昭和から令和へ
長く生きたな。人生の折り返し地点は過ぎたけど、まだ夢も希望もある。
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妹が勤め出し、今まで家事を全部やってもらっていたが、疲れるだろうから、当たり前だが分担した。
私の世代はギリギリ、男が家事なんて、と、男も家事は協力すべき、のあいだの世代だった気がするが、
あいつらと暮らしていた時の妹の苦労を知っているので、分からない事を妹に聞きながらなんとかやった。母親とか言うあの女は、どれだけ妹をこきつかっていたか分かった。
もちろん、母親が娘に家事を教えるのは大切な事だというのは分かる、が、それは愛情あっての事。
あの女はただ、何もかも妹に押し付けていただけだったのが解った。
妹は文句も言えなかったんだ。言うと親父にビンタされたからだった。
もっと幸せな気持ちで家事を教わりたかっただろうな。お互い、将来結婚する人とは、家事も、食卓も、笑顔でつとめたいな、とつくづく思ったんだ。
慌てて引っ越す事も無くなって、しばらくはそこで生活していたが、いちいち妹の着替えや風呂に、お互い気を遣うのも、もらったつい立て?で仕切って寝る生活も、
そろそろ新しくしてもいいんじゃないだろうかと思い、妹と話し合って、引っ越す事にした。
昭和も60年に入って、いよいよ景気が良くなって来た事に、世の中の人たちが自覚する時代だった様に思う。
知人のお宅は、昭和50年代前半に、2500万円で購入したマンションが6000万円で売れたとか言ってた気がする。驚いた。
私も解体屋の仕事で(今の相場は分からないが)、まじめに働いて、月収30~50はもらってた。
金の話ばかりでなんだが、生きていくのに必要な事、今の生きにくい時代との差を書いておきたいからなんだ。
妹は、家賃の安い所でいいよ、と言い、私もそんなに贅沢な暮らしをするのは違うと思い、
場所がバレるかも知れないので家賃は書けないが、2DKに入居した。私たちにとってはお城だったんだ。
私も妹もさらに士気が上がり、働いた。
そうしてお金をかけずにお洒落をする様になった妹も、兄から見ても綺麗な女の子に成長していた。
そしてある日、妹は、私に会ってほしい人がいる、と言って来た。
ちょっとムッとしたが、来るべき時が来たと思い、妹の会ってほしいヤツとやらに会う事にした。
私の頭の中で、中森明菜のミ・アモーレがぐるぐる鳴っていた。
未来の妹の旦那になる人に会う日だ。ゆくゆくは結婚したいと思っているけど、両親の様な家庭を築きたくはないと、妹ははっきり言った。
子供を育てる自信がないと言うより、子供のいるまともな家庭が分からない私たちにとって、それを理解してくれる人なのだろうか、
急に心配になったが、妹の話では、全部話した上で、お兄ちゃんに会わせて下さいって言ってるの、との事だった。
約束の時間に約束の場所へ行った。
「へ?」というのが、失礼だが第一印象だった。
小柄でちょっと頼り無さそう(義理弟よゴメン)な、でも人当たりだけは本当に感じの良い印象だった。
なんだかいつも申し訳なさそうにしている、欲の無さそうな人で、間違っても親父とは正反対な人だった。あ、頑固な私ともちょっと違って、
妹は男性をよく見る様に、幼少期から身の危険を感じながら育ったのが解る様な、そんな男の子だった。
妹さんと結婚を前提にお付き合いさせて下さい、と頭を下げた。妹も一緒に頭を下げたんだ。
いつまでも頭を下げているので、あの、頭を上げて下さい、と言うと、恐る恐る頭を、妹と同時に上げたんだ。
見ると、彼も妹も二人とも泣いてる…いやいや、泣きたいのは私だ、とも言えず、
二人それぞれの、一緒になりたい思いを聞かされて、そして彼は、自分が立派な家庭なんかで育ってない事を申し訳なさそうに話し、
解ってくれた妹に感謝していますと何度かこみ上げてくるものを押さえながら必死に話す姿を見ていたら、私も泣けてきてしまった。
彼はいわゆる、親の悪口を言う様な人ではなく、あくまでも妹が自分にもったいない位の家庭環境だった事が伝わって来る話し方しかしなかったが、私には充分過ぎるくらいだったんだ。
妹を、よろしくお願いします。
私は彼の、話をしてない時の顔を時々見ていたら、妹が彼を好きになったのが理解出来たんだ。
あちらのご家族にも妹がまず挨拶に行き、次に私しか身内がいないので私と挨拶に行った。
義理弟の家族構成やどの立場の人がどうとは書けないので、少し悲しいが割愛する。
妹の結婚は、プロポーズをされ、指輪交換をし、新居を決め、ウエディングドレスの写真を撮り、婚姻届を出し、式は挙げず、前のレスにも書いたが、私に遠慮して、式のために取っておいたお金は頑として受け取らず、
結婚しましたという印刷ハガキを色々な人に送った。それで妹も義理弟も本当に幸せそうだったんだ。
妹ちゃん、良かったね、と妻は祝福の言葉を言ってくれた。
2DKに私ひとりになってしまった。が、妹が幸せなら、と、出来るだけこちらからの連絡は我慢した。世の中の姑さんの気持ちってこんな感じだろうか。
まあ、私らの母親とかいうあの女が姑だったら、世界中のお嫁さんは嫌だったろうが。
レス50に書いた様に、私もあるところである時期、今の妻と出会って色々あって結婚した。
照れが半分と、妻の方の実家家族は今でも80代のご両親を中心に皆さん健在なので、書く訳にはいかないため、私は昭和63年前半に結婚した、とだけ書かせてほしい。
