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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣巡り珍道中・改

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旅人さん
21/07/02 03:51(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。



No.2982625 20/01/08 07:18(スレ作成日時)

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No.500 21/07/02 03:51
旅人さん0 

中では非接触型体温計での検温とアルコール消毒をしてからの受付です。

コロナ禍となって一年半、当たり前な光景となってきてはおりますが、実はかげでのご努力があってのことで、そういったことにも感謝です。
住所氏名を記入して写経料をお納めいたします。

ん?
あ、あのぉ┉( ̄▽ ̄;)
かごに二十本はゆうに筆ペンが用意されているではないですか。
そ、そうですよね。それが現代ってものですよね。

初めて参加させていただいた写経会では、みなさん慣れたご様子で書のセットを持参されておられていて、筆ペンをお借りするのは私どもだけだったという、ある意味衝撃的なデビューだったものですから、写経会とはそういうものだとインプットされていただけで。

しかも
「どうぞこちらからお持ちください」
お、おぅ。

夫はといえばこだわりの筆ペンを持参したくせに(正確には私が持ってきているけれど)、「お借りします」とか言っているし。
いつもお借りした筆ペンが途中で出なくなって、筆を中断するのがイヤだから今後は持参するって言ってたくせに。

いけないいけない!平常心平常心。
まあ私の場合は平常心がすでに怪しいので、できれば無の境地になれればそれがよいのですが、それも修行なき身にはむずかしく。
┉それでもなんとか経に向かい、書の準備をしてそんな雑念を自分の内のすみっこに追いやって。
写し書きするタイプの写経です、よかったぁ。
マイペな私は書のほうもマイペ、まともに写し書きができないヤツでして。下に敷かれていた般若心経を抜き取って、自分のクセ字で写経スタート。

ウグイスの鳴く音が響きわたる以外はなんとも静寂な空間であります。
なんて贅沢な時を過ごしていることでしょう。
なんとありがたい。



写経が終わると、御本堂へ。一グループごとに副住職さまが読経の先導をしてくださり、説教をくださるようです。
┉が、私どもの前の方々は堂内の案内をしていただき出してしまい、いつになっても終わらない。二度ほどご住職が中断するように指示しているのに我関せずで次々と質問などされる方々で┉。(-_-;)

いいんですよ~、毘沙門天さまの御前を退いてくださったなら。
むしろ心行くまで御尊顔を拝することができますので。
と、思っておりましたらご住職自ら対応してくださいまして、あまりゆっくりと拝見することは叶わなかった。

No.499 21/07/01 15:56
旅人さん0 

この勧進写経会、 持ち物/筆記用具(筆ペン可)となっておりまして。
筆ペン可、ということは、基本墨書き?
まあ、最近は写経する際は墨書き、筆で書いておりますし、それでは筆と硯と墨汁を持って参りましょう。
「じゃああの書きやすい筆ペン貸して」と夫。

そう〖呉竹〗の筆ペンは書き心地もよくて、下手な字もなんとかみられるように見せてくれる、魔法のペンなのです。
あとは百円均一の三本セットのBRUSHという筆ペン。
どちらももう売っていないんだよな。


何度も参拝しており、本来もう迷うはずもない道を迷って。
本坊なのか、上の御堂でなのか、わからないうえ電話も不通で、一度最勝寺さんに寄ってからとなり。
駐車場は満車で、上にある展望台駐車場に停めてへいこらへいこら歩って歩って。

ようやく到着!
で┉、写経させていただくところはどこ?

御本堂ではなくて食堂と書かれていました。
御本堂はさほど広いわけではなく、全体はなんとか見渡せるほどの広さです。食堂┉、┉?
なので本坊であります最勝寺さんの可能性も考えたのです。
食堂、食堂┉。

ん?
そういえばご住職が手作りされたという甘酒をお売りになっていた茶屋のような小さな建物があったなあ。

タタタタタ┉と石段をのぼって、そおっとその茶屋のような建物を覗くと、中におられる方と目が合いました。

「写経ですか?」
「はいっ!」

No.498 21/07/01 15:18
旅人さん0 

山火事による延焼を逃れるために、仏像や寺宝を運び出し避難させたお寺さんのことを折にふれては書かせていただいております。
栃木県足利市の【大岩山毘沙門天】さん。正式名称は【大岩山多聞院最勝寺】さんであります。

避難させた際、思っていた以上に仏像に傷みがあり、また火災からの一刻もあらそう避難であったため、破損してしまったということで、その修繕費はあわせて七千万円以上にもなっているようです。
その最勝寺さんで、毎月第四日曜日に【勧進写経会】が開催されることとなりました。
五月には所用で参加することができずにおりましたが、今回五月の写経会に参加することができました。

とはいえ、この大岩毘沙門天堂、本坊である最勝寺さんから細い細い山道を何キロにもわたりのぼるようなのでありまして。
その道たるや片方は崖であったり、崖崩れのあとを補修して通れるようになっていたり。対向車が来ようものならすれ違いのタイミングを選ばねばすれ違えないところありと、私のような運転音痴には攻略困難な道でありますため、またまた夫に頼んでの参拝となるわけであります。

そしてまた、そこにメーカー純正のナビでありながら、キチンと案内のできないことのあるじゃじゃ馬ナビが加わったこの日。┉迷うんですねぇ、この珍道中二人と一台。┐('~`;)┌

いつになったら珍道中でない立派なものが書けるようになるのか。


まあ文章力がまた未熟なヤツですし、加えてちょっと変わった人物ですので(┉ちょっと?)、延々と珍道中録を書き続けることになるのでしょうがね。

No.497 21/06/30 14:26
旅人さん0 

【椋神社】さんの、拝殿前につながる鳥居のそばを護られる狛犬さまがオオカミさまでありました。素朴な造りでありますがそれがまたなんともかわいらしいお姿であります。
その右側に神楽殿。
拝殿は朱塗りで、拝殿の前にいる狛犬さまはかわいらしい笑顔でどこかのんびりした印象を受け、思わず足が止まります。

旧本殿は元亀年間(1570-1573)の武田軍の侵攻で焼失したとのことで。天正三(1575)年に北条氏邦により再建され、その後寛永(1627)年に幕府代官により大修復造営行われており、何度かの修復を経て現在にいたるようです。

また拝殿の右手には〖八幡宮〗が境内社として祀られています。
こちらの社殿は本当に見事な造りであり、色こそは褪せていますが、細かな彫刻がたくさん施された見ごたえのあるもので、小さなお社ではありますが、重厚さを感じさせるお社であります。


全体に厳かな雰囲気であり、ぴんと張ったように清々しい空気感の境内。
訪れたとき、タッチの差で社務所は閉じられてしまっておりましたが、
どなたもおられない社務所の戸という戸は、なぜか開け放たれているのです。
なにも置かれていない畳の間に、まるで通り抜ける風が見えるようであります。日の差したところと影のところが、モノクロの写真でもみるかのように芸術すらかんじさせます。
そんな清らかな空間が広がっていました。
何度でも来たいと思う、神社さんであります。 

┉決して御朱印を受けられなかったからではないですよ。

No.496 21/06/30 14:24
旅人さん0 

【椋神社】さんは実に秩父に五社存在するようです。
ナビを使うとそのいくつかを拾います。
秩父市内から車で三十分ほどのところにあります。
〖椋神社〗の名は延喜式神名帳にも記載されているいわゆる式内社で、論社という扱いになるのだろうが、明治政府はいずれの神社にも式内社と称することを許したという。
その中でも下吉田にある椋神社さんが、最も知名度の高い神社であるようで、特に十月の例祭である【龍勢祭】は有名なのだといいます。

社伝によりますと、
【日本武尊】が〖東夷征伐〗のおりに当地を通りがかった時、霧が深くて進めず、軍神である【猿田彦大神】に神慮を請い鉾を立てたところ、光を放って飛翔し、井泉の椋の木の下に止まった地点に老翁が出現し、日本武尊を導いた。
その後に日本武尊が、大神に感謝して祠を建て、当地に祀ったのが創祀とあるのだそうです。
社殿としての造立は和銅三(710)年になるようです。

【将門伝説】とも多少関わりを持ってくるようです。
平将門の乱を平定した人物である藤原秀郷(俵藤太)は、討伐の折にこの地で戦勝祈願をしているのだとか。
その後、将門を討つ事がかなった藤原秀郷により春日四神を合祀。それ以降「井椋五社明神」と称されるようになったといいます。


明治十七(1884)年に発生した【秩父事件】では、〖秩父困民党〗の決起集会がこちらの神社の境内で行われているようです。
自由民権運動における事件の一つとして有名な秩父事件の発端となった場所とも言えるます。

例祭として有名な【龍勢祭】は、【日本武尊】が奉持した矛より発した光の様を尊んだ氏子たちが神社前方の吉田河原で大火をたき、その燃えさしを取って力の限り投げ、火を飛ばして光を放ち御神慮を慰めたのがはじまりといいます。
後になって火薬が使えるようになると、これを用いて火筒を空中高く打ちあげる、現在の龍勢花火となっていきます。
これは歴史的にも大変古いお祭りで、農村部に伝わるロケット技術としても興味深いものなのだとか。

アニメ聖地としても有名であります。
秩父を舞台にしたアニメ【あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(通称:あの花)】の作品内にて、【龍勢祭】の龍勢(ロケット)が、かなり重要なシーンとして描かれているのだそうで、神社の敷地の前にある道路を隔てたところに見えている龍勢発射台も登場するようです。





No.495 21/06/30 08:20
旅人さん0 

しかし明治の神仏分離令で一応は分離の形式をとったものの、寺は従来どおり存在し、ここであらたまった点といえば、

一、寺持山林の内から神社の社殿周辺を分筆して神社境内を設定したこと。
一、新たに神職が常勤することになり、住職の常住を廃し兼務するようにしたこと。
一、神社は寺から寳登山大権現の講社、講中をひきついだこと。
などが主な点であるのだそうです。

【玉泉寺】さんは真言宗智山派の末寺で、檀家もおられ、その多くは長瀞地内に暮らしておられる方々で二百五十戸を数えるといいます。
お寺の建造物や境内地の維持管理は神社側に任されているようであります。
講社講中は寺時代から受けつぎ、その信仰の内容は変貌したようですが、大小約800講があり、これら崇敬者の接遇には玉泉寺本堂、護摩堂、参集殿など寺との伝統に基づく黙約により利用し、また社寺双方ともにその祭典法要などに際してはお互いに補完しあう関係なっているようです。
境内に見えておりました建物は護摩堂のようであります。他に十王堂も存在するようです。

本来はこうあった神仏のあり方を、政治的なもので無理矢理分離したことにより生じた数々の悲劇を嘆く者として、このような神社さんとお寺さんのあり方をみられ、それもありがたいものでありました。


┉いつか必ず再拝させていただき、その際は必ずや奥宮へ参拝させていただこうと思う次第であります。


No.494 21/06/30 07:24
旅人さん0 

少し時を戻します。


境内舎を参拝してその道順通りに歩いて行くと、高い位置にも御堂があるのが見えてまいります。ん?なんの御堂だろう。
そこへと続く道は閉鎖されています。どちらかというと神社さんというよりお寺さんのイメージの御堂であります。

さらに進むと少し大きめな建物が見えてまいりました。
┉。┉?!
お、お寺?
隣のお寺さんに入り込んだ?
いやいや違う、寳登山神社さんにつながる屋根をいただく廊下がしっかとあります。
かつての神社さんとお寺さんが共にあった時代のままに建物が残っているんだ!
山門もあります。┉なんてありがたい。

えっ?本堂にお上がりになられる方はお申し出ください?
上がっていいんだ!
もちろん、小走りに係の方のもとへと向かい、おことわりもうしあげ、どこで靴を脱ぐのかどうかまでもどかしい思いで御本堂に上がらせていただきました。
しっかりとご本尊さまをお祀りされて仏具もしっかり残っています。┉というか、かつてお寺だった建物、ではなく、現行のお寺さんでありました。

おおっ!!!(゜ロ゜ノ)ノ
多少見学気分でありましたものから一気に参拝モードへと戻し、御本堂の御仏に手を合わせました。いやいや┉だって、こちらの御本堂の入口も紙垂のつけられた縄が張られておりましたし、灯篭にもしめ縄に紙垂があり
ましたよ。素人だし、殿堂入りできそうな万年初心者だし、わかりませんがね~( >Д<;)

天井画はそれは美しい御仏のお姿が描かれております。
新しくはないのですがちょうどよく経年した彩飾が残っております。そして欄間にはめ込まれた彫刻もすばらしく、これは弘法大師さまの一代記なのだそう。
ご本尊さまはお優しいお顔をなされた少しほっそりされたお地蔵さまであられます。

こちらのお寺は【玉泉寺】さん。
【弘法大師】がこちらに来られた折、宝珠が山頂に向かって飛翔した神変に感応され、仏庵を営んだ地であると伝えられ、永久元(1113)年に開基されたものだといいます。
爾来代々の住職は別当職として755年にわたって【寳登山大権現】(神仏習合当時はこのように称していた)の祭祀を続け、この間に京都御室御所の院家格を賜るなど、寺格を高めてきたのだといい、明治元年(1868)に神仏分離が行われたのだといいます。

No.493 21/06/30 05:59
旅人さん0 

寳登山神社の奥宮へは、必ず行きたい、行かなければならない、そう思っていた┉もちろん今もその思いに変わりはありません。
ではなぜ登頂しなかったのかといえば、それはやはり新型コロナウイルス感染予防対策でありました。

寳登山は標高497メートル。もちろんここを登っていく登山道も整備されていることでしょう。ただ如何せんその体力が私どもにはない。
ロープウェイもありますが、このコロナ禍、どれだけのソーシャルディスタンスがとれるのだろう。消毒などは?

この日、駐車場の車のナンバープレートから、首都圏はもちろんさまざまな地域から参拝者が訪れていそうで、お子さま連れも多く見られ、それはそれは嬉しそうに愉しそうに、携帯のあちこちを歩く姿が見られます。
ロープウェイはそんな親子連れに楽しんでもらおう。
ロープウェイでなければ登頂できない方々に参拝していただこう。

奥宮は逃げない。

どちらが山頂か、┉少し不安はあります私ではありましたが、この日遙拝し神社さんを後にしたのでした。

No.492 21/06/28 17:28
旅人さん0 

寳登山神社さんの御祭神は、
我が国をおはじめになられた第一代神武天皇、【神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)】さま。

そして【大山祇神(おおやまづみのかみ)】さま。山を司る神さまで、人の生活に欠かせぬ、水に始まり、動植物、いわゆる山の幸を無限に恵み給う神さまで、神犬の大口真神(おおぐちのまがみ)さまを御眷属としてお使わし下さり、我々をご守護下さいます神さま。

【火産霊神(ほむすびのかみ)】ホは火を表し、ムスビは物を生成する神秘の力を表し、燃え盛る炎が人の生活に必要な様々なものを生み出しして無限の幸を授けて下さると共に、火を司って下さる神さま。


境内舎もたくさんあります。

拝殿の横には【藤谷淵神社】がお祀りされ、
【伊勢大神】と申し上げ二柱の神さま、【天照大神】さまと【豊受大神(とようけのおおかみ)】さまを。
【八坂大神(すさのおのみこと)】さま。
【野栗大神】さまは田畑の厄除けの神さま。
【諏訪大神(たけみなかたのみこと)】さま。
【琴平大神(おおくにぬしのみこと)】さま。
【熊野大神(いざなみのみこと)】さま。
【榛名大神(はにやまひめのみこと)】さま。
【竈三柱大神(おきつひこのみことさま/おきつひめのみことさま/ほむすびのみことさま)】
を御祭神とされお祀りされていました。
明治時代まで、藤谷淵村(現在の長瀞町長瀞)の各所にあった八社の神社をこの地に遷座しておまつりしたため、多くの神々が祀られたようでありました。

【日本武尊社】
【天満天神社】
【宝玉稲荷神社】

と、それぞれお祀りされております。

日本武尊みそぎの泉もありました。


先ほどのレスにミスがありました。
※奥宮のあります寳登山の山頂に、寳登山神社の御祭神の三柱をお祀りされたのが日本武尊さまであったようでありました。


日本武尊とその軍勢が東国平定の折、寳登山で山火事にあい、命の危機となられたということでありました。
その際、何頭かの犬たちに助けられ、山頂まで案内されたということであります。しかも犬たちはその山頂からこつぜんと姿を消してしまいます。
〖火止山、ホドヤマ〗と名付けられたのが日本武尊さまで、その後寳登山となったようです。


お詫びし訂正いたします。

ちなみに今回は私たち、奥宮へは参拝しておりません。


No.490 21/06/28 14:09
旅人さん0 

これらの素晴らしい彫刻の中には、中国の逸話がモチーフになっているものもあります。二十四孝というもののようでそのひとつひとつの彫刻についての逸話が板書され掲示してあります。

たとえば、楊香(ようこう)のお話では、
楊香という人物が父さんと山に行くと、目の前に虎が現れます。2人に虎が襲い掛かろうとしたとき、楊香が「どうか私を食べてください。その代わり、父を助けてください!」とわが身を犠牲にしてお父さんを助けようとしました。虎はその崇高な精神にひれふし、逃げて行ったというもの。

張良(ちょうりょう)のお話では、
ある日、張良の前にボロを着た老人が現れます。老人は自分の靴をポイっと放り投げると、「おい、お前取って来い」と命じました。さすがに張良はイラッとしましたが、相手は年配の人なのでぐっと堪えて靴を取ってきました。
すると老人はさらに傲慢に「履かせろ」と言って足を張良の前に差し出します。「変な人に絡まれた」と思いながらも、この老人につきあってやるか・・・というおおらかな気持ちで対応することにしました。
すると、その老人は張良に貴重な兵法書を渡すとこつぜんと姿を消してしまいます。やがて張良は後に優秀な軍師となった、というお話。などなど。

なかに一つ、大人が膝まずいて授乳するといった彫刻があり、思わず目をみはり、さすがにこれは異様に感じ足を止めました。なんでも、
歯の無い義母が食事に苦労していたことを見た嫁が義母に自分の乳を与えたことで、義母が長生きでき、やがておとずれた死の床で感謝し孝心を讃えた。というものを表したようです。
たしかに搾った乳を飲んでいたでしょうがそれを一枚の絵として伝えるにはこういった表現になるのかもしれない。
でも、二十四ものお話がある中から選ぶ時点で、あえてこれを選ばなくてもいいのじゃないかな┉と思ったりもした私は、たしかに孝心に欠けた人物ではあります。

その他は三國志を元としたものもあり、そのすべてがすばらしく精巧で、鮮やかな色で彩飾されています。
拝殿の周りをそのような彫刻が彩っておりました。





No.489 21/06/27 22:51
旅人さん0 

石段を登りきったとき、目の前にそびえていた拝殿は思ったよりも小さなものでありました。
青い空にすっと建つ姿はとても神々しく、それでいてあたたかく迎えてくださったようにやわらかく優しい気に包まれた境内でありました。
まずは二頭┉ではなく三頭の狛犬さま。阿の狛犬さまは左前足に毬を抱え、吽の狛犬さまは右前足で子どもを撫でながら、明るい陽射しを浴びて気持ち良さそうに鎮座されています。阿形の狛犬さまは満面の笑顔であります。
こちらの神社さんでは、狛犬さまが護る必要がないほどに、ここを訪れた者がみな心清められてみな笑顔で過ごさせていただけ、こちらの神社さんの敷地内では何も悪いことなど起こらない清らかな空間だからなのでしょう。

さっそく参拝を。
初めて訪れた神社さんでありますのに、そんな気がしない、いかにも居心地のよい空間であります。神域にあるにも関わらずどこかくつろいだ私がおります。
なんと見事な彫刻でありましょう。
扁額も一見質素に見えながら、実は眼光するどい白龍二体に護られたものであり、正面に彫られた龍のなんと多いこと!
色とりどりの龍が何体おられるのでしょうか。
彫りがたいそう細かいところにきて、そのみごとな鮮やかな色彩。

ここは日暮の門ならぬ日暮の拝殿なのでありましょうか


No.488 21/06/27 02:00
旅人さん0 

【寳登山神社】さんは秩父、ですがどちらかといえば長瀞という方が、ああ、と思われる方が多いのかと思います。むしろ、長瀞って秩父だったんだ、と思われた方も┉それは私くらいですかね。


長いこと寳登山神社さんへ参拝したいと、夫婦で何度も何度も申しておりましたが、念願叶い結願の日に寳登山神社さんへの参拝もさせていただきました。

いつもの有料道路は通らず長瀞の街を走って行くと、寳登山神社さんへと続く道につながります。
日曜日ということもあって駐車場はすでに満杯、私どもの車が最後の区画に駐車することができました。車から降りる方は小さなお子さんを連れた家族連れであったり、親御さんを連れてこられた家族連れであったり、カップルやお友だち同士であったりと実に多様で、車のナンバープレートにある都道府県も実にさまざまなところからで、寳登山神社さんがいかに多くの信仰を集めているかを物語っていました。

神社さんに向かって歩いて行くと、大きな、真っ白な鳥居がそびえ建っていました。鳥居の一番上にあたる笠と呼ばれる部分が黒いもののほとんどが白に金の装飾が施されておりますもので、額束はベージュに金の縁でさらにそこに書かれた文字も金といった実におしゃれな鳥居でありました。
その鳥居をくぐると手水舎があって、白木の質素な鳥居があります。
手水舎の水は抜かれ、手水作法にかえてといった大きなパネルが掲げられています。
〖(本来みそぎを簡略化したことで手水作法により神前に額づくことができるものでありますが、新型コロナウイルスの感染力を鑑み手水作法を中止いたします←私によって簡略してあります)
寳登の神山から流れいずる神水の霊気を足元から浴び、あわせて祓戸大神様の稜威(みいつ)を頭上に頂く「禊の門」をくぐることにより、心身の清浄が成就され、神前に赴くことが適います。
心に「祓へ給へ、清め給へ」と念じつつ禊の門をくぐり、心身の清浄を保ち御神前へとお進みください〗
とあります。
なるほど┉質素な白木の鳥居は禊の門だったんだ。
昨今、どちらの神社仏閣におかれましてもみな、手水舎の水が抜かれていることがほとんどで、このコロナ禍、どうやって身を清めたものかといつもそわそわドキドキしていたものが、こうした指針をしめしていただくと、心身の汚れ多き私はなんともすくわれた思いがしましたものです。


No.487 21/06/26 06:48
旅人さん0 

三十三通りのお姿の観音さま。

楊柳観音さまのほかにも、例えば、宮城県松島の【円通院】に【龍頭(りゅうず)観音】さまがおられたことを記憶しております。円通院さんの龍頭観音さまはその御像も新しいこともあり、龍の上にお乗りになっておられるのが、一目みてわかる彫りでありましたからわかったのかも知れませんが、その尊像の素晴らしいことといったらありませんでした。

【龍頭観音】さまはその名の通り、龍の頭のうえにお乗りになられたお姿をされておられます。
水神である龍を従え、洪水を起こすことなく恵みの雨をもたらし、五穀豊穣を授けるとされるよう。龍上観音と呼ばれることもあるようです。龍頭観音さまは、一切衆生を無量の慈悲で救済へと導く観音菩薩であり、開運厄除の龍神と祈願成就の観音菩薩が一体となった姿には大きな霊徳が宿ると言われているのだといいます。

【白衣(びゃくえ)観音】さまは群馬県高崎市に。
観音山と呼ばれる丘の頂上に立つ白衣観音像は、上毛カルタに「白衣(びゃくい)観音慈悲の御手(みて)」と紹介され、群馬県民には知らぬ人がないくらい広く親しまれている観音さまであります。
ちなみに群馬県では「白衣」を「びゃくえ」ではなく「びゃくい」と読むのが一般的になっているのですが。

この像は市内の実業家が昭和九(1934)年の陸軍特別大演習の際、昭和天皇に単独で拝謁できたことを機に、観光都市高崎の建設・陸軍十五連隊戦死者の慰霊・社会の平安などを祈願して建立したものなのだそうです。
二年余りの歳月をかけて、高さ41.8メートル、重さ5.985トンの鉄筋コンクリート製としては日本一の大観音像が完成いたします。
昭和十一(1936)年開眼供養が行われ、それ以来高崎市民を暖かく見守り続けておられます。そのお姿は今なお純白で、遠くからそのお姿が見えたとき思わず声をあげてしまう人も多いことでしょうし、近くそのお姿を見上げればため息が出るくらい尊いお姿をされています。


【魚籃(ぎょらん)観音】さまは鎌倉に何体かおられ、同じく鎌倉の東慶寺さんには【水月(すいげつ)観音】さまがお祀りされておりました。
┉。

┉いつになったら、鎌倉三十三観音巡りを再開できるのか┉。
Shgh

No.486 21/06/26 05:36
旅人さん0 

┉そうか。
そうだったんですね。
楊柳観音さまをお見かけすることがあったのは、難病除災というご利益に祈願した証であったのですね。

いまのように医学医療の発達した時代にあっても、新型コロナウイルス感染症に人類は生命の危険に脅かされ、経済を、暮らしを逼迫させられています。
近代飛躍的に進歩をとげた医学医療(とはいえ、あくまでも先人たちの努力の積み重ねがここに来てみ結んだ、という結果ではありますが)。
それ以前といえば、わずかの薬と民間療法のほかは神仏に祈ることしかなかったのです。
疫病の大流行があればただひたすら神仏にすがるしかなかった頃の祈りを込めた石仏さまであったのです。

先人の思いのこもった楊柳観音さまに、私も祈らせていただこう。
どうぞ新型コロナウイルス感染症が一日も一刻も早く終息し、再び世界に平和が戻りますように。




No.485 21/06/25 06:01
旅人さん0 

三十三観音さまが一堂にそろわれた所というのはなかなかないのかも知れませんが、それでも三十三の中の一体とかをお祀りされておられるお寺さんはございます。
石仏さまでも時々お会いすることがございますのが楊柳観音さま。
┉他の三十三観音さまもおられるのかも知れないのですが、なにぶんにも私、認知症の進行予防のためこちらでお目汚しの文を綴らせていただいているような脳の衰えた者であるため、いろいろ覚えたいことはあるもののいっこうに頭に入ってこないような有り様で。
その日お会いした御仏の御像をまず覚えておくことが課題の一つ。
そこでこの御仏の尊名は?と思ったとき、一生懸命、その特徴であるとかお手にお持ちのものとか、一緒にいる動物、背景などを拝して記憶しようと努力するのです。
が。
そのあとさらにお会いする御仏の御像があり、見知らぬ花があったり、あるいはそこでどなたかと会話をしたりと、その記憶の上にいろいろな情報が重ね書きされるのですよね、ええ、確実に。
帰り道道に迷って頭をフル回転させたり、帰ってからの夕飯のメニューを考えるため冷蔵庫の中にあるものの記憶を手繰り寄せたりと、さらなる試練があったり。
親の入所施設からの電話があったりすれば、その着信を見た時点から何事かと動揺いたしますし、車の中といういきなりメモのとれない状況下、記憶する能力をフル動員することとなるし。
ええ、一言で言えば、大変なんです。

覚えてきた内容を忘れるのではなく、覚えてきて調べようと思っていたことがあったことが、いろいろな情報の堆積物に埋もれて、すぐには出てこなくなり。
ようやく出てきた頃には、もう懸命に覚えたはずのあれこれが枝葉が取れた状態で発掘されるので、もうほとんど使えない情報になってしまっているのです。┉いまだ埋もれたままとなっている記憶はどれだけあることか(T^T)
まあ、埋もれたままとなっているくらいですから本人には苦痛を覚えることすらないのですが。┉。


と、まあ、記憶障害、認知障害の疑似体験をしていただくのはこのくらいにして。


【楊柳観音】さまは、手に一枝の柳をお持ちになられておられます。そんな特徴から時々石仏さまで時々お見かけすることがあるのでしょう。
千手観音さまのお手の一つ、楊柳手と呼ばれる手から生じたとされているようです。〖難病除災〗を祈願する仏尊とされているのだそうです

No.483 21/06/24 13:50
旅人さん0 

結願寺で横並びに並んでお見送りくださるのは石の三十三観音さま。

三十三、とは言うものの、こちらにお並びなのは秩父三十三カ所それぞれのお寺におられた聖観音さまや馬頭観音さまなどの六観音さまではなくて、その言葉どおり三十三種類の観音さま。

観音さまが衆生済度のために、三十三体に姿を変えると説く観音経の説に基づいて、中国や日本における俗信の観音さまを三十三そろえ整理したもの、とのこと。

楊柳(ようりゅう)観音さま、(以下観音を略して)
龍頭(りゅうず)、
持経(じきょう)、
円光、遊戯(ゆげ)、
白衣(びゃくえ)、蓮臥(れんが)、
滝見(たきみ)、施薬、
魚籃(ぎょらん)、徳王、
水月(すいげつ)、一葉、
青頸(しょうきょう)、威徳、
延命、衆宝(しゅほう)、
岩戸(いわと)、能静(のうじょう)、
阿耨(あのく)、阿麽提(あまだい)、
葉衣(ようえ)、瑠璃、
多羅尊(たらそん)、蛤蜊(はまぐり)、
六時、普悲(ふひ)、
馬郎婦(めろうふ)、合掌、
一如、不二、持蓮、
灑水(しゃすい)観音さまといった三十三体の観音さまがずら~りずらりとお並びになられています。


それはお優しいお顔立ちの観音さまが三十三体!
比較的新しいのか指先にいたる彫りまで繊細で美しい観音さまであります。


このように三十三観音さまがおられるのを初めて拝見したのは群馬県高崎市にあります洞窟観音と呼ばれる観光参拝場でありました。
観光参拝場、聞きなれない言葉でありますが、お寺さんでないどころか宗教とは関わりはない、自らの私財を投げ打って造った洞窟内にたくさんの観音さまを彫った施設、でありました。


三十三体の観音さまがそれぞれの名前にある、物を持ったり、あるいは背景であったり、と特徴をもってお立ちになられているのです。
初めてみるようなポーズであったりと、お一人お一人異なるお姿にたいそう感動し夢中になって観たことをおもいだしました。                                                                                  

No.482 21/06/20 06:02
旅人さん0 

讚仏堂のひだりて奥には七観音さまの石像がお並びになられています。さすがは観音霊場!
秩父三十四カ所の観音霊場には六観音さまがおられ、その六カ寺を巡って観音さまのご利益がえられるとした六観音巡りもあるようです。

もっと世に知られているのは六地蔵さまで。
お寺さんには必ずと言っていいくらい、六地蔵さまの石仏がならんでお立ちになるその名の通りの六地蔵さまがお祀りされております。

七観音さまは宗派によって若干の異なりがあるようですが、【如意輪観音】さま、【准胝観音】さま、(もしくは不空羂索観音さま)【十一面観音】さま【馬頭観音】さま、【千手観音】さま、【聖観音】さま、【楊柳観音】さま、

あるいは、【如意輪観音】さま、【准胝観音】さま、【不空羂索観音】さま、【十一面観音】さま、【馬頭観音】さま、【千手観音】さま、【聖観音さま】、
を【七観音】と申しあげているようです。


六地蔵さまがそれぞれ〖天道〗、〖人間道〗、〖修羅道〗、〖畜生道〗、〖餓鬼道〗、〖地獄道〗と呼ばれる〖六道〗をあますことなく見守ってくださり、私ども衆生を、お守りくださりお救いくださるのと同じように、
如意輪観音さまが天道を、准胝観音さま、不空羂索観音さまが人間道を、十一面観音さまが修羅道、馬頭観音さまは畜生道を、聖観音さまは餓鬼道、千手観音さまが地獄道をそれぞれお守りくださって衆生を救ってくださるという教えに基づくもののようです。

そもそも【一切衆生の苦難を観じ自在によく救いたまうが故に観世音と称し観自在という大慈大悲の菩薩】さまが観世音菩薩さまでありますが、なんでも聖観音さまがすべての観音さまの本体であって、さまざまな形をもってさまざまなところで衆生を救い導くようになられた、ということのよう。

七観音さまの石仏が一堂に会すところがさすがは結願寺であります。


さあ。
あらたなスタートをきりましょう。

水潜寺さんの帰りの順路を歩き出し┉。

そ、そうだった。


入り口と出口がコロナ禍でよくとられるソーシャルディスタンスの通路のように、隣り合わせになっている水潜寺さん。
思わずそちらに歩き出したくなった出口には、たくさんの石仏さまが並んでおられたのだった。┉それはすべてが観音さまでありました。

No.481 21/06/19 00:21
旅人さん0 

水潜寺さんで出会った、重ね印で一面朱色となった御朱印の主の年輩の男の方に、ついお言葉をかけてしまうおばさん。
「先ほど見るとはなしに拝見してしまったのですが、重ね印の数がすごいのですね。何回目になられるのですか?」
「二十三回だよ。だけどち~っともいいことなんて起きやしないね」
┉思わず目が点になる私。

「宝くじも当たりゃしないし、何回通えばご利益があるんだか」
(・・;)
┉お願い、夢をうばわないで。
とはいえ、何かそんな具体的なお願い事をもっての巡礼ではなかったのですが┉。

すると、讚仏堂のまえの縁台に腰掛けた、やはりご年配の女の方が口を挟みます。
「ここにそんなにも来られたことこそがご利益だよ」
するとその重ね印の男の方も、
「そういやあそうだな、わはははは」と。

ここ水潜寺さん、決してそばに住宅があるような立地ではありません。ありませんが、まるでこのお二人、近所の神社仏閣に詣でているような気安さすら感じられる、┉いつもの参拝コースみたいな感じで訪れたかのような。

そう、そうなんだな。
ここは通過点の一つに過ぎない、ということ。
あらたな神社仏閣に、秩父観音霊場二巡目に向かう通過点。
二巡目は夫が御朱印帳を携えて巡ってもらおう。

┉後日そんな話をしたら、
「いいじゃん、重ね印で」とつれない返事。
まあ、御朱印は御朱印で巡礼や参拝の証にすぎないし。
御朱印や重ね印よりも神社さんやお寺さんに参拝させていただくことが大切なのであって、なんなら今度は徒歩や自転車でまわらせていただこうか。

讚仏堂をあとにすると百観音結願堂というお堂が見えてまいります。
ひゃ、百はまわっていないからなあぁ。私どもがこちらにお参りさせていては、あまりにもずうずうしい。
┉とかいって、結局手を合わせてきたのですが。

さらに境内をすすむと仏足堂というお堂があります。
こちらはユニークな参拝の方法┉なはずなのですが、ここもまたコロナの影響が。

讚仏堂で一つ石を購入しその石に般若心経の一文字を書いて奉納する、といったものなのですが、中止されておりました。
く~っ、奉納したかったのになあ。
┉それもまた二巡目の課題ということで。
悄々となった私の目の前に石碑がありました。
その石碑の文字、群馬出身の福田赳夫氏のものとのこと。┉福田さんもこちらに詣でたのだなぁ。

No.480 21/06/18 05:54
旅人さん0 

【水潜寺】という珍しい名は、境内にある【水潜りの岩屋】に由来します。これは観音堂右奥にそそり立つ巨大な石灰岩の岩体に自然に造られた洞窟で、長さ五メートル程あるのだとか。
岩屋には水が湧き出ていて、その昔、水潜寺で秩父三十四ヶ所観音霊場や日本百観音霊場の巡礼を終えた信者は、苔生した水潜りの岩屋で「胎内潜り」をしたのだといいます。
これは一種の再生儀礼で、岩屋のトンネルを母体の胎内に見立てて巡礼という聖なる世界から俗世に再生するという意味を持っていました。
そして信者は打ち留めの札とともに、一緒に旅して来た笈摺や輪袈裟などを納め、無事結願を成就しました。

そこは現在、東日本大震災以降落盤の恐れがあるため立入禁止となっています。そこへ向かう道自体が立ち入りを禁止され、近くを見ることすらできません。
うーん。┉私こそが、その水潜りの儀をおこなって、清浄な身となりたかった。


その岩屋から湧き出た水がパイプで観音堂のそばの立ち入りを禁止した地点まで引かれ、じかにその水に触れることが出来ます。これは【長命水】と呼ばれています。
隣には〖水かけ地蔵尊〗が祀られ、長命水を三回お地蔵さまにかけて願い事を三回唱えると叶うと書かれた立て札がありました。
えっ?
私、ですか?
雑念と煩悩が多すぎて、三回の内容が三つとなってしまい、せっかく願いが叶うというチャンスを棒にふったという、いかにもらしいオチがあります。 _| ̄|○・゜・。


なお、現在も、結願した巡礼者が、観音堂の片隅に置かれた棚に、笈や輪袈裟、杖などを奉納していくようです。  
珍道中夫婦は、というと。
夫は「┉これ┉。置いていかないとダメなのかなぁ」と、情けない顔で私に相談し。私は、といえば、そこを見た時点で端から(私は持ち帰る)と決めており、そんな夫を胸のうちで(フっ)と笑い、無言でその場を立ち去りました。┉自分で決めな( - _ - )
結願したというのに、水潜りの儀をおこなえなかったヤツは、清浄な身となることができなかったようです。


私のすぐあと、御朱印を受けた方は、御朱印のページが重ね印を何度も重ねた朱色となった御朱印でありました。
おおっ。
このくらいでなければ、清浄な身となることは叶わないのでありましょう。

No.479 21/06/18 05:30
旅人さん0 

【水潜寺】さんが建立された年代ははっきりとは分かりませんが、1488年に作成された〖秩父観音札所番付〗には〖卅三番 水込 千手観音〗として登場しています。
当時は三十四番札所ではなく三十三番札所で、後に【日本「百」観音】とするために秩父の札所を一ヵ所増やした結果、もともと結願寺であります水潜寺さんの順番が一つずれて三十四番札所となるのでありました。

1744年に刊行される【秩父三十四所観音霊験圓通傳】なる書物には、三十四カ所観音霊場の縁起が書かれていますが、そこに書かれた水潜寺の縁起は、
〖時は天長元(824)年。東国はひどい旱魃に襲われ、この地でも五穀が実らず人々は塗炭の苦しみを味わっていました。
そんな折どこからか背の高い旅の僧が簑をまとった雨支度で現れ、まるで飛ぶように破風(はっぷ)山に登ると三尊の仏像を笈から出して岩の上に立てて、杖で岩を突くと、その割れ目から滝のように水が噴き出したのだといいます。
法師は人々に、観音を信仰し「樹甘露法雨」と書かれた木札を立てるよう説きました。さらに
「ここは巡礼諸願成就の地である。この三尊の阿弥陀如来は西方の教主であり西国三十三カ所をあらわす。薬師如来は東方の教主であり板東三十三カ所をあらわす。
この地の三十四カ所とともに百番霊場の結願所とすべし」と言われたところ、俄かに黒雲が天を覆い大雨が降りだしたといいます。
それとともに法師は再び飛ぶように山を下りいずこともなく消えた〗
のだということです。

ちなみに、この物語が由来となって名前が付けられた峠があり、その名も〖札立峠〗。札立峠は第三十三番札所の菊水寺から徒歩で水潜寺に巡礼する場合の通り道に当たり、江戸古道と呼ばれる巡礼路にあたります。
水潜寺からは涸れ沢を登って行くこと数十分の場所にあるとのこと。
┉江戸古道、何度となくその名を見聞きして、憧れはしますが、うーん、実際に歩くのは┉むずかしいかなぁ。

No.478 21/06/17 19:51
旅人さん0 

納経所である【讚仏堂】。

〖証 秩父霊場結願成就 結願所日澤山水潜寺〗と書かれた色紙をはじめ、いろいろな授与品があって、カウンター(のような)の向こうから、ご住職さまが、私の手に持つ御朱印帳に笑顔で手をさしのべてくださっています。
「お願いいたします」と御朱印帳を手渡して、ふと、┉そうふと、そのカウンターの横に目をやると!

┉やめてぇぇ。
ここ、仏さまがおられるじゃない!
そ、そうなんです。
等身大ともいえる仏さまが三体、しかとお祀りされていたのです!
┉私、仏さまをすっかり無視して、ご住職さまに御朱印をお願いしちゃってる。ど、どうしよう。
せっかくの結願寺で、やらかすなんて┉。
まだ、お前はこの期に及んで初心者ですらやらかさない大失態をしでかすの?
はあぁぁぁ。 (ノ_<。)・゜・。


もう、せっかくの御仏のお姿もろくに拝することができません。

あとでネットで調べたところ、中央に千手観音さまが、右には阿弥陀如来さま、左には薬師如来さまがおられたようでありました。


「はい、やりなおし」
┉なんておっしゃることはなかったですよ、もちろん。優しい笑顔のまま御朱印帳をお戻しくださいました。
でも。でも。
私、このとき、この場所ではっきりと自覚いたしました。
結願はあらたなスタート地点なのだと。

三十四カ所まわることにどこか気をとられていたような気がいたします、秩父観音霊場巡り。
今度まわるときは違った私でありたいものです。
┉少なくとも、ここ、この水潜寺さんの讚仏堂ではきちんと御仏への参拝をしてから御朱印をいただくことだけは、間違いないと思います。┉思いたい。



そして┉。そんなドタバタした結願ではあったものの、結願成就と刻まれたキーホルダーを購入している、転んでもただでは起きないおばさんでありました。



















No.477 21/06/17 06:58
旅人さん0 

讚佛堂のなかは広めの板敷きの間になっていました。入った瞬間から居心地のよい空間。思わず深く息を吸いこみました。
そのままその居心地よい空間でくつろいでしまいそうになるくらいな、そんな気持ちを抑えて、内陣に向かい、納経し、読経いたしました。


はあぁぁ。┉なんて心地よい空間でしょう。
御仏がそんな私の気持ちを汲んでくださったかのように、しばらく他の参拝の方がお越しになることなく、夫と二人きりで讚佛堂の空間を過ごすことができました。
板敷きの間に静座して。
開け放たれた戸口からは新緑が日に美しく輝いているのがみえます。
日に何度か拭き清めるのでしょうか、床は時を経たなりの美しい静かな耀きがあります。
いつまでいていいんだろう。

そんなことを考えたころ、次の参拝の方々が向拝におみえになりました。

かけがえないありがたい時を過ごさせていただくことができました。
次の方とほどよいソーシャルディスタンスの、江戸風の粋なすれ違いをできたこともここならではなのでしょうか。

結願だから、という気負いは一切なかったので、本当に本当にただただ居心地がよい、美しい空間、なのだと思います。
そもそもそんな気負いとか、心に負ったすべてをほぐして、癒して、軽くしてくださるような、そんな温かなやわらかな空間であります。


去りがたい思いで、何度も振り返り見上げながら、納経所へと向かいました。


えっ?
納経┉所、納経所ではない?




No.476 21/06/13 14:24
旅人さん0 

歩いてきた参道を直角に曲がり、いま見てきた六地蔵さまをちょうどひだりてに見るように立つと、さほど長くはない石段があって、その先にお堂の屋根がみえています。
もっと緊張するのかなと我がことながら思っておりましたが、今まで廻ってきた三十三カ所と同じような感覚で一歩一歩、石段をのぼる私がありました。
見上げる先には、さらに何段かのきざはしをのぼる高台にそびえる立派な御堂でありました。

少し先に到着された、四十代前半ともみえる男の方がひとり、静かに祈りを捧げておられます。祈りの邪魔にならぬよう、静かに香炉にお線香をあげます。御堂の向拝にはそれは見事な彫りがなされております。
よく晴れた日、新緑と御堂の屋根の内側の赤が、よくよく映えております。うーん!なんとも美しい光景であります。

納め札を納めて。
御本堂の中へとはいらせていただきます。【讚佛堂】と書かれています。
おおっ。
素晴らしいブロンズ製の慈母観音様の御像が立てられているではないですか。

No.475 21/06/12 20:47
旅人さん0 

秩父観音霊場三十四カ所目、結願寺であります【水潜寺】さん。
実はこちらは、三十一番観音院さんへ向かうときにも、菊水寺さんからの帰り道にも、その道案内の看板を通っており、まさにようやくの参拝、でありました。

┉。
ここもこんなに山深いんだ┉。
道案内の看板から、行けども行けども、ただひたすらに山道を進むだけで。ただ、この水潜寺さんへと向かう山道はいかにものどかで、とくだんこわいようなところはありません。
「ここ、タカアンドトシが齊藤工と歩ってたよね」と言い出したのは夫。
たしかに、そんなてれび番組を観た気が。

どこか懐かしい風景を楽しみながら、それでも、まだかぁと思う頃に突然水潜寺さんの駐車場の看板があらわれます。

おっ。
ついに到着です。
少し緊張する私。
駐車場は高台にあり、そこからいったん道路に降りて今来た道を少し戻って、緩やかな登り坂となった参道を登って行きます。
季節の花の咲く道を楽しみながらのぼっていくと、道は二手に分かれています。左へと向かう道にはたくさんの仏像がのぼりとなった道のサイドに等間隔で並んでいます。
そちらに┉ではないようで。川に沿った┉少し下りの、ほの暗い道を歩いていくようであります。
く、暗いんだなぁ。
少し進むと、道は再び登りとなり、ひだりてに六観音さまが見えてまいります。手を合わせて、さらに進むとまもなくのぼりの階段がみえてまいります。少し進むと。
石段が見えてまいります。




ああ。
いよいよ、いよいよです。

ああ、建物が見えてまいります。

No.474 21/06/12 06:21
旅人さん0 

ゆっくりと結願することにはしたはず┉なのに。
しかも、今思い出そうとすると、どうして急に『そうだ、秩父に行こう!』┉などと、いまはもはや通じない方もおられるようになったJRのCMのパロディーのように、突然秩父へ行こうと思い立ったものかさっぱり思い出せず。
この日は前日も大変天気がよくて、行くのならば前日の土曜日のほうが次ぐ日ゆっくりと休むこともできように、なにゆえ日曜日に秩父に向かうことにしたのだろう。

┉観音さまがお呼びくださったんだ。

本当は認知症の症状のひとつでしかないのだろうけれど、そう思うとなんともありがたく。
自分の都合のいいように解釈するのは、まだまだ修行が足りない証拠ではありますが、ネガティブよりはポジティブに考えるほうがずっとずっと前に進む力になります。

三歩進んで何歩さがっているのかわからないような私の人生珍道中、少しでも、少しずつでも前に進まないといけません。
生きているとねぇ、苦しいこと悲しいこと、いっぱいあります。そこでそれをどうとらえて、どう乗りこえ、どう歩いていくか。┉それがこの世にいる間の人間の修業で課題なのだと思います。
つまらないことで悲しんだり苦しんだり、それで立ち止まって、なかなか前に進めずにいる私。
過去はどうやってもやり直すことはできないし。
なかなか変わること、変えていくことは難しいことだけれど。
誰が見ていなくとも、自分がその日一日かけて、少しでも変われれば、少しでも前に進めたと認められれば、そこを自分で自分を認めてあげて、次の日また前に進めればいいし。
そこで休んだとしても、次、一歩でも歩き出せれば、たとえいざっても前に進もうと努力できたらそれでいいんじゃないか?
もちろん、もともと自分には甘いところがあるから、そこはしっかりと見きわめて。
今までうん十年かけて、ここまでしか歩けなかった自分なのだから。
戻ってしまっても、悪い方向でなければ良しとして。



三十四カ所の観音霊場巡りを終えて、少し思考が変わった┉かなぁ?

間違えなく変わっていたことは、筆での写経がすらすらと書けるようになっていたこと。
えっ?と自分で戸惑うほどに、すらすらと筆が動くのです。
ま、上手いか下手かは別として。すべて自己流の、学校の書写の時間でしか書道の経験のない人間ですし。






No.473 21/06/11 14:45
旅人さん0 

どんなタイミングでもいいので、この秩父の小鹿神社さんに参拝したいのだと、小鹿神社さんがオートバイの安全祈願の神社さんだと知ってからずっとずっと夫に懇願しておりまして。
ようやく念願の参拝であります。


大きな通りから入って行くこと数分。
さほど広くはない参道を通ってまいります。
オートバイの安全祈願の神社さんということで、授与品もまた他の神社さんとは少し異なったものばかりであります。ナットの御守りであったり、黄色の本体に赤いてんとう虫の描かれた御守りは〖転倒防止お守り〗。
オートバイの形をディフォルメしたシールタイプの御守り等々。
うーん、さすがだ、と思わず唸るおばさんでありました。
うちのムスメ、御守りとか好きではないんだよなぁ( ´Α`)。
御守りとかの押しつけほど迷惑なものはないのもわかってはいるつもり、┉なんですけどね。
結局お受けしてしまった。
ほんっと、こういうことをすると若いもんに嫌われるって。

┉でも素直に受け取ってくれました(ノ_<。)

ありがと、本当にありがたい。


小鹿神社さんから見えた武甲山の姿の素晴らしさ、彼女にも見てほしいな。
うーん、そうすると単車で?うーん(-""-;)

二十代半ば。
何でもできる無限の可能性を自分なりに努力して、勝ち得ていって欲しいものです。





No.472 21/06/11 14:21
旅人さん0 

秩父【小鹿野町】というところにあります【法性寺】さんから、【菊水寺】さんへと向かう途中を回り道することにはなるのですが、同じく小鹿野町に【小鹿神社】さんという神社さんがあります。

こちらの〖例大祭〗も、四月の第三金曜、土曜日という、まさについこの間。涙を飲んであきらめたお祭りのひとつ、でありまして。
豪華な装飾のなされた〖屋台〗や〖笠鉾〗が町内を曳きまわされ、さらにはその屋台に花道を組んで地元の方々による〖歌舞伎〗が上演されるというものであり、さらには〖神楽〗のほか〖流鏑馬〗も行われるという、なんとも心踊る、お祭りではないですか。

┉そのお祭りが、例年通りに行えたかもわからないのではありますが、見物に訪れる人間が少しでも少なければ、コロナの感染リスクも減るであろうかと、まずは地元の方々に。
例大祭をどんな形であれ執り行っていただくことが何よりも大事であり、そしてできうるなら規模を縮小した形であろうとも、地元の方々に楽しんでいただくことこそが大切と考えますので。

いずれにせよ、このコロナを乗りこえて、再びかつての盛大な例大祭が執り行える日が来ることこそが最大の望みであることはいうまでもないことでありますが。


その小鹿神社さん。
例大祭ももちろんではありますが、もうひとつ。
どうしても行きたい理由がありまして、この度ようやく念願の参拝をさせていただくことができたのであります。
こちらは小鹿野町がバイクで町おこしをしたことから、オートバイの安全祈願の神社として知られている神社さんなのであります。

へ?
車ですら運転のおぼつかないおばさんがなぜにオートバイの安全祈願?
そうお思いの方もおられることでしょう。
そして┉そうお思いくださった方は、この稚拙な駄文を毎回お読みくださったから他ならず、本当に感謝しかございません。

短大卒業後一人がんばる娘が、オートバイの免許を取得して、ピッカピカの単車を購入したのでありまして。その費用も全部自分でがんばってのこと。
心配もありますが、何よりも安全に楽しんで乗ってもらいたい。

そんな思いをお聞きとどけ願うには、まさに、うってつけと思われる神社さんなのであります。

No.471 21/06/08 15:42
旅人さん0 

秩父三十四カ所。
あと一カ所。
普通の方ですと、ある程度時間配分をしてこの日のうちに三十四カ所をまわって晴れて満願とされる方がほとんどではないかと、私どもも思ってはみるのです。
ここから九キロ離れているという結願霊場水潜寺さん。菊水寺さんでちょうど十六時。本来ならば秩父霊場の納経時間は三月から十月までは十七時で、充分間に合うかと思われる時刻です。(菊水寺さんは何かご都合があったのかこの日は十六時少し前にはお閉めになられていましたが┉)

ですが。
次の機会へと結願をまわしてこの日は帰路につきました。
せっかくの結願、時間に追われてあたふたとまわるのはイヤじゃないですか。
ただでさえ珍道中の二人組、道に迷うことだって考えられます。┉実際、この日も大きな声では言えませんが迷っているし。
ええ、ナビ付きの車で、です、はい。
じゃじゃ馬ナビも、珍道中を繰りひろげるだけの同行者も、まったくあてにできない気の毒な夫は、あれこれ迷ってはかえって道を変え間違うという、やはり珍道中の同行に相応しいお人でありまして。
ゆっくりと結願いたすことといたしましょう。




┉とか言って。



一週間も開けずに秩父に向かうことになろうとは、この時珍道中二人組の当人たちですら思ってもいなかったことなのですが。σ( ̄∇ ̄;)



No.470 21/06/08 11:58
旅人さん0 

読経を終え、御朱印帳を手にした私が、ご住職のおられるところへと進んでも、ご住職は、私がその存在に気づいたときからまるで変わらぬ姿勢でなおもお座りになられておられました。
お声をかけてようやくその手を差し伸べ「はい」とおっしゃられた、それだけの所作であります。
お書きくださったその墨書きの書は、墨のかすれ具合までが美しいものでありました。

あらためて御本堂のなかを拝観させていただきます。
こちらは御本尊のお祀りされている正面のほか、ご住職がお座りになられるちょうど真ん前にも、金屏風でおおった空間に御仏像をお祀りされておられます。
天井には一面、千社札。
欄間部分には透かし彫りではない彫刻が壁の上部にはめ込まれています。大変味わいのある彫り物であるのですが、ほの暗い上、私どもしか参拝に訪れている者がなく、┉こういうとき小心者でびびりの私はそわそわしてしまい、なかなかゆっくりと拝見することができないという損な性分でありまして、しかもそれをさとられないよう、内心そわそわしながらも平静を装おうというたいそうめんどくさいやつでありまして。
かつて頻繁に行われていた間引きを戒める【子がゑし之絵図】と、親孝行を勧める【孝行和讚】の絵図を見るのがやっと、という有り様で。
ご住職はただただひたすら何をするでもなく座られておられたというのに┉そこが修行された方とそうでない愚者との差なのでありましょうね。
夫はゆっくりと絵図を眺めておりました。それでも私が御本堂をあとにするとやはりそそくさと出てまいりますところは、彼もやっぱり小心者という┉、お似合いの夫婦といったところなのでしょうか、珍道中二人組であります。
境内はさほど広くはなく、それでも御本堂ひだりて奥には大きめの稲荷社があったようです。
コロナの影響なのか、こちらのお寺さんを語るブログなどで必ずといっていいほど掲載されている、白い菊花をあしらえた手水の石の水盤も、いまは水を抜かれて、なんとももの悲しく。
気づくと四時ちょうど、であったのかどうかすでに御本堂の扉は閉ざされておりました。┉いつの間に?


境内には藤が咲いており、八重桜の参道を出ると芍薬が咲いておりました。
夫はポピーの花畑が気になるようで、しばし各々が花の写真を撮影して、菊水寺さんの駐車場をあとにしたのでした。




No.469 21/06/08 09:18
旅人さん0 

とはいえ、木造の校舎にあっても土間の教室はありませんが、ね。
天井が高く、小規模な講堂を思わせる(┉あくまでも私の感覚で)┉のかなあ、やっぱりちょっと違うかな?
そもそも講堂という物をご存じの方がどれほどおられることか。

御本堂へと入ると、コの字型に、引き戸の戸棚が廻らされております。
右側は下半分磨りガラスの木の引き戸が、腰から胸くらいの高さにあって隣の間と仕切られています。
ほの暗い本堂に目が慣れると、正面は仏間┉という表現でいいのかどうか、外陣内陣が見えてまいります。
正面には御簾があり、その内に御厨子が見えたような記憶があるようなないような。
こちらは広い御本堂のすべてが写真撮影禁でありますので、あくまでも、記憶力の低いこのおば(か)さんの記憶によるものであるので、その辺はご了承いただきたく。

いつものように納め札を納めて、読経の準備をし始めて。視線の右端に、ガラス戸が開いていて人が座られているのが目に入りました。!(゚Д゚;)
まさかのご住職!
静かに、まるで瞑想でもされておられるかのように座られています。

本職の方の前、読経?
いきなりぶっつけ本番の実技テストを受けるかのような感覚で、平常をよそおうものの、内心は大パニックで。
ど、どうしよう。┉。

どうしようもなにも、読経するしかありません。

夫は涼しいかおで、私の準備が終わるのを待っています。┉きいぃ、あなたは読経しないから。┉そうなんです。夫は読経しないのです。厳密にいうと般若心経の最後、
〖羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 〗という部分の唱和をするのみ。
私の読経はまるっきりの自流。本当に音読しているだけで、まさか御本職の僧侶の前で一人で読経することになろうとは思ったことすらなく。
┉心の中で、ということもありなのかもしれませんが、やっぱりいつものようにでないと、かえってつまずくものなのです。

いくぞ!
いやいや、読経をそんな勢いでいく人はダメだから。へいじょうしん(平常心)と一言、心で言い聞かせて、読経をいたしました。

秩父観音霊場三十三番までまわっても、まだこんなレベルの私でありました。┉。

_| ̄|○


No.468 21/06/08 02:09
旅人さん0 

さらに詳しく書かれたものを少し転記いたします。
 
旧三十四カ所観音霊場の札所番付では、十七番菊水寺であったようです。

皆野から小鹿野への山沿いの道に、海抜三百八十メートルの「八人峠」があり、また現在の境内から約六百メートル南に小坂下集落があり、そこから八人峠にかかるあたりに、菊水寺跡とされる地があるのだそうです。台座に江戸時代中期の天明五(1785)年の銘があるお地蔵さまの石仏がおられるのだそうで、その庵が小坂下に移され、第十七番札所となったものと考えられており、そのあたりがどうやら今では不明なようです。

室町時代後期の永禄十二(1569)年の武田信玄の侵攻の際に観音堂を焼かれますが、本尊は難を逃れ、桜井というところにあった長福庵を転用して長福寺が創建され、本堂の建立に際し札所本尊である聖観世音が本尊とされたようです。


菊水寺の歴史はこのへんにして。
例の石標から本堂へと向かいましょう。
その参道、なんと、左右から枝を広げる桜の枝でアーチが作られているのです!すでに葉でありましたこの時ですら大変感動いたしましたものです。花のころにはさながら桃源郷といった心地でありましょう。
ちなみにこちらの桜は八重桜なのだそうです。
うーん、桜の頃はあちこちの札所がさまざまな桜を咲かせて、巡礼者をまた再巡へと誘うのだな。┉そんなのは珍道中の二人くらいでしょうか。
そんな桜の並木であります参道を、感動の思いで抜けると、枝垂れ桜かと思われる大きな枝が一部を隠して本堂が見えます。
蛙の鳴く音がBGMをつとめます。

本堂は大きな入り口をひろげた入母屋造。
扁額は右から左へと書かれてはいるものの新しそうな字体であります。(隷書体?┉といったかなぁ?)
一礼して御本堂へと入ると┉。
土間であります!
高い天井。
なにやら懐かしいような┉と思うのは、昭和生まれで木造校舎の記憶のある私だからかな。


No.467 21/06/07 04:44
旅人さん0 

なんでも。
元々の菊水寺さんのあったところというのがこちらでなかった、ということのようで。えっ?どういうこと?
┉そう私も思いました。

この長福寺さんというのは、元々は菊水寺さんの別当寺であったようなのです。菊水寺さんが江戸時代に長福寺さんの境内に移転してきたことによるものだ、とあります。
元々の菊水寺さんはというと、ここより六百メートルほど離れた所にあった庵であったようなのですが、今ではもうその場所すらわからなくなってしまっているのだそうです。

この菊水寺さんの縁起で。
元菊水寺さんのあったといわれる地域から登る山中にある峠に、八人の山賊が出没して横暴の限りを尽くし、その峠は八人峠と呼ばれるほどにおそれられていたときがあったのだそう。
あるとき、その峠に一人の旅の僧が通りかかり、他に洩れず山賊たちが僧に白刃をかざして襲いかかられた、その時、旅の僧は法力で山賊たちを金縛りにしたのだといいます。
「罪を悔い改めよ」と言います僧に恐れおののいた山賊たちは、その場で出家することを誓ったのだそうです。その旅の僧こそが行基であったといわれ、行基は山賊たちに観音さまの像を三体刻んで与え、「この山の麓に福寿延命の菊水という霊泉がある。そこで身を清めれば必ず寿命が延びるであろう。」と伝えたのだといいます。

はじめ観音菩薩を祀る草庵は峠にあったようですが、のちに一人の僧が山麓に草庵を移したのだといいます。そこに涌く泉の水を飲んで過ごす僧が八十の年を過ぎても身体強固で壮年のごとき容貌だったことから、その霊泉と観音さまの霊験あらたかなことを知った里の人々が草庵に足を運ぶようになり。
やがて草庵が発展して観音霊場の菊水寺となり、長福寺さんの境内に移っていまに至る、ということのようであります。
そんな霊泉の湧く菊水の井戸の場所も今ではその所在がわからなくなってしまっているのだそうですが┉。┉そんなものなのかなぁ。まぁ、そんなものなのかぁ。


No.466 21/06/05 08:02
旅人さん0 

┉あの、お船岩と呼ばれる岩場に立つ観音さまを、担いで登って、設置した方がおられるという衝撃の事実に、┉もしかしたら実はこんなに大騒ぎするほどではなかったんじゃ┉などと思ってみたり。
あの日の天候とほぼ風の無かった条件は、
晴れの日の続いていた足元の岩場の滑りにくかろう条件は、
奥の院アタックにまたとない絶好のものだったのではないか┉とか。


ま、帰ってきちゃったものはどうしようもない。
ペコパの松蔭寺くんに頼んだところで時は戻せない。
と、いうことで、再拝のあかつきには、少なくとももう少し進んでみることとしましょう。


あのときには、こんなにも法性寺さんの奥の院について引きずることになろうとは思いもせずに┉まぁ、こうやって珍道中録を書くから振り返るだけなんでしょうけど、┉心も軽く三十三番菊水寺さんへと向かったのでありました。

菊水寺さんへのみちは七キロ。
心癒されるのどかな風景のなかを(クルマが)走り、ナビがその目的地、菊水寺さんを示し出した頃。
一面、赤い┉真っ赤な花畑が広がっているではないですが♥!
正確には、赤い花々があたり一面に咲きほこる中にピンク色の花が差し色をした、それはかわいらしくて見事なポピーの花畑です。
それもひとつではなく、いくつかのポピーの花畑で。
菊水寺さんを訪れる方々を町全体で歓迎してくれておられるようで、それはそれは心はずむ光景でありました。

そんな見事な一面赤いポピーの花畑のすぐとなりに、菊水寺さんの寺標がありました。
菊水┉き┉大櫻山長福寺ぃ~?!
┉そう門柱にはっきり刻まれております。
ええっ、ちょ、ちょっと待って。
こちら菊水寺さんではなくて?

いやいや、少なくとも菊水寺さんの駐車場に停めて真向かいのお寺さんに向かって歩いて来たんだから、こちらが菊水寺さんではないとしても、この近くには菊水寺さんがあるはず。

┉。
┉こ、ここだ!
ここでいいんだ。
門柱側面に、札所三十三番延命山菊水寺とも彫られています。
ほ。ほぉぉ。

普段なら迂闊な二人、門柱のすぐそばで写真を撮ろうとも気づかなかったことでしょうに。珍道中を盛り上げるネタをわざわざ拾う妙なスイッチを持っているようであります。┐(´~`;)┌

No.465 21/06/03 17:55
旅人さん0 

法性寺さんのHPでは、奥ノ院への所要時間は1時間〜1時間30分、大変危険ですので、十分な装備をして時間には余裕をもって登って下さい、と、書かれています。
私どもにはとうてい無理だと判断いたしましたのは、境内にある遥拝所からはるか彼方に、爪楊枝よりも小さく見える観音さまのお姿を拝見して、であります。
思った以上に本格的なものであることを知るにはそれだけで充分でありました。鎖づたいに登って行くことも、細い細い道の脇は崖、というところがあることも、実はネット情報で知っていたのではありますが、あれだけ遠い所にあるということは、その鎖場もかなり本格的なものでありましょう。
初心者クラスの登山すら経験がなく、運動神経といえば運痴、という言葉がありますが、まさにそれだと言えましょう。運痴な上に普段からたいした運動もしていない私どもが、ここを二人きりで登るのは、社会的な迷惑であると判断したのでありました。
私どもがどうしてもここを登ろうとしたならば、訓練した上に、先達さんと呼ばれている霊場巡りの案内人の方か、この日お逢いした、ここを登る企画に参加するような、きちんとした計画のもとで、御指導いただきながら登るのがよいと、強く、強く思った私でありました。

というわけで、いつか登る日がくるのかこのままで終わるのか┉、HPにはひとこと、【観音堂の前の岩の間を抜け急峻な山道を登ると、眼前が開け、『お船岩』の巨岩にたどりつきます】とだけ書かれています。
┉もうちょっと詳細に触れて書いてもいいんじゃないかなぁ。
鎖場とか、直角に近い崖を登るとか┉。
でも、江戸時代に滑落事故があったという記録があるものの、それ以降は事故はないようでありますし、結構なご年配の方も登られているようなんですがね。

憧れの奥の院に立つ、お船観音像(聖観音菩薩)は、「お船岩」と呼ばれる舟の舳先にあたる所にお祀りされておられます。
【江戸時代の境内図には、舳先が尖った舟のように描かれていますが、江戸末期に舳先が折れて現在の形になりました。
境内図には坐像が描かれていますが、戦時中に供出したために、現在の観音様は、戦後に再建された立像です】
えっ!?
ええっ!?
ちょっと待ってください!戦時中に供出したぁ?!
戦後再建したぁ?!
登ることにこんなに大騒ぎしている二人って、もしかして┉大袈裟?



No.464 21/06/03 10:27
旅人さん0 

【法性寺】さんは、奈良時代、【行基】さまが一刀三礼して本尊聖観世音菩薩を刻したものをお祀りされたのがはじめと言われ、また、【弘法大師】さまが一晩で【大般若経】六百巻を書上げたと伝えられることから、「般若」と言われるようになったと言われています。
┉一晩伝説は大変多いです。


お船観音と呼ばれる観音さまの縁起は、法性寺さんのホームページによると、
〖昔、豊島郡の住人、豊島権守が娘を同郡に嫁がせた。
ある時娘が里帰りをしようと舟に乗ったところ、犀ヶ渕で悪魚にみそめられ、水底に引き込まれそうになった。
その時、一人の美女がその娘を助けて、舟に戻してくれた。
従者たちは夢のように喜び、「どなたですか」と尋ねると、
「私は岩船山のものです。父をはじめ、主従がよく観音様を信じているので危難のところを助けました」
と答えて消え去った。
この不思議な光景を権守に伝えたところ、歓喜の涙を流して利益を尊び、その恩謝として諸所を巡礼した。
そして当山を参拝し、帳をあげて拝むと、なんと笠を冠った観音様がおられた。
涙を流し、三日三晩般若心経を写して供養をした。〗
というもの。


同じくHPによれば、観音堂は寳永四(1707)に建立された、岩盤の上に建つ総欅材の三間四方の舞台造り、とのこと。
平成十三(2001)年に、大改修がなされたそうです。

この観音堂の裏は、蜂の巣状の奇岩があって、大変異質で、またまた不敬をかえりみず言えば異様。
これはなんでも【タフォニ】と呼ばれる地質現象で、【秩父ジオパークのジオサイト】として、注目を集めているのだとか。┉不敬をかえりみずもう一度、山深い所のこの蜂の巣状の奇岩は大変大変怖いです。
そこにお堂が造られていて、お地蔵さまがお祀りされておりましたことで、私の心はたいそう助けられました。┉境内におられた古い石仏さまも集めて(あるいは元々おられた?)お堂の内と外にお祀りされていました。
舞台造りのお堂の下に、┉他にも岩の、狭くて入るのは難しいような洞に、なんだかやたらと石が積み上げてありまして、もうこうなると怖いんですけど┉。
理由を是非知りたい、実はよく見かける、石を積んだ物、であります。



No.463 21/06/03 05:05
旅人さん0 

苔むす岩と岩の間に、古の人々がどれだけの苦労をされて造ったであろう石の段が螺旋階段を思わせるようにつらなっています。杉の細い木が観音堂を護ろうとしているかのようにまっすぐと空に向かって立ち並びます。
見えてきました。
時を経て周りの景観に似合う、趣ある色となった観音堂の、上の部分から徐々にその全貌が明らかになってきます。
補陀┉殿?殿ではなさそうですね。巌という字に見えますが、そういった表現、言葉があるのかどうか。┉ようするに学のない私には読めない草書で書かれている扁額が掲げられていると、いうことです。書の心得のある方なら誰でも読める美しい書体なんですけど、情けないなぁ┉すみません。でも、おそらく字はあっていると┉思うんですけどね。

うーん。高床式、じゃない舞台造♥
そばにはビーナス観音とも呼ばれるという石造の一メートルくらいの観音さまがお立ちになられ、ここを訪れた者をまるでお出迎えくださっているかのようです。大きな大きな岩のとなりにぴったりと寄りそうかのように建っています。
丁寧に造られたお堂であります。下からあがって行くためよく見える屋根の造りも。お堂を一周廻るように囲う花菱形の格子も。
お堂の保護のため、スリッパに履き替えてお堂のなかに入ります。┉といってもあくまでもそこに入ることでお堂のそばまで行けるということなのですがね。
濡れ縁があって、縁側があってお堂、と言っても┉イメージするのは難しいでしょうね。専門の知識がまるでないものだから。かといって付け焼き刃で調べても私の言葉にはならないとさとったもので、こんな表現でごめんなさい。
中のお堂に掲げられている扁額は┉すごい!┉私好み、といった視点ではありましょうが。
漆塗りの黒い額に、金の筆でこちらの御詠歌が書かれ、その真ん中に。
金の小舟に乗られ、笠を被り櫓を漕ぐ観音さまが┉不敬をお許しいただいて表現すれば、┉付けられている。光背から線上の金色(こんじき、とお読みください)の後光が射し、岩のごつごつと見え隠れする荒波の中にありながら、揺れることもなくスッとお立ちになられている、そんな額が掲げられているのです。その美しさといったら♥!
驚くべきはこの額、安政に造られたものだということ。
あくまでも美しいままに、まるでお堂を守られておられるように掲げられているのであります。

No.462 21/06/02 14:06
旅人さん0 

うちひしがれ、遥拝所で手を合わせて、Uターンする私を夫が止めます。
えっ、だって無理だよ┉。

「観音堂は?」
あっ!( 。゚Д゚。)

┉そ、そうでした、そうでした。ここは御本堂と観音堂が別々にあるんでした。御本堂にも小さなお船観音さまがお祀りされていたものだから、もうお参りも済んだ気になってしまっていた。
ちなみにこのお船観音と呼ばれている観音さま。菅笠をかぶられ櫂を手に持ち船を漕いでおられるお姿であります。

そんなすっかり忘れていたものの、こちらの観音堂、私の大好きな懸崖造り=舞台造りのお堂なのでありました。
大好きとか言いながらすっかりすぽんと忘れられる私の頭ときたら┉。ザル頭という言葉がありますが、笊に失礼なくらい、見事に忘れてしまっておりました。ああ、悲しい。(T-T)


┉本当は。
現地に来るまで、もしかしたら奥の院にも案外行けちゃうんじゃないかな?などと思いながら来たので、それが完膚なきまでに無理だと思い知らされて、すっかり観音堂のことが抜け落ちてしまったという。
┉本当に?


ま、まあ、夫が観音堂のことを思い出させてくれた途端、奥へと向かってそれは元気に歩き出す私。
元気に、というよりげんきんに、でしょうか。
途中、毘沙門堂もありました。┉なぜか毘沙門天さまのお姿は見えず、観音さまの像がまつられているんですけれど、ね。


それにしてもこちらも観音院さんに負けず劣らず山深い。
圧倒されるような大きな岩がごろごろと散在するあいだを縫うように┉というよりあいだを通して道を造ったというのが正しいのでしょうね。ちょっとびっくりするような光景が続きます。鋭利な大きな岩がいくつもとある様は少し恐いかも。
薄暗い山道という点ではこちらのほうが山深い感がいたします。その岩に積もった土に草が生え木が生えたりもしています。

そんな参拝者の心を癒やすかのようにところどころに石仏さまがおられたり、百観音(西国・坂東・秩父)の御砂場という石碑の下にまたまた足形が彫られた石が置かれていたり。
そうこうするうちには観音堂の姿が、そしてそこへと続く石段が見えてまいります。










No.461 21/06/02 06:11
旅人さん0 

鐘を撞いてすっかりご機嫌な私。
花浄土という小さな看板があります。うん、そうそう!花が好きなご住職があれこれと手入れをされているというお寺さんだったな。┉。┉?
花は┉?
えっと┉。今はまだ花の時期じゃないのかな。┉いやいや春じゃない!
花、花。な、ない┉かな?
花浄土というには花木もなければ地植えの花も無さそうな┉。
そ、そうか。先週が花まつりだったから、花という花がみんな使われてちょうど花のないときに来てしまったのかもな。┉ま、そう思おう。

石段をのぼります。見事な石垣が組まれています。ほおぅ。
石段を登りきると庫裏がありました。
たいそう趣のあるすてきなお宅であります。お、花がある!
テッセン=クレマチスが二輪。大きな花です。
そこから地続きにかなり高めの位置にある濡れ縁が続きます。って、┉御本堂なんじゃない!感覚的には濡れ縁とつながって御本堂へとなっている、そんな風に思えました。ああ、この濡れ縁!この濡れ縁に花まつりの花笊がいっぱいに並ぶんだ。

その反対側には無人のグッズショップがあります。そう、グッズ、なんです。秩父三十四カ所めぐりに大変便利な地図とか他のお寺さんでも取り扱っておられる物もありますが、こちらのオリジナルキャラクターの描かれたTシャツやエコバック等々。

御朱印をお願いいたします。呼鈴を鳴らすとご住職の奥さまが。
書き終わった御朱印を受けとる際にお聞きしたかったこと、こちらのお寺に憧れ、なおかつあまりの過酷さに秩父巡礼すら諦めかけたという奥の院におられる、【お船観音】と呼ばれる観音さまが遥拝できるという地点、〖奥の院遥拝所〗を忘れずにうかがいました。
「そこを少し戻るとすぐそこにありますので、どうぞ遥拝なさってください」とのこと。少し戻る┉ありました。高めの濡れ縁に目をやりがちな上、あまり目立たない位置に足形の彫られた石が置かれています。



┉!

こ、これは!
┉これは┉無理だ。



そびえる山の上に、かすかに見える、不敬をお許しいただいて例えるなら、黒い楊枝よりも小さなお姿。
ここからこんなにも遠くて高いんだ┉。





No.460 21/06/01 15:03
旅人さん0 

さて。そんな法性寺さんの山門前に立って。

古い味わいのある木造の、左右に仁王さまがおられる楼門であります。
┉その仁王さまのお召し物の造りが大変細かなところまでこだわったもので、実際にこういう物を着てもらったモデルがいたんだろうかと思うくらいに布の流れる様とかひだとかがすごくすごくリアルで。
髪を縛った紐が、重力と真逆にたなびく様もすばらしくて、いつものようにしばしくぎ付けになる私。
仁王さまは、どこか親しみを感じるお顔立ちであります。
そんな立ち去りがたい思いを振りきって、いざ山門をくぐる┉と、盤若の白い面が見おろすともなく掲げられています。┉どれだけ守られているお寺さんでありましょう。
仁王さまよりも唐突に現れる盤若の、それも通常の物よりもかなり大きな面のほうが怖かったです。ど、どうしてここに盤若の面?
たしかにこちらは【般若山法性寺】さんですが┉。うーん。
まあ、悪い人よけになる、のかなぁ、それにビビってる私は悪い人?

さらに進んで。
門をくぐり抜けたかどうかというところで、この楼門の上に上がる梯子のような階段を見つけるのです。
うーん、とたんにワクワクする私。
のぼっていいとも、ダメとも書かれておらず、そういった時は必ずのぼるのがロールプレイングであります。┉いやいや、お前はRPGをしているのではないであろう!
とか心のなかでアホなことを考えながらその階段をのぼって行くと┉。

┉!
鐘だ!
ここ、門であって、同時に鐘楼なんだ!
なんてうれしいこと!♥

こ、これは夫に教えてあげなければ!
上がってもよい門で、しかもそこに撞いていい鐘がある┉ことは秘密にしておいてあげよう。┉と、思ったら、もうすぐそこに夫がいる。
夫と子どもたちは普通に常識的な人間なので、のぼっていいと確信するまで上がってこないのでありますが、開いているし、な。
大丈夫だと判断したのでありましょう。
┉あ、私とて判断はしてるんですよ、ちゃんと。ダメなものはしないので。確認する人であります。
ご住職さまにお聞きしたり、ね。
今回は、鐘を撞くにあたってお金を納める箱がありますことで大丈夫と確信した次第でありました。


No.459 21/06/01 07:03
旅人さん0 

法性寺さんへの並々ならぬ思いは、私がそこに行ける行けないに関わらず、その深い信仰心から生まれた岩山の上に奇跡のように立つ観音さまにあります。
それこそ、観音霊場巡りをまだ夢みていた頃から。

私の秩父巡りのバイブルである、【秩父三十四カ所めぐり】という本と出逢い、手にしたその時から、まさに、胸をわしづかみされた一葉の写真。
それがこの法性寺さんにあります奥の院におられる観音さまへと会いに行く巡礼者が写された、一葉の写真でありました。
ああ、巡礼とはかくあるものかと。
その写真はガイドブックにあり、転載することはできませんが、私にとってまさに衝撃の一枚でありました。

修行の行者さんや僧侶の、それは厳しい修行を聞くにつけ、ああ私にはムリだ、と思っておりました私にとって、一般の巡礼者がここを訪れるという衝撃!
そこまでするのか┉。


その衝撃は私にとってある縛りともなり、そこへ行ってはじめて巡礼となるような気持ちにすらなっておりました。
でも、これは無理、無理だ。
そこいらの里山のハイキングですら泣き言を言い、避けられるものなら迷わず避けるという、軟弱もの。
子供のころから、本を読んだり、ゴミかとまがうような工作や縫い物編み物をしていたような私は、基本、時代の先取りをしたかのような根っからのインドア派。
これはトレッキングをも上回るんじゃ┉。
登山などはもう考えられもしない私の脳と身体は、この写真を見たことで秩父巡礼を諦めかけたくらいでありました。


それでも、┉秩父巡礼にいきたい。
秩父巡礼にいきたい。
そんな思いに突き動かされ始めた秩父三十四カ所観音霊場巡り。

で。
始めてみて思ったことは、身の丈にあった巡礼しかできないということ。
運転に自信がなくて場所によっては夫に連れて行ってもらわなければ到底なし得ないということに気づき、そもそもクルマで廻っているし。
そもそもがすでにかつての巡礼ではないということ。

私たちなりの巡礼でいいじゃない。
腰が悪くて入院までした夫との二人三脚で、何を背伸びする?
私たちなりの巡礼。
ことばで表すとなんだかカッコすらいいじゃない?


現地に行ってみなければはじまらない!
見てみて、できること、出来そうなことはする!
無理だと思うことは無理にはしない。
昔からの言葉にあります、〖年寄りの冷や水〗
ま。まだまだ若いけど。

No.458 21/06/01 05:04
旅人さん0 

つづいて向かうは三十二番札所の【法性寺】さん。
こちらへの憧れは大きなものでありました。まず第一に旧暦┉とまではいかないのでしょうが、一月遅れの【花まつり】。
そもそもがこちらのお寺さん自ら花の寺〖花浄土〗を名乗るくらいでありまして、その潤沢な花を惜しむことなく使って、近所の子らが花をあつめ、笊に盛って本堂の濡れ縁に飾るのがこちらの花まつりのようなのです。
最近流行っている〖花手水〗の本当に花の部分だけで作られたものをイメージしていただければ伝わるでしょうか。┉とはいえ、私もこの目で実際に見たわけではないのではありますが、それはそれはきれいに彩りよく盛りつけられた笊をいつかは見たいと思うものでありまして。
ましてや今年。
まさに観音霊場巡りの順路をむかえており、どうしよう、どうしようとその当日の朝をむかえるまで行こうか行くまいか悩んだものでした。

┉〖人混みとなるようだったら、待つ、あるいはあきらめる!〗

それがこのコロナ禍において巡礼を続けるためにたてた第一条件です。
明らかに混みそうな日に行ってはならない、と、涙をのみました。

いつか!
┉そう、自分の生まれが涅槃会であることを知って以来、お寺のご住職が自分のお子さんが生まれたその日がやはり涅槃会の二月十五日であったことを大変嘆いた話をお聞きして以来、なんだかそれだけで罪深いような負い目を感じてしまっており、それと真逆の、お釈迦さまのお誕生を祝う法会であります花まつりに行けばなんとか功徳を得られそうな気がして、いつかは花まつりに参列したいと思ってはいるものの┉これまたコロナ禍で参列することが憚られいまだ果たせずにおります願いとなっております。
いつかは必ず!


そんなわけで行く条件はすべて整っているにも関わらず、コロナ禍ということで涙をのみ、一週間ずらしての法性寺さんへの参拝、であります。




No.457 21/05/31 22:24
旅人さん0 

最後に。

こちらの石造りの不動明王さまは、力強く鋭い眼光の感じや、凛々しい体躯が見事に表現されています。
身にまとう衣類のひらひらとひだまでが流れるように表現されていたり、羂索と呼ばれる縄もきちんと綯われているかのようであり。
右手に持つ剣は石造りとは思えないほど!
この御不動さんは本堂の左横の岩壁に安置されています、大きな像であります。
また、不動明王像の背後の光背は迦楼羅炎と呼ばれ、炎の形をしていますが、これがまた、石造とは思えないくらい繊細で。
ようするに、素敵♥

こちらの不動明王さまは、栄螺堂の完成記念を記念して建てられたものの一つであったといわれます。

大きなものなのにかなり均整のとれ、バランスのよいお姿の、まさに見事な御不動さまであります。


No.456 21/05/31 18:25
旅人さん0 

その摩崖仏さまたちの居並ぶ同じ岩壁、斜め左上にある洞に何体かの石仏さまがおられ、その真ん中に、肘置きのついた椅子に弘法大師さまが境内を見わたすように座られた像が祀られています。石造りの弘法大師さまであります。
摩崖仏の一体すらわからなかったやつが、よく肘置きのついた椅子に座られいるとか、そもそも座られているのが弘法大師さまであるとかよくわかったものだと、私自身思ったものです。
まぁ、根拠は僧形であられること。
右手に【金剛杵】(こんごうしょ)をお持ちになられていること、だけ、なんですけど、ね。
石造りの像にありがちな赤いお掛けを、こちらの像もかけられています。┉いいのか?


石造りの御像は経年の劣化とかもあり、また造り手の方によっての違いもあります。
でも、そこにたまらない優しさを感じ、きゅんとかしてしまう私といたしましては、その石造りの像が何を彫られたものであるか、ということはあまり関係なく、どの石仏さまも┉神さまであられたり、大師さまであったりもいたしますが┉ありがたい存在であられるのです。癒しの存在であられるのです。

お地蔵さまでありますとか、お不動さま、青面金剛(しょうめんこんごう)さまでありますとかは、たぶん間違いなくわかるのであります。
じーっと拝見して、うーん、こちらは、とお持ちになられている持ち物などから推理するのも楽しいのです。答はわからないままであります。
そんな私をご覧になられています石仏さまは表情を変えることもなくて。(┉石仏さまの表情が変わったらそれは怖いことですが┉)

ただ、いつも、一対一で向かい合わせに立たせていただき、心のなかであれこれ一人言を言う。そんな時間を持つこと。
私にとってたまらない癒しの時、なのであります。



こちらの、境内に建てられた宝篋印塔(ほうきょういんとうは、江戸時代に栄螺堂式の本堂を再建した記念に建立されたもので、かなり大きなものであります。
立派な梁の刻まれた屋根(?)の下には手すりがついていますし、梵字は赤く描かれ、その下にはきれいな花弁の蓮の花があります。そのさらに下に小さな石仏さまもおられます。

そんなみどころ満載な居心地のよい境内、名残はつきませんが後にします。┉最後に目に入るのは入定された観法法印さまのお墓。
こちらの境内を弘法大師さまとふたりで見守っておられます。


No.455 21/05/31 13:47
旅人さん0 

本堂を被う大きな岩の屋根と連なる岩の、さらに高く見上げるほどの。
境内の一角をまるで緩やかなカーブで、岩山に囲まれていることを忘れさせるかの工夫のひとつのように。
ただあくまでも高く。
その高さは落差三十メートルを超えるという【聖浄の滝】。
ですが、それが滝であることに気づくにはかなりの時間を要します。

まるで、ミストが空からふりそそいでいるかのよう。
ミスト、というにもどうかと思われるくらいに、あくまでもやわらかに、音もなく優しくふりそそいでいるのです。
下に池があり、そこで泳ぐ鯉たちすら、ふりそそぐ滝の水に気づいているのかどうか。
そのくらいの水量の滝であります。

その滝の側まで行ける通路があり、そこには【鷲窟磨崖仏(しゅうくつまがいぶつ)】と呼ばれる埼玉県指定文化財に指定される摩崖仏が、┉ある┉あれ?あるはず┉。
あれぇ?見落とした?
看板がありますので間違いなくここ、ここのはずです。
┉無いんだけど。
水のそばで日の当たるところにありますし、弘法大師が彫ったと言われるものでありますので、┉もしかしたら、┉風化した?
もう一体もみえないのか?

「ねえ、摩崖仏、わかんないんだけど、┉どこ?」
夫にそおっと小声で聞いてみました。
「そこだよ」「そこって、┉どこだかわかんないんだけど」
「よく見ないと見えないかも。よく見るとそこに一面にあるよ」
┉よく見てましたけど?
┉。┉あるじゃん。
よぉくよく見るとたしかにありました。

【爪彫りの磨崖佛(つめぼりのまがいぶつ)】。

弘法大師さまが一夜にして彫ったと伝えられている千躰の磨崖仏であります。高さ約18センチの坐像と立像の仏像が、幾重にも浮き彫りにされています。地中にも数段の磨崖仏が残っていて、奥の院に向かう岩窟にも石仏があったのだそうで、俗に“十万八千仏”といわれている。┉一晩┉。
ま、まぁ、摩崖仏さまはまさに目の前にみっしりと並んでおられましたね。
でも、写真で見たものよりもだいぶ風化していたことも確かでして。
迂闊な者には見えないかな。┉私くらいに。

岩壁の上部には『南無阿弥陀仏』の名号(みょうごう)が同じく岩に刻まれている、のだそうです。
いまでも三百体は確認できるという摩崖仏の一体すら、自力で見つけられなかった私には、もちろん、そのような文字はみつけることはできませんでした、はい。



No.454 21/05/31 06:01
旅人さん0 

こちらの【観音院】さんの御由緒は、〖行基菩薩(ぎょうきぼさつ)〗が、自作の観音像を安置したのが始まりとされます。
しかし、平将門(たいらのまさかど)の乱によってこの観音像の行方がわからなくなってしまうのであります。
これを後に、鎌倉幕府の御家人・畠山重忠が鷲(わし)の巣のなかから見つけたといわれおります。 

畠山重忠がこの地に狩に来たとき、遠くの梢の鷲の巣に家臣に命じて矢を射らせたところ、命中しているにもかかわらず矢がはねかえったのを不思議に思い、巣をおろさせてみたところ、巣の中から所在不明だった観音像があらわれた。奇縁に感じた重忠が堂宇を建立して聖観音を安置したのがこの寺の始まりと伝えられています。


旧本堂は中興開山と言われる十六世観法法印が、出身である上州を始め、江戸から武州・関東一円を巡り寄進者を募って再建されたもので、木造の三階建で高さが四丈六尺(約十四メートル)あり、屋根が上の岩に届きいていたといいます。
高い柱を立てて、その上に宝形造りの堂宇を乗せ、その堂内は回り階段によって堂上に昇り、その道なりにまた回り階段を下るという栄螺堂式のお堂であったのだとか。
唐獅子や、菊の花ぼたんの花の彫刻のある立派な本堂であったといいます。

【栄螺堂】┉ですか。
うねるように張り出した岩が屋根のようになっているここへ。
屋根が上の岩に届くほどの栄螺堂、ですか┉。
それはそれは┉。
このような山奥まで参拝に訪れた者たちの心をどれほど慰め癒し、さらなる信仰心を生んだことでありましょう。


このお堂を始め、東奥の院の大宝篋印塔、滝のそばに立つ不動尊や、あの日本一とうたう仁王尊やその門等々の建立に尽力された観法法印さまは、そのすべてが完成した頃の明治十七年の秋、こちらの境内を見わたせる場所に入定されておられるのでありました。


そのわずか九年後の明治二十六(1893)年にこの栄螺堂であったいう本堂は焼失したのだといいます。(T^T)
焼失がただただ惜しまれるものでございます。




現在のお堂は観音院奉賛会の方々が尽力され、多くの方々の寄進により、昭和四十七(1972)年にコンクリート造りで再建されましたものであります。








No.453 21/05/29 23:03
旅人さん0 

もと来た道を戻ると、真正面に、黄色に赤いチューリップの模様の、白いレースのついたお揃いのお掛けをかけて仲良く七体の石仏さまがお出迎えくださっています。

実はこれは、このように奥の院をお参りしたあと、もと来た道を戻るという稀なパターンでまわった者のみがうけられる特権で。
本来は、先ほどの道なき道なのではと思って避けてしまった道を進み、岩窟の前を通ってここに再び戻ることになるので、通常はこの石仏さまは進んできた道の右横に見えてくることになるのであります。┉こういうラッキーなこともあるとは、珍道中もすてたものではないな♪

というわけで、通常と逆回りで岩窟のあるというところを目指して歩きます。

この岩窟、こちらの観音院さんの縁起に出てこられる畠山重忠という方が、この地に狩に来た際、鹿を追い馬でちょうど東奥の院のあるあたりへとたどり着き、その際、天然の岩屋根となっているこの岩窟で愛馬を休ませたと言われています。
なんでも岩の上に馬のひづめの痕のような形の模様があるのだとか。
でも、全然、気づくことなく、たくさんの石仏さまを見てキャーキャー♥と騒いでいた私。
こちらには洞窟内にもそして外にもかなりの数の石仏さまがおられ、その種類も実にさまざまでありまして。弘法大師さまの座像もありますし、お不動さまも虚空蔵さまもおられます。
こちらにおられます石仏さま、実に優しいお顔立ちでありまして。
石仏好きのおばさんがスキップでもしだしそうなほど、幸せな気分で歩く石仏さまの道にはほととぎすの鳴く音が響き渡っておりました。
ほととぎすの鳴き声、ですか?
ほととぎすは、『テッペンカケタカ♪』と鳴くのだそうですよ。
┉そうは聞こえないんですけれど。笑。

夫のお気に入りの二人仲良くならんで正面の山を見ておられます石仏さまの前を通ると、再び、香塚のそばで。
今一度、奥の院をお参りして、┉御本堂のある境内まで戻るのでありました。


そう、摩崖仏さまや滝、まだまだ観音院さんの境内はみどころ盛りだくさんであります。




No.452 21/05/29 20:17
旅人さん0 

かねてから折りにふれては語らせていただいております、栃木県足利市の大岩山最勝寺毘沙門天堂のことが、昨日ニュースとなっておりました。

今年二月にありました足利市の両崖山で起きた三百世帯を超える避難世帯を出すほどになった山火事で、最勝寺さんは大岩山毘沙門天(同市大岩町)にまつられる県指定文化財の御本尊・毘沙門天像はじめとする約150点の文化財を守ろうと避難させました。

山火事がおさまり寺へ戻そうとした際に、経年劣化の影響もあり、御本尊をはじめ、ほかの仏像四体や絵馬などに損壊が見つかったのです。
その修復費が合わせてなんと7000万円以上になることが正式にわかったようです。


最勝寺さんは745年に開山。
日本三大毘沙門天の一つで関東最古とも言われる毘沙門天像は約260年にわたり、本堂から出た記録がなかったという。
本来であれば専門業者に依頼して数か月の調査を経て慎重に運び出すところをわずか数時間で運び出したため、毘沙門天像の右足がぐらついたり、同じく本尊の善膩師童子(ぜんにしどうじ)像の右手が取れたりしてしまったのでした。

修復には毘沙門天像だけでも1000万円以上かかる見通しだといい、他にも首が取れたままの金剛力士像や、ゆがんだ絵馬など修復が必要な文化財は少なくとも九つはあるそうであります。
最勝寺さんでは寄付を募り、すでに数百万円が集まっているようではありますが、それでも修繕費が賄える額にはほど遠く、明日30日、費用を集める勧進写経会を開くこととなっております。


「歴史的な文化財を救ってほしい」と悲痛な訴えをなさる最勝寺さんのホームページ、○イッター等をご覧いただければさいわいです。


No.451 21/05/29 06:25
旅人さん0 

 
【 清く聞かん 耳に香たいて 子規 】


句の内容から香塚と呼ばれているようです。
そういえば東北立石寺にはせみ塚がありました。┉せみ塚っていうとなんだかちがうものを想像してしまうのではないかと、要らぬ心配をしたのは┉私だけですかね、夫は爪の先ほども思わなかったようでしたし。

あ、ちなみに、子規とありますことにもはぁ?、と一瞬思った私であります。┉正岡子規ではありません、ほととぎすですよね、はい、これはさすがにすぐに脳内ではぁ?がおおっに変換されましたが。┉でも文字にするとやっぱり、ん?、と一瞬思ってしまう私でありました。

愚かなおばさんがおのれの愚かさを恥じ入るには十分すぎる、この句。
まさに清く聞かん!であります。
┉本当に胸に染み入るんです。
ほととぎすの鳴く音が。
というよりはむしろ、まずダイレクトに胸に飛び込んできて、心にスーっと染みこむんです。渇いた心に泣きたくなるほどきよらかなものがスーっと┉。
耳に香をたかずともスーっと。
やっぱりすごい俳人だったんだなあ。
┉全国を行脚した脚もすごいけれど。

清らかでない私だからよけいに染み入ったのでしょうか。


側にはお社が祀られていました。



┉さて。
このあとどっちに行けばいいんだ?
夫の顔を見ると一字一句変わらぬ言葉が私に投げかけられました。
いつもは看板を見れば写真を撮る夫が、今回はハイキングコースの地図を撮らなかった上に、一周とあるくらいだから単純にその通りに歩けばいいものだと思ったから、とのこと。
┉やだなぁ、こんなところで私にのりうつられました?
このさき┉。
なんだか道なき道にしかみえないんですけど┉。
仕方がないのでもと来た道を戻ることにしました。戻れば地図の書かれた看板もありますし、ね。
こんなところで遭難しても、よもやまさかで、誰にも気づかれないでしょう?
完膚なきまでの珍道中であります。







No.450 21/05/28 23:00
旅人さん0 

東奥の院は十五分ほどのハイキングコースとなっているとのこと。
はあぁ、十五分ですかぁ?
仁王門から境内まで、┉十五分はかかっていないですよ?
そう、あの二百九十六段の石段登りで!
ここからさらに上でしょう?
どんな過酷な道が待っているのかなぁ(;´Д⊂)


┉。
┉着きました。たぶん五分とかかっていません。
よかった┉というよりは、も、もうですか?
上りだしてすぐ、です。
ま、まあ、過酷な場所でなくて、よかったです。

こちらにも宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
それにしてもこんなところまで、よくこんな大きな、石でできた塔を!立派なお堂を!

道は確実に狭いですし、なによりもやはり急な坂道です。
やはり信仰心というものはどんな困難もやり遂げてしまうようです。
┉お堂の中におられる御仏が、ですね。これがまた大きくて、金色に光り耀いておられる!
ここで製作されたなどということはないので、あの二百九十六段を登って、さらにここまで登って来られたということで。

┉、はあ。なんと言っていいか、言葉もありません。


奥の院での参拝は、あっという間に。
いつまでも感動に浸っていたいけれど、やはり先に進むことといたしましょう。茂みの急な坂道を下りると、松尾芭蕉の句碑が。
これもまた素晴らしい!
そしてどう考えても重いな。

松尾芭蕉さんがこんなところにまで来ていたことにもびっくりいたしました。
この句碑に書かれた歌がまた素晴らしい。



No.449 21/05/28 18:51
旅人さん0 

御朱印をお受けし、次に向かったのは【東奥の院】。

こちらには東西それぞれに奥の院があるのですが、現在西側は崖崩れや落石などで立ち入りが禁止されており、西奥の院には参拝することができません。
┉現在は、と言うものの、平成にはいって立ち入り禁止とされてからすでにだいぶ経つようでありまして。
山深いところの参拝するための道しかないようなところでのことであり、なかなか修復し再開することは難しいのではないのかな。

境内から目に見えるところにある石仏さまが居並ぶのはみな、西側でありまして。
実は境内に滝があるのですが、その滝の上にも以前は鎖を伝って登って行けたのだそうで。そこにも石仏さま四十九体がおられるのだそうです。

く、鎖を伝って登っていく┉かぁ、今も仮にその道を行けたとして、はたして私に行くことができたかなぁ。うーん。(;`・ω・)
で、でも、今でももし行けるならば行きたいとは思うのでありまして。
滑落等の危険度が高そうと判断するような道でなければ、やっぱりそこを目指すと思うのであります。┉見てみて、ですね。


【西奥の院】に向かう参道には、境内から見えている石仏さまがおられるだけでなくて、【胎内くぐり岩】と呼ばれるところがあるようなのです。
なんでも、山の中腹の道を迂回するとトンネル様の穴があるとかで。梯子をのぼり、その穴を通り抜けることを胎内くぐりと言っているのだそうです。

【胎内くぐり】というのは、山岳や、霊地の行場で、狭い洞窟や割れ目を通り抜ける場所に付けられた名称とのこと。
修験者や行者、ないしはそれに率いられた信者たちが、山岳や霊地を他界または胎内にみたて、その中を巡歴して修行することで、それは、いったん死んで生まれ変わる擬死再生の行、なのだそう。
胎内くぐりによって、一切の罪穢を捨て,肉体と魂を浄化し,新たに生まれ変わるという考え方をこうした具体的な行動で示したもののようであります。
この考えの背景には,洞窟が一方では他界への入口とみなされ,他方では霊魂のこもる活力を復活する場として,神聖視されたことが関連しているのだとか。

┉うーん、一切の罪穢を捨て,肉体と魂を浄化し,新たに生まれ変わる、かぁ。
そうできるならばそうしたいところですが┉。


うーん。

No.448 21/05/28 04:58
旅人さん0 

御朱印の書き手の方は、まず受け取った写経紙を丁寧に丁寧に大きな封筒に入れ戸棚に納めました。その丁寧な所作に感動いたします。
大半のところでは御本堂のお賽銭箱のそばにあるお盆の上に、前の方の上に重ねて置いておくような形であります。
御仏の御前に捧げ置く。
これはこれで緊張いたします。
たまたまこちらはそういった写経置きが見当たらなかったのでこちらでお渡ししたのですが、こんなに丁寧に扱っていただくと本当に嬉しくなります。
もちろん、他の手渡しますお寺さんでも恭しくお受取りくださり、その足で御本堂の御仏の御前に奉納くださったり、と、みなさん丁寧に丁重に扱ってくださいますよ、念のため。
封筒に納めてまで、なのはこちらくらいだったかと。

「こちらは無住なもので」と、書き手の方が申し訳なさそうにおっしゃいました。
いやいや、無住となられている観音霊場はかなりの数あったよう記憶しております。┉たしかにもったいないとは思わずにいられませんけれど、ね。
それでも、無住となられたのち、地元の方々が熱心におそうじくださり、御朱印の対応をしてくださっておられることには感謝しかありませんです。
雨の日も、風の強い日も、雪の日も、みなさんがお寺にお越しくださって、対応してくださっておられるから、今なお、長い観音霊場の巡礼の歴史は続けられているのであります。

まして、こちらはあの急な二百九十六段の石段を登って、です。

私はこちらの方が語られた、雪の日のご苦労を読ませていただいておりましたので、「いやいや、雨の日も風の日も、雪の日ですらこちらに上がって来てくださって、おそうじをされたり、お堂を開けてくださる方がおられるから、こうして巡礼が続けられるのです。写経したものも丁寧に扱っていただき、感謝しかありませんです」と申し上げました。

雪の日は石段の積雪を手作業で除雪されて参拝者をむかえてくださって。ある年の豪雪の折には参拝者の安全を考えて麓に参拝の場を移されたこともあったとか。
雪の中、石段をいったん登って。観音さまを背負われ御朱印の道具を持って、雪の、あの石段を下られたといいます。
終わられればまた、雪の積もった石段を登って観音さまをお戻しして、また石段を下りたということですよね。

感動と感謝しかありません。


No.447 21/05/27 23:09
旅人さん0 

参拝を済ませ、続いて向かうのは納経所。

御本堂のむかって右隣には大師堂がありました。大師さまをお参りしてふと上を見上げると、!。
そこから本堂を覆うようにある巨大な岩の屋根の、壁面の地層がよく見えるではないですか。
本堂を覆うように┉と書きはしましたが、実際にはその岩の大きな大きな窪みに合わせて御本堂を建てているだけで。よくもまあ、こんなふうに!
昔の人がここを訪れて、どれだけ驚き、ここを崇めるようになったかが手に取るようにわかります。
この岩肌は、およそ二千八百万年前の新生代第三紀に海底に小石や砂が積もってできた砂岩であるとのことで、ここの大きな大きな岩窟はちょうどうねった地層がみられるのであります。
その感動の自然がおりなした模様といったら!!
それをみるだけで拝みたくなりますから。
しかも、御本堂がすっぽりと収まるほどの大きな岩窟です。
自然というのは本当に大きな大きな力であります。

その岩窟のわずかな平らな面にも、石仏さまが祀られていることにも感動して、いつになっても納経所にたどり着かない私であります。
夫はといえば、完璧に別行動で、境内のどこにいるのやら。
秩父巡礼を始めてからはだいぶ一緒に歩くようになったのですがね┉。
┐(゚~゚)┌

大師堂の横には慈母観音さまが祀られていました。この方があの、来る途中見かけた大きな看板にあった、たらちね観音さま?
第四番札所の金昌寺さんの子育て観音さまとは全然違いますが、やはり上半身をお出しになり抱いた子供がお乳で戯れているお姿を舟形の石に彫りおこした石像であります。
その隣には菊の御紋の彫られた石塔がたっていました。

ようやく、納経所に。
引き戸が閉じられており、いつも私はこうした戸を開けるのに少し緊張いたします。
がらがらがら。

作務衣をお召しの男の方がこちらを見ることもなく座られています。
ドキドキドキ。
写経したものをぎこちなくお渡しして、あと少しとなった御朱印帳を差し出しました。
納経所のなかはかなり広くて、こちらを管理されておられます奉賛会の方が何人かは集まれそうです。
さまざまな季節の観音院さんの、モノクロの写真が飾られています。

No.446 21/05/27 15:53
旅人さん0 

手水舎のそばには、大きな大きなほうきょういんとうがあり、その向こうには、目を丸くしてため息が漏れるほど高い絶壁の岩がそびえています。
あとで、あとで。
まずはお参り!

まず鐘を撞くために鐘楼へと向かいました。
そう、ここは鐘を撞いてよいお寺さんでありました。┉そして、ここにも例に漏れず、注意事項の貼り紙が。

〖鐘のつき方  ┉心をこめて静かに撞き、合掌します。けして帰り際には撞かないようにします。〗

はい、⚠けして⚠!であります。

そうなのです。
鐘を撞いてよいお寺さんであることに気づかず、お参りを済ませたあとに気づいた場合は、涙を飲んで撞くことをあきらめます。ちなみに、ここ秩父巡礼では第十七番札所の定林寺さんで、有名な梵鐘を通りすぎて参拝を済ませてしまい、後日その鐘を撞くために再拝をしているくらいでして。

なぜなんだろう。と以前調べたことによると、
鐘を突いて良いタイミングは 「必ず参拝前」というのは、かなり有名なことのようで、せっかく結んでいただいた仏さまとの縁を切ることになるとか、なんともおそろしいことをおっしゃる方もおられます。

もし参拝準備・読経後に鐘を突いてしまった時は、その後でもう一度参拝準備・読経を行えば問題ありません┉という裏技の伝授もありました。

寺院を出る際に突く鐘は "出鐘" と言って、これは葬儀で出棺を行う際に鳴らすもの。なのだそうで、現在で言えば葬儀場から火葬場に出発する際に自動車のクラクションを鳴らすのと同じ意味にあたるのだそうです。
また 「出るかね」かねに掛けて、お金を失うことに繋がるとも言われ、いずれもにしろ、縁起の良い物ではないのだとかいうことでありました。

で、この貼り紙で再びスイッチが入りかけ、鐘を撞くことでその雑念を払うことができた、という次第でありました。


そうして、数々の雑念と戦いながら、ようやく観音堂の前にたどり着いた私。香炉にお線香をたむけ、階段を登っていつものように読経をいたします。

札所巡りのガイドブックによると、本当はどうやらこのタイミングで御詠歌も詠唱するらしいんです。┉らしいんですけど、ね。
以前あるお寺さんで御詠歌の会の方々の詠唱を聞いたことがあるのですが、たいそう独特な節回しでして。到底覚えられません。
というか、御詠歌まで詠唱される方にお会いしたことはありません。

No.445 21/05/27 10:11
旅人さん0 

深山路を
かき分け尋ね
行きみれば
鷲の岩谷に ひびく滝つ瀬

これは私が詠んだものなどではもちろんない、観音院さんの御詠歌とよばれる歌であります。全国各地にある(おそらく)すべてのお寺さんにそれぞれにある歌でありますが、これほど共感する御詠歌もなかなかないかと、思う私であります。
私どもなどはここ観音院さんの駐車場まで、車できておりますので、そこからのスタートでありますが、三十番札所から十八キロメートルの道のりを歩いて来られる巡礼の方におかれましては、最低でもその十八キロの距離を、小渓に沿ったのぼりの道を歩いてきて、約三百段の石段を登って来られるのです。
深山路。┉本当に。

石段を登って、登って。標高差のある山道にある石段は、つづら折りになっており、普通に二百九十六段の石段をのぼるのとはだいぶわけが違います。
一歩一歩、一段一段。
登って、登って。
ようやく境内の御堂の一部や、鐘楼の屋根などが見えてまいります。
あともうちょっと。

そうして登っていった石段がふと途切れて、ようやく境内に着いたのだと気づきます。┉まず目に飛び込んでくるのは、そそりたつ山の壁面。
その切り立つような山の壁面にある小さな洞窟にい並ぶ多くの石仏。┉遠いためよくは見えず、おそらく、でしかないのではありますが、いいかえるとそれほどに高いところにあるということで。
その信仰心の深さに、言葉がないほどの衝撃を受けた私でありました。
それはしばらくそこに立ち尽くしたほど、であります。┉決して長い石段を制覇した達成感でもなく、ましてや疲労感などでもなく、ただただ圧倒されて。


┉やや多めの、これでもかというような注意書に少しウケていた気持ちは、そこですこんと、 ┉悪いものが落ちるってこういうことを言うんだなと、あとで思ったくらいに、一瞬で失われました。
本来ならば一歩一歩一段一段登るごとに浄められて来るはずだった二百九十六段の石段を歩いても消えなかった(らしい)私の雑念やら煩悩を、まずはお清めしなくては。┉そうしてようやくお参りができるであろう信仰の場所であります。
まずは手水舎へ。


今はコロナ禍ということで柄杓を撤去されておられる神社仏閣が多いなか、キャンプ用品をマイ柄杓代わりに持つようになった私。
┉これはなかなか便利です。


No.444 21/05/26 05:15
旅人さん0 

ふと。
読み返して、やっぱりおバカな私。般若心経二百七十六字と普回向二十字にあやかって、ですので「般(はん)」「若(にゃ)」「波(は)」「羅(ら)」「密(みつ)」┉ですよね。「は」「ん」「にゃ」┉などとお唱えしながら登って行った日には、ただでさえ多い石段が足らない騒ぎになってしまう!
現地では正しく認識していたんですが、いずれにしても、到底正しくお唱えできる自信はかけらもありません。かなりゆっくり登って行ったとしても絶対足がもつれるか、頭がこんがらがって、尊いお経がなんだかわからないものになってしまうことになるにちがいありません。
かくなるうえは、石段の上に一文字づつ書いておけば┉ 踏んだらどうするんだ!って話ですよね、すみません。

ちなみに。
普回向。実は宗派によって文言が異なるようであります。

天台宗と真言宗で唱える回向文は
「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道」

浄土宗・浄土真宗の回向文は
「願似此功德 平等施一切 同發菩提心 往生安樂國」

浄土真宗では下記の回向文もあって
「世尊我一心 歸命盡十方 無碍光如來 願生安樂國」
と、いずれも二十字。

曹洞宗・臨済宗の回向文は前半は真言宗や天台宗と同じですが、そのあとに略三宝(りゃくさんぽう)を唱えるのだとか。まあ、略三宝というものをお唱えしなければ、二十字でありましょう。

ところが、日蓮宗ではさらに多くの回向文があります。他の宗派に比べてとても長く、回向文だけでも読み上げるのに数分かかることがあるのだとか。そして文中で、亡き人の戒名や法要を執り行う家名を読み上げることもあるそうで┉。

ちなみに、この観音院さん、実は明治二十六年より無住のお寺さんとなっておりまして、兼務されておられるご住職のお寺さんの宗派が曹洞宗ということでありますので、曹洞宗の回向文をお唱えすればよいのかな。

まあ、再拝させていただく機会を得ても、お唱えは多分に難しいと思うのですが、ね。あまり先のことだと、登ることも、難しくなりそうですが┉。





No.443 21/05/25 23:28
旅人さん0 

秩父札所の中でもっとも険しい難所であり修験の地だった、峻崖の地に建つ寺と言われる【観音院】さん。
樹木の生い茂る谷間の二百九十六段の長い石段を登ります。
この石段の数は秩父巡礼者は知らぬ者はないほどに有名なものかと思われます。
それは、まずそれなりにきつい石段であること。
そして何よりこの石段の数は、般若心経二百七十六字と、普回向二十字の合計のも数になるよう奉納された方がおられ、故に二百九十六段、ということなのだそうで。
そして、ですね。
そう、あの例の看板がありまして。 
一段づつお経を唱えながら登っていくとご利益があるというのです。
想像していたよりはいくぶんは楽な、きちんとした石段ではあったものの、見上げた瞬間から、般若心経をお唱えしながら登ることはあきらめました。 
そもそも、一段登るごとに「は」・「ん」・「にゃ」・「は」・「ら」・「み」┉とか、絶対ムリです。頭がこんがらがるし、息が続かないでしょ。
でも┉、やっぱり真面目な巡礼者はお唱えしながら登られるのかしら。
途中には巡礼者や吟行会の句碑が数多くあり、石仏さまも多く見られます。
そうは言っても二百九十六段って、そうたいしたことはないんじゃないかと、数字に弱いおばさんは思っていたのですが、やっぱり私はバカだった。
山門から境内まで、距離にして二百三十二メートル、ですが標高差が五十三メートルあるというのが、そこに負荷をかけてくる。
ひいひい言うほどではなかったものの、思わず「ええぇっまだ着かないの?」と言ったくらいではありました。
ともあれ、わざわざその段数に深い意味まで持たせた、登りやすい石段を寄贈してくださった方に感謝、感謝であります。
ちなみにこの方、江戸の時代の本堂の、再建寄進者の筆頭に名前のある方だそうで、境内の椅子に腰かけられた弘法大師さまの像もこの方の寄進されたものなのだとか。
長野の善光寺にも大きな灯篭を寄進されておられる熱心な仏教の信者さんのようです。

泣き言を言い出す頃に、標高約七百メートルの観音山の中腹、標高約四百六十メートルの地に、三方を巨大な岩壁に囲まれた、というよりは抱かれるかのような観音堂が見えてまいります。
 
 

No.442 21/05/25 15:10
旅人さん0 

なにやら【注文の多い料理店】のように、やたらと注意をしているお寺さんのようで。
まあ、橋を渡りましょう。
仁王門のそばには、渋澤栄一の伯父さんの謹書という石碑が建っています。うーん、さすが秩父観音霊場!そして渋澤家。
こちらの仁王尊さまは、〖一本石造り〗なのだそうです。
仁王門にそう書かれています。
〖一本石造り 日本一の仁王尊 明治元年〗とあります。この仁王門を建てるにあたり、大勢の方の寄進があり、そのなかには渋澤栄一の父も寄進されているようです。そんなご縁から、この仁王門に掲げられた額も渋澤家ゆかりの人物が書いておられるとか。

さらに。仁王門の、┉ちょうど六十センチくらい?のところには
〖よくごらん下さい。日本一の石仁王です〗という貼り紙までがあります。
み、見ました。(((((゜゜;) ┉貼り紙を。
言うまでもなく、夫はこの貼り紙の写真も撮ってきております。
┐(´~`;)┌

その門をくぐる前にもまた、注意書の立看板がありまして。
〖平成十三年八月に近くの観光地で岩盤の削落事故がありました。観音院も落石、削石のおそれがありますので┉(以下略)〗
┉了解しました。御丁寧にありがとうございます。
┉これだけ書かれると、なんだか先ほどまでの緊迫した緊張感はどこかへいってしまいました。
まあ、それだけ、山、でありますことはたしかであります。

いやあ、本当に、夫ではないけれど、他には見落とした注意書はないものかと、ちがった楽しみ方になりつつあって、これは仁王さまに戒めていただかなくては!と見上げた仁王さま、三メートルもある石造りの仁王さまで一番目に飛び込んでくるのは、やたらと大きなおへそ、┉だったり。
仁王さま、ほんとのほんとに戒めてくださいな。┉やさしく、でお願いいたします。


気を取り直して。
門をくぐりました。錫杖があり、立てられるようにと、さらに太い金属製の筒がさしてあり、そこに錫杖がさされています。
こ、これは、持ってもいいやつだ。
おばさんの直感がそう言っています。
まあ、持ちたいと。持ち上げてみるとお、重い!
いやいや、重い方がありがたみがあります。
この錫杖、┉もしかしたらここで気持ちを整えるために置かれているのではなかろうか。
珍道中二人組、巡礼モードに戻れました!


