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とある家族のお話
私はまり。
5年前に離婚し、現在シングルマザーで小学3年生の息子が1人。
父親は肺がんを患い、闘病の末4年前に他界。
母親は精神疾患を患い、現在精神病院に通院中。
遠方に住む兄の亮介と義姉の千佳さん。
中学3年生の姪と、中学1年生の甥がいる。
2つ下に同じ市内に住む弟の圭介。
私と同じくバツイチで、現在は1人暮らし。
息子のよき遊び相手になってくれる。
弟の子供は元妻が引き取っているが、しばらく会っていないそうだ。
私の母親は、多分だがかなり前から精神疾患があったと思われる。
父親が他界してからひどくなった。
病名は「妄想性障害」
特に被害妄想が酷く、妄想で警察を呼んだり近所の方々にご迷惑をおかけしてしまう様になったため、社会福祉の公的窓口に相談し、現在通っている精神病院の先生にお願いし、強制入院に至った。
母親本人はおかしいと思っていないため、入院する時はとても大変だった。
現在は退院している。
入院する時は近所に住む弟と相談し決めたが、母親には未だに恨まれている。
兄夫婦には電話やLINEで伝えていた。
母親は、兄と弟の嫁をいびりにいびった。
弟の離婚は、母親が大いに関係している。
義姉は遠方に住む事で離婚はしないで済んだ。
私達兄弟が母親を何度止めてもいびりは止めない。
母親は悪い事はしていない、私は正しいと、止めれば止める程興奮し罵詈雑言を言い放つ。
妄想が激しいため、妄想で話をするが母親本人は事実だと思っているため、違うんだよ!と言っても聞き入れてくれる事はない。
否定すれば嘘つき呼ばわりするな!お母さんは正しい!と怒鳴る。
仕方なく合わせれば、やっぱりそうだ!と益々妄想が本当の事だと思い込む。
とても難しい。
でも、私の実母である。
父親がいない今、私達兄弟が母親をみなければならない。
こんな家族のお話です。
給湯室で3人で話し込んでたら、時間を少し過ぎてしまった。
3人で、静かに事務所に入る。
各々席に着く。
牧野さんがうちらの方を見る。
田中さんは牧野さんの方を意識して、あえて見ない様にしているのがわかる。
雅樹はパソコン越しに、私達3人の様子を見ている。
立花さんがスーっと寄って来て「今日は面白い様子を見れそうだね」と言って来た。
私も「そうですね」と、つい顔がにやける。
田中さんが営業部に呼ばれた。
指示書を持って戻って来た。
「明日から今週いっぱい営業行けだってー!嫌だよー!ここにいたいよー」
田中さんがぶつぶつ文句を言いながら、明日から伺うお客様の住所を調べ出した。
立花さんが「田中さん、この仕事こっちに回して!加藤さん!これとこれお願い出来る?」と田中さんの分の仕事の割り振りをする。
「はい!それもらいます!」
この瞬間、事務がちょっとバタバタとする。
その様子を、牧野さんと雅樹が見ているのがわかる。
昼。
いつもの様に事務員3人固まってお弁当を食べる。
今日は田中さんの話もあるため、いつもより3人密着して食べる。
雅樹と牧野さんはそんな私達を横目で見ながら、一緒にご飯を食べに行った。
「田中さんが明日から営業行ったら、牧野さん寂しいですね」
「何で今営業なのー!?牧野さんの顔を見て仕事したい!」
「2人見ていて面白いのになー」
「ですね!2人共、思いっきり意識してるのバレバレですよ(笑)」
「ねー、加藤さん!どうしたらいいのか教えてー!ダメだー!多分、すぐにバレる」
「今頃、長谷川さんと牧野さんも同じ様な話をしているかも(笑)」
そんな話をしながらのお昼。
午後から、田中さんはしばらく打ち合わせで営業部に行くため、席にはいない。
立花さんがまたスーっと来た。
「付き合って2日目くらいのカップルが、今週いっぱい、いきなり会えなくなるって、仕事とはいえちょっと可哀想」
「ですね」
「営業って帰り遅いもんね。お客様の都合に合わせるから。22時帰宅とか良くあるもんね。まぁ、直帰出来るけど」
「だから田中さん、あんなに嫌がってたんですね」
田中さんが戻って来た。
「嫌だなー」
一言呟いて席に戻る。
この日は残業。
携帯を開くと雅樹からメールが来ていた。
「先に帰ってる。あと牧野もいる。牧野が弁当買って来てくれたから、晩御飯は気にしないで!頑張って!」
これは早目に仕事を切り上げたい。
立花さんもまだ残業していた。
キリがいいところで打ち切る。
立花さんに小声で「今、うちに牧野さんが来ているみたいなので帰ります」と耳打ち。
立花さんはモニターを見ながら敬礼ポーズ。
田中さんは営業部に行っているため、声をかけずに退社。
うちのマンションの来客用駐車場に牧野さんの車が停まっている。
「ただいまー」
部屋に入るとスーツ姿の牧野さんと雅樹が「お疲れ様!」とハモる。
「田中さん、まだ営業部にいましたよ?」
「明日から営業みたいだねー」
「今日、めちゃくちゃこっち見てましたね(笑)」
「そりゃーそうでしょ(笑)というか、事務員3人、いつもあんな感じなの?今まで余り意識して見てなかったから気付かなかったけど…」
すると雅樹を「いつもあんな感じ。暇さえあれば3人集まって何かしゃべってる。で、いつも立花さんが加藤さんの隣に移動して何かしゃべってる」と話す。
全部見られてる(笑)
「でも団結力は感心する。田中さんが急に営業の仕事が入っても、いつも今日みたいに立花さんが瞬時に仕事を割り振りして、加藤さんが暗黙の了解で、言われなくてもわかって動く。これはすごいと思う」
ほめられた。
牧野さんも「それは今日見ていて思った。すごいよね。俺達、付き合い長いけどあんなに瞬時に仕事を割り振りして、暗黙の了解で動くの無理」と言ってくれた。
嬉しい。
続いて牧野さんが「今日の昼、3人でくっついて弁当食べながら話していたけど…何か聞いた?」と聞いてきた。
「はい!色々と…」
「あー。なら話は早いね。今日は2人に相談があって来たんだ。腹減ったから、弁当食いながらでもいい?」
「温めますね」
私はお弁当を電子レンジに持って行く。
温めたお弁当を順番にテーブルに持って行く。
一緒にコップに入れたお茶も持って行く。
「加藤さん!ごめーん、しょうゆも!」
牧野さんがテーブルから叫ぶ。
「はーい!」
しょうゆも持って行く。
「いただきます」
お弁当を頂く。
「いきなりなんだけどさー」
牧野さんが話し出す。
「俺、飲んだ日に田中さんとやっちゃったんだよね」
私は聞いていたため驚かなかったが、雅樹はむせていた。
「早いな。いきなりかよ」
「だって、我慢出来なかったんだもん。酔っ払ってるし、何か可愛かったし。目の前にいいなーって思う女が酔っ払って一緒にいるんだぞ?お前ならどうする?」
「…まぁ、気持ちはわかる」
「だろ?で、やっちゃってから付き合ってって言ったらオッケーしてくれた」
「順番、逆じゃないか?」
「まあ、細かい事は置いといて…。で、本題なんだけどさ。お前らみたいに会社にバレない様にするにはどうしたらいい?田中さんとは、年齢的にも真剣に考えていこうかなーと思ってるんだ」
「うーん…俺は加藤さんと付き合うってなった時に、仕事とプライベートは完全に分けたいという話はしたんだ。でも俺ら、しばらく加藤さんも俺に敬語使ってたし、呼び名もしばらく長谷川さんと加藤さんだったし、最初は仕事の延長みたいな感じ」
「そうなんだ。どうやったら分けられる?」
「俺の場合は、スーツを着たら仕事モードに入るから、加藤さんを彼女じゃなくて、後輩としか見れなくなるんだよね。加藤さんも制服着たら、事務の加藤さんになるし」
「私は最初は、長谷川さんを見たらドキドキしました。でも、そんな時は深呼吸をしました。仕事とプライベートを分けると約束していたので、この会社での長谷川さんとの時間を壊したくない、私は仕事をしに会社に来てるって自分に言い聞かせていました。そのうちに、それが普通になりました」
「でも、パソコン見ているふりして、加藤さんを見ている事もあったかなぁ?前の事務所はちょうどずれてたけど、今はいい角度になった(笑)」
「俺は田中さんが正面なんだよ(笑)前にお前がいるけど、少しずれてくれてるからありがたい。…割り切るって事なのかな。田中さんの事は大事にしていきたいと思っているから、俺も仕事モードに切り替えられる様に頑張るよ」
「職場でイチャイチャしなくても、帰って来たらいくらでもイチャイチャ出来る。割り切りだな。頑張って。慣れるよ」
「ありがとう。でも明日から営業でいないんだよな…お前らはいいよなー!」
牧野さんはそう言ってお茶をグイっと飲む。
翌朝。
田中さんはスーツで出勤。
私と立花さんが当番から帰って来ると「行きたくなーい!」とだだっ子みたいになってこっちに来た。
「約束10時なんだよねー。まだちょっと時間があるから、それまでちょっといる!」
その言葉にまた3人で席の隅っこに固まり小声で話す。
「昨日、牧野さん、うちに来ましたよ?」
「言ってたー!どうやったら長谷川さんと加藤さんみたいにバレないか相談したって」
「そうなんです。頑張って下さい!うちらからバレる事はありませんから!」
立花さんは、うんうんと頷いている。
「今、会社で会えなくても、仕事が終わったら会えます。営業で会社にいなくても、牧野さんは田中さんに頑張って来てほしいと思っています。私達も全力で応援します!今が辛抱の時です!」
「加藤さんが言うと説得力あるわ。頑張る!行って来る‼️」
「頑張って!」
その様子をやはり気になるのか、雅樹と牧野さんが見ている。
「田中さーん!」
営業の人に呼ばれた。
「行って来る!」
「行ってらっしゃい!」
私と立花さんは手を振ってお見送り。
席に戻るとすぐに立花さんが椅子ごと来た。
「田中さんなら大丈夫!牧野さんもほら、田中さんを目で見送ってたし、絶対大丈夫!」
「そうですね!私達は、田中さんの分も頑張りましょうね!」
立花さんは席に戻った。
昼休み。
立花さんと2人でお弁当。
すると坂田さんが「お疲れ様です!これ、良かったら食べて下さい!実家からいっぱい送られて来たんですが、食べきれなくて」と言って、かごいっぱいに入ったブドウをくれた。
「ありがとうございます!いただきます!」
立花さんと2人でお礼を言う。
食後にブドウを食べる。
「美味しい!」
でも食べきれないため、給湯室にある冷蔵庫に保管。
昼休みも終わり、仕事に取りかかる。
ふと牧野さんを見る。
何かを考えているのか、パソコンを見てはいるが手が動いていない。
雅樹が私の視線で気が付いたのか、振り返り牧野さんと何かを話している。
田中さんの席を見た後に、また仕事に取りかかる牧野さん。
田中さんも営業で頑張っているはず。
気持ちがわかるだけに、見ているとちょっとツラくなる。
田中さんと牧野さんのお付き合いも順調な様子。
田中さんからのろけ話を聞いては、冷やかしたり喜んだり。
今のところは、会社にもバレずにうまくやっている様子。
私達の入籍する日、退社を会社に報告する日も近付いて来た。
やっぱり寂しい。
でも一度決めた事。
退社を報告しても、最低1ヶ月は残るけど。
そんなある日の昼休み。
立花さんが「実は、第2子を授かりましたー!」とお腹に手をあてる。
「わぁ!おめでとうございます!」
「おめでとう!」
「今、4ヶ月に入ったところ」
「息子さんもお兄ちゃんですね!」
田中さんが「私もいつかママになりたいな」と言って、チラッと牧野さんを見る。
「なれますよ!牧野さんも優しいパパになりそうですし」
「そうだよね、なれるよね。子供好きだから、私も早くママになりたい!年齢的にもちょっと焦る」
「私もいつかは長谷川さんとの子供が欲しいです」
「私も加藤さんもママになったら、ママ友会みたいなのしたいねー!」
「いいねー!」
賑やかなお昼。
その日の夜。
雅樹に「立花さん、2人目を授かったんだって!」と報告。
雅樹も「おめでとうと伝えて!」と喜ぶ。
「俺らも子供欲しいなー。なかなか出来ないけど」
「そうだね。でもいつかは赤ちゃん授かるよ!」
「今日も子作りしようかー」
その日も雅樹とSEX。
気になっていた左手のくせは抜けていた。
普通、これだけやりまくっていたらマンネリするのかもしれないが、私達には不思議とない。
会社に報告する前日。
入籍前夜。
雅樹が「一緒に報告しに行こう」と言う。
明日は当番ではないけど、早目に出勤してまず社長に報告しようと話す。
そして総務部に報告。
しまっていた婚姻届を出してきた。
保証人の欄は、お互いの父親に書いてもらった。
明日、出勤前に市役所の時間外窓口に婚姻届を出す。
雅樹が前に買った指輪を出した。
「明日からは、堂々とつけられるね」
そう言って、私の左手薬指に指輪をはめる。
私も雅樹の左手薬指に指輪をはめる。
念願の結婚指輪。
いよいよ結婚。
加藤で過ごす最後の夜。
明日からは長谷川になるんだ。
嬉しい。
入籍当日の朝。
4年前の今日、雅樹が私に告白してくれた大事な日。