本当に、妻も、妹の旦那も、親で苦労したんだ、とつくづく思った。
義理弟君は本当に人を大切にする人だ。月3か週1位で私に電話をくれる。妹が言わせてるのかとも思ったが、どうもそうではなかった。
私も弟が出来た様で嬉しかったし、おそらく、人に聞けない様な事でも、弟君がストレートに、こんな時、世間の人はどうしてるんでしょうね、と、頭を掻き掻きポンと言ってくれるので、
私も変に気負わずに、知ったかぶりをする必要もなく、本当だよね、僕もわかんねーや、と笑い飛ばせた。
妹も私と弟君がアホみたいな会話をして笑っているのを笑顔で見てた。
花火大会と、あいつらから逃げ切った引っ越しの成功と、妹の旦那と、人生、思い返せば楽しい事もあるんだ、とあらためて思ったんだ。
そして今、30年以上連れ添ってくれた妻。自分はあんなにニコニコ出来ないって位、妻はどんなに辛くても、笑顔なんだ。結婚前が悲し過ぎた。妻が今、幸せなら私も幸せだ。
結婚をすると、兄妹の絆も違って来る様だが、世間の皆がそうなんだろう。もちろん、仲が悪くなるとは限らず、新しい価値観が入って来るんだ。
それは、相手もそうなんだろうな。
妹の方が先に結婚したが、私はなんだか親心ではないが、ひと安心だった。
2DKの独り暮らしの家に帰ると、日に日に自分がだらしなくなって行ったのが分かった。部屋はとっ散らかるし、洗濯もゴミ出しも、決まりは守ったがいい加減になって行った。
今までは、妹の分も、と何かをチャチャッと作ったりしていたが、ひとりだと、なんでもよくなる。
妹は、旦那と新しい生活を始めた訳で頑張っているだろう、が、私は外でメシ食って帰宅すると、シャワーも適当、歯みがきも適当になってしまった。
そしてそれはすぐに妹にバレた。お兄ちゃん、ちゃんと食べてるの?と、よく弟君と3人で食べようと呼ばれたり、昼間、部屋の掃除に来てくれてた。
これじゃいけない、と妹や弟君の生活を考えたら、しっかりしなければ迷惑をかけてしまう、亡くなったあいつらみたいになってしまったらダメだ、と、また生活態度を改める様になったんだ。
そんなこんなしているうちに妻と出会ったんだ。
で、まあ色々あって結婚したんだ。ここは省略で。
いや決して妻を省略しているのではなく、プロポーズとか、人の話は聞きたいが、自分の話は顔から火が出るので、そのへんはそういう事で。なんか変な汗が出るな。
妻は、何か、やはり温かい家庭で育った人とは違うものを感じたんだ。ニコニコしていても、寂しそうなんだ。他のヤツには解らないだろう。
私の方が惹かれて行ったんだ。この女の子、妹とはタイプは違うが、何か心に闇を抱えているな、と思ったんだ。多分、そういう事はそういう目にあった人にしか解らないんだと思った。
妻から聞いた事。マクドナルドに入った事ない(家族はあるらしい)。妻以外の兄弟姉妹とご両親だけで旅行に行って、妻だけ留守番させられた。
ウン人家族なのに、出前のお寿司を取ると、妻の分だけない。家族全員、妻を無視して来た。学校行事に親御さん来た事ない。
担任の先生の家庭訪問と三者面談の時だけ初めて、妻の事を先生と話す。
お前なんか生まなきゃ良かったと、面と向かって何度か言われた。修学旅行はどの学校の時も行かせてもらえなかった。
もういい、もうそんな辛い話、しなくていい、こんな私ら兄妹でさえ、修学旅行には行かせてもらった。
妻はこれらの話を笑ってするんだ。でも目は真っ赤なんだ。真っ赤なんだよ。気が付いたら妻を、泣きながら抱きしめていた。
妹だって1度位は少ない小遣いでマクドナルド位は行った事あった、私も、殴られはしたけど、友だちとハンバーガー食った事位あった。
私は、訳を話さずに、妹夫婦と妻(まだ結婚前)と4人でマクドナルドへ行った。
妻は、嬉しそうにはしゃいだ。何を注文していいか解らなかったらしいので、妹と同じ物を注文した。
楽しい時間を過ごした。4人と言えば、花火大会以来だ。あの時のハンバーガーは今でも妻は忘れられないと言ってくれるんだ。
それからも時々、妻とマクドナルドへ出かけた。
この出来事が大体、昭和62年になる頃だったか。妻(まだ彼女)は、そんな家庭で育ったため、結婚に良いイメージがなかった。
よく妹に、結婚に踏み切れたのはなぜ?と聞いていたらしい。妹は、たったひとり、真剣に好きになった人に、もし自分の過去も理解してもらえたら、
その人と夫婦になって、生きていきたいと言った様だった。ただ、両親の様な夫婦にだけはなりたくないとも言っていた様だ。
ここに出てくる4人とも、子供が嫌いな訳ではなく、子供のいる健全な家庭を知らないまま大人になってしまっただけだった。
私たちはお付き合いをし、翌年の昭和63年に結婚した。妻の方のご両親(ご家族)に挨拶に行った時、とても感じ良く接してくれたので、
妻の言う様に、無視されて生きて来たなどとはすぐには信じられなかったが、
私に笑顔で話して下さっても、並んで横にいる妻(彼女)に笑顔でも、
目が合ってない時や、とっさの時のご両親の彼女への態度ですぐに解った。私が居なかったら、失礼だがこんなに愛想のいい人たちじゃないんだろうな、と。
彼女がしばらくご両親ご家族に私を会わせたがらなかった理由も、なんとなく解った。
親から逃げて来た私には、寂しそうな彼女の方が本当の姿なんだろう、とはっきり解った。