No.441 21/05/25 14:27
旅人さん0 

道路を走っていて(運転しておりますのはいつも通り夫、でありますが、ね)、観音院への案内の標識はこと欠きません。そのうち、〖たらちね観音〗、であるとかの文字があらわれ、それは観音院さんのなかにあるものなのか、違うお寺さんがあるものなのかわからない標識となり、そのうち〖地蔵寺〗さんという標識もあらわれて、この道を進むのでよいのか不安になってしまった私。
ただ、道を進むと、たらちね観音さんというのも、地蔵寺さんというのも、観音院さんとは別のものであることがわかります。
道は細いです。そうは言ってもすれ違いは可能な道路であります。
山へと向かう一本道。
すれ違う車も、後続の車もありません。山奥のお寺だという情報を得ていなければ、たいそう不安を抱いたことでしょう。
って、┉夫はなぜナビを使っていなかった?

奥へ奥へ。 
まだ奥へ?と思った頃に【観音院】さんの山門が見えてきました。

駐車場は思いの外、広かったです。バスを停める区画まであります。さすが秩父観音霊場であります。
その駐車場、岩盤の削落、落石などがあることがあるので注意して┉的な注意が書かれた看板があります。
「だろうね、この感じじゃあ」と夫。
なら、もっと山際から離して停めてよぉぉぉ。一台も停まっていない駐車場、どこにでも停められるでしょう?!
「だいじょぶ、だいじょぶ♪」
その根拠はいったいどこからきてるのぉぉ。

山門前に小さな橋があります。
川岸の道路標識に、なにやらあとづけでまたまた注意書が延々と書かれています。〖観音院をお参りの際に、岩盤の削落、落石等での負傷、乗用車の破損、貴重品の盗難などありましても一切責任を終えませんので、
頭上、足元、乗用車、貴重品の管理には十分ご注意下さい。〗
ど、どんだけ~っ?!
夫に無言でその注意書を示したところ、おもしろい!と言って、わざわざその標識にあとづけされた注意書を写真に撮しておりました。
なので、この文面は、一字一句、┉私に書き間違えさえなければ┉そのままの文章であります。

No.440 21/05/24 17:49
旅人さん0 

この日の秩父観音霊場巡りは三十一番札所から。 
お、あと四つか、と思われた方もおられるでしょう。┉が!
実はここからがロングコース。

三十番札所であります【法雲寺】さんから、じつに十八キロ!〖十八キロメートル〗離れているくらいでありまして。
まあ、私どもは今回自宅からではありますが、今回の【観音院】さんは広い秩父において、ポツンと離れた西の方にありまして。
三十二番札所の【法性寺】さんまでも〖十キロメートル〗離れているというのです。まあ、歩きではないのでさほど大騒ぎするものではない、┉と思いたいんですけれど、ね。┉観音院さん、山奥という表現がふさわしいとか、ガイドブックに書いてありまして、加えて、標高差五十三メートル、急勾配の石段だとか、ガイドブックがやたらとおどしてくるんですよ。
さらにはその上奥の院があるとのことで、車で行っても大変そうな┉。
(;`・ω・)
でも、でもですね、こちらへの参拝、実は私、大変楽しみにしておりまして。

┉石仏さまがたくさんおられるようなんです。
摩崖仏さまもおられるようなのです。

だから、こちらについてあまり下調べをしないようにしておりました。
実際にこの目で見て味わいたいではないですか。



No.439 21/05/24 09:31
旅人さん0 

そうそう、話が前後することになりますが、二の鳥居は瓦屋根を配した木造の両部鳥居(というようです)で、見上げ破風屋根の下に、これまた渋澤栄一翁揮毫の社号の扁額が掲げられています。
この屋根付きの鳥居の彫刻がまた見事なものであります。
細かな彫りがほどこされたこの鳥居、大きくはないですが、一の鳥居をつとめるにも充分でもある大きさであります。

境内社もいくつかありますが、広い境内なので、すべて明るくのびのびとお祀りされており、高い木もさほどない境内は本当に居心地のよい、優しいけれどきりっとした気が漂う場所でありました。

ここから数分のところに渋澤栄一の生誕地があるようですが、あくまでも神社仏閣珍道中のふたりは、そこへは立ち寄ることなく、秩父へと向かうのでありました。
ちなみに、旧渋沢邸は「中の家(なかんち)」と呼ばれるようで、主屋は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28年上棟された建物だということです。
渋澤栄一が多忙な中で帰郷した際に滞在し、寝泊まりした場所になるそうです。
渋澤家の住宅として長きにわたり使われていましたが、昭和60年より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだのだとか。平成12年、同法人解散に伴い深谷市に帰属したとのことで、なんでもこの中の家には渋澤栄一のアンドロイドがいるのだとか。
うーん。アンドロイドは┉こわいかな。








No.438 21/05/24 08:35
旅人さん0 

大正五(1916)年、栄一翁が喜寿を記念して寄進した拝殿の造営からさかのぼること九年前の明治四十九(1907)年に造立された本殿は入母屋造瓦葺妻入りとみられます。
本殿は立派な向拝を備えています。
この本殿の建築様式について詳しく書いておられる方がおられましたので引用させていただきます。


〖入母屋造銅板葺流れ向拝、水引虹梁端部の木鼻は正面獅子、側面貘でともに立体感あふれる仕上がり。
向拝柱上部に端正な斗栱、水引虹梁に鳥を彫り込んだ彫刻、中備えの龍の彫刻はこれも見応えがあります。

海老虹梁と立体感ある手挟。垂木は三軒(みのき)では?。
向拝正面の桟唐戸(閉扉)上段にお諏訪様の梶の葉紋。見上げの社号扁額は栄一翁の揮毫です。
脇障子の彫刻もなかなか見事なものです。〗



うーん、これは┉。
さっぱりわからない。
そもそも読めない字まである。
これを読みながら実際に社殿を見てみれば、なるほど、ここの部分はこう呼ばれるのかと、学びとなるのでありましょうが、悲しいかな、たぶんそのような機会に恵まれても、このおばさんの縮んで固くなった脳ミソは受け入れることは到底無理、でありましょう。
夫に教えを乞いながら、屋根の形態でも学習いたしましょう。


とはいえ、こちらの本殿は、本当に素晴らしいものでありました。
拝殿と同様にシンプルな茶色の建物でありますが、そこに施された彫り物が実に見事でありまして。単色であることもまたその魅力をひきだしています。
本殿の四枚ある扉には、紋なのでしょうか、大きく丸に葉が浮き彫りされています。
本殿の建物の両サイドにある衝立のような板の彫り物は、向かって右側は唐獅子と牡丹、だと、私なりの推察で。
本殿と拝殿との間を通ることに不敬を感じて、左側の彫り物を拝するために、拝殿をぐるっとまわって、本殿の左側にまわったのですが、┉竹?、┉なのかなぁと思われる細い植物を思わせるものでありそうには見えたのですが、┉あとは一輪芍薬のようにも見える花?結局はなんの彫刻であったかはわからないままでありました。
ずいぶんと注視してみたのですけれどね。写真に撮ってアップにしてもみたのですがね。┉まあ、近眼で老眼のおばさんなのでおゆるしください。


No.437 21/05/23 06:10
旅人さん0 

前述いたしました、血洗島諏訪神社さん拝殿の建築様式。私の見解においては日吉造りではなかろうかと述べましたが、やはり不正解でありました。
正しくは入母屋造り、だそうです。
お詫びして訂正いたします。ごめんなさい。
いやぁ、間違いないと思ったんですがね、建築様式とかは奥深いもので┉。
「そんなに難しいものではなくて、屋根の形態のいくつかなんだけど┉」とは夫。
「じゃあ今度覚えようと思うから行く先々で教えてちょうだい」┉いや、もうすでに教えてくれてましたね、申し訳ない。
ちなみに日吉造りというのは入母屋造りが考えられる途上にあると言われているそうで、入母屋造りと似ているそうです。┉覚えられる気がしない。
まあ、神社さんで大切なのは神さまを敬い感謝する心。それすら雑念とお願いごとという私にはなかなか道ははるか遠いもののようで┉。

そして前述いたしましたとおり、こちらの神社さん、拝殿と本殿がそれぞれ独立しておりまして、幣殿と呼ばれる部分はなく、その間をつっきることも可能な、通路、になっております。でもこここそ、神さまのお住まいのなかにあるところで、参道のまんなかは神さまの通路だから歩かないなどという話とはもう次元が違って、すべて神さまのお住まいであります。┉まあ、神社さんの境内すべてが神さまのお住まいでありましょうがね。
とにかく、その空間が畏れ多くて、なかなか近寄れない私。┉なんですけど、ね、こちらの本殿に掲げられているんですよ、渋澤栄一謹書の扁額が。近眼で老眼の私は、遠くからでは見えないんですね、はい。┉恐る恐る近づいて、参拝及び拝見してまいりました次第です、はい。

こちらの本殿がまず先に再建されたようで、本殿は近隣住人と渋澤栄一が折半して建てたということであります。その以前がどうあったかはわからないのでありますが、渋澤栄一の喜寿の祝いまでの間、本殿のみで、本殿に直接お参りする形だったのではないかと、私は推察いたしました。
だからこちらに扁額があって。
拝殿と本殿が独立しているのは、もしかしたら渋澤栄一が、みんなで建てた社殿の前に拝殿を設けることに謙遜してこのような形にしたのかなぁと。だから装飾的一切ないシンプルな形にした?
なにも資料がなく、入母屋造りと日吉造りの違いもわからないおば(か)さんのかってな見解であります、ここは流してお読みください。m(_ _)m


No.436 21/05/21 06:12
旅人さん0 

血洗島諏訪神社さんの拝殿が渋澤栄一が〖喜寿〗の際の寄進によるものとのこと。
なんでもここ諏訪神社さんから歩いて数分のところに渋澤栄一の生家があるようで、幼少時にはこちらの御祭の際の獅子舞を舞ったといいます。

こちらの拝殿は、神社さんにはよく見られる彫刻などはなく、茶色の大きく重厚な木の戸の、どちらかと言えばお寺さんを思わせるような建物であります。注連縄があり、鈴がかけられているので神社さんであるとを思うくらいに、シンプルな拝殿であります。扁額もありません。
屋根は┉。

┉屋根というか┉少し話は遠回りするのですが。
神社さんにおける特有な建築形態があるようで、夫などはもともとそういったものも好きだったので、よく「見事な○○造りだね」とか「△△造りとは珍しい」とかブツブツ言うのですが、私にはさっぱりわからない。最近は「屋根がこうなって△△がこうなっている、○○神社さんの造りだよ」と言って教えてくれるのでありますが┉わからない、というよりは興味がない。なのでまるで覚えない。もったいないことにございます、はい。
ですが、こちらの拝殿の屋根の立派さに心ひかれて、こちらに書くにあたってこそこそと調べたことによると、┉日吉造り?
私が見ている本の画で一番近いのは日吉造りに思えるのですが、┉もともとの基礎知識がない上に、日吉造りの神社さんは大変少ないとも書いてある!┉他の方の書かれたブログも見てはみたのですが、本殿については○○造り、とか書かれているのですが、拝殿についてはなぜか書かれたものがない?
まあ、迂闊なおばさんが見逃していることは充分すぎるほど考えられるので、どこかに答えがあるのかもしれないのですが。
せっかく調べたのであえていったん書いておきます。
正しい答えがわかったらのちほど訂正いたしましょう。

そして、┉本殿に。
こちらの神社さん、拝殿と本殿が独立しているのであります。 
拝殿と本殿の間には畏れ多くも通路があります。
これこそこの通路の真ん中を通ることはダメであろう。
神さまの通り道というか、神さまのお住まいそのものでありましょう。
どこに立てば罰当たりとならないか、┉恐る恐る参拝いたしました。

No.435 21/05/20 10:22
旅人さん0 

この日も運転手は私でスタート。
途中で夫に変わってもらうのですがね。

いつも秩父へと向かうときに、必ず通る道を走って。いつもそこで曲がる事業所の横の道を曲がって、畑の真ん中にある曲がり角を曲がりました。

いつもと違っていたのは┉、気まぐれなおばさんが、ナビに入力した目的地までの道案内を無視して、小さな細い道を曲がったこと。
ナビが示す現在地情報に映し出されるのは諏訪神社さん。
そう、今時の人であります【渋澤栄一】氏が建てたという【血洗島諏訪神社】さんであります。

が。すぐに軽く後悔いたします。

細っ!
狭っ!
これは┉この道は確実に完ぺきに生活道路といわれるものでしょう。
対向車が来たら、ムリ!
ええっ?だ、だって渋澤栄一が地元に戻ると必ず来ていた、獅子舞で有名な神社さんって┉。
うーん、祈ろう。どうか諏訪神社さんまで一台も車がきませんように。


祈りは叶いました。
諏訪神社さんの駐車場まで一台の車ともすれ違うことなく到着いたしました。きっと夫も心のなかで祈っていたにちがいない。とにかくどうにもすれ違えない、そんな道でありました。┉これは私だけではないでしょう、本当に。

たどり着いた諏訪神社さんはきれいに整備された神社さんでありました。
ここまでたどり着くまでの道から、密かに小さな神社さんを想像してしまっていたのですが、境内は広く、拝殿本殿まである立派な神社さんでありました。
扁額の文字は渋澤栄一のもの。渋澤栄一って字も上手だったんだぁ。
大きなご神木がありますが、基本木々や花などはあまりない、シンプルな境内であります。
渋澤栄一が奉納したという拝殿前にある狛犬は金属製で、凛々しいなかにどこか優しさのあるお顔だちで。こういった像にありがちな、人に撫でられ一部が剥げているみたいなこともなく、非常に私好みの狛犬さんでありました。 
そのそばに。その木自体から清浄な気があふれているような、爽やかで優しい雰囲気の木が一本、植えられていたしました。大きなクマンバチがブンブンと羽音をたてていますが、少しも恐くなく、まるでその木が守ってくれている、みたいな気がするくらいです。
その木は橘、でしょうか。
花には詳しくない夫と、花にも詳しくない私。
あとでGoogle先生にたずねてみてはいるのですが┉ほとんど花の終わりの時期となっており┉なんとも┉。たぶん┉。

No.434 21/05/19 16:05
旅人さん0 

こちらにお祀りされていました〖烏枢沙摩明王〗さまの像は、百歳を過ぎて長寿を全うされた方のご遺族が寄進されたもののようでありました。
ありがたい御寄進にたいして、お寺さんで、より一般の方々が気軽にありがたく参拝できる形を考えてのことだとは思います。
でも、でもですよ?
いくら新品であるとはいえ、便器にお金を入れるというのはいかがなものかと┉。運がつく?
まあ、いかようにもものは考えようなのでありましょうが┉。
素直でないおばさんは、ここでお賽銭をおあげすることにためらいを抱いた、というわけでありました。



もともとはもっともっと広かったという廣見寺さん。
戦争中は東京から百人もの疎開の子供さんをあずかられ、戦争末期には仏像から鐘まで供出されたようであります。
なんでも、大正時代に火災で焼失してしまった本堂や鐘楼をようやく再建した矢先、第二次世界大戦が勃発となったようで、わずか何年かでみな、供出の憂き目にあっているようでした。

さらには戦後、┉全国の大きな寺院がみなそうだったようですが、農地解放という改革で、土地を国に納めることとなったようです。
廣見寺は、その際7町8反を解放したという事ですが、┉私にはその広さがまるでわからないのですが、ね。


今でも広い。

その広い境内には楼門のなかにおられます二体を含めた、十三仏の仏さまがお祀りされていて。┉文殊・普賢菩薩さま以外はみな、石像でありました。

〖妙見山=武甲山の遙拝所〗があり、妙見さまゆかりの亀の石像がそこにあったり。

庫裏の裏手には広い〖遍照苑〗と称される、四国八十八カ所巡礼道が設けられているようです。これはなんでも、かつてこちらの観音講で四国八十八ヶ所巡拝が行なわれ、その満願の記念事業として作られたようです。
遍照苑のなかは、発心門(徳島県)、修行門(高知県)、菩提門(愛知県)、涅槃門(香川県)の四つに分けられ、巡礼道(約800メートル)で結んでいるのだそうで、八十八体の観音さまの石仏があるようです。

ちなみに、遍照苑をまわると受けられるという御朱印があるようです。

夫は行きたかったのかどうなのか。
この日、けっこう距離を歩き、寺院をまわっておりまして┉。このあと帰ってごはんをつくる余力を残したかった私。

遍照苑、また、今度かな。┉ごめんねわがままな妻で。(´。・д人)゙

No.433 21/05/19 14:48
旅人さん0 

御本堂の前には二体の石仏がまるで御本堂を護られておられるかのようにお座りになられておられます。
なんでも、境内の至るところに十三仏がお祀りされているのだといいます。先ほどの文殊・普賢両菩薩さまも、その十三仏の二体のうちなのだということであります。

御灯明とお線香をあげました。┉この日は風が強くて、なかなか御灯明の炎が続きません。
風の強い日はむしろその方が火災等につながる可能性がなくてよいかといつも思うようにしております。
こちらの廣見寺さんはかつて火災で全焼されたり、あの黒い門以外を火事で失われた過去をお持ちなだけに、そばには延焼しやすいものが一切ないくらいに、灯明及び香炉は離れて置かれていました。
御本堂の前に立ち、読経して┉。
振り返ってみると、やはり広い。
そして、みな、新しいお寺さんであります。

御本堂むかって左側にまわりますと、なにやら御堂が見えてきます。
西国・坂東観音堂でありました。
戸を開けると。!
左に西国三十三観音霊場の観音さまがそれぞれ、六段の雛壇に、右側には坂東三十三観音さまが同様にお祀りされていました。
一体一体に奉納された方のお住まいとお名前が記されております。
そして、その中央には、これまた、御本堂の御本尊さまではないかと思うくらい大きく、細部まで細かな細工の施された千手観音さまが鎮座なされておられます。
そのきらびやかなことといったら。
手振るることはありませんが、そうしようと思えば触れるほどの近さで、何の被いもなくお座りになられておられるのであります。
はあぁぁぁ。
鍵など掛かっておらず、誰でも自由に参拝することができるのであります。
さすが、開かれたお寺をめざしておられるだけのことはあります。

そして。
御本堂の左よこには、戸口が設けられていて、中に烏枢沙摩明王さまがお祀りされておられます。しかも!
三段の雛壇、一番上中央に勢いある動きの色彩鮮やかな烏枢沙摩明王さまの像が祀られ、三段目には!
むかぁしむかしの、かなり昔の┉あ、古いわけではなくて、使われていた時期がかなり昔の、という意味の和式便器がお祀りされていて。
それも男性用、女性用と左右に設置され、そこが賽銭箱となっている!┉のであります。
はあぁ。
下の世話にならないようにということでありましょう。┉うーん。
まあ、下の世話になりたくはないですが、ね。はい┉。

No.432 21/05/18 19:07
旅人さん0 

黒い門からその大きな楼門まで、石板が敷き詰められて、立派な参道となっています。その参道脇には季節の花が咲いています。
おそるおそる立派な参道を歩いていくと、立派な、曼陀羅の彫られた石板が埋め込まれています。
そしてそのそばには延命観音遙拝所と書かれたものが立てられていました。
ガラス越しのため光の加減でよくは見えない御仏は、延命観音さまであられるようです。私ども二人しか参拝者がいないのをいいことに、なんとか観音さまを拝することはできないものかと、私が背伸びをしたりと悪あがきしたのは言うまでもありません。
なんとか観音さまの人影ならぬ御仏影が見えたので、それでよしとして、楼門へと向かいます。
曼陀羅の石板から先は白い玉石が敷き詰められて、ところどころに大きな岩があります。枯山水、というほどではないのですが、これがまた、その楼門を引き立てています。

楼門を護られておられる仁王さま。この楼門も仁王さまも新しいもののようで、仁王さまは引き締まった、まるでボディービルダーのようなリアルなお身体とお顔であります。

その仁王さまの裏手にはびっくりするほど立派な御仏がお祀りされておりました。文殊・普賢二尊であります。御本堂の内陣におられて当然であろうというほどきらびやかな、大きな御仏の御像であります。
後に知ることに、やはり、もともとは御本堂の須弥壇上、御本尊の両側に安置されておられたようです。何故?
た、たしかに、御本堂にはなかなか入ることは叶わぬこと。
ですので、こういった形で御仏にお会いできることはまことにありがたいことではあります。ありますが┉。何故?
延命観音さま同様の透明なガラス?越しとはなっているのではありますが、両脇侍であられる文殊・普賢二尊さまを?


なんでも三門が完成した際、多くの方々に親しくご尊顔を拝してお参りしていただこうと、本堂から遷座させたもの、なのだそう。
この両尊、寛政2年に納められたものだそうで、おそらくはその時からずっと御本尊の両脇侍であられたでしょうに。┉。

御住職が変わられ、訪れやすい寺をめざし、それがまた人々の信仰のきっかけとなれば┉という考えのもと、就任以来改革を続けておられるようです。仏教も長い歴史のなか変遷をし、新たな教えとして宗派が生まれてきた宗教でありますし、かようなこともあるのでありましょう。┉。





No.431 21/05/18 09:43
旅人さん0 

秩父で偶然たどり着いた妙見菩薩さまの御堂。
御堂のそばに妙見菩薩さまについて記された案内板がありました。

そこには、
〖【妙見菩薩】  北辰妙見菩薩、妙見尊星王ともいわれる。北斗七星の主星である北極星を諸星の最勝として神格化したもので、災厄除去、国土擁護の菩薩とされています。
秩父神社の神札にみられる妙見神は女神。
不動の天帝(北極星)を補佐する亀の背中に乗って出現されます。北斗七星の第七星を「破軍星」とする、武神信仰の象徴たる剣を持っています。〗
と書かれていました。
┉国語の語学力すら危うい私は書くことはもちろん、読解力もいまいちで、剣を持っておられることと亀の背にお乗りになられておられることのみ、理解できたに過ぎないのでありました。
┉妙見さま、ごめんなさい。

お参りさせていただき、御堂の左側にある石の太鼓橋を渡りました。太鼓橋を渡るとすぐに、僧形の石の座像があり、その横には〖馬頭尊〗や〖地蔵菩薩〗と彫られた石碑が建てられていました。
そのさらに先には石のお地蔵さまの立像があり、その横には〖満願観音〗と銘された同じく石の半跏像がお祀りされていました。
薄暗い、あまり使われなさそうな古びた車置き場の裏にあるのでありますが、なんとも優しい、穏やかな気分になれる空間であります。
そこでしばし心癒されておりますと、その場所に隣接する畑と一般のお家の先に、なにやら黒い門が見えます。
┉ん?

あっ、そ、そうだ、そうだった!
私、【廣見寺】さんに来たんだった!

廣見寺さんのことをすっかり忘れていたことを、夫に気づかれないように、足早にその黒い門に向かいます。

黒い門。重厚であります。その黒い門に合うよう濃茶に塗られた透かしの塀がお寺の全容を隠しています。
その門をぬけると。
うわぁ!
立派な門がそびえ立っています。
そして、その門までの距離がけっこうあって、そこには花が。
こ、これは大きなお寺さんでありましょう。
その大きな門は楼門、まさに豪華な建物のような門で、二階建て、のようではありますが、大きな仁王像がおられる一階部分、その上にはガラス越しでよくは見えないのですが、御仏がおられるよう。
その門を覆う屋根がまた大きく立派なため、まるで三階から四階建てくらいにみえる門であります。

No.430 21/05/15 06:00
旅人さん0 

【秩父神社さんのホームページ】には、
〖【秩父神社】のご創建は、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされていて、中世以降。関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる【妙見信仰】と習合し、長く【秩父妙見宮】として隆盛を極めた 〗 とあります。
つまり明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復すまで、秩父妙見宮であったくらいだったということで。


〖「秩父夜祭」の名で知られる秩父神社の例祭は、ご祭神である妙見様にちなんだ祭礼であり、かつては旧暦11月3日に行われていたものが、明治の改暦によって12月3日となり、現在に至っています〗、と書かれています。
ここでようやく、このおば(か)さん、秩父夜祭りが妙見さまのお祭りであったことを知るんです。

さらに続けて、

〖【妙見信仰】とは、古代バビロニアにはじまり、インドと中国を経て、仏教と共に我が国に伝来したものが、平安時代に献灯をもってする北辰祭として都に流行し、時を経て上野(今の群馬県)の国衙に近い【花園妙見寺】から秩父平氏が招来したもので、北辰(北極星)・北斗(七星)を神座とする星辰の信仰として伝えられました。〗
と書かれています。

【上野(こうづけ)の花園妙見寺】!
そう、かつて偶然たどり着いた群馬県高崎市にあります妙見寺さんから、秩父の妙見さまは召致されておられたのです!


その妙見さまが、秩父神社さんではない、お寺さんで、妙見菩薩さまとしてお祀りされておられたのです。そしてまた、私どもは、妙見菩薩さまのもとへ偶然たどり着いたのでありました。



┉えっ?
さして壮大ってほどではない?
いやいや、このおばさんにとって、妙見菩薩さまと群馬県の妙見寺さんと。秩父夜祭りからの秩父神社さんと妙見さま=天之御中神さま。そしてこの妙見大菩薩堂さんとを、ひとつにまとめるなど、これほど壮大なことはないのです。本当に。
壮大ではないけれど、分かりづらかったことだけはたしかですかね。
まあ、それもいつものことでありましたね。(;ω;)



No.429 21/05/15 05:26
旅人さん0 

【秩父夜祭り】の興奮冷めやらぬ帰りの車中で、夫がなにやら熱く語っているのは気づいたのですが、なにしろ長年の夢であった秩父夜祭りは、想像をはるかに超え素晴らしかったので、夫が何を言っているのかさっぱり耳に入らない。
秩父の方々にとっても、この年まさにわずか二日前に、ユネスコ無形文化遺産に登録されたばかりとあって、いつも以上にお祭りを盛り上げていた┉のかは最初にしてまだ一度しか行っていないので、そこはわからないのでありますが┉。
とにかく素晴らしかった!

それでも単語でポツンと入ってきたのが『妙見さま』でありました。


ただ┉。
あまりに壮大であまりに素晴らしかった秩父夜祭りの余韻にいつまでも浸っていたこのおば(か)さんは、秩父神社さんの神事であるというところに到達するまでにたいそう時間がかかり、なかなか秩父神社さんの神事としての秩父夜祭りを調べようとしなかったのであります。

重い腰をあげ、ようやく開いた秩父神社さんのホームページには、

【八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)】さま、
【知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)】さま、
【天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)】さま、
【秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)】さま

の四柱の神さまが主祭神であると、筆頭に書かれておりました。

ただ┉このおばさん、天之御中主神さまが妙見さまであろうとはまだこの時気づかない!
なぜならば。
このばちあたりなとんちんかんおばさん、ありがたいこの神さま方の長い御名前にたいそう苦手意識がございまして┉まあ、有り体に言えばおバカゆえに覚えられない。
だから、失礼がありそうで神さまのおられる神社さんになかなか参拝できないほどであります。

ちなみに秩父神社さんの名誉のために書きますが、普通の人は一度読めば理解できるようにわかりやすく書いてあるんです。
ただ┉。
このとき、このおばさんは、御祭神をさらに詳しく調べようと八意思兼命さまのページへと飛んでしまい、┉おつむの空きスペースにあわせた量だけ入れることとしているおばさんは、そこでいっぱいとなった容量で、いったん調べを終了したのであります。
再開までの期間の長いこと、長いこと。┐(´д`)┌






No.428 21/05/14 21:33
旅人さん0 

少し話を変えますが。


秩父観音霊場巡りをするずっとずっと前から、それこそ二十代にはいって間もない頃から、仕事の同僚から薦められた【秩父夜祭り】に憧れ続けておりました。
でも、秩父夜祭りはあくまでも【秩父神社】の神事であるため、十二月二日が宵祭り、三日が本祭と決まっています。
なんだかんだ二時間はかかる道のりで、しかもお祭りということで混雑もありましょうし、何よりも夜祭りなので夜、なんですよね。
平日では行けないし、子供たちが小さな時分にはそれこそ泊まりを考えなければいけなかったし。
本祭が土曜日となる巡り合わせはなかなかないもので。
ようやくそのチャンスが訪れたとき、三男が誘ってくれたのです。
それはそれはしつこいくらいに、十二月になろうかというと騒ぐ母の憧れの秩父夜祭りに♥
さっすがだぁぁ♥♥♥


そ、それはさておいて。
秩父夜祭りは先述の通り、秩父神社さんの大祭であります。
当時は【神事】としてのお祭りとしてではなく、純粋に┉というとむしろおかしなことなのですが、まあ、いわゆる表面的な、意味など考えていないお祭りとして楽しみにしておりましたし、楽しませていただいたものです。
ですが、ね。
秩父の方々にとってはあくまでも秩父神社さんの大祭、秩父夜祭り、なんですよ。それこそ子供の頃からずうっと身近に、秩父神社さんとともに育ってきているわけで、秩父神社さんの神事でしかないんです。
だからこそ、ユネスコ文化遺産に登録されるに至ったお祭りなんですよ。
単純にお祭りを楽しみにきた外部の者ものみ込むように秩父全体が秩父神社さんを中心にお祭りをしているので┉当然これは位置関係としての中心ではなく。気づくんですよ、自然と。秩父神社さんの神事であると。

それでも、秩父神社さん自体がすごい人出でありますので、やっぱりぼおーっとしている私などはお祀りされておられる神さまがどなたなのかとか、わからないままだったんですけれど、ね。夫は気づくんですよ。
秩父神社さんの女神さまが武甲山の男神さまと年に一度お会いになるお祭りだということに。
そしてその女神さまこそが妙見さまだと。



No.427 21/05/14 11:49
旅人さん0 

【妙見菩薩】さまとの出会いは、群馬県高崎市の【妙見寺】さんに偶然たどり着いたことが始めでありました。

夫は妙見さまを存じていたようで、しきりと感嘆しております。
「妙見さまをお祀りしているところがあるのは知っていたんだけど┉。
この辺ってよく来てたとこなんだけどなぁ」

ほう。
すかさず私は「妙見さまって?」

境内で聞くのも大変失礼なことかとは思ったのですが、存じ上げもせずおざなりな参拝はしたくなかったので、夫に問うたところ、驚きの発言、だったように記憶しているのですが、「うーん、俺もよくはわからないんだよな」と、かすかな記憶のなか、彼はそう言ったような┉。
そうは言っても、なんだかんだつらつらと語ることに、
「妙見さまって、もとは北斗星・北極星の信仰みたいなんだ。
神さまとしてお祀りされていたり、仏教は妙見大菩薩さまとしてお祀りされていたりなんだよね。武士が守護神としていたり、護り佛としていたりしていたことでも有名な神さま?仏さま?ではあるんだけどね」

ほう。
その日はなにやらお祭りが近いようで忙しそうでありました。ご住職もご不在のようで、詳しいお話をお聞きすることはできず、お参りだけして妙見寺さんをあとにし。その後再拝することなくいまに至っております。


その後息子に連れて行ってもらった長野のお寺さんが偶然にも【妙見寺】さんでありました。やはり妙見さまをお祀りしているお寺さん。
長野は妙見さまをお祀りしているお寺さんが群馬県よりも多かったように記憶しています。


そして。
実は秩父のこの妙見大菩薩さま、前述いたしました群馬県高崎市の秩父寺さんと深い関係があるようなのです。

No.426 21/05/13 20:26
旅人さん0 

さて。
いつも混乱をきわめます私の文章。
今回はあまりに壮大過ぎる内容となるため、自分でも不安なくらいであります。

まずは┉とりあえず、遡るのは昨年十月といたしましょう。
十月。
第十八番札所神門寺さんから始めたこの日の巡礼は、珍道中をしなければいられない┉わけではないのです。
わけではないはずなのですが、なぜか珍道中としてしまう私が、この日はパワー全開で、ナビの画面が拾うところへと寄りたがった日でありました。
神門寺さんのそばにありました、太田呑龍上人宮地分身の御堂に始まり、帰り道には、やはりナビに映った【廣見寺】さんへと寄っていきたいと駄々をこね┉たりまではしなかったけれど、寄ってもらった日でありました。

秩父三十四カ所観音霊場のお寺さんは、この廣見寺さんの末寺であります。ちなみに
札所第一番妙音寺(現 四萬部寺)さん、
第十番大慈寺さん、
第十三番慈眼寺さん、
第十五番蔵福寺(現 少林寺)さん、
第十九番龍石寺さん、
第二十五番久昌寺さん
であります。
秩父観音霊場をまわるたび、おりにふれ出てくる廣見寺さんの名前。
これは是非お参りしなければいけないだろうと、もっともらしくうったえたのでありました。

が。
こちらへと入る道が妙に入りくんでいて、むずかしいのです。
「うーん、ここら辺を目標にしてみるか」
自動車会社さんの土地と入り組んでいるため、違う方向からアタックすることにしたようです。

え、えっとぉ。停めるとこは┉。ここ、停めてもいいのかなぁ。
大きなお寺さんのようなのですが、なんだか車を停めるところがわからないのです。
ですが、すぐそこに御堂は見えています。
ここでいいんだよなぁ。

古い、しっかりとした御堂です。
御堂の前を過ぎると橋がかかっています。

御堂の前に立って。御堂の扁額を見てどきっ。
びっくり┉というより、まさにどきっといたしました。

【妙見大菩薩】とあるではないですか。

No.425 21/05/12 03:53
旅人さん0 

ツツジはすでに終わり。
奥の院があるでなく。
秩父の街並みを見下ろすなら、車で登れる展望台がある。
┉こうまで悪し様に書いてはもともこもありません。
この山道は、プチ修行と、ちょっとした登山気分の味わえるトレッキングをすることで運動嫌いな私に適度な運動をさせてくれたもの、でありました。

帰宅後、瑞岩寺さんをGoogleさんに尋ねたところ、岩ツツジの満開の頃には、駐車場から見上げると山が薄紅色に染まるようです。
そう、あの修行のお山全体が。
しかも、ちょうどあの「岩ツツジが見事だったわよ」と、話しかけてきたご婦人と会話した辺りに、赤い瑞岩と青のそれがまるで狛犬のように参道を挟んで対となってたっていたのだそうです。
キーっ、どこをどう見ても、少なくとも見事だってツツジは咲いてなかったですけど。
┉ぶっぶー!
せっかく修行の道を登ったというのに、これでは台無しです。

いつまでたっても修行ができていない自分と向き合うための瑞岩寺さん参拝、だったのかなぁ。



Google先生にお聞きして┉。

融興山瑞岩寺は、享禄元年(一五二八年)端山守的を勧請、開山として創立した曹洞宗の寺である。
歴史的には、鉢形城主上杉越後守顯実の家老長尾四郎左衛門昭国が開基となっている。以来、長く栄えていたが、昭和三十三年の火災によって全堂宇灰燼に帰し、現在の本堂は、昭和三十八年に竣工されたものである。
本尊は、十一面観音で、除病、滅罪、求福の菩薩像である。なお、境内仏として岩山の中腹に不動堂があり、毎年四月には、縁日が催され、多くの信者で賑わう。
昭和五十五年三月一日、秩父十三仏霊場巡りが開創され、ここ瑞岩寺は、観音菩薩の寺となっている。
本堂裏の岩山に自生する松林は、樹齢二百五十年を数え、その樹下や岩肌のあちこちに群生するムラサキヤシオツツジ、ヒカゲツツジ、トウゴクミツバツツツジは、桜の終わる四月中旬ごと岩山一面に美しい花を咲かせ、名所となっている。
かつては山すそには長尾四郎左衛門昭国の墓があったが、享保三(一七一八)年の山崩れで土砂に埋もれてしまったと伝えられている。

┉だそうであります。

No.424 21/05/11 20:21
旅人さん0 

「ほんとは、さ。ネットで岩ツツジが見事だって知ってたんだ。
岩ツツジが終わっちゃってるとは思わなかったなぁ。
今年は暖かいを通り越して暑かったからな。」
と、残念そうな夫。
ふーん。そうなんだ。
ま、登って行けば少しは咲いているってことだし、行ってみればいいじゃない?
と、軽いのりで登りだしたものの┉。


┉。
な、なんだぁ?この道は。修行の道?
ハイキング? ┉いやいや山道でしょう?
まるで植え木鉢の支柱のような柵、としか言いようがない細い柵を手すりがわりにしてようやく登っていきます。
木々の生い茂る道は昼間だというのにほの暗い。
でも不思議と、この道を歩いていて、野性動物との遭遇は少しも頭に浮かびません。足場が変化に富んでいるため、ただただ、『右足を出したあとは左足』といったように、歩くことしか頭にないのです。
こんな苦労をしてたどり着くのは、さぞ桃源郷のような場所でありましょう。
うんしょ、うんしょ。

お、なにやら明るくなってきました。
と、いうことはそろそろ山頂?
おおっ!
なんて眺めのよい!

秩父の街並みを一望できます。

よいしょ、よいしょ。

え、えっ?えっとぉ┉。
山頂、です。山頂。

山頂ですら足場もあまりよくない急な斜面です。

┉岩ツツジは?
少しは咲いている、という赤い花は?
祠もなにもありません。


ネットで知ったという夫は、ここがこんなやたら悪路であることを知っていた、ということ?



No.423 21/05/11 06:38
旅人さん0 

秩父十三仏霊場めぐりをしようとしたわけでもない夫は、かといってツツジの名所であったことも知らなかったようで。
うーん。

御朱印帳を受け取りながら、ツツジについてうかがうと
「今年はもうほとんど終わりなんですよ。咲き始めが例年よりもかなり早かったので┉。赤が少し残っているかな。くれぐれもお気をつけておのぼりくださいね」

くれぐれも?気をつけて??

どうやらツツジは境内ではないようです。たしかにそう言われて見ると、先ほどご住職をのせた車が向かった先に、下へ下りる道と、上に向かった道があり、さほど遠くないところに御堂が見えます。
? 気をつけるほど急な道ではないように見えます。
やはり急な坂道でもない参道をのぼると、あったのは不動堂。
ただ、不動堂のすぐ脇は切り立った崖。剥き出しの岩山がネットで被われています。
こ、これは┉気をつけようもないんじゃないかなぁ。しかもツツジのツの字もありません。木自体がないのです。岩山の途中になにやら小さな祠?石碑?がいくつか連なっているかに見える場所がありますが、そこへ向かう道はありません。
昔はそこへ向かう道もあったのでしょうが、今は全く道などない急な岩山の壁面にかろうじて建つようなものであります。
そもそもが岩ばかりで木などはないので、ここがツツジの名所ということはないはずです。
不動堂はかわいらしい狛犬さんに護られていました。


「ねえ?ツツジってどこなんかねぇ?」と夫に聞きますと、
「ここを登っていくってことなんじゃないの?」
ここ? ┉ここぉ?
そこにはちょっとハードなハイキング道が。

えっ?
これは、お寺さんの土地なんだよねぇ?
あの、けものみちとまで言わせていただいた、第二十六番札所の円融寺さんの岩井堂への参道とはまた違った、細くて急なハイキング道にしかみえません。
ここを行くと奥の院とかがあったりするのかなぁ。

よし。行こう!
カレーを食べ、焼き鳥を食べた私はエネルギー満タンです。
おにぎり三個の夫は「えっ?行くの?」
行くぞぉ。

No.422 21/05/10 17:15
旅人さん0 

コンビニのカレーでお腹を満たして、次に向かったのは【瑞岩寺】さん。
瑞岩寺さんは常々夫が詣でたいと申しておりましたお寺さんであります。
こちらは【秩父十三仏霊場】の第八番霊場となっているようです。
十三仏まいりもしたいというのだろうか┉。
そこを聞いたりしないのが、この夫婦。
あの松島の【瑞巌寺】とは一文字異なるようであります。


鎌倉で十三仏まいりという霊場めぐりがあることを知り、鎌倉三十三観音霊場めぐりと並行して札所をまわっておりました私ども。
このコロナ禍で中断したままになっております。

十三仏とは、初七日から三十三回忌まで十三回の追善供養仏事に配当した仏・菩薩の事であります。
十三仏それぞれが奉られたお寺さんを参拝することで、先祖のさらなる追善供養となり、さらには家門の繁栄や福徳円満をお守りくださるというもの。「十三仏まいり」、「とみまいり」ということもあるようです。

秩父十三仏霊場は武甲山・三峰連峰・両神山などの秩父連山に囲まれ、荒川・赤平川・浦山川等の清流をのぞむ自然の風光に恵まれた秩父路に点在する霊場のようで、一巡が約百八kmの巡礼となるようです。


駐車場には車が一台。
秩父十三仏霊場めぐりをなさる方も多いのでしょうか。
ちょうど参拝を終えられたようで、石段のところですれ違いました。
「岩ツツジが見事だったわよ」
┉?。岩ツツジ?
こちらは岩ツツジが多いお寺さんなのでしょうか。
石段をのぼって。
┉岩ツツジ? 
ツツジが咲いてはおりますが、どちらかというとそろそろ終わり、かと。
ま、まあ、お花を見にまいったわけではありませんので、観音霊場同様にお線香をあげ、読経をいたしました。
御朱印をお受けしようと庫裏に向かいます。ソーシャルディスタンスをと考え、朱印帳をお渡しし外で待たせていただいておりましたところ、境内に一台車が乗りつけました。ご住職をお迎えになったようです。
御朱印をお書きくださったのは奥さまでありました。

こちらの御由緒の書かれたパンフレットとかはないようで、十三仏霊場めぐり専用の御朱印帳に少し書かれているだけだとおっしゃられました。 
ほ、ほう。やはり専用の御朱印帳があるようです。
おーい、夫よ、秩父十三仏霊場めぐりもするのですかぁ?
夫に専用の御朱印帳があることを伝えたところ、┉どうやらそういうわけでもないようです。

No.421 21/05/09 06:22
旅人さん0 

猪狩神社さんをあとにして、休業しているお蕎麦屋さんをうらめしそうな横目で見て。いま来た道を戻って┉向かったのはコンビニ。

わらじカツ丼で有名なお店は、コロナ禍であることを忘れさせてくれそうなくらいに行列ができていていました。
やはり有名な豚みそ丼のお店もやはり外で待っている方が何名もおられます。
┉秩父コロッケも、みそポテトも、ちちぶ餅すらも、一度として食べたことがないのです。
たしかに、コロナ禍、ですからね、密を避け、会食ではないにしても混雑したお店での飲食を避ければ当然、名物といわれる食べ物にはありつけません。( ω-、)
加えて、特に夫は行列に並ぶのが大嫌いなタチ。

┉もうね、場所まで覚えちゃったくらい、各名物店の前を通っているんですよ。
そして、テレビでも何度も取材され放送されているから、どんなものかすらわかっている。

わらじカツ丼は、わらじを想像させるような色、形というずっしりとくるボリュームの、揚げたてサクサクジューシーなカツが秘伝のタレで味付けされているという、書くだけで今すぐカツが食べたくなるくらいのもので。
豚みそ丼なんて、外まで臭いがただよってくる反則技で。炭火で焼いた豚の味噌漬け!炭火焼き、ですよ炭火焼き。お味噌の香ばしい匂いと炭火で焼いた焦げ目のあるお肉!
しかも、わらじカツ丼にしても豚みそ丼にしても、丼からはみ出すほどのボリュームらしいです。

ああ、わらじカツ丼。豚みそ丼。

みそポテトとちちぶ餅なんて道の駅に売ってるんですよ、ええ、道の駅に。


ああバカだ、バカだ!
よりにもよって食事前にこんなレスを書き出すなんて(*T^T)。
せめて豚の味噌漬けを仕込んで、今夜は豚みそ焼きにすることとしましょう。

コンビニで買ったのは、カレーと焼き鳥とサラダでありました。夫はおにぎり三個。┉そうなんです。夫は行列に並ぶのが大嫌いなだけでなく、食が細いんです。好き嫌いも多いのです。( ノД`)┉ 
コロナ禍でない世のなかとなったとしても、私がこれらのお店で食する可能性は限りなく低いのでありました。


で、というわけでここで私はいったんスレを閉じて、豚肉の味噌漬けを仕込みたいと思います。┐(´~`;)┌やれやれ。

No.420 21/05/08 06:06
旅人さん0 

【猪狩神社】さんは、集落のうち十一軒の方々に守られ信仰される神社さん。

そう書いてしまうと、小さな社殿を思い浮かべられる方も多いかと思われますが、規模こそ大きくはありませんが、拝殿、本殿があり、幣殿もある立派なお社で、たいそう見事な彫刻もあります。
社務所もありますし、末社、摂社もある由緒ある神社さんであります。
境内から下の駐車場にいたるまできれいに除草されて、手入れの行き届いた、本当に大切にされている神社さんであります。

向拜には龍の彫り物があり、本殿のむかって左側の外に中国の故事に倣ったという大きな彫刻が奉られています。
本殿横に奉られている彫刻は【韓信股くぐり】という題材のもののようで、夫は感嘆しておりました。

┉私はといえば、おそらく初めて耳にした言葉であります。
おそらくは、なんですけどね。
韓信さんがなに人かもわからないし、何をもって股くぐりなどしているのか、それがどうして故事となり美談となって神社さんに奉られているのか、さっぱり理解できないありさまでございました。
もしかしたら漢文とか国語とか、あるいは世界史なり、道徳とかで習っているのかもしれないのですが、ね。
心に響かなかったのか、右から入って左に抜けたのか、耳にすら入らなかったのか、もし習っていたのだとしたら、┉先生ごめんなさい、さっぱりきれいに記憶から脱落しております。
先生の指の隙間から一番最初にこぼれた砂の粒が私なのかもしれません。学習意欲はあったんですけど、脳みそにだいぶ欠陥があったみたいで┉。
┉みんな知ってる有名な故事なのかなぁ。( ω-、)

閑話休題。

猪狩神社さん、奥宮もあると書かせていただきましたが、秋には奥宮まで詣でてのお祭りがあるようです。(もしかしたら元日祭や、この日の春祭りのあともあるのかもしれませんが。)
神職の方何名かと参列者たちが、列をなして奥宮のある山頂目指して、┉途中休憩を入れるほどの急斜面らしいのですが┉登っていき、赤飯やサンマなどお供えして、その後サンマはここで焼いて食するようです。
( ̄¬ ̄)
ここで、日本武尊がかつて猪を払ったのちあげた雄叫びの故事に倣い、皆で〖ときのこえ〗をあげる神事があるといいます。
┉秋、かあ。
ちなみに風が強い時はサンマは焼かないらしいです。┉うーん、秋、ねえ。


No.419 21/05/08 01:07
旅人さん0 

【猪狩神社】さんは、三峰山にほど近い山里、贄川にひっそりと鎮座する村社です。
ナビに出ないこともあり、迷い迷ってたどり着いたときには、すでにお祭りは終わりのよう。
しょぼぉん。
┉いやいや、法雲寺さんの法要に参加させていただけただけでもすごいことでございました。欲張ってはいけません。
┉┉迷わなければ、駐車するのにまごまごしなければ、あるいは┉┉。
未練がましいおばさんの真の心のなかはこんなでしたけれど。


猪狩神社さんは、日本武尊が東征のおり、この地を荒らす猪の群れを退治した故事にちなんで建立されたとのことです。
境内には狼の狛犬さんが鎮座され、狼信仰の神社であることが分かります。神社の裏手には険しい岩山、猪狩山がそびえており、山頂には猪狩神社の奥宮が鎮座しているのだそうです。
えっ?奥宮ですか?
いやいやこちら、猪の群れの伝説の地であり、狼なきあとのお山でございますよ。
せっかくの春祭りの日に、集落とは無関係の二人組のせいで、救助だとか猪狩りだとかにかり出されるようになったら申し訳ないです。(*-ω-)
高くはなさそうですがかなり険しそうなのも、奥宮に向かわなかった理由であります。

さらには地名の「贄川」、人身御供の伝説が伝わっていた可能性があるのだそうで。┉。
ちょっと、二人でお山にのぼるのは怖いかな。

狼犬による害獣駆除を行い人身御供をやめさせたという伝説が、日本武尊の伝説が混交したのかもという説もあるようです。


御祭神は伊邪那岐命さま、伊邪那美命さま、そして日本武尊命さま。
三柱の神さまと、眷属のおいぬさま。


こちらでは年一回の春祭りのこの日、江戸時代より使われている版木を使って一枚一枚手刷りしたおいぬさま=おおかみの護符をお授けになっているのです。
長年使われて、「版木は摩りきれてぼろぼろなんですけど、ずっと伝わっているものなので┉」とは、毎年毎年一人で護符を手刷りされている方。

お祭りは終わってしまっていたものの、その見返り姿のおおかみの護符をお分かちいただくことはできました。
今、私の枕元の壁で、日々御守り下さっています。

No.418 21/05/07 05:26
旅人さん0 

なんとか間違えて入り込んだ道をUターンして。
再び【猪狩神社】さんへと向かいます。「ここ┉だな。うん、ここだ!」
立派なお蕎麦屋さんの真横の道を入るよう、Google先生は指示されておられます。
「帰りにお蕎麦を食べようか」と、夫。
「うーん、ダメみたい。お休みらしいよ」
「そ、そっかぁ┉」夫はたいそう残念そう。

それにしても。
そのお休みされているお蕎麦屋さんより先は、さらに細い道。
「駐車場、┉あるのかなあ。あったとしても、空いているのかなあ」
うーん。!?、ちょっと待って!
「そこ(みぎて)を入っていったとこの建物の戸に、猪狩神社うんぬん┉って書いてあった!」もしかしたらお庭を臨時駐車場に開放してくださってるとかはないかなぁ。┉心の声は駄々もれしていました。

入っていくと┉。┉、〖猪狩神社大祭のため臨時休業〗だそうです。
(>_<)┉残念。
ここから先、駐車場はあるのだろうか。あったとしても空いていたりはするのだろうか。
夫「だいじょぶじゃね?行ってみよ。なんとかなるよ」
なんとかなる、というか、なんとかせねばならないのは貴方、なんですけど┉?

少し行くと、なぜだか道の端に鳥居があります。
おっ?駐車場┉駐車できるスペースです。ですが。
みんな思い思いに停めているため、きちんと停めさえしていればあと二台
くらい停められそうなのに、でーん、と横向けて停まる軽トラック。
く○ー。
でも、ここから神社さんは見えません。
もう少し行ったら、行ったら、第一駐車場とかあるんじゃないかな。┉ないよな、たぶん。
あ、二の鳥居が見えました。
駐車できるようなスペースは┉このはじっこに無理やり停めるくらいしかないかなあぁ。
かなり無理やり、なんだけど、でもほかの車の妨げにはなりません。踏み外したらはまって大変なことになりそうな深い溝があるだけで。(T^T)
「あれ?奥に置けそうだよ?」と夫。
ええっ!?
さらに奥に行こうとしたとき、このホリの深い道をどうやり過ごすの?
ここでいいじゃない。そも、ここだって区画もないスペースにすぎないんだよ?「私、降りてみてくる!」
脱輪とかしたら、お祭りが台無しになっちゃいます。

No.417 21/05/07 01:26
旅人さん0 

このあと向かったのは、猪狩神社さんという、集落の方々の鎮守さま。

前回三月に秩父を訪れ、清雲寺さんを参拝いたしました際に、いただいた荒川地区を紹介する地図のなかに、たいそうおおざっぱではありましたが猪狩神社さんの場所と春祭りの日の案内があったのです。
ちょうどこの日が年一回の春祭りとのこと。
┉ですが、いざ向かおうとこちらをナビに入力したところ、まるでヒットせず、「あきらめるから┉」と申したくらいでありました。
しかし夫は、こんなとき伝家の宝刀、Googleマップで検索し
「大丈夫、行けそうだよ」と!
ありがたや、ありがたや。

ありがた┉や┉。

うーん、かなり道、細そうです。しかもどんどん狭くなっている┉。
と、トンネルが見えました。
┉?、黄色い立て看板が入り口にあります。
〖この先トンネル内すれ違い出来ません〗┉。

ええぇぇえっ!?

そんなぁぁ。

じゃあ対向車が来たら、どちらかがバックするようですかぁ?

いやいや、そもそもがそんなこと書かれなくとも、どこをどう見ても一台がやっとのトンネルですよぉぉ。

あ、でも短いんだ!

じゃんけんで負けたほうがバックする、なんてことはせずにすみそうです。

クルマはそれなりに往来しています。

『ここを曲がるんかな』と、曲がった先は、違ぁぁぁうぅぅ!

どうしても、どうあっても珍道中にしないと先に進めないのでしょうか。

No.416 21/05/03 19:24
旅人さん0 

>> 415 ここで。

今回も、バタバタとした珍道中を、ただただ稚拙な文章で綴らせていただくこのスレも、四百を超えました。

お読みくださる方がおられるだけでもありがたく思っております。

そんな中、さらにこの駄文のスレにいつも共感をしてくださる方がおられ、おそらくは同じ方かと思っておりますが、本当に本当にありがとうございます。
駄文であります上に、内容も薄く間違いも多く、表現もどこかおかしく文章までも珍道中で、お読みいただきますだけでも申し訳なく、共感をいただくのがもったいないものでありますのに┉。

大変嬉しくはげみとなっております。


珍道中も、生き方も、
焦らず一歩づつ、前へと進めたらと思っております。
どうかよろしければ今後ともおつきあいいただければさいわいです。


お読みいただいてくださった方すべての方に。
本当にありがとうございます。



No.415 21/05/03 16:31
旅人さん0 

法雲寺さんの寺宝は、以前書いた〖古い木製の納札〗のほかに、〖楊貴妃の鏡〗〖龍の骨〗〖天狗の爪〗などがあるのだそうです。
ことに木製の納札は、御本尊のおられる厨子のそばに安置されているとの説が書かれたネット情報もあり、今回の御開帳で少し注意深く見てみたのですが、それっぽいものは見当たらず。

さらには、〖楊貴妃の鏡〗〖龍の骨〗〖天狗の爪〗に関しては、前回の参拝の折りには見つけることができなかったため、今回かなり注意深く見てみたのですがこれもまた見つけることができませんでした。〖楊貴妃の鏡〗とかの三点の寺宝、ガイドブックにはな、なんと回廊にあると書かれているのですよ、回廊に!

見つけられなかった私は、
(これだけ見てないのだから、さすがに寺宝だし、回廊でないところに移したのだろう。よもや盗まれたとかではないだろうし。
ガイドブックは最近発売された最新版とかではないし。うん、これだけ見て、ないのだから回廊にはないのだ。うんうん)

それでも┉。やはり気になった私、家に帰ってから
「ねえ?このガイドブックには楊貴妃の鏡とかが回廊に飾ってあるって書いてあるんだけど、なかったよねぇ?」と夫にガイドブック片手に聞いてみました。

「えっ?あったけど?見なかったの?」
それに対しての夫の返答は驚きのもの!
う、嘘でしょ?!

私「回廊に?普通に?私、ずいぶん見て歩ったつもりなんだけど、どこにあったの?」
夫「回廊、じゃなくて観音堂の中、なんだけど、回廊からしか見えないんだよ。そうかぁ、見なかったんだ」
┉見てないよ!しかもなんだ?、その謎かけみたいな返答は!?

夫「┉写真撮ってきてないかな? うーん撮ってないや。」

夫「┉ここの、ね。この、観音堂さんの正面の、むかって左側の窓から見えるんだよ。だからね観音堂の中にあるんだけど中にいては見えないとこにあるんだ。そっかぁ、見てなかったんだ」
見てねえよ!ああ、すっかりやさぐれています。

いいんだ、いいんだ!御開帳に御本堂に入って間近で参拝できたんだ。
┉夫も、だけど。
ふんっ!((( ̄へ ̄井)


No.414 21/05/03 05:31
旅人さん0 

この日は御本堂も開いていました。
前回の参拝の際御本堂に気づかず、参拝できなかったことをお詫び申し上げると
御朱印帳に重ね印をしてくださった副住職さまの奥さまいわく、
「こちらの本堂は檀家の方の御位牌をお納めしたりとか、法事をしたりとか、檀家さんがお使いになられるものなのでお気になさらなくて大丈夫ですよ」
と。
観音堂よりも大きな御本堂に気づかないところが、いかにも珍道中夫婦であります。うーん、なんとなさけない。

そして、そんなお話をして。なにげなく見上げた観音堂は┉!?
いつのまにか左右の戸が閉められて、正面の戸だけがちょうどご本尊さまが拝観できるくらいにだけ開けられた状態になっているではありませんか!!

いままで三方の戸が開け放たれていたのは、御開帳に伴う法要が営まれるためだったんだ!

偶然、その法要の直前におじゃまして、まだ寛がれているような状態のときからいたから、法要に参列させていただける流れになれただけで、それ以前ならば戸の隙間からの参拝で終わって次にまわって行ってしまったかもしれませんし、法要中ならそっと手を合わせて遠くから見守るくらいだったかもしれません。
法要が終わった後は、すぐさま戸をお閉めになられた様子なので、このタイミングで到着したなら、前回と同じよう、堂内のご本尊さまを参拝拝観できるだけの隙間からの参拝拝観で終わっていたかと思われます。
これは┉あまりにも絶妙なタイミングが生んだ奇跡だったかもしれません。
なんともありがたいことでございました。

檀家さんにおかれましても、昨年はコロナによる緊急事態制限措置下で年に一回のお縁日もなく過ごされたくらいで。
なんでも昨年は一軒一軒お寺さんがまわって御札をお渡しするような法要であったのだとお聞きしました。

ははあぁ┉。



この日、境内の花は、前回訪れたとき咲いていた梅やカタクリの花はすっかり散って。
マムシグサという花が咲いていました。
三尺藤という藤のつぼみは、まだまだ固い感じでありました。

そうそう、こちら法雲寺さんの寺宝の数々は今回も私は拝観できず。
でもそれでも、それを上回る貴重な体験をさせていただくことができ、ただただ感謝しかありません。



No.413 21/05/02 14:52
旅人さん0 

次に向かいましたのは、桜の頃に参拝したばかりの【法雲寺】さん。
秘仏のご本尊さまが年に一回御開帳される御縁日に当たっています。
到着したときには、先日参拝させていただいたときとはすっかりと様子が変わって、観音堂の前面のみならず左右の戸が広く開けひろげられておりました。
うわぁぁ┉、御開帳って、こんなにも開放してくださるんだぁ。

御縁日でありますので、観音堂には檀家代表の方々が詰めておられ、御札を受けに来られた檀家の方にお渡しされたりなさっていました。

いつもの巡礼と同じようにお線香をあげて読経をし、観音堂の中を外から見させていただいて┉。
ええ、ずうずうしいおばさんは、何人もおられる御堂の中の方に
「恐れ入ります。こちらへはあがらせていただいてもよろしいのでしょうか?」
壁に寄りかかって胡座をかいていた方は突然の問いかけにたいそうびっくりされたようで、
「えっ?ええっとぉ┉聞いてみます。」

おや?

だめだったのかな?
そもそもが巡礼でまわってこられている様子の方はあまり見受けられません。うーん、でもお寺の方にご挨拶したときは、
「どうぞご参拝ください」と普通に対応されただけだったのだけれどな┉。
ちょうどタイミングよく副住職さまがおこしになられ、
「法要が始まるまえの時間であれば大丈夫ですよ」と、まさに鶴の一声を。
┉結果的には、本当に2分くらい。
秘仏であらせられるご本尊さまの御前で手を合わせることができました。
手を合わせ合掌を解いたか解かないかで、副住職さまの二声目が掛かりました。
「それでは退座してください」
ははぁ。m(_ _)m
 

ご住職さまもおこしになられ、さっそく法要の運びとなりました。
副住職さまが般若心経をお唱えになられますときはご一緒にお唱えし、法要の間、ずっと参列させていただいておりました。
皆さんが御焼香される際、檀家代表の方がお気遣いくださって
「どうぞ中に入って御焼香してください」
とおっしゃってくださいました。
「えっ、よろしいのですか?」
「どうぞどうぞ」

帰りにはジュースまでくださって、
「昔は縁日といえば舞台まで出るお祭りだったんですよ」と、昔話までもお話しくださいました。





No.412 21/05/02 04:45
旅人さん0 

さて。
人生初のお祓いの儀。まるで子どものように興奮してつらつらと書き連ねましたが、お気づきのように秩父の珍道中録が途中中断しておりました。
いま一度、舞台は秩父へと戻ります。

年に一度の縁日の大数珠廻しが二年連続で中止となった【法泉寺】さん。
このあたりから見える武甲山の眺めは格別です。
さらに、かなりの急な百十六段の石段を上った境内から見渡せる景色の素晴らしさといったら!
実はこちら、観音堂のさらに上に白山神社さんがあるのであります。
前回はよくわからず、お参りできなかったそちらへ今回はお詣りさせていただきました。
納経所の正面みぎてから納経所をまわるように上をめざすと、なるほど神社さんが見えてまいります。

実は、こちらの法泉寺さん、法泉寺と呼ばれるようになったのは明治時代から。江戸時代には白山と呼ばれていたのだそう。
といいますのもこちらは元々霊亀二年、716年に越の大徳と称される修験僧が観音菩薩さまのお告げにしたがい秩父へおとずれ、ちょうどこの法泉寺のある辺りで岩の上に観音菩薩さまが現れたのだといいます。
修験僧はその観音像を祀り、山の名を白山と改めたのだそうです。
白山観音堂の別当寺は、石段下にあった別当明星院という修験道のお寺さんだったのだそうですが、明治の修験道廃止令により廃寺となってしまいます。
そこで白山観音堂は法泉寺と名を改めて、以降地元の方々でお守りしてきたのだといいます。

白山神社さんはたいそう見晴らしのよいところでありました。
新しそうな社殿には明るい陽射しがさして、たいそう居心地のよい気のみちた所でありました。
御祭神さまは菊理媛神さま、伊邪那岐命さま、伊邪那美命さま。
あたたかでやさしくやわらかな気が満ちているのは、二柱が女神さまなこともあるのでしょうか。
白山神社さんからは真正面に武甲山が見えます。

コロナのせいで、せっかくの、ましてやちょうど日曜日となったお縁日、とうとう私たちがいる間は参拝者は私たちだけという寂しい日となってしまいました。
もはや終息は無理かとは思いますが、せめて収束と、先行きさえ見えてくればと、あらためて切に願うのでありました。

No.411 21/04/30 11:23
旅人さん0 

お授けいただいた御札を、なにかの上に置いて風や振動で墜ちてしまうのは嫌ですし、長押に挟み込むのも失礼に当たりそうです。
次の日、ホームセンターで御札置きなる商品を購入し、さっそく取り付けてお納めいたしました。

┉本当は┉。義父から止められて神棚を家にお祀りすることができなかった過去があり今に至っておりますが、ずっと神棚のある家でありたかったのです。
義父もすでに亡く念願だった神棚を前に、ついつい目は神棚へ。
┉ですが、です。
私ども亡きあと、神さまに失礼なくお祀りできるのかとか、子どもたちがこの(実際には夢で終わらせた)神棚を、誰か引き継いでお祀りしていけるのか┉そんなことを考えたなら、購入することはできなかった。
私たち夫婦にしたって、それこそ子どもたちが大人になって巣立ってからの神社仏閣巡りを始めて、初めて知ることばかりなくらいです。
私たちこそ失礼に当たることをしてしまいそうです。

いまだに御札置きには御供えはしなくていいのかどうかとかで、毎日頭を悩ませていますくらいです。┉真実はいかに。


夫の実家は今、義母が施設に入居してまもなく二年。ずっと無人で神棚の神様に何ら御供えも掃除もせずに二年以上が経過しています。
これはこれで跡取りの長男である兄がおりますことですし、どうにも手出しはできません。御札もずっと何年も同じものが奉られていますが、これはよくはないことなのでしょうか。

何もわからない、何年経っても神社仏閣初心者の私であります。

 

御札とともに神社さんからお授けいただきました物は、破魔矢、車の御守り、車に貼るタイプの御守り、御神酒、撤饌という熨斗紙の貼られた包みが二つ。
御神酒を見て嬉しそうに口角を緩めた夫に「これは神さまの!」とすかさず申し。


初めて神社さんの御札をお受けして、右往左往の珍道中夫婦でありました。


No.410 21/04/30 04:07
旅人さん0 

玉串を弊殿入口に置かれた几の上に、持ち手を神さまに向けて置きました。
宮司さまは神さまの御前に御供えしてあった絵馬と御札を、うやうやしく捧げもち、そのふたつを、向かって右側にある机で紙袋に収め私たちに手渡されました。
「絵馬は、車のお払いが済みましたら神楽殿の横にある絵馬掛けにお掛けになってからおかえりください」と。
そして御札。

「あのぉ、すみません。ウチには神棚がないのですが┉」そう、大切な御札です。失礼があってはなりません。

「ああ。そうすれば┉」
「できれば目の高さより高い位置で、あまりごちゃごちゃしていないところへ┉タンスの上とかでもいいので、できれば東向きか南に向けて、白い紙などを敷いておまつりください。」

ほっ。
やっぱりわが家だけではないんだな。
神棚のないおうち。
宮司さまはいかにも慣れたご様子で対応してくださいました。

宮司さまから紙袋を受けとり、拝殿の高い敷居をつまずかないように気をつけて乗りこえて、転けないように気をつけて靴を履き、宮司さまに続いてわが家の車のところへと向かいました。
まずは前面にお立ちになって弊をうやうやしくお振りになりました。
その後、運転席のドアを開けるようおっしゃられ、夫がドアを開けると運転席にからだを少しだけいれて。
それから運転席側の側面、後部、もう片方の側面へ向かって、幣をお振りになりました。

「┉これでお祓いの儀は終了です。お祓いをしたからといって安心なのではなく、交通事故を起こさないよう気をつけて運転することが大切です。どうぞお気をつけて運転をなさってください」
そうおっしゃって、┉私たち夫婦の人生初のお祓いの儀式は終了いたしました。
宮司さまは社殿に向かわれ、私どもは絵馬を掛けるために絵馬掛けへと向かいました。

「どこがいい?」
絵馬掛けは信心深き方々がたくさんおられることを物語るよう、すでに満杯状態。
┉まあ、一枚も掛かっていなかろうが、夫は必ずそう聞くのですがね。
上州の夫婦、ですから。

絵馬を掛け終え、摂社末社の神様たちにご挨拶をして。

見上げた藤棚には咲き始めたばかりの花たちが風に揺れていました。
名残惜しそうにいく枝かが残る八重桜に見送られながら、神社の敷地をあとにしました。
お見守りくださる神さまは┉苦笑されておられる、かな。 


No.409 21/04/29 06:46
旅人さん0 

絵馬を受け取られた宮司さまは、神さまのおられる本殿の前の間の幣殿と呼ばれるところのむかってひだりてにある隠れたお部屋に入って行かれました。【幣殿】は、神様へのお供え物が置かれている建物、とのことです。
幣殿に移動しながら「こちらへ。この一番前でお待ちになってください」と宮司さま。
指示された一番前の席のあるところへといそいそと移動した二人組。
座って待つ夫。
座っていいものか否か、面接を受ける試験のマニュアルが脳裡に浮かんで、とりあえず立って待つ私。┉たぶん正解は夫。
落ちついて神さまに失礼のないようお待ちするのが正しい。
立って待つことを選んだ私は、もともと好奇心が強いタイプなので、まるで子どものように上を見たり壁にある画を見たりとキョロキョロ。
はっと気づいて前を向けば、それはそれで弊殿、本殿に安置されたさまざまなものへ目がいくこととなり、(あ、これは失礼に当たるかも!) と、結局拝殿のなかをゆるゆると見やることにいたしました。ヤレヤレ。

宮司さまが絵馬と御札をお持ちになって弊殿へとお戻りになられました。
絵馬と御札を本殿前に置かれた三方の上に置かれ、
私どもにこれから執り行う儀式を宣言されて、本殿のひだりてへと向かわれました。
二礼二拍手一礼をされ、祓詞を奏上されて。幣をおごそかにお振りになったのち、私どもの車の車種やらナンバーやらをおり込んだお祓いの詞をお述べになりました。その後幾つもの鈴がつらなるようについた鈴を鳴らされたり。
その所作をついつい見ることに気がいっている自分を戒めて、あえて下を向き神さまにお願いの思いを申し上げていると、
宮司さまが私どもの前におこしになられ、
玉串をふたつお持ちになられました。
順番で捧げようと手にした玉串を持っていると夫が小声で「ご一緒にとおっしゃっているから」と。
ヤレヤレ。

┉今どきの神社さん┉玉串の榊、造花なんですね。ええ、そんな雑念がご一緒にの言葉を聞き流した一因でありました。
もう、ほんっとぉに!、コイツは昇殿させない方がよかったよ。
それ、誰でもない自分だし。ヤダヤダ。┉





No.408 21/04/27 05:31
旅人さん0 

江戸時代に建てられたというこちらの神社さん。
┉私にだけでなく、本当に敷居が高かったです。キチンと足を挙げまたがなければ入れない、太くて高い敷居でありました。

入るとすぐの位置には、拝殿の中には似つかわしくはないこときわまりない、とはいえこのコロナ禍の必需品、アルコール消毒が設置されていました。
┉先に入ったのが夫だったから、夫が当たり前のように消毒をしたから、そこに消毒があることに気づいたんですけど、ね。
足踏みすると噴射される、どちらかというとやや大きめなアルコール消毒の台なんですけれど、なにぶんにも初めてのお祓いで緊張┉というより舞い上がっている私。
落ち着いて、失礼のないよう、失敗のないよう、と自らに魔法でもかけるかのようにしておりまして。頭の中は(まずは受付、まずは受付、)と、入力されたプログラム通りに動こうとせいいっぱいな状態で。
おっ、消毒、消毒。
全然落ちついていないありさまで。
夫も初めてなはずなのに、しっかりと落ちついて宮司さまの待っておられる受付へとススッと進んでまいります。┉普通のおとなならさもありなん、私って┉(T^T)。

さほど遅れることなく宮司さまの文机の前に。夫より少しだけ斜め後ろの位置にちょこんと座りました。
「それではお車のナンバーや車種をお教えください。」と宮司さま。

予約の電話をいれさせていただいた際に、
「お車のナンバーや車種をひかえて来てください」とあらかじめ伝えられておりましたので、便箋に書き封筒におさめたものを取り出して、中身を宮司さまにお渡ししようとすると、ん?
宮司さまの手には車の絵の描かれた絵馬。
その絵馬の車、ナンバープレートの部分に何も書かれていない物となっていて、そこにナンバーを書き入れるようにおっしゃられて、裏に住所と名前を書くようにおっしゃいました。
絵馬かあ。
いきなり思ってもいなかったアイテムの登場でありました。
もし書くとしてもまさかこの、こんな早いタイミングとは。
手渡された夫は夫で、字を書くことに苦手意識のあるものでありまして、やはり動揺しております。
┉珍道中夫婦のゆくえやいかに?!


To be continued であります。

No.407 21/04/26 13:41
旅人さん0 

到着いたしました神社さんには、記憶どおり自動車の祓い所はありません。

その自動車祓い所なるものを日本で初めて設置したのは群馬県の前橋東照宮さんだと、そのホームページに書かれていました。まわらせていただいた神社さんのなかにも自動車祓い所なる場所があるところのあるところがいくつもありました。
中にはかなりの距離離れたところに設置されていた神社さんもあり、そこでは昇殿することなく、祓い所に宮司さまが出向いて車に直接お祓いをされて、その場で儀式が執り行われ、その場で終わりにされていたところもありました。
考えてみれば、地鎮祭などは、まさに神職のかたがその場所まで出向いてそこで儀式を執り行い、特に拝殿のなかに昇殿される様子は見受けられなかったよう記憶しております。

うーん、生まれて初めての個人的な神事は、昇殿してのお祓いとはならないのかも┉。
宮司さまのお宅にお邪魔すると、奥さまがお出になられ、「拝殿で受け付けておりますのでどうぞお進みください」と。
車の置く場所を再確認して、車を指定された場所に置いて。
いざ神さまの御前に。 

一足先に私だけが拝殿の前に着くと、ちょうど宮司さまが拝殿のなかからお顔を出され、
「車のお祓いでおみえになられた△△さんですか?」
とおっしゃられ、そうですと申し上げるとうなずかれて、またそのまま拝殿の奥の方、ちょうど死角になるところに戻っていかれました。
まもなく夫が到着し、いつものように二人、二礼二拍手一礼のご挨拶を申し上げて、再び宮司さまからお声がかかるものと思い、しばし拝殿の前に。
うーん?おみえにならない┉。
参拝の方がみえたのでさらに脇に逸れたところ、拝殿の奥の角のところのしっかりと感染対策をなされた受付でお待ちになられている宮司さまと目が合いました。おっ?
「どうぞお上がりください。」

┉もしかしたらそのまま拝殿の奥の受付にすぐに直接うかがってよかった?
というより受付にうかがうべきだった?

ごめんなさい、宮司さま。
私たち、こちらの神社さんのみならず、神社さん自体に不慣れな、ある意味罰当たりともいえる珍道中夫婦なもので、畏れ多くも神社の拝殿に昇殿するのが人生で二回目という二人、さような場所にお声もかからぬ状態で上がっていいものとは思いもしなかったのでありました。


No.406 21/04/25 10:20
旅人さん0 

はたと気づいた最大の問題。
┉私、最近太ったんだ!


ちゃんとした服、ちゃんとした服?
妊婦時期以外、ずうっと中学くらいから体型に変化のなかった私。
結婚前の、今では考えられもしないくらい高額なスーツが、運動きらいなくせに二年前まで奇跡的に着られていたという、超経済的な身体であったのですが、今、イヤというほど自覚するくらいに太ったのです。

恐る恐る手にした一張羅のスーツ。
┉ダメだあぁぁぁぁ。(*T^T)
ファスナーは上まであがったものの、ホックがとまらない。

こんな落とし穴があるなんて┉。
スーツじゃなくても┉。
とはいえ太った事実は他の“ちゃんとした服“にも影響があるにちがいない。

「買ってくれば?」

女心に疎すぎるほど疎い夫は簡単に言う。


いや、こんな大切な節目で“ちゃんとした服“を用意をするのは縁起もいいらしいんですよ。ですけどねぇ┉。
くぅぅぅ┉。


ええ、結論から言えば“ちゃんとした風の服“で神社さんに向かいました。


ご祝儀袋の表書きも筆ペンで練習して、練習して、どちらかというと形のとりやすいお玉串料を選び、ご祝儀袋に書いたものは二度と見ないという封印の技で挑みました。


私って┉本当にどんな時にも珍道中しかできないんだな。(T^T)


No.405 21/04/25 05:01
旅人さん0 

┉お見苦しいさまをあえて再現してみました。


織田信長が舞った敦盛の一節、人生五十年、五十年を過ぎての人生で初の憧れの、神社さんでのお祓い。
それはそれは私にとって大きなものであったのであります。

たしかに自分が理由をみつけ希望さえすれば、神社さんはいつでもお祓いなり祈願なりをしてくださるので、自分で希望すればよかっただけのこと、┉なのですがね。なのですが、五十年もしたことがなかった新たなこと、なのですよ。
不敬があってはならない、大切な大切な儀でありますことがわかればわかるほど、敷居が高くなって、なかなか今までしてこなかったことをするのには多大な勇気を必要としたのであります。

何度も車を購入してきても一度として受けたことがなかったお祓いを、ある時を境に、あるいはある一台だけ受けるというのもなかなか敷居が高い┉というか、今までしてこなかったので神さまに後ろめたい思いがあったり、何となく今までの愛車に申し訳ないような思いがあったりと、複雑なものがあって、そんな気になれなかった、というよりももう考えもつかなかったのであります。
厄除けも方位除けも受けたことがなかったし、さかのぼれば自分の七五三も成人式も、神社さんに詣でることはあってもきちんと昇殿して祈願させていただいたことがなかった私。
そんな人間が結婚して子供を授かっても、習慣がないので当然そんな昇殿して祈願させていただくことなど頭にも浮かばず。
跡継ぎでない夫にはそういったことは一切してこなかった夫の実家は、次男の家がそういったことに疎かろうがおかまいなしですので当然意見されることもお咎めもなく。
神社さんともお寺さんとも教会とも、おそろしいくらいに縁のない人生を送ってきてしまったのであります。

そんな私が、やりたいことはなにかと問うたとき、神社仏閣に行きたいという内なる自分の声を聞き、始めた神社仏閣巡りであります。
道案内人もいない、夫との珍道中であります。

五十年もずっと不敬があっての神社仏閣。
まわればまわるほど、こと神社さんの敷居は高くなっていました。
┉と申しますのも、お寺さんは法事で御本堂に上がらせていただくこともお経を聴くことも無くはない、のであります。
神社さんにおいては、自身で希望し祈願なりお祓いを受けなければ、なかなか我がこととして神事に接する機会がないのです。

No.404 21/04/24 20:48
旅人さん0 

本日、昇殿させていただいてお祓いを受けました。
車のお祓いならびに交通安全祈願、人生初の経験であります。


大洗磯前神社さんで昇殿させていただきましたことはありましたが、あくまでも月例祭の儀に参加させていただいたので、自分のためにお祓い、御祈祷いただくのは、記憶にあるかぎり人生初の経験であります。 
昨日電話で予約させていただき、一時半からと言われて。 
もう、遠足の前日の幼稚園児か小学生のようになかなか寝つかれず。

お納めするお金をいれ袋は普通の封筒でいい?
┉えっ?熨斗袋なんだ!
水引の結びは?
┉げ、結び切りじゃないみたい。明日午前中に買ってこないとだな。
表書きはなんて書けばいいの?
┉初穂料?玉串料?榊料?わかんないしぃ!

No.403 21/04/24 08:21
旅人さん0 

今まで秩父に向かうのは平日であったので、出勤される方やお仕事の車がないせいかどちらかというと空いているイメージです。
頑張った私は、秩父直前まで走行して、コンビニに寄って運転手交代。
チェーンジ!

まず向かったのは第二十四番札所の【法泉寺】さん。
【大数珠廻し】を執り行うという縁日であります。毎年この日の縁日に行われているようです。
前回の参拝のときとは駐車場がかわりきれいに整備されていました。┉前回はこの駐車場を見のがして通り越したので、逆にその変化に戸惑うことになったのですが。
駐車場には一台も車はなく。バイクもなく。
あの狭くて急な百十六段の石段にも人影はなく。
境内も静か。┉お、お休み?
ま、まあ何はさておいて参拝をいたしましょう。
納経して。読経して。
納経所に向かいました。┉あ、どなたかおられそうです。

今回の御朱印は重ね印をお願いしました。
前回お書きいただいた墨書きの上に、一度捺された朱印と少しずらして印を捺していただくものです。

「今日は御数珠廻しのある日かと思ったのですが」
 
「ああ、そうなんだけど。こんなご時世なので感染を考えるとちょっと無理かなということで今年も中止したんですよ」
とのこと。┉そうですよね。
となり同士に輪になって、少しずつ大きな念珠を順繰りで廻していくもの。
「いつもだと近所のお年寄りが集まってそこ(本堂の前)に座って御念珠を廻しているんだけどね」
ここまでで、私たち以外どなたの参拝もありません。
加えて私のお願いしたのが印を捺すのみの御朱印であります。
そんな御縁日となったのがさびしかったのか、いろいろお教えくださいました。
さびしい┉ですよね。
この日、いつもの年なら巡礼者もこの日に合わせて数多く参拝に訪れていたのだといいます。

アフターコロナの時代は┉変異株の拡がりもあり、いまだそのあり方を模索する段階であります。
せめて少しだけでも先さえ見えれば┉。

No.402 21/04/24 06:09
旅人さん0 

四月十八日。

お読みくださっている方は、
この欲のかたまり、歩く煩悩のおばさんが、四月十八日に秩父に行きたいと騒いでいたことをあるいはご記憶くださっているかもしれません。

その日。
普段、日曜日といえば九時近くまで寝ている夫が六時に起きてきて、
「行きたいんでしょ?」
とのたまう。キャー♥♥
いそいそと朝食の用意をし、もともと早起きの私はすでに洗濯も終えた状態。
私が運転いたしましょう!
「ほぉぉ、じゃあお願いするか」え、そ、即答ですか。┉頑張ります。


というわけで、四月十八日、秩父へと、念願かない行ってまいりました。

偉そうに宣言した私が、全行程を運転したかというと、もう本当にほんの一部で、せいぜい五分の一程度。相変わらずおんぶに抱っこでありました。
┉ほっとされた方、おられますかね。大丈夫、そこはきちんと管理する者がおりますので。
さすがに何度も通って秩父に向かう道は覚えてきたし。┉本当に?



四月十八日は日曜日。
秩父夜祭り以外、すべて平日に巡礼してきた私たち。
①混んでいたらスパッとあきらめる。
②できうる限りの感染対策をする。

どうかなあ。日曜日の秩父観音霊場┉。




No.401 21/04/23 06:16
旅人さん0 

今日も、まだ五時前という時刻から何機ものヘリコプターが飛ぶ音が聞こえます。
群馬県みどり市で起きている山林火災は、たった今観たテレビのニュース画像ではかなり広範囲のものとなっており、近隣二十四軒に避難指示が出たようでした。
わたらせ渓谷鉄道という第三セクターの路線が走る、のどかで渓谷沿いの美しい景観の広がるみどり市東町での火災は、民家二軒を全焼する火事が延焼したようで、テレビ画像を観ると国道122号線は消火活動のため一部不通か片道通行のようにみうけられました。

【わたらせ渓谷鉄道】は上皇陛下御夫妻も何度かお乗りになられた、近年〖乗ってみたいローカル線〗で常に上位に食い込む人気の路線のひとつなのだそうですが、そもそも国鉄時代には沿線乗客の減少から廃線の危機に見舞われたくらいのもので、会社の努力はそれは大きなものであったと推察されます。
美しい景観を生かしてのトロッコ列車や、駅のホームに温泉施設が直結する温泉のある駅などであります┉乗ったことはないのですが。
温泉のある駅ということで話題になりテレビでも何度かあつかわれています。

このわたらせ渓谷鉄道に桐生市から乗車し、いくつかの駅を通過する間、実は、桐生市、みどり市、桐生市、みどり市と、まるでミルフィーユのようになっているのです。もちろん、乗客はあまり気づくことはないかと思われますが、国道122号線も同様のことが起きています。
ただ、道路を走る上では道路標識に、桐生市○○だの、みどり市△△だのと表記されているので、そこに目をやると目まぐるしいくらいに市をまたぐのがわかります。
地図を見ると桐生市がみどり市をはさんでまるでハンバーガーのように見えます。
平成の大合併で、昔からの飛び地問題が解消された自治体も多かったなか、桐生市は合併により飛び地となってしまった特異なケースとなったようです。

美しい、のどかな景観の、わたらせ渓谷線沿いの、国道122号線沿いのこの辺り一帯。自然や、線路や道路はあくまでもつながり、あくまでもひとつなのですが、ね。


草木ダムというダム湖を越えたあたりでの火災のようです。
一刻も早い鎮火がなされますように。

No.400 21/04/22 20:15
旅人さん0 

お昼すぎくらいからヘリコプターの飛ぶ音がやけに多く聞こえます。
栃木県足利市と群馬県桐生市に同時発生した山火事の記憶もまだ新しくて、
(なんだろう?いやだなぁ)
と思っておりましたが、先程のニュースで群馬県みどり市で山火事が発生しており、避難勧告が出ていると告げています。

あの時と同じに、空気が大変乾燥しております。


どうか一刻も速く消火されますように。


No.399 21/04/22 19:36
旅人さん0 

こちらの観音堂、岩井堂にはもう観音さまはおられません。
観音堂にそのように書かれた貼り紙がありました。
江戸時代に円融寺さんが別当寺(管理寺院)となり、盗難や損傷を防ぐため、岩井堂の札所本尊の聖観音さまは現在は円融寺さんに移されています。

でも来てみたかったんです。
ガイドブックにある写真よりももっと山、でしたし、もっと草深く、木々も生い茂る感じでありましたが。
まさかまさかの昭和電工さんの敷地も敷地!操業中の工場の敷地の中を通るというミッションがありましたけれど。

おられないとはいえ、こちらの岩井堂の岩洞こそがこちらの御本尊の聖観音さまの彫られた縁起の由来の地。


弘法大師空海さまがここの岩洞で秘法を行じていたところ、観音さまが現れて
「ここは必ず霊場となろう。のちに大徳がここを訪れわが姿を刻むであろう」と告げ、雲に乗って去ったといい、空海さまは加持を行って岩洞を封印したのだといいます。
その後高僧がこの地を訪れたところ、かの洞窟から光が射し出で観音さまが現れたのです。
観音さまがおっしゃいますことに「大徳が来るのを長く待っていた。わが姿を写してこの地に安置せよ」と。
高僧は拝し奉って、そのお姿を正確に刻み、里人に堂宇を建立するよう話したのがはじめだといいます。

その後ここにいた豪族秩父重弘がここに堂舎を再興したといい、今ここに建っている岩井堂は江戸中期のものだといいます。



ここにおられたかつて聖観音さまを思い、
先程寄って再拝いたしました円融寺さんにおられる聖観音さま思い、
他の札所を訪れたときと同じに読経をさせていただきました。

そして。
振り向いたとき見える景色のすばらしさ!
円融寺さんや昭和電工さんの土地自体が少し高いところにあり、秩父鉄道の線路が下を走っているようなところであります。
さらにそこから山を登ってのここは、秩父の山々を見渡せる、素晴らしい眺めでありました。

うーん、来てよかった!


帰り道は、┉野性動物に遭遇しないことをのみ願いつつ、高らかに鈴を鳴らし、ひたすら足早に昭和電工さんをめざし歩いたのでありました。



No.398 21/04/22 04:40
旅人さん0 

うっ。
出たぁ!

┉石段ですよ、あの噂の三百段の。
ようやくスタート地点に立つことができました。

たしかに、ここは間違いなく野性動物の住み処であるとは思います。それは間違いなく。
ですが、おそらくかなり頻繁に、ここを点検管理されておられるのでしょう、奥の院までの道は倒木があるでなく、草が生い茂っているようなこともなく、スムーズに登ることができました。道は、ですよ、あくまで。
結論から言えばさほど高くもないし、きちんと整備されておりますので大騒ぎするほどのことは何もなかったかと。運動不足の身にはマスクをしていると息があがるかな、程度でありました。
┉野性動物等に遭遇しない運を持って登るのみであります。


あ、みえてきました。
うわあぁ。
┉感動です。

山の中のお堂でありますので、大きなものではありませんが、あの京都清水寺のような懸崖造?舞台造?の赤いお堂が、新緑の樹林のなかに建っている、そのすばらしさといったら!

さらに続く石段はそのお堂まで続いています。
大きな、お堂と同じくらいの岩が石段を隔ててそびえ立っています。

その石段を登ると岩洞があって、ちょうど、大人が何人もすわって雨やどりができそうなくらいの空間で、そこには石仏さまがたくさんおられました。
ひときわ目立つのが閻魔大王さま。
秩父札所を開創なされたとされる十三権者さまのお一人ということを考えますと、ここをお守りいただくためにお祀りさせていただいたのかもしれません。
ここ岩洞前からさらに上へと道は続いていて。
第二十七番札所の大渕寺さんの護国観音さまの足元まで登れる道となっているようです。

┉私どもは行かないですけどね。

その石段を回るように下るとお堂の回廊に行けました。


す、すごおぉい!
朱塗りに黒を使いなんともおしゃれなお堂であります。正面の扉には細やかにして大胆な彫刻が施されています。
すてき♥

No.397 21/04/21 13:46
旅人さん0 

そんな皆さんお仕事中の工場の建屋と建屋の間の、車の通る通路を通らせていただくという身も細るような道を通って、たどり着いた駐車スペース。少しほっとした気分です。

ここからは山中にある三百段という石段をのぼるのみであります。
┉┉。

立派な山中です。
ここで野性動物に遭遇したら、人間がその生息エリアに踏み込んでる世界です。「お邪魔してごめんなさいね」なんて言葉が通じればいいんですけど、まずそれはあり得ない。

えっと、熊、猪、サル、鹿。
ヘビもいるだろうな。ええ、毒を持つヤツも。
あの昨今話題のマダニもいるだろうな。

虫除けして。
鈴ならして!!
本当に熊、猪、サル、鹿とかに遭遇したら、どうするんだっけ。

┉夫は。┉逃げるな、私を置いて。
相手(動物)に提供して逃げるんじゃないか?

私「熊とか出ても普通におかしくないよね」
夫「鈴鳴らすしかないよな」
私「出たらどうするんだっけ?」
夫「置いて逃げる 笑」

┉やっぱりそうか。
┉どこまでがジョークでどこまでが本気だ?

今度こんな山道を歩くような巡礼地を歩くときは武器としての意味で杖を持つとしましょう。殴るのは夫を、ではないですよ。本当。

鈴をこれでもかと鳴らしながら。
坂道だの段段になっている道だのをのぼっていきます。
三百段って、ここら辺の坂だのは含めず三百段なんだよな、きっと。

マスクをしていると息が苦しい。
私たち二人しかいないので、マスクを外してさらに上を目指します。


出たぁ。┉三百段と言われる石段が、であります。
石段で野性動物に遭遇したら坂道より不利だよな。
┉もう、脳内は〖野性動物に遭遇したら〗、しかないかもしれない。

緊迫した時が流れます。


そんなにもビビるなら奥の院参拝は諦めればいいのに?
本当に。
でも行きたいんです、はい。








No.396 21/04/20 14:34
旅人さん0 

橋立堂のあとに向かったのは前回行けずにいました、【円融寺】さんの【岩井堂】であります。
といいますのも、円融寺さんから徒歩二十五分ほどのところと離れたところに登り口があるという山中にあるとのことで、十分な時間と体力があり、熱中症の危険のないような日を選んででないと到底無理だと判断したせいでもありました。

円融寺さんに再拝し御本尊さまにご挨拶申し上げて、念のためお寺の方に岩井堂への道をお聞きして。
向かうのは昭和電工さんという会社。
めじるし、ではないんです。
昭和電工さんに行くんです。

まあ、そうは言っても、会社の駐車場とかを突っ切る程度なのかと軽く考えておりました。
お寺さんも、
会社の中を通るけどそれは全然大丈夫なので。けっこうな山道なのでくれぐれもお気をつけてと、山道とか長い階段のこととかを強調しておられたくらいでしたし。┉。

┉!
┉受付あるやん。
┉守衛さん、おるやん!
普通に操業中の工場の敷地やないか!!

何棟もあるような工場の敷地のまん真ん中。
作業のため移動されておられる方。
移動される作業車。
普通のワンボックスがヘラヘラと通る恥ずかしさったら!


工場の敷地ど真ん中を突っ切る!?


そんな奥の院、あり~っ?

No.395 21/04/20 14:01
旅人さん0 

橋立堂追記。

方丈さまが彫られたという秩父の宮さまの像は、よくよく見ると首から下の部分も肩の上の部分まで彫られていたようです。
方丈さま、ごめんなさい。
その背後にがっつりと張り巡らしたネットに気をとられ、そのあとはもう方丈さまの彫られた像を見ることなく早々に石段をおりてしまったのです。
本当にごめんなさい。
そしてせっかくお読みくださっているミクルの皆さまにおかれましても誤情報を書いてしまってごめんなさい。


方丈さまのご名誉のために。
以下が方丈さまの彫られた【胸像】であります。

No.394 21/04/19 17:17
旅人さん0 

御朱印をお授けいただいた際、その観音堂の横の岩に彫られた胸像┉というより頭だけなので頭像?についてお聞きしてみたところ、
「ああ、あの顔?」と、笑いながらお教えくださった、そのお顔の主は、
な、なんと秩父の宮さまだという。
「以前方丈さまがおられたときに何を思ったのか彫られたんです。どんな意味があったのかはわからないんですけどね」とのこと。
秩父の宮さま、ですか┉。
うーん。
宮さまのお顔だけが岩の上にぽつん。
それこそせめて胸像にされればよかったのではないだろうか。
御朱印の書き手の方の笑いは┉。
宮さまもびっくりされておられるのでは。
私は秩父の宮さまのお顔を存じ上げないので似ておられるかどうかはわからないのですが、どうなのでしょう?
そもそも日本国民ではありますが、秩父の宮さまが天皇家とどのような関係にあるのかすらわからない。
一つだけ、存じ上げていることといえば、秩父神社の御祭神であられるということだけであります。これも夫に知られるとさぞ落胆するのだろうなぁ、秘密、秘密。


「あ、鍾乳洞の方は今入れませんので」と世話人の方。
もともと今日は奥の院である橋立鍾乳洞へは行くつもりでなかったので、「あ、はい」とお応えしましたところ、
「鍾乳洞のなかの橋が墜ちてしまっていて入れないんですよ」と。
えっ。橋が墜ちた!?
「それは大変ですね。いつ頃直る予定なのですか?」
「まだまだ、業者さんすら入っていないのでいつになることか┉。なるべく早くとは思うのですが、こればかりは┉」と、先ほどの顔像のお話の時とはうって変わって沈んだ語り口であります。
そ、そうかぁ。
こちらの鍾乳洞のなかはあくまでも奥の院であることであり、撮影禁止のため、鍾乳洞内の写真は秩父巡りのガイドブックにたった一枚写真があるのみなのですが┉。そのたった一枚の写真、白装束に菅笠を付け頭陀袋を斜めがけした一人の巡礼者が急な梯子をのぼっていく姿でありまして。
いかにも修行を思わせるその写真をみていたからこそ、今日はあえてやめておく予定でまいったわけでありました。
うーん。
冬場の閉鎖中に墜ちていたということでしょうか。
一日も早く墜ちたという橋が直って、世話人さんの笑顔が戻りますように。


No.393 21/04/18 23:55
旅人さん0 

橋立堂さんは駐車場から歩いてきて真ん前に見える納経所のひだりてにある石段をのぼったところにあります。
が。
その石段を見上げて、思わずあとずさりするくらいの巨大な断崖絶壁の巨大な岩山がまず目に飛び込んできます。
その高さはなんと六十五メートル!そんな巨大な岩山が垂直に切り立っているのです。┉く、崩れたりしないよな┉。
ひびりの私は岩山を見上げて、いつもならさっさとのぼっていく石段もすぐにはのぼり出せなかったほどであります。

そんな私を、かわいらしい赤いお堂が呼んでいるような気がいたしました。
そもそも、ここにこんな状態の岩山があった状況でここに観音堂を建てて以来、ずっと何事もなく観音堂が建っているのです、これだけでこの岩山が安全であることは立証されております。
のぼり出せば早足でしゃかしゃかとのぼっていく私。なんとげんきんなことでしょう。

朱塗りのお堂は年月を経て色は薄れておりますが、建立当時は岩山を背に真っ赤なお堂がさぞ目立つものであったことでしょう。
こちらの御本尊さまは馬頭観音さま。
お堂の格子のすき間から御前立ちの馬頭観音さまがおられるのが見えます。
馬頭観音さまは忿怒の形相をなされて一見恐くも見えるお顔だちであります。馬頭を頭に頂いておられます。
衆生の煩悩を食いつくし、諸悪を粉砕するお力をお持ちであるいっぽう、畜生類を救済なさる観音菩薩さま。
近世において、馬は農耕や運搬にかかせない動物であったことから、馬頭観音さまは豊穣や交通安全の信仰を集めました。

馬頭観音さま、どうか私のこんこんとわき出でる煩悩を食いつくしてやってください。┉。
馬頭観音さまが消化不良でお腹をこわされたらどうしましょう。


お堂には馬の絵の額が奉納されています。まあ、そうですよね。
境内には馬の銅像があり、お堂の前左側には馬堂がありその中には二頭の馬の木像が安置されています。

観音堂向かってひだりてに、岩の小山があります。その小山の中央部分にどなたのものか胸像が!
だれ?


No.392 21/04/17 20:56
旅人さん0 

ここで。
今来た道を戻って、第二十八番札所橋立堂に向かいます。

ここを後回しさせていただいたのは他でもない、コロナ対策でありました。ちょうど桜の見頃のお寺さんをまわります今回の観音霊場巡り、人の少ないうちに桜の名所とも言われているお寺さんを先にまわろうという、私なりの人の密を避けるための対応策です。
その後の混雑具合はわかりませんが、少なくとも私どもがまわらせていただいていた時刻には訪れる人は疎らな状態でありました。┉これがまた平日ということもあったかとは思いますが。

橋立堂を後に回したバチが当たった、ということはないかとは思うのですが、道に迷いました。
正確にいうと、曲がるタイミングを逃して、もう一度同じ道をぐるぐるといたしました。まあそのおかげで橋立堂のある山をよく観ることができたと思ってもよいのかな。
細い道をくるんとまわるように橋立堂に向かいます。
ここでも駐車場には車が二台のみ。
春の巡礼を二十番台の、しかも後半をまわられる方は少ないということなのでしょうか。

実はこちらへは今回、いずれ再拝させていただく心積もりで参っております。
といいますのも、こちらは鍾乳洞のなかを梯子でのぼっていくような奥の院があるのだそうで、鍾乳洞を行くにはもう少し季節を選んでベストな状態で参拝させていただこうという、夫の意見によりますものであります。

橋立堂が見えてまいりました。
うーん。
参拝の方が居なすぎる?
納経所も扉や窓が閉められています。┉おかしい。
ここはたしかに冬の間は鍾乳洞は閉ざされているように書かれています。その間は御朱印も第二十七番の大渕寺でお受けするようだと書かれていました。まだ冬の扱いなのでしょうか。
┉。
まあ、実はこのあと前回行けなかった第二十六番札所の円融寺さんの観音堂に向かうことになっているので、そのすぐそばである大渕寺さんに寄らせていただくのもわけのないことではあるのですが。

とりあえず、お参りをさせていただきましょう。

No.391 21/04/17 12:08
旅人さん0 

法雲寺さんの回廊を左回りでまわりますと、壁に、まさに〖龍〗!としか見えない木の枝┉幹が飾られていました。
近くを川が流れてるようですので、流木だったのかもしれませんし、とにかく龍とみてとれるその枝振りをありがたく思った方がどこかから持ち込み奉納されたのかもしれません。
観音堂の向かって右側には驚くほどの絵馬がところ狭しと奉納されています。通常の絵馬のようにぶる下げられたものもあれば、軒下の庇にきちんと束ねられたように幾重にも重ねて置いてあるのです。
すごい┉。圧巻であります。

こちらの絵馬は、そうまさに楊貴妃の描かれた図案のものであります。

ただ┉、私は秩父に住まうものでなく、ましてや秩父まで一人で来られない運転下手の方向音痴。
絵馬に願いを書いてその願いを叶えていただいてもお礼のお参りも一人で来られるわけではありません。  
絵馬を奉納したところで御礼のお参りに来られる訳でもありません。

(また来させていただきます)と心のなかでつぶやいて。
法雲寺さんを後にしようと、境内の段々を下りてまいりましたところ┉!

由緒書きの案内板に手書きで『まむし注意』と書かれているではないですか‼
┉ご住職さま、まむしにはどのような注意をすればよろしいのでしょう?

あと、このようにお参りに重きをおいて、案内板も見ずに御本堂┉観音堂まで直に参るものも(なかには)あります。
どうか、下の方に目立たぬように貼るのではなくて、もう少し目立つようにお書き添えいただきますようお願い申し上げます。
┉まあ、見たところでまむしに遭遇したときの逃げ方などわかりもしないのですが。
今度来られる日があれば、まむしに遭遇したときの逃げ方、Google先生にお聞きしてまいります。

境内の花は木々に、足元に春を告げておりました。
あと少しすれば見事な藤の咲くことでしょう。


┉明日┉の御開帳には、まだかな。うーん。

No.390 21/04/17 06:15
旅人さん0 

こちらの【法雲寺】さん、江戸時代初期には本堂・観音堂・仁王門などの堂宇が建っていたが、江戸時代後期の嘉永年間(1848-1855)の火災により観音堂のみを残し焼失したと書かれております。

┉┉前言撤回してもいいですか?タイムマシーン、使いたい!
いやいやどうせならタイム風呂敷を。
私、ドラえもんの連載が始まったころの子どもでありまして。ファンでなくとも記憶しているくらい、子どもの頃の記憶はしかと残っているものであります。
┉それにくらべて今ときたら┉(T^T)。


閑話休題。

観音堂は元和元年(1615年)の建立とされています。
三方を山で囲まれた中の傾斜地にあり、斜面を段状に切開いた場所に建てられた法雲寺さん。
出火元はどこであったか、本来上へといくであろう炎をなんとか防ごうと必死な消火活動が目に浮かぶようです。
燃えゆく堂宇に涙しながら、寺宝を持ち出し、観音堂を守ったのでありましょう。

┉やはり┉過去は過去。起きてしまったことは起きてしまったことでしかない。
そんな簡単に戻ったり、戻せたりしたら、それはもう人の世ではない、そんな気がいたします。 





取り戻したい過去がこの世にはたくさんあります。
それはもう星の数すらを超えたかもしれない。 

無情としかいいようのない出来事のなんと多いことか。
胸のつまる思いであります。


















No.389 21/04/17 05:53
旅人さん0 

こちらのお寺、臨済宗建長寺派に属するとのこと。┉清雲寺さんと同じであります。
あのトライフォース、ではなくて三つ鱗の御印が境内にひとつ、あるのが目につきました。
観音堂で御本堂にあがる前に香炉にお線香を立てます。
この香炉の灰がこれほどはないというくらいに整えてあります。┉そんな香炉に、嬉しくなってお線香を立てるのが私、どこに立てていいものか躊躇い悩んで立てるのが夫であります。
御本堂へと何段かしつらえられたきざはしをあがると、御本堂の引き戸に開けてよいと書かれています。
┉御本堂の中は薄暗くて、かすかに御前立ちの如意輪観音さまが見えたような見えないような。うーん。


こちらの御本尊の如意輪観音さまは、【楊貴妃観音】とも呼ばれ、像高約40㎝の木の座像なのだとか。
その御姿は片ひざを立てた金色燦欄たるもので、ふくよかな手や頬の流れ、華やかな冠や瓔珞など美しく尊厳に満ちたものなのだそうで、寺伝によれば、昔、唐朝の玄宗皇帝が寵愛した楊貴妃の冥福の為、自ら彫刻し、不空三蔵が開眼したものであると伝えられています。
鎌倉時代後期の元応元年(1319年)道隠禅師が唐より奉持したと伝えられ、秘仏となっておりその厨子の扉は閉められているとのこと。┉まあ、御前立ちの如意輪観音さまが見えなかったくらいなので厨子すらまるで見えないのですが┉。
そんな秘仏の御本尊さまが四月十八日の縁日と午歳の歳にご開帳となられるとのこと。
四月十八日!?
うーん。うーん。うーん。┉。この繰り返す言葉は私の煩悩の漏れ出たものにございます。

御本尊が納まっている厨子のそばには、道隠禅師が中国からもたらしたという〖楊貴妃の鏡〗をはじめ、〖天狗の爪〗、〖龍の骨〗等があるとのこと。
さらにこちらには木の板に陰刻された全国的にも珍しい古い納札が寺宝としてやはり御本堂にあるのだといいます。
なんでもそれは古いだけではなく、室町時代に秩父観音霊場が三十四カ所と改められたという証であり、秩父札所ならびに日本百番観音霊場の成立にかかわる資料としても大切なものであるのだといいます。

┉それらは御開帳の時には拝することができるのであろうか、うーん。












No.388 21/04/16 05:44
旅人さん0 

今度こそ【法雲寺】さんに。

緩やかな細い坂道をのぼって行きます。ちょうどよい距離感の間隔でお家が建ち並んでいます。┉住宅地?そんな景色がしばらく続き┉えっとぉ、法雲寺さんは┉。
この日の車は私の愛車。そう、ボケ防止とかのたまわりナビを付けなかった車であります。
人間というのは勝手で、ナビがあれば頼り過ぎを憂い、そうかといってナビのある暮らしに慣れてしまうとナビがあればなぁと思う。┉えっ?、私だけ?

ドラえもんの道具みたいに、困ったときだけ見られるようになればいいなあ。
┉ドラえもんの道具はもっともっとずっと便利だから!どこでもドアとかで瞬時に行きたい場所に行けるから!空も飛べるし。
過去も未来も行けちゃうから!
それはどうかなあ。
やっぱりそれは漫画の世界でいいのかもなあ。


閑話休題。
結論から言えば、まあそんなくだらないことを脳内で考えているくらいの間に着く、細い坂道をのぼったところに法雲寺さんはありました。
さんざ人里を通って来ているくせに、ふと、人里離れた┉などという言葉が脳内に浮かぶほど、静けさにつつまれています。
駐車場には車はなく。どう停めたらいいのか区画のない駐車場で迷うことしばし(そういうことに細かい夫が、笑)
古びた石柱に秩父三十番と書かれています。
参道を行くと。
これは┉浄土庭園。
緩やかな山の斜面を極力生かして、整備された庭でありながら、自然と一体化をコンセプトしているかのような、造られた庭でありますのに、あえて造った感を消して整えておられるような境内でありました。
好き。
石仏さまにお供えされていたのも梅の枝。白とピンクの梅の枝が優しいお顔だちの石仏さまにこれほどはないというくらい似合っています。
石段をのぼって、見えてくるのは経年して落ちついた色となった朱塗りのお堂。屋根が淡いみどり色のこともあって囲まれた木々によく映えるお堂であります。
古びた千社札がたくさん貼られておりますが、朱に白という本来ならば目立つはずの色も長年かけてお互いが同調しています。
保護のためには復元修理が必要なのかもしれませんが、私にとってはちょうどよい色合いであります。





No.387 21/04/14 15:20
旅人さん0 

秩父荒川の千手観音堂さん。
車で通りすがりに拝見したときに感じたよりも大きく、立派な彫刻の施されたお堂でありました。

お堂に寄りそうかのように植えられた枝垂れ桜は今まさに満開。
そばに枝垂れ桜で有名な清雲寺さんがあるせいか、訪れる方はおられませんでした。向拝にも半浮き彫りの、像をも名のれそうな見事な彫刻が施されています。┉ん?

こちらの観音堂さんは四面すべてをめぐる回廊となっているのですが、お堂の正面にあたる回廊の天井、さまざまな相撲の取り組みの絵がはめ込まれているではないですか。
ええっ!?
まあ、こちらの観音堂さん、お堂の真ん前に土俵があつらえてあるくらいですから、相撲の絵が飾られているのもなんの不思議もないといえばないのでしょうが。
相撲についてまるで知識のない私でありますが、おそらくこれは一枚一枚が相撲の手?型?を描いてあるのだと思われます。
夫いわく四十八手。
四十八種類の板絵が、おそらくこういった形で奉納されたのでありましょう。


肝心のお堂は無人ということもあり、かたく戸が閉ざされており中の様子もわかりませんでした。

案内板をしっかり見るのは夫。 

なんでも、こちらには千手観音さまの座像が安置されているのだとか。
ええっ!? お座りになられている千手観音さまですか?!
これは是非直接拝観させていただきたいものでありますが。
さらには十六善神像と四天王像が安置されているのだといいます。

┉御開帳はないのだろうか。
うーん。


ん?
これだけ立派な土俵があつらえてあり、手入れもされているということは、相撲をとることがあり、そうしたらきっと相撲大会とかも開催されるのでは?
その時とかはどうなのだろう。┉。┉私よ、それを欲といい、煩悩というのだよ。いけない、いけない!