この日がなければ、今の私達はいない。
朝早く目が覚めた。
まだ朝4時半。
雅樹はまだ寝ている。
ベッドから起きて、台所で水を飲む。
パジャマのまま、ソファーに座る。
雅樹と付き合って来た、色々な事を思い出す。
事故に巻き込まれて入院していた時の事や、私の親に挨拶に行ってくれた時の事、父親と話した時の事、雅樹の前のアパートでの事、処女を雅樹にあげた時の事、他にも色々と思い出す。
今日、婚姻届を出したら旦那になるんだ。
こんなにいい旦那さん、世界中を探してもいないよ。
ちょっと強引なところがあって、ちょっとエッチなところはあるけど、優しいし、頼りになるし、スーツを着て仕事している姿はかっこいい。
だから、会社で雅樹に会いたくて、この時間のために約束を守り続けた。
でも、今日からは長谷川まりとして、雅樹の妻として、しっかり雅樹を支えて頑張っていきたい。
そのためにも、大好きな会社を辞めて、雅樹との家庭を守りたい。
会社を辞めたら、あのいつもの髪をくしゃくしゃとする好きな仕草は見れなくなるかも知れないけど、でも、会社以外で私だけに見せてくれる雅樹の笑顔を大事にしたい。
「まり、おはよう。早いね」
雅樹が起きてきた。
「ごめん、起こした?」
「いや、俺も目が覚めちゃった。今日はいよいよ入籍の日だね」
「うん。何か、今までの事を思い出してて…雅樹が4年前の今日、私に告白してくれてなかったら、今の私達はないなって思って」
「俺、あの時、すごく勇気を振り絞って良かった。心臓が口から飛び出て来るんじゃないかっていう位ドキドキしていて。でも、まりがオッケーしてくれたから今がある。ありがとう。これからもよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
2人でお辞儀をする。
「ちょっと早いけど、市役所に行く準備しようか」
「うん」
私は準備に雅樹より時間がかかるため、先にシャワーに入る。
そして朝のいつもの支度。
化粧をして、ちょっとのびてきた髪を束ねて、通勤服に着替える。
雅樹もいつものスーツ姿。
違うのは、お互いの左手薬指に光る結婚指輪。
雅樹の車に乗り市役所に向かう。
開庁前の市役所の裏口。
年配の男性警備員さんがいた。
「すみません、時間外窓口ってどこですか?」
雅樹が警備員さんに声をかける。
「どういったご用件でしょう?」
警備員さんは私達にたずねる。
「市役所が開いている時間に来れないので、婚姻届を提出しようと思っているのですが…」
雅樹が答える。
「そうですか、ご結婚ですか!おめでとうございます!こちらにどうぞ」
警備員さんは笑顔で時間外窓口に案内してくれた。
ドアを開けてすぐに腰くらいまでの引き窓があり、窓越しに40代くらいの男性がいた。
警備員さんが「婚姻届を提出したいそうです」と笑顔で40代くらいの男性に伝える。
男性は「婚姻届ですね、お預かりします。もし何か不備がありましたら、ご主人の携帯へのご連絡で大丈夫ですか?」と言う。
雅樹は「はい」と言いながら、婚姻届を出す。
男性はざっと婚姻届を確認し「確かにお預かりしました。市役所が開きましたら、住民課に責任持って引き継ぎます。本日は以上になります。おめでとうございます」と笑顔。
「よろしくお願いいたします」
外に出ると、先程の警備員さんがちょっと遠くから笑顔で会釈。
私達も会釈し、車に戻った。
「なんかあっさりだったね」
私が言う。
「そうだね。でもこんなもんでしょー。今日から、まりは俺の奥さんか!たまらん!」
出勤には、まだちょっと早い。
一旦、帰る事にした。
出勤時間が近付くに連れ、ドキドキしてきた。
「どうしよう…緊張してきた」
「大丈夫!俺がいる!」
私を抱き締めてくれる。
「まず、社長に報告しよう。それから事務的手続きがあるから、総務にもいかないとな。全てバレる瞬間だけど」
「事務的手続きなら、私でも出来るんだけどなー」
「そうだった!確かに!自分でやる?でも、書類の提出は総務だよ?」
「あっ!渡辺さんがいる!渡辺さんに渡せば、間すっ飛ばして直接部長までいけるよ?」
「それで行こう!」
本当はダメだけど。
少し気楽になる。
出勤時間になる。
別々に出勤。
今日は、田中さんは営業でいないため、毎日当番は大変という事で、掃除をするエリアを縮小して、当番は立花さん1人。
奥に立花さんがいた。
「おはようございます」
「あれ?当番じゃないのに早いね…あっ、今日か!」
立花さんには全て言ってある。
「もう少しで長谷川さんも来ます。さっき、婚姻届出して来ました!」
立花さんは「おめでとうー!」と言って、私を抱き締めてくれた。
「ありがとうございます!」
立花さんと熱い抱擁をしていたら雅樹が出勤してきた。
「立花さん、おはよう」
「長谷川さん!おめでとう!やだ、なんか涙が出てきた」
立花さんは笑い泣きをしている。
立花さんは4年間、ずっと私達を見守ってくれていた。
私が入社してからを合わせると約8年間、立花さんの産休を除き、ずっと一緒にいてくれた。
色々相談したり、共に笑ったり、泣いたりしてきた。
真っ先に結婚の報告出来た。
「やだ、もう指輪してる!見せてよ!」
私と雅樹は一緒に左手を出す。
「いいじゃん!2人共似合ってる!幸せになるんだよ!」
「ありがとうございます!」
立花さんはポケットからハンカチを取り出し、涙を拭いている。
「これから社長に報告してきます」
「さっき、奥さんも来ていたから一緒にいるはず。いい報告だから、社長も奥さんもきっと喜んでくれるよ!」
「はい!行って来ます!」
「行ってらっしゃい!」
雅樹は私と立花さんの話を隣で笑顔で聞いていた。
社長室前。
深呼吸。
雅樹を見る。
私を見て頷く。
緊張する。
雅樹が社長室のドアをノックする。
「どうぞー!」
奥様の声。
先に雅樹が「おはようございます。失礼致します」と先に社長室に入る。
続いて私も入る。
社長が「おはよう。2人でどうした?」と不思議顔。
奥様も社長の隣で私達を見ている。
雅樹が「突然のご報告になりますが、本日私長谷川と加藤まりさん、入籍させて頂きました」と言う。
社長は驚きの余り目を見開きフリーズ、奥様は「え?入籍?」と言って驚きなのか言葉を失う。
「はい。結婚致しました。そのご報告を直接社長と奥さまに、と思いまして」
「…いやー。突然過ぎてびっくりしたよ」
社長が言う。
「あの、それに伴い私加藤、辞めさせて頂きたいと思いまして」
私が言う。
奥様が「えっ?加藤さん、辞めちゃうの?」とまた驚く。
緊張で手汗がすごい。
「社長や奥様を始め、皆様には大変お世話になり、辞めるのは心苦しいのですが、家庭に入る事に致しました」
そう言って頭を下げる。
雅樹も一緒に頭を下げる。
「…そうか。加藤くんが辞めてしまうのは残念だけど、そう決めたのなら、私達は君たちを心から祝福するよ。加藤くん、気が変わったらいつでも戻っておいで」
「ありがとうございます!」
そう言ってまた雅樹と頭を下げる。
奥様が「加藤さん、本当に残念。ずっと頑張ってくれていたから…」と言って下さった。
本当にありがとうございます。
「午前中だけでもダメかしら?」
奥様がそう言って下さる。
「ありがとうございます。でも…決めましたので」
「考えてみて!返事はいつでもいいわ。ねっ!」
「ありがとうございます」
社長が「会社の皆は君たちの事を知っているのか?」と聞いてきた。
雅樹が「仲良くさせて頂いているごく一部の者には伝えてありますが、ほとんどは知らないと思います」と答える。
「そうか。とりあえず西田くんには伝えておく。手続き関係は直接西田くんに話をしてくれ」
「ご配慮、ありがとうございます」
雅樹がお礼を伝える。
社長が言う西田くんとは総務部長である西田部長。
余り接点がなく、私は話した事は挨拶程度だけど、人望があり、社長も信頼している。
前にいた片山さんが辞めてからはこの会社の従業員で一番勤務歴が長い。
社長と奥様への挨拶を終えて、社長室から出る。
立花さんとスーツを着た田中さんが給湯室からこっちを覗いている。
田中さんが「加藤さーん!」と言ってこっちに走って来た。
「おめでとー!」と言って抱き締めてくれた。
「ありがとうございます!」
「立花さんから今日入籍したって聞いたのー!私、そろそろ行かなきゃならないんだけど、その前にどうしても直接おめでとうを言いたくて待ってたの!長谷川さん!加藤さんとお幸せに!」
「田中さん、ありがとう」
雅樹が答える。
「じゃ、行って来ます!」
田中さんは足早に会社を出る。
私と雅樹と立花さんと3人で事務所に入る。
まだ皆は知らないため、普通に「おはよー!」と声を掛け合う。
雅樹が席に着くと、早速牧野さんが雅樹に話しかけている。
千葉さんが雅樹の指輪に気付いた様子。
そして驚いた様子で目を丸くして私を見た。
私は軽く会釈。
多分、今聞かされて驚いたと想像出来る。
男3人、一斉に立ち上がり事務所の奥に行き、何やら話している。
いつも私達事務員がやっているのを雅樹が見ている立場だけど、今日は珍しく逆になる。
皆、背が高いから迫力あるなー。
立花さんが隣に来た。
「千葉さん、今知ったんだね」
「そうみたいです」
「私達も集まって話してるのって、あんな感じなんだね(笑)」
「そうですね。あれより少しこじんまりしてる感じですかね?」
「そうだね(笑)今日のお昼、ファミレス行かない?結婚祝いでおごるよ」
「ありがとうございます!」
お昼休憩。
立花さんとファミレスに向かおうとしたら、千葉さんと牧野さんが「今日、俺らとお昼どう?」と声をかけてきた。
立花さんと顔を見合わせる。
立花さんが「ぜひ」と言う。
千葉さんが車を出してくれる。
千葉さんの車は大きいから5人余裕で乗れた。
立花さんと行く予定だったファミレスに着いた。
私と立花さんが横並び、私の向かいに雅樹、立花さんの向かいに千葉さん、隣に牧野さんが座る。
各々メニューを注文する。
千葉さんが早速「長谷川、加藤さん、結婚おめでとう。俺、今朝知ったからびっくりしたよ」と話す。
「付き合っているのも知らずにいきなり結婚報告だよ?びっくりするよね。なぁ、牧野!」
「…いや、俺は知ってた」
「何だよ!立花さんは?」
「…私は付き合い当初から知ってました」
「マジかよ!俺だけ知らなかったのかよ!長谷川!お前、俺だけのけ者じゃねーか!」
そう言って、雅樹の肩をパンっと叩く。
雅樹は「だって、お前の驚く顔が見たかったんだもん」と言って笑っている。
「驚いたよ。多分人生で1番驚いた。マジで全然知らなかったから」
そう言って、私と雅樹の顔を交互に見る。
「今度、遊びに行っていい?」
千葉さんが私に言う。
「いつでもどうぞ」
「でも新婚家庭にお邪魔するって勇気いるな」
牧野さんが「俺、お邪魔して飲んだくれて泊まっちゃったよ(笑)」と言って笑う。
ご飯が来て、皆で食べる。
私と立花さんはパスタ、男3人はランチセットを食べる。
食べながら牧野さんが「俺もここにいるメンバーが知ってて、お前に言ってない事がある」と千葉さんに言う。
「お前もか!お前は何だよ」
「俺、今営業に行っている事務の田中さんと付き合ってるんだ」
千葉さんがむせる。
「マジかよ。何だよ、俺。ちょっと待て。落ち着け。頭が追い付かないぞ?俺はなんにもないぞ?あれ?」
混乱している。
そんな千葉さんを見て、みんな面白そうに笑う。
主に千葉さんがしゃべっていたお昼時間だったけど楽しく食事が出来た。
千葉さんと牧野さんが2人で払ってくれた。
雅樹も財布を出すと、千葉さんが「お前は閉まっとけ」と言っていた。
私達にも「加藤さんは結婚祝い。立花さんは付き合ってもらったお礼」と言っていた。
千葉さんが牧野さんに「お前、100円多く出せ!100円足りない!」と話している。
余り話した事はなかったけど、千葉さんって面白い。
見た目は結構強面だけど。
会社に戻る。
雅樹が西田部長に呼ばれて、一緒に別室に行く。
手続き関係かな?
入籍当日、仕事も終わり帰宅。
雅樹はちょっとだけ残業。
入籍祝いは今度の日曜日に、雅樹と1番最初に食事をした、雅樹の友人が経営しているレストランを予約している。
実家に電話をかけた。
父親が出た。
「お父さん?私、まり」
「おー。仕事終わったのか。何か久し振りだな」
「ちょっと忙しくてね。今日、長谷川さんと入籍したんだ。保証人、書いてくれてありがとう」
「いや。いいんだ。そうか。おめでとう。仲良くやってるか?」
「うん。今度、お母さんとうちに遊びに来て」
「ありがとう。お母さんにも伝えておくよ」
「うん。とりあえず入籍の連絡をしたくて」
「わかった」
「じゃあまた連絡するね」
「おー。じゃあな」
電話を切る。
父親とはいつもこんな感じ。
さて。
雅樹が帰って来る前にご飯作ろう。
冷蔵庫を開ける。
そうだ、安売りで買った豚肉がある。
野菜と炒めよう。
雅樹が帰って来るまでに作ってしまおう。
今日から雅樹の妻。
恥ずかしくない様に頑張らなきゃ!