結婚の承諾はあっさりといただいた。娘をよろしくお願いします、とは言っていたが、
あのご両親の笑顔は、こんないらない娘、さっさともらってくれ、という雰囲気だった。
一礼して、彼女の家をおいとまして、帰りに歩きながら、彼女と手をしっかり繋いで、幸せになろうな、と伝えた。彼女も涙目だった。
けれど、まだ若かった私は、この時気が付かなかった。妹も幸せな話しかしないので、
それが私へ心配かけまいとしてあえて言わなかった事とも思わず…。
いや、平成の30年間が不幸だったとは言わない。が、妹夫婦も私たちも、
温かい家庭を知らない者同士が結婚するというのがどういう事なのか、結婚にどれだけ夢ばかりみていたか、現実を突き付けられた。
お互い、相手に精神的な要求を強く持ってしまい、両方が甘えてしまう側になり、
それもいけないと反省して、相手の要求に答えてあげようとするとズレが生じてしまう。
お互い、私は我慢した、私は譲った、と、褒める意識が自分の方を向き、相手は甘えた、相手は自分を通した、と否定する意識が相手の方に向けられてしまう。
これは、ひっくり返せば自分と相手を入れ替えてもそのまま当てはまる事なのに。若い時は、融通が利かない。
それでも人間、毎日毎日気を張って生活しているわけではないので、
なんとかその年齢なりに、下手くそなりに、ケンカしたら仲直りをしながら、31年、夫婦をして来られた。
お互い、これだけは、を1つずつ約束した。妻は、お願いだから話しかけたら無視しないで、仕事でどうしてもの時は合図してほしい、だった。
私は暴言を吐いたり人の悪口を言ったり嫌みな事はしないでほしい、だった。
お互いの内容は、結局、親への願望だった。悲しかったが、それを守る事で人を信用出来たのだった。
私は、長い文章を長期に渡って書いた事がないので、500レスも書けないかも知れない。
でも、出来るだけタイトル負けしない様、この令和まで書きたいと思う。
昭和ははっきり何年か思い出せるが、平成になると何年だったか少し怪しい。
妹夫婦や私たちの笑い話なども書いてみたいと思う。
暗い話ばかりも気が滅入るので、前向きな話も書いてみたい。
まず、独り暮らしになった2DKに、彼女は、迷惑じゃなかったら、そこで一緒に暮らしたいと言ってくれたので、そうしようと思ったら、妹に、お兄ちゃんの無神経!と注意されてしまった。
お姉さんは新婚の花嫁さんなのよ、妹の私と暮らしてた所より、新居の方がいいじゃない?と。
ああ、そうか。そうだな。妻は、引っ越すとお金がかかるから、ここで充分よ、と言っていたが、やはり、新居の方がいいだろうと思い、
叔父さんからもらったお金もあったし、私たちも彼女の希望もあって結婚式は挙げないで、
妹夫婦と同じ様に、入籍、ウエディングドレスの写真、あ、プロポーズと指輪交換が抜けた、で、結婚しましたのハガキを出す、になり、
少し広めの2DKに引っ越す事にした。結婚って忙しいな。それでも私は昔、妹と親から逃げた後のヒヤヒヤした事を考えれば、こんなに堂々と未来を考えられる引っ越しは、幸せだと思った。
妻も夢を描いてくれている様で嬉しかった。
あの頃と、50代後半の今が幸せだ。
お金の話を時々書いてなんだが、あの昭和63年(1988年)頃から平成元年(89年)、平成2年(90年)位までだったろうか、
銀行に、変な話、百万円預けると、利息が6~7万円付いた。本当に、今からは想像つかないだろう。300万も持ってたら、1ヶ月分の家賃込みの生活費位の利息だった。
それでも、妹夫婦も私達夫婦も、特別な贅沢はしたくはなかった。
妻の、女友達さんから聞いた話だが、東京の六本木という洒落た街に、よくおめかしして出かけていたらしいが(妻はそんな友達を特に羨ましがっている様にも見えなかったが)、
若者が集まってお酒を飲むお店で、ビンゴゲームが流行り、1番の人の賞金が、現金200万円だったとか。はあ~。その人がその現金をバッグに入れて帰宅しても、誰にも狙われもしなかったとか。
なにもかも泡となって消えてしまった昔の話だ。私達4人の誰も経験のない事で、逆に今の様に1円でも10円でも大切に生きる時代には、そんな狂った金銭感覚は身に付いてなくて良かった。
新居生活を始めて2~3ヶ月経った頃だろうか。昔の、それも食べ物の事を覚えている私もセコいかも知れないが、
好き嫌いはきちんと話しておいた方が良い、と学習した出来事があった。
冷蔵庫に、パイナップルゼリーとピーチゼリーが入っていた。私は妻がパイナップルが嫌いだとは知らなかった。自分の中ではパイナップルゼリーが1番美味しい、ピーチゼリーは2番目、だった。
そうだ、美味しい方のパイナップルゼリーを妻に取っておいてあげよう、と、風呂上がりに、「ゼリー1個もらうよ~」と言って、
私が上がった後、妻が風呂に入っている時に、ピーチゼリーを食った。
風呂から上がった妻が冷蔵庫を開け、「あ~、ピーチ取られた~」と笑いながら言うので、へ?取られたって?と思い、妻に聞くと、
自分はパイナップルが嫌いで、桃は大好きだと話した。つまり私は妻が楽しみにしてた方を食った訳だ。
いやいや、パイナップルの方が美味しい方だと思って嫁ちゃんに取っておいたんだよ~、と話して初めて、
お互いの好き嫌いが解った。そんなやり取りも、そんな事あったね、と今、30年前を思い出して、懐かしく笑い話になっているんだ。