でも、さすが千の手で人々をお救いくださる千手観音さまのお堂でありました。
こんな私をさっそく救ってくださいます。
毎年八月十六日に信願相撲という行事があるのだと、案内板に書かれていました。
身体健全と無病息災を祈願した相撲の奉納があるのだそうです。
その時に御開帳されるかどうかまでは書かれてはいないのでありますが。┉うーん、八月十六日かぁ。

おいおい、その時にはさらに駐車する場所に困るということでしょう。

No.386 21/04/14 02:57
旅人さん0 

【清雲寺】さん、【若御子神社】さんの次に向かうのは第三十番札所【法雲寺】さん。
┉。┉向かっておりましたのはたしかな事実です。

ですが。
秩父という土地は、いたるところ石仏があり、祠があり、ここが昔から信仰深い土地柄でありましたことを物語るものであります。
そしてその石仏や祠は、かつてその移動手段が徒歩でしかなかった時代の巡礼者たちの、身を休め、心を和ます存在でありました。

私どもは車で移動して巡礼をしている者ではありますが、やはりそのような祠や石仏さまに心癒され和ませていただいております。
法雲寺さんに向かう道の途中に、駐車するスペースこそない、境内こそ狭いのですが、小さなお寺さんレベルの大きさのお堂が見えてまいりました。
「どうする?寄らせていただく?」と夫。┉夫よ、この妻は寄りたいと思えば必ずや騒ぎたてるヤツでありますから。そんなことはイヤというほど味わわされてきたでしょう?
もう、寄りたいと思ったなら私の意見など求めず、寄ってくださいませ。
ただ、こちらには駐車するスペースがないので、片方が車に残って停車している状態での参拝となりますか。

車の中から境内を見ると、お堂の前が何やら少し土が盛られております。何か特別な法要でも営まれたあと、でしょうか。
ん?┉あ。これは!
土俵かも。┉土俵、でしょう。

無住の、お堂とその土俵のみのスペースのものではありますが、地元の方々がこちらをずっと大切にされてきておられるかが一目みてわかるものでありました。
その土俵はすぐにでも使えるように整備されておりましたし、境内も草ひとつなく手入れされております。
┉いいなあ。
いいよなあ。

ほおぉう。どうやらこちらは千手観音さまがお祀りされているようであります。



No.385 21/04/13 14:41
旅人さん0 

秩父では、すでに絶滅して久しいニホンオオカミを、お犬さまと呼び、神の使いとして今も崇敬しているのでありました。

かつて。
農家にとってオオカミは田畑を荒らす猪や鹿を退治してくれる大切な動物でありました。
そうしたことからいつしか、オオカミは災難を除く霊力をもった神の使いとされ、御眷属と呼ばれるようになり崇められるようになりました。今も御眷属信仰、オオカミ信仰は根強く残るものであり、三峯神社をはじめ、秩父の多くの神社にはオオカミ像があるのだそうです。
御眷属拝借やオオカミのお札と呼ばれる護符。
┉ああぁぁ、早く三峯さんに参拝したいぃ。


猫が好きとか以前書いておりますが、オオカミも好きなんです。┉ニホンオオカミは絶滅してしまいましたけれど。
まあ、動物が好きなのかと。
そして狛犬さんが好き。
それがオオカミさんの狛犬、うーん♥



┉実に昨日、声に出して「ああぁっ!秩父に行きたいっっ!!」と独り言を言っていたくらい、秩父に心惹かれております私。

三十四観音霊場のうち三十番札所まで巡らせていただきました巡礼。
まだ参拝させていただいていない神社仏閣。
ナビで見かけたけれど場所がわからなかった摩利支天さま。
春の一日に執り行われる廻り念仏、御開帳。春祭り。御縁日。
┉今、春の秩父は行事が目白押しであります。


人混みは避けて密にならぬようにいたします。
できうる限りの感染予防対策をとります。

どうか、神さま仏さま、私を秩父に行かせてください。



No.384 21/04/13 13:46
旅人さん0 

私どもはまだ参拝をしてはいないのでありますが、秩父にはパワースポットとして全国区でも有名な神社さんがあります。
そう、【三峯神社】さんであります。 
行きたい行きたいとかなり前から熱望していたにも関わらず、そうこうするうちにあまりにもその人気がヒートアップしてしまい、いつかゆっくりと時間をかけた参拝をさせていただこうと、心のなかであたためております神社さんであります。
そのヒートアップした理由は今は幻となってしまった御守りにあります。
もともと有名であった神社さんで、もともと有名であった御守りであったのですが、〖浅田真央〗さんがそれを手に臨んだ試合で好成績をのばしたという報道から拍車がかかり、たしかその御守りは授与を中止してしまったように記憶しております。

【氣守】と呼ばれる御守りは何色かのラインアップがあるようなのですが(参拝していないのであくまでも情報ですが┉)、
かつて毎月一日限定で、しかも数も限られ授与されていた〖白い〗〖氣守〗は、三峯さんとしても特別な扱いをされておられ、その特別、その限定というところもあって、毎月一日には道路に白の御守りを求める参拝客の大渋滞ができていた、といったものでありました。

私もその〖白い氣守〗がお授けいただきたかった一人でありました。
カレンダーをみてはこの一日ならどうだろう、とあれこれ思案していたものでありました。

そこへ浅田真央さんが┉という報道によりさらにさらに拍車がかかり、大渋滞が大大大大大渋滞となってしまったようで。
白の〖氣守〗の授与をやめられたのか、いつでも授与できるものとされた
のかは、行ってからのお楽しみとしたいので調べてはいないのですが┉。


そんな憧れてやまない三峯神社さん。
その三峯さんこそがオオカミ信仰で有名な神社さんのひとつであります。

No.382 21/04/12 06:08
旅人さん0 

【若御子神社】は、天平年間(730)頃に【若御子山】の頂に神武天皇が祀斎されたことが始まりと伝えられています。

【若御子】の名の由来は、神武天皇の別呼称である「若御毛沼命」からきているのではと言われているようであります。┉ええ、若御子山です、若獅子山ではありません。(ーー;


この社殿のあります境内からの景色は、ちょうど桜の時期だったこともあり、またお隣の清雲寺さんの枝垂れ桜も見えるまさに絶景!
ありがたいことでございます。

ひとしきり社殿のあります一番高い境内からの景色を楽しませていただき、境内全体に目を移すと、小さなお社が目に入りました。
近づいてお参りさせていただ┉いただこうとすると、熊の出没を知らせる立て看板があります。
それもまた、手書きなところがいかにも緊迫した状況を思わせます。
(((((゜゜;)


手を合わせたのち、早足で石段をおりたことは言うまでもありません。
そ、そうですよね。オオカミさんがお守りになるくらいの土地であります。熊さんも住んでいて当たり前ですよね。

私の参拝の支度には、いつもは鳴らない工夫をして、いざというときはすぐに鳴らせる状態にした熊避けの鈴が仕込まれています。
観音霊場巡りで、いまだにどう使うのかわかっていない鈴もあります。

でもですね、愚かな私も熊といきなり遭遇したら、それから鈴を出しても意味がない┉むしろ危険なことはわかっています。至近距離でいきなり遭遇したら、鈴を出す余裕もないでしょうし。
気のたった時期の熊であれば、もはや熊避けの効果など皆無なこともわかってはいます。


ええ、熊出没注意と書かれた看板を見かけたり、いかにも!といった土地を訪れたときは、逃げる!
┉ではないか、早めにそこを立ち去る、ということですよね。


おかげさまで神武天皇の御加護があり、オオカミさんも御守りくださったので、花咲く宮の中、くまさんに出会うことなく清雲寺さんと若御子神社さんの間にある広場まで下山(?!)することができました。


No.381 21/04/12 05:29
旅人さん0 

【若御子神社】の境内にも見事な桜が咲いていました。

ん?
おおっ!
私好みの┉などと申し上げるのは不謹慎かとは思うのではありますが┉、それはそれはかわいらしい、狛犬さんが石段をのぼってくるものを見張っておられます。
その可愛らしさに思わず小さな声をあげたほど、であります。
通常、神社さんでよくみかけられる、あのたてがみふさふさの狛犬さんとは異なり、シュっとしたお顔と細身の御体で、〖日本犬〗といった面持ちであります。

あとで調べたときにわかったのですが、こちらの神社の狛犬さんはオオカミさんなのだそう。
この見ため、そうか、そうでしたか。

まだ私どもは参拝にうかがっていないのですが、秩父で有名な神社さんであります【三峯神社】さんもオオカミを御眷属として奉っておられるように、秩父では【オオカミ信仰】があることで有名な土地。
こちらもオオカミにお護りいただく神社さんでありました。


離れがたい思いを断ちきって、石段を上がって本殿へと向かいます。
言い換えると、しばらくその狛犬さんのところをうろうろとしていたということであります。
狛犬さんを愛する方は多いようで、狛犬さんの写真をアップされておられるブログもあるくらい。┉ええ、決して私だけではありません。

石段を登ると手水舎に水はなく、その場で、
(申し訳ない、このままの身でお参りさせていただきます)と、心のなかで手を合わせます。

神楽殿があり、社務所があって。
社務所にはコロナのため御朱印は中止している旨書かれた貼り紙がしてあります。


若御子神社の御祭神は、【神武天皇】。
本殿には神武天皇の絵が掲げられていました。

〖軍神〗とも呼ばれる神武天皇がご祭神であられるこちらには多くの武将が戦勝祈願に訪れたといわれています。
【藤原秀郷】が【平将門の乱】の平定を祈願したと伝えられ、また、【源頼朝】や【足利将軍義晴】がお参りされたと伝えられているようです。

戦勝祈願のほか、国家安泰、延命長寿、開運、招福、病気治癒などのご利益を授けていただけるようでありますので、コロナの終息と国家安泰を祈願させていただきました。




No.380 21/04/11 07:31
旅人さん0 

珍道中、お詫びと訂正。


前スレにおきまして〖若獅子神社〗と書いておりますが、大変な誤りが発覚いたしました!【若御子神社】さんでありました。
【若御子】!若御子神社さんであります。

何故こんなことに┉。

それは出先で、老眼の初老の男が、スマホの小さな画面で検索し小さな文字を読み間違えた悲劇から始まっています。
向拝に掲げられた扁額を見ても、夫婦揃ってそのあやまちに気づくことなく、しかもかなしいことに、若獅子神社という検索であっても秩父の若御子神社さんの記事が検索できてしまうものがあるという悲劇。
そうなんです、老眼の方は多いということ。┉。

この駄文をお読みくださっておられます皆さまに一刻も早い訂正をさせていただき、お詫びを申し上げます。

老眼の夫はこの時間、いまだに寝ておりますので、まだその誤りを知ることなく惰眠を貪っておるようです。
あ、いやいや、日頃の疲れでまだ目覚めずにおるようです、ですよね。




若獅子神社❎ 若御子神社💮、であります。



m(_ _(--;m

No.379 21/04/11 06:21
旅人さん0 

清雲寺さんの地続きに神社さんがあります。
「どうする?お参りさせていただく?」と、夫。
┉うーん、この夫婦間の関係図、長年のものだからな。
決定権は我にあり!
とかは決して思ってはいないのですよ、本当に。ただの会話です、会話。


群馬県、【上州】という地は、【かかあ天下】で有名な土地柄でありまして。
ああ、なるほど、ってうなずかれた方、おられません?

ですが┉。
一般に思われているかかあ天下というのは、女性が威張っている女性上位の社会であったり家であったりのようですが、
本来は〖夫が出かけている間の家を守る強い妻〗というもので〖うちのかかあは(働き者で)天下一〗という誉め言葉であるのです。

【からっ風】と並んで、上州名物と言われています、かかあ天下。
かつて上州と呼ばれた地域(群馬県)は養蚕が盛んであり、女性は〖養蚕〗・〖製糸〗・〖織物〗といった〖絹産業〗の担い手であり、男性よりも高い経済力があったことがあげられます。
雷や空っ風といった上州の厳しい気象環境や、気性の荒い上州人気質に対する印象から、活発で働き者の上州女性を表す言葉として用いられたものであります。


今は「夫を尻に敷く強い妻」という意味で使われることがほとんどですよね。

まあ、わが家の場合は、上州関係なく今風。┉よい言い方をして今風。
それでも結婚当初は上州女のかかあ天下だったんだけどなぁ。
そうかぁ、どこかで私が勘違いをしたんか。うーん、これは痛いなぁ。
まあ、今は扶養家族で、子供たちも育った専業主婦の私。
間違った勘違いを、かかあ天下のはき違えを、正していく絶好のタイミングです。

がんばれ、私!

┉でも、もって生まれた気性もあるからな。これは大変な矯正になりそうだ。┉少しづつ、少しづつ。うーん。




閑話休題。

お隣に鎮座されておりましたのは【若獅子神社】さん。
もちろん、お参りさせていただきました。

お寺さんと神社さんをつなぐ広場には平日にも関わらず焼きまんじゅう屋さんと、花屋さんの屋台が出ておりました。
焼きまんじゅうって、群馬県の名物じゃないんだっけ?





No.378 21/04/08 05:02
旅人さん0 

┉世話人をお勤めくださっている方々がこちらを大切にされているのがよくわかる、おそらくこまめにお掃除をされておられきれいに、そしてよく整った御本堂です。
それでも┉。

外から参拝したときには気づきもしなかった、がらんとした空虚感が漂っています。

ああ、無住となって久しいって、こういうことなんだな。


観音霊場にあたっているやはり無住のお寺さんは、それでも、毎日世話人の方々が詰めて、香を炊き、灯明をかかげ、お供物やお花をお供えしています。
もちろんこちらも、この拝観できる期間の今はそうなさっておられます。

修行なされたお坊さまが毎日のお勤めをなさっているのとは異なるのかも知れませんが、でも、同じ無住のお寺さんをまわっていてもこんな空虚な感じを受けたことはありません。

大きな御本堂、広い境内のお寺さんで、世話人をお勤めくださっている方々や訪れる人々にこんなにも愛されている清雲寺さん。
つくづく無住であることがもったいなく、哀しく思われてなりません。


そう、まるで桜の花のよう。
一年のほんのひとときに多くの人々が集って、あとの季節はほとんど訪れる人もない、穏やかな時が流れる清雲寺さん。そんな儚さにも似たところが、境内に数多く咲く桜と重なって感じられます。


それでもいくつものお寺さんが、かつては無住の時もあった、などと聞くことは多々あります。
こちらのお寺さんにおかれましても、どうか毎日灯りのともる日が再びおとずれますよう、願ってやみません。


境内はまさに花の盛りをむかえておりました。
さまざまなピンクの枝垂れが枝を広げており、桃源郷に迷いこんだかのようです。


ありがたい。

ここを管理してくださっている方々がおられ、主なき寺を守る御仏と桜があって。

そしてなによりもずっとこの清雲寺さんのことを心にかけて、連れてきてくれた夫に、感謝、ですよね。
┉稀代のあまのじゃくは、いまだにそれをおくびにも出さず毎日を送っています。うーん、ありがとって、言ってみるか。
┉夫におでこに手をあてられそう。

No.377 21/04/07 21:12
旅人さん0 

枝垂れ桜で有名というお寺さんは、【清雲寺】さん。
その開山は応永二十七(1420)年とのこと。
開山した僧侶が植えたとする説もあるようですが、一説には開山の以前からすでに枝垂れ桜は世に知られていたものだとも伝えられているようです。

寺標のあるところより前からすでに枝垂れ桜。

そしてまもなく目の前に広がる一面の枝垂れ桜!
しかもみな樹齢のいった大きなものばかり、まるで一面をいくつもの桜のヴェールが包んでいるかのようです。
語彙力のない私が発した言葉は「うわぁぁ、┉これは┉。」
まるで桃源郷に来たかのよう!
すごい。
これはすごいです。

いやいや、まずは参拝、参拝。

何段かの階段をのぼるかたちの御本堂であります。
中には入ることはできませんが、なんとも居心地のよさそうな気が御本堂から漂ってくるかのようです。

いったん戻る形となります、授与所には、世話人さんが二人詰めておられました。
秩父の観音霊場は無住のお寺さんが多く、あまり違和感を感じてはいなかったのですが、こちらも無住となって久しいようです。
気さくな、仲よさげなおじさま二人。コロナ禍で、今年は御朱印は御朱印紙でと決まったようで、どこか所在なげ。
「すごい枝垂れ桜だろう?この時期しか御朱印はしてないんだよ」
「ポスターいる?」
いろいろ話しかけてくださいます。
「ここんとこ(授与所の軒)にキズがあるだろ?これが清雲寺事件のときの刀傷なんだ。ここの寺に都からえらい人が来てたときに突然乗り込んで来た輩がいて、本堂には火縄銃の痕もあるんだ、見てみな」
ほ、ほおぉ。
歴史は物騒なことが多いです。

ふ?
弾痕┉。弾痕?
わからない。
もう一度、おじさまたちにお聞きすると、
「本堂の階段とこから左っ側を覗いてみ?」
左┉。左。┉。
「わかんねぇか、こっちこっち、来てみ」
な、なんと御本堂の戸を開けてくださり、中に上げてくださいました。

「ここだよ、ここ。なんも書いてないし、わかりづらいか」
┉なんとありがたい。

たしかに弾痕が。┉といっても弾痕を見たことがないので、(これが弾痕かぁ)と思ったというのが実際のところなのですが。

御本堂内陣の真横です。
なんとばちあたりな!

No.376 21/04/07 08:43
旅人さん0 

長泉院さんの山門を出ると、夫がいつものように、
「次は┉」と言います。
いつもと違っていたのは、
「札所ではないお寺なんだけど、このすぐ近くに枝垂れ桜で有名なお寺があるみたいなんだけど、どうする?」と。
ん?
「ええっ?そうしたらそこは混んでるってことじゃない?やめておけば?」と即答する私。
「┉。」
車に乗ると夫はもう一度、
「すぐ近くみたいなんだけどねぇ」┉行きたいんだ。

いつもいつも、いろいろルートを検索して、私が喜びそうな神社仏閣はないかも調べて、ほとんどの行程を運転して連れてきてくれている夫が、行きたいって、私を連れていきたいって思った所なんだろうなぁ。
┉。


「そっか。なら、行くだけ行ってみて、混雑具合を見て決めようか。
近くに行けばわかるだろうし。密になるほどに混んでるってなれば、そもそも駐車場に車が置けないから。
フェイスシールドつけて手袋もつけて。
とりあえず行こう!」
┉こうして文章にすると、いかに私がいばってるかってことがよくわかるなぁ。
うーん。
何故に私に決定権があるかのように語ってるんだ?

┉こうして文章化することで認知症進行防止のほかに、夫と今後も続く二人三脚の寄り添い方を反省していこう。
少~しづつ、ね。少~しづつでも、ね。


駐車場には四台しか停まっていませんでした。
仮に電車や徒歩でお越しになっている方がおられたとしても、さほど混んではいないのでは?

よし、行こう!




No.375 21/04/06 13:23
旅人さん0 

シトラスリボンをいただき、その小さなビニール袋を胸に抱きながら境内を歩き、そして参道入り口の枝垂れ桜のところへと戻りました。

こちらの枝垂れ桜、樹齢は百三十年とのことで、一時期は咲かなくなるほどに勢いが衰えたのだそうです。それが道路工事で陽当たりが良くなったところ樹勢が復活したとのことで、ちょうど私どもが参拝させていただきました頃七分咲きくらいでありました。
参道入り口の御案内をされておられるかのようなお仏像を抱くように立つ姿は、神々しくもありました。そんな桜は〖よみがえりの一本桜〗と呼ばれるのだそう。
このような世の中となった今に、その桜咲く頃に秩父に訪れることができた幸せをしかと感じ、一日一日を意味あるものとして生きねばそれこそばちが当たるなぁと、思ったり。
┉そんな思いをずっと抱いて生きられたなら、それで私のめざす生き方そのものとなるのだろうに、なかなか┉。

日々感謝して生きる。
感謝する対象は山ほどあり、幸せを感じる瞬間は山ほどあるのだけれど。雑念と煩悩、私欲のかたまりのような私には、なかなかそのように生きるのも修行のようで。

それでも千里の道も一歩から、です。
がんばろうっと!


No.374 21/04/06 11:14
旅人さん0 

山頂の祠に安置されていたのは慈恵僧正が刻んだとされる現在こちらのご本尊であります聖観音さまでありました。
一行は一宇を建立して観音像を祀ったのだそうです。笹を扉として奉られておられたことから【笹戸観音】さまと呼ばれるそうで、こちらも【笹戸山】と号しています。
山頂にお祀りされていた笹戸観音さまは、その後火災に遭って岩屋が崩落したため山腹に移るのですが、その観音堂の前にお祀りされていたのが長泉院さんの奥に祀られている秋葉大権現さまでありました。
しかしそこでもお堂が焼失し、江戸時代後期に別当寺でありましたこちらに移転して、それ以降こちらのご本尊さまとしてお祀りされており、秋葉大権現さまもこちらに移られたようであります。


こちらで御朱印をいただこうと納経所にお邪魔いたしますと、先ほど境内を掃き清めておられた若いお坊さまが私に気づいて、なのでしょう、まさにそんなタイミングでお越しになりました。
こんなコロナ禍でなければ、いろいろなお話をお聞きするのでありますが、できうる限りのディスタンスをとり、最小限の会話にとどめているので、お喋りなおばさんは少し寂しいのでありますが、これはもう仕方ありません。巡礼させていただき、御朱印をお受けできるだけでも感謝であります。

そんなコロナ禍の納経所に、これほど相応しく、ありがたく思えたものが置かれておりました。ご存じの方も多くおられるかもしれません、あの【シトラスリボン】であります。
┉今はどうなのか┉、コロナが流行り出した昨年、コロナの患者さんやそのご家族、医療従事者とそのご家族が、いわれなき差別を受け苦しんだ時期がありました。
その苦しみを共感しなくしていこうという運動の一環として始められ全国に拡がった、コロナによる差別をなくそうというメッセージを込めたリボンであります。
〖ご自由におとりください。〗と書かれています。
賛同する方が多くおられるようで、シトラスカラーのクラフトバンドやリボンが売り切れていたことを覚えております。
ここ秩父でも同じだったのでしょう、シトラスカラーのものではありませんが、一つ一つに思いを込めた優しい色合いのさまざまな色の、三つ葉の形のリボンがビニール袋に詰められ置かれていました。

No.373 21/04/06 05:41
旅人さん0 

御本堂の前に小さな小さな祠がありまして。
そこには、なんともユーモラスな、などと申しあげては失礼なのでしょうが、私の語彙力ではその言葉しか思い浮かばず、こんな表現をいたしますが、木造のお婆さんの像が鎮座しているのです。
そのお婆さんの像、┉もしかしたら後から目を強調して黒く塗ってあるのかも知れないのですが┉、真正面を見ておらず左方向に視線を向けており、そのお口は、〖にへらっ〗という表現で伝わりますでしょうか、〖にまぁ〗というのかなぁ┉ニッっと口を開けて歯を出して照れ臭そうにも見える笑みを浮かべているのです。
好き。可愛い。┉まぁ、人それぞれ好みでありましょうが。

白髪としか思えない髪を前髪からすべてを後ろでゆるく縛り、左足は片膝を立ててその膝に手を乗せている、そんな木像であります。
┉┉だ、奪衣婆?
ここに?
でもこちらの寺宝に天国地獄絵図があるようです。
それから考えると奪衣婆さまでもおかしくはないのかもしれません。
┉奪衣婆さまににへらっと笑う、だの、好き、可愛いだの申していたのでしょうか。バチが当たったらどうしましょう。
三途の川で叱られますかね。

お婆さんの祠をあとに┉いやいや御本堂を後にして、御本堂むかってひだりてにありますお堂に向かいます。
【秋葉大権現】さまがお祀りされていました。
秋葉の神さまといえば火防の神さま。
こちらのご本尊さまをお護りくださっておられます。

かつて。
こちらのご本尊さまはここ長泉院さんから五百メートルほど離れた山の頂上におられたのだそうです。
そこはたいそう険しい山で、里人誰一人そこにはいけないほどの山なのだそうです。そこに毎晩灯りが灯り、山麓の淵から龍女が奉献しているようだと、それはあの山に仏菩薩さまが現れたということなのだろうと話していたのだという。
あるとき何やらただ人とは思われない僧侶十数名がこの地を訪れ、里人は誰ものぼらない山を道なき道を登っていったのだそうです。
十数名。┉それは秩父霊場を開創した十三権者といわれているようです。
一行が頂上に至ると岩屋があってその岩屋は笹が生い茂って扉のようになっていたのだとか。その笹を押し開くと洞窟のなかに聖観音さまの像が立っておられたのだそうです。




No.372 21/04/05 05:51
旅人さん0 

【長泉院】さんの御本堂は、境内の至るところに咲く、身の丈さまざまな花々の間に、突然あらわれます。
┉まあ本当は、ついつい花に目がいっていて、のことなのでしょうが。

大きな建物で、〖どっしりとした〗という言葉が似合う御本堂はどこか昔の学校にあった講堂を思わせ、そして一面ガラス戸のはめられている、お寺さんとしてはあまり見たことのない建物であります。

ガラス戸の上は白い漆喰で、その部分が背の高い建物なので普通よりも丈があり、そこが一面、千社札!しかも一見、書写した半紙が貼られている学校の教室の壁を思わせるように。
千社札の大きさの違いこそはあるものの、隣とのバランスを考えて、一人、また一人と誰もそのきまりを破らず貼り、お行儀よく貼られています。
そこもまたなにか新鮮な御本堂であります。

一面ガラス戸で、そしてその上に一面の千社札。
そんな御本堂の正面だけガラス戸が開けられていて御本堂のなかを拝することができます。大きな広い御本堂ですがガラス張りのおかげで大変明るい御本堂であります。
と。
御本堂の鴨居や柱にまで千社札!
今は拝観の際は御本堂の中には入れませんが、昔は自由に入ることができたのでしょうか。
うーん。なんと人を信じる心の強くて深いお寺さんでありましょう。

襖絵は直接板に描かれた┉今でこそ色褪せてしまってはいますが大きな龍が描かれていますし。
その上に掲げられた額は葛飾北斎の物なのです。

┉というか昔の人はみな信心深く、お寺の本堂の絵に悪戯するような罰当たりはいなかったか。
そのわりには千社札は結構なところにまで貼られているのではありますが、ね。

そんな御本堂のなか。
厨子の前には性空上人が秩父霊場開創のおりに納めたという石の札が安置されているのだとか。
もちろん、おばさんは懸命に目を凝らしたのですが、見ることはできませんでした。
その石札ゆえ、こちらは〖石札堂〗〖石札道場〗とも呼ばれるのだとか。

葛飾北斎の絵は遠目ですが┉綺麗でした。
満開の桜のひとかたまりが描かれているのですが、やわらかな色合いの花の桜でありますのに、どこか力強さを感じさせる┉そんな見事な絵であります。

┉もちろん、御本堂を覗いていただけでなくきちんと読経してお参りをしてからです、はい。

No.371 21/04/04 07:37
旅人さん0 

最初に訪れたのは第二十九番札所の【長泉院】さんであります。
こちらは【東国花の寺百か寺の札所】にもなっており、まさにその花、桜の季節!花を愛でにお越しになる方もおられるかもしれないとの思いから朝一番をめざして向かったものの、┉どうかなぁ。


おおっ!駐車場に停められている車は二台。
大丈夫だぁ。よかった。
駐車場から歩いて向かうと見えてきましたのは、その枝を道路まで広げた大きな垂れ桜と赤い帽子をかぶられた石仏さまでありました。さらにはそこから見える山々に咲く遠くの桜も見え、薄曇りの天気ではありましたが、胸いっぱいに春がひろがってきました。

垂れ桜の古木と苔むした石仏さま。
もうそれだけでありがたい。

思えば昨年の春は、コロナの時代に突入し、緊迫したなか全国に緊急事態宣言が発令されて、食料品以外の店は休業し、すべての国民が外出を自粛して、春の花たちはいつも通りに咲くもののそこに花を愛でる人の姿はないといった異例の春でありました。
そんななか、秩父三十四か所観音霊場におかれましても霊場始まって以来の閉鎖をしています。
感慨もひとしおであります。
何を拝むでなく、この春を生きていることに自然と感謝し手を合わせていた私でありました。┉ただの道路で、というところがちょっとな、┉まぁ私らしいかな。

境内はまさに花の寺、でありました。
さまざまな花が咲いています。
桜。
木蓮。
ミツバツツジ。
┉花にくわしくない私でごめんなさい。
私が名前を知らない花もたくさん、咲いております。

枯山水は見事でありながら、それがまた自然に溶け込んでいる、ここにいるだけで心が穏やかになる、そんな空間であります。

夫はもうその花を愛で境内を歩きだしています。
┉おーい、まずは参拝ですよぉ。

境内を掃き清める若いお坊さまがおられます。


手水舎が見えてきました。
最近は手水舎自体のクローズもされているところも多くみられます。もしくは柄杓をなくして手で受けるような工夫をされておられたり。

実はそんなコロナの時代に合わせて、私、実は巡礼の道具の中にひとつ、あらたなグッズを増やしました。
百円均一のキャンプ道具のコーナーでみつけた、取っ手がおれる金属製のカップが、柄杓の役割を果たせそうだということに気づき、リュックのサイドに巾着袋にいれて持参してみたのであります。
┉どうかなぁ。


No.370 21/04/04 06:12
旅人さん0 

スタートこそ私の運転だったものの、埼玉県に入る直前のコンビニに寄った時点で、それこそ長年つれそった阿吽の呼吸、というかいつもの習慣で夫が運転席、私は助手席へと自然に座ってしまいまして。
あっ、と気づいたものの、「いいじゃん」と当たり前な顔をして運転をする夫。
私の修業でもあるんだけどなぁ。ま、いいか。

群馬県と埼玉県の境が橋の途中にあるという橋の両岸は、菜の花の花畑のようでありました。
一面菜の花。
まるで菜の花の公園のようです。
菜の花が大好きな私は運転するはずだったことなど瞬時に忘れて、「うわぁぁ♥すごぉい!」と一人大騒ぎではしゃいでおりました。
┉もしかしたら夫はこれを知っていて、菜の花が好きな私のためにここで運転を替わってくれたのかなぁ。


こんな菜の花の光景を見ると、自然にうかんでくるのが山村暮鳥の詩であります。


いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな


詩の一部、この風景に合うだろう好きなところを抜粋していますが、こんなにも言葉の力で一面の菜の花の光景を思い浮かべることのできるということは本当にすごいなぁと思います。

運転しながら夫が口ずさんでいます。
この詩のすごいところは〖いちめんのなのはな〗といういくつも繰り返されるフレーズを数えるまでもなくちゃんと暗唱できること。
心にちょうどよいフレーズなのかもしれません。
一面の菜の花を見るとちょうど人の心がそう歌うのかもしれないくらいに自然に口をついてでてきます。

┉夫も菜の花好きなのだよな。
帰りは私が運転しよう。
┉すっかり忘れて帰りも夫に運転させて助手席に座る私でありました。

No.369 21/04/04 05:22
旅人さん0 

秩父はすっかりあたたかな春を迎えていました。

前回訪れたのは十月。彼岸花のころでありました。

今は桜が咲き、そして桃、梅。
ミツマタの黄色、山吹の黄色。
木蓮が咲き、コブシが咲き。
福寿草、水仙、菜の花の黄色。
カタクリの紫、ホトケノザの紫。
心はずむ春。

秩父三十四か所観音霊場巡りに行ってまいりました。




巡礼の方だけでなく、春の花を愛でに秩父を訪れる方もおられるかもしれない。┉うーん。
緊急事態宣言が解除されたとはいえ、決して密になってはいけないと思います。┉うーん。
行く前には夫婦二人で悩みました。

でも、
駐車場の混み具合で、ある程度の予測はつきます。
もしそこが混んでいると判断できたならすぱっと諦めること。

混んではいなくても車があれば、それは人と出合いすれ違うことを意味していますので、フェイスシールド。

何よりも御朱印をお受けしております身としては、相手方のことを考えたならグローブもした方がよい?
十月に巡礼した際も、すでに行く先々のお寺さんで消毒用のアルコールをご用意されてはおりましたものの、一応、手指消毒用のアルコールも常備して。



今回の巡礼は二十八番札所の橋立堂からとなります。
┉こちら、冬の間は閉じられているという鍾乳洞があるのだよなあ。
鍾乳洞も奥の院があるとのことで、やはりまわらせていただくからにはできうるなら奥の院までお参りしたい。
梯子や階段をのぼっていくとのことで、今回はもしかしたら奥の院は無理かもしれない。
巡礼の順番を飛ばしてまわろうか。
「いやいや、奥の院はあとに回すことにしてもお参りしておこうよ」とは夫。
意見が別れます。

とりあえず。
花寺としても有名だという、二十九番の長泉院さんが混雑しないうちにお参りさせていただこう。そのように考え、朝の早い時刻から家を出たのでありました。
┉私の運転であります。
希代の方向音痴の私は、家を出るところからすでにどちらの方角に向かうかをすら忘れておりましたけど(;`・ω・)。

運転しなくともナビゲーターを務めなくてはならないくらいなら、運転してた方がよほど楽かもしれません。
まあ、そこは長いことやってる夫婦です、阿吽の呼吸で、ね。
┉夫よいつもすまないねぇ。(≡人≡;)

No.367 21/03/28 16:31
旅人さん0 

もう一つ、並行して書かせていただいております東北路で、西行戻しの松の辺りを書き、そういえば全国のいろいろなところに、西行戻しの○○があると書かれていたのを読んだ記憶が甦りました。

相手がいかなる立場の者であろうと、すなおに自らの負けを認めるということ┉ それは実はそんなに簡単なことではなく、ましてやはるばる遠路まで出向いての道を引き返すなどという大きな選択をいとも容易くしていることに、私は西行の大きさを感じ、ますます好感をいだいたのでありました。
そして┉〖西行戻しの〗というキーワードで検索をかけたところ、いくつかの候補があがり、なんと。
秩父に行く途中の埼玉県寄居町というところにも西行戻り橋というものがあることを知りました。そして私のパワースポットでもあります栃木県日光市にも。


うーん。
西行さんの足跡が私を呼んでいる。


春だなあ。
えっ?私の頭が?┉たしかに。



              

No.366 21/03/25 22:55
旅人さん0 

┉秩父巡礼は〖不急〗であるかもしれません。けれど決して〖不要〗ではない、のであります。
天変地異のとき、悪病流行のとき、長い長い歴史のなか、人は神に御仏に祈りすがって、乗り越えてきました。

非常事態宣言が解除されたいま、感染対策をきちんとして、人が多ければその場でそこはスパッとあきらめる覚悟で。
それならば┉行ける?

マスクのほかフェイスシールドにグローブまで付けて、アルコールも持参して巡礼する、少し異様?
afterコロナ、Withコロナの時代、こうした形の巡礼であってもいいんじゃない?


とつぶやいてみる。

No.365 21/03/21 22:08
旅人さん0 

こちらの化粧薬師さまは、お化粧を施されておられたり、縁を切るご利益があると言われていますが、本来、薬師様という御仏は、心身の病を治してくださるといわれています。
特に目の病気に霊験があるとのことで、太平洋戦争の前までは、「やん眼」を治してもらおうと多くの人がお参りされたお薬師さまでありましたようです。
こちらの地域ではこのお薬師さまをあらたにお堂を建て、お礼に奉納されたものなのか、たくさんの同じ型の小さな石仏さまもお堂のなかに納める棚を造ってお祀りされています。
そして毎年八月八日の晩を祭日として末長くお薬師さまを大切にしていこうとなさっておられるようです。

私の住む辺りは地域のつながりの薄いところで、また、こういった道端に祠や御堂、石仏さまがおられることもありません。
前橋の街を歩き、そこここにこういった御堂や祠や石仏さまに出会うたび〖いいなぁ〗と心から思うのでありました。
やはり前橋というところは国分寺のあった古くから栄えた地ということなのでありましょうか。

No.364 21/03/21 17:42
旅人さん0 

前橋市元総社町を歩いていると、道からすぐの御堂にお顔に化粧をなさった仏さまの石像がお祀りされているのが見えました。
特に扉とかもないため、普通に歩いているとすぐに目につく石仏さまです。
お寺さんとかではなく、前橋の町でけっこう見られる、町のなかにぽつんとある墓所のように、まちなかの道の端にぽつんとお祀りされていました。


【化粧薬師 〖縁切り薬師〗】さまと、立派な石碑に書かれています。


今から四~五百年位前に、この元総社一帯に栄えていた【蒼海(おうみ)城】は、薬師様の北を東に流れる牛池川を外堀とし、土塁を築いて満々と水をたたえておりました。

この蒼海城は、上野国守護代も務めた総社〖長尾氏〗の本拠地として、
室町時代の永享元年(1429年)に築かれた城であり、広大な城郭だったと云われています。
この場所は平安時代における上野国の国府跡であり、北西1.5kmには上野国国分寺跡があります。

天正十八(1590)年に徳川家康が関東に入ると、蒼海城には諏訪頼水(すわ よりみず)が入り、その後、諏訪氏が先祖の地である信濃高島城へ移封となると、
替わって秋元長朝(あきもと ながとも)が入封するのですが、蒼海城には入らずその北に〖総社城〗を築いて移ったことから蒼海城は廃城となったということです。

廃城となった城の外堀のあととなる〖風呂沼〗といわれる沼に、いつの頃か大蛇が住み、困った事に嫁入り前の若い生娘を人身御供にと要求し、従わないと台風が通り過ぎたの如く田畑を荒らしたと云います。
地元の民は、泣く泣く自分たちの娘たちを大蛇に差し出していたといいます。

犠牲になった娘を憐れんで、石仏の薬師様をつくり、白粉と口紅をつけてお祀りしたのだそうです。その後、大蛇も死に、沼もなくなりましたが、薬師様はこの場所に残り「化粧薬師」と呼ばれ信仰されてきたのだそうです。


このお薬師様は、嫁入り前の若い生娘が人身御供となったため、とのことで、嫉妬深い性格とされ、この薬師様の前の道を嫁入りで通ると縁談が壊れると云われ、地元ではこの道は嫁入りで通ってはならないとされています。これが別名、「縁切り薬師」と言われる所以であります。

そうして、いつしか嫁に行く娘はここを避けて通り拝まないようということとなり、その一方で、離縁を願う女はその望みが叶えられたということです。

 


No.363 21/03/21 16:44
旅人さん0 

あとほんの少しタイミングがずれていたら、御住職は最勝寺の御本堂を後にされて、お会いすることもなく、元気なお姿を確認することはできませんでした。

奇跡の一瞬。

一、二分ずれていたらお姿すら拝見することもできなかったというのに、御本堂に上がらせていただき、御住職の読経を拝聴することができたということは、まさに御仏のお導きであったとしか思えません。


【山火事で避難した仏像を救ってください】

足利市の大岩毘沙門天のホームページをひらくと飛びこんでくる黄色地に白字の文字。
私にもうひとつできることがあるとしたら、少しでもその情報を発信することでありましょう。

No.362 21/03/21 10:44
旅人さん0 

一年半くらいぶりにお会いできた不動明王さまに、私は自然と両手を胸の前に組み、ときめく思いでそのお姿を見上げておりました。
その熱い視線は、乙女のそれにも匹敵するようなものであったはず┉なのでありますが、御住職はそんな私を見て
「┉避難をしていただくのに光背をはずしたら填まらなくなってしまって、そこに置いてあるんだけどね」
と、申し訳なさそうに、淋しそうにおっしゃいました。

そう聞いてあらためて見直すとなるほど大きな赤い火炎光背が、壊れないようにそっと、置かれておりました。
┉御住職さま?
こいつはそんなことに気づきもしないで、ただただお不動さまをうっとりとみつめていただけなのでありました。
御住職のお嘆きに寄り添うにはまだまだたくさんの修業が必要なようであります。

御住職はぽつりぽつりと避難のこと、これからの心の持ちようなどをお話しになりながらも、御内陣の両のろうそくに灯を点して、さらに御焼香用のろうそくにも灯を点してくださいました。
ありがたい。
最勝寺の御住職は、いつも、参拝に参ったすべての者に対して、御仏に正しく参拝できるよう場を整えてくださるのです。
ありがたくも申し訳ない思いで、夫に続いてお線香をあげさせていただこうとしていると┉。
御住職はまたいつものように私どものためにお経をお唱えしてくださろうとされています。
本当にありがたく、申し訳ない。  

あ、私、┉あの山林火災の鎮火を願ってしていた写経を持ってきたのだった。
どうせなら読経をいただく前に御住職にお渡ししよう。

御住職はそれを両の手で恭しく受け取ってくださり、そこに書かれた願い文を見て、
「これは┉ありがたい。火災の鎮火をお祈りくださいましたか┉。」
┉私にできましたことはこのくらいしかありませんでしたので。

御住職は般若心経をおとなえくださり、不動明王さまの真言を三回おとなえくださいました。

さらには「午後からは御本堂である毘沙門堂にあがるのでどうぞ、よろしければ」とおっしゃってくださいましたが、これ以上お邪魔してしまうことは避けたく、次の御護摩修行の時に、と申し上げてお寺をあとにいたしました。


No.361 21/03/21 02:21
旅人さん0 

昨日、栃木県足利市の最勝寺さんへ参拝させていただきました。
山林火災収束宣言された三月一日から二十日、お彼岸のお中日。避難させてくださった御仏の御像や仏具をお戻しになられながら迎えたお彼岸、御住職の忙しさはさらに増しておられましょう。

お寺に参拝させていただけば、御住職の体調等のご様子もわかるかといった思いもあり御本堂ではなく本坊であります最勝寺さんへと向かいました。
毘沙門天さまのおられる御本堂ではなくとも、こちらはこちらで檀家さんの法要等を営まれる立派なお堂でございます。ただ私どものような檀家ではない一般の者の参拝する場ではないのかも知れません。
ですが四月一日の御護摩修行を執り行うために、運び出された御仏像や仏具をお戻しになる大がかりな作業をされておられるであろう御本堂への参拝は控えた方がよかろうと思いこちらへと参拝させていただいた次第でありました。

お彼岸のお中日で、たくさんの檀家さんが墓参に訪れておられます。
が、こちらのお寺の本堂の扉は閉められていました。
やはりあくまでも真の御本堂は、二十キロ離れたお山の中にある毘沙門天さまの御堂ということなのでしょうか。
あるいは今年は山火事での大避難という特殊な状況で通常通りとはいかなかったのか┉。
そんなことを考えながら向拝へと向かうため階段のある方へ歩いていきました。

と。

扉が開いて。

中から御住職がちょうどお出になられました。
ええっ?!
こんな風にお会いできるなど思ってもいなかった私どもは、びっくりして立ち尽くしてしまいました。

「お参りされますか?」
いつも通りの御住職さま。
「よろしいんですか?」思わずついて出た言葉にも
「どうぞどうぞ」┉いつも通りの御住職さまでありました。

避難なされた御仏像や仏具はすっかり戻り┉とはいえ何か少し違っていて、┉それは御住職の、見えない動線が一旦クリアされてしまったせい?
なんだか少し印象は変わっている気がいたしました。
長年毎日のお勤めをされておられた、身体に馴染んだ仏具の配置が微妙にずれていたりということはどうしてもありましょう。
いつも通りお不動さまのお立ちになられた御内陣であります。

No.360 21/03/17 14:28
旅人さん0 


栃木県足利市は15日、両崖山一帯で起きた山林火災が鎮火したと発表しました。
2月21日に出火し、発生後実に23日目のことであります。焼失面積は約106ヘクタールで、一時305世帯に避難勧告が出たという大きな火災。
3月1日にほぼ消し止めたとして鎮圧が宣言されたものの、その後もヘリが飛ぶ様子がみられ、消防などが残火処理を続けていたようでした。
先日まとまった雨が降ったことでようやく鎮火できたということでしょう、そういった意味でも先日の雨はありがたい恵みの雨となりました。


大岩毘沙門天の最勝寺さんでは、多くの御仏像や仏具、奉納絵馬などの文化財や歴史的資料を数多く避難なさったことを存じ上げておりましたので、三月初旬に私のような者でも何かお手伝いできることがあればと、御見舞いを兼ねて最勝寺さんにお電話を差し上げました。
2~3コールほどですぐに御住職様自ら電話にお出になられ、疲れはてたご様子の声でありましたが、気丈にも、
「今は一つ一つ元に戻す努力をしておりますが、なにぶんにも急な避難で破損してしまったものもあり、元の通りになるにはいつになるか見当もつかない状態でして。
四月一日の御護摩修行はなんとかできるよう努力をしておりますので、お越しになれるようでしたらぜひお越しください」
とのことでありました。


御仏にお仕えになられる方であろうと、このたびのことではいろいろ考えてしまうこともおありかとは思います。
 
それでも、かつて火災等の被害で失われた幾多の寺社や御仏像のことを思い、今回の大切な御仏の御像を御守りくださる英断を、皆が感謝しております。
どうかお身体にお気をつけて。




No.359 21/03/08 01:01
旅人さん0 

栃木県足利市の【大岩毘沙門天】の、修理修復のために撮った〖金剛力士〗様のX線調査の結果では、首周りには多数の釘や鎹(かすがい)が使われていることが明らかになっていたのだそうです。もし首の部材が釘などで固定されている場合には短時間での取り外しは困難になってしまうということが意味されています。
そこでまた急遽地元の大工さんにお願いし簡易的な足場を組んでもらい、頭部の確認を行うと、金剛力士様におかれては釘は1本も使われておらず、胴体に差し込む形で組み上げられていたことがわかりました。
こうした苦労あって金剛力士様は頭部と片腕を避難することができたのだと書かれています。

頭部を取り外した胴体部分には大きな穴が開いているままとなっており、このままでは、雨が降り注いだり、動物や虫が侵入しお像を傷つけてしまう可能性が考えられることから、応急処置としてビニールにて穴を塞いであるのだそうです。
今後梅雨など湿度の高い時期になる前に本格的な処置を施す予定であるということですが、専門家の方にうかがったところこうした状態でお像を保存したという前例がほぼないらしく、新たな手法を生み出して対応していく必要があるようです。



今、大岩山毘沙門天本堂、山門、社務所、本坊などの諸堂から御本尊毘沙門天像をはじめとした仏像、仏具、絵馬などの文化財、絵巻物や過去帳といった歴史資料など、多くの物品が避難しており、鎮圧宣言が出されたところで避難した物品を徐々に運び戻す作業を開始されておられるようです。
経年劣化や搬出の際の損傷のために、すぐに搬入することができないものもあり、御本尊毘沙門天様に関しては、260年間に渡る経年劣化と運び出した際の損傷により、本堂にお戻り頂く前にまず、損傷状態の調査や修復が求められているとのことでございました。






修復が必要な御仏像、文化財一覧
大岩山毘沙門天 本堂
仏像
御本尊 毘沙門天像
脇侍  吉祥天女像
脇侍  善膩師童子像
裏仏  氷掲羅天童子像
絵馬
本堂再建記念絵馬 七福神図
竜宮珠取り図
俳額 (小林一茶の句)
神功皇后図絵
とのこと。


┉こうした調査や修復にかかる費用は莫大なものであるとのことで、現在大岩毘沙門天さんでは寄付金を募っておられました。
毘沙門天さんのホームページをご覧いただければと思います。

No.358 21/03/08 00:42
旅人さん0 

【山火事で避難した仏像を救ってください】  
            

栃木県足利市【大岩山毘沙門天】のホームページのトップに大きく貼り付けられた文字であります。

なにか私にできることはないかと、今現在の大岩毘沙門天さんの様子を知りたくて、時々開いていた最新のホームページです。
御本尊をはじめ、いらっしゃる御仏の像、運び出せるすべての寺宝等を避難させた様子を写真を交えて刻々とお書きになりアップされておられます。

山火事が拡大し、最勝寺本坊から火の手が確認できた23日時点で避難を開始されたようで、まず、本坊の御本尊不動明王像をはじめとした仏像を梱包し搬出するところから取り掛かられたそうです。その時点で近隣のご住職が駆けつけて下さり、作業をお手伝い下さったそうです。

さらに近隣住民の皆様にご協力を仰ぎ、約45名の方が毘沙門天本堂へお集まり下さったのだそうです。また地元の建設会社の方に依頼され2トントラックで、御本尊をはじめとした避難を始められます。
避難の際はご住職が優先順位をつけ、高い順から次々と運び出し、作業は翌24日の午前3時頃まで継続なされたのだそうです。

御本尊毘沙門天像が出堂されるのは、かつてご本堂が雷火によって焼失し、江戸時代宝暦12(1762)年に再建された際運び込まれた後は、初めてのことであろうとされています。
本来であれば専門の業者に依頼し、1ヶ月などの長期に渡る調査、計画の後に運び出すところを、山火事による避難ということで急遽数時間という短期間の中、そもそもが御本尊におかれましても長期の経年劣化が見られる中でこうした搬出を行ったため、損傷してしまった箇所もあったのだそうです。 



さらに24日に山門に安置された阿吽(あうん)の金剛力士像(仁王像)の避難にとりかかられたのだそうです。

今上天皇の御大典記念として修復事業を進めていた金剛力士像は、阿形、吽行ともに3メートル近くの像であります。全体を運び出すには専門の業者に依頼して3ヶ月ほどかかる見通しとなっていたといいます。
なんとか部分的に、せめて頭部だけでも避難出来ないかと、修復を依頼することになっていた仏像修理師の方に連絡され、急遽鹿沼からお越し頂いたのだそうです。




No.357 21/03/02 05:36
旅人さん0 

群馬県桐生市で起きた山林火災は、二十八日、午前11時10分に鎮火したと発表されたようです。
栃木県足利市の両崖山一帯の山林火災は、鎮圧を宣言され、三百八世帯に出されていた避難勧告も、昨日解除された模様であります。

桐生市では四日間で鎮火、足利市では発生九日目で鎮圧されましたこと。起きてしまったこと、失われてしまったものを思えば、簡単によかったと言う言葉は使えませんが、それでもこの火災で失われた命のなかったことには、よかったと言えること。ことに足利市では、民家に数メートルまで迫った火も懸命な消火活動により食い止められ、一件、山中にあった無人の神社さんが全焼した以外は建物火災は起こらなかったようで、┉失われてしまったものがあるので、よかったと言う言葉を使うのは憚られますが、それでも安堵いたしました。
避難されておられた方々は、これから徐々にもとの生活に戻していかれることかと思います。不安で、そして慣れない避難所生活で眠れない日々が続き、それでも気が張っていたから気づかなかったかもしれない疲れがどっと来る頃かと思われます。体調をくずしやすい状態かとも思われますので、どうかくれぐれもご自愛いただきますように。
また消火活動にあたってくださった多くの方々におかれましては、疲れを抱えたまま、またそれぞれの現場、それぞれのお仕事に戻られておられることと存じます。どうぞくれぐれも体調を見きわめ、ご無理のなきようお勤めください。本当にありがとうございました。本当に本当にお疲れさまであります。

群馬県では一日、桐生市で何軒かが全焼し何軒かが類焼する火災が発生し一人の行方がわからなくなっているような火災が発生したようです。
玉村町では太い黒煙の噴き上げる火災が発生したようです。

何らかの理由が、原因が、火災には必ずあります。
私もその原因となりうるような、ほんの些細なことからでも火災は起きてしまいます。気をつけよう。


そして。
大切に受け継がれてきたお寺の寺宝を守れるものだけはと避難させてくださった最勝寺のご住職さま。毘沙門天さまのおられる御堂と、本坊の最勝寺は二十キロも離れたところにありながら、今回、その両方、そしてご自身のお住まいまでが延焼の危険にありました。
さぞ、心身とも疲労疲弊されておられることと存じます。どうかご自身のお身体の声を聞きつつ、無理のなきよう┉。

No.356 21/02/25 17:25
旅人さん0 

このコロナ禍というときとなり、私どもは自粛させていただいておりましたが、毎月一日には欠かさず御護摩修行をなされておられた大岩毘沙門天さま。
ですが、最新の更新されたホームページを拝見したところ、参拝を控えるようコメントされておられ、さらには心配して見に来ることも消火や避難の妨げになるためご遠慮いただきますようと綴られていました。
行事カレンダーも書き加えられており、山火事のため終日閉堂とされ、ご縁日の御開帳日で御護摩修行となっている一日も中止とお書きになられていました。

御本尊さまをはじめ数多くの大切な御堂にありました寺宝等も、門にお立ちになられていた金剛力士さまも避難されおられなくなっている御堂で、ご住職さまはどのように御過ごしになられておられることか┉。
今は心配ですが足利市の皆様及び消火に当たられてくださっている方々のご無事をお祈りするしか私にできることはありません。


私は大岩毘沙門天さまの本坊にあたる最勝寺さんのご住職さまにいただいた経本を使わせていただき、毎日つたないお経をお唱えしております。
そして、今、毎日行っている写経は 為 足利市山林火災鎮火としております。
どうか一刻も早く鎮火いたしますように。


と綴っておりましたところ、群馬県の桐生市でも山火事が発生しているとのニュースが飛び込んでまいりました。
こちらも延焼が拡大しているとのことであります。
自衛隊や山梨県からの防災ヘリが消火に当たられてくださっているようです。
どちらの山林火災も一刻も早く鎮火いたしますように、お祈りいたします。

No.355 21/02/25 16:33
旅人さん0 

栃木県足利市の山林火災の消火に向かうヘリコプターの飛ぶ音が今日は一昨日昨日よりも多いように感じます。風の穏やかな今日は消火のため散布している水も風で流れることなくより効果的に撒かれていることかと思います。ヘリコプターの操縦も強風下でのものよりは大変ではないでしょうか。
ヘリコプターの音を本当に頼もしく思うのはこんなときであります。聞けばこのような山林火災では地上からの消火が難しく、どうしてもヘリコプターに頼るものとなるのだとか。消火に当たられてくださっている方々におかれましては、どうか安全にお気をつけて消火活動にあたって下さい。
昨日所用で群馬県高崎市、前橋市方面に出向いておりましたが、そこでも同様にヘリコプターの音が鳴り響いておりました。
近隣の県からのご協力の音と頼もしくそしてありがたく聞かせていただいております。

足利市は神社仏閣の多い土地であり、火災現場近くにあたるところに参拝させていただきました神社仏閣がいくつもあり、長きに渡りまもり続けてきた御神体や御本尊さまをいかに守ろうかとご努力ご尽力されておられることかと胸を痛めておりました。
そんな中、今朝ほどのニュースで足利市の文化財を避難させているというテロップと一瞬映った画像をみました。
その一瞬しか扱われなかった映像が(私が見逃してしまったのかもしれませんが┉)私には大岩毘沙門天さまのお堂をまもって立つ仁王さまのように思えてなりませんでした。


栃木県足利市の大岩山毘沙門天さまは、山のなかに立つお堂であります。
すれ違うことができない地点がいくつもあるような、細いくねくねした山道をのぼって行くところにあります。
一昨年は台風で道が崩れて、直るまで相当な日数がかかったようです。
そんな中であっても、御山の麓にある本坊であります最勝寺さんから毎日毎日遠回りの道を使って御山にのぼり、御護摩修行をなさっておられたご住職さまは私の尊敬する方であります。
現在の山林火災の現場から離れていると、言い切れない地点にあるのが現実であります。
万が一の事態が起これば、御本尊さまをはじめ数多くの大切にまもられ伝えられてきたすべてが守ることができないような立地であります。

ご住職さまはそれを危惧され、栃木県の建設業協会に依頼されて緊急搬出をされたようでした。


No.354 21/02/24 18:59
旅人さん0 

栃木県足利市で大規模な山林火災が発生してすでに四日目をむかえています。
ここ数日、毎朝、五時半を過ぎるとヘリコプターが足利に向かって飛んで行く音が聞こえてきます。この時間にどこからきてくださるヘリコプターなのかもわかりませんが、わが家の上空を飛ぶにはさらに早い時間から始動してくださっておられるということです。その音を聞きながら思わず感謝の手を合わせてしまいます。北関東はここ二日風が大変強くて、ヘリコプターで飛ぶには危険な条件なのだと思います。
栃木県や自衛隊の他にも群馬県や茨城県からもヘリコプターがむかっていただいているようです。ありがたいことです。

テレビのニュースでは山林のあちこちから立ち上る白い煙が映し出されています。
この二日間の強風で何ヵ所にも飛び火をしてしまったようです。
両崖山付近の住宅街にまで煙はおろか火の手も迫りつつあるようです。
現時点で足利市ではおよそ百八十世帯に避難を勧告したようです。なんという多くの世帯が対照とされる火災でありましょう。
ご自宅のことを心配し不安なまますでに四日。
ましてやコロナ禍。その不安はいかばかりでありましょう。

この山林火災で、すでに東京ドーム10個分以上に相当する50haほどが焼失。いまだに鎮火のめどは立っていないようです。

外もすっかり暗くなりましたがいまだにヘリコプターの飛ぶ音が聞こえています。


私どもは歴史好きの夫とともによく足利市の神社仏閣を参拝させていただいており、年に一度の足利市の文化財一斉公開では神社仏閣の関係者の方々だけでなく、市民のボランティアの方々にも大変お世話になっております。素朴で温かな方々ばかりで、大変居心地のよい思いをさせていただいておりました。


どうか一刻も早く鎮火されますように、お祈りいたします。
お身体にお気をつけてお過ごしくださいますよう。

No.353 21/02/21 15:34
旅人さん0 

私は岩、岩と書いておりますが、そもそもはここは石山観音堂さん。大きな石、なのかもしれません。その区分はあまりないようなので、とりあえず、前に書いたものはそのまま残させていただいて。
大小さまざまな大きさの石やら岩が、自然にあったもの、人力で積み上げ、組み立てたものなど等々いろいろなのではあろうかと思いますが、。
こちらの御本堂の真後ろにその大小の石を積み上げた山があるのですが、あまりに近く。
岩を御神体とした神社さんがその建物に岩を組み込んで建てているところがありますが、まさにそんな感じにすらみえます。

御本堂の後ろ┉穴が開けられて岩が組み込まれていました。
巨石群にのぼらないように気をつけながら、御本堂の後ろを拝すると、まあるく石が入るように孔を開けてその繋ぎ目をなにかでコーティングしてありました。
うーん。
巨石信仰という言葉があるのかどうか、このお寺さんも、まず小高い山があって、その上に岩が?石が神仏が組み上げたかのごとく山となっていて。
その神秘性に信仰がおこったのか、それともそこに導かれた僧がここに寺を興したのか。
まあ、由緒書きにはいろいろ書かれたものがあったのですが、なにぶんにもその由緒書きが一市民の寄贈したもののようで。
こちらは今はもうご住職さんのおられない、親族がまもるお寺さんとなっているようで、そのご親族さんにお会いでもできれば正しいものなのかどうか確認もできようかと思うのですが。
大鰐口と、今は鐘のない鐘楼には伊勢崎市のつくったいわれが看板となっていましたので、これはお寺に伝承されたものかとは思われます。
いつの頃から無住となっているのかもわかりません。

それでも┉ご親族さんにまもられ、檀家さんにまもられて、境内は明るい気が充ちたものとなっておりました。
御本尊であります馬頭観音さまと千手観音さま、聖観音さま、もう馬を連れて詣でる者もなくなりはしたかとは思いますが、どうぞこの地をいつまでも御守りください。

やますそにはいろいろな色の梅の咲く、山門のそばの手水舎のすぐ脇には垂れ桜が咲くであろう、石山観音堂さんは、気持ちのよい山の上にあります。

No.352 21/02/20 09:57
旅人さん0 

御堂の裏手になにやら大きな岩がいくつも重なって立っているようです。
そのなんともいえない神秘的な有りようといったら。

ここから先ほど来た国道を突っ切ってまっすぐ行ったあたりにある(だろう)神社、前橋市の【産泰神社】さんも大きな岩が祀られています。
それから、だいぶここからは離れますが大きな岩を御神体とした神社さんがやはり前橋市にあります。┉【石山観音堂】さんは伊勢崎市でありますが。
そのどれもが、度々その名を述べております【上毛カルタ】に 【〖す〗 裾野は長し赤城山】と読まれている【赤城山】の噴火によるものと言われているようです。

しかし、よくまあ。ここ石山観音堂さんの岩は大きさもさまざまで、それがおそらくは絶妙なバランスをもってして立っているのだと思います。これが自然にできたのだとしたら、神憑り的な気がしてなりません。
また、その岩の頂きに石で象った剣にも思われるような尖った石が立っています。そして出羽三山の名を彫った大きな石碑がやはりこの大岩の上に立っているのです。うーん絶妙なバランス。頭のよい方が計算し尽くしてそれをまたバランスを考えた石工がそこに設置したのでしょうが、そういった方面のことも(┉他のことも、ですが) 頭を捻っても捻ってもわからない私には、やはりこれすらも神業と思えてしまいます。
登っていけなくはない┉のてしょうが、ここは神の宿るところな気がして、私は登ることができませんでした。

そしてその岩のすそには様々な石像が。
初めて見る、半立体に彫りおこしてあるのですが、素朴な、四角く彫られた上半身だけの石仏がおられるのですが、その可愛らしい様といったら。




No.351 21/02/19 14:15
旅人さん0 

こちらは、ずっと群馬県前橋市にあるものと思っていたのですが、前橋市にある交差点を曲がってまもなく伊勢崎市に入り、そこからまもなくのところにあるので、実は伊勢崎市であったという。

この石山観音堂さんは昔から馬の信仰で名を知られたところであったようです。かつては近郷近在から馬を飼う人々が馬とともに参詣し、この大きな大きな鰐口を鳴らし、その鰐口の下をくぐらせて馬の無病息災を祈ったのだと言います。
うーん、馬、この鰐口の下をくぐるのは難しくないかなぁ。
鰐口自体が直径百九十二・五センチあるとのことで、その下は┉二メートルくらい、かなぁ、もう少しあるでしょうか。
馬の身長はわからない私でありますが、たしか見上げるくらいのところに顔があったような┉。まあ種類にもよるのでしょうが。
それにしても┉。ここ、石山観音堂さんまでぽっくりぽっくりと馬とその飼い主さんが歩いてくるさまや、この大きな鰐口の下をくぐるさまを想像しただけでも心がほっこりいたします。
今はもうそんな心なごむ光景は見られはしないことでしょうが、そんな名残を残したお祭りがあったりした┉らすごいのですが、ね。そんな話を聞いたこともないので、それは私の希望であり夢でしかありません。

私も鰐口の下をくぐらせていただき、┉みぎてには大きな赤い鐘楼が見えます。ですが、おそらくは第二次世界対戦の際供出されたまま、戻ることも再建されることもなかったのでしょう、主なき鐘楼は風か吹き抜けてどこか淋しそうにもみえます。

そして正面には、赤い御堂が建っております。どこも赤いお寺さんでありますが、なにかいわれでもあるのかどうか。
向拜に彫られた龍や獅子の彫り物はそれはそれは細やかで細かなところまで丁寧に彫られ、そしてなおかつ迫力あるもの。なのですが、これまた赤く塗られています。さすがに赤一色にだけ塗られているのではなく目ですとか牙ですとか鱗とかはきちんと違った色で彩飾されているのですが┉。
御本堂┉なのかなあ、観音堂の中もベースは赤のようであります。

御本尊は馬頭観音さま。御厨子におさめられておられるようです。その向かって右に聖観音さまが、ひだりてに千手観音さまがおまつりされています。誰もがお唱えできるよう御真言が掲示されています。

No.350 21/02/18 17:41
旅人さん0 

黒と白の長毛種の猫は、なんと本当に山門への石段の下までついてきて、そしてまた、┉まるで次に来る参拝者を迎えるため、かのように鳥居のある方へ、六地蔵さまの並ぶ辺りへとゆっくりと歩いて行きました。

猫が参拝者を案内するのは、秩父のお寺さんでもありました。実際、そのお寺の方も、その猫はいつも参拝者を納経所に案内するのだとおっしゃっておられました。たまたま私たちの思い込みで、というかそうだったらいいという希望的観測ではないようでありました。
テレビでも、神社さんだったりお寺さんだったりで、ある地点まで案内をするかのように参拝者の傍らを歩く猫を観たことがあります。
猫好きでなくとも嬉しいお出迎えであります。ましてや猫好きともなれば、ことさらです。

去っていく猫に少し寂しさを感じながら、山門に向かうと、赤く塗られた山門の両サイドには、さらに真っ赤な仁王さまがお立ちになられていました。真っ赤なだけでなく、まるで歌舞伎役者さんのような、うーん違うかな、いままで拝してきた仁王さまとは少し趣が異なる仁王さまであります。
ちょっと度肝を抜かれたものの、いつものように一礼し門をくぐると、仁王さまがおられる対になる空間には、また、猫。先ほどの猫とよく似た黒と白の長毛の猫です。そこには猫の寝床と餌のはいったお皿が置かれていて、┉この猫は一心不乱に餌をひたすら食べています。参拝に来た人間になどかけらも関心は無さそうです。
実はこれで三匹。あ、お札やお守りなどを授与する建物のところにももう一匹。
┉猫のところに来たのではないってば。

視線をしっかりと山門のまっすぐ前の御堂のある方へと向けると、おおっ!


なんと大きな鰐口でしょう! 



No.349 21/02/18 10:05
旅人さん0 

普段曲がることのない交差点に、小さな案内板が建てられています。【石山観音堂】とあります。
そこを通る度に気になって、気になって┉。
ただそこを曲がってどこにつながっているのか、細い道だったりしてやっとすれ違うようなところだったら┉行き止まりでバックして戻るような道だったらどうしよう。
そんなことを考えてなかなかハンドルをきることができません。

先日の春のように暖かな日、石山観音堂へようやく参拝することができました。
じゃじゃ馬ナビと珍道中カップルは、石山観音堂を通り越しそうになりながらも、すんでのところでその駐車場に入ることができました。
その道すがらにある石の鳥居に目がいって、さらにはそこに小さく石山観音堂駐車場と書かれた案内板があることに気づくことができたから、なのでありました。

神仏分離令により、無理やり神社とお寺を分けた被害が少ないところでは、どちらかの色は濃くなってはいるものの、今なお神仏分離令以前のまま、建造物が残されており、神さまがおられ仏さまがおられるまま、お祀りされています。
こちらはまずは鳥居から。鳥居をくぐり、ゆるやかな坂を登ると┉。
その坂をゆっくりと私たちの方へ向かって、まるで待っていて、迎えに来てくれたかのように、確実にその目をこちらに向けて歩いてくる、┉猫が一匹!
そしてそのまま私たちの足元にきて、寄り添うように立つのです。

┉かわいい!!!
なんと可愛らしい。実際本当に器量のよい、綺麗な長毛の猫であります。その極上の手触りといったら。
ふさふさの長いしっぽをゆらゆらと振るさまも可愛らしく、しばらくその猫と戯れておりました私たちでありましたが、はたと、ここに来た理由と、この猫がいかにも迎えに来てくれたかのようだったことを思い出しました。
私たちが観音堂のあろうかという方角を向くと、猫もスッとその方に向かって横を歩き出したのであります。

┉えっ?(゜ロ゜)
本当に観音さまのお使い?



No.348 21/02/15 06:40
旅人さん0 

血洗島というなんとも物騒な地名について紹介されている説をまとめてみると次の四つになるようです。

一、赤城のムカデと日光の大蛇が戦場ヶ原で戦ったという伝説との関係は不明だが、赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕を斬られ、その傷口を述この地で洗ったという説。

二、アイヌ語源説で、アイヌ語の「岸、末端、尻」などの意を表す「ケッセン、ケセン、ケシ」に血洗の漢字をあてたという説。

三、その昔、この辺りで合戦があり(一説に平安時代に八幡太郎義家の奥州遠征の途中)家臣の一人が切り落とされた片手を洗ったので血洗島と言い、土地の人がその手を近くに葬った墓が手墓と言う伝説があり、それが地名となったという説。

四、利根川の洪水による氾濫原のため、地洗(地を洗うように流れたという意)とか、地荒(地が荒れるという意)であったのが、いつの間にか「地」が「血」となり、血洗島となったという説。


渋沢栄一氏自身は、生地の地名について次のように話しているようです。
「怖ろしげなるこの村名のかげには、幾多の伝説と口碑とが伝わっている。しかしそれは赤城の山霊が、他の山霊と闘って片腕を挫(くじ)かれた。その傷口をこの地で洗ったなどいう種類のもので、斉東野人(田舎者の意)の語たるはいうまでもない。それは深く詮索せぬ」

渋沢栄一は、血洗島という名前に嫌な名前だとか物騒な名前だとかは考えていなかったようで、やはり、郷土を愛していたということでしょうか。あるいは、地名の由来などにはこだわなかったということでしょうか。
国を大きく変え、今なおその功績は大きな渋沢栄一氏。
ちなみに私は、渋沢栄一氏はひもかわうどんが好物だったというどうでもいいことを覚えており、夫に苦笑されました。

No.347 21/02/15 06:35
旅人さん0 

秩父に向かう途中、深谷市を通ってまいります。あるルートで向かったとき、なんともインパクトのある、ショッキングともいえる名前の橋を渡りました。
血洗橋です。
「┉こ、これはなんとも強烈な┉なんとも物騒な名前の橋だね。ここで大きな合戦でもあったの?」
と隣で運転している夫の顔を見やると、こんなとき何でも知ってると私に思われ頼りにされている夫もびっくりして息をのんでいました。
「うーん、あってもおかしくない土地柄ではあるにはあるんだけど、この地名がそのまま残されているというのもまた┉」と言葉を濁しており、これはGoogle先生に聞かないと。

そこを少し行くと血洗島諏訪神社という神社への入口を示す看板が出ています。「ここに寄ればこの地名のいわれとかわかるんじゃない?」そう思ったものの、その入口はあっという間に通りすぎてしまい、しかもけっこう細そうです。あとであらためて寄らせていただくことにして、その後の参拝には至っていないのですが。
なんと、こちらの神社さん、今度の一万円札の顔となる渋沢栄一氏ゆかりの神社なのだとか。
今回の大河ドラマも渋沢栄一氏が主人公なのだそうで、時は再び渋沢栄一氏にスポットライトがあたっているようです。


血洗島というのは、いかにも物騒な、血生臭い名前であり、なんとも怖い名前なのですが、その地名の由来を調べてみたところ、その由来には諸説があり、定説はないようなのです。
しかし、諸説の中で、地元で妥当と考えらられている説は、この地は、利根川の洪水が多く、地が洗われたという意味で「地洗(ちあらい)」、また地が荒れるという意味で「地荒(ちあら)」と呼ばれたのが、いつの間にか「地」が「血」となり、「血洗島」となったという説のようです。いやいや、なかなかそっちにもっていくことはないのではないかなぁ。

 
八幡太郎義家(源義家)が、利根川の戦いで片腕を切落され、当地でその血を洗い流したとか、その腕が流れ着いたとか。
あるいは義家の家臣が片腕を斬り落とされ、その傷口をこの地の小川で洗ったからきたものだとか。
ちなみに隣村の手計村というところには、切り落とされた武士の手ばかりが、流れ着いたとも伝えられているのだとか。
また、赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕を取られ、その傷をこの地で洗ったというものもあるようです。
 


No.346 21/02/14 06:10
旅人さん0 

こんな状況下に、明日、関東東北では雨の予報が出ています。

昨夜のものも大きな地震でありました。私の住まう地域でも震度4と報じられました。
今再びテレビをつけると、あの暗く寒い時間に高台にいち早く避難された方々もおられました。
停電や断水がおきているところもあるようです。
地震による大きな被害も今朝明るくなって明らかになるものもあることでしょう。

どうか大きな被害がありませんでしたように。


No.345 21/02/13 23:33
旅人さん0 

東日本で強い地震がありました。
こんな夜中、あの3・11で被災された方々はどんなに恐い思いをされておられることか。あちらはまだまだ冬真っ只中。あの時のことを思うとこの寒さのなか、どう逃げるかを考え不安でいっぱいでお過ごしでしょう。
どうかこれだけでおさまってください。
どうかこれだけで鎮まってください。
祈ります。┉祈るしかできません。

No.344 21/02/12 14:28
旅人さん0 

朝食を終えて、食器を片づけているとテレビで火災のニュース映像が映し出されました。
『┉鎌倉市の満福寺で火災が発生し現在も炎上中です。』へっ?!
『近くを走る江ノ電は運行を中止し┉』
ええっ?!

┉満福寺って、あの義経の?
まだ行ったことないというのに┉。
いやいや私が行ったことがあろうがなかろうがそんなことはどうでもよくて、うわぁぁ、また歴史ある建造物がこんな形で失われてしまうの?
昨日、長野県で、やはり歴史ある温泉宿が全焼してしまったというニュースがあったばかりです。

続報が気になるものの、お昼の支度の頃ようやくテレビをつけることができました。┉ない。続報は放送されません。
昔ならここでやきもきするばかりでしたが、今はありがたいことにネットで確認することができます。どうやら御本堂は火災をのがれ、境内にある建物が燃えたにとどまったようです。

満福寺さんは源義経が壇ノ浦の帰り、頼朝に鎌倉入りを禁じられ留まったお寺。腰越にあるこの満福寺で頼朝の重臣にとりなしを依頼する文を書いたため、この書状を腰越状と呼んでいるようであります。
ただそんな義経の思いは頼朝に届くことなく、ふたりの確執は生涯続き、義経の悲劇はここから始まることとなるのですが。


火災は不注意などなくとも起こってしまうことがあります。あっという間に火の手がまわり、信じられない、信じたくないスピードで炎にのみ込まれていってしまうようです。
┉今年は火災のニュースを目にすることがやけに多いように思います。
どうかこんなコロナの時代に更なる悲劇が人々を襲うことがありませんように。

No.343 21/02/08 15:31
旅人さん0 

以前に書かせていただいた、同じく群馬県桐生市の常廣寺さん。
常廣寺さんの山門前に建てられた〖江戸の地名名付けの里〗の石碑。
私専属の名ガイドをもってしても分からなかったこの碑に書かれた言葉の意味を知ることができました。
なんでも桐生市新里町に住む人なら知る人も多いという民話だったようです。

常廣寺の和尚さまが所用で江戸に出かけました。その頃江戸はまだあまり開拓されておらず、徳川家康公が町づくりに躍起になっている頃でありました。
「遠い上州(群馬県)から偉いお坊さんがやって来た」と評判になっていて和尚さまの周りにはたちまち人だかりができてしまったそうな。
「お坊さま、わしらの町には名前がついていないんで、お坊様の智恵で名前を考えてくだされ」と口々に言われたのだそう。
和尚さんは江戸についたばかり。取り囲まれて困ってしまった和尚さんは(うーん、こうなったらふるさとの新里村の名前をつけてしまえ)
そう思った和尚さんは
「では申そう。そなたの町は板橋じゃ」
「そなたの町は大久保じゃ」
┉そういった具合で、芝、高輪(新里では高縄)、五反田、新川(新里ではにっかわ)、赤坂、本宿(新里では元宿)と、次々と挙げられていったそうな。


私は群馬県の桐生市新里町に詳しくはないのですが、全て昔から、そして今なお新里にある地名なのだそうです。
たしかにこの中には私ですら知る新里の地名がいくつも含まれており、こう書き出してみるとたしかに合致しているようにも思われます。

うーん。
まあ、あくまでも民話、新里の地にそういった言い伝えがあるということであるので、事実であったかどうかは私にはまるでわかりませんが。
おもしろい合致振りであることは間違いありません。 (*-ω-))

No.342 21/02/08 14:40
旅人さん0 

群馬県桐生市の【龍興寺】さんの【虚空蔵菩薩】さまは、思わずはっとしたほどに、優しいお顔立ちであります。法印のカヤの下で、穏やかに、静かに微笑んでおられます。
首もとから衣、そして朱で塗られたあとが残っていることもあり、私のなかの虚空蔵さまのイメージとは少し違った御像でありました。
わが家にただ一枚だけあります、虚空蔵菩薩さまの御姿が、私のなかでの虚空蔵さまになっていたのかもしれません。
こちらの、龍興寺さんの虚空蔵菩薩さまはお座りになられた御像でありまして、その右手は手のひらを上に向けて、組んでおられる膝よりも前に差しのべるようにやさしく垂らしておられます。
これは【与願印】とよばれる印のひとつであります。

古来インドでは手の形で意思を表す習慣があり、そこから発展して生まれたのが【印】、【印相】であります。手の形で御仏の利益や誓願などを象徴しており、この与願印は人々に安心を与え、願いを聞いてくださる、かなえてくださることを示しておられるということであります。
一方の左手にはつぼみの【蓮華】をお持ちになっています。
わが家にあります虚空蔵さまのお姿は右手に【宝剣】を掲げ、左手には【如意宝珠】をお持ちです。
そもそもが仏像を拝しても、そこにある案内を見るか、お寺のかたに伺うかしなければその御仏がどなたであらせられるかいまだによくはわからない私なので、何をお持ちであろうがあるまいが、そこにおられる御仏像がどなたであるか、ほぼわからないのでありまして┉。
剣をお持ちであるので虚空蔵さまと思いきや文殊菩薩さまであったりと、少しも初心者の域から脱することができない私でありました。

龍興寺の虚空蔵さまの与願印の御手は本当に優しくて、私の心に秘めた願いを叶えてくださるだろうと本気で思えた御手でありました。

でもあまりにも多すぎて、虚空蔵さまがお困りになられてしまいそうです。
虚空蔵さまのお授けくださるという智恵でもよいのだけれど、なぁ。
私がお寺さんを去ったあと、虚空蔵さまのお顔が苦笑に変わっていなければいいのだけれど┉。( ;´・ω・`)

No.341 21/02/08 05:56
旅人さん0 

┉と、ご住職と大したやつらではない者たちの、大した内容ではない会話はおいておき、
ご住職にうかがいましたお話によりますと、こちら【龍興寺】さんは、確実に記録として残っているものから最低でも四百年の歴史があるのだそうです。境内には、歴代住職さまたちが日々護摩を焚き修行し祈願した護摩堂もあったとのこと。
「元々は道路を隔てた向こうまで全てこの寺の境内であったのだそうで、大きなお寺であったようです」
現存の境内だけでも結構な広さがあるように感じますが。
「こちらの梵鐘は戦争で供出したのですが戻ってきたらしいです」
「なんでもこの梵鐘は、かつてこちらの境内に鐘を造れる作業所を建てて、職人にここで造らせたということです」
す、すごい!
それだけの作業所を建て鋳型をわざわざここで造って、というのは、一見できた梵鐘を移動させることを考えた時、現代のような移動させる自動車のようなものが何一つなかったことを考えるといかにも能率的に思えたりもしますが、そのために大きな梵鐘を造れるほどの建物と道具を全て揃えるというのは、果たして┉。
とりあえず言えることは、当時のこちら龍興寺さんにはそれだけの力があったということでありましょう。

今、こちらの龍興寺さん、広い境内ではあるのですが、何事かあったのか?と思うくらいに、桐生市指定だという文化祭のカヤノキ以外の木が、ことごとく全ての枝を落とされ、幹だけの状態になっていました。
鐘楼があり、門が二つもあり、桐生市指定の重要文化財が三つもある境内ですのに、なんとなく寂しい感じが漂っているように思えたのは、その木々のせいだったかもしれません。
ご住職も、「カヤノキもだいぶ枝を落とされてしまってはいるのですが┉」と残念そうにおっしゃっておられたくらいでありました。
なんでもこのカヤは【法印のカヤ】と呼ばれるもので、第十二世の和尚さまが読誦していたとき、花瓶のカヤから根が生えてきたのだとか。さっそく境内にこのカヤを植えたのがこの木のはじまりで、時は安永元(1772)年三月二十一日といいます。
法印のカヤと呼ばれるようになったのがいつの頃なのか、いわれはどうだったのかは、特には語られていないようですが、そのカヤの根元に〖宝筺印塔〗と石造りの〖虚空蔵菩薩〗さまがおられます。

No.340 21/02/07 17:43
旅人さん0 

蝋梅の見頃という群馬県桐生市の【山上城址公園】に行き、その透き通ったような不思議とも思える花と香りを楽しませていただきました。
そこに桐生市新里町の文化財の案内板が設置されておりまして、夫がかねてから行きたかったという【龍興寺】にうかがわせてことにいたしました。龍興寺さんは石造の【虚空蔵菩薩】さまと宝筺印塔とカヤノキが市指定の重要文化財となっているのだとか。
龍興寺さんへはナビで向かったのですが、いつも珍道中の一役を担う私たちに似合いのナビは今日も裏手に案内をしてくれました。┉小さな案内の看板が右に向かうようにときちんと示してくれてはいたのですが、気づいたときには時すでに遅し。まあたしかにそちらこそが山門なのではありますが、車で来ていることはナビこそが一番知っているのではないのか?
どうかそろそろ目的地は駐車場のある入り口であることを覚えて欲しいものです。( ;´・ω・`)

龍興寺さんの境内ではお父さんと男の子が二人で竹を使って何やら遊んでおりました。┉御住職さま?洋服にニット帽、スニーカー姿のお父さんにとりあえずこんにちはと挨拶をいたしました。
「なにかご用がおありですか?」
あ、参拝にうかがいました者です。
「ご苦労さまです」とだけおっしゃって再びお子さんのもとへと戻られました。
あのう、御本堂に上がらせていただくことはできますか?
「ああ、どうぞどうぞ」
┉なんとなく、なんとなくなのではありますが、こういった対応に慣れておられないような気がいたします。
「じつは私こちらの住職となってまだ二年なものですから」
なるほど。
なんでも、こちら、前住職さまがお病気で入院されたのちに亡くなられ、しばらくの間無住であったのだそうです。
十五年前に僧侶となられ、二年前にこちらのご住職になられたのだそうです。
「つかぬことをうかがってよろしいですか?」 

ご住職になられて二年。檀家の方々にうかがいながらお寺のあり方を模索されておられるとおっしゃって、「(このような檀家以外の参拝客に対して)他のお寺さんはどのように対応されておられるか、参考までにうかがってもよろしいですか」 とのこと。
そ、それこそ大したやつらじゃないので、まるで参考になどなりませんが。                                                     

No.339 21/02/03 06:26
旅人さん0 

節分の行事。
豆まきをするお寺さんや、神事を行う神社さん。
神社仏閣に縁のない生活を長いことおくってきてしまったがために、どれだけの損をしてきたことか。神社仏閣巡りを始めてからの短い間に拝見してきたあの行事は、どれも素晴らしいものでありました。
栃木県足利市の【鑁阿寺】さんは節分の日にそれは見ごたえのある大がかりな武者行列をしていました。┉今年、栃木県は非常事態宣言が出ており、あの行事は執り行うことはできたのだろうか。
豆まきをすることで有名な寺院も豆まきをするにはしても、豆を拾わないようにとか、拾った豆は食べないようにとか、今までとはあり方を変えて行われたようです。

アフターコロナの時代となり、今はただただ混乱しているとき、ではありますが、これでワクチン接種が全国内に、全世界に拡がれば、また今までと同じような生活に戻れるのかどうか┉。それも純粋に対コロナの問題であって、変わってしまった生活はなかなか戻せるものではないのでしょう。

人類の歴史上、何度となく見舞われた悪疫の大流行。それでも人々はそれを乗りこえて、今まで以上の生活へと環境を整えてきた。
今が一番つらいときであると信じて。
世界中が再び笑顔で過ごせる日が一日も早く戻りますように。


日本中の神職の方が、僧侶が、新型コロナウイルス感染症の終息を御祈願くださって、今日が始まりました。
私も仏壇もどきに向かって読経し、写経し、毎日祈願しております。

No.338 21/02/02 10:53
旅人さん0 

以前は筆ペンで書いていた写経を、筆で書くようにしています。書道を習ったのは学校の書写の授業でだけなので、それはそれは毎日悪戦苦闘しています。

留め、はね、返し┉かすかな記憶がたよりですが、そもそも字を書くことがやっとで、バラバラの字の大きさ、明らかに曲がった文字。最悪には書き間違えすらあることも。┉さすがに毎日となるとよほどのことがないと書き間違えはなくなったのですが。

墨を摺る。
摺った墨の感触からその濃さを推測する。
かすかに香る墨のにおい。
筆を整える。
最初の一文字。
字の形が整うことなどほとんどなくて、
それがお経であるがゆえに落ち込むことしかり。

でも、この小一時間で、驚くほどに心が整う。
心が穏やかになる。

ありがたい日常であります。



先の二片の走り書きも、写経のあとに思ったことを半紙に鉛筆でなぐり書いたものを打ち直したもの。
 鉛筆でのなぐり書きもほとんど最近はすることがないことで、その感触もまた新鮮でした。



No.337 21/02/02 10:31
旅人さん0 


人の心には浮き沈みがある。
それは誰にも止めることができない。

沈んだ心をなんとかして浮上させたいともがくけれど、
泥沼の中の泥に足を捕られるように、
ずぶずぶとさらにさらに沈んでしまうこともある。


それは
季節によるものなのかもしれないし。
なんでもない日常の中で、
気づきもしないで踏んでいた細く短い棘だったのかもしれない。


もがいても、
あがいても抜け出せないとき

どんなに手を差し伸べてくれる人がいても。
それに気づき感謝すればするほど堕ちていくことすらある。

そこから這い上がるのは
自分自身でしかない。
おそらくはそれはどんな幼子であっても┉。


薬の力を借りて治ろうとしたとき、
その薬によって
変わりたくない自分に変わっていく自分に気づくこともあるのかもしれない。
そうしてそこでまた絶望して。



でも人は。

そうやって何千年にもおよぶ時を
絶やすことなく紡いできた。

┉いつかきっと
その泥沼から脱け出す日がある。
しっかりと二本の足で
大地を踏みしめる日がくる。
また歩き出す日がくる。

あの泥沼に
驚くほどに美しい
清らかな蓮の花が咲くように。



   

No.336 21/02/02 10:11
旅人さん0 


人の心には浮き沈みがある。
それは誰にも止められない。      

世の中には
その沈んだ心を
突いてくる人がいる。 

それを言葉による暴力であるとか、
いじめであるとかの自覚すらなく、 
ただ心のままに
言葉として口に出しているだけ。
ただそれだけの人もいる。

もちろん┉。
嫌いだという感情のもとに、
確信して
その沈んだ心、弱った心を突いて
笑うヤツもいる。

No.335 21/01/27 06:11
旅人さん0 

今年日光に行くことは叶うのだろうか。

日光に魅せられて、ようやくその入口にたどり着いたというところなのに。
日光の弥生祭に行きたいと何年も思いを寄せておりながらいまだに行けず、とうとうafterコロナの時代となってしまいました。
日光には、世界遺産に登録された【日光の社寺】以外にも、それはそれは美しい景観がたくさんあって、春には春の┉どころか四月には四月の、いやいや毎週、訪れるたびにその良さを味わうことのできる、私にとって大切な場所であります。
とはいえ、ついつい日光の社寺に立ち寄っては時間を費やしてしまって、ようやっと開山堂への参拝をいたしましたくらいで、やはりずっと行きたいと思っております化け地蔵や、憾満ヶ淵にすらも行けていないありさまで┉。

世界遺産に登録された日光の社寺も、まだまだ不勉強で、その一つ一つ一つにあります歴史や云われ、一つ一つに込められた意味などを知って参拝できたならどれだけの価値をもつことになるでしょう。


ああ、日光。




No.334 21/01/26 15:05
旅人さん0 

一昨日、【日光輪王寺】さんより【鬼門除け】という祈願札が届きました。
初詣の時期を避ければ直接お受けできるのではないか、と淡い期待を抱いておりましたものの、この度の爆発的な感染拡大、さらには栃木県における非常事態宣言の発令を受けて、参拝を諦め郵送というかたちをとりました。
日光東照宮、輪王寺さんは実は私にとってのパワースポット。
駐車場に着いてもなおすぐれなかった体調が、石段を登りました辺りから、スキップして歩けるくらいに身体も心も軽やかになる、奇跡のような地であります。出来ることであれば直接、日光東照宮、輪王寺さんに参拝してお受けしたかったものです。

こちらの祈願札が届きましたら、同封のハガキに家族の名前と生年月日を記入して輪王寺さんに送付いたしますと、御本尊さまの御宝前に献じて無病息災を御祈願くださるといったものになっております。
鬼門除札でありますので、鬼門からの破運による災難を抑えるとともに家族の運気を伸長させてくださるものとのことで、あの、降の魔(ごうま)のお姿の角大師さまのお姿の護符がはさんでございます。
自宅においてはその護符にも家族の名前と生年月日を書いてお札にはさんで一年間封じて居間の壁に吊り下げておきますものとなります。


このお札をお受けになった方が、堤防の決壊で被災されたとき、その住所から、おそらくは被災されたであろうと、輪王寺さんから御見舞い金が届いたというお話をネットにアップしておられたことがありました。
全国各地からの、いやいや全世界からの参拝者のありますお寺さんにおいて、ここまで手厚いお付き合いをくださることにいたく感動し、このお札をなんとしてもお受けしたいと思ったものの、実はこのお札、輪王寺さんにおいてあまり全面に出して授与しておられないのであります。行けばすぐにお受けできるだろうと思って行ったところ、その物をどこにも見いだすことができず、そのときお札の名前もよくわからず、たいそう苦労してお札をお受けすることになりました。

この鬼門除札も立春を境に掛け替えるものとされております。
どうか世界中の新たな春、よき年となりますように。



No.333 21/01/24 17:15
旅人さん0 

私が御朱印をお受けするようになって、まださほどは経っていないにも関わらず、ここ二年くらいの間に御朱印界、特にお授けくださる側の変化が著しいと感じます。
それでも当時から、可愛らしい絵の描かれた絵手紙風の御朱印もあり、かくいう私もその絵手紙風の御朱印に魅せられていた一人でありましたが┉。

そんなお寺さんに触発されたのか、群馬県桐生市で、絵手紙風の御朱印をお受けになるお寺さんが集中して増えていき、御朱印のブログを拝見すると、桐生市の御朱印ツアーなどをされておられる方々がおられるようであります。
とはいえ、桐生市に限らず全国的に御朱印が進歩というか進化というか、変化してきているようです。
毎月毎月絵が替わり、特別な縁日等には限定の御朱印が用意され、
そして、今、刺繍の御朱印でありますとか、切り絵の御朱印でありますとかがあるようで驚いております。

とあるお寺さんで、毎月毎月、御朱印帳をお預けしてその月の御朱印をお受けし、その料金(普通、御朱印に対して料金、という言い方はいたしませんが)を支払って、そのままその御朱印帳をまたお預けしていかれる、という光景を何度か見かけ、┉これって本当に御朱印なのかなぁと、私は思ってしまいました。そのお寺さんもそういったやり取りを普通にされていて、なんだかその後はそのお寺さんから足が遠のいてしまっております。
参拝のしるしとして、ですから、毎月そのお寺を参拝しておられるし、その証である御朱印を次の月の分予約していかれるのだから、別に計算上はあってはいることなので、あくまでも私個人の違和感に過ぎないのではありますが、手元にご自身の御朱印帳が戻るのはいったいいつのことになるのやら┉。


刺繍御朱印や切り絵御朱印。
それをじかに見たことはないのですが、避けて通っている私。それはもしかしたら自分の物欲という煩悩とのたたかいを怖れているのかも┉。


No.332 21/01/24 11:15
旅人さん0 

初めて参拝させていただきました群馬県桐生市の【常廣寺】さん。
御住職はその縁起についてもおもしろおかしくお話しくださいました。
謙遜や話術、ではあるのでしょうが、なんともびっくりするようなお話です。こちらのお寺の紋は、トライフォースではなくて北条氏の家紋として有名な〖三つ鱗〗、であります。〖小田原の利けもの〗の山上郷右衛門さんに由来したものなのでしょう。
その郷右衛門さん、天正年間に東上州を廻っている際、ここ桐生市新里山上の地を父親の出身地と勘違いして(┉?!)、戦乱の世が静まったのちに、ここに戦乱で失われた人々を弔うためにこの常廣寺さんを建立したのだというのです。
よりにもよって『勘違いして』って┉、なんともあり得ない伝承なんですけど。〖常廣〗というのは、お寺の裏の草庵に住んでいたお坊さんに因んで付けられたものだとか。そのお坊さんは特にどこから来たのかもわからないような方であったようですが、村人に慕われたかただったとのことであります。
元禄時代、火災で堂宇を失った際、再建のお金がなくて困っているとき、当時の住職の夢枕に〖山上郷右衛門〗さんがたち、
「堂宇を必ずや再建してほしい」と言ったのだとか。
お金がないので無理だともうしあげると、
「将来、京都から龍の骨を売りに来る商人がいるから必ずこれを買うように」ともうされたのだとか。
いやいや、堂宇すら建て直せないほどお金がないので無理だと申すと
「焼けた堂宇の裏手にある丘に埋蔵金があるので、それで龍の骨を必ずや買うように」
と言われ、念のため言われた場所を掘ると、夢で言われた通りにお金が出てきたのだとか。

ときは流れ、住職も代替わりした頃、果して龍の骨を売りに来た近江の商人がいたのだそうで。
当時、龍の骨は万病に効く薬とされたもののようで、人々はそれを求め常廣寺に殺到し、龍の骨を購入して五年目に堂宇の再建にまでこぎ着けたのだといいます。
龍の骨を売りに来た商人はそのお金を元手として、深谷で酒屋を営んだのだとか。

なんとも壮大な縁起であります。

No.331 21/01/24 06:34
旅人さん0 

『龍の骨』?┉たしか、そう聞こえました。
あの、空を飛び水を司る、神さまとしてお祀りされる、〖龍〗ですか?声にはならない疑問を私のなかでぐるぐると巡らせていると、
「むかぁし、龍の骨を売りに来た人がいたとかでそれを買って、それ以来ずっとあそこにお祀りしているんだよ。┉信じる信じないはそれぞれだけどね。ともかく、そう言われてるんだ。よかったらあとでお参りしていってください」

そのあと┉、可愛らしいお地蔵さまの絵が描かれた、厚みのあるしっかりとしたハンドタオルを夫と二人分頂いたり、ソファーにご案内いただきお茶までもいただくこととなり、もう本当に本当に恐縮して居心地もなにもあったものではない状態です。
何度も何度もこのコロナのご時世ですからと申し上げても、
「大丈夫、大丈夫」
とおっしゃる御住職さまは、左半身に軽く麻痺をお持ちです。
┉御住職さま?、本当にこんなご時世ですから、無症状の感染者もおり、潜伏期間もどのくらいかわからない未知の悪疫が流行っている昨今、あんまり大丈夫じゃないですよ。
お茶をいただけば感染のリスクが上がります。
と、またまた声にならない言葉を御住職さまに向けて目力でうったえてみましたが、届くことはなく。

大病をなさってからは御朱印の書も書かなくなって、大好きな骨董市もこのコロナ禍で開催すらされず、大好きな骨董の話を聞いてくれる人がいなくてねぇと、御住職。


まあ、私どもダブルマスクでお邪魔しているし、この大きな応接セットならしっかりソーシャルディスタンスとれてますかね。

お寺さんや神社さんは、迷える民を御仏や神さまとの繋ぎをなさる大切な役割を担っておられるため、基本、どちらにうかがっても、受け入れてくださる姿勢はまるで変わられていません。┉そこに不自然なアルコール消毒が用意されているようになっただけで┉。
これは┉参拝する者のほうがお寺さんや神社さんに対して失礼のないようしっかりとした感染対策でお邪魔して、自らの英断で御朱印を受けないようにしていくしかないな。

厳しい修行を受けられた方々は、この猛威を振るう悪疫すらも恐れず、教えを守る、教えを広めることが身体にしみついておられるのだなぁ。


No.330 21/01/23 22:48
旅人さん0 

御本堂前でお参りさせていただいたあと、かなり躊躇い考えながら庫裏へ向かいました。こんなコロナ禍、お寺さんはどうお考えでおられることか考えてしまい、このまま帰ったほうがよいのかもしれない、御朱印はしばらく封印しておいたほうがよいのではないか┉いろいろな考えが交錯いたします。
呼鈴を押すと女性の声で「どうぞ」と。
「参拝をさせていただいたのですが、御朱印をお受けすることはできますか。」いつものように申し上げました。
「ああ、御朱印ね。若いのがいればお書きできるんだけど、ちょっと待ってくださいね」
「お待ちになる間、御本堂でお参りされますか?」
えっ?
このご時世、よもや御本堂にあがらせていただけるとは思ってもみませんでしたので本当に驚き、そしてありがたいお話です。

御本堂では内陣の灯りもお付けくださり、いろいろご案内までしてくださいましたのち、「ごゆっくりお参りください」と退座していかれました。いたれり尽くせりの対応です。
御本尊のお釈迦様に手を合わせて、内陣の裏の間にあたる位牌堂へ向かいました。なんでもこちらに御開祖がおまつりされておられるのだそうで。┉それでも御内陣の裏の間にまで入らせていただけることなどなかったものですから、なんとなくそわそわと、そしておずおずと位牌堂へ入り手を合わせておりますと何やら人の気配がいたします。
ん?
御住職さまです。位牌堂に本当は入ってはいけなかったのだろうか?
小心者の私はそわそわドキドキ。
「よく来てくださいました。こちらには御開祖さまと中祖さまがおまつりされていて、あとは┉」
なんとわざわざお出ましくださってご説明を!
位牌堂を出て再び外陣へと戻り、外陣の絵の説明をしてくださることに、「お釈迦様の生涯を誰でもわかりやすいように描いてもらったんだよ」
なるほど、お寺さんの御本堂にしては色合いの強い、ポスターを思わせるような鮮やかな色で描かれた何枚もの絵が飾られています。
そして┉御本堂のむかってひだりての窓から見える建物を指さし、
「あそこはね、龍の骨がお祀りしてあるんだよ」
┉龍の┉骨?
龍の骨ぇ?!

No.329 21/01/21 06:43
旅人さん0 

群馬県桐生市にあります常廣寺さんに参拝いたしました。こちらはかつて子どもが小さな時に遊びに行った山上城趾公園の裏手にあります。
その当時にもそこにお寺さんがあることは気づいていたのですが、神社仏閣巡りを始めても私のあちこち壊れた脳ミソでは常廣寺さんに繋がることはなく、今回夫が言い出しての参拝でありました。
こちらの創建は天正年間(安土桃山時代)と言われています。

車から降りたった山門前に立てられた〖江戸の地名名付けの里〗と〖小田原の機利(きけ)者 山上郷右衛門ゆかりの寺〗の石碑。
えっ、そうなの?
山上さんってどんな人なの?
さっそく私の優秀でしかも無料なガイドであります夫に聞きましたが、どちらの問いにも首を傾げています。┉これはGoogle先生の出番、かな。 (´艸`.)


山門から向かってひだりての高台には石碑・石仏に囲まれた〖庚申堂〗。庚申堂横に立てられた大きな石塔は〖巳需塔〗。生糸を生み出す蚕(かいこ)を好んで食べるネズミの天敵・蛇(巳)を祀るのが巳需塔、なのだそうで、群馬県は養蚕の盛んな地だったのでこの辺りもそうだったのかもしれません。

少し離れて〖弁財天堂〗。弁財天堂正面欄間を飾る透かし彫りが思わず声が漏れるほど見事です。前面は龍の彫刻でその迫力に圧倒され、透かし彫りのはかないほどの薄さに感動します。後方は打ち出の小槌や宝珠などの吉兆ものとなっているようでした。
なんでも堂内の天井には極彩色に彩られた弁財天の絵が描かれているそうですが、こちらは残念ながら拝見できず。桐生市の重要文化財に指定されているようです。

その隣に石灯篭があるのですが、その姿形が、私の語彙力のない表現をもってするとタコかクラゲのような。はじめて見る形です。
山門からみぎてあたる向かい側には鐘楼があります。

御本堂前には〖阿育王法勅柱頭〗と記された獅子を頂く石柱。大きな大きな船に乗った七福神の石碑。諸国行脚し求道中の曹洞宗開祖・〖道元禅師〗の像、一瞬度肝を抜かれる仏様の御頭石造の〖仏頭〗、と、みどころ満載な感がいたします。
そして蓮華葉に座乗の〖一葉観世音菩薩〗さま。修業を終え海を渡って帰国する道元一行が嵐に襲われた時、道元が観音経を唱えると一葉観音が現れ荒海を鎮めた故事に由来するのだといいます。私、この美しい観音様が大好きなのですが、実に初めてその由来を知りました。

No.328 21/01/20 06:25
旅人さん0 

非常事態宣言下において、『適度な運動のための外出は不要不急の外出に当たらない』、とあったように記憶しています。

テレワークの夫と、辞職して一月半の私。
外出しない気になればまるで外出しないで、二日三日過ごすことができます。家事でそれなりの動きはある私、対して夫は机でずっとパソコンに向かっています。一方、中途専業主婦の私はコロナ禍でなくてもご近所でおつきあいしていただいている方もおらず、友人もこの年ではまだバリバリの現役で働いており、一日のほとんどを誰とも話さず過ごすことが多く、これは明らかに認知症への階段を階段落ちしていくような┉ Σ(゚Д`;)

うーん。
これはコロナではない病を発症しそうだ。
と、いうことで、私たちのありがたいライフワーク神社仏閣巡りを再開することになりました。

いつか行きたいと書きためたノートには、行く気ならいつでも行けた、著名な神社仏閣の名前がずらーっと何ページにも渡って地区別であったり、あいうえお順であったりと(自分では分かりやすく)書かれています。まあ、そこを見るとかなしくなるので、
〖群馬県内の〗〖密にならないような〗〖史蹟・神社仏閣〗を回ろうということにいたしました。〖万が一混んでいたらスパッと諦める〗
といったルール。
できるだけ私の運転で、ナビではなく地図で計画を立てて!
必ず運動的な要素をそこを基点として取り入れていくこと。
外食しなくてすむように、自宅から食事を用意し飲み物も用意して。

afterコロナの神社仏閣珍道中であります。

No.327 21/01/20 04:54
旅人さん0 

このコロナ禍、関東では一都四県に非常事態宣言が発令されています。非常事態宣言が出ている出ていないに関わらず、不要不急の外出は避けて、マスクはあらゆる場面においてできうる限り装着し、人とは密にならない間隔で接することは、もうすでに一般常識となり。
コロナがこの世に出でて、あっという間に世界中を呑み込んで一年が経ちました。
現存している人類にとって未曾有の疫病で、未曾有の世界情勢で、未曾有の日常生活となってしまいました。

群馬県は一都四県に入ってはおりませんが、そも、それが発令されようがされまいが、この一年でコロナにたいして各自が各々の認識と感染対策を模索しつつも確立してしまっているような気がいたします。
非常事態宣言が出ていなかろうが、模範となりうるのではないかというくらい徹底した対策をとっておられる方もいらっしゃいますし、そうでない方はきっと非常事態宣言が出たところで自らはあまり変わらないスタイルをとるのではないかと思ってしまいます。

┉昨日、買い物に行くと大声でずっと話しておられる方がいて、あまりにも大声であまりにも長く、ふとその声の方を見やると!
まさかのノーマスク!
『コロナが怖くてどこにも行けやしないでしょ?私、ほんとに籠りっぱなしで毎日毎日過ごしてるのよ。あなたそんなじゃダメよ!かからないようにするしかないの』
と、広い店内かなりの範囲に響き渡る声でスマホで話しておられるのです。まわりはすべて衣料品。手にはお店のショッピングカートと店内かご。
もし、彼女が無症状罹患者だったら⁉
┉感染のリスクを考えたら恐くて注意すらできませんでした。いるんだなぁ、まだまだ。
話の内容との大きなギャップに、開いた口がふさがらず、その後ふつふつと怒りが沸いてきましたが┉。私が店内に入って買い物を終えてもなお、その方の声は店内に響き渡っていました。


不要不急の外出自粛について語ろうとして、思いきり話が逸れてしまったのは┉まだまだ未熟な私の在り方で、反省すべきは自身でもありました。


No.326 21/01/18 10:00
旅人さん0 

右に向かう道を選んで正解でありました。
神さまがおばあさんに化けて道を案内して下さったのでないことは、私が車を停めたあと、ゆっくりと手押し車を押しながら歩いて来たことでいとも容易く証明されましたが。

ただ、ようやくたどり着いた神社さんには駐車場はなく、一~二台分車を停められるスペースがある、というところで。そこに停めていいものかどうか、躊躇われたものではあったのですが、一応鳥居の外でもあり、隣には小学校の駐車場、さらにその隣には楽しそうな遊具がたくさんあるかなり広めの児童公園が見えます。もし、私どものあと近戸神社さんにお越しのかたがおられても、そこに停めることも可能┉なのかなぁと、身勝手な考えのもと、近戸神社さんの隣にあるスペースに駐車いたしました。ごめんなさい m(_ _)m。

車を停めて降り立つと、神楽殿がありました。さほど広くはなさそうな境内でありますが、それにしては大きな、古くはありますが、掃除をいつもされているようで塵一つ、枯れ葉一つない神楽殿であります。
神官の方が常在しない社でありますが、きちんと管理をされている、清々しい気の神社さんでありました。

拝殿奥には立派な本殿があり、またお祀りされている末社摂社さんも多い、なるほど地元の方々がホームページまで作成して大切にお祀りしている神社さんであります。


今年初めての梅の花。
そしてその香りは、神さまがくださった参拝のごほうび┉ではないかと思ってしまうところが、私のずうずうしい、アラタメナケレバならないところであります。

No.325 21/01/18 06:13
旅人さん0 

梅が咲いていました。

まだ一分咲きの、早とちりの枝が暖かな陽に勘違いして咲いてしまったような、そんな咲きかたではありました。
けれど、少し離れたところにまでその香りはしっかりと感じられる、心あたたまる春の兆しでありました。


それは群馬県前橋市の近戸神社さんの境内で。
といっても、先日お話をさせていただいた月田の近戸神社さんではなく、同じ前橋市の上大島町にある【近戸神社】さんでのことでありました。
前回月田の近戸神社さんのことをGoogleで調べた際、Google地図に三ヶ所近戸神社が示されているのに気づきました。ひとつは月田近戸神社さんの外宮と思われますがもう一ヶ所?
それが上大島町というところにあること、さらに調べると、なんとホームページまで存在しているではないですか。しかもそのホームページは上大島町の町会のもの。┉これは、参拝をさせていただかなくては。


と、いうわけで私のムズムズとした気持ちはとまらない。
さすがにもう初詣の参拝のかたはほぼおられないのではということで、時間帯もお昼近くを選んで、それでもどなたかが参拝中であれば車で待機しようと考えて、寒さの戻った日曜日、阪神淡路大震災から二十七年目の日に参拝させていただきました。

う、これは┉狭い?
この日も私の運転。┉道は少しづつ住宅街の生活道路、という風情を呈するようになってきます。しかもあと少し、というところで右に行くのか左に行くべきなのか、細い丁字路にさしかかりました。しかもその丁字路のさきにあるのは対向車が来たらどうする?といった幅の道で、折しもそこに手押し車を押したお年を召した女性がようやっと歩いて来ます。
お、おうっ!頑張る!o(`^´*)

いやいや、それより右?左?

ええい、右に行くぞっ。おばあさんが私に道を示してくださるためにここを歩いてくださってるんだ!

No.324 21/01/15 15:27
旅人さん0 

私はそこに立ち尽くしていました。
そのポスターがありがたくてありがたくて。
感謝と感動で動けずにいました。

毎日毎日のお勤めのなかで祈願してくださっているコロナウイルス感染症の収束。
それだけではないコロナによる被害に心を痛め、心を向けて、ポスターという形で発信してくださった宗教家の方に、ここを借りて感謝を述べたいと思います。そして┉本当はこのポスターに書き表せなかった思いもあったことと推察しております。

いまだに無宗教の私ではありますが、人としてどう生きるべきか考え生きることを説くということは、宗教、宗派等の壁はなく一つなのだと思っています。



一日黙々と働いて、
通り道のお寺さんや神社さんに毎日立ち寄り、
野の石仏に手を合わせ、
日々を感謝して生きる┉。

旦那寺、菩提寺の奉仕や布施を惜しむことなく
生かされていることに感謝して日々を生きる┉。
そんな日本古来からの生き方がしたいなぁ。

現代社会にはそぐわないものなのだろうけれど。



氷った池のそばで薪割りをされていた御住職さまが、薪割りを終え少しお話をさせていただき、その際袋いっぱいに柚子をくださいました。
そのいただいただいた柚子を入れたお風呂でまた、心とそして体を温めていただきました。






最後に┉。

脈絡がなく、どうしようかと思ったのではありますが、境内にそれはそれは可愛らしい仔山羊がおり、呼ぶと近づいてきてくれましたことをやっぱりどうしても記述しておきたいです。

No.323 21/01/15 09:31
旅人さん0 

信綱公のカルチャーショックで、西林寺さんの参拝記録ではほぼなくなっておりました。
そもそもが【西林寺】さんを〖西光寺〗と記述していたことにも今さらなからに気づきました。
あらためてお詫びして訂正させていただきます。
大切なことなのでもう一度、正しくは【西林寺】さんであります。m(_ _)m



夫が信綱公の経歴の書かれたものを読んでおります間、私はと言えば再び御本堂の前に戻って、聞きなれない音を聞いておりました。
不規則な、物を叩くような音。
庫裏の方角から聞こえてまいります。
うん?これは┉薪割りの音?

御住職さまと思われる方の姿が見えかくれしています。
好奇心は旺盛なおばさん、庫裏への通路を歩いてまいりました。
三畳ほどの広さはありそうな大きめな池がありました。午後の暖かい時間帯でありましたがその表面はそのほとんどが凍結しております。中には錦鯉の紅い背中が見えておりました。
「参拝をさせていただいておりました。┉薪割りですか?」
「ええ」
御住職ははにかんだような、柔らかな笑みを浮かべられ、私たちはそれだけの会話をいたしました。

庫裏の玄関前には檸檬がなっておりました。

その後なにをすることもない私は、仁王さまを見上げたりして夫を待っておりました。すると、あの学校や公民館などでもみられる、透明なガラス戸のついた掲示板が目に入りました。


そこには二枚のポスターが貼られていました。

【誓願】と書かれたものと。
【正見】と書かれたもの。
ともに合掌する僧の写真を扱ったものであります。

思わず釘付けになる私。


新型コロナウイルスによる
あらたな差別をなくすために私たちは
【誓願】
します
不安に駆られて他をきずつけることのないよう
お互いを慈しみあえる社会にすることを誓願します

私たちの温かい「ことば」や「行い」が苦しんでいる方がたを支えます。


【正見】
コロナ禍にあって、この苦境に立ち向かう人々に敬意を表します。
他方で罹患者の方々や医療従事者とそのご家族などに対する誤解と偏見、差別事象や風評被害が引き起こされています。
科学的根拠のない不正確な情報、迷信に振り回されることなく、冷静に生活を行っていくことが第一に求められています。
私たちにとって今できる、大切なことはウイルスに留まらず不安と差別の感染予防なのです。


と、書かれています

No.322 21/01/15 08:00
旅人さん0 

また、信綱にはカッコよすぎる逸話はいくつもあり。
武田信玄にその腕を買われて、信玄のもとに来てほしいと言われたのを断ったこともその一つなのかもしれません。

そのなかの一つ。

┉あるとき、信綱は旅の途中でなにやら騒ぎに遭遇します。
村人に話を聞くと、通りすがりの不届き者が村の子供を人質に取って小屋に立て篭もるという、困った状況とのこと。
腕の立つ者が村にはおらず、説得しようにも犯人は聞く耳持たずで難儀していたそうです。
信綱は一策講じ、居合わせた僧侶から袈裟を借り、さらに村人に「子供を助けるために、ちょっと握り飯を作ってくれ」と頼んだのです。
信綱は袈裟に着替え、立て篭もり中の小屋に向かって「いつからそうしてるのか知らぬが、お前もその子も腹減ってきてるんじゃないか?ここに握り飯があるから、とりあえず食べるとよい」と穏やかに話しかけました。
犯人はあっさりそのおにぎりを受け取りに小屋を出てきて、そこを信綱ががっちり取り押さえ、誰にもケガをさせることなく子供の救出に成功した、というもの。



映画【七人の侍】の1シーンの元ネタになったと言われている出来事なのだとか。まあ、七人の侍は有名な映画ではありますが、さすがに世代が異なりますので、私は観たことはありませんけれど。




私は知らないことばかりでありましたが、
あの【スラムダンク】で有名な漫画家【井上雄彦】さんの【バガボンド】でも紹介されているようで!
そのなかで信綱の言葉として紹介されているのが
〖我が剣は天地と一つ〗
┉有名な方、だったんですね。( ω-、)
また一つ勉強になりました。

ちなみに、バガボンドはかつて三巻ほど読ませていただいただいただけです。はい。
あくまでもネットの情報を横流ししただけですので、念のため。m(_ _)m


No.321 21/01/15 07:40
旅人さん0 

【上泉信綱】さんって、【剣聖】ということばかりがクローズアップされているので、┉たとえば宮本武蔵のような剣の道に生きた方なんだろうな~などと勝手に思いこんでおりましたが。
【上泉城の四代城主】。┉それはもう、間違いなくお城で生まれます!いやいや、お生まれになります。
もう┉。
謙虚なんだか、落城したお城の元城主という肩書きは捨てて、剣聖の方に重きを置いたのか、お墓参りをさせていただいたところでも普通の古いお墓だったし、Google先生に聞いてええっ?!っと後退りするほど(笑)びっくりした次第であります。

そして┉そこで思い出したのが二つ。
上泉信綱さんの小説が出ていたのを夫に勧めて購入したことがあったこと。
上泉信綱さん┉信綱公のお墓の前にそれはそれは大きな大きな信綱公の経歴を書いた看板が設置されていたこと。あまりに長くて読むのを面倒に思ってお墓参りだけで立ち去ったこと。
ちなみに夫はしっかりとそれを読んでおりました。はい。



剣聖と呼ばれる上泉信綱。

信綱は上泉城四代目城主として、領地・領民を守りながら、箕輪城主長野業正公とともに武田信玄軍と壮絶な戦いを繰り広げ、「上野国一本槍」と呼ばれます。
戦いに破れた際に信玄に仕えるよう言われたのを断り、剣の修行に出たといいます。


幼少のころから剣の修行を重ね、新陰流を創始します。

また、現在の竹刀の原型となったと言われる袋竹刀を自ら考案して、剣術の継承や稽古に改革をもたらし、斬りあいを理論的・体系的にしたことで、剣術の祖と云われています。
それまで剣術の稽古は木刀を使うのが主流。死傷者が出るのも珍しくはありませんでした。
信綱はそれでは意味がないと考え、剣と同様に扱え殺傷力が低く、稽古向きの新しい道具を作りました。
割った竹を馬の革で包み、漆を塗ったもので、現在の竹刀へと繋がります。
現在でも柳生新陰流や他の流派で多く使われており、「剣道」の始祖としても捉えてよいかもしれません。



No.320 21/01/15 04:19
旅人さん0 

「参拝させていただきたいと思っていたお寺さんがあるんだけど」
と夫。
「じゃあ運転してもらおうっと」
なんと、この日運転していたのは私。
たまにはゆっくりと、助手席から車窓に流れる景色を見て楽しんでもらおう、という殊勝な考えは一体どこで落として来たものか。

助手席から流れる景色のなか、〖上泉信綱の生誕の地〗といういくつもの看板が目につきました。子供たちが小さな頃、このあたりを通った頃にはこんなになかったような┉。まあ、そのての記憶を完膚なきまでに抹消することのできる能力をもつ私なので、その辺は置いておき。
なんていうお寺さん?
「西光寺さん」
┉これは歴史オタクのアンテナによるものだな。
「このあたりらしいな」
「┉ねぇ、いまのとこ看板が出てたけど?」
さても始まる珍道中。( ω-、)
えっ?Uターンしないの?
「大丈夫だよ、ナビが案内してる」┉本当に大丈夫なのか?

結果、多少遠回りになったのと、対向車が来たらアウト的な道ではあったものの、幸いなことに対向車は来ず。細い道がさらに細くなり、一見民家さんしか見えない、駐車場があるかどうかまで疑わしいところに到着いたしました。ここ?
「車、置くとこないんかなぁ」と心細そうな夫。
┉大丈夫、かどうかはわかりませんが、軽トラの停まってある横のスペースに停めさせていただきました。
高台にあるこちら、前橋市上泉町の【西光寺】さん。決して大きくはありませんが立派な仁王さまの石像が護る御本堂が青くすんだ冬空に威風堂々そびえておりました。
〖上泉信綱の墓所は本堂ひだりてより入った裏側にあります〗
┉ほおっ!


┉で┉上泉信綱さんって、誰?
ごめんなさい。上泉が生んだ偉人さん的な?
なにぶんにも住んでいるところのものでも覚束ない歴史の知識。
┉これはGoogle先生におでましいただかないと。( ;-`д´-)


〖【剣聖】と呼ばれる【上泉信綱公(上泉伊勢守秀綱、後に上泉武蔵守信綱)】は、永正5年(1508年)に大胡城の支城である上泉城で生まれました。
骨格雄偉で品格があり、教養が高く、文字通り文武両道に優れていた人であると伝えられています。
幼少のころから剣の修行を重ね、新陰流を創始しました。

へっ?上泉城で生まれた?上泉城って、お城で?


