまも遠く離されて祀られていて、どこか切なさの残る、参拝となったのも事実です。

No.191



かつて使用していたタブレットが故障して、その直前なんとかスマホへと移行できた【神社仏閣巡り珍道中】。
ところが、それが間に合わなかったもう一つの【神社仏閣巡り珍道中・改〜東北路編】というスレがあります。
自レスのみの設定になっているため、もう書き込むことができないのです。

ずっと諦めていました。




が!

かつて、同じ小説・エッセイ投稿枠で、煌めくような内容と、さらに煌めく文才で、小説を綴っておられました方がおられました。
ファン倶楽部まで存在する大変人気の小説でありました。
その方が最近、新作をお書きになり始めたのかと思いきや、前回書いたものを削除しておられたようで。
私はリアルタイムでで最後まで読ませていただいていたので、削除されておられた事に気づかずおりました。

しばらく前から、楽しみに読んでくださっていた方に申し訳なかったとのことで、あらためて、(再)と称してもう一度読めるようにしておられるようでした。


その方がそうした作業をされておられることにはだいぶ前から気づいてはいたのですが…。
頭の悪い私は、自らそうした手段がある事に気づかなかっただけでなく、その方のヒントを得て、自分に当てはまる事がとんとできずにおりました。

それが、昨日、まるで何かが降りてきたかのように、
「あれ?もしかして、私も同じようにすれば続きが書けるのではないのか?」と閃いたのです。

…真似してもよいかしら。
一言お断りした方がよいかしら。
ですが、その方が書き込んでおられるスレにいきなりそんな内容をもって、乱入しても良いのかどうか…。

いやいや、聞かずに始めるよりも、ご本人のスレッドでもないところに乱入することの方がよほどご迷惑になりましょう。


うーん。

…こんな場末の、おばさんがヒーコラ書いているスレをお読みだとは到底思えないのですが、ここにこうして書く事で(勝手に←ヤレヤレ)お許しいただこう。


いつも小説・エッセイの注目スレにあがっておられました、正と続の同タイトルの小説をお書きになられました方へ。
どうしても自分の駄文の続きが書きたく、真似させていただきますこと、お許しください。



No.192

本日二十四日はお地蔵さまのお縁日。

姉から久しぶりに群馬県桐生市にある日限地蔵さまのお縁日に一緒に行こうとお誘いがありました。

が。
昨日、どうにも気持ちのふさぐようなことがあり、どうしてもその、通称『日限地蔵』さまと呼ばれる『観音院』さんに行きたくなり、お縁日の一日前ではありますが参拝に伺っておりました。

観音院さんの山門をくぐると、ひだりてに鐘楼があります。百円をお納めすると鐘を鳴らすことができます。
お縁日の日はさすがにためらわれますものの、こうしたお縁日以外の日にうかがった際には必ず鐘を撞かせていただいております。

蝉時雨の中、心の乱れを打つように一打。
蝉たちは怯むことなく同じように鳴き続けます。
そうだよね、生まれる前からずっとこちらの鐘の音を聞いていたんだものね。
命の短さを知ることなどなく、ただ与えられた命と生まれいでたのちの蝉としてのお勤めを果たす蝉たち。
蝉に、生きるとはどういうものかを教えられた気がいたします。

が。
…百八回撞けば少しはこの煩悩をふり払えるものだろうか。
鐘を撞いたその直後にすら、そんな新たな煩悩が生じるようなヤツの煩悩は、到底祓えないな、と自問自答のようなことを考えながら鐘楼を降ります。やれやれ。

いつもお寺の境内をお掃除されておられる男の方が木陰で一休みされていました。
「こんにちは」
笑顔で双方ご挨拶。こうした挨拶ひとつで気持ちが明るくなります。やっぱり挨拶は大切、です。

少し離れた地蔵堂横に設営された授与所から、お坊さまが出てこられたのが見えました。二月の涅槃会の法要で散華をまいておられた方であります。
明日のお縁日の準備をされておられるようです。
「お忙しいところを申し訳ございません。御本堂に上がらせていただき
ますがよろしいでしょうか」
…相も変わらず、図々しいおばさんです。