こんなゼリーの話でも、4人で集まると盛り上がった。嬉しかったんだ。
妹は、お兄ちゃん、お姉さんにゼリー1個買ってあげてね~などと言い、妻は、妹ちゃん、ありがとうね~と話しているんだ。
こんな他愛もない会話が楽しかったんだ。本当に、楽しかったなぁ。
義理弟君が、「家族っていいですね」とポツリと言った。
もちろん弟君には何の悪気もなかった、が、みんなその言葉を聞いて、4人とも黙ってしまった。
弟君は慌てて、あ、すみません、せっかく楽しかったのに、と謝るので、皆、いえいえ本当に、家族っていいものよね、と話した。
弟君も親の愛情を知らずに大人になった人だったから、気持ちが解るんだ。
あの時は全員20代だったな。バブルがどうより、私は妹を含むこの4人に繋がりが出来た事を、神様に感謝したんだ。
正直、両親と暮らしていた時は、神様を恨んだ。子は親を選べないけど、親(ひと組の夫婦)は、子を作らないという選択肢があったじゃないか、と。
4人は少なくとも、子供を作ってその子に愛情を注げなかったらどうしよう、という恐怖心があった。
どうする事が子へ愛情を注ぐ事なのか、知らないからだったし、自分たちの様な思いをさせたらどうしようと常に、親と子の関係に悩み、
他人さんを見て子供を育てるというのも違うと思った。
妻も、妹も、結婚してしばらくは働いていた。何しろバブル全盛期で、パートのおばちゃんにまでボーナス百万円出てた時代だった。
私や弟君の収入で、それぞれの家庭が、大人ふたりなら生きていけると、専業主婦になってもらった。習い事がしたかったらしていいよ、と話したが、
妹と妻は、二人でお茶したり出かけたりして、十代の頃出来なかったお洒落をしたり、それも本当に値段の安い物を工夫して、女の子二人、可愛くしてたっけな。
妹の方が先に、初めの方のレスに書いたアイドルグループ、光ゲンジさんのファンになり、妻も影響を受けて、コンサートへ行ってたっけ。
私は、スターさんに焼きもちも何も、妹が、妻が、自分の人生に、こんな時間が持てるとは思わなかった、と、楽しそうに生活している姿を見るだけで良かったんだ。
まぁ、当然、弟君と二人で酒を飲む機会が増えたが。
妹が、そのスターさんのナントカいう、真ん中の男の子のファンで、妻は、痩せてスラッとした、髪型が半分前に、半分後ろにしている人のファンだった様だった。
弟君は、ねぇ、お兄さん、僕らという夫がいるのにね~。と、ちょっと焼きもちやいてたかな。
まぁ今のうちだけだろうし、はじめは二人ともコンサートなんてハードル高かったみたいだったのが行ける様になったんだ、
こんな人生経験もあっていいんじゃないかな、みたいな事を話してた。懐かしいな。
やがて、湾岸戦争で、日本の好景気までひっくり返ってしまった。
令和の今ほどでないにしろ、ゆっくり不況の波が押し寄せて、店は潰れるわ、銀行は金貸してくれないわ、皆、財布のヒモを閉める様になった。
確か平成元年の4月1日から消費税が3%で導入された。いちいち税金払うくせなんかなかったので、みんな文句言ってたが、
8%の今や、今度10%(1割)になる事を考えたら、3%はまだマシだったな。
それでもバブル時代の金銭感覚の人は、財布のヒモなんてしめなかった様で、その後、キリギリスになって行った気がする。
どうしようもない事は、どうしようもなかった。
話が前後したり飛んだりするが。
昭和63年の大みそかから年が明けて、まだ昭和64年元旦だった。誰も元号が変わるなんて思ってなかった。
1月7日までは昭和64年だった。そして昭和天皇後崩御の発表をテレビで見た。1月8日から、新しく、元号が平成に変わった。
1つの時代が終わって、また1つの時代が始まるんだな、そんな事を思っていたのが30年半前か、と思っていたら、
今年は5月1日から令和元年。20代後半だった私も50代後半になってしまった。
けれど、特に戻りたい時期もなく、これからオジサンからおじいさんへ年を取るんだな。
4人それぞれに色んな事があったし、これからもあるだろう。
子供の頃に良い思い出がないからか、本当に落ち着いた今が、あの結婚前後の頃と、人生で幸せを噛みしめられる2大時期かな。
そういえば、昭和63年後半だったか、井上陽水さんがテレビコマーシャルで、車の窓から「皆さん、お元気ですか」と語りかけていたが、
ある時期から声がカットされ、口パクになっていたっけな。天皇陛下のご容態が良くないからと自粛、なんでも自粛ムードだった。
お若い方には、何の事か解らないと思うが。まだバブル全盛期の中の自粛という、不思議な雰囲気だった。
冷蔵庫のゼリーの話から湾岸戦争の話にまで飛んでしまった。
4人とも、結婚してそれぞれに夫婦で暮らして、ささやかでも幸せだった。それと同時に、両親は結婚して幸せになれなかったのはなぜなのか、
いくら考えても解らない。子供が嫌いだったのか?子供が出来ない様にする知識は昭和の30年代にはなかったのか?
子供を育てるというのがこんなに大変だと思わなかった、と言うなら、どれだけ子育てを甘くみてたのか?なぜ最初のひとりで子供をおしまいにしなかったのか?
また両親自身、祖父母に酷い扱いを受けたのか?私のところの様に、妹も私も同じ様に邪魔者扱いするならまだ百歩譲って理解したとして(いや正直、二人の子供をもうけてから、が解らないが)、
妻の様に、他に兄弟姉妹がいて、妻だけ家族の勘定に入れてやらなかった悪意はなぜなのか?