No.319 21/01/13 13:57
旅人さん0 

【近戸神社】さんの虚空蔵菩薩さま。
あの神仏分離令で、どこぞのお寺さんに移動されたところ、ちょうどそのころ悪疫が流行し、再び近戸神社さんに安置することにしたのだそうで、その後ピタリと悪疫がおさまったため、ずっとここに安置されることになったようでした。
御開帳とかもないようでその後ずっとそこにおられる虚空蔵菩薩さま。
御開帳申しあげたら┉このコロナがおさまったりは┉しないかな。
( ω-、)


そして┉。
昨年は苦渋の決断をされ、中止したという近戸神社さんの令大祭。
【月田のささら】と呼ばれており約600年の歴史がある伝統芸能です。(「ささら」は神社に奉納される獅子舞に由来)
九月一日に行われていたものであったようですが、今は八月の最終土曜、日曜に開催されることとなったと宮司さまがお教えくださいました。

〖群馬県重要無形民俗文化財〗に指定されている獅子舞は、
土曜日の〖宵祭り〗では自治会までの獅子舞い道中のようですが、
日曜日の〖本祭り〗では天下泰平・五穀豊穣を祈念して社頭での奉納後、神輿(市重要文化財)の渡御に従がって粕川対岸の【外宮】まで道中を連ねるのだといいます。

【外宮】は〖獅子山〗とも呼ばれ、獅子舞が奉納されたのち、神官により粕川への濁酒(糟酒)流しが行われるのだそうです。これら一連の神事は「御川降り(おかおり)」神事と呼ばれ、【粕川】という地名のの名の由来といわれているそうです。

獅子舞奉納の始まりは室町時代との記録も残されていて、口伝により舞いの所作が連綿と受け継がれてきたもの。
獅子舞は獅子掛り少年三人、笛掛り青年六人、歌掛り壮年四人の獅子連によるもので、数種類の舞や舞曲(笛)はすべて口伝で、昨年までは一度も絶えることなく奉納されてきたものだったようです。
伝承者たちは子供の頃から生涯をかけて伝承しているものなのだといいます。

┉こ、これは┉。


宮司さまの絞り出すようにおっしゃった
「中止はできない」という言葉。


これだけの重い重い、長きにわたって絶えることなく受け継がれてきた〖伝統〗を担う方の重い重い言葉であります。


神官さまたちだけでは成り立たない神事。


どうか、この神事が、
なんとかこのコロナ禍にあっても今年以降はまた絶えることなく開催できますことを心より、心より祈念いたします。

No.317 21/01/12 15:22
旅人さん0 

ひとつは【六地蔵石殿】と呼ばれる石塔で、暦応五(1342)年と銘された、四面の長方形の石塔の三面にお二人づつお地蔵さまが彫られており、その上にピラミッド型の石が屋根として乗せられている、というようにも表現できる石塔、石殿であります。
もう一つは多宝塔。赤城塔とされているものでありました。
その石塔はそのフロアにおいてほぼほぼ右端の一番奥のところにありまして、あとは広い空き地と、剣道や弓道の道場のような建物が左側に建てられています。その建物が、ここの神社さんならではの獅子舞練習場、なのでありました。


もう一度拝殿でご挨拶申し上げて、落ち葉を炊きあげている小柄なご老人にもご挨拶いたしました。
「いろいろ見てこられましたかね」はい。
「狛犬も分かりましたかね」
「はい。たいそう可愛らしいお二人で。可愛らしいなんて失礼なんですが┉。
しかもきちんと拝殿を見守るようにお二人お立ちになっているのに感動しました」
「あれは私が動かしたんだよ。子供たちが乗って遊んじゃうもんだから」
┉やはりこの方が、宮司さま。
「狛犬は年代が古いものほど童顔をしていると言われてるんだ。ここのはたしかに幼い顔をしてるよな。
ここと、もう一つ群馬県で古いと言われてる碓井の熊野神社の狛犬は、┉行ってみたけど、こう、┉ちゃんと狛犬らしいいかつい顔をしてたよ。だから古いものほど童顔っていうのは必ずしも本当じゃないのかもな」

「どこから来たんで?」
「ああ、あそこの神社、行ったことあるよ。会議があるってんで行ったんだけどね」
夫が尋ねました。
「あの奥には虚空菩薩さま、って書かれていましたけど、今もおられるんですか?」
「うん、ただ、今はおられるだけでずっと中にいるだけなんだけどね。
あの、赤城山の赤城神社には行ったことあるかね。ここの粕川に注ぐ源泉が小沼になるんだけど、小沼は虚空蔵菩薩が本地仏だから、ここにも小沼とおんなじ虚空蔵さんが祀られたみたいだよ」


ああ、宮司さま、本当に本当にこの神社さんが大好きなんだなあ。




No.316 21/01/12 14:47
旅人さん0 

┉どうしても、思い出しながら書いていくものだから、ついつい心に大きく残ったものを後先考えずに書いてしまうのが、私の悪いところです。文章も珍道中。
宮司さまのお話は神社の参拝を終え、帰る間際のことでして、┉とりあえずまた、境内のお話に戻させていただきます。
話があちこちして読みづらい文章、おかしな表現、誤字脱字等々、いつも本当に申し訳ありません。



いつものように拝殿から本殿にまわって、神さまのおわします本殿そばでもう一度、参拝させていただいたお礼や願い事について今一度お願い申し上げ┉ようと本殿脇にまわると、たくさんの、本当にたくさんの石のお社が整然と並んでおりました。思わず、わあっと声がもれたくらいにたくさんの末社摂社です。
本殿の奥には【虚空蔵菩薩】さまがお祀りされている旨書かれていました。

そして┉実はその本殿脇に向かうところから、拝殿むかってひだりてに、野口雨情さん童謡碑、とか、さらに上に登っていく緩やかな坂道があったり、髪の毛を左に引かれるかのような思いで通りすぎたところがありまして。
拝殿横を戻ってその坂道のあるところへ行くと┉
! おられました! 坂道の上がり端、二人並んでちょこんと狛犬さまがおられました。少し高いところから拝殿を見守るようにちょこんと仲良く並んでおられます。うーん、可愛い。
拝殿で手を合わせる参拝の者を、小さな小さな狛犬さまが一生懸命見張っておられるかのようで、後ろから拝見すると本当にいとおしい、といった感じでした。
実はこの狛犬さま、県内で最古のものといわれる室町時代のものなのだそう。それがこんな通路に無造作に置かれていて大丈夫なのか?と思ったら、元々は先程の石のお社の並ぶところにおられたのだそうで、「あれは私が動かしたんだよ。元のとこだと子供たちが乗って遊んじゃうもんだから」と、宮司さま。
向かって右側の狛犬さまのお顔が欠損してしまっていることをたいそう残念がっておられました。足とかもコンクリートで修復してあるのがたしかになんとも痛々しかった。…>_<…

その狛犬さまのさらなる上には、みぎてに石塔が二つ建っているのが見えます。

No.315 21/01/12 05:53
旅人さん0 

┉いやいや、狛犬さまはさておきまずは参拝させていただかなくては。

社殿は古く大きくはありませんが、お宮を守っておられる方が丁寧に大切にお祀りされているのがわかる、常に人の手で清められたものでありました。
【近戸神社】と記された神額の左側に【蠶影山大神】と記された神額が掛けられています。
こちらの御祭神は【大己貴命】さま・【豊城入彦命】さま。

ご由緒の書かれた立て看板によると、
こちらは東国を鎮定した豊城入彦命の姫宮が字丸山に勧請した社を延暦十三年(794)に移築したものと言われているのだとか。
現在の社殿は、鎌倉時代の宝治元年(1247)に造営されたものと言われ、その後何度か改築されたものとのこと。
うーん、古いとは思ったもののよもや鎌倉時代のものとは!
たまに観るお宝鑑定のテレビでも古物の真贋が当たっていたことがほとんどありません。なるほど┉。

こちらの神社さんは昔から地域の鎮守神・産土神として信仰され、
粕川という地名の由来となったのがこちらの神事であります、御川隆(おかおり)に伴う粕流し神事なのだそうです。

古事により、近戸神社の例大祭(旧七月一日であったものの今は九月一日に改めた)には必ず神輿を舁ぎ、その他信徒数百人、これに供奉して、粕川の対岸にある石垣の上の近戸神社の石祠=外宮までむかい、神輿を外宮に安置し、祠前で古雅なる獅子舞を奏し、神酒を供奉者に饗し、再び神輿に供奉して近戸神社まで帰り来るのだそうです。この神事を御川隆神事といい、その御川降の儀が終わった合図に白い濁り酒を川に流すのが粕流し神事なのだそうです。
六百年の伝統を誇る獅子舞と、神職信徒の長い行列に華麗な神輿。
想像するだけでなんとも胸はずみ心踊るお祭りであります。

その例大祭も、昨年令和二年は長い歴史の中ではじめての中止。
コロナ禍においてどう開催すれば密にならずに済むのか、答えが出せぬ状況で苦渋の決断をされたようです。

その六百年の歴史をもつ獅子舞はすべてが口伝。すべてが手取り足取りの伝承であるため、中止というかたちが続くとその脈々と伝えられた大切な伝承が跡絶えてしまう危険があるのだと、のちにお話をうかがった宮司さまが遠くを見つめながらお話しくださいました。
境内に剣道場よりも大きな獅子舞練習場まである神社さんであります。

「中止はできない」
      


 

No.314 21/01/11 20:13
旅人さん0 

いつのことだったか┉それはそれは可愛らしい狛犬さんの写真を見ました。神社仏閣巡りの好きな私にと、上司が職場にわざわざ持ってきて見せてくれた新聞記事だったように記憶しています。
それは群馬県前橋市の粕川と呼ばれる地にある【月田近戸神社】さんの狛犬さん。

行列をなすような初詣の時期は過ぎたのでないかと、地図を頼りに出かけてみました。そう、地図、であります。ナビにその名をいれても、電話番号を入力しても出てこないので、仕方なく地図を使ったものであります。
車で向かうと、道路端に一の鳥居がありました。なんとも控えめな┉もしかしたらこの神社さんが創設された頃にはこの鳥居の幅の参道、道でしかなかったのかもしれません。時代とともにアスファルトの道路ができ、鳥居が道路端にあるようになっただけなのかも。
高台にありますその神社さん。駐車場は┉?
石段のわきにスペースがあり、特段白線などの区切りはありませんが駐車場とされているようです。

その駐車場の少し上のところにたくさん積もった枯葉を掃き集めている小柄な老人がおられました。ご挨拶をし拝殿前に向かいました。

うーん!ここの神社さんやわらかくてあたたかな気に満ちています。
拝殿の戸は開けはなたれて本当に気持ちのよい神社さんであります。
ん?こ、狛犬さん、ごく普通の狛犬さんだったような?

記憶違い?

No.313 21/01/11 16:37
旅人さん0 

>> 312 秩父でおこなわれるという奇祭、【ジャランポン祭】。


僧侶役の人が手慣れた様子でアドリブ満載のお経をあげ、祭りの主人公に当たる故人役の人は、棺に寝そべりながら、酒を煽りまくっているのだといいます。カメラマンの要望とあればポーズをとってくれるし、一度アクションを起こせばシャッター音が鳴り響くという。
僧侶の周りでは楽器を打ち鳴らす人達がおり、その楽器は、引鏧(インキン)、太鼓、そして鐃鈸(ニョウハチ)。
鐃鈸という楽器をすり合わせたときの音からこの奇祭の名となったのだということであります。

この僧侶役の人と故人役の人、その座にいる人たちから常に酒を注がれ、ずっと呑んでいるものだから、途中トイレに行ってなかなか帰ってこなかったりもするようです。

終始グダグダ葬儀を進行し、そのうちなんと故人が三途の河の渡し賃をせびりに練り歩きが始まるのだそうです。!Σ(×_×;)!
この三途の川の渡し賃をケチると、故人にぶつくさ言われるのだとか!金額が大きいと喜びを全身で表現し、賃金をせびり終われば、棺へと戻って酒を煽るという┉なんともこれは、〖奇祭〗でしかありません。

お葬式に続いて、近くにある諏訪神社まで葬列をつくり移動して次の祭典へ移るのだといいます。酔っぱらいの葬列┉。

ジャランポン祭
なんて愉しいんだ!
なんて明るいお祭りなんだ! (ノ*>∇<)ノ♪



ちなみにこのお祭り、疫病が流行り人々が苦しんだことから人身御供というかたちでおさめようと、神におさめていただこうとしたものが始まりであります。
ジャランポン祭にたずさわる方々におかれましては、どうぞこの新型コロナウイルス感染症の鎮静を、願わくば収束を諏訪神社の神さまにお願い申し上げてください。
このコロナ禍においても、この楽しいジャランポン祭が執り行うことができますようお祈り申し上げます。(。-人-。)




No.312 21/01/11 16:03
旅人さん0 

奇祭、というと思い出すのが時期的なこともあって、栃木県足利市の毘沙門堂で開催される【悪口(あくたい)祭】であります。令和元年の際、普段一緒に住んでいない息子が泊まりにきており、また、真夜中の開催であることもあって、いつかまた┉と行かずに過ごしてしまいました。
令和二年の大晦日は開催されたのかどうか┉。
なんでも暗い山道を悪口┉あくたいをつきながら歩くというお祭りのようです。
いつの日かこの奇祭に参加することができるのか、なんとも悔やまれるものであります。


秩父にも奇祭があるとのことを、ふとした拍子にネットで知ることができました。その名も【ジャランポン祭】、別名【一人葬式祭】と、その名からすでに奇祭であることを物語るものです。
饒鈸という仏具をすり合わせた時の音を表現して〖ジャランポン〗と名付けられたそうな。

年に一度、人身御供(ヒトミゴクウ)が行われるという何やら物々しいものでありますが、さらにくだいて言うと町から一人の故人を選び、お葬式のように祭典が行われるといったものらしいのです。
もとをただせば、その昔、人身御供を献上したことにはじまるもののようではありますが、さすがにこの法治国家においてはたとえ神事であろうと許されるものではありません。

埼玉県秩父市の下久那公会堂という、町の公民館で毎年三月十五日(に近い日曜日)に行われている、終始笑いの絶えないいたって明るいお祭りのようです。
秩父観光ナビの説明文を一部引用すると

〖祭壇をつくり、白無垢を着た人が棺おけに入り、僧侶役の人が即席のお経をあげ、実際のお葬式と同じように祭りが進められます。お葬式が済むと葬列を作り諏訪神社まで行き、祭典を行います。〗

というもののようです。


さらに具体的に表現されたものによると、
祭壇をつくり、白無垢(死に装束の方)を着た人が棺おけに入り入って酒を飲み、
僧侶役の人が適当に作った即席のお経をあげ、
そうは言っても実際のお葬式と同じように祭りが進められるようで、そのお葬式が済むと葬列を作り飲みすぎでフラフラの状態で諏訪神社まで行き、祭典を行うというものなのだとか。


あくまでも、町の公民館で開催されるようなごくごく一地域、で執り行われるものでありますが、どうやらテレビで紹介されて以来いろいろなところからの見物人が訪れるようになっているようです。





No.311 21/01/10 04:43
旅人さん0 

ザル頭の覚え書きで、もう一つ書いておきたいものがあります。
観音さまの功徳日、です。

この日に観音さまのところへ参拝いたしますと、○○日分の功徳が得られる縁日という日、であります。
功徳とは、良い行いのことであり、功徳を積むことで果報やご利益を受けられるとされています。
┉その日にただ参拝しただけで○○日分の功徳を得られる、などは、裏技というよりもはや反則のような気がいたしますが┉(;^_^A

この功徳日、【四万六千日(しまんろくせんにち)】という日があり、【浅草のほおずき市】がまさにこの四万六千日の功徳日のお縁日であります。
この日に参拝すれば、四万六千日分参拝したのと同じ御利益があるということになります。

仏教の菩薩の一尊である、観世音菩薩さまは悟りを開くために修行を積んでいる修行者であるとされています。修行者ではありますが、救いを求める人々のお願いを聞き、助けてくださるということで庶民の信仰の対象となってまいりました。
観世音菩薩の縁日は、毎月18日ですが、室町時代の末期頃になると18日以外の日に「この日に参詣すると100日。1,000日分の功徳がある」とされる「功徳日」という特別な縁日が追加されます。
な、なんとこの功徳日!寺社によって異なるとか。!Σ(×_×;)!
東京浅草の浅草寺では年十二回の功徳日を設けており、最も功徳があるのが七月十日の46,000日分で、この日こそが「四万六千日」と呼ばれているものであります。


その四万六千日以外にも功徳日とされている日があり、それを記しておこうと思います。




  【観世音菩薩功徳日】

1月1日(百日)
2月28日(九十日)
3月4日(百日)
4月18日(百日)
5月18日(百日)
6月18日(四百日)
7月10日(四万六千日)
8月24日(四千日)
9月20日(三百日)
10月19日(四百日)
11月7日(六千日)
12月19日(四千日)

この日に観音さまにお参りをすると普段以上にご利益があると信じられています。


ちなみに、毎年参拝しております夫の実家の菩提寺のご本尊さまが千手観音さま、ですので、元旦に参拝すればおのずと百日の功徳が得られる、ということになります。┉今年は二日にお墓参り、だったなぁ(*T^T)

No.310 21/01/10 03:52
旅人さん0 

薬師如来さまのお縁日は八日、不動明王さまのお縁日は二十八日、
などと時々書かせていただいておりますが、なにぶんにも目の粗いザルのごときザル頭で、全部はなかなか覚えられません。
たまに振り返るのに楽なよう、ここに記しておこう。

   【お縁日】
 
  妙見菩薩さま    毎月一・十五日
  薬師如来さま    毎月八日
  鬼子母神さま    毎月八・十八・二十八日
  金比羅さま     毎月十日
  虚空蔵菩薩さま   毎月十三日
  閻魔大王さま    毎月十六日
  観音菩薩さま    毎月十八日
  愛宕さま      毎月二十四日
  地蔵菩薩さま    毎月二十四日
  天神さま      毎月二十五日
  不動明王さま    毎月二十八日

  


縁日は仏さまや神様と特に縁を深く結び、格別のご利益を受けることができるとされている日。
上記のように日で定められておるものもあります。
なかにはお不動さま、お地蔵さま、観音さまなどは本来のお縁日のほかに下一桁の同じ日もお縁日とされていることもあるようです。


寅の日は毘沙門天さま、巳の日は弁財天さま、などのように十二支で定められたものもあります。



  大黒天さま     甲子の日
  毘沙門天さま    寅の日
  弁財天さま     己巳の日
  聖天さま      卯・酉十六日
  稲荷明神さま    午の日
  帝釈天さま     庚申の日 
  摩利支天さま    亥の日




うーん、こちらは細かく書かれたカレンダーでないと、なかなか私のようなずぼらな人間には気づけない気がいたします。┉細かく書かれたカレンダーでも、かもしれません。(´;ω;`)
かくなる上は、その細かく書かれているカレンダーにラインマーカーでしるしをつけてしまうしかないか?


┉まだまだそこまでのご縁が結んでいただけるところまでに至っていない証拠であります。(>ω<。)

No.309 21/01/09 10:35
旅人さん0 

おとといテレビで言っていたのですが、
「今年の節分は二月三日、ではなくて二月二日なのでご注意を」とのこと。
閏年とか閏秒とかあるので、節分もずれるものなのかあと、さして不思議にも思わず、夕食の支度の手を止めることなく軽く流して聞いていました。
ただ┉そういえばあの日光輪王寺の鬼門除け札も節分を境に新しいものに変えるとありますし、以前ご紹介した守り本尊における生まれ年の干支も節分を境にされていました。
節分や立春とか、仏教においてなにか重要な意味があるものなのだろうか?

というわけでいつも参上いただくGoogle先生に質問いたしましたところ。
2021年の節分の日は、〖二月二日(火)〗とのことで間違いありませんでした。
「毎年二月三日が節分の日」と思っている人が私を含め多いかと思いますが、それは間違いのようで、ここ三十年程はずっと二月三日だったのですが、実は二日になったり四日になったりするようです。


そもそもの節分の意味は「季節の分かれ目」ということで、 季節が変わる前日のことを指しており、ここでいう季節とは、 『立春』『立夏』『立秋』『立冬』のこと。
これは昔、冬から春になるのを1年の始まりと考えており、 今でいう『大晦日』のように「明日から新しい年」というように特別な日と捉えられていたからです。

なるほど。



そして。
季節と言えば春夏秋冬の四季が代表的ですが、ここでいう季節とはさらに一年を24分割した『二十四節気』というもので、立春・立夏・立秋・立冬などの他にも、春分・夏至・秋分・冬至などが知られています。
これらの季節は『地球と太陽の位置関係』によって定められています。
太陽と地球は日々、自転と公転を繰り返していますが、 一年周期で地球と太陽の位置関係は変動します。
太陽は約一年かけて地球の周りを一周しますが、 地球は地軸が傾いているため、日本から見た太陽の角度は毎日変動します。
これが『日照時間』や『四季の気温の違い』を生み出しているのです。


うーん、学校の理科の授業だ。( ;´・ω・`)

まあ、そういったわけで立春などの二十四節気は年によって若干変動することがある、というわけであります。

かつておてんとさまとの関係が命に直結したものだった時代、学校の理科なんていうレベルではない切実なものでありましたものね。

No.308 21/01/09 06:38
旅人さん0 

昨日、【日光輪王寺】さんよりご案内いただいておりました【鬼門除け】という祈願札を郵送していただくべく送金いたしました。

初詣の時期を避ければ直接お受けできるのではないか、と淡い期待を抱いて、ずっとあたためておりましたが、この度の爆発的な感染拡大を受けて、こちらへの参拝も諦めた次第であります。


コロナに気を付けつつ、とはなるのでしょうが、いつか、必ず参拝できることを思って。
行けずにおります弥生祭にも。

No.307 21/01/09 03:33
旅人さん0 

以前どこかへ行った帰りの道、偶然前を通りその山門の見事さに息を飲んだ┉そんなお寺さんがありました。
群馬県前橋市の【日輪寺】さん。しかもその通っている道、町の名前すら日輪寺。
「これは参拝にいらっしゃいってお呼びくださったんじゃない?」
胸の前で手を組みきゃーきゃーと騒ぐ妻に、もはや呆れることすらなくすっかり慣らされた夫は「そうだね」と一言。
家に帰り、すぐにGoogle先生に日輪寺さんのことをうかがうと、な、なんと!一年に一度、一月十一日に御開帳されている仏さまがおられるとのこと。こ、これはその日に参拝しご縁を結ばせていただこう。
それ以来、何かの用でそばを通りかかっても一月十一日まで我慢、我慢と、声にこそ出しはしませんが心のなかで自らに言い聞かせて、ようやく、ようやくの一月を迎えました。そんな待ちに待った一月でしたのに┉。

コロナ感染の大きな大きな第三波。
群馬県は十二月からすでにlevel4の扱いをするとのことで不要不急の外出の自粛をと知事より宣言されていました。
再び発令された緊急事態宣言。そのときが遅かったことを物語る、異様なまでの罹患者数。
┉一昨日の群馬県の患者数は一気にその数を三桁の百名となり、神奈川県の患者数も八百三十八名。緊急事態宣言の発令された一都三県だけで全国の患者数の過半数を超えるとも報じられています。

これは┉だめだ。
御参拝は決して不要ではないです。不要ではないですが、不急、でありましょう。健康で生きてさえおれば来年も再来年も一月十一日はやってきます。
本音を言えば不要ではないどころか必要、なこと、ではあります。

ですが、ここは我慢。我慢するしかない。


┉日輪寺さんには通年通り御開帳されることも確認済みでありました。御護摩法要も八時から執り行われることもお教えいただいておりました。でもそれは、この爆発的に患者数が増える前のこと。

我慢も修行。
医療現場は疲労し疲弊して、逼迫の危機にある。

以前は何十年に一度しか御開帳されていなかったという秘仏でありました。それが一年に一度という機会を与えられたのです。
御仏が本当にお呼びくださったのであれば、必ずその機会はまたあるはずです。


修行、だなぁ。(*T^T)

No.306 21/01/07 14:59
旅人さん0 

明日は初薬師さま。
いろいろなお寺さんで法要が営まれることと思います。

ですが┉。 
毎年参列させていただいていた群馬県みどり市の【光栄寺】さんの御護摩法要、例年とは異なるかたちで営まれるとのこと。
昨年までのようにたくさんの信徒の方々が集まって、読経し御真言を唱えて、参列者が順番に護摩の煙を浴びるようなスタイルはどうしても密になってしまうため、今年は御本堂には信徒の方々はどなたも上がることなく、御護摩にかざされた御札をお受けする様式になさったのだそうです。
ありがたくて、そして大好きなひとときだったのですが、これはもういたしかたないことで┉。
薬師如来さまが懸命におまもりくださって今があることに感謝して、自宅で御真言を御唱えすることといたしましょう。



No.305 21/01/05 08:49
旅人さん0 

榛名神社さんの双龍門、現在修復工事中。
実物大の写真をプリントしたシートで覆われてしまっており、その工事はまだしばらくは続くよう記憶しております。( ω-、)

白いシートで覆われた門をくぐり、さらに細く、軽くカーブした石段をのぼっていくと、!
天狗さまがお出迎えくださっております。初めての参拝のときは目の前にいきなり現れた天狗さまにけっこうびっくりしたことを覚えています。天狗さまのうしろには神楽殿の側面が見え、その神楽殿を前から見ようと進行方向に目をやると、突然、拝殿が目の前に現れるのです。双龍門をくぐったあとはサプライズの連続です。

拝殿を見上げると、その背後には大きな大きな岩がまるで拝殿を護るかのようにそびえ立っています。その大きさといったら┉。

拝殿は何段かの石段を昇っての参拝となります。参拝を済ませるとその拝殿の見事な装飾に思わず息をのみます。
龍が巻きついた柱。一枚一枚丁寧に丁寧に彫られた花弁や葉。まるで舞っているかのような鳥。
私のような者にその素晴らしさは書き表すことは到底できません。

参拝を終えた私は、いつも、許されている限り拝殿の横を通って御本殿の脇、さらには御本殿の裏側までまわって裏側からの参拝もさせていただいております。
初めて榛名神社さんを訪れたとき、本殿脇に向かう方があまりに多くてびっくりしたのであります。
そしてもっともっとびっくりしたのは拝殿の横の見事な彫刻┉も、たしかに感動したのですが、御本殿、であります。
岩にめり込んでいる!
あの背後にそびえ立っている岩と見事なまでに一体化しているのであります。
うわぁぁ。┉。

その岩こそが御神体であるから、なのですが、その御本殿を造られた職人さんの技に心から感嘆いたしました。

そして御姿岩と呼ばれる御神体であります大きな大きな岩。
見上げるとさらにびっくり!あまりにも不安定な岩が乗っている?かのようにみえるのです。そしてそのかなり高くて不安定な岩が乗っているかのように見える細くなった部分に大麻がお祀りされているのです。
いったいどうやって?

参拝のたびにその御姿岩の大麻に、どうやって?誰が?と思うのであります。見れば見るほど神業、としか思えないのです。



No.304 21/01/05 05:22
旅人さん0 

たしかにようやく手水舎、しかも石段を登りはじめてまもなくの神幸殿、ではあります。ありますがそもそもその石段は岩と岩の間を抜けていく、細くて昔からのランダムなきざはしです。
そこから御神輿を出して、┉あのトンネルの道も通して、長い参道をひたすらおりていくのでありましょう?
そしてここまで御輿にお戻りいただく┉。
御神輿を渡御することもけっこうな修行です。

そんなことを考えていると大きな岩がせり出しているところにさしかかります。そこは背の高い方は要注意、です。
狭いので気をつけて歩いてはいる箇所なのですが、すれ違いで少し待つようなときが危ないのです。待っているとき眼下に目をやると瓶子の滝や矢立杉、神幸殿が一望できる絶好なポイントでもあるのです。
しかも古い石段で足元も危ないのでついつい足元に注意がいきがちです。
ま、とはいえ気を抜いて頭をぶつける人は一人しか見たことはないです。┉流血するほど思いきりぶつけはしなかったようですが、なにぶんにもお相手は岩。かなり痛そうで┉当たり前だな。
「帽子をかぶってて本当よかったぁ」
ほんとだね。
ほんと気をつけてよ、もう。ここまで救急隊に来ていただくようなことになったら申し訳なさ過ぎです。

頭をぶつけることなく(ぶつけても)せり出した岩の箇所を通り抜けると、真新しい門があります。どちらかというと、立派なお宅などに設けられている門、ですかね。明らかに神社の、といった感じではないように思われます。
そこをくぐると広いスペースがあり、みぎてには社務所が二軒建っています。そして、門をくぐった左真横にはさらなる石段と立派な門、そしてその門の上には大きな空を突くような岩がそびえています。
立派な門┉その名も双龍門という、それはそれは見事な彫刻の施された美しい門であります。その彫りは龍の顔が立体的に浮き彫りされていたり┉顎のしたに手が入るくらいにしっかりと立体的に彫られていたり。ひとつひとつのデザインといい、配置といい、釘付けになる美しさ、なのであります。
ですがここの石段もまた狭いのです。立ち止まってはいけないのであります。ただし┉後続の方がおられなければ。
ここの石段から先は本殿へと続く一方通行の通路となっているので、後続の方さえおられなければ、じっくりとその門の見事なさまを思う存分味わえる。┉滅多にはないです( ω-、)
そして┉

No.303 21/01/04 13:19
旅人さん0 

話が前後してしまいます。ごめんなさい。

そのトンネルの手前には神社さんでありますのに【三重の塔】があります。そんな大きなものをどうして忘れて先を語ってしまっているのか┉( -`Д´-;A)
それほどに広い境内、長い参道なのだと、思ってやってください。
それは事実ではありますが、ひとえに私の記憶の曖昧さに由来しております。
三重の塔は実はあの神仏分離令の発令された際、取り壊すよう指示があったにもかかわらず、地元の強い要望もあり、何度も何度もかけあったのち取り壊しを免れたという経緯があったようです。
三重の塔は参道の左側に、御本殿と同じ方角を向いて建っております。参道の真横に三重の塔の正面を見ながら歩くことになります。
その三重の塔の手前には、狛犬が参道途中の石段の上で参拝者を見張るかのように一対立っておられます。
あまりに狛犬と三重の塔がちかくにあり、違和感というより不思議な感覚がいたします。


そして┉トンネルとなります。(;^_^A

山の側面を補強し足場を整えたトンネルを抜けたところにはまた小さな橋がかかっています。
さらに少し歩いて左側の大きな岩の側面を見ると、何やらサンダーバードの(┉聞き流してください)秘密基地への入口のような扉が唐突についています。これは【東面堂(とうめんどう)】という建物の名残だそうで、もともとは手前に建物があって、この扉の奥に秘仏が安置されていたようであります。


さらに歩いていくと、右に【瓶子(みすず)の滝】と呼ばれる細長い綺麗な滝が見えてきます。滝の両側の岩を〖瓶子(神にささげる神酒を入れる酒器)〗に見立てた名前なのだそうです。
そして滝から視線を戻すと目の前に立派な手水舎があります。
手を浄め口を浄めて、視線を左側に向けると大きな大きな岩の間を急な石段が続いているのが目にはいります。
その石段の登り口左手に一際大きな杉の古木があります。この杉の木は【矢立杉】。武田信玄が戦勝祈願のため矢を射立てたとされています。推定樹齢六百年、高さ五十五メートル、幹の太さは九・四メートルとのこと。
その杉の木を過ぎると石段の左手に【神幸殿】と呼ばれる建物があります。┉ここに御神輿が収めてある。ここから御神輿が動く┉。
神事だからこそまもられている伝統だろうなぁ。


No.302 21/01/04 09:25
旅人さん0 

【榛名神社】は群馬県高崎市にあり、【上毛三山】のひとつ【榛名山】の中腹に位置します。
創建は六世紀後半といわれ、千四百年を越える歴史を持つものであります。
二の鳥居をくぐり、随神門をくぐるとすぐにある橋の下には川が流れ、沢沿いの境内は杉の古木が立ち並びそこを歩くだけで森林浴となりそうな澄んだ気が満ちています。
たくさんの奇岩・巨岩に囲まれた緩やかな上り坂であります。
私はここを歩くとすうっと心の痛みや穢れが拭っていただけたようになり、明るく心はずむ思いとなるのであります。

主祭神さまは、火の神である【火産霊神(ほむすびのかみ)】と、
土の神である【埴山毘売神(はにやまひめのかみ)】をお祀りし、古くから鎮火、開運、五穀豊穣、商売繁盛のご利益があるといわれております。


さらには清らかな沢と奇岩・巨岩に囲まれた地形によって修験道の霊場としても有名であったようで、かつては山岳信仰や神道、仏教が習合した霊場であったようです。

榛名神社さんは【用明天皇】の時代(585~587年)に創建されたといわれているが、古くから神仏習合が定着し、江戸時代には【榛名山厳殿寺(がんでんじ)】と称されるお寺だったそうであります。
しかし神仏分離令が出されると仏教色が排除され、再びもとの榛名神社となったようで、今は随神門である門も弘化四(1847)年に建てられた際には仁王門でありました。


随神門から【本殿】まで五百メートルほどの参道を登ります。

随神門をくぐって【みそぎ橋】を渡ると右手には沢が見え、やがて沢の対岸にアーチ状の奇岩【鞍掛岩(くらかけいわ)】が見えてまいります。もともとは洞窟状だった岩の奥の部分だけが崩れ落ちてアーチ状になったといわれています。

この参道のところどころに、ちょうど等身大くらいの七福神さまが参拝者を見守ってくださっておられます。大きなお腹の大黒さまはお腹を撫でられて地色が出てしまい色が変わってしまっております。


参道には杉の古木が立ち並び、森閑とした雰囲気のなかさらに進むと┉、左から岩が張り出しているため、岩が崩れ落ちないようにトンネル状に補強されているところがあります。トンネル内にも大きな岩がせり出しているようなところで、ここをトンネル状にするまでは、さぞや足場も悪く頭上も危ない難所であったことでありましょう。

No.301 21/01/04 06:43
旅人さん0 

わが家の玄関は、群馬県の【榛名神社】さんの破魔矢と干支の福鈴という干支の動物を形どった土鈴が奉られています。
最初は長男が二年参りで参拝させていただき、お受けしてきたのが始まりでした。
以後毎年毎年。破魔矢と干支の福鈴を奉るのが決まりのようになっていました。

今年はだめかな┉。


榛名神社さんの霊験あらたかなことは有名で、遠方からの参拝の方々も多くお越しになられます。
長男いわく二年参りともなれば一の鳥居にすら到達していない駐車場からすでに列とも言えない列ができていて、まだまだお店のい並ぶ一の鳥居辺りから参拝の方々の列があり、随神門前にある青銅の鳥居辺りともなればすでに密ぎみな行列となっているのだとか。
当然手水舎辺りからはもう身動き不能移動不可能なひたすら立ち尽くす行列らしく。
それを聞いて恐れおののいた私たちは、私どもに相応しい日時におうかがいしようと思い、新年一月中での参拝とさせていただいておりました。
それでも、七日過ぎますとすでに授与品が限られてしまい、希望する大きさのものや種類のものが無くなってしまっていることがわかり、これはやはり三が日に参拝しないといけないんだねと話しておったものなのです。

今年、令和三年の新年においては、大晦日にとりおこなわれていた恒例の神事【天狗祭】での餅まきが中止されたようですし、御守りの種類も数も減らしたと、榛名神社さんの公式ホームページに書かれておりました。
今年は┉参拝に行けたとしても毎年の恒例となった破魔矢のご準備も種類がないのかも知れないし(通例三種類)、干支の福鈴(通例二種類)もないのかもしれません。


それでも今年は、コロナに罹患することなく神社さんへのお参りを考えられていることすらがすでに恵まれ幸せなことと思われる、そんな年明けであります。


うーん。

こんなに心が榛名神社さんで占められている。

No.300 21/01/03 17:23
旅人さん0 

令和二年から三年にかけての年末年始は、あの【緊急事態宣言】の発令されていた令和二年春の頃よりも、外出するのを自らの判断で自粛しているような、きわめて危機感を感じる重大な局面であるよう思っています。
年末年始の神仏への参拝は正月三が日にこだわらず、かつて神仏を崇めることなく過ごしていた頃のように、神社に詣でることもなく、お寺に参拝することもなく過ごすのがよいのだろう。
┉常日頃、お願い事ばかりをしております神仏に、新年のご挨拶もしない?
いやいや、今は人類が迎えているいくつかの大きな局面、未曾有の事態なのだから、そこは神さまも御仏も御理解くださっておられる?
うーん。


そんなもやもやした思いを抱えて新年を迎えました。


日の出の頃、地元の山頂に鎮座される稲荷社にひとり参拝いたしました。そこを参拝されていた方はその時間帯で二十人にも満たない人数でありました。
係の方や誘導の人もいないにもかかわらず、暗黙の了解で片道通行となっており、密を避けて参拝を終えるとスッスッと流れるように次の方に席を譲っていきます。
はからずも最後の参拝者であった私は、神社の清々しい気を、明けたばかりの初日を、独り占めする役得までありました。


高さ191mほどの小さな小さな山ではありますが、その山をまっすぐストレートにのぼっていくけっこうな傾斜の石段とスロープの参道は、足にもそれなりの負荷がかかり、呼吸も乱れるものであります。
ですが不思議と参拝を終えての下りの道は、毎回、まるで遠足のときのあの心はずむような感覚でおりることとなります。
ここのお山のお稲荷さんが下まで送って来てくださっているかのようで、私の好きな神社さんであります。

No.299 21/01/03 06:35
旅人さん0 

もう何年も前から、新年にお墓参りに行っております。

舅には「それは家長の役割だ」とか、次男の家なのだからここはお前の家の墓ではないとか。だから次男の嫁のやることではないとか、いろいろ言われてはいたので、そっと、行きたいと思う子どもがいれば連れて行き強制もしないので時にはひとりで行っていたものです。

舅が亡くなって、親、そして祖父の墓参となり、夫も共に行くようになりました。姑は墓参まではしないのですが、それでも真新しい卒塔婆の立てられたお墓でのお墓参りはどこか新年を感じるものでありました。
それも┉姑が施設に入居するまでは、のこととなり、今は古びてしまった卒塔婆が寂しげに立つ嫁ぎ先のお墓となってしまいました。
「卒塔婆は供養のために誰が立ててもいいんだよ」
そうはいってはみたものの、墓守である人を差し置いてはなかなかそうもできないのがこの辺の土地柄であるようですし、夫は少なくともそう育ててきた父親のお墓に出過ぎたことはしたくない人柄であります。


私の父方のお墓は、これまた舅が「離婚した親の家の墓参りなんて」と申し、父の亡くなった年の喪中はがきも難色を示したくらいだったのですが、小さいころ可愛がってくれた祖父母と父の眠るそこは私の心のよりどころでありました。
その墓参も、昨年父親の後妻の方の戒名が刻まれて以来、行っていいものかどうかすら一時期悩むようになってしまいました。
姑方母方のお墓は墓じまいをしています。

そして┉昨年春に亡くなった母親のお墓はいまだ建てられることなくいまに至り、ご本堂にお骨を預かっていただいたままの状態です。それも墓守となった者の考えひとつ。
生前から墓所まで買っておいた母は御本堂の片隅で何を思うことか。


お墓。
お墓問題。
お墓を持つ以上墓守となる人間が存在することとなり、今は大変多様化し複雑化しているものとなっているようです。

私ども夫婦の考える墓の在り方も、毎年少しづつ変化しています。
私の姉は子どももいない一人身であります自覚から、すでに葬儀からお墓まで決めております。
うーん。


難しい。


そんなちっぽけなことで悩んでいる私を草葉の陰から舅が笑いながら見ているような気がする、ことしも青い青い空の広がる穏やかな墓参でありました。

No.298 21/01/03 05:54
旅人さん0 

令和三年。

昨年とはまるで異なる年明け。
そう、令和二年、こんな年になろうとは誰ひとり思っていなかった。それでも時は流れる。
そのなかでどう生きるか。

死というものがいままでの私の人生とは異なり、
┉本当はいつ訪れるかわからないといった点はなにも変わっていないのかもしれないのですが、少なくとも私は、このコロナ禍となるまではさほど身近には感じてはいなかったのでありました。それでもそれを本当に我が物としてとらえているかといえば、甚だ覚悟も準備もないのが現実です。

神仏を崇めて、すべてに感謝し、『自分は生かしていただいている』『生きている間は自分で出来る限りの働きをして、いつお迎えが来てもいいように生きる』と常に考えておられるような方々の生き方に憧れてはいるものの、そういった心の境地にはなかなかいたらずいまに至っています。

煩悩と欲の塊のようにすら感じてしまう自分でありますが、日々感謝の念を忘れず、誤った考えや行動を反省して生きるといった、まあ当たり前と言えば当たり前過ぎることではありますが、そこから今年一年がんばって生きていこうと思います。
生かしていただいている間にすべきこと、できること。どこかで考えながら生きていこうと思います。

これが小さいようで私には大切な、令和三年の私の所信表明であります。



No.297 20/12/28 09:31
旅人さん0 

今日は不動明王さまのお縁日。

群馬県渋川市の【宮田不動尊】さまの年に一度の御開帳の際の灯明に使った蝋燭は持ちかえることになっていました。
宮田不動尊さまはお優しいお顔をなされた大きな石像さま。
年に一度、一月二十八日の初不動の日にだけ御開帳され、それ以外の日は訪れる人も少ない┉のかなと思うくらいの、山の上のお堂の奥におられます。
ちょうど土日にあたらないとなかなか参拝することができず、まだ一度しかその尊顔を拝したことはないのですが、本当に本当にお優しいお顔をされておられるのであります。

今日のお縁日。宮田におられるお不動さまを、そして様々なところで参拝させていただきました不動明王さまに感謝を込めて、自宅ではありますが灯明し、真言をお唱えいたしたいと思います。



No.296 20/12/28 09:09
旅人さん0 

東京都にあります、【愛宕神社】さん。

『┉愛宕の山にいりのこる月を旅路の友として』と歌われる鉄道唱歌を思い出すのは、それなりの世代、ということでしょうか。

その愛宕神社さんが先ほどテレビのニュースに出ておりました。コロナ禍における初詣の一対策方法の紹介でありました。
ウォッシュミストと呼ばれる装置を境内の二ヵ所に設置したといったものであります。その装置は小さなシャワールームくらいのガラス張りの空間に入るとミスト状の除菌液が吹き付けられるといったもののようです。少しでも安心してお参りいただければという配慮からのもののようで車両洗浄機の会社からレンタルしたとのことでした。

なるほど、さすが、地方の片田舎に住む私がその名を知り、参拝に訪れたことのあるくらいの神社さんであります。

その愛宕神社さんのホームページを拝見したところ、
〖令和三年の旧元日は2/12です。三が日にこだわらずお参り頂ければと思います。
日本車輛洗滌機(株)様のご協力により、12/28~2/2まで境内にウォッシュミスト(全身除菌装置)を設置致しますが、必ず通ってお参り…ではありませんので、手水等含めてご自身でご判断下さい。
※なさらなくても、不敬には当たりませんので安心してお参り下さい┉ 〗とありました。


令和三年の初詣は地元の神社さんであっても、あくまで密を避けて、場合によっては節分までに参拝にうかがえばいいと思っていましたところ、旧暦の元旦は二月十二日なのでそれまででもいいんだよ、と神社関係者さんから肩の荷をおろしていただき背中をおしてもらった思いです。
とはいえ、私はここ何年か前からようやく初詣をするようになった不敬にして不遜な人間なので、その頃のことを思えばなんということもないように思うのでありますが┉。

うーん、ウォッシュミストかぁ。
なんの除菌液なんだろう。
コロナ禍にありがちな素人の疑問です。
氷点下に冷え込むような日ではミストは作動するのかなぁ、それを吹き付けて凍ったりはしないのかなぁ。
くだらない疑問ばかりが頭に浮かびます。


せっかく愛宕神社さんの出世の階段をのぼっての参拝をしたというのに、辞職してしまった私はなんとももったいないことをしたものであります。
後悔はないですが┉不敬にあたるかしら( ;´・ω・`)

No.295 20/12/27 09:15
旅人さん0 

コロナ禍、子育て中、ましてや乳飲み子を抱えたお母さんたちの奮闘にただただ頭がさがります。
コロナというわけの分からない病気のせいで、孤立するお母さんも多いのではないのかと思うのです。
ましてやそれが慣れない土地で、頼れる身内もそばにいないといった状況下にあっては、その孤独感はいかばかりかと胸が痛みます。

娘も慣れない土地で初めての子育てを、仕事至上主義の旦那さんとの生活のなか、まさに孤軍奮闘しています。どれだけ仕事至上主義かといえば、妊娠中出血した妻を置いて仕事に行き、入院から退院まで娘がすべて一人で対処したという、親としては怒り心頭な男性であります。


歩き始めた目の離せない子供と二人。
コロナのせいで、遊びに行くことも買い物すらもままならぬとなれば、いくらかわいいわが子であってもストレスが生じないということはないと、思うのであります。

テレワークも不可能で、ましてや人と接するのが仕事である私は、コロナに罹患しているやも知れぬ身であると考えると、そんな娘の手助けもできず、孫にも会えない生活をしておりました。

今しかできないことをせずに、仕事、仕事と言って時を過ごして、私は後悔しないのか?
仕事はいくらでも代わりがいます。
辞めよう。
三カ月前から直属の上司には伝えてありまして、パート従業員に過ぎない私は特に退職願の用意も要らないようです。十一月いっぱいで仕事を辞めました。



仕事上でコロナに罹患していたなら、と考えてとりあえず二週間、あいだを開けて、ようやく娘と孫のところへ行くことができました。

大きくなって、重くなった孫をおんぶしてのお散歩。
どれだけ憧れた行為だったことか。


お散歩した道すがら、一般のお宅の裏手に大きな石碑が建っていて、【百】という文字が目につきました。ん?
【観音霊場百ヶ所巡礼記念の碑】と彫られています。
おお、百ヶ所の巡礼を果たされた先人がここにおられたのか。

巡礼はストッブしてしまいました。 このあといつまた巡礼に出られることか。
それでも私は新たなスタートをきりました。

コロナ禍。
生きざまと死にざまを考える機会ともなりました。
まだまだ死にざまを考えることはできずにおりますが、一歩一歩歩みながら考えていきたいと思っております。



No.294 20/12/21 05:52
旅人さん0 

さきほどテレビで、真夜中、東北で大きな地震があったことを知りました。真夜中のことで、詳細はなに一つ報道されず。

大雪で大変なときなのに┉。
雪降ろし、雪掻きで疲れはててお休みになられておられる真夜中に┉。

どの方もどの方も地震への恐怖はいまなお鮮烈に残っている地であるのに┉。




東北にお住まいの方々のご無事を祈り、ありきたりな言葉しか言えず歯がゆいことではありますが、お見舞いを申し上げます。


No.293 20/12/19 06:55
旅人さん0 

【円融寺】さん。
実は観音堂はこちらの境内にはないのです。
それは存じ上げていたのですが、結構な山道の石段を三百段のぼっていくのだということで、秋の夕刻、野性動物との遭遇する可能性を考えてあえて今回はやめて帰路につきました。
その岩井堂とよばれる観音堂。
大渕寺さんの護国観音さま。
必ず行こうと思っています。

秩父三十四観音霊場巡りは、このあと一つ一つの霊場が離れた場所にある立地となります。
さらには鍾乳洞を梯子でのぼったり、本格的な岩場をよじ登っていく奥の院など、車でなんとかなっていた┉なんとかしてしまっていた巡礼もいよいよ修行色を帯びてまいります。
体調を管理し、コロナ感染対策をしたうえで、しっかりと体力維持┉では足りませんので体力増強をしていかねば!


寒い季節を乗りこえて、明るいあたたかな季節を迎えて、笑顔で楽しめるときを迎えましょう。
人々が春を愛で。
新入生たちが皆に祝われ入学式に参列し。
進級した子らが胸膨らませて新しいクラスのお友だちと顔をあわせ進級した学習を学び。
新社会人たちが縦横の人間に出会い自らを成長させ。
医療従事者の方々が、普通に家族の待つ家に帰宅し普通に家族で食事をし、普通に自宅で眠ることのできるときを迎えたい。


全世界のコロナ禍がどうか一刻もはやく落ちつきますように。


No.292 20/12/18 09:35
旅人さん0 

前回の秩父巡礼は第二十六番円融寺さんまで。

秩父巡礼地において、思わず目を疑うくらい新しいお寺さんで、アスファルトの敷かれた駐車場、苔すらないすべすべの新しい石段。
石垣の上に建てられた塀には瓦が葺かれています。
そのお寺さんの駐車場にたくさんの建築業者さんの車両とたくさんの木材。
横に広い立派な御本堂は┉壁も床もない状態でありました。
仮本堂とされているのは二畳あるかないかのプレハブで、戸をカラカラと開けるとすぐそばに御前立ちの御本尊さまがおられました。
まあ!♥
御本堂の工事中なのはなんとも残念なことではありましたが、こんなにお側で御本尊さまにお会いできる機会など滅多にはありません。
お優しいお顔立ちの、金色のまばゆい、たいそうおきれいな聖観音さまでありました。
そこで納経し読経して、庫裏に向かいました。
庫裏もまた新しい建物でありました。
そこでは瓦の奉納のご案内があり、┉あり?あれ?
な、なんと納め札がございます。

えっ?順番たがえまでして探し求めた納め札は、まさかの順番通りの円融寺さんにあったのでありました。


人生なんてこんなものさ。


なんとも珍道中らしい出来事でありました。


No.291 20/12/18 08:31
旅人さん0 

以前の外出自粛期間においては、生活圏内の、人も訪れない、もしくはほとんど人の訪れていないときに神社仏閣に参拝し、コロナの終息を祈願しておりました。

でも今は┉そうした外出さえも自粛してしまっている私がおります。生活必需品の買い物には行かなければならないので、その他の外出は自然に心が身体がそれをひかえるようになってしまっています。
心の余裕が当時よりもなくなっているのかもしれません。

中断している秩父巡礼。
中断してしまって久しい鎌倉観音霊場と十三仏巡り。
行きたいと思っていた、東京葛飾柴又の帝釈天さん。
道筋をシミュレーションまでして、あとはもう行動にうつすだけだった東国三社参り。
いつ行けるのだろう。
いつか行けるのだろうか。

いつか必ず行こう!
いつか必ず行く!


緊急事態宣言を希望する声が世間でも強くあがっているようです。
それがないと自粛したくても自粛できない人がおり、まるで流行していなかった頃に自粛のため学校に行けずに過ごした子供たちも、今度は感染の危険を冒しながらの登校をしています。

コロナはもうすでにあるものとしてとらえるWithコロナの時代に突入してはいます。発生してまもない病であるがゆえ、いまだにその寄り添いかたは模索するしかないものではあります。ありますが、危機感を全国民が共有して、一丸とならなければこの追い詰められた局面を乗りこえられないのだと思います。

春先とは違うもう1ランク上の感染対策を、外出自粛をしなければいけない、感染の連鎖をたちきらねばならないのです。

医療現場の方々は家族とすら会えず、労働基準法に確実にひっかかる連勤をされておられます。その心身の悲痛な状況を知って、当たり前の感染予防を遵守していきましょう。


再びあの明るい日の当たる道を歩くために。


今まで行かせていただいた、神社さん、お寺さんでお受けした御札や御守り、御影とよばれる御仏のお姿を写したもの。
┉ご縁を結んでいただけたかどうかは私の日頃の行いに寄るものとなるので、なんとも自信はありませんが、毎日祈願して、いつの日かその祈りを叶えてくださったことへのお礼の参拝に行けるように。




No.290 20/12/18 01:54
旅人さん0 

以前、外出自粛期間には感じていなかった恐怖を、今ひしひしと感じています。
それはコロナが地元でも拡大し、全国各地で、身近なそこここの街角にみえないながら潜んでいるような恐怖なのかもしれません。
当初まるで未知の、罹患すると死にいたることすらある、感染力すらも計り知れない病だったものは、同じ国内でありながらも、まだまだどこか身近でなかった。けれど今は、市中にあふれでて、クラスターすらがナビすら要らない場所のあちこちで起きているのが現実です。

┉なにより〖自分はコロナではない〗という、断固たる自信のようなものを持った方が、症状がありながらも市中を普通に歩きまわっており、しかもコロナの検査を受けるように指示されてもなお、検査費用が自己負担で高額であることから拒否して、通常の外出、通常の受診を繰り返しているという実例を目の当たりにすることが増えたこと。
熱があるのにそれを隠し受診し、受診前後には駐車場では知り合いのかたと距離すら持たずに三十分以上談笑し、一週間以上熱が続き咳が続くまま通常生活をし、三度目の受診で強制的に紹介状を書かれた先でコロナの診断を受けたとか、いく例もいく例も間近で見聞きし、結果の拡大。

何かひとつでも症状があって、自分はコロナではないかという不安と、その不安から逆に自分はコロナではないと思いこもうとする心理は、どこかわからなくはないような気もするのですが、少なくとも当たり前のソーシャルディスタンスや、病院で提起している受診のきまりは守るべきものだと思います。
コロナに罹患された方を悪く言っている気は毛頭ありません。
それは悲しいけれど誰しもに起こりうることで、誰もが望んで罹患したかったわけではないので。
ましてや無症状の方もおられる病であります。



ただ┉距離を一定に保ちたくともスーパーの提示しているとまれの位置すら保たず真横に並ぶ人、マスクもせず話しかける見ず知らずの人。
コロナを疑う症状を隠して距離もとらずに受診する人。コロナの検査を受けるように指示されても拒否する人。

やめましょう。
やめてください。


コロナウイルスはたしかに市中にあふれてはいます。
けれどそれを国民一人一人が止めようと努力して生きなければ、医療も経済も逼迫した状況になります。なりつつあります。




No.289 20/12/15 16:58
旅人さん0 

御朱印も、納め札も祈り石もあきらめて外に出ようとした、まさにそのとき、女の方が一人入ってこられました。
いらっしゃらないみたいって教えて差し上げた方がいいよな┉。

「あら。お待たせしてしまったでしょ?ごめんなさい。もう誰もお見えにならないかと思ってしまって。」

┉お寺の方でありました。
もう少し早くにあきらめてしまえばお会いできなかったところでありました。後光が射してみえたっていう表現は、こんなときにつかわずしていつ使うのかといったタイミングであります。
あきらめかけた御朱印も、祈り石もお受けして、納め札のことを申し上げたところ、
「あら、うちのお寺では扱っていないの。というか、もうここって二十七番で終わりの方でしょ?この辺の番号まで来るとどこのお寺さんも扱っていないんじゃないかしら。ごめんなさいね。」

それは言われてみればごもっともなことでありました。たまたま私どもは納め札を夫婦で使うものだからこんなタイミングで終わってしまったけれど、用意周到な方であれば、購入した時点で三十四ヶ所まわるのにあたって、何枚あるのか数えるでしょうし、その時点で納め札をいくつ購入すればよいか気づくのであります。
どんぶり勘定の私と、そんな私を信用してしまう夫の珍道中。

写経してまいりました紙と納め札はセットのようなもの。写経用紙は地元でも手に入りますが、納め札はこういった巡礼地でしか取り扱いはありません。
もっとも、もしかしたらパソコンで出してプリントするようなこともできるのかもしれませんし、とにかく枚数を数えて足りなければコピーしてもよかったのでしょう。なんと考えの足りない人間でありましょう。

そんな思いでとほとぼと境内を歩いていると、延命水という湧き水がありました。飲用可能なお水のようです。
延命かあ。
このコロナ禍、明日の運命が誰もわからないようなそんな世の中となってしまっております。そう言いつつもそんな覚悟など露ほどもできておらず、どこかまだまだ生きられるような気がしている危機感のないのんきなやつであります。
けれど┉やっぱりある程度の年になった人たちが口を揃えていうように、子供に世話はかけたくはない。

結局、いつも延命の願掛けはせずにお参りをすすめる私たちで。
口には出さないけれどきっと同じことを考えているのかなぁ。

No.288 20/12/15 10:17
旅人さん0 

大淵寺さんは蒸気機関車の煤煙で全焼してのち建てられたお寺さん。なるほどいかにも大正時代に建てられたといった風情の、あの薄い硝子戸のある御本堂でありました。
できうるならば納め札を購入して、順番を飛ばしてしまった【圓融寺】さんにも参拝したいという焦りから、いつもとは異なり(?)慌ただしく動く私。
ようやく納経所へ向かうと┉。

呼べど叫べど(┉もちろん叫んではおりませんが)どなたもお出ましにならず。しかもどう見ても、納め札をお取り扱いになっているようにはみえない、シンプルな受付です。
待つこと数分。諦めて外に出ようとすると郵便屋さんが配達にみえました。
誰もおられませんよと思ったものの、もはや青菜に塩といった有り様で声にもならない私。
これでは順番たがえまでしたというのに、こちらの御朱印すらも受けられないということになります。

落ちつけ!
あくまでも霊場巡り、参拝が目的であって、御朱印は納経した証、でしかないのだろ?納め札を納めて読経して、写経してきたものを納めればそれでよかったはずだろう。

No.287 20/12/15 08:51
旅人さん0 

次に向かったのは、第二十七番札所であります【大淵寺】さん。

とうとう数字すらまちがうようになってしまったとお思いになられた方は、ご安心ください、今回初めての順番たがえでの参拝をしたのであります。
なぜならば納め札が残り三枚になってしまったから。

納め札は取扱いをされている札所が大変に少なく、先に向かうこととした大淵寺さんでは、秩父全体の神社さんやお寺さんで賛同して取り扱われている秩父【願い石】の取扱いをされているので、もしかしたらそういった巡礼に必要なものも取り扱われているかもしれないと思ってのことでありました。

時刻は十五時をまわっています。
小心者の私は順番たがえが気になっておりまして、せめて今日中に二十六番さんへも参拝してまいりたい。┉そう思っているものだから、どうしても足早に、回りも見ずに御本堂を目指して歩いておりました。
「ああ、観音さまが見える」
あとから歩いてくる夫が感嘆の声をあげております。┉?
見える?
あたりをみまわしたところで観音さまの石仏や観音堂があるようにはみえません。
「ほら、あそこ」
ん?やっぱり見あたりません。
「もっと上だよ。ほら、あの木と木の間、山のほう。」

┉観音さまだ。  

そう、まさに木と木の間に白い観音さまのお顔が見えていました。
高さ16.5mの鉄筋コンクリートでできた、高崎、大船にあるような大きな観音さまでありました。
1935年11月に建立されたものなのだそうで、時はまさに戦争の足音がひしひしと迫ってきた時代のこと、本来左手に蓮華を持つ筈なのに代わりに剣を持つ像に仕立てられているのだそうで、護国観音さまと呼ばれているのだそうです。
とはいえ、私たちが見上げたあたりからではお顔しか見えないのでありましたが┉。

秩父札所27番の旧観音堂は、山上の護国観音の付近にあったといいます。それを麓の寺の境内に移したのですが、1919年4月、開通したばかりの秩父鉄道の蒸気機関車から吐き出された煤煙で寺もろとも焼失してしまったのだそうです。

すごい!
小学校低学年のときの国語の教科書にあった【機関車やえもん】のようだ。
蒸気機関車が走るころは、そんなことが絵本の世界ではなく現実に起きていたことだったんだ。

No.286 20/12/14 09:02
旅人さん0 

現在は二十五番札所であります久昌寺さん。
現在の観音堂の脇には、崩れた岩屋の跡があり、当初この岩屋に祀られていたため、かつて〖第十一番札所〗であった当時は【岩屋堂】と称されていたのだそうです。


それにしても本当にのどかな、心が洗われるような光景であります。

春には春の、夏には夏の。
秋には秋の風情があって、冬には冬の趣のあるでありましょう久昌寺さん。
何度でも来たいお寺さんであります。


No.285 20/12/14 08:51
旅人さん0 

【御手判】にまつわる伝説。

秩父巡礼開創の折、播磨国書写山(はりまのくにしょしゃざん)の【性空上人(しょうくうしょうにん)】が冥府(めいふ)に招かれました。そして、その際一万部の経典を誦(しょう)し、【閻魔大王】から〖証文〗と〖石の手判〗を授けられたといわれています。
性空上人は、〖証文〗を【西国第二十四番中山寺】に納め、〖手判〗をこちらに納めました。この時のものとされる手判が現在なお伝わっており、和紙に刷った物が授与されており、それが私がうるさいほどに騒いでおりました【御手判】であります。
いまは、こちらの御手判をお受けすることで観音霊場の巡礼の旅路の無事がお守りいただけるというお守りとする説もあるようであります。
いいんです。┉罪深きわが身、穢れた心を自覚はしております。
この御札をお受けしたところで、すべてが赦されるものではないことくらいは重々承知しておりますつもりです。この御手判、今後の生き方を改めるための御札といたそうと思っております。

そうそう、♪┉そんなに甘いところやおへんでぇ。もっと、真面目にやれぇ。と。かすかな記憶に残る歌の台詞にもありました。
ん?、あれは┉天国のこと、だったかな?


そして、こちらに伝わります縁起。

あるとき、旅の僧が山に分け人って岩洞まで行くと、ひとりの少女が老婆の遺体のかたわらで泣いておりました。少女の話を聞くと、この老婆は性格が荒々しかったことから人に嫌われ、十五年前にお腹に子を宿したの身で里を追い出されてしまいます。さらにはその後、里人に川に落とされて殺されるところを逃れ、この岩洞で娘を産んだのだといいます。
以後、老婆は人から危害を受けることを避けるために、心ならずも鬼のように振る舞ってきたのだというのであります。
その老婆=母親が亡くなり、その娘である少女が嘆き悲しんでいたところ観音菩薩さまが現れ、『母の供養のために堂字を建立せよ』とのお告げがあったのだといいます。
少女の話を聞き終わった旅の僧は、娘を連れて里に行き、人々に一部始終を話しました。すると、里人たちは娘を哀れんで、力を合わせて観音堂を建立しました。
その観音堂にその僧が持っていた行基菩薩作といわれる聖観音を本尊として安置したとされています。

なんとも切ない、そして人の世によく聞く話であります。

No.284 20/12/13 06:01
旅人さん0 

いつもの私でしたなら走ってその先を確かめるところでありますが、あまりにも心地よい、あまりにも美しいその光景を走って過ぎることなど考えつくことすらなく、その光景を存分に味わいつつ歩をすすめたのでありました。

ありました。
┉【水上弁天堂】。
ここに向かう道であったということ?
この御堂にも隣接した納経所等は見当たりません。

あ、御本堂だ。
目前にあります弁天堂から90度視線を動かすと、なるほど御本堂がここにございます。
┉あの仁王門からどれだけの距離離れているのでしょう。山の麓一面すべてが境内のようです。

はっとわれにかえって、御本堂で再び読経して┉。
納経所へと向かいます。
納経し、御朱印をお願い致しました頃には、な、なんとすっかり御手判のことが頭から消え去っておりまして。危険、危険!
┉大丈夫です。納経所に御手判のこと御案内くださる貼り紙がしてありました。それを見てすっかり脳裏から消え失せていた自分にびっくりしただけでして。

私の御手判!ゲットです!

No.283 20/12/13 05:32
旅人さん0 

さても大事な【御手判】やいずこ。


【鬼門除札】ですとか、【御手判】ですとか、ほんの数年前の私でしたらその存在すら知らず、知ったところでそれを自らお受けしようなどと思ってもみなかったものでありました。とはいえ、その当時にも〖買う〗ではなくて〖お受けする〗といった感覚ではおりました。ただ、その提示された価格は当時の私には高いと感じるものではありましたが┉。
まるで不信心だった頃を反省するかの勢いで、お札や御守りが増えているわが家なのであります。

閑話休題。



第二十五番札所であります久昌寺さんの境内で、納経所を見つけられず途方にくれておりましたところ、小さな案内を発見いたしました。〖久昌寺➡〗

ん?えっ?
じゃあここはどこなので?
第二十五番札所の証しの演技絵が掲げられているではないですか。

だまされたと思ってその矢印の方角に目をやると、┉ ただの里山にあるのどかな風景と小さな水門があってその上の土手に上っていく細い土の道があるだけじゃないですかぁ( ω-、)
普通に里山の一風景に過ぎない光景がひろがるばかりです。

それでも┉藁をもすがる思いでその土手に上がると、眼前にひろがる広い沼。うわあぁー。
その美しい桃源郷のような景色といったら┉。
秩父の美しさをここに凝縮したかのような美しい光景がひろがっています。
そんな美しい沼のほとりを歩かないでいられるわけがありません。
でもそこに、ここには立てないで欲しいあの、赤い幟旗が、はるか遠くではありますが、いくつもはたはたと はためいています。
景観を損なうからやめた方がいい。いつも思うのですが┉。
でもこれも神社さんやお寺さんに信心深い老若男女が奉納しているものなんだよなぁ。うん?奉納した旗?
ここも境内ってこと?( *゚A゚)




No.282 20/12/11 06:32
旅人さん0 

十月にある一通の封書が届きました。日光輪王寺さんから、来年の鬼門除け札の郵送申し込みの御案内でした。
こちらは遠方からの方もおられるため、コロナ禍だから、というのではなく以前からそのような御案内をなさるのが慣習のようであります。

「輪王寺さんからこんな御案内が届いたんだけど┉行けないかね、やっぱり┉」と申しました頃は、まだまだ第三波も起きていない頃。
「大丈夫じゃない? お正月過ぎて平日に密にならないように行けば」とは夫。
そう、日光までの道筋は頭には入っているのですが、世の方々にかけるご迷惑を考えると運転を躊躇してしまう私、なので、日光に行くには夫の協力なくしては行けないと思っておりまして。


┉無理だな。 行けない。
行ってはならない。
コロナは確実に医療を逼迫している。

私のパワースポットである日光輪王寺さん(┉までの通路にあたる境内)。
こうした手段があるのだから、送っていただこう。

No.281 20/12/09 14:54
旅人さん0 

次に向かいますお寺さん。
携えていれば閻魔の庁も無事に通れると言われている【御手判】の版刷りしたものをお授けいただけるという、それはそれはありがたいお寺さんなのであります。
┉そんな姑息な、と、自らを恥じはするのではありますが、でも、やっぱり、でき得ればそんな手形、【御手判】、欲しいなぁと、思ってしまう私でありました。
それが札所二十五番 【久昌寺】さんであります。

駐車場に車を停めると野菜の無人販売があり、非常に心惹かれたものの、まずはお参り。さっそく物欲との戦いをする辺り、やはり御手判がないとダメだな┉ではなくて!もう┉。

そんな、野菜の無人販売があり、学校帰りの小学生の遊ぶ姿ありののどかな駐車場から少し離れたところにポツンと、本当に唐突にポツンと、紅い┉ともすれば場違いな気すらする立派な山門が、山門だけがポツンと建っています。
【御手判寺】、えっ?
御手判寺と刻まれた大きく立派な石柱が、その山門のそばに建てられています。┉いやいやそんなお寺の名前ではない、なかったはずです。┉間違えた?
思わずスマホで確認したくらいであります。

それに山門しかないって┉??
山門のくぐってみると、はるか遠く┉というほどではありませんが、三~四百メートルはゆうに離れたところの高台に着いたお寺さんがあるではないですか。ああ、よかったぁぁ。

またまた走るようにお寺さんめがけて向かう私。どんだけ御手判が欲しいんだ。( ;-`д´-)

その高台にあるお寺さん。
┉まさかの無人。無人です。
こちらが久昌寺さんであることは間違いありません。なぜならばここ、秩父観音霊場のシンボルと言ったら大袈裟かとは思いますが、必ずその観音霊場に一つ、掲げられている縁起絵が飾られておりますから。
ど、どうして?┉
無人のときは○○へ、という案内のある観音堂もありましたが、こちらはそんな風には書かれていなかったはずです。

私の御手判は┉?


納経の際に希望すれば、『御手判』の刷り物を頂戴することができると、
あの世へ無事にいける通行手形という御手判はどちらでお受けできるというのでしょう。
   


No.280 20/12/08 17:05
旅人さん0 

こちら、法泉寺さんに伝わる縁起。

昔、信仰深い女性が、口中の腫物で困っていました。秩父から来た僧が「この柳の枝で口を洗え」と教えられ、そうしてみたところすぐ治ったといいます。高じてお口のトラブルに効くということになっているようです。
和菓子を食べるのにちょうどよさそうな楊枝┉こんなると縁起もなにもあったものではありません。こんなことを考えるのは私くらいか。(^_^;) ┉そんなことを考えているとはかけらも思っておられない、御朱印の墨書きをしてくださっていた方から、その、ありがたい縁起をお聞きしたのでありました。


こちらでは、縁日にあたる四月十八日に、集落の男女が各戸一人ずつ出て【廻り念仏】という行事を行うのだといいます。境内いちめんに咲いた桜の下で、人々は輪になって子供のにぎりこぶしほどの木の玉を連ねた長い数珠を南無阿弥陀仏の称名を繰り返しながら順次わきに座る人に廻すのだとか。うーん、いいなぁ。住みたくなってしまう。


石段をのぼりつめたところにある休憩所(?)には、小僧さんが木魚にもたれかかって幸せそうに休んでいる石像がありました。日の光を浴びて本当に幸せそうです。
そして。
そこから見えるのは。武甲山!
なんといい姿でしょう。


名残惜しい休憩所┉法泉寺さんをあとにすることにして、さきほど数えられなかった石段の数を数えます。
いち、に、さん┉。
百十六っと。

「ねえねえ、数えてきた。百十六段だった」と私。
「えっ?百十七だったよ」
「ええっ?数え間違いじゃない?私、ちゃんと数えたもん」
「いや。百十七だったよ」
「これだけの石段、いろんな人が数えてるから、ネットで見ればどっちが正しいかすぐわかるんじゃない?」
と、言いながらなにげに見上げたところにちょうど小さな案内板があり、そこにまさにその答えが!
【石段百十六段】
ほら!(o≧▽≦)ノ

「ええっ?じゃあ最後のちょっとした一段は数に数えないってこと?」
「いやいや、ちょうど百十六段だったよ」

┉正解は夫。
まさに最後の一段、境内にあたる最後の一段は観音さまのおられる聖域なので数えないのだそうで。
一見正解と思われた私こそが数え間違いでありました。

やだやだo(><;)

No.279 20/12/06 16:05
旅人さん0 

この石段、上りながら数えるのはムリでありました。
平気、平気とか軽い足どりでのぼりだしたのに、最後の方はゼイハーゼイハー、日頃の運動不足がここに顕著にあらわれます。
実は夫は毎晩一時間弱歩いておりまして、対する私はといえば、仕事がら多少歩いているのをいいことに、歩くのなんてイヤだ、まして二人で歩くのなんて絶対にイヤだと、食後に甘いものを食べてゴロゴロと過ごすことこそがが至福のときとばかりに過ごしております。
〖イソップ〗の〖ありときりぎりす〗のお話のようです。
すずしい顔でさっさと先に境内に到着した夫は、ゼイハーゼイハーのぼってくる私をパシャっとスマホで撮影!く、くやしい!
デリカシーのないヤツ!

のぼり終えればすぐに呼吸は整いますので、すずしい顔を装おってとりあえず辺りを見回してみます。┉ 休憩所がある。
もちろんそこへ向かうことなく、真正面にあります御本堂、観音堂へと向かいます。こちらは左右対に竹を細かく縦に筋をいれて、┉まるで七夕飾りの折り紙の提灯ようにしたものが提げられています。もちろん竹ですので折り紙の提灯ほどには広がっているものではありません。

うーん、こちらの御本堂、なんだか変わった作りであります。

コの字に奥まったところにお賽銭箱があり、まるで受付のようにもみえます。コの字の左右には小さな囲いが造られていて、中に仁王さまがおられます。仁王門ならぬ御本堂そのものに仁王さまがおられる形でありました。

専門的な書き方をすると、
〖向欄を付けた回廊をめぐらした三間四面のお堂で江戸時代中期の建築といわれる。唐様を随所に配し、 変化のある意匠をこらして妙味あるお堂で、三間の表一間を吹放しにし、左右の袖に小さな仁王像が厨子に納められている。これはがんを設けて仁王尊をまつり込む形態となっていて、仁王門と観音堂を一宇とした造りは、堂の柱が全部八角柱であると共に、他に例を見ない特徴と言える。〗
となるようです。

あまり大きくはない御本堂がそのような造りなので、コロナ禍でなくても納経や読経がむずかしい、ソーシャルディスタンスの取りづらい御本堂であります。


参拝を終えて納経所に向かいます。
こちらの観音堂ではその縁起にあやかっての楊枝が売っているのが特徴であります。歯の痛みが治まるとか。
┉そうだった、歯医者さんの予約を入れなければ(-_-;)

 

No.277 20/12/06 05:53
旅人さん0 

〖ミューズパーク〗を突き抜けて行くこともできたといえばできたのですが、来た道を戻っていった方が圧倒的に早いと夫が申します。
どちらでもいいよ、景色を楽しみながらこのままミューズパーク内を行くもよし、時短をとるもよし。助手席のお荷物がなにを申せましょう。
結果、いま来た道を戻ることに。夫が申しておりました通りに先ほどの音楽寺さんにもっとも近い駐車場を、右に出ても左に出ても展望台があったようでありました。┉まさか、それが確認したくてこっちの道?
あくまでも時短だと申してはおりました。(¬Å¬)

ということでいま来た道を戻って向かうは第二十四番札所【法泉寺】さん。法泉寺さんは走行してきた道の右側に、駐車場は道を隔てた左側にあるのですが、とりあえず駐車場はさほど分かりづらいわけではありません。きちんと看板が出ているのですが、┉通り過ぎる。
私にすれば、なぜ、何故?あまりにも分かりやすかったために当然気づくものと何一つ声もかけず、「あのぉ通りすぎちゃったけど┉」というしかなく。
「えっ?わかんなかったよ」┉そ、そうか。
機械のナビは目的地付近だとかいって案内を中止するし、助手席のお荷物時々ナビは通りすぎてから通り過ぎたことを報告するし、夫にはまさに私との神社仏閣巡りは受難、修行の道であります。



駐車場は停めてみると何やら作業現場か作業現場で使う大型機材置場なのかわからないけれど、そこに隣接していて、ともすれば合体して見えなくもなく。それで夫は見逃したの、かなぁ。そういうことにしておこう。
さてさて目的の法泉寺さんはいずこ?探すことしばし。駐車場の反対側斜めに何やら小さな看板が見えます。駐車場のお向かいにはそのまま花束にしたいくらいのきれいな花々が咲き乱れる民家さん。うーん見逃すかも。

ようやく見つけた法泉寺さん。┉。
┉とりあえず狭くて急な石段しかみえない。
石段はすり減り、長きにわたり巡礼者が息を切らしながら上がった階でありました。

私どもは┉とりあえずのぼる前からため息をつくのでありました。

No.276 20/12/05 15:24
旅人さん0 

【ミューズパーク】という名の、山ひとつ楽しむような素敵な公園その一角を為す【音楽寺】さんをあとにして、せっかくなので少し登って展望台に向かうことにした私たち。ここで私たちが真っ向から対立したのは┉普通にはあり得ない展望台に向かう道。
目指そうとする方向がなんと正反対!
私は音楽寺さんを通り越した更なる上を目指すのだといい、夫はいま来た道を戻るのだという。
結果どちらに向かったかといえば┉言い出したらきかない、退かない私の意見を採用することに。
運転もしないくせに。
いやあ、目の前に展望台右➡という案内板があったから、なんで。
夫は頭にたたき込んだ記憶に頼っているぶんエビデンスに欠け、夫自身は納得いかないまま、山道を登ることに。案内板すら信じない夫の頑固さに少し不安をおぼえつつ、走行すると、あったぁ!
いやいや、案内板があるのだからあって当たり前、なかったら困ってしまうのですが。f(^ー^;

駐車場に車を停めると見上げるような展望台。螺旋階段を登っていきます。
うわぁ!秩父の町並み、武甲山が一望できます。え?当たり前?
そ、そうなんですが、語彙力のない私なので、そこはお許しをいただいて。
うーん♥
その景色と澄んだ空気を満喫していると。うーん┉。
ずっとずっと、エンドレスに一曲の合唱が聴こえています。
音楽寺のあるミューズパークというわりに、ずっと一曲の合唱だけ?
【旅立ちの日に】という私の子どもたちの小学校卒業式の定番曲であります。いつまでも続くとさすがにイラっ。なんで?

実はこの歌、ある一つの中学校で生まれた楽曲だったようで、その中学校こそが秩父のものであったようで。┉なるほど。
そのいきさつが書かれた大きな案内板がありました。
あとから来た若いカップルの女の子の方が歌に合わせて歌い出しました。
そうね、そういうピュアでかわいらしいところがないと人間だめですよね。

展望台からは落ち葉舞う並木道が見えます。絶好のデートコース♥
私も歩きたい。
そんな思いは一切夫には届かず、言い換えると夫は一切そんな気分にはならなかったようで、秋の紅葉真っ盛りの並木道を歩くことは叶いませんでした。




No.275 20/11/15 17:39
旅人さん0 

十三権者さまをお詣りし、いま来た道を戻って、納経所へ。

┉えっ? 

納経所と思っていた建物のなかにも御仏がお祀りされ、仏具もあります。入口を入って真正面。そのひだりてに、いかにも事務所、といった部屋が設けられていて、ガラスを開けて中に声をかける、いかにも受付、といった感じの御朱印をお受けするところでありました。

そちらの、納経所にお祀りされておられる御仏にも参拝して、┉参拝して┉うーん、もしかしたら┉
もしかしてここ、音楽寺さんの御本堂だったり┉するの?

外から見た感じはお寺さんぽくはないし、中に入っても、玄関を入ってすぐに仏さまをお祀りしている真ん前になりますし、新しい形の御本堂、なのかも。
さすがの私も、「もしかしてこちらが御本堂でしたか?」などとは聞けず。今までで一番失礼な参拝をしてしまったかもしれません。
もしここが御本堂であるならば、御本堂の前を通りすぎ、観音堂を先に参拝し、御朱印を受け付けてから御本堂、御本尊さまを参拝した、ということになります。
ああ、珍道中。やらかしてしまったかもしれません。( ;∀;)


No.274 20/11/15 10:46
旅人さん0 

第二十三番札所【音楽寺】は、小鹿坂峠の中腹に位置し、境内には桜の木が多く春は桜・つつじに新緑、秋は紅葉と月、冬は雪と、それぞれの季節の風景が楽しめ、秩父地方屈指の景観であり、近くには【文化の森】、【音楽の森】、【秩父ミューズパーク】などがある行楽地でもあります。観音堂の前庭からは荒川をはさんで秩父市街地や武甲山をはじめ秩父連山が一望できます。

縁起によると、平安時代初期の天長年間に慈覚大師が関東各地を巡錫した折、当地に霊異を感じて、堂宇を建立し、聖観世音像を刻んで安置したのだそうです。その時、多くの小男鹿が現れて、大師の先に立ち山上のこの地まで案内した、ということから、【小鹿坂】と呼ばれるようになったということであります。
ご本尊の聖観世音は一木造り檜材で、像高81cm、室町時代の作といわれているそうです。

この観音堂右手前の【鐘楼の銅鐘】は、江戸時代中期に鋳造されたもので、高さ120cm、直径69.7cm、乳が108ついている。聖観音、不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)、十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音の順に六観音像が鐘下部の周囲に鋳出されております。その鐘の音は高く美しいものなのだそうですが、残念ながら自由に撞くことができるものではなく、その音を聴くことはかないませんでした。

ここ音楽寺もまた秩父事件の舞台となったようで、秩父事件勃発の二日目に小鹿坂峠を越えて音楽寺境内に集結、梵鐘を乱打しそれを合図に大宮郷(現 秩父市内)へ乱入したといいます。
そんな歴史を知るとなんとも胸が苦しくなります。
ちょうど今ごろの寒さのなか、起こった事件でありました。

いまは穏やかなここ、音楽寺の境内。
そんなに遠くはない時代に、苦しみと怒りにたぎる思いでたくさんの人が集結し、御仏の浮き彫りされた梵鐘をうち鳴らし山を駆け降りた日があり、結果多くの人の命が失われたという悲しい事件の舞台であったという┉。


今、コロナ禍において、未知の病に怯え、あるいはその病に苦しむ人がいて。命を落とされた方がおられ。
その未知の病によって職を失われた方、日々の生活が苦しい方がおられます。

御仏、十三権者さま、どうか世界をお救いください。お守りください。

No.273 20/11/15 08:16
旅人さん0 

音楽寺さんの御本堂、観音堂のみぎてにある道を登っていくと、先ほどとは少し異なり、さほどは手をいれてはいない普通のハイキングコースの道のようになります。それでも道幅は広いです。
自然を楽しみながら、┉やや大きめに鈴を鳴らしながら、歩いていきました。野生の動物さんに会わないとも限らないような道であります。
少し歩くと、開けた感じがあるところの高台に、お地蔵さまが並んでおられました。
六、いやいや六地蔵さまより多くおられます。十四体のお地蔵さまが高台のさらに高いところへお立ちになられていました。
真ん中にお立ちになられているお地蔵さまだけが大きくて、その頭の上には申しわけ程度の、屋根がついておりました。
(お地蔵さまが十三権者さまをお守りになっておられるのか)と思っていたところ、夫から
「思っていたより近くにあったね」と。?
「こちらが十三権者さまの石像のようだよ」??
「いやいや、十四体おられるし、みんなお地蔵さまじゃない」と私が申しますと、
「書いてあるから」
えっ?
あわてて高台へと登っていく私。┉たしかに立て看板があって説明が書かれていました。うーん、どうしてこんなに大きな看板を見落とせるのか┉我ながら感心してしまいます。
でも、十四体。
十三権者さまとは秩父の巡礼地を定めたといわれておられます【性空上人】、【徳道上人】【花山法皇】、【白河法皇】【良忠僧都】、【通観法印】【閻魔大王】、【倶生神】、【医王上人】【善光寺如来】、【妙見大菩薩】【蔵王権現】、【熊野権現】さまというそうそうたるメンバー。
神さまであったり、如来さまや閻魔大王もみんなみんなお地蔵さま?

う、うん、そうだよね、そうなんだね。

ここからは武甲山をはじめ秩父の山々や町が一望できます。十四┉十三権者さまとお地蔵さまが見守ってくださっておられる。
そういうことであります。

No.272 20/11/14 14:21
旅人さん0 

心無罣礙(しんむけいげ)。
般若心経にでてくる一節です。
「こころにけいげなし」、すなわち、”こだわり””とらわれないこころ”という意味、なのだそうです。
毎日お唱えし、今回の巡礼でも訪れた先々で読経させていただいている般若心経。ただお唱えしているだけのことがほとんどで、その意味まで感じながらというところまでは到達していないのが現状です。
心無罣礙(しんむけいげ)。
不景気も病気も、失敗も死も、何もかもにとらわれず。
憎いけしからんと思ったものも、敵と思っていたものも味方になるのがとらわれないということ。
愚かな私にはなかなかそこに到達しない教えであります。

ところが。
先ほどの方々はまだ境内におられ、大声で話しているのは変わらないのですが、観音堂の前に立った途端、その声が気にならなくなったのです。それに気づいたのはその直後ではなく、しばらくしてからのことなのですが、数珠を手に経本を持ち、般若心経をお唱えするときには、状況は変わらないのにもかかわらず、聞こえてくるその方々の話し声が一切気にならなくなっていました。
こちらの御堂は扉が閉ざされておりますので、御堂のなかに入ったから、ということもなくて。
雑念にとらわれやすい私から、観音さまが雑念となるものを取り除いてくださったのでしょうか。



こちらの御堂はすごい数の千社札が貼られておりました。
御堂に、ではありませんが、ポスターまで貼られています。音楽寺ということでヒット祈願に訪れる歌手の方もたくさんおられるようです。夫は興味深かったようで、SKBの誰だれの絵馬が奉納されていたよと教えてくれました。AKBグループの五人までくらいしか名前の言えない夫が知っているくらい有名な人だったと思います。


音楽寺の名の由来は、秩父札所を開創した十三人権者がこの山の松風の音をきいた時、菩薩の奏でる音楽と感じたからと言われています。御堂のみぎてにその十三権者の石像が、この御堂のさらに上にあるという案内板がありました。当然行くものと思っていますと、珍しく行かない予定だったという夫。いやぁ、行くでしょ!



No.271 20/11/14 08:29
旅人さん0 

次なる目的地はその名も【音楽寺】。なんとも変わった名前に思えます。どんなところだろう。
童子堂さんで類を見ない仁王さまにお会いして、私のなかではなにやらあやしい妄想がむくむくと浮かんできそうになり、あわてて車の外の景色に目をやりました。?
きれいに整備された、観光地めいた緩やかな山道をのぼっていくではありませんか。? 音楽寺は野外音楽堂でも持つようなお寺さんなの?
あ、また勝手な想像をしてしまった。(^^;

気持ちのよい、いかにも家族連れやカップルが訪れそうな広い整備された山道をのぼって、広い整備された駐車場へと向かって行きます。? 途中下車的なところなのでしょうか。
「あれぇ?お寺、どこなんだろう」と、夫が申しております。は?
あ、でも案内板がきちんと〖音楽寺〗を矢印で表示しています。
まるまる山一つを公園としたようなところで、少し戸惑いながらも歩いて行きますと、なるほど案内だけは増えていきます。あ、いかにもお寺に続く石段です。
よかったぁ。ようやくお寺さんらしさがみえてきました。
石段を登ると、真正面にあったのは納経所。お参りの前に納経所ですか。納経所のフロアには他には何もありません。この先がまた公園のなかのような道のようなイメージの道なのですが┉。
これはもう、どうせならこの景色を楽しんで歩こう!本人はいたって真面目に巡礼しているつもりだから戸惑ってしまうのだけれど、まだまだ修行という域にすら達していない珍道中。導かれるままに、その景色を愛でようではないか。
そう頭を切り替えて歩き出すとまたまた石段がありました。ここを登るとお寺になるのかな。

┉なりました。
手水舎があり、鐘楼があって、観音堂がありました。
めざしてきたお寺さんがあって、やはりどこかほっとした私でありました。
ただ、境内にはまるで我が庭のように自由に大声で話す御一行がおられ、観音堂の正面に座り込みなにやら飲みだす人までおり、むっとする私。なかにはアルコールでも入っておられるのではないかと思うくらいに他の参拝の方にやたらと話しかける男性もいるのですが、御一行、誰もそれをとめることなく、やはり大声でこれから何か食べに行く話をしております。(; ・`ω・´)
うーん、これはここの観音さまが私に与えた試練の一つ、なのでしょうか?

No.270 20/11/13 06:05
旅人さん0 

こちら【童子堂】さんの歴史は長く、寺伝もたくさんあります。

その創建は遡ること、【淳和天皇(823-833)】の弟にあたられる【伊予親王の菩提を弔う】ために、平安時代初期の大同二(807)年に遍照僧正がこの地の領主に命じて旧蒔田村・清水谷の山奥に堂字を建立させ本尊を安置したのがこの寺の草創であるといいます。

その後、延喜十五(915)年に、幼子の間に天然痘が蔓延した際、観音さまのお告げにより、山奥の華臺山より観世音さまを府坂の地に移すとその霊験により疫病は退散したという。このことから、幼児の病気平癒にも御利益があるとされ、子どもを病魔から救う観音さまとして童子堂と呼ばれるようになったといいます。


また、縁起として残されているのは、
その昔、讃岐に情け心のない怪貪な長者がおり、そこへ旅の僧が訪れて長者に僅かばかりでも食物の施しをと願い出たものの、施しを与えるどころか口汚く罵ったという。僧は米を買い、器に入れて、犬を呼びました。するとなんとこの家の倅が犬の姿となり器の中の米を食べていたのです。長者は驚き悲しみ、自分の行為を反省し僧にすがって詫びましたが、僧は因果応報を説いて姿を消してしまいます。
長者はこの日より犬となったわが子を連れて百観音巡礼に旅立ち、諸国の霊場を廻り童子堂にたどり着いて祈願しているとわが子がようやく元の人間になった、というものであります。

うーん、人が改心するということは並大抵なことではできないことかとは思うのだけれど。とはいえその家の息子さんにはなんの罪もなかったのではないのかなあ。
だとするとこれは因果応報とするにはあまりにきつい。
それだけ人が改心するには重い罰が必要であるということか。

いくら経を唱え、納経しながら観音霊場をまわろうとも、自らの強い意志を持って、御仏の教えを守ろうとしなければ、観光客でしかない、ということなんだろうな。
┉クエストの旅はつづきます。
いつまで経っても珍道中、だなあ。( ´-`)
 


 

No.269 20/11/12 21:55
旅人さん0 

大きな石を組上げた舞台のような塚。塚の中は少し掘られてくぼんでいて、薄暗いのですが。(なんだかよく見えないや)と思ってそこを離れようとした瞬間、夫が息をのむのが聞こえました。
「┉手や足や首の取れたお地蔵さまがお祀りされている」
「えっ⁉」
夫の覗きこんだ辺りから見やると!たしかに。
うーん、一体いつ造られたものなんだろう。
地蔵塚と呼ばれているそうです。

地蔵塚以外にもお地蔵さまはおられました。
とげぬき地蔵さま。身代り地蔵さま。

身代り地蔵尊は「身代り」となって助けてくれるといいつたえられています。
戦時中、こちらに祀られていた金佛のみたま抜きをして供出しました。この地区からもたくさんの人が出征いたしましたが、全員無事に復員しました。これはこの金佛が身代りになってくれたのだといい、いまなおそこに訪れるのです。
そしてとげぬき地蔵さまは、あの有名な巣鴨においてその御利益をいただいた方がこちらにもと奉納したのがこちらのお地蔵さま、なのだそうです。

No.268 20/11/12 17:25
旅人さん0 

ユーモラス、だの、あい~ん、だのと申しておりますと、なんだかばかにしているようにとらえられるかもしれませんが、ここもまた行きたいと思っていたお寺さんの一つなのであります。茅葺き屋根の仁王門、いかにも私の好きそうなものでありましょう。

その【童子堂】さんの仁王門の前に立って。写真で見るより少し恐そうなお二人の仁王さまが茅葺き屋根の門に住んでおられるといった、そんな雰囲気でありました。いつもの珍道中通り、門をくぐるまで時間のかかる二人でありました。そんな二人組を五人、三組の参拝の方々が追い越して行かれました。
ようやく門をくぐって、みぎてに観音堂がありました。ここ童子堂さんを紹介する文に添えられている写真はそのほとんどが仁王さま。
観音霊場でありますのに、観音堂の写真の少ないこと。私の持っている本にも観音堂の写真も観音さまの写真もありません。
なので実にこちらへ来て、初めて観音堂の建物を拝見した次第であります。
こちらの建物は、江戸初期の建物とのこと。細やかな彫り物は、その建立当時はさぞ美しい彩飾であったと思われます。
心洗われる、清らかな気が、その扉から溢れてくるようです。
そしてまた、観音堂の周りをウロウロとする怪しい二人組。先ほど私たちを追い越していかれたお二人は御朱印をお受けして仁王門へと向かって行きました。
こちらの建物。なんと個人が施主となり建立されたものだと知り、びっくりいたしました。その美しい彫刻もさながら、観音堂も今まで参拝してまいりました御堂の大きさと決してひけをとるものではありません。うーん、どんだけ~っd(゚ロ゚;)

バイクで一人まわられている方が御朱印をお受けして観音堂に戻って来られました。い、行こうかな。
それでもまだ納経所には向かわず、仁王門ひだりてにあります、なにやら不思議な大きな石に向かうのであります。
大きな大きな石なのですが、やはり石を柱としてあり、その下となっている空間はさらに掘られているのです。
なんだろう。

No.267 20/11/10 19:06
旅人さん0 

【観音寺】さんの駐車場の一角に【地芝居】役者の座長、中村十九十郎という方のの供養碑がありました。地芝居?
観音寺さんの芝居舞台の建物を彷彿させるような板の看板はその地芝居の影響?┉その真偽のほどはわかりませんが、少なくとも私にはこの板の看板があることがなんともお寺さんらしさを損なっていて残念なことに思えたのです。
ですがまあ、〖お寺さんらしさ〗というのもその人間の主観であります。

観音寺さんは大正時代の火災以降、地元の人たちによって守られてきた札所であります。


次なる札所は秩父札所をあらわす時の代表的存在の写真として扱われることもある、ユーモラスな仁王像のある第二十二番札所【童子堂】です。ユーモラスな、などという言葉を仁王さまに使うのはなんとも失礼に思えるのですが、うーん、なんとも。
茅葺きの仁王門に住んでおられるといった風情であります。【阿吽】と書かれた額が掲げられておりますが、こちらの仁王さまの口元はあの志村けんさんの有名な〖あい~ん〗の『あ』と『ん』にも似ているかな。





No.266 20/11/10 05:51
旅人さん0 

比較的大きな通りに面している【観音寺】さん。どの案内にもわかりやすいと書かれているにも関わらず、なぜか夫は見落として通りすぎてしまいます。見落とした理由がわからないほどわかりやすいのですが、(実際私は見落とすことなく当然停まるものだと思って声もかけなかった)車を運転しながらお寺を目指していた人にとってはお寺らしく見えなかった?
お寺の入口にあたる場所に公衆トイレが設置されていて、これはお寺さんの管理下でなく、秩父市の管理のトイレであります。そんなところも、流れる景色のなかではお寺さんらしくない外観となっていたのかなあ┉そういうことにしていただいて。Uターンして戻った私たちはそこで身を清めてから境内に入ったのであります。

一歩足を踏み入れ┉なくても、目の前にひろがる御本堂。
そうその御本堂の向拝に、芝居をする建物を彷彿させる一枚板の看板が二枚掲げられているのです。
まあ、それは道路を車で走行中に見えるものではないので、それを見ての通りすぎ事件ではないのですが。 

御本堂と境内にある八幡さまのお社以外は新しく、詰所┉納経所の新築の際に境内の整備もされたのでしょう。明るい境内であります。
こちらは大正12年(1923年)隣接した小学校の火災により類焼してしまい、御本尊さまの聖観音さまと阿弥陀如来さまのみが残ったという大火災であったようでした。このため、こちらの聖観音さまは火除けの観音とも呼ばれ、火難に霊験があるといわれているようです。
その後廃寺を移築したのが現在の本堂であります。当初はそれも仮堂であったようなのですが、そのままとなったようであります。

向拝にある看板の一つが【矢之堂】と書かれているもの。
ご詠歌にも詠われるように、こちらは矢之堂ともいわれているようです。
行基菩薩がこの地をおとずれ八幡宮の社地に聖観音像をまつろうとしたところ、悪鬼たちがこれを邪魔をした。この時、八幡神が現れ神矢を放って悪鬼たちを追い払ったという縁起や、古くはこの堂は矢納の地にあったものをこの地に移したものとする説(矢納村の村名は日本武尊が東征のとき矢を納め社を建てた場所)、あるいは平将門が矢を納めた場所とする説など諸説がある。ようです。


No.265 20/11/07 23:14
旅人さん0 

思えば秩父観音霊場で何ヵ所も、地域の方々が守っておられるところがありました。そこに訪れる巡礼者や観光客のために、出過ぎず、居心地のよい霊場であることのみを心がけておられる方々ばかりでありました。
秩父の方々の地域性なのでしょうか。
地域を盛り立てるとかもさほど考えておられないようにも思えます。
例えばここ、十九番札所と二十番札所をはさんだ荒川に、以前あったという渡し舟を復活させたなら、かなり観光的にも財源となりうるように思えるのです。あくまでもそれは素人の域を出ない、私の個人的な意見であり希望だったりもあるのですが。でもそんなことをあえてはしない。秩父橋が架かったことで廃止となった渡し舟、歩いての巡礼者の激減。きちんとそんな時代の流れをみつめ、わざわざとってつけたようなことはしない。だからこそ変わらない巡礼をさせていただけているのかもしれません。

澄んだ空気と美しい景観の居心地のよい山之上堂さん。是非また訪れたいところであります。


次なる巡礼地は第二十一番札所【観音寺】さん。龍石寺さんの世話人さんのお話によると、山之上堂さんから九百メートルほどのところにあるようです。
道路沿いにあまりにも自然に建つ観音寺さんをついつい通りすぎてしまいUターンいたしましたのはやはり珍道中、だからでしょうか。

そして、観音寺さん、┉こんなことを申し上げると罰当たりなようですが、なにやら芝居舞台のある建物を彷彿させるような看板が掲げられているのです。

No.264 20/11/07 22:32
旅人さん0 

さるぼぼに見とれている自分に気付いて、またまた慌てて納め札を納めて読経いたしました。こちらの御本尊さまは聖観音さまということで、御真言が書かれた木札が掲げられておりましたので御真言を三回お唱えして。
今回の巡礼ではぽつりぽつりと他の巡礼者とすれ違う程度で、ここ山之上堂でも夫と二人だけ。ゆっくりと堂内の参拝をさせていただきます。
ただ、少しだけ居心地が悪いのは┉実はここ、山之上堂は個人所有の御堂。納経所にお邪魔させていただきますとお声がけして参拝をさせていただいたものの、あらためて御朱印をお受けしながらご挨拶をしたい。
とはいえ、こちら、個人の所有という感は一切ありません。知らなければ、気づかず、ごく普通の御堂として参拝を終えるはずです。
手入れもきちんとなされており、個人宅の生活感もない、本当に心なごむ御堂であります。だからこそご挨拶してから、あらためてゆっくり参拝をさせていただきたい。そう思ったのであります。

納経所では、女性がお一人で対応されておられました。 
「素敵なところですね」と申し上げると 
「ありがとうございます。四季折々いろいろな花が咲きますので、よろしければ是非またお越しください」とおっしゃってくださいました。
ここ、山之上堂は江戸時代初期に、この辺りの実力者であった内田某氏が私財を投じ、さらには関東各地から浄財を募って、実に二十五年の年月をかけて建立したものであります。
もともとはさかのぼること平安の頃から、この地で祀られていた観音さまがおられたのですが、戦国時代の戦乱によって里人たちが離散し、無住の寺となり荒れ果て、さらには粗末な御堂に御本尊のみが祀られているような状態となっていたようです。これを内田某氏が観音堂建立を発願し造立したのがいまの岩之上堂と呼ばれているこの観音堂で、以来僧侶を置かず個人の持寺として守られ続けてきたものであります。
個人が所有されている、というレベルにしてはあまりにも大きく、しかも江戸時代初期の建物とあれば維持管理も並大抵なものではないと思います。
ご先祖さまが私財を投じ寄付を募る旅に出掛け、二十五年の年月をかけて建立したこの観音堂を誇りに、奢りたかぶることもなく代々守り続けてきた方々がおられ今があります。なんともありがたいことであります。

No.263 20/11/07 03:55
旅人さん0 

二十番札所であります【岩之上堂】に着いたとき、ちょうどお昼どきでありました。青い空、暑くもなく寒くもない、┉子どもたちがまだ小さな頃に外でシートを敷いて楽しく食事をした、あの頃を思わせるような心地よい陽気の日でありました。
コロナのせいで外食を避けており、今回は家からパンとスープを持って来ておりました。スタバのコーヒーも用意して、車中で食事をしようと思っておりましたが。あんまり気持ちのよい陽気に、夫に車のリアゲートを開けてそこで座って食べることを提案してみました。
人目を気にして渋っていた夫でしたが、ちょうどよいシチュエーションの場所をみつけ、持参した折り畳みチェアを一つだけ出して、心地よい秩父の空気と初秋の景色を楽しみながら外で食事をいたしました。なんと美味しくいただけることか。


そんな軽食を済ませば、ちょうど札所の方のお食事時間も終え、御朱印もお書きいただける時刻となりました。
その名のとおり高台にある岩之上堂は、駐車場から下がっていくようなところにあります。
まるで庭園のような小道を歩いていくと、まず見えてきたのは納経所。
そこをさらに少しだけ下ると見えてまいります、ご本堂。
せせらぎの音も聞こえます。
秩父らしい御堂であります。ここは土間になっている御堂で中に入ることができます。
その天井から、それはそれは綺麗な【さるぼぼ】の飾りが吊るされています。大きな傘状のものからいくつものさるぼぼの飾りが吊るされているのです。これは圧巻です。
一つ一つのパーツのおたがいの大きさや色合いが絶妙なバランスで組まれています。うわあぁぁ!( 。゚Д゚。)

さるぼぼはこぎれに綿を入れて猿の形に縫い上げたもの、『猿』が『去る』に通じることから、厄除けや病気などの災いを避けたいとの祈願を込めて奉納されたものです。奉納された方のお名前が書かれています。ふと見渡せばいくつものさるぼぼ。
縫い物もあまり得意ではない私などは一つ作るのにどれだけ時間がかかることか。
中には十年かけて一人の方が作られたというものもあるようです。
うーん。ちょっと┉絶対無理だな。

No.262 20/11/03 17:22
旅人さん0 

宗福寺さんの帰り道、さっそくスマホにいただいたかえるのストラップを取りつけたのは夫。よほど嬉しかったのか揺らしてみてニコニコしています。私は? 御朱印帳や数珠を入れる巡礼用のバックの中に、なくなったりしないようにしっかりとしまいこみました。お揃いになっちゃいますからね、取りつけない、取りつけない。
ああ、可愛いげのないこと。

ご許可をいただきました龍石寺さんの第二駐車場に車を置いたまま、さらに少し歩いて、秩父橋まで歩いてみました。
「二十番の岩之上堂まで歩いて行ってもいいよ。歩いて二十分くらいだからね。その先も十分くらいで着くんだけど、そんなに歩いて行くとここに戻るのが大変になるから、車で行った方がいいと思うよ」
龍石寺さんの世話人さんは駐車場をお貸しくださっただけでなく、そんな風にこのあとの巡り方をそれは丁寧にお教えくださいました。
「○○屋さんのとこを曲がって 」とか、初めて巡礼する者に目印になるところを織り込んでの、的確なアドバイスでありました。
その案内はなんと、二十五番くらいまで。
┉すごいなあ。
昔の巡礼についても造詣が深くていらして、いろいろお教えくださいました。
秩父夜祭りのときにも感じたのですが、秩父の方は本当に地元、秩父を愛しておられます。労を惜しまない。地域の方々の結びつきも強い。
いいですよね。そんなところに住むことができるのって。

秩父橋の下を流れる荒川は四万ブルーを思わせる青い色に乳白色を混ぜたようなやさしい色。
橋の上さえ居心地のよい、秩父はよいところです。



No.261 20/11/03 08:04
旅人さん0 

【宗福寺】さんの御本堂の横にまわって、ここが高台にあることをあらためて気づきます。
眼下には、墓所。そして大きな蓮池が!
そしてその蓮池を見下ろす白い大きな仏像がおられます。
さすがに蓮の花こそ咲いておりませんでしたが、その神々しい光景といったらありません。かなり遠めではありますが、こちらの御仏はかえる顔ではないようで。笑。
すごいなぁ。どれだけ私のハートを掴んじゃうんだ。

さすがに墓所、でありますので、そこに縁者の御霊が眠ってはいない私がそこにわざわざ行くのは静かに眠られている御霊に失礼かと、そこへは足を運びませんでした。
帰宅後Google先生にお教えを乞うと、やはり蓮の花の時期には蓮祭りが開かれるようでしたが。(^-^;
この日は御住職がおられなかったのか、御本堂へ上がることはかないませんでしたが、こちらのお寺さんは檀家の方以外にも開放しておられるようで、なんとかえるの顔の木魚まであるようで。

┉枯山水の庭の、あの白い砂利に模様をつける体験も自由にできる一画もあります。もちろん、体験いたしました。
夫は打ち寄せる白波┉なのかと思えば、「どう描けばいいわかんないもんだよね」とのこと。でも素直に綺麗な模様でありました。
私は受けを狙ってハート模様に。そんな邪念だけで描いた模様はやはり少しもきれいではありませんでした(。´Д⊂)
もちろん、夫へのメッセージなどというかわいらしい感情はかけらもない、ただの受け狙いでありましたことはいうまでもありません。

No.260 20/11/01 21:05
旅人さん0 

【宗福寺】さんは大きな大きな境内のお寺さんでありました。高台にあるお寺さんです。
宗福寺さんにもまた奪衣婆さまがお祀りされる御堂があり、その前を頭を下げながら通らせていただくと、目の前に御本堂が見えてまいります。と┉、ん?
みぎてに大きな高下駄が二人分、まるで丁寧に脱ぎ揃えたかのように飾られています。意味はどんななんだろう。
そしてそばには大きな大きなかえるの石像。
ふーん、かえるかぁ。
するとやはりみぎてに見えてきたのは、え?ええぇ?
か、かえるの石像、菅笠をかぶって袈裟を着ている石像であります。
ふーん。御住職さまがかえるがお好きなのかなあ。

お、六地蔵さまが見えてきました。
え?ええぇ?┉かえるのお地蔵さまであります。う、うそでしょ?
御本堂の前にも左手に杖、右手で拝んでいる如来様のかえる、が立っている┉おられます。お賽銭箱にもかえる。
睡蓮の鉢にはなんとなんと、しょうべん小僧を模したかえる。
┉そう、そうであります、こちら宗福寺さんは、知る人は知る【かえる寺】なのでありました。

六地蔵さまはお茶目でかわいい【かえる地蔵】。そっぽを向いて立つものもあれば、ニコッと笑うものもおり、神妙な顔で合掌するかえるの顔をしたお地蔵さまであります。
もぉぉ、私、辛うじて記憶に【ケロヨン】の残る世代なんですけど♥
こういった石像を好まない方もおられましょうが、私は┉好き、かも。御仏を愚弄している、とおっしゃる方もおられましょうが、そもそも御仏は実像がない存在でありますゆえ、そこはまあ好みという言葉でお許しいただいて┉。

御朱印をお受けするために庫裏へ。
御住職の奥さまが対応してくださいました。
しかし奥さまの口をついて出たのは開口一番「ウチじゃないのよ」と、意味不明な一言。?「ここじゃないのよ」ん??
「元来た道を戻ってね、信号を左に曲がればすぐなんたけどな。少しわかりづらいかしら」
あ。私たちが、輪袈裟をつけているからだ!
「あ、違います。龍石寺さんはもう参拝しております。こちらのお寺さんに参拝にまいりました」と私。

┉残念なことにこちらは御朱印をなされていないとのこと。
私がよほど残念そうな顔をしたのでしょう。
「これをどうぞ」と差し出してくださったのは、可愛らしいかえるのストラップでした。もぉぉ、可愛すぎ♥

No.259 20/11/01 14:19
旅人さん0 

こちら【龍石寺】さんの境内には、奪衣婆をお祀りする【三途婆堂】があります。当然【奪衣婆】さまがお祀りされていましたが、なぜか脇侍(?)のように【閻魔大王】さまがお祀りされ、さらにはお釈迦さまのお弟子の十六羅漢のお一人、【賓頭盧】さまがお祀りされておられるのでありました。
うーん、自分は絶対奪衣婆さまにお会いし、閻魔大王さまのお裁きも受ける身でありますが、このお三方を一緒にお祀りする理由とかがよくわからない。中央に奪衣婆さまで、閻魔大王が脇におられる関係も。三途と呼ばれる御堂にお賓頭盧さまがおられる理由もわからないし。しかしながら、理由、理由というほど、仏教のこともしらない私です。
愚者の私は奪衣婆さまと閻魔大王さまの御前で居心地のわるさを感じつつ手を合わせたのでした。
観音堂の裏手には不動明王をお祀りしています。裏手は本当に岩場、といった感じで、歩きづらいこと歩きづらいこと。

そして、納経所へ。
このお仕事に誇りをお持ちになっておられる年配の方がさらさらと筆をはしらせて御朱印をお授けくださいました。
ご親切にこのあとまわろうとしております第二十番、二十一番の道をお教えくださり、かつての秩父についても語ってくださいました。

こちらもまた世話人と呼ばれる地域の方が管理されている札所であります。こちらの詰所に人がおられないこともあるようで、その際は少し離れた┉龍石寺さんの第二駐車場のさらに奥へと向かった先にある【宗福寺】さんで御朱印をお受けすることになるようであります。


ムズムズムズ┉そんなに近くにあるお寺さん。こちらに世話人の方がおられなかった方は参拝されるお寺さん。
行きたいんですけど。これ以上予定変更はダメかしら。うーん。

No.258 20/11/01 06:26
旅人さん0 

こちらは大きい一面の岩盤上に建てられているということ、ならばこの建物の固定はどうなっているのだろう。岩の上に石が組まれての建物ですが、いったい?
参拝を終えて御本堂前にしゃがみこんで覗いてみたりした、怪しい女は私です。結論、┉わからない。すみません。建築だとか建設だとかの知識皆無な私では、岩の上に建っていることの確認しかできませんでした。

観音堂は七間半四面表流れの向拝をふした宝形造り(ほうぎょうづくり)┉と書いてあります。屋根の四方がかっこよくぴんと上にはねるようになっています。かつて屋根が傷み、雨もりがひどかった時期があったようでそれを愁いた地元の方々、地元観光協会の青年部が中心となり、諸仏を他の寺に預け、浄財を募り、昭和47年解体復元されたものなのだそうです。よけいにありがたみの増すお話であります。

御本尊は千手観世音菩薩で寄木造り坐像で室町時代の作といわれているようです。弘法大師作とのこと。
弘法大師が観音さまを彫りおこしたところ、「我は救わねばならぬところがある」と告げて東の空に飛び去っていったのだそうです。
その後この地を巡錫した際、まさにその自らの造った観音さまがお祀りされていたのを見て、観音堂の小僧に尋ねたところ、
「村人達がこの地を荒らす悪龍を退治したいと観音様に念じたところ、観音さまが現れて龍を退治してくれた。それから、村人達はお堂を建て、千手観世音菩薩を安置したのだ」と言われたようで、これがこの寺の始まりといわれているのだそうです。
その弘法大師作とされる千手観音さまはすべての厄を祓う厄よけ観音さまとして、多くの参拝客がおとずれているそうです。

巨大な水成岩の岩盤の上に建つこちらと、荒川を挟んで対岸にある札所二十番【岩之上堂】もやはり同じで岩の上に建っているということであります。その昔、渡し舟で往来していたのだそうです。その後は秩父橋という橋がかかり、今でも徒歩の巡礼のかたはその橋を渡って二十番札所に向かわれています。

観音堂は岩盤上に石を積み上げて建ててため草木も少なく、岩の隙間に植えられた桜やサツキが貴重な季節の彩りとなるとされていましたが、その美しさといったらありません。

No.257 20/11/01 05:24
旅人さん0 

次なる巡礼は第十九番札所【龍石寺】さん。
これまたアパートのすぐそばにあるような立地でありました。今なお巡礼者が絶えない秩父、とはいえ、やはり住む人あっての街であります。住みやすいように町並みは変化して、そこに巡礼地が遺されている┉それは秩父に限ったことではありません。京都であっても外観を古都京都にふさわしいものにという努力はされるようですが、近代的な建物がいならぶ都会にお寺さんが存在しています。

閑話休題。いりくんだ、ちょっとした高台にあります龍石寺さん。駐車場がわからないで、ここと思って停めたらアパートの駐車場でありました。
これから秩父をまわろうと思われておられる方、龍石寺さんはそのアパートのところの細い坂をのぼった境内に三台くらいは停められる駐車スペースがありますよー。そこがいっぱいなときも第二駐車場がありますよー。┉ただし第二駐車場も建物を取り壊したんだろうな┉と一見して思われる砂利敷きの、区画すらない小さなスペースですけれど、ね。
ここ龍石寺さんは来たかったお寺さん。一枚岩の上に建つという御本堂。私の秩父観音霊場巡りのバイブル【秩父三十四ヵ所めぐり】という本で、息をのむようなそれはそれは美しい写真が掲載されており、憧れのお寺さんでありました。春の日の黄昏時に撮られたものです。
┉私どもがこちらに伺いましたのは秋の午前中。どうかな。
うわあ┉。

たしかに。たしかに、岩の上に建っているようです。
足場のよいところを歩けばいいのに、最短距離をいこうとする私。すると、石仏さまがおられるではないですか♥しかも一体のお地蔵さまは、まるで御本堂を見守るように、身体ごと、お顔も傾けてお立ちなられております。ぱあぁぁ♥なんといとおしい!
立ったり、座ったり、そのお地蔵さまのそばをなかなか離れない自分に、はたと気づき、いやいやまだ御本堂のお参りがまだではないかと、本末転倒な自分を叱咤し、あらためて御本堂の前にむかいます。

私のバイブルの書ではその全貌がまるで撮されていないので、正面に立ち、初めてその御本堂のお姿を拝見いたしました。思っていたものよりずっとずっと大きくずっしりとした建物でありました。



No.256 20/10/31 18:49
旅人さん0 

神門寺さんをあとにして。
次なるお寺さんに向かおうとする夫に、
「お願いがあります」┉夫は普段あまり耳にしない言葉を聞きました。 

巡礼は本来歩いてまわるもの。ですので、秩父巡礼地の道々には祠や石仏が、巡礼者たちを見守るようにたくさんあります。そのすべてにお会いしお参りするには本当にすべての道を徒歩または自転車でまわるしかないのですが。
どうしても参拝したい御堂がナビに映りこみました。【呑龍堂】であります。 

あの、たびたびこのスレに登場する、群馬県民の心、【上毛かるた】に名のある、呑龍さまが祀られている!行かなければ!参拝しなければ群馬県民として申し訳がたたない。
┉などと申してみましたが、群馬県太田市にあります〖子育て呑龍〗で有名なお寺さん【大光院】さんに参拝いたしましたのは、この神社仏閣をまわりだした、五十の齢を過ぎてからのことなのですが。(^-^;

言い出したら聞かない、退かない妻に逆らうことはせずに、怪しいナビに翻弄されながら、我が夫は呑龍堂を目指すことになるのでありました。┉神門寺さんの空(くう)の空間でいろんなものが削ぎ落とされたひとはどこに行ってしまったのやら。(((^_^;)
 いやいや、ここはわかりにくい!しかも狭くて民家に接していること!住宅街の、家々が建ち並ぶ、消防団の土地に並んで呑龍堂はありました。
 
呑龍さまは長野出身のお坊さま。群馬県で、長野県で今なお愛され慕われる上人さまでありますが、埼玉秩父の地でも大切にお祀りされておられました。
小さな御堂ながら、きちんと管理されており、お縁日には人が集まる秩父呑龍堂でありました。
 






No.255 20/10/31 18:14
旅人さん0 

前回のレスにも書いたのですが、こうして神門寺さんの巡礼録を書きおこしていて、なんとも不思議な感覚を思い出すのです。
たしかに参拝中私ども夫婦二人しか境内にいなかったのですが、音がない、といいますか┉。
音がないというと語弊があるのもたしかで、読経をすれば私の声があり、鰐口を鳴らせばその音は鳴り、納経の紙の擦れる音、会話をすれば私たちの声がきちんと聞こえるのであります。
それはたしかなのですが、それ以外の音がないような┉。
別に不思議な現象だとか、不思議な体験をしたとか言うつもりではなくて、ただただ、静寂な空間だったということなのですが。大きな道路に程近いお寺さんなのにも関わらず、車の音も聞こえない、鳥のなく声も虫の鳴く音もない静かな静かな境内で、何に違和感を感じているのかもわからず、空を見上げたのを思い出しました。
ただ、静かな境内で、日頃抱えているモヤモヤとした思いや、仕事の悩み、自分の生きざまに感じているコンプレックスなどが、一切削ぎ落とされたような、空(くう)を感じたのは確かでした。
思わず涙が出そうになるくらいに、抱えていた辛いもの、哀しみが、すうっと消えている感じでありました。

夫は「静かだね」とは申しておりましたけれど、普段通りにあちこちを見て廻り、写真を撮って過ごしていました。こちらにおられる神さまや御仏が、穢れきった私を浄めて境内に置いた、のかなぁ。
日常に戻ってすぐ、その日のうちにいろいろなしがらみがその空いた空間にどどっと押し寄せ入り込んで、すっかり元の私に戻ってしまっておりますが。

そんな空間にあります御本堂の裏側には、ご本尊さまと繋がっている綱がさがっておりました。それがまたありがたくて。
そんなすがるような気持ちで綱を持ち拝する私の姿を夫は写真におさめておりました。肖像権を訴えたくなる私は、やはり元のうるさい、雑念だらけのおばさんに戻っているかなしくも確実な証拠です。(*´;ェ;`*)

あ。でも門の近くにイケメンなお地蔵さまがおられたとか思い出す時点で、神門寺さんの境内においてもやっぱりいつもの私だったのかもしれないな。

小さな、住宅街の一画にあるお寺さんです。でも、神門寺さんは私には何度も何度でも行きたいお寺さんであります。



No.254 20/10/30 06:12
旅人さん0 

神門寺さんの駐車場に、私たちはしばしためらうのでありました。
┉民家と民家の間、どこにでもあるような共有スペースのような、どこにでもある一軒家を取り壊した跡地のような、そんなくらいのスペースなうえに、そこからお寺が見えないのであります。
ええぇっ( ̄□||||!!