入籍はしたけど、今までと余り変わらない。
ただ、色々なところに名前変更の届け出をしないといけないのが、ちょっと面倒だった。
免許証やクレジットカード、通帳、他もろもろ。
でも「長谷川まり」と書かれた名前を見ると嬉しくなる。
長谷川さんと呼ばれなれなくて、何度かわざわざ声をかけに来てもらう事もあり申し訳ない。
そのうちに慣れるんだろうな。
日曜日。
雅樹と入籍祝いで予約していたレストランへ。
私は4年振り。
雅樹は牧野さんや千葉さん、友人達と何回か来ていた。
奥から山本さんが出てきた。
「あれ?彼女?お久し振りです」
覚えていてくれた。
「ご無沙汰しております」
ご挨拶。
雅樹が「実はこの間、入籍したんだ」と話す。
「そうなんだ!おめでとう!お祝いで飲み物サービスするよ。何がいい?」
「車だから」
「じゃあ、いい紅茶があるんだよ。従業員に言っておくから飲んでって!飲み放題にしておくわ。ゆっくりしてって!」
「ありがとう」
前とは違う料理。
美味しく頂く。
「何か思い出すね。初めて来た時」
「そうだね。でも俺、余り覚えてない。緊張してたから」
「そんな感じ、全くなかったよ?」
「ガチガチだったよ」
2人で笑う。
店員さんが「オーナーからです」と言って、デザートを持って来た。
小さな丸いシンプルなチーズケーキ。
上には「HAPPY WEDDING」とチョコで書かれていた。
雅樹は優しく微笑んで「あとでお礼言っておく」と言って、半分に切り分けた。
粋なサービス。
嬉しかった。
お店の店員さんにもお礼を言い、店を後にする。
自宅に帰ると、私の携帯が鳴った。
田中さんからだった。
焦った様子。
「もしもし?加藤さん?田中です。ごめんね、休みなのに」
「お疲れ様です。何かあったんですか?」
「私、今日営業で休日出勤で、今会社にいるんだけど、さっき社長が突然倒れて救急車で運ばれたの!今、近くに長谷川さんいる?いるなら代わって欲しいの!」
「わかりました!ちょっと待って下さい!」
慌てて雅樹に代わる。
「田中さんから。社長が倒れたって」
「えっ?」
雅樹も慌てて電話に出る。
雅樹は電話を切ってから「会社に行く」と上着を着る。
「私も」
雅樹の車で一緒に会社に向かう。
走って来た田中さんに雅樹が「社長は?」と聞く。
「さっき、救急車で運ばれて、奥さんも一緒に行きました」
「今、会社に誰がいるの?」
「若い営業が何人かしかいなくて。さっき、牧野さんにも電話したので、今向かっていると思います。どうしていいかわからなくて」
「ありがとう」
雅樹は会社に入って行く。
営業部の何人かが「お疲れ様です」と雅樹に声をかける。
「社長って、どこの病院に運ばれたの?」
「ちょっとわからないです…」
「和也さんに電話した?」
「していないです…」
若い営業の人達も、どうしたらいいのかわからず、動く事が出来ない。
雅樹は和也さん、社長の息子に電話をかける。
その時に牧野さんがジーンズにパーカー姿で入って来た。
「社長は?」
田中さんに聞く。
「さっき、運ばれたけど、どこの病院かもわからなくて」
私を見る。
「加藤さんがいるって事は、長谷川もいるよね。長谷川どこ?」
「今、あそこで和也さんに電話してます」
牧野さんは雅樹を見つけ駆け寄る。
雅樹の電話が終わる。
雅樹と牧野さんが、何か話している。
牧野さんが若い営業の人達に「今日はもう帰っても大丈夫だよ。びっくりしたよね。あとは俺らで対応するから大丈夫!お疲れ様」と優しく声をかける。
営業の人達は申し訳なさそうに帰って行く。
事務所には、私達4人。
「加藤さん、私達はどうしたらいいと思う?」
「とりあえず、長谷川さんと牧野さんが対応してくれているので指示を待ちましょう」
「社長ね、事務所に入って来て「休みなのにご苦労様!」と言ってたの。そしたら急にうなり出して倒れて…近くにいた私ともう1人が声をかけたんだけど反応がなくて、慌ててもう1人が社長室にいた奥さんを呼びに行って、私は救急車を呼んだ」
田中さんは少し震えている。
「でも、どうしたらいいのかわからなくて。それでまず牧野さんに電話して、でも牧野さん1人だと大変だと思って、長谷川さんにも来て欲しくて、でも長谷川さんの番号知らなかったから加藤さんに電話したの。ごめんね」
「全然大丈夫です」
会社の鍵は社長が持っている。
予備は和也さんが持っている。
鍵がない限り、いくらセキュリティがしっかりしているとはいえ物騒。
無人には出来ない。
雅樹が「加藤さん、悪いんだけど、西田部長の番号調べてくれる?」と言って来た。
「わかりました!」
自分のパソコンを開く。
名簿が入っている。
「これです」
メモを渡す。
雅樹が「ありがとう」と言って西田部長に電話をする。
しばらくして、会社の電話が鳴り、田中さんが取る。
「牧野さんか長谷川さん!和也さんから電話です!2番です!」
牧野さんが出た。
雅樹の電話が終わる。
「とりあえず、西田部長、これから会社に来てくれるみたい」
私達に言う。
牧野さんの電話も終わる。
「和也さん、何だって?」
「和也さんも、鍵持ってるし、一旦会社に行くと言っていた。今日は帰って大丈夫だと。社長は総合病院に運ばれたって」
私や父親が事故の時に入院していた病院。
この地域では1番大きな病院。
話しているうちに西田部長が来た。
「お疲れ様です」
「君たちが対応してくれて助かった。あとは私が代わるから帰りなさい。あと、明日は君たち休んで大丈夫だ。休日出勤扱いにする」
「でも…」
「頑張ってくれたんだから、明日はゆっくり休みなさい。加藤さんも田中さんもゆっくり休んで。お疲れ様」
「わかりました。ありがとうございます。では明日、お休み頂きます」
雅樹が言う。
「そうしてくれ」
西田部長が言う。
私達4人は帰る事にした。
入れ替わりで和也さんが来た。
「お疲れ様、中に誰かいるの?」
「お疲れ様です。西田部長がいます」
牧野さんが答える。
「連絡くれてありがとう。こっち終わったらまた病院に行くよ。お疲れ様」
挨拶をして会社を出る。
「今日はごめんなさい」
田中さんが謝る。
雅樹が「何も謝る事何かないよ。連絡くれなかったら、西田部長も和也さんも来る事はなかった。こちらこそありがとう」と田中さんに言う。
牧野さんも「田中さんの判断は正しかったよ。ありがとう」と労う。
明日、休みになった。
立花さん、1人になっちゃうな。
対応していた雅樹も牧野さんもかっこよかった。
若い営業の人達も、目の前で突然社長が倒れてパニックになったんだろうな。
そんな若い営業の人を労い、自分達が出来る範囲で2人で対応して。
私には出来ない。
だから、中堅層の中でも上司から信頼があるんだろうな。
社長はクモ膜下出血。
幸い一命はとり止めたが、長い療養期間に入る。
社長に代わり、奥様と和也さんが社長代行になる。
和也さんは社長そっくり。
見た目も、話し方も。
社長より背は大きくて体格もいい。
確か45歳位だったはず。
仕事も、社長の代わりにバリバリこなす。
気前もよく、残業で残っている人達によくコーヒーをごちそうしてくれた。
威張ってふんぞり返る訳でもなく、社長同様従業員を大事にしてくれる。
私の退職の日が近付く。
そんな中、立花さんが切羽早産で入院する事になった。
田中さんは、営業に行く。
渡辺さんが私の退職に伴い、総務部から戻って来たけど、渡辺さん1人でこなすのは無理がある。
退職を延長し、立花さんが戻って来るまで在籍する事にした。
雅樹も了承済み。
田中さんも立花さんもいない。
私が渡辺さんより先輩になる。
今までは先輩2人に甘えていたけど、今は私が頑張って渡辺さんに仕事を割り振りしないといけない。
出来るのかな。
不安になるけど、立花さんと田中さんの留守を守らなければ!
私が難しい顔をして、パソコンを見ていた。
すると雅樹が私の席の横を通った時に、自販機で買った缶コーヒーをポンとパソコンの横に置く。
私が煮詰まると、コーヒーを飲むのは知っている。
私は雅樹を見た。
雅樹は笑顔で右親指を出していいね!ポーズをする。
渡辺さんはパソコンを凝視しているため気付いていない。
ありがとう、雅樹。
頑張るよ。
渡辺さんが「加藤さん!これってどうするんでしたっけ?」
「これは、こうです」
「ありがとうございます!」
その様子を雅樹はパソコン越しから見ている。
家に帰ると雅樹が「頑張ってるね。惚れ直すよ」と言って来た。
「立花さんも田中さんもいないから、もういっぱいいっぱい。退職のびちゃったけど…頑張るから!」
雅樹は笑顔で頷く。
田中さんの営業期間も終わり、事務に戻って来た。
「やっぱり制服最高!」
「おかえりなさい!」
「ただいまー!」
牧野さんも嬉しそう。
早速、田中さんが「加藤さん、ちょっとちょっと」と私を田中さんの席の近くに呼ぶ。
2人で顔を近付けてこそこそ話し。
「あのね…ここだけの話なんだけど…」
「なんですか?」
「もしかしたらなんだけど…」
「…はい」
「赤ちゃん出来たかも」
「えっ、誰がですか?」
「私」
「えっ?」
私は思わず牧野さんを見る。
牧野さんは不思議そうにこっちを見ている。
雅樹も私達を見る。
「ずっと生理が来ていないの。営業で色んなお宅に伺って、お茶を出してくれるんだけど、どうもお茶のにおいが気持ち悪くなるの。思い過ごしかもしれないんだけど…」
「…病院に行きました?」
「まだ行っていない」
「あっ、ドラッグストアで妊娠の検査出来るやつ売ってましたよね?今日の昼休みに一緒に見に行ってみます?それで検査して反応が出たら、病院に行くとか…」
「そうしてみるかな。でもまだ付き合ってそんなに経ってないし、牧野さんが逃げてしまうんじゃないかって不安で」
「大丈夫ですよ!牧野さんは、そんな人じゃないですよ!とりあえず、昼休みに一緒にドラッグストアに行きましょう!」
「ありがとう」
昼休憩開始ぴったりに、田中さんと私と2人で駐車場まで猛ダッシュ。
私の車に乗り、会社近くのドラッグストアに向かう。
妊娠検査薬を見つけた。
一回用と書いてあるものを買う。
田中さんはそのまま、ドラッグストアのトイレに向かう。
しばらく、トイレ近くにある椅子に座り、田中さんを待つ。
携帯を開くと雅樹からメールが来ていた。
「田中さんと消えたな。どこ行った!?」
「今、近くのドラッグストア。事情はまた後で」
すぐに返信。
「田中さん、具合悪いの?」
「まあ、そんな感じ。また後で連絡する」
「了解」
携帯を閉じる。
田中さんはまだ出てこない。
心配になる。
それから待つ事数分。
田中さんがトイレから、何とも言えない表情をして出て来た。
「どうでしたか?」
「赤ちゃん出来てた。陽性反応が出た。説明書と検査薬を3回見直したけど、やっぱり陽性反応だった」
「出来てたんですね」
「牧野さん、何て言うかな。拒否されたらどうしよう。でも私、牧野さんとしかしてないし、間違いなく牧野さんとの子供なんだけど…」
不安そうな田中さん。
「大丈夫です。前に牧野さんがうちに来た時に、田中さんの事は真剣に考えてるって言ってました。長谷川さんも、牧野さんは不器用だけど、好きな女は大事にするって言ってました。大丈夫です。絶対牧野さん、喜んでくれますよ!」
田中さんは涙目になっている。
「絶対大丈夫ですって!」
私は田中さんの背中をさすりながら、雅樹に連絡をする。
すぐに出た。
「もしもし、今大丈夫?」
「大丈夫。どうした?」
「今、近くに牧野さんいる?」
「一緒に飯食ってる。目の前にいるぞ?」
「牧野さんと2人?」
「そうだけど…」
「今、どこでご飯食べてるの?」
「会社近くのスーパーの中のマック」
「今から行っていい?」
「うん?いいけど…」
「じゃあすぐ行く!」
電話を切り、田中さんと車に乗り、移動1分のスーパーへ。
雅樹と牧野さんを見つけた。
「隣いい?」
「うん」
雅樹と牧野さんは、ドタバタしている私達を見て呆気にとられてる感じ。
「牧野さんにお話があります」
私が言う。
田中さんは下を向いて黙っている。
牧野さんは姿勢を正し「なに?」と答える。
私は田中さんに「田中さん!」と言って、背中を軽く叩く。
雅樹は黙って見ている。
田中さんが「牧野さん…私、牧野さんとの赤ちゃんが出来ました」と下を向きながら話す。
雅樹は目を見開き驚き、牧野さんは「えっ?本当に?」と言って黙った。
「今、加藤さんと一緒にドラッグストアに行って、妊娠検査薬で調べました。陽性反応が出ました。不安だったので、加藤さんについてきてもらいました」
牧野さんは「結婚しよう!だって俺との赤ちゃんが今、お腹にいるんだよね?家族が出来るんだよ!」と言って喜んだ。
田中さんは嬉しそうに笑う。
あんなに念願だったママになれるんだよ!
田中さん、おめでとう!
その日の夜。
雅樹が「牧野の方が先にパパになるのかー」とポツリ。
「何で俺ら、子供出来ないんだろ?」
「うーん、わかんない」
「だって、ずっと中に出してるんだよ?そろそろ出来てもいいと思うんだよなー。何か悪いのかなぁ?」
「こればかりは、授かり物だからね」
「そうなんだけどさー」
確かに今まで、ずっと中で出しているし、私もピルとか飲んでいる訳でもなく、2人共子供が欲しい。
でも出来ない。
でも、しばらくは夫婦2人でいるのもありかな。
田中さんはつわりが酷かった。
いつも元気だった田中さんが、つわりが辛いため、昼になると女子更衣室の奥にある休憩室で寝ていた。
私が田中さんを起こしに行く。
青白い顔をして起きてくる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
「帰りますか?それともここで寝てますか?今日、部長いないから夕方までならサボれます」
「でも、まだ仕上げてない…」
「田中さんのパソコンを貸してもらえれば私やります。デスクとパソコン借ります。営業の方は開きません。メールも開きませんので安心して下さい。渡辺さんにも少し頑張ってもらえれば終わります。部長が帰って来そうなら声をかけます。だから休める時に休んでいて下さい」
「…ありがとう。じゃあお言葉に甘えて寝てる」
「おやすみなさい」
私はそのまま田中さんの席に座り、田中さんの仕事をする。
渡辺さんに「ごめん、これも一緒にお願い出来ますか?大変なら言って下さい」と言うと「大丈夫ですよ!」と快く引き受けてくれた。
田中さん、相当調子が悪いのかな。
全然進んでいない。
よし、全部終わりそう。
休憩返上でパソコンと向かい合う。
目が疲れて来たな。
ちょっと目をつぶる。
渡辺さんが「これ出来ました!」と頼んでいた仕事を終わらせてくれた。
「部長が帰って来たら渡すのでここに置いておいて下さい。後で確認します」
「はい!」
渡辺さんは仕事が早い。
助かる。
通路向かいに座っている雅樹が、珍しく話しかけて来た。
「少し休んだら?」
「大丈夫です。これだけ終わらせたら楽になるので」
牧野さんも田中さんの席に座って難しい顔をしながら仕事している私を心配そうに見ている。
事務員の責任者的な要の立花さんがいない。
営業と兼用とはいえ、大きな仕事は田中さんがやっている。
その2人がいない重圧。
私が何とかしなきゃ。
2人がいなくても、仕事は次々入って来る。
頑張らないと。
渡辺さんにもかなり無理を言っているのはわかる。
でもそうしないと回らない。
目が回りそう。
「ダメだ、ちょっとコーヒー買って来ます」
向かいの席の雅樹が「仕事、こっちに回せ。出来る事は俺らも手伝う」と言ってくれた。
千葉さんが私のところに来た。
「加藤さん、少し休みな。これなら俺らも出来るから大丈夫」と言ってくれた。
「ありがとうございます。でも千葉さん達の仕事もありますよね…」
「あるけど急ぎは終わったから大丈夫。加藤さんと渡辺さんだけなら無理がある」
「ありがとうございます…」
千葉さんが笑顔で「少し休んでおいで」と言って、私の肩をポンポンと叩いた。
雅樹を見ると「コーヒー買って一息付いてきなよ」と言ってくれた。
私は渡辺さんにも声をかけたけど、渡辺さんは「私はこれが終わったら休憩頂きますので大丈夫です!」と言っていた。
田中さんも心配なので様子を見に行く。
寝ている。
少し休めているみたいでよかった。
従業員出入口にある自販機で、いつも飲んでいるコーヒーを飲んで、ちょっと出入口の外に出てみる。
風が気持ちいい。
畑の土のにおいがする。
伸びをする。
ずっと座っていたから、ちょっと伸びをすると気持ちがいい。
何か、退職しそびれたな。
本当なら、もう退職している予定だったんだけど、でもこの会社が好きだから退職するその日まで頑張る!
