神社仏閣巡り珍道中
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。
そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神様、仏様、どうかお導きください。
22/05/09 22:30 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。
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今日は少し残念なことがありました。
今日はお地蔵さまのお縁日。
あるお寺さんに参拝に伺いました。
ご本尊さまは聖観音さまなのですが、お地蔵さまも御本堂におられ、おことわりすれば御本堂に上がらせていただくことができるお寺さんなのです。
今日は御本堂には私と、お寺のお坊さまだけでありました。
いつものように、読経して。
その後小さな石造のお地蔵さまのところへ行き、さらに小さいけれど矜羯羅童子さんと制咜迦童子さんも一緒にいるお不動さまの御像の前に参りました。
その不動明王さまの御像の前に立つ制咜迦童子さんの像の横に小さな御厨子があるのですが、今日はいつもよりその扉が開いていました。
あ、あれっ?
もしかして毘沙門天さま?
左手に宝塔をお持ちです。
火焔光背を背負われておられます。
御厨子もかなり黒ずんだもので、かなり古い年代のもののように思われます。
ほかに参拝の方もおられないことから、お坊さまに「こちらの御仏はどなたさまでありましょうか」
とお聞きしました。
「えっ?あれ、そんなところに何かありましたか。知らなかったなぁ」
…。
「どこどこ?おお、これかぁ。こんなとこにこんなのあるの知らなかったよ」
もう一人のお坊さん、な、なんと指を指しています。
ん?💢
『これ』だとか、指を指すとか…。
…たしかにお若いおふたりです。
仏像に囲まれて育ったから、ありがたい存在という感覚が薄れてしまうのでしょうか?
いやいや、御仏がありがたい存在であることを本来ならば生まれた時から学び、お山で厳しい修行を積んで学んで、人に説く存在がお坊さんでしょう。
一体、このおふたりは何者?
僧侶の姿をしているということはお山に行って修行を積まれた方なのではないでしょうか?
一人のお坊さんが住職に聞いてくると席を外されました。
ホッ。
…ホッとしたのも束の間、
不機嫌な内心をやや滲ませて、やはり年若いご住職がやって来られました。
「ああ、なんだろ?『天』は難しいからな。作った人によって手に持つものもちがうかくらいだからなぁ。
「寺のものとして祀られているものではなくて、誰かが奉納したものですので詳しいことは何もわかりません』
…。ははぁ。
…別にご自身のお寺に出自の不明な御仏像があることが悪いと申しているわけではないのですよ。
長い歴史のなかでそう言ったことが起きることはままあることのようです。
逆に、出開帳で行方不明になってしまうというあり得ないことが、実は結構あったようだという衝撃的な事実だってあるくらいです。
ただ。
ただ、御仏の像を指差したり、『これ』呼ばわりしたり…内輪だけでの会話ではないのだから、ましてやその御仏の像についての質問をしている者の前でするべきではないです。
もちろん、お坊さん、僧侶の中には、仏というのは像ではないと考えておられる方もおられるのかも知れません。
あくまでも仏像というのは衆生にわかりやすい形をとっただけで、像は像でしかないと考えているのかもしれません。
ですが!ですがね。
だったら祀らなければいいのです。
その偶像に向かって毎日のお勤めなどしなければいい。
…長年の檀家さんがおられるから、自分の代になってそうした方針にきりかえるわけにはいかない?
だって今おられる僧侶三名、みんなそうした考えなのでしょう?
未来の檀家かもしれない存在の前ではそんな明らかな、仏像を小馬鹿にしたような、仏像という偶像を尊ぶおばさんを小馬鹿にするような態度をとるのであれば、いっそのこと大改革してしまえばいい。
たまぁにおられるのは確かなんです。
あぁ、このお坊さん、あまり仏像とかに興味がないんだなぁと思われる方。
というよりは世襲制のお寺に生まれてしまったがために、勝手にそういう人生を歩むことを強いられてきた方とか。
でも、でもです。
仮にもお寺で僧の格好をしていたなら、その宗派の教えが仏像は御仏という扱いであるならば、たとえ演技でもそれは貫くべきなんじゃないかと。
奉納された仏像はありがたくない物なの?
なんだか…もうこのお寺さんには行かないかもしれない。
檀那寺の一つの候補であったというのに、な。
…行けました♡
行けたんですよ。
えぇ、あの偶然たどり着いた不動堂に。
以前、
>群馬県高崎市の住宅街と田畑が混在する細い道を入ったところに、ぽつんと不動堂が建っていました。
>これは例の持病とも言える方向音痴と、さらに道を間違えたことによる相乗効果の成す技でありました。
と書いていた、時が経つにつれて、幻だったんじゃないかとか、実は夢で見たものを現実と思い込んでるんじゃないかとか、思うくらいの、不動堂さま。
記憶が確かなうちに行かないと、現実であったか幻なのか、全てが謎のままになってしまいそうで、記憶が確かなうちに、行ってみたんです。
…ちゃんと行けました。
…ちゃんとありました、笑。
いやぁ、もしかしたら私、道を覚えていられる人なのかもしれない。
いや、それは違うな、私を知る人の十人中八…九人くらいは、それを激しく否定することでしょう。
もしかして、お不動さまがお導き下さった?
ちゃんと行けました。
ちゃんとありました。
(あまり嬉しくてもう一度書いてみました)
高崎市の住宅地のどかな田園風景混在するところにポツンと立つ不動堂さん。
今日は田植えをされていたあのいかにも親切そうなご婦人はおられませんでした。(田植えはそんなにいつまでもしている作業ではないですね、はい)
石垣のくんである見事な如意輪観音さまの石塔がその入り口に建っております。
こちらの如意輪観音さまがまたお優しいお顔立ちで。ぜひぜひもう一度来たいと思った理由の一つです。
その石垣の隙間からなんと!白い『秋海棠(シュウカイドウ)』の花がたわわに実る…ように咲いています。
秋海棠のあの透けるような柔らかな花びら、大好きな花のひとつです。
しかもこの花、観音さまの首飾り『瓔珞(ようらく)』に似ているということから『ヨウラクソウ』とも呼ばれるということで、さらにさらに大好きになった花です。
でも、秋海棠…たしか、夏の終わりくらいから秋にかけての花の時期じゃなかったかなぁ。…そこら辺は花にも詳しくないおばさんの独り言として流してやってください。
如意輪観音さま彫られた石塔の石垣に秋海棠…瓔珞草、ですよ?
感動いたしました。
しかもその石塔の前にはピンクと白の秋海棠の小さなプランターが供えられているのです。
素敵っ!
迷い込んだ前回は読むことができなかった、立て看板の説明文も読むことができました。
こちら、元はお寺さんであったようです。その名も『不動寺』さん。
慶長七(1602)年に開基したと伝承される真言系当山派の修験寺だったということです。
『修験道とは主に山岳で厳しい修行を積み、その結果特別な霊験能力を体得した修験者が行う神仏習合思想で、修験者は山伏又は行者とも言われます。
その活動は加持祈祷を主とし、国家安穏・病気平癒・方位除け・虫封じ祈願・命名や身の上相談等多岐にわたっています。
文政時代(1818〜30)から明治初期にかけて約五十年間、三代の住職は寺子屋として近隣農村子弟の教育を担当しました。
明治五(1872)年、「修験道廃止令」により廃寺となり帰農しましたが、不動尊像及び不動堂は子孫により保存管理され現在に至っています』
個、個人宅の保存管理ですか?!
それはすごい!!
…あれ?
個人?
帰農?
も、もしや?
あの稲の苗を一握りお持ちのまま、声をお掛けくださったあの優しい、人の良いご婦人こそが、そのご子孫の方、こちらを管理されているお方だったのでは?
これは。
…お導きと捉えては図々しいでしょうか。
私から図々しさを取ったら…まだまだたくさんの煩悩や欠点が残りますね。やれやれ、です。
一部とんでもない間違いがあったので、そっくり削除して訂正します。
一度お読みいただいた方ごめんなさい。
矜羯羅童子さんではなく制吒迦童子さんでした。お詫びして訂正いただきます。
そして。
窓があれば覗かずにはいられない、何やら怪しい人である私。
前回よりも長々と覗かせていただきました。
なぜならばあのおそらくはご子孫にあたるであろう方から
「大きなお不動さまだったでしょう」と言われたことで、ああこちらは覗かせていただいていいんだなと(かってに)判断したからで。
そもそもが、ご子孫であろうということ自体が推測に過ぎないのに、なんだその思い込みは!って話であります。
窓から覗くと、大きなお不動さまの右側、私から見ると向かって左側には、制吒迦童子さんがおられました。
さらにはさほど大きくはないけれど、御厨子に入られたそれはそれはお綺麗な、端正なお顔立ちのお地蔵さまがおられます。
そしてお不動さまのお膝あたりに、小さな古い御厨子があって。
その中にはやはり小さなお不動さまと思われる御像がおさめられています。その小さなお不動さまのちょうどお膝の前あたりにキツネが凛々しく立っています。
まぁ、そのキツネ、というのも私の主観、全くの思い込みに過ぎないのですが、さらにそのキツネの足元に小さな小さなキツネが二匹くらいいるのです。
う〜っ♡可愛いっ!
その足元にいるのも実はかなり不確かにしか見えないものなのですが、この思い込み!