子供を持たずに生きてきて、解らない事のまま終わるのだろうか。
個々のケースで事情が違うのは解る、が、人間ひとりこの世に誕生させて、何も解らずオギャーと生まれた子供そのものに、なんの罪があったのだろうか。
私はこんなふうに頑固だが、弟君は気のいい、人当たりの軟らかい人だ。
男二人で酒を飲んでた時、色々話したな。妹と妻がアイドルのコンサートに行く話の時、
ねぇ、お兄さん、私達という夫がいるのにねぇ、と言う時も、文句を言ってるって顔じゃないんだ。なんとも優しい、遠慮がちな笑顔って解るだろうか、
こちらも微笑んでしまう様な、そんな人なんだ。
弟君のご家族も特徴があるので詳しくは書けないが、彼も親で苦労した人だ。
妹を大事にしてくれるのも、親父さんがお袋さんにつらく当たってたのを見るのは耐えられなかったらしい。親父さんは足で、お袋さんの顔を蹴ったりと、失礼だが酷いと思った。
お袋さんはいつもケガをしていたそうで、そんな中でも息子の弟君には優しかったそうだ。紫に腫れ上がった手で、弟君をなでたりギュッと抱きしめてくれたそうだ。
弟君は中学生の時、親父さんがあまりにも酷いので、お袋さんを庇おうとしたら、体が小さくて逆に殴り飛ばされ、何針も縫うケガをし、お袋さんを助けてやれなかった、と、
下向いて泣いてた。他の兄弟姉妹さんも何も出来なかったと。
私はむせび泣いている弟君の肩を抱き、背中をさすってやる事しか出来なかった。
つらい事を聞いて、ごめんな。
妹夫婦がうちに来て、妻と4人で夕飯食おうってなった時の事。
女の子二人が台所でなんか作ってくれて、私と弟君は仕事の話やらなんかしていた。
台所からふいに、妻と妹の揃った歌声が聞こえて来た。
「♪みんないつだって~自分に精一杯~すねてちゃ~何も起こらない~♪」と明るい歌だ。
弟君が、え、それ何の曲?と聞くと、二人はアイドルグループの歌だよ~と楽しそうだ。
なんだか明るい二人が嬉しかったんだ。弟君も、二人が楽しそうにしている姿を見るのは幸せだと前に言っていて、
私自身、25才より前には戻りたくないので(この曲が世間で流行った時、私は25ではなく、もうちょっと年いってたが)、
この一軒の家の雰囲気と、かつての私と妹がいたあの一軒の家の雰囲気とでは、雲泥の差だった。
4人全員、こうして繋がれて本当に私は幸せだと思った。
妹が、妻が、家の中で鼻歌が歌えている家なんだ。あったかい家だと胸張って言えるんだ。
妹、嫁ちゃん、弟君、良かったな。
困った。バブル崩壊後、解体屋の仕事が減って来た。
皆、それまでは、新しく家を建てるなり買うなりして、古くなった建物は壊して更地にして駐車場にして人に月いくらで貸したり、
あるいはアパートを建てて家賃収入を得たり、とにかく古くなった家は壊す人たちが多かったが、
いかんせん、デカイものを壊すには金がかかるため、バブル崩壊後は皆、修理してまだ住もう、という人が増えた。
解体料金を安くすると会社の儲けが減り、辞めていく人が増える。
自分としては何年も世話になった所なので、簡単には辞められなかった。が、背に腹は代えられない。
さて、どうしたものか。妻に安心して暮らしてほしい。どうしたもんじゃ???
結局、景気の悪い時もあるという事で、しばらくはそこに在籍して、現場仕事なので遠くまで行く事もあるという(これは前から知っていた)事で、
続けさせてもらった。お世話になって来たんだ、頑張ろう。月によって収入は違うが、生きていけないほどではなかった。妻は嫌な顔1つせずに、
いつも通り、いいよ、いいよ、と笑って答えてくれた。
そのうち、商店街のパン屋さんでパートを始めてくれた。彼女は、家族に無視されて生きて来た、私とコミュニケーションを取る事をとても大切にしてくれた。
何も話してもらえない方がイヤだと、何度も言った。
どうも暑くてかなわない。ポツリポツリと書き始めた思い出日記のつもりだったが、500レスまで書けるのか、
はたまた、何年かかけて小さな事を書き続けて500でまとまるのか、自分でも予想がつかないが。
妻とは色々話したなぁ。小学校の頃の通信簿の事や、長い休みは親が、特に母親が私たち兄妹をめんどくさがり、自分だけ夏休み中、実家に帰った事、
父親はお盆休み以外は昼間居なかったので、友達と遊んだり、妹とテレビを見たり、今考えたらインスタントラーメンと菓子パンと果物で過ごしていた気がする。
夜は父親が帰って来ても怖いだけで楽しくもなんともなかった。ただ、今にして思えば私たち兄妹は、まがりなりにもこの親父のおかげで暮らせてたんだな。
母親は本当に家庭を築くつもりなどなかったんだろう。だけど妹とふたり、それなりに互いの友達も交えて遊ぶのが楽しかったんだ。
私たち兄妹が通信簿を持って帰ると、冷たい顔の両親は、それを見ながら罵声を浴びせる。
「こんな成績しか取れないの?」「バカじゃないの?」「恥ずかしくないの?」と容赦なく、見終わると後ろに放る。
私は泣きそうな妹の手を引き、放られた通信簿を拾い、部屋へ行く。
妹の通信簿を見て、「お、2から3に上がってる、すごいな。俺より成績いいな、よく頑張ったな。」と褒めると、妹は恥ずかしそうに笑ったっけな。