事務所に戻ると、渡辺さんが「とりあえず一区切りついたので、私もちょっとお茶買って来ますね!」と言って自販機に向かう。
やった!
田中さんの仕事終わった!
あとは田中さんに確認してもらえたら終わり。
ふと雅樹を見る。
パソコンと私が渡した書類を交互に見ながらたまに首をかしげている。
そして後ろにいる牧野さんに何か聞いている。
慣れない事務の仕事に戸惑っているのかもしれない。
私もシフト作れと言われてもわからない。
そろそろ部長が戻る時間。
田中さんをお越しに行こう。
「田中さん!具合どうですか?そろそろ部長帰って来ますよ!」
「うーん…少し良くなったかな?ありがとう」
田中さんは顔は青白いものの、さっきよりは良さそう。
「戻りましょ」
「うん」
ちょっと崩れた髪と化粧を簡単に直す。
席に戻ると、終わった仕事にびっくりしていた。
「終わりましたよ。一応確認だけお願いします」
「えっ?加藤さんがやってくれたの!すごい!私なんかより全然いい!ありがとう!」
オッケーが出た。
良かった。
渡辺さんも「お疲れ様です!これも終わってまーす!」と、出来た書類を田中さんのデスクの上にドン!と置いた。
「渡辺さんも手伝ってくれたの?ありがとう!」
「営業の仕事だけはわからないので残してあります。あとはこちらにお願いしていまーす」
私は向かいの席の男3人に手を差し向ける。
坂田さんも巻き込まれていた。
千葉さんが「お前も手伝え」と坂田さんに仕事を渡す。
「えっ?俺、わからないですよ?」
困惑する坂田さん。
「大丈夫だ。お前ならいける。頼んだぞ!クレーム、返品は受け付けない!」
「えー?ちょっと待って下さいよー」
ちょっと強引な千葉さん。
牧野さんも雅樹も千葉さんも、巻き込まれた坂田さんも、自分の仕事を後回しにして頑張ってくれている。
牧野さんが「よっしゃ!終わった!」と掛け声。
雅樹も「俺も終わったー!加藤さん、確認よろしく」と言って、牧野さんがやってくれた書類も一緒に手渡してくれた。
みんなの助けもあり、無事に終わった。
田中さんが「本当に皆さん、ありがとうございます」と言って、ペコペコお辞儀をしている。
雅樹が「田中さん、無理しないでね。困った時はお互い様」と笑顔で話しかける。
千葉さんも「頼りにならないかもしれないけど、こういう時は言って!」と答える。
牧野さんも「本当にありがとう」とお辞儀をしている。
土曜日。
牧野さんと千葉さんがお酒を持ってうちに来た。
前日に行くとは聞いていたけど…。
なに?このビールの量。
段ボール2箱もあるよ?
食べ物も何日分?
冷蔵庫に入りきらないよ?
何日間か、うちにいるつもりなんだろうか。
雅樹もすごい量にちょっと引いていた。
「なかなかいい部屋じゃん!いいねー、新婚さんっぽい!」
千葉さんがキョロキョロ部屋を見回す。
「俺、3回目だけど、相変わらずキレイにしてるねー」
「お前、もうそんなに来てるの?」
「邪魔しにな(笑)」
「本当だよ!新婚だぞ?加藤さん、邪魔ならこいつ追い出していいからね!」
「お前もだろ(笑)」
そう言って笑う。
「全然大丈夫ですよ。でも凄い量ですね」
牧野さんが「田中さんから(笑)この間のお礼だって」と言う。
「田中さんの具合はどうですか?」
「今はちょっと落ち着いているみたい。田中さんが「今日は行けないけど、この間のお礼だから、いっぱい飲んでねー!体調が落ち着いたら遊びに行かせてね」って加藤さんに伝えてって言ってた。あと、このお茶、加藤さんがいつも飲んでるから箱買いしてって!って言われて買って来た」
こんなにたくさん…。
会ったらお礼言わないと。
今日は一旦帰ってからうちに来たので、牧野さんはスウェット上下、千葉さんはアディダスのジャージにTシャツを着ていた。
私はグラスや取り皿、箸を用意し、買ってきてくれたつまみやおかずをテーブルいっぱいに出しまくる。
ビールは先に冷えているやつから出して、どんどん箱から出して、冷蔵庫に入れまくる。
かなりの量のため、雅樹も手伝ってくれた。
「お疲れ様ー!」
男3人はビール、私はお茶。
千葉さんが「加藤さんは飲まないの?」と聞いてきた。
「余り飲めないので、今回は田中さんが買ってくれたお茶を飲みます」
「そっか。会社の飲み会でも余り飲まないもんね」
「はい」
牧野さんが「俺らだけごめんね」と言う。
「全然大丈夫ですよ!気にせず飲んで下さい。私はいっぱい食べますから」
「おー!食べて食べて!」
牧野さんは色々すすめてきた。
お腹も空いたし、たくさん頂きます。
食べながら、空いたお皿を下げて、次々つまみやおかずやビールを出していく。
雅樹も手伝いに来てくれた。
「ありがとう」
千葉さんが「羨ましいな!いいねー」と冷やかして来た。
牧野さんが「俺も一番はじめに来た時に同じ様な事を言ってた気がする」と言っていた。
言ってた!
でも今は田中さんがいるもんね。
千葉さんが「牧野、田中さん、妊娠してるんだろ?結婚しないのか?」と聞いた。
「するよ。結婚式はまだ考えてないけど、入籍は今月中にはするよ。順番が逆になっちゃったけど」
「やる事やってたら…まぁ…男と女だしな。そうなるよな。でもお前ら早くね?付き合って1年経ってないだろ?」
「うん。でも田中さん、いい子だよ。素直なんだろうな、きっと。よくも悪くもすぐ口に出ちゃうけど」
確かに。
「何か、今まで飲みに行ったりしてた2人が一気に結婚ってなって、俺、どうしたらいい?なかなか飲みにも誘えなくなるし…つまらん」
千葉さんがいじけ始める。
雅樹が「牧野が1番始めにうちに来た時は、俺達見てうらやましい!俺、ずっと1人で寂しく過ごすの嫌だ!って言ってたんだけど、今はもう少しで父親になるんだぞ!千葉もすぐ出会いがあるよ」と言う。
牧野さんが「お前は理想が高すぎるんだよ。現実見ろ」と千葉さんに言う。
「見た目は前にいた真野さん辺りがいいよね。あっ、でもあんな感じでやりまくってる女は引くな。料理も出来て、家事も出来て、3歩下がって歩いてくれる様な人がいいな。仕事から帰ったらあったかいご飯とお風呂があって…」
「お前、一生無理だわー」
「何でだよ!絶対どっかにいる!」
「そういえば、前に言ってた女どうしたんだよ」
「彼氏いたんだよ」
「残念!」
男3人で話している。
千葉さんが「加藤さんの前で悪いけど、お前らずるいぞ!女いて!俺だって男だ!たまには女を抱きたい時がある!でも相手がいないんだ!どうしたらいいんだ!俺は!」と言い出し、グラスに入ったビールを一気に飲み干す。
「見つけるしかないなー」
「もう誰でもいいよ。誰かいない?人間であれば文句言わないよ」
「頑張れ」
「冷たいなー」
そんな会話を聞きながら、私はもくもくご飯を食べる。
千葉さんが「そういえば、この間、お前の前の彼女に会ったぞ」と雅樹に言う。
私はご飯を食べながら聞き耳を立てる。
雅樹が「どこで?」と聞く。
「飲み屋にいた。駅前のスナック」
「あー」
「高校の同級生と飲みに行ったんだよ。そいつがそこのママと知り合いで、連れてってもらったんだ。そして、ついた子がお前の元カノだった」
「そうなんだ」
「俺は最初わからなかったんだよ。向こうが気付いて「雅樹の会社の人ですよねー」って言って来た」
「…で、何か話したの?」
「色々聞いてきたよ?お前の事。でも、俺も色々お前らの見てきてるから、適当に流しておいた」
「ありがとう」
「まだ雅樹は同じ会社にいるんですかー?とか、今、誰かと付き合ってたりしますー?とか、私の事を覚えていてくれたら連絡くれる様に伝えて下さい!私、番号変わってないのでー!でも、雅樹は変えたみたいで繋がらなくてー!って言ってた」
「…」
「番号教えて欲しいって言われたけど、俺、今手元にないからわからないって断った」
「悪いな」
「良いんだ、別に。ただびっくりはしたけど。あっ、加藤さんごめんね」
「全然大丈夫ですよ」
「もしかしたら…あの感じだし、気を付けた方がいいかもなー。本当につい最近だから」
「…わかった」
「まぁ、飲もうや!何かあったら俺に言え!」
「わかった」
雅樹はちょっと渋い顔をしていた。
「ところで加藤さん」
急に話をふられた。
「はい」
「長谷川は優しくしてくれる?」
「はい?」
「いや、何か色々とねー」
雅樹が「お前は、何を聞いているんだ!加藤さん、聞き流そうねー」と千葉さんの話を阻止する。
「私、片付けしますので!ゆっくり飲んでいて下さいね!」
私は立ち上がり、空いた食器を台所に持って行き、洗う。
牧野さんが別の話をふる。
会社では見れない3人の姿。
私は食器を洗いながら、3人を見る。
スーツを脱いだら、仲の良い友達になる。
仕事しているみんなは素敵だけど、プライベートは楽しい。
きっと飲みに行った時はこんな感じなんだろうな。
牧野さんの携帯が鳴る。
田中さんからだった。
牧野さんが「加藤さんに変わってだって」と言って、牧野さんの携帯を私に差し出す。
私は台所に移動。
「もしもし!加藤です!お疲れ様です!今日はあんなにたくさん、ありがとうございます!」
「いいのいいの!本当は私も加藤さんちに行きたかったんだけど行けなかったから、せめてものお礼!楽しんでる?」
「はい!千葉さんがちょっと酔ってきてるみたいで面白いです」
「楽しんでるみたいでよかった!牧野さんも相変わらず飲むでしょー」
「飲んでますね。今日牧野さんはどうされます?送りますか?」
「迷惑じゃなければ加藤さんちで一晩預かって(笑)私、夜中にも気持ち悪くなって吐いちゃう事があって、その度に牧野さんを起こしちゃうの。だから、今晩だけでもゆっくり出来ると牧野さんも少しは違うかな?と思って。枕とタオルケットだけあれば、彼は多分どこでも寝れると思うからお気遣いなく(笑)」
「了解でーす!多分、千葉さんもこのまま泊まると思うので、男3人、まとめて面倒みますので任せて下さい(笑)」
「ありがとー!よろしくね!」
「田中さんも体調お大事にして下さいね」
「ありがとう!」
「じゃあ、牧野さんに代わりますね!おやすみなさい!」
「おやすみー」
牧野さんに携帯を返す。
牧野さんは少し田中さんと話して電話を切る。
千葉さんが「田中さん?」と牧野さんに聞く。
牧野さんが「そう」と答える。
「いいよなー。心配してくれる人がいて。俺なんか、携帯鳴らないぞー?鳴る時は会社の人が変なイタ電しかないぞ?」
「鳴るだけいいじゃねーか」
「まぁなー。あっ、牧野!お前よく見たらキスマークついてるぞ!いつやったんだ!」
「4日前」
「俺が残業頑張ってた時じゃねーかよ!俺は仕事頑張ってんのに、お前は田中さんと頑張ってたのかよ!」
ちょっとそっち系の話になる。
私に話をふられる前に、奥の部屋に布団を敷いて来よう。
押し入れから布団を2組出す。
枕を2つ並べる。
今日は多分、雅樹もこっちに寝るのかな?