困った大人です。
ここ数年、群馬県が熱い。
何かに活気があって熱いのではなくて、『今日の最高気温日本一』、というやつだ。
一昨日は伊勢崎市で六月の最高気温としては観測史上初とか、テレビで何度となく繰り返し放送されているが、もう聞くだけで暑い。
昨年も伊勢崎市と桐生市が日本一としてその名を呼ばれることが多かった。
そう、もう暑いレベルではなくて熱いのだ。
体温よりも高い気温というのは室外の冷房下でなければ常に全てが熱さに晒されている状態で、それが室外での仕事の方は避けようがない、ということだ。
この殺人的な熱さ、どうか命を奪わないでください。
そしてかつて恵みの雨と言われた雨もまた、いちどきに降る量が異常で、これがまた殺人的で。
コロナ。
地震。
物価の異常な上昇。
神さま、
仏さま、
どうか民をお守りください。
お救いください。
この四月で六年経過した熊本地震は気象庁震度階級では最も大きい震度7を観測するものだった。
しかも震度7の地震が4月14日夜および4月16日未明に発生したほか、最大震度が6強の地震が2回、6弱の地震が3回発生しているといったもので、そこに住まわれ地震を経験された方々の恐怖は想像を絶する。
その熊本でまた大きな、震度五を超える地震があったという。
あの六年前の熊本地震の影響で発生していると考えられるようだ。
石川県でもほんの少し前に震度六を超える地震があった。
どんなお言葉をおかけしたら良いというのだ。
ありきたりな言葉しかおかけすることができない。できやしない。
経験した者にしか分からない。
暑い中での被災です。
どうかお身体に気をつけてお過ごしください。
ところで。
昨日は6月26日は『雷の記念日』とされているといいます。
ナビから「群馬県で雷警報が出ています」の音声が流れ思い出し、夫にそう伝えました。結局雷は鳴らずに済みましたが…。
それは、平安時代・延長8年6月26日、平安京の清涼殿に落雷があり、多くの犠牲者が出た日、とされることに由来しているようです。
その落雷によって命を落とした方々が、菅原道真公の左遷に関わっていたため、道真公の祟りと恐れられたといい、その後菅原道真公は『天満大自在天神』として祀られることとなります。
火雷神とも習合し『火雷天神』や『天満宮』『天神さま』と呼ばれています。
そんな雷を操る神さまという認識から、雷避けや天変地異を防ぎ、さらには豊穣を司る神さまとされていましたが、
道真公の徳にあやかり、学問の神さまとして寺子屋などに祀られ、現在では『合格祈願』や『就職祈願』などのお参りがほとんどとなっているかと思います。
『天神』『天満宮』『菅原神社』等、管原道眞公をお祀りする神社は名称もいくつかあり、また、境内社としてお祀りされていることもよく拝見いたします。
お祀りされておられるのが道眞公であることは変わりなくとも、御祭神『天満大自在天神』としての道眞公をお祀りするところもあれば、御祭神『管原道眞公』と書かれた天満宮もあります。
ちなみに言えば小倉百人一首では『菅家』とされています。
左遷された先太宰府で「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主無しとて春を忘るな」と歌を詠んだところ一夜にして道眞公のところへ飛んできたという梅にちなんで、道眞公の祀られる神社には必ず梅の木が植えられています。
御神牛と呼ばれる牛の像も道眞公にまつわるもので、丑年丑の日生まれであったこともあり道眞公は牛を大変可愛がられていたということ。
亡くなられる前、人は一切ご自分の遺体を引くことなく、牛に引かせ、牛の赴いたところに埋葬するように言ったとのことで、そのためもあり牛が祀られているようです。
この牛の像は御神牛、使い牛、撫で牛とも呼ばれ、道眞公にまつわる神社にはほとんど祀られているようです。
母の葬儀の夢を見た。
時薬は少しずつ効いてきたようだ。
そう、ここを乗り越えて、ようやく私の人生の再スタートとなるから。
失ったもの。
失った〝時〟。
どれだけ多くのものを失ってきただろう。
でもそれはもう終わった。
今日は私の誕生日になります。
産まれ直すことは無理だけれど、失ったものは戻せないけれど、自分なりの再スタートだけはできる。
がんばれ、自分。
がんばろうね、私。
三回忌法要が良かったのだろうか。
先日、群馬県前橋市の大洞赤城神社さんへ参拝してまいりました。
「あ」
「啄木鳥橋が…。啄木鳥橋が無くなっている」
啄木鳥橋は大洞赤城神社さんにかかる神橋のようなものでありました。大洞赤城神社は赤城山頂の大沼の畔にあり、その橋を渡ってお参りに行くというのが不文律のようでありました。
その橋を渡らずとも地続きでそこに行くことはでき、大きな駐車場はその地続きの道を入って行くくらいであります。ただ…この駐車場に停めると本殿の裏手であり、鳥居もないことから、やはり正式にお参りする気持ちとすれば橋を渡って鳥居をくぐって参りたいところでありますが…。
この今ある大洞赤城神社さんは昭和四十五(1970)年に、同じ大沼の反対岸に建っていたものを遷宮したものといい、その遷宮際造られた橋なのだと思われ、とするとすでに五十年。
五十年でダメになっちゃう橋?とお思いになられるでしょうが、木製の橋であり、一神社さんの所有しているものとなるとなかなかお金のかかるメンテナンスも出来ていなかったということなのかも知れません。
冬にはスキーができるくらいの山である赤城山頂の神社さん、自然環境から受けるダメージも大きいという事なのかもしれません。
前回の参拝時、もうすでに通行禁止となっていて、いずれ撤去する旨書かれていたようにも記憶があるようなないような…。
いずれにしても対岸に降り立って見える赤い橋は心を和ませてくれるものでありましたし、これがないということはなんとも寂しくて哀しい思いがいたします。
その橋桁だけ残された啄木鳥橋を見たときの喪失感といったら…。
私はこの大洞赤城神社さんの遷宮前の記憶はありませんので、私にとっての大洞赤城神社さんはこちらでしかなく、赤い橋のある風景が当たり前なものとなっていたものですから。
啄木鳥橋は無くなっていましたが、裏手の駐車場に車を…どこか空いている?
すごい混み方です。
一方通行ではない上、特に整理する方もおられないので結構、あちこちからふいっと車が出てくるようなあまり初心者には優しくない駐車場です。
とは言っても標高1,828メートルのくねくねしたカーブの連続する山道を登ってこられた初心者ですから、このくらいの駐車場は大したことはないですね。
…そういえば、最近の若者は初心者マークをつけていても運転が上手な気がいたします。というか、教習車に乗っている時点でうまいかもしれない。
えっ?
私が下手すぎる?
さ、さ、話を戻しましょう。
この日ももちろん夫の運転です。
…私だって別に駐車区画に停まるくらいは一発で停められますよ、念のため。
あれ?まだ戻れない。
…というわけで車を停めて。
ぐるっと回って手水舎の方へ向かいます。大沼と呼ばれる大きな沼が見えます。
なんと広々とした気持ちの良い空間でありましょう。
心がひらかれる、そんな気がいたします。
手水舎は龍の口から水の出る、よく見かけるものなのですが、実にここの龍は穏やかに優しく迎えてくれるのです。
たぶん、ここの龍には小さな可愛らしい修行中の龍が宿っておられるに違いない、そんなふうに思えるくらいです。(もしかしたらたくさん修行された龍かもしれない…そしたらなんとバチ当たりな!)