ナビがそこに〖神門寺〗と示してくれていなければ、絶対に見逃し、絶対にさ迷うパターンでありました。
ちいさく神門寺駐車場と書かれた案内を見つけてなおためらう夫には、さすがに
「ここでいいんでしょ」と突っ込みをいれましたが。
駐車場に停めてなお、見えてこない神門寺さんに正直途方にくれておりました私に、珍しく積極的に先に進んだ夫から明るいはずんだ声がかかります。
「お、ここでよかったみたい」
えっ? お寺があったの?
┉民家にかこまれ、まさに住宅街の一画に、神門寺さんはありました。しかも駐車場から入ってみてもなお、まるで昔懐かしいお店のような雰囲気の漂う納経所が見えるだけなのであります。おそるおそる足を踏み入れ、歩を進めると┉

うーん♥
そこには、ずっしりとした歴史を感じさせる御本堂が。駐車場からは側面から入るようになっておりました。┉ええ、私の足取りが軽く足早になったことはいうまでもありません。
長い長い秩父巡礼の歴史のなかで、このような立地となってしまったのでありましょう。
実はここ、神門寺さんの建つ地はその昔は神社であったという言い伝えがあるのだそうです。その神社さんにあった榊の木が枝分かれしてさながら楼門のようであったのだそうです。そこからこの地を神門(ごうど)と号したのだそうです。
その神社さんは跡形もなくなってしまうのですが、里人たちが再びこの地に神さまをお祀りしようということになったとき、「この地に寺院を建てよ」という御神託があり、観音さまをお祀りした経緯があるのだそうです。
神さまがおられ、やがて観音さまがおられるようになったこの地は、そばに国道が走り住宅街にありながらも、静かで清らかな清んだ空気に満ちています。

No.253 20/10/29 05:55
旅人さん0 

秩父巡礼、第三巡目は、第十八番札所神門(ごうど)寺さんからのスタートであります。
この第三巡目、実は途中まで私の運転でまいりました。ええ、できないわけではないんです、ええ。通勤も自動車で通勤しておりますし、これだけ間をあけずに行けば道もなんとなーくはわかろうというものでして。
すれ違いの難しい道に近づく前に、夫から運転交代の声がかかりました。┉これは腕もありますが、センスというか勘というか、ようは私に欠けている何かが必要なのだと思います。いつものように夫の運転で、秩父を走ります。(秩父の方のほっとしたため息が聞こえそうです(*T^T))

四回目の秩父。ここまでの巡礼地は秩父市内近辺にあるものですから、通ったことのある道でありまして、私のような者でも見慣れた景色と思うものであります。今回のスタート地点は秩父鉄道と並行している国道140号線沿いにあるとのことであります。
そんな夫、ある地点でその神門寺さんをナビに入力しようと試みます。道自体はわかるもののこまかな駐車場情報とかが知りたいのだそうで。
「あれぇ?おかしいなぁ。」
何やら騒いでいますが、このナビのお茶目な案内っぷりに夫がしばしばキレているのを知っている私は、あいみょんの曲を聴いていて聞こえないふりをしておりました。
「ん?なんでだぁ?どうして出てこないんだぁ?」
へえぇ、出てこないんだぁ。と、まったく他人事のようにさらにさらに聞き流していた私、┉ごめんなさいね。
「なんでなんだぁ?おっかしいなぁ」 
うーん、そろそろ聞こえないふりもヤバイかも。
「どうしたぁ?」と私。どうした?じゃないだろ、入力ができないとおっしゃっておられるんでしょ!
「どう入力しても出てこないんだ」
私「ええっ?こんな近くなってて、しかも秩父の札所のお寺が?」
「うん。なんて入れても出てこないんだ」
読み方?
えっとぉ、┉どこに行くんだっけ、ああ、十八番の神門寺だ。
ピコン、ペタン、ポトン、ピン┉などと音はしませんが、私の入力はあまりにつたないのでそんな効果音が似合いそう。
こ┉‥ ┉うぅぅ┉とぉ┉ ‥ し ‥ っと。
「ええっ?ごうどじって読むの?」
うん。
「ほんとだぁ。出てきた」┉おいっ!(-""-;)
┉どっちもどっちな夫婦ですみません。

で、案内する場所を無事入力されたナビは颯爽と案内を始めるのでありました。

No.251 20/10/28 16:04
旅人さん0 

今日十月二十八日は群馬県みどり市大間々の【はねたき道了】大祭の日。こちらは、同じみどり市大間々の光栄寺さんの分堂です。
光栄寺さんのの本尊薬師如来さま、通称【柿薬師】の大祭が、コロナの影響下今年は中止したという新聞広告を読んだばかり、今年ははねたき道了大祭も中止かなと思ってはみたものの、なんとも気になりますので光栄寺さんにお電話を差し上げてみました。
すると「大祭は中止ですが、例祭は通常の例祭同様にやっておりますのでよろしければどうぞ」という副住職さまのお声。
よし、行こう。
昨年お受けした御札を持って、A4サイズの御姿を持って。
A4サイズの御姿は参拝すると朱印を捺していただけるのです。

はねたき広場の横の道了堂は明るい雰囲気の御堂です。
今年は大祭中止ということで、法要を営まれますのは御住職と副住職さまだけでありました。子どもたちの姿もなく、参拝の方も十人程度です。
昨年の大祭では御姿に願い事を書いてお渡しし道了像に掲げていただきご祈祷をお受けしたものをまたお受けしたものですが、今年はセルフスタイル。自分の参拝の順番が来たら、三方の上に御姿を置いて御焼香するシステムのようです。
昨年お受けした御札┉御守りと称する、御札ををねじり棒に差し込んだものも、今年は御札の交換もできるのかどうか。
とりあえず、三方の横にそのねじり棒の御守りを立てて台に置き、御焼香いたしました。
その後、ねじり棒に参拝し、不動明王さまにお参りして。最後に檀家の代表のかたがねじり棒でボケ封じをしてくださいました。うーん、私のボケは並み半かなボケではないので、おそらくは封じられないですよーと心のなかで思っちゃうところが、未熟な初心者であります。

やがて法要を終えた御住職と副住職さまがねじり棒でコロナを封じ┉予防してくださいました。
本当に、全世界のコロナウイルス感染症を封じられたならいいのですが┉。

No.250 20/10/28 08:28
旅人さん0 

今日十月二十八日は群馬県民の日。
「郷土の歴史を知り、郷土についての理解と関心を深め、自治の意識を高めるとともに、より豊かな郷土を築きあげることを期する日」として1985年に制定されたものです。公立学校がお休みとなり、群馬県内の施設が割引が利いたり無料になったりと、子どもが小さな頃はこの日に休みを取り、遠出のレジャーをしたものです。大概が県外。ディズニーランドで知り合いに会う確率のもっとも高い日であります。少しも理念と合致しない過ごし方をしてまいりました。
なぜか本日休みの私。うちでは私だけ。
┉郷土の歴史ねぇ。いつもの休みの過ごし方がすでに郷土の歴史を学習しているからなぁ。夫はテレワーク。┉おさんどん、かなぁ。┐('~`;)┌
じゃあ群馬県の郷土料理でも作りますか。
┉こんにゃくの煮物?

ここまで筆を進めた珍道中録も、再び秩父巡礼録となりますので、やっぱり県外。
群馬県の郷土の歴史かぁ。うーんf(^ー^;


No.249 20/10/28 07:29
旅人さん0 

「次は┉」つ、次ぃ?
来る予定、百パーセントじゃないですか。
と、いうわけで次に向かったのは【慶徳寺】さん。怪しい案内を繰り返すナビを信用せずにスマホのGoogle先生にお出ましいただく夫。なんだかなぁ。┐('~`;)┌
「お、着いたかな」 ん? おっ、おお! 赤い山門です。赤い山門が見えます‼

室町時代末期の天正元(1573)年【慶徳寺】は開基されたそうです。
山門は、時を同じくして創建されたもので、約四百五十年の歴史を誇る、邑楽町でも最古の建築物だということです。ほおぉ。
江戸時代中期の享保十(1725)年に慶徳寺が火災に遭い諸堂宇を焼失するもこの山門だけは災禍を免れ今にいたります。

この山門、二階建ての楼門であります。大きさは間口5.2 m、奥行3.3 m、高さ7m、さほど大きくはありません。
屋根はもともと茅葺であったものを昭和二十七(1952)年に銅板に葺き替えられたようです。うーん、茅葺、見たかったなぁ。
中央には【閻王殿(えんのうでん)】と書かれた扁額が掲げられています。
楼門には昇ることはできませんが内部は回廊式となっており、柱には唐獅子と象の彫刻が左右に一対ずつ飾られているのだそうです。台上には閻魔大王を中心として十王の彩色座像が安置されているのだそうです。
【閻王殿】というのは、冥府(冥土)にあるという閻魔大王の宮殿の事であり、死者の現世における善悪の業因によって、〖地獄〗、〖餓鬼〗、〖畜生〗、〖修羅〗、〖人間〗、〖天上〗の六道のなかで、来世はいずれの世界に生まれ変われるかを、裁くところだと云われております
鎌倉時代から室町時代と、うち続く戦乱と現世に生きる苦難から、来世往生を深く願う人々によって、十王信仰が広く世の中に行われるようになりました。慶徳寺山門に閻王殿が作られたのもそのような背景によるものと思われます。
今でも人が亡くなると七日ごとに七回墓参りを行い、百か日、一周忌、三周忌の供養をし、故人の冥福を祈る習慣があるのはこの十王信仰の名残だといいます。

この慶徳寺の山門は、「慶徳寺山門」として平成六(1994)年三月に町指定重要文化財に指定されています。

現在の本堂は平成二十五年(2013年)に江戸時代中期の享保年間以来二百八十五年ぶりに立て替えられたとのこと。┉建て替える前に来たかった。                 

No.248 20/10/28 03:55
旅人さん0 

蛭沼薬師堂をあとにして向かったのは【永明寺】さん。やはり下調べをしておいてくれたようです。
永明寺さんは金木犀で有名なお寺さんのようであります。大きな大きな金木犀で、なんと、国に天然記念物に指定されているようです。
それも昭和十二年の指定、「永明寺のキンモクセイ」であります。

お寺さんの掲示板によりますと、この金木犀、鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、永明寺の開基である夢窓国師(むそうこくし、臨済宗の禅僧。生前に夢窓国師・正覚国師・心宗国師、死後に普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、七朝帝師とも称される。)が植えたものであるといいつたえられており、七百年近い樹齢を経た希少な老樹、なのだそうです。

指定当時は、樹高16m、幹周り3.3m、枝張りが東西18m、南北14m、幹は地上13mから3分岐した傘状の巨樹であり、秋には黄赤色の花を枝一面につけ、その芳香は村中に届くと評されたほどだったようです。
ところが、昭和四十一年(1966年)の台風26号により、往時の姿は一瞬にして失われ┉
えっ?ええっ?( ̄□||||!!┉  
主幹は地上5mで折れて倒伏し、根は大きな土山と化して地上に盛り上がったとの記述が!お寺さんは急遽町教育委員会などと連絡を取り、文化財保護事業として対策がとられる事となりました。

そして数年後、大きな幹を支えていた根から小さな芽が数本出てきたのだそうです。残念ながら主幹は回復しなかったものの芽生えた小さな芽は日ごと目に見えて生長。その後も順調に成長を続け、現在では樹高も五メートルにも達し、秋には花をつけ、樹勢も旺盛になってきたのが今の七百年の歴史の重みに堪え、鎌倉・室町時代という中世の邑楽町を物語る貴重な文化財であるということでした。


ふうっ。

こちらのお寺さんはそんな金木犀を中心として、広く門戸を開いておられるお寺さんでありました。この日はお寺さんはお留守だったようですした。
境内にある六地蔵さまの祠には手書きの貼り紙までなされていました。とてもためになりそうなことが書かれておりましたのに、到底記憶できるはずもなく。
そしてこちらのお寺さんにはなんともイケメンな青面金剛さまがおられます。お顔の彫りが、これまた滅多になく、今風のお顔立ちであります。うーん、素敵。

No.247 20/10/27 18:12
旅人さん0 

お薬師さまの御堂をまえにして、いったい何を興奮しているのかといいますと、御本堂前の鰐口をさげるあたりの向拝といわれる部分┉なのでしょうかね、そのあたりに。野球ボールよりも少し小さいくらいの木の玉が数珠にされて、滑車にかけられて下げられているのです。
数珠の間は何十センチか空けられていて、滑車に下げられた数珠を廻すと、カシャンカシャンと大きな音がいたします。
私の憧れの大数珠回しという仏教の行事のひとつを思い浮かべるものでありました。実際の大数珠回しの数珠よりもずっと短いもののようでありますが、とにかく大数珠にただ感動し興奮した、わけであります。
数珠を回す際には薬師如来さまの真言でもお唱えでもするものなのでしょうか。その点についてはなんら書かれておりません。

御堂のなかにはお厨子がお祀りされているように見えます。

こちらのお薬師堂はきっと、ずっとずっと、ずっと地元の方々に大切にされて今に至るものであると確信いたします。 
地元ではお縁日とかにきっとお祭りがあるはずです。参列したいなぁ。

No.246 20/10/27 04:58
旅人さん0 

なんとも開かれたお寺さん大信寺さん。結構長いことここで過ごし車で移動を始めると。┉‼。お寺の境内とは少し離れたところに伊賀守氏のお墓がある!ええっ!?
何度かその場所を目指してリトライするのですが、駐車スペースがない。しかたなく車中から手を合わせて、次なる(夫の!)目的地へ。すると、【蛭沼薬師堂】という案内の看板があるではないですか。
私的にはこの日、彼岸花のお寺さんということで邑楽の恩林寺さんを訪ねてきただけのつもりでおりますので、あくまでも次なる目的地はないもの、なので、その蛭沼薬師堂というところへ是非寄りたいと、いつものように騒ぐわけでありました。
ということで訪れた蛭沼薬師堂さん。どうやらこちらは天明の大飢饉の折に、飢えと病とに苦しむ村人たちがその切なる祈りを込めて建てたもののようでありました。

公民館が併設されたこちらの薬師堂さんはその地内に鳥居のある小さなお社もございます。さほど広くはないこの敷地内、夫に「お社に排ガスが直接かかるように駐車しないでね」という指示(!)を出して
おりたちました。
うわあ、感動!うれしーい!






(大信寺さんの手水舎写真。さすが、ぶっ飛び寺さんであります)

No.245 20/10/27 04:26
旅人さん0 

で、帰宅後いつものようにGoogle先生にご登場いただきお聞きしたところ、【篠塚伊賀守】さんとは。
元弘三年(1333年)【新田義貞公】が北条幕府打倒の兵を挙げると、これに従って鎌倉へ向かった方、だといいます。おお!
新田義貞公は群馬県民なら誰もがその名を知る、歴史上の人物であります。
【上毛かるた】という郷土かるたがありまして、第二次世界大戦の敗戦の復興の頃に、郷土を知りつつ少しでも子どもたちに娯楽をということで作られたようなのでが、まだアメリカの監視下にあった頃のことで、戦いをイメージさせるような武将は一切NGだったにも関わらず、県民の声でも義貞の人気は高く、どうしてもどうしてもと掛け合って掛け合って特別に採用させてもらえたという経緯があったくらいの方であります。とはいえ、私のようにぼーっと生きてきた人間は、大人になってからこの新田義貞公はどんな人だったかをあらためて学習することとなるのでありますが。
話を伊賀守氏に戻しますと、なんでもその勇猛な戦いぶりを賞されて、後醍醐天皇から伊賀守を賜り、こう名のるようになったといいます。すごい人なんじゃん。
そして建武5年(1338年)義貞が藤島の戦いで討ち死にすると、義貞の弟の脇屋義助に従って戦い、その勇名は敵方にも鳴り響いたといいます。
康永元年(1342年)伊予の世田城に籠城して敗れると、単身で敵陣を突破して舟を奪い、隠岐島に渡り、そこで生涯を終えたということになっているようです。
それでも、世田城から逃れて浜へ向かうときも、大音声で「我こそは篠塚伊賀守である。この首を取って手柄にせよ!」と呼ばわりながら、敵陣の真っ只中を悠々と歩いて行きましたが、誰も手を出せなかった云々、まるで三国志の張飛か関羽のような英雄として描かれ、江戸時代には芝居などで大変な人気者であったようです。
さらに太平記に、篠塚伊賀守は身長六尺五寸(195cm)の巨漢であり、怪力無双で八尺(240cm)の金棒を、自在に振り回したり、舟の碇に使った石を浜へ担ぎ上げて安置したと書かれているようです。
お寺にはお手玉石というバスケットボール大の石があり、伊賀守氏がお手玉にしたという触れ書きがありました。

No.244 20/10/25 04:48
旅人さん0 

可愛らしいお地蔵さまの絵のミニタオル。 
どれにしようかとまでに高まった欲望を抑えて、押さえて、結果、頑張って抑えきった私。その葛藤は夫が見ていた。見られていたからこそ抑えきったのかもしれません。夫は決してそれを止めたりはしません、それがかえって抑止力になっていることを知っているのか、気づいてもいないのか。
〖質素に生きる〗のは欲望の塊であります私には、結構大きな課題であります。

閑話休題。
こちらの御本堂には無造作とも思われるくらいに寺宝が展示されています。その見事さに夫婦それぞれが別の視点で釘付けとなり。
┉それにしても好まない広さ、やっぱり小ホールにしか思えない。
その後わかったことですが、このホール┉御本堂ではコンサートがしばしば開かれているようです。この御本堂が完成したこけら落とし(!?)の際には全国ネットで『ぶっ飛び寺』として紹介されたのだとか。うーん、納得!
ようやく御本堂をあとにして、境内へ。

こちらの山門は、かの徳川家の四天王とうたわれ、館林城初代藩主榊原氏の菩提寺であります、【善導寺】さんの東門を移築復元されたものなのだそうです。この山門を心して仰ぎくぐった者は出世するという由緒深き門、なのだそうです。今さらですが、普通にくぐりましたし、五十の齢を過ぎて出世は┉ない、かな。
板碑も何枚もあり、見目麗しい石仏さまもたくさんおられます。
山門をくぐった左側には薬師堂があり、こちらのお薬師さまは秘仏でありまして、十二年に一度の寅年に御開帳され稚児行列と大法要が営まれるようです。
日光月光菩薩さまを脇侍とし、十二神将を従えておられるというお薬師さまに、再来年となる御開帳にお会いできる世となっているでしょうか。どうぞリモートとかではなく、病からお救いくださるお薬師さまの法要が営まれる世となっておりますように。

駐車したスペースのそばにありました御堂は、太平記にも登場する
伊賀守氏をお祀りしたものだったようです。剛力で有名な方だったようです。夫はたいそう興味深そうにいろいろ見ておりましたが┉私にはちょっと短時間で理解できるようなことではありませんでした。

No.243 20/10/24 09:56
旅人さん0 

完全に裏手に案内されて、しかも案内終了となり、砂利の敷かれた空き地に車を停めて歩き出すと、地元の有名な方なのかその方の御堂があります。
そんなときいつも、「素通りでごめんなさい。まずは御本堂、御本尊さまにお参りしてから参ります」と心の中でお声がけします。
いったん、できれば門を通らずに外に出てから、あらためて山門をくぐり、手水舎があれば身を清めて。なければ消毒アルコールをシュッとしている最近であります。
そして、大好きな鐘があればまずはそこに近づいて見て、撞いていいものかどうかを確認して。それから御本堂へと向かいます。こちらは鐘を撞いてもよいお寺さんでありました。

誘惑の多いお寺さんであります。そして、何よりも御本堂がどれなのかわからないお寺さんでありました。小振りの御本堂と思われる御堂と、ガラス張りで講堂と思われる御堂。小振りの御本堂と思われる御堂は今、あまり使われていないようにもみうけられましたが┉。
うーん、これはまずは庫裏へうかがおう。
やはり、ガラス張りの、講堂と思われる御堂が御本堂のようです。そこに向かう途中には品のよい小料理屋さん、もしくはお茶屋さんのような建物があり、暖簾がさがっていて、営業中と掛札が掛けられています。えっ?
最近はこういったお寺さんも増えているのですが、それでもちょっとびっくりした建物で。
そして御本堂。やっぱり、えっ?
ガラス張りなだけでなくて、広い、┉やっぱり講堂というかイベントホールといった感じでありまして。
さすがに内陣は普通にお寺さん、であります。両脇には小さな木魚がたくさん収められた棚があります。
でも、イベントホール感が半端ないのでありました。そうだ、葬儀場のホール感があるんだ。
でも居心地は抜群です。御仏が近い感じです。ここの近くに住んでいたなら、私もmy木魚をここに置いて、一緒に読経したい。
なので、だいぶ長いこと御本堂におりました。
いまはコロナの影響で御朱印はお休みされておられますが、こちらのお寺さんオリジナルの御朱印帳あり、その御朱印帳の表紙と同じ絵のミニタオルがあり、それは無人販売となっていました。可愛らしいお地蔵さまの絵です。うーん。


No.242 20/10/21 18:12
旅人さん0 

このあと、また秩父巡礼に出かけるのでありますが、その前に私の運転で群馬県邑楽町の彼岸花で有名なお寺さんにうかがい、その後も邑楽の町で寺社仏閣参拝をいたしました。

邑楽町には多々良沼という沼があり、それは館林市にも広がっている大きな沼で、その沼を中心として県立多々良沼公園となっています。
「寄って行く?」
「どっちでも」
夫がそう聞いたときはたいてい、そこに寄りたい、もしくは彼の予めの予定に含まれているとき、であります。なので、当然多々良沼へ。
広いんだけど┉。(^_^;)
そこには白い萩が今を盛りに咲いていました。十月桜という桜も咲いています。もうそれだけでご機嫌な私。
で、どこまで?
「この沼のほとりに弁天堂があるんだって。そこまでとりあえず行こうと思うんだけど」┉はいはい。

沼には白い鳥がいます。ここ多々良沼には白鳥が渡来することで有名であります。
「白鳥かなぁ?もう来るのかなぁ」
そんなことを言いながら歩く夫を置いて、さっさと弁天橋を渡る私。
こういう可愛いげのないところも直すべき点であろうことはわかってはいるのですが┉(^_^;)

紅い、可愛らしい御堂であります。白い狛犬と紅い御堂が沼に映えて素敵です。こちらは先程お詣りしてきた恩林寺さんの御堂でありました。(┉知っていて連れてきてくれたのかぁ)と感心し感謝していると、
「へえ、恩林寺さんの弁天さまなんだね」┉。
柿の木の下に赤い彼岸花が咲いています。今年コロナの関係で中止されてしまった恩林寺さんの彼岸花まつりですが、盛りを過ぎていたとはいえ、恩林寺さんでも、通りすぎる景色の中でも、そしてここ多々良沼でも彼岸花が見られて、今日一日がまるで彼岸花まつりであります。

「次はね」┉やはり今日も予めいろいろ調べて計画してくれていたみたいです。次は【大信寺】さん、だそうで。

大信寺さんは大きなお寺さんのようです。相も変わらず優秀なメーカー純粋ナビはお寺の裏手の、駐車場でもなんでもないところで案内をとめました。( ;`Д´)

No.241 20/10/21 13:44
旅人さん0 

鐘楼に登って、その梵鐘の表面の鋳られ彫られたものの数と、さらにはその見事さに、絶句いたします。

か、観音さまが。
┉何体の観音さまなのでしょう!一体一体が何観音さまなのかが私のような者でもわかるような精巧さで鋳られています。

あ、こ、これは!
百観音さまだ┉。西国何番、と見てとれます。秩父何番とあります。
うわあぁ、感動です。
そしてたまたまそばにあった観音さまを拝すると、まさにここ、定林寺さまの観音さまでございました。
その、定林寺さまの部分に刻まれたものは〖同十七番 定林寺 あらましを 思ひさだめし 林寺 かねききあへづ ゆめぞさめける〗と彫られており、中央には御本尊十一面観音さまであります。
一つ一つ、です。それぞれのお寺さんの御本尊さまと御詠歌が彫られているのです。うーん。これはすごい。

いつまでも鐘にまとわりつく初老の二人に、本堂の扉を締めにまわられに来た詰め番の方が気づかれて、石段の上からお声がけくださいました。
「本当は参拝の前に撞くものだけれど、撞いてもいいですよ。そのあとちょっとまた本堂に手を合わせに来てもらえば。参拝のあと鐘を撞くとせっかく結んだ観音さまとのご縁を切っちゃうって言われてるんだけど」
えっ?いやいや、それは困ります。
「あ、すみません。あまりに見事な鐘なので見とれておりましただけです。またの参拝の時に撞かせていただきますので」


┉夫君、というわけで、お願い、定林寺さんにぜひぜひ再拝させてくださいませ。なんなら鐘を撞くだけでもよいであります。
どうやら、鐘の音もまたすばらしいものらしい。

秩父までなら、頑張れば来れる、かなぁ。でも天才的方向音痴で、なおかつ地図を読めない私。ナビのない、八人乗りのマイカーでここには来られない自信、百パーセントであります。


No.240 20/10/21 09:16
旅人さん0 

ここ、定林寺さんはかつて、林氏の個人所有の寺院だったようです。それゆえ林寺とも称されることもあるようであります。そんな定林寺さん、実はかつては巡拝の打ちはじめ、一番札所であったのだそうです。それが、江戸からの巡礼に合わせて四萬部寺に変わったということでありました。
ここ、定林寺さんが一番札所に選ばれたのは秩父総鎮守であります秩父神社において、林氏が氏子の重職であったことも関係していたのではないかと言われています。
現在のこの定林寺さんは当時とは場所も変わっているようで、当初は現十八番札所、神門寺さんのある宮地町というところにあったようであります。現在地に移転したのは江戸時代後期とのことであったようです。
定林寺さん、林寺の縁起によると、無慈悲な権力者の家臣であった林氏が、その権力者を諌めたところ怒りを買って追放されてしまったのだそうです。林氏とその妻は流浪の末亡くなってしまいます。後日改心した権力者が林定元夫妻の菩提を弔うために建てたのが、このお寺さんであったというものであります。
この縁起がどこまでも事実を反映したものかはわからないのですが、林氏ゆかりの、林氏個人所有の寺として始まったのは確からしいことのようです。

こちらも無住のお寺さんで、地区の世話人の方々により維持管理されております。
そんなお寺さん、例の、あのもう一つの聖地となっていて、アニメの絵馬がこちらでも販売されていました。┉なんとも不似合いなものではありましたが、どんな形でも浄財がこちらに納められて、こちらの維持管理費にあたればよいと思う、私であります。


さて、石段を下りて、ん?
左手に立派な鐘楼があります。┉いつから? いやいやもちろん古いもので、梵鐘は1758年の鋳造とあります。こんな大きな鐘楼を見落とすほど、焦って駆け込んだのでしょうか。
しかも、私の大好きな撞いていい梵鐘とあります。くうぅぅ( ω-、)
参拝のあと鐘を撞いてはいけないのだそうです。
泣く泣く鐘楼に登り、その見事さにいつまでも鐘楼にいる私。
それもそうであります。その梵鐘のありがたさといったら!

No.239 20/10/21 08:21
旅人さん0 

秩父十七番札所の定林寺さんは道がわかりづらく、たどり着いたものの駐車場の区画もそこに置いていいのかどうか、迷うような駐車場でありました。砂利の敷かれた駐車場なのですが、地続きで作業車両が停められていたり。
停めたあとも少し歩くようで、その歩く道もまた民家や工務店さんがある細い路地をまいります。またまたむくむくと不安がこみ上げてまいります。それでも道には道案内があるので信じて突き進みます。
あ、見えた♥!
恩知らずな私は、ずっと運転してここに連れてきてくれた夫を置いて走り出します。┉たしかに恩知らずなんですが、この場合は少しだけ意味もあり、┉平日の秩父霊場、時間前でも閉まってしまうことが多々あるからなのであります。
閉まってしまっていたら諦めるしかないけれど、もしもまだまにあうのなら、一刻も早く、あと一組参拝の者がおりますと、まだ参拝させていただけますかと、伝えたいと思ったのであります。┉夫が孫な私の心情に気づいてくれているかどうかは定かではありません。

石段をかけ登り。
結果、なんとかなりました。なので、夫を待つ。
さほど時間差なく到着した夫に、(走るの遅くなったかなぁ、私)これなら一緒に来てもたいして変わりがなかったと、一抹の虚しさを感じます。こんなだから、他のご夫婦のように寄り添って仲良く参拝、というふうにならないんだろうな。まあ、そんな自分の問題点に気づいた巡礼旅、それこそ意味があったこととなりましょう。

「┉ここは、このお寺さんは、変わった造りだねえ。ぐるっと廻れるようになってるみたいだよ?」
「えっ?」
┉私といえば、できたばかりの頃はさぞや見事だったろう彫り物や天井画に思いを馳せておりましたので、まだ本堂の前にたたずんでおりました。本来ならば本堂内の外陣にあってしかるべきものであります。┉まるで外陣、そう、そのようにあえて造られた御堂だったのです。


No.238 20/10/21 03:23
旅人さん0 

西光寺さんの境内には、まるでジブリの世界に出てくるような┉といっても、私、ジブリに詳しくないのですが┉いかにも奇抜な御堂があります。「招福・酒樽大黒」という立て札があります、茅葺き屋根をのせた大きな酒樽に大黒天さまがお祀りされている御堂です。一日三合で、三十年分の酒が入るという大きな酒樽で、中に小振りの大黒天さまがちょこんとたたずんでおられます。
なんだか小さな紙がやたらと貼り付けられておりましたが、サッとお参りして後で知ったのですが、小さな紙はすべて名刺だったようです。ここに名刺を貼るとお金が入ってくる、お金に困らないとか言われているようです。うーん、残念な┉(>_<)
あ、そもそもが私名刺がないんだ。子どもたちが名刺を持つような世代になったけれど、私は生涯名刺とは縁がない人生となりそうであります。

そしてそのそばには、秩父夜祭で使われていた山車の車輪が一つ置かれていました。ただ置かれているだけなのに、大変趣のあるもので、大変まわりと調和していました。まるでみんなに愛された山車の魂が役割を終えてくつろいでいるかのような、やわらかであたたかな気を感じます。

そんな西光寺さんをあとにして歩き出した道の彼岸花はさらに傾いた陽の光でやわらかに光り輝いていました。

No.236 20/10/20 04:34
旅人さん0 

八十八体の御仏のお並びになる空間は、とても江戸時代のものとは思えないよく整備され、とても清らかで清んだ空気であります。
江戸時代、それも大災害や飢饉のあとの貧しい時に建立され、納められた仏像にはとうてい見えません。
もっと物に恵まれて豊かな生活を送るなか、┉言葉は悪いのですが、それこそ集客のために造られたものなのだとばかり思っていたくらいであります。しいていえば┉むしろよくぞこれだけの資金繰りができたものだと、感心するくらい立派な回廊であり、一体一体立派で神々しく精巧な仏像であります。
ただただ、ありがたい。
御仏にすがるしかなかった時代とはいえ、よくぞここまでのものを、たくさんの人たちが、自らのためだけでなく人々のために寄進してくださいました。
おかげで時を経てなお、人生に迷い新型コロナウイルス感染症におびえる女の心が癒され洗われました。

そして、こちらの境内には札所の歴史にとって貴重な建造物があります。それは、小さな御堂であるのですが、室町時代より伝えられている札堂と呼ばれる建物であります。当時は観音堂であったという其の建物の柱などにはそれこそ無数の小さな穴があいています。
それは、かつて納め札が木の板や金属のそれであった時代に、納め札を打ちつけた釘の跡、なのだそうです。
ここは、明るいこちらのお寺さんの境内の中にあって、唯一重厚にして重たい気を放っておりました。
その札を打ちつけた者の思いが沈殿しているような気のする、建物でありました。その感覚は夫も似たような感覚であったと後で語るのでありました。

No.235 20/10/19 18:46
旅人さん0 

猫の代わりに現れたのは┉御住職、なのかどうか┉。お寺の関係者であることは間違いないのですが、剃髪されておられず、普通の服装であられたので┉。
突然現れた年配の男の方が突然おっしゃることに、
「○○はもう閉めちゃったから見られないよ」
え?、初めての参拝なので○○も何もわからないのですが┉。
そうして唐突にガラス戸に吊り下げられた書き初めで使うような長い半紙に向かうと、
「最近はあんまり人も来ないからすっかり腕がなまっちゃって。これね、」
といきなり二本の筆を持ち、左右を別々に動かして左右異なる文字を書き始めました。
「右と左違う字を書くの結構大変なんだよ」┉わかります。誰もが出来ることではなく、私は練習しても出来ない部類の人間です。
「これ、あげるから。」
右側に南無大師、左側には遍昭金剛と、今まさに目の前で書かれたものをサッと手渡してくださいました。
┉うーん、私の秩父巡礼のバイブルには○○のことも書かれておりませんでしたが、このようなパフォーマンスをなさる方がおられることも書かれていない、どちらかというと写真集に近いガイド本なので、いろいろなことが新鮮であります。

「△△は見られるから。突き当たるけどずぅっとつながっててそのまま向こうに出られるから」
???
私の顔に???と書いてあったのかもしれません。手招きして御案内くださいました。どうやら回廊になっているようです。

おおっ!これはこれは見事であります!
四国八十八ヵ所の御本尊さまを一体一体、お背の高さ五十センチほどもある像として安置してあります。それだけの大きさの仏像が、それぞれ厨子のなかにおられ、┉言葉は悪いのですが┉ずらっと八十八体並んでおられるのです。圧巻、です。
レイアウトこそ変えてはあるのでしょうが、こちら十八世紀の浅間山大噴火や天明の大飢饉ののち、後難除けとして建立されたものとのこと。貧しい時代、苦しみのなか、これだけの仏像と堂宇をここにおさめた江戸の時代の人たちに、ただただ頭がさがります。

No.234 20/10/19 06:07
旅人さん0 

第十六番札所の西光寺さんにたどり着いたのは、傾きだした陽の光が、彼岸花にあたって、秋の夕方の風情を醸し出した頃でありました。駐車場も、そして駐車したあとのお寺さんへの道も分かりにくく、彼岸花の並んで咲いている路地をおそるおそる歩いて、たどり着きました。たいした距離でもなく、たいした時間もかかっていないのにやけにたどり着いた感があったのは、珍道中ならではのトラップを警戒して内なる私がそうさせたのでしょうか。

山門をくぐると真正面に御本堂があります。
御本堂の前に立って、あまりに見事なさまに、しばし息をのみ、参拝の手が動きません。向拝中央に金色の寝釈迦が彫られております。
左右には、中央の寝釈迦に向かって手を合わせる尊き方々が彫られています。それが陽のあたる、風向きによっては雨風もあたるであろう場所に、惜しげもなく飾られております。
御本堂の中も豪華絢爛な天蓋があり、それもまた目を惹きますが、何よりその天蓋が見事に調和した、落ちついて重みのある御本堂内のさまはまた心惹かれます。
┉そんな雑念を早く打ち消さねばと自らに言い聞かせて、納め札を納め、読経いたしました。
さあ、納経と御朱印を、と振り向くと、┉猫♥ 可愛らしい三毛猫がまるで「待ってたよ」とでもいうようにこちらに顔を向けて横たわっているではないですか♥
もちろん、猫と遊んでしまいます、ええ。
いかにも猫らしく気ままに動くのですが、人目がないのを良いことに┉人目があろうと、なんですが┉猫に話しかけること、┉五分くらいですかね 笑。
そして、はっと気づくのであります。あ、また横道に逸れていたと。
猫にお別れの挨拶をして納経所に向かうと⁉ な、なんと、猫があとからついてきて、やがて先導してくれるではないですか!
な、なんていいこなんだろう♥

納経所の、お寺のご住職さまの奥さまいわく、
「(猫が)連れてきてくれたでしょ?いっつもそうなのよね」
膨らんだハートが萎んだ一瞬でありました。修行の〖しゅ〗の字もできていない私は、自分だけに起きた奇跡とでも思っていました、はい。
修行、修行!
そうして、私たちを案内したあとはおうちに入って二度とは出てきてはくれませんでした。修行の妨げにならないように、でしょうか。

No.233 20/10/18 05:22
旅人さん0 

【秩父神社】さんのあとは秩父神社さんから徒歩何分、という距離の【第十五番札所少林寺】さんです。┉とはいえ、今回の巡礼は秩父神社さんの周辺であったのですが。こちらを廻るころには秩父神社さんの御札のお力もあってかだいぶ体調も回復しておりました。
こちらは高台にあって、徒歩ならば秩父鉄道の踏切の真上にある石段を登って行くという立地にあります。
【少林寺】さんはその奇抜な外観にまずびっくりいたします。まるで白亜の洋館という感じ、もしくは日本のお城を彷彿させるものであります。洋館と日本のお城にはまるで共通点はないように思われるのですが┉。
まさに明治以降のハイカラな建物で、お寺さんなのかどうか、ちょっと不安になるほどでありました。それもそのはずで、まさにあの【秩父大火】で御本堂が焼失し、耐火性に優れた土倉造りで再建しておられました。

実はこちらは明治以降に札所になったお寺さんであります。
もともと札所であったお寺さんは秩父神社さんの境内内にあった神社に属する寺院、神宮寺であったため、明治の神仏判然令で廃寺になってしまいました。伝統ある秩父観音霊場巡礼が途絶えてしまう事態です。そこで少林寺さんに白羽の矢が立ち、移転してまで第十五番札所を受け継ぐこととなったようです。その際受け継いだのが以前第十五札所であった蔵福寺さんの山号であった【母巣山】なのだそうです。

こちらは境内に大権現社があり、鎌倉の建長寺さんの流を汲むお寺であることがわかります。また、歴史オタクの夫が騒ぐのに、こちらに秩父事件の殉職者のお墓があるのだそうです。
私はといえば┉時折通る秩父鉄道の列車にしばし心を奪われておりました。

御本堂の扉が閉ざされていると本当にお寺さんで参拝している感覚となれず、唯一中から漏れ聞こえる般若心経がお寺さんであることを証明してくれていました。本堂内は秩父夜祭の屋台に使われていた彫刻や欄干の飾りを使っているのだそうです。
┉午年の御開帳の折には拝することができるのでしょうか。どうかそれまで無事にコロナ禍を乗りこえることができますように。
どうかそれまでにはWithコロナの世が確立し、無事に御開帳の年が送れますように。


No.232 20/10/17 23:18
旅人さん0 

「えっ?それではどちらに?」集めだして四個目となる秩父神社さんの願い石を求めてなおも問う私に、
「外に」と巫女さんは一言だけ。
「神社さんの外のお店で売っているものなのですか?」というと、少し馬鹿にしたような笑みを浮かべ
「門を出たところの建物です」
┉こんな冷たくて、キツい物言いをなさる神職さんは初めてでした。巫女さんはアルバイトの方が多いようですし、仕方ないこと┉なのかもしれません。彼女のバイト内容はあくまでも御朱印受付、なのかもしれませんから。それでも巫女さんの身支度をしたならば、神さまに仕えるお仕事なので、もう少し心込めての仕事をしていただきたい。
それって高望みなのかな。


すごすごと、そして願い石がもしかしたら手に入らないかもしれないと思って気落ちしながら、とぼとぼと歩いて行くと、入ることを躊躇うような立派な、大きな建物があります。そうだ、夜祭のときここの前を通ったときに、ここは一体なんの建物だろうかと思ったんだ。
おそるおそる、入り口を入ると立派なロビーがあって┉結婚式をする建物なのかもしれません。
ここにある?
┉問いかけた神社の職員さんは笑顔で応対してくださいました。
そして、ロビーの一番目立つところに、な、なんと、この度のコロナウイルス感染症の世界規模の感染を憂い、悪疫退散の赤い御札を無料でお配りくださっているではありませんか。
なんとありがたいことでありましょう。┉先程のイヤな気分まで吹き飛んでしまいました。
これも御利益、かもしれません。この御札、すごい力があります。



秩父神社さんに限らず、日本中の神社仏閣で、毎日毎日、神職の方が、僧侶が祈りを捧げておられます。医療従事者が懸命に治療にあたり、さまざまな学者がコロナウイルス撲滅のための研究をしておられます。ありがたいことです。

No.231 20/10/17 22:39
旅人さん0 

閑話休題。


秩父夜祭を執り行う神社さん【秩父神社】さん。参拝したのはそのまさに夜祭のとき。人にあふれ人に揉まれて、まさに事故寸前の境内でありましたあのとき┉でも楽しかったあ。(*´艸`*)
今回あらためての参拝をさせていただきました。

秩父夜祭、例祭の日は秩父神社の境内は朝から大変な人で賑わっていました。神門にいたるまでも手水舎の方から並んで並んで、ようやくの拝殿参拝でありました。そんな人出でしたので拝殿や本殿を彩る彫刻を思うようには見ることができません。
必ずやもう一度、秩父夜祭に来よう。そして、夜祭ではない秩父神社さんに御礼の参拝をしよう。そんな風に思った秩父夜祭の帰り道でありました。
 
あの日とは異なり、静かなたたずまい┉でもなくて、平日であるにもかかわらず、結構な人が訪れていました。明らかに観光客でありましょう、着物を着た女子が三名、やはり着物を着たカップルが一組。そして、親子連れが何組か。さすが、秩父だなあ。テレビのCMでも言っていますものね、♪秩父に行こうって。


拝殿前での参拝を終えて、心配していた拝殿の横に行くと思っていた以上に足場が組まれてほぼほぼその側面は見ることができません。( ω-、)
うーん。先程の職人さんが小脇にかかえていた彫刻、と思われるものを見ることができたなら、もしかしたらなかなか見ることのできないものを目にするチャンスだったのかもしれません。┉何だったんだろう。
と、雑念と邪念のかたまりと化した自身に気づき、神さまに心のなかでおわびを申し上げて本殿の裏側に廻りますと、裏側は足場はなく、〖北辰の梟〗と呼ばれる彫刻、そして本殿左側の〖お元気三猿〗と呼ばれる彫刻を見ることができました。
お元気三猿は、日光東照宮の三猿とは異なり、「よく見てよく聞いてよく話す」をテーマに元気に彫られたお猿さんたちでありました。
正面には子宝、子育ての虎の彫刻が飾られています。
明るく爽やかな気に満ちあふれた秩父神社さんにふさわしい彫刻であります。本当に気持ちのよい境内であります。


そんなよい気分で参拝を終え御朱印をお受けして、例の願い石の授与を申し出たところ、
「それはここじゃないです」と、切り捨てるような冷たい言い方をなさる巫女さん。えっ?
ですが、ここには御守りもありますし、他に授与所は見あたりませんが┉。

No.229 20/10/17 17:41
旅人さん0 

閑話休題。

秩父夜祭を執り行う神社さん【秩父神社】さん。参拝したのはそのまさに夜祭のとき。人にあふれ人に揉まれて、まさに事故寸前の境内でありましたあのとき┉でも楽しかったあ。(*´艸`*)
今回あらためての参拝をさせていただきました。
 
あの日とは異なり、静かなたたずまい┉でもなくて、平日であるにもかかわらず、結構な人が訪れていました。明らかに観光客でありましょう、着物を着た女子が三名、やはり着物を着たカップルが一組。そして家族連れが何組か。さすが秩父、平日でも観光客が訪れています。巡礼とはまた違う、観光地の顔をもつ秩父。
テレビでもよく♪秩父に行こうってCMやってるし。

秩父神社さんの境内はほどよいソーシャルディスタンスを取りつつ、それぞれの参拝、それぞれの過ごし方をする人たちで賑わいをみせていました。心地よい、明るい気に満ちています。
さあ、参拝┉おや?
何やら彫刻を小脇に抱えた職人風な人が、拝殿に入っていきます。?

見ると拝殿の向かって右側に足場が組まれています。えっ?工事中?
たしか、拝殿右側に、有名な彫刻があるのでは┉

No.228 20/10/17 14:53
旅人さん0 

┉実は、秩父巡礼珍道中自体は、なんと、すでに第二十七番札所にまでその歩を進めています。

現在書き終わったのが第十四番札所、今宮坊さんと今宮神社さんまで。このあと三十四ヵ所の札所以外にも秩父神社さんにも参拝しております。秩父三十四観音霊場巡り珍道中┉全部書ききることができるのかなぁ。(*T^T) 


まあ、焦らずに。 
時おりちがう珍道中を織り込むこともあるかと思います。もしかしたら秩父珍道中録、中断、となるかもしれません。よろしければ気長に、気楽に、箸休めとしてお読みくださればさいわいです。
┉というか、いつもこんな駄文にお付き合いくださり、本当にありがとうございます。


さて、さっそく脱線して。
先日仕事中に、心洗われるような出来事がありました。
とある書類を持たずに来ているので、今日はその用件はできないのでまた後日出直すとおっしゃる御高齢の女性に「書類を無くしたって嘘つけばすぐに再発行してもらえるよ」と、一人の初老の男性がよかれと思って助言していました。
すると、その女性がおっしゃることに「嘘をついて生きたら、そのあとずっとそれを後悔して生きることになるから、私はそういう生き方はできないです。誰が見ているとか見ていないとかではなく、そういう生き方は間違っているから」
と。よかれと思って助言した男性に対しては、二の句を次げない言葉であります。周りに他の人もおり、もっと相手の方を傷つけないで上手にかわす方法はいくらでもあるのではないかとも思われます。
そんな風に人を傷つけない生き方もある意味大切なのかと思わないではあります。
でも┉ずっとずっと真っ直ぐに生きてきたからこそ出た、真っ直ぐな言葉であったのでしょう。

「おてんとうさまに顔向けができないもの」
明るい笑顔でお帰りになった女性に、私は、これからでもいいから彼女のように生きたいと思いました。
「おてんとうさまに顔向けができない」という言葉がスッと出るような生き方をしたいと思いました。

そう┉、そうして通りかかった道にある御堂や石仏に手を合わせ感謝するような人になりたいと思うのであります。




No.227 20/10/17 07:29
旅人さん0 

第十四番札所【今宮坊】さんをお参りしたら、それは必ずお参りすべき神社さん、【今宮神社】さんは、テレビで何度も紹介されるpowerスポットであります。初めての参拝であるのに見慣れた光景が広がっています。
境内に入ってすぐにあります、神々しい池、幻想的というか、気高い気に満ちているというのか┉。それもそのはずであります。秩父の霊山武甲山の伏流水がこんこんと湧きだしています。それが噴水のように涌き出るように演出されていて、そばにある木のほこらには見目麗しい龍上観音さまがお立ちになられております。
このシチュエーション!女子が魅せられることまちがいない┉、┉まちがいなかった。
夫がその女子の多さ、カップルの多さに圧倒されて、本殿参拝を早々に済ませて、人から離れたベンチに座りこむくらいでありました。┉私が具合が悪いことなどすっかり忘れたように。┉忘れてたんでしょうね(ーー; いつもは参拝だけは一緒にするのに、さっさと先に参拝を済ませて声もかけずに離脱しておりました。暑さと体調の悪さから、聖域であるのについつい不機嫌になっている自分を制すること、律することに、努力いたしました私でありました。
まあ、そうは言っても、御朱印をお受けし、秩父十一ヵ所のパワースポットで購入できる秩父願い石を買い求め、清瀧の滝ではお浄めの清水を与銭洗いをし、御神木の周りを一周しているので、具合が悪いとは言っても大したことではないのですが┉(^_^;)

ここの神社さんにびっくりしたところは本殿脇の社務所で、【般若心経】のコピーが置かれ、御朱印にも〖奉斉聖観世音菩薩〗というものがありましたことであります。あくまでもその長い歴史から八大龍王さまを祀り、【役行者さま(神変大菩薩)】を祀り、役行者さまと深く関わりのある、もともとは一緒にお祀りしていた今宮坊の聖観音さまをもお祀りする、というスタンスのようです。

また、こちらの神社さんの聖水は一年を通して神事が行われ、なかでも四月に行われる【水分祭(みくまりさい)】では【秩父神社】さんの宮司さまがこちらに来られ水乞いをし、その際秩父神社に【水幣(みずぬさ)】というものが授与され、この水幣により秩父神社のお田植え神事というものが執り行われているようです。


┉長い歴史のなかで培われたものを大切に、今宮神社さんは進化を続けているようです。



No.226 20/10/17 06:33
旅人さん0 

今宮坊は、修験道の寺院金剛寺としてスタートし、その後八大龍王さまをお祀りした宮の別当寺を勤めることとなります。
その八大龍王さまを今宮の地にお祀りした方もまた、修験道の開祖といわれる役行者さまでありました。
秩父修験道の中心として、一体であった金剛寺と八大権現社(現在の今宮神社)の境内にあった観音堂こそが、現在の今宮坊にあたるもののようです。
そんなもともと密接で切っても切れない、なくてはならないその二所を、無理やり切り離したのが、あの神仏分離令、神仏判然令でありました。その際金剛寺は今宮坊となったのかと思われます。そしてさらには修験道廃止の政令によって、今宮坊は廃されてしまいます。

新しい時代を築くことに突っ走り、新しいこと新しいことに改革しようとしたのが明治時代、明治政府だったのでしょうか。その一つであった神仏分離令は、まさに大きな大きな傷痕だけを残した誤った政令だったとしか思えません。その際破壊された寺院、そしてその寺宝、仏像、仏具、石仏、等々、その大きな損失!いまなお痛々しい傷跡を残していますそれは、遠く焼き討ち等の被害と比較にすらなりません。後に起きた第二次世界大戦における空襲被害よりも大きな被害であったのではないでしょうか。
┉などと語ると、歴史オタクの夫に知れたら、事実に基づいていなーい!と叫ばれるか、切々とお説教に近く教えられることになるかもしれませんが┉(ー艸ー;

今宮坊は静かに静かにたたずむように建っていました。金剛寺という修験道の中心であった大きな寺院だったのが嘘のように、民家の路地を入っていくような小さな小さな、お寺さんでありました。
しかしそこには、役行者のつかわした童子に導かれ空海が刻んだとされる聖観音菩薩像、平安時代のものとされる優美な飛天像が安置されております。
今宮坊は歴史に翻弄されながらも、大切なものはしっかりと守り続けるお寺さんでありました。


遠目ではありますが、その飛天像は直接拝することができ、その美しさに思わず声を漏らす私でありました。


No.225 20/10/15 18:59
旅人さん0 

【慈眼寺】さんをあとにして、まだ体調不良であることを伏せていた私。
あの、秩父夜祭りの際歩いた町並みをもう一度たどってみたかったのです。実際、無理をしている自覚もなく、見た目はむしろ足取り軽く歩いているようにみえたかもしれません。
お祭りの装いのない、人があふれていたあの日とは違う、それでいて見覚えある町並みを見ながら歩くのは愉しくて、私の気分はhighでありました。
┉ところが、そこは嵐を呼ぶ(?)珍道中。
地図を見ずに、頭のなかに刻み込んだ次なる巡礼地【今宮坊】への道がまちがっていたのです。遠回り。
それでも、あと少しだろうというところまで来ていたところで、私の体調がおかしいことに夫が気づいてしまいました。
「車で行こう。駐車場にいったん戻ろう」
「┉△◆★♨┉。」

ただただ暑かったことしか記憶がありません。


No.224 20/10/14 22:11
旅人さん0 

明治十一年の秩父大火とよばれた大火災では実に約四五〇軒の家屋が焼失し、ここ慈眼寺さんにおいても御本堂が罹災してしまいます。
現在の御本堂はその大火から二十年あまり後に再建されたものとなるようです。明治三十四年ということですが、そんな新しさを感じさせない堂々とし建物であります。新しい、と言ってももうすでに百年以上経つものではありますが、いままで巡礼したお寺さんのような、いかにも秩父らしい御本堂であります。
それもそのはずです。
この日の朝、立ち寄ってきました第一番札所四萬部寺さんの御本堂を模して建てられたのだといいます。いま真正面からの外観を写真で見るとそっくりであります。
ただ、それに気づいたのはあくまでも今、この珍道中録を書き出すにあたって、資料を見直して、のことであります。

それにしても、過去多くの神社仏閣が火災により失なわれております。周りに高い建物もなく、落雷による出火や、どうしてもお灯明やお線香を使うところであり、建物の古さゆえの漏電などもあるでしょう。
この日本中にあります神社仏閣という素晴らしい日本文化を、建築物を、どうか末永く後世に遺すことができますように。

No.223 20/10/14 07:01
旅人さん0 

この、慈眼寺さんの経堂は居心地がよくて、ずっとここに居たいような気に満ちた空間でありました。
もちろんそういうわけにもいかないので、経堂から出ますと、お隣にも小さな御堂があります。
ですが、私、やっぱり体調の悪化はさらに進んでおり、そんな少しの移動すらが億劫に思え、申し訳ない思いを抱えながらも御堂から少し離れたところから拝ませていただきました。もしかして、経堂から出たくなかったのは、建物の中だったから?いやいや、御仏たちが休ませてくださったのでありましょう。

そして┉┉、その経堂のお隣の御堂。そここそが、ここの第二の御本堂とも言える目のお薬師さまの御堂であったらしいことを、この珍道中録を書き起こすにあたって知るのでありました。(*T^T)
やっぱり、私の巡礼もまた、どうしても珍道中となってしまうようであります。
 

この辺りは、秩父夜祭りの会場の一部。
一度だけ来ることができた二年前の夜祭りの際、何度か通った道でありました。
そして、この辺りは、明治時代の秩父大火とよばれた大火災で町ごとが焼きつくされたような哀しい過去があったようでありました。

No.222 20/10/13 20:41
旅人さん0 

経堂はまるで宝の蔵でありました。

経堂の左右に並んでおられますのは、秩父巡礼を開創したという十三権者(じゅうさんごんじゃ)像。
性空上人、徳道上人、花山法皇、白河法皇、良忠僧都、通観法印。
閻魔大王、倶生神、医王上人、善光寺如来、妙見大菩薩。蔵王権現、熊野権現。上人や僧都、法皇さま方は立って合掌されるお姿で、生きておられた頃のお姿をそのままに、色彩鮮やかなままの状態で並んでおられます。善光寺如来さまはお優しいお顔をなされ、そこにちょうど窓からの日差しがあたって、まさに神々しいお姿でありました。

経堂中央には手押しで回すことのできる六角輪蔵があります。六角形をした大きな輪蔵にはいっぱいに経典が収められているのだといいます。まずは経堂のなかを歩かせていただきます。一部破損し紛失なされた御仏がお祀りされていたり。
そして。
経堂奥には御本尊ではないのか?とびっくりしてしまった、阿弥陀如来さまの立像。観音菩薩さまの座像がお祀りされています。その神々しさといったら!
こんなに間近で御仏の御像を拝見することができるなんて!
本当にありがたいことであります。 

そして六角輪蔵をまわさせていただきました。かなりの重さであります。

No.221 20/10/13 07:10
旅人さん0 

最近めっきり不調な愛するタブレット。実に八百字を超える文章を打ち込んだところでフリーズ、そして、な、な、なんと、いきなりのシャットダウン!┉落ち込んで到底すぐに打ち直すことができませんでした。
そんな第十三番札所【慈眼寺】さんの珍道中録、どうぞ最後までたどり着けますように (´。>ω人)゙

そもそも慈眼寺さんに到着した時点でなんとなく体調に違和感があり、いざ書き起こそうとして、頼みの綱の写真がほとんどないことに気づきました。記憶だけを頼りに、今回の珍道中録を書かなければなりません。うーん(ーー;

御本堂前で、納め札を納めてお灯明とお線香をあげ、御本堂のなかで読経させていただきました。御本堂から見おろす境内には【メグスリノキ】と山門、経堂が見えます。青い青い空です。
そのメグスリノキの横を通って納経所に向かうのですが、すでにメグスリノキを見上げる気力体力がない有り様であるのになぜか自覚がない。これが熱中症の恐いところなんでしょうね。水分はこまめに摂っていたし、真夏の暑さでもないのですが┉。
それでも納経所では、納経し、年若いお坊さんに御朱印をお願いし、【めぐすりのお茶】をおふるまいいただき、ドレミの音階を奏でるおりんを鳴らしては小さな歓声をあげたりしているものだから、夫はそんな私が体調が悪いことになど気づくはずもなく、あとで叱られる羽目になるのですが┉。本人もようやく自覚し始めたところで、乗りきれちゃうんじゃないかと思うのもまた、熱中症の危険なところであります。
その間、絶えることなく次から次へと御朱印を求める方が訪れるのですが、なぜか女性ばかり。こちらのお坊さんが若くてイケメンなのは┉関係ないことでしょうね。

納経所の裏手にある【瑠璃殿】に参拝し、お薬師さまに密かに体調の回復をお願いいたしました。あ、こちらは目のご利益でしたっけ。
そして、経堂へと向かいました。重厚な白い蔵であります。






No.220 20/10/09 15:43
旅人さん0 

┉この日の秩父は、暑かったのでありました。 
寒くなったね、と話すようになった日々が続いたあとの、二十七度を超えた気温に、私はすっかりバテてしまったのでありました。暑くもなく寒くもない室温にコントロールされた職場で働いているためか、暑さにも寒さにも弱い人間になってしまったようです。

そんな自覚のなかった私は、この日、このあとの全行程を徒歩でまわるつもりで張り切っておりましたのに、なんと、駐車場から第十三番札所の慈眼寺さんに歩いただけでギブアップ。たかだか0.6㎞離れた場所にある第十四番札所にすら歩くことができず┉。
┉というかその移動に際し道を間違い、何度も同じところを往き来していたことも敗因の一つでありましたが。

そんな体調の変化をすでに自覚しながらの第十三番札所慈眼寺さん参拝でありました。

No.219 20/10/09 05:05
旅人さん0 

野坂寺さんは広い境内にいろいろみどころがあります。
なかでも私がたいそう感動いたしましたのは、群馬県民なら誰もが知っている、と言っても過言ではないであろう、呑龍さまがお祀りされていたことであります。
おそらくは呑龍上人が生きておられたころか、その名が近隣に響きわたった江戸のころからずっと祀られたものであると思われます。
苔むした石像は子供がまとわりついたもので、【子育て呑龍】として名高い上人を石工があらわしたものでありましょう、子供たちが嬉しそうにまとわりついている笑顔までが表現された、当時としては珍しい石像であったのではないかと思うのであります。

さらには。花の寺としても有名だという野坂寺さんでありますが、ちょうどいろいろな花が、花の盛りを終えたころであり、さほど花が咲いてはおりませんでしたが、いくつかの、色とりどりの睡蓮が、まだまだ頑張って咲いていてくれ、その健気さにも心打たれた私であります。

山門内にいくつも納められた木像を造ったのと同じ作者の手による仏像が納められているという十三仏堂もありました。

No.218 20/10/09 04:41
旅人さん0 

【野坂寺】さんの御本堂の前、向拝と呼ばれる部分には三頭の大きな龍が巻きつきながら御本堂を護っています。その大きさと見事さに圧巻されます。しばしその見事さに心奪われ、はっと我にかえってのち、納め札を納め、お灯明とお線香をあげて、鰐口を鳴らし、お経をお唱えいたしました。
私が秩父巡礼のバイブルとしている本には、野坂寺さんは御本堂に入堂できるとありますが、このコロナ禍というご時世のせいでありましょうか、どう見ても御本堂に入れるほどには扉は開いておらず。
うーん、残念(涙)。

御本堂前には金属製の、まるで幼女のような顔をした像が置かれています。ふれあい観音とのことであります。その幼子のような頬を撫でる方が多いのでしょう、頬の部分だけが金ぴかになっていました。
その像のそばに、短くて小さな卒塔婆が納められています。三十~四十センチ、といったところでしょうか。注目すべきはその卒塔婆に書かれた文字で、願い事と名前がペンで記されています。
卒塔婆を納めることに密かに憧れを持つ私。うーん、どうしよう。
とりあえず、その卒塔婆も置かれているという納経所に向かいました。
納経所で経を納め、御朱印をお願いしたところ、慣れた手つきでさらさらと文字を書きながら「よろしければ御本堂に(経を)納めますので本堂正面にお越しください」とおっしゃってくださいました。
なんとありがたい。
納経は実にさまざまな納め方で、御本堂の前に置かれた金属製の四角い箱に入れることもあれば、納経所でお渡しすることもあります。
恭しく掲げたのちに納められた経をしまうところに納めてくださる方、受け取って無造作に横に置かれる方、さまざまであります。
何度か納経してきて┉、どんな字であろうと、一字一字丁寧に心を込めて書いてあります、経文、であります。外の、雨が降れば吹き込んで雨ざらしになるような、何枚も何枚も重なって入ったままとなった、ともすれば護美箱にすら見える納経箱は、正直、寂しさと空しさを感じております。
御朱印を求めず納経だけを目的とされた方との煩雑なやり取りを、お互い避けることができはするのでしょう、ましてやこのいまだ解明すらされていないコロナウイルス感染症の猛威を振るうなかでの仏教行事、方法としては良いのだとは思うのではありますが┉。うーん。

No.217 20/10/07 03:05
旅人さん0 

┉そんな、『ごはんよー』の撮影現場の向こうに見えていた【野坂寺】さんの山門がようやく目の前に。重厚な、歴史を感じさせる山門であります。山門の左右には窓があり、それを必ず覗かずにはいられない私。┉十王さま方がお並びになっています。
いきなり十王さま方が一同に居並ぶ御前でありますか!

と、緊張したのも一瞬のことで、その真後ろの白い壁に貼りまくられた千社札に興醒めいたします。┉そこまで入り込んだんだ。
千社札がびっしり貼り付けられた神社仏閣の建造物に私欲を感じてしまうのは私だけでありましょうか。欲を捨てるべく訪れるはずの場所で、自分の訪れた証を貼りつける┉どこかに自己満足がある気がしてなりません。願掛けであった時代であったとしても、それがあるのとないのではその建造物の趣すらが変わってしまいます。
一方夫は「誰それの札がここにもあった」、「誰それと並べていつも一緒に貼られている人の札が単独で貼ってある」と、千社札を楽しんでいます。
とはいえ以前はむしろ私の方が千社札を携え寺社仏閣を訪ねることに憧れていたのでありました。訪れた先々で御朱印をいただくのもまた、欲、であることも自覚しておるのではありますが┉(〃 ̄ー ̄〃)

十王さま方の横を通っていざ山門をくぐって┉くぐって┉?!
山門のなかに大きな木彫りの像がたくさん飾られております!軽くミュージアム、であります。どの像もおそらくは同じ方の彫られたものでありましょう。牛に乗った観音さまや、三面の観音さま。山神さまや風神さま。このような山門は初めてであります。
山門をくぐって。

花や木の多い境内で辺りを見回すと、手水舎が❤
そう、楽しみの一つでありました、観音さまのお手にお持ちになられた水瓶から注がれる水を受けての手水であります。
写真通り、であります。お美しいお姿であります。誰もいないことをいいことにしばし手水舎に居座る私に興醒めしている夫。いつもなら好きなところに先に行くくせに。あ、そうか。身を清めてお参りを済ませなければ。

No.216 20/10/06 04:25
旅人さん0 

続いてお参りさせていただくのは第十二番札所【野坂寺】さん。
実はここの手水、なんと畏れ多くも観音さまがお立ちになりお手にお持ちになった水瓶から絶えることなく溢れる水でお清めいただくという、なんともありがたい造りとなっているようで、そのお姿がまたなんとも神々しく美しくて、行きたいお寺さんの一つでありました。
もちろんプロが撮った写真であります。いつ撮影されたものか┉経年で写真とは趣の変わってしまっていることもあるかもしれません。
わくわくドキドキしながら向かうと、やはり狭い道、民家の建ち並ぶ細い道の先に山門が見えます。
見えますが┉なにやら人がワシャワシャと集まっています。ギリギリのソーシャルディスタンス。これは初の順番たがえの巡礼となる?

車が入っていってもまるで気づいてもいないかのようによけようともしないその集団、┉なにやら特殊な持ち物の方々が┉撮影?
「神社に行かれますか?」と声がかかりました。
「┉あ、お寺さんに┉」
「おーい、車が通るよ、どいて」
どうやらその民家、秩父巡礼からイメージされる民家ではなく、新しい洗練された現代のデザインの民家の二階のベランダが舞台となるコマを撮っている様子です。退くのはスタッフ。撮影は続行。
しかも台詞もあるドラマとか映画のシーンらしく、
『ごはんよー。早くいらっしゃい』
と叫んでいます。
はぁ、ごはんですか。そう言われると脳が反応しお腹が反応してしまう賎しい私なのでありますが┉。
ちなみにその撮影┉そのワンシーンは監督の納得が得られないらしく、何度も何度も『ごはんよー。早くいらっしゃい』と繰り返し、私どもが参拝中にもお寺の境内に響きわたり。
┉私どもが滞在していたのは四十分程度だったでしょうか、延々とその台詞のみが繰り返されており、「まだ食べられないんだね」と私たちがつい言葉に出してしまうほどでありました。
四十分も呼んでも来ないなんて、私だったらそんなに優雅に呼び続けられないな┉などと参拝中に雑念が混じることとなったこのワンシーンは一体どんなドラマもしくは映画に使われるのでしょう。

閑話休題であります。

No.215 20/10/04 11:39
旅人さん0 

再び秩父観音霊場珍道中に筆を戻させていただきます。
前回はじめての巡礼の帰路、走る道すがら大きな看板の見えたお寺さん、第十一番札所常楽寺さんへと向かいました。
駐車場へと入って行く道は少し入りづらく、車を停めたもののどこに向かえばよいかしばし戸惑う私たち。見つけた参道はなだらかな山道を真っ直ぐにのぼっていくシンプルなものでありました。さほどの距離も歩かず到着した境内は狭く、納経所があって、その隣に大きくはない御本堂がありました。元三大師さまを奉られておられたようです。あの独特なお姿の御札で有名な天台宗の高僧で、厄除け大師さま、であります。
御札も、御守りもみな、元三大師さまにまつわるものでありました。とはいえ他の、いわゆる厄除け大師さまを前面にしたお寺さんとは異なり、御護摩も一般に向けては毎日なされるものではないようです。

こちらはもともとは坂氷と呼ばれる場所で、行基がこの地に巡りついた際山中の岩に感得した十一面観音菩薩さまの像を刻んで祀ったのが草創と言われています。その、坂氷観音さまとして祀られ信仰をあつめていた観音様と、江戸時代当地に移転してきた常楽寺とが合併して今に至っているのだそうです。
その開山にあたられた上人が仁王門の建立のため勧進を進めていたが心身を病み普請も中断してしまっていたところ、夢枕にたった老僧が金剛神を従えて上人が、病を治してやろうとおっしゃったのだとか。その夢から覚めたのち病も治り、無事念願だった仁王門も建立することができたようです。
ですがその仁王門は今はなく。明治時代の大火ですぺてが燃え落ちてしまったようで、そこでいったん廃寺となり、再建するにあたり改宗し、天台宗のお寺であった常楽寺さんは明治時代から曹洞宗となったようです。
天台宗の頃のなごりとして今なお元三大師さまをお祀りし、その霊験あらたかなところは今なお変わらないようであります。


No.214 20/10/04 09:13
旅人さん0 

┉たしかに細い道に直角に入って行く道でありますが、大きく角度をつけて、しかもその対向車が現れるまで一台も車がなかったので、私も多少(?)遊んではみましたが、なにもそんなに騒ぐことはないのにと、さすがに駐車場に停めてもまだ怒りがおさまらず。
私、「ああいうところでごたごた言われるとかえって危ないから!」
夫、「だってあんなに大回りして、角度つけるから┉」
私、「角度つけたらしっかり曲がれるでしょ?あんな道でごたごた騒がれるとイライラしてかえって危ないから!」
夫「┉」

ちっ、一言ぐらい謝ったらどうよ。とか思っちゃう未熟者も、さすがにここが御仏のお足元でありますことを自覚して、自らの心を鎮めようといたしました。
ですが、ソーシャルディスタンスもとれず、まるで我が庭のように振る舞うご家族さま御一行さまにもイラッ!
落ちつけ、落ちつけ。

ソーシャルディスタンス、ではなく気持ちを落ち着かせるため、人の居なそうな端に向かう私。

おおっ!見事な鐘楼、見事な鐘であります。
衝いてはいけないとも衝いてくださいとも書かれていませんが┉普通に鐘楼に立ち入れます。
┉どうぞ私の心の苛立ちを鎮めてください。ごーん。
うーん、なんとよい鐘の音でありましょう。
御本堂前で参拝して、庫裏に向かうころにはすっかり平常心。
┉さすがお寺さんです。

庫裏で御朱印をお願いして、受付の方に「お待ちになる間、是非彼岸花をご覧になってください。ちょうど花の時期を迎えたところですので」と言われて、そんなに彼岸花の咲いてるとこなかったけど?と思いながらも外に出ました。
見ると人がみな、御本堂の横を通って何やら奥に向かっています。


おおっ!一面、というと大袈裟になるかもしれませんが、彼岸花が群生して一面紅くみえるではないですか!
なるほど。たしかにこれは彼岸花のお寺を名乗るにふさわしいお寺さんでありましょう。石仏さまが大好きな私とすれば、一体の石仏さまが顔半分まで彼岸花の群生する中にすっぽり埋もれてしまっているのがなんとも残念ではありましたが。

訪れた方々はスマホや本格的なカメラで、墓所に背を向けてパシャパシャとシャッターをきり続けておりました。うーん。(-_-;)
ま、人がいなければ亡き人たちも彼岸花を愛でておられるでしょうから、まあよしとしましょう。

No.213 20/10/04 07:35
旅人さん0 

秩父巡礼の珍道中録の途中ではありますが、夫がかねてから行きたいと申しておりました彼岸花で有名なお寺さん、群馬県邑楽町にあります【常楽寺】さんでまさにその花の見頃を迎えたようでしたので参拝をかねて行ってまいりました。
このくらいの距離で、初めての参拝とはいえ【東国花の寺】にもなっている大きなお寺さんですので、今回は私の運転で。ナビのついた夫の車でありますし、方角的にも何度となく行っている地域、まずは問題なかろうと┉思った矢先からクリーニング店に立ち寄ったりしたもので、ナビの示す道と正反対の方向に向かってしまいました。私の脳内でのイメージしていた道とはだいぶかけ離れていたようであります。

まあ、修正はいくらでも可能な、自宅近辺でのナビとの意見の食い違いでしたので、多少の遠回りをしたくらいであとはスムーズに目的地付近までまいりました。そう、運転技術を問われる山道とかでなければなんとかなるものです。


おおぉ?!
なんと細い道を入っていくのだ!夫が「ええっこんな道行くのォ!」と騒いだくらいであります。
私道とか農道とかのレベルであります。対向車が来たらどちらかがバックしてすれ違えるところまで戻らなければ無理な、完全に一車線、というか土の道。紅い彼岸花がきれいに並んで咲いております。
ま、行けるかな。
そう思いながらも「じゃあ、ここで停めるから運転代わって」とか言っちゃうあまのじゃくな私。すると「えっ?嘘でしょ、大丈夫でしょ?」
バックしてよい角度で入れるところに車を修正してなおも、
「ええっ、無理!ここで降りるから代わって!」
とか言っちゃう。( *´艸`)
ほどよい角度をつけて┉その道にいざ入ろうとすると夫があわてふためいて「えっ、無理でしょ、こんな角度で、そっち落ちちゃうんじゃない?なんでこんな?」(-_-#)ムッ!
私、「大丈夫だけど?」
夫、「ええっ、無理でしょ?はあぁ」イラッ(-_-#)

私、「はあぁ、もうダメじゃん!」
夫、「でしょ?どうするのこんなとこで!」
私、「はあぁっ?うるさい!対向車が来ちゃっただけだけど?」
夫、「えっ?」
私、「あ。譲ってくださった。この車、もうちゃんと曲がりきれて道走ってるからっ‼うるさいっ!」

┉この珍道中夫婦、この車の目的地は一体どこだというのでしょう。

No.212 20/10/03 05:44
旅人さん0 

その日購入したばかりの秩父巡礼の地図で、【第十番大慈寺】さんから【第十一番常楽寺】さんに向かう途中に、小さな御堂があることを知りました。【摩利支天】さまのお堂のようです。
もともとは巡礼といえば徒歩でのもの。道すがらに巡礼者を励まし癒すための小さな御堂や石仏さまがたくさんおられるようであります。

ところが、わざわざ遠回りをして細い道に入り、後続車もいないことからゆっくりゆっくり走行したにも関わらず御堂や御堂に行くであろう道はわからないままで、その道の出口になってしまいました。夫は再度トライする気にはなれなかったようで、「じゃあこのまま常楽寺さんに向かうよ」と。

なかなか摩利支天さまにお会いする機会がなかったため、顔には出さなかったのですが実は結構落胆していた私。とはいえ、そういうときは、ご縁のなかったことだったんだなあと自分に言い聞かせて前に進むようにしております。
摩利支天さまは〖常に日輪の前にありながらそのお姿は見えない〗という神さまであられるようでありますので、ああ、まさに見えなかったのだな、と。
己に隙のある瞬間を護ってくださるという摩利支天さまといつかご縁を結んでいただきたいと、思うことも、欲の一つであるのでしょうね。一つでも煩悩を捨てられるようにと歩く秩父での巡礼での道すがらですら、自らの中にあった欲望に気づくという、愚者でありました。

No.210 20/10/01 06:19
旅人さん0 

大慈寺さんの境内からは青空によく映えて武甲山がみえます。
空気も澄んで心地のよい境内。決して広い境内ではありませんが、秩父を舞台としたアニメで、ここ、このお寺さんを選ばれる理由がわかる気がいたしました。私どもが、ゆったりと境内で過ごすうちにも、参拝の方がひきりなく訪れておられました。
もちろん札所でありますので巡礼の方も訪れておられますが、通りかかった地元の方、毎日の日課とされておられる地元の方のほうか圧倒的に多いのであります。

本当にどこにでもあるお寺さん、といったたたずまいの大慈寺さん。建物自体は年代不詳とのことですが、江戸時代の建立であることは間違いないようであります。それを驕ることなく、あくまでも地元のお寺であることをコンセプトとされておられるのだと思います。

花がいろいろ植えられているわけでもなく、狭い境内でありますため木々も多いわけでもありません。石仏さまとかも普通よりも少なく、お世辞にもどこがみどころだなどというお寺さんではありません。
納経所の方も事務的な方が対応されておられ、説話などをお授けくださるようなところでもないようです。
ですが、このお寺さんの癒しの空気、居心地のよい境内は、御本堂におられる御仏のお力、であるのでしょうか。


No.209 20/10/01 05:14
旅人さん0 

世の中は【withコロナ】、【Go toトラベル】という言葉のもと、個々の価値観の大きな相違の中で、afterコロナの時代を歩みだしています。

実は私、前回のシルバーウイークとも呼ばれた四連休と一週間遅れのmy四連休がありました。ちょうど一週間遅れの週末から週の初めの、まさに今週。夫がそれに合わせて計画休をとり、秩父巡礼を計画いたしました。
運転技術は赤点ギリギリレベルの自覚を持つ私。突拍子のない行動をとることが多々あるくせに保守的でよくわからない性格の私。今回の秩父行きもどちらかというと及び腰でありました。
「行くよ」
そんな夫の言葉にどちらかというと重い腰を上げていざ秩父巡礼へ。

今回の秩父巡礼の札所は街中の、山道を走るようなコースではないため、┉そもそもが秩父へと向かう道自体が一般道。平坦にしてうねうねのカーブ等もない道であり、一応は免許歴三十年超え、毎日運転して通勤し、一応はゴールド免許の私でも運転できる、はずの道なため、何度か運転を申し出たのですが軽く却下されて、今回も安全策┉いやいや運転好きな夫の運転で全行程をまわることとなりました。


今回の秩父巡礼回りだしは第十番札所、【大慈寺】さんであります。大きな通りを少し入っただけのところにあるのですが、一転のどかな里の風景となり、里の初秋の風情を満喫しながら歩くこと三~五分くらいのところに、上へと向かう石段があらわれます。大きな、それはそれは穏やかな笑みを浮かべたお地蔵さまの座像がかたわらで見守っておられます。
石段を登ると仁王門がありました。ガラス越しでそのお姿はよくは見えないのでありますが。
門の前に立つとすぐに御本堂の正面となります。ひさしぶりの巡礼にやや緊張して、軒をお借りし御数珠と経本、納札とお線香を取り出しました。納札を納め、灯明をあげお線香をあげ、お賽銭をお入れして般若心経をお唱えしました。

納経と、御朱印をいただくために納経所にお邪魔すると┉。
納経所をカラフルに彩るイラストの絵馬をはじめとするグッズの数々!そうだ、ここは別の意味での聖地であり、巡礼地でありました。【心が叫びたかっているんだ】という、秩父を舞台としたアニメの舞台なのだそうです。

No.208 20/09/27 07:31
旅人さん0 

青蓮寺さんでいただいた小冊子。読み進めるとやはり未熟者で煩悩の塊の私には胸の痛むお話ばかり。
四十にして立つ、と言われる四十才どころか五十才という齢すらとうに過ぎている私だというのに、人として生きることの難しさをいまだ痛感する日々を過ごしておりますくらいです。
そこを戒めるようなお話があって、私が未熟者、愚者であるがゆえに渡された小冊子であったことを痛感いたします。


黒砂糖を煮ている愚者がいた。煮ている最中にお客が来たので、砂糖水を出すために急いで冷やそうとした。
愚者はグツグツと煮たっている黒砂糖を火も止めず懸命に上から扇であおいだ。それを見た客が、「下の火も消さずに上からあおいでも冷えるはずがなかろう」と言ったという小咄。
ああ、よくある話だと思ったのですが、そのあとに続く説法に
(ああ、私はこの愚者のようなんだな)と思った次第であります。それは
【煩悩の火を消さずに、少しばかりの修行しているのも似たようなものなのである】と続いていました。



修行ということすらしていない私でありますが、神さまや仏さまをいくら拝んで歩いても、自分の中にある煩悩を一つづつでも取り除く努力がなければ、まさに、この愚者そのものでありました。

煩悩をなくすのはなかなか難しいことではありますが、一つでも取り組む姿勢がなくしては、神仏に形だけ手を合わせているようであって、お願いしてばかりいる人間でしかありません。

どの煩悩も手強いのだけれど、日々の生活のなかで無心に頑張ることが一つでもあるよう努力して生きれば、それは滅私、ということになって、その日その間だけでも神仏の説く道、示す道に近しいもの、かもしれません。
昔話に出てくる、その日その日を一生懸命働いて神仏に感謝して生きるような生き方がしたいと思うのでありますが、それもまたなかなか難しい私なのであります。

No.207 20/09/26 02:46
旅人さん0 

知る人ぞ知る青蓮寺さん。
昨今の御朱印ブームを憂いてはいるものの、それを逆手にとって何種類もの御朱印をご用意されておられます。御朱印をお授けになるにあたって、御本堂へあがって御焼香をするようにとおっしゃいます。
「本来納経した証としてお受けする御朱印を、あたかもスタンプラリーのように集めることだけを目的にお寺をまわるのは間違っている。
うちでは御仏に手を合わせるという最低限のことだけはするものだということを覚えてもらいたいので御本堂へ上がってもらって御焼香をしてからお書きすることとしています。」
とおっしゃいます。
最近は写経をしたうえでお授けになるという御朱印があり、御本堂で写経するのもオッケー、ご自宅で何日かに分けて書くのもオッケーというもので、さらにはそれをインドに納経していただけ、後日インドから納経証明が届くという本格的なものであります。インドの日本寺を維持することも目的としているため、設定された金額は三千円と破格なものでありますが、もう何人もこの企画に賛同され納経をして特別な御朱印をお受けになっているのだとか。
┉私はその三千円納めて写経し納経しての御朱印をお受けになる方が多いのはご住職のお人柄によるものだと思っております。
ユーモアがあって、よくも悪くも人間くさいお方で、奥様との夫婦漫才のような掛け合いも楽しい、そんなご住職さまでありますので。
奥様もまた人を大切になさる、よくお話しくださる方で、庭で咲いた紫陽花を切って訪れた方にお渡しになるような方であります。
時々、ご住職がそんな奥様をいさめることがありますが、ある時
「でも私、奥様のお話もまた私にとって癒しです。」
と申し上げたことがありました。そのあと私にだけ小冊子をくださいましたのは、やっぱり奥様をほめられて嬉しかったということのでしょうか。

お庭には愛犬が寝そべり、御本堂や境内を自由に歩く猫たちがいて。
居心地のよい、ことあると行きたくなるお寺さんであります、群馬県桐生市の青蓮寺さんであります。



No.206 20/09/25 04:34
旅人さん0 

青蓮寺さんの駐車場。普段はそれなりに広く感じていたのですが、そもそもがお彼岸のお中日、私が到着したときにはすでに満車でありました。
区画外でありながらワンボックスも充分置けそうなすき間のスペースに置いて待機しようと車を寄せていると、「俺が出るからここに置けばいい」と声を掛けてくださる方がおられました。
「ありがとうございます」
と、その方のお顔を見ると、!
「あっ!」
まさに昨日、子どもたちの小さな頃のアルバムを見ていて、(懐かしいな、今どうされておられるかな)と思った、幼稚園、小学校でお世話になった用務員さんでありました。
二十年も前のご縁でありますのに用務員さんでありましたその方も私を覚えていて下さって、二人同時に
「あっ!」

御仏のお導きと言わずしてなんと言うのでありましょう。
聞けばその方もこちらの檀家さんではないそうで、義理堅いこの方はお知り合いの方のお墓がこちらであるからと墓参に来られたようでした。
「ここがお寺さんじゃないんだろ?ここのご住職はいい人だからなぁ」
ああ、ここにもご住職のお人柄にひかれる方がおられました。


しばらくお話しさせていただいて。


御本堂に向かう道すがら青い蓮が咲いていました。
そう、こちらのお寺さん、その名でもある青い蓮がところどころに育てられていて、まさにこのお彼岸の頃が花の時期であるのです。

御本堂では、子供たちが嬉しそうに御前立ちの御本尊さまの前でじゃれあっています。他の所なら眉をしかめるような場面ですが、ここのお寺さんでは微笑ましくしか思わないのであります。
子供好きなご住職ご夫妻と御仏の空間だからでありましょう。
そうそう、そんな子供たちのために何種類もの絵本を用意して、お参りに御本堂に寄った子供たちに選ばせていました。その本をどの子供も嬉しそうに手に持ち、ある子は御本堂を後にし、ある子はそのまま御本堂の片隅でお父さんお母さんとみんなでさっそく絵本を見ていたり。
なんといいお寺さんでありましょう。

座卓も常備されていて、そこでご住職さまが御朱印を書きながら、あるいはお茶をおすすめくださって、会話しながら講話をしてくださったりしています。

欄間彫刻も見事な御本堂なのですが、なんとも居心地のよいフレンドリーな空間となっています。

No.205 20/09/23 00:59
旅人さん0 

今日、お彼岸のお中日は、群馬県桐生市の【青蓮寺】さんの年に一回の御開帳日であります。
今年で三回目の御開帳日の参拝となりました。青蓮寺さんの御本尊さまは【銅造阿弥陀如来及両脇侍立像】という長い御名前があります。国の重要文化財指定を受けるにあたり呼び名が必要であったのかもしれません。

【阿弥陀如来】さまを中心とされてはおりますが、脇侍であります【観音菩薩】さま、【勢至菩薩】さまとあわせて三尊仏が御本尊であるのだと思います。こちらの三尊像は善光寺三尊仏と言われるものであります。善光寺信仰という言葉があるくらい善光寺というお寺さんは特別なものでありますようで、その善光寺の御本尊さまに似せた三尊像が日本各地で多数造られた時期があったようで。

こちらの三尊仏さまは源頼義公の守り本尊であったようで、その後八幡太郎義家の三男の守り本尊となり、新田義重の守り本尊となってその後は代々新田氏の守り本尊でありました。
その新田氏のゆかりの寺が群馬県太田市の岩松郷にあります岩松青蓮寺であります。岩松青蓮寺は新田家ゆかりの寺であると同時に、寺そのものが新田の正統をしめすものであったようです。

その岩松青蓮寺は今なお太田市尾島町にあるのでありますが、その守り本尊が桐生市に遷されている理由は天正十五(1575)年に、当時太田を治めていた由良成繁公が桐生氏を滅ぼし桐生城に移った際に、すでに衰退していた新田氏、足利氏にかわり、自分こそが源氏の新田の正統であるのだと誇示するために、その守り本尊を桐生市に遷し、青蓮寺という名の寺を持つ必要があったようです。


おやさしいお顔をなされた三尊仏さまはその後、由良氏が牛久へと国替えになって桐生市に置き去りにされることとなります。群馬県から離れた由良氏には一族の象徴であった寺も守り本尊も意味をなさなくなったようです。
そんな歴史に翻弄されているかのように思われる三尊仏さまは終の住みかとなって久しい桐生市の青蓮寺さんでお祀りされ、一年に一度御開帳のおりにその慈悲に満ちたお顔を拝することができるのであります。(檀家の方いわく、一年に五時間、だそうです)

No.204 20/09/22 12:41
旅人さん0 

煩悩の塊の私。

私の目の前に一枚、床に置いた私のバッグの真横に二枚の散華がひらひらと舞って落ちました。その散華三枚の誘惑に打ち克つのにすら、未熟な私にはしばしの時間が必要でありました。その位置に落ちた散華をわざわざ拾おうとする方などめったにおられないはずです。仮にそこまで踏み込んで散華を拾おうとする方がおられたとしても、これはあくまでも施しであります。もっと突き詰めて言ってしまえば”紙„であります。
日曜学校のしまいに天使の絵などが描かれた小さなカードがいただけたのですが、机の引き出しに大切に持っていたもののいつのまにやら無くなってしまっていました。
散華は御守りになるとお聞きしたことがあります。
うーん。欲張らない、欲張らない!
散華三枚は私のものとなりました。

それでも┉夫の目の前に落ちた散華は、綺麗にお化粧しおしゃれした女の人がささっとやって来てスッと持って、後ろも見ずに速足で本堂から逃げるように去っていきました。(゜〇゜;)
いやいやわが家は三枚あるから。


二年ほどまえに群馬県太田市のお寺さんでいただきました散華は、今も不思議と綺麗なままでお財布に入っています。
この散華はどのように携えたものか┉。

とりあえずいつものバッグの内ポケットに入れて持ち帰りました。


浅ましい行為をすると餓鬼道に落ちる。
うーん、┉私はもっと下かもしれない。



No.203 20/09/21 05:19
旅人さん0 

再び御住職が内陣に戻り読経され、そのあと一人の和尚さまが読経を始めました。それに続いて残りの三人も┉もしかしたら内陣の御住職も。
そして御焼香の香炉を、二人の和尚さまがそれぞれご自分の後ろに参列している人の一人に手渡しました。読経を聞きながらはしから順に御焼香をいたします。御本堂に入れなかった方々にも香炉を回して。
香炉二つがが再び香炉台に戻り、先導の和尚さまが「南無阿弥陀仏」、とお唱え始めました。
(┉唱和しないのか)と思った私はこの期に及んでも雑念だらけなんだなぁと反省していると、しばらくして
「これより南無阿弥陀仏と十回お唱えします。合掌しご一緒にお唱えください」と。
雑念だらけの私が(やっぱりそうか)と思った瞬間、和尚さま四人がなんと、ご一緒に声を合わせることなく、南無阿弥陀仏を唱え出します。(o゚Д゚ノ)ノ
私はとりあえず先導の和尚さまと唱和させていただきましたがみなさんそれぞれに南無阿弥陀仏をお唱えになられているようです。
うーん。

そしてさらにひとしきりの読経のあと、四人の和尚さまの退場となりました。

残られた御住職さまが講話をくださいました。
「そこに画が飾られていますが、真ん中におられるのが閻魔さまになります。」
「閻魔さまの御前で死んだのち裁きを受けているわけですが、そのあと六道とよばれる道にそれぞれが進むことになるのですが、ここにも描かれているように天国に行ける方もあります。と言っても、仏教には天国というのは存在しないのですね。┉仏教では天道、天上界となるわけです。
そのうちの一つ、【餓鬼道】に落ちると食べ物を見ても石や砂に見えて、食べ物が目の前にあるのに食べることができなかったり。あるいは食べ物を手にしたとたん石に変わってしまったり、食べ物が燃え上がりして食べることができなかったりと、まあいろいろな理由で食べ物を食べられずにいるのが【餓鬼】です。」
「普段物を食べることができず過ごしている餓鬼たちに、それから縁がなくて普段身内の方の供養が受けられない方に、お経を唱え供養するのが【施餓鬼】です。」
「みなさんのご先祖さまへの法要と併せて御盆やお彼岸に施餓鬼会を執り行うことでみなさんの功徳も得られるといったものであります」

御住職さまはそう話され退場していかれました。

No.202 20/09/20 11:17
旅人さん0 

私が密かに地獄図の恐怖におののいているあいだ、夫はのほほんと壁に書かれたお布施をおさめた方の芳名を見ていたようで、いくつかのお寺さんの名前があったのをスマホで検索していたようです。
「どこどこ寺さんはついこの間行ったお寺さんだね」

そんな声で地獄の恐ろしい画図の世界から日常に引き戻してもらい、夫のいうことに耳をかたむけました。
えっ?
「だから、ついこの間行ったお寺さん!」
┉いやいや、耳が遠くなったわけでも、ついこの間行ったお寺さんがわからなくなっているわけでもなくて、自らの死後の裁きに思いを馳せ身をこおらせていただけなんでありますが。
はいはい、この間行ったお寺さん。なるほど同じ宗派のお寺さんです。四つのお寺さんの芳名があり、二つは参拝させていただいているお寺さんでありました。

そんな会話をしているうちに鈴の?鐘の音が りん りん と近づいてまいりました。和尚さまたちの御入場です。
鐘を鳴らしながらの和尚さまを先頭に、最後はこちらのお寺の御住職さまがおごそかに入場されました。いつもとは異なり正装をされて、少し┉かなり太られて見えるような┉。うーん、和尚さま、少しダイエットされないと┉などと雑念でお迎えしたわが身をさっそく反省しつつ。

施餓鬼会の始まりであります。

聞き慣れない御経の読経、如来さま、菩薩さまの御名前が時々。
少し長めの御経のあと、御住職が立ち上がり精霊棚の前に移動されました。
四人の僧もそれに合わせて立ち上がり、散華の入った盆を手に持ち、扇を着物の襟の袷に差し込みました。読経の合間に散華をされ、様々な方向へ散華されることなどわかっていることなのに、ついついその散華の行方を目で追ってしまう煩悩だらけの私。
反省せよ、反省せよと読経と散華のあいだ自らを戒めていて、少しも法要、供養の意味を成しませんでした。

御本堂いっぱいに散らばった散華など和尚さまたちは目にも入らぬようにさらに法要は続きます。

No.201 20/09/20 07:39
旅人さん0 

施餓鬼会が執り行われる御本堂はいつもと異なり、たくさんの椅子が並べられており、さらには内陣の御本尊さまに相対するところに、お盆の時のように棚が設けられていて三界とか水子とか書かれた御位牌が三つお祀りされています。
そして内陣とその棚の間に四つ、仏壇の前に置かれるような几があり、それぞれに御経やら散華の紙が入った盆やら、鐘やらが置かれ、場所によってはシンバルのような仏具や、太くて短く太さが一定しない、ちょうど手に持つ長さの縄のような物が盆に置かれて側に置かれている几があったり。
さらにはそこから少し離れた席に木魚が側に置かれた几も設けられていて、最低でも六人の僧が執り行う法要であるように思われます。

何より目を引くのが大きな仏画の掛軸が掲げられていることでありました。┉涅槃図?ゆるゆると歩を進めてそこに描かれた絵を見ますと、( ̄□ ̄;)!!?
十王図の閻魔さまの裁きの様子の描かれた画でありました。

自分の生きてきた生きざまに自信がない私は結構な衝撃を受けました。お彼岸のこのときに地獄画ですか┉。
あ、施餓鬼会!
そ、そう、そうですか。死後の裁きであります十王さまの裁きでその者の進む道、六道に別けられてそれぞれ天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道に進む┉ということでいい?のでしょうか。
その餓鬼道に落ちた御霊に向けての法要であるからこの画が掲げられているということなのでしょうか。

そうだ、お彼岸はご先祖さまに感謝し供養するとともに、自分自身の生き方を見つめなおすときと書かれたものを読んだことがありました。うーん、のほほんとお墓参りをして過ごしていたいままでのほんわかとしたお彼岸が一気に身の引き締まるものとなりました瞬間でありました。
しかも座席はまさにその閻魔さまの画の真横。吸いつけられるようにその画をながめておりました。

奪衣婆が着物を剥ぐ様子。
血の池に腰まで浸かり泣きながら歩く亡者。
閻魔さまの御前で裁きを受けている者はスクリーンのような物の前で後ろ手で縛られ髪を引っ張られそのスクリーンに映されるものを見せられています。
火のついた車、舌を抜かれる者、針の山。

うーん。地獄とはどういうところかを脅して楽しむような叔父がおりましたが、まさに叔父から聞かされていた地獄そのものの画であります。

No.200 20/09/19 22:12
旅人さん0 

今日、秋のお彼岸入りの日。生まれて初めて【施餓鬼会】に参列いたしました。
施餓鬼会という法要があることは、お寺さんを参拝させていただいている上で時おり目にすることがあり、その存在自体は存じておりましたものの、あくまでもそれだけで。旦那寺をもたないものでありますからどうしてもお寺さんの法要に縁がありません。
今回その機会を得ましたのは、お寺さんの御住職さまのご厚意によるものでありました。


そもそも施餓鬼とは?餓鬼ということは餓鬼道という地獄に落ちた者に対して施しを与えるということ、でありましょうか。

ここでGoogle先生の登場となるのですが、私はまだまだ相も変わらず仏教でも初心者であることを思い知ります。餓鬼道は地獄ではない!( ̄□ ̄;)!!?
仏教には六道と呼ばれる世界があり、その中の一つに餓鬼道があり、地獄道は別にあるのであります。ああ、そういえばお地蔵さまが六地蔵であられる理由こそが六道に則っていることを、私、以前調べていました。
困った脳みそであります((´д`、)


生前の自らの悪行により餓鬼道へ落ちると、餓鬼という鬼になってしまうと考えられています。餓鬼になった者は常に飢えや喉の渇きに苦しんでいると考えられており、そういった餓鬼にも食べ物などの施しを与えることを施餓鬼と言うそうです。

生前の悪行などにより餓鬼となった霊魂や、無縁仏など供養されない死者に施しを行う法会を施餓鬼会、または施餓鬼と言います。また、 施しを与える者・受ける者の間に貴賤の区別があってはならないという考えから、施食会(せじきえ)と呼ばれることもあるようです。

そこで愚かな私が気になったのが餓鬼道に落ちる罪とはどんなものなのか、ということ。


【餓鬼道】に堕ちるかについては、具体的なことが色々と説かれていました。

例えば、貪欲にお金を集めると、顔や目がなく、手足が短くて胴体が大きく、胴体の中が火で焼けている餓鬼になり。訪問販売の人から商品をだましとると、植物が生えず、砂しかない海の中州に生まれ、暑い日差しに照らされ、食べるものも飲むものもなく、わずかの朝露で命をつなぐ餓鬼になるのだそうです。

生前、布施の精神が乏しく、ケチで、他人のものを盗んだり、お金や食べ物を自分だけ楽しもうとする欲の心によって、餓鬼に生まれるのだと説かれていました。





No.199 20/09/14 18:54
旅人さん0 

土曜日、時々行く本屋さんの平台に、なんとも魅惑的なタイトルの雑誌がありました。【趣味どきっ 仏像の世界】❤
当然のことながら、さっそく手に取りいとおしそうに胸に抱き、いそいそとレジに向かいました。

これはNHKのEテレのテキストで。そう、雑誌で楽しめ、テレビでも楽しめる二度おいしいものであります。
一回目は惜しいことにすでに放送終了。ですが今日の午前中にな、なんと再放送がある! やったぁ❤


正座して、テレビに向かう私。ん? ん?
なんだかたどたどしい女性が┉。しかもなんだかアイドルがどうのとかいうタイトルで┉。
間違えたかなぁ?
いやいや、ちゃんと新薬師寺に向かうといいます。

ほほ、ほぅ。雑誌には小さく小さく書かれていて私には目に入らなかったけれど、アイドルと巡るって書いてありました。最近のEテレは本当にかつてのNHK教育テレビとは百八十度異なるものでありますが、こうきましたか。
でも、仏教初心者、仏像初心者にはちょうどいいかもしれません。



でも┉こんなにも小さく記載する?(・・;)



No.198 20/09/14 13:36
旅人さん0 

群馬県みどり市の善雄寺さん、前回の初めての参拝が道に迷って偶然たどり着いたということもあり、道には全く自信がありませんでした。
なんとかたどり着いたものの、どなたもおられず。
本当は御住職からお話などをお聞きできたらという思いもあり、こちらのお寺さんとのなんらかのご縁を形としてお受けしたかった思いもあり。少しがっかりしたものの、窖(あな)薬師如来さまに参拝することこそが目的であったと窖薬師堂に向かいました。

えっ⁉

壊れかけた脳ではありますが、わずか一ヶ月しか経っておらず、前回はお寺に御住職の奥さまがご在宅であったにもかかわらず、たしかに閉ざされていたはずの窖薬師堂の戸が開いているではありませんか!

それでも壊れかけの脳みそには哀しいくらいに自覚があり、脳内の記憶をぐるぐるとたどってみました。やはりあのときには閉ざされていたはずです。(┉まあ、ここにたどり着くのに苦労したくらいの脳みそではありますが 笑)
見覚えのない堂内の様子。畳二畳敷かれたくらいのお堂のなかに、そこには少し大きいくらいの木魚が置かれています。やはり前回には開いていなかったと確信いたしました。

そして┉初めてお目にかかることとなった石造の薬師如来さまの御像。優しい、柔和な笑みを浮かべたお顔であります。
お薬師さまは百三十センチくらいの身丈でありましょうか。質素な二段の祭壇に蝋燭立てが二本と、神社さんや神棚などに奉られる鏡が置かれただけの飾り気の一切ない祭壇であります。
ですが。
その質素で飾り気のない祭壇の、まさにその下こそが、薬師仏になるためにと入定された堯慶上人の御廟所であります。


お会いできた┉。
小雨降るなか、参拝に訪れてよかった。


Withコロナ。
全ての人がそれぞれに、生きてきた経験のなか、そして身につけた考え方のもとにそのあり方を模索しています。
疫病の流行るなか、生きたまま仏となり人々のためになりたいと思われて、その苦行を選ばれた堯慶和尚さま。
暗闇を歩く私に道をお照らしください。


No.197 20/09/12 21:05
旅人さん0 

最近、生き方とか、死にざまとかをふと考えることがあります。そんな年ごろを迎えたということもありますが、やはりこのコロナという病気がこの現代社会を蔓延することとなったことが大きく影響をしているように思います。
そして、そんなことを考えるとき、あるひとりの方が胸によぎることが増えていることに気づきました。
群馬県みどり市にある【善雄寺】さんの【第二十二世堯慶和尚】さまであります。

堯慶和尚さまは文化十一年(1814)、生きながら入定して薬師仏となり人々の病気やけがれを救うという悲願をたてて、善雄寺の境内に穴を掘り入定されたというお方であります。
そもそもがこちらのお寺さんのことは何一つ存じ上げず、たまたま道にまよって、【窖薬師】という立看板にみちびかれてこちらに立ち寄ったというご縁でありました。
もともとが地域の方のためにさまざまな働きをされた方でだからこそ檀家の方でなくとも和尚を尊敬し慕っていたようでありますが、八十歳の年を迎えたとき、「私もお釈迦様のご入滅の年まで生かされ
たことは何ともありがたいことよ。この仏恩に報いるために日頃信ずる薬師如来の化身となり、病気厄難に苦しむ人たちを救い申そう」と
大誓願をたて、入定されたという方であられます。

生きたまま、暗い土中に身を置くということ。
想像するだけで私には到底我慢できることではありません。

暗闇の恐怖。病でもなく自らの意思で死を目指しての時を過ごすこと。空腹、喉の乾き。そして訪れるであろう息苦しさ。
ただただ閉鎖空間の暗闇で鉦を鳴らすだけの孤独過ぎる時間。
しかもそれはそういう形で薬師仏になるという高い志に基づくもの。

一言で、自殺、といえばそうなのかもしれません。今は入定という行為が禁止されているのは言うまでもありません。
和尚の生き方は『死と向き合う』ということではまさに究極のかたちであります。生きざまであり、死にざまである。


そんな和尚から学ぶこと。
もちろん大きすぎて、偉大すぎて、そこを目指すことなどは到底できることではないものではあります。
与えられた命をもっとありがたく思って活きること。人のために、ひいては自分を高めるために日々努力すること。



今日、そんな善雄寺さんの【窖薬師】さまにお参りして参りました。


No.196 20/09/10 10:04
旅人さん0 

人が亡くなられたのち、百日経った日を、【百ヶ日(ひゃっかにち)】といいますが、【出苦忌(しゅっくき)】・【卒哭忌(そつこくき)】とも呼ぶのだそうです。

故人が新仏となって(忌明け後)初めての法要となります。
百日経ったといえ悲しみは無くなりませんが、「卒哭忌(そっこくき)」ともいい、「卒」は卒業、「哭」は声をあげて泣きさけぶ、つまり「悲しんで泣くのを卒業する」という意味を持つと、かつて舅の百ヶ日法要でお寺の御住職がお話しくださいました。

本来は四十九日と同じくらいの規模で法要を行うべきようですが、最近では親族や親しい友人のみでおこなうことが多くなっており、あるいはそれも略されることが増えているのだとか。
「偲ぶ会」や「おわかれ会」は百ヶ日(ひゃっかにち)に合わせて行われることが多いです。
中陰法要と年忌法要を結ぶ法要となるのだそうです。


【十王信仰】のの審判のうちの八つ目の審判にあたります。八つめの審判をする裁判官は【平等王(びょうどうおう)】で、その本地は【観音菩薩】です。
【十王信仰】は中国で生まれた信仰であり、亡者が【初七日】〜【七七日(四十九日)】と【百ヶ日】を含めた八つの忌日と、【一周忌】、「三回忌」の二つの年忌の、合計十回の時点で、冥界の十人の王に審判を受けるという信仰です。


また、土葬をしていた時代、死後百日目あたりで白骨化することから、百日目に死者の魂が肉体をはなれると信じられていたという説があるようです。


まもなく御彼岸。そして御彼岸が終わると母の百ヶ日を迎えます。施主から初彼岸も百ヶ日法要もなんら連絡がないので、おそらくは墓石が用意されて納骨となった時点で法要を営む心積もりなのでありましょう。
墓所のない御彼岸はなんとも勝手が異なり、今から戸惑っている仏事の初心者でありました。

No.195 20/09/09 07:32
旅人さん0 

あまり通ることはないのだけれど、その道を通る場所を説明する時に必ず目印とする神社さんがあり、車でその鳥居の正面に向かって奏功すると威風堂々とした雰囲気に身の引き締まる思いのする神社さんであります。
その神社さんの手水舎は大変立派なものでさらにはそこにおさめられた手水鉢もまた大変大きく立派なものであります。
最近、その神社さんの関係者の方からこの手水舎にまつわる伝説をお聞きする機会をえました。

かつて下新田村というところがあり、そこに代々伝わる森田という家があって、その五代目の好春さんという方が寄進されたと言われているのだそうです。
その好春さんご夫婦がある時、夫婦そろって三晩にわたって同じ夢を見たのだといいます。白馬に乗ったお地蔵さまが
「お屋敷の庭に埋まっている石をいただきたい」とおっしゃったというもので、不思議に思った好春さんは庭を探してみると地中からわずかに頭を出している石がありました。掘り出すとなんと、畳八畳ほどの石であったのだそうで、その石を石工に頼み手水鉢とし、森田家が信心しているその神社さんに献上したのだといいます。

そんないわれのあることも特に掲示もされていない、普段は静かな神社さんであります。

No.194 20/09/03 12:37
旅人さん0 

夫はその後、神社仏閣を訪れた際には青面金剛さまの石仏がないかと以前より石仏を見て歩いている様子で。青面金剛さまの石仏が汚れていればそれをはらっては手を合わせています。


身体は青く、目は赤くて三眼、怒りの形相の青面金剛さま。
もともとは鬼病を流行させる鬼神であられたようです。

全身青色で、目は赤く三眼、頭髪は火のようにさかだち、身には蛇をまとい、足下には鬼を踏みつけ怒りの形相をとられていらっしゃいます。
日本では道教の説と結びついて、庚申会(こうしんえ)の本尊としてまつられるようになったようです。
伝尸病鬼ともいうようです。人の身体のなかに棲んでいて、その者の犯した罪を神さまに報告するという三尸の虫の働きを封じてくれるということから転じて悪疫奇病を治してくださる神さまとなられます。

庚申信仰は江戸時代には猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を本尊とする神道式庚申信仰、修験道での庚申信仰と、三通りの庚申信仰が行われていたようです。青面金剛(しようめんこんごう)童子を庚申の本尊とする考えが定着した明治の廃仏毀釈で衰えたが、それでも第二次大戦までは各地でさかんに信仰されていたようです。


庚申という文字が彫られただけの石碑が大多数でありますが、そのそばに青面金剛さまがおられたり。青面金剛さまだけがおられることもあります。 
先日訪れた館林市では道ばたに大きな石仏さまを見かけ、そばにはお堂があります。お堂にお参りに向かうと、背の丈百三十センチほどの大きな青面金剛さまでありました。薬師堂をお護りになるかのようにお立ちになられており、薬師如来さまと青面金剛さま、コロナウイルス感染症の終息になんとも心強いお堂でありました。

No.193 20/09/03 08:33
旅人さん0 

夫と二人三脚の┉いやいや、夫にまさに背負われるかのごとき神社仏閣珍道中。普段は一日の会話が原稿用紙一枚を埋めるのも難しいのではないかというくらいほとんど会話がない夫婦で、夫は食事が終わるとそそくさと自室に戻っていくようなそんな二人であります。
だから二人が共に神社仏閣を巡ることに喜びを感じるような道を歩み出すことになったことはまさに奇跡のように感じ、それこそ神仏のお導きであったのではないかと思えるくらいであります。

そんな夫。半年くらい前だったか、ある時急に、
「あのさぁ、お不動さまのように怒ったようなお顔をされていて、手が何本かあって剣とか持っていらっしゃる仏さま┉なのかなぁ、時々見かけることがあるんだけど、どなただかわかるかなぁ」と聞いてまいりました。
いやいや私とて神仏に詳しいわけではなく、それこそお不動さまとお地蔵さまのように特徴のある仏さまがわかる程度で、『どなたなんだろう』と思って、家に帰ってから調べてみてもわからないことがあるくらいです。
それでも普段の恩に少しでも報いることができればとない頭をしぼり、
「もしかしたらでしかないんだけど、青面金剛さまかもしれないけど?あの鎌倉の五所神社さんにたくさんおられた、三猿が足下にいたりいなかったりした石仏さまのことじゃなくて?」
「え?五所神社に?覚えがないなぁ。たまに道ばたとかにおられてすごく気になってるんだけどわからなくて。写真でも撮ればよかったんだけど」
┉そうだなあ、五所神社さんに参拝させていただいたあと、あちらにたくさんおられた石仏さまがどなたであるかを一生懸命調べては熱く語ったし。だとしたら青面金剛さまではないか。
そうは思ったものの念のため夫にその時撮らせていただいた五所神社さんの青面金剛さまの写真を見せたところ、
「そう、こちらの仏さまだよ。ええっ?五所神社におられた?」

そのあと、ひと(私)の話をまるで聞いていなかったという恨み言を一通り述べ、(┉そんな余分なことを述べなくなれれば少しは修行したことになるのだろうに)その時調べた青面金剛さまについて再び夫に語ったのでありました。


そんな青面金剛さまのお話をさせていただきます。

No.192 20/08/30 17:09
旅人さん0 

群馬県邑楽郡邑楽町の【高源寺】さんに行ってまいりました。
茂林寺十五世和尚により開かれたお寺さんであります。高源寺さんの東方五kmほどの離れた館林市に茂林寺があり、今も茂林寺さんの末寺であります。地名もずばり狸塚!
そして、ここ高源寺さんにも「分福茶釜」に纏わる話が伝わっており、ここにも【守鶴和尚】が登場いたします。


ここ高源寺では、お葬式ができると寺への通知役が和尚に知らせに来ることになっていました。
ある日の昼下がりのこと。村人が葬式の知らせに寺に来たときのことであります。村人がお寺のなかを見ると守鶴和尚は縁側で気持ちよく昼寝をしておりました。しかしよく見ると、なんと衣から毛だらけの手足と尾っぽが出ています。その姿はまるでタヌキそのものでありました。
驚いた村人は飛んで帰って村の人たちに告げたことから村は大騒ぎとなりました。そして、村人たちが寺に赴くと、正体を見破られた守鶴和尚は慌ててそばにあった茶釜を抱えて東の方へ逃げたと云います。その時慌てた守鶴は茶釜の蓋を落としていったのです。このため高源寺にはその蓋があるはずだとのお話です。
しかし、ここでも蓋は見つかりません。


高源寺は茂林寺の末寺、守鶴和尚が茂林寺を去ってからかなり経ってからの開山でありますが、茂林寺の十五世和尚の開山で、守鶴和尚と名乗る和尚がここの住職を務めれば茂林寺さんか高源寺さんに何らかの記録が残りそうなものでありますが┉。その真偽のほどはわかりません。

その昔、ここ高源寺さんのある場所は松や杉の大木の生い茂る鬱蒼とした場所であり、狸等の小動物の生息には最適の場所であったといいます。そして地名も狸塚(むじなつか)ともなれば、このような伝説が生まれても不思議ではないかもしれません。

山門前には檀家さんから寄進された大きな狸の像が二体鎮座しております。向かって右は雄、左は雌の狸のカップルが山門を護っています。

広々とした明るい境内、今はもう狸は来ないのでしょうか。さすがに初対面の御住職さまにそんな無駄口はきけませんでした。

No.191 20/08/29 03:12
旅人さん0 

群馬県吾妻郡東吾妻町というところの中学校の裏山の、現在は畑となっているところに昔、【青滝寺】という寺があったといいます。

その青滝寺が一時、無住となって檀家の人々が困っていた頃、ある日托鉢僧がそこにやって来て寺の周りを掃除したり、壊れたところを修繕したりとし、そのまま寺に住み着いてしまいます。
真面目なお坊さんに村人は好感をもち、四角い顔のお坊さんだったので『四角和尚』と呼ぶようになっていたのだとか。
この和尚さんが茶釜で茶をたてて飲むのが大好きだったといいますす。

ところが。
真面目だったのは最初のうちだけで、だんだんと怠け出したこの和尚さん、お経を読みながら寝てしまったり、いびきをかきながら返事をしたり。やがては村の若い者を集めては鉦や太鼓を叩いて毎晩のように大騒ぎするようになってしまったのだといいます。村の役人や年寄りたちはそんな和尚に「このままでは村がダメになってしまう」と、村を出ていってもらうことにします。
すると和尚は茶釜をもらうことを条件に寺を出ると言い出します。もともと寺にあった物を持ち出されては困るという村人と押し問答となり、和尚は茶釜を抱えて飛び出してしまいます。
四角和尚と呼ばれた托鉢僧は、なんとか茶釜を持ち出したもののその際茶釜の蓋を落としていったのだといいます。

四角和尚と守鶴和尚、響きが大変似ていること。そして茶釜を携えていること。そんなことから二人はもしや同一人物だったのではないかという説があるのだといいます。
それならばその青滝寺にあったという茶釜の蓋を合わせてみればよいことなのですが、青滝寺のあった周辺は、その昔、度々水害に見舞われており、青滝寺自体がなくなるきっかけも裏山が崩れ寺が流されてしまったことにあったようで。


茂林寺さんにある茶釜の蓋が本当に合わせ物なのかすらわからないことでありますし、なんともこじつけに近いものではありますが、あまりにも長寿だった守鶴和尚さんには伝説はつきものな気はいたします。怠け者であった四角い顔の四角和尚と呼ばれた托鉢僧と百六十年もの長きにわたり茂林寺に支えた守鶴和尚の人物像に隔たりもあり、今となっては誰にもわからない昔々のひとつの言い伝えであります。



No.190 20/08/28 03:24
旅人さん0 

そんな161年も生きて┉というより、少なくとも161年も茂林寺にいた守鶴和尚。後世、守鶴和尚は狸の化身だったのでは、ということとなり、ついにはあの、たぶん全国区の昔話となっていったということのようであります。

そもそもの茂林寺と守鶴和尚との出会いは、開山の和尚さまが榛名山のふもとの伊香保あたりで出会ったということに端を発しています。
そんな守鶴和尚、実は群馬県内各地で『守鶴』という和尚がいたというお寺さんがいくつもあるようです。で、そんななか、茶釜と関連した和尚の伝説があり、もしかしたらこの和尚も守鶴和尚であり、ここで登場する茶釜こそが分福茶釜であったのでは?という説があり、ぜひこれはここに掲げておきたいと思ったのであります。

そして、また茂林寺さんに行きたい気持ちがうずうず、沸々。まるで茶釜のなかのお湯のように沸き立っているのであります。

No.189 20/08/27 01:47
旅人さん0 

分福茶釜という昔話をご存じでしょうか。この舞台となるお寺は群馬県館林市に現存する【茂林寺】というお寺であります。何度かこちらの珍道中シリーズのスレに書かせていただいていますが、今回は茂林寺さんからは少し離れ、分福茶釜の昔話からさらにさかのぼった昔の民話、伝説について書かせていただきます。

茂林寺さんは、お寺の山門前にあの信楽焼の狸の像が何体も並ぶ、一見変わったお寺のように感じてしまうところがあるのですが、実際には茅葺き屋根の落ちついたお寺さん。
┉と思いきや!
御本堂のなかに宝物殿と称したところがあり、その一角に昔懐かしいものの展示されたコーナーがあるというやっぱり少し変わったお寺さんでありました。
とはいえその宝物殿、やはり宝物があるから宝物殿なのであって、その中の一つこそが、狸の分福が茶釜になって、そのまま永遠に茶釜になった、あの茶釜がここに安置されているのです。どこから見てももう狸だった頃の面影はなく、それがまた哀れを誘うのであります。が、蓋がどうにも本体とあっていないような┉。

その、一見にして、誰がどう見ても合わせ物の『蓋』の、蓋にまつわる伝説です。

と、その前に、分福茶釜の昔話はご存じかと問うたものの、そのへんは割愛させていただいて。
実際に茂林寺さんに語り継がれる分福茶釜の伝説はその昔話とはだいぶ異なっております。

室町時代に茂林寺を開山した和尚さまが榛名山のふもと伊香保のあたりを一人旅していた折、小脇に茶釜を抱えたお坊さんと出会い、寺に連れ帰ります。
そのお坊さんは守鶴と名のり、その後長く茂林寺に仕えることとなります。その長さが尋常ではなく、1426年に茂林寺に来て1587年に茂林寺から突然姿を消すまでの間ですら161年!電卓を使って確認したのでその数字には間違いないかと思うのですが尋常ではない長生きなお坊さんであります。
開山の和尚から十世和尚の代まで茂林寺に支えたとされています。
その守鶴和尚こそが分福茶釜と関係のある人物で、七世の和尚の代に茂林寺で千人法会という大きな催しをした際に、千人分の茶を沸かす湯釜がなくて困っていると守鶴和尚が茶釜を一つ取り出していわく
「この釜の湯はいくらくんでも湯がなくなることはありません。その上この茶釜でたてた茶を飲むと福が与えられる【分福茶釜】であります」


No.188 20/08/26 05:53
旅人さん0 

【菅笠】も同様にハードルが高くて購入しなかった物のひとつでありますが、菅笠も棺の蓋の代わりに土饅頭の上にのせられていたものなのだといい、単に風雨や日差しよけてはなかったのだということを学びました。
そういった意味を知った今でも菅笠をかぶることに相変わらない抵抗があること自体、巡礼にまだまだ断固たる覚悟がないことを思い知らされます。心の底からの信仰心があるかということを問われた一瞬でありました。
菅笠には
【同行二人 迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北】と偈が書き込まれているのだそうです。『観音様とともに巡礼している。迷うがゆえに三界は城なり。悟るがゆえに十方は空(くう)なり。本来東西なく、いずくんぞ南北あらん』という意味で巡礼の要諦を簡潔に示した偈文なのだそうです。
形からだけでも入ることで、自らをその域に持っていけるのではないかと思ったりもしたのですが、もはやそういった甘さ自体が真の巡礼ではあり得ないことだと覚りました。
旅自体に困難がつきまとう、決死のものであった巡礼。
私がその域に達することは今現時点ではないと思い知りました。

だからこそ躊躇ったのでありましょう。自分が正装をすることに。
思えばすべて、そういった装束を避けておりました。
【菅笠】、【白装束】、【金剛杖】、当然脚絆や手甲白地下足袋等、死を覚悟しての巡礼を意味する装束すべてを無意識に避けていたのは、御仏のお導きだったか私の本能であったのか。私には正装をする資格がないとあらためて思いました。


いつか。
┉コロナが落ちついてくれる時がくるのが一番ではありますが、おそらくはそうはならなそうな┉withコロナを確かな足どりで人類が歩き出した時に。
私ども夫婦は再び巡礼を始めます。
秩父。そして鎌倉の地を訪れて、観音霊場巡り、そして鎌倉では十三仏霊場巡りも。
その時には少しでも前進している自分でありたいと思った、このコロナ禍においての自主的自粛期間でありました。

No.187 20/08/26 05:08
旅人さん0 

秩父観音霊場で巡礼を始めるにあたって、昔からの巡礼の流儀を多少でも受け継ぐことで、その信仰心に少しでも近づくことができるのではと、巡礼者に必要だとされる用具を整えたいと思っていました。
ところが実際には、その思いにまだまだ揺らぎがあったようで菅笠も白装束も纏うことなく、当然脚絆や手甲もなく、金剛杖さえ結局購入しなかった私。

ですが、このコロナ禍において外出を自粛している、今この時間に、読書や神社仏閣の旅案内の書などをいたし、巡礼について学びましたところ、結局まだまだなーんにも知らないまま巡礼を開始してしまったのだなぁと反省いたしました。


例えば【金剛杖】。
身を守って下さる観音様の分身ともいわれるものであり、杖の先端は卒塔婆の形の四つの切り込みが入っていて、巡礼の途中で亡くなった場合、死体を埋めた上にこの杖を立て卒塔婆の代わりにするものなのだということ。
杖には般若心経が記されておりましたが、さらに杖には生国や名前、生年月日を書き入れるのだとか。それはそのまま墓標となっていた時代があったからだという。

昔はすべてを徒歩で歩くためそういったこともあるということは知っていたのでつもりではあったのです。ですが具体的にそういったひとつひとつの深い意味を知るとやはり衝撃を受け、車でまわる現代とは巡礼に対する覚悟が異なっていることを思い知らされます。現代でも徒歩でまわられておられる方もいらっしゃるそうですが、それでも当時と異なり携帯電話があり、救急システムが整い、ドクターヘリなどもある現代と昔では格段に、死と隣り合わせといった状況も、『死』への覚悟といったものも異なるものだと思います。

夫は金剛杖を携えての巡礼にあこがれていたとかで金剛杖を購入いたしましたが、私は杖をつくことにも、夫とお揃いで杖を携え歩くことにも抵抗があり、購入するにはいたらなかったのですが、こういった意味を持つものであるならやはりどれも欠いてはいけないのだなあと改めて感じ、今度秩父に向かうことができる日がきたあかつきには必ず金剛杖を購入しようと思いました。

No.186 20/08/25 13:05
旅人さん0 

with Covid-19.