枕が2個しかないため、クッションを一つ置いた。
よし、これで酔いつぶれても大丈夫。
だいぶ酔ってる千葉さん。
でも怒鳴ったり暴れたりする訳でもなく、ダル絡みする訳でもなく、ちょっと下ネタ系に走るけど、言っているだけで迷惑をかけられていないので問題はない。
雅樹と牧野さんが、うまくおさえながら飲んでいる。
千葉さんからしたら、彼女がいない仲間だと思っていた2人が相次いで突然結婚、牧野さんに至っては父親になるという事に、ついていけていないところはあるのかもしれない。
千葉さんは身長が大きい。
多分180センチ以上はあると思う。
177センチある雅樹より全然大きい。
牧野さんが雅樹と同じくらい。
体もガタイが良く、顔も強面。
パッと見はちょっと怖い。
仕事では気にならないけど、プライベートではちょっと口が悪い千葉さん。
でも、何か憎めない。
2人を祝福したい!という気持ちは伝わる。
たまたま同じ時期になってしまった雅樹と牧野さんの結婚。
千葉さんも素敵な伴侶を見つけて欲しい。
時刻は1時ちょっと前。
先にシャワーしていた私は、ある程度の片付けも終わり、寝るだけの状態。
昼間は仕事だったため眠たい。
「先に寝ます。千葉さん、牧野さん、ゆっくりしていって下さいね!」
「加藤さん、ありがとう!おやすみー」
私は先にベッドに入る。
寝ていたら、雅樹がベッドに来た感覚で目が覚めた。
「あれ、今日はこっちで寝るの?」
「うん。まりと寝たい」
「牧野さんと千葉さんは?」
「2人共寝たよ。まりを抱きたい」
「えっ?だって千葉さんも牧野さんもいるよ?」
「2人共爆睡してるよ。大丈夫。静かにするから」
そう言ってキスされてパジャマを脱がしていく。
声が大きくならない様に自分が着ていたパジャマを口に充てる。
雅樹が挿れている時に、牧野さんか千葉さんがトイレに起きた様子。
雅樹は挿れたまま動きが止まる。
そして部屋に戻ったのを耳で確認してから再開。
終わってパジャマを着ていたら「俺、まりを大事に出来てる?」と聞いてきた。
「どうして?」
「いや、何となく。今日もまり、可愛かった」
「…寝るよ」
「うん。おやすみなさい」
雅樹が腕枕をしてくれる。
安心する。
そのまま就寝。
目が覚めた。
時刻は朝7時半過ぎ。
雅樹はまだ隣で寝ている。
静かに起き上がり、居間に向かう。
ある程度、雅樹が台所に持って行ってくれていて食器やグラスは水に浸かっていた。
多少散らかっていたけど全然大丈夫。
奥の部屋を覗くと、千葉さんと牧野さんが布団で爆睡していた。
千葉さんは、掛け布団を抱き抱えて寝ていた。
軽くシャワーしてから片付けよう。
シャワーに入りさっぱり。
私のドライヤーはいつもは鏡台に置いてあるけど、そこでドライヤーをかけたらうるさいだろうと、洗面所にある雅樹のドライヤーを借りた。
化粧したいけど、面倒くさくなり、千葉さんと牧野さんの手前、マスクで顔を隠す。
台所に行くと、すごい数のビールの空き缶がある。
既に片付けてある空き缶を合わせたら45リットルのゴミ袋がいっぱいになる。
「どんだけ飲んだんだろう」
笑いが込み上げる。
雅樹が下げてくれた食器やグラスを洗い、テーブルに散らかっていた物を片付けて、テーブルを拭く。
落ち着いた。
冷蔵庫を見ると、まだ買って来てくれたおかずやビールが入っている。
「どうしようかな」
おかずは朝御飯で出せる物は出して、皆で食べよう。
ご飯を炊く。
豆腐の味噌汁を作る。
すると千葉さんが起きてきた。
寝癖がすごく、爆発していた。
眠そうにあくびをしながら「加藤さん、おはよう!」と朝の挨拶。
「おはようございます!」
千葉さんは喫煙者。
「ベランダ借りるね」
「はい」
私も雅樹もタバコを吸わないため、気を使って携帯灰皿持参で、爆発した髪のままベランダでタバコを吸っている。
昨日も合間にベランダに行ってはタバコを吸っていた。
兄もそうだけど、寝起きはタバコが吸いたくなるのかな。
牧野さんはタバコはやめたと言っていたため、今は吸っていない。
雅樹も起きてきた。
「おはよう」
「おはよう、千葉さんは起きてベランダでタバコを吸ってるよ」
「なんだあいつ、髪爆発してんじゃん(笑)」
そう言って笑っている。
牧野さんはまだ寝ている。
普段は田中さんを心配して寝てないもんね。
少しでもゆっくり休んで欲しい。
千葉さんが一服から帰って来た。
「長谷川、おはよう」
「おはよう、お前の頭すげーぞ」
「天パだからしゃーないんだよ」
そう言って髪をぐしゃぐしゃっとする。
「牧野はまだ寝てるのか?」
そう言った瞬間、牧野さんが起きてきた。
「…おはよう」
まだ眠そう。
ソファーに座ってボーっとしている。
「牧野さん、コーヒー飲みますか?」
「…加藤さん、ありがとう。もらいます」
「千葉さんは飲みますか?」
「ありがとう。もらおうかな」
「長谷川さんも飲みますか?」
「ありがとう」
千葉さんが「加藤さん、長谷川の事、長谷川さんって呼んでるの?加藤さんも長谷川さんになったのに?」と不思議顔。
「いえ…何か千葉さんと牧野さんがいると会社にいる感覚になってしまって」
「切り替えがすごいよね。それだもん、バレないよなー」
爆発した頭で話す。
インスタントコーヒーを淹れて3人に持って行く。
テーブルで3人、コーヒーを飲みながら話をしている。
牧野さんは少し目が覚めたみたい。
雅樹、千葉さん、牧野さんの順番でシャワーに入る。
シャワーに入ると、千葉さんの髪も落ち着いた。
「朝御飯食べますか?昨日、買って来て頂いたものがあるので、それを準備してますが…」
「母親以外に朝御飯準備してもらうなんて何年振りだろう!食べるよー!長谷川、加藤さん、いい奥さんだな!大事にしろよ!」
「当たり前だろ」
雅樹が答える。
牧野さんも「食べてから帰るかな?」と言う。
田中さんの事、心配だよね。
朝御飯を持って行く。
「頂きます!」
皆で朝御飯を食べる。
「牧野も田中さんに作ってもらってるの?」
「今はご飯を炊くにおいがダメみたいで、朝はパンばかりだけど、作ってはくれるよ?」
「いいよなー。牧野も田中さんの事、大事にしろよ!」
「ありがとう」
朝御飯も食べ終わり、牧野さんも千葉さんも帰り支度をする。
「長谷川、加藤さん、今日はありがとう!また明日会社で!」
「はい!また明日!牧野さん!田中さんに明日も調子悪いなら無理しないで休んで下さいねって伝えて下さい!」
牧野さんは「ありがとう、伝えておくよ」と笑顔。
2人は帰って行った。
雅樹がテーブルにある、朝食の後片付けを手伝ってくれる。
「ありがとう」
「いいよ、手伝う。まり、何かごめんね」
「何が?」
「いや、何か俺、まりに色々押し付けてしまっているんじゃないかなって思って」
「どうしてそう思うの?そんな事はないよ?」
「まり、余り自分の気持ちを話さないし、合わせてくれているし、ここ最近会社で頑張っているまりを見て、やっぱり会社辞めたくないんじゃないかな?と思って。この間、田中さんが具合悪かった時のまり、すごくかっこよく見えた。輝いていたんだ。こんなに輝いている「加藤さん」を辞めさせていいんだろうか?って思って」
「今は立花さんも田中さんもいないし、私が何とかしなきゃ!っていう重圧はあるよ。渡辺さんは仕事早いし正確だから助かっているけど…田中さんや立花さんとのお別れは寂しいけど、体調が落ち着いたらいつでも会えるし、牧野さんや千葉さんはまたいつでも遊びに来てもらってもいいし…」
「俺、この間の事からずっと考えてたんだ。牧野や千葉にも気を使ってくれて、俺が会社で働きやすい様に頑張ってくれているのがわかる。だから、俺のわがままでまりを潰したくないなって」
「今は、立花さんも田中さんもいないから仕方がないけど、渡辺さんも戻って来たし、渡辺さんなら私以上に仕事出来るし、いい子だし大丈夫!」
「…ありがとな、まり」
ギュッと抱き締めてくれる。
雅樹、悩んでいたのかな。
退職を決めた時は、まさか田中さんが妊娠するとは思ってなかったし、立花さんも入院するとは思っていなかった。
2人がいないから、私と渡辺さんの2人で留守を守るしかない。
立花さんと田中さんが元気に戻って来るまでは頑張るけど、私は雅樹を支えていく気持ちは変わらないから。
そういえば。
今まで1度も雅樹と喧嘩ってした事がない。
雅樹が激怒している姿を見た事もないし、私も余り感情をむき出しにはしない。
小さい頃からの癖なのかな。
母親に怒られたくなかったし。
余り自分の気持ちは言わないで、私と合わせる癖はついている。
でもこれでも思っている事は言っているつもりなんだけどな。
ごめんね。
きちんと話すよ。
でも私は大丈夫だよ。
田中さんはつわりのため、有給消化してしばらくお休み。
立花さんは退院の目処が立っていない。
しばらく渡辺さんと2人で頑張る日々が続く。
どうしても困った時は、田中さんに電話をしてアドバイスを聞く。
そんなある日の夕方。
渡辺さんが「長谷川さーん!松本さんっていう若い女性が、来客用の出入り口にいますけど、お約束してますか?」と言って、雅樹に話しかけた。
その瞬間、千葉さんと牧野さんが2人同時に、来客用の出入り口にダッシュした。
私は雅樹を見た。
雅樹は無言で真顔で固まっている。
渡辺さんは「?」という顔をしながら席に戻る。
元彼女が来た。
そう感じた。
この間、千葉さんが言ってたな。
気をつけた方がいいって。
千葉さんが戻って来た。
雅樹に何かを耳打ちして、今度は従業員用出入り口に向かう。
雅樹は一瞬目をつぶり、目を開くと一瞬私を見て、千葉さんの後を追いかけた。
牧野さんが戻って来た。
私は牧野さんに席からこっそり右小指を見せると、私にうんうんと頷く。
やっぱりそうだ。
気になる。
私はこっそり給湯室に入る。
比較的出入り口から近いため、話はある程度は聞こえる。
給湯室は、事務員以外めったに出入りしない。
「やーん!雅樹にやっと会えたー!この人に会社入って騒ぐよ!って言ったら雅樹に会えた!電話変えたんでしょ?教えてよー!」
「仕事中だから帰ってくれないか?」
「えー?せっかく来てあげたのに、酷くない?」
「俺はお前に会いたくないし、用はない」
「そんな照れなくてもいいって!私、彼氏と別れてさー、やっぱり雅樹が1番いい男だってわかったのー!よりを戻そうよ!ねっ!」
「俺、結婚したんだ。だから迷惑」
「またまたー!そんなはずないじゃん!雅樹は私だけ愛してるって言ってくれてたじゃん!」
「お前がそう言わないと寝かせないし会社行かせない!って言うから言っただけ。お前の事は何とも思ってない」
「意味わかんなーい!私は、雅樹が好きなのに。会社に来ないと雅樹に会えないし、また前みたいに送り迎えしてあげるから!あっ、また前みたいに私と一緒に住も!」
同棲してたのか。
今知ったよ。
牧野さんが来た。
「頼むから帰ってくれ。今度来たら警察を呼ぶ」
「じゃあ電話番号教えて!」
「無理」
「じゃあ雅樹が仕事終わるまで待ってるから一緒に帰ろ!」
「いい加減にしてくれ」
雅樹の声が変わる。
「前は私の言う事をいつも聞いてくれたじゃん!雅樹らしくないよ?疲れているなら私が癒してあげるから!ねっ!前みたいにイチャイチャしたら気持ちも戻るって!」
隣で黙っていた千葉さんが雅樹の何かの変化を察する。
「えみちゃん、ちょっと外に出よう」
「どうして?」
「…いいから外に出ろ!」
「嫌だよ!どうして?」
千葉さんは上履きのサンダルのままえみちゃんの左腕を掴み、強引に力ずくで外に連れ出す。
外で何か元彼女が騒いでいる。
私は「家政婦は見た」状態。
出るに出れなくなった。
雅樹が無言で立っている。
表情は後ろ姿のためわからない。
牧野さんと雅樹は黙ったまま立っている。
千葉さんが戻って来た。
雅樹の肩を叩く。
事務所に入ろうとした時に、また元彼女が入って来た。
「雅樹!待ってるからね!」
その瞬間、雅樹は彼女の胸ぐらを掴み、玄関横の壁にドン!と押す。
「2度と会社に来るな」
聞いた事がない低い声で静かに話す。
さすがの元彼女も黙った。
怖い。
初めて雅樹が怒っている姿を見た。
雅樹が元彼女から離れる。
元彼女は静かになり帰って行った。
千葉さんが「だから外に出ろって言ったのにー」とぼそっと言う。
男3人、静かに事務所に戻る。
戻るタイミングを逃す。
でもいつまでもここにいる訳にいかない。
恐る恐る席に戻る。
雅樹がこっちを見る。
ニコっと笑う。
雅樹があんなに怒るなんて。
普段優しい人が怒ると怖いって本当なんだ。
いつもの雅樹からは想像出来ないくらい、背中がザワザワした。
千葉さんは雅樹の変化を察知、牧野さんは万が一の場合に備えて横に待機。
それだけ元彼女って、ヤバい人だったんだろうな。
でも、元彼女の行動は、これで終わらなかった。
その日の夜。
雅樹と晩御飯を食べていた。
雅樹が元彼女が会社に来た事は言わないため、私も給湯室から見た事を言い出せずにいた。
でも、いつもより口数は少ない雅樹。
私も余り話さずご飯を食べる。
「ごちそうさまでした」
晩御飯を食べ終わり、私は洗い物をしていた。
雅樹が「今日、会社に元カノが来たんだ」と話した。
「うん。知ってる」
「えっ?」
「だって、全部給湯室から見てたから」
「マジで!?」
「ごめんね、どうしても気になったから。渡辺さんが雅樹に来客だと言ったのに、千葉さんと牧野さんが走って行けば察するよね」
「あー…いつからいつまで見てたの?」
「従業員用出入り口に移ってからは最初から最後まで」
「…そうなんだ」
そう言って黙った。
「何かごめん」
私が謝る。
「まりは何にも悪くないから謝る必要ないよ」
「付き合っている時も、あんな感じだったの?」
「…まぁ」
「そっか…」
「何で今頃…もう5年以上は経っているのに」