そのうち、中学生になった妹が、私を褒めてくれる様になった。親には見捨てられても、私たちはお互いを見捨てなかったんだ。
が、この話を妻に話してから、しまった、と思った。
妻は、前にも書いた様に、家族に完全に無視されて育った。誰も妻の通信簿を1度も見た事がないそうだ。誰も、1度も。
妻以外の兄弟姉妹とご両親が、頑張ったね、とか、あ~下がっちゃったね、とか、スゴいね、などと盛り上がっている時、妻だけ蚊帳の外だった。
1度、妻の方から思い切って、「兄弟姉妹ちゃん、通信簿見せて。」と笑顔で言ったそうだが、母親が完全無視をするので、兄弟姉妹さんも無視したそうだ。
なぜなんだ?と私は今更あちらのご両親に聞きたい。妻は特別、何かが極端な人ではない。
オール5でもオール1でも、特別人目を引く美人でも(嫁ちゃんゴメン、私にとっては1番の美人だよ)、ましてや特別ブスでも、言動が目立つ訳でもなく、むしろ控え目な方だし、話してて嫌みがない。
妻は思い出した様にうっすら涙ぐんだが、すぐに私たち兄妹を気遣い、
「後ろに放るなんて、失礼だけど、お義母さん、酷いね、妹ちゃんもあなたも悲しかったね」と言ってくれたんだ。
私は妻の方がなんぼつらかっただろうと思った。
平成は、災害が多かったと言われるが、事件も事故も多かった。
昭和の頃とは、時代背景が違うため、何もかも違った。
万引き少年を捕まえ、母親を呼ぶと、母親はそこの店に謝るでもなく、「だからこの店はやめとけって言ったでしょ」と息子を叱る…。
おい、違うだろう、泥棒はいけない、と教えるのが親だろ、という声も加害者のバカ親子には届かず。
自分もこんな親に育てられたらと思うと、別の意味でゾッとした。
景気が悪くなると犯罪が増える。
まっとうに生きてりゃ、お天道さんと米の飯はついてくる、なんてのは死語なのだろうか。
皆、バブル崩壊後は死んだ目をしてた。それでも明るい人は明るかった。みんな救われる人って、必ずいたな。
私はあの狂った時代へ戻りたくはない。
妻は結婚した時、ご飯の炊き方も知らなかった。無理もない。母親や兄弟姉妹と並んで台所に立った経験が1度もなかったそうだ。
食事はどうしてたの?と聞いた。
こんなに差別されて生きて来たんだ、とやりきれなかった。
妻以外の家族は食卓につく。妻は少し離れた所で、逆さまにしたみかん箱の上に、ふちの欠けた茶碗にご飯と、塗装(あってるか解らないが)の剥げたお椀にみそ汁と、
たくあんが何切れかと、ワラに包まれたままの納豆が置かれ、他の家族はすき焼きだの揚げ物だの食ってたそうだ。
昭和の40年代は、納豆は縦長のワラにくるまれている物が多く、今の様に発泡スチロールの入れ物はなかったか、あっても珍しかった。
妻はひとりで、家族と口をきく事もなく、ワラをほどいてひとりで納豆をご飯にのせて、ポツンと食ってたんだ。
私たち兄妹の様に、家事を丸投げされて来た者は、仕方がなしに一通り出来るまで殴られながらもやらされて、
幸か不幸か、炊事、洗濯、掃除、布団干し、何とか出来る様になってはいた(愛情で教わったのではなかったのが悲しかったが)。
私が1つ1つ教えると、妻はお米を研ぎ、味噌を溶き、リンゴの皮を剥ける様になっていき、また妹も、妻を傷付けない様に、色々教え、いつしか、妻は私や妹と台所に立つ事が楽しい、と言う様になり、
もちろん今ではひとりで出来る様になっている。30年も経てば当たり前か。
話に聞くのと実生活では、相当違うんだろうな。私たちが小学生の夏休みに、自分だけ実家に帰ってたあの母親とかいう女が居ない間は、
父親の朝と晩のメシを作ったら、あとは遊びたくて、インスタントラーメンと菓子パンと果物にして、妹と手抜きして遊んでた頃、
妻は、世の中にあるうまい物を知らずに子供時代を過ごしていたんだ。
妹は洋服などどうしてたの?と聞いたらしいが、服は全て、どこのお宅でもある事かも知れないがお下がりで、
靴下から下着まで、洗濯してもらった事がないため、自分で洗ってたらしいが、いくら兄弟姉妹でも下着のお下がりはないだろうと思ったが、
妹の、お兄ちゃん、私たち下着はまっさらのを買ってもらったよね、という涙目を見て、妻の壮絶な人生にあらためて喉の奥が痛くなった。
結婚前に4人でマクドナルドへ行った時、あんなにはしゃいだね。嬉しかったんだね。
私の稼ぎで、妻の知らない美味しい物をこれから食べさせてやりたい。心からそう思ったんだ。
人様の親御さんを悪く言うのがいけない事位は解っているが、なぜ妻はこんなにまで家族の勘定に入れてもらえなかったんだろう?
まさか面と向かって聞けはしないが、聞けたとして、いいえ、娘はきちんと家族として暮らし、育てましたよ、と言うんだろう。
嫁ちゃん、これからだよ、人生、楽しい事があるのは、これからなんだ!
きっと私たち4人は、4人とも皆、結婚して初めて、人間らしい生活が送れ、人を信用する事が出来たんだと思っている。
ある日、嬉しい報告が届いた。
昔、妹とそれぞれの友達と4人で花火大会を見に行った事があったが、
あの時の私の友達と妹の友達が、なんと結婚します、と。ずっと付き合ってたらしい。足掛け10年か。
10代後半だったのが、20代後半になったな。おめでとう!