その心構えすらできぬまま、確実にCovid-19、コロナは拡がりまるで世の中を飲み込んでいくかの勢いで。受け入れ方、恐怖心もまさに千差万別。
とりあえずマスクしておこう、とりあえず手を洗おう。
日常生活に必要な物の買い物と参拝も、回数を控えて、人との距離をとって、とりあえず必要最低限の外出としよう。
そんな私のとりあえずwith Covid-19.
いい加減に思われる方のほうが多いのだろうな。

それでも。私ですら、距離をとるどころか身体に触ってくる見ず知らずの買い物客やら、マスクせずに話しかけてくるやはり見ず知らずの方やらには、不信感というか不快感というかよくない感情を抱くのであります。ちなみに買い物中ぶつかったということではありません。ぶつかってしまうのもソーシャルディスタンスがとれていない結果ではあるかと思うのですが┉。
そしてそんな感情を抱いた自分をふりかえりその賎しさを嘆いたり。

世界中で今は感染対策を考えつつほどよい距離をとって、人との繋がりを大切にする新しい生活を、同じ方向、同じベクトルで考え行動する時を迎えているのだと思っているのですが┉その答えのないままにすべての人が行動し生きているのが現状なのだと思います。


そんな現状のなか、私の出したwith Covid-19、コロナ対策は、『生活圏から出ない』。もちろん、千差万別のwith Covid-19.でありますし、お仕事であればそれは生活圏。ましてや今は外出自粛を唱われている状況下ではありません。あくまでも私のコロナ対策であります。
鎌倉三十三観音霊場巡りも、秩父霊場巡りも、中断。であります。
 
そうして本やネットで、四国遍路や西国観音霊場巡礼に思いを馳せて、せめて気持ちは豊かでいたいと思うのであります。
今、ネットでまるでそのお寺、その神社を歩くような視点で撮影された画像が配信されています。そんなバーチャル参拝をして過ごすこともあります。あくまでそれは人の歩いたものでありますことはわかっていてのこと。

大切なのは心。





No.185 20/08/25 09:07
旅人さん0 

上州の奥の院と呼ばれる【不動寺】さん。その奥の院の開山堂、と申し上げましたが┉。開山堂は中興の祖に当たられる潮音さまの住まわれたところになり、ここはここで奥の院となるようなのですが、こちら、潮音さまがここに隠棲される以前より修行の場でありましたため、まさに[真の奥の院]と言えるところが存在しておりました。
そこへはさすがに下準備というか、トレーニングというより、むしろ心の覚悟をしてでなくては登れない場でありまして。

寺務所の左手から、なにやら不動寺登山口がある事を知ります。馬の背というところへの案内となっています。
ここまででさえけっこうな急坂で、バテバテな人もおりますし、その立て看板を読んでいる私に息子がすかさず、
「そこへは無理だと思うからね」と申したほどでありました。┉いかに無謀なむてっぽうな母親と思われているかを物語っております。

仕方がないので、帰宅してその不動寺さんのさらなる上に向かう道を検索したところ┉ ゚ ゚ ( Д  )
以前、テレビで紹介されていた、まさに目が点になった登山道の画像がアップされているではないですか!

岩場に鉄梯子。

【馬の背】と呼ばれる地から【見晴台九十九谷】まで35分、更に九十九谷分岐点まで25分、そこから【観音岩】まで10分、という案内があるようですが、その【馬の背】と呼ばれる場所から先こそが、テレビで恐怖の登山道、のような扱いで紹介されていたところであったのです。

岩場に鎖!
崩れそうな階段!
鎖場で言う、通称カニの横ばい!

群馬県で1番怖いと言われている、鉄梯子!
┉かなりな高さの岩場で、角度はなんと90度近いともいうのです。

その鉄梯子を登りきると、断崖絶壁に鎖と岩場!

しかもここからさらに上があるのです。


息子がそれを知っていた可能性はありますが、なんにせよ、息子に感謝です。
これは、これからますます老いていくだけの私たち夫婦には、並大抵の努力では行かれないところであります。

歳をとることに甘えてはいけないとは思うのであります。
ありますが、年寄りの冷や水を通り越した むちゃ、無謀は慎んでいきたいとも思います。その上手な掛け合いをして歳を重ねていきたいと思うのであります。

No.184 20/08/21 04:21
旅人さん0 

びっくり!
なにがびっくりかと申しますと、ここ不動寺さん、屋根に〖十六枚の花弁の菊の御紋〗と〖三つ葉葵の紋〗を掲げているすごいお寺さん┉なはず、なのですが、御本堂の表札とも言える入り口の引戸付近に掛けられた二メートル弱の木の札に、ばーんと貼り紙をしちゃってるのです。しかもその札にも三つ葉葵のお印が!なのに、全部の文字が読めないように貼り紙をされている。なんか、なんともぶっ飛んだお寺さんな気がいたしますが┉。三つ葉葵の紋の下には、中興開山の潮音さまの【潮音】の文字、その下にばーんと貼り紙!
【大雄宝殿】云々という、あとでいただきました書き置きの御朱印と同じ方の筆書きの文字の貼り紙なのですが。┉ここに貼らなくてもいいんじゃないかなあ。

大雄宝殿
建立、元禄七年。文殊菩薩と普賢菩薩を脇侍とする釈迦如来が本尊で、京の仏師康伝作。正面『大雄宝殿』の扁額は元禄五年潮音禅師が大書した。
※浄財箱 後方に下がって前方くり抜き部分を見ると御本尊御姿を拝むことが出来ます。

と書いてあるのですがね。A3サイズの紙で、しかも端が二ヵ所けっこう破れているような紙なのですが、無造作に十ヵ所、それこそランダムにバンバンバンと画鋲で留められているのです。
うーん、大胆!
御仏こそがたいせつなのであって、他には一切の価値はないという考え方の宗派なのでしょうか?
┉せめて木札の文字はすべて読みたいと思います。

御住職さまとお会いすることなく参拝を終えたので、こちらのお寺さんの真意はわからないままなのでありますが。うーん。


ちょっとだけもやっとした思いを振り払うためにもう一度滝のミストを浴びて、下山いたしました。


No.183 20/08/18 23:07
旅人さん0 

ここ、黒瀧山不動寺さんは、上州の奥の院とも称されているようであります。長野県と群馬県の境にある南牧村の奥に位置していることがそう呼ばれる由縁でありましょう。その奥の院の奥の院、開山堂をめざします。

この開山堂こそが潮音さまの隠棲されたところであるようで、開山堂の裏手には潮音さまのお墓があり潮音さまの書かれた書物が奉納されているようです。ですが、お墓にはあまり見えない造りで┉一見鳥居にも似た造りの門状のものをくぐり、何段かの石段を登った崖をくり抜いて造った洞のなかに小さな石碑が左に寄せて建てられていて、その先は扉になっているようにも見えます。
その鳥居にも似た門状ような建築物に、神という文字が使われており、立ち入ってよいものかどうか判断に苦しみ、遠巻きに参拝させていただいたのですが┉。
伊勢神宮についての書物がもとで伊勢神宮のお怒りを買ってのこちらへの隠棲。布教のため諸国をまわられたという潮音さまはこの地での、ここ不動寺での生活をどう思われ過ごしたのか。ふと、そんな思いにとらわれました。
淋しく心細く思われたであろうか。
決してそうではない、と思いました。

多少の不自由さはありましょうが、もともと、むしろこの山紫水明の風光明媚な景観を愛で、絶好の修行の場と喜んでおられたのではないかと思えました。実際宿坊が建てられて、当時修行の僧がこのお寺を訪れていたようであります。

開山堂をあとにして、先程気になりながらも、まずはと開山堂を先に参拝させていただきました御堂をめざします。
えっ?こちらこそが御本堂なのではありませんか。



No.182 20/08/18 04:35
旅人さん0 

心はずませイソイソと滝へと向かうと、ミストのヴェールに包まれて御不動さまがお立ちになっておられます。
さらに近づくと御不動さまのお足元は足場は多少悪いものの、立てるように足場が作られているではないですか!
┉行かないわけがありません。そもそも、そのお足元になんとか行けはしないものかという思いを持った者しか、そのお足元の足場に気づかないものでしょうから。ありがたいと思ってもその場で立って拝む方が一般的、普通なのだと思います。
さすがに他にも参拝の方がおられれば、そのお足元の足場に気づいたところでそこをめざしたりはしないのですが(┉たぶん)、この日この時間、私たち以外に参拝の方はおられず。しかも季節は夏。
気づいたときには滝へと向かっている母親に「濡れるんじゃね?」と声をかける息子。
┉やはり突飛な行動をとる母でありました。「まあね」
もはや止められない母をひとり見守る息子でありました。ごめんなさい(≡人≡;)
大好きな御不動さま、大好きな滝!
しかも滝とはいってもミスト状に降り注ぐもの。濡れたところで絞るほど濡れることにはなりますまい。
 
降り注ぐミストのヴェールに包まれつつ、眼下の土地を護るように立つお姿の神々しいことといったら!
これはこの場に立たなければ見ることはできない光景であります。「来てみてごらん、すごいよ」
「いやいい」

こちらは潮音さまが入山されるまでまさにこの場を道場として真言密教の修験者が滝に入り山谷を駆け修行されていたようであります。潮音さまをこちらへ迎えた相源和尚さまも毎日滝行を二十年されていたと記録が残っているようです。
今日はミスト状に落ちてくる滝も日によってその水量を変えているようです。今の季節なら気持ちのよい滝も冬には足下の水が凍りますでしょう。
毎日の滝行。それだけ一つをとってもすごい修行であります。

No.181 20/08/17 10:48
旅人さん0 

不動堂を息子とともに参拝させていただいても、夫はいまだ不動堂へ到達せず。
さらに先の順路、不動堂の裏手に向かおうとする母と、これから不動堂を参拝しようとする父と、どちらと行動を共にしようかなというかすかな目の動きが息子から見てとれました。
「人それぞれに感動するところだったり、関心のあることが違うから、自由にお参りしていてもどこかで必ず合流するから大丈夫。みんなバラバラに歩いても全然問題ないよ。このふたり、いっつもそうだから」と私が申しますと、スッと私と一緒に歩きだす息子。彼が、何をしでかすかもしれない母を見守るためだったかどうかはあえて問わずにおきました。

切り立った崖下の、さらに一段下がったところに弁天さまがお祀りされています。その名も【天女窟】。
なんでもこの岩窟、弘法大師の爪彫りの不動明王さまの磨崖仏があるのだとか!が、心眼の曇った私の眼にはまるでそのお姿を拝することができません。あきらめの悪いヤツなので、けっこうな時間をかけて見たつもりなのですが┉。それでは弁天さまのお参りをいたしましょう。薄暗いのと経年劣化してしまっているせいなのか、弁天さまのお持ち物で当然あると思っていたところの琵琶がない?┉これも心眼の曇りでしょうか?うーん(--;)
いやいや、手に薬壺か桃を持っておられるように見えるのであります。さらには右手には刀?うーん。
家に帰ってのちに写真を確認したところ光背部分にはけっこうはっきりくっきりとお手がいくつか認められ、長めの何かを御持ちになられているように見てとれます。うーん。
こちらの弁財天さま、あの潮音さまがお祀りされておられるようなのですが┉。長い年月と明治の廃仏毀釈がなにか関係しているのでしょうか。
まあ、私のない頭で考えても答えはでないので┉。

もう一体お祀りされている石仏さまは千手観音さまのように見受けられます。

そんな岩肌付近にお祭りされた千手観音さまの真後ろ辺りに途絶えることなく聴こえる水音。ミストのように流れ落ちている滝がありました。
うわぁぁぁ。
青空にミストのような細かい水しぶきがキラキラと光輝いています。




No.180 20/08/17 06:55
旅人さん0 

山門をくぐると緩やかな傾斜の先に御堂が見えて参ります。あとを歩く夫と息子を待とうとする意識が飛び去った瞬間です。
眼下右側にはそそりたつ山の絶景が見えています。
御堂は石垣の上に建てられており、石垣の下方には品のよい池があり同じ大きさの紅色の小振りの鯉が数匹、気持ち良さそうに泳いでおりました。ん?御堂の裏手に進む順路があるようです。

自らのはやる気持ちを落ちつかせるために再び御堂と反対側の景色に目をやろうとするとなにやら形のよい岩があり、墨書きの手書きの、立て看板があります。紐でそばに行けないようにしてあるのですが、岩の上にかすかに赤い、まるで岩にはえている角のような石がおいてありました。なにやらいわれがありそうですが、夫と息子を置いてまで御堂に向かうほど、はやる気持ちを抑えられず、まずはお参りを!とイソイソと御堂に向かう石段を登ります。
【不動明王堂】であります(┉たぶん。書の心得がない私には草書の文字が多々読めないことがあるのであります 泣)
木造の、決して豪華ではない、むしろ質素な造りであると思われます。御本堂の引き戸がほんの少し開けられています。
それを覗かずにはいられないのが私。薄暗い御本堂のなか、厨子が安置されていてその扉は固く閉ざされています。秘仏であられるようです。その厨子から紐がのばされ、御堂正面の柱の一本にくくられています。その紐に触れさせていただきながら御不動さまの真言を御唱えしたのち、初めての参拝のご挨拶をさせていただきました。
と、そのそばの窓の下に御堂に直に画ビョウ(!)で貼り紙が!┉う、嘘でしょ?
こちらの御不動さまは【金躰不動明王】さまと呼ばれていらっしゃるようで、奈良時代【行基上人】が自刻したと伝えられています。
。人々の悩み、苦しみの気害を焼き清め、洗い清めて現世人間界・自然界の平安を願いとし、消災吉祥・延命長寿・萬物元気・不動体不動心・善星皆来・悪星退散・開運・火伏せ・・・灼かな霊験ありと信仰を集めておられる御不動さまとのこと。
酉年に御開帳されるとのこと。また、毎年四月二十八、二十九日に不動明王例大祭が開かれているようです。
┉来られるかなぁ。うーん、自力は百パーセント無理で無茶。運転というのは公道を走る以上、それなりの運転技術とセンスがあってのものだから、無理と思うことは大切な判断だと認識しているので。甘えとは違います。

No.179 20/08/16 03:18
旅人さん0 

重厚であるのに明るい、やわらかく心にすーっと入り込んでくるような音色。さすが平和祈願の鐘であります。
【黒瀧山不動寺】さんの梵鐘。
羅針盤というところがいかにも平和への道を示してくれる感じがいたします。

夫が撞いて、息子が撞いて。私が撞いて、三回。
私が鐘を撞くにあたって祈ったことは新型コロナウイルス感染症の終息、という形での世界平和ではありましたが┉。願わくば私の内から溢れんばかりの煩悩が三つ消えていますように。せめて自分で撞いた一回分、一つだけでも。┉ そう思うところがあるのなら、鐘を撞かせていただいたことに感謝して自分で自分の煩悩を戒めるんですよね。


さあ、いよいよ参拝、であります。
┉なにやら変わった入口で。
建物横の通路のような入口、というよりまさに建物横の通路を活用した[授与所]なのですが、奇抜な感じがして、のっけから珍しくためらいがちな私。建物は宿坊のようで、先程坂を登りながら、お寺さんの建物ではあまり見ないような建物と思った建物、さながら民宿、合宿所のような外観です。黄檗宗は中国の文化が色濃く残るもの、らしくて、そんなことも関係しているのでしょうか。おみやげ屋さんの二階に泊まれる海の家ならぬ山の家のようなイメージを受け、そこにしっかり[黄檗宗 不動寺]の看板がさげてあるのです。

その通路を抜けると大きな杉の木が一本枝を広げています。

そして、山門。
山門を見たとき、思わずホッとした私。建築様式にも疎い私でありますがごく普通のお寺さんの、立派な山門、であります。(不動寺さん、すみません💦)
山門の扁額は潮音さまの書なのだそう。
山門の中、左手に木製の大きな魚が下げてあります。魚梆(かいぱん)と呼ばれる、木でできた魚で、禅宗の儀式や行事の折に時刻を知らせる目的を主にしている法具であります。元禄時代のものとのことで、さながら鰹節のように乾燥しており、叩かれ続けておなかの部分が痛々しいくらいえぐれてしまっています。魚の下方に太い丸太を綺麗に加工した叩く棒がおいてあり打たせていただくことができました。┉もちろん叩きます。笑。


No.178 20/08/15 13:38
旅人さん0 

【黒瀧山 不動寺】さん。
場所は群馬県の南西部の山間に位置する【南牧村】、高齢化率が日本一となっている村、┉なのだそうで。

【道の駅オアシスなんもく】の近くから県道202号線を進み、その終点が不動寺となります。
道の駅は満車!車で通る道から見える河原で遊ぶ人たちの食事どころであり、駐車場なのでしょうか。コロナ禍にありながら、それを忘れているのでは?と思えなくもない盛況ぶりでありました。その道の駅を過ぎた頃から道は狭くすれ違いもなかなか難しい道路となっていきます。そうは言っても普通の生活道路、狭かろうがすれ違う車の台数は想像していたよりはるかに多く、しかも狭いだけではなく傾斜もあり、下ってくる車のスピードは速いように感じられるのです。ましてやこの道に慣れた方々なので、すれ違うタイミングの地点もわかっている?ほんとに?┉まあ、下り優先でありますから、ねぇ。
この道の突き当たりこそが不動寺さん、なのですが、駐車場近くまで民家さんがあり、そこへ参拝客の方が下山されてくれば、┉すれ違う地点ってどこかにある?あった?私に言わせれば「なかった」
ほぼほぼすれ違うための地点すら設けていないような狭くて傾斜のキツい道であります。

駐車場がお寺の近くの道路沿いに二か所ありますが、そこも十台弱。ちに近づいた辺りから本当に傾斜がキツいらしくアクセルベタ踏みで登ったそうです。
そこから上り坂をそれなりに歩きます。つづら折れってこういうんだよな、みたいな道を、(あ、足首けっこう斜めだ。スゴい坂だな)などと考えながら登って行きます。空気が澄み、ほどよい竹やそのうち見えてくる山の絶景に心軽やかな状態で歩いていくせいでしょうか、さほど苦ではありません。さほど距離はありません。やがて、お寺さんに見えないような建物が見えて┉、そうこうすると、間もなく鐘楼が見えてきます。イワタバコというらしい紫の小さな花がそっとお寺に向かう道を飾ってくれています。

夫と息子の楽しみにしていた一つ、戦艦陸奥の羅針盤を溶かし合わせて造った梵鐘が見えました。
境内の一つ一つに手書きの説明書きが添えてあるのもうれしいです。こちらの鐘は撞くことができます。

No.177 20/08/15 07:00
旅人さん0 

しばらく前に参拝いたしました群馬県千代田町にあります【寶林寺】さんでたいそう丁寧なお話をうかがうことができ、ずっとそれが心に残っております私たち。
その【黄檗宗】をさらに世に広めた一人【潮音禅師】さまが、ここ寶林寺さんを去られたのちに、隠棲されたとされる群馬県甘楽郡南牧村の【黒龍山 不動寺】さんへ是非参拝したいと思うようになりました。

もともと夫はこちらへの参拝をと願っていた様なのですが、私の聞き流しの術(!)によりなかなか実現することなく。「何度も言ってた!」という夫に、初めて聞く話でしかない私。
私の聞き流しの術はいつものことではありますが、なぜかその会話の一切が記憶にすら残っておらず。

┉これは【寶林寺】さんに導かれるように参拝し、そこで感銘を受け、夫は潮音さまという方の人となりを知ってからのちに【不動寺】さんへ行く。
すべてがお導きだった。┉と思うしかありません。

しかも、ここ【黒龍山 不動寺】さんには、【戦艦陸奥の羅針盤】が使われたという鐘があることを知りまして。
何が好きなのかは聞いてもわからないので聞いたことがないのですが、(┉)わが家の息子が一人、[自衛隊]とか[なんとか艦]と[なんとか機]とかが好きな者がおり、彼は一人でやはり戦艦陸奥の一部を使ったという凡鐘のある群馬県渋川市にある【福増寺】さんを訪れたことがあったようです。そんな話を実家であるわが家に寄った折、つい最近したばかりであります。

そんな風に、息子とともに参拝させていただけるように、すべてが導かれているようにしか思えない、今回の【黒龍山 不動寺】さんへの参拝。
まことにありがたい、御佛のお導きであります。


No.176 20/08/15 06:00
旅人さん0 

自音寺さんの四国八十八ヵ寺遍路巡拝は私の大好きな空間であります。
遍路巡拝後はお寺さんに向かいました。
初めての遍路巡拝の折に御朱印をいただきに庫裏に向かいましたところ御住職さまが、遍路巡拝をされた方にはこちらをお渡ししているのでと、二人にお守りを授けてくださいました。
二度目は特に御朱印をお受けせずともよいかと思い、そのまま帰宅したのですが、今回は令和となって初めての遍路巡拝でしたので御朱印をお受けしたいと庫裏に向かいました。
今回は御住職ではなく奥さま(?)が応対してくださいました。
こちらの御朱印は、亡くなられた先代のお手をそのままスタンプとして捺していただくものであります。
今回はそれも書き(?)置き化されていました。
お祭りのことをお聞きすると
「やっておりますよ」とのことで、怪訝そうな私の口調に
「あ、今日は十一日か。ちょうど終わっちゃったところですみません」┉?
一時間半以上前にこちらのお寺さんに着いていたのに?
なにもそのような気配すらなかったし、到着したときに御住職がお車でちょうどお出かけになられたのを拝見していましたし┉。

よくよくうかがったところによると、十一日のお縁日には【阿字観】をもって月縁日としているのだとか┉。時間も九時から十時とのこと。
道路に面した大きな看板には月縁日毎月十一日、どなたもお越しくださいとしか書かれておらず、なんとも不親切な┉。

今回、いただけたお守りは一体。
「あのぅ、二人廻っているのですが┉」とおそるおそる申し出たのですが┉、
「御朱印を受けた方だけにお渡ししているので」とすげない御返事で┉。

阿字観、ずっとしたかったのにな。

と、問い合わせもしなかった私も悪かったのですが、いただいたパンフレットを拝見しても月縁日と阿字観は別々に書かれていて、時間の記載もなくて┉。
最後にモヤモヤ感の残った参拝となってしまいました。┉これも修行かな 笑。

No.175 20/08/15 05:31
旅人さん0 

今回はあかがね街道から離れて。
とは言うもののまさに目と鼻の先ではあるのですが┉群馬県みどり市大間々町の【自音寺】さんへ参拝いたしました。

こちらには先代と現御住職が四国八十八ヵ所を実際に歩かれて、自らの手で頂いて来たという、八十八ヵ所のお寺さんのお砂が納められたところがあって、そこを歩くことで四国八十八ヵ所のお遍路を手軽に味わってもらおうというものとなっています。
それぞれのお寺さんののお姿をもとに石仏をお造りになられて、その石仏の下と、石仏巡りをした際、ちょうど石仏さまと対峙したときに立つあたりとに、四国八十八ヵ所それぞれのお寺さんの砂が敷いてある、といったものであるようです。
ちょうど十一日、観音さまのお縁日であり、こちらのお寺ではなにやら毎月お祭りをされているのだとか。┉行くしかありません。
とは言え、このコロナ禍ではお祭り自体されていないかもしれませんが。

境内にはいると人影はなく、御本堂は閉ざされたまま。
しかも御本堂、工事中。
四国八十八ヵ寺の遍路巡拝をいたしましょう。

御本堂の真横から始まる四国八十八ヵ寺遍路巡拝、石仏巡りはこれで三度目。石仏好きの私にはたまらない!そんな私に構うことなく夫は先を歩き、一体一体の石仏さまに丁寧に頭を下げ手を合わせ歩きます。
暑い暑い日でありました。

石仏さまは一体一体が表情こそ似てはいるものの(おそらく同じ石材店ゆえ)、一体一体が異なっておられます。同じ千手観音さまであってもその手の動きや向きに至るまでが異なっておられるのです。それぞれのお寺さんの御姿を基に忠実に造ったのでありましょう。
もちろん私どもは四国巡礼をしたことなどありませんので、八十八ヵ寺のお名前もそれぞれのお祀りされている御佛も存じ上げず、一つ一つお名前を確認し御佛の尊像を拝観してあるくと、それはそれは結構な時間を要します。
なかには珍しい勝軍地蔵菩薩さまであったり、涅槃釈迦如来さまであったり、三面千手観世音菩薩さまであったり。

この日どれくらいの時間をかけたのか、時間の過ぎるのを忘れてしまいます。途中、御佛の慈悲に思わず胸が熱くなり涙が出そうになることすらありました。

No.174 20/08/13 18:59
旅人さん0 

境内に入ったときから何やらお留守の気配でありましたが、案の定お留守。
立ち去ろうとした際庫裏のすぐそばに池があるのが見え、なにげなく覗いて見ると!┉澄みきった水であります。その透明なこと!しかもそのさまはまるで神秘的な泉のようであります。
ああ、これだ。
この水を見たら【清水寺】と名づけずにいられない。というかその名前しか頭に浮かばない。こんこんと涌き出る水。
山紫水明とはかくあるものでありましょう。

御本堂前を通って再び恵比寿さまの前を通って┉ふと見るとかなり急な古びた、不揃いな石段がありました。傾斜四十五度、といったらおおげさ?でも確実にそう感じさせる、急な傾斜であります。あと何段か、というところでは少し足元がゾワゾワするような、恐さすら感じる石段であります。
その先には観音堂がございました。
屋根には雑草が生えていたりしますが、それすらが趣あるものと感じさせます。壁面には大きな額が奉納されていましたが、よく見えないほど経年しています。
ここから見る景観も味わいがあります。


さて下ろう!┉ ああ、そうでした。急な傾斜だったんだ((´д`、)
あと少し、という安心感からふと前に目をやると、また石段が!
私は坂をすたすたと登ってきてしまったけれど、もうひとつ石段を登る登り口があったようです。えぇぇっ?! ( ; ゚Д゚) ┉さらにさらに急傾斜にしかみえない。しかもほの暗い。

┉登ってきた坂を下ることにしました。
降りてからその石段の方にむかってみると、石仏さまがたくさん並んでおられました。そのお足元にも水が流れております。
側溝が石仏さまのうしろを流れているのですが、そことはちがうルートでふんだんな水量の湧き水が勝手に流れを作ってしまったようです。
六地蔵さまはあの明治の廃仏毀釈でお頸を失われておられる方もおられ、なんとも物悲しくなります。こちらの六地蔵さまはお手にお持ちなられている仏具が、よく見かける六地蔵さまたちと異なっておられ、それをよく見たいと思っても、そのお頸のないようすがどうしても目に入ってきてしまうので、諦めてしまったくらいでありました。

いろいろご由緒などをうかがいたいお寺さんであります。
ただ雪の頃には絶対無理だなぁ。あの坂、車ではもちろん、歩きでもむずかしそうであります。






No.173 20/08/13 06:39
旅人さん0 

夫が「わたらせ渓谷鉄道の駅舎にお寺の案内が掲示してあったんだけど」とつぶやいていました。どうやらそちらのお寺さんへ行きたい様子ですが、肝腎のお寺さんの名前を失念した模様。
わざわざその駅まで行ってお寺さんの名前を確認して、スマホで検索するさまに、さすがの(?)私も少しあきれておりました。何がそんなに彼の心を惹き付けたのか┉。

お寺さんの場所は国道122号線沿いですぐにわかりました。が。
結構な坂をのぼって行くようであります。急な上に狭い!
坂を見上げてみた地点からはお寺の建物は一切見えない。
少し空いている、お寺さんの敷地内の土地に車を置いて歩いてのぼって行くこととしました。
群馬県みどり市東村神戸の【清水寺(せいすいじ)】さん、であります。

私は坂の上が気になりそのままその坂をのぼって行ったのですが、どうしてもここに来たかった夫は、車を停めさせていただいたスペースのあたりを少し探索している様子でありました。
うーん、やっぱり結構な坂だ。

坂をのぼった正面に御本堂がありました。飾り気のない境内にぽつんと恵比寿さまがおられます。そう、こちらは七福神の恵比寿さまを奉られているお寺さんであります。
「七福神ってことは他に六ヵ所のお寺を巡るってことだよね」と夫。ま、まさか?
「でもどこに他の神さまが祀られているかわからないね」
┉「お寺さんでお聞きしたら?」と一言言って先に進む私。

恵比寿さまは感心するほど枝振りのよい、これが釣竿でなくて何であろうというくらいの枝を手にして満面の笑みを浮かべておられます。ここからは見えないけれど下を流れる渡良瀬川に向かって岩に腰掛けていらっしゃる。
洒落たセンスをお持ちのご住職さまのようです。


はあぁ なんという景色でしょう。
まさに山。
お寺さんにはほどよい程度にしか木々はありませんが、松の枝越しに見える斜面を形成する木々。山紫水明、で、あります。しばしその絶景に見とれて、はっと我にかえったくらいです。

とはいえこちらはずいぶんと渡良瀬川からは離れた高台。清水寺というお名前の由来はなんだろう。などと考えながら庫裏に向かいました。

No.172 20/08/12 17:12
旅人さん0 

ただ今雷神さまが大空を駆けめぐり、かなりの雷鳴を轟かせておられます。
雷電神社さまでお受けした雷除守を手にしかけて、喪中でありますことが気にかかりました。
お札もお受けしておけばよかった( >Д<;)
 

凄まじい雷鳴であります。

No.171 20/08/12 17:01
旅人さん0 

群馬県みどり市の【覚成寺】さんに残る天海大僧正の逸話があるようで、
【天海大僧正】がこの寺で休もうと歩いてきたものの道を一本間違えて、蓮沼というお宅にたどり着いてしまったのだそうで、その蓮沼家の屋号が「ふんじけ(?)」というものなのだそうです。
道を踏み外したという言葉がありますが、この辺の方言、なのでしょうか、ふんじけという言葉が踏み外すという意味も持つ言葉らしく、そこからいかにも導かれるように蓮沼家に行ってしまったのではないか、という説があるようです。

道を一本間違えたことを道を踏み外したという表現をされたら、私などはほぼ日常的に道を踏み外して過ごしていますけれど┉( ;´・ω・`)



この時期なのでお寺さんではお盆さまの準備で大変なときで、御本堂での参拝は叶いませんでしたが、いつかこちらのお寺さんに伝わる徳川家康公の【妙見大明神さま】を拝したいと思います。


境内にあります【洗心地蔵さま】はいつ頃の石仏さまであられるのかは不明ですが、それなりの経年を感じさせる石の状態のものであります。
文字通り私たちの心の悩み・迷い等を取りさってくださるお地蔵さまと立て看板にありました。
【南無地蔵願王尊】と唱えながら浄水を三回お掛けするのだそうです。そばにあった柄杓を失礼がないくらいに汚れを落として、真剣に祈願して参りました。夫は気づかなかったようで、悩みや迷いの多い私をお救いくださるためにお呼び止めくださったのでありましょうか。
何度も祈願させていただきたいお地蔵さま。
私一人で┉行けるかなぁ( ;´・ω・`)


No.170 20/08/12 16:35
旅人さん0 

銅(あかがね)街道は現在の国道122号線の基となった道であります。
栃木県の足尾銅山から銅を運ぶための道でありますから、基本的には足尾発の道であったのでしょうが、もともと日光を通って銅を運んでいたため、自然、日光にも通じた道であります。
今でも群馬県の東毛地区と呼ばれる地域から日光に行くのに使われるルートのひとつであります。

日光といえば大抵の人が思いうかべるのがおそらくは世界遺産ともなった【日光東照宮】ではないでしょうか。 
そう、江戸時代日光へと向かう道として銅を運ぶ以外に使われたのは、その日光東照宮の建材を運び、東照宮の建築に携わる職人たちが街道を歩いた道でもあったのです。街道にはいくつもの宿場町があり、銅街道沿いには今でもその名残のある町が存在しているのです。
もちろん銅街道イコールではなかったので、実は私がそんなあかがね街道について知ったのはごくごく最近のこと。
かつて【足尾線】と呼ぱれた第三セクターの【わたらせ渓谷鉄道】にも乗ったことがありませんでしたし。
初めて見たあかがね街道の、宿場町の名残が色濃く残る町並みは感動して胸が弾んだものでした。

日光へと向かう人たちのなかには、あの徳川家康公の御意見番【天海大僧正】も、あの東照宮の【眠り猫】で有名な【左甚五郎】も、この道を通ったという言い伝えが残る街道でもあるのです。

みどり市大間々町の【覚成寺】さんには徳川家康公の妙見大明神が安置されています。
【天海大僧正】がこのお寺さんで休まれ、その際腰をおろされた石があり、御本堂正面には【左甚五郎】があの招き猫の試し彫りをしたという彫り物が残されているのです。この彫り物、ぐらぐら揺れるくらい不安定な付き方をしているのに、今の大工さんがどうはずそうとしてもはずれない、何やら特殊な付き方がされているのだそうです。

 

No.169 20/08/11 07:53
旅人さん0 

そんな銅(あかがね)街道は今私のひそかなマイブーム。
癒しの空間であります。
お土地柄、家々の距離自体はソーシャルディスタンスのしっかりとられたところでありますが、心の距離は実に近い。自然な距離感で、見慣れない私たち夫婦であっても、同じ空間を今共にする者としてとらえてくださり、困ったことがあったらいつでも手をさしのべる関心はお持ちなものの、決して強い関心も持たず、ましてや排他的な空気は一切ない、本当に居心地のよい空間なのであります。そもそもが、地元の方々とふれあうようなことも滅多にないのではありますが(道に迷って助けを求めるくらい┉っていつも、ですか 笑。)
マスク着用、屋外、せいぜい二、三分の会話、消毒用アルコール常に携帯。距離が近ければ同じ方向を向く。
そんなコロナによる自主規制下の過ごし方、であります。
神社仏閣も無人か、神職の方やお寺の方とはご挨拶程度で。神さま仏さまのおわします空間でこころゆくまで過ごせるこれ以上ない贅沢な時を過ごしています。


銅街道超初心者は、その街並みや歴史ある神社仏閣を巡るだけで、何年も時が過ごせそうであります。


閑話休題。


銅街道は実はもうひとつ大きな大きな役割を果たした街道でありました。


No.168 20/08/10 21:00
旅人さん0 

【銅(あかがね)街道】は前述のように栃木県の【足尾銅山】から銅を江戸へと運ぶ街道でありました。
足尾山中に鉱銅が発見された当初は足尾から日光を経由し宇都宮に抜け江戸へと運んでいたようです。
その後幕府直轄の銅山となると足尾から群馬県伊勢崎市への道が整備されてそこから水路で江戸へ銅を運ぶようになったようです。

群馬県のみどり市における偉人【岡登景能公】は代官に加え銅山奉行を兼ねていたようです。┉ちなみに私はその事実をたった今知ったのでありますが。
私のなかでは岡登景能公は、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削を行った人であり、この用水は、笠懸野の原野に新田を開発することとなり、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになった、みどり市にとってなくてはならなかった方であります。というか、景能公なくしては笠懸という地はありえなかったのであります。
そんな偉人である岡登景能公の名前が奇しくもここでまた出てくることとなろうとは。



【岡登景能公】は正式には岡上次郎兵衛景能(おかのぼりじろうべえかげよし)(1629?-1687)は、江戸時代前期にこの地域を治めていた代官です。岡上家は、徳川幕府開設以来の18代官の1家として、代々代官職を務める家柄でした。足尾代官を勤めた景能は、足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図りました。
 銅輸送の効率化では、大間々-平塚河岸間に最短ルートとなる、笠懸野の原野を縦断するルートを新たに設け、現在の太田市大原町に本町宿をつくりました。景能は、本町宿に水を引くため、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行いました。この用水は、宿用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされ、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになりました。
 このように数々の業績を上げた景能でしたが、幕府から罪を問われ切腹を命じられました。景能の墓は、国瑞寺に置かれ、景能は現在も笠懸野の住民の尊敬を集めています。
 明治にいたり、景能の開削した笠懸野御用水は流路を変えて「岡登用水」として再興されました。
史跡の指定名では「岡登」となっているが、史料中の名字は「岡上」となっています。 (みどり市の資料より)

いやあ、知らなかった(((^_^;)

No.167 20/08/10 20:17
旅人さん0 

ところが石工がお地蔵さまを彫っていると不思議なことが起こり、幾度も幾度もその不思議を体験した石工は、とうとう怖くなってお地蔵さまのお顔の部分を彫ることなく逃げ出してしまったのだといいます。
お顔が彫られることなく、四角いままのお地蔵さま、角地蔵さまとしてそのまま安置したのが、その名の通りの角地蔵さまであります。

角地蔵さまのお顔が彫られなかった理由は実は諸説ありまして、石工の設計ミスでこれ以上彫り進めることができなくなって逃げ出した、というもの。これより角地蔵さまは別名【まちがい地蔵】と呼ばれることもあるそうです。
そして、思うような手間賃が貰えないことがわかり途中でやめてしまった、というもの。

まあ、当時を知る人はおらず、角地蔵さまのお顔が四角い石のままである事実だけが変わらないのですが┉。
私はだんぜん、怖くなって逃げ出した説派であります。
石工を代えて完成させることもできたであろうに、完成していないということを考えたとき、一番これが自然なのではないかと。

だとすると、ちょっと怖い┉かなり怖いお話でありますが。
そもそもが百八十年くらい経ってからのお地蔵さまの建立であり、そこでも人魂やら、合戦する大勢の者たちの姿やらと、怖いお話が絡んでいますし。
実はそんな怖さもあってなかなか参拝にいたらなかった┉のかなぁ。


角地蔵さまの御堂のそばにはちょっと他では見かけないような石仏さまたちがおられます。御本堂向かって左側には赤いお掛けをかけておられる石仏さまがおられるのですが、なんとも苦悶表情でありまして┉。
あとでネットで調べたところ、この石仏さまは【脱衣婆】さんでありました。
埴輪のようなポーズをとられた不動明王さま。


毎月二十四日はお地蔵さまのお縁日で、ご近所の方々が当番制で御堂のなかでお茶を入れてくださったりお菓子をくださったりとご接待してくださるのだとか。

┉今は、そんな地域のお縁日のお祭りさえもできないご時世、なのでしょうか。うーん。( ´-`)

No.166 20/08/10 16:43
旅人さん0 

夫も、息子、ライダーさんたちが好きだという【国道122号線】。彼らの好んで走る辺りは、みどり市大間々町の福岡大橋を目の前にしたところで、日光に向かって左折するところからの道を指します。
運転していたらどうなのか┉、私は滅多にその道を走行することがないため、その体感、というか体験談を話すことはできないのですが、助手席にいる限り、自然豊かな景色が車窓に次から次へと流れる道であります。
湖(ダム湖)あり、川あり、山あり。

その道を一本入ったところにある、【銅街道(あかがね街道)】と呼ばれた街道とその宿場町や、古い駅舎。歴史ある寺社を訪ねるのが最近の休日の過ごし方、でありました。
┉ありました、と過去にしなければならなそうな、コロナの感染拡大という、なんともせつなくてモヤモヤし、苦しい状況は、とりあえず、置いておき、あかがね街道、別名【足尾銅山街道】にあります神社仏閣を訪ねての珍道中録を綴ってまいります。



その国道122号線に沿うようにあった、┉いやいや、あかがね街道を現代の生活に合わせて作られた国道122号線、でありますが、そのワンツーツーと呼ばれる道を、無理矢理曲がるかのような細道を登って行くと畑の広がるところとなり、その畑の途切れたところ、みぎてに小さな御堂が見えてきます。
珍道中を始めた頃から、なにやらやたらと目にする機会がありながら出向くことのなかった【深沢の角地蔵】さまの安置された御堂です。


1579(天正七)年に、この辺りの一族と桐生(由良氏)勢との合戦があり、多くの戦死者を出したようで、地元の人たちがその亡骸を葬ったこの地を[千人塚][桐生塚]と呼んでいたそうです。
それから二百年弱の年月が流れた頃、この近くの【正円寺】さんというお寺の和尚さまが、深沢の城跡であやしい火の玉の飛び回るのを見たのち、数千の軍勢が渡良瀬渓谷で合戦しているさまを見たのだと言います。もちろん実際の合戦ではありません。
和尚さまは戦死者が成仏できていないことをさとり、七日七晩お地蔵さまに祷りお勤めをされたのだとか。そうした甲斐あり、火の玉の飛び回るのは鎮まったということでありますが、鎮魂の意を込めてお地蔵さまの像と供養碑を建立することにしたのだそうです。

No.165 20/08/10 01:33
旅人さん0 

御住職さまの娘さんで、副住職さまの奥さまであります女性がおっしゃるお堂こそが【窖薬師堂】であります。
「窖薬師堂はここの二十二代住職であった堯慶和尚という方があの地に穴を掘って生きたまま入定した跡に建てられたお堂なんですよ。」
「┉!」
「そう、即身佛です。周りはだいぶ止めたようなんですが、その頃疫病も流行っていて、そんな時こそ人々を救いたいと強く願ってのことで」
「┉」
「どうぞお参りしてやってください。なんでしたら、毎年二月の第二日曜日には御護摩を焚いてお祭りをしておりますのでよかったらおこしくださいましたな。こんな田舎のお寺ですが皆さんたくさん集まってくださるんですよ」
慌ててメモをとらせていただきました。
即身佛さま、ですか┉。
よほどの強い意志がなければできないことであります。

こんな奇跡のようなお導きで堯慶和尚さまのお寺にうかがうことができました。



窖薬師の由緒を紹介します。(由緒書きより)

窖薬師とは、当山第二十二世堯慶和尚が文化十一年(1814)
三月十二日生きながら入定して薬師仏となり人々の病気やけがれを
救うという悲願をたてて、善雄寺の境内に穴を掘り、ここに入った
といういわれによる。
堯慶上人は学徳兼備の上に金剛不壊の信念をもって檀信徒を導き、村人から生仏として尊敬されていた。
八十歳の年を迎えたとき、「私もお釈迦様のご入滅の年まで生かされ
たことは何ともありがたいことよ。この仏恩に報いるために日頃信ずる薬師如来の化身となり、病気厄難に苦しむ人たちを救い申そう」と
大誓願をたて、穴を掘って入定されたのである。

「月雪も見尽くし、花も散りぬれば、芽出たき国へ我は行く春」という辞世を残し、別れを惜しむ周囲の人々を静かにかえりみて、「中で鉦の音がしなくなったら往生をとげたものと思ってくれよ」とにこやかな会釈をして入定され、日夜念仏三昧に入り、鉦の音がきこえなくなったのは三七二十一日(数字は原文のまま)の夕刻であったという。
上人入滅後、御廟所に石の薬師尊像が建立された。


お堂に手を合わせ、いま、祈ることはただひとつ。

どうか今一度、新型コロナウイルス感染症の終息にお力をお貸しください。

No.164 20/08/10 00:58
旅人さん0 

今日、ナビがあるのにナビを使わず、「たしかここを曲がっていけばすぐだった気がする」と、夫が右折した道。
「うーん、間違えたかも。こんなT字路はなかったはず」
今日夫はなんだか冒険気分のようでいつもは通らない道を通ったり、ナビを使わず走行していました。ただ、この辺の道は狭いので、へんなタイミングで対向車が来ると泣きたくなるような道もあるので、少しドキドキ。
T字路を左に曲がって道なりに走行して行くと、左側にお墓がみえました。そして【窖薬師(あなやくし)】と書かれた案内板が!
ですが、なにぶんにも細い道で。もし対向車が来てしまったらようやくすれ違えるかどうかというくらいの道幅であります。夫はそういったとき、「またの機会に」ということが多々あるような慎重派。あきらめて前を見つめていると、
「少しバックすればなんとか停められるとこがあった気がする」と言うではありませんか*.゚+ヽ( ゚ロ゚)ノ゙ +.゚*

バックして戻ると、なにやら先ほどは見逃していた御本堂が見えます。あ、これは駐車場もありそうです。


こんな奇跡のようなご縁で、群馬県みどり市にあります【医王山圓乗院善雄寺】に参拝しました。

境内に入ると、御本堂の扉が開いています。もしかして、御本堂での参拝ができるのでしょうか。ときめく胸を落ち着かせ、まずは御本堂の外からの参拝を済ませて、早足になりそうなのを抑えて庫裏へとお邪魔いたしました。「あのー、御本堂の扉が開いているのですが中に入らせていただいてもよろしいのでしょうか」
奥さまでしょうか、女性が対応してくださり、快くお許しくださいました。御本堂へと戻る足取りはもう早足となっている私でありました。

私どもが御本堂に上がらせていただいたと同時に、先ほどの女性が御本堂におこしくださいました。お昼を終えたかと思われる時間帯で、大変に申し訳なくなりました。何度もお詫びを申し上げますと、一度退座されてあらためてまた御本堂へとおこしくださいました。
なんでも今日はお葬式ができてしまい、御住職さまはお留守なのだとのこと。
女性がこちらのお寺のことをお話してくださいました。この方はこちらのお寺の娘さんで、御住職さまがお父様で、副住職さまが旦那さま、息子さんも僧籍にあられるとか。
「境内のお堂へは行かれましたか?」

No.163 20/08/09 23:57
旅人さん0 

群馬県前橋市の【最善寺】さんへ参拝いたしました。

この辺は古墳があるところでありまして、コロナによる外出自粛令が出される直前、あの【吉永小百合さん】によるJR東日本のCMで紹介されていた古墳がまさにここ、大室の古墳でありました。
とはいえ、古墳には全く興味がない私、いまだにその古墳に行ったことがありませんけれど。

閑話休題。
最善寺さんは、かつて大室の地にありました【大室城】の城主であった石川氏のお墓があるお寺さんであります。
その石川氏は前橋藩主酒井家の家臣であり、酒井 が姫路城に移った際に石川氏も姫路に移り、城主の不在となった大室城を管理していたということです。
そんな前橋市の歴史と深い関係がある最善寺さん、御本堂はさほど古いものではなく、広い境内には新しい仏像があちこちにおられ、四季折々の花々が咲く、大変居心地のよいところであります。
御朱印をお願い致しましたところ、御住職さまが
「うちは書き置きの御朱印で日付を書き込むだけのものとなります」
とおっしゃり、少々お待ちくださいというと、なにやら御本堂に向かわれました。
鐘の音が聞こえ、ああ、書き置きの御朱印に御祈祷下さったのだなあとありがたい思いで待っておりますと、半紙に丁寧に御包みくださって御朱印をお持ちくださいました。
「御朱印帳にちょうどよい大きさだと思いますので」と手渡してくださったので恭しくそちらを御朱印帳に挟みしまわせていただこうとしたところ、
「うちの御朱印はこちらに深いご縁のあった自得さんという方が書いた絵を忠実に写した紙に御朱印をしているんですよ」と。
開いて拝見させていただきましたところ、埴輪の踊るような、心がなにやら弾むような絵が書いてあります。

自得さんとは【松野自得】という群馬県出身の僧侶であり、画家であり、書家であり。文筆家であり、俳人であるといった方で、こちらの最善寺さんを拠点として全国をまわる旅を続けた方であったようです。長崎の原爆投下後に詠んだ句は、長崎の地で句碑となっているようです。
こちらの最善寺さんの境内にも自得さんの句碑があり、【御佛は大地におわす八重桜】とあります。

たくさんのお優しいお顔だちの石仏さまたちに会いに、そして四季折々の花を愛でに、是非また参拝させていただこうと思っております私でありました。

No.162 20/08/08 00:34
旅人さん0 

仕事がお盆休みにはいります。ほんの二年前まではお盆休みのない仕事でしたので、なんだか申し訳ないような居心地の悪さを感じています。
お盆を迎えても、基本的には墓守りをしている立場でないため、お墓参りをしようにも故人は帰るべきところへ帰っておりますし、そこにお線香あげにうかがう程度で、かように長いお休みをいただいても、なにもすることもなく、さりとてどこかに行けるご時世でもない今年であります。
嫁ぎ先において、夫は次男坊で、そういった扱いのかなり残る家柄ですので、法要も日時を決定した状態で招待される立ち位置であります。実の親であっても他界された時点で、見えないけれど確とした線引きをされるものなのだと、寂しいように感じていたものです。
 
ましてや嫁いだ我が身であれば、それこそ、親が親でなくなるような、自分の親のことでありながら、口出し一つできなくなるのだということをいやというくらいに実感いたしました。
自らの手で迎え火や送り火をおこなうこともなく、【精霊棚】もお線香あげに出向くことになる兄弟の家が用意するものです。
お墓参りも僧侶を招いた新盆法要も蚊帳の外でありますが、これもあくまでも母の墓を守る立場の者にのみ法要を執り行うやり方の決定権があるもの。
人の死というものがこういったことであり、そしてこんなにも大変だったことをあらためて知りました。
おぼろげながらに終活というものを考える年ごろでありましたが、それがいかに甘いものであったかを痛感いたしました次第です。


そんな私が何気なく手にした本がありまして、シリーズ第四弾となる人気小説なのですが、奇しくもそこには余命宣告を受けた者が残された日々をどう生きるかを描いてありました。
〖死ぬまでにやりたいことリストを作る〗〖つながりを意識する時間をもつ〗〖かなえてきた夢を思い出す〗〖死後に必要な手続きを調べる〗などなど。

正直コロナ禍において私には重い内容であるように感じましたし、何かと向き合うことの多いこの本ではありますが、この本とこういうタイミングで出会ったのは思し召し、なのかもしれません。

【夢をかなえるゾウ4】 水野敬也著

であります。

No.161 20/08/04 09:46
旅人さん0 

そんな【観音寺】さんのお不動さまの左隣には、あまり御本堂の内陣の脇間とかではみられることのない石仏さまの座像が安置されておられます。こちらは┉
こちらは、かつて地域で信仰の厚かった薬師堂が区画整備などで移動しなければならなかったということがあり、こちらのお寺さんが頼まれお預かりしたという経緯があった【薬師如来】さま、なのだそうです。
「撫でてご利益をいただいていたお薬師さまなので、よく撫でられていたところが色が変わってしまっているんですよ」と御住職さま。
右隣には御椅子に座られた導師さま。
疫病退散に神通力をお持ちであった元三大師さまの御像のようです。
「今このコロナの時期に本堂にお越しの皆様にぜひ御祈願いただいて、大師さまにお声をお届けしたいと思っているので、是非。」とのこと。
あの一種異様な鬼になられた元三大師さまのお姿こそが疫病を退散させて下さったのだとおっしゃいました。
そうでした。元三大師さまは天台宗の高僧でありました。
それでも御住職さまは少し照れるように
「なんでもあるんですよ」と。
┉むしろありがたいことであります。

そして内陣の向かって左側。
中央にひときわ背のお高い御仏がおられ、左右に少し小さな御仏が安置されています。
「真ん中と向かって右がお地蔵さまで、こちらのもともとのお地蔵さまは左隣におられます」
「真ん中のお地蔵さまは、八幡宮の裏手にある墓所にある地蔵堂から、あちらが無住になってしまったことからこちらにお越しになったんですよ。」
┉お薬師さまとお地蔵さま。よいところにおこしになることができました、よね。

そして脇間のむかってひだりにはば、十一面観音さま。
水瓶?をお持ちです。
「こちらは聖観音さまで、お顔は十一面観音さまのようです」
お!!(゜ロ゜ノ)ノ

作者が一緒で大きさが一緒だったりすると、そんなカスタマイズができちゃうのでしょうか。違和感は何一つありませんでした。
あれ?
御住職さま、この間観音さまがおられない観音寺とおっしゃっておられたような気がしたのですが┉どうやら私の記憶違いか聞き間違いであったようです。すみません(。´Д⊂)




お寺の鐘も好きに好きなだけ撞いていいとのこと。
┉そもそもそんなことを聞く人はあまりいないのだろうなぁ。




No.160 20/08/02 22:01
旅人さん0 

群馬県桐生市の【観音寺】さん。今回、御本堂で御住職さまにお話をうかがう機会を得ました。

御本尊さまは薬師如来さま。
┉記憶違い?遠目でありますうえに、記憶障害に心底悩みを持つ私。薬師如来さまだったと思うのだけれど┉。
坐┉座像であられるせいでしょうか、なにか違和感があるのです。
そうは言っても、仏様のお姿にもさほど詳しいわけでもない万年初心者でありますし、あとでそっと調べよう。と思っておりますと、
「御本尊さまは薬師如来さまなのですが、どうやらこちらの仏(像)さま、阿弥陀如来さまなのではないかと思われるのです」
「江戸時代に山門以外すべて焼け落ちたような火事がありまして、そのゴタゴタのあとにもしかしたらそのようなことも起きたのではないかと。ですがこちらの御本尊さまはあくまでも薬師如来さまであるとしてずっとそのようにお奉り申し上げております」
┉さらりとおっしゃる御住職さま。
ですが私、実はこのお話にたいへん感動いたしました。
御仏のお姿を写した御仏像は、それはそれはありがたいものであります。ですが、あくまでもそれは人間が写したお姿に過ぎず、お奉りされているのはあくまでも薬師如来さま、とされる姿勢に深く感動いたしました次第であります。
┉もしかしたら薬壷がなかったのかなぁ、┉それを確認する手だてであるお写真は今回撮らせていただきませんでしたので、確認のしようもなくて┉。
でも御住職がおっしゃっておられたように、お姿に異なる点があろうとこちらの御本尊さまは薬師如来さまなのであります。

そして向かって右の脇間の中央には【不動明王】さまのそれはそれは見事な御像がございます。決して大きくはないのですが、彫りが細かく表情がリアルでお美しいのであります。矜迦羅(こんがら)童子と・制多迦(せいたか)童子が従っていますが、その大きさがちょうどおとなと子供といったくらいの差であって、そこがまた私の好きな作りでありました。
「亡くなられてすぐの一週間はお不動様にお預けし、最初の審判をお受けになっていただくのです」
本当にお美しい御像であります。
お写真を撮らせていただきたい気持ちと、そのままでおきたい気持ちとがあって、今回は写真におさめないことに。
ただ┉今こうして筆をおこすとやはりお姿を撮してくればよかったなぁと、雑念、┉欲が生じる私なのであります。


No.159 20/08/01 09:13
旅人さん0 

八月をむかえカレンダーをまくったところ、[十二日]の下に、
【長崎原爆の日】【東京オリンピック開会式】、とありました。
去年業者さんが多くのカレンダーを作ったころには、こんなことになろうとは、こんな年になろうとは誰ひとり思ってなかったのに┉。

五十代。当然ながら戦争を知らない世代でありますが、それでも、毎年毎年原爆投下の時間に中継されるNHKのテレビ放送を正座して観ておりました。

息子は修学旅行で広島で被爆者の方の生の講演をお聞きする機会を得ました。
娘はやはり修学旅行で沖縄へ行き、その悲惨な戦地で地下に実際に入らせていただき、当時の、そこでの体感はどんなものであったのかを学ばせていただきました。
実際にその地を歩くことは、やはり胸に深く刻まれるものがあるようで、息子はその後も広島へ旅することがあるようです。そして言葉にならない、言葉にできない思いがあることだけを一言私たちに語ります。
あえてのひとり旅、でありますところに(誘ってくれないところに)思いの深さを感じます。


私たち夫婦はといえば、定番の神社仏閣巡り。
どこに行ったのかさえ覚えていないほどに、詰め込まれたスケジュールでありました。
もったいないことです。

私たち夫婦は今、奈良・京都を巡る旅を夢見ています。もちろん神社仏閣を。
そうはいっても、鎌倉の三十三観音霊場巡りも、秩父の三十四観音霊場巡りも、結願していない二人ではありますが┉。
現実は、もう、外出自粛の状態です。

早くコロナがおちついて、世界中の人々が、笑顔で自由に動きまわれる時に戻りますことを、祈ります。



No.158 20/07/29 05:40
旅人さん0 

梅雨も明けぬまま八月を迎えそうな今年、コロナの二本立ての生活は少なからず心に影を落としています。
とはいえこの梅雨が明けたら、今度は命をも脅かす異常なまでの熱さの夏が訪れるだけで、いま、私たちは試練のときを過ごしています。

歴史オタクの夫と二人神社仏閣をめぐり、その歴史にも触れることがあり、一人で過ごす時間にふと、江戸時代の疫病やてんさいの続いた頃に思いを馳せることがあります。
神さまに祈り、御仏にすがり、命ギリギリの苦しいときをなんとか乗り越えてくれた先人があって、いまの私たちの命へと繋がっているのだなぁ、としみじみ感じます。何代前くらいの先祖にあたるのでしょう。 
私たち夫婦は江戸時代までの先祖を辿ることは難しいのですが、お家によってはかなり前の世代までの系図を辿ることができるようであります。

命の尊さをあらためて感じます。名前すら存じ上げない先祖にいとおしさを感じます。
私はもっと魂を大切に育むように生きなければならないと、この年になってもきちんと生きられていない自分を恥じ、一瞬一瞬を、どう生きればよいかを考えなくてはいけないと思いました。とはいえ、難しいことではなくて、昔の人のいうところ[お天道様に恥じない生き方]をする、ということでありまして、まぁ、いわば、私の場合、怠け心との戦いということでしょうか。


神仏にまるで縁のない生き方をしてきたことを軌道修正すべく神社仏閣をまわっておりますが、それも、ただ数をまわればよいのではなく。
ただただ純粋に、生きていることに感謝して、働けることに感謝して、その日一日働けたこと、生きられたことに感謝して、道端にお立ちになられる野仏に手を合わせ、毎日毎日神社や寺に寄っては感謝をする。
そんなふうに生きられたらいいなあと思うのであります。
それはなかなか容易ではないけれど、心の持ち様として、そうありたいと思っています。

No.157 20/07/28 05:52
旅人さん0 

with Covid-19.
なかなかそれをイメージできないのは、私だけ┉でしょうか。

それでも、実際、住んでいる地域、生きてきた環境、置かれている環境や職業等によって、おそらくは全ての人がそれぞれの【with Covid-19】を模索しながら生きているのが現状なのではないでしょうか。
ましてやCovid-19を経験された方と、そうでない┉私を含めた人とはどうしてもそのCovid-19に対しての感覚に大きな隔たりがあることは否めないことです。

おそらくは、間違いなく第二波がきています。
正直、百人いれば百通り以上のwith Covid-19が存在している世の中は住みにくいものとなっています。自分の子どもたちとですらwith Covid-19の感覚には隔たりがあります。
まるでなにか、生き方自体を試されているかのように感じさえします。



私は毎朝、例の[仏壇もどき]で御仏に祈ります。
いつもお守りいただきますことへの感謝と、昨日一日をお守りくださったことへの感謝を述べて。
世界中を恐怖に陥れております新型コロナウイルス感染症が一日も早く終息しますよう、どうかお力をお貸しください、お救いください、と。

神職の方は神さまに。
御仏に帰依する方は御仏に。
毎日のお勤めのなかでご祈祷くださっておられます。

ご自宅に神棚をお祀りされている方は神さまに、仏壇を置かれている方は御仏やご先祖さまに。キリスト教徒の方は主イエスさまに。
それぞれの信仰する神さまや仏さまに日々祈っておられることでしょう。
世界中の人々が、それぞれの信仰する尊き対象に日々祈りを捧げていることでありましょう。
特に信仰する宗教がなくても、空を見上げ祈ることがあるのでないでしょうか┉今も、特段帰依する宗教を持ってはいない私がそうであるように┉。


そんな人々の祈りが大きな力となって、┉せめて同じような感覚でwith Covid-19. の日常を送れるようになりますように、私は願うのであります。
┉そう、あのインフルエンザウイルスと共存する感覚で。
それを支えて下さる仕事をされている方々がいて、であることに感謝して。


No.156 20/07/26 15:59
旅人さん0 

群馬県桐生市の観音寺さんについて、ネットで検索していると、今まで見たことのない石塔┉石幢が存在するとのことを知りました。
考えてみれば、お寺さんにおいてよほどのことがなければ墓所にはいりこむことはありません。
こちらのお寺さんでは、山門をくぐり、鐘楼のわきを通って、御本堂にお参りし、弁天池の鯉を恐々覗いて、それで参拝を終えていました。庫裏の前に広がる明るい墓所と、御本堂の裏にある墓所。
大きな垂れ桜の枝の蔭にある、石仏さまと古い墓石。
石幢って┉どこにあったの?
気になると、気になって気になって。でも、桐生市の観音寺さん、どこどこのついでに行くようなところにはないのです。
行こう!
いつ? お地蔵さまの御縁日、二十四日に、山門のお地蔵さまにお会いしに行こう。

タイサンボクの花の香の香る山門のお地蔵さまにご挨拶をして。
御本堂まえの香炉にお線香をたむけて。
御本堂横の、いつもは行かない御本堂の側面に目をやると、右横の垂れ桜の奥には、竹藪があり、さらには古い墓石が並んでいました。
┉なぜ今までこちらに目をむけることがなかったのだろう。
墓石群のおくに、その石幢はありました。


石灯籠の室、すなわち身部に相当する部分に、小さな七体の御仏が彫刻してあります。安山岩でつくられ、高さは私の身長より少し低いくらいの150cm。

この七仏塔の中央に刻まれている竿石の銘文は右に「大日本国上野州山田郡須永郷下仁田庵住」中央に「奉為逆修功徳主妙春霊位」左は「于時永正九天壬申三月五日啓白」とあるのだそうです。
石幢のそばにまで寄ることはできるのですが、だいぶ風化しており、渡しにはほとんど読むことはできませんでした。


この頃は桐生助綱公の治世。
特に銘文に「大日本国」と刻まれているのも例がなく、さらに「須永郷」と刻まれているのは、この地が古く須永の御厨といわれ、いつかその名がきえて、須永郷と呼ばれるようになっていたことの有力な証拠であるのだそうです。


すぐそばには御朱印で有名なお寺さんが二つ。
江戸時代の茅葺きの山門を持ちながら、田舎寺と謙遜される御住職さま。

ウグイスが鳴き、猫が呼びあうお寺さんの境内には澄んだ空気が充ちています。
そんな境内に立ち、あらためてこちらのお寺さん好きだなぁと思った、私でありました。

No.155 20/07/24 10:20
旅人さん0 

【こぼれ話】
その五
館林城主であった綱吉公の子息は、身体が弱く夭逝しておりますが、武家社会で初めて病気平癒のご祈祷を受けておられたようです。御年三歳と五歳。
そこから子どもが健やかに育つようにと、そしてその年まで健やかに育ったことを感謝して神社(仏閣)にご祈祷をお願いする行事、【七五三】に発展した、と言われているのだそうです。


まだまだたくさんお話を賜ったのに、メモをとることを憚ったので、記憶してきたことをなんとか絞り出したものの、ここまでで限界、であります。

お寺をあとにして何気なく見た時計に思わず、二度見して、さらに夫に確認をしたほどの時が経過しておりました。┉その時間、実に二時間。
御住職、本当にありがとうございました。

No.154 20/07/24 09:24
旅人さん0 

【木魚】は、その形をみて魚と思える要素がないくらいにディフォルメされています。そばで拝見する機会などあまりないものでもありますが、鱗のような彫りがあって、┉どこをどうすればこのような形をとるのか、やっぱりそばでみても顔があることと鱗があること以外に魚を語る要素があまりないものであります。
仏教に関わることなく生きてきた時分においても、あやしい好奇心を以て、木魚をそばで見られる機会があるとそばで見ていた私でありますが、見れば見るだけ魚から離れたものにしか見えませんでした。

この木魚も黄檗宗を伝え広めた、隠元禅師が中国から伝え、日本中に宗派を越えて広まった物なのだそうであります。
なので、黄檗宗の木魚は総本木魚。
寶林寺の御住職さまは、木魚に掛けられた白い布を外して、木魚を叩かせて下さり、さらにその造りをも解説してくださいました。

総本木魚。(┉龍?┉龍じゃない?しかも顔が二つあるんだけど┉木魚のルーツを伝えた黄檗宗の木魚ももはや木魚じゃないんじゃない?)
木魚を見つめながら、そんなふうに思う私の内心を見透かしたというか、アタリマエノ反応として、ニコニコなさりながら、さらにその木魚の秘密を、御住職は解き明かして下さいました。

もともとの煩悩を消し去れず輪廻転生した魚の煩悩を叩き出すということから生まれた木魚は、なるほどディフォルメされてかなりわかりづらい物になってはおりますが、叩いている部分こそが、魚であったときにできたコブであって、この木魚は煩悩をみごと吐き出すことができ、なおかつその修行を讃えられて龍になった姿で、さらには妻をめとり、妻と見つめあう姿となった木魚、なのだそうです。
┉輪廻転生だけあって、龍になるまで実に壮大な歴史であります。

御住職さまはそんな私の内心を見透かしたのかのように、[煩悩を吐き出す前の魚]、である木魚と、[煩悩を吐き出した、口に煩悩の塊の珠をくわえた魚]、の木魚を、わざわざ持ってきて見せて下さいました。
いずれもこちらの木魚は魚の顔を確認することができます。┉さすが総本木魚です。
総本木魚は私の造語ですが (ーωー)

No.153 20/07/24 00:27
旅人さん0 

寶林寺さんの境内にも黄檗の大木があります。

それと桃の木。
ハナモモも多く、その花の時季には大変見事なのだけれど、と少し口惜しそうな御住職さまでありました。
屋根にも、石碑にも、そこここに桃の実。中国において不老長寿の実とされた桃を珍重した、黄檗宗ならではの印のようです。

【こぼれ話】
その壱
こちらの中興の禅師、潮音禅師は大変優れた名僧であり、神道にも造詣が深かったようですが、伊勢神宮の御祭神についてある説を書物として、寶林寺から追われ、下仁田にある【黒瀧山不動寺】の住職となった経緯があるようです。

その弐
黄檗宗を日本に伝えた隠元禅師が日本に伝えたものとして伝えられているいんげん豆は実はいんげん豆でなかったけれど、隠元和尚が伝えた豆、ということからいんげん豆と呼ばれることとなった。

その参
江戸時代、黄檗宗が日本に伝えられたころはすでに太平の世、武士たちも傘張り替えなどで生計を助けるようになっていました。その内職の中のひとつに版木作りがありました。
黄檗版鉄眼一切経という経典の版木を開刻するに当たって縦一行の字数を二十字横十行と定め、これを一ページと定め、細かな字をより、読みやすいものとしました。縦二十文字、横十行。原稿用紙のもととなったといわれています。
ちなみにこちらのお寺さんには、その当時実際の版木から刷られた般若心経の紙がのこされております。黄檗で染められた用紙に印刷されていました。

その四
木魚は黄檗宗により伝えられ、仏教全般に急速に伝わったもの。
そもそもの木魚にまつわる伝説があり、その昔、人を苛め暴力を振るった者がいて、死して、魚として生まれ変わった後もなお、その性格は変わらず、池のなかで他の魚を追ってはつつき回る魚がおり、それに気づいた僧が、その行動を改めさせようとその性格の悪い魚の背を叩いて他の魚を苛めるのをやめさせていた。すると、叩かれていた背にコブができ、そのコブが原因で泳ぐことができなくなってしまった魚はコブを取り除いてやったものの死んでしまった。
悪い心根を戒めようとしての行動ではあったものの、殺生をしてはいけないという僧が魚の命を奪うこととなってしまった。
その罪を忘れないためにも、魚が改心できるようにというためにも、と木魚が作られた、というもの。

No.152 20/07/22 03:52
旅人さん0 

┉聞くことと、少しでも記憶して帰ろうということだけに重きをおいてお話をうかがっておりました私。ここでふと、この館林城と関わりのあったお寺さんの御本尊さまが長野に、それこそ移動先も知らせられることなく移動することとなったのかな?という疑問が┉。
そうするとあり得ないような御本尊さまを他のお寺さんへ移すということになんとなくさもありなん、と思えなくないことになるのですが┉。(;゜゜)

その後、江戸の地に廃寺となったお寺さんが再建され、こちらに移された什宝や梵鐘を返還して欲しいという話になったこともあったり、
さきの第二次世界大戦で、多くのお寺さんから梵鐘が供出されていったなか、こちらの梵鐘はこのお寺さんにのこされて、今にいたっているようです。
見る目のない私のような者には、いかにもどこのお寺さんにもあるごく普通の梵鐘にしかみえないのでありますが┉こちらの梵鐘、【千代田町の文化財】というパンフレットによると、【国の重要美術品】なのだそうで !(゜ロ゜ノ)ノ
┉本当に見る目がないのだなぁ、と落ち込むくらい、普通の梵鐘にしかみえない私でありました。
そんな名鐘を自身の寺に持つ御住職ですが、梵鐘については一切語らず、いかにも奥ゆかしいことでありました。


こちらの宗派、黄檗宗。黄檗とは実は樹、なのだそうで。

「黄柏」とも書く、キハダの別名。
キハダの幹の皮をはぐと、あざやかな黄色が現れます。この黄色は、ベルベリンという色素によるものです。樹皮からコルク層を除き、乾燥させたものは「黄柏(オウバク)」と呼ばれ、古くから生薬として用いられました。
 「良薬は口に苦し」の言葉通り、強い苦味と健胃整腸作用があり、民間薬では正露丸などの苦味整腸薬や止瀉薬の原料とされ、過去には外用薬として、内皮の粉末に酢を加えて練ったものを打撲に用い、煎じ液を眼病の際の洗眼に用いたようです。
 
 黄柏は染料としての長い歴史があり、絹でも木綿でも媒染剤なしで黄色に染めることができます。古代中国の楚(そ)では公式文書の用紙に黄柏で染めた「黄紙」を用いました。日本でも、東大寺正倉院の遺物に同様の紙が見られ、美しく黄色に染まった紙は防虫作用もあるため、経文用紙としても重宝されたようです。
着物の間に挟んだ黄色の紙に覚えがあれば、それも黄柏染めで防虫用であったようです。

No.151 20/07/22 03:22
旅人さん0 

昔、とはいえ、江戸時代の、それこそ徳川家と関係するくらいのお寺さんであるにもかかわらず、┉むしろ徳川家と関係するくらいのお寺さんだからこそなのか、御本尊さまを唐突に長野のお寺さんへ移すこととなり、そしてそれこそそれがどこのお寺さんなのかもわからないような状況となるのかもしれません。
御住職はそこでお話を次に移したのですが、歴史オタクの血がどうにも騒いだのか、夫が「長野のどこのお寺さんなのか結局わからないままなのですか?」とせんなき問いをいたしましたところ、
「ある程度は、┉おそらくはここではないかというところまではわかってはいるのですが」と。御住職ご自身の足で何度も長野をお訪ねになられてのことのようです。
いまさら返して欲しいということではないにしても、やはりご自分のお寺の、ましてやもともとの御本尊さまのことが気にならないはずはありません。

そして┉。
徳川綱吉公との関係。
こちらは館林の領地だったわけではなかったようですが、中興の潮音禅師さまが綱吉公の帰依を受けられており、もともとあったこちらのお寺が無住とまでなってしまっていたことをうれいていた有志の方々が禅師に是非にとお声がけし、こちらのお寺に入っていただいたというのが、実際のところのようで、直接のご関係ではなかったようではあります。
館林城主であった綱吉公が、将軍として江戸城へ移られるにあたり、館林城主には綱吉公のお子さまがなられました。御年わずか三歳、昔のことですからもしかしたら数えで三歳なのかもしれません。
三歳であることだけでなく、お体の弱いお子さまであられたようで、実際には館林城には一度もいたことがないようです。
そして┉将軍お体の弱かった城主が亡くなられたことを受け、館林城は取り壊され、と同時に徳川家と関わりのあったお寺も廃寺となり、同宗派であったこちらのお寺にその廃寺となったお寺の御本尊さまと什宝、梵鐘が移された、ということでありました。





No.150 20/07/21 00:36
旅人さん0 

御住職いわく、総本山萬福寺において【緊那羅像】が安置されているのは一般でいうところの食堂、【斎堂】なのだそうです。
お寺さんではありますが、中国の僧が開いたこちらは中国式に高脚飯台と腰掛、テーブルと椅子での食事なのだそうで、
「それだけでも修行する身にはずいぶん助けられた気がいたします」と懐かしそうにおっしゃっていました。

不動明王さま。中興開山の潮音禅師さまの御椅子に座られた御像。
そして現在修理中という華光菩薩さまとおっしゃる御像の空席が。
はて。
華光菩薩さまとおっしゃる菩薩さまのお名前もまた初めてお聞きしました。もともと仏教に関わることのない人生を歩んでまいりました者ゆえ、知らないことのほうが断然多い私であります。しかも華光菩薩さまは現在修理中でお留守。お会いできない御仏像について質問するのも憚られて、帰宅後またGoogle先生にお聞きした次第であります。


宋代から明代にかけて中国南方の地域で強く信仰されていた密教由来の道教神・華光大帝(馬霊官)が仏教に取り込まれ、変容したのがこの華光菩薩である。柔和な表情に三眼、左手には投擲用の武器「金磚」を持ち、文官のような衣服に身をつつみ、三山帽のような冠を戴く。
黄檗宗を日本にもたらした隠元は福建省福州福清県の出身者である。また彼が身を置いた福建省の黄檗山萬福寺には華光像が置かれていた。ゆえに黄檗宗ともに華光像(華光信仰)も持ち込まれたのではないかと推測する。

とありました。うーん。これはお会いしたい。


さて。御住職はその後衝撃的な事実を私たちに告げるのであります。
「実は御本尊さまを長野のほうに安置するようにいわれて、昔からの御本尊さまは長野のどこのお寺におられるかわからないままなんですよ」 ゚ ゚ ( Д  )


え?ええぇぇぇ?!

え?私今のお話の前後、いねむりでもしてた?                 

No.149 20/07/20 23:49
旅人さん0 

黄檗宗では布袋さまは弥勒菩薩さまの化身とされているとか。寶林寺の御住職はそれについて一言も触れませんでしたが、布袋さまの向かって左隣に弥勒菩薩さまの御像が安置されていました。

御本堂中央には御本尊【釈迦如来】さま。その向かって左に【阿難尊者】、右には【迦葉尊者】がお立ちになっています。
実は私、このような配置で安置されたお釈迦様を拝したのはこちらが初めてでありました。釈迦三尊像といえば、普賢菩薩さまと文殊菩薩さまとされているのだと思いこんでおりました。
阿難尊者と迦葉尊者、うーん、お釈迦様のお弟子さん、だったような┉。いかにも人間、といった御像であります。
御住職にお聞きしようか。
いやいや、ここはとにかく御住職が語られることを少しでも多く記憶して帰ろう!それが一番。帰宅してGoogle先生に聞いて済むことはそれでいい。御住職のお話は今しかお聞きできないのだから。

┉ということで帰宅してGoogle先生にお聞きしましたところ、

「一人の人間としての釈迦」を重視する臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の禅宗各派では、釈迦如来の脇侍として、菩薩ではなく羅漢を配することがある。この場合、大迦葉尊者・阿難尊者(月蓋長者・善財童子の例もある)を配する。

とのことで、宗派によって、あるいは時代によって、脇侍は異なるようであります。
なるほど。厳しい修行をされ、覚りをひらかれたお釈迦様をあくまでも、一人の人間としてとらえる。┉私はいたく感動いたしました。
そうしたことでより尊く、より身近に感じることができる気がいたします。
王子としての位も、家族も棄て、有り余る財を捨てて出家されたお釈迦様。覚りをひらかれたのち、多くの者にその教えを広め、弟子たちがそれをお釈迦様の没したあと、後の世に伝え、それこそが今の仏教の礎となっているのですから。


そして、御本尊さまを奉る、向かって右てには、両腕のない、それでもなおその勇ましさをしめす御像がお立ちになっています。
【緊那羅】さま、とおっしゃるようです。こちらも初めてお目にかかるよう思います。釈迦如来の眷属、八部衆のお一人で、音楽の神さまなのだそうで、総本山【萬福寺】においてもこちらの御像がお祀りされているのだそうです。

No.148 20/07/20 06:38
旅人さん0 

こちらのお寺さんの開山は1306年。十四歳で仏門に入り、比叡山等で修行されさらには中国にまで渡って修行された方が、帰国後足利義満公の帰依を受けて、この地に大きな寺を開創されたのが始まりのようです。当時よりお寺の名前は寶林寺さん、だったようです。

ですが時代とともにこちらのお寺さんも廃れゆく時があったようで、一時期は無住とまでなったようです。
規模が大きいお寺さんであったこともあり、それをもったいないこと、口惜しいことと思う方がおられ、江戸時代となり、世の中がようやく平穏な時代を迎えた頃、こちらのお寺さんをなんとか復興しようという動きが起こります。

時を同じくして、中国の僧【隠元禅師】が教えを広めようと弟子二十人とともに日本を訪れ、【黄檗宗】を伝えていました。
黄檗宗は後水尾法皇と徳川四代将軍家綱公の崇敬を得、京都の宇治に九万坪の寺地を賜り、黄檗山萬福寺を創建させていました。禅師の教えは大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得ます。
その黄檗宗の修行を受けた一人【潮音禅師】は、開山の寺二十余、弟子を六四名持つ名僧でありました。
ここ寶林寺さんの再興を強く願った小山市の方、熊本市の方を中興開基とし、当時館林城主であった徳川綱吉公の帰依を受けた潮音禅師がここ寶林寺さんを黄檗宗の北関東初の道場とされたのが、現在に綿々と連なる教えとなっています。

当時は大きな寺地をもち、さまざまな堂宇があったようです。
度重なる火災により当時の面影は一切残されておりません。

ですが、黄檗宗本山の御仏をおこした運慶の流れを汲む仏師の手による仏像は、その一部を欠くことはあるものの現在もこの寶林寺さんの本堂に安置されています。
本山である京都【萬福寺】さんのパンフレットの表紙を飾る布袋さまがおられるのですが、その布袋さまを造仏した仏師が彫りおこした布袋さまがこちらの御本堂にも安置されています。すべてを模したのではなくお顔の大きさやお口の開き方などを変えて造られたようですが、見比べてはじめてわかるくらいの相違であります。
息をのむほどにお美しい観音さま。
お美しいスッとしたお顔立ちの韋駄天さま。
お顔だけになられた達磨大師(あえてお顔だけ彫られたのかと思うくらいに大きなもので、御体があればそれは大きなものであったと思われます)。

No.147 20/07/19 19:08
旅人さん0 

「こんな格好のままで申し訳ない」と御住職さま。
なにをおっしゃいましょう。作業の手を止めさせて御本堂にお招きくださって、これ以上のことはございません。
僧籍の方がなさる、紐でしばっておつけになる下の部分は垂らした状態のマスクのような仏衣をおつけになっておられます。┉僧侶としての決まりごとなど何一つわからない身であります私どもにございます。

御本尊の御前の蝋燭二本に灯をお灯しくださって、お線香もお授けくださいました。すでに恐縮しております私どもに、
「お時間はありますか?」と御住職さま。
「はい!」声を揃えて応える私たち。
「こんな田舎の寺に人が着てくれることなどあまりないもので、よろしければ少しお話をさせていただこうかと思いまして」
ご謙遜をなさりながらも、こちらの宗派であります、黄檗宗についてから、隠元禅師ついて。黄檗宗の総本山である【萬福寺】さんについて。
黄檗宗となります前、鎌倉時代においては臨済宗であったこと。ひとつひとつ、私たちの呑み込み具合を確認しながら、ゆったりとでも淀みなくお話しくださいます。
さらに続いたのは、かの第五代将軍となった館林城主綱吉公とこちらのお寺との関係でありました。

 
すごいなぁ。 
歴史って。
壮大で、しかと繋がっている。

歴史オタクの夫が喜びそうな私の感想は、ここだけに封印しておきますが。 (* ̄ー ̄)v




No.146 20/07/19 18:14
旅人さん0 

群馬県邑楽郡千代田町の【寶林寺】さんへ参拝させていだきました。ぼーっと車の助手席に座っていると目の前の信号についている地名は【真福寺】となっています。(真福寺さんって言ってたっけかなぁ?)

その辺、私、天才的に記憶違いする能力(人として絶対欲しくない能力)を持つ者でありますし、「真福寺町」とかでなく【真福寺】と言い切った地名であります。これが寺の名前でなくてなんであろう。
┉寺の名前ではありませんでした。
その住所、なんと【千代田町真福寺】!THE 真福寺!みたいな。
たまには正常に機能することもあるのだなぁと自らの記憶力を褒めたところで、車は寶林寺さんの駐車場に。

ひさしぶりの青空です。
青空に神社仏閣、なんと映えるものでしょう。

山門の前には石仏さまたちがお並びになられておりました。
山門の扁額の文字を見て、なるほど!【真福山】となっております。歴史の流れのなか、真福山という山号を地名とするようななにかがあったのかもしれません。こちらのお寺さんは鎌倉時代より続く由緒あるお寺さんのようであります。

山門、そして鐘楼も、御本堂も、庫裏も、みんな新しいお寺さんで、広く大きな木もない広々とした気持ちのよい墓所が連なっております。ひさしぶりの晴天だけでない気持ちのよさがあるお寺さんであります。
ん?墓所の方で御住職らしい方がネコ(一輪台車)を傍らに、除草作業をされておられます。お辞儀をして、御本堂の前へ。
御賽銭箱もなく、鰐口もなく。それはこちらのお寺さんが【黄檗宗】、だから、なのでしょうか?

御本堂の前に掲げられた扁額には右から左へと横に【寺林寶】と書かれています。掲げられた文字の書かれた札は他にもあるのですが、どの手もそれは見事でお綺麗な流れるような書で、思わず見とれてしまいます。
お?何やら夫が御住職さまと話しております。何用で訪れたものかとお訊ねくださっておられるご様子であります。ただの参拝の者であります、お手を休ませて申し訳ありません。
「┉御本堂へどうぞ」
え?ええ?
なんとありがたいことでありましょう。作業を中断なさってまでお声がけくださり、さらにはわざわざ御本堂の鍵を開けてくださるなんて。

No.145 20/07/19 07:52
旅人さん0 

そんな八歳違いの姉。
お互い歳をとり、いまではなにかあると電話して一時間近く話しているような間柄となり、それなら一緒に神社仏閣巡りをしようか、という話にもなりはしたのですが┉。
姉は姉で目的やら廻りかたが異なるため、残念ながらそれがお互い譲歩できず、「一緒には無理だね」という話となり、行きたいところが一緒であっても別々に行くしかない姉妹でして 笑。
ひとつの神社仏閣の隅から隅まで堪能したい私たち夫婦。
姉は姉で、例えば鎌倉七福神巡りを一日でしてしまいたいし、たとえ並んでもその日限定の御守りをお受けしたいと思えば前の日から宿を取って、綿密な計画を立て、なおかつ周囲の神社仏閣の無駄のない廻りかたを考えるタイプ。しかも健脚!私たちなら電車バスの移動を考える距離を平気で歩く。┉八歳上でありながら、私たちよりじょうぶなわけであります。

そんな姉。
血筋なのか運転はたいそうへたっぴ、なのでありますが、もともと培われた行動力と、なにぶんにも甘える先のない独り身、ということもあり、後日談でけっこうな冒険談を聞くことがあります。

群馬県の【大洞赤城神社】さん。群馬県の上毛三山の一つであり、スキー場やら、沼の氷の上で釣りができるようなそれなりに高い山であります赤城山の山頂にある神社さんであります。
こちら、豪華で綺麗な季節ごとに変わる御朱印帳で有名な神社さんでもあります。出先で大洞赤城神社さんの御朱印帳をお使いの方を見かけることがしょっちゅうあるくらいであります。
そんな御朱印帳を、コンビニ等で無料でおいてある小雑誌で知った姉。欲しいと思うとすぐに行動したようです。
彼女の車にもナビがなく、どこをどうやって行ったものやら、┉と傾聴していると、「『冬は閉鎖されている』とか知らなくて、十日前まで通れなかった道を行ったんだけど、雪がひどくて、道も狭くて、いつになったら着くんだよおぉっておもいながら必死に運転したんだよお」  ( ゚□゚)!
┉あり得ない。

赤城神社さんは女性の願いを叶えてくださる神社さんで有名でありまして。
ましてやそこのお参り(?)と御朱印帳を求めてひたすら雪道をひた走るおばさんの願いで、無事に帰宅するまでしかと叶え、無謀な彼女をしかとお守りくださいました。

霊験あらたかな赤城神社さんに今さらながら感謝した私でありました。( -`Д´-;A)

No.144 20/07/19 07:15
旅人さん0 

姉がひとりおります。
何かのテレビ番組でもあるように、この言葉、一つで二つの言葉を表しておりまして、思わず笑みがこぼれてしまったのですが、『姉が一人いる』『姉が独り(で暮らして)おります』、という、二つの意味を持ち合わせておりました。書いてみてその偶然に気づいた次第であります。

苦労人といえばけっこうな苦労人なはずなのに、天性のものなのでしょう、のんきで朗らかです。
私とは八歳の年の差があり、小さいときはあまり仲のよい姉妹ではありませんでした。
年が離れすぎているから┉というよりは、むしろ、どちらかというと天敵みたいな感じで、しょっちゅう喧嘩ばかりしていた姉妹でありました。私は姉に負けまいと、姉が喧嘩で使った言葉を辞書で調べては応戦していた強者で、私が七歳であれば姉は十五歳、口喧嘩ですら負けまいとする妹はなんとも可愛いげのない子供でありました。
それでも、バイト代で映画に連れていってくれた姉┉なのですが、小学三年生に、宗教的な映画で全裸の男性が出てくるような内容のものを見せて共感を得ようとするムチャ振りで、せっかく連れていってくれたのに、感動的な映画に「わかんない」という妹。そしてまた喧嘩。
┉思い出せばお互い可愛い時代でありました。
そんな姉は若いときから行動的な人物で、バイトをしてはあちこちに泊まりで旅行するような人物でもありました。
私はといえば、どちらかというとインドア派で、そのわりに無鉄砲で活発、という、┉まぁ変な子供でありました、かね(^_^;)。「暗くなるまで遊んでいて親に怒られ、それでも懲りずにまた怒られるのは私でした。もっとも姉が子供時代は私の知るところではないので 笑。

そんな姉、御朱印をお受けしていることをひょんなことから知りまして。
私とは違って広範囲。
善光寺の御開帳の際にもツワーに参加して御朱印をお受けしておりました。
なんでも、ツワーに参加していて御朱印というものを知り、その場で御朱印帳を購入したのがきっかけだったとかいうことで、北陸やら、山陰やらの神社仏閣のものが連なった豪華なものでありまして。
関東から出ても長野、しかも他力本願な私とはまったく異なる神社仏閣巡りであります。









No.143 20/07/16 06:12
旅人さん0 

曹源寺さんの境内と墓所とのつなぎ、といえる場所に、お地蔵さまと並んでお座りになっておられる石仏がおられました。
頭に独特な被り物をお召しになられており、おそらくは死後の裁きを執り行われる十王のなかのお一人でありましょう。【泰広王】さまか【閻魔大王】さまか┉。
香炉もあり、お墓参りの前にこちらに手を合わせる人たちも多いよう思わせるお線香の燃え残りの多さです。

どなたなのだろう。
御住職が御本堂の鍵を締め始めておられます。「あのぉ┉」
図々しさでは屈指のおばさんは御住職にさっそくお声がけをいたしました。ですが、その石仏がどなたであるか御住職はあまり関心がないようで。うーん。


正直、御本堂のなかは暗くて狭く、足場もあまりよくはありません。脚のご不自由なかたは御本堂を廻られるのは少しきびしいもの┉かもしれません。【百観音参り】、やはり少し労苦はつきもの、ということでしょうか。


No.142 20/07/14 06:33
旅人さん0 

群馬県太田市の【曹源寺】さんは、栄螺堂として有名なお寺さん。
最近では月替わりの御朱印でも有名であるようです。

曹源寺さんは江戸時代に本堂が火災に遭い、その後、造られた観音堂を本堂としています。
さざえ堂は、江戸時代中期に普及・発展した『百観音 信仰』を背景に、関東・東北地方に限って建造された三匝堂(さんそうどう)のひとつです。外観は重層の二階建に見えますが、内部は三層になっています。
堂内には秩父、坂東西国の観音札所計百ヵ寺の観音像を安置し右回りに堂内を一方通行で巡拝できることから「さざえ堂」の名があります。

今回、コロナ禍において長いこと拝観も中止され、有名になっていた御朱印も書き置き対応であったものがようやく、外出自粛解除を受け、拝観可能になってから初めての参拝です。
とはいえ、近くを通りかかった折には参拝させていただいておりましたし、もともと本殿のなかに入れないお寺さんの方が大多数ですので、あまり拝観できないことには違和感がありませんでした。月替わりの御朱印もお受けしていなかったので、普通の参拝ができなくなった感の方が強いかもしれません。

ここ太田市は【中島飛行場】という、飛行場関連の工場があったため第二次大戦中の被害が甚大なところであったようですのに、ここはその被害を逃れることができたのだなぁと、今回、青空にそびえ立つ御本堂を見上げ、あらためて感謝とも感動ともつかない思いをいだきました。
この日曹源寺さんに到着したのが十五時半をまわっており、そもそもが拝観できるできないにあまり関心がなかったので十六時までという拝観は希望せず、今回は梅雨の晴れ間に境内を拝させていだきました。

こちらは新田氏の祖【義重】が京都から迎えたという養姫の菩提を弔うために、文治3(1187)年に開基したと伝えられていますお寺さんで、新田氏の家紋である大中黒一文字引きがそこここに掲げられています。歴史好きというかすでにオタクの域に達している夫にはいろいろな見方のできるお寺さんなのでありましょう。

何度も参拝させていただいておりましたのに、境内、というより墓所の方にはあまり行くことはなかったため、墓所に入ってすぐにある、薗田氏一門により造立されたと考えられる【名号角塔婆】や中興開基と伝えられる横瀬氏の【五輪塔】がありましたこと、今回初めて知りました。



No.141 20/07/12 21:32
旅人さん0 

観音寺さんの庫裏のすぐ横には【沙羅双樹】ナツツバキが二本。
その横には弁天池があり、今、ちょうど睡蓮が花の時をむかえていました。
御本堂の前には大きな垂れ桜の木があります。その垂れ桜の木の下には古い石仏が微笑んでお立ちになられています。
私はその石仏さまを観音さまだと思っていたのですが(^_^;)

「いつでもお越しください」とおっしゃってくださる御住職さま。


こちらは天台宗。天台宗は般若心経をお唱えなさらないのだとか。
天台宗は法華経をお唱えするのだそうです。
うーん、やはり、まだまだ仏教も入門前の超初心者、です。

No.140 20/07/12 21:09
旅人さん0 

群馬県桐生市の【観音寺】さんに参拝いたしました。
正式には【不老山 薬師院 観音寺】。

お寺の正式な名称は【○○山□□院△△寺】、となっていますが、こちらの御住職いわく、「『薬師院』というふうに如来さま由来の院号が使われていることは珍しいことなんですよ」と。たしかに、こちらのお寺さんのお名前にはお薬師さまと観音さまが使われています。
感心して「はあぁ┉」と思わず声を漏らすと、すかさず御住職さまがおっしゃいました。
「御本尊さまは薬師如来さまで、本堂には不動明王とお地蔵さまがお祀りされているんだけれど、うちには観音さまがおられないんですよ。観音寺を名乗っているのにね」
御住職さま、なんだかうれしそうであります。

「うちのお寺は江戸時代に火事で御本堂もなにも火事で燃えてしまって、山門だけが残ったんだよね。その頃にはもしかしたら観音さまがおられたのかもしれないんだけど、みんな燃えちゃって、その辺はもうわからないんだよね。」

観音さまのおられない観音寺さん。
御住職の茶目っ気たっぷりな横顔に、このまま観音さまのおられない観音寺さまであり続けてほしいと思った私であります。


江戸の時代から残るという、山門は茅葺きのもの。

「茅葺きはねぇ」と一転して難しそうなご住所さまのお顔。
「茅葺きは実に管理がむずかしくてねえぇ」
「茅葺きはねぇ、あの東日本(だいしんさい)の時の津波やら、放射線汚染やらで茅も手に入らなくなったし、職人さんもいらっしゃらなくて、なかなか修理までにいたらなくて」
そ、そうなんだあ。


山門前には仁王さま┉ならぬお地蔵さまがお立ちになられています。
台座を含めると、私の背より高いお地蔵さま。お優しいお顔立ちであります。
その山門をくぐると、甘い香りが漂っています。
え? どこから?
見上げるとようやく見える高い枝に、白い花が咲いています。
「タイサンボクなんですよ」と御住職さま。「木が大きすぎて見えないんですけどね」
「私タイサンボクって初めて見ました」
「いやぁ、よくある木なんですけど、ね。ただこんなにも大きな木はあまりないかもしれません。」
┉タイサンボク、中学時代の国語の教科書にでてきた詩にありました。


No.139 20/07/09 06:36
旅人さん0 

いきなりの揺れに思わず読んでいた本を手離した。
ん?続く?
揺れだしてまもなく緊急地震速報が鳴り響き出した。
さらに揺れは続く。また少し強い揺れとなる。
収まって!

まだ寝ている人たちがいる。
すぐには動けない時間帯の地震は緊張感が走る。
すぐにテレビのスイッチをいれる。
決してよくはない行動だろうが、離れて住む子どもたちの地震情報をつい確認したくなる。
昨日の雨、強い風で横殴りとなった雨で、思っている以上の何かが建物や川で起きているかもしれない。

震度は3くらいだろう。

よかった。さらなる揺れは今のところこない。
よかった!昨日甚大な被害を被っている長野ではさほどの揺れではなかったようだ。
長野は昨年の台風でも大きな被害を受け、復興もまだまだの状態だ。



新型コロナウイルス感染症の見えない拡がりへの恐怖と。
異常なまでの雨量。
そして地震。


神さま、仏さま、どうか、これ以上の艱難はご勘弁ください。
お救いください。


今日も雨音の聴こえる朝だ。

No.138 20/07/07 20:31
旅人さん0 

┉┉
井戸だぁ。
それも金属部分がなにやら新しくて、ポンプの持ち手の基にある部分には水がキラキラと反射するくらいにいっぱいにありまして。
これは、出る!
ポンプ式の井戸にもやたらと興奮する私。でも最近、古くて『触ってはいけない』という表示がされていたり、触ることはできてももはや水が出ないものだったりで、なかなか水の出るポンプ式の井戸に出会えません。子供の頃もポンプ式の井戸を見ると水が出したくてたまらないといった子供であったことはいうまでもなくて。

出たあぁ♡
そうはいっても井戸で遊ぶほどには非常識ではないのでご安心を。
ん?珍しく夫が井戸に軽く興奮しているようです。
「俺、ポンプの井戸初めてだ」
は? 嘘でしょ?
「うーん、水が出ているところを写真が撮りたかったなぁ」
┉大人な私はそんなリクエストに応えたりはしません。


だいぶ御本堂へ向かうのに時間がかかった参拝となりましたが、御本堂へ。

庫裏にうかがうと若いお坊さまが対応してくださいました。どうやら来客中のご様子であります。

御朱印帳をお渡ししてお待ちしていると、御住職がお越しになり自ら筆をおとりくたさるとのこと。お客さまがお見えなのに申し訳ない。
┉たぶん、お忙しくなければ、御本堂のなかにもご案内くださりそうでありますし、御由緒などもうかがえそうだったのですが┉御朱印をお書きいただけただけでもありがたいことであります。


さて、俵藤太のお墓参りであります。
やはりお墓までの地図が貼りだされております。墓所に向かうと、歴代の御住職のお墓のなんと多いこと!さすが俵藤太のお墓があるくらいのお寺さんであります。
俵藤太のお墓は┉?
え?もしかしてこれ?
これは┉お墓ではないのでは?
五輪塔であります。
お、【俵藤太の供養塔】との案内板であります。

市の案内板では墓という表現をされてしまっているものの、お寺さんとしては正式な名称でお取り扱いしたい、ということでありましょう。そんなお寺さんでありますので、俵藤太の説明書きなどは一切ありません。あくまでも普通にご供養されておられました。


こちらのお寺さん、大変居心地のよいお寺さんでありました。
鐘を衝けたからでも、井戸があるからでもありません。
通りかかった折にはまたお参りさせていただけたらなと思います。




No.137 20/07/07 18:27
旅人さん0 

先日、ずっと気になっていた【俵藤太】の墓という案内板のある場所へ行きました。夫も同様だったようで、今回は一度も口には出さなかったのですが、夫からそれを言い出したくらいで。

ところで┉、俵藤太という名前に聞き覚えはあるものの、たしか大百足退治をしたとかいうお伽噺の人ではなかったか?というくらいに、俵藤太についてなにも知らない私。
さすがにこのくらいは知っているだろうと今回は一切解説のない夫。

うーん。
お墓があるってことは実在の人物なのであろうなぁ。お墓に行けばきっとまた説明の案内板が出ているだろう。
そんな感じで歩を進めると┉お寺さんじゃないですか!
えっ?お墓っていうからお墓だけあるのかと思っていました。それくらい┉お伽噺になるかというくらい昔の人、ですよね。
ちゃんとお墓が現存するってすごい!


大きなお寺さんであります。
趣のある燈籠がある参道です。
山門があり、優しいお顔立ちの石仏がおられます。見上げるほど大きな仁王さまが山門をお護りになっておられるのですが┉迫力ある眼光と躍動的で筋肉モリモリの仁王さまであります。
群馬県伊勢崎市赤堀町にあります【寳珠寺】さん、というお寺さんでありました。

山門をくぐると大きな御本堂が目にはいってまいります。みぎてに立派な鐘楼があり、どうやらお衝きしてもよいようです。鐘を衝くのも大好きな私はもうそれだけでワクワク。
鐘をお衝きしてもよいお寺さんはどちらかというと少ないかと思いますが、鐘を衝くのは御本堂の参拝前、ということが決まりのようです。ためらうことなく鐘楼にあがってなるべく元気に鳴らす私。
私が衝いたあと、ゆったりとした足取りで鐘楼にあがって、静かに鐘を衝く夫。以前はお寺さんや近隣に気をつかって┉なのか鐘を衝くこともしなかったくらいでありました。
とにかく鐘を衝くことができるお寺さんではテンションがあがる私であります。軽やかな足取りで御本堂へ向かうと┉。 !




No.136 20/07/07 05:26
旅人さん0 

コロナ禍において、恐れていたことがこんなにも早い時期から起きてしまいました。しかもその規模は目を疑い、絶句するもの。
九州熊本を襲った線状降水帯による大規模災害であります。
そこにおられた方々にとって まさに地獄のような状況でありましたでしょう。
しかもあの熊本を襲った大地震の爪痕はまだまだ復興にはほど遠いものであります、そんな状況下を天災は容赦なく襲った。
さらに降り続いている雨。

このような天災を起こすことのできる存在を、昔の人は神として畏れ、そしてまた救いを求めて神仏に祈る┉。その繰り返し繰り返しでこの地球という星は歴史を刻んできたのです。

それにしてもあまりに惨い。


私もまた祈ることしかできない。

離れたところからテレビの映像から目をそらすことなく。
実際にあの映像のなかにはあの光景を体験なさっている方々がおられることをしかと受けとめて、自分に今できることを考えて生きること。
それがなにかに┉よい未来につながると信じて生きていくことが、まずは私にできること。



コロナよどうか、せめてかの地では治まっていて。



No.135 20/07/05 09:48
旅人さん0 

あいも変わらず各々で境内を歩くスタイルで、私はお不動さまの石仏にたいそう心引かれる方がおられ、しばしそこで足をとめていたものですから、私が大きな梵鐘を見上げている頃には夫はだいぶ境内を歩いたらしく、
「こちらに【村上鬼城】のお墓があるみたいだよ」と。
すでにスマホの画面にお寺さんがご用意くださった鬼城のお墓までの地図が用意されています。ほおぉ┉。
御本人の眠るお墓のあるお寺の境内で、大変申し訳ないことに鬼城の句のひとつも頭に浮かんでこない私。かような者が参拝することを鬼城は望まないのではないのかなぁ。

(帰宅したらGoogle先生に学びますので、こうしてお寺にうかがったご縁であります、お墓参りをさせていただきます。)
と胸の内で申し上げながら夫のあとに続くのですが┉かなり難航しているようです。
静かに眠りについておられるたくさんの御霊に失礼ではと思うくらいに迷っております。そもそもお寺さんの境内で迷子って┉(((((((・・;) 
いったん戻って、案内板を見直して、見直して┉!
案内板のすぐそばに普通にあるじゃないですかぁ。
「あ、俺この案内板、気づかなかったわ。」
はあぁぁ、私の方向音痴菌に感染したのかと思った。

そんなわけで、決して広くはない墓所でたいそう疲れはて、もう墓所のなかを歩く(迷う)のはいいと、ロシア兵の墓にはお参りいたしませんでした。
ここに眠るロシア兵は日露戦争の折に、この近くにあった陸軍の隊が捕虜として日本に連行し、こちらのお寺さんに預けた方のうち三名、病死なされたということでここに埋葬されたものだということでありました。
また、あとでGoogle先生にお聞きして知ったのですが、陸軍の兵士の墓所もあるということであります。

高崎城の城跡に建っていたという陸軍の駐留所。
夫から聞くまでそんな歴史があったことなど露知らず、まさに名ガイドであるといえましょう。まぁ本人にはそんなこと言いはしませんが(〃艸〃)

No.134 20/07/04 15:51
旅人さん0 

龍廣寺さんは、こういうのの道のお寺さんと呼ばれるにふさわしく、慣れない者はナビを持ってしてもなかなかたどり着くのに再チャレンジをするようなお寺さんでありました。
そしてまた、お寺へ上がっていく道も、その先に駐車場があるのかもわからないというスリリングさ。またまたおばさんの出番があり、ようやくたどり着くことができました。┉車を降りて先を見てくるだけでしたけど。(*´艸`*)

駐車場の反対側にも墓所があり、そこにはロシア人兵士之墓という看板が設けられていました。墓所が奥まったところにあるのか地図の看板も作られており、墓所の入口にはロシア風(?)の石像が二体、入口を見守るように合い向かいに立っています。

御本堂へ。
大きな、さほど古くはないむしろ新しい御本堂が青空にそびえていました。
ひだりてには鳥居があり、立派なお社が建っていて、みぎてにはやはりたいそう立派な庫裏が建っています。
山額は横、かなり長めの文字が書かれております。
【耀増日佛扇永風皇】黒地に金の文字でそう書かれた額を二体のひとがたの小人のような(SD?)像が支え持っています。初めて見る形であり、初めて見る文であります。Google先生にお聞きしてみましょう。
『願はくは、皇風永扇・帝道遐昌・仏日増輝・法輪常転、 大旦那各々に身宮安泰・福寿綿延せんことを』という祈願文が出てまいりました。同じ文言が含まれていますが┉。
意味は『ひたすら願うことは、天皇の仁政が長く続き、天皇のご政道がはるかに栄え、仏の光明がますます輝き、仏法がいつも引き継がれ盛んになり、大檀家それぞれに身体の安泰と幸福長命が続くことである。』
お寺の御住職にうかがうことができればよかったのですが法事の方々がすでに集まって来ておられます。御住職のお忙しいお時間でありましょう。うーん。
そもそもがこの祈願文、基となった何かがあるのではないのかなぁ?
Google先生、今回は私にわかるようなお答ではないもっと高度な知識を持つ方に向けての回答をなさいました。

境内には古い石仏があり、以前の御本堂に掲げられていただろう大きな大きな屋根瓦があり。あやしく写真を撮り歩く男女ふたりがおりました。

No.133 20/07/04 15:01
旅人さん0 

昨年のちょうど今頃だったか┉私だけ休日であった平日のある日、群馬県高崎市の小祝神社さんに参拝いたしました。その帰り道、ふと見上げたところにお寺の山門を見つけました。
寄ろうか?┉大きな通りの変則的な交差点のすぐそばで、急ハンドルをきるのもあぶなく、ましてやその高台にある山門に果して道が繋がっているかどうかもわからないのに、ナビもなく入り込んだら私のような方向音痴には遭難事故につながる危険もあり、その日は断念して家に帰りました。

家に帰って仕事から帰宅した夫に、「高崎の○○の帰りによく通る道のこういう交差点があって┉」
こういう交差点。それはなんと、フレミング右手の法則のような指で表したありえない表現による交差点でありました。
奇抜な言動には三十年も夫婦をやっていていい加減慣れているはずの夫も目を丸くして、( ´゚д゚)「はぁ?!」
┉すみません。もしかしたらわかってくれるかと思って┉。
フレミング右手の法則の交差点は高崎警察署のお巡りさんに聞いたって知らないと言われるだけでしょう。
私だけが知るまぼろしの山門。『こういうのの道のお寺』という名称で呼ばれて何ヵ月。


隙をみてはその謎解きに挑戦した夫が、ある日自信たっぷりに、
「こういうのの交差点のお寺、たぶん解った」
というではありませんか。しかし飽きっぽい私はすでに『こういうのの道のお寺さん』は幻のままでいいつもりになっており┉。
「こういうのの道のお寺に行ってみる?」何度か夫が問いかけてくれるものの、なかなか重い腰が挙がらず。(お尻?)┉ごめんなさいね。


先日、ようやく(夫の)念願の『こういうのの道のお寺』さんに行ってまいりました。

その正式名称は【龍廣寺】さんでありました。
龍廣寺さんは、徳川四天王の一人で戦国屈指の精鋭部隊「井伊の赤備え」として特に有名な【井伊直政(いいなおまさ、高崎藩初代藩主)】が開基の寺院でありました。
なるほど、高崎城跡のそばといえばそばでありました。
ということも、当日、高崎城跡にあたる辺りを車で走り、ここが高崎城のお堀だっただの、ここにはその後陸軍の基地ができ、だからほとんどお城の跡は残っていないだのを話してくれたガイド兼運転手兼じゃじゃ馬の手綱取りのおかげで知ったことですが。




No.132 20/07/04 07:40
旅人さん0 

>> 131 第九番札所【明智寺】さんは特に駐車場もなく、さりとて山門も塀すらもない、十字路のかどにあるお寺さんでありました。秩父の大きなコンクリート工場がそびえ立つ姿が印象に残る、ある意味秩父らしいお寺さん、なのだと思います。
とはいえ、駐車場のないことには困ってしまいます。そこは図々しさだけが売りの困ったおばさんの出番であります。車から降りて、寺務所の外でお話しされていた方たちにお声がけし、境内に駐車していいことを確認したところ、
「御朱印もあるかな?あるなら先に預からせてもらって。そろそろ閉めようかなと思っていたんだ」

へ?す、すみません💦
時刻を確認しながらこちらに来たつもりだったんだけれど、失礼なことを。
慌てて納経帳を取りに行き、あらためてお詫び申し上げると、
「んー、平日で、だぁーれも来ないから閉めようかなって思っただけだから、ゆっくり参拝してやってください。」
あ、ああなるほど。
そうでした。秩父の巡礼のブログを拝見していると、寒い時季とかはそもそも閉門時刻が早まっていたり、まさに平日誰も来なかったりすると早くに閉まることがあると、みなさん異口同音に書いておられましたっけ。それもそのはず。
こちらに来て知ったことですが、ここ、秩父の観音霊場は無住のお寺さんも結構あって、その納経所は別当寺さんにうかがうこともあるけれど、むしろ地元の方々がボランティアで詰めて居てくださってそこを管理運営してくださっているところもあるくらいで。
だぁーれも来ない平日。そろそろ終わりでもいいかなっていう閉め方もありだと思います。

そんなありがたい方々に支えられての巡礼であります。

図々しいおばさんはそんなありがたい方のありがたいお言葉に甘えて、六角堂であります観音堂で、お灯明をあげ香を手向け、読経させていただくのでありました。


こちらはすべてが新しいお寺さんで┉。たぶん火災とかですべてがなくなってしまいお寺自体の復興がまだされていないのだと思われます。観音堂と地蔵堂と、寺務所としかなく、しかも囲いすらがない。
それでも境内には板碑がたくさんあるお寺さんでありました。

というわけで、この日の秩父巡礼は第九番札所明智寺さんでいったん終了。

今度はいつ行けるかなぁ。盆地であるところの秩父。夏は暑く、冬は寒いといいます。
うーん。
私の場合、運転手さんがいないと来れないし。



No.131 20/07/04 06:28
旅人さん0 

第八番札所西善寺さんは、そんな樹齢推定500年とも600年とも言われる、幹の周囲3.75m、高さ10m、枝張り東西17.5m、南北17.5mの樹勢旺盛な巨木であるコミネカエデをも、あくまでも境内の景観のひとつであることを、ここを訪れたすべての人が気づく、素晴らしいお寺さんでありました。

こちらにおられます阿弥陀如来さまと十一面観音菩薩さまのお力にございましょう。
さらにはコミネカエデもまた、自らの立場をわきまえた立派な霊木だからこそなのでしょう。


何度でも来たいと思う、お寺さんであります。

No.130 20/07/04 05:22
旅人さん0 


┉こみねかえで┉?

私の愛するバイブル的存在の本にコミネモミジと書かれており、コミネモミジと入力すると西善寺と出てくるくらい、なんですけど┉(;゜゜)

それをまた、ここに書き起こしてから(!)あらためて自分で撮った写真を見直して気づくという、迂闊さ、間抜けさに、いつも自分ながら呆れて自己嫌悪におちいります。

慌てて【コミネカエデ】と入力すると┉!
当然ながら、植物であるコミネカエデの植物図鑑的なページがダァーっと並んで出てまいります。(`;ω;´)┉そうだ、そうだったな。普通植物の名称を入力したら、まずこうなるのが普通だ。

バイブルを書かれた方はおそらくは”あえて„詩的な表現である『モミジ』をお選びになったんですね。カエデももみじも同じ分類学上の植物、で。
無知な私はその長めの(←?)名前を覚えるのに必死で、そんな高度な言葉選びがなされていることにすら気づくことがなかった( ω-、)




正式名称はコミネカエデ、だそうです。

カエデ科の落葉小高木で、葉は掌状で5~7に深裂し、裂片は重鋸葉を有し先端は尖っている。葉の長さは6~9cm、裏面の脈わきには褐紅色の毛が生えている。花は6つに咲き、実は約2cmで、5cm位の柄を有する双翅果である。

ちなみに、西善寺さんのコミネモミジについて書かれておりましたので、添付しておきます。

幹の周囲3.75m、高さ10m、枝張り東西17.5m、南北17.5mの樹勢旺盛な巨木である。樹種はイロハモミジ系とみられる。樹齢推定500年とも600年とも言われ、根張りも見事で、枝下は一面苔に被われ、さながら幽玄の世界を醸し出している。



┉『幽玄の世界を醸し出している』┉かぁ。φ(..)メモ

No.129 20/07/03 18:42
旅人さん0 

再び、秩父路へ。


【コミネモミジ】と入力すると【西善寺】とでるくらいに、第八番札所の【西善寺】さんはコミネモミジ(カエデ)で有名であるようで。
西善寺さんの山門をくぐると、みぎてにその『コミネモミジ』がみえてきます。(んー、そんなに大きいのかなぁ?)
趣のある緩やかな下りのカーブの先に、御本堂がみえます。道を下っていくと石仏が何体かおられ、さらにはそのコミネモミジに向かって、石に腰掛け合掌する若い僧の石像がみえます。
わあぁっ。
そのコミネモミジの大きなに思わず声が漏れました。
大きい。
そしてその枝振りの見事なこと!
いま下って来た道には六地蔵さまがおられたようです。枝でお姿が隠れている上に、若き僧の石像に心奪われ、心の眼すら閉じていた?
とにかく、大きい。そして本当に本当に見事な枝振りであります。
御本堂にまずは行くべきところではありますが、その見事なコミネモミジに見とれてしまう。それはきっと私だけではないはずです。
新緑のコミネモミジの美しさといったら。
そしてその根元にその新緑を映したかのような苔が。
幹にも苔が生え、まさに今が見頃でありましょう!
そこから動きたくないくらい、、、でありました。
御本堂に向かって座る、観音さまの像にも苔が生えています。
はあぁぁぁ┉。なんと美しいことでしょう。
私だけではないはずです。この美しい樹に心奪われるのは。

おや?
コミネモミジの前に『こみねかえで』という立看板があるではありませんか!

ええ~っ?!

No.128 20/07/03 08:24
旅人さん0 

御朱印ブームに慢心しているのではないか?と思うお寺さんが存在しているのを知りつつもあり。また、ある時期限定で境内の景観を拝観料として切り売りし、法外な駐車場料金をとると話題になっているお寺さんもあり、眉をひそめる一人であります。
拝観料一人二千五百円、駐車場料金一台千円。
御本尊に背を向け、奉拝することもない、あくまでも景色だけを楽しむもので、宗教色は一切ありません。
┉ですが、これは、価値観の問題です。
お寺さんもまた、新しい在り方を模索している『時代』なのかもしれません。それについて反論できるほど、私は仏教に詳しくもありませんし。
お寺さんの維持には思いの外お金がかかり、由緒あるお寺が廃寺となっている現実もあります。
好きか嫌いか。そこに至るだけなのかもしれません。


毎日お焚きあげして祈願していると書かれているお寺さんで、次ぐ日の午後、前日の分の護摩木が山盛のまま放置されているのを見かけ、ふとそこのお寺さんにはそもそもが護摩壇が存在しないことに気づいたときの虚無感は忘れられません。お寺さんを、住職を信じて護摩木を奉納した人々に嘘だけはいけないと思うのであります。
護摩壇がなくともお焚きあげはありえるのかもしれませんが、二日続けてそのお寺さんに行った私は、午後になっても自分の分が放置されていたのを自らの目で確認してしまったので、そこに不信感しかありません。
その日そのお寺さんは御朱印お休みの日。
行列のできるお寺さんで、その日は私の貸切り状態。
香炉すら存在しないお寺さんに違和感を抱かなかった、初心者🔰でしたが、そのお寺さんには今、不信感しかありません。
在り方を模索していることはよいですが、お寺であることを語る以上、何はなくとも嘘だけはやめていただきたい。
その後私はそこをお寺として訪ねることはありません。



閑話休題。

でありました。

No.127 20/07/01 19:50
旅人さん0 

【法長寺】さんに牛の像。
法長寺さんの別名が【牛伏堂】であるということで、当たり前といえば、あまりに当たり前なことで。

牛伏堂といわれる由緒はふたつあるのだそうですが、
そのひとつは、このお寺さんの御本尊十一面観音菩薩像は行基作と伝えられるものなのですが、行基が観音像を奉安する地を求めて巡錫していたとき、その観音像が急に重くなり、その地に置いて回国の旅にでたのだといいます。月日が流れ、牧童が数名草刈りに訪れた地に牛が一頭現れ伏して動かなくなったのだといいます。
不思議に思い、牧童らはそこで一夜を過ごしても牛の行方を見守ろうとしたところ、夜半に十一面観音が現れ、
「ここから坤(ひつじさる)の方角にわれを祀れば、罪深い衆生を救おう」とお告げになられたのだとか。夜が明け、牧童らが草を分けて探したところ十一面観音菩薩像を見出し、お告げのとおりに草庵を結んで観音像を祀ったというもの。
もうひとつは、ある男が生前の悪行によって死後畜生道に落ち苦しんでいたのだといい、その姿こそが『牛』であったようです。その事を知った妻子が仏に帰依し、男の墓を参ると霊験によって男が畜生道から逃れることかできたのだというもので、その男の墓こそがのちに第七番札所に列することとなったというもの、なのだそうです。
もともとの牛伏堂は現在地から600メートルほど離れた位置にあったが、天明二年に火災により焼失します、本尊は別当寺であった法長寺に移され、そのまま法長寺が札所になったのだそうです。
本堂の前にいる黒い牛よりも、本堂から納経所に向かう途中の植え込みの前にある、白っぽい牛の石像が私は好きでありまして、こちらの牛は膝を折り座っているものの、前をしっかりと見据えて何かを訴えているような顔つきで、その顔立ちがなんとも可愛らしいのであります。

こちらの授与品のひとつに根付けの鈴に牛と、秩父札所第七番法長寺と書かれた木札のついたものがありました。物欲とのたたかいにみごと打ち克ち、法長寺をあとにした私でありました。

No.126 20/07/01 07:40
旅人さん0 

いま来た道を戻って┉いままで走行した道のなかでも指折りの走りづらさの道を戻って、さらには通り越してきた道を戻って、第七番札所【法長寺】さんに到着です。もちろん夫の運転であります。

もちろん運転免許証ももち、仕事に向かう際自動車出勤をしていて、図々しいとか申し訳ない、とか思う思いはあります。あるのですが、自分でも下手な自覚があり、子どもたちのお墨付き。
たぶん山道を行くような道幅の細すぎな道とか、悪路とか、坂道、カーブ、┉【まさに神社仏閣めぐり】、【巡礼】にはこれほど不適な存在はいないであろうと思われる存在でありまして┉( ω-、)
子どもたちの住むアパートくらいなら遠くても、そういったことのない道を走るので、私が運転することもあります。
そんなわけで、この図々しいおばさんは夫に運転を任せて、この日も全行程、助手席からの支援に(なんの?)あたるのでありました。


法長寺さんは住宅地を抜けたところに突然広いよく整備された駐車場と、大きくて新しい御本堂の屋根が見えてきます。いままでの巡拝させていただいてきたお寺さんとのギャップに戸惑うくらいであります。
その広い駐車場の向かってひだりてに、なんとも贅沢に、天然の絵画、天然の写真を展示でもしているように感じるくらいに、武甲山の全貌が見えるではありませんか!
なんと贅沢な空間、駐車場でありましょう!
とはいえいつまでも駐車場で武甲山の景色を堪能している時間はありません。
いざ、法長寺さんへ。(駐車場も法長寺さんの地所でありますけど、ね)

広くて手入れの行き届いた(決して他のお寺さんがそうではないという意味ではないです)、開放的な境内であります。そして御本堂もまた大きく新しいもののように感じます。
御本堂には入ることはできず外からの奉拝。二月十五日の涅槃会には御本堂が開放され巨大な涅槃図を拝することができるようです。
ここの御本堂は平賀源内が描いた原図をもとに設計されたといわれているようで、欄間にも源内の原図をもとにしたとされる彩色の彫刻が施されているようです。

ここの御本堂前には、あのよく見かける黒石の撫で牛がおり、さらにはもう一体、いわゆる一般の石仏の石で造られた牛がおります。

No.125 20/06/30 02:11
旅人さん0 

秩父を訪れたこの日は薄曇りの天候。
せっかくの【武甲山】はうっすらとしか姿が見えませんでした。それでもここ、【ト雲寺】さんからの武甲山は最高です。思わずため息がもれ、しばらくここにいたいと思ったものです。
こちらの御本尊さまはもともとは行基上人(奈良時代の高僧で神通力があったといわれる)が、武甲山で感得した観音菩薩さまのお姿を刻んだもので、武甲山の山頂に祀られていたといいます。
その後、ト雲寺が現在建つ辺りにあったとされるとが池という池に棲む大蛇を退散させるための祈願が行われ、観音菩薩さまの霊験があったため、池を埋めて観音堂を建立し、武甲山から本尊を移したというのがはじまりのようです。
その観音堂が【荻野堂】、でもともとはト雲寺は別当寺であったようです。そう、あの五番札所の【語歌堂】における【長興寺】さん、のように。
ところが荻野堂が焼失してしまい、1760年頃、現在のト雲寺に遷座して現在に至るようであります。

そのかつてあった荻野堂が、第五番札所と第七番札所の巡拝路の途中にあったいうことで、この観音堂(荻野堂)がト雲寺に遷座したことで、現在のようにいりくんだ巡拝路となったそうです。

ト雲寺さんの境内を抜ける爽やかな風にふかれながら、いつまでもここにいたいと思う気持ちをおさえて┉まずは超難関クラスの下山、であります。┉もちろん夫の運転によります。


次は第七番札所の【法長寺】であります。

No.124 20/06/28 11:52
旅人さん0 

このあとまわらせていただく六番札所【ト雲寺】さんは、ここからは少し離れたところとなります。七番札所の法長寺さんの大きな案内の看板を通りすぎての巡拝となります。
その程度の知識はあったので、夫に「なんだかここら辺は札所が要り組んでいて順番通りに行かないほうが能率的みたいなんだけど、どうする?」と申したところ、
「いや、巡礼だから、順番通りにまわろうと思う」という。
ふーん。

八番の看板も九番の案内板もみんなみんな通りすぎて。
この先に現代風の車での巡礼さんが訪れるお寺があるのだろうか?という場所となります。六番の案内板は┉見当たらない?
いやいや、ありました、ここ?
ええぇぇー!ここを入っていくのぉ?!
┉嘘でしょ?
無理だ、私では絶対無理だ。細い細い急カーブの登り。

やはり、巡礼は歩いてまわるものなのでありましょうか。( ω-、)
ナビを使ってなおもわかりづらく、なおかつ信じたくない細道、急斜面。
でも、秩父巡礼を少しでも調べると、この先もっともっと大変な難関な道があるようです。(`;ω;´)
頑張って、夫。頑張って、車。
┉これは私の愛車では夫の運転だってどうかな?

つ、着いた~!!

助手席で指を組んで祈っていただけの私ではありますが、┉着きました。夫よありがとう。
でも下りがあるからね。(`;ω;´)お礼はそのときね。
 
そんなこんなで到着いたしました第六番札所【ト雲寺】さん。
何度も通って、重ね印とか、密かに憧れていましたが、自力では来られない私では到底果たせないと、すでに六番札所で諦めの境地に到りました。

ですが、ここト雲寺さん、素晴らしい景色が広がり、風情のあるお寺さんであります。そして何より御住職のお人柄がお優しい。
ねぎらいのお言葉からはじまり、手渡した写経はいかにも尊いものとして恭しくお受け取りくださり、大切そうに屏風折りをしてお納めくださいました。
自己流の字で書くため、本来薄く書かれている経文とはずれまくっている私の写経ありますのに┉。
ひとしきりお話しくださり、御朱印をお書きくださいました。普段は御住職とあまり話すことのない夫も(┉たぶん妻がぺらぺらしゃべっているので御住職のことをかんがえ遠慮している )御住職といろいろ話をしておりました。
こちらでは栞とボールペンを買い求めました。ボールペンは書き心地バッチリであります。

No.123 20/06/28 10:39
旅人さん0 

第五番札所【語歌堂】にまつわる伝承はふたつ。

一つは、天台宗の高僧慈覚大師を篤く信仰していた、ここ秩父に住む者が、大師作と伝えられる准胝観音像をお祀りするために観音堂を建てたといったもの。その男は和歌の道を志していた。あるときこの観音堂に旅の僧が泊まり、夜もすがら男に和歌の奥義を伝え、明け方いずこともなく消えていったのだという。男は「観音さまが旅の僧に姿を変え和歌の奥義を教えてくださったのにちがいない」とよろこび、観音堂を語歌堂と名付けたというもの。

もうひとつは、信濃に一人娘と住んでいた老女がいたが、あるときいずこともなく娘がきえてしまう。老女は必死に娘を捜し秩父にまで到り、語歌堂の辺りで疲れ果ててまどろんでいると。まばゆいばかりの光の中娘を抱いた観音さまが現れたという。娘は悪鬼に拐われ、それを観音菩薩によって救いだされたという。
この霊験を聞いた里の人々は感激し、寄付を募って観音堂を再建したというもの。

秩父という霊場においては、それはすべて本当のことと思えてしまう、私であります。

語歌堂の御朱印は歩いてもすぐのところにある納経所の【長興寺】さん。ここ長興寺さんの御朱印は「面倒だからないんだよ」となぜか照れくさそうに話されておられました。
これから向かうことになる【明智寺】さんもまたこちらのお寺さんがが所管されています。江戸時代初期からのことといいます。
お寺さんの跡継ぎ問題が大変だったのは、そんなにも昔からのことだったのでしょうか。

No.121 20/06/28 00:44
旅人さん0 

第五札所は、第四札所からさほど遠くはない場所にあります。
何やら話をしていて、話の途中で着いてしまったくらいに近かったよう記憶しています。ただ駐車場がほとんどない。
ここに停めてもいいのかなぁ?┉という場所が、道路を隔てた反対側にありまして、そこに停めさせていただいて┉。

駐私たちのほんの少しあとを巡礼して廻られておられる、私たちより少し年上のご夫婦も、私たちの停めたところよりも少し離れた┉そこはダメなんじゃ?と思ってやめたところに大胆に駐車しておられたくらいですので。

第五番札所は【語歌堂】。
こちらはもともととお寺でなかった、観音堂であります。
それでも山門があり、お堂もやや大きめなものであります。のどかな田園風景のなかにぽつんと見えてくる朱塗りの山門。
その山門も立派なものです、が、┉うーん。山門の向かって右横に『掲示板 横瀬町』と書かれた大きな板が打ち付けられているではありませんか!なんということでしょう。
そして山門を護る仁王さまも┉!!
人の良さそうな、そこら辺にいかにもいそうなお爺さん、といった風情の仁王さま、なのであります。山門の篇額には【阿吽】と立派な文字で書かれています。さらにもうひとつ、山門の内側にも【仁王尊】と書かれた額が掲げられています。そんなにも言わなくても┉。

観音堂も朱塗り。ですがだいぶ変色して、もともと白木のものだったようにすら見える部分もあるくらいです。そして思い思いに縦横無尽に貼られた千社札。うーん。私はあまり千社札が好きでないので、残念に思うしかなかったのですが、夫はあれも含めての秩父の寺だと思うとのこと。
でも実はかつては憧れた千社札。夫は、今の私が申していることを当時は申しておりました。今では夫はむしろ千社札を始めたいとすら思ってもいたようで、月日の流れで人は変わるものだなぁと、我がことながら思いました。

納経して、読経して。
そんな自分がまだ恥ずかしいような思いでおります。

参拝を終え山門に向かうと、仁王さまの裏側には雷神風神が安置されておりました。これがまたユーモラスで。
こちらのお寺さんに伝わる伝承は実に美しいものなのですが┉ねぇ。  



No.120 20/06/27 04:11
旅人さん0 

奥の院は洞でありました。
洞のなかには弘法大師さまの石像がお祀りされており、大師さまがすぐに布教に旅立てるようになのでしょう、履き物の石像が添えられているというのですが、あとから供えられた同形の量産品の小さな仏像がたくさん並んでいて、私からは確認できませんでした。

弘法大師さまの周りにはまた、古くからの石仏がたくさんおられましたが、なにぶんにも洞の中でもありよく尊顔までは拝することはできませんでした。
奥の院の洞の上には樹がそびえているのですが、祠の入口をまるで守ろうかとでもするように、幹が大きく『し』の字を描くように一旦垂れ下がってのち、また、上にむかって伸びています。そのさまが、なんとも神秘的であります。

奥の院参拝のご利益も加わって、私のおなかの悪いもの、不要なものを体外に出そうとする力がさらに強まったものの、それでも御仏の御像を拝しつつ、下に下ります。

奥の院前から、異なる道で下りていく別のルートの道の石仏はほとんどお首を切られた石仏はおられませんでした。

なんとか無事に山門まで戻ることができました。山門を石段の上から見ると、ここにもまた、びっしりと石仏が並んでおられます。さすがに遠くてそのお姿をよく拝見することはできませんでした。

山門を抜けて。


御朱印所にむかいます。なかには二人の女性が詰めておられ、御朱印はそのうちのお一人がお書きくださいました。

No.119 20/06/26 08:52
旅人さん0 

┉延々と、首のない石仏が並んでいる光景。
下を向いてあるいたものの、もうさすがに途切れただろうと顔をあげること実に三度。それでもまだまだ続いていて┉、首を落とされた石仏さまがただただ並んでおられます。
いきなり気持ちが萎えてしまった、ある意味修行の道ともいえます。

それを┉首のない石仏がの延々と続く境内を、石仏さまを、
つらい、哀しいと思われて、首を奉納された方、修復を依頼された方がおられるようであります。しかし、何故か色の異なる石を使っていたり、大きさのまるで異なるお顔を継いであったりと、それはそれでなにも施さないでくださった方がいいのでは?と思われる石仏さまで。覆水盆に帰らず。


神仏分離で仏教に関係する物を排除しろという法律、それに従った人々。その他にも、なぜか地蔵の首をおとすとギャンブルに勝つといった、わけのわからない噂が流れ、そんな関係もあっての被害もあったようです。
ほんの何年か前には祈りをささげ、つらいときに頼っていた仏さまに対して、どうしてそんな仕打ちができたのか┉。
そんな人間の罪深さを、石仏群像が、語るともなくただただ並んで立っておられます。
┉現代の技術をもってすれば、何なり自然な形で復元はできるかとは思われます。
でも、おそらくこれがこのお寺の歴史、なのでありましょう。

神仏分離のとき、こちらのお寺は本堂を売り払い、無住となり、廃寺となっています。それでも人々は石仏の金昌寺といい、訪れる者があとを絶たなかったのだそうです。
こちらは現在も無住の寺であり、なおかつ、檀家は一軒も存在していないお寺であります。かの光明寺さんが、こちらもまた山主を兼任されているようです。 

秩父札所となっているこの寺院を支えているのは、この地域に住む信徒の方々であるのだそうです。

茅葺きの屋根派腐朽の早いもので、なおかつ葺き替えにかなりの費用がかかるものだと、茅葺きの山門をもつ寺院の御住職がこぼしておられたほどです。どれ程大変でありますことか。
石仏が倒れれば起こし、谷間に落ちれば拾い上げて安置する。
すべてがボランティアです。
ありがたいことです。
愛され大切にしていただいて今があることも、千体を超える御仏は
すべてをご存じであります。

No.118 20/06/25 16:57
旅人さん0 

お寺さんの【奪衣婆】は、Google先生に教えを請うたところ、江戸時代末期頃に民間信仰の対象とされたようで、奪衣婆を祀ったお堂などが建立されたようです。
民間信仰における奪衣婆は、【疫病除け】や【咳止め】、特に子供の【百日咳】に効き目があるといわれているようで、┉やはり、事前に下調べして行くことがいかに大切なことかをあらためて知らされました。
まさにコロナに効きそうなご利益であります。(;ω;`*)


慈母観音さまのお参り(写真撮影)を終え、観音堂の前にお立ちになっておられる石仏さまたちの尊顔を拝しながら、ふと観音堂のむかって右側に目をやると!
細い階段が上にむかって続いています。そしてもちろん、その両脇には石仏さまたち。観音堂の裏手にもびっしりと石仏さま。
うーん、これが千三百(一説によると千八百)と言われる石仏群像か!
観音堂の前におられる石仏さまは頭巾を被られた御仏や、掛軸のような物を手に掲げられておられる御仏、背中を丸めたご老人のような御仏とお一人お一人がそれぞれ個性をお持ちでありました。

その細い階段を登っていくとどうやら【奥の院】があるようです。
┉行かないだろう。
そして、私は、秩父観音霊場めぐりのご利益が早くもあらわれたのか、┉身体の中の悪いものを出してくださるような予兆がありました。
でも、婦女子がそんなことを口に出せない。(┉ご想像されている通り、決してそのようなレディではありません)
それを夫は、私が(珍しく)遠慮しているものだと(勝手に)解釈して、「行くよ」
手にした金剛杖をつきながら、元気よく階段を登っていきます。
うーん、まださざ波くらいではありますが、奥の院はどのくらいのレベルのものなのか┉。間違いなくトイレは遠くなります。
御仏に囲まれた道を歩いて行くのだから大丈夫!大丈夫だろう。
あとに続いて階段を登っていきます。

六角堂が見えてきました。こちらは新しい建物であります。
さらに先へと進むと┉‼
ずらーっと並ばれたお地蔵さまは、すべてが首がありません。息をのみます。
金昌寺さんで購入した栞を読むと、あの明治の神仏分離で、こちらさんは廃寺となっておられます。そのときの被害なのか┉。洪水などの被害でとれてしまったのか┉。掘り起こされたときにとれてしまったのか┉。
胸が痛んでただただ下を向いて歩いたものです。

No.117 20/06/25 11:26
旅人さん0 

亀の子地蔵さまの祠からは、観音堂の側面が見えます。緩やかにカーブして登っていくと、観音堂の前にもたくさんの石仏が並んでおられます。

観音堂の前に┉ん?ん?奪衣婆の像が。
何故?
奪衣婆は三途の川原にいるはずで、観音堂の観音さまの前に悪い人が来たら衣を剥ぐの?
そもそも、このお寺の顔とも言って過言ではないであろう【慈母観音】とも言われる【子育て観音】さまよりもセンターをつとめていますけど。(゜゜;)

ま、まぁ、観音堂のなか、ではないし┉いいのかな?あり、なのかな?
いろんな方のブログとか見ても、そんなこと誰も触れていないし。
仏教にも寺院にも詳しくない私ですし。
もしかしたら、御本尊さまに御参りする前に慈母観音さまに行ってしまいそうな人間を戒める役割?そもそも奪衣婆にビックリして御本尊さまの前でそっちに気がいってしまいましたけど(ーー;

ともあれ、読経し納経して。慈母観音さまにお会いしにいきました。
慈母観音さまはその角度角度で表情が変わります。背面以外のすべての方向でお写真を撮らせていただきました。
慈母観音さまは、思っていた以上に現実的な、人間にちかいお姿でありました。手慣れた様子でお乳をあげ、右手で赤ちゃんの手をいじりながら赤ちゃんの顔をいとおしそうに見ています。赤ちゃんはお乳をひとしきり飲んだあとなのか、満面の笑みで右手でお母さんの手、左手はお母さんの左の乳首で手遊びしています。
まさにお乳をあげるお母さんと赤ちゃんの像、であります。髪型と衣で観音さまを形どったとわかるくらいに、自然な授乳の姿です。
寛政の時代、ここの御本尊さまの霊験を聞き、二十一日間の参籠祈願のち、念願の子宝に恵まれた者が、その感謝の意をこめ寄進したとも言われています。しかし、蓮台に、童児と、その四ヶ月後には妻が亡くなったことが刻まれているのだといいます。
また、隠れキリシタンのマリアさまにあたる像という説もあるといいますが、実際にはそのどちらともわからないようです。
歌麿が描いた画を、石工が精魂こめて彫ったとも言われているようでもあります。

No.116 20/06/24 17:58
旅人さん0 

一言で千八百体余の石仏、と言われても実感がわかないのは、実際にその数を事前に知りながら、金昌寺さんでその石仏群をみて言葉を失うくらいに衝撃を受けた私でありますので、わかります。
ましてや私のいたらない文章からでは、まったくイメージがわかないことかと思います。
しかもその並んでおられる石仏は、となりにおられる石仏とまるでお顔も、それどころか御仏自体が異なっているのです。
お地蔵さまのとなりに観音さまがおられたり、阿弥陀如来さまがおられればお釈迦さまもおられます。
お立ちになっておられる像もあれば、座像もございます。大きさもさまざま、お姿もさまざまな石仏が千八百。


まずは大きな大きな石造の十一面観音さまが小さなお堂のなかにおられます。大きな石仏はこちらの御本尊が十一面観音さまである関係からなのか、やはり十一面観音さま。
いまではたしかに見受けられる大きさではありますが、ひとつひとつを手で彫りだしていくこの時代のものは、圧巻であります。
邪鬼の上に四角い台座が置かれているのですが、その台座にはくっきりとした牡丹が浮き彫りされています。さらにその上に唐獅子がいて、雲を模したものの上に蓮華座があり、その上に観音さまがお立ちになられています。
光背には金色で彩色が施されています。御仏と下の台座が少し色が異なっているので、もしかしたら下の台は後付けされたものなのかもしれません。御仏にも彩色がされていたのか?と思われる色の変化がみてとれます。

そのお堂をあとにして歩くと、さらに増える御仏の像。
うーん。斜面にも御仏の像がソーシャルディスタンスをとることなく御立ちになっております。密、であります。

さらに進むとまたお堂があり、そこには【亀の子地蔵】と呼ばれるお地蔵さまがお立ちです。こちらも朱塗りの祠であります。
蓮華座の上にガメラのようながあぁと口を開けた亀がいて、その上に六角の台座があってまた蓮華座があり、その上にお地蔵さまがお座りになっておられるこれまた石仏であります。
もともとはそのがあぁとした亀の口から噴水が出ていたようですが、
もといた場所にあった菖蒲池がなくなったことからなのか、現在地に移り、いまでは亀も静かにお地蔵さまと観音堂を見守っております。
こちらのお地蔵さまは江戸時代寄進して以来、個人がずっと先祖代々維持をしているのだそうです。

No.115 20/06/24 16:12
旅人さん0 

こちら【金昌寺】さんは、石仏の寺。

私にとっての秩父巡礼のバイブル的な【秩父三十四ヵ所めぐり】には、あの朱塗りの、大きな草鞋が掲げられていることも、写真入りで載っているのですが、なにぶんにも石仏好きの私の頭には『慈母観音イコール子育て観音』さまと『石仏の寺』しか残っていなかった。
(ーー;

しかもどこから語ったらよいのかわからないほど、いろいろ┉お寺さんの由来であったり、御仏の数々であったりと、私のような国語すら上手く使いこなせていない者にとって、どれだけの文字数を使えば、人様に伝えることのできる文章になるというのか。
どんどん日が経つにつれ記憶が薄れゆくという恐怖もあって、気ばかりが焦っている私であります。

とりあえず、門をくぐりましょう。

門をくぐるとすぐに、御手水鉢が目にはいります。竹の筒を通して水が絶えず流れ込んでいます。長方形の鉢の上には石が組まれて、その上に合掌され、足をお組みになり座られた石造の観音さまがおられます。鉢に鉢には斜めに細い竹が三本わたされ、柄杓が二本置かれています。そのわたされた竹の端に白い花とピンクの花が綺麗に添えられていました。そしてその鉢のすぐ脇に石段があるのですが、┉すでにもう、驚くほどに石仏が石段の脇に並んでおられるのであります。石垣の上にも、ソーシャルディスタンスもとらない距離で並ばれて、さらには石垣の組まれた向こう側には前後二列に並んでおられます。
すでにして圧巻。
しかも石段を登っていくと境内の山の斜面すべてが石仏で埋め尽くされている光景。思わず息をのみます。その数1300余体と言われています。
この石仏群は江戸時代、秩父を襲った飢饉に由来するのではないかとも伝えられます。そう、あの天明の、浅間山の大噴火によって秩父にまで大量の火山灰が降り積もり、作物を枯らしおこった大飢饉、であります。今でも洪水などが起これば谷間から石仏が発見されるのだと、お寺さんの資料にはあります。三千八百体作られたと伝えられているようでありますので、そのようなことも不思議なく思われます。
その像造年代が、わかるもので天明~寛政(1781~1800)、まさに浅間の大噴火による大飢饉のほか、江戸での大火も、大洪水も、その頃に続発していたようです。





No.114 20/06/23 22:43
旅人さん0 

庫裏に向かうと、朱印所の受付があり、ソーシャルディスタンスのためのビニールカーテンが設営されていて、呼鈴が設置されていました。
これは┉(゜゜;)
きっと作業と作業の間に、なにかのご用事で席を外され、またその作業に戻られる合間に私どもが参拝に訪れたのでありましょう。
まよわず呼鈴を押して、御朱印をお受けいたしました。


さわやかで心洗われる田園風景のなかを戻って、第四番札所であります【金昌寺】さんに向かいます。
金昌寺さんに向かう道は、夫いわく、くねくねとして細く、しかも分かりづらい、大変な道だったと。助手席でのんきにしていた私は実はあまり記憶がなく、私は人の手を借りて初めて参拝できるのだなぁと
あらためて思い知らされ、感謝いたしました。
【金昌寺】さんは、私に秩父に行きたい、と思わせたお寺さんの一つです。こちらは【子育て観音】と呼ばれる石仏がおられるお寺さんでありまして、その美しさと言ったら┉。子どもに乳を与えている姿をされていて、それはそれはお優しい横顔であります。いつか必ず自分の眼で拝したいと願っておりました。憧れの石仏さまのおられるお寺さんであります。
夫にとってはようやくたどり着いた金昌寺さん。広くて立派な駐車場であります。さあ、いざ金昌寺さんへ┉。
┉大きな大きな朱塗りの山門に大きな大きなわらじが一足掛けられています。
ん?
ん、ん?
私の勝手なイメージとはまるで異なったお寺さんであります。とはいえ色褪せた朱塗りの仁王門は、ところ狭しと貼られた千社札が独特の風情を醸し出しています。
わらじにはどんな意味があるのでしょう、ん?な、なんとわらじには数たくさんの一円玉が┉。?

門をくぐります。
こちらの仁王さまは、この門を通ると必ず目を合わせます。、目の合う高さでお立ちになっておられ、しかもそれがなんともフレンドリーに、まるで『来たな』『よく来たな』
とでもおっしゃっておられるかのよう。向かって右側の仁王さまにおかれてはまるで爽やかに笑っておられるようにしか見えないのであります。






No.113 20/06/22 00:14
旅人さん0 

【常泉寺】さんの観音堂は石段を登ると横向きに建てられています。
その観音堂さんの前に立つと、なにやら『気』が変わったと感じます。
庫裏や御本堂の建つところから不動池のところまでの、同じ高さのところで感じていた「穏やかでやわらかいもの」におごそかな気が加わった、とでもいう感覚。思わず姿勢を正し、大きく息を吸い込んでから、あらためて歩を進めて【観音堂】の前に立ちました。

ちなみに、私に霊感があるとかいうことは全くなく、動物的な本能も削ぎとられた、ただの普通のおばさんであります。


【厄除観世音】と書かれた額が掲げられています。こちらの御本尊は聖観音さまであります。般若心経をお唱え申し上げ終わるか終わらないうちに
参拝を終え
「すごいねぇ。秩父神社さんの建物を移築したというけれど、見事な彫刻だねぇ。」としきりに興奮して語りかけてくる夫。
そう、秩父神社さんにあった『薬師堂』を移築したものなのだそうです。
夫が感心するだけのことはあり、労を惜しむことなく、ただひたむきに御仏が住まってくださることに感謝して、彫りつづけたものなのでしょう。鳳凰の羽の先、爪の先。龍の眼光の鋭さ。
細かく細かく彫られています。薄く!鋭く!
どうして折れてしまったりしないのか不思議なくらいの細やかさであります。
しばしその彫り物を楽しませていだだいたあと、再び鰐口をつく。
なぜならば「外で作業をしておりますので、御朱印等ご用のかたは観音堂の鰐口をたたいてお知らせください。」と書かれていたものですから。鳴らす。
┉まるで反応がありません。ん?

何分か待ってみますがやはり無反応。うーん(゜゜;)

ダメもとであります、庫裏へむかってみましょう。


No.112 20/06/20 04:33
旅人さん0 

第三札所【常泉寺】さんは、田園風景のつきあたりに、穏やかに微笑むように待っていてくれます。
麦科の植物の広がる大地の中、ただお寺さんに向かうための一本道を進んでゆきます。お寺さんに近づくにつれ沼というには小さいのか、池というには手が加わっていないというか┉この年まで生きてきて、沼と池と泉の違いもわからないようなやつですみません。
本当に自然な感じで、カヤが生え、その中に色を放ってかきつばたと赤いポピーが咲いて、その水の中には鯉の泳ぐ姿を見てとることかできます。
その風景のなかにいるだけで心が穏やかに、晴れ渡る感じであります。

お寺さんの入口は新しい石でできた仁王さまがお護りになっておられます。
境内にはいると、まさに真正面に御本堂。
御本堂の濡れ縁には『子持石』が、まるで小さなお仏段のような厨子のなかにちょこんと
安置されています。おそらくは自然が生んだ偶然で幼子を抱いた人に見える石であります。子どものすこやかな成長を願い、子宝を望む人々に撫でられつづけその表面はツルツルとし、光り輝くようです。

また、御本堂の前には手押し式のポンプの井戸があります。これはまさにこのお寺さんの名前の由来となった物なのだそうで、この井戸の水は干ばつでも干上がったことがないということであり、また、昔ここに住む僧が病の折りにこの井戸の水で服薬したところ、まもなく快癒したのだとか。それ以来土地の人も病気になるとこの井戸の水を用いるようになり、いつしか『長命水』と呼ばれるようになったのだそうです。
┉残念ながら、現在は飲めません。手押しをしても水がでません

御本尊のお祀りされる観音堂は御本堂にむかってひだりての石段をのぼっていきます。その手前には不動池があり、池のまわりには紫陽花が固いつぼみをつけていました。わが家の庭に咲く紫陽花はほぼ満開。秩父の方が少し遅れて花の時期を迎えるようです。また、池の蓮もまだ葉をひろげだしたばかりでありました。
池の周囲には石碑や石仏がおられました。
その中の一つ『不睡石』と書かれた石碑。こちらは眼病治癒を願うと叶うというものであります。

No.111 20/06/19 06:36
旅人さん0 

新型コロナウイルス感染症をCovid-19というようで、まあどちらも長いのでコロナで通していますが┉。

罹患して命を奪われた方々。
死に直面し大変苦しい症状を乗りこえ治癒された方々。
自ら命の危険を侵していることを自覚しつつも罹患された方々の治療に介護にあたられておられる方々。
そんな方々に向けられた、コロナに罹患することを怖れるあまりに起きた差別。

でもコロナの恐ろしさはそれだけではなくて┉。

外出自粛であったり、営業を見合わせるよう国から指示される職種の方々は仕事が存続の危機にさらされ、実際に職をなくされた方々の多さといったら┉。

わが家にも影響は大!でありまして、まさに風前の灯のような┉見守ることがつらい職種の子どももおれば、あの大流行の最中の東京へ仕事に向かった子どももおりました。
コロナ禍において、生まれて数ヶ月の乳呑み子をひとりで守る娘にもまた母である私は胸を痛めております。
夫はテレワークと出社をランダムに繰り返し、忙しそうな夫、大変そうな夫の仕事ぶりを今さら、ではありますが知った妻であります。が、そんな忙しさとは反比例して、給与が15%減給だの、ボーナスしかり、年金の掛け金まで一桁変更されるといった大ダメージがありました。
それがこの一年と限定されるならばまだしも、先は見えず、コロナと付き合う形での新しい生活スタイルを模索しながらの日々となる┉。

輸入食品が入荷しないことから、自給率の低い日本は食品の価格がすでに高騰の予感を感じさせています。


今日も夫は、本人の仕事は忙しいにもかかわらず、一斉休業。
雨の休暇です。
昨日、休みだった私は大きな書店で【真田道を歩く】という本を買いました。夫に教えてもらったことを復習する参考書として┉といったら格好はいいですが、またまた、写真の多い本。¥1.200。
それでも夫に置いていってみようかな。


本当は、私のようにムダ遣いしている時ではなく、節約して貯金して、断捨離することこそが大切な時代なのですが┉。
そこが課題の私。
巡礼も純粋に物欲ではなく、巡礼として必要なものを見きわめなくてはいけないのではありますが┉。


┉大きな課題であります。(;ω;`*)

No.110 20/06/19 02:48
旅人さん0 

【真福寺】さんは観音堂イコール御本堂。

その観音堂の厨子のなかにおられるご本尊聖観音菩薩さまの御像はかつて『鬼丸』と呼ばれた洞窟に安置されていたものだといいます。
真福寺開基であります【大棚禅師】はその洞窟に住んでおられたようです。
そこへひとりの老婆がたびたびやって来て観音さまに礼拝するのに気づき、ある時老婆にその訳を尋ねたところ、
「自分は悪行を働いてきました者であります。観音さまと結縁していただき、この鬼畜の身を脱したいのです」と語ったのだそうです。
そこで禅師が老婆のために戒を授けると、老婆はたいそう喜び、竹杖を布施していずこへともなく消えたのだそう。
禅師はそののち、観音像を祀る堂宇を建立し、観音さまの霊跡としたということであります。

┉そう、その老婆に自分を重ね、私のように穢れ多き身をもお救いくださる観音さまに、ぜひ参拝したかったのであります。

その老婆が残したという竹杖は今なお光明寺さんに寺宝として保管されているのだそうです。


観音堂は無人のため堂宇の扉は閉ざされており、向拝させていただきました。
観音堂に向かうつづれ折の石段の傍らには古い石仏さまが静かにたたずんでおられました。その中の一つに小さな洞穴に衣を着たお地蔵さまがおられました。もしかしたらこれは大棚禅師さまのお姿を偲んでのものだったのかもしれません。
観音堂のある境内は静かな大変居心地のよい明るい空間でありました。心が穏やかになりますここにはきっと、今なお大棚禅師のすべての民を救おうとする思いが残っているのでしょう。


┉大変な道を運転してくれた夫のおかげであります。ありがたいことです。ここでお礼。┉まだまだ修行の足りない私であります。

No.109 20/06/18 16:52
旅人さん0 


アヒルに気をとられて、珍しく境内を巡ることもなく過ごした秩父、【光明寺】さん。
実はこちらのお寺さん、由緒あるお寺さんで、なんでも【真福寺】さんが【二番札所】にして秩父巡礼三十四番目に観音霊場となったのも、光明寺さんの末寺であったことも理由の一つだっただろうと言われるほど、由緒あり格式があるお寺さんなのだそうであります。

【光明寺】さんの発祥は、桓武平氏の始祖となった高望王(たかもちおう)の弟君である恒望王(つねもちおう)が、平安初期の大同二年(807年)当地で逝去した屋敷跡に、王の冥福を祈った祈願所の光明庵から始まったのだといいます。

鎌倉時代までは大変栄えた光明寺さんは、南北両上杉の抗争に巻き込まれ秩父谷が疲弊し光明寺さんもまた衰微してしまったのだそうです。
その後戦国時代の永正十四年(1517年)中興し、天文元年(1532年)寺域が現在地に移されたのだそうですが、
小田原北条、
甲斐武田、
越後上杉
の抗争でまた秩父谷が衰微し、光明寺も衰弱してしまいます。
天正十五年(1587年)郷党により、地元の荒船家の次男で龍穏寺十五世住職となった朝谷是暾(ちょうこくぜとん)禅師を迎えて伝法開山し、これより連綿として現在に至っているのだそうです。
うーん、聞いてはいないけれど、歴オタ夫に聞けばそれはそれはわかりやすく解説してくれそうな気がする、いかにも夫が好きそうな話です。( ;-`д´-)



秩父観音霊場の寺院はすべて、【武甲山】をとりまき建っているのだそうです。
光明寺さんは、南面して【武甲山】と相対している事から山号を向嶽山と称しているのだそうです。



そんな【光明寺】さんは秩父谷随一の格式を持った寺であり、『真福寺』(札所二番)、『常泉寺』(札所三番)、『金昌寺』(札所四番)、『福蔵寺』、『秀林寺』の五寺が光明寺の末寺であったのだそうであります。
秩父観音霊場に三十四番目の観音霊場をつくって、【四国三十三ヵ所】、【坂東三十三ヵ所】と合わせて【百観音霊場】としようという話になったとき、この由緒ある別当寺の光明寺の隆盛もあり、もともと【大棚観音】ということで古くから信仰を集めていた【真福寺】さんが三十四番目の観音霊場として選ばれたようです。

No.108 20/06/17 20:28
旅人さん0 

二番札所。【真福寺】さん。

一番札所の納経所で、御朱印をお書きくださった方に「次にまわるのはどこなの?」と問われて、
「順番通りに二番の真福寺さんに行こうと思っています」と答えたところ、「車?」「はい┉」
「次の真福寺さんって道細いんだ。
あと、そこでは御朱印を受けられなくて、光明寺ってとこに行かなきゃならないんだけど、今、道がつながってなくてねぇ。だいぶ遠回りするようなんだ。道自体、車で通るのも結構大変だし。なんなら光明寺で御朱印を受けて遥拝するとかでもいいと思うよ。そういう人も結構いるし」┉‼

運転技術に自信のない私は、黙りこむしかありません。
でもね、夫は細道慣れてるから、きっと大丈夫!
近道しようとして農道に入り込み途方にくれた家族旅行も懐かしい。
┉どうかなぁ(;゜゜)ドキドキ。
夫「行ってみます」 やったあぁぁ♥ 

秩父のお寺さんはどちらも行きたかったけれど、ここは特に行きたかった一つだったので、遥拝とか言われたときのショックといったら┉。
とりあえず、時計を見ると十一時半。まず光明寺さんで御朱印をお受けしてからゆっくり真福寺さんで参拝させていただきたいと、運転もしもしないくせに指示まで出すというなんともいやなやつであります。そんな私に、二つ返事で「そうだね、それがいいかもね」
┉もしかして私、結構いいひとと結婚したのかも?
ま、そんなことは口が裂けても夫には言いませんけどね。( ; ̄ー ̄)

そんなわけで、光明寺さんへまずは参拝を。
こちらも由緒あるお寺さんでありますが、境内も建物も新しいものであります。参拝をして┉真福寺さんと光明寺さんの御朱印をお受けして。ふと見ると、「アヒルが逃げ出すので扉をお閉めください」という貼り紙が( 。゚Д゚。)

ア、アヒル?アヒルがいるの?
お寺さんに?
よく見るとご住職さま、かなり大きな水槽の掃除をされています。
動物好きの夫婦はもうそわそわです。

No.107 20/06/17 06:10
旅人さん0 

第一札所からして裏から入ってしまった秩父観音霊場めぐりはすでに珍道中。( ω-、)残りの三十三ヵ所はどうなることか┉。
大丈夫!御仏をお呼びするといい、空間を浄めるという鐘┉五杵鈴とか金剛鈴というようですので鈴、ですね┉鈴も購入しましたし(ーー;
納経所の方がご親切に印刷した一枚の地図をくださり、赤いペンで印をつけながら次にまわろうとしている二番札所までの説明をしてくれましたし。たぶん、大丈夫┉。夫が聞いてたから大丈夫!┉これを他力本願といわずしてなんというのだか。

来たときにくぐらなかった山門に向かい、山門をあらためてくぐって、あらたな気分で境内を拝見いたします。ひだりてに開山の師が座禅を組まれたという座禅石があります。
こちらのお寺さんは梵鐘をすべての巡礼者が衝きやすいように┉なのかはわかりませんが二段ほどの段を上がると衝ける高さになっております。そしてこちらもまた朱に塗られています。御本堂は内側も朱に塗られていたような記憶があります。その朱色が風雨にさらされて風情ある色に変わっているところが、なんともいえません♥
そんな朱色と緑色を基調とした御本堂、たいそう細やかな彫り物がありまして、圧巻なのは御本堂一面にずらっと続く彫刻でありまして。なかでも御本堂の正面より左右の彫り物に対してはその名を示す案内までがつけられているほどで、向かってみぎてに『地獄之図』ひだりてには『極楽之図』がございます。
ただ背の低い私にはよくは見えず、あとで写真を見てみてもやはり背の低い高さからのもの、よく見えません (T_T)
ただ、白木に見えたこの彫り物、写真で見ると少し施されている彩色の名残が見てとれました。たしかに、この朱色の建物に白木の彫刻は少し違和感がありましたので、納得、であります。
屋根にあるという『一番』という文字も見えなかったし。
でもねぇお寺さんでオペラグラスもイヤだし、カメラを向けてズームすれば、見えるのでしょうが、それもどうかなと思う私。参拝、ですからね。(  ̄ー ̄)

そうそう、御本堂前には大きな錫杖が立ててありまして、その名も『ごりやく錫杖』。当然回してまいりました。


もう一度御本堂前にて手を合わせて、二番札所に向かいます。

No.106 20/06/14 16:21
旅人さん0 

秩父巡礼に向かうにあたって、【経本】【御数珠】【線香】【塗香】【納経すべく写経した用紙】、そして念のため【納経帳】も持参してまいりました。
通常、霊場めぐりには専用の納経帳が用意されていることがほとんどで、秩父も当然専用の納経帳があることは存じておりました。
しかし、いまだに結願できずにいる鎌倉三十三観音霊場、鎌倉十三佛めぐりを思うと、あえて専用の納経帳にしなくてもいいのではないかと思ったりもいたしましたものですから。自分の運転で来られもしないような者が持つようなものではないであろうと思ったのであります。
┉が、第一番札所納経所、ここで巡礼の支度ができるようにと巡礼に必要な物が揃えてある納経所にいくつも置かれた納経帳のなか、一目で心惹かれた納経帳があり、入って五分もしないうちにもろくもその考えは打ち消しておりました。
白地に梅の花咲く枝をバックに、観音さまの横顔が描かれた、それは美しい納経帳であります。
┉こ、これはずるい。
いやいや、ただただ意志薄弱な私が悪いのであります。
ちなみにここに一目惚れいたしました納経帳の画像を貼付しておきます。

そして、【納札】。

で。
正式に巡礼の支度をするとすると、【菅笠】【輪袈裟】【笈摺】【数珠】【手甲】を身につけ、【金剛杖】を手に【頭陀袋】を提げて、となります。
が、実際にその姿で御参りされている方は、その日その時には皆無。
かなり目立つこととなります。うーん。(´_`。)
やはりそこでまた意志薄弱な私。そもそも菅笠だけはイヤだったりする。
もっと若いときであったり、あと数年した私であれば、その正装で歩けるのかもしれない。
でも、周りにおられる巡礼の方々も、隣を歩く夫も普通の私服で、私だけ菅笠を被り笈摺を着て歩く勇気がなかった。

家を出たときとは全く違う私。( ω-、)

結局、身につける物で用意したのは輪袈裟のみ。金剛杖すら用意する勇気がでなかった。
対する夫は「ずっと金剛杖を持って歩くのが夢だったんだよ♥」と杖を選んでご満悦。┉二人で杖を持って歩く勇気がないんだなぁ。なにせ微妙なお年頃でありまして。
「えっ?買わないの?」┉うん。

代わりに私が購入したのは「鐘」。ハンドベルと言えばわかりやすいでしょうか。いつまでも余韻の残る清んだ音のする、持ち手は五鈷杵(ごこしょ)のようになっております。

No.105 20/06/14 08:55
旅人さん0 

御本堂の正面には、御前立ちの【聖観音】さまがお立ちになっておられます。御本尊の聖観音さまは秘仏であり、十二年に一度の午年の年に御開帳されます。なんでも行基さまのお手によるものと伝えられているようです。
その間、巡礼に訪れた人々にお会いくださっている聖観音さま。
大きな光背の、それはそれはお美しく凜としたお姿であります。
そのお姿がよく拝することができるようにとのご配慮からでしょう、ちょうどお姿が見えるくらいに開けられた横開きの引き戸(┉なのでしょうか)。そしてさらにそのお姿がよく見えるようにと、丸く窓のように扉がくりぬかれています。

さらに本堂向かってひだりてには、その名もありがたい【おたすけ観音】さまがおられました。こちらもまたお美しいお姿であります。
邪念の権化のような私ではありますが、たった一つだけお助けくださるようにお願い申し上げましたのは、
「新型コロナウイルス感染症を一日も早く全世界において終息させていただけますよう、人々の荒れた心を癒していただけますよう、職を失った方々が生活に困ることなく一刻物が早く仕事につくことができますように」
┉一つだけではないかなぁ。でも元は一つ。

そしてその手前には御賓頭盧さまの像がおられました。こちらの御賓頭盧さまはなかなかのイケメンであり、他の寺院の御像のようにあまり人の手で汚れたり擦れたりはされておられませんでした。最初から室内、御本堂に安置していただけていたのでしょうか。


本堂を出ると┉離れてはおりますが山門が見え、左手にはなにやら不思議な大きな櫓のような建築物があって、その中央には六角堂のような建物があります。うーん、うづく好奇心。
さっそくそちらへ向かうと、どうやらこちらの建物は八角輪蔵を安置した施食殿のようであります。
餓鬼道に落ちて苦しむ者を救うための大施食会を行うための堂宇のようであります。毎年八月二十四日に執り行われるというこの法会が、新型コロナのせいで中止されることとなりませんように。

さて!
いざ納経所に!
こちらで装束や納札、秩父観音霊場の納経帳をお授けいただきます。
なにやら緊張している私であります。

No.104 20/06/13 20:56
旅人さん0 

秩父第一番札所【四萬部寺】さんめざして。
走るのはもちろん夫。例のくせ者のメーカー純正ナビのついた夫の車。目的地の裏に案内するくらいならまだ可愛いげがあり、いつぞやなどは目的地にすらつけなかった。それも二度。
産まれて一年半くらいの車のナビよ、私すらが生まれる何百年も前からある場所なのだよ?新しい情報が拾えないのは我々が情報更新をしないせいではあるだろうが、そんな昔からの場所だよ?
しかも、どこをどう見ても、土地開発で周囲が激変していると決して思えない街道に面したところをめざしていたというのに、裏手の!袋小路!に案内されたときといったら。
くせ者のナビとじゃじゃ馬の妻。
夫の修行の巡礼の始まりであります。


室町時代より続く秩父巡礼は、その札所にむけてかなり遠くから案内板が出ております。随所随所に、曲がり角などにもわかりやすいようにいくつもいくつも。

ところがさっそくその案内板の通りには行こうとしないくせ者のナビ。ところが夫は何度だまされてもナビにしたがうので、口うるさい妻が騒ぎだす。
どうにもお寺さん着きそうにない雰囲気の道を走り、「平気、平気!」と言っていた夫すらが不安そうな表情になりました頃、再び巡礼者のための案内板に出会えたときの安堵といったら。

今はそのほとんどの巡礼者が車でまわります(┉たぶん。)秩父観音霊場めぐり。駐車場も完備されています。
駐車場に車を停めて、ふと目の前の古い建物に目をやるとなんと旅籠です。
ああ、巡礼に来ることができたんだ♥

そんな感動とともに入り口に向かうと、いきなり見えてきたのは御本堂、しかも裏手。
駐車場に停めてそこにある入り口からそのままはいるとそんなことになるようであります。(;゜゜)
表にまわると┉御本堂は、初めて見る上に高い縦長のこじんまりした感のある建物であります。
お灯明をあげて、持参したお線香をあげて。鰐口を鳴らして。
本当はこの時点で納札を納めるのですが、ここのお寺さんですべての巡礼に必要な物が揃うということで、アナログな私はここでお受けしようとAmazonなどで事前に揃えることをしなかったため、ここでは順番は多少違えて。
御本堂入り口でいつも使っている御数珠と経本を手に、般若心経を読経いたしました。
こちらは御本堂の中に入ることができるようで、なんともありがたいことでございます。





No.103 20/06/13 05:52
旅人さん0 

秩父巡礼への思いを決定的にした本が一冊、それはそれは美しい、御仏のお姿であったり、青空にそびえる寺院であったり、名工による彫り物であったり、季節の花々であったりと、カラーの写真がそのほとんどを占めているガイドブックでありながら、写真集としか思えない本があります。
何気なく手にし、一目惚れして購入した、その名も【秩父三十四ヵ所めぐり】であります。
この本は、間違いなく、文章を書かれた方も、写真を撮られた方も、秩父三十四ヵ所をこよなく愛する方々であります。
三十四ヵ所のお寺さんをすみずみまでめぐり、その一つ一つを細かく調べてどうしたら読み手にその魅力を伝えられるか言葉を吟味して、書いておられます。
また、外での写真は季節ごとにその姿を変えますし、時間帯で光の加減も変わってしまいます。それを三十四ヵ所の寺院のすべてを、それはそれはため息が出るほど美しく、是非そこへ行きたいと切望するほどの力をもった素晴らしい写真の数々。それが本当に写真集かと思うくらいのふんだんな枚数が使われております。

当然バイブルともいうべきこの本、【秩父三十四ヵ所】、をまさに胸にいだいてのお参りです。


                   

No.102 20/06/12 21:15
旅人さん0 

巡礼。
できればきちんと装束を身につけ、写経したものを納めて、読経して。納札(おさめふだ)をまわったお寺お寺に納めて、納経帳に御朱印をいただく。いつしかそれが夢、それが望みになっておりました。

私の住む群馬県は埼玉県の隣。そう、あの大好きな秩父がある埼玉県。秩父には三十四観音霊場があります。四国霊場巡りはなかなかすぐにすぐ出向くことはできそうにありませんが、大好きな秩父を訪れ、お寺巡りをすることが、イコール巡礼になるという、どれだけお得なことでありましょう。

外出自粛が解かれたものの、できれば県をまたぐ移動はしないということが、コロナ以降の新しい生活様式に、今現在はまだ含まれております。

祈りの思いは自粛を叫ばれていた頃から膨らむばかり。
毎日、仏壇もどきに手を合わせ般若心経をお唱えしては、世界中を恐怖に陥れて、なおかつ人々の心を荒ませ、経済をも揺るがす新型コロナウイルス感染症を一日も早く終息させていただけますよう、世界中の人々をお救いください、お力をお貸しくださいと祈りを捧げてまいりました。

┉私どもの住まう県も、そして秩父の地も、コロナウイルス感染者が何日も発生していない地域であります。
行こう。
今こそこのコロナウイルスに苦しむ世界中のすべての人々をお救いくださいますよう、祈りたい。
今こそが秩父巡礼のときではないか。

┉言い出したらきかない妻であります。

かくして平日の晴れた六月の一日、いざ秩父、であります。
 

まずは順路通りに。秩父第一番四萬部寺(しまぶじ)めざして。
夫婦でふうふう言いながらなんとか書き上げた何枚かの写経したものを筒に納めて。

No.101 20/06/11 19:16
旅人さん0 

御本堂は回廊をめぐって、枯山水の庭を見つつ、御本尊さまの安置されておられる仏間の前とすすんでいきます。
その隣の部屋には寝釈迦の像が安置され、その筋開かれた濡れ縁からは池が見え、滝が見えてまいります。
滝は本堂の周りに三つ。不動の滝、昇龍の滝、青龍の滝とそれぞれに名前があります。枯山水の庭には臥龍庭。
そんな斬新な御本堂でありますが、実はその建立は古く1675(延宝三)年なのだそう。
まるで古さを感じない、というか┉中には喫茶サロンがあり、そこでティータイムを楽しむことができたり、前回の参拝したときにはなかったハートの形の大きな窓が!
と申しましてもハートではなく【猪目】、なのではありますが、誰がどう見てもハートの形の窓としか思えないと思うのであります。
うーん、これは必要だったのかなぁ。
いかにもこれはインスタ映えしそうな┉。(^o^;)

いささか興ざめしたものの、こちらのお寺さんには本当に大好きな仏像がたくさん、たくさんの仏さまがおられます。
鬼子母神さまもおられ、私のような穢れ多き者に、改心すれば仏さまのお膝元にゆくことができるという、希望をお与えくださる存在であります、鬼子母神さまの御前に座って静かに語りかけることができるお寺さんなのであります。

そろそろキキョウの咲く頃でしょうか。紫陽花のつぼみも花開きさまざまな色をつけているでしょう。
そして蓮。花の寺は季節季節の花を広い境内のあちこちで咲かせて静かに静かにたたずんでいます。

No.100 20/06/11 18:06
旅人さん0 

沼田まで足をのばしたので、群馬県利根郡川場村にあります【吉祥寺】さんも参拝したいと、さらなるわがままを申す妻に想定の範囲内と二つ返事で吉祥寺に向かってくれる夫。大切にしないとバチがあたるかもなぁと思ったりもするのですが、┉大切にするってどうするんだ?具体策のわからない悪妻であります。

そんな悪妻を乗せて、到着いたしました吉祥寺さんは、花の寺として有名であります。
池がいくつもあり、境内のなかは細い小川が流れています。そのさらさらとした音。そして心洗われるような清々しい空気。
夫と私の大好きなお寺さんであります。

急遽向かうことになったため、ネットで調べているとスマホで吉祥寺さんのホームページをお見せすると拝観料が割引きされるというありがたい情報もありました。さらには拝観受付で、カラーのパンフレットと一緒に涼やかな林檎ジュレのふたつ入った袋もくださいました。
なんともあたたかなお出迎えであります。

立派な山門の上、楼上には文殊菩薩さまを中心に十六羅漢さまが安置されているのですが、そこにも自由にあがることができるところもまたありがたいことであります。
そして、このお寺さん、石仏がそこここにお祀りされているのです♡

こちらの石仏さまに手を合わせ、あちらの石仏さまに語りかけ、さらにはそこに咲く季節の花にみとれてと遅々としてなかなか釈迦堂にたどり着きません。
この日咲いておりましたのはカキツバタ、そしてタイツリソウ、クリンソウ、変わり種のオダマキは濃いレモン色をしたもので、一目で好きになりました。
そしてようやくみぎてに鐘楼が見えてまいります。
こちらもまた、自由に鐘を衝くことができます。

ひだりてに見えてくるのが、茅葺きの釈迦堂であります。こちらも自由に入ることができ、心ゆくまでそこにおられます御仏の御像に向き合うことができるというありがたいお寺さんであるのです。
釈迦堂は1790(安政二)年の建築であります。そこに安置されておられます釈迦三尊像は鎌倉時代のものとされています。
以前来たときよりもシンプルな内部となっており、私はいまの方が好きであります。

No.99 20/06/11 06:44
旅人さん0 

正覚寺さん追記

今はコロナのためなのか、はたまた御朱印ブームでお疲れになられたのか、御朱印はお書きになられていませんでしたので、あえて庫裏にお邪魔しなかったのですが┉。

こちらに参拝したいと思っておりましたのは、他ならぬ歴オタの夫がもしや喜ぶかもと思ったからでありました。
実はこちらの御本堂、奥の間の天井、沼田城の廃材を使っているのだとか。
少し危ないほどの深い段差を、○○の跡だぁ♥とか申してパシャパシャと写真におさめている彼が、知らずして訪れたお寺さんの参拝で、そんな沼田城との出逢いがあれば、さぞ感動し、喜ぶだろうと思ってのこともあったのです。そんなよこしまな私の思いのせいでしょうかね(ノ_<。)

そして┉余談ではありましょうが、ここ、正覚寺さんには声優野沢雅子さんの父野沢蓼洲(りょうしゅう)さんの作品があるのだそうですが、野沢雅子さんご自身が八才から十八歳までこちら、正覚寺さんで育ったのだとか。

御本堂に奉られた仏像も、鎌倉時代の運慶の流れを汲む仏師の作だということで、本当に、御本堂での参拝がさせていただきたく思うお寺さんでありました。
コロナ問題で他人とのよけいな接触を避けることが好ましいとされる時代をむかえてしまい、いくら図々しいおばさんである私であっても、『御朱印はお書きしておりません』の文言を掲示されているお寺さんの庫裏の門戸をたたくことはできません。
コロナのやつぅ(*T^T)

No.98 20/06/09 20:33
旅人さん0 

【正覚寺】さんの大きなそれは立派な山門に思わず小さく声が出ました。

孫に会いたいと訪れた舅である【真田昌幸】を、城門の外で武装し、断固として城には入れることはできないと対応したという【小松姫】ではありましたが、その信幸の宿泊していた【正覚寺】さんに孫を連れて行き会わせたという、そんな舞台でもありました。
小松姫とその子供もこの門をくぐったのだろうかと思うと感慨深いものがあります。

また、【正覚寺】は、真田家の家臣「鈴木重則(主水)」が自害した場所でもあります。
北条の謀略によって【名胡桃城】を奪われたことを恥じた城主重則は、立ったまま切腹する「立腹」で武士の忠義を示したという記録が残っているのだそうです。
戦国時代の歴史の一こま、一こまを静かに見守っていた正覚寺さん。
当時を伝えるものは、山門と、境内に大きく枝をひろげるコウヤマキの樹と、小松姫の墓くらいになっているのかもしれません。さほど大きくはない御本堂であったりと、今はコンパクトなお寺さんになっておりましたが、ここに立ったとき、私のような凡人でも歴史の重みに思わず感嘆いたしました。

運転手兼名ガイドであり、歴史の先生であります夫が、妻のレベルに合わせて分かりやすく説明をしてくれました。
それでも長い長い歴史、何度も何度も聞き返す私に、さすがの夫があきれて「もういいんじゃない?」と申したほどで┉。f(^ー^;

有名どころがオンパレードで登場してまいります、沼田城の歴史。
いまさらながら、すごいなぁと思う私でありました。


それにしても昔の人って、せいぜい移動手段は馬か籠であるのにもかかわらず、すごい距離を移動していたものであります。そしてあちらこちらで国取り合戦を繰り広げていたのであることだなぁ。

No.97 20/06/08 19:22
旅人さん0 

大河ドラマを観る習慣のない私は、あの【真田丸】(┉でしたっけ?)の放映のさなか上田城に行ったというのに、真田丸がさっぱりわからないうえ、おそらくは日本の歴史とは少し異なったものとなっている、私の中でのお城のなかで流れたであろう日常を勝手に想像してはお城のなかをめぐっておりました。
上田城とて、何回息子に連れていってもらっていることか。
それなのになにも学習しないおバカさんであります、私。
夫よ、息子よ、ごめんなさい。<(_ _;)>

ましてや今回はお城がない!
二の丸、三の丸と言われても┉(;゜゜) 
夫の目には見えて、私の目には見えない、まるで心のきれいな人にだけ見えるとかいう妖精とかの類いのように、私にはただの小高い丘でしかありません。

【沼田城跡】には武将とその奥方の像があり、私のような者にも少しだけ歴史っぽさを感じることができました。
それでも、私の関心は沼田城趾公園ないで飼育されている熊だったりおかめインコだったりカナリアだったりで、やはりここも私には公園、でしかなかった f(^ー^;
沼田城にはかつて天守閣まであった大きなお城だったようです。


さあ、(ようやく)その沼田城に逸話を残す【小松姫】のお墓のある【正覚寺】さんへと向かいます。
歴史にも詳しいわけでもないくせに、なぜ小松姫さまにこだわるのか?┉それはやはり歴史を変えた(かもしれない)とまで言われる女性であり、なによりやっぱりお姫さまという存在にどこか憧れるという、そんなくだらないことからなのであります。


【小松姫の逸話】
小松姫(稲姫)は徳川四天王の【本多忠勝】の娘であり真田昌幸の長男・真田信幸の妻である。

関ヶ原の戦いの直前、下野国犬伏で真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくことが決した。昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出し、そのまま沼田城を訪れた。小松姫は「たとえ舅であっても敵である」ということから、武装した姿で対応し城門を開かず追い返した。後に、自ら子供を連れて昌幸のもとを訪れ、舅の願いを叶えた。このことについて、昌幸・信繁は大いに感心したと言う。

一方で昌幸には沼田城に立ち寄りそのまま城を奪取する意図があったとも言われ、小松姫はそれを見越した上で穏便に解決したとも言われる。 Wikipediaより







No.96 20/06/08 05:42
旅人さん0 

高速をつかって沼田まで連れてきてくれた夫に、いつもありがたいことだなぁなどと考えながら【正覚寺】さんに思いを馳せていると、
「まずは名胡桃城でいいかな?」
どうぞどうぞ。

「ん?名胡桃城に行きたがってたのは母だけど?」
「えっ?いやいや私は城跡はさっぱりわからないから、父が行きたくないなら別に行かなくていいんだけど」
「ええっ?母が行きたがってたからと思って向かってたのに┉。まあもうあと少しで着くから行こう」
┉城跡を訪れるたびに、「ただの山にしか思えない」とはっきり明言する妻が、何故ゆえ名胡桃城趾に行きたいと願うと思ってしまうのか?いまだに彼の思考にはついていけない。まあ、彼はそれ以上に私の思考は理解不能なのかもしれないですけれど(^_^;)
いつになっても夫婦の二人三脚も珍道中であります。


そして名胡桃城趾。ポピーの花が咲き乱れ、美しい沼田を見下ろせるそれはそれは景色のよいところでありました。ところどころに足場の悪いところもありますが、そこにもきちんと小さな橋をかけてあり、歩きやすいところであります。
太田市の新田城趾のようには距離もなく、小高いくらいのところであります。お城だったところを復元するでなく、ポピーの植えられたところ以外は自然を楽しんで歩くことのできる小高い丘でありました。

「すごいなぁ、○○のあとがそのまま残っているんだぁ。落とされたあとはそのままになっていたからなぁ」
「えっ?!」
何やら熱く解説をしてくれた夫でありましたが、なにしろ実物のお城がないとそのお城をイメージすることなどさっぱりできないし、お城の知識は皆無であります私は、○○の跡がしっかりそのまま残っていると言っていたことしか思い出せないのであります。ごめんなさい。

小田原評定のもととなった有名なお城とも申しておりましたが、容量のかなり少ない私の脳みそにはかつて歴史の授業で習ったことすらもすっかりとこぼれ落ちて消え失せておりました。


さて次は、その名胡桃城を護ったいたいけな姫さまの眠るお寺さんに参拝する┉のかと思いきや、今度は沼田城へと向かうのだそう。
沼田城について知ってることなんて、まぁ間接的に関係しているかどうか┉、上毛カルタの『ぬ』『沼田城下の塩原太助』というワードと、関係あるかどうかもわからない、『て』『天下の義人茂左衛門』くらい、なんですけど。(^o^;)

No.95 20/06/07 22:32
旅人さん0 

私は子どもの頃、NHK大河ドラマの強すぎるライトがわざとらしくて、どうにも好きになれず、どちらかというと民放の大岡越前だの銭形平次、水戸黄門のほうを好んだものでした。

大人になっても、あえて大河ドラマを観る機会もなく過ごしてきたため、どんなに話題になっていても、ちんぷんかんぷんで少しも話がわからず専ら聞き役に徹するしかない者でありました。
群馬県が舞台であろうと愛国心が起こることもなく、子供が毎週真剣に観ていた『新撰組』すらも、
なんだかんだと家事にいそしんでいたりして、子供とすら共通の話題の持てない母でありました。
歴史の授業は好きではありましたものの、それ以上の発展はなく、教科書に載っていないような歴史はあまり詳しくはありません。歴史小説も史実なのか、フィクションなのかもわからぬまま読み進めておりましたくらいであります。

対する夫は歴史オタク。
たぶん結構な詳しさであるのではないかと手前味噌ながら思うのであります。

今でこそ有名すぎる六文銭も、私がそれがなにを指すものかを知るのは大人になってのことでありました。とりあえず、大河ドラマで有名になる前に知っていてよかった、そんなレベルでありました。

それにしてもNHKの大河ドラマ。最近偶然【麒麟がくる】の画像を観る機会があり、その画像があまりにも自然でびっくりしたくらいでした。



閑話休題。
群馬県と真田氏の関係もそのドラマを観ていなかった私にはよくはわからないところではありますが、群馬県の一部も真田の領土であることは理解しておりました。
沼田でも真田の【六文銭】の紋を捺した御朱印が存在しておるようですし。

さて、そんな真田の領地であった沼田城、名胡桃城に出かけて参りました。私には名胡桃城の奥方であった方のお墓のある【正覚寺】さんに参拝する目的でありましたが、当然歴史オタクにとっては両城趾を巡る旅であったことはいうまでもありません。






No.94 20/06/07 11:41
旅人さん0 

群馬県館林市の【善導寺】さんは、新しいながらも古きをかんじさせ、仏の道を伝道する立派なお寺さんでありました。何よりも、穢れ多き身、迷いだらけの私は、その善き事に導いてくださるという名に惹かれました。

まずは、その梵鐘に刻まれた、御仏のお美しいお姿に思わず声をうしないました。微笑んだそれはそれはお優しいお顔のお釈迦さまのお姿が、正面に彫られているのです。
こんなにもお美しい梵鐘を今まで拝見したことがないかもしれません。大きな仏像と言っても過言ではない、素晴らしいお姿であります。
しかも、その梵鐘、撞かせていただくことができるのです。
お作法がていねいに書かれています。
その音色のまた美しいこと!
安らぎの鐘と名付けられたこの鐘はこちらのお寺さんの移転再建を記念して、有縁の方々が寄贈なさったものなのだそうです。
『上は諸天に通じ、下は九泉に徹する御佛の声』であるとされ、この音を聞く者は心の浄化とやすらぎを得ることができるとのことで、供養になることでもあるという由で鐘を撞くことをお許しくださっておられるようです。
ちなみに諸天とは天人たちが住む諸々の天国で、九泉とは地の下は九層になっているという地獄の果て、という意味だそうです。



そして、新型コロナウイルスによる自粛がようやく解除されたとはいえ、まだまだ終息の糸口すら見つからず、今はたまたま広がりが制御されているだけで、おそらくは必ずまたその猛威を振るうだろう恐れのあるなか、こちらのお寺さんでは御朱印こそは中止なされていたものの、なんと、御本堂へのお参りをお許しくださっておりました。
心ゆくまでの礼拝をとのご配慮からでしょう、ご案内すると静かに席を外されていかれました。
そして、その御本堂の立派なことといったら。

新しいから、ではないのです。華美でもなく、そこはまさにまぎれもない癒しの空間でありました。
心落ちつく、広い広い御本堂。
欄間からはたくさんの御仏の彫像が見護ってくださっておられます。そのお姿のお美しくお優しいことといったら!
天井画もみごとな季節の花やあるいは鳥が描かれていたでしょうか。
御迷惑だろうと遠慮して手短に礼拝を済ませたものの、いつまででもいたいと思うような、まさにひぐらしの御本堂でありました。



No.93 20/06/07 02:40
旅人さん0 

先日、すっかり館林のファンになった私は館林に通いそうな予感ですと書きました通り、こんなにも短期間でありますのに再び館林の地を訪れました。
ナビのついた車で道を走るとなんと神社仏閣の多いことか┉。
江戸時代までお城の存在したところは、その名残の多いこと。

とはいえ、私はお城にはあまりときめきを感じることはなく、ましてや城跡というものにはとんと興味がありません。
「ここがなんとかのあとだよ、スゴいねぇ⤴」
「ふーん、そうなんだ⤵」
そんな会話がしばしばです。ただの山にある起伏にしか見えない私と、かつての合戦の折の攻防までに思いを馳せる歴史オタク殿との悲しいくらいの温度差であります。

さて、今度館林に来たら絶対ここに来たい!と騒いで帰宅いたしましたお寺さんへの参拝に、わずか一週間後訪れております。
前回道すがら、大きな山門が見えてのことでありますが、こうなると子供よりもたちが悪いです。ちょっと反省しておこう。

そのお寺さん、【善導寺】さん。
大きな山門、そして広い広い境内!
先週から温めていたときめきがさらに増します。

┉?
あ、新しい?そのすべてがなんとも新しく感じます。
うーん、でも、徳川四天王の榊原さんの菩提寺なんだよなぁ。お墓もあるはず。お寺にありがちな火災による焼失、再建パターンでしょうか?


御由緒書きに明治二(1869)年に明治天皇より勅願所の綸旨を賜わった格式高いお寺さんだと書かれています。

こちら和銅元(708)年、行基菩薩が東国行脚の折に開創されましたお寺さんであります。
戦乱の世にあって次第に荒廃しますが、天正18年(1590)館林城に赴任した榊原康政が菩提寺として再興されております。元和元年(1615)には関東十八檀林寺に加えられ徳川家康に保護されながら多数の優秀な僧侶を輩出してきたとされています。

そんな古い歴史を持つお寺さんにありながらすべてが新しいよな┉。
ん?移転?

な、なんと!館林市の都市開発で昭和59年に現在地へ移転し平成2年に堂宇が整ったそうです。なんともったいない!!
しかも、結局、駅前にあったというこちら様の跡地にはただの駐車場が広がっているのだとか。┉おバカな都市計画で貴重な財産をいたも簡単になくしたものです。歴史的な遺産として、そして昨今の御朱印ブームでどれだけの財源になったことか。(-""-;)

No.92 20/06/06 19:17
旅人さん0 

今日は、夫の運転する車で走行中、ホワイトアウトにも似た豪雨にあいました。前を走っているはずの車が見えないのです。
車のライトすら見えないのです。
雨量と風でまさに真っ白な世界。

しかも風も強くて、グラグラと車が揺れ動きます。
私は助手席でただただ驚くだけでしたが、運転していた夫は本当に大変だったと思います。
まるで、延々と続く、滝のなかを走り続けているようでした。
洗車機の中よりも凄かったと思うなか、片道二車線の内側を走行中に起きたことでどこかの駐車場に入るための車線変更も危険で、走るしかなかった状況下、いつもと変わらず冷静に運転を続けている夫に、あらためて感謝と、尊敬いたしました。


異常気象、本当に恐ろしいことであります。

No.91 20/06/06 07:58
旅人さん0 

気をとり直そうにも、拝殿に至るまでの参道びっしりに鯉のぼりがひらひらとはためいているので、なかなか平常心に戻ることもむずかしく、それでも手水舎で手口を清めて、拝殿だけに集中して目と心を向けて参拝させていただきました。
立派な拝殿、本殿であります。
狛犬さんは大きな狛犬の前に小さな古い狛犬さんが奉られていて、まるで親子のようにも見えます。小さな狛犬さんは大きさだけでなく少し幼さを感じるようなたいそう可愛らしいものでありました。
そんな可愛らしい狛犬さんが真剣にお護りくださるお姿がいとおしい、素敵な神社さんでありました。

なんとか、本来は見えている鯉のぼりを意識から排除しつつ、参拝を終えて、ふと手水舎のそばに目をやるとハート型に形作ったクローバーの寄せ植えがあるではありませんか。かわいい♥
パシャパシャと写真を撮る私もそろそろこちらの神社さんに慣れてきたようです。
さあ、御朱印はお取りつかいがあるでしょうか?もともと御朱印は取り扱わない方針を決めておられるところもありますが、コロナ問題でお止めになっておられるところもあります。
おお、どうやら御朱印をお書きいただけるようであります。

「ヴ」
オリジナル御朱印帳が二種類、色違いを含め計三種類。┉その色違いの御朱印帳、鯉のぼり柄であります!
ここは鯉のぼりの神社さんであるのでしょうか( 。゚Д゚。)?

平常心、平常心。

長良公の時代には鯉のぼりは存在していないでしょうから、由来はないと思うので、特にそこに触れる会話もせず。
恵比須講のひらかれる神社さんでありますので、その頃には少なくとも鯉のぼりは泳いではいないのでしょう。


参拝を終える頃、ポツポツと降りだした雨。本来はもっと早い時刻から雷雨警報が出ておりましたこの日。

神さま方にお守りいただき、雨にも降られず参拝できましたことに、夫はしきりと感心し、感謝しておりました。
私はといえば、お受けしたばかりの雷電神社さんの雷避御守りを握りしめて目をつぶって助手席に座って祈っておりました。
この日の雷雲はたいそう大きく広範囲にわたってのものであったようで、前橋から館林まで同時に雷雨にみまわれていたようでした。

No.90 20/06/06 07:20
旅人さん0 

夫の車はまだ購入して二年経たないもので、メーカーの純正ナビがついているのですが、そのじゃじゃ馬っぷりが半端ない!
遠回りはする、入れもしない裏口に案内する、一番ひどかったのは入力は正しいというのに、案内した場所すらあっていないという、すさまじさ。

┉と、そこまで書いていてふと思ったのですが┉なんだか、耳の痛いような、身におぼえがあるような言葉の羅列。もしかして、私似?
って、ナビは正しく案内するために作られた機械なので!(-""-;)
その手の能力に欠けたでき損ないの人間と一緒じゃ意味がないでしょ。


閑話休題。
というわけで、今回群馬県館林市の【長良神社】さんまでの案内でも、しっかりしでかしてくれました。

「┉ねえ?いまナビにでている地図に長良神社さん出てたけど、ここ直進で行けそうだけど?」
しかし、初めて訪れる神社さんであり、地図もろくに読めなければ方向すらもわからない妻の話よりはやはりナビのほうが信じられるだろうと思った夫は、
「ナビのいう通りに行ってみようじゃん」
と、宣いました。細い道をくねくねと走行したあげくに着いた先は┉民家しかない細い路地のつきあたり。バックするしかありません。
「やられたぁ!」
神社の影かたちすらありません。

十数メートルバックして、なんとかUターンできそうなところで切り返し切り返しして、もと来た道にもどって地図の示す道だけを頼りにしたのが、私が言っていた通りの道。
信頼できないナビゲーションとナビゲーターに翻弄される夫の旅は、なんとスリリングなものでしょう。
それにしても、少しぐらい信用してくれてもいいのに┉( ;-`д´-)

そんな苦労をして到着いたしました【長良神社】さん。
「?!」
幼稚園のとなりに隣接している┉というより、おそらくは長良神社さんが経営している幼稚園、なのでしょうが、そのせい?なのでしょうか?色とりどりの鯉のぼりがハタハタとはためいているではありませんか!
「え?」┉幟旗に描かれた鯉のぼりではありません。正真正銘の鯉のぼりが仲良さそうに泳いでいるのです。大きさは同じもので統一されて色も配色よく等間隔で、鳥居から参道にかけ、ずらーっと。
さすがの私もびっくりです。┉夫はといえば、そんな不慮の事態に慣らされているせいか「わあ、見事だね♪綺麗だぁ」と歓声をあげておりました。私のおかげ、かなぁ┉。



No.89 20/06/04 19:05
旅人さん0 

以前、走行中の車のナビの画面に、三つも同じ名前の神社さんがあがってきて大変びっくりした、┉そう、あの【長良神社】さん。
その【長良神社】さんのひとつに参拝をしてまいりました。
群馬県館林にあります、館林総鎮守の長良神社さんであります。

以前書きました通り、邑楽郡に24社、館林市に11社、太田市に4社あるとされる長良神社は、【藤原長良公】という実在の人物が神格化され主祭神としてお祀りされております。
とは申しましても、走行中のナビに映し出されたもので初めてその名を知ったくらいであります、私。
これだけ限局した場所で、平安時代を生きた実在の人物が、今なお愛されて敬われ、お祀りされているということ。
そんな長良神社、藤原長良公。

どんな神社さんでありましょう。


┉なにやら珍道中の予感です。

No.88 20/05/31 12:36
旅人さん0 

【尾曳稲荷さん】は前スレで書きました通り、館林城のなかにありました神社さんでありました。

狐が『尾で縄張りを曳いた』、その曳き始めの地点には【初曳稲荷神社】さん、狐が縄張りを曳き終えて、夜明けをむかえ姿を消した地点には【夜明神社】さんがあるのだということであります。
いつか是非参拝させていただきたいと思います。


さて、尾曳稲荷さんとはある意味少しかけ離れてしまいますが、【館林城】、実はあの徳川綱吉公が城主を勤めていた時期があったのだそうです。
普通に歴史の授業を受けていただけの私とて、徳川綱吉公はどんな方であったかを、最低限のことなら何も見ずにすぐに語れるほど歴史上有名な人物であります。
しかし、初耳であります私。
歴オタ夫は例によってすらすらと、何も見ずに、やれ、
「徳川四天王の一人(┉知りませんけど┉)榊原氏が城主をとなったり、結構入れ替わりはあったけど、四代将軍の家綱の弟にあたる綱吉がここに入封した時期があったんだよ。家綱が短命で亡くなってしまって、その跡を次いで綱吉が五代将軍になるまでの間だけどね」
ふえぇ、おんなじ県に住みながら、少しも存じませんでした。
( ゚Å゚;)

まぁ┉犬公方の綱吉さん、ですからね。自慢気に語れることでなかった┉ということなのでしょうか。
それとも、私だけが知らなかったこと?群馬県民は結構知っていたりする史実なんでしょうか。(^_^;


館林城の跡は、綱吉の息子の徳松が家督を継いだ、とのことですが、
徳松が急逝してしまい、その際、廃藩となって再び天領となった。この時、城は壊されているのだそうです。

その後また、小さな規模で建て直し(そ、そんな?だったらそんな簡単に乞わさなければいいのに)明治七年焼失するまで、館林のこの地にお城が存在していたようです。


もとあった尾曳の館林城はそれはそれは大きな規模のお城だったようです。
神社仏閣も大きくて立派なものが道すがらたくさんありました。


すっかり館林のファンになった私は、館林に通いそうな気がいたします。そう、そうして改修後の尾曳稲荷さんにも再拝したいと思うのであります。

No.87 20/05/30 14:48
旅人さん0 

【尾曳稲荷さん】は、天文元(1533)年、【尾曳城(後の館林城)】城主・赤井照光公が城の鬼門にあたる稲荷郭の地に守護神として創始されたものになります。

大袋城(館林城沼南岸)の城主 赤井照光公が、ある年の年賀に向かう途中、童子らに捕らえられたこぎつねを助けたのだそうです。
その夜更けに老翁が照光公の夢枕に立ち、、子狐が助けられた礼を述べ、館林が要害堅固の地であると説き、移転を奨めて姿を消したのだといいます。もちろん、さすがに夢にみたことにすぐに従うことはありませんでしたが、その年の七夕の夜、老狐があらわれて、自らの尾を曳いて城郭の縄張りを先導して夜が明けたのだといいます。
その別れ際に、
『築城完成の暁は長く城の守護神に使えよう。私は稲荷の神使 新左衛門である』と言い姿を没したのだそうです。
照光公はこれによってその尾を曳いて導かれた館林の地に築城し、その名も尾曳城と号し、城中の鬼門あたる場所に稲荷郭を設け、社殿を造営し神社を奉祀したのが、ここ、尾曳稲荷神社でありました。

そんな伝説が、子供にもわかるように画を添えたものが拝殿横に設置してありました。
「ねえ、みた?これ。」
「ああ、見てないけど、狐が尾で城の縄張りを張って、この地にこう城を建てるように言ったっていう話だろ」┉そうね、歴史オタクは民話だとか、伝説にも強かった。┉縄張り?
「『縄張り』って、戦国時代以降には、城のくるわや堀・石垣などの配置を定めるため、縄を張ることを意味する建築用語として使われてたんだよ。だから縄張り。」┉へぇぇ。
子育て時代に、どうしてそれを子供たちに伝えてくれなかったのか。
(*´;ェ;`*)

そして、肝心の社殿。┉工事中でありました。
そのほとんどがシートで覆われております。ですがこちらの神社さん、拝殿に自由に昇殿でき、なかなかそのような神社さんはないので、ありがたい参拝をさせていただいた思いでいっぱいです。

こちらの狛犬さんもまた、子狛犬が母狛犬の足元にじゃれついている石像でありました。お母さん大好きな子狛犬をあやしながらお勤めをする母狛犬。母子の愛情溢れる、表情豊かな、彫りのしっかりした石像であります。
お狐さまの石像もまた、母狐の足元にウトウトする子狐がいたりと、石像、石仏好きの私には、心癒される神社さんでありました。


No.86 20/05/30 09:21
旅人さん0 

群馬県館林市にあります【尾曳稲荷神社】さんは、館林市の歴史を語るうえで外すことのできない神社さんのようです。

館林市にかつてあった【館林城】は、江戸時代まで使われていたものであるため、そこここにその名残があり、いかにも『城下町』であったといった風情が残る街であります。
┉とはいえ、私は歴史に強い関心があった者ではないので、ごく最近にそう思っただけでありますし、館林市の歴史について何ら知識もないのでありますが、私称(私が称している、という意味であります、笑)歴史オタクの夫は、かつてデートをした頃、内心では熱い思いで館林の街を訪ねていたようでした。┉いまになって知ったことですが。

館林方面に向かうとき【尾曳稲荷神社】さん、通称【尾曳稲荷さん】をやんわり推してくる夫。夫が折に触れて名前を言うせいなのか、有名な神社さんだからなのか、私のなかにもその御名前がしかと刻まれておりまして、今回、【尾曳稲荷さん】に参拝させていただきました。

館林と言ったら、花山公園、というくらい群馬県民なら、名前だけは知っている花山公園に隣接したところに鎮座した神社さんでありました。
┉そう、花山公園は、あの【上毛かるた】に出てまいります 笑。

が、実際は、花山公園ではなくて【つつじヶ岡公園】でありまして、実際に行くまで花山公園だと思っておりましたし、┉実際に行ってもなお、上毛かるたの呪縛で正式名つつじヶ岡公園が出てこないのは、私だけでしょうか。 (^_^;)




No.85 20/05/26 19:12
旅人さん0 

緊急事態宣言が解除されたものの、新型コロナウイルス感染症の終息をむかえたわけではなく、基本的には常にソーシャルディスタンスを心がけ、不要不急の外出は避け、県をまたぐ外出はしないこと。


神社仏閣に参拝にうかがうことは、不急かもしれませんが、今の私には必要。ということで、外出自粛中にあれこれ思い描いていた、群馬県邑楽郡板倉町にあります【板倉雷電神社】さま、そして板倉町の手前にありますところの館林市【長良神社】さま、【尾曳稲荷神社】さまに参拝させていただきました。

┉とはいえ、【板倉雷電神社】さんについてはほぼ書き尽くしてある感があり、追記することいえば、例のあの、ヒトツバタゴの花の時期は終わってしまっていたこと。
【厄玉】と称される、落としたい厄を強く念じながら壺に落として割るという、この神社特有の、厄落としの行事が新型コロナウイルスの感染対策のために中止されていたこと。
【なまずさん】と呼ばれるリアルななまずの像があるのですが、これもまた、新型コロナウイルスのせいで封印されてしまっていたことであります。

今回、厄落としの厄玉割りがしたくての参拝でありましたし、『なまずさんを撫でると元気が出て自信がつく』、というご利益にあやかりたかったのでありました。 (;ω;)
なんでも、神職の方がおっしゃることに、【なまずさん】を舐めてしまう参拝客の方までおられるとのことで、もうすでにコロナ対策以前の問題であったようです。「信じられないでしょうが本当なんですよ」( 。゚Д゚。)
そ、それは┉インスタグラムにでもアップする写真を撮ろうとでもしての行為なんでしょうか?
板倉や館林市ではなまず料理が昔から親しまれているようですが┉美味しそうに見えた、ということでしょうか?
元気と自信も欲しかったなぁ(;ω;)





No.84 20/05/26 01:33
旅人さん0 

空を見上げると、いつも日光に向かうときに通る国道122号線が見えます。道路を走行している時にはまるで目に入らないのに、ここからは通る車が見えています。

なんとも言えない、畏れ多く、ありがたい気分です。
この道はお不動さまが下から護ってくださっておられたのだなぁ。
夫も、息子も、そしてライダーや車の同好の方々も、みなこの道を好んで走られます。┉もちろん夫と息子は普通のドライバーにすぎませんが┉。

さらに石段を昇ると滝のそばにお不動さまの石像がお立ちになっておられます。
天然の大きな石盤なのに、まるでお不動さまがお立ちになるために作られたような削れた部分があり、そこにお不動さまがすっぽり納まっておられます。
そのひだりてに滝があります。さほど大きくはない滝ではありますが、水量は豊富で勢いよく音をたて、川となって流れていきます。
覗きこむと、コの字形の楔が打たれております。
滝行をされる方がおられるのでしょうか。

高台には小さな石のお社があって、そちらにもお不動さまがお祀りされておられます。

なんでも、石段の手すりにくくりつける形で奉納された足や手の形のブリキは、願掛けのために奉納されているようです。
体の部位を奉納し、良くなったら剣を奉納するのだそうてす。
また、体の事以外のお願いの時にも剣を奉納しするのだそうです。

御由緒書きなどは存在しないので、いつからの風習なのかはわかりませんが、遠く県外からも参拝に訪れるようです。  

空気の清んだ、穏やかで静かな、ここだけ時間がゆっくりゆったり流れているように感じます。


┉私の運転で来られるかしら。
それとも、わたらせ渓谷鉄道に乗って花輪駅で降りて、ここまで歩いてくる?

ぜひまた再拝させていただきたいところであります。 



No.83 20/05/24 07:30
旅人さん0 

そこは、まさに森林浴といった感じに木々にかこまれた、清々しい空間です。昼なお暗い空間ではありますが、恐さなどはまるでありません。
見えてきた石段は思いの外整備されており、落ち葉が石段を覆っているようなこともありません。日參されておられる方がここをお掃除してくださっているのでしょう。

石段を登っていくと、石の灯籠にハートの形をした石が置かれていました。そして、┉こ、狛犬?狛犬であります。えっ?

ああ、しかも最近見かけてたいへん心打たれて惹かれている母子狛犬であります。なんとも微笑ましい、愛情一杯の母狛犬を心から信頼して見上げる子狛犬の石像です。
もう、この狛犬像だけで癒されて満たされた気分であります。
ん? あれ? お母さん狛犬、口をつぐんでおります。┉ですが、そもそもが狛犬さんに性別を持たせていることがある=母子狛犬を最近知ったくらいですので、特に決まりごとはないのかもしれません。
┉あ、阿吽の像が逆みたいです。(^_^;)
でもこれもまた意味のあることなのかもしれません。


御本堂でお参りをさせていただきます。
御本堂の前の濡縁部分にはお不動さまのお座りになられたブロンズ像が安置されています。お座布団を三枚ほど敷いておられます。

また、白木の木の板に、お不動さまの御真言が書かれています。梵字にふりがながふられています。お唱え申し上げて、本殿みぎてにある石段を登ります。


さらに続く石段の手すりに、オブジェのような金属の板(ブリキ?)が手すりすべてを覆いつくすように飾られています。その形はさまざま。
菅笠であったり、下腿二本であったり、身体全体であったり、手であったり┉。赤く塗られたものもあります。
私たちはネットで情報を得てお詣りさせていただいておりますので、さして驚きもしなかったですが、ネットでの画像情報もなく初めてここを訪れた方はさぞやビックリされることと思います。
私はそこまで詳しくは見なかったのですが、その金属のオブジェには住所と名前が書かれているのだそうです。

その手前、手すりの始まりの大地部分に、やはり同じ金属で作られた剣が奉納されております。こちらは身体の部分を形どったものより丁寧に作られております。

No.82 20/05/23 07:44
旅人さん0 

車をUターンさせて今来た道を戻って、駅を通り越して、┉踏切。ありました、ありました。元の小学校?
花輪のメインストリートを走って、ん?車がちょうど出てくる狭い道、これだぁ、きっとこれだな。
┉って、通りすぎたゃったし(^_^;)
郵便局があったので、そこでまたまたUターンして、思っていた以上に狭い道を走って、あ、小学校?元の?
それを見ながらひだりてに曲がって┉走る(┉はい、いつものように、夫の運転でありますところの車が、であります、笑)
石の門?石の標塔?がみぎてに見えてきました。きっとここでしょう。

さて、どこに車を停めよう。とりあえず、ひと様の庭ではない、車が四~五台くらい停められそうな、空き地があります。もちろん、どなたかの所有する土地ではありますが、とりあえずそちらに停車させていただいて、┉おばさんの出番です。
すぐそばのおうちにも、石塔の内側にも外で作業されている方がおられます。石塔の中で作業されておられる方は電動草刈り機で草刈りの真っ最中。動きをお止めになるまで待ってみることにしました。

「あのぉ、作業されておられるところを申し訳ありません。こちらが藤滝不動尊さまでよろしいでしょうか。」
「ああ、そうだよ。お参りにきてくれたんだぁ。どちらから?」
「○○○○からです」
「そおかぁ。遠いところをわざわざ」
と、それこそわざわざ草刈り機をお止めになって、そばまで来てくださって説明してくださいました。

「ここを登ればすぐにお堂が見えてくるから。そおしたら、お堂の右の階段を登ってしばらく行くと滝があるから、そのそばにもお不動さまがおられるから、よかったらそこもお参りしてあげてください」
「作業だけでなく、機械まで止めさせてしまって┉申し訳ないです」
「車はそこの空き地でも、そこの家の庭にでもいれさせてもらって大丈夫だから」
┉えっ?人のお宅の庭に?断りもなく?無理無理!
停車させていただいていた空き地に停めさせていただいたまま、参拝させていただくことにいたしました。

まだ作業を止めて見送ってくださっておられます。
この辺りのかたはみなさん、なんてあたたかくて人に優しいのでしょう。
赤銅街道とよばれた宿場町であった土地柄でしょうか。
お不動さまのお護りくださる土地に住まう方々だからでしょうか。


No.81 20/05/22 09:09
旅人さん0 

これは┉かつてないクエストです。ソーシャルディスタンスをと言われている今、突然見ず知らずの人に声をかけられて、不快にお思いになられる方もおられることでしょう。うーん、、全然見当がつきません。

夫はさらに駅から左へと車を走らせます。

┉農作業の合間のひと休みをされている方がおられます。うーん。

ですが、話しかけてみなければ何も変わらない。相手の方がおイヤに思われるかどうかは、やはり話しかけてみて初めて知れることです。
こちらをご覧になられています。

「聞いてくる」┉おばさんの出番です。

┉年配の男の方は、満面の笑顔で迎えてくださいました。まるで待っていた方でも来たかのような、そんなあたたかな笑顔です。

「あのぉ、藤滝のお不動さまにお参りをと思って来たのですが、場所がわからなくて┉。ご存知でいらっしゃいますか?」
「知ってるよぉ。よく来たねぇ。あそこがそうなんだ」
えっ?道路の向こう側の┉あの山、ですか。
「ここを戻って、踏切渡って、学校のところをあがって行って左に行くと、石でできた案内が建ってるんじゃないかな、たしか」

うっ、えっ、えっとぉ。
踏切、学校、っと。

「ありがとうございました」
┉それにしても、この方とお話しただけで、たいへんあたたかな気持ちになりました。ひさしぶりに会った、懐かしい大好きな方に会って話したあとのような、満たされた感じがして、それだけでここに来た甲斐がありました。


とりあえず、めざすは踏切、です。

No.80 20/05/18 12:56
旅人さん0 

外出自粛がとりあえず解除となった初めての休日。それでもやはり県外への移動は自粛するということを受けて┉。
参拝させていただきましたのは、かねてより行きたかった群馬県の【藤滝不動尊】さまであります。
藤滝というのが地名なのか、人物に由来するものなのかもわからない、ナビにする出てこないお不動さまであります。けれど、知る人ぞ知る霊験新たかなお不動さまであるようで、全国からここを訪れる方がおられるという、ネット上の情報のみを頼りにまずは地元の第三セクターであります【わたらせ渓谷鉄道】の【花輪駅】を目指しました。
相も変わらず、対向車が来たらどうしようといった道を通って、駅へと案内するナビ。
落石注意の標識がいくつもあります。(((((゜゜;)
そもそもが、【花輪駅】という駅にすら来たことがない二人であります。

やがて、かつての赤銅街道と呼ばれる街道の宿場町であった、そんな風情の残る通りを通って、ふたたび細い道へ。あ、ありました。
駅舎やその周りをいかにも宿場町、といった風情をイメージして造られた新しい駅でありました。駅へと入るのに小さな小川を太鼓橋を渡っていく、という大変凝った造りであります。
小川の先には池が設けられてまだ若い錦鯉が泳いでいます。池には小さな水車があります。思わず、駅、であるのに写真を撮る私。待たせているかなと振り向くと┉夫も、私以上に写真を撮っておりました。(^^;

さて、藤滝の不動尊さま、ナビには出ません。
頼りはネット上にあげられた文章での案内、であります。うーん、無理、だな。とりあえず、駅をあとにして、左に車を走らせることに。
けれど、外出自粛解除とはいえいきなり知らない人間に声をかけられて道を教えてくださるであろうか (-_-;)
たまたま、道を歩く女の方がおられました。
「あのぉ、すみません。道をお尋ねしてもよろしいですか?」
「あ、はい」
「藤滝の不動尊というところなんですが」
「は?」「藤滝の不動尊さまです」
「え?それ花輪ですか?聞いたことないですけど」
えっ⁉ (゜ロ゜ノ)ノ


┉地元の方が知らないとおっしゃる藤滝不動尊さま。
私たちはたどり着くことができるのだろうか。

No.77 20/05/17 07:24
旅人さん0 

私の住まうまちも、群馬県の例にもれず大変雷が多く、また落雷もよくある地域であります。雷が鳴り出すと、家中の抜くことができる限りのプラグをコンセントから引き抜いて歩くほど、大人げなく雷が恐くて怖くて仕方がない私は、雷除けの御守りをお受けすると決めてこちらを参拝いたしました。夫にも持ってもらった方がより効果的なのではないかとか、御札もお受けした方がよいかとか、あれこれと悩んでしまいました。それどころか、子供の人数分欲しかったくらいであります。
ですが、押しつけはよくないと言い聞かせて、私の御守りで私の大切な家族をもお守りくださいと、御守りを胸に拝殿であらためてお願い申し上げてまいりました。図々しさには雷神さまに覚えがめでたいかと┉(^^;


この雷電神社さまのむかって左側にはたいそう広々とした公園が広がっていました。たいへん気持ちよさそうな公園でした。

そして、初めて見る、真っ白な花の咲く樹が雷電神社境内や周辺のそこここに見られました。帰宅後に調べたところ【ヒトツバタゴ】という、天然記念物にして絶滅危惧種の植物、なのだそうです。
それは美しい、幻想的な花でありました。
ちょうど今ごろに咲いていたものだと思われます。
今年はゴールデンウイークに予定されていた大祭が、こちらも例にもれず中止とされていたようです。
外出自粛が解除され、県内ということもあり、今日あたり再拝させていただいては┉ どうなのかな?外出自粛解除って┉うーん(-_-;)

No.76 20/05/17 07:00
旅人さん0 

【雷電神社】さんの本殿を廻らす見事な彫り物は、【左甚五郎】から十代目の名人彫刻師【石原常八主信(いしはらつねはちもとのぶ)】作とされています。石原常八は天明七年 現在の群馬県みどり市花輪に生まれました。
彫刻は本殿東側に『浦島太郎の物語』が、右側には『素戔嗚尊(すさのおのみこと)の大蛇退治』が、左側には『天地を辟開する盤古』『大志王夫人』、背面には『神功皇后の御征韓』が刻まれています。

また、縁下脇間には『唐子遊び』と称される子供の遊ぶ様子が刻まれています。日光東照宮の彫り物にも、いかにも中国風の彫り物が多く見られますが、その中でも子供の遊ぶ様子をそう呼ぶのだということを初めて知りました。
この中に鰻取りをしている子供たちの様子を描いた彫り物があるのは、池沼の多い当地方に合わせて彫られたもののようです。



本殿の後ろには奥宮が鎮座しており、こちらは、【伊邪那美大神】さまを祀り、縁結び・子授け安産・家内円満のご利益があるとされています。
この社殿は江戸時代末期の慶応四年(1868年)に造営されたとされています。こちらはすべて白木の社殿でありますが、社殿の左側だけに施されている彫り物がまた見事なものでありました。


雷電神社の末社 【八幡宮稲荷神社】社殿は、全国に七か所あるのみの【二間社入母屋造】と呼ばれるものだそうです。
明治四十一(1908)年内務省告示で国宝となり、その後『雷電神社末社八幡宮稲荷神社社殿』として昭和二十五(1950)年に国の重要文化財に指定されたということでありました。
この社殿は群馬県内で現存する建造物の中で最も古いものなのだそうで、室町時代後期(戦国時代)の天文十六(1547)年に建てられたとされています。
江戸時代中期に大改修が行われ、さらには昭和三十五(1960)年に文化財保護委員会により復元修理が行われ現在に至るとかで、知らずに訪れた私は、それほどに古いものとも、ましてや珍しい造りであることにも気づきもしませんでした。
その貴重な建物の防犯のためだったのでしょうが、防犯カメラに、ずっとアナウンスされ続ける「お参りご苦労様です、云々」がたいそう喧しくて、正直風情のかけらもなくて、落ちついたお参りをすることができませんでした。(`;ω;´)


No.75 20/05/17 03:13
旅人さん0 

石段を昇ると、!♥。
それはそれは立派な狛犬さんが拝殿を護っておられます。それが三頭。三?とお思いになられることかと思いますが、三頭、なんです♥向かって右の狛犬さんの足元に、その狛犬さんのお顔を見上げるように立つ、まだ幼子の狛犬さんがいるのです。
「┉か、可愛らしいっ。」
こここそが世界で一番安心な場所だと信じて疑わない、幼子の狛犬を守りつつ、全力で、社殿と、社殿の中におられる御祭神を護っておられます。なんともいとおしい狛犬さんであります。
対する左の、吽の狛犬さんは鞠に脚をかけておられます。
脳内でぱあぁぁ、という音がして花が咲いたかのように、しばしその右の狛犬さんの足元であらゆる角度からそのお姿を見上げておりました、ご想像通りの私なのでありました。

拝殿でお参りをさせていただき、右の方向に向かうべく視線を移すと、社務所があるのですか┉社殿のまえに、枯れてしまって、枝すらが落とされた大きな樹がそびえ立っています。?
とりあえず社務所で御朱印を拝受して、ふりむくとやはり枯れた大きな樹がそびえ立っています。
結局この枯木がどういったものなのかわからないままで、帰宅後にGoogle先生にお聞きしたので?あります。

そして大きな白い、躍動感あふれる御像がおられます。雷童子となっております。『困ったときに現れて助けてくれる』というような意味の言葉が添えられていたように記憶しております。うーん?


気を取り直して本殿に向かいます。
私のように長年不信心をしていた者にとって、神社さんにおいて横やらましてや後ろやらには、まわらせていただいてよいものかどうか迷うものなのですが、こちらは本殿にまわらせていただいてよいと看板で案内が出ております。
そのかわり(┉といってはなんですが)拝殿と本殿を隔てるように塀が設けられいます。

うわぁぁ♥色調も華やかな、彫り物が施された本殿です。立体的に彫られた上に華やいだ色調の色が塗られております。一枚一枚、物語になっています。┉とはいえ、どんな物語になっているのかはわからないのですが。

No.74 20/05/15 04:36
旅人さん0 

【雷電神社】さん、という神社さんは、お読みくださっているみなさんのところにもございますか?
こちら群馬県では、その名を聞き慣れ親しまれている神社さんで、【雷電さま】とお呼びすることもあります。

神社仏閣に縁をもたない人生を歩んできてしまったような私ですらが知っているその名でありますが、それは群馬県という地が雷が多い土地柄であるため、なのかもしれません。
群馬県を語ると必ずやその名が出てくる【上毛かるた】にも、『ら』
『雷(らい)と空風(からかぜ)、義理人情』という札があるくらいであります。


その雷電神社さん、群馬県板倉町にある雷電神社が総本宮であります。
その歴史は古く、五九八年、推古天皇の御代にまでさかのぼります。
当時は伊奈良(いなら)の沼と呼ばれる湿地に浮かぶ小島であったこの地に、【聖徳太子】が神の声を聞き、祠(ほこら)を設けてその神を祀ったものとされているのだそうです。
また、境内東側の社務所前にあります、枯れて幹の一部から下のみを残す【龍灯の杉】は、八○一年、東征した【坂上田村麻呂】が社殿を造営したところ、その宮祭の夜、境内にあった杉の木の梢に沼の中から灯が上ってきて闇を照らした、とされる伝説として語り継がれるものなのだとか。

古くから雷の被害が多い土地であり、また暴れ川で度々流路を変えた渡良瀬川と利根川との間にあって、度々火災や水害に見舞われたようであります。
江戸時代の延宝2(1674)年、【上州館林城主徳川綱吉公】が社殿を再建され、それ以降ここ板倉の雷電神社では左三つ巴の紋章に併せて、徳川家の三ツ葉葵の紋章を使うようになったのだそうです。 
(その六年後に綱吉公は第五代将軍になります)

主な御祭神は火と水を司る神【火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)】さま、【大雷大神(おおいかづちのおおかみ)】さま、【別雷大神(わけいかづちのおおかみ)】さま、雷さまの神社です。
本社社殿裏手にある奥社には伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)が祀られておられます。
末社である八幡宮稲荷神社は群馬県最古の木造建築で全国でも七ヵ所しかない扉が二組あり、その真ん中に一本の柱が建っている珍しいものなのだとか。
┉ただ、見る者が私のような者になりますとその珍しさですら気づくことができないという悲しいことになるのであります。


No.73 20/05/12 05:23
旅人さん0 

緊急事態宣言下の外出自粛のなか、ウォーキング等の運動はオッケー、密にならないところ、密にならないことはオッケー。不特定多数の人が触れる物にはできるだけさわらない、県を越える移動は自粛する┉このどれもが地元の神社仏閣をお参りすることは条件をすべて充たしています。
そこに不急の外出は避ける、ということを加えるといきなりグレーゾーンになってはくるのですが┉。

日々、自転車で通うこともあるような仕事に向かう途中にある、宮司さま等神職の方の常駐されない、信徒が時折参拝をされるような神社さんの参拝をさせていただくことはギリギリオッケーかなと、気になっていた神社さんを参拝させていただくことにいたしました。
ウォーキングやサイクリングで行ける範囲は不急でなくてもオッケー、と、ない知恵をしぼった、ある意味悪知恵を駆使しての参拝です。

通りすぎるだけでしかなかった、ナビに映るお名前の神社さん。その神社のご芳名から勝手に御祭神を推測して、失礼だけはないように、お参りさせていただいたつもりではありますが、それは私が思い込んでいるだけのことに過ぎないことではあります。



No.72 20/05/11 08:10
旅人さん0 

【瑞峯寺】さんは、聖武天皇の御代、天平元(757)年に、日光山を開いた【勝道(しょうどう)上人】が、現在こちらの奥之院となっております三昧石(三枚石)で修行されたことより起源され、明治の廃仏毀釈で、古峯神社さんの仏教の部分をお寺としたことにより開山されたもののようです。
下野(栃木県)の名刹、出流(いずる)山より【奥之院】にきた時に、この地に古峯と名付けたともいわれているようです。

その【奥之院】は、ここ瑞峯寺さんから車で八キロ、そのあと山歩き五十分のところにあるようです。慢性化した腰痛の持病もちの、インドア派夫婦には、一生参拝できそうにありません。そもそも、夫はここに到るまでの悪路で、最初で最後の参拝を宣言しておりますし( ω-、)

こちらでは、【ご縁日護摩修行】というものが毎月一回執り行われているというご案内をいただきました。こちらは御護摩の炎に直接手かざしし、その手で自分の身体をさすり、祓い清めて、ご本尊の御前に進み出て願いを託すというもののようであります。
さらにそのあと、護摩導師によるお祓いを受けて、さらに希望する者には入門会と称した会をおもちくださるようです。自身の願いのために、先祖のためにお経を唱えたい者に、読経、念珠、錫杖等のお作法を無料でご指導いただけるようです。
┉今、私がもっともご指導いただきたいお作法であります。
頑張ってここに自分で運転して来てみようかo(`^´*) ┉。
それを知ったら家族の誰かしらが必ずや車を出してくれるくらいの腕前であります。

五月には火渡り修行を行う【大祭】があるようで、修験者による斧と弓と剣の作法があり、煮えたぎった湯をかぶる(!)湯加持などが行われるとのことで、参加された方のネットでの感想も、迫力ある、いかにもご利益がありそうなものであったと書かれております。
参加者も素足で火のおさまったあと火渡りを行い、厄・災い除け、心願成就を祈願するのだとか。


うーん、行きたい、参加したい!

┉どちらの神社仏閣さん同様に、こちらの大祭も今年は新型コロナウイルス感染拡大予防のために中止。となっておりました (*T^T)


それでもきっと、この日は御住職による御護摩祈願は行われることでしょう。
そして、そこでは必ずや新型コロナウイルスの感染終息を御祈願されることでしょう。

合掌

No.71 20/05/10 08:22
旅人さん0 

「お寺の中にある神社でしょ?」
「違う、違う。ここはお寺だよ」
 ┉
「┉いいんじゃない?鳥居あるし、奉納旗も【南無金剛大権現】だし。なにより、もうしちゃったことだから、取り返しつかないし」
「ま、いいんじゃない」
 ┉ヴー!だったら言わないでおいて。
たしかに、拝殿だけ、です。いやいや、つまりは御本堂。とすると、先ほど私が拝んでいたのは庫裏┉。!Σ(×_×;)!
もうぅ、知ってるならさきに言ってよ。


石段をおりると、うん?なにやらひだりてに広々とした空間があり、大きな御像があちらこちらに見えるではありませんか。
さきほどの落ちこんだような、ちょっとヘソを曲げていたような気分はどこへやら、漫画だったらそれこそ“パアァ~✨”という文字が背後に浮かんでいそうなほどのテンションで、いつものように小走りとなって、そちらの方向に向かう私。
┉これは、少しでも同行の人を待たせずに、少しでもいいから見させていただきたい、という思いからでありまして、決して漫画のようにお花畑を走るように向かっているわけではないのですが、家族ですらどうとらえていることか┉。とりあえず、家族はそういった私の行動には慣れて、諦めてはいることかと(^-^;

そこは軽くみぎてとひだりてへと分かれるようになっており、そこをお護りになられるかのように可愛らしい六地蔵さまがおられます。
みぎてはやや下りとなっております。よし、ひだりてから✨


小さな古い石像のお不動さまが正面におられます。そのさらにひだりてへと視線を移動すると、ちょろちょろとした流れの、落差のある水の流れのうえの小高いところにお不動さまの石像がお祀りされています。
その道を進んでいくと、さらに林のような道に連なり、魅惑的な白い御仏像のお姿を拝することができるのですが、さすがにそこにまで進んでしまうのはあの悪路をずっと運転して連れてきてくれた、同行の夫を振り回しすぎになろうかと断念し、下の、ひだりてへと進んだ方の道に進むことといたしました。
そこもまた奥行きがありまして、さらなる広がりをみせております。
どうやらかなり広い境内であるようです。軽いハイキングコースのようです。

そちらへ進むこともあきらめて、一つのフロアーとなっている広場のような空間におられます御像を拝することにいたしました。

No.70 20/05/09 21:38
旅人さん0 

【瑞峯寺】さんは本当に神社みたいなお寺さん、でありました。

あまりにも立派な鳥居がある小高いところにある社殿は、絶対お寺さんの中にある神社の社殿であろうと思い、多少変わった造りではあるものの┉さながら社務所のような、庫裏のような┉
それでも群馬のお寺さんには、あえての古民家を移築して御本堂としたところもあるくらいなので、こういうお寺さんもあろうかと、こちらこそが御本堂と信じ、その前で拝ませていただき、そこで御朱印をいただけるとのことなので、中に入ってからも、ここが御本堂と思っておりました。
御朱印は【金剛不動尊】としたためられてありました。

さあ、今度は神社のゾーンへ参拝させていただこう。
石段をのぼって、のぼりきったところにある蓮華鳥居をくぐって、拝殿です。┉お寺みたいな神社さんだなぁ。
それでも拝殿正面には灯明立てと注連縄があります。さらにその前には、お不動さまの座像が拝殿正面にお祀りされています。
うーん?
そもそも仁王像もあるし┉。

ま、ここはお寺さんの中にある神社だし、こんなこともあるかぁ。

二礼二拍手一礼をしてふりむいたところ、
「おいおい、お寺さんでかしわ手を打つな」と苦笑いした夫がおりました。
えっ?
「だって、ここは神社さんでしょう?」

「お寺さんでしょう
「えっ?」



No.69 20/05/09 18:13
旅人さん0 

外出自粛のご時世┉なにぶんにも、もともと記憶力が衰えていたうえ、さらに寄る年波で記憶力の衰えた私が、しばらく前に訪れた神社仏閣の回顧録を書いておりますので、どうしても思い出せないこと、思い出せないものがあります。
記憶違いによる記述もあるかもしれませんが、どうかお許しください。

たとえば、ナビの画面が示した神社の名称をどうしても思い出せず、あれほどこだわったおっとならば覚えているだろうと思えば、彼もまた覚えておらず( ω-、)
まぁ、そんな二人の珍道中、回顧録となっております。



【瑞峯寺】さんは、夫の調べておいたとおりにまさに神社のようなお寺さんでありました。古峯神社さんの一の鳥居のうちにあることもありますし、明治初年の神仏分離令によって古峯神社さんの寺院の部分をこちらにお分けになったのかと思ったのですが┉それにしては参道に鳥居がいくつもあり、狛犬もたくさんおられ、どう見ても神社さん。
ですが、当時のあまりにも過激な仏像仏具の破壊、さらには寺院の建物さえも破壊し、火をかけるといった歴史を知れば知るほど、お寺であることを隠す必要があったのかも知れないと思うのであります。

大正八年には大洪水もあったようで、本堂並びに庫裡、客殿の流出があったようです。
並みならぬ先師の努力により、霊域を回復させ、有縁の浄地を現在地に求めて、堂宇を建立、法燈を護持して今日に至ったのだとか。
┉そんな復興を支持してくださった方々はやはり古峯神社の講の仲間さんたちだったのでしょうか。それゆえ、比較的新しい寺院でありながら、鳥居が多くあり狛犬がおられるのかもしれません。

その本堂のある敷地への入り口にもまた、鳥居があります。
しかしその鳥居は【蓮華鳥居(れんげとりい)】といわれるもので、仏教の蓮の花の台と、神道の鳥居が合わさった、神仏習合の鳥居。
やはり信徒が鳥居を奉納したいという声があってのものなようです。
お祀りされておられるのは、金剛大権現さま。

宗派は真言宗醍醐派で、れっきとした寺院であり、護摩修行・護摩祈祷を行っておられるのでありますが┉。
古峯ケ原という特殊な土地で、独特な発展をとげた、新しい形のお寺さん、なのかもしれません。

No.68 20/05/09 08:06
旅人さん0 

「さて、つぎは」
車に乗り込んだ夫はなにやらすぐにナビを操作しています。
「神社のようなお寺だって書かれていたんだけど┉ず、い、ほ、う、じっと」
ダァー、候補地がじゅずなりに表示されます。「おっ、これだな」

ふーん。

実は古峯神社さんへの参拝は急に思いたってのことであったために、計画をたてることもなく車を走らせてきたもの(えぇ、いつものように言わずと知れた夫が。ですが)。当然、次なる目的地など本来存在しないと思っておりました。
よほど夫は古峯さんに参拝したかったのであったのだなぁ。それなら、そう言えばいいのに┉。あ、言っていたか。f(^_^;)

ナビを頼りに進むと┉あ、あれはお寺さんのようです。

あれ?だけど┉。ナビの画面、神社ってなってる。? ? ?
何も語らないナビの画面を呆然とみつめ、スマホで確認をとろうとする夫を制し  ┉
(制し┉って、いざ文字にするとかなり威圧した感じがあるのですね。何気なく使ってみたけれど。普段からの行いが文字化するとそういうものだと諭しているかのようで、こちらは霊験あらたかなところに違いありません。)

「いいじゃない。ご縁があってナビの案内を受けてここにたどり着いたんだから、お寺でも神社でも。もともと目指してきてたのが神社みたいなお寺だったんでしょ?お寺みたいな神社だっていいじゃない」
「そ、そ、そうだよな」
エンジンも切らず路肩に停めたままナビの画面を横目でみている夫とはうらはらに、降りる気満々の私はすでに、お寺用と神社用の二冊の御朱印帳の入ったバッグを首にかけて、準備万端整えています。

「あ、じゃあ駐車場に停めなくちゃ。どこだろ?」
「あそこにあるよ」
そう言って走り出したとたん、大きな大きなお不動さまのお姿が見えてきたではありませんか❤
あ、しかも大きな大きな二大童子もおられるではありませんか❤

右の矜迦羅童子(こんがらどうじ)は、従順を表し、左の制叱迦童子(せいたかどうじ)は、奉仕を表しているとされていますが、なかなかお不動さまとご一緒の御像があるのはお見受けすることがなく、ましてや、外、風雨にさらされての御像ではほとんどみられないのですが、┉なんと大きな御像でしょう。
これだけで、もう、こちらにお導きいただいたことに感謝しかありません。








No.67 20/05/08 05:09
旅人さん0 

さて、こちらの神社さんの有名なところと言えば、そう、【御朱印】。
拝殿の前の通路にその一覧が掲示してあるほどでありました。
どの御朱印がいただきたいか、申し出てその書き手さんがおられればその日のうちにお受けできるとか、ネットや御朱印の本にいろいろな情報が書いてあります。

「御朱印をお願いできますか?」
そう、お声がけすると、女の方が対応してくださり、
「こちらの神社は初めてですか?」と聞かれました。「はい」と答えると、
「それではお任せということで書かせていただきます」┉はぁ、そういうことであるならば┉。
待ち時間は二十分と言われ、朱印所のそばにお祀りされておられる天狗さまを拝見していると、そのあと訪れた方も初めてのようです。

「どの御朱印をご希望されますか?」  えっ?( 。゚Д゚。)

「ええ?いっぱいあって迷っちゃうなぁ」  ええっ!?(゜ロ゜)

「じゃあこれで❤」

「ひとつでよろしいですか?」  ええぇっ!?Σ(Д゚;/)/



┉ひとつ、修行をしたような気分でありました。
┉そのお任せでお書きいただいた御朱印は、カラーバージョンのものでありました。



そのあと、古峯園(こほうえん)とうたわれる、先ほど四の鳥居の前にあった門の奥にある広大な日本庭園に向かうのですが、入場料をとるようであります。
「初めての参拝は参拝だけにとどめておこうか」とどっちでもいいという夫には申してみましたが┉
その実態は、思わぬ修行の直後にあって、まだ心が落ちつかない未熟者、であったのであります。


境内を戻るだけで、その未熟者の心はすぐに落ちついてまいります。
さすが、神域にございます。
人間の些細な心の揺れなど、なんでもないことであったと、悟るまでもなくあっという間に気持ちが鎮まり、明るくなっています。

もう一度でいいから再拝させていただきたいんだけどな、と、夫の顔を見上げると、心のうちでも読まれたかのように「もう来ないけど、いいところだったね」と。


┉はい。

No.66 20/05/08 04:50
旅人さん0 

【天狗さま】のお面を拝見するたびに、懐かしさを感じ、そしてまた、その一見険しく厳しいお顔と眼孔の奥の、すべてを包んでくれるような優しさを感じます。
いつもだれかに見守られ、護られていた子供の頃に戻ったような、そんな感覚になるのです。

ではそもそも天狗さまは、どのような存在で┉。?
そんなことも知らずに、天狗さまのおられるとされる神社さんやお寺を訪ねては、『ああ、やっぱり天狗さまって素敵。』などと思っていたことにあらためて気づきました。ええ、チコちゃんに叱られます。

一般的には、山伏の装束に身を包み、顔は赤く、鼻が高く、翼があり、空中を飛ぶ神とも妖怪とも言われます。天孫降臨のニニギノミコト一行を案内したサルタヒコとも同一視され、ご祭神の使いとも考えられています。

鼻が長いのが天狗、くちばしがあるのが烏天狗。φ(..)



そして、こちらの神社さんの【講】というものについても、よくわからなくて調べてみもしたのですが┉結局のところ、よくはわからなかったのですが┉、こちらの神社さんは神職の方だけではなくて、講という組織に支えられているようです。講という組織は以前榛名神社さんにおいても存在していたようであります。
こちらの講体育館半面よりも広いくらいの拝殿内を埋め尽くすほどの人数もっても、まだそれが代表だけ、とのことです。
すごい!┉ということだけがわかりました。
こちらに宿泊してみると少しはその片鱗くらいはわかるのかもしれません。
とはいえ、私一人ではとうてい来られないような悪路で鬼のようにカーブの続くこちらの神社さんへの道、宿泊できる可能性は薄そうです。

No.65 20/05/06 22:57
旅人さん0 

中は思っていたよりも広く休憩所のような広間もあり、さらには自販機もありました。特記すべきはカップヌードルの自販機!ある種の感動すらおぼえました。
拝殿と同じフロアーにカップヌードルの自販機。なんとも不思議でユーモアあふれる神社さんであります。

実はこちらの神社では、宿泊(参籠)もすることができます。
心を鎮めて大神様の御神徳を賜ることができると、たくさんの方が宿泊に訪れるそうです。
そんな方々のなか、眠れぬ夜を過ごしお腹を空かせた方がおられたりして、そっとここでカップヌードルを食べるのでしょうか?


また、こちらは神さまにお供えした飲食物、神さまの「おさがり」を調理した、【神饌料理】をいただくこともできます。

罪穢れを避け、身を清めて神事を行うことを、古い日本語【斎(いみ)】というとのこと、この斎の状態から日常に戻る際、神に供えた飲食物を神とともにいただく儀式を【直会(なおらい)】というのだそうです。
こちらの神社さんでは御神前にて御祈祷をうけたのち、お食事をいただくことを直会と称しているのだとか。特に予約もいらずに、11~14時の間というランチタイムに、希望すればお食事を提供してくださるようです。神さまにお供えした物をいただく┉なんともありがたいお食事でありますが、残念なことにこの日、私どもはいつも出先でそうするように、コンビニのおにぎりでお腹を充たしてから参拝してしまったのでありました。
こんなにお食事処も豊富で、さらには直会のようなお食事ができるということを知ってさえいれば┉p(´△`;)


閑話休題

天狗の杜、古峯神社さんの建物内には、天狗がそこかしこ、いたるところにお祀りされています。どこを歩いていても天狗に見られているような、不思議な雰囲気であります。


そして先ほど外から拝ませていただいた拝殿正面には、それは広い大広間があり、その広い拝殿内の、正面、中央に本殿につながる扉がありました。
その両脇に立派な烏天狗と大天狗の像が祀られています。
格の高い天狗は羽でできた団扇を持ち、この団扇自体にも妖力があり、退魔の力などがあるのだそうです。


天狗は御祭神の日本武尊の使いであり、崇敬者に降りかかる災厄を飛翔して払ってくれると考えられている、こちらの神社の【天狗崇拝】であります。








No.64 20/05/06 08:44
旅人さん0 

鳥居をくぐった私は少し戸惑います。正面にあるのはどう見ても神社の神門ではなくて、関係者以外立入禁止と書かれた紙の貼られたすのこ状の衝立で、左に見えるのはどう見ても、うーん立派な由緒ある建物に入るときにあるような門ではあるけれど┉なんか神社の拝殿に向かう感じがしない。
お、そうだ、注連縄とか、神域らしさがないのです。

「こっちだよ」
夫の声がする右てを見ると!┉鳥居、であります。
そう長くはないなだらかな石段に、二つの鳥居。四の鳥居から、直角に曲がって行く参道であります。
鳥居と鳥居の間にも天狗の面が奉納された、屋根のある休憩所のようなバス停のようなイメージのところがあります。

そして六の鳥居の先に茅葺きの建物が見えています。うーん、拝殿、ではなさそうです。石段をのぼりきって、その茅葺きの建物の横に長いことにびっくりし、先ほどの建物の並びに連なって拝殿があることにびっくりしました。
えっ?こうくる?
横に長い建物で、その建物の一画が拝殿となっているのであります。区切りは一切ありません。┉んー、もともとあった拝殿を覆うように細長い建物を造った?真偽のほどはわかりませんが、私にはそう見えました。

拝殿はさほど大きくはないのですが、それはそれは立派な、落ちつきのある厳かなものであります。そしてまた施された彫刻のひとつひとつのたいそう立派なことといったら!
どうしてこの素晴らしい拝殿が、長屋のようにひとつの建物に取り込まれているのか┉、不思議な造りの神社さんです。┉まぁ、いつまで経っても神社仏閣珍道中をくりひろげている、いつになっても初心者の私でありますので、私が初めて見ただけなのかもしれません。

参拝を終えてさらに奥に進むと、中に入れるようです。
靴を脱いで、靴箱に収めて、重々しい引き戸を開けると、なんとも重厚な造りの内装であります。壁には天狗、天狗、天狗の面が飾られています。そして、廊下を隔てて両方にある畳敷きのお座敷にも天狗。ひだりてのお座敷にはそれはそれは大きな天狗の面がお祀りされています。大天狗さまと鴉天狗さま。軽く私の背丈を超える大きなお顔です。
さらに奥へと進むとなにやら大釜のようなものがあり、その下には紅い焔のようなものが見えました。飾り?かと思えば利祀以来の不滅の御神火であるのだとのこと。ははぁ_(_ _)_


No.63 20/05/06 07:49
旅人さん0 

駐車場に降り立って、道路を隔てて見える大きな鳥居。道路向こうには食事処やお土産物店が並んでいます。なぜか唯一ナビに名前までがあがってくるお店は天狗屋さん。不思議そうにナビを拡大してみたりしている夫を置いて、恩知らずな妻は道路を渡りました。お店には興味のない夫を少しでも待たせないように、という妻の優しさでありますって。

大きな鳥居の前には大きいけれどなんとも可愛らしい狛犬さんがおられます。とびきりの笑顔で姿勢は低く、まるで参拝の者たちをお出迎えしてくれているような狛犬さんであります。
その頭には苔だけではなく、草すら生えていて、それがまた可愛らしさをアップしております。うしろ姿の写真もしっかりと撮してきたほど、可愛らしい狛犬さんでありました。

そして、鳥居のそばに『二の鳥居』と書かれた木の立看板。えっ?見回したところで目に入ってこない一の鳥居。ここで、私たちはすでに境内の内だったことを知ることになるのでした。駐車場にすでに清浄な気がみちている、お力の大きな神社さんであります。

三の鳥居は素のままの木でできた、大変よい木の香りがする鳥居でありました。素のままの木でできてはいますがしっかりとカーブするところはカーブさせた、明神造りというのかなぁ、色が塗られていないだけのしっかりした鳥居で、夫などは素のままの木でできていたことに、帰りにくぐったときに初めて気づいたくらいでありました。
この鳥居の前にも大きな狛犬さん。こちらを護る狛犬さんは誇らしそうに胸を張って、上を見上げている感じです。

そしてこの三の鳥居をくぐるとすぐが神橋。軽く弧を描いた石造りの一応太鼓橋。
その橋のしたには落差は少ないけれど人工的にコンクリートでせき止めて滝のようになっているところもある、小川よりは大きくて、大変澄んだ水の流れる川が流れておりました。
そしてすぐにまた四の鳥居。四の鳥居をくぐるとまた社標があり、少し広い境内となっていて、四面に立派な注連縄の張られた手水舎があります。神池もあり、【天狗の杜】とも称される古峯さんらしく、大きな石造りの天狗の面が飾られています。

そして四の鳥居。
こちらを護る狛犬さんは向かって右の狛犬は威嚇して┉いるようには感じないのですが、姿勢低くお尻をたてていて、左の狛犬は岩に片足をかけて通る者を見定めるようにしっかりと視線を合わせてこられています。

No.62 20/05/05 11:20
旅人さん0 

【古峯神社】は栃木県鹿沼市草久古峯ヶ原(こぶがはら)に鎮座しています。
古峯ヶ原は神社の所在地であり、その面積はおよそ500ヘクタールにおよぶ広大な領域に達しているとのことで、標高は約700メートル、その中に古峯神社があります。
神社の所有地古峯ヶ原に入ったころから、なのでしょうか、道は拓け、古峯ヶ原湿原やら古峯ヶ原高原ヒュッテやらと、駐車場があり、そこにはハイキングをされる方々がみうけられ、車もたくさん停まっておりました。
さらに道をすすめますが、あの悪夢のような悪路はなくて、唐突に門前町がみえてきました。

駐車場に車を停めると澄んだ明るい気が辺り一帯を包んでいました。まだ、鳥居の外。
(┉あとで知ることになるのですが、反対のルートから来るとだいぶ離れたところに大きな鳥居、一の鳥居があり、ここはすでに鳥居のなか、でありました)


御祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)さま。
第十二代景行天皇の皇子であらせられます。
幼少より心身ともに人並み外れて勝れ、詔勅にて天皇の御分神として国民の幸福と平和とを願いつつ、西国の熊襲と東国の蝦夷を制し国家の統一に大きな業績を遺された神様です。

御神徳は、焼津の原(現在の静岡県)での火難を除かれた故事により、火防の神として全国の崇敬者より絶大なる信仰を仰いでおります。
また、海神の怒りを鎮め奉ったという故事から、海上安全、大漁満足、或いは五穀豊穣の神として、農村・漁村の人々より熱烈なる信仰も集めております。
国家安泰はもとより、家内安全・商売繁盛・交通安全・当病平癒・身体健全など、総ての開運・除災・心願成就の神として崇られるに至るのでした。


こちらに日本武尊が祀られることとなったのは、
1300余年前、京都よりこの古峯ヶ原に参ったひとりの者が、日本武尊の御威徳を慕い、この淨地に遷座申しあげたのが始まりといわれています。


また、その後、日光を開かれた勝道上人の修行の場となり、上人は古峯ヶ原深山巴の宿において三年の修行の後、天応2年(西暦782年)に日光の男体山に登頂し、日光開山の偉業を成しとげることとなります。
日光全山の僧坊達は、上人の修行にあやかって古峯ヶ原に登り、深山巴の宿で祈願を込め修行する慣わしとなり、その修行は明治維新に至るまで、千余年の永きに亘って行なわれていたということです。


No.61 20/05/05 02:57
旅人さん0 

路面は一応は舗装されているものの砂利や小石が浮き出して、あちこち亀裂が入ってはいるし、ぽこんぽこんとタイヤが振動をひろうくらい、でこぼこに路面自体うねっているところもある。
異常なくらいのヘアピンカーブの連続と悪路。
「私には到底走ることなどできない道だね。古峯さんへは最初で最後の参拝かな」
「そうだね」┉即答している。

まだ見ぬ古峯さん(前回『古峰』と書いてしまっておりましたが正しい名称は『古峯』さんであります。お詫びして訂正いたします)、
これが最初で最後の参拝、だそうです (´;ェ;`*)

これでもかこれでもかとカーブが続きます。58と書かれたその数は明らかに少なく見積もられていて、だいぶカーブを曲がって、曲がっても、その数字はあまり減っていきません。
古だぬきにでも化かされているのじゃないか?┉それほどの長く長く続く、曲がりくねる┉というより曲がりうねった道であります。

「あ」
カーブの途中途中に雪をいだいたそれは美しい山が見えます。
「男体山、かな?」と夫。せめてもの景観、とでもいうことでしょうか。
┉とにかくういんういんとカーブの道をひたはしります。
しかも対向車の多いこと。
それがまた大きな車が多かったりするもので、やっとすれ違うようなこともありました。
この悪路を想定して、夫はわざわざ軽自動車を選んで来たのだとか。ガードレールが歪んで傷だらけなのは、すれ違おうにもすれ違えなかった車がこんなにも多くあった、という証しなわけですか。
絶句。

┉ですがね、┉あの四色マークの車が結構多かったりするんですよ。
慣れた調子ですいすいと走っています。
「昔はこんな道しかなかったから、かえって慣れてるのかなぁ?」あまりに上手なテクニックに、感心してつぶやく私でありました。

そうこうして少しだけ、路面が変わります。砂利が浮いたりしていないクラックの入っていない路面です。
なにやら途中に観光地があるようです。

ナビが示す目的地までの距離はあと10キロメートル先だということ。あと10キロメートルも?

No.60 20/05/04 16:20
旅人さん0 

栃木県にあります【古峰神社】さんは、御朱印をいただく者にとって、有名な神社さんであります。見開きで天狗の描かれた御朱印は、書き手によってその画が異なるため、その種類は私の知る限りで三十ともいわれるほどであります。
夫はだいぶ前から【古峰(ふるみね)さん】に詣でたかったようで、日光に行く途中で、あるポイントにさしかかると、口癖のように「ここを曲がるとふるみねさんに行く道なんだよ」と申しておりました。

夫の参拝したいと願う思いが、なかなか果たされなかったのは、私のこだわりによるもので、『神社さんは神さまのおられる場所であるから、失礼のないようにきちんと御祭神を知って、ふらっと通りかかって立ち寄るような失礼な真似はしないようにしたい』という持論に基づくもの。
まあ、自分に自信がないため、穢れ多き身で訪れてお怒りをかうようなことを畏れて、のことなのですが(^-^;

そんな夫の願いがかなうのは、珍道中を始めて実に二年以上の年月が経ってのこと。
夫は知らなかったことなのですが私の中で『はじめての御朱印はどの御朱印をいただこうか』とあれこれと欲がはたらいていて、そんな物欲が鎮静してから詣でたかったのであります。
ということで、これはいくぶん私の物欲が落ちついた頃、参拝に訪れたときの話、であります。


その日、夫はワクワクしていつも横目で見ていた古峰さんへの道へハンドルをきります。が、その口からでた言葉は「うーん、緊張するなぁ」えっ?な、なにを?
「この道、地図でみると結構な細い道なんだよな。しかもカーブばかりでさ」┉聞いてないんですけど⁉
道にカーブ数を示す標識があると見やるや、な、なんと!カーブ58‼ナビの示す延々と続く道は、大腸?大腸の走行を思わせるくねっくねの細い道!
は?
これを58曲がって行くの?!
対向車来たらどうするの?というほどに細い道も多々あり、しかもヘアピンカーブの連続で先がまるで読めない。

これは試練?

思わず、ついてもいない助手席のブレーキを踏み、御駕篭に乗った姫のようにドアについた掴まり手を握りしめていたり。

あ、崩れてる!(;゜゜)

えっ?ここで対向車?((゚□゚;))


No.59 20/05/04 15:22
旅人さん0 

【桐生天満宮】さんは桐生近郊の方々にとって、今も大切な鎮守さまであり、子どもが産まれたときの名付けの相談や、お宮参り、七五三、成人式などの節目節目に必ずお参りする神社さんであるようです。
天満宮でありますが、御祭神は、【天穂日命(アメノホヒノミコト)】【菅原道真公】【祓戸四柱(ハラエドヨハシラノオオカミ)】であります。 
【天穂日命(アメノホヒノミコト)】さまは、古来、産業開発の守護神として崇敬されております。
桐生で有力な土師部の遠祖にして、菅原道真公の御祖先にも当たる御祭神なのだそうで、桐生天満宮の起源となる磯部明神の主祭神として奉斎されていましたが、後に天満宮遷座の折に菅原道真公とともに、天満宮の御祭神となったのだそうであります。

【菅原道真公】
承和十二(845)年、代々学者として朝廷にお仕えした菅原家にお生まれになり、幼少より学才に秀で、わずか五歳にして和歌を詠まれ、十一歳にして漢詩を作られ、その才能は人々を驚かせました。さらに、幼少より学問に励まれ、十八歳で文章生となり、はやくも三十三歳で学者として最高の文章博士となられた御徳を敬慕して『菅公』と称え、【学問の神】として敬仰されました。
また、【厄除け・災難よけの神】として、さらに、道真公が京都から大宰府までの長い道程を無事に旅されたことから【交通安全・旅行安全の神】としても広く崇敬されております、歴史上実在の人であった神であります。

【祓戸四柱(ハラエドヨハシラノオオカミ)】
あらゆる災いや罪・穢れを祓い清める神々で、【瀬織津姫神】・【速開都姫神】・【気吹戸主神】・【速佐須良姫神】を祓戸四柱大神と称え奉り、厄除・災難除・病気平癒・悪運退散などの御神徳をはじめ、すべての神事に先立つ清祓を司る神さまがた、なのだそうです。


桐生天満宮さんの御本殿内陣は、風水に基づいて御神体の四方を守護する霊獣、すなわち【東の青龍】・【西の白虎】・【南の朱雀】・【北の玄武】の四神を配しておられるとのことで、それぞれ東(職業・学業) 西(商業・金運) 南(家運・良縁) 北(健康・厄除)の広大無辺な御神徳により、こちらを参拝され、祈願される全ての人が、この理想的な風水によって護られ、大地のエネルギーである「気」を受けるようにと日々ご祈祷なされている神社さんであるということでありました。藤画像

No.58 20/05/04 04:07
旅人さん0 

群馬県桐生市の【桐生天満宮】さんは、メインストリートの端に鎮座しています。しかし、これがどうやら、端、というよりははじまりに鎮座した、というのが正しかったようです。

天満宮という名からもわかりますように御祭神は【菅原道真公】。京都北野天満宮からの御分霊をお祀りしています。
所在地も天神町とされるくらいで、桐生の北に鎮座することで、市街地鎮護の神として、また全ての災いを鎮める方除災難除の守護神として厚く信仰されている神社さまであります。


もともとは、第十二代景行天皇の時代に、【上毛野国造】が【天穂日命】を奉斎した【磯部明神】であられたようで、その後幾多の星霜を経て、1187年から当地を支配した【桐生家】が代々の守護神として崇敬し、1350年頃に、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して【桐生天満宮】と改称し、桐生領五十四ケ村の総鎮守と定められたのがはじまりのようです。

天正九(1581)年に徳川家康公が東征の折りに、徳川家代々の祈願所として朱印地を賜わり、天正十九(1591)年には、桐生新町の宿頭として現在地に遷座したといわれ、桐生領五十四ヵ村の総鎮守とされ、境内地や社殿は壮大なものとなったようです。
慶長五(1600)年の関ケ原合戦には、軍旗に用いる旗絹を当宮の御神前に供えて戦勝祈願し、その勝利凱旋を吉例として境内には織物市が開設され、後の桐生織物繁栄の礎となったということであります。
そのような経緯で徳川将軍家のご加護を受けることとなり、戦前までの桐生市は大変な賑だったようです。

つまり、桐生市は天正18(1590)年に徳川氏の領地となり、それまでの由良氏の城下町が手狭であったこともあり、荒戸原の赤城ノ森(現在の天神町一丁目)と呼ばれる地から現在の本町二丁目と呼ばれるまでの地に、桐生新町を建設することを計画され、久保村の梅原天神社(桐生天満宮)が赤城ノ森に移されたのが、桐生天満宮のはじまりであったようです。
さらにはその桐生新町は、本町六丁目の浄運寺までとされ、現在の桐生市のメインストリートが築かれた、というのが実際であったようです。


桐生市の歴史についてなど何一つ知らなかった私などは、桐生市が徳川の領地であったことも、桐生が織物のまちとして栄えた理由も神社仏閣巡りにより知ることとなったのでありました。

No.56 20/05/03 18:55
旅人さん0 

そんなわけで┉ゴールデンウィークをむかえて、はじめて、緊急事態宣言発令による不要不急の外出を控える生活をおくることとなりました、私。
今までも、あくまでも仕事での外出と、日々の食事の買い物に出かけていたので、不要不急の外出はしてはいないのてすが、はて、どんな?散歩等の運動は大丈夫?うーん、では神社仏閣の参拝は?

そもそもが、先日書いたように、神社仏閣のさまざまな行事、大祭なども中止されたり、神職の方のみや僧侶の方のみで執り行われているようであります。御朱印も中止されていたり、書き置きのみの対応をされておられたり。
なれば、ソーシャルディスタンスをとって、地元の神社仏閣を参拝するのはよいのではないか?人混みでもなく、室内でもない、参拝という行為。不安な心を救ってくださる場である神社仏閣の参拝。
その神社さんやお寺さんが参拝をお断りするような対策をなさっていなければ、御朱印を求めたり、神職の方や僧侶に話しかけたりしなければ、それは禁じられる行為ではないのではないだろうか。
人それぞれの考え方があり、感じ方も多種多様な時代ではありますが、昔、医学もいまのように進歩していなかった時代、人々が救いをもとめ訪れたのは、神社仏閣であり、道ばたのお地蔵さまであったのです。


ストレスやネガティブな感情に意識を向けないように、小さな幸せや感謝を見つけてみることが、自粛生活をできるだけ苦にせず過ごす大切な鍵となるのかもしれません。



まあ、私の場合、そもそもが運転技術と地図をみて新たなところへ行く能力が乏しく、県外どころか県内でも遠くへ行くことは難しいため、問題視される外出にはつながらないのではないかと思われ、周りの人たちにも異口同音で言われていること、であります。

あとは、この緊急事態を乗りこえたときに、参拝に行きたい神社仏閣をピックアップしたり。
庭の草むしり、不用品の廃棄。
┉あっという間に終わってしまいそうなゴールデンウィークであります。

No.55 20/05/03 08:20
旅人さん0 

新型コロナウイルス感染拡大を受けての、緊急事態宣言発令。そもそもが今現在を生きている人たちにとって未曾有の事態であります、このコロナウイルス感染症の脅威、恐怖。

『不要不急な外出を避ける』こと、それによって他人との接触を八割減らすこと。┉なかなか難しいことのように思っておりましたが、ようやく休日をむかえてテレビを観ると、多くの方々が不要不急の外出をせずに、家で過ごされているのだとあらためて知りました。

「えっ?じゃああんたは普段どおり毎日出歩ってたの?!」と言われてしまうかもしれませんが、仕事がらテレワークは不可能、しかもむしろ休みも取りづらい状況で、週五~六日出勤し、足らない食材や必要なものがあれば仕事帰りに買い物をして過ごしておりました。
仕事帰りに寄るスーパーは駐車場も店内も、この事態となる前と全く変わらぬ混み具合ですし、県外ナンバーの車はむしろ増えているくらいで、正直、簡単に人の生活は変えられないものなのだなぁと、思っていたのが事実なのです。

ただ一つ大きく変わってしまっていたのは、子どもたちに会えなくなってしまったこと。子どもたちも仕事によっては、やはりテレワークが不能な者もおりますし、一人暮らしの者もおります。
お互いが移しあうことがないようにと、だれもがここを訪れることもなく、また、私も初めての子育て、乳飲み子を抱えた娘のもとに、手伝いに行くこともできないでおります。
それこそが、私にとっては一番つらくて大きな試練でありますが、
さりとて日常生活は、というと、何ら変化がないのです。
普段どおりに仕事をし、普段どおりに買い物をして、普段どおりに家事をする。そんな毎日でありましたので、年齢から休みの日にはくたびれて一歩も家から出ないことはあっても、断固たる覚悟で家にいたことはないのかもしれません。
庭の草むしりや木の剪定。┉いつもどおりの連休?

いえいえ、子どもたちの小さな頃以来の針仕事、マスク作り。

夕方六時頃に買い物に行っても、マスクになど出会えることもなく、一月以来マスクを購入できていませんので、自分の分くらいは手作りマスクを使おうと、いろいろな形のマスク作りに励んでおります。
んー、室内用?クオリティの高い手作りマスクの方々の中、こんなマスクはできやしない(ノ_<。)
神さまに、そして仏さまに、一日も早いコロナ終息を祈るばかりであります

No.54 20/04/26 23:37
旅人さん0 

随神門をくぐるとその天井には、金の地に黒い筆をはしらせ描かれた龍が門をくぐる者を見おろしています。鋭い眼光でにらみつけているのですが、なぜかその眼差しが優しく感じられるのです。

そして、門をくぐると、┉なぜか、目の前には拝殿が見えないのです。ひだりてに折れて、ふたたび石段をのぼっていくと、唐門がみえます。その唐門!惜しげもなく施されたみごとな彫り物といったら。
それが惜しげもなく目の前に視ることのできるありがたさといったら! 
唐門に目を奪われしばしその彫り物にみとれ、はっと我にかえると、拝殿がみえます。その鮮やかで重厚な拝殿。
色彩鮮やかなにみえるのは、最近の修復によるものもありますが、社殿の色が黒であることも大きな一因でありましょう。
黒い拝殿は落ちついた雰囲気で、訪れた参拝の者すべてを受け入れ受け止めてくれるような、なんとも言えない大いなるお力を感じます。
神さまがその奥まったところではなく、すくそこまでおこしくださり、私どもの声を聴いてくださっておられるような気がする、拝殿なのであります。

そして、拝殿、本殿の後ろには天狗さまが奉られているのが、この妙義神社さん特有なところです。天狗さまはただ一つ、願いを聞き入れて叶えてくださると伝えられています。

この妙義神社さんの社殿を巡らせていただき、拝殿正面のみぎてに再び門があります。その石段をおりたところに、洞窟のような岩場があり、そこはなかにさらにお社がまつられています。
またさらに歩を進めると、水天宮あり、愛宕宮がお祭りされています。愛宕橋のそばに登山口になっています。
きちんとした登山になっています。入山昭明が必要なものであります。

下りはなだらかな女坂です。

見上げると大きな杉の枝のすき間に見える青空が参拝に訪れた者を見まもり、癒してくれています。
 
今、妙義神社の上空を、新型コロナウイルスを鎮圧するために、飛び回って御尽力くださっておられる天狗さまの翔ぶお姿が見える方には見えるのではないかと、思っている私なのであります。

No.53 20/04/23 23:00
旅人さん0 

さて、ここで話はずれることになるのですが┉二年前息子に連れていってもらったのが、妙義神社さんへの初めての参拝であったと信じて疑ってもいなかったのですが。

実はここ一年の間、自分のアルバムを整理しつつありまして、一度目を通してからそのほとんどを処分しているのでありますが┉そのなかに衝撃の一枚を発見いたしました。
なぜか、若かりし頃の私本人が、妙義神社さんの白い石垣のまえで、写真におさまっているのです。え。え? ええぇっ?
紛れもない私本人でありますし、その背景は間違えようがない、いまと変わることなく美しい白く大きくそびえ立つ、妙義神社さんの石垣なのであります。結婚する三年前くらいに夫が撮したものでありましょう。

上野國一之宮の貫前神社に参拝していたにもかかわらず、まるで、まるっきり、かけらも記憶がなかったときと同じです。まるで記憶にないのです。あのときも夫とふたりで参拝していたようであります。

「(貫前神社さんに)一度も行ったことがないから、是非早く参拝したい」と何度も何度も繰り返し訴える私を、まさか覚えていないことはないだろうから、そう大げさに訴えてまで早く参拝したいのだなぁと解釈してくれていたとかで、夫は夫でその件について一度も否定してくれず┉、後々私が本気だったことを知り唖然としておりました。

あまりに信仰心のない人間が神社仏閣に参拝しても、このように記憶すら残らないということなのでしょうか。


かつて妙義神社さんに行ったことを覚えていないことは、夫にはまだ伝えておりません。
それでもその間、妙義神社さんは小惑星の名前【Myogi-jinjya】となったりし、妙義神社さんも、私も変化を遂げました。
気持ちもあらたな(再々参拝)ということで、今度こそは忘れないということでお許しいただきたいと思います。

No.52 20/04/22 05:16
旅人さん0 

こちらの神社さんの創建はじつにに532年と言われています。

妙義山の古名は【波己曾(はこそ)山】、もともとは【波己曾神社】と呼ばれていたようです。
その頃のご祭神は【波己曾大神】。
社はなく、現在の本社の北側にある影向(ようごう)岩」がその磐座であったと伝えられています。当初は自然崇拝だったのでしょう。
時代とともに山の呼び名は変わり、そのなかでいつしか「波己曾大神」から「妙義大権現」へと変わりますが、そうなった経緯などは、はっきりとしたことはわかっていないようです。
以前は本社の北側に【波己曾社】があったのだそうですが、現在は波己曾社は大鳥居北側に遷されています。こちらもまたじつに厳かにして落ち着きのある、なにより暖かみのある社殿で、ここでご祈祷をお受けになっているかたがおられるのを何度かみかけております。
初めて訪れた際にはこちらが本社かと思ったくらいでありました。
ですが、さらに上へとつながっている石段をみあげると、さらなる門が見えて、ああ、まずはこの石段を登るのだなと、思ったことを思い出します。

その波己曾社のあるフロアーに手水舎があります。こちらは狛犬さんがお水をお分かちくださっています。
長い年月を経て、だいぶ傷んだ手水鉢でありますが、苔むした感じがなんともよい風情で、さらには明るい光がよい加減で射し込んで、ここもまた癒しをいただける空間となっております。

さらに石段をのぼりますが┉ここから先の石段は結構きついものがあります。百六十五段、傾斜がそれなりにきつく、なによりも石段が風雨にさらされてかなり劣化しているのであります。特に背の高い足の長い男性、足の大きな方にとっては、昔の石段なので足をのせるスペースが狭く、かなり難儀をされるのではないかと思われます。
そしてみえてくる随神門。気持ちはすでにhighなのですが、すでに駆け上がるのはむずかしいくらい。運動不足の者には軽く修業になりそうです。左右の随神さまはなかなかお顔立ちの整ったお方たちであられ、むかって右の随神さまは虎の、左の随神さまは豹の敷物をお敷きになって椅子に座られております。随神さまと背中合わせに鬼神さま?ユーモラスなポーズでお立ちになっております。随神さまと対になるように、┉なのかどうか、みぎての鬼神さまの腰巻きは虎、左の鬼神さまの腰巻きはヒョウ柄のものでありました。




No.51 20/04/21 22:48
旅人さん0 

【妙義神社】に向かって車を走らせていくと(┉私の運転であったことはありませんが)、まず妙義山の姿に圧倒されます。
なんとも形容しがたい、断崖絶壁にしてほぼ垂直であったり、ごわごわで、風雨にさらされたことなどなかったような山肌。これぞ山岳信仰の山と思わせる御山であります。
【妙義山】とは複数の山の総称で、南側の白雲山・金洞山・金鶏山等は「表妙義」、北側の谷急山・丁須の頭・御岳等が「裏妙義」と呼ばれているのだそうです。
その中のひとつ、白雲山の中腹に掲揚された白い【大】の文字。これは「妙義大権現」の「大」。かつて徒歩で移動した頃の旅人達の目印となっていたということです。

【妙義神社】はまさにその白雲山の東面にあります。
大きな石の一の鳥居をくぐり、急な上り坂となっている参道を登ると、まずは大きなしだれ桜が出迎えてくれます。そして石段をのぼるとその先に大きな赤い総門があり、その横にさらにさらに大きくそびえ立つ白く美しい石垣があります。
こちらの神社は山の斜面に建てられているものであるため、境内は急な勾配となっており、そのために高さ10メートルもの石垣を築いたのだそうです。石垣は妙義山から採れる安山岩で造られたもので、美しくち密な石垣は当時の技術の高さをうかがわせるものであります。

そして[総門]は高さ13メートル。徳川十代将軍の時代のもので、もともとは白雲山石塔寺の仁王門であったようです。今は風神雷神さまが入口をお護りになられておられます。
門をくぐると石段を見上げるようになるのですが、広々とした空間が広がっていて、穏やかな光と気を身体いっぱいに受け、お力をいただき、あらたな気持ちで石段をのぼってまいることができます。その先にあるのが、銅製の大鳥居であります。
青銅製の大鳥居の足元には、阿吽の狛犬のようなかわいらしい彫刻が施されています。のぼっては癒され、お力をいただき、上へ上へとのぼっていく、妙義神社さんであります。
後に知ったのですが、その大鳥居の左側には樹齢500年の3本の杉があり、この杉を結ぶ三角形の空間がパワースポットとなっているのだそうです。┉うーん、知らなかった。
でも、妙義神社さんの境内を歩くだけでもう充分パワーをいただけております。境内を歩いた時を心に思い描くだけで沸き立つようななにか大きなものを感じるくらいであります。

No.50 20/04/19 07:15
旅人さん0 


筍の二文の件。

せっかく共感いただいたのに、ほぼ同じ内容でしたのであえて削除させていただきました。本当に申し訳ありません。
昨日なぜか投稿した内容が画面上どうにも確認できず、記憶をもとに同じ内容で書いたものでありました。(だいぶ異なっていましたが┉)
共感いただいて、先に書いた内容が投稿できていたことを知りびっくりした次第で┉。
ええ、決して認知症の進行ではないので、そこはご安心ください┉徐々には進行中であることは否めませんが(..)


いつも共感いただいているお方かと存じます。
大変感謝しております。
ありがとうございます。



こんな時世であります、あなたさまのご健康をお祈り申し上げます。
本当に、新型コロナウイルス感染症が一日も早く、終息いたしますように。




No.49 20/04/19 00:20
旅人さん0 

筍の美味しい季節です。
ですが、竹やぶを持つような知人もおらず、スーパーに並ぶ筍はたいそうな値段がいたします。
そのあまりの高さに、何度もためらいながらも、やはり我慢できずに、清水の舞台から飛び降りるような心持ちで、カートに収めてレジに並ぶ、相も変わらず欲深い未熟な私であります。

ところで、筍が土中から伸びた姿は、お釈迦さまが生まれたときのお姿(誕生仏)に似ていることから『仏影蔬(ぶつえそ)』と呼ばれることがあるのだそうです。初めて知りました。

四月八日、お釈迦様の生誕の日、毎年、お寺さんでお祝い申し上げたいと思いつつも、勤務先の新入生のいるママさんのためにも、休むことはできず、いまだに花まつりに参列したことがありません。
いつか、土日にあたるであろうときまで、筍をいただきながら、お釈迦様の生誕をお祝い申し上げたいと思います。


No.47 20/04/18 01:16
旅人さん0 

群馬県高崎市の【小祝神社】さんの春の大祭が今月の十九日、ちょうど日曜日にあたるようです。
昨年の秋の大祭に神職の方からよろしかったら是非とお声をかけていただいたのに、うかがうことができなかったので、こんな時世ではあるけれど、今回参列させていただこうかと考えてみたりしておりました。
というのも小祝神社さんは主祭神さまが【少名彦命】さま。[医薬][豊穣][健康]の神さまであられます。
今、全世界を恐怖に陥れ、経済をも揺るがしている新型コロナウイルスの一日も早い終息をと、神職の方とともに微力ながらお祈り申し上げたいと思ったのでありました。

ですが┉やはりこんなご時世、大祭は神職の方のみで神事を執り行い、大勢の方でのお祭りは中止するとの旨、つい先日確認したホームページに書かれておりました。大好きな神社さんであります。本殿の後ろに小さな小さな鳥居があり、まるでそこをお通りになって少彦名命さまが人間界にお越しくださり、困っている者を助けて歩って下さっておられるような気持ちのする、なんともワクワクするような神社さんなのであります。

こちらの御朱印は手作り感溢れる月毎に変わる温かなものでありまして、ファンの方も多いようです。
一日も早い新型コロナウイルス感染の輪が絶たれ、終息いたしますように、小祝神社さんの大祭の日には小祝神社さんに向かってあらためて祈らせていただこうと思います。

No.46 20/04/15 23:53
旅人さん0 

以前書いた仏さまのごはんの食器、仏飯器を購入することができました。
いつも書くように、子どもたちが後々困ってしまうようなものとして残るのは嫌なので本格的なものではない仏壇もどきではありますが、仏飯器は仏さまに差し上げるのに失礼がないように、脚がついて高さがあるのだと知って以来、ずっと気になっておりました。これでようやく仏さまに失礼なくごはんをあげることができます。ただ、金額的には失礼この上ない、110円。そう、百円ショップで買い求めたものです。
百円ショップ、本当に何でもあるんですね。

No.45 20/04/15 06:14
旅人さん0 

群馬県前橋市の三夜沢赤城神社さんに参拝してまいりました。

何度か参拝させていただいており、また、息子たちもこちらに参拝に訪れることがあるようで、今年の初詣はこちらに一緒に参拝いたしました。

全国に三百とも言われる赤城神社の本宮といわれる赤城神社の内のひとつにあたります。回りくどい言い方になりますが、本宮とされる赤城神社は三つあり、御祭神も異なります。どちらにも参拝させていただいておりますが、いずれもすばらしい神社で、人間界でどうお祀りしているかなど、全く関与なさらない神さま方がその地、その土地を何千年にもわたりお守りくださっておられると感じるそれぞれの神社さんであります。
趣もまるで異なり、こちらの三夜沢赤城神社さんはまるで木々で結界を張られているように感じるほど、大きな木々に囲まれております。
車で向かうとかなり離れたところからでも目にはいる大きな鳥居も、塗装も施さない素木で、その鳥居が見えるところからすでに身の引き締まるような凜とした気に充ちた神社さんであります。

鳥居をくぐると、ひだりてに社務所、みぎてに手水舎があります。以前はほぼ閉まったままだった社務所が、平日にも関わらずこの日は開いておりました。
そして、こちら、三夜沢の赤城神社さんの手水舎!
神池と一体となった厳かにして神秘的なすばらしいものであります。
澄んだ池には大きな錦鯉が泳いでおりますが、エサなどを与えるような池ではない、まさに神域にある池、といった雰囲気の池であり、こちらの手水舎のファンは多いようです。ですがどの写真をもってもやはりあの手水舎のまえに立った時の厳かさ、神聖さは撮しとることはかなわないように思えます。
御神水をいつでもどれだけでも無料でお分かちくださるほど、いつでも豊かな水量を保つこちらの神社さん、神池の水もいつも澄んでいつも同じ水位を保っております。

[境内]をあくまで社殿や神楽殿などの建物のある土地としてとらえるとさほど広くはない三夜沢赤城神社さんですが、こちらはこの土地、御山自体が神さまのおられる神域で、人間が入ることをお許しいただいているのがほんの手前というだけであります。そう感覚できる土地であります。
こちらに参拝に訪れると、穢れた我が身を恥じ、身を正すということが自然に身体の内から湧き出るような感覚になる、神社さんであります。

      令和二年四月十四日

No.44 20/04/13 04:16
旅人さん0 

達磨寺さんには、茅葺きの趣ある観音堂あり、千手観音さまが奉られておられます。
その空間に行くと、まだ髷を結い着物を着た人たちがお詣りされていた光景が目に浮かぶような気がする、私の好きな空間であります。御堂の格子には障子が貼られています。

赤が大半でありますが色とりどりで、大小さまざまなダルマさんが山積みにされている霊符堂から、一段下がった場所にあるのですが、もともと厩橋城主がここに寺院を建てる以前からお祀りされていた観音堂で、すでに多くの人々の信仰を集めていたことが偲ばれます。やわらかな穏やかな気が包んでくださるような空間であります。
観音堂から見下ろすと今でこそ、御朱印や御守りをお受けする大きな
瑞雲閣と呼ばれる建物が建ちその屋根が見えるのですが、観音堂だけであった頃は高崎の街が一望できる場所であったかと思われます。

そんな観音さまのお側で人々は庚申講をしていたのか、まさにおびただしい庚申講の石碑がさらに一段下がったところにあります。後になって見映えよくその石碑をまとめて置いたのでしょうが、これは圧倒されました。

参拝を終えて石段をおりると再び【瑞雲閣】と呼ばれる大きな二階建ての御堂の前にまいります。
こちらでは座禅や結婚式などもとりおこなわれるようですが、御朱印をお授けいただくところともなっています。
達磨寺さんは御朱印はあくまでも納経されてお授けする印である、本来の御朱印に大きな意味をおき、納経がなければその場で般若心経の一文を書いて納めることではじめて御朱印をお受けできます。

こちらでは、ありがたいことに納められた経を達磨大師の御前に捧げて、長いお線香をお立てくださり、読経しさらには納経にあたって記された氏名と願い文を読み上げて御祈祷くださるのであります。
お納めする金額も「お気持ちを┉」ということで、金額を定めておられません。
御朱印代は三百円~五百円、納経代は千円、というのが群馬県での相場であるようです。
あくまでも伝道を目的とした、そして心のこもったお寺さんの姿勢に頭が下がるばかりです。


四月十日、ほとんどの桜が花びらを散らした頃にありながら、境内では見事な桜が満開でありました。瑞雲閣のそばにある駐車場では見事な垂れ桜が満開の春の達磨寺さんでありました。

No.43 20/04/12 13:36
旅人さん0 

達磨大師はお釈迦様同様に、身分の高い王子であったようであります。

達磨大師は自らにも厳しかったけれど、他者にも厳しかったようです。

百歳を超えてなお、仏教の教えを極めようと、インドから中国に渡ったと言われています。若い僧であっても命がけの旅であった時代であります。

また、他者にも厳しかったということでは、中国の少林寺で修行する達磨大師のもとにぜひ教えを受けたいと、あるとき、一人の僧侶が訪ねてきます。雪がしんしんと降っているなか、達磨に挨拶をしても、壁に向かったまま振り向きもせず、一言も言葉を発しないことから、言葉が通じないのかなと思いましたが、その僧侶は達磨大師に試されているに違いないと思い、扉の外で待つことにします。一晩立ち尽くして待っていると、明け方には、降り積もる雪は、膝の高さになりました。そのとき達磨大師が
「お前まだいたのか。何しにきた?」
と声を発したといいます。
「仏の教えを受けたく参上いたしました」
「仏教はそんなに軽々しく聞けるものではない、命と引き換えに聞かせて頂くものだ。出直してこい」
それを聞いてその僧侶は、ここで仏教を聞かせて頂くことができなければ、死んで永劫に苦しみの世界を迷い続けていかねばならないと、持っていた短刀で左腕を切り落とし、達磨大師に突き出したといいます。それを見た達磨大師は、
「その真剣さならよかろう」
と、初めて弟子をとったということであります。


その後も達磨大師は壁観を続け、その厳しさは、手足がくさって切り落とさねばならないほどだったと言われます。
達磨の名声をねたむ者からは、殴打されたり、石を投げつけられることもありました。それでも達磨は微動だにもしません。やがて投石は顔に当たって歯が欠けたといわれます。さらには毒をもられたりもしますが、それでも修行を続けます。

それゆえ、張り子のダルマに手足がないというのはなんとも痛ましいことであります。
壁に向かって9年間修行をしたので、これを【面壁九年(めんぺきくねん)】というのだそうです。



達磨大師はたいてい怖い顔で描かれています。ですがあれは、他人をにらみつけているのではなく、手足が腐るほどの修行に、くじけそうになる自分の心を見つめて苦しみに耐えている姿が描かれているのだといいます。


宗派をこえて尊敬され、愛される達磨大師は、かような方でありました。

No.42 20/04/12 12:31
旅人さん0 

達磨大師をお祀りしている達磨寺さん。
立派な山門を抜けると長い長い石段が続いています。その長い石段を登っていくと、渡り廊下のようなものが石段の上にあるのが見えてきます。実はこれは渡り廊下ではなくて、鐘楼であります。
「招福の鐘」と名のつけられた鐘は、午前9時から午後5時までであれば、誰でもつくことができます。木で造られたきざはしを登ると、鐘の向こう側に達磨大師の御像が祀られております。
「ゆっくり2回」、達磨大師の御前でつく鐘は心を鎮めてくださるものでありました。

きらめく苔も美しい、手水舎で身を清めてさらに続く石段を登ると、【霊符堂】があります。一般のお寺さんにおいて本堂と呼ばれている場所であります。
【北辰鎮宅霊符尊(ほくしんちんたくれいふそん)】さまとと初祖【達磨大師】さま、開山心越禅師さまをお祀りしています。
本堂の正面の両端の濡れ縁に大小さまざまなダルマたちがところ狭しと積み上げられています。ぎっしりと積み上げられたダルマはそれぞれに記名され、両の目が書かれています。
役目を終えたダルマたちがここに集められ供養されるのを待っているとのこと。年に数回、「ダルマお焚き上げ供養法要」が行われています。
ところで、ダルマは願いが叶っても叶わなくても、供養をしてあげないと次の縁起につながらないそうです。ダルマを求める習慣もなく生きて来ましたので、それもまた、初めて知ったことでありました。もしかしたら、この積み上げられたダルマの中には片目のダルマがいるのかもしれない。



さて、上毛かるたの【え】「縁起だるまの少林山」の絵札にある星座、 北斗七星だったような記憶があるのですが、あらためてネットで確認したところ、星の数を改めて数えてみると六つしかない。それで星座と書くしかなかったのですが、七つ目の星は、こちらの本堂にあたる霊符堂にお祀りされている北辰鎮宅霊符尊さまであられるから、あえて絵札に六つしか描かれていないのだと、参拝して納得いたしました。
北辰鎮宅霊符尊さまは北極星と北斗七星を神格化した星の神様です。 北辰鎮宅霊符尊さまと達磨さまとがいる少林山が「七つ目の星」なのです。
絵札では達磨を7つ目の星として表現しているそうです。
そんな奥の深かった絵札に、あらためて感動した、群馬県民でありました。

No.41 20/04/12 03:19
旅人さん0 

他県の方々は、私の小学二年の時に感じた衝撃をもって、群馬県においての【上毛かるた】の存在の大きさを少しは感じていただくことができたかと思うのですが、今でも、その読み札をすべて暗唱できるくらい、血となり肉となっている大きな存在なのであります。

その上毛かるたの【え】【縁起だるまの少林山】。
絵札の絵は赤い達磨と、星座の描かれた、派手で不思議な絵柄のものであります。その絵札の実に深い意味をもつものであったこと!
それを知るのは、珍道中で高崎市【少林山達磨寺】を訪れて、初めて知ることとなります。と、群馬県民の上毛かるたへの熱い思いはいったんここで置いておき┉。
【少林山達磨寺】さんに参拝いたしました珍道中録を書きたいと思います。

縁起だるまの少林山なので、ついつい少林寺と勘違いしてナビに「少林寺」と入れると少林寺拳法の道場しかヒットいたしません。
達磨寺さんはその名の通り、達磨大師に深い縁を持つお寺さんです。

あの赤いダルマの張り子、選挙の際などによく用意され、当選の暁には両の目となる、あのダルマはこの達磨寺の和尚が作ったとされるもののようです。(ちなみに、高崎市のマークはダルマで、高崎市に入るといたるところにダルマがおり、『あ、高崎市に入ったな』とわかるくらいであります)



【達磨大師】は、禅宗で初祖達磨大師と仰ぎますが、七転八起、面壁九年の不撓不屈ふとうふくつの精神は宗派を越え、誰からも親しまれ、慕われ、信仰されておられる存在であります。そんな達磨大師をお祀りしているお寺さん【達磨寺】さん。



昔は、碓氷川のほとりに観音様を祀るお堂であったそうです。
ある年の大洪水のあと、村人たちが川の中から香気のある古木を引き上げて霊木として観音堂に納めておきますと、あるとき一了居士という行者が霊夢によって訪れ、その霊木を信心を凝らして一刀三礼、達磨大師の座像を彫り上げ観音堂にお祀りしました。

この噂は近隣に広まり、その頃の前橋領主・酒井雅楽頭忠挙公は厩橋城(前橋城)のちょうど裏鬼門にあたるこの地を護る寺としたいと考えます。
水戸光圀公の帰依された中国僧・東皐心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じて、元禄十年(1697)少林山達磨寺(曹洞宗寿昌派)を開創したのが、この達磨寺さんの起源であります。

No.40 20/04/12 01:46
旅人さん0 

いままでも時々登場しております、【上毛かるた】。
群馬県に存在する、おそらくは老若男女知らない者はないと断言してもよいかるたであります。かなり大きくなるまで日本中各都道府県すべてに存在する、群馬版に過ぎない当たり前のものだと思っていたくらいだったので、群馬県特有のものだと知ってびっくりしたくらいでありました。

それでも、小学二年の夏転校するまで住んでいたところでは一年生の時しか在学しなかったせいなのか、上毛かるたの存在すら知らないでいたのですが、転校して冬を迎えたかという頃、同級生がかるたを持ってきて休み時間に興じているのを見て初めてその存在を知ることとなったのですが、そのうち、担任の先生までが「練習をするので『上毛かるた』を持っている人は持ってきてください」と言うではありませんか。?!
大変びっくりして家に帰り、父や叔父に聞くと「ああ、知ってるよ。よくやったなぁ、懐かしい」とまで言うではありませんか。私だけが知らなかったんだ!その疎外感から泣きそうになっていると、慌てた叔父がかるたを持って来てくれました。「?。┉これじゃあ、ない」
箱の絵が異なり、さらには絵札の絵も学校で見た同級生のものとは異なります。「ああ、絵が変わったんだなぁ。大丈夫、絵が違うだけだから」
素直だった私はその絵札の絵の異なる、上毛かるたを持たされて学校に行き、同級生に笑われバカにされることとなり、【上毛かるた】を販売するという申込書を学校でもらい持ち帰り、泣いて怒って訴えた覚えがあります。今でこそ貴重な、幻の、絵柄の異なる上毛かるた、あのあとどうしたのかなぁ。

二年生だというのに、同級生たちはみな、上毛かるたのプロのようでした。
私の目にはそうとしか見えないくらい、さながら百人一首のように、床に並べ、独特の読み方で読み札を読み、百人一首のように絵札を横に飛ばすように素早く取っていきます。まさに目が点、でありました。
負けん気の強い私は、まだ手に入らない新バージョンの上毛かるたで必死に読み札を覚え、ありとあらゆる時間を上毛かるたに費やして過ごし、年明けての上毛かるた大会ではかなり上位にくい込んだものの、やはり元からプロであった同級生にはなんとしても勝てない存在がありました。そんな同級生たちは学校代表となり、市の大会、県の大会へと歩を進めていくのでありました。

No.39 20/04/10 02:10
旅人さん0 

四月八日、花祭り、灌仏会、あるいは仏生会、浴仏会とも呼ばれるお釈迦さまの降誕を祝して行う法会の執り行われる日。
これがまた入学式と重なる日であるため、お休みが取れたことがありません。そのご家庭で一生に一度しかない入学式を陰ながらお祝いして、いつか土日にあたる日を待っております。

それが┉今年に至っては、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言や、コロナウイルス感染者の出ている地域では入学式延期といった事態にまでなってしまっているところすらあるようで、なかには大学などは入学式中止という学校まであるようであります。
楽しみにされていたお子さんが、入学式もいつになることかわからない、それどころか学校自体がいつから行けるものかすらめどがたたないなどといった状況が来ることを誰が想像していたでしょう。
なんともいたましいことであります。
わが家の息子があの3・11の年、大学入学の年で、入学した先の大学がやはり被災地にあり、入学式取りやめとなったのでありますが┉その時とはまた、状況が異なります。
一日も早く、命の危険にさらされた、不安な日々が終息しますよう祈るばかりであります。

群馬県では、そんなさなか、緊急事態宣言のだされた地域のナンバープレートの車が多数見られるようになっています。観光地であったり、御朱印で有名な寺院であったり、到底、必要不可欠で急ぎの用で来られたとは思われないところでです。私も実際小さな通勤途中での道であるにも関わらず、だいぶ他都府県のナンバーの車を見かけるようになっております。
緊急事態宣言により休みになって、コロナウイルス感染症の流行していない地域へ観光に訪れたりは本末転倒だと思うのであります。
また、従業員を駒の一つとしか考えていない事業主が、都内や緊急事態宣言発令地域に、あえてのこの時期にも出張や仕事を指示する地元の会社もあるようです。テレワークと言われてもそれでは成り立たない職種もあるのはわかりますが、防げる感染を、防ぐべき感染を、もう少し考えることはできないのか?と思う職種も含まれています。今でなければ!というほどの緊迫した出張や仕事ではないと、口を揃えておっしゃられていました。

なんとかなりませんか?
なんとかしませんか?

本県では都内からの疎開者が直近二人発症しております。

なんとかなりませんか?
なんとかしませんか?

No.38 20/04/06 03:56
旅人さん0 

高縄の摩崖仏は、古びた作業所兼物置の裏手に、唐突にある【聖域】、でありました。
正確に言えば、古い使われているかどうかもわからない作業所兼物置と、新しさを感じる手入れの行き届いた民家との間にある空間、であります。
それがまた、不思議なくらい違和感なく存在しています。古びた建物の裏手であることも、民家の庭に段差こそあれ地続きのように存在していることも、一切不自然なく、それでいて確実に凜とひきしまった気の充ちた聖域なのであります。
境内というには狭い空間でありますが、穏やかで、現実からかけ離れたような尊い土地であると感じる空間であります。
幹のほとんどが割れて裂けている、枯れてしまっていてもおかしくないほど傷んでしまった梅(?)の古木に、枯れたばかりの花が残り、若い枝が伸びています。養生したようなあとなどは一切ありません。その土地の大地と、気と、┉ 神さまと仏さまのお力で、その木がまるで微笑むように咲き、新たな枝を伸ばした、と。
また、そんな風にしか思えないのです。
そろそろ散り始めている桜の木が一本ありました。摩崖仏さまの前に、枝を一本伸ばして御仏にお楽しみいただいているような、そんな風に思えてしまう枝ぶりでありました。

こちらの摩崖仏さまは、三尊すべてのお姿が拝することができました。岩肌に小さく浮き彫りされた弥陀三尊さまで、やはり鎌倉時代のものであると言われているようです。長い年月を経ているため、やはり三尊おられるのが確認できるくらいではあります。

人の手で彫られたお姿が薄れようと、ここは、尊い神さま仏さまの地であると、そこに一歩足を踏み入れるだけで感じる空間であります。尊い土地でありますが、足を踏み入れることを御許しくださり、受けとめてくださるような、温かでやわらかなにかに包んでいただいているような、居心地のよいところでありました。

そこにいたるまでの景色もまた、美しい、日本の源風景、といった感じの、大きな沼に鳥が遊び、桜が花びらを浮かべる長閑な里の風景でありました。ぜひまた、訪れたいと、思うところでありました。

No.37 20/04/05 06:42
旅人さん0 

個人が寺院を造ることはなかなかできないことであっても、そこに御仏を造りお祀りすることはできる、それがこの(関の)摩崖仏の成り立ちなのかなぁ。
そんな風にぼんやり考えながら、ふと、どこかで、過去にも摩崖仏を拝観したことがある、と、私のなかのもう一人の私が小声で訴えていました。

そんな助手席の私の心の小さな機微などまったく気づかず、夫は「あとひとつ、摩崖仏があるんだけどどこだろう」と、スマホで検索しております。
この桐生市の摩崖仏、そこここに案内表示はあるものの、現地までの案内はないなんとも分かりやすくない案内坂であります。桐生市のサイトで摩崖仏を検索して、カーナビにその所在地の番地を入力するのですが┉でない!再びスマホでマップを出して、ようやくそこに向かいだすといった地道な努力が必要であります。
細い、対向車が来たらどうするのだろう┉というような車一台分の細い生活道路を走って、アバウトな案内を終了された辺りで、今度は目視で探します。「┉あれがそうじゃない?」と夫。
┉民家の作業所の物置小屋です。ん?不自然に石が置かれている?
「見てくる」と私。
生活道路でしかなく、民家と畑があるくらいの場所ですが、言い換えるとすべて他人様の土地。路駐するようなスペースはまったくありません。ごそごそと、石の間を抜けて行くと!石仏が一体小高いところにお祀りされています。

「ここみたい」と声をかけると、夫は路肩に┉車の通らなそうな道に車を止めました。ですがよく見てみると摩崖仏のある境内の入口に車が停められそうです。「向こうに停められるみたい」
そう妻に案内されて向かった駐車スペースに、夫は愕然としてしまいます。軽自動車がやっと!しかも片側はかなりの高低差で一歩間違ったら一回転しそうな狭い狭いスペース。私が運転したら間違いなく一回転しそうなほどのところで、さすがの夫も躊躇しています。「無理かなぁ」、いやいや、自分だったら絶対無理ですよね、私。しかもそこ、結構な坂道であります。
「いや、なんとかなる」ひえぇ、ほんと? ┉だったら考えなく案内するなよ、って話ですよね (´;゚;∀;゚;)
一発で停めた夫が土屋圭一に見えました。(オタク?)

停めたスペース、降りて歩くスペースもなく、車にへばりつくように歩いて来る夫。内心で(変なの 笑)と思ったことは秘密です。(*´艸`)

No.36 20/04/04 21:35
旅人さん0 

『不急不要な外出は控えるべきこと』
日に日に緊迫した状況となってきています。

┉ただ、地元で感染者の出ていない地方では、正直、どこか、ニュースの世界で、じわじわと感じている程度の恐怖に過ぎないのが正直なところかと思います。それは、おそらくは私だけではないのではないかと思ったりします。気持ちが拒否してしまっているのだと思います。呼吸器系の弱い夫が罹患してしまったら、どうなってしまうかなどということは、考えたくもないことであります。

今日はよく晴れた、風もほとんどない、よい一日でありました。
里の桜を愛でに、摩崖仏を訪ねて、夫と二人、車で出かけてきました。一度はみてみたいと、歴史オタクの夫がかねがね申しておりました、桐生市新里町の、【関の摩崖仏】・【高縄の摩崖仏】であります。

関の摩崖仏は、小さな川にかかる橋のたもとに、注意していないと見逃してしまいそうな小さな小屋のような建物の奥に、まさにひっそりとございました。
赤城山の泥流によって運ぱれた凝灰質の集塊岩。高さ128センチメートルの岩は、舟形に彫り込まれ、その中に三尊像が刻まれていました。三尊像は阿弥陀如来を中心に、脇侍として右に観音菩薩、左に勢至菩薩が半肉掘りされている、鎌倉時代頃のものと推定されているものです。長い年月による劣化で、左右の仏さまはすでにそのお姿を見いだすことはできませんでした。かろうじて右側の仏さまはなんとかその跡を目でたどることはできるのですが、左側の仏さまは大きくえぐられて、そのお姿が見いだすことはできません。
摩崖仏さまのおられる岩の御前に、不動明王さまの石像が小さくおたちになっておられました。優しい優しいやわらかなお顔でありました。





No.35 20/04/03 06:12
旅人さん0 

今、世界はひとつの願い、ひとつの祈りで、誠に皮肉なことながらも心はひとつとなっていると言えるのかもしれません。
どうか、それぞれの国の神さま、仏さまが、それぞれの民の祈りを願いを受けとめて、一日も早くこの世界をお救いくださいますように。


先ほどテレビで坂本龍一さんの無観客ライブの映像を拝見いたしました。そのなかで坂本さんが話しておられた言葉に胸を打たれました。

「今もウイルス禍と戦っている全ての医療従事者の方々、本当に心から敬意を表します。この新型コロナウイルス感染が収束していった先、ポストパンデミックの世界、この世界がどのようになるか、やはりパンデミック前と後では、僕たちの考え方や経済のあり方、文化のあり方が大きく変わるような気が僕はしています。願わくば、行き過ぎたグローバリゼーションとか金融資本主義が少しずつスローダウンして、もっとゆとりのある、自分たちも自然の一部だということを感じられるような緩やかな世界になることを願っています」。

「最後にもう1度しつこく繰り返しますけれども、皆さん基本である、手洗い、うがい、マスク、ぜひお願いします。
いちばん大事なことは外に出ない、人と接触しない、ソーシャルディスタンスを保つということ。
世界では今この時間もたくさんの人が亡くなっています。家にいられるというだけでとても言ってみればぜいたくなことなんだと思って、ぜひ貴重な機会を無駄にしないで、自分を豊かにするために使っていただきたいと思います」

自分を豊かにするための時間。


私は仕事が休みになることなく、お仕事をさせていただけております。突然仕事を失い、住むところすら失う方がおられるなか、感謝すべきことと、あらためて思います。
私が毎日仕事に向かうことが有意義であるかどうかは、私の心ひとつ、であります。
頑張ろう、自分。
今日も仕事に、行ってまいります。

No.34 20/04/02 05:40
旅人さん0 

先日こちらに書かせていただいた【爪引き観音】さま。

それなりに新しい御堂が建てられており、綺麗に掃除され、たくさんの奉納旗がはためいております。境内に大きな桜の古木があるため全体としては広いのですが、さほど広くはない、あまり足元のよくない石段を何段か登るようなところにある御堂です。
ですがこれはきっと小まめに手入れをなさる方がおられるに違いありません。奉納旗に名前のある方でしょうか。
真偽のほどはとにかく、弘法大師の頃からのものが、逆にこの地から(立派なお寺の境内などに)離されることもなく、これほどに愛され大切に守られている爪引き観音さま。
奉納旗に名前のあった知り合いのお年寄りにうかがうと、一年に一度はお祭りもあるのだといいます。奉納旗に名前のある方たちだけでも境内や御堂に入りきらないような気がするくらい狭いところに建っています。
ですがそのお年寄りは寄付金を納めただけで信仰はされておられないご様子で、なんとか地元の資料を読んだりみどり市の担当の方にお話をうかがったところ、意外な事実がひとつ、浮かんできました。

昭和のはじめに太田市薮塚、みどり市の笠懸を大きな、恐らくは竜巻が襲い、ことに笠懸はその進路にあたったところは壊滅的な被害を受け、死者も数人出る大きな災害があったようです。
ところがこの観音さまのおられる辺り一帯だけがなんら被害を受けることなく残されたことから、よりいっそう信仰されるようになった、ということであります。
昭和のはじめのその災害を覚えている世代はおそらくはあまりおられないのでしょうが、今、ここを守られている方々は、まさにその頃生まれたか、その後に生まれた方々で、親御さんからおそらくはその話を折にふれ聞かされ、一緒にお詣りをしている世代でありましょう。
小高いところにある見事な桜の古木も、その災害から難を逃れたものだったのですね。

御堂は平成の御世にこの地域にすんでいる方々の寄付金により建てられたもののようです。
地域の方々に愛され大切に守られている御仏。いつまでも守り伝えられていって欲しいものであります。

No.33 20/03/31 13:10
旅人さん0 

ヒゲダンス┉今観ても見とれてしまう、そのすばらしさ。ですが、こんな形で今観ることになろうとは┉。
そしてあらためて新型コロナウイルス感染の恐ろしさを知ることになりました。

罹ってしまったらどうなる?どうする?┉考えはするものの、どこか他人事、ニュース、でしかないのです。
ただ┉自分の居住地では、『一時熱があってだるい』といった症状を伝えたところ、なんと五ヶ所の医療機関で来院を拒否されたという話を聞いたばかりであり、なおかつ地元の公立病院はそういった訴えが多すぎてさばききれないと病院が地域の病院や医院、クリニックに訴えているという、まさに八方塞がりな、まさにどうしたらよいのかわからない、衝撃的な話を聞いております。
どうしたらよいのかわからない不安は、そんな初歩の段階からのものであります。

そして今回、志村けんさんの訃報によって知った、コロナウイルスに罹患するとどういった経過をたどるのか。
その方が亡くなられたあと、ご遺族はどういうお別れを強いられるのか。
胸に突き刺さるような衝撃を受けたものであります。


亡くなる前も亡くなられたあとも、お会いになれない。荼毘に付されてもなお会えない、そんな別れであることを誰も知らなかった!想像すらできなかった!

これは┉
 

落ちついて今を生きることは正直むずかしくなりました。

No.32 20/03/29 23:44
旅人さん0 

お彼岸で行けなかった母方の祖父母と大好きな叔父貴の眠るお墓が、┉かつてあったお寺さんに行ってまいりました。

そう、それは墓じまいだったのか、墓移動だったのか┉、姪の私には連絡がくることはなく、その墓じまいがそもそも終了しているのかもわからないのですが。叔母やほとんど話したこともない従妹には聞きずらいし、お寺さんに聞こうにも聞きずらく、なんとなく時ばかり過ぎていました。
墓じまいされたあとはその墓所から墓石自体なくなっているので、墓所に行けば一目瞭然わかることなのですが、さすがにそれはあまりにも寂しすぎてできず┉ 無くなってしまったお墓のご先祖さまへのお参りはどうあるべきなのか、答えが出せないままお彼岸を終えてしまいました。

そうだ!お寺さんに行こう。
そんな思いで向かったお寺さんには、すでに満開の時を迎えた垂れ桜が出迎えてくれました。
そうか、これでよかったんだ。

こちらのお寺は桜の名所と言っても過言ではない、大きな垂れ桜と大きなソメイヨシノがあります。そのすべてが今まさに満開の時。
こちらのお寺のご本尊さまとご先祖さまが、お参りをお喜びくださったなどと、うぬぼれてはいけませんよね。ですが、まさに満開、そして普段の年ならば、どうしても時期のずれるだろう桜が一斉に咲いている様は本当に本当に見事で、まことにありがたい光景でありました。

No.30 20/03/28 22:20
旅人さん0 

今日はお不動さまのお縁日。お不動さまはその御容姿から、仏教とは(神道とも)無縁に生きてきてしまった私のようなものでも、一目でお不動さま、不動明王さまであられることがわかっていた仏さまであります。
大日如来の化身であるといわれ、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)とも言われるようです。不動尊、無動明王、無動尊などとも呼ばれています。
不動明王は大日如来の教令輪身とされています。仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はとらえて内道に戻すなど、積極的な介入を行うお姿であります。
煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしていると、尊敬するご住職に教えていただきました。

その起源はヒンドゥー教のシヴァ神とする説もあるようです。

不動明王さまは【降魔の三鈷剣】(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る)と【羂索(けんさく/けんじゃく)】(悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛り吊り上げてでも救い出すための投げ縄のようなもの)を持つのを基本としています。
お恐いお顔をされておられますお不動さまですが、右牙を上に出し左牙を外側に出され、ウィンクともとれる片目を瞑られたお姿は、私にはどうにもお優しいお姿に思えてなりません。

No.28 20/03/28 17:38
旅人さん0 

走っていた道路が、工事中で通行止。右か左かにしか行けず、何故か左に進路をとる夫。初めての道を通ることになりました。
百品神社さん、鹿田赤城神社さんと、ナビには行ったことのない神社さんの名が映し出されます。雨が降りだしていることもあり、手をあわせて通りすぎました。

ん?あ、この道は┉!見覚えのあるカーブにさしかかりました。
「ねえ、ここ、この道、以前話した爪引き観音堂の道!」
そう、以前ひとりでお参りさせていただいた、弘法大師さまの爪で石に彫りあげたと言われる観音様が奉られている御堂です。以前参拝したときは自転車で訪れたため、反対側の道路から観音堂に向かい、またもと来た道を戻ったので、そこから先の道はどうなっているのかわからずにいました。

少し高台にある御堂の境内にある桜が満開です。大きな枝振りのよい桜の樹であります。
石段を登ると、桜の樹の枝がしなっている辺りには菜の花が咲いて、春爛漫、といった風情です。なんとありがたい風景でしょう。
御堂の一番下のガラスは、爪引き観音様を拝観できるように切り取られています。30㎝×50㎝くらいの表面積の石がお祀りされているのが見えます。残念ながら、お天気のせいか彫られている観音様のお姿はお見かけすることはできませんでしたが、桜の樹の下に石仏の観音様が静かに微笑むようにたたずんでおられ、あたりをやさしい柔かな空気で包んでおられました。

No.27 20/03/27 05:26
旅人さん0 

全世界を恐怖におとしいれている新型コロナウイルス。

毎日手をあわせ、般若心経をお唱えする【仏壇もどき】で、┉私は毎日祈ります。世界中を死や経済破綻の恐怖におとしいれている新型コロナウイルスが一日もはやく終息し、世界に再び平和がおとずれますようお力をお貸しください。と。

祈ることしかできません。

ただ┉祈ることを知り、私は心に平静を保って生きていられるように思えます。
それは身近に感じていないだけなのでは?と言われれば、そう┉なのかもしれません。
ですが、今、私にできることは、落ちついて普段どおりに生活すること。そうすることで、家族に少しでも安心感を与えることができればよいし、少しでもバランスのとれた食事を作り、家のなかを整え(┉られてはいないけれど)、家族の様子をしつこくなく見守ること。

一緒に住んでいない者には、桜や季節の花の写真をメールして、┉ただただそれだけ。不安を受けとめられるよ、と無言で伝えているつもりのメール。

そうやって、長い歴史のなか、理不尽な疫病に苦しみながら人々はそのツラさを乗りこえ、命をつないで、私たちに生を与えてくれました。
神さまに祈り、仏さまに祈って、先人たちに感謝して、今日をまた、生きていきたいと思います。

No.26 20/03/27 04:55
旅人さん0 

お彼岸のお墓参りを終え、桜の開花状況でも見に行こうかと車を走らせていると、その頃はまだ咲いていて三分咲きという頃だったのに、ほぼ満開の桜の樹が、しかも何本もあるところを見かけ、思わず声をあげました。
見かけたからといってすぐにすぐ停まれないのが車というもの、それでもなんとかそこに駐車できそうなスペースがあることだけは視認できました。ちょうど寄りたかったお店の駐車場に停めて、買い物を済ませ、満開の桜のもとに向かいました。
以前から気になっていた、鳥居がある神社さんの横の土地でしたので、そこに向かうにあたって、てっきりその神社さんの駐車場なのだと思って、いざその土地に車をいれると!

なんと!そこには不動堂がありました。お彼岸だからでしょうか、お堂の扉が開かれていて、お不動さまが奉られていたため、不動堂であることがわかったくらいでありました。┉桜が招いてくれました。それとも、ずうずうしく考えてしまってよろしいのならお不動さまがお招きくださった?┉それはさすがに図々しすぎる。
それでも、思いがけずしてお不動さまにお参りでき、桜よりもお不動さまに心弾ませる私でありました。お不動さまの他、厨子の中におられる御仏もおられました。全部で三体の御仏がお奉りされておられます。境内には石仏もおられました。


桜も見上げたはずの私なのですが┉息子の撮った写真にはメジロがいます。?!「いっぱいいたよ」

No.25 20/03/23 04:47
旅人さん0 

義実家の仏壇で使われているような仏飯をお供えするときの器のことを、一般的には【仏飯器】と呼ぶようです。そしてその仏飯器を置く台として仏器台があります。
お供えする仏飯器の数と、お仏壇の大きさにもよりますが、正式には二個となるようですが、一個をお供えしていることが多いようです。仏飯器に関しては、宗派だけで無く、地域やお寺によって素材や色、紋などに関して、方針や決まりがあるようです。


また、最後に故人がこの世で使っていたお茶碗を使うのは、枕飯と呼ばれるご飯をお供えするときとなり、その後は故人は既にこの世からあの世に行かれているので、この世で使われていた器を使うことは控えるものだそうです。┉それについて、今は亡き義父と話したことがあったことを思い出しました。
実家で使っているのが普通のご飯茶碗だと聞いて、「誰かが使っていたものはその人が亡くなったときに使うもんだ。それはダメだ」と。誰かが使っていたものではなく、新しく買い求めた物だというと、「だったらいいのかなぁ?あんまり聞いたことないぞ」義父は、口が悪く一本気な人でしたが、優しい人でありました。
その時、枕飯として、故人が生前に使っていたお茶碗にご飯を山盛りにして故人の枕元にお供えする時ハシを立てるのは、なぜかと問うと、「知らねえ。そういうもんだ」と、言って話を終えたことを思い出しました。

No.24 20/03/22 23:24
旅人さん0 

私の仏壇もどき。
御本尊云々どころではなく、仏具の仏壇すら使っておらず、もどきを名乗るのも図々しいものではあります。それでも、毎朝、花の水を替え、お水とお茶をお供えし、灯明とお線香をあげています。ご飯も炊いたときに炊きたてをお供えするようにしてはいるのですが、つい、あげたままにして、表面がかぴかぴになってしまったりしております。
実家の母は普通のご飯茶碗、義母は仏具をセットで購入した物のなかの『仏飯器』にごはんをよそいお供えしていました。私は今、桜の花びら型の器に山盛りにしてお供えしています。
最初はご飯をお供えすることまではしていなかったのですが、【ご飯をお供えするのは、仏様に召し上がっていただくためではなくて、日々の感謝の気持ちを表すため、主食であるご飯をお供えするという意味がある】と知ったからであります。

仏様にお供えするご飯は、仏教では「飲食(おんじき)」と言い、一般的には「仏飯(ぶっぱん)」「御仏飯(おぶっぱん)」と呼ばれるのだそうです。

ご飯をお供えするタイミングに特になく、ただ、お寺さんでは、朝のお勤めの際にお供えしています。
ご飯を食べてもらうのではなく、炊き立ての湯気を召し上がっていただくのだそうで、お寺さんでは、朝炊いた最初のご飯を仏飯としてお供えするようです。
炊きたての一番のご飯をお供えするということはとても大切なことのようです。






No.23 20/03/22 07:25
旅人さん0 

嫁ぐと決まってあらためて義実家を訪れたとき、まず仏壇で手を合わせた私をたいへん褒めてくれた義父との思い出もある仏壇は、ずっしりとして重みを感じさせる(たぶん実際に重い)ものであります。
座って手を合わせる、私の好きな形のもので、香炉などの仏具一つ一つも立派なものでありました。
さりとて、嫁ぎ先の、ましてや跡取りと次男の扱いであからさまな差のある義実家の仏壇をまじまじとみることなどありはしませんでした。
【御霊供膳】と呼ばれる、特別な┉亡くなったあとの初七日から百ヵ日、そしてその後のお彼岸なり、お盆なり、法要の折にお供えするというお膳の存在を、つい先日これまたネットで知りました。
同居していないとはいえ、それに替わる普段使いの食器にお汁や煮物が供えられていたのは目にしているので、嫁ぎ先にもそういったお膳はないのかもしれない。この地域の風習かどうかは義父亡きあとでわからないのですが、特別なお膳、御霊供膳と呼ばれる仏飯具。これも宗派によっては扱うことのない物のようでありますが┉。
一つ一つ意味のあることのようで、一般家庭の仏事や神事でも、それを覚えて日々の暮らしの中に取り入れていくことは、小さい頃からの習慣の中にない私には、かなり大変なことに思えてしまいます。
神棚に榊をお供えする日などはいまだに知らないありさまであります。
日々学習、とはいえなんとも道の果てしないことであります。

No.22 20/03/22 06:42
旅人さん0 

母の仏壇はとにかく、嫁ぎ先のことに関してはなにも口やら手やらを出せる立場ではありません。
末っ子次男の夫は、義父の存命中からすでに、法事の日を決めるにあたっても蚊帳のそと、義姉と義兄の都合だけで日が決められ、いついつ何時から菩提寺で法事をするから来い、という扱いで、ひどいときは海外出張にでかけてる日が指定されていたりしたくらいでありました。
さすがにその時は「俺の都合も聞いてくれ!」と、親父さまに反論したのですが、基本、夫はそういった実家の方針に生まれた時から慣らされて育ってきたので、なんの疑問も持たずにその時まで過ごしていたくらいで、当然その家族もそんな扱いで、気の強い私はずいぶんと反発してきたものです。

義母が弱って入院、施設入所、となって、今まではお墓参りなど見向きもしなかった長男の義兄が、ようやく跡取り長男の自覚を持ったのか、このお彼岸、初めてお墓参りに来ていた跡がありました。ずっとそういったことに関心がなくて、言われても墓参りすらしなかった義兄がいよいよ跡取りとなろうとする┉今まで好き放題にお墓参りに来ていたお墓が、他人の手に渡ったような寂しさを覚えてしまった私であります。


閑話休題。

義母は本来仏事に一切の関心がなく、義父に言われたことをそのまましてきた人ですし、現在の仏壇は夫の祖父が亡くなった時に義父が買い換えたということであります。立派な仏壇であります。

No.21 20/03/21 08:06
旅人さん0 

檀那寺を持った、とはいえ、墓所を購入しただけの家ですし、お寺さんも「お仏壇はありますか?」くらいはお聞きになられるでしょうが、「ある」と言われれば、まさか御本尊のないものとは思わないのかもしれません。その後も実家の仏壇は【御霊壇】のままであります。なかなか掃除も行き届かないものですので、このままくらいがちょうどいいのかもしれません。

御仏壇に普通のご飯茶碗とガラスのコップでお供えをすることを当たり前と思って過ごしてきた私は、嫁ぎ先でそんなお供えをしていることをなんの躊躇いもなく話してしまい、嘲笑されてしまった過去があります。御仏壇にはきちんと仏さま用の食器があるのですね。それを使わなくてはならない、ということもないのでありましょうが。
ただ、法事や御彼岸、御盆などの特別なお膳は嫁ぎ先も使っていなかったように記憶しています。そういったものの存在もネットで知る、私はある意味、最新、最先端、でしょうか?
法事はその後の会食をレストランや会席でするのが当たり前となっているので、そこで仏さまの分も用意してもらっています┉よね?
世間さま一般がわからないので疑問符で申し訳ないのですが。
嫁ぎ先では御盆お彼岸に特別なお膳というものはなく、普段普通に使っている食器に、お汁や煮物をお供えしていただけでしたので┉。少なくとも私が嫁いだあとはずっとそうだったし、息子もそうだったと申しております。

No.20 20/03/21 07:28
旅人さん0 

実家に仏壇がきた頃って┉そ、そうだ、両親が離婚した頃でありました。唐突に狭い居間に無理やり置かれた仏壇は、今思えば、無理をしてでも欲しかった、母の心のよりどころだったのかもしれません。
ただ┉実際は、居間にごろごろしている小物の、格好の収納先となっていましたし、ちょっとした貴重品入れという扱いに近かったようにも思えたのですが┉(・・;)
私同様に檀那寺もなく、仏さまの扱いも知らない母が、誰に相談することもなく、購入した物だったのかもしれません。
それでも、【先祖代々之霊】と金字で書かれた位牌が置かれていた分、私の仏壇もどきよりはれっきとした(?)仏壇に近いもの、でしょう。
┉などと書いていて思い出したのですが、そうだ、その位牌、高校の帰りに仏具屋さんから受け取って来るように言われたのだった!おそれおおい位牌という物を、何故そんなついでのように、学生カバンでかごいっぱいの自転車通学の娘に平気で頼むのかと、母の感性を子どもながらに疑ったものでありました。
今なら、それはまだ、御霊の入っていない位牌という商品の受け取りにすぎなかったことがわかるのですが┉ それにしても、いくら仕事が忙しかったと言われてもやっぱり母は変わっていますよね。高校の帰りに仏具屋に寄って位牌を受け取って帰ったという経験をした人はなかなかいないのではないでしょうか。

No.19 20/03/21 00:06
旅人さん0 

わが家には仏壇はないのですが、仏壇もどきとして手を合わせているコーナーがあります。檀那寺もないので、宗派もなく、宗派を定めなければ当然、御本尊となられる仏さまが定まりません。御本尊をお祀りしていない仏壇はどんなに立派な仏壇を購入しても、仏壇とは言えないのだということすら知らずに育って、知らないままおばさんになってしまっていた私であります。

そもそも実家の仏壇が、御本尊のまつられていない仏壇でありました。
何年かまえに母が自分が死んだ後のことを考えて、母の実家のお寺さんに墓所を購入したのですが、それまで実家自体に檀那寺がない状態だったので、当然といえば当然なのかもしれません。
よそ様のお宅で御仏壇に手を合わせることもあまりあることではなく、仏壇には、必ず御本尊さまがおられるのだということを知ったのは、実にこの珍道中を始めてから、なのでした。

もともと私の両親は教会で結婚式をあげたくらいでしたから、教会に通わなくなった時点で無宗教なわけで、教会に通っていた人間がそう簡単に仏教徒になるはずもなく。
そうは言っても、父の親┉祖父母は仏教徒でしたので仏壇がありましたし、母の親┉祖母は早くして亡くなった夫と、幼くして逝ってしまった子供たちのお墓があり、その大切な存在をまつった仏壇がありました。

そもそも母はなぜ仏壇を買おうと思ったのか。誰かが亡くなったわけでもなかったのでありますが┉。

No.18 20/03/19 04:38
旅人さん0 

春のお彼岸となりました。が、仕事があるため未だお墓参りには行けておりません。
義母の入居している老人ホームは、現在、家族が面会すらできないくらいの徹底したコロナ対策をおこなっており、お彼岸のお墓参りに連れ出してあげようこともできません。(お年寄りからお彼岸のお墓参りを取りあげてどうする!)と思ったりもするのですが、実際は私の義母はお墓参りにはまるで関心がないお方ですので、なんとも説得力はないのでありますが┉。義母ばかりがお墓参りに関心がないように書くと義母に申し訳ないことで、実母も全く関心がありません。

さきの東日本大震災で甚大な被害のなか、「なんとか位牌だけは持って逃げることができた」とおっしゃる方々が多かったことを、私は忘れることができません。それほどに大切にされるお位牌。
私の二人の母親たちにとって、位牌は到底そんな存在でなく思えます。かく言う私とて、跡継ぎでないため、位牌どころか守るべき墓もなく、当然のこと檀家寺もないありさまであります。
もちろん、先祖があるのだから、まつるべき位牌を持つことも希望すれば叶うことであります。しかし、私たちの代からの仏壇や位牌を持つことは、跡を継ぐ者がなくしては、私たち亡きあと結局厄介な不用品となってしまうことは目にみえています。
お墓も新時代を迎えようとしているのかもしれません。

No.17 20/03/18 05:38
旅人さん0 

この前の、十三日の金曜日からの十三日の虚空蔵菩薩さまの御縁日についてふれたことから、その後それぞれ十二支の守り本尊さまについて書きましたが、後々読み返しそれもまた片手落ちであったことに気づきました。
そう、御縁日について、であります。
こんなやつのいたらぬ駄文をお読みくださっておられる方のために、追記させていただきます。


子年   千手観音さま  ・・・毎月17日
丑・寅年 虚空蔵菩薩さま ・・・毎月13日
卯年   文殊菩薩さま  ・・・毎月25日
辰・巳年 普賢菩薩さま  ・・・毎月24日
丑年   勢至菩薩さま  ・・・毎月23日
未・申年 大日如来さま  ・・・毎月 8日
酉年   不動明王さま  ・・・毎月28日
亥・戌年 阿弥陀如来さま ・・・毎月15日

No.16 20/03/18 03:51
旅人さん0 

『ハナモモまつり』というのが毎年開催されているようですが、今年はコロナの影響で中止になったとうかがいました。それが本来なら四月の上旬。つまり、その頃にハナモモ真っ盛りとなるのでしょう。下見をするなら、このくらいの時期がいいのかと出かけたのでありますが┉。
素晴らしい!
映画の1シーンのような駅舎です。
小さな、古い駅舎。山と、咲き始めのハナモモ、まさにあと少しで咲かんとしてまんまるなつぼみとなったハナモモが艶やかな桃色で辺りを色づけています。
これはすごい!
電車に乗ったらどんなだろう!
あ、わたらせ渓谷鉄道さん、電車じゃないんだ。ディーゼルなんだ。
電車通らないかなぁ?しばらく駅、及び駅周辺におりましたが、列車を見ることはできませんでした。
なんでもトロッコ列車とかお座敷列車とかもあるようです。
これはおすすめ!
かもしれません。私は列車を利用してはおりませんので、列車の感想はお書きできないのですが┉。


      令和二年三月十六日

No.15 20/03/18 03:23
旅人さん0 

思えば滝見のドライブや滝見の旅行を、何度夫に頼んできたことか┉。思いもよらず滝を間近で見ることができ、お不動さまにもお参りをすることができました。なんとありがたいことでありましょう。
すっかり気を良くした私は、当初の目的などすっかり忘れて、もう帰るつもりでおりましたところ、なにやら夫がナビを操作しております。「まだどこかに行くの?」
「┉」「┉ハナモモを見にきたんだよね」

┉そうでした。お不動さま、草鞋さま、どうかこの頭の病もお治しください。

わたらせ渓谷鉄道というローカル線の駅舎のそばに、ハナモモという木が線路沿いに三百本を超える数植えられていて、その花の時期には一斉にピンクの花道となるという話を聞きつけ、ハナモモとやらを見てみたいと言ったのは、他ならぬこの私でありました。
わたらせ渓谷鉄道に乗る機会などはほぼなくて、子どもに体験させてみようとほんのなん駅か乗ってみたことが一度か二度あったかどうかというくらいですが、上皇陛下御夫妻がこのわたらせ渓谷鉄道には何度かお乗りになられていらっしゃるとか。┉ 一度くらいは乗ってみましょうかね。

おすすめはまさにそのハナモモの頃かアジサイの頃か、はたまた紅葉の頃かとうかがいました。わざわざ車で駅まで来て電車に乗るかどうか┉うーん。そんな下見を兼ねてのハナモモのお花見でありました。

No.14 20/03/17 18:27
旅人さん0 

不動堂は扉を開けることができ、直接お祀りされている不動明王さまを拝むことができました。いかにも大切にお祀りされていると思われるお不動さまで、きっと一年の間のいつの日かのお縁日にか、お正月かにご祈祷等をされる日があるのかと思われます。お参りに訪れた方々がどこからきた者かを記帳するノートも用意されており、絵馬も掛けられておりました。
通りからは外れたところにありますが、河原への道もそれなりに整備されており、あずまやも用意されております。

思いもよらぬところでお目にかかることができました不動明王さま。どこかお優しい眼差しをなさっておられました。なんとも心の安らぐ不動堂でありました。



あずまやへの道を下っていくと、ぐるっと小さな川を囲むように歩道が作られています。もしかして、滝へと続いている? 冬の、何の花も咲かぬ歩道を歩いて、歩いて┉。結構歩いた頃に、滝だ!ようやく滝が見えました。滝をめざして走り出す私を、まるで子どもに言うように「危ないよ、走らなくてもいいだろうに」と諭す夫。┉聞くわけもありません。
「わあぁ、すごいすごい!」
落差二十メートル、あまり雨も降らなかったこの時期においても、勢いある、かなりの水量で絶えなく落ちていく滝であります。
橋のうえから見たときより、ずっとずっと迫力のある滝であります。
うーん♪ すっかり幸せな気分です。

No.13 20/03/17 17:26
旅人さん0 

春の陽射しのなか、軽やかな(あくまで本人の感覚、ですが)足取りで、お堂があるという方角に向かいます。
ん?工事現場、でしょうか?その右手方向下方に目をやると、ありました、ありました。お堂が、ふたつ。ひとつは息子が申しておりました、草鞋が奉納されたお堂であります。
お堂には立派な石碑が建ち、『この地域には古くから各辻々に大わら草履を吊るして疫病の侵入を封じたと伝えられていたそうです。しかし、そんな迷信的なことはやめようということで一時期その風習をやめたところ、その年に伝染病が発生し多くの者が隔離されたとかで、その後再び毎年七月一日に当番が奉納することとなったようで、今なお続けられています。手を合わせて祈願することにより、悪病を追い祓い、身体の健康と幸運な生活が守られると言われています』

┉なんという巡り合わせでしょう!まさに世界中で新型コロナウイルスにより、多くの、患者となられた方々が隔離に近い状態に置かれておられています。
神であろうか仏であろうかわからない大草履ではありますが、手を合わせ、コロナウイルスの鎮静化と終息を祈らずにはいられませんでした。

そのお隣は不動堂でありました。
お不動さまは、水辺であったり、山の登り口であったりをお護り下さるお力をお持ちであるため、そういう土地にお祀りされていると、お坊さんにお聞きしたことがあります。ここはまさにそんな土地といえます。


No.12 20/03/15 23:23
旅人さん0 

草木ダムのドライブインは六~七割方車が停まっております。晴れた春の日曜日、考えることは同じ、ということでしょうか。バイクも二十台ほど停まっていました。

うーん、ここは万が一コロナウイルスにでも罹患したらいけないと、人混みを避けようとした主旨に反することになりますし、なにより喧騒を避けたい気持ちもあって、がらがらのもうひとつの駐車場に移動しました。
ほんの少し離れているだけなのに、冬枯れのダム湖の景色を貸し切りです。しかももうじき開きそうな桜のつぼみもみられました。

さて、このあとはわたらせ渓谷鉄道の神戸駅をめざします。
なんでも【ハナモモ】という花が線路の両わきに並木を作って植えられているとか。例年だと四月上旬が花の見頃を迎えるようです。

ダム湖にかかる橋を渡って、道なりに進み、橋を渡って┉「待って!滝だよ、ちょっとした滝がある!」┉そう、いつものように夫の運転です。橋をいったん渡りきり、Uターンしてもらって滝をめざします。滝、好きなんですよね(^-^;
【不動の滝入口】とあります!「と、停まって!」
どうやら滝のそばまで降りていけそうです。
すると息子が「この先もう少し行くと大きな草鞋が掛けてあるお堂があるんだよ」( ;゜o゜)えっ?
┉こんなとこにも来てたんだ。びっくりだなぁ。私なんて初めて来たところです。滝の存在を知らなかった夫も同様ですよね。
ふーん┉。



No.11 20/03/15 21:10
旅人さん0 

花の(?)五十代、新型コロナウイルスに感染したら重症化しやすいと言われるお年頃きは┉どうする?
不要不急の外出を避ける?感染してしまったときに備えて、いろいろ準備をしておく?
今、したいことをしておく┉?(*-ω-)ウンウン

綺麗に咲いた春の花々を愛でずしてどうする!梅の花、桃の花、菜の花、土筆、コブシ、もくれん、気の早い桜はもう咲こうとしているというのに。そうそう、一時期流行った『令和初の』春の花です。
┉と、いうわけで、さしたるストレスもたまっていないくせに、春を愛でに出かけてみました。

向かったのは群馬県みどり市にあります【草木ダム】。
神社でもお寺でもない草木ダムのドライブインであります。(ドライブイン! すでに死語になっているか思っておりました) こちらのドライブイン、な、なんと、寝釈迦の石像があるのです。

同じくみどり市にある草木ダムにほど近い【袈裟丸山】と呼ばれる山の中腹にある寝釈迦像のレプリカをうたっているものです。
脚力、体力ともに自信のない私たち夫婦は未だその袈裟丸山にある寝釈迦さまには参拝することができずにおりますが、写真を見ると⁉ ┉似ても似つかないものであります。

まあ、寝釈迦像は寝釈迦像でありますし、春の景色も楽しめるのでは?と向かってみた次第であります。道々には梅の花が咲いております。



No.10 20/03/15 08:21
旅人さん0 

前回、丑寅年生まれの守り本尊さまについて書かせていただいて、他の年の生まれの守り本尊さまについて触れないでいるのも、なんとなく落ちつかず、あらためて守り本尊さまについて書かせていただきま
す。


『子は千手、丑寅としは虚空蔵、辰巳は普賢、卯は文殊也

  午は勢至、未と申は大日よ、酉は不動に、戌亥阿弥陀ぞ』

江戸時代の書には、早覚えとしてこんな歌があったようですが、うーん、これ、早覚えになるのかなぁ(^-^; 



丑・虎年生まれの方(立春から翌年の節分まで)  
【虚空蔵菩薩さま】

辰・巳年生まれの方(立春から翌年の節分まで)
【普賢菩薩さま】

未・申年生まれの方(立春から翌年の節分まで)
【大日如来さま】

戌・亥年生まれの方(立春から翌年の節分まで)
【阿弥陀如来さま】

卯年生まれの方(立春から翌年の節分まで)
【文殊菩薩さま】

午年生まれの方(立春から翌年の節分まで)
【勢至菩薩さま】

酉年生まれの方(立春から翌年の節分まで)
【不動明王さま】

子年生まれの方(立春から翌年の節分まで)
【千手観音さま】

となっているようです。地方によっては、毎年その守り本尊さまをお祀りしているお寺や御堂をお参りするところもあるようですが、私の住む地方ではそのような風習は残ってはおりません。
今、私は、珍道中で出会えた守り本尊さまの御守りを毎日首にかけております。

No.9 20/03/14 07:57
旅人さん0 

【虚空蔵菩薩】さまは菩薩の一尊。「明けの明星」は虚空蔵菩薩の化身・象徴とされ、知恵の菩薩とも評され、人々に知恵を授けてくれるともいわれています。明星天子、大明星天王とも呼ばれるようです。

【虚空蔵菩薩】とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味で、そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰され、その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるといわれています。
空海が室戸岬の洞窟 御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説はよく知られており、日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行ったといいます。
また、京都嵐山の法輪寺では、13歳になった少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かりに行く【十三詣り】という行事が行われています。


像容は『右手に宝剣、左手に如意宝珠を持つ』ものと、『右手は掌を見せて下げる与願印(よがんいん)の印相とし、左手に如意宝珠を持つ』ものとがあるようです。


また、【虚空蔵菩薩】さまは、丑寅年の守り本尊さまとされていますので、丑寅年生まれの方は十三日の金曜日はありがたい日、と思っていただいてよいのかもしれません。

No.8 20/03/14 01:25
旅人さん0 

昨日は十三日の金曜日。職場でも朝一番に「あー、今日は十三日の金曜日じゃない!」という声があがりました。
そのくらい日本でも『不吉な日』として忌み嫌われていますが、キリスト教徒でもなければ別段忌むべき日ではありません。もっとも、X'mas好きの日本においてはやはり一緒に忌むべきなのでしょうかね?
とはいえ、実際には十三日の金曜日を不吉な日とするのは、英語圏と独、仏であって、伊では十七日の金曜日のようですし、スペイン語圏では十三日の火曜日のようです。

「大丈夫!日本だから」と笑ってみせると、みんな「そうだよね」と言って笑顔になりました。それほど『十三日の金曜日は不吉な日』として浸透しており、病院などでも4・9・13という数字の部屋は存在しないくらい不吉な数字として人々の間に浸透しているようです。

仏教徒であるならば、十三日はむしろありがたい【虚空蔵菩薩さま】のお縁日、であります。

縁日とは、もともとは「有縁の日(うえんのひ)」や「結縁の日(けちえんのひ)」の略した言葉であり、神仏がこの世に縁(ゆかり)を持つ日のことで、結縁の日は、神仏が世の人々を救うために手を伸ばして、特定の神仏と人が縁を結ぶことができる日のことを言います。
神仏に縁のある日に、参詣することを意味し、この日に特定のお寺や神社に参詣すれば、特にご利益があると信じられているものであります。


No.7 20/03/11 13:19
旅人さん0 


┉どうして、よりにもよって今日、この日に、かの地で震度4の地震を┉。

祈る先も神仏。

┉。

No.6 20/03/11 07:35
旅人さん0 


3・11を迎えました。九年の時が流れたようです。

私の住まうところは震度五強というの地でありましたが、本当にありがたいことにすべての家族、親戚、知人が命を落とすこともなく済みました。職場のパソコンはそのすべてが床に落ち、ガラスは割れ、壁には大きなヒビが入りましたが、倒壊するようなこともなく、今、何事もなかったかのような時が流れています。

そんな私ですら、先日、あの日の、津波の押し寄せる画像を目にしたとき、涙が止まらなくなりました。
津波の被害や、家屋の倒壊で、命を落とされた方々。
津波の被害にあい、家屋を、何よりも大切な大切なかけがえのない存在を亡くされた多くの方々のやりどころのない、無念はいかばかりでありましょう。

息子は震災のあと、まだ道路すら寸断された状態のときに、ボランティアとして東北に、夜も寝ずに運転して向かっていきました。
私の心配を思って、一緒に行った仲間の一人が、眠れずに過ごす私に無事到着したことを電話してくれました。

息子はその後何度も何度も東北に向かうのですが、何一つ私に話すことも、写真一枚も見せることはありませんでした。そんな思いになる、現場だったのは、テレビの画面からも何万分の一かであっても伝わってきましたが┉。


┉いまなお、復興は遠く、私にできることはやはり祈ること。
┉祈ることでありました。

No.5 20/03/11 07:10
旅人さん0 

(┉前レスより続く) その大蛇の死体をさらわれた娘の数に合わせて十八に切って近隣の村々に分け、娘の冥福と、長良の偉業をたたえるため、千代田町の瀬戸井を中心に十八社の長良神社が鎮座するようになりました。」(「ふるさとの民話 館林」参照)という伝承です。

長良神社本宮は、大和国春日神社の末社に列祀された藤原長良公の余徳を敬い、佐貫荘長柄郷瀬戸井村(邑楽郡千代田町)に遷宮されたのが始まりのようです。
一説によると長良公がこの地を治めたとあるようですが、それは否定されているようですが、いずれにしてもいまなお、多くの長良神社さんが残っているだけでも、この土地で長良公を崇拝する方々が長きにわたっておられる事実だけでも、長良公の人柄が偲ばれました。


長良神社さんは今回初めてナビの画面によって偶然知りえた神社さんなので、いまだ参拝もはたしてはおりませんが、是非、そのいくつかを辿って参拝させていただきたいと、強く思っております。


        令和二年三月九日

No.4 20/03/11 05:44
旅人さん0 

藤原朝臣長良公を祭ったという【長良神社】さん。館林の長良神社さんは館林城主が創建したとのことで館林総鎮守の神社であるようで、870年の創建と伝えられています。

御祭神の藤原長良公のお名前は申し訳ないことに存じ上げなかったのですが、【藤原高子】といえばなにやら聞き覚えがあり、┉清和天皇の女御でありながら、【在原業平】との恋愛で有名な高子さんだ!
さらに調べていくと、人臣初の摂政となり藤原北家繁栄の礎となった【藤原良房】のお兄さんでありました。私でも存じ上げる方々のお名前がつらつらと!長良公はそんな弟の出世にも常に穏やかに、兄弟間の仲もよく、天皇を常に第一と考え、民衆の視線に立って物事を考えるお方だったようです。

館林においては、1720年に正一位長良大明神を賜って【長良神社】となったようです。

その藤原長良公がこの地で御祭神になった逸話は、千代田町の民話として残っているようです。
『昔、赤岩には大きな沼があって、沼には主の大蛇が住みついて、毎年娘たちをさらって行きました。困っていた村人達はその頃丁度都から桐生にきていた弓の名人・藤原長良という人に退治をお願いしました。 長良は村人達の話を聞くと早速赤岩に行き、自慢の弓矢で大蛇の眼を射、見事仕止めることに成功しました。

No.3 20/03/10 18:13
旅人さん0 

昨日、走行している道で、ナビの示す画面に同じ名前の神社さんがあることに気づきました。?! 【長良神社】さんであります。
わずかの距離でありますのに、まるで同じ名前で、しかもある地点では、なんと三ヶ所の長良神社さんの名前が! 私には、あまり聞き覚えのない名前であります。

夜の七時頃で、走行している道路上に鎮座されているわけではなかったため、参拝はおろか、外観すら見てくることはできませんでしたが、気になって、帰宅後調べてみましたところ、な、なんと!
群馬県邑楽郡に24社、館林市に11社、太田市に4社、埼玉県羽生市に2社で計41社と、近距離の土地に集中して鎮座されているようであります。
長良神社さん┉長良さんとおっしゃる方をお祀りしたもの?

帰宅後すぐにGoogle先生にお聞きしますと、やはり長良さんとおっしゃる方を御祭神としている神社のようで、【藤原長良公】という方のようです。


【藤原長良公】は太政大臣正一位藤原冬嗣公の長子、陽成天皇の外祖父にあたる方で、常に民衆を憐れみ、高潔な人柄で、心が広く情け深い一方で度量もあった方のようで、平安時代初期に亡くなられたとされています。
死後、娘の藤原高子が清和天皇の女御となり、高子所生の貞明親王が即位(陽成天皇)したことに伴い、左大臣正一位、太政大臣の称号を贈られ、さらに神格を得、大和国春日大社の末社に列せられたようです。




No.2 20/03/10 06:31
旅人さん0 

前スレの五百レスまで、一年強。長いような短かったような。とりあえず、3度目のスタートとなります。
スレ立てに年齢明記することになる、の一文を見ただけで、あわてて新スレを立ち上げましたが、勘違いにすぎず、しかもよく見ると前回、前々回とタイトルが微妙に異なっている!さすが相変わらず珍道中を繰り広げるおばさんであります。(;つД`)

前々回、前回とタイトルが多少異なったことが、すこしでも前進につながるとよいのですが┉自国語すら怪しい駄文の進化はもはや期待できず、あわててスレタイトルは間違う、年齢明記と思いこむあたりからも、珍道中になるとしか思えませんが、よろしければ今後ともおつきあいいただければ幸いです。


どうぞあらたな珍道中もお見守りください。



No.1 20/01/08 07:31
旅人さん0 

本日は一月八日。令和初の初薬師さまであります。
仕事を休むことができなかったため、朝一番、六時からの群馬県みどり市【光栄寺】さんの御護摩法要に参列してまいりました。

本堂のなかはすでに満員状態。少しくじけそうになった自分を叱咤して、参列してよかった。
学校前の小学生さんも参列していました。信心深いご家庭におかれ、素直に育っておられるのだなぁと思わず感心して笑みがこぼれた私でありました。





年齢、性別の表示を義務化されるとのご案内を受け、もうすでにバレバレでありながらも、わずかに残った女心で、義務化の前にスレを建ててみました。  (〃 ̄ー ̄〃)
新スレッドもよろしければおつきあい下さい。

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