雅樹が困っている。
「わかんないけど…彼氏と別れたからーって言ってたから雅樹を思い出したとか?」
「そこまで聞こえてたの?」
「うん…やっぱりごめん」
「…まりは、俺と元カノが話していてヤキモチ妬かないの?」
「全然。イチャついてた訳じゃないから」
「そっか。見苦しいもの見せて悪かったね」
「怒った雅樹を初めて見た」
「あー。ちょっとね、キレちゃった」
「私達、喧嘩した事がないし、雅樹がキレてる姿を初めて見たからびっくりした」
「ごめん、話が通じなくてイライラして」
「わかってる。でも彼女さん、あれだけ雅樹がキレてたからもう来ないんじゃないかな?」
「…だといいけど」
この日の雅樹はいつも以上に激しく私を抱く。
元彼女を払拭しようとしているのか、いつもより何倍も激しかった。
いつもは何か話すが、今日は無言。
息づかいだけが聞こえる。
雅樹が「まり、愛してる。愛してるよ…」と言って、いつもより奥にぐっと押し付けて中に出した。
今日はこれでも十分愛を感じた。
雅樹、おやすみなさい。
事件が起こる。
元彼女が会社に来て3日程経った。
雅樹と帰り時間が一緒になり、近所のスーパーに向かった。
会社から真っ直ぐ来たため、車は各々乗って来ていた。
駐車場で待ち合わせして、スーパーに入ろうとしたら「雅樹ー!」と声が聞こえた。
声がする方を振り返ると、元彼女が笑顔で手を振ってこっちに走って来た。
「やっぱり雅樹だー!やっぱり運命なんだよ!会いたかったー!」
元彼女さんは雅樹に抱き付いたが、雅樹はすぐに振り払う。
すぐ隣に私がいるが、彼女の視界には入っていないのか、存在自体ない事になっているのかわからないが、完全無視で雅樹に近付く。
「2度と来るなと言ったはずだ」
「会社には行ってないよ!」
「帰れ」
「雅樹と一緒なら帰る」
「迷惑だ」
「別に騒いでないよ?」
…はぁ。
雅樹はため息をつく。
「もうお前の存在が迷惑なんだよ。頼むから消えてくれ」
「私、透明人間になれないよ?」
「そういう意味じゃない!」
私は見ているしかない。
すると彼女が私を見た。
「あんた誰?私の雅樹をとらないでよ」
「…」
「早く帰れ!」
雅樹が声を荒げる。
「あんたがいるから、雅樹は騙されているのよ。こんな地味なくそ女に雅樹は渡さない!死ねばいいのよ」
そう言って近付いて来たと思ったら、太ももの辺りに電気が走る。
熱い。
カーっと熱くなる。
小さなミニサイズのナイフが太ももに刺さっていた。
「…えっ?」
「あんたが私の雅樹を取ったんだ!罰だ罰!ザマーみろ!これで邪魔物はいなくなる!」
そう言って笑っていた。
雅樹は彼女を突飛ばし、私に駆け寄る。
私は立っている事が出来ず座り込み、ナイフを取ると血が吹き出す。
駐車場での騒動に野次馬が集まっている。
「まり!まり!大丈夫か?」
誰かが呼んでくれたのか、パトカーが何台か来た。
警察官が走って来た。
「どうしました!?」
雅樹が「この女が彼女の太ももを刺しました」と少し取り乱しながら話す。
彼女は「この女が私の男を盗ったんだ!だから成敗してやったんだ!」と叫ぶ。
彼女は警察官に取り押さえられていた。
雅樹は、立てなくて座り込む私を抱き締めて泣いていた。
「まり、ごめん…本当ごめん…」
誰かが救急車を呼んでくれたのか、救急車が来た。
私は頭の思考回路が完全に停止していたのか、今、この自分の出来事がまだ理解出来ていない。
ただ、太ももから流れ出す血を眺めていた。
腰が抜けたのか立ち上がれない。
救急隊員が私をタンカーに乗せる。
雅樹も一緒に救急車に乗る。
雅樹はずっと泣きながら「大丈夫か?」と言っている。
頭が痛くて具合が悪い。
血圧が下がっている感覚はある。
救急隊員が、足の手当てをしている姿が視界に入る。
病院に着いた。
待機していた看護師さん達があわただしく動いている。
何か声をかけられているけど、よくわかんない。
手が血だらけになっているのはわかる。
結婚指輪も血だらけになっていた。
気が着いたら、病院の綿のガウンみたいな服を着ていた。
点滴が視界に入る。
すると、真っ赤な目をしたスーツ姿の雅樹が覗き込む。
「目が覚めた?」
麻酔かな。
体が重い。
でも太ももの傷は余り痛くない。
続いて弟の圭介が覗き込む。
「…あれ?圭介?」
「ねーちゃん、起きた?」
「どうして圭介がいるの?」
雅樹が「俺が呼んだ」と言う。
「ねーちゃんが刺されたって言うからびっくりしたよね。仕事放り出して来たよ」
よく見たら、弟もスーツを着ている。
「母さん達はまだ知らない」
「そっか」
看護師さんが来た。
「目が覚めたみたいですね。痛みはどうですか?」
「今は余り感じないです」
「今、先生呼んで来ますね」
「はい」
それからすぐに40代くらいの眼鏡をかけた女医さんが来た。
「長谷川まりさんですね」
「はい」
「幸い、深さはそうでもありませんでしたが、切れた幅が広かったので20針縫いました」
分かりやすく説明してくれた。
「ただ、出血が結構ありました。きちんと処置しましたので大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
雅樹に「ご主人ですか?」と聞く。
「はい」
「警察の方がいらしてます。入室許可はしています」
そう言って女医さんは部屋を出て行く。
女医さんと入れ替わりで、何人か刑事さんが入って来た。
「お辛いところ、本当にごめんなさいね」
そう言ってドラマとかで見る警察手帳をパカッと開く。
弟が足元のレバーをぐるぐる回し、上半身を起こしてくれた。
「長谷川雅樹さんは、どちらでしょう?」
年配の刑事さんは雅樹と弟を見る。
雅樹が「私です」と答える。
刑事さんが「こちらは?」と弟を見る。
「私の実弟です」
私が答える。
弟は軽く会釈。
「早速なんですけどね、長谷川さん、今回の刺された時の事を教えて頂きたいんです」
雅樹が事情を説明してくれた。
刺した相手は元彼女、3日程前に会社に突然やって来た事、スーパーの駐車場でばったり会って、ちょっと話したらいきなり私の太ももを刺した事、嘘偽りなく全て話した。
年配の刑事さんの後ろにいた若い刑事さんが一生懸命メモをとっている。
「長谷川さん、あのね、不倫とかしてました?」
「してないです!全く身に覚えないですよ!刺した相手は日にちまでははっきり覚えてませんが、もう5年も前に別れてます。別れてから一切会っていませんし、連絡先も消して、私の携帯は変えました。3日程前に会社に来たのが、別れてから初めて会いました」
「うーん、わかりました。また来ます。大変な時に申し訳ない」
そう言って帰って行った。
弟が「不倫してたんすか?」と雅樹に聞く。
雅樹は「してない!事実無根!誓ってない!」と全力で否定。
弟は「でも、警察の人、不倫疑ってますよ、不倫のもつれみたいに思われてそう」と真顔で話す。
「迷惑な話だ」
「ねぇ、私ってすぐ退院出来るの?」
「しばらくいるよ」
「えっ?私が休んだら、渡辺さんが1人になっちゃう!それはダメ!」
「明日から田中さんが戻るから大丈夫」
「本当?少しよくなったんだ」
「…さっき、牧野に電話したら、田中さんが出てくる事になった。田中さん本人とも話したけど体調はいいらしい」
「そうなんだ」
「入院当日の今日だけは夜もいれるらしいんだ。俺、一旦帰って、まりの必要な物を持って来るよ。服も血だらけだし」
大きな透明の袋に入った私が着ていた服。
想像以上に血だらけで驚く。
もう、この服はダメだなー。気にいってたんだけどな。
雅樹は一旦帰宅。
「ねーちゃん、母さんには伝える?長谷川さんに絶対罵声浴びせるのは目に見えてるけど」
「頼むから、今は止めて!彼、今ちょっと…ね、わかるでしょ?」
「元カノが、自分の嫁さん刺しちゃったんだもんな。複雑だな」
「頼むから言わないで。事後報告にする」
「わかった。黙っとく。ねーちゃん、1週間くらいは入院だって。抜糸まで」
「そんなに!?」
「新婚早々、災難だったな。同情するよ」
「ありがとう」
「あんた、仕事大丈夫!?」
「うん、多分」
「明日も仕事でしょ?帰りなよ」
「うん。長谷川さんが来たら帰る。びっくりしたでしょ?いきなり刺されて」
「びっくりし過ぎたら、人間って思考回路が停止するんだね。余り覚えてない」
「だよな。ちょっと指を切っただけでびっくりするのに、20針縫う怪我だもんな」
「また傷が増えちゃったよ」
「呑気だな」
「相手は刑務所入るのかな」
「どうなんだろうね。これって傷害罪だよね?暴行罪?」
「わかんない」
「とことん訴えてやれよ。刺されたんだぞ?」
「うん」
「ねーちゃん、大丈夫か?頭働いてるか?ショックデカいよなー」
「うん」
「…心配だな」
「多分、大丈夫」
「縫ったところ、痛くないの?」
「何でかわかんないけど、今は余り痛くない。薬が効いているのかな?」
点滴を指差す。
「かもなー」
雅樹が戻って来た。
「まり!とりあえずまりがいつも使っているタオルとか歯ブラシとか持って来た!後は着替えも。あと必要なものは、明日準備するよ」
「仕事は?」
「牧野に事情を説明したんだ。明日は休めって言ってくれたから休む事にした。だから今日は病院泊まって、明日もいる。あっ、まりの車はちゃんとうちに帰ってるから心配しないで!」
「ありがとう」
弟が「じゃあ、俺帰るよ。明日また来るから。長谷川さん、お願いします」と雅樹にお辞儀。
「今日はありがとうございました。気をつけて」
雅樹が圭介を送り出す。
「俺、ずっと側にいるから!まり、本当に申し訳ない」
雅樹が私の頭を撫でながら、ずっと側にいてくれた。
雅樹はずっと居てくれた。
私は、いつの間にか寝てしまったみたいで、目が覚めると、外が明るい。
雅樹も奥の簡易ベッドみたいなところで寝ていた。
「おはようございます!長谷川さん。検温のお時間です」
看護師さんが入って来た。
そのうち声で、雅樹が起きた。
「36,7度ですね。痛みはどうですか?」
「少し痛み出してます」
「先生に伝えておきますね」
点滴も取り替えて、部屋を出て行く。
雅樹が「まり、おはよう」と声をかけてきた。
ちょっと眠そう。
「おはよう、帰って少し寝てきたら?」
「大丈夫。縫ったところ痛いの?」
「少しね。でも大丈夫」
雅樹は近くに来て、また私の頭を撫でる。
「前回のまりの入院の時はいてやれなかったから、今回はずっといてあげたい」
「ありがとう」
「俺のせいでまりが刺されたんだ。また、まりを助けてあげられなかった。申し訳ない」
「いきなりだもん。逃げられなかったし、どうしようも出来なかったよ。でも、足以外は大丈夫!」
「まり…」
「顔を洗って来たらいいよ。私はタオルを濡らして来てくれるとうれしいな」
「わかった!待ってて!」
雅樹はタオルを濡らしに行き、顔を拭いてくれた。
「ありがとう、気持ちいいよ」
さっぱりした。
しばらくお風呂はダメだろうしね。
雅樹は、頭を撫でてくれたり、手を握ってくれたり、話しかけて来たり、ちょっとしたお使いに行ってくれたり、ずっと近くにいてくれた。
面会時間になると、スーツ姿の千葉さんが来た。
「今朝牧野から聞いた。加藤さん、怪我大丈夫?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
雅樹は、ベッドの下のレバーをぐるぐる回し、起こしてくれた。
「でも無事で良かった。意外に元気そうだね」
「足以外は元気なので」
「無事で何より。会社ではすごい騒ぎになってるぞ。長谷川の不倫相手が加藤さんを刺した事になっているから訂正して歩いてる」
「そんな事になってるんだ」
「俺らより前にいるやつは、あの女の事を知ってるから同情しているけどな。長谷川、会社帰ったら、部長に呼ばれるかも。俺と牧野、部長に呼ばれたから」
「あー。わかった」
雅樹は答える。
仕事が終わる時間になると、牧野さんと田中さんが一緒に来てくれた。
「加藤さーん!」
田中さんが飛び込んで来た。
「大丈夫?牧野さんから聞いて、心配で心配で…!」
そして泣き出した。
「大丈夫です!足以外は元気です」
「あの女、信じられない!加藤さんを刺すなんて!でも、無事で良かったー!」
奥で牧野さんと雅樹が話している。
牧野さんが「加藤さん、大変だったね。大丈夫?」と言って来た。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「田中さん、今日仕事になってなかったよ。ずっと加藤さん大丈夫かなって言ってて」
牧野さんが言うと「だって、刺されたんだよ?今、加藤さんの姿を見るまでどんなに心配だったか!」と田中さんが牧野さんに言う。
「加藤さん、赤ちゃんがびっくりしますよ!私は大丈夫です」
私が言うと「加藤さーん!」と言って抱きついて来た。
「会社では、長谷川さんが不倫している事になってるし、長谷川さんはそんな人じゃない!って言っても、ひそひそ話しているやつがいて頭にきちゃう!」
田中さんは怒っている。
「あの女、絶対許さない!」
牧野さんが「今日、総務部のやつと田中さん、喧嘩してたんだよ。へらへらと「加藤さんって長谷川さんの不倫相手に刺されたとか、すごいよね。長谷川さんって、なかなかやるよね」って言われてて、田中さんがぶちギレて喧嘩してた。止めるの大変だった」と話す。
「だって、あの言い方はひどい!刺されたのは事実だけど、長谷川さんは不倫する人じゃない!あいつの事嫌いだし、もう我慢出来なかった!ほんと嫌い!性格悪すぎる!」
こんなに怒っている田中さんは初めて見た。
こんなに私達のために怒っている。
「俺、明日会社に行った方が良さそうだね」
雅樹が言う。
「俺も千葉も協力するよ。とりあえず明日は会社来い」
牧野さんが言う。