妹は新婦側の、私は新郎側の友人という事で、二人とも生まれて初めて結婚披露宴に呼ばれた。
特に人前で何かやる様な事はなかったが、初めての経験のため、ご祝儀はどの位かを、
出席経験のある弟君に聞いた。妻に訳を話し、決して仲間外れにする様な事じゃないから、
日曜日でもあったので、私たちが披露宴でいない間、弟君とメシでも食っててな、と話し、妹と出かけた。
結婚披露宴ってスゴいな。豪勢だしみんな着飾ってるし。芸能人の集まりの様に見えた。
妹も自分も、本当ならこんな事してたのかな、と帰る道々話した。
素敵な、感動的な披露宴だった。
以前のレスにも書いたが、私はこういったところへ長期に渡って長い日記や文章を書いた経験がないので、
時系列順に上手く書けず、頭に浮かんだ事をその時に書くしか出来ず、省略した事も含め、ずい分と話もあっちこっち飛ぶし、
どうだったっけな、と思い出しながら書いている。読み返してみたが、かなりとっ散らかっている。日記にしても曖昧だったり、かなりはっきり覚えていたり、
矛盾している様に読める事も書いているが、今の生活の中で書いているので、
こんなものでも読んで下さっている方、ありがとうございます。何しろボソボソと書き始めたので、酷く下手くそですが、
色んな人の色んな人生の1つ、と思っていただければ幸いです。
義理弟君の実家のお義母さんからは、弟君へ時々、元気でやってますか、という手紙や果物が送られ、弟君は私たちにお裾分けをくれる。
ありがたく頂戴するが、お袋さんはまだ親父さんの暴力にあっているのか聞いたら、何でも親父さんは…鉄格子の病院に入ったらしい。
お袋さんは、弟君の兄弟姉妹のひとりとその配偶者と暮らしているそうだ。彼はいつもの遠慮がちな、申し訳なさそうな顔で話してくれた。
いつも戴いてばかりで心苦しかったが、妹と私は故郷もないし両親は他界する前に逃げ出して縁を切ったため、ふるさとの物を弟君にあげられなかった。
そして、私は結婚して半年、1年、2年と経つうちに、ずっと気になっていたある事に、はっきりと気が付いたんだ。
妻の実家から、年賀状の1枚も、電話の1本もない。いくら勘定に入れず無視して育て、結婚して出て行って厄介払いした気でいたか知らないが、
私という夫になんの接触もはかろうとしないとは、私すらあちらは嫌いなのだろうか。
いや、私と関わる事で妻と接触するのが嫌なのだろう。どこまで悲しい家族なのだろう。妻は何も言わない。
ご家族の皆さんはお元気なの?と聞いてみたが、「電話しても、私の声だと分かると切るから」と。
もとから亡くなっていないのと、健在なのに無視されるのと、どちらが酷な話だろう。
けれど妻は、いないものと思われてるならそれでいいから。と明るく話すんだ。
私や妹に、両親の墓参りは行かないのか聞かれたが、場所だけ叔父に聞いており、1度も行ってない。
不思議なもので、皆、自分の家族の話になると、毒親に育てられた者ほど、なんとも思わない。
相手の親御さんの方が気になるのだった。
昔、給料日に妻と中華料理屋へ行った事があったっけ。ゼリーの出来事の後だった。
妻は中華料理屋も当然初めてだった。自分は解体屋の先輩に連れてってもらった事があった。
酢豚を注文したら、案の定、パイナップルが入っていた。私はわざと、向かいに座っている妻にパイナップルをホイッと数個、笑って置いた。
すると妻も箸でパイナップルを私の前にまとめて返品して来た。笑ってる。しばらくパイナップルは、私たちに左右を往復させられた。
食べ物で遊ぶのはいけないので、お互い笑顔だったが、そろそろやめようと思い、私がまとめてパイナップルを食おうとしたら、
妻はニコニコしているのに泣いていた。こんな普通の事が嬉しかったんだ。
珍しく、妻はパイナップルを1個食べた。苦笑いして、やっぱりおいしくないや、と小さい声で泣き笑いの顔で言った。
お店の方、ごめんなさい。面と向かって言ったりしません。私が全部食べます。
二人でお店を出た。私も妻も、家族で外食するのは楽しい事なんだとしみじみ思ったな。
妹も、弟君とこんなやり取りをしているのかな。幸せな時間を、これから取り戻そうと思った。
私はたまに仕事で遠方に駆り出される事があった。若かったからだろう。今はないが。弟君も時たま出張があった。
1週間以上家を空けると、妻は不安になるらしく、病院で安定剤をもらっていた。無視される事のつらさとは別に、ひとりぼっちになる事にかなり恐怖心があった。
私という信頼している者が2日以上いない事に、安心して生活できなかった様だ。50を過ぎた今はないが。
そんな時は、妹に、都合のつく時だけでも来てもらった。
弟君がひとりになるのが申し訳なかったが、逆に、弟君が出張で妹がひとりになる時は、妻がおじゃまする、というパターンが出来ていた。
夜、女の子ひとりは怖いだろう。ふたりなら心強い。私は少しは融通がきいたが、サラリーマンの弟君はそうはいかなかった。
こんな時も、妻と妹が一緒にいるのは安心だった。二人は、アイドルグループの音楽を聞いたり、誰にも話せなかった女の子同士の話などをしたそうだ。
二人がウマが合う、気の合う二人で良かった。弟君が理解ある人で本当にありがたかった。
妻は、パン屋さんのバイトも明るいうちに帰宅させてもらえる様、私からお願いした。妻のバイト代は緊張してまで手に入れなくても良かったんだ。パン屋さんに出来るだけ迷惑がかからない様、6月を中心に働かせてもらった。
私の仕事には、以前書いた様な毛虫退治の他にも色々な経験がある。もちろん、どんな職業でもそうだと思うが。
家を一軒解体するにあたり、きちんとお祓いをしてもらう。人様が暮らしていた所を、法に基づいてとは言え壊す訳だ、作業をする者もケガをしません様に、
事故など、何事も起きませぬ様に、現場のみんなで手を合わせてから作業にかかる。
新人の頃はよく先輩にビビらされたものだった。この季節だから書く訳ではないが、
床下から白骨死体が出て来たりするぞ、だの、今で言う事故物件だぞ、だの、当時18~19才の私はお恥ずかしい話、怖がった。
まだ両親が健在だった頃だった。
両親が他界してからは、多少の曰く付きの家にはビビらなくなった。人はいつか必ず天に召されると割り切れる様になったのだろう。