いつものように般若心経を読経させていただきました。
さすがに今日はお邪魔でしょうから、読経だけで下がらせていただきましたが、本当に居心地よい御本堂であります。
そして。驚いたことに涼しい!
真夏日のジリジリとする暑さの外とは一転した涼しさです。
もちろんクーラーなどは一切設置されていない、御本堂の戸も開け放たれた空間であります。にもかかわらず、この涼しさ!
これが御仏の住まう空間ということでしょうか。

No.193

【地蔵菩薩】さまは梵語で『クシティーガルバ』、
クシティは大地、ガルバは胎内の意、それを『包蔵する』と訳し、
〝大地を包蔵する、大地の蔵〟という意味から『地蔵菩薩』というのだといいます。
お地蔵さまは『石』で作られたいわゆる『石仏』が多く見うけられますが、地蔵菩薩が司る〝大地〟から産出された〝石〟にお地蔵さまが宿りやすいと考えられてのことだそうです。

お地蔵さまは、お釈迦さまのあと、弥勒菩薩が現れるまで、人々の苦しみを救う菩薩さまであり『二仏中間の仏』と言われています。


左手に願いを叶える宝珠(ほうじゅ)、右手に六道を巡るための錫杖(しゃくじょう)を持ち、六道をはじめ、あらゆる世界に往くことができるのがお地蔵さまの特徴で『六道能化地蔵菩薩』と呼ばれています。


昨日は、新型コロナ感染症の過去最多の感染者数となってしまいました。
すでにまた医療が逼迫しつつあり、発熱センターにはほとんど電話が通じない状況となっています。
これから先、まだこの傾向は続くものだと専門家は指摘しています。
今の感染力の強さ、広がり方をもってしても、国はなんら政策は打ち出す様子はありません。
それだけ経済も、国庫も逼迫しているということなのでしょう。


長い歴史の中、人類はやはりこうした疫病に苦しんだ時代はいくつもありました。
そんな中、今ほどに医療が発達していなかった時代において、人々は神に祈り、仏にすがって生を繋ぎました。


お地蔵さまのお経のなかに『延命地蔵菩薩経』というものがあって、そこには、地蔵菩薩の『十種の福徳』が記されていて、その中には諸々の病にかからない『除衆病疾』が説かれているといいます。

また『地蔵菩薩本願功徳経』というものには、二十八種の功徳が記され、その中に『疾疫不臨』があり、疫病などに感染しない功徳が説かれているのだそうです。

今日、お地蔵さまのお縁日。
あらためて、コロナの収束を、出来うるならば終息を、祈念申し上げました。


…それにしても。
お経というのは一体いくつ存在するのでありましょう。それをたとえ空で言えないにしても、そのお経の中にどのような教えであるとか、功徳であるとかが書かれているものかをきちんと学び、覚えておられるお坊さまというのは、あらためてすごいなぁと思い、ありがたいなぁと思うのであります。



No.194

今日7月26日は、なんと『幽霊の日』、なのだそうです。なんでも歌舞伎の『四谷怪談』が初めて公開された日に由来しているといいます。

ま、そんな理由なら…ねえ。

と、ところがです!
な、なんと、仏教辞典といわれるものに、
『幽霊は【幽冥界(ゆうめいかい)】に住み、時々この世に姿を現す精霊や死霊、亡魂にあたる』と定義されているというのです。

ひえぇっ。

こ、これお坊さんがお話しされておられるものですし、しかも仏教辞典に載っているって…。
ま、参ったなぁ。
い、いるって…いやいやおられる、存在なさるってことですかぁ。


「『幽冥界』とは、神仏の光が及ばない暗闇の世界で、地獄、餓鬼のような世界とも例えられ、考え方によっては、地獄道や餓鬼道も幽霊のいるところ、なのかもしれない」とおっしゃるのです。


日本ではよく、幽霊は足が無いように描かれますが、
足が無いのは『中有(ちゅうう)』という生と死のどちらでもない状態のため、地に足がついていない、彷徨う魂のことを表しているとされるのだそうです。

【十王図】という死後の裁きの様子を描いたものの中には、次の世の生まれ変わりが定まらない亡者が足のない状態で描かれているといいます。
たしかに…。

一方地獄行きが決定してしまっている亡者には足が描かれています。

足が無い方がまだ成仏する可能性を秘めている、ということになるそうです。

そ、そんなとこまで描かれていたんだぁ。
ちなみにわが家には、子供向けのそういった絵本があるんですが、しっかり十王図、入ってるはず。
怖いなぁぁ。
お寺さんの中で拝見するならまだしも。
やれやれ、幽霊まで描かれていたとは…。
この絵本はもう子どもたちは大人になっていて、珍道中を始めた私が自分のために購入したものです。

お盆の行事で、お寺さんでは『三界萬霊』(さんかいばんれい)という、すべての魂の成仏を願います。

ぜ〜ったい、お盆にはお寺さんに行って、おまつりされてる三界萬霊の供養だなに向かい、成仏を祈念しようっと。

No.195

最近、【七十二候】というものをよく見るようになりました。もう何年も前からそれをあらわした本を持ってはいたのですが、フルタイム働いていたおばさんはごく稀にしかその本を紐解く時間すら持てなかったのです。

そもそも七十二候を〝しちじゅうにこう〟と読むことすらその本を持ちながらにして最近まで知らなかったという、まぁ、宝の持ち腐れと言いますか、本としてほとんど機能していなかったということで…。

前回は蓮初開の頃を書いております。その時、パラパラとめくった数ページ先に【桐始結花】とあり、ああまもなく桐の花が咲く頃を迎えるのだなぁと、ひそかにワクワクしておりました。
と言いますのも私は桐の花の咲いたものをいまだかつて見たことがなく、それでも桐の木のあるところは偶然知る機会がありましたので、いよいよ桐の花が見られるぞと期待に胸を弾ませておりました。

桐始結花=きりはじめてはなをむすぶと読みます。

ただ。蓮の花がこの七十二候よりも早く咲いたことを踏まえ、一日でも早く桐を見に行かないと、また見逃してしまうぞと、まさに今日、その桐の木のある、群馬県桐生市の吾妻公園というところへ向かおうとしていたのです。

桐、はじめて花を結ぶ。…みなさんはこの表現をどう捉えますか?
私は、花が咲く頃なんだろうと、さように捉えていたのです。
…違いました。
花を結ぶ、ので実がなる、実のみのる頃という意味なんだそう。

…ここに書く前でよかった。
そして桐生市まで車を走らせる前でよかった。

花の頃は五月から六月、だそう。
つまりは今年も見逃した、というわけであります。はあぁぁ…。


昔は、娘が産まれたら桐を植えて、お嫁に行くときにその桐でタンスを作るといわれていました。

まぁ、私の生まれた頃すでに「昔は娘が産まれたら…」と言われていたくらいなので、私はもちろん姉すら桐を植えてもらってはいません。
もしかしたらこの言葉の前に、「裕福な家庭では」という言葉があるのかもしれません、がね。
でも同級生たちも桐の木を植えてもらった子は知っている限りいなかったので、少なくとも私の頃には廃れていた風習なのでしょう。

No.196

毎月二十八日はお不動様のお縁日。


…私は歩んできた人生のほとんど、神さまや仏さまに関わりなく過ごしてまいりました。
それでも小さな頃には、同居していた祖母に連れられ、お盆やお彼岸には先祖代々のお墓のある菩提寺へと行っておりましたし、祖父母の信仰する観音さまのお姿を私が望めば毎日拝することができる環境にはありました。

今思えば、祖母はお寺さんへの正しい参拝の仕方を、言葉で伝えることはありませんでしたが、行いをもって教えてくれていました。
菩提寺には手水舎がありませんでしたので、そのあたりについてはないままの参拝ではありましたが、まずお寺に着いたら御本堂にお参りすること。それからお墓に向かうこと。
お墓にまず手を合わせてから、お墓やお墓まわりのお掃除をすること、等々。
まぁ、当たり前といったらごくごく当たり前なことですがね。


…ただ私どもには自分たちで守るお墓も檀那寺もありませんでしたし、舅は「ここはお前たちのお墓じゃないからな」と、別に言われなくともわかっている言葉を何度か投げかけるような人でしたので、私どもの子どもたちは法事くらいしか祖父母とお寺さんに行くこともなく、しかも舅にそのように言われ、私的にはなんとなくどことなくコソコソとした墓まいりとなり…。
誰からもそのような教えを受けずに大人になっています。

ああっ!閑話休題。(なんだかこの言葉、もうすでに呪文のようになっていますね 笑)


そんな祖母のおかげで、私はお寺さんが好きというベースを築いてもらえました。
お寺さんでお会いできる六地蔵さまが大好きでしたし、自宅に祀られた観音さまのお美しいお姿を前にずっとそこに座っているような子供でありました。

そんな私が大人になって、なぜか心ひかれてやまないのが、不動明王さま、お不動様、なのです。
祖父母や父の眠るお寺さんには、お不動様はおられません。
何故だろう。
お不動様の御像を前に、ずっとたたずんでしまうのです。不敬をおそれず言うならば、「大好き」、なのです。

だから二十八日が来ると嬉しいような、心はずむ心地がいたします。

No.197

不動明王さまは、元々はインド神話の三大神の一人である『シヴァ神』とされ、その梵名はアチャラナータと言います。
その意味は「動かない(不動)守護神」です。
日本へは弘法大師さまによってもたらされ、密教の最高位である『大日如来』さまの化身とも言われています。

普段は柔和な大日如来さまが、優しさだけでは通用しない人々を救済するために、あえて怒りの形相をしている、ということのようであります。

日本に伝わってからは、真言宗や天台宗、日蓮宗などの宗派、および修験道で広く信仰されるようになっていきました。
邪悪な相手には徹底的に厳しく、人が間違った道へ進もうとした時には、正しい道へと戻れるように諭してくれる存在であり、全国各地ではお不動さん、または不動尊と呼ばれ親しまれています。
迷いの世界から煩悩を絶ちきり、仏の道を教えてくれる尊い存在です。
その使命は仏教へと民衆を帰依させるため教え導くこととされています。

思うに…。
私が道を誤っていて、しかもそんな私が、神さまや仏さまに正しき道にお導きいただきたいと、お参りを始めた…。
そんな私を、お不動様は正しい道へと導き、救ってくださろうとしておられるから、私は本能でその無限の愛をお不動様に感じ、優しさを感じて、私はお不動様にひかれるのではないか。

そのような思いにいたったのであります。


…まぁ、それも自分よがりな思いでしかありませんが、ね。


No.198

不動明王さまの像容は、右手には【倶利伽羅剣】という剣を握っておられます。この剣は、邪悪な心や迷う心を断ちきることを表しています。
また、左手に持っている網は【羂索】と呼ばれ、悪い心を縛り上げることにより、善き心を呼び起こさせるためのものです。

その表情は非常に厳しく、右目は天に向けられ、左目は地面に向けられています。【天地眼】と呼ばれているこの眼は、天地を隅々まで見守っているということを表しているのです。
また、口元からは右牙が上を向き、左牙は外側を向いているのが特徴です。
仏の多くは柔らかな表情をしているものが多いなか、なぜお不動さまの表情がここまで険しいのかと言うと、そこには理由があります。

不動明王さまはとても慈悲深い仏。そして、その慈悲深さゆえに、救済が難しいとされる煩悩を抱えた人々も力ずくで救おうとしておられます。
その恐ろしい形相が人間に向けられているのは、常に見てくださっているということを意味するのです。

青黒い色の体で表現されることが多く、それは煩悩という名の泥にまみれもがく人々を救おうとしている姿を表しているといいます。
また、髪は莎髻と呼ばれる形で、その弁髪は左肩に垂れているものが多く見られます。
その理由は、頭の上は仏の世界を表し、その垂れた左側は人々が暮らす世界を表しています。やはりこれも不動明王さまが常に人々のことを気にかけ見守っているということを表しているのです。

そして、その腕はニ本で表現される時もあれば、四本で表されることもあります。また、背中には【迦桜羅焔】を背負っておられます。
【迦桜羅】とは伝説上の鳥で、毒を持っている動物(毒蛇、悪龍)を食べるとされています。
お不動様の背負われる迦楼羅焔は毒を焼きつくすと言われ、人々にとっての毒である煩悩や欲望を燃やし尽くしてくれるものなのです。

足の下には磐石が置かれ、迷いがない安定した心を表現しています。また、救済を求めるすべての人を救うまではその場を動かないという決意を表しているとも言われています。


…私はこのお不動様のお姿を恐いと感じたことがありません。
おそろしい形相とされていますが、その眼差しもお口元も大好きなのであります。

今日はどちらかのお不動様にお会いしたいなぁ。
…ということは、私…また何かしでかしているということなのかなぁ。

No.199

ちょうど一ヶ月前にもうかがいました、群馬県みどり市の【はねたき道了尊】さまのお縁日の法要に参列させていただきました。

実はこのはねたき道了尊堂の同じ敷地内に、小さな石造りのお不動様が、石を積み上げてコンクリートで固めちょうど岩屋のようにしつらえたところに安置されておられるのです。
同じお縁日ということもあり、同市内にあります光榮寺さんのご住職と副住職さんが両方の法要を執り行っておられます。
そう、こちらは光榮寺さんの境外舎(堂)なのです。


こちらは渡良瀬川がすぐそばを流れていて、まさにこのはねたき道了尊堂の高津戸峡と呼ばれる渓谷となっております。(おそれおおくも何を勘違いしてか『関東の耶馬渓』と称する、みどり市の観光部観光課の観光ガイドがネットに挙げられていますが、これは一度、本当の本家本元の耶馬渓に出向いてみた方が良いかと、常々思っております。)
まぁ、たしかに、新緑や紅葉の頃などはびっくりするほどの人出となりますし、ここからすぐそばにあるはねたき橋と、五百メートルほど離れたところにある高津戸橋までの間に位置する高津戸峡、その高津戸峡の隣にそびえる要害山の景色は私も大好きですが、ね。
特に高津戸橋は赤いアーチ橋で、下から見上げても、遠くから要害山との眺めもとても心癒されるものであります。

おっと、またまた話が脱線しかかっていました。


そんな高津戸峡の川沿いにかつての道了堂はあったのだといいます。
お不動様は高津戸渓谷を守る形で、渓谷の土手に祀られていたとのこと。

しかしながら、昭和二十二(1947)年のキャサリン台風の水害で一瞬のうちに濁流に飲まれ、跡形もなくなってしまったのだといいます。
道了さまの信仰は衰えこそしましたが、それでもそこへ通う篤信者さんたちがおられたのだそうです。
ただ川沿いの歩道などは復興されることなく、道了堂も再建されぬまま、道了さまの祀られたところへは落石やはたまた崩落の危険が絶えなかったようで、ともすれば命がけの参拝ともなっていたようです。

平成十五年、地元の強い要望もあって、道了さまとお不動様はこの地に移転、勧請されたのでありました。

何度も書いておりますので、覚えてくださっておられる方もいらっしゃるでしょうか。
(ごめんなさい)


No.200

私、こちらのお不動様がまた大好きでして。

はねたき道了堂の境内内の岩屋のように仕立てたところに祀られた石造りのお不動様は、迦楼羅焔を含めても四、五十センチといったところでありましょうか。
一部迦楼羅焔も欠けているようですが、右手には剣を左手には羂索をお持ちになられています。

こちらのお不動様のいわれであるとか、何年に造られたものであるとはは一切わからないのだといいます。お祀りするにあたり、こちらへ運ぶ際にいろいろ見ては見たようですが、全くわからなかったとおっしゃっておられました。


とにかく、…可愛らしい。
大きさといい、表情といい可愛らしいのです。

お不動様の右隣には金板を切って曲げただけの剣がいくつも奉納されています。作り手は同じ方かもしれません。
お不動様は剣の奉納が多いのでしょうか?


今日の月例祭でも、綾鷹と御守りの袋にラムネとのど飴と熱中症対策タブレットの入ったものをいただきました。
恐れ多いことにございます。

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