「何より部長が心配していたから、一回部長と話した方がいいと思うよ」
「ありがとう、そうする」
その後もしばらく牧野さんも田中さんもいたが、2人で帰って行く。
雅樹が見送った。
翌日、雅樹は会社に行った。
おしっこの管も取れた。
歩いて行きたいけど、歩くと痛い。
何より、縫ったところが開くんじゃないか?って思って怖い。
松葉杖を病院から貸してもらい、片足でけんけんしながら移動。
デイルームみたいな場所に自販機と椅子とテーブルがあり、そこに座って置いてあった雑誌を見ていた。
するとちょっと離れた場所に座っていた、入院患者と思われる年配の女性が話しかけて来た。
「お姉ちゃんはどうしたの?骨折でもしたの?」
「いえ、ちょっと足を怪我をしまして…」
「あらそうなの。若いのに可哀想だねぇ…」
「いえ…そちらはどうされたんですか?」
「私は、膝の手術をしたんだよ。もう年だから、なかなか直らなくてね。お姉ちゃんは若いから、すぐに退院出来るよ」
「ありがとうございます。膝、お大事になさって下さいね」
「ありがとう。お姉ちゃんって、あそこの部屋の人?」
「そうです」
「前に警察来ていなかった?何か事故に巻き込まれたの?」
「…まぁ、そんな感じです」
「物騒な世の中だよねぇ。気をつけるんだよ」
「ありがとうございます」
「私は部屋に戻るよ。もう少しで孫がお見舞いに来てくれるんだ」
「そうなんですね!いいですね。お孫さんも心配でしょう」
「孫って言っても、もう社会人なんだけどね。お姉ちゃんくらいかな?じゃあ、またね」
「はい!」
よいしょ!の掛け声と共に年配の女性は、笑顔で会釈して部屋に戻る。
入院患者同士話すのはよくある光景。
ここに座って見ていると、色んな入院患者さんがいる。
年配の方が多い印象。
年配の方同士話をしていたり、面会に来た方とここで話していたり。
「そろそろ部屋に戻るか」
松葉杖をつきながら部屋に戻る。
ベッドに横になるのも時間がかかる。
「…暇だな」
テレビをつける。
ワイドショーをやっていた。
いつの間にか夕飯時間になり、配膳された。
今日のメインは煮魚。
栄養がしっかり考えられているんだなー。
私も雅樹に、こうして栄養を考えて作れる様に参考にしよう。
ハンドバッグから、いつも入れている小さなノートとボールペンを出し、メニューを書き込み、テレビを見ながら晩御飯を食べる。
食べ終わった頃に、仕事帰りの雅樹が来た。
「まり!ただいま」
「お疲れ様でした」
「晩御飯食べてたの?」
「うん。今日は煮魚だった。これから配膳の人が下げに来てくれるみたい」
「俺もお腹すいたな。帰りに適当に食べて帰るよ」
「松葉杖ついてだけど、歩ける様になったんだよ!」
「まりは頑張ってるね」
「今日、会社でどうだった?」
その時に配膳の方が入って来た。
「失礼しますー。長谷川さん、終わりました?」
「はい!ありがとうございます!」
「下げますよー」
そう言って配膳の方が食べ終わった食器を下げてくれた。
雅樹が「会社に行ったら、みんな一斉に俺を見て、やりにくかったなー。部長に呼ばれて、今回の事を話した。騒ぎになった事を謝罪した。騒ぎの原因は俺だしね。まぁ…仕方ないな。会社にプライベートを持ち込むなって怒られた。でも部長には理解してもらえたし、わかってもらえる人もいるし、騒ぎたいやつは騒いでいればいいんだよ」と言って悲しく笑う。
何か辛くなる。
雅樹、何にも悪くないじゃん。
その時、部屋のドアをノックされた。
雅樹が対応した。
出入り口で話している声がする。
私が松葉杖を使ってドアのところに行く。
50代くらいのご夫婦がいる。
「あの…どちら様でしょうか?」
すると旦那さんが「この度は、娘が大変な事を!本当に申し訳ございません!」と言って謝罪してきた。
奥さんの方が「警察にいる娘に代わりまして、謝罪に伺いました。松本えみの母です」と言って、深々と頭を下げた。
「…どうぞお入り下さい」
「失礼致します!」
元彼女のご両親。
元彼女のお父さんが松葉杖をついて立っている私の足元で土下座をしている。
続いてお母さんも土下座。
「本当に申し訳ありませんでした!」
何度も何度も頭を床に擦り付け、お母さんは泣きながら土下座をしている。
雅樹は黙って見ている。
「いえ、そんな…頭を上げて下さい」
私が言うも、ご両親はずっと頭を下げている。
「治療費、入院費全てこちらで負担します!入院にかかった全ての費用も全て負担します!慰謝料もお支払します!なので、あつかましいのは承知のお願いです!示談にして頂けないでしょうか?」
「娘が長谷川さんにした事は、決して許される事ではありません!でも、やはり娘にも将来があります!どうか、示談にして頂けないでしょうか!お願いします!」
「…とりあえず、頭を上げて下さいませんか?」
私が言う。
雅樹は唇をギュッと噛んで無言。
「急な話で、突然言われてもちょっとわからなくて」
両親は床に正座の状態。
「…こちらにおかけ下さい」
丸椅子が2つ並んでいるところをさした。
雅樹が話す。
「ご無沙汰しております。以前は色々とお世話になりました」
「長谷川さん、この度は本当に申し訳ない事をしました。娘が長谷川さんと寄りを戻す!と話しておりましたが、まさかこんな事になっているとは思っておらず…」
「私は今、結婚しまして、妻と普通に暮らす予定でした。しかし、今回大事な妻をえみさんが刺すという事件を起こしたばかりに、私達夫婦、会社にもえみさんは多大な迷惑を掛けました。ご両親のえみさんを思う気持ちもわかりますが、私は大事な妻にこの様な事をしたえみさんを許す事は出来ません」
淡々と話す雅樹。
「確かに以前はえみさんとお付き合いをして、ご両親にもご挨拶をさせて頂きました。しかし、今はえみさんと別れてから5年も経ちます。突然会社に来て騒いだり、妻を刺した事で、私は一生懸命働いて来た会社で今、針のむしろ状態です。お互いに別々の道を進むと決めて別れたはずです。今更こんな事になるとは思いませんでした」
黙るご両親。
「妻の入院費、治療費、働けなかった分のお給料等も含めて然るべき機関に相談させて頂き、後日ご請求致します。しかし示談に乗る気は一切ありません。妻への真摯な謝罪なら受け入れます。しかしえみさんを示談にしてほしいための謝罪なら、お引き取り下さい」
うつむいたまま黙るご両親。
雅樹の目が怖かった。
私はただ、黙っているしか出来なかった。
元彼女のお父さんが持っていたセカンドバッグから封筒を出してきた。
「300万円あります。治療費、入院費、こちらから出して下さい」
雅樹に手渡すも「お受け出来ません。後日、ご請求致しますので、そちらからお願いします」と返した。
元彼女のご両親は、300万円が入った封筒を無理矢理に雅樹に渡すも、雅樹は頑として受け付けない。
「これ以上は不要です。お引き取り下さい」
そう言ってお辞儀をする。
ご両親は何か言いたそうにしていたけど、そのまま帰って行った。
「あー!」
雅樹が、さっきまでご両親が座っていた丸椅子に座り、髪をぐちゃぐちゃっとしながら叫ぶ。
「俺は、どうしたらいいんだよ!」
そう言って、膝で握りこぶしをぐっと作り,下を向き目をつぶる。
こんな雅樹、見たことがない。
「雅樹…」
「まり、ごめん。本当にごめん」
「…」
何も声をかけられない。
そのまま沈黙が続く。
雅樹が「…また明日来るよ」と言う。
「…うん」
私は返事をする。
雅樹は無言で私をギュッと抱き締めて帰って行く。
胸が苦しくなる。
涙が出てくる。
スーツ姿の弟が来た。
「あれ?長谷川さんはいないの?ねーちゃん、長谷川さんと喧嘩でもしたの?」
私は圭介に、さっきまで元彼女のご両親が来ていた事、雅樹が話した事をざっくり伝える。
弟は黙って聞いている。
「俺、ちょっと長谷川さんと会って来る。また来る」
そう言って部屋を出て行く。
消灯時間になっても眠れない。
そして涙が出てくる。
翌朝。
看護師さんの「検温の時間ですよ」の声で目が覚める。
「おはようございます」
「36,5度ですね。点滴も交換しますね」
「はい」
毎朝の仕事を淡々とこなす看護師さん。
朝御飯の時間。
余り食欲がない。
配膳の方が「あら、全然食べてないじゃない。大丈夫?」と心配してくれる。
「何か、食欲なくて…すみません」と私が言うと「これだけでも飲みなさいよ?」と言って、朝御飯についていた紙パックの牛乳を置いていった。
担当の女医さんが、看護師さんと一緒に来た。
「おはようございます。痛みはどうですか?」
「今はだいぶ良くなりました」
「ちょっと傷口見せて下さいね」
そう言って、病院着をめぐり傷口を見る。
「だいぶいいですね。金曜日、抜糸しましょう」
「抜糸したら帰れますか?」
「問題なければ帰れますよ」
「ありがとうございます」
早く帰りたい!
ちょっと暇な時間になる。
一階にある売店に行ってみる。
松葉杖を使い、けんけんではなくゆっくり歩く。
少し突っ張った様な痛みがある。
エレベーターで一階に降りて、売店を覗く。
イラストロジックの本を見つけた。
たまにやると面白い。
鉛筆と小さな消しゴムも買う。
一緒にペットボトルのお茶と、いつも会社で食べてるグミを買った。
買い物袋をぶら下げて、ゆっくり歩いていると、後ろから「あれ?加藤さん?」と声をかけられた。
ゆっくり後ろを振り返ると、兄の結婚式で会った私服姿の林くんがいた。
「どうしたの?入院してるの?」
「ちょっと足を怪我してね。林くんはどうしたの?」
「ずっと腰が痛くて、有給取って検査に来たんだよ」
「終わったの?」
「いや、まだあるんだけど、次の検査まで40分くらい待つから、売店でも行ってみるかなと思ってたら、加藤さんがいたんだよ」
「そうなんだ」
「大丈夫?荷物持つよ?」
「大丈夫、ありがとう」
「加藤さんが良かったら、そこの椅子に座らない?」
売店を出てすぐの出入り口のところに、ちょっとした休憩スペースみたいなところがある。
そこに移動し、買い物袋を林くんに持ってもらい、松葉杖を使ってゆっくり座る。
「何か辛そうだね」
「まだ抜糸していないから、突っ張った様な痛みがあるんだ。でも今朝、先生から金曜日に抜糸って言われたんだ!」
「良かったね!足、どうしたのか聞いていい?」
「うん。刺された」
「はっ?刺された?」
驚く林くん。
そりゃそうだ。
でも嘘じゃないもん。
簡単に事の経緯を説明。
「大変だったね。でも傷も深くなくて良かった」
「ありがとう。そういえば、兄ちゃんの結婚式の時に話していた彼女とは別れられたの?」
「おかげ様で!今はフリーなんだ。しばらく彼女はいいかな?」
「私はちょっと前に結婚して、今は長谷川なの」
「おめでとう!人妻かー。あっ、でも知らない男と話していたら、旦那さんが怒らない?」
「ここで同級生と話しているだけだもん。怒らないよね(笑)」
「確かに(笑)」
「何階に入院してるの?」
「5階の外科と整形外科病棟」
そんな話を林くんとしていた。
林くんが呼ばれた。
「あっ!俺、呼ばれてる!じゃあ加藤さん、また!」
「うん」
林くんは手を振って、呼ばれた場所まで行く。
私も手を振る。
私は立ち上がり、買い物袋を持って、またゆっくりと歩き、病室に帰って来た。
グミを食べる。
ガムが余り好きではないため、グミをよく食べる。
程よい弾力があるグミが好き。
グミを食べながら、買ってきたイラストロジックを開く。
簡単なやつから解いていく。
久し振りにやるイラストロジック。
面白くなり、もくもくやっていた。
「長谷川さーん!お昼ですよー!」
配膳の方がお昼ご飯を持って来た。
「あれ?もうお昼なんですか?」
「そうですよー!」
お昼ご飯はお蕎麦だ。
「頂きます」
少し食欲も戻り、テレビを見ながらお蕎麦を食べる。
薄味だけど美味しい。
ご飯も食べ終わると、昨日眠れなかったからか、急に睡魔が襲う。
いつの間にか寝てしまっていた。
ふと、人の気配を感じて目が覚めた。
雅樹がいた。
「あっ、まり起きた?起こしたら悪いと思って、静かにしていたつもりだったんだけど、起こしちゃった?ごめんね」
いつもの雅樹。
「あれ?今日は早いんだね」
「うん。今日仕事休んだ」
「そうなの?」
「ちょっと色々、用事を足したくてね」
「そっか」
「売店行って来たの?イラストロジック、面白いよね」
「うん。売店まで歩いてみたの。ちょっと突っ張った様な痛みはあるけど、大丈夫だった!あとね、今朝先生が、金曜日に抜糸しましょうって言ってたの。抜糸して問題なければ帰れるって!」
「やった!もう少しじゃん!」
「うん。早く帰りたい!」
雅樹は笑顔で私の頭を撫でてくれる。
お風呂に入れてないから、ちょっと抵抗はあるけど、でも嬉しい。
雅樹の「用足し」についてはふれない。
時期が来たら、雅樹から話してくれると思うから。
今日は、いつも以上に雅樹と一緒にいれる。
雅樹の大好きな笑顔。
見ているだけで元気になる。
仕事終わりに、牧野さんと田中さんも来てくれた。
田中さんが「私、牧野になりましたー!」と言って、結婚指輪を見せてくれた。
「おめでとうございます!」
私も嬉しい。
退院の日。
雅樹は休みを取り、病院まで迎えに来てくれた。
精算も終わり、車に乗り込む。
久し振りの我が家。
雅樹はキレイに片付けていてくれていた。
「やっぱり我が家が一番だね!」
「そうだろ?片付けておいたんだぞ!」
「ありがとう」
ソファーに座る。
落ち着く。
「まり、今日はゆっくりしたらいいよ。晩御飯は退院祝いでピザでもとろうか?」
「ピザ食べたい!」
「よし、決まり(笑)」
そして雅樹が「まり、足の傷見せて」と言って来た。
スカートだったため、ちょっとまくって太ももを出し、ガーゼを取る。
まだ生々しい傷跡。
雅樹は険しい顔をして傷を見る。
「でもね、時間が経てば、だいぶ目立たなくなるって、先生が言ってたよ!」