けど、先輩のビビらせ話より、現場のリーダーさんが笑わない話が一番怖かった。
私は怖い話を書くつもりはないので、具体的な事は書かないが、
ある先輩が、そう言えば、あの例の家もこんな感じでしたね、と言いかけた時、リーダーさんが青ざめて、
「おい、やめろ」と言い、先輩がすみません、と言ってその話が終わってしまった事があった。
私は何の事か解らず、例の家って何ですか?と聞いてみたが、リーダーさんに、「おまえも、知らなくていい」と言われた事が一番怖かった。
未だに真相は解らない話だった。
現実の方が余程怖い。少なくとも、妻、妹、妹の夫は、人間や自然の災害が一番怖いと学習して生きて来た。私もだが、私はお陰様で、ガキの頃から友達には恵まれていたんだ。
悪い事は嫌いだったので、自然と仲良くなるヤツは、似た様なヤツらだった。私は決して優等生ではないが、ワルでもなかった、と思う。イジメもどちらでもなかった(イジメた方でもイジメられた方でも)。
頑固なため、ガキの頃ほど友達と時々、衝突したが、家で両親を反面教師にする様になり、妹と同じ様に一瞬私にビビる顔をされると、慌てて「ごめんな」と謝る様になり、それ以上の大ゲンカにはならずにすんだ。
前のレスにも書いたが、友達を失うのが異常に悲しかったし、ひとりぼっちになるのが怖かったんだ。妹を守るためにも友達は大事にしたかったんだ。
弟君も酔った時、似た様な事を言ってたっけな。乱暴な親父さんからお袋さんを守るためにも強く有りたかった、と。が、彼は何しろ人が好い。妹が好きになったのも解る。本当に、遠慮がちで人に優しいヤツなんだ。
妹が彼に惹かれていくのに時間はかからなかった様だったが、
妻はしばらく私に心を開いてくれなかった。きっとこの人(私)も、いつかは私を無視して別れて行く人なんだ、と諦めを前提に接していたと、結婚して何年も経ってから話してくれたんだ。
家族に殴られたり暴言をはかれて育つのも嫌なものだったが、全く存在を無視されて生きて来なきゃいけなかった妻の人生の絶望と悲しみは、いかばかりだっただろう。
私たち夫婦と妹夫婦の時間や都合が合えばよく4人でメシ食ったりした。学生気分ではないが、私は人生で、あの時期が、戻りたくない時期の中でも楽しかったと思う。
他愛もない話が楽しかったんだ。
なぁ、俺たち、違う親に育てられてたら、今頃こうしてなかったかもな。
そうですよね、お兄さんのお仕事場の怖い話も聞けなかったし。と弟君。怖い話やだ~と妹、私は平気かな?と妻。
給料日前は残り物を工夫して食ったりして、金が入ったら会おう、ってな感じだったんだ。
妻が、売り物にならなくなったパンをもらって来たのや、切り落としたパンのみみをもらって色々作ったっけな。
平成の4年だったか、バルセロナオリンピックの年頃の思い出だった。
ある時、妻宛に、実家から郵便物が届いた。結婚しましたのハガキは出してなくても、友人に出したハガキか、役所で戸籍謄本だか住民票だかで解ったんだろう、
親だ兄弟姉妹だと証明出来れば、結婚して出て行った娘の現住所は解るんだろう。私も詳しくないが。
妻曰く、見た事もない様な優しい文章が書いてあるそうだ。私は結婚のご挨拶以来、妻の希望であちらの方々とは会ってなかったが、
読んでいいよ、と妻が言うので読ませてもらった。本当に、無視して接して来た兄弟姉妹からの手紙とは思えない、温かい文章の手紙だった。
早い話が、親父さんが亡くなり(何の連絡もなかったので妻も私も驚いた)、お袋さんだけになってしまうので、
妻に、同居して欲しいという内容だった。つまり、他の兄弟姉妹さんらは、お袋さんと一緒に暮らす気はない様なのだ。
いつもニコニコして、いいよ、いいよと言う妻が初めて私の前でブチキレた。
ふざけんじゃないわよ…人の事、居ない者扱いして無視して、口もきかずに20年以上のけ者にして来たくせに…今さら何なのよ…
妻は、本当に怒っていた。私も、失礼だが、ずい分な家族だと思った。
妻は、実家の人たちと話し合いに行った。寄ってたかって妻に、母親を見捨てるのか、人でなし、とさんざん罵られたそうだ。
そして、お袋さんは実家を売り、身の回りの物を持って、あんた(妻と私)が暮らしている所へ行くからと、すでに勝手に決めて色々進めていたらしい。
帰って来た妻は私に、1日も早くここから引っ越そうと言い、
妹夫婦にも事情を話し、もの凄い勢いと早さで、私たちはとっとと引っ越したのだった。忙しかった時の事はあまり覚えてないものだ。
しばらくは住民票を移さなかったと思った。昔、妹と逃げた時の様に、住民票に記載されている住所と、生活している居所が違っても罪にならないとかいう法律?を思い出し、
とにかく妻が、完全に実家の人たちと縁を切りたがっていたので、気持ちの解る私の妹と妹の夫は、出来るだけ解らない様な所へ引っ越す事に、大変な協力をしてくれた。
妻はパン屋さんも辞め、しばらくは外も出歩かない様にした。妹だけが話し相手になった。
ふっと妻が気の毒になった。
あちらと面識のない妹が、引っ越して空っぽになった前のアパートを見に行ってくれた。
表札も全部はずして来たのに、郵便受けにはいくつか郵便物が入ってた。そうだ、郵便局にも住所変更の届けを出さなきゃいけないんだった。
届けを出したら、妻の実家に引っ越し先はバレないだろうか、どうしたものか迷ってた。
そして妹が、お姉さん宛にあちらからの郵便物が入ってた、と届けてくれた。
中を見ると、そっちから居場所を教えてくれないなら、行方不明の娘を探して下さいと警察に捜索願いを出す、と、脅迫とも取れる内容の文章が書かれてあった。
私たち4人は青くなった。どうすはれば妻を守れるんだ。
どうすはれば、あのささやかな幸せな生活を妻に送らせてやれるんだよ!
スレ主です。なんとか100レス書く事が出来たので、もう少し頑張ってみようと思います。
こんな酷い下手くそなものを、読んで下さってる方、本当にありがとうございます。
しばらく間があいたりしますが、なんとか書いてみたいと思います。
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