昭和から令和へ
長く生きたな。人生の折り返し地点は過ぎたけど、まだ夢も希望もある。
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きょうも妹はパン屋だ。明日の朝は寒くなる様だし、場所によっては雪が降るそうだ。温かくして過ごそう。
いつだったか、妻がパン屋でバイトしていた時に私が買いに行き、小さな声で「妹ちゃんの好きなパン、あれよ」と教えてくれた事があったな。今は妹はそのパンもほとんど買って来なくなった。
「すぐ売り切れるから。」と妹は言っていたが、やはり思い出のパンなんだろう、目が赤かった。妻がいなくなってから、そう言えばマクドナルドへ行ってない。あんなに妻が好きだったハンバーガーも4ヶ月以上、買う事もなくなった。
いつか、乗り越えないといけない。私は今でも嫁ちゃんが帰宅するんじゃないかと、待っている。妹も、かも知れない。人間、先に進まなきゃと思いながら、楽しかった日々に戻りたいと思っているんだ。
ここを書き始めて8ヶ月、色々あった。途中で500レスも書けないと挫けそうになったが、なんとか書けた。
長い間、こんな下手くそでつまらないものを見捨てずに読み続けて下さった方、本当にありがとうございました。
どうか読んで下さった方、幸せになって下さい。読んで下さった方のおかげで書き続けて来られました。
あなたが永遠に幸せでいらっしゃいます様、お祈りしています。
最後になりましたが、貴重なお時間をさいて読んで下さった事に感謝致します。またどこかでお会いしましょう。
さようなら。ありがとう。🍀
スレ主です。こんなつまらないものを、終わりの方まで読んで下さり、ありがとうございます。
悲しい事は極力書きたくなかったのですが、きょう1日で東京だけでコロナの感染者が47人になったと聞き、青ざめています。本当に、これから先どうなるのでしょうか。
どうする事も出来ず、妹と、とにかく生きていく事、生活していく事を考えて話しています。もうあと1レスで終わるので、普段の通り、「独り日記」で終わらせたいと思います。
妹のバイト先のパン屋は毎日客が来てくれるそうだが、妹が日に日に疲れていくのを見るのは辛い。どうも、思った様にパンが買えなかった人に暴言を吐かれるらしい。店長さんも他の従業員さんも大変な思いをしておられるのだろう。
代わってやれない事がもどかしい。私は妻亡き後、妹しか守ってやれない。いざとなったら辞めていい。妹にまで倒れて欲しくない。貯金をくずして生活していい。出歩くな、と言われてもいるんだ。
なぜ世界中の人が、普段の生活を送れなくなったのか。中国・武漢のウイルス研究所を恨んだところで、私たちは現状をどうする事も出来ない。
除菌、手洗い、うがいなどを徹底し、マスクを手に入れるために並んだり、自分たちで作るしかない。皆辛い思いをしているんだ。
妻や妹の好きな、太陽の国が戻って来る様、精一杯、今出来る事をしてなんとか生きて行こう。
な、嫁ちゃん。そうだよな。
桃缶の叔父も、花火大会で一緒だった、結婚した二人も、妻の事があってから時々、私や妹にメールや電話をくれる。ちゃんと食べているか?妹ちゃん、元気?俺君、病状はどうだ?みんなありがたい。
私は正直に今の状況を話す。やはり皆コロナの事で生活は変わった様だ。それでも忘れずに連絡してくれたりこちらから連絡したり出来る人がいるのはありがたい。
叔父は、本当にあの父親と兄弟と思えないくらい、ヒョウヒョウとしていて話しやすく、冗談もよく言う、緊張しない人だ。思えば、本当に世話になった。
事故物件になった実家の後片付けや、私と妹が逃げ出した事に理解を示してくれ、まだ20代前半で何も解らなかった私や妹に、親の遺産相続などしたくありませんと言った私と妹に、何度も気持ちの確認をしてくれ、
土地を持ってたあいつらの遺産を相続してくれた後、叔父は「俺君たちがあまりに欲がないので、気の毒になってな」と、現金書留を、私と妹に別々に送ってくれた事は今でも忘れない。
花火大会の二人、40年近い付き合いを続けてくれてありがとうな。面識のなかった妻の葬儀にも来てくれてありがとうな。
叔父とこの二人が今、昭和から令和まで繋がっている人たちだ。還暦過ぎの従姉妹のお姉ちゃんも、数年に1回のやり取りがあるな。遠い県にいるので、どうも疎遠になっている。そして、車を貸してくれた法律に詳しい彼。元気でいる様だ。
ここのスレももう終わるんだな。今、世界中が混乱している事でおしまいにするのも悲しいので、私個人の事を残りは書いて行こう。
嫁ちゃん、弟君、生まれて来てくれてありがとう。壮絶な生い立ちにもかかわらず、結婚してくれて、人並みな生活が送れて幸せだった。弟君も嫁ちゃんも、そう思ってくれていると信じている。
色んな事があった。これが私の人生だったんだな。そう思える様になるまでに50数年かかった。若い頃ほど人間は、私の人生こんなはずじゃないと否定していたっけな。
昔から優しい妹、私が毛虫退治で身体が痒くて、痒み止めを買ってくれたのを覚えているか?嬉しかったぞ。妹が嫁ちゃんと本当の姉妹の様に仲良くて、それも神様に感謝しているんだ。
どんな過去も乗り越えなきゃいけない。まさか、まさか昨年秋の紅葉狩りが、嫁ちゃんにとって最期だとは思わなかった。妹とあんなに楽しそうだったのに。
こんな事なら泊まり掛けで温泉にでも行かせてやれば良かった。妹と枕投げしたかっただろうな。もちろん妹も。
嫁ちゃん、もうパイナップルのない世界にいるか?結婚して今年で32年だ。好き嫌いを知ったのは新婚の頃だったな。
妹とは静かに暮らしているぞ。嫁ちゃんのいた頃の賑やかさは、もう戻って来ないだろう。楽しい4年半だった、幸せな31年半だったぞ。嫁ちゃん、ありがとうな。
天国ももう春か?
スレ主です。色々と検索していたら、マスクのない方へ、キッチンペーパーを使った簡易マスクの作り方、というのを見つけました。
これは福岡の方が考えられたそうで、動画も載っています。考案者の方、人助けと思い、こちらに載せさせていただく事を、お許し下さい。
①キッチンペーパーを蛇腹に折る
②両側に輪ゴムを通し、ホッチキスで止める
③キッチンペーパーを広げる
短時間での使用かと思いますが、使い捨てが出来て助かると思います。
考案者の方、写真の使用、お許し下さい。
m(_ _)m
本当は、この様なウイルス問題で満レスにするのは、悲しく残念でもあるが、今はそんな事を言ってはいられない様だ。1つでも役に立つ情報があれば書いていきたい。
昨年7月下旬から、足掛け8ヶ月家にいる。主婦の方の大変さは、1ヶ月や2ヶ月では解らない事も理解出来る様になって来た。
嫁ちゃんも、お袋さんに何も教えてもらえなかったなりに、妹に教わったり、私がデカイ解体に入る前後に教えた事を、嫁ちゃんは頑張ってたんだな。
妹も最近、1回の仕事時間が延びた代わりに、休日が変わったが、またどうなるかわからない。パン屋さんは毎日客が来てくれる。
それにしてもマスクがない。うちは誰も花粉症がいないために、マスクを買い貯めする習慣がなく、ほとんど毎日、最寄りの店に朝から並んで1つ買える状態だ。
マスク並び(変な呼び方だが)はもちろん私担当だ。妹は、朝8時から夜8時までパン屋の日もあり、出来るだけ休ませてやりたい。休みの日、妹は「私マスク並び行くよ、お兄ちゃんにばかり悪いから」というが、疲れているだろう妹に並ばせるのは忍びない。
出口のないトンネルはないと言うが、このコロナウイルス感染終息の出口は、いつになるんだろう。どうか世界中が安心出来る日が、1ヶ月でも早く訪れて欲しい。今まで通りに過ごしたいものだ。
皆同じ事を思っているだろう。特効薬、早く世に出ないだろうか。
1週間書いてなかったな。ニュースを見る様にはしているが、1日中ワイドショーを見ていられるほど暇ではなく、それでも1つでも多く情報を得たい毎日だ。
マスクも朝早く店の前に並ばないと手に入らない。何人家族でもひとり1個しか買えず、妹を優先にしている。私は病院や銀行やスーパーを、1回の外出で出来るだけ済ませる様にしている。
余計な買い貯めはしないが、こんな出来事は、60年近く生きて来て初めてだ。いつになったら落ち着くのだろう。
学校に行けない、友だちに会えないガキんちょらはさすがに可哀想だ。親御さんも大変だろう。
私は遠い昔を思い出し、両親とか言うあいつらと暮らしていた時に今回のコロナ騒動があったらと想像し、ゾッとした。ずっと家にいたら、妹も私もどうなっていたんだろう。母親とか言うあの女はおそらく、私らをおいて、自分だけ実家に帰っただろうし、父親とか言うあの鬼畜と妹を二人にはさせられなかっただろう。
妻は、ずっと24時間家族に無視されて地獄だったろうし、弟君は、親父さんがお袋さんに暴力を振るうのをその度に止めに入って悲しい思いをしただろう。
どうか、世界中からこんな、人の人生や日常生活を奪う様な恐ろしいウイルスは、1日も早く無くなって欲しい。
妹のパン屋も最近は洒落た売り方より実用的な売り方に変わった様だ。妹、無理して倒れたりしないでくれ。
ここもあと7レスになった。開始当時の様に、独り日記として終わらせようと思う。
1年前とは生活もすっかり変わってしまったが、私たちも生きて行かなきゃならない。これからも時々思い出して泣く事もあるだろう、けれど、妹も私も乗り越えなくては。
昨日もマスクをしながらの寂しい墓参りだった。妹は、弟君の事もあったので、私より辛いはずなのに、「もう25年だもの。」と静かに言った。弟君、ごめんな。弟君の事を忘れた訳じゃないんだ。
何の因果か、昨年夏から家で養生する事になり、私の50数年を振り返り、ガキの頃からの事を書き、下手くそな文章に辻褄の合わない内容に話に脈絡もなく書いていたら、
やっと手に入れたと思った幸せが、これを書いている最中に壊れてしまった。けれど考えてみれば、私は幸せだった時期をここに書けたんだ。
それだけでも有り難いと思わなければ。そして、妻も妹も弟君も、幸せになれたんだと信じたい。
これから、そう思って明日からを生きようと思う。嫁ちゃん、妹、弟君、ありがとうな。
もう一度言うな。ありがとうな。
こんなふうに書くと、妹はあまり妻の死を悲しんでいない様だが、とんでもない。夜中に便所に起きると、妹の部屋から小さい声で、「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と聞こえて来る。泣いているんだ。
私の前ではこらえている様だ。自分がしっかりしないと、と気丈に振る舞っているが、夜になると泣いているんだ。
ある時、次の日が休みの晩だったか、灯りがついていたので、「起きてるか?入ってもいいか?」と聞き、「うん。」と妹が言うのでドアを開けると、妹の周りには、妻との想い出の物や写真があった。
一緒に見せてもらった。二人がポニーテールだかの髪型をしていた時、妻が一番気に入っていた髪を留めるカラーゴムを妹は抱きしめていた。「これね、お棺に入れられなかったの。」と。
そうだ、旅立ちの準備をするので、故人の大切にしていた物を入れて下さいと葬儀屋さんに言われても私はポカンとするばかりで何も出来なかった。妹は悩んだそうだ。
お姉ちゃんのお気に入り、一緒の方がいいか、私たちの形見として取っておく方がいいか、よく考えたけど、お姉ちゃんの愛用してた物を全部お棺に入れてしまったら、お姉ちゃんに話しかけたい時に何もないのはイヤだから、これ、入れなかったの、と。
しっかりしている様に見えた妹も、本当に、断腸の思いをしていたんだな。妹、ごめんな。
嫁ちゃん、私も妹も、嫁ちゃんと暮らして来た日々を忘れるなど簡単には出来ないぞ。嫁ちゃんが撮影した昨年秋の紅葉の写真、ここに載ってるぞ。
嫁ちゃんに帰って来てもらえたら、妹も私も、どんなに幸せだろう。
もう3月か。早いな。6日は妻の月命日だ。3ヶ月が長いのか短いのか。ずっと妹と生きて来たんだな。
金、土、日と、妹のバイト先のパン屋は、開店前から行列が出来ていたそうだ。子供さんが休校になり、お母さん方が大変なのだろう。が。
何でも買い占めるのは如何だろう。私も1日中テレビを見ている訳ではないが、テレビでは、普段通りに買い物をする様に呼び掛けている。
私も普段通りに買い物に行き、やっと?トイレットペーパー12個入りを1つ買えた。マスクは会社の人に分けてもらったのが残りわずかなので、それこそ必要最小限の外出に留めたい。
妹は、店長さんの計らいで、接客の必要に応じて戴いている様だが、この様な事態は本当にいつまで続くのだろう。
何百レスか前に、未来が書かれていたら、一晩で読んでいただろう。
けれど、妻の死は避けられたとして、この新型コロナウイルスで命を落とされた方は、どうすれば助けられただろう。私ひとりが騒いだところで、頭のおかしい人扱いで終わりだろう。
世界中に感染する前にどうにも出来なかったのだろうか。今は、静観するしかないのだろうか。
相変わらず妹と、口数の少ない生活を送っている。妹が最近疲れて帰宅するので、倒れたりカゼひいたりしない様に、熱めの風呂を沸かし、きょうもカレーを食った。
「お姉ちゃん、コロナウイルスなんて知らないで良かったのかも知れないね。」「そうだな。」
嫁ちゃん、もうすぐ桃の節句だ。
嫁ちゃんにもらったお雛様の写メだぞ。