「…」
雅樹は黙った。
私も黙る。
「ありがとう」
私はスカートをおろす。
ついでに、もらって来た塗り薬を塗り、ガーゼを取り替える。
その様子を黙って見ている雅樹。
股を開くから、ちょっとだらしない格好になってしまう。
でも仕方ない。
雅樹が「まり。俺、弁護士の先生に相談してきたんだ。圭介くんの紹介」と話す。
弟が病院に来た日。
「長谷川さんに会いに行って来る」と言っていた日。
圭介は雅樹に電話をした。
うちで会う事になり、圭介がうちに来た。
知り合いに弁護士の先生がいる、と言ってその場で圭介が電話をしてくれた。
弁護士の先生は休みだったが、圭介の紹介なら、という事で時間を作って会ってくれた。
そこで色々相談をした。
示談にはしない。
でも、現状は実刑ではなく、執行猶予の可能性が高いかもしれない。
それなら2度と雅樹に近付かない様に何とかしてほしい。
私の入院費や治療費を請求したい。
そういった事を相談した。
弁護士の先生は力になってくれる事になったから、向こうとの話し合いは弁護士の先生を介して話をする事になると。
直接、元彼女には会いたくないし、もう金輪際関わりたくない。
弁護士という力強い味方が出来た。
何かあれば、弁護士の先生から雅樹に連絡が入る事になっていた。
職場に復帰。
刺された私に、興味半分で色々聞いてくる人もいたが「覚えてないです。忘れました」で貫いた。
歩き方はちょっとおかしいけど、別に困る事はない。
部長に別室に呼ばれた。
雅樹を見る。
雅樹が頷く。
部長が「加藤くん。大変だったね。もう大丈夫なのか?」と話す。
「はい、大丈夫です。ご心配とご迷惑をおかけしました」
「長谷川くんにも話したんだが、来年、うちの会社の支社が出来るんだ。長谷川くんと一緒に支社に移ってもらう事は出来るか?」
「えっ…左遷ですか?」
「いや、栄転だ。支社長は私がなる予定なんだが、仕事が出来る長谷川くんには私を助けてもらいたいと思っている。その妻である加藤くんにも、事務員として支えて欲しい」
「でも私、退職予定ですし…」
「和也さんの希望でもあるんだよ。支社が出来る話は前からあったが、やっと本格的に動く事になったんだ。起動に乗るまで頑張ってもらえないかと」
「…考えてみます。長谷川さんとも相談してみます」
「実は、今回の事で会社に迷惑をかけたと、長谷川くんが辞表を提出してきたんだ」
「えっ!?そうなんですか?」
知らなかった。
「でも、長谷川くんが辞めてしまうのは非常に残念だ。そこでこの話をさせてもらった。もちろん和也さんや奥さんも了承している」
「ありがとうございます」
「まだ皆には話していない。私は君たちを信じて話をした。考えておいてくれ。辞めるのはいつでも辞められる」
「はい」
「無理せず、ゆっくり仕事に戻りなさい」
「ありがとうございます」
怒られると思って、びくびくしながら部長と一緒に来たけど、まさかの話に驚いた。
雅樹、辞表を出してたんだ。
でも部長はそんな雅樹を引き留めて、直接和也さんと奥さんに掛け合ってくれた。
感謝しかない。
支社が出来るまでは、本社になるここで頑張れって事なんだよね。
雅樹の不倫の話は鎮火しつつあるけど、皆の興味が私に向かっている。
とりあえず、この期間を我慢出来れば、支社に移れる。
それまで「覚えてない」で通そう。
その日の夜。
雅樹に聞いた。
「今日、部長から聞いた。辞表を提出してたの?知らなかった」
「うん。何か、何もかも嫌になって」
「そっか…」
「でも部長、こんな俺でも引き留めてくれた。支社が出来るから、そっちで俺をしっかり支えてくれって言われた時は嬉しかった」
「うん」
「こんな俺でも、仕事は一生懸命頑張って来たつもりでいたけど、今回の事で何もかも終わったと思ったんだ。まりの事も心配だったし、精神的にヤバかった」
黙って話を聞く。
「会社に行けば、心ない一言は言われるしな。でも、牧野や千葉、田中さんも俺の事を色々とフォローしてくれた。有り難かったよ」
「…うん」
「まりがいない席を見て、何度も落ち込んだよ。俺のせいでって自分を責めたよ。でも、圭介くんが明るくてね。助けられたよ」
かなり思い詰めていたんだな。
「圭介くんが「ねーちゃんは太もも刺されたくらいじゃびくともしませんよ!大丈夫です!ねーちゃんなら!あー見えて体だけは丈夫ですから!」と言って彼なりに励ましてくれた。元気出たよ」
ありがとう、圭介。
「まり。俺、まりの支えになれてるのかなぁ?」
「雅樹は十分私の支えになってくれているよ!私も目一杯、雅樹を支えていきたいし、ずっと一緒にいたい。一緒に乗り越えていこうよ!私達は絶対大丈夫!」
「ありがとう、まり」
雅樹はギュッと私を抱き締めて、キスをしてくれた。
「本当にありがとう」
大丈夫だよ。
雅樹には私がいる。
私には雅樹がいる。
牧野さんだって、千葉さんだって、田中さんや立花さんもいる。
お互いの家族もいる。
みんなに助けられながら、助け合いながら、頑張っていこうよ。
今はちょっとした壁にぶち当たっているけど、私達なら乗り越えられるよ。
絶対大丈夫!
「…まりを抱きたい!でも抱けない!つらいなー!」
いつもの雅樹に戻った。
太ももの傷のガーゼがきちんと取れるまではお預け。
傷口開いてしまいそうで怖い。
そんなホラー、耐えられないよ。
立花さんが、予定日より1ヶ月ちょっと早く第2子を出産。
でも母子共に元気。
田中さんと一緒に、面会に行く。
立花さんがいない間に色んな事があった。
田中さんの少し出たお腹を見て驚き、私の太ももの傷を見て、更に驚く。
切迫早産で入院していたため、余り余計な心配はかけたくなかったし、田中さんは立花さんを驚かせたかったみたいで、会う時まで黙っていた。
「私がいない間、いったい何が起きてたの?ついていけないんだけどー!」
立花さんが赤ちゃんを抱っこして叫ぶ。
田中さんが立花さんの赤ちゃんを見る目は既にママの顔。
優しい笑顔で赤ちゃんを抱っこ。
「次は田中さんの番ですね」
私が言うと、立花さんが「陣痛は痛いよー(笑)」と笑いながら言う。
田中さんは「牧野さんとの子供だもん!頑張る!」と笑顔。
私も赤ちゃんを抱っこ。
可愛い。
旦那さんと上の子が、立花さんの病室に来た。
旦那さんにご挨拶。
もう上の子はすっかりお兄ちゃんになってる!
早いなー。
私が抱っこしていた赤ちゃん。
お兄ちゃんに見せようと思ったけど、私はまだうまくしゃがめないため、立花さんに赤ちゃんを渡す。
「優斗!おいで!」
お兄ちゃんに声をかける。
お兄ちゃんは、赤ちゃんの頭を小さな手で優しく撫でながら「可愛い」と笑顔。
「優斗くんもお兄ちゃんだね!」
「うん!」
嬉しそうに返事をする。
いいな。
幸せな気持ちになる。
立花さんは体調を見ながら仕事復帰する。
家に帰ると、雅樹が晩御飯を作ってくれていた。
「立花さんの赤ちゃん、可愛かった!癒されてきた」
「それは良かった」
雅樹が作ってくれたご飯を食べながら、色々話す。
私がずっと立つとまだ足が痛いので、洗い物も雅樹がしてくれた。
「ありがとう」
「これくらいならいつでも!」
こんなにいい旦那いないな。
私は幸せ者だよ。
会社に出勤すると、ちょっと苦手な総務部の女性が話しかけて来た。
「加藤さん、刺された太ももの傷見せてよ」
そう言って、ニヤニヤしている。
「何故見せる必要があるんですか?」
「私が見たいから」
「見てどうするんですか?」
「どうもしないわよ」
「じゃあ見せません。見せ物ではないので」
「長谷川さんと結婚したからって生意気なのよ!」
「あなたに言われる筋合いはありません」
すると、いきなり私の頬を叩いた。
「なんで、あんたみたいな女が長谷川さんと結婚してるのよ!」
どうやら雅樹の事が好きだったらしい。
雅樹、モテるな。
騒ぎに何人がの人が集まる。
「叩いて気が済むならどうぞ」
パシーン。
また叩かれた。
ちょっと痛い。
すると奥にいた牧野さんがこっちに走って来た。
「何をしているの?」
「ほっといてもらえますか!?」
私を叩いた人がヒートアップしている。
彼女の周りにいた人が止めに入る。
また叩かれた。
3回目。
さっきよりは痛くない。
でも頬がじんじんしている。
雅樹が出勤してきた。
騒ぎに気付き、こっちを見ている。
「どうしたの?」
彼女の周りにいた人達が「よくわかんないですけど、彼女が加藤さんの頬を何回か叩いていて…」と雅樹に報告。
雅樹は「何故、加藤さんの頬を叩いたの?理由を教えて」と聞く。
黙る彼女。
「何か理由があったんでしょ?理由を教えて」
雅樹が言うも、彼女は黙ったまま。
「とりあえず加藤さん、席に行きなよ」
近くにいた総務部の人に言われて、私はその場を離れた。
頬が痛くなって来た。
田中さんと渡辺さんが当番から戻って来た。
「どうしたの?」
「彼女に頬を叩かれました」
「えっ!?何で?」
「いきなり、太ももの傷を見せてよって言われて断ったら、なんであんたみたいな女が長谷川さんと結婚してるのよ!生意気なんだよと言われて叩かれました」
「何だそれ。意味わかんない」
とりあえず騒動はすぐ落ち着いたけど、しばらく頬がじんじんしていた。
交通事故に巻き込まれた気分だよ。
前からこの人、どうも好きじゃない。
年は2つ上なんだけど、私と同期。
名前は平野さん。
部署も違うし、滅多に話もしないから同期とはいえ全然知らない。
私が一生懸命作った書類を平気でなくしたり、あんたより私が上という考えで意地悪してくる。
席も離れているし、流せば問題はなかったが、今回の様に叩かれたりしたのは初めて。
私も言い返したのは初めてだけど。
田中さんは「何、あの女。事務を見下してさ。私もきらーい。あの女と仲がいい川上さんと喧嘩したんだよ。長谷川さんが不倫してるって騒いでいた時ね。あーいう性格にはなりたくないわ」と怒っている。
向こうも平野さんと川上さんがこそこそ話している。
昼休み。
平野さんと川上さんが珍しく、私の席に来た。
雅樹も田中さんも見ている。
「ちょっと加藤さんに話があるの」
「何でしょうか?」
「ちょっと来てくれる?」
「ここでは話せない話ですか?」
「いいから来てくれる?」
「どう言った話ですか?」
「いいから来いよ」
田中さんが「私も行く。あんた達も2人いるんだから問題ないよね」と一緒についてきてくれた。
更衣室に連れて行かれた。
田中さんが私の後ろで何かもぞもぞしている。
「ねぇ加藤さん、不倫相手に刺された時ってどんな気持ち?」
川上さんが笑いながら言う。
「あんたさ、何私に歯向かってんの?だから不倫されて刺されるんだよ」
平野さんが言う。
「私なら不倫なんてさせないけどなー。長谷川さんが可哀想!」
「用件はそれだけですか?」
「あんた、いつ辞めんの?早く消えてくれない?目障り」
平野さんが言う。
「私は別に仕事では迷惑かけてませんが」
「あんたが嫌いなの。長谷川さんと結婚してから調子に乗りやがって」
「別に乗ってませんけど」
「そういう態度が気に入らないんだよ。生意気なんだよ」
そう言って、私をドンと突き飛ばした。
私はよろける。
「刺された傷みせろ」
足をつかまれた。
「ふっとい足!」
平野さんと川上さんが笑っている。
「やめて下さい」
「口答えすんな。早くみせろ」
すると田中さんがすごい勢いで私の前に周り、足をつかんでいる川上さんの髪を無言で引っ張り引き離す。
「何するんだよ!離せよ!痛いって!」
川上さんが私の足から手を離し、田中さんに力いっぱい引っ張られている髪を押さえる。
田中さんは、見た事もない様な怖い顔をしている。
それを見て平野さんが「牧野さんとやりましたっていうその腹で調子に乗んなよ!」と言って、お腹を蹴ろうとした。
田中さんは、川上さんの手を離し、平野さんを突き飛ばした。
えっ!?
田中さんって…昔、やんちゃしてた時があったとは聞いていたけど…喧嘩慣れしてる?
田中さんが「あんたらさ、もう大人なんだから、小学生みたいないじめ、やめたらいいよ。恥ずかしい。川上さん、もう30歳越えて言うのも恥ずかしいんだけど、私の事覚えてる?あんたとよくロータリーで集まっていたじゃない」と言う。
田中さんはレディース上がりだった。
川上さんは「…あっ!」と言った。
田中さん、今はすっかり大人しい姿だが、川上さんの怯えた様な目で昔は相当怖かった事がわかる。
「もう20年以上前だけど、あんた相変わらずだねー。気付いていなかったみたいだから黙ってたんだけど。これ以上、加藤さんに何かした時は、ボイスレコーダーに一部始終録音したやつがあるから、西田部長にぶちまけてやる」
それで私の後ろでもぞもぞしていたんだ。
いつもの面白い、明るい田中さんではなく、声も低く、目が鋭い。
そして平野さんに「あんたさ、そんな性格で長谷川さんに好かれようなんてバカじゃないの?身の程知れば?不倫の噂流したの、あんたなんでしょ?西田部長にぶちまけてられたくなかったら、一人一人に訂正して歩けよ!私がくだらない噂流しました。ごめんなさいって」と言う。
怖いよ、田中さん。
そして「加藤さん、こいつらほっといて戻ろう!」と、いつもの田中さんになる。
「…うん」
事務所に戻ると「お腹すいたー!ご飯食べる時間ないじゃん!加藤さん!ストックしてあるカップ焼きそばあるから、一緒に食べよー!」と、机の下から、カップ焼きそばを2つ出して、給湯室に向かいお湯を入れに行った。
田中さんって、敵に回すと怖いよ。
普段の田中さんからは想像つかない。
それから、総務部の2人から嫌がらせされる事は、一切なくなった。
見下していた事務員が、実は怖かった。
近寄れなくなるよね。
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