今のご時世ですので、神さまには申し訳ありませんが手のみを浄めるにとどめております。
ここのお水は御神水なのですがね。
なんでも江戸の時代にはこの御神水の水脈を汚さぬようにと、幕府がこの地に御不浄、トイレすら造らせなかったというくらいです。
手を清め、九十度体の向きを変えると、まるで美しい着物の色を思わせるような赤い御社が目に入ってまいります。
綺麗な綺麗な赤です。
綺麗な綺麗な赤い社殿。
昭和四十五年に赤城の風雪に耐えられるようにと鉄筋コンクリートで建てられたものです。
よく神社さんで見られる彫刻などは一切無いシンプルな造りであります。
…実は…正直に申しますと…。
まだ幼かった子どもたちを連れてこちらの赤城神社さんに参拝した時、強烈な赤で塗られた近代的な造りにびっくりした上、境内に、売店や飲食店、ボート乗り場があったりと、あまりにも私の概念を覆す神社さんであったため、ほとんど神社仏閣に縁のない生活をしていたくせに、なんだか神社さんらしくない所のあるところだと早々に引き上げた覚えがある、それが大洞赤城神社さんのかつて抱いた印象だったのです。
遠くから見える結構長めの赤い橋は本当に神々しいもので、橋を渡るにつれ神聖な空気に包まれていく感じはしていたのですがね。
今は…。
もう何年か前から神社の境内、小鳥島から、ボートで漕ぎ出す人も見かけなくなっています。
たぶん…そうしたボート屋さんや売店等は今は閉店してしまったのだと思われます。
コロナ禍が関係したかどうかは定かではないのですが、それ以前から少しづつ赤城の観光自体が廃れてきていたのだと感じます。
【大洞赤城神社】さんには赤城山と湖の神様【赤城大明神】さまが主祭神として祀られています。
設立年は不詳ですが、806(大同元)年には小沼から見上げる地蔵岳の中腹から大沼の畔に遷宮されたという記録があり、この記録により、当時建立されていた地が『大洞』と名づけられたとのことです。
江戸時代に入ると相殿に徳川家康公を祀り、三代将軍徳川家光公の命により社殿が再建されたといいます。
…えぇ、そうなんだそうです。
家光公の命により建てられた以前の社殿を、古くなってボロボロになったからと、遷宮しちゃってるんですって。
びっくりです。本当に驚きです。
まぁ昭和四十五年といえば、大阪で万博が開かれた年、明治どころか江戸時代のことなど〝はるか遠くなりにけり〟、だったんでしょうね。
高度成長期、古くなったものなど壊して新しい風雪に強いものを造ればいい、という感覚だったのでしょうかね。
今もわずかに、かつてあった家光公の命で造られたという神社の跡が残っています。
閑話休題。
江戸以降、赤城山全体に神域が及ぶほど大きくなり、十一世紀には正一位を昇叙し幅広い信仰を集めました。
赤城山にある八ヵ所の登山口には、近隣の村民が奉納した鳥居が設けられていて、特に前橋から登山口に向かう片道一車線全てにかかる大きな赤い鳥居が一の鳥居と呼ばれています。
明治時代に入り小沼畔、豊受神社、小鳥ヶ島、厳島神社などの赤城山内の神社が合祀されます。
そして。
昭和45(1970)年、三百年以上にわたり赤城山の厳しい気候にさらされた社殿の荒廃が進んだため、『大洞』から『小鳥ヶ島』の厳島神社の跡地に遷宮されたということのようです。
平成十八(2006)年に大洞遷宮千二百年を迎え、その際社殿の修復と境内の整備が行われています。
つまり、以前の社殿があったところが大洞、だったわけで、今あるところは小鳥ヶ島。
土地の名を掲げるのが正しいものであるならば、ほんとうなら『小鳥ヶ島赤城神社』と呼ばれるのが正しい…はずですが、ね。
以前にも書いたのですが、大沼・小鳥ヶ島にまつわる赤城姫伝説というものが言い伝えられています。
古くから女性の願掛け神社として有名な赤城神社ですが、それは赤城姫の伝説に由来しているのだといいます。
その昔。
都を追われ、赤城の地にやってきた『高野辺大将家成』には『赤城姫』と『淵名姫』という、誰もがうらやむ美しい姫がいました。
上毛野国で幸せに暮らしていましたが、あるとき姫たちの母が病気で倒れ急逝します。
残された娘たちのために家成は後妻・『桂御前』を迎え、やがて二人の姫が生まれますが、その美しさや人柄は赤城姫・淵名姫には及びませんでした。
桂御前は赤城姫と淵名姫を疎ましく思い、殺害を計画します。
その後、都より赦免され、上毛野国の国司に任命された家成が大勢の従者を連れて家を空けた隙に、桂御前の手の内の者に、淵名姫が殺されてしまいます。
家成はこれを聞き上毛野へ引き返し桂御前を捕らえ、
赤城山へ逃げたという赤城姫を求めて向かいます。
大沼の東岸に着くと一羽の鴨が泳いできて、その翼を広げた背に赤城姫と淵名姫の姿が。二人の姫は赤城大明神に召され神となり、二人を乗せた鴨は小鳥ヶ島になったといわれています。
これ以降、赤城の神に祈願した女性の願いは必ずかなえられ、また美しい娘を授かれるという伝説が生まれました。
さらに。
前回述べたように、大沼、小沼から湧き出る水は御神水と呼ばれ一掬千金の水として朝廷や幕府に献上されてきました。
それゆえ、前述したように、江戸時代幕府から不浄なものをこの地に置かぬように指示されたといいます。
また五月八日に行われる山開き祭、
例大祭にはこの水を持ち帰り各村の田の口に注いで豊作を祈願するのだそうです。
群馬県では知らぬ者はない【赤城山】。
そう、このスレで時折出てくる【上毛かるた】、群馬県民なら誰もが小学生になると必ず、と言って過言ではなくこのカルタをし、その全ての読み札を暗記するほどのものでありますが、そこにも出てくる赤城山。
地元では『あかぎやま』と呼びます…というか読みます。
赤城山を構成する山々は、前橋市、桐生市、みどり市、沼田市、渋川市、利根郡昭和村の五市一村に広がります。どっしり構え、関東平野を見下ろすそのさまは上毛かるたでは『【す】裾野は長し赤城山』と読まれています。
実は赤城山は山頂がある一つの山、というものではなく、平野部から眺めた山全体を指しており、赤城山を作っているのは全部で十二の山なのです。
標高1,828メートルの黒檜山(くろびさん)を主峰に、駒ヶ岳、地蔵岳、荒山、鍋割山(なべわりやま)、鈴ヶ岳、長十郎山…などから成る複成火山で、日本百名山、関東百名山、上毛三山に数えられる名峰です。
山頂の大沼はカルデラ湖であり、その周囲には赤城ならではの植生がみられます。
赤城神社さんのある大沼湖畔にはキャンプやボート、ワカサギ釣りなどのさまざまなレジャーを楽しむことができ、かつてはスキー場やスケート場もありました。
『小尾瀬』とも称される、周囲五百メートルほどの湿原『覚満淵(かくまんぶち)』では、木道の遊歩道があり、珍しい高山植物を見ることができます。澄んだ水に映る山の姿に感嘆いたします。
赤城山はなだらかな関東平野において古くから山岳信仰の対象となっており、また多くの文学作品でも取り上げられています。
とはいえ…「赤城の山も今宵限り」という言葉が有名なのは…ある一定の年齢層までですよね。
さて。
大洞赤城神社さんと、何度となく〝大洞〟を冠してお話させていただいておりますが、…実際今は大洞にはないことも話させていただいておりますが。
実は関東地方を中心に全国に約三百社ほど赤城神社があるのです。
その本宮とされる一つが、この赤城山大沼にある大洞赤城神社さんとなるのですが…。
…ん?
と思われた方、ええ、筆者が暑さのためおかしくなったわけではないんです。まぁ、少しづつ確実に認知障害は進んでしまってはおりますが…。
そうなんです。
赤城神社さん、本宮とされる『赤城神社』が三つ!あるのです。
どこも本宮としてふさわしい神社さんで、どことは決めがたく、その場所を明らかにするため〝大洞〟であったり、〝二宮〟〝三夜沢〟などと冠するのであります。
ちなみにこの三社が本宮とされるものとなります。
以前も書かせていただいておりますので、覚えていてくださった方は、しつこくなってごめんなさい。
とにかく、こと群馬県には赤城神社さんが多い!
「赤城神社さんにお参りに行こう」
「どこの?」
「赤城山の」
「二宮?三夜沢(中腹)?山頂?」
こんな会話をしないとなりません。
もちろん、地元にも赤城神社さんがあるという群馬県民は大勢います。
この大洞赤城神社さんは山頂の観光地にあることもあって、以前はかなりその色が濃かった神社さんであったことは前述しておりますが、実はこの大洞赤城神社さん、少し前まで『御朱印帳』で有名なところでありました。
ええ、これも間違いではなく『御朱印〝帳〟』です。
季節季節で限定の御朱印帳が授与されており、その発行部数も限られていたため、それを求める方が大洞赤城神社さんのホームページ等ネットで確認してこぞって訪れていたようでした。
いやあ、それがまたその気持ちがわかるくらいに綺麗なものなんです。
一度その限定版御朱印の発売初日に参拝したことがあり、たまたまその日に御朱印帳の授与をしていただいたのですが、普通の御朱印帳を希望する私に、巫女さんが怪訝そうな表情を隠そうともせずもう三度、
「本日新しい御朱印帳がお授けできますが?」と聞いてこられたくらいです。
今はその限定御朱印帳は廃止され、あの時限定のものにしておけばよかったかなぁ?などとちょっとだけ思った私でありました。
限定御朱印帳は廃止されたものの、こちらのおしゃれで種類の豊富な御守りは、見ているだけでも心が華やぐようです。
御守りの種類の豊富さは全国区なのではないかと思うくらいです。
赤城姫さまの伝説があり、また、こちらの神さまはこと女性のお願いごとは必ず叶えてくださると言われております。
そんなこともありお姫さまのお姿の図柄を使ったものが多く、かつての限定御朱印帳も十二単をまとわれた姫さまの後ろ姿のもので、その季節にあわせたお召し物と季節の背景の描かれたものでありました。
今でもその図柄でお召し物や季節の変わらないバージョンのものは残されております。
で!
御守りも姫守りというものがあり、それはそれは美しい図案のもので、色違いのものがいくつか用意されています。
まず、姫守りだけでも大きく分けて三種類。
一、姫守り
ニ、姫守り 十二単 春夏秋冬1・春夏秋冬2
三、特大姫守り
この特大姫守り。たいそう大きな御守りでありまして、私などはあろうことか御朱印帳入れと勘違いしたくらい、それほど大きなもので、御朱印帳が二冊くらいゆうに入りそうな大きさと厚さのものです。それが御守りだと気づいた時、(えっ。…これを一体どうしろというのだろう)。
正直御朱印帳入れなどよりもずっと大きいのです。これを常に携えるのはまず不可能かと思います。
あまりにもおそれおおくて、その御守りの取説を読むことも憚られたくらいです。
四、子授け夫婦守り
これは…赤城大明神さまのお使いで、現在の大洞赤城神社さんの建つ小鳥が島に姿を変えた鴨が夫婦で描かれたもの
五、願い叶う御守り
正五角形の、星の散りばめられたデザインのものでこれも三つの色違いがあります。
六、安産美人祈願
これは…安産と心も姿も美しい子供が産まれるように祈願するもの。もう御守り、という言い方ですらなくなっています。
七、子育て守り
これがまた美しい真っ白な布でできており、赤ちゃんを産布にくるんだような形をしています。
八、四季守り
赤城神社の四季を描いた春夏秋冬の四種類の御守り。
そのほかにも…
交通安全・旅行守りと、交通安全守り。登山守り。殿守り。ペット御守りが数種類。金運アップのものもありました。
病気平癒、無病息災守り等々…。
それがみんな本当に綺麗なんです。
ここにあげなかった新作、…ちょっと欲しかった私でありました。
二十八日は不動明王さまの御縁日。
そしてはねたき道了尊さまの御縁日です。
群馬県みどり市のはねたき道了堂さんでは毎月二十八日に法要が営まれます。この日、夫も同居の息子も出勤しての仕事の日。お昼の支度を気にしなくてもいい!
よぉし、参列させていただこう。
車を走らせて。
みなさん、もう着席されています。(・_・;
でもまだ準備中。
…みなさん檀家さんで顔見知りの方々が集まっておられるようです。
コロナの感染状況が警戒レベル3だった時やそれに冬の寒さが重なった頃などは、法被をお召しの檀家の代表さん方たちと私だけ、だった時もありました。
ああ、ようやくここまで戻ってきたんだなぁ♡
部外者の私が感慨深く思うくらい、楽しそうにお話をされています。
こちらのはねたき道了堂は同じみどり市の光榮寺さんの境外堂なのです。
光榮寺さんの初薬師のお護摩法要や柿薬師大祭に参加させていただいて思うのは、本当にこちらの檀家さんたちは仲がよい。
そして…部外者の私にもいろいろお気遣いくださる方ばかりで、本当にありがたく思うのであります。
このお縁日の法要では、道了様のお姿=御御影に願い事と自分の名前を書いて、参加するごとにそのお姿の用紙にスタンプを捺してくださるのです。
別にそのスタンプの数がいくつになると〇〇、ということは一切なくて、また、新しいお姿からスタートするだけなのではありますが、なんだかひとつ貯まるごとに私のひねくれた心がほどけてくれるような…くれるといいなぁと思うのであります。
今回は受付の前に立つとまずすぐに「はいっ。どうぞ飲んでください」とポカリスエットのペットボトルを渡されました。
「熱中症になると大変だから」
ひぇぇ、おそれおおい。
「持ってきてるのがありますから」と申し上げると、
「大丈夫、たっくさん用意してあるから。みんなに渡してるもんだから、遠慮なく」
ああありがたいこと。
せめてお賽銭にポカリスエット代を添えましょう。
道了尊は「どうりゅうさん」という呼び名で江戸時代から信仰を集めていたといいます。
この辺りはみどり市大間々町のちょっとした観光地であります。
かつては娯楽センターとしてその名を轟かした『ながめ公園』その中にある『ながめ余興場』があります。また、高津戸峡という景観のよい遊歩道もあります。高津戸橋という名の赤い橋がかかり、この橋を含めて私の好きな景色がそこにあります。
その高津戸橋に立って見えるのがはねたき橋です。
そのすぐそばにあるのがはねたき道了堂さんです。
道了尊は元々はこの地より100mほど上流側に鎮座し、かつては参道には湯屋や茶屋が立ち並び賑わいを見せていたものの、昭和22年のカスリーン台風により濁流に呑まれその全てが流出してしまったのだといいます。
堂が失われた後は篤信者により信仰が続けられていたようですが、なにぶんにも川沿いでの信仰で足場も危ないこともあり、地元民の強い要望もあって平成15年に道了尊を現在の場所に移転・勧請されたものだといいます。
道了尊は子育ての仏様であります。
道了尊は烏天狗の姿をしておられます。疾風より早く駆ける白狐に乗り、子供に宿る悪鬼を睨み付け、右手のねじれ木で悪鬼を懲らしめ、火焔光背の火焔で煩悩を焼きつくす仏さまだとされます。
心の捻じれた子の親は道了尊に参拝し、ねじり木を一本持ち帰り、朝夕に『すなほなれかし』と唱えるのだといいます。
大願成就のあかつきにはねじり木を二本にしてお礼参りするとのこと。
…私はねじり木というものをここで初めて見た(気がする)のですが、いったい全体どこにこんな捻れた木があるというのでしょう。
お礼として一本ねじり木を用意せねばなりません。
エックスキューズミーおばさん、初めてこちらの大祭に参列した際に、世話人の方にこちらのはねたき道了さんの由来であるとか、ねじり木とかはどこにあるものなのか等をお聞きしたのです。現在もねじり木を奉納する信仰が続いているかは分かりかねますが…。
こちらでは御守りとしてねじり木に見立て作られた木の棒に御札を挟んだものがあります。たしか五百円で授与していただけたと記憶しております。
ちなみに参列した子供たちには全員に無料で授与されていました。
そのねじり棒に差し込んだ御札を立ててお祀りするための台も別売りで販売されています。
私はだいぶ捻くれておりますので、それをこそ治したく、その祈願のためもあり神社仏閣を回らせていただいております。
…考えてみれは、私の場合他ならぬ本人。ねじり木を探す以前に、本人の努力を持って治せば良いのでは?
ちなみに。みどり市大間々町の草木の茂るような川のそばで、結構な数ねじり木を発見いたしました。
ただ、取りに行くのには足元がかなり危なくて、やっぱり自分の努力でなおすほうが手っ取り早い。
昨日、六月三十日は【夏越の大祓(なごしのおおはらえ)】という神事の日。
ちょうどこの頃に神社に参拝いたしますと、茅の輪(ちのわ)が設置されている神社さんがありました。
それが夏越の大祓という神事によって設置されたことと知るに至るまで時をたくさん費やして…昨日二度目の夏越の祓に行ってまいりました。
夏越の大祓とは、心身の穢れ、罪や過ちを祓い清める「大祓」の神事のことで、全国の多くの神社で、6月と12月の晦日に「大祓式」が行われるのだそうです。
六月の大祓、6月30日・・・夏越の祓または夏越の大祓
十二月の大祓、12月31日・・・年越の祓または年越の大祓
六月三十日に行われる夏越の祓では、一年の前半を無事に過ごせたことに感謝するとともに、半年間の罪や穢れをお祓いし、残り半年も清らかな気持ちで過ごせるよう願うこと。
ただ…。
昨年参拝いたしました神社さんには茅の輪がなく、たいそうがっかりしたことを覚えております。
こと、心身の穢れ、罪や過ちの多い私といたしましては、できればその茅の輪をくぐって、できる限り罪穢れをお祓いいただけたらと思うもので。…まあ、そんなことを思っている時点で煩悩の塊であることを立証しているのですが。
夏越しの大祓は、〝一年の前半を無事に過ごせたことに感謝するとともに、半年間の罪や穢れをお祓いし、残り半年も清らかな気持ちで過ごせるよう願うこと〟
だとしたら、茅の輪があろうがなかろうが、一番頻回に参拝させていただいている氏神さまをお参りすべきです。
というわけで、鎮守さまにお参りしてまいりました。
すこぉしくらいは罪穢れや過ちが祓えているとよいのですが、
それもまた、神さまに全てを依存するものではなく、あくまでも自分で努力するのが大切なのですよね。
また、コロナ罹患者が増えてきて、東京の警戒度が一つ上がっています。
早くも命の危険を感じる暑さとなっています。
残りの半年、健康で、清らかな気持ちで過ごせますように。
と、いうことで昨日は夏越しの大祓で、そして本日は一日、ということで、お朔日参りの日であります。
毎月一日(朔日)に神社に参拝することを【お朔日参り(おついたちまいり)】と言い、『朔日』とは新月のこと。
旧暦である太陰暦では月の運行を基準としていたため、必ず一日が新月、十五日が満月に当たりました。
お朔日参りは無事に過ごせた1か月の感謝の気持ちを伝え、また新しい月の無病息災、家内安全、商売繁盛を祈念する日となるのだそうです。
また十五日もまたお参りをする日とされ、【十五日参り】と呼ばれます。十五日参りでは、十五日間の感謝と反省をし、残りの十五日間を無事過ごせるように祈念いたします。
月の満ち欠けは人間にも大きく影響を与えています。
産婦人科の先生によるとお産が立て続けにあるような日はそんな日であることが多いのだそうです。
一日の新月は物事が新しくスタートし、十五日の満月は物事が完結することとされます。
一日・十五日参りでは、無事何事もなく過ごせていることの『感謝』の気持ちをお伝えします。
感謝することで、より感謝することが増えてくるという開運効果があるとするスピリチュアルの説もあるようです。
ちなみにスピリチュアルというものがこれまた少しもわからない、理解できない者であります。
効果があろうがなかろうが、感謝の気持ちをお伝えするのは大切なことだと思います。
私のように人間のできていない者などは感謝の言葉のあるなしで気持ちが天と地ほどにも変わります。
まあ、そんな未熟な人間のことはさておいて。
感謝の気持ちの【有難い】とは「滅多にないこと、まれな」という意味。
滅多にないことが転じて「有ることが難い(かたい)」=「有難い」となるのだと言われています。
当たり前と思われること、当たり前な日常こそ、神さまの恩恵を受けてのことと、このコロナ禍となって痛いほど実感いたします。
神さまへ「ありがとうございます」とお伝え申し上げる日とされるのが一日と十五日であるならば、できうる限り総鎮守の神さまのところへ出向き参拝させていただきたいと思う、私であります。
などと申しながら、雨が降っただとか、つまらないことで一日・十五日の参拝をついついサボる私でありますが…。
二日続けて神社さんにお参りするなんて、人生初のこと。
そんな生活をさせていただけていることに、神さまや夫に感謝しかありません。
暑くないうちにと思い、今日も早めに家を出たのですが…毎月朔日と十五日参りを欠かさない方でお酒とお米と塩と榊をお供えする方がおられ、今日はもうお参りを済ませてお帰りになったようでありました。
一度だけお会いしたことがあります。
今までお参りをして来なかった分は到底補うことはできませんが、なりたい自分を目指して生きていこうと思っています。
そのひとつが神仏を尊びお参りすること。
日々に感謝すること。
あとは…。
いずれにせよ、全部、まだまだだな。
【鑑真大和上】は唐の高僧でありますが、人生の最後の十年を日本で、日本の仏教のため、日本の国の進歩のために大きく貢献された方であります。
正直、鑑真大和上についてのことをここで語れるほどのことは一切なくて、歴史の授業で習ったでものしかありません。
ですが、初めて鑑真和上についての授業を受けた時のあの大きな衝撃と感動は、今も忘れることなく私の中にあるくらい大きな大きなものでありました。
そう、五回渡航に失敗しながらも日本へ渡ることを決して諦めることなく、初めての渡航失敗から実に十年の年月を経て、その間に自らの視力を失いながらも日本へと渡って来てくださったという、誰もが学んだ内容です。
なにものにも揺るがない、揺らぐことのない信念がそこにあったとしか言いようがありません。
鑑真和上に日本に仏教を伝えて欲しいと、日本から訪れた僧が懇願した際、すでに鑑真は唐でその名を知られた高僧であったのにも関わらず、他国のためにその地位をすら捨て、当時にあっては命がけでしかなかった渡航を決意してくださったこと。
小学生の私は、人としての生き方というものを突きつけられたかのような衝撃を持って教えられた気がいたしました。
歴史の授業というものは、小学生には小学生のレベルで、中学生には中学生のレベルで。高校においては歴史だけでなく倫社という場においても繰り返し繰り返し学んでいくものでありますので、その度に身の引き締まる思いをしたくらい、私にとって偉大な人物であります。
私に鑑真和上の授業をしてくださった先生も、同じように感銘を受けておられたのでしょう、教科書をサラリと流し読むような授業内容とはされず、ご自分でお調べになられた鑑真和上のことも併せてお教えくださっておられました。
一回目から五回目までの渡航の失敗を事細かにお教えくださった先生もおられたくらいで、私はその年齢その年齢に合わせて鑑真和上についてお教えいただいて来られたのだと思います。
私に歴史の授業を鑑真和上をお教えくださった先生方に、感謝するとともに、これを機にあらためて鑑真和上について調べて、書いておこうと思います。
…先生方は正しく教えてくださっているのに、勝手に記憶を改ざんしているやもしれぬ怪しい記憶力を持つ、哀しい教え子が先生のお顔に泥を塗ることなきように。笑。
【鑑真和上】は十四歳の時に出家し、唐の首都・長安で律宗と天台宗について学びました。
特に修行僧の生活規範を定める戒律についての研究に励み、南山律宗の継承者となります。
742年、鑑真55歳のとき、日本から栄叡と普照という二人の僧が彼の元を訪ねます。
とはいえすでに唐で律宗の僧として高名だった鑑真には、なかなか会わせてはもらえなかったようで、結構な時を費やしてようやく鑑真に会うことが叶ったようです。
二人は鑑真に日本に戒律を伝えるよう懇願します。
日本の僧から要請を受けた鑑真ですが、弟子たちの中に危険な航海を冒してまで日本へ渡りたい者がいません。当時の船では日数もかかるだけでなく、暴風雨等で簡単に難波し命を落としていたからです。
そこで鑑真は自ら日本へ向かうことを決意してくださったのです。
しかし、743年からその後約十一年の間に試みた五回の渡航はことごとく失敗いたします。
渡航失敗の原因は悪天候だけでなく、危険な船旅をいやがる弟子たちの妨害もあったといいます。
弟子たちを含め鑑真周辺の人々は、日本へ無事に着く保証のない船旅をひどく怖れていました。
鑑真が最初に渡航を試みた743年から最後に成功した753年までの苦難の過程を見てみましょう。
私はこれを実に授業でお教えいただいております。
【1回目】
渡航を嫌がった弟子のウソにより栄叡と普照は追放。鑑真は足止めされて渡航不可能に。
【2回目】
出航後の暴風雨のため引き返す。
【3回目】
鑑真周辺の者の密告により、栄叡が逮捕されて渡航不可能に。
【4回目】
病死を装い出獄した栄叡と共に出航しようとしたが、鑑真の安否を気遣う弟子が役人に訴え、出航差し止め。
【5回目】
出航後、激しい暴風により中国南部の海南島に漂着。1年後に唐へ戻る途中、栄叡が死亡、鑑真も南方の気候や疲労などにより両眼を失明した。
それでも753年に出発した鑑真はついに渡日に成功。
その時、鑑真はすでに66歳となっていました。
ちなみに。
【6回目】においては、明州当局の妨害にも屈せず出航。
754年についに悲願の日本上陸を果たされたのであります。
約十一年という年月の中、鑑真は自らの視力を失い、日本僧・栄叡と鑑真の弟子・祥彦(しょうげん)は死亡しています。
それ以外にも海路・陸路の旅で三十六人が命を落とし、諦めて彼の元を去った者の数は二百人以上にのぼったといいます。
最後の渡航の際には前回の渡航の失敗ですでに視力を失っているにも関わらず、それでも断固たる決意のもと渡日してくださった鑑真和上。
その揺るがない信念は、一体どうしてだったのでしょう。
言葉や文化の違う異国であります。
すでに唐では律宗の継承者という地位を築いた高僧であります。
視力を失った身で、さらには当時の平均寿命等を鑑みてもすでに六十をこえていた鑑真であります。
…私には生涯、その答えは出せることないものでありましょう。
754年、鑑真は大宰府に到着いたします。
そして戒壇院で初の授戒(仏門に入る者に戒律を授けること)を行います。
翌年には平城京に到着し、聖武上皇、孝顕天皇から歓待を受けます。
鑑真は東大寺に住み、日本における戒壇(戒律を授けるために設ける檀)の設立と授戒を全面的に任されたのでした。
彼は日本の律宗の祖として戒律制度を整備していったのです。
東大寺で5年過ごしたあと、鑑真は奈良に唐招提寺を建立しています。
そこで残りの5年を過ごした鑑真は、76歳で生涯を終えました。
唐に住んでいた鑑真をわざわざ日本に招いたのはなぜでしょうか。
それは聖武天皇が僧侶になるのを許可制にしたかったからであるとされます。
鑑真がやって来る前の日本では、僧は・労働・納税・兵役などが免除されるため、自分で出家を誓って安易に僧侶になろうとする者が多く、聖武天皇はそれに頭を悩ませておりました。
多くの者が簡単に僧になることで、国力や財政に悪影響があったからです。
聖武天皇は国による許可制で僧を管理することを目指し、戒律について研究を極めた鑑真を日本の律宗の祖として歓迎します。
宮廷による厚い信頼もあり、「大和上」という号を授与された鑑真は日本の仏教を変革していきました。
さらに、興福寺に貧民救済の収容型施設・悲田院を設立
・医学・薬学知識が遅れていた日本に、実践的な漢方医学の教授されました。
いま、長安まで六時間もあれば着くという話も聞きました。
遣隋使・遣唐使・遣新羅使等が往復に何日かけているかを調べた方がおられ、国内移動、中国の港から長安・洛陽までの移動には時間がかかり、海上移動は良風を得て出帆すれば南路・南嶋路とも所要時間は8~10日であったといいます。
ただし風待ちに数日から数か月かかる場合もあり、難波津を出発して長安に到着するための所要時間も、陸路や海路での天候によるロスタイムが大きく影響します。
早いか遅いかは全てお天気次第という事です。
その上、南路・南嶋路は漂流・難破・座礁などの海難事故が多く、4隻(700年代の遣唐使船は四隻で構成される)が無事に往復することは難しく、往復共に無事だったのは養老元年の遣唐使だけだったようです。
当時の造船技術はそれはそれで素晴らしいものですが、いかんせん木造船であり、当時の人たちのさまざまな努力には頭がさがるばかりです。
国を良くするために。
人々のために。
そして仏教の正しい教えを伝えるために。
有難いことです。
少しずつですが、終活もせねばとあちこちをいじっては、古い物を処分しています。が。
なにぶんにもケチな者ですから、普通と人ならそもそもとうの昔に処分しているような物が未だに存在しています。当然、それを持っては離し、離してはまたとっておく方へと移動する、そんな繰り返しであることがほとんどなのですが…。
若いときの写真、アルバムに関しては一切の躊躇なく、スパッと捨てられるのです。
夫はそれはできない人で、以前結婚式の写真やアルバムを処分したいと言って軽く言い争いとなったくらいです。
まぁ捨ててしまえば二度と手に入るものではないので、とりあえず夫を立ててはおりますが、それこそが私たち亡き後子どもたちが始末に困るベストスリーの一つ。
ひとときは爆笑するネタにはなりましょうが、いざ捨てようとするとき、捨ててごめんねみたいな気持ちになるものなのではないかなぁと。
で、せっせと自分の写真やアルバムの類いはバシバシと捨てて処分していたのですが。
…あるんです。びっくりするくらい。
行った記憶がカケラもなかった神社仏閣を訪れたときの写真が。
それこそ自分は、今さら認知症というわけではなさそうだと思えるくらい、出るわ出るわ。
えっ⁈
妙義神社さんって…。
群馬県の妙義神社さんの波己曽社社殿って、こんなにもリニューアルしてたの?まるで違う神社さんを見るかのようです。
大猷院の二天門の前にただ一人、バーンとき立っている写真もあります。今よりもずっと落ち着いた色合いのものであります。まあ、これは修復してさほど年月が経っていないのでこれは当たり前のことといえますが。
これは捨てられない!
貴重な昔の写真です。
そんな貴重な昔の写真にばっちり写っている自分自身にまたそこはかとない哀しさを感じ…。
かくして、おケチな夫婦二人は今日もまた捨てられない物に囲まれて暮らすのでありました。
無宗教であることにどこか引け目のような気持ちがないわけではないのだと思います。
檀家さんたちが仲良く話されているのもなんとなく羨ましかったりしないでもないのです。
(とはいえ、どんな人間関係にも裏はあるだろうし、合わない人というのは必ず存在するものだと、こと仏教はそれが人間の苦しみの一つだとして取り上げているくらいです)
ではどうしたいか。
安心して入れる墓が欲しいわけではないのです。
本来墓など無くてもよいとさえいまだに思っているくらいです。
ただただ思うことは私ども亡きあと、子供たちがそういったことで悩んだり、果ては争ったりすることがないように、生きているうちになんとかその道筋を立てて、〝これでいい〟としたいだけです。
今、私どもが『この宗派の』とか、『このお寺さんなら』、とかいうものが見つけられないのであれば、
祭祀承継者となった子どもが、興味のあるなしに関わらず、お寺探しから、その後のお寺さんとの関係まで持たねばならないこととなるだけで、いたずらに子どもの負担を増やすだけのこと。
今、元気なうちに心からこちらと縁を結びたいと思う檀那寺さんが見つからなければ、無宗派のほっ建て墓があれば充分だと思うのであります。(ほっ建て墓という言葉は私の造語です)
日本の法律でどうやら埋葬が義務付けられているので、墓、と考えているだけのこと、なので。
私の中にある自分なりの宗教というものは、実はこの珍道中を始める前から、こうありたいというものが確定していて、ただ、それは宗教でもなんでもないものでしかないので、だからこそ、自分探しをしながら、これ!という宗教はないか探しているのであります。
宗教的にも、スピリチュアル的にも、それは宗教ではないし、それは好ましい参拝ではないとされてしまうものが、実は私の一番、『こうありたい』宗教で、私教とでも言えばよいのでしょうか。
とはいえ、これ!といったらお寺さんとの出会いがあれば、そこの檀家になりたい気持ちには変わりはないのですが。
今日は〇〇の日だから〇〇寺さんに参拝に行こう、とか。
家のそばにある、町の鎮守さまに出向いては参拝して。
野仏さまにお会いしたら(嬉しくてはやる気持ちを抑えながら)ひざまづいて手を合わせ。
そんな暮らしこそが私のこうありたい姿であるのです。
おてんとさまに感謝して。
お月さまに祈って。
お寺さんというのはありがたいもので、檀家ではないということで、ハッキリと区別されたことは一度しかありません。
どこのお寺さんもみな、檀家さんのお顔を一目見るだけでどこの誰それさんのお家の方でどこどこにお住まいでどんなお仕事をされておられる等々、今も昔も変わらずわかっておられ、つまりはそうではない私ども、ということも、どこのお寺さんでもわかっておられます。
にもかかわらず、その上でお参りに来られた方はなんらかの縁ある方として、接してくださり、突然訪れたどこの馬の骨ともわからぬ私どもに対して笑顔で、
「ようこそお参りくださいました」
から始まって、
お時間に余裕があれば、それこそお寺のいわれから、境内や御本堂のこと、宗派の教えまで教えてくださり、はては
そのときの会話から悩みについて触れ、法話をなさってくださることすらございます。
お飲み物をお出しくださったり、干菓子やお供えのお菓子までいただいたこともございます。
観光地にあるお寺さんなどはまた少し趣きが変わりはいたしますが、それでも一人一人、そのお寺さんを参拝されたことでよい思い出をつくっていただけたらいいという根本にあるものは変わらないよう感じております。
まぁ、それでも、ん?と思うような発言をされるお坊さまもおられないわけではないのですが、それでも檀家、非檀家という線引きをされたのはたった一回だけであります。
それは他ならぬ母の葬儀等を行なって下さったお寺さん、つまりは菩提寺となるのですが、娘とはいえ祭祀承継者でなければ檀家ではないのだからとはっきり申され、お盆のときや、お彼岸のとき、
「あ、その人は関係ない人だから(何も話しかけなくていいし、何も渡すものもない)」と言われ、ご住職は挨拶さえされなかったという、もはやお寺さんとかお坊さまとかいう以前に人としてどうか?のレベルですが。
施餓鬼会をされる日にたまたまお参りしていたところ、檀家さんたちは「(御本堂に上がって)いいよいいよ、ちょうどいい日に来られたじゃない。心がけがいいんだね」などと招き入れようとして下さったのですが、ご住職は
「あなたにも必ずご先祖というものがあるだろうからあれだけど。ま、今日は(上がっても)いいから。ここは檀家以外の人は来ない寺だから」
と言われたという、なんとも切なく哀しい思い出であります。
ちなみに、では私を覚えていないかというと決してそうではなく、ようは檀家、非檀家というよりはビジネス。
私がいかに熱心にそのお寺さんに通おうともせいぜいお賽銭くらいしか入らない相手、ということなのだと。
正直挨拶すら惜しいと思う僧侶に、どんな法話をされても何も心に残らないです。
よほど嫌われるようなことをしたんじゃないか?
…そうなんですかね。
普通に母の葬儀や法要に列席していただけですが?お坊さんというのはよほど人間の本質を見抜く力が優れておられるのでしょうか。
でも、私が悪人だったり、自分と合わない人だったりということを見抜かれての行動だとしても、なんかちっちゃくないかなぁ?
挨拶すらしないって…。
姉にもそうだったようですが、姉は別に気にしないと申しておりました。
そこが私の未熟なところではあります。
私の、離婚してからは会うこともなかった父や、父方の祖父母の眠るお寺さんのご住職は、私の顔をしっかりと覚えてくださって、しっかり顔を見ながらこちらにお越しになってご挨拶くださいますし、法要とかも参列できない立場ということも理解されて、御本堂に上がれるようにお声をかけてくださいます。
小さくともなんらかの法要くらい営んだ方がいいかと気にしているのだと申し上げると、
「こんなにお墓参りに来ておられるのだから、もうそれで充分ですよ」とおっしゃってくださったり。
…まぁ少なくとも母の菩提寺である某お寺さんだけは私どもの檀那寺さんの候補にはあがらないことだけは確かです。
えっ、心が狭い?
おとなげない?
まぁ、確かに、私はそれを乗り越えるのが本来の課題ではありますがね。
そのお坊さんのせいで〇〇宗まで嫌いになりそうになったのを、それは違うと気づいただけでも、私的にはオッケーかなぁ。
三回忌も終えたので、あの祭祀承継者は七回忌とかもないだろうし。
ご住職はご住職。
お寺の御仏は御仏。
私は私。
今後も母と母方の先祖のせめてもの供養にお墓参りには参ります。
無宗教のはなしからだいぶ逸れてしまいました。(^_^;)
そんな母の菩提寺にお参りに行ってまいりました。
山門のだいぶ手前から泰山木が咲いているのが見えました。
…そうだった。
泰山木の頃でした。
鐘をついて。
御本堂の前に向かいました。
御本堂の前に置かれた、あの大きい香炉、常香炉というのだそうですが、母が亡くなった後、何度こちらは来ても、香炉の灰に結構大きな…そう、キャンプなどで使う炭の、燃え残ったようなものがいくつも香炉の灰の上にあるのです。
灰を均すことどころか整えることもなく、何年も放置されているようにしか感じられません。
何故ならばほぼ毎月通っていて、いつもいつも、その状態だから、です。
香木とかではないです。
初めて見た時は本当にびっくりしました。
まぁ、仏教とはどんなかも知らない、〇〇宗はどんなふうな宗派かも知らない愚かな人間ですので、もしかしたらこれはこれで正しいのかもしれません。
香炉の灰にお線香が立たなくとも、こちらは香炉としてではなく、お焚き上げの炉として使っておられるのかも知れませんし。
…いや、あの施餓鬼会のとき、檀家の方がお線香を立てていましたね。
こちらの今のご住職と私はまさに合わないのでしょうね。
ま、しかたがない。
まさに怨憎会苦、嫌な物事や人と出会う苦しみでありましょう。
そしてお互いにそうなら、ある意味救われましょう。
ちなみに。
〇〇宗の他のお寺さんではそんな常香炉を見たことはありません。
明日は七夕。
笹飾りをつけ、短冊に願い事を書いて祝うもので「しちせき」とも読まれます。
子どもたちが小さな頃、出来うる限りの伝統行事をしていろいろなことを伝えていきたいと、笹を手に入れるのにとても苦労したことを思い出します。
もともとは中国に由来し、本来は農耕儀礼に結びついた祖霊祭だったといいます。
それがいつしか牽牛星と織姫星の伝説や、女性の針仕事の上達を願う祭、盂蘭盆会などとが合わさった上で日本へと伝わった。
それがさらに日本でもさまざまな伝統行事と合わさり、現在の形となった。
星の逢引き、ということから「星合」とも呼ばれるのだそう…初めて聞きましたが、ね。
明日の天気はどうなのだろう。
一年に一度くらい会わせてあげて欲しいものですが.…。
七月といえば、祇園祭、なのが京都の方でありましょう。
東京の方だと浅草浅草寺のほおづき市でありましょうか。
東京のほおづき市くらいはなんとはなしに肌で感じるものではありますが、京都ともなると、まるでそんな空気を感じることができない。
コロナ禍となって、今年はようやく祇園祭を開催することとなったと以前ニュースを見て、良かったと思ったもの。
祇園祭といえば、清和天皇の貞観十一(869)年、六十六本の鉾を立て、洛中の男児が祇園社(=八坂神社)の神輿を神泉苑に送り、悪疫を封じ込めたのが始まりと伝えられています。
その後も疫病が流行した年に行われていたが、天禄元(970)年から定期的に開催され、応仁の乱などでちゅうだんしたものの、現代まで続いているものだといいます。
…そう、悪疫がこんなにも流行っているさなか、悪疫を封じ込める行事が中止されるとは、なんともいえないものであります。
祭の無事を祈願し、打ち合わせを行なう、七月一日の「切符入」から三十一日の「夏越祓い」まで、実に一ヶ月にわたりさまざまな行事が行われるのだそう。
十七日と二十四の山鉾巡業に向けて、各町で山鉾建て、組み立てが完了すると曳き初めがされるのだという。
また、神様の使いとされる稚児たちが選ばれ、なかでも「長刀鉾」の稚児は順行当日、しめ縄を太刀で切り落とす重要な役目を担うといいます。
う、う、実に長い!
一ヶ月かけて?
は。はあぁ
蓮の花があちらこちらでみごとに咲いています。
…そう、このスレのいくつか前のレスで述べましたように、睡蓮ではなく『蓮』。
暦の上でも七月の中旬辺りを【蓮始開(はすはじめてはなさく)】というようです。文字通り、蓮の花が咲き始める頃、という意味。
蓮はインド原産のハス科の多年生水草で、花の中心がハチの巣に似ていることから、古くは『はちす』と呼ばれたといいます。
蓮の花は蓮華(れんげ)とも呼ばれます。
泥で濁った池や沼に生えながら、美しさを保つ花ゆえ、中国では汚れた環境の中にいてもその影響を受けず、清浄を保つ事をたとえて、
『泥より出でて泥に染まらず】という言葉が生まれ、日本にも伝えられました。
仏教では清らかさの象徴とされ、紋様とされ、紋様として多用されています。
花が観賞に供されたほか、その葉は包みや器として使われ、茎からは糸も取れるといいます。
蓮根と呼ばれるのは地下茎で、食用として利用されている。秋から冬が旬で、筋が太く色白なものが美味とされている。
蓮には薬用とされる部分が多く、レンコンの節部と葉、花のおしべには止血作用があり、他の生薬と配合して胃潰瘍や子宮の出血の治療に。また、種には滋養強壮作用があり、生薬と配合して慢性の下痢、心臓病などの治療に使用される。
先日みごとに咲き誇る古代蓮を見て参りました。…お寺さんではありませんが。
心も浄化してくれる、そんな気がいたします。その作用がいつまで持続するかは、個体差があるとは思いますが、ねえ。
ふと、『山頭火』が読みたくなり、『草木塔』を手にしました。
山頭火を初めて知ったのは中学の国語の教科書で。
〝分け入っても分け入っても
青い山〟
その自由な俳句と、そこに広がる山の景色に当時の私はたいそう感動したのでありました。
俳句といえば、五・七・五に語をおさめ、しかも必ずその何処かに季語があるように詠まねばならないと教えられ、指を折りつつ、季節を考え、ああでもないこうでもないと、捻り出していたものだから、
この、山頭火の〝分け入っても… 〟は本当に衝撃でありました。
これを俳句とするということにもびっくりいたしましたし、この句の無限にも感じる自由さ。
それに山頭火というなんとも変わった名前。
その一切合切が、どーんっと真っ直ぐに私の中に入ってきました。
とはいえ、その国語の授業では、その句だけ習うに過ぎず、山頭火についても、お坊さんであったことと、妻や子を捨てて旅に出たということのみ触れるに過ぎませんでした。
ずっと触れてみたかった山頭火の世界に、ようやく触れることができたのは大人になり、それこそわが子が国語の授業で山頭火を習う頃のこと。
ありがたいことにこの本は某百円均一ショップの文学シリーズという文庫本で、つまりは百円ちょっとで購入できた。
それ以上にありがたかったのは、年譜と称する山頭火の略歴が最後にほんの少し書かれているだけであったこと。
なので、とりあえずは山頭火の背景とか一切知らないままに、それこそ好きなページから好きなように作品を読むことが出来たのです。
が。
やはり読んでしまうのですよね。山頭火の生涯をあらわしたものを。
そして、今回はその彼の背景を知った上での再読…再々読となったのですが…。
…初っ端から泣きました。
思えば先日は太宰治の人間失格を読んでも泣いています。
歳をとると涙もろくなる、ってこういうことなのでしょうか。
やだなぁ、まだ若いつもりもあるんだけど。
山頭火はどれだけの孤独と戦いながら生きたのか…。
ちなみに。
若いころですと、どうしても、〝妻や子を捨てて〟とかいうワードに、はぁぁ?とか、ん?!💢とかなるじゃないですか。
でも今は…ねぇ。
気温も上昇して体温を超えるほどとなったせいもあるのか、沸点もなかなか高くなっており。
えっ?これも歳のせい?
まぁ…〝妻や子を捨てて〟ということ。
お釈迦さまもまた、そういった経歴の方でありますし。
お釈迦さまと一緒にしたらなんかバチが当たりそうですし、そも山頭火本人に怒られそうですが、この二人の選んだその選択肢の先には苦しみしか無かったし。
そうしか生きられなかったのでしょう。
捨てて行かれた体験を実際にしている身としては、まぁ…。結構恨んだりもしないし。
ふうぅ。
ちょっと閑話休題として次を綴る気分ではなくなってしまった。
厳密にはお釈迦さまは妻と子を捨ててのち歩んだ道は難行苦行の道でありますから、たしかに苦しみ多き道ではありましたが、そののち悟りを開かれて、人々を苦しみから救うべく教えを説くことができました。
それはお釈迦さまにとってはお喜びであられたことでしょうから、〝苦しみしかなかった〟というのはまるっきり誤ったものです。
一方の山頭火は、妻と子を捨てたのちも苦しみの道しかなく、得度したのも成り行きからでしかなく、強い思いで仏教に携わったわけでもありません。
とはいえ、仏教から得たものは計り知れなかったのだろうと思います。
十歳で自死という形で母を亡くし、祖母に育てられ。
かつてはその集落一の家柄、大地主であった家も、父の贅沢三昧、遊び三昧から没落し、やがて父も行方知れずとなり。
熊本から東北岩手まで、そのほとんどをおそらくは歩いて。
『解くすべもない惑ひを背負うて、
行乞流転の旅』続けたのでありましょう。
おそらくは…母を亡くした十歳の時から。
切ない、あまりに切ない生涯。
ふとした拍子に涙が出てしまう。
ありえないことが、あってはならないことが、この日本で起きた。
恨もうが、
憎もうが、
それは感情という抑えられないものであるから、否定はしない、否定するほど私は人間ができていない。
ただ。
誰にも他人の命を奪う権利などない。決して、だ。
それは社会的地位がある方であろうが、
二歳の子供であろうが、
全て。
人の命は他人に奪われてはならない。
いかなる手段であっても、だ。
…眠れないので、布引観音さまの参拝の珍道中録を書こうと思います。
長野県好きの夫は、お盆休みの時は毎年必ずと言っていいほど、長野県に一〜二泊する小旅行をしておりました。
子どもたちはもうそれこそ物心つく前から、長野県へ旅しておりましたので、その影響を強く受けた長男はさらに夫の上をいく長野県好きとなり、一時期休みというと長野県へと行っていたくらい。
かつて一泊して訪れていた場所などは日帰りで行って帰ってくるほどで、私などはよく「長野行く?」の一言でそこらへんに買い物に行くかのような気軽さで、彼のおすすめの長野のスポットへと連れて行ってもらったものでした。
そんな長野県の美ヶ原へと向かう道の途中、『布引観音➡︎』という看板を何度となく見かけます。
それでもそれはさほど大きくはない看板なので、私だけが気づいて騒いでいるそんな繰り返しだったのですが、何やら調べてみると、どうやらあの善光寺さんと深い関係のあるお寺さんのようで。
あの、『牛に引かれて善光寺」の、牛に化身した観音さまがこちらの布引観音さまなのだというではないですか。
いつか必ず参拝したいとずっと騒いでおりましたお寺さんでございます。
それが今年、善光寺さんの御開帳があり。夫にことあるごとに言っていた「布引観音さまに行きたぁぁい」というもはや呪いのような言葉が頭に残って離れなくなっていたのでしょう。
昨日は、会社から「年に何回か有給休暇を取得するように」と言われているために取得してあった休みの日。
「布引観音さまに行こうか」とのたまう出ますではないですか♡
やったぁぁ!
そんなわけで長野県へと出ぱ〜つ!
ところが。
そんな有名な布引観音さま、高いお山の上にあります。
駐車場はそれなりにあるらしいのですが、ダイレクトにお寺さんの境内に乗りつける駐車場は何やら細い山道を走るようなのです。決してすれ違えない、まさに布引観音さま専用路のようで。
そこではない下の方にある駐車場から歩くのがおススメともいろいろな方のブログ等に書かれています。
もちろんそれは細い道だからというものも多少は含まれてはいるようなのですが、この山は登って行った方がいいというニュアンスのものがほとんどです。
よぉ〜し。
…ところがですね。や〜っぱり珍道中の二人組。
ナビの案内を受けながらにして、道を間違え、さらに駐車場を通り越す。
お決まりのパターンです。
あ、でもこちらを紹介されておられる方々も、駐車場は通り越しがちなので注意をしてと結構な方が書かれています。よくあるみたいです。
…それを読んでいて通り越すなぁ!ってところですよね。
それをやっちゃうのが珍道中コンビです。
それも、通り越しちゃうとちょっと行かないとなかなかUターンもきびしくて、ちょっと困った珍道中コンビ、でありました。(ほんと困りもんで^^; )
そのくだんの駐車場。
区画もなく、隣にある何やら作業車両のある敷地ともあまり明確な境界もなく。
どこに停めたらいいんじゃい⁈といった駐車場なんですよ、えぇ。しかも一台も停まっておらず。
…まぁ、いつものように運転手は夫なので、控えめな位置で後からくる方に一番邪魔にならない場所に(と思い込んだ場所に)停めました。
おおぁ!
なんか結構な山道っぽい道が続いている予感しかしない石段が目の前に…。
貸し出し用の杖が初っ端から置いてあります。
栃木県足利市の某お寺さんの登りでたいそう懲りた私は悩むことなく一番使いやすそうな竹を切っただけの杖をお借りしました。
うーん。
想像通りの山道だ。
ところで。
こちらの地方に伝わる『牛にひかれて善光寺参り』。
善光寺に伝わるものとは少し異なっておるようで…。
『昔、善光寺から東に十里(約40キロメートル)離れた信濃の国小県郡(現在の長野県東御市)に強欲で信心の薄い老婆が住んでおりました。この老婆が千曲川で布をさらしていたところ、どこからか一頭の牛が現れ、その布を角にかけて走り出しました。老婆は驚きましたが、布惜しさに野を越え、山を越え、牛の後を追いかけました。そして気がついてみると、善光寺の境内まで来ておりました。老婆はやっとのことで牛に追いついたと思ったのもつかの間、牛は金堂のあたりで姿を消してしまいました。驚きと悲しみに疲れ果てた老婆はあっけにとられてその場に佇んでしまいました。
やがて日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明が差し、その霊光の尊さに思わず跪いて菩提心を起こし、一夜を金堂に篭って罪悪を詫び、家に帰って参りました。これは布引か観世音菩薩が牛に化して信心うすい老婆を善光寺阿弥陀如来の許に導いて教化したのでした。
ある日のこと、ふと布引山を仰ぎ見ますと、岩角にあの布が吹付けられているではありませんか。老婆は何とかして取り戻したいと思いましたが断崖絶壁で取るすべもありません。一心不乱に念じているうち、布とともに石と化してしまったということです。布引山の断崖には今も白く布の形をした岩肌が眺められます。』
善光寺さんのHPでは、善光寺さんの金堂前で、布と共に牛はかき消すように姿を消してしまいます。が、夜だというのに善光寺さんの御仏の光明がさながら昼のように老婆を照らし、ふと足元を見ると、牛の涎がまるで文字となっており、そこには『うしとのみおもひはなちそこの道に なれをみちびくおのが心を』と書いてあり、女はたちまち菩提の心を起こし、その夜一晩念仏を唱えながら夜を明かしたとあります。
その後すっかり信心深くなった女はたまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布がその観音さまの足下にあったというのです。そこで女は牛と見えたのはこの観音さまの化身であったと気づき、ますます信心し、めでたく極楽往生を遂げたとあります。
そしてHPでもこの観音さまは布引観音といわれていますと綴っています。
…石になった?
石になっていたら極楽往生はしていないのでは?そもそも、一心不乱に布を取り戻そうと念じるって…。
ま、まぁ。
そんな牛とお婆さんのお話は置いておき…。
私たちに待っていたのは結構ハードな山道でありました。結構傾斜のところもあり、石段の高さや幅がまちまちで、また足もとはぬかるんでいたりもします。
とはいえなんとか石段であり、奇岩群や、季節の花々、そしてなにより、この道を歩く人々の安全を見守ってくださる馬頭観音さまの石塔や、見守り地蔵さまや、手彫りの木仏さまがおられます。
その景色を楽しみながら登ってまいりますとあまり苦ではありません。精は切れるかもしれませんが…ね。
ところどころで小川が流れ、その水が小さな滝を作っているところもあります。苔むした岩にユキノシタが咲いているのも大変趣がありました。
どれがどうなのか、風雅の心のわからない私どもにはさっぱりわからなかったのですが、馬岩とか、牛岩とか呼ばれる奇岩もあるようです。
馬岩は見事に見逃しましたし、牛岩は時間をかけて見上げたのですがさっぱりわからず。
そもそも、この参道を案内した図がこの駐車場の入り口にあったのですが、どこに停めていいものやらとそればかりに気がいっていた私どもは参拝を終えて下山してから気づくというオチ。
さすが珍道中コンビです。
それでもいろいろ案内の看板が建てられているので、それさえ見つけられれば、楽しみながら歩けます。
とにかく木々と奇岩とところどころの小さな滝に囲まれた参道であります。
そうそう、善光寺穴というものがありました。善光寺に繋がっているという岩の隙間の穴のようです。
なんでも善光寺さんで火災があった折、この穴から煙があがったという言い伝えがあるようです。
…えぇ、この穴も、珍道中コンビにはどれがその穴であるのかすらわからず、いろいろ探索してみたのですが、「これ以上のことは田中隊長にお願いしよう」という夫の発言でそこを後にいたしました。
…テレビ局さん、たぶん、田中隊長でも無理だとは思います。
ただ、せめてどれがその穴なのか、私どもにお教えいただければと思います。
不動滝もあります。この岩の上に不動明王さまが安置されていることからその名がついたとされています。まずもって、その岩の上など、ウルトラマンファミリーくらい背がないと見えません。
そもそも私どもに至ってはその滝すらが見えませんでした。
「…あれが滝なんじゃない?色が変わってるとこ」
…やれやれです。
大きな大きな岩に囲まれて、その環境ながら大きく育った木々の間に作られた、苔と雑草に覆われたしかもほぼ石に戻った石段を登っていくと、一際明るく日がさす方に御堂?いえいえ山門が見えてまいりました。
厳密にいうとかつては山門だったもの。
今は山門の向こうはさらに背の高い草が生い茂り、竹だか笹だかがその先を覆い隠しており、何より山門のくぐり口を竹が二本、仁王さまのおられる間のサイドに取り付けられた格子の一部分に差し込まれ、立ち入ることを遮っています。
いつまで使われていたのでしょう。別段朽ちたという感じは全くありません。たくさんの千社札があちこちに貼られています。
門の表側にも格子がはめられています。…うーん、まさかとは思うけれど。
おおぉ〜!
立派な仁王さまがおられるではないですか!少し末端肥大気味で手足の大きめな、お優しいお顔立ちの仁王さまがお二人とも。
この門の前を通る者を見張っておられました。そして同じ間にはややもすると仁王さまよりも大きくすら見える草鞋が掛けられています。
草鞋は若干崩れてきてはいるものの、荒れた感じはいたしません。
「前を失礼いたします」と申し上げ、ふと足元に目をやると…!
!
オオムラサキだっ!
仁王さまがおられます門のすぐそばに日本の国蝶オオムラサキが羽を今まさに休めようとしているではないですか!
あ、私、まるで、と言っていいほど、虫に詳しくはありません。というか苦手です。
じゃなんで?と、思いますよね。
あまり大きな声ではいえませんが実は私、任天堂のあつまれどうぶつの森というゲームをプレイしているんです。
は?
それとこれとはまるで話は別だろうが?
実はこのあつまれ動物の森は、魚が泳いで、虫が飛んで。
それがちょっとリアルな画像なんです。
そしてそのゲーム内で季節が変わると、虫や魚、植物の種類がそれに合わせて変わるというもの。
しかもその図鑑がゲーム内に存在し、かなりリアルな映像で紹介されているんです。
そんなゲームで今、ヘタをすると毎日のように、このオオムラサキの踊るように舞う姿を見ているというわけなんです。
だからひと目見て、これはオオムラサキだ!とわかったのではありますが。
しかしながら…。
どんなに精巧に再現された映像でも、本物の、生きたオオムラサキとは違います。
なんと優雅に飛ぶのだろう。
すごいなぁ♡
夫に「オオムラサキかもしれない」と声をかけました。(あれだけ〝あつまれ動物の森〟で毎日のように見ているから間違いないと言いながら、どこかやっぱり自信のない私 笑)
「どれどれ、おぉ〜、ほんとだ。オオムラサキだあ」
すぐそばで人間が二人騒いでいるのも気にも止めず、オオムラサキは鼻を閉じてやすみ始めました。オオムラサキの羽の内側はベージュっぽい色をしています。
スマホのカメラを構えた夫。
…。
…。
「ちょっと羽を拡げてくれないかなぁ」
私が触れるほどではないくらいに手を伸ばすと、オオムラサキは飛び立ってしまいました。
「あ、…ごめんなさい」
「…まぁ、飛んでる姿見られたし」と夫。
「でもきっとこんな花のないところにいたってことはここ、きっと蝶道だよ。また戻ってくるか、違うのを見られるかも」と私。
「そう?」
…その通り、でした。
仁王門を通り過ぎた先の石段には、驚くくらいオオムラサキが羽を休めて止まっていたのです。
ちょうどそこで私どもを追い越した若い男性四人組が歩くたびにフワァっと飛び立っていくその数は軽く十を超えています。
「…こんなにオオムラサキを一度に見たのは生まれて初めてだ!(ゲームですらこんなにまとまって現れない)」
「俺は生まれて初めてオオムラサキを見た」
まぁ、みんな飛び立ってしまったので、結局夫はその姿をスマホの写真としておさめることはかないませんでしたが。
…こんなに参道で時間をかけて過ごす者など私たち以外誰一人おりません。先に進むこととしましょう。
それにしても、山門をくぐって行っていたはずの御本堂、その前を通り越して一体どこに出るというのだろう…。
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