あと10レスになってしまった。なんだろう。寂しい様な、終わりにしたくない様な、真ん中あたりまでは、続けられるのだろうか自信もなかったのだが。
とうとう私の会社も、私の様な持病もちは、自宅待機になり、現場も、新型コロナウイルスの感染の深刻な現状を捉え、3月半ばまで作業をストップする事になった。
昨年から私は、仕事に見放されたんだろうか。いやいや自分の事ばかり書いている時ではなさそうだ。私は今までテレビの報道は、ある程度、一部の人たちの損得勘定を優先して報道していると思っていた。
けれど今回のウイルスは、芸能人さんの活動中止や、各方面で取り止め、延期、中止が進められるほどの事態を招いている。大げさでも何でもなく、経済にかなりなダメージだ。本来は、人の命を最優先に書かねばならない事を百も承知の上だ。
妹のバイト先は、当たり前だが皆マスクをし、ビニール手袋をはめ、1つ1つの菓子パンが個包装されて売られる様になったそうで、あのトングだかポングだかでトレー?にのせるのに、今までの様に菓子パンはむき出しで並べられてはいない様だ。
どんな時も人は腹が減る。何としても衛生的な物を売らなければならない。妹は、仕事の量が増えた様で、私は自宅待機、ますます申し訳ない気持ちになった。男でも家事を頑張らねば。
妹は、お姉ちゃんがいたら、お姉ちゃんが仕事量が増えていたんだ、とポツリと言う。そうだな。
ここ数日は病院と事務所でバタバタだった。妹も私も、互いに倒れない様に、そして感染しない様に、行動に気を付けたい。
読んで下さっている方も読んでない方も、どうか健康でおられます様に。
珍しく妹が、小さくクスッと笑っていた。何かと思えば、スマホの写メの中に、3人で変顔をしているのがあり、それを見て妹は笑っていた。
妻も妹も私も、面白い顔をしている。いつだろう。妹は、「お姉ちゃんは変顔してもかわいいけど、お兄ちゃんが一番、変な顔~。」だと。いやいや、あんたらも充分面白い顔だぞ。
「これも、取っておくね。」妹は、妻の写メは、横顔1つ消さない。もちろん私もだが。私たちが笑って暮らしていたのは、やはり妻と妹の明るい声と明るい顔だった。
幸せだった。嫁ちゃん、ありがとうな。こんな面白味のない私と結婚してくれて、妹と仲良くしてくれて。これからも一緒だ。3人で朝ドラ「おしん」を見続けている。先日、登場人物の女性のひとりがドラマの中で亡くなった。
妹も私も、昨年の12月6日の朝を思い出した。人の死は、もう嫌だ。耐えられない。苦しい。今、世間で騒がれているコロナウイルス、もう誰の命も奪わないでくれ。
暗いレスで終わりにしたくないので、妻と妹が気に入っていた携帯時代の待ち受けを載せようと思う。私はスマホが使えずガラホだが、写メは載せられる様だ。
これで少しは読んで下さっている方が心が和みます様に。
ここを書き始めたのは、昨年の7月下旬だったんだな。もう7ヶ月になるのか。
書き始めはなんとなく、思い出せる事を書いて、本当はあまり暗い事は書かずに今日まで昭和から順に書こう、位に思っていたが、書いていくうちに、ひとりで抱えるのが辛くなり、余計な事まで吐き出してしまった。
久しぶりの現場仕事で張り切り過ぎてケガをし、病院で治療をしてもらうために入院したら、病気が見付かったんだった。ケガは短期間で治ったが、病気が少し厄介だった。自宅療養をする様に言われ、ここを書き始めたんだった。
私がここに独り日記を書かなかったら、妻は生きていただろうか。いや、関係ないと思わなきゃいけない。もともと自宅療養をする事に変わりはなかった。
ただ薬の関係で夜中に眠れずにここに書く様になって、妻は妹のところに寝に行く様になった回数が増えたのは確かだ。二人は楽しそうにお喋りしたり、次の日がバイトの日は早く眠ったりしていたが、
こんな生活リズムが妻の寿命を縮めてしまった原因にはならないのだろうか。あらゆる可能性を考えてしまう。私は頑固なくせに、自分のせいで誰かの人生を変えたりするのは耐えられない。
妹も私も無口になってからもうだいぶ経つ。あとどの位、私たちは悲しめば心が穏やかになるんだろう。
以前、このレスの中に間違いなく妻は生きている、と書いた。けれど過去の壮絶な出来事も書いている。楽しかったレスだけ読めばいいだろう。それを考えると、あとわずかでここが終わってしまうのが寂しく、
500レスをとっととうめてしまいたくない気もしているんだ。かといってもう500レス書く気力はない。なんだか牛歩戦術みたいだ。
書くなら残りは、楽しかった事で終わりにしたい。もちろん、世間で起こった事もきちんと書いていきたい。
世間に正体の解らない恐怖を撒き散らしているコロナウイルスとかいう悪魔は、私ら人類に何を警告しているんだろう。
またご年配の方が命を落とされた。気の毒な事だ。私たちは何をすれば良いのか。手洗いやうがいや除菌、マスク、人と距離を空ける、本当にそれで感染が防げるのだろうか。
今のところ、妹も私も行動範囲は決まっている。事務所の人たちも全員マスクをして、事務所内でも、雰囲気が悪くならない様に、お互いを思い遣って距離を空けましょう、と声に出してマスク越しに話す。
私たちに出来る事がはっきり解ればどんなに良いだろう。
商店街でたまにマスクをせずに咳やくしゃみをしている人がいる。もう少し、世の中の事に目を向けて欲しい。あなたが保菌者でなくとも、同じ路上を歩く人の今の心境を皆で共有する事が安心感につながり、望ましいと思う。
妹も私も、妻が身をもってして、命を大切にして欲しいと訴えかけている気がした。何か気休めでもいい、薬になる様なものはないのだろうか。
読んで下さっている方、読んでない方も、どうか、コロナウイルスなんかに負けないで下さい。
嫁ちゃん、お誕生日おめでとうな。嫁ちゃんは2月生まれ、妹が1月生まれ、早生まれ同士、気が合ったのかなぁ。
本当はきょうは3人でお祝いする筈だったな。妹が、お姉ちゃんの誕生日のお祝いをしようというので、ささやかだが、そんな雰囲気を作ってみたんだ。
亡くなった人は年を取らないと言う。嫁ちゃんは年を取らなくていい、お祝いだけさせてくれ。
小さなケーキにロウソクを立てて、妹と二人でハッピバースデーを歌った。こういう時は、弟君の様に歌の上手い人が歌うといいな。
妹は音痴じゃないが、私が歌が下手で調子っ外れだ。嫁ちゃん、よく知ってるよな、下手でごめんな。
ハッピバースデーディア嫁ちゃん、ハッピバースデートゥユー。
妹と二人で歌い終わった。でもロウソクを吹き消してくれる人がいない。しばらく妹は涙目だった。
嫁ちゃん、ロウソク吹き消してくれよ。きょうは嫁ちゃんの誕生日なんだ。でもロウソクはそのままだ。
妹と二人でそっと消した。二人でお金を出し合ってプレゼントを嫁ちゃんに用意したんだ。今年は暖冬だけど、嫁ちゃんは冷え性だから、手袋にしたんだ。
よかったらいつか手袋してくれ、な。妹とお仏壇に置いた。ケーキを置く頃は私も妹も涙でよく見えなかった。
1年前、嫁ちゃんはレースのハンカチを喜んでくれたっけな。今年は喜んでくれたかな。
妻の誕生日の事だけに、1レス書きたかったんだ。嫁ちゃん、もう1回言うな。
お誕生日おめでとう。おめでとう。
妹の夢に妻は出て来たのか。私には来ないぞ。なんでだよ。
私だって、夢の中でいいから妻に会いたい。出て来て欲しい。嫁ちゃんに会いたいんだよ。
ここは、嫁ちゃんと妹の二人がいたから太陽の国、太陽の家庭だったんだ。でも今は違うんだ。
32年だぞ。ポッカリと穴が空いた、生きる希望が無くなってしまった。でも妹だって一生懸命生きているんだ。
明るく前を見て生きていくにも、時にはくじけそうになる。こんなんじゃ駄目だな。
嫁ちゃんの分もしっかり生きて行かねば。いつも見守ってくれている嫁ちゃん、ありがとう。
ここまで書いて来たんだ。あと少しで満レスという時に、悲しい事や緊張の走る事ばかりで終わりにするのも良いとは思わない。
大切な情報などは書くとして、独り日記は独り日記で書き終わらせよう。始めの方は、1レスが短かったな。
私は歌の歌詞やタイトルに「風」と付くものが、もの悲しくもあり、惹かれるものもあった。風という言葉に決して夢や希望や新しい風、などのイメージがなく、
アイドルグループ、光ゲンジさんの「風の中の少年」や、安全地帯さんの「風」などに惹かれた割りには悲しい気持ちにしかならなかった。
そして、妻がいなくなってからは、これらの曲を聴いても、悲しくもなくなってしまった。
妻と妹は、共通して、「太陽」「光り」という言葉が好きだった様だ。そうだ、二人は生まれも育ちも違ったが、生きていて、明るい事に強い憧れがあったんだろうな。
アナ雪の姉が妹に、「太陽の国へお帰りなさい」とか言うセリフがあるそうだが(何度も聞かされて覚えてしまった)、二人がよく言っていたのは、
この「太陽の国」って、幸せな国、幸せな家庭だよね、だと想像している。
こんな話も妹は最近しなくなった。私はよかれと思ってまた余計な事を言ってしまった。
「なぁ、嫁ちゃんと妹でよく、映画のセリフで『太陽の国へお帰りなさい』とか言ってたな、な。」と言ったら、妹は悲しそうな顔で私を睨んだ。
お兄ちゃんのバカ。無神経。私はお姉ちゃんに会えるなら一生、太陽なんかない世界に行ってもいいよ、ってお仏壇の前で言ったのに、お姉ちゃんは、夢に出て来て、
ダメだよ。妹ちゃんは、私さんと、命ある限り生きて。太陽の国にいて。まだこっちに来ちゃダメだよ。
って言ったの。夢の事、黙ってたのはごめんなさい、と言った。
妹、ごめんな。
こんな時期に自分の事など書いていいものかどうか考えている。
確かにここは独り日記だが、私も妹も、国内で感染病が広がっている時に、妻の事があったとは言え、世の中の出来事がどうでもよい筈はなく。
ただ、誰にもどうする事も出来ないのだろうか。お医者さんも専門家さんも必死で頑張ってくれているんだろう。私はとにかく、妹を守らなければ。そして私も気を付けて行動を取らなければ。
こんな時に不謹慎かも知れないが、アメリカ映画の様に、このメガネをかけると、コロナウイルスに感染してる人や場所が一発で判るメガネがあったら、どんなにいいだろう。あるいは症状はなくても保菌者がわかる、といった様なメガネがあったら……。
皆、同じ様な事を考えているんだろうな。事務所のみんなもマスクをしている。なんとか手に入ったが、いつまでもつのか。
妹と、玄関に除菌ものを置いておく事にしたが、衣服や髪の毛の感染はないのか、心配だ。誰がどこで誰に移されたか判らないとは恐ろしい菌だ。
こんな思い、妻はしなくて済んだんだな。嫁ちゃん、どうか、まずは妹を守ってやってくれ。そして、なんとかこの先の見えない不安を、全ての人から取り除いてあげて欲しいものだ。
例え感染者が増えてしまう様な事があっても、どうか命を落とす人はもうひとりも出ません様に。私も祈ります。
きょうも妹と、仏壇の掃除をした。心が落ち着いた。前を向いて生きよう。
スレ主です。今、コロナウイルスの感染が世界中に広がり、日本国内でも亡くなった方が確認されたそうです。
これ以上、被害が増えて欲しくないですが、人から人への感染という、なかなか防ぎようのない、大変な局面を迎えていると認識しています。
皆様もどうか、状況が落ち着くまで、健康には充分お気を付けて下さい。
外出から帰宅されましたら、除菌、手を洗う、うがいをする、外出の際はマスクをし、余計なお世話かと思いますが、生活しておられる圏内以外への遠出は、控えられた方が良いかと思います。
私は難しい事は解りませんが、目に見えない所にコロナウイルスの菌は存在しているため、誰をどの様に介して菌が移動し、どこにどう接触すれば人以外から感染するのかも解りません。
なのでどうか、ひとりでも感染されない事を祈ります。また、必ず命を落とす訳ではない様なので、おかしいと思われたら、早目に病院に行かれます様に。
横浜の船内の方も、なんとか精神的に気持ちを強く持って頑張って元気になられる日が1日も早く来ます様に、心からお祈りします。
今の私には、大切な人を失ったり、大切な人が苦しむお気持ちがよく分かります。どうか、どうか、この悪夢の様な出来事が、1日でも早く終息する事を願って止みません。
皆様に、安心の日々が戻ります様に。
意を決して過去レスを少し、拾い読みしてみた。このレスの中に、妻は生きている。言葉は少なめでも、状況は充分、思い出せた。
私との会話、妹との楽しそうなやり取り、人生を変える様な局面で、妻と妹はお互いずい分泣きながら抱き合って励まし合っていたんだ。
壮絶な妻の過去。それでも妻は、妹ちゃんの方が苦労して来た、と言っていた。妹は、お姉ちゃんの方が苦労して来たと思う、と互いを労っていた。
妹にしてみれば、本当に仲の良い姉が出来たと喜んでいたのに、もう長い歳月、家族の様に暮らしていたのに、突然、お姉ちゃんがいなくなってしまったんだ。私の悲しみとまた妹の悲しみは違うんだろう。
このレスの中に妻は生きているけど、私はあろう事か、妹が40年近く前に、おぞましい目にあった事をここに書いてしまったので、
このレスに妻の事を書いて来たから、読んでいいぞ、と妹に言えないでいる。でももし妹がどうしても、お姉ちゃんとの思い出が書いてあるものがあるなら読みたい、と言って来たら、
私は事前に、何もかも正直に話してから、ここを教えるしかないんだ。妹、本当にごめんな。私は弱くて吐き出さずにはいられなかった。私があいつらとの生活を『嫌な思い出』と、ひとりで抱え込んで生きるのは辛過ぎたんだ、言い訳にしか過ぎないが。
嫁ちゃんと妹の楽しかった日々、書いておいて良かったんだよな、嫁ちゃん、良かったんだよな。
妻は間違いなくここのレスの中で永遠に生き続けているんだ。
妻の私物の中から、古本屋で買ったと思われる単行本がいくつも出て来た。
妹が、「あ、それね、5冊で200円とかで売ってる古本で、私も買って、お姉ちゃんと読み終わったら交換して読んでたの。」と言った。そうか、二人は学生時代からの本繋がりでもあったな。
私は長文を読むのが苦手で、ここにこれだけレスを続けて書いている自分を不思議に思っている。読むのが苦手な人は、文章を書くのは下手だと思う。
昨年だったか、二人が紅葉を見に行っていた頃、過去レスを読み返し、ムチャクチャ書いているな、と呆れたのを思い出した。
妻と妹の年齢を間違えて書いていたり、妻の家族が年賀状の1枚もよこさない、と書いた少し後に、
ここの住所を知られたくない、と矛盾した事を山ほど書いていた。おそらく読んで下さってた方は気が付いていらしたと思う。他にも、すっ飛ばすところと丁寧に書くところのバランスが悪い事に気が付いていたが、
一度レスしたものを消すと、また私は混乱するので、恥ずかしいなりに、消せずにいた。
ついこの間の事の様な気がするのに、生活は一変してしまった。気が抜けてしまい、今はとにかく、妹の健康、自分の健康、と、これからの生活を前向きに考えなくてはいけない。
余計に仕事に没頭している時の自分が本当に救われる。妹もなんだろうな。
妹、難しい話の合う妻が居なくなって、こんなアホな兄が残って、ごめんな。
レス477を書いた日は、妻の月命日で、妹と朝早目に家を出て墓参りをし、外で昼飯を食った時、レスの書き込みをした。家にいると気が滅入るが、外で他人さんの中にいると、それなりに理性が働くものだ。
最近は日・祭日に事務所へ行く。他の人が休む時に仕事をさせてもらっている。解体屋は、会社によるのだろうが、日曜日にやってしまった方がよい事はやってしまおう、といううちの社長の方針で、
私は相変わらず現場にはなかなか行けず、事務所内の連絡係だ。高齢者の一人暮らしの家は、皆警戒してしまう。万が一の事があったら、気の毒でもあり、また事故物件になってしまい、早目に取り壊して欲しいなどの要望を聞かなきゃならない。
私は考えてしまった。うちも事故物件なのか?他人さんから見ればそうかも知れないが、私と妹にとっては、そんな悲しい扱いをされたくはない家だ。あたたかい3人暮らしの家なんだよ、今も。
私は今までどれだけ他人さんのご家族の悲しみにちゃんと向き合って来ただろう。常に仕事、と割り切っていた。もちろん悪気などないし、人様の死が平気な人もそんなにいないだろう。けれど、どこかで割り切らないと仕事にならないんだ。
それでも今回の事で、今暮らしている家が、妻の死によって事故物件になるなど、勝手かも知れないが、耐えられないんだ。
少なくとも妹も私も妻も、ここは3人が順番に還暦を迎え、さらに年を重ねていく歳月を過ごす予定の家だったんだ。
つくづく、因果な仕事だと思ってしまった。
妻の私物を、少しつらいが妹と二人でちょっとずつ片付ける事にした。もちろん、大切に取って置きたい物はずっと保管しておくつもりだ。
衣服類は妹が、本などは私が片付ける事にした。着る人の居なくなった妻の服を見るのは、私も妹もやはり忍びなかった。
妹が、「これは、お兄ちゃんがお姉ちゃんにプレゼントした服?だったら夫婦間でのプレゼントだから、私、いただく訳にはいかないや。」と妹なりにケジメをつけてくれている。
妹は、妻の服を何着かもらいたいけど、勝手にもらったら悪いし、と迷っていた。私は、今まで一緒に暮らして来た感じで、妻が、妹に、ダメなんて言うか、考えた。誰も着ずに処分されたり、知らない人に着られたりするより、
それなら妹ちゃんに着て欲しいって言うんじゃないか?と、女性の服に関してあまり知らない私が、そんな事を言った。妹は、お仏壇の前に服を数着持って行き、線香を上げながら、
「お姉ちゃん、あの、私が着ても、お姉ちゃんほどは綺麗にはなれないと思うけど、この服、大切にするので、私に下さい。お願いします。」と手を合わせた。
当たり前だが妻の声はなく、思い出すのはいつもニコニコしていて、いいよ、いいよという妻の顔だった。妹は泣き声になりながら、
「お姉ちゃんだと思って大切に着るから…」と服を抱きしめて、返事のない妻の服を涙で濡らさない様に抱えて何度か、「勝手にごめんなさい、ごめんなさい、ごめんね」と服と一緒に仏壇の前から去った。
妹、ありがとうな。嫁ちゃんだって妹に着てもらえて嬉しいと思うぞ。そう思わないと、先に進んで生きていけないんだ。
暗いレスばかりになってしまい、申し訳ないです。私がもっとしっかりしていれば、嘘でも妻が生きていた事にして、3人で元気に暮らしました、と書けたかも知れないのですが、
どこにもいなくなってしまった妻を、元気でいる様に書く事が出来ず、私と妹の寂しい二人暮らしになってしまった事しか書けなくなってしまいました。すみません。
毒親の話など書いて、バチが当たったのかとも思いましたが、どこかに吐き出したかったのです。そして、今度こそ幸せになろうと、3人で暮らしました。
私がここに独り日記を書いてから亡くなったのは妻だけです。弟君は平成7年の阪神淡路の震災で帰らぬ人となり、私たち兄妹の両親とか言うあの人らが互いを刺しちがえて絶命したのは昭和でした。
もう、悲しい事は書くのは嫌だったので、妻と妹の楽しい会話や、3人で決め事をして暮らして来た幸せを書いて来ました。
けれど、昨年の12月のある朝、私と妹は、大切な人を失いました。あまりのショックと悲しみで、しばらくはどうにもなりませんでした。
それでも、残された私たちは生きていかなきゃならないのです。ちぐはぐなレスばかりですが、お許し下さい。
なんとか、小さな光り1つでも見つけたら書いて、満レスまで締めくくりたいと思っています。
見捨てないで読んで下さっている方、本当にありがとうございます。
妹も私も無口になってしまったが、ケンカした訳ではないのと、これからの事について話さなければならず、時々込み上げて来るのを押さえ、励まし合い、色々と話し合っている。
私たち3人は、今月2月にディズニーランドへ行こうと、百円玉貯金をしていた。が、妻がいなくなった今、それどころではないので、缶の中のお金はそのままだ。
妹も、妻と、アナ雪グッズを買うのを楽しみにしていたが、もう悲しみだけになり、私たちはとても行く気などにはなれない。缶の中の貯金は、あのままにしておこう。
妹と、とりあえず、妻の1周忌まではここで暮らしたい、という結論を出し、その後は、また1年後に考えよう、となった。
つらいだろう。けど、妻のいない今、妻が知らない場所へ引っ越す気にはなれないんだ。あの引き出しの中の小箱の、リスとパイナップルのキーホルダーが結びついている様に、
妹は、妻のバッグについていた、アナ雪の姉の方のキーホルダーと、自分のアナだかのキーホルダーを結びつけて小箱に入れ、そっと小箱の蓋を閉めた。
昭和から令和まで、この小箱に入っている。妻とは結婚して、この4月で32年、3人暮らしになって、ちょうどこの春で5年になるところだった。
一体、私は妻を忘れる日など来るのだろうか。30年はかかるだろう。いや嫁ちゃん、忘れたくなんかないんだよ。今だって嫁ちゃんが「ただいま」と帰って来てくれたら、妹も私も、何も聞かずに一緒にメシ食おうと思っているんだ。
仕事に没頭している時が一番、何も考えなくて済む毎日を送っているんだ。
私はこのスレを、妻と妹と3人で幸せに暮らしました、と締めくくるつもりで後半は書いていたので、今はとにかく前向きに生きる事でいっぱいで、満レスまで何をどう書いたものか考えている。
部屋の中にある、妻との生活して来た数々の物を見ると、やはりつらくなる。けれど、今ここから、妹と協力して励まし合って、生きていかなきゃならない。
土曜日の朝だったか、気が付いたらテレビからカチャっと録画をする音がした。妻と妹が必ず見ていた朝ドラのおしんだった。あの朝から見てない。2ヶ月分近く録画が溜まっている。
妹と、妻の位牌と遺影を抱いて、見る事にした。ストーリーは頭に入らなくても、妻に見せたかったんだ。12月18日で、田中裕子さんが終わって、翌日から乙羽信子さんに代わっていた。妻と妹はよく1話見る毎に感想を言ってたな。
いつものソファに座り、妻の位牌と遺影をテレビに向けて再生を押した。少し懐かしい音楽が始まった。
嫁ちゃん、見えるか。おしんだぞ。毎日見てたな。ちゃんと最終回まで3人で見ような。
妹は、ドラマのストーリーと関係なく、ソファに妻が座ってない事に涙ぐんでいた。私は片手で妹の肩を軽く叩いた。
ずっと最終回まで、ソファで3人で見るつもりだ。妹は、お姉ちゃんの、登場人物への感想が聞きたかったと、悲しそうに言った。
もう、嫁ちゃんの感想は、私たちが想像するしかなくなってしまった。
嫁ちゃん、最終回まで、絶対に3人で見ような。約束な。絶対に、絶対に3人で見るんだ。絶対だぞ。
少しずつ、妹とこれからの事を話せる様になって来た。と言っても具体的な事までは考えられず、80代くらいの先の話しか出来ないでいる。
妹は、妻との楽しかった日々の話を一切しなくなってしまった。思い出すと悲しいからだ。私も同じだ。ついこの間、二人で紅葉を見に行ったのに、そんな話も話題にはならず、妻の携帯をいつも妹と話す時にテーブルに置いておくんだ。
妻から最後に届いたメールに鍵をかけた。本当は全部かけたかったが、数に限りがある様だ。
持ち主がいなくなったからと言って、妻の携帯を私が勝手に見ていいのか迷っている。いや、妻をこの期に及んで疑う様な気持ちはないし、私が自分に自信を持っていれば、疑う事など何もない。
それより、涙で見えなくなるだろう。妹も、お姉ちゃんからのメールも、お姉ちゃんの携帯も大事だけど、メールはまだ辛くて読めない、と言っている。
私はフッと突然、その昔、両親とかいうあの人らがお互いを刺しちがえて亡くなった事を思い出し、無償に腹が立って来た。
あんたらは、愛し合って結婚したんじゃないのか。私は自分の妻の死に、こんなに心を痛めているのに、どこをどうひっくり返したら、お互いを殺し合って死ぬなどという考えになるんだよ。
生きて欲しい。死なないで欲しい。自分の命も人の命も大事だと、なぜ私たち実の子に教えなかったんだ。悔しくて、妻の死へのやりきれなさを、あいつらの無理心中に怒りとしてぶつけてしまった。
けれど、そうする事で、少しは私も妹も、皮肉にも冷静に時間や歳月の流れを取り戻せる様になって来ていた。
もうすぐ2月なんだな。妻の持ち物も、悲しいけど整理しないとな。まだ見るのも辛いな。
色んな事が少しずつ、断片的に思い出される。私は喪主とは名ばかりで、弔問客にきちんと挨拶してくれたのは妹だった。しっかりしなければいけなかったのに、
本日は妻のために、と言おうとすると、声が震え手も震え、その挨拶をする人は、妻の死をきちんと認めた上で挨拶の出来る人で、
かと言って、妹も相当辛かったはずなのに、私が腑抜けだったため、代わりに色々やってくれたのだった。こんな事は書く事じゃないのかも知れないが、出棺の際、私は会社の人たちに両側から支えられたか押さえつけられたかした様だった。
あたりはばからずガキの様に号泣したらしい。嫁ちゃん、嫁ちゃんと叫んでいたらしい。私はあの時、ちゃんと妻とお別れしたのだろうか。だとしたら、今なぜこんなに立ち直れないんだろう。
昔、妹と二人で実家から逃げる時に車を貸してくれた、法律に詳しい彼と、この2ヶ月以内のどこかで会っていた。
俺君がしっかりしないと、妹さんまで倒れてしまうぞ、と言われ、その言葉でなんとか私も振り絞る様な微々たる力で妹を支えられたのか。妹は葬儀屋、お寺への支払いから、
デパートから香典返しの発送、喪中のハガキの印刷注文から宛名書きから、申し訳ない位、働いてくれたんだ。私はせいぜいそこらに弁当を2つ買いに行った程度だった。これじゃいかん。
妻に怒られる。私さん、妹ちゃんだって疲れているのよ、しっかりして、と。そうなんだ。私がしっかりしないとこれから先、妻に恥じない生き方をしないといけない。
きょうが何日で何曜日で、今何時なのか、あまり頭に入って来ない。会社に迷惑かけたくない。どうにかして現実を受け入れないといけない。
妹が、引っ越しを提案して来たが、私は妻の暮らして来た証みたいなものが何もない所へは行きたくない。妹も、今すぐにって話じゃないのよ、と言いながら泣いていた。
そうだ、妹はこんな思いを弟君を亡くした時にしたんだったな。今さらだが、どんなに辛かったろう。妹、ごめんな。
そして、妻の命を助けてやれなかった事、後悔している。かわいそうな事をした。前の晩、いつもと変わらなかったんだ。なぜ神様はこんな酷い事をするんだろう。
妻を、もっと早く別の医者に診てもらっていたら、助かったかも知れないんだ。一緒に暮らしていて、私は何をしていたんだ。
嫁ちゃん、ごめんな。ごめんなさい。嫁ちゃんは、私や妹と一緒で、幸せだったか?私は最高に幸せだった。
妹と仲良く暮らしてくれてありがとうな。嫁ちゃんがどんなに存在が大きかったか。嫁ちゃんがもういないと、どうしたら受け入れられるんだろう。苦しいんだ。
嫁ちゃんが帰って来るのを、いつまで待っていればいいんだろう。私は今、生きていく事に、途方にくれている。
嫁ちゃん、ごめんな、ごめんな、助けてやれなくて、ごめんなさい。結婚してくれて、ありがとうな。
きょうは朝病院へ行って、そのまま事務所へ行ったが、この2ヶ月弱は夢中だったのが、最近は会社の人にまで、どうか、以前の俺さんに戻るまで無理しないで下さいと言われ、帰宅した。
前からの病気の治療薬の他に、妹や妻と同じ精神科で安定剤や眠剤をもらったが、こんな薬を飲んで、妻が帰って来るんだろうか。
私は、もう誰も失いたくないと、弟君の時に強く思った。しばらく妹は一人暮らしをしていたが、妹がちょうど50才になった年に3人で暮らし始めた。それは過去レスにも書いた様な気がするが、
妻の提案だったんだ。妻の母が、勝手に妻と暮らすと言い、4人で出し抜いたずっとあとに、妻が、妹ちゃんを一生大事にしたいと言ってくれたんだ。
ウマの合う二人で、ありがたかったんだ。今も妹は、これお姉ちゃんの、と、仏壇ではなく食卓に、ミカンを3個置くんだ。
どこかに動画はないか、妹と探したが、写メはあっても動画はない。動いている、笑顔の妻に会いたいんだ。
あとどのくらい待てば、嫁ちゃんは帰って来てくれるんだろう。私の寿命を嫁ちゃんと取り替えっこしてもいい、嫁ちゃんに、今すぐ会いたいんだよ。
妹と嫁ちゃんでキャーキャー追いかけっこしている姿が見たいんだよ。髪の毛を結ぶカラーゴムだかを持って、ポニーテールにして、お互いを可愛くしている二人を見たいんだよ。
嫁ちゃん、帰って来てくれよ。帰って来てくれよ。
眠れない。妹の部屋から時々泣き声が聞こえる。そうだ、あんなにしっかりしている妹にしても、弟君を亡くし、今また妻(お姉ちゃん)を亡くし、妹だって悲しいんだ。
私は、頭で解っているつもりでも、頑固なせいか、妻が亡くなったなどと、受け入れられないんだ。受け入れたくないし、認めない。あの嫁ちゃんが、亡くなるはずないんだ。私や妹を置いてきぼりにして、先に弟君のところへ行ってしまうはずないんだ。
弟君、私は今、混乱している。もしそっちの世界に妻が行ったなら、話し相手になってやって欲しい。でも惚れないでくれよ、弟君には妹がいるし、妻は私の妻なんだ。家族として仲良くしてやってくれ。ごめんな、25年も、ごめんな。
食卓には、相変わらずお茶碗もお椀も3組、妻の箸も並べるんだ。妹も私も無口になってしまった。女性が二人いないと賑やかじゃないんだ。手を動かしたり、何かしている方が気が紛れる。
嫁ちゃんは遠慮がちにニコニコしていたが、こんなにも大きな存在だったんだ。それが、あの日から、どこにもいなくなっちまったんだよ。なんでだよ。なんで。
3人休みの日は、マクドナルドへ行こうな。妹が、嫁ちゃんのバイト先のパン屋さんで働く様になったんだ。知らせてなかったな。
また私の朝が早い日は、妹の部屋で眠ってくれていいんだ。どうせ二人で喋りまくって疲れて寝るんだろう。
予定表から妻の字が無くなってしまった。嫁ちゃん、妹な、今月また1つ年取ったぞ。
嫁ちゃんが目を開けなかったあの朝な、どんないきさつで家に戻って来たかよく覚えてないんだが、1つだけ覚えている事があるんだ。
それは、嫁ちゃんが寝てた布団の中に手を入れたら、温かかったんだ。
温かかったんだよ。嫁ちゃんのぬくもりがあったんだ。
妹は、その布団を抱きしめて、お姉ちゃんお姉ちゃんって号泣してな、私はまだ何時間かしたら、嫁ちゃんが帰って来る気でいたんだ。
なぁ、嫁ちゃん、隠れてないで出て来てくれよ。まだ話したい事がいっぱいあるんだ。
頼むよ。またニコニコした顔を見せてくれよ。パイナップル、代わりに全部食ってやるから、なぁ。
嫁ちゃんに会いたいんだよ。
1月17日、弟君の命日に墓参りに行った時も妻はいなかった。弟君、ごめんな。君の命日なのに、妻ばかり探して。妹もごめんな。
そして翌週、同じ所へ妻を納骨したが、まだ妻の許可をもらってないし、何も報告してないんだ。
でも妹は泣きながら、4人でそこに入るって約束したと、四角い箱を抱きしめながら言ってた。確かに約束した事は覚えているが、なぜ今月なんだ。
妹は、お姉ちゃんは小さい頃から家族に無視されて生きて来たから、仲間外れにされるのがつらくて悲しいと思うの、私も入るんだから、とも言ってた気がする。
私はまだ、あの朝以来、妻に会ってないんだ。医者が、運ばれた妻を看てくれて、お気の毒ですが、何とかです、と言っていたっけな。言葉が思い出せないんだ。妹が妻にすがってわんわん泣いてたな。イヤだよ、お姉ちゃん、こんなのイヤだ、とか言ってたな。私の方がキョトンとしてた。
30年以上一緒にいた妻が、突然いなくなってしまったんだ。
私は、これからどう生きればいいんだろう。
過去レスは、昨年書いていた頃は読んだが、妻がいなくなってからは読んでいない。楽しそうな妻と妹の事が書いてあるレスは、読みたくないんだ。
嫁ちゃん、どこにいるんだよ。どこにもいないし、話してないし、声も聞いてないし、写メくらいしかないんだ。今、どこで何してるんだ?何でもいいから連絡してくれよ。
こんな毎日、耐えられないんだ。だからこうして逃げる様にレスしているんだ。
また3人で暮らそうな。そのためにも、どこにいるのか教えてくれ。頼む、教えてくれ。
そして帰って来てくれ。帰って来てくれよ。な。
なぜ妹がカラオケ店を辞めて、妻のバイト先のパン屋にバイト先を変えたのか妹に聞いたら、
妻の帰りが遅い、と心配で私がパン屋に迎えに行くからだそうです。妹がいれば、家族に会えた安心感でホッとするのです。
私は今、自分が毎日何をしているのかよく解っていません。
ただ、このスレをほったらかしにしている事は思い出しました。何かを夢中でやっていないと、おかしくなりそうです。妹がいてくれなかったら、私は今どうなっていたか分かりません。
どこを探しても妻がいないので、妻に話したい事が色々あって、落ち着きません。
マクドナルドにもいない、ガチャガチャのあるホームセンターにもいない、駅のホームにも交差点の向こう側にも、どこにも妻の姿がなく、いつも色んな所を目で探しても、妻を見ないのです。
妹が泣きながら、家に帰ろうと言うので帰りますが、妻は家にもいません。
妻とは、今年こそ妹と3人で紅葉を見に行きます。半年以上先の事ですが。
妹は7㎏痩せ、私も痩せたそうです。妻に報告しなければ。最近、妻の声を聞いてないです。家の中に妻の物がたくさんあり、生活するのにこれらがないと困るだろうに。
妻は、どこに行ったんだろう。
妹は毎日、目を真っ赤にしながら、色んな人に挨拶したり電話したり受けたり、本当に忙しそうに、色々やってくれた。
私は黒い服を着た時も妻を探していたんだ。
妹との二人暮らしに「戻った」のではなく、新たに二人暮らしになった今に、ちっとも慣れず、
毎日の会話に出て来なくなった家族がいます。
人間は、真実を信じたいのではなく、自分が信じたい事を信じるものなんだとつくづく思いました。
先週、妻の四十九日でした。
昨年12月6日の朝、妻は布団の中で亡くなっていました。56才でした。
とてもきれいな顔で、本当にきれいな、美しい妻でした。
突然死でした。医者にも亡くなった原因は判らないと言われました。
私は、事務的な事以外、その前後の記憶が殆どありません。泣いたのかすら覚えていません。妹がどんな様子だったかも覚えておらず、ただ、とてもしっかりしていました。
今思えば、私を支えてくれていたのだと思います。いつ見ても目は真っ赤でしたが。
クリスマスやお正月をどう過ごしたか、何も記憶がありません。
今も妻がバイトにでも行ってると思っています。
妹が、妻の家族に知らせた気がしますが、誰も来ませんでした。桃缶の叔父でさえ来てくれました。
私は毎日、逃げる様に事務所や病院へ行っています。
スレ主です。
長い間、レス出来ずにすみませんでした。
言い訳になりますが、決して私が倒れたとか、このスレを放り投げたとかではありません。
残りのレスで、普通に満レスまで書いて行きたいと思います。
私はなんとか昨年12月第3週から、事務仕事を週3させてもらい、病院に通いながら、体調の良い日は週4にさせてもらっており、融通の利く会社なので、ありがたく思っています。
妹は、カラオケ店のバイトを辞めて、妻のバイト先のパン屋で働いています。
妹は、パイナップルを食べなくなりました。バッグに付いていた姉妹のアナだかのキーホルダーを外しました。ポニーテールだかの髪型もしなくなりました。
私は会社の人や医者に、無理しない様に言われましたが、働きたいのに働けないのは昨年で懲りたので、出来るだけは勤務したいと思っています。
人間はあっけないものです。妹に、人間ドックを受けさせました。これといった病気も見つかりませんでした。
残りの37レス、大事に書いて行こうと思う。あまり、ガキの頃の毒親の事ももうあまり恨みつらみ書くのもやめた方が良いだろうな。
妻も妹も、言わないでいる事は、私らに気を遣ってか、本当に辛かったかのどちらかなんだろう、もう遠い昔の事と思わないと、人生先に進まない。
神様がくれた、約半年もの休みで、ここにこうして昭和から平成、令和と、なんとか書いて来られたんだ。突然フラッシュバック(あっているか)して書いた事、
割りとハッキリ覚えていた事、どうにも苦しくて吐き出したかった事、あまりにも悲しかった事、そして嬉しかった事やありがたかった事、感謝している事、全部ではないが、書けたと思っている。
昭和40年代前半の、団塊世代さんが学生だった頃に出くわし、制服着たおまわりさんに聞かれてとっさに嘘をついてしまい、ランドセルしょって泣きながら逃げた事も書いていたんだなぁ。50数年前の出来事か。
こんな事、このミクルさんに独り日記を書き始めなかったら、一生どこにも書かなかったかも知れないな。
そして妹との子供時代の話、妻と知り合って結婚して30年以上経った話、アイドルグループの話、妹の夫(弟君)の話、妻の母親を4人で出し抜いた話、
今は3人暮らしになった話、二人とも美人だという話、私が今年の7月に久しぶりの現場仕事で張り切り、ケガをし、ケガは治ったが病気が見付かった話、
そしてここに書き始めた話、皆、色んな偶然が重なっているんだな。
昨夜の今頃とは全く心持ちが違う。回復していますね、と言われてホッとした。待合室では1分が長く感じられたが、帰りの足取りは本当に軽かった。
妻と妹にメールをし、良かったね、と休憩時間に返信が来た時、やはり家族に心配をかけない様に気を付けて生活しよう、とあらためて思った。
そして、外で働いても良いと言われた時の嬉しかった事。これは、裏を返せば、毎日家の中の事だけを地味にコツコツ頑張っておられる専業主婦の方は、ご自分で気分転換をしないと、かなり精神的にしんどいな、と知ったという事だ。
きょうは、お酒なしで、妻と妹と3人で回復祝い?をしたんだ。ベソかいて帰って来るかと思いきや、ニコニコして帰宅したので、それもホッとしたんだ。健康は大切だとつくづく思ったんだ。
二人にも健康でいて欲しい。きょうはなんだかはりこんで、色々買って来て並べてくれたんだ。いなり寿司が美味かったと言ったら、私さん(お兄ちゃん)たら貧乏性ね、だと。貧乏、よりはありがたいか。
少しずつ身体を仕事に慣らしていかないとな、いきなり張り切り過ぎて、元の木阿弥じゃシャレにならない。この5ヶ月が、療養になったんだなぁ。
65才までは働くつもりでいるし、65才を過ぎても仕事があれば、まだ年金生活を送る自分など想像できない。今回の事で色々学んだ。
ああ、明日にでも事務所に行って、仕事の段取りを聞いて、また半年前に戻りたい!と言ったら、二人に無言でにらまれてしまった。
はい、すみません。ムチャはしません。
スレ主です。私事で恐縮ですが(ここに書いた事は全部私事ですが)、お陰様で、検査結果は異常なしでした。
妻や妹以外にも、仕事関係の人やその他の知人にも聞かれ、返事をしていましたら、2時間の睡眠のあと、こんな時間になってしまいました。(言い訳)
そして私にとって朗報ですが、会社は年内28日が仕事納めですが、16日の週から、自宅で電話連絡の仕事が出来たら、週3週4と会社(歩いて7~8分)へ行って事務仕事をし、
頭痛や吐き気などの症状が無ければ年明けにはまた事務所勤務に戻ってもいいそうです。週6勤務に戻れるまでは1ヶ月位かかりそうですが、焦らずに1日でも仕事が出来る様、慣らしていきたいと思っています。
二人も周りも喜んでくれましたが、もうすぐ泣きベソかいたのが二人帰って来ます。また夜遅めの時間に、レス出来たらしたいと思います。
読んで下さってた方、ご心配をおかけしました。
m(_ _)m
ここもあと40レスちょっとで500なんだな。最後の方は、どんな事を書いているんだろうな。
何百レスか前に、もしここに未来のレスが書かれていたら、ひと晩で読んでしまいたい、と言う様な事を書いた記憶があるが、
さすがに今、400からのレスを、明日何の予定もなくても休憩を入れても、ひと晩で読むのは無理な気がして来た。けれどそれは過去だからだろうな。
未来が書かれてあったら誰でも読みたくなるだろう。特に大切な家族や友人知人について、そうだ、弟君を神戸の出張に、引きずってでも行かせなかった、と書いたんだった。
とてもずるい事を書くかも知れないが、妻や妹の命に関わる未来のレスがここに書かれてあったら、
それが避けて通れる出来事なら、何月何日何時頃、あの交差点を渡るな、と強く言うだろう。
けれど、もし未来が判って、どんなに手を尽くしても治らない病気とかだったら、知りたくないので、ここに書かないだろう。辛過ぎて読まなきゃよかったと思うだろう。
私自身についても、人間、いつ死ぬなど知りたくない。私が明日、検査結果がわかるからか、弱気になっているんだろう、まぁ、あと何十年かは生きていたいな。30年後、80代後半か。
叔父も来年80才だ、長生きして欲しい。それに、過去レスに書いたか忘れてしまったが、昭和38年当時(私の生まれた年ではない)は、百歳以上の方は138人だったそうだが、
2018年(昨年)、7万人を越えたそうだ。叔父も百歳まで生きられるだろうし、私たち3人が百歳を迎える頃は、更に医学は進歩しているんだろうな。
明日が憂うつで、長いレスになってしまったが…。
そして、私の検査結果は明日だ。嫌だな。先週木曜日に検査を受け、明日の水曜日、結果が解る。
二人はきょう病院へ行ったので、明日は二人ともバイト、私が家を一番最後に出るので、緊張した顔は見られないで済む。
きっとなんの異常もないんだろうけど、やはり気は重いな。二人は、心配半分、やはり明るくしたいのか、面白い事を言って笑わそうとするんだ。
「お兄ちゃん、赤ちゃん出来てるかもよ😁」「私さん、お餅を食べれば良くなりますって言われたら食べる?😁」「お医者さんとジャンケンして勝ったら異常なしかも😁」「クイズに3問正解したら異常なしなんじゃない?😁」
あのな~あんたら~、気持ちはありがたいけど、ビビってる時は笑えないんだぞ~。と言いながら、こんなふうに明るい二人は本当にありがたいし、嬉しいんだ。
今夜はあと一回レスしないと眠れないかも知れないな。💧
きょうは、妻と妹が安定剤や眠剤をもらいに病院へ。同じ病院の違う先生だ。
二人は、育った環境こそ違うが、心の拠り所であるはずだった家庭で、不安や恐怖や悲しみの中で、親を信用する事も出来ずに成長しなければならなかった傷は大きく、
二人でしっかり手をつないで病院へ行ったんだ。バッグを見て、あれ?と思った。妻のバッグに付いていたキーホルダーは、アナ雪の姉の方(何回か聞いたが名前分からん)で、
妹のバッグに付いていたキーホルダーは、アナか?それだった。なるほど、映画の中の姉妹のキーホルダーをそれぞれ、妻と妹で1つずつ付けて、二人は家族・姉妹として生きているんだ。
親に愛情を注がれて育った人には解らないかも知れないが、妻も妹も、それぞれの立場で私にヤキモチ?などをやく前に、
やっと私にも、家族と呼べる妹(姉)が出来たんだ、と、お互いを大切に思って生きているんだ。私自身、回りに、奥さんと妹さん、仲良くていいですね、とあまりにも言われるので、
そんなに不思議な事なのか、それぞれの精神科の先生に聞いた事があった。二人が抱えている闇はかなり深い。そりゃそうだろうな。
初めて人生で、失いたくない同性と仲良くなれて、お互いに相手に嫌われたくない、と思っているんだ。
私も二人の仲が不味くなる様な事のない様に気を付けたいと思っているが、二人はお互いと私を、生まれてきて初めて、家族だと思って生きているんだ。不思議な仲の二人だと思うと同時に、
あらためて二人がこれから先も幸せであって欲しいと願ったんだ。
クリスマスケーキだけは、毎年私が二人に買って来て3人で分けて食って来たから、今年もそのつもりだ。プレゼントは、皆、負担にならない様に、高額な物はやめような、と決めている。
誕生日でさえ乾杯だけだ、今年はなんとか、私が7月に入院してからのこの5ヶ月の間、なんと私の誕生日だけだったが、情けない事に、病院のベッドの上だったため、乾杯はなしだったが、他の3人の誕生日は1年の前半なので、
来年からなんとか乾杯くらいしたいところだ。そんな訳で、クリスマスプレゼントは、本当にユニクロさんの物で3人とも重宝しているんだ。
私と妻で妹に、私と妹で妻に、妻と妹で私に、それぞれ出し合って上着(とは今言わないのか)やセーター、手袋、など、プレゼントは一点、と決めているんだ。でも3人とももらう時はワクワクして嬉しいんだ。
3人暮らしになって5回目のクリスマスだ、いくらあっても困らない物がいいな。50代になってもこうしてワクワクする事があるって良い事だと思う。
ああ、年賀状も書かなければ。桃缶の叔父さん、元気かな。叔父は父とは兄弟と思えないほど人懐こい人で、話しやすい叔父だ。え?叔父も来年80才か…。みんな年取るんだな。
土曜日の夜遅く、カレンダーを12月に替え、日曜日は妻と妹が帰宅すると、卓上に小さなクリスマスツリーを飾り、玄関の外にリースをかけ、サンタクロースの人形やら家の形をした可愛い小物類がキラキラと、家の中を明るくしたんだ。🎄
みんな百均で買った物だ。リースもか?と聞くと、1500円もした、と言い、二人で小遣いを出し合ったそうだ。なんだ、言ってくれれば良かったのに、と、なんでも3人でな、と話し、二人の前に550円置いた。金銭で出来るだけ二人に負担をかけたくないんだ。
家族がクリスマスを祝う。幸せだ。うちはツリーもサンタクロースも何にもなかったし、妻の子供時代は言うまでもなく、妻以外の兄弟姉妹にはサンタクロースが来て、妻にだけ来なかった。寂しかっただろうな。
靴下だけは置いて寝たそうだ。もしかしたら、サンタさん来てくれるかも知れない、と子供心に期待したんだろうな。「板チョコ1枚でも入ってたら嬉しかったね、妹ちゃん。」と、妻と妹は、今では苦笑いしながら話しているが、
子供の頃は悲しかったんだろうな。私は朝になってがっかりした顔の妹を毎年見て来たから分かるんだ。本当はまだサンタクロースを信じていた頃まで、私になんとかプレゼントを用意出来ないか考えたが、
妹が小3位からはもう色々知り、その前の年のクリスマスまでといえば、私も子供の小遣いしかなく、サンタクロースはお兄ちゃん、とバレる様な物しか用意出来なかったため、妹の夢を壊したくなく、何も買ってやれなかった。
少し小遣いが貯まる様になった頃は妹もそれなりの学年になってた。
そうか、妻は板チョコ1枚でも嬉しかったのか。
もう師走なんだな。この間、お盆だった様な気がするが、早いなぁ。ずっと独り日記を書いて来たんだな。ひとりじゃないが、ここに吐き出せて何か胸のつかえが取れた心持ちだ。
妻とのその後は、レス59から、につながる。あの頃のレスには、弟君がいた。最近は思い出より病院だ検査だと、本当のリアルタイムの話になっているな。
弟君、ごめんな。決して弟君を忘れた訳じゃないんだ。妹は相変わらず毎朝お仏壇の掃除をしているぞ。お線香は、月命日にあげさせてもらっている。
写真立てには、弟君と妹夫婦のツーショットが1枚、私と妻の写真が1枚、そしてもう25年近く前の、4人で写っている写真が1枚の3枚が並んでいるんだ。
今は3人で暮らしているが、妹は、弟君亡きあと、精神的におかしくなった時期もあったし、再婚もしてないぞ。妹には、弟君だけが夫婦になれた人だったんだ。
クラシック音楽好きの男性とのデートからベソかいて私らのところへ帰って来たあの時以外も、妹は、私の夫はあの人だけ、と、誰ともお付き合いしないで来たぞ。
弟君、また夢の中でも酒を飲もう。夢の中なら、私も医者に叱られないだろう。また妻と妹がアイドルグループ、光ゲンジさんのコンサートへ行った事の愚痴をこぼし合おう。懐かしいな。
それとも弟君は、妹の夢に現れてくれているのかな。
スレ主です。どうにか450レスまで来ました。毎回書きますが、こんな下手くそで酷い誤字脱字だらけの、ところどころ辻褄の合わない様な文を読んで下さり、ありがとうございます。
私自身、今の病気が完治しましたら、また仕事に戻り、こんな長い身の上話も書けなくなるので、それまでに、🈵レスにしたいと思っています。
本当に、ここまで根気よく、こんなつまらない物を読んで下さり、心から、感謝します、ありがとうございます。
m(_ _)m
こうしてみると、妻も、妹と私も、毒親と暮らしていた頃、互いに菓子パンとは縁があったんだな。それでか、妻はパン屋さんでバイトしたいと言って来て、今、働かせてもらっているのかな。
急いで駆け足で、妹から聞いた妻の8年間をザッと書いたが、本当はもっと色々あったんだ。書くに耐えないもあるが、これ以上、妹の身の上もしかりだが、
二人の女性の人間の尊厳(あってるか分からないが)を、例え事実でも、もうこれ以上踏みにじる様な事を私がしてもいいのか、ずっと迷って来たので、細かい事は、オブラートに包んで書こうとも思っているんだ。
私は妻にも妹にも幸せになって欲しいとずっと思って来たし、これから更に年を取っても、若い頃叶わなかった当たり前の小さな幸せも人並みに経験させてやりたい。
紅葉を日帰りで2回見に行ったっていい、ディズニーランドではしゃいだっていいんだ。同じ物を食って「おいしいね」と3人で笑う、そんな時間を過ごしたいんだ。
私ももう5ヶ月も仕事を休んで、焦りもあるが、確実に治して確実に働きたい。
二人とも、きちんと生活してくれている、バイト代も、本当なら全部それぞれの小遣いにしていいのに、妹が月にいくら、とケジメだからと入れ始めたら、妻まで、私も、と。二人の財産は二人の物だぞ、無理しなくていいんだ。
妹から聞いた事は、首を横に振って来た妻には、知らなかった事にしておこう。二人が、二人の方から言って来るまで私からは何をどこまで知ってるだのは一切言わないでいようと思う。
それでもなんとか、楽しい事も友だちもなく、高校を卒業して、就職したんだ。妻は、家を出たかったため、寮のある所で働きたかったそうだが、お袋さんが(さん、なんて付けたくないが)、
そのまま逃げられでもしたら許さないという考えで、自宅から通える所にしろと言い、普通の事務職の会社に雇ってもらい、給料は全額取り上げられたそうだ。
そんなバカな。服も靴も、女性なら、化粧品もいるだろうに、高校時代の私服で会社に行ってたそうだ。見かねた女性の先輩が、要らなくなった服やら安い化粧品を妻に譲ってくれたそうだ。ありがたい人がいてくれたんだ。
通帳を2つ作る事を教わり、初ボーナスは、7:3に分けて、7の方をお袋さんに取り上げられて、なんとか年に2回、ボーナスの3割を自分の財産に出来たそうだ。
女性の先輩さん、妻に親切にして下さり、ありがとうございます。
私と妻が知り合ったのは、妻が23の時だった。妻の会社の建物が古くなり、移転して、そこを壊す事になり、その時たまたまそこの解体担当に私らの班が当たり、
完全に荷物の運び出しが終わりました、の立ち会いに、妻の会社の社長さん以下、名残惜しむ社員さん一同が向き合って、
きちんと責任を持って解体させていただきますとリーダーが挨拶をし、私は女性社員の中に、ひとり、どうしても気になる可愛い人がいて、それが妻だった。いや、そのへんも割愛します。
私は決して、ストーカーみたいな事はしていません。変な言い訳ですが、色々あって、お付き合いさせてもらえる事になりました。
今から33年前の事です。
妻は結局、居場所がなく、妹と同じ様に図書室で本を読む様になったらしい。どうりで、アホな私と違って、妻と妹はなんだか難しい話も会話になっていたんだな。
お昼の弁当もなく、自分で作るにも、お弁当を作ってもらった事もなければご飯の炊き方も教わった事もなく、勝手に弁当箱に…と思っても、まず、妻の弁当箱などなかったそうだ。
昼は何も食べずに図書室で本を読む毎日を送っていたら、ある時、体育の授業中に倒れたそうだ。16才の頃の妻の体重は、38㎏だったそうだ。担任の先生が心配してお袋さんに連絡、
あの子はダイエットするって聞かないんですよ、とかなんとか大人の嘘をつかれ、それでも仕方なく、学校に来る弁当屋やパン屋から買えと、1日2百円もらってたそうだ。80円と60円の菓子パンで昼を過ごし、お釣りをコツコツ貯金していたそうだ。
それでもその年頃では足りないだろうに。妻は1ヶ月で1200円の貯金をしたそうだ。貯まったお金で、一度でいいからマクドナルドへ行って、ハンバーガーを食べようと、楽しみにしていたそうだ。
ところが月末にお袋さんに、昼食代の釣りをまとめて返しなさいと言われ、必死の抵抗で、全部使ったととっさに嘘をついたらしいが、カバンから制服のポケットまで全部探されて見つかり、取り上げられてしまったそうだ。
普通の家庭で育ったなら、こら~お釣りごまかさないの~で正直に返すか、初めから毎日お釣りを母親にハイ、と返しただろう、けれど妻の場合は、お腹いっぱい食べたかっただけだったんだ。
なんで、妻がこんなひもじい思いをしなきゃいけなかったんだよ。
どこの親も、世間体だけは取り繕うんだな。妻の母も、高校を勝手に辞めるなんて許さない、あんた、親をなんだと思ってんの?💢あんたは高校は卒業しなさいよ、
何勝手に退学届けなんか出してんの?え?親の顔に泥を塗るんじゃない!卒業まで通って、その後働いて、3年分の授業料を返しなさい。ったく、生まれて来ただけでも邪魔なのに、よくも余計な事してくれたわね、今度おかしな事したら、お父さんに叩いてもらうからね!このバカ娘が!
私は言葉もなかった。妻が妹にやっと言えた、この世でただひとりの人だったそうだ。
なぜだ?なぜ生まれて来ただけで邪魔だなどと言えるんだ?もとはと言えば、あんたらで作った子供だろうに、どの口が言ってるんだよ!よそのお袋さんに悪いが。
妻はもう、退学する事も、この家族から逃げる事も、何もかも考える事をやめてしまったらしい。
妻は笑わなくなってしまったそうだ。学校でも次第に友だちが去って行き、誰にも心を開けなくなっていた。
本当は、ここまで妹から聞いた時、思わず妻のところへすっ飛んで行きたかった。
お酒が入っていたその時の妻は、すっかり妹に心を開いていたんだな。妹も泣きながら、話してくれたんだ。
人生で楽しいはずの高校時代が、妻は妻の母親の暴言と無視で、心を閉ざした、悲しい絶望的な日々を送るだけの、地獄の様な3年間だったんだ。
すみません。
水木と休みだった妹から、ショックな話を聞いていた。妻の、私の知らなかった8年間についてだ。
全部書けるかどうか自信がない。悲しくて、それもあって、検査の帰りにパン屋へ寄ったのもあったんだ。外で元気に働いている妻の姿を見たかったんだ。
妻と妹の二人が翌日休み、という日、妹の部屋で二人は女の子らしい可愛いパジャマで、缶チューハイだかを飲んで酔った勢いでポロっと妻が言ったそうだ。
私がまだ仕事で明日早いから寝るぞ~と言っていた頃の事らしい。
妻は、中学3年の時、担任の先生に進路の事で話す事になり、さすがに無視出来なかった妻の母親は、妻を高校に行かせたそうだ。
妻は勉強をしていたので、成績は良かったらしく、進学校に入学したそうだ。妹も勉強は私より出来たから、そこそこの高校へは行ったが、妹の悲しい話は、何百も前のレスに書いたので割愛する。
妻が高校に通い、無視し続けてきたお袋さんが、学費は、卒業したら全部働いて返してもらう、逃げても家族で探す、働いて3年間かかった分、必ず返してもらうからね、と脅され、
妻の高校時代は楽しいものではなかったそうだった。それはそうだろう、酷い話だ。
お袋さんは、きょうは銀行に、あんたの高校の授業料を振り込んで来たからね、といちいちそれだけイヤミったらしく言うと、あとは無視だったそうだ。
妻は耐えられなくなり、高校1年を終了すると、学校に退学届けを出したそうだが、不審に思った先生が、妻の母親に、退学の理由を聞いて来た。
いえ、娘を退学させるつもりなどありません、とお袋さんは先生に言ったらしい。そりゃそうだろう。
けれど、妻はこの後、どんどん絶望して転落していった。
日本茶と菓子パンなんて、と思われるかも知れないが、うちはコーヒーを飲む人もなく、それに、日本茶と菓子パンは意外に合うんだ。
妹の好きなパンを妻に教わって2つ買って帰り、皿にのせたら、「あ🎵私の好きなパン‼」とテンションが上がったので、「1個ずつな。😋」と言うと、妹は、いただきますのあと、好物のパンを食べ終わると、私の分を笑いながら見ているので、
私も笑いながら、「これ、俺のな~。」と言うと、自分のこっちのパンと取り換えっこして欲しいな~と言うので、どんなのか食ってみたいから半分あげるんでいいか?と言うと、妹は「うん🎵ありがとう❗」と、交渉成立。
私が初めて妹の好物のパンを食ってみると、確かに美味い。けれど妹ほど、ではないので、半分でちょうど良かった。妹は「美味しい?美味しいよね?」と嬉しそうに聞いて来た。私は、うん、美味いな、と言いながら、遠い昔を思い出していた。
「なぁ、小学生の頃、こんなうまいパンなかったなぁ。」と、昭和40年代を思い出していた。
土曜日の昼、妹と二人でランドセルを背負って、パン屋へ行った事がよみがえって来た。あいつらと食事を楽しくした事がなかったため、この時の菓子パンは、二人だけで楽しかったんだ。
そんな事もあったね、と話す妹の目が真っ赤になって来たので、もう昔の話はやめる事にした。
パンを平らげ、片付けた。妹はまた明日から金土日と、カラオケ店でバイトだ。
嫁ちゃんも妹も、検査についてあえて根掘り葉掘り聞かないでくれて、ありがとうな。
検査が午前中に終わり、結果は来週聞きに行く事に。まぁ、痛くもなく、あまり怖くもなかった。なんだか白々しいな。
けれど、昔より医療事情は本当に進歩しているんだな、昭和の終わり頃も平成初期も、もう少し患者の負担は大きかったんだろうな。
いや、百年前、もっと前は、麻酔がなかったため、盲腸や虫歯で命を落としていたと聞いた事があった、皆、極度の痛みは耐えられないだろう。盲腸とは言え、腹を切る訳だし、虫歯の治療も今でこそ殆んど痛みはないが、
麻酔がなかったと想像するだけで恐ろしい。病院へ行くと、なぜか強気になれない。私はこんなにビビりだっただろうか。仕事している時は強気なのだが。
帰りは、妻のバイト先のパン屋で、妹の分と適当に見繕って買って帰った。妻は、私が褒めるのも変だが、人当たりよく、お客さんと丁寧に、静かな笑顔で控えめな感じで接していた。
ちょっと誇らしく、照れもあった。あのパンを掴むトングだかポングだかでトレーにパンを乗せていたら、さっと妻が横に来て、小さな声で、「妹ちゃん、あのパン好きだから」とさりげなく教えてくれた。そうか、私は食った事なかったから、2つトレーに乗せた。
店長さんに、せんだっては妻が風邪で休ませていただき、とお詫びとお礼を言い、頭を下げると恐縮されてしまったが、感じの良さそうな店長さんだった。
帰宅すると、妹はパンを喜んで、二人で、…日本茶で菓子パンを食べた。
明日は検査の日だ。ビビってないぞ、と言いたいところだが、ケガより病気の方が怖い私は、ちょっと緊張している。まぁ、異常なしなら良しとしよう。結果は12月の第1週だ。
検査は午前中に終わる。妹が留守番だ。一緒に行こうか?と言われたが、子供じゃないのでひとりで行こうと思う。
元気になった妻と妹とで、私さん(お兄ちゃん)、ビビってる~😁とか声を揃えて言ったな~。うん、確かにビビっているが、そんなにはビビってないぞ。この話はやめよう。だんだん言葉に狼狽がみえる。😣
ああ、明日の朝起きたら、あさってになってないかな。アホな事を。
ここがもう🈵レスになるのに、60をきったんだな。こんなレスで良かったんだろうか。気ままに書くつもりで始めて、
読んで下さってる方々の共感票にビビり(私はビビり屋だな)、ミクルさんに共感票を調整してもらい、なんとか書いて来たんだ。
こんな50数年を生きて来たオジサンもいるんだな、と思っていただければ幸いです。夏から秋、そして初冬。下手くそなりに、昭和や平成や令和を夢中で書いて来ました。
昔の事ほど辛い思い出が多いですが、これが毒親にこの世に残された私たちの人生です。
いつも読んで下さって、ありがとうございます。
m(_ _)m
3人暮らしになってからだから、4年半以内の事だ。高校時代の友人とはずっと繋がっていて、親から逃げた時も、暫くは居所は言えないが、こちらから年賀状を出したりして、
なんとか40年、友人でいてくれてるヤツらがいて、久しぶりにそいつらと5人で会う事になったんだ。
みんなの頭の中は、高校生だった彼らと、もう50代半ばになってるんだという気持ちがごっちゃになってたと思う。
待ち合わせの場所に行くと、オジサンがいる。あ、私もか。
え~⁉○○⁉おまえ老けたな、とか、おまえあんま変わってないじゃん、とか話したっけな。
みんな当たり前だが、別々の人生を歩んでいる。中には孫のいるヤツも。懐かしくもあり、歳月は残酷だな、とも思った。
けれど、私を忘れないでいてくれた事が嬉しかったんだ。それぞれが近況を話し、お開きになった。
帰宅してふと、妻も妹も、友だちに会いたいだろうに、気の毒になった。
二人は、もう姓も変わった友人を探すの大変だし、繋がってる子がひとりもいない訳じゃないからネ、と言っていたが、
やはり会いたいんじゃないかな。もうこれだけ歳月が経っているんだ、妻も地元の友だちの実家に聞く位は大丈夫なのでは?と聞いてみたが、
例によって、15才~23才までの8年間の話に関わって来るらしく、首を横に振るんだ。
余程辛い事があったんだろうな。何をして、妻はその8年生きて来たんだろう。泣いて拒絶する妻に、気の毒で聞けない。
嫁ちゃん、ごめんな。こんな夫で、ごめんな。
私はスマホは使えず、ガラホを使用している。昨今の事件ではないが、家族との暮らしが耐えられずに家出を考えている未成年の子の書き込みに、妻も妹も私も心を痛めている。
けれど、二人も私も、この書き込みをする子供たちの気持ちが解るんだ。私と妹は、二人で親から逃げて来た位だ、おそらく3人とも当時、スマホの様なものがあったら、きっと助けて下さいと書き込んでいただろう。
世の中には、間違っても自分の家族とバラバラになりたくない人もいれば、邪魔者扱いされたり無視されたり、私なんかいない方がいいんだと思う人もいれば、
親に憎しみを込めて傷つけられイジメられ利用され、利用価値がなくなると我が子をゴミ扱いする様な家庭環境で育った悲しい人もいる。
親に、完璧であれ、などと言っているのではなく、少なくとも子供さんが、親に愛情を注がれていると安心して暮らせたら、ネットなどに助けて下さいなどの書き込みはしないだろう。
子供は悪くない、何も解らずに生まれて来ただけだ。もっと言えば、子供のいる人生を自分の意思で選んだのは大人の方だ。人ひとりこの世に生んだら、愛情をいっぱい注いで教え育てる義務があるはずだ。
他人同士の結び付きの方が強いというのも不思議な話だ。私たち3人は時々そんな話をする。
毒親になるのが怖くて、子供のいる人生は歩めなかった。
妻はきょうバイトへ行った。帰ると早めに温かいものを食べ、カゼ薬を飲んで早々に寝た。
二人に移したくないからと、ひとりで寝ると言って横になったが、やはり心配になるので、当たり前だが私が隣に。妹も3人で川の字、などと言っていたが、やはりここは私と妻で。
明日は妻が休みで妹がバイト、水木は妹が休みで妻がバイトだ。
あれ?伊豆のバスツアーから明日で1週間か。もっと前の気がするな。
妻が言うには、カゼをひいておいて、こんな事言うの、変かも知れないんだけど、
私ね、嬉しかったの。妹ちゃんも私さんも、オデコをくっ付けてくれたり、生姜湯を作ってくれたり、一緒にお粥を食べてくれたり、私の事でこんなに親身になってくれて、
もちろん、この32年近く、色々助けてくれた、それももちろんの事、私ね…
みるみる妻の目が真っ赤になって行ったんだ。
家族って、こんなにあったかいって、知らなかったの。妹ちゃんや私さんのオデコの温かさが伝わって来て、ああ、家族っていいな、あったかいんだ、
カゼ1つでこんなに心配してくれるんだ、って思ったの。
だそうだ。今までも妻の母親から逃げるために色々あったし、妹と妻は、服の貸し借りから白髪の染めっこまで、お互いに触れ合って来ただろう、
けれど、具合の悪い時に親身になってくれるどころか家族の勘定にも入れてもらえなかった妻の人生を考えたら、
きっと今回の看病は、家族なら当たり前の事でも、妻には本当に嬉しかったんだろう。
妹の目も真っ赤だった。お姉ちゃんが治って本当に良かった。お姉ちゃんが肺炎なんかになったらイヤだもの。明日からも、無理しないで、ちょっとでも変だと思ったら、すぐ病院へ行って、土日の経緯を話してね、ね。
と二人で泣き合ってたんだ。私は、妻が回復した事と、二人がまた家族の結び付きを1つ確認出来た事が、とにかく嬉しかったんだ。
何しろ妻が重いカゼでなくて良かった。嫁ちゃん、無理するな、な。
妻がカゼをひいた様だ。金曜日の夜、3人で鍋をつついた時は元気だったんだが、
土曜日の朝、いつも起きる時間に隣を見たら、妻がいない。台所に行ってみると、カゼ薬を飲んでいた。私と妹に心配かけたくなかったんだろう、
あれ、起こしちゃった?ゴメンね、と言いながら、具合悪そうだ。なのに妻は、薬を飲んだからバイトへ行くと言うんだ。
こじらせたらどうするんだ?1日休ませてもらえ、な、と言ったが、行くと言って聞かない。
妹も起きて来て、二人で説得し、バイト先へは私が連絡した。
妻はこの土日、寝たり起きたりして、その度に私と妹に、ごめんね、ごめんね、と謝るんだ。具合が悪いのは、妻のせいじゃない、
妹は土日のカラオケ店を休む訳に行かなかったため、私はお粥を作って、妻と二人で(私も)食べたんだ。妻ひとりぽっちでお粥は可哀想だったんだ。
この土日で妻は回復し、なんとか元気を取り戻してくれた。妹もバイトから帰ると、妻に生姜湯を作ったり、二人で交代で看病したら、みるみる回復したんだ。
体温計で熱を測る他に、妻のオデコに、私と妹がかわりばんこにオデコをくっ付けて、少しずつ熱が下がっていったのが解って、ホッと安堵したんだ。
無理するな、と言ったが、妻は明日からバイトに行くと言う。休んでばかりじゃ悪いし、と言ったあと慌てて、
あ、違うの、私さんは仕事したいのにお医者さんのゴーが出ない上、今週、検査もあるし、と気を遣ってくれたんだ。いいんだぞ、病み上がりだ、妹も、お姉ちゃん、ぶり返さないでね、と心配そうだ。
そんな時、妻からある言葉が返って来たんだ。
スレ主です。読んで下さってる方、ありがとうございます。もうあと60いくつで🈵レスですが、
思い出した過去の事、幸せだった事、悲しかった事、最後まで、独り日記のスタンスを変えずに書いていきたいと思います。
自分でも、書き始めた4ヶ月前はまだ夏で、500レスも書けるだろうか不安でしたが、ここまでどうにか下手くそなりに書いて来ましたので、
あと少し、頑張ってみたいと思います。いつも本当にありがとうございます。
m(_ _)m
4年半前の春、3人で暮らし始め、最初に迎えた冬に、きょうの様に鍋を3人でつついていた時だったな。
妹が遊びに来たとか、弟君も元気な時にどっちかの家で鍋をしたのとは違って、家族として鍋を囲んでた時だった。
妹が目を真っ赤にし、お姉さん(まだそう呼んでたな)、
「お姉さん、…辛かったね…私、もし自分だけ家族に入れてもらえなかったら、怒って鍋をひっくり返してたかも知れないや。」と言ってた。もちろん、小さい頃から妹はそんな事出来る子ではなかった。
でも妻は、「妹ちゃんの方が辛かったと思うよ。いくら私さんがいても、怖いお父様だったのよね?」と、あのおぞましい事は知らないにしても、そんなふうに言ってくれたっけな。
二人とも、一緒に暮らして互いに自分の経験のない苦労、悲しみ、恐怖、絶望を分かち合って来たんだろう。
妹も、夏はともかく、冬、風呂上がりにバスタオルがない事がどんなにしんどいか、風呂場で泣いた事があった様だ。見た訳じゃないが、確かに、バスタオルに限らず、人に無視されるというのは男でもキツい。
私も出来るだけ妻の話す事には耳を傾ける様にしている。嫁ちゃんも妹も、あんな暗い過去は忘れて、
紅葉を見に行ったり、楽しい思い出をたくさん作ろうな。それが私の幸せなんだ。
きょうは真冬の様に寒いな。二人とも温かい格好をしては行ったが、雨も冷たい、カゼなどひかないといいが。
今晩は、給料日前だが温まる様に、鍋にしよう。と言っても安く済ませて栄養を摂りたいな。お豆腐、白菜、ネギ、榎茸、うちはこれにウインナーを入れるんだ。卵もひとり1個、土鍋でグツグツ、
あたたかいご飯に刻みネギ入り納豆と、伊豆の土産の漬け物をちょっとずつ3種類位添えよう。
3人で鍋をつついて他愛もない話をするんだ。ガキの頃、経験のない3人だ、嬉しい晩メシだ。去年の冬だったか、
残った出し汁を見た妹が、「お姉ちゃん、これにお餅をいれたらおいしいよね」と言い、妻まで「あ、おいしい、おいしい」と盛り上がっていた。
こら~、私は餅はダメなんだぞ、あやつは永遠に口の中にいるぞ。うどんにしよう、と思った。こんな、なんて事ない会話が楽しいんだ。
寒いから気を付けて帰って来い、な。
家にいる1日と、仕事をしている1日では、24時間が違うな。外から帰る3人、外から帰る二人(私と妻か妹)、外から帰る二人(私が休みの日の妻と妹)、7月まではこんな感じだった。
今は、私が病院かスーパーか床屋から帰宅するでもないと、ずっと家にいる。あ、銀行や郵便局も行くな。
まだ一昨日のバスツアーの話を二人から聞けるかと思いきや、バイトから帰宅する二人には、もう何日も前の出来事の様だ。そう言えばそうだな。
私も仕事をしている時の4日前なんてずい分昔の出来事に思えたな。専業主婦の方は、1日を通して家の中で労働作業をなさっていて、気分転換がうまく出来ないと、気が滅入るだろうな、と思った。
こういう、ミクルの様な物に気分転換を求めたくなる気持ちが解った気がする。
こんなに仕事を休んだ事がなかったので、人間の日常生活はつくづく不思議だと思った。
私が大金持ちだったら、二人もバイトなんかしなくて済んだんだろうな。こんな話を二人にしたら、
妻も妹も、ケタ違いの大金持ちなんて、羨ましいのかどうかすら分からないや。と笑って言ってたんだ。
妻も、こんな私と30年以上一緒にいてくれてありがとうな。妹と仲良くしてくれて、ありがとうな。
妹も、弟君亡き後、私たちと3人家族になってくれて、妻をお姉ちゃんと呼んでくれて、いつもどこかで私たちに気を遣ってくれて、ありがとうな。
あとは私が1日も早く仕事に復帰出来る事を祈るばかりだ。
きっかけがあり、先程二人に検査を受けると話した。え?という顔をしていたが、妻が、いつ言われたの?と聞くので、前回の診察の時、と言ったら、
やはり、その日のうちに言って欲しかったと言われてしまった。そうだな、二人がバスツアーから帰ってからと思っていた、と話しても、家族で健康についての話はその都度話す、ってお兄ちゃんが言ったのよ、と妹にも言われてしまった。
そうだな、黙ってて悪かった、けれど8月の時の様な検査じゃないから、騒ぐ事もないと思っている。
気持ちがラクになったと思ったら、二人に、何でもないって、と励まされたんだ。ありがとうな。
来週、検査を受ける事をそろそろ二人に言わないとな。正直、言いたくないな。けれど黙っているのは良くないし。
定期的に診てもらっていたら、ちょっと気になるところがあるので検査しましょうとは言われたが、色んな数値を聞いたら、正常の範囲内だったので、
そんなに不安にならなくて大丈夫ですよ、とは言っていたが、病院の方々は、患者さんが気に病まない様にそう言うんだろうな。
実際、今年の8月20日の検査結果も異常なしだったし。(ここに書いていたな、少しビビったけどホッとしたんだった。)
とにもかくにも、二人には明日言おう。気が重いが、きょうはまだ、昨日の紅葉ツアーの話を聞く事にして、二人の顔を曇らせたくないな。というか、私が言いたくないのだが。
なんだ、男らしくないな。ちゃんと話さねば。はぁ、私はこんなに小心者だったか。ちゃんと話すぞ。なんだか逃げ出したい気分だな。
妻と妹が無事に帰宅した。8時少し過ぎだったか。荷物を片付け、ひとりずつ風呂に入っている。
色んな土産を買って来てくれた。みかん、柿、いわし削り、いりこ、あとはUFOキャッチャーで取ったスナック菓子をちゃんと3袋(バスの中で食って良かったんだぞ)、
クッキー、サブレ、ビスケット、これは主に二人のか。あとは、初めて我が家に来た、わさびマヨネーズ、辛くないのか、少量ずつの漬け物、これはメシのおかずにいいな。
私は酒を飲めなくなってから、少し食いしん坊になったかも知れない。太らない様に気をつけねば。二人とも疲れただろう、ゆっくり休め、な。明日からまたバイトだ。
積もる話は二人は終わらない。また思い出したら書こう。男はあまり過ぎた事は喋らない。そう考えると、女性の方が楽しそうだな。
天気も良く、良かった良かった。二人ともいい顔しているぞ。
お🎵なんと、UFOキャッチャーでスナック菓子を3つも取ったとメールが来たんだ‼でかしたぞ‼で、どっちが何個取ったんだ?と、二人のメールを見ると…。
妻→妹ちゃんが2個で私が1個、
妹→お姉ちゃんが2個で私が1個、
と、手柄を譲り合っているんだ。そうか。じゃ、最後の1個は二人で協力して取ったって事にしような。そうか、3人で3個なら、ひとり1個な、とメールしたら、
妹め、帰りのバスの中で食べちゃったらゴメンね😜、だと。ちぇ~。それにしても楽しそうだな。
嫁ちゃんは、今度、来年の紅葉は3人で行きたいね、とメールをくれた。ありがとうな。早く治して仕事して稼いで、3人で行こうな。
もちろん二人で行ってもいいんだぞ。🚌💨
何やら楽しそうなメールが来た。目に浮かぶ様だ。妻と妹で、ミカンを木からもいで、妹ちゃんの甘いね、お姉ちゃんのスッパイね、と皮をむいてシノを取って食べっこしているんだろうな。
もう昔の二人じゃない、人並みに幸せな生活を送っているんだ。良かった。甘いミカンは二人で食ってな。私がスッパイのを食うから。
でも1房位、甘いのも分けてくれ~。🍊
今頃、二人はバスの中かな。みかん狩りもする様だ。私にもミカンを買って来てくれるそうだ。無理するな、二人で持てるだけにするんだぞ。あと、恐竜のキーホルダーはいらないぞ、と言ったら、「買わな~い」だと。
楽しい時間を過ごしてな‼
そろそろ床屋へ行かないと、伸びて来たな。休職して2度目か。なんだか自分が引きこもりになったみたいで情けない。
高校卒業してから50代後半まで約40年、こんなに仕事しなかった事はなかったので、正直、休めてちょっとラッキーだと思ったのも最初の1ヶ月位だった。
妻も妹も、いつも私が家に居たんでは息が詰まるだろう。ごめんな。きょうのお昼はラーメン作るからな、野菜をたっぷり入れようと思う。
ん?妻が、私さん、マクドナルドのハンバーガー食べたいな、と言っている、妹も、私も、と。せっせと家の事してくれてるんだ、よし、買って来よう。歩いても会社と別方向に片道10分も歩かない。
ちょっと待てい、私の手作りラーメンは、マクドナルドのハンバーガーに負けたのか…。ちぇ~。まあいいや。妻が家族と呼べる私たちと亡き弟君の4人で行くまで、マクドナルドに行った事なかったんだ、
ハンバーガーのリクエスト、書いておくか直接教えてくれ。動いていないと病人みたいでへこむんだ。あさってからまた二人ともバイトだもんな、頑張ってくれてありがとうな。
明日の伊豆、満喫して来い。な。🍁
困った。検査を受ける様に言われ、やっと取れた10日後に予約をした。二人には、バスツアーから帰ってから報告しようと思う。
二人とも心配して紅葉どころじゃなかったら、せっかく行って楽しめなかったら可哀想だ。明日は、二人揃ってあさってと2連休を取り、部屋の掃除やら洗濯やら布団干しやら、
すぐに食べられる物を冷蔵庫に用意するそうだ。いやいや私は台所には立てるくらいは元気だぞ。そんなにしなくてもいいんだ、
どうも二人ともぎりぎりまで言わなかった事に、後ろめたさを感じている様だ。いいんだ、二人の気持ちは解ったんだ、そんなに気を遣う事ないぞ。
明日は午前中の天気はイマイチの様だ、布団なんてそんなに干さなくても死なないぞ。うちに布団乾燥機はないが、もう少し年取って、干したり取り込んだりがしんどくなったら買おうな、そのために貯金もしているんだ。
二人を見ているといじましいな。なんかしないと私に悪いと思っている様だ。きょう(もう昨日か)も、風呂上がりに妻が洗面所をみがき、妹はトイレ掃除をしていたんだ。二人は苦笑いをしながら、
「罪滅ぼしね」「ゴメンね💦」と言っていたんだ。罪なんかないぞ、私も言ってない事あるしな。
12月中頃からでも事務仕事をしたいと思っていた矢先の検査だ。悔しいが、悪化させるより治す事が先だ。焦らずに、医者の言う事を聞こう。評判の良い先生だ、ヤブじゃないと思っている。
今さら不安になっても仕方ない、なる様になる。せいぜい頑張って治すぞ。
おやすみなさい。🌃
過去レスをいくつかに区切って読み返してみる。妻も妹も、弟君も皆、悲しい過去だった。
皆それぞれに、気持ちを持ち寄って一緒にいる気がする。誰かが欠ける事による不安や悲しみ、自分が必要とされなくなる不安や悲しみ。
これは、毒親に育てられなくても皆そうなんだろうか。昔、私が高校生の頃、「僕は別に人に好かれようと思って学校に来ている訳じゃないから、勉強さえ出来れば友達なんていらない」ってヤツがいた。変わったヤツだと思ったが、
そいつはそういう考えを持つ様な家庭で育ったんだろう。私は友達を失うのは嫌だった。絶対に嫌だった。
親に邪魔者扱いされ、友達までいなくなるのは耐えられなかったんだ。けれど悪いヤツとは付き合いたくなかった、あのクソ親父を思い出す嫌悪感があったからだ。
真面目で人当たりのいいご両親の子がグレたり、それこそ弟君の様に、親父さんがお袋さんに酷い事する様な家庭で育っても、弟君の様に人の好い人柄の人が育ったりするので、一概には言えないが、
大抵は親の、家庭の影響がほとんどその人の人格を形成していると思っていた。違うのだろうか。もちろん、頭の先から足の先まで完璧な人なんていない。
私の頑固があのクソ親父の血を引いているのかと思うとゾッとするが、妹の様に、よくあんな親から、私に少ない小遣いを貯めて、虫さされに効く薬を買ってくれる様な優しい女の子が育ったな、と不思議になる。
親子、兄弟姉妹の関係は難しいとつくづく思った。
二人は決して毎月こんなペースでお金を使っている訳ではなく、普段は100均で済ませ、リサイクルショップで300円位のセーターを買い、
美容院は高いからと、市販の白髪染めを買って来て、互いに染めっこし、貯金もしている。先月の紅葉ツアーが余程楽しかったんだろうな。
ただ、私が参加出来ない事で、私に悪いからどうしようか、今回のツアーは我慢しようかと迷っていた様だった。けれど、妻も妹も、
私のために行きたいのを我慢してやめたと私が知ったら、きっとその方が気を遣うと思ったんだろうな。何も悪い事する訳じゃないんだ、堂々と行って来ていいんだぞ。みんな、いつまでも若くないんだ、
行けるうちに行って来い、な。二人が普段、金銭的にだけでなく、家庭内の、3人で決めたルールもちゃんと守っている事も、協力して暮らしている事もよく知っているぞ。
妻がしばらく、私さんだけ仲間外れみたいなのは悪いと言ってくれたそうだが、妹は、お姉ちゃん、私たちの今までの結び付きからして、お兄ちゃんは、自分だけ仲間外れにされたなんて思わないよ、と言ってくれたそうだ。
そうだ、二人が黙ってた事も冷静に考えたら、基本は、3人で行くところ、私がこんなで行けないから言い出しにくかったんだ、と二人の気持ちの動きが解る。
この令和元年最後の紅葉ツアー、行って楽しい思い出を作って来るんだぞ。
なんだかんだで、あと80レスで終わりなんだな。もう500レス書くほど根性も時間もまとめられる文章力もない。ずっと50数年を振り返ってみた。
色んな事があったし、これからもあるだろう。きょうは、アナ雪がまたテレビに入ってたな。二人はまた見ていた様だったが、2作目は映画館に見には行かないそうだ。
今秋、紅葉見物にお金使ったから、何かは我慢しよう、と二人で話し合った様だ。映画くらいいいのに、何でもかんでも好きな事にお金使ってたら、貯まらないからと。二人はそういうところがあるな。
私が会社の人に、俺さんは自宅で体調を崩されたり症状が出た事ないんですか?と聞かれ、退院して3回はあったと話し、そのたびに妻と妹でバイトから帰宅して、私の看病と家事と、次の日のバイトのため、好きな事もせずに寝て起きて、バイトへ。
頑張ってくれている。紅葉を2回見に行くくらい、いいし、映画見に行ってもいいんだぞ。遠慮される方がつらいぞ。
私は、体調の悪い時は薬を飲んで横になってるだけだ。そういう時、疲れていてもメシだけは作っていってくれる。ありがたい。
体調の良い日は出来るだけ私が家の事をするから、あまり気を遣うな。な。
明日は私が病院だ。5時起きなので、また時間をみて書こう。
おやすみなさい。🌛
本当?行ってもいいの?ありがとう!😆💕✨っていやいや、もう参加するって決まってるし。😽
絵文字って恥ずかしいな。50後半男が使っていいのか…。そんな事より、これからは同時進行で連絡するんだぞ、悪いとか思うな。
うん、と二人。いつ言い出そうか迷ってたんだな。旅行代はまたひとり1万円だそうだ。それでも二人は、今秋は、いつもよりお金を使ったから(もうツアー代金は振り込んだそうだ)、これからは節約生活して、
私に栄養のある物を食べさせてくれるそうだ。ありがとうな。行った先で不憫な思いをさせたくないので、とりあえず、小遣いとして二人に五千円ずつ渡した。始めはいい、いいと受け取ろうとしなかったが、
私が、いいから、と言ってなんとか受け取らせた。妻と妹が黙ってた気持ちは痛いほど分かるんだ。私は基本、ずっと家にいるもんな、女性二人でまた出かけたくなったんだろう。
しっかり、紅葉を見て来い‼な‼🍁
ここ数日、妻と妹がなんだかソワソワしているので、なんだろうと思い、聞いてみると、
二人して、妹ちゃん言って、え、お姉ちゃん言って、となかなか切り出さない。なんだ?困った事か?と思い、
ちゃんと聞くから言いなさい、と言うと、どうも二人は今月、伊豆に紅葉を見に行きたいらしい。
いや、もう観光バスの席は押さえた様だ。なんだ、早いな。で、いつだ?と聞くと、来週の火曜日だと言う。え?19日?あと4日後じゃないか‼なんで黙ってたんだ?と聞くと、
あなた(お兄ちゃん)が今、日帰りでも体調を考えたら行けないから、二度も二人で悪いと思った、そうだ。確かに私は休職中の身だし、
また観光中に頭痛、目眩、嘔吐に襲われたら皆さんに迷惑をかける事になるので、私は今秋は諦めて、写真で楽しむ事にしている。
けれど、二度だって、日帰りで仲良く二人で紅葉見に行っていいんだぞ、私がダメだなんて言うはずないだろう?バイトをそれぞれ1時間ずつ増やしたんだ、二人ともこの3ヶ月半、よく頑張ってる、
私の分も、行って来い‼な、家族がどこかに行くのを気持ちよく送り出してやりたいんだ。
正直に言えば、私も行きたいが…。
すみません、写真を5枚も載せましたら、半日以上、パケット通信が出来なくなってしまいました。やっと繋がりました。ガラホのせいか解りませんが。
朝早いので、今回はこれで失礼します。
おやすみなさい。🌛
m(_ _)m
桃缶の叔父さん、お元気ですか。妻がそう言うので、私もなんだかそう呼ぶ様になった。妹は、妻と会話しているうちに、「缶」が取れて「桃叔父さん」と呼んでいる。昔は叔父の名前で○○叔父さん、と呼んでいたが。
こんなふうに、家族が増えて、人の呼び方も変わるんだろうな。この感覚は世間並みだろうか。叔父は、妹に「ももおじさん」などと呼ばれているとは、よもや思いもしないだろうな。
悪気はないんです。愛嬌なんです。また焼酎送ります。ところですっかり存在の薄くなったパイナップルは…。
あの小箱の中に、ガチャガチャで当てた、リスのキーホルダーとパイナップルのキーホルダーが仲良く繋がってたな。そして昭和50年代半ばのヨーヨーのしぼんだヤツ、中身の無くなった、痒み止めの塗り薬の入れ物、アイドルグループさんのコンサートチケットの半券、
本当にあの小箱の中にはまだまだここにエピソードを書いてない思い出の品々が入っており、あの小箱の中に、まさに昭和から令和まで詰まっている。
嫁ちゃん、妹、弟君、君たちみんなが間違いなくそこにいた歴史が、小さな箱の中で生きているんだ。どんな立派な教科書の年表よりも確かだ。大切にするぞ。
きょうは寒かったな。冬用掛け布団に替えて良かった。あれは二人の人間が四つ角を持ってやった方が、早く終わる。ひとりでやると時間がかかってしょうがない。
ついこの間、夏だと思っていたら、秋になり、そろそろ初冬だろうか。色んな事のあった1年だったな。まさか自分がこんなに長期休むとは思ってなかったな。
妻や妹も、本当に私を助けてくれたんだ。また1日も早く仕事に戻って頑張りたい。
毒親の事を書いたが、今もしあんなやつらが80代でも元気でいたなら、私や妹が生まれた時、喜んでくれたのか聞いてみたい。
また、私と妹との4人家族に、どんな幸せな将来を思い描いていたのかも聞いてみたかった。
人間、不幸になる未来の自分なんて誰も想像したくないだろう、幸せになっている自分を想像するから生きて行けるんだろう。
あの親父、あのお袋、どうしてうちは、家庭として機能しない家だったんだろう。子育てに疲れたなら疲れたで、他に愛情を注ぐ方法はあっただろう。
妻のお袋さんや兄弟姉妹さんにも聞いてみたかった。今となっては、妻の気持ちも考えたら、あちらの人らには会いたくはないが。
年々、年を取ったな、とつくづく思う。12月に事務仕事にだけでも戻れないだろうか。今週末また病院だ。お医者さん、仕事させて下さい。
何も、家事が嫌いな訳じゃないんだ。本当なら現場仕事に復帰したいんだ。
よくよく考えると、私は私の我儘や、自分のためだけに、二人に、生まれて来てもらって良かった様な言い方だな。
違うんだ、例え妹に、私でない兄か姉か弟か妹がいても、あんな親じゃない家庭に生まれて幸せに育ってくれればそれで良かったんだ。
妻も、私と結婚しなくても幸せになってくれていればいいんだ。けれど、きっと二人は優しいから、私に温かい言葉を言ってくれるんだろうな。
この機械オンチの私が、ガラホから動画が見られる様になった。初めは安全地帯さんの音楽を聴いていたが、最近は、見ず知らずの方の動画を見て泣いてしまった。
それは、結婚披露宴で花嫁さんの父親が、中島みゆきさんの「糸」を歌われ、歌詞の最後に、娘婿さんと娘さんの名前を入れて歌われていたんだ。
私は何百レスか前に、「糸」はいい曲だと思うが好きかと聞かれたら複雑だ、みたいな事を書いたと思う。けれど、この見ず知らずの方の、娘さんの晴れの日に歌ってらしたのを聴いて、素直に感動して泣けてしまった。
もし、妹と弟君の結婚披露宴で、妻と私の結婚披露宴で、それぞれの花嫁の父親が「糸」を歌ってくれたら、
私たちがそれぞれ子供のいる人生を送れて、娘が結婚する事になった時に、私や弟君が歌ってやれたら、と、幻の様な想像をしてしまったんだ。
すべては幻で終わったが。なんと素敵な親父さんなんだろう。私との年の差も5つ以内の方の様だ。
けれど、もう1つ大問題があったんだ。それは…
弟君は歌が上手く、私は音痴だという事だ。やはり別の意味でも愚かな幻の様だ。
私たち3人が、1度でいいので親に言われたかった言葉がある。
生まれて来てくれてありがとう、だ。
赤ん坊の頃、言われたんだろうか。いや、あの人らが言うとは思えない。だから、私は妻と妹に心から言いたいんだ。
生まれて来てくれてありがとう。
小さい頃、妹がいなかったら、私はもしかしたらとんでもないワルになってたかも知れない。
でも妹の存在のおかげで、グレないで済んだと思っている。
妻は、生まれてから辛い事ばかりだったろうけど、今の私には、なくてはならない人だ。だから、生まれて来てくれて、私は嬉しいんだ。
直接言った事ないな。照れくさいんだ。何かの時に言うか、メールで伝えよう。もちろん、ひとりずつに。
でも本当は、両親に言われたかったな。嘘でもいいから、と言うと悲しいが。あんなに邪魔者にされて来たんだ、生まれて来なきゃ良かったなんて思うもんか。
頑固な私と、譲り合う二人。でも今まで生きててくれたんだ、私がこの頑固さで二人を守らなきゃな。
これからも幸せな毎日を送って欲しいんだ。
とても気恥ずかしい話だが、結婚前に妻と、ホテルに行った事ないのか、と思われそうだが、1度もないとは言わない。
けれど妻は、洗面所にかかっていたバスタオルはとうとう使わなかった気がする。小さいタオルで身体を拭いていたんだろう。私もジロジロ見た事はなかった、恥ずかしかったんだ。この話はもうおしまいとして。
後で妻に聞いたら、バスタオルを使ったら有料だと思っていたそうだ。私にお金を使わせたくなかったそうだ。嫁ちゃん、あのバスタオルはその、あのお部屋に入ったら別料金じゃないんだぞ、使って良かったんだぞ。寒かっただろうに。
いや、歯ブラシやバスタオルから、こんな恥ずかしい話を書くつもりはなかったんだが。私は本当に書くのが下手くそだな。
風邪ひかないでな、嫁ちゃん。妹も、弟君が心配するからな。
妻の空白の8年間については、妹の方が何か知っているかも知れない。
妹は妻に、お姉ちゃん、辛い事聞いてごめんね、バスタオルや歯ブラシ、どうしてたの?と聞いた。
妻は、うん、歯ブラシはね、兄弟姉妹が使わなくなってゴミ箱に捨てたのを拾って使ってたよ、あとバスタオルは、使った事ないの、
家族の誰かの、ボロボロになったタオルを2枚か3枚、親が雑巾にする直前に、これ使わせて下さいって言って、返事はないからそのまま使ってたよ。擦りきれてても、3枚もあれば嬉しかったよ…
言葉もなかった。私と妹はまだ妻よりマシな生活してたんだ。
バスタオルの古くなったのはもらえなかったのか聞くと、お袋さん(クソババアと書きたいが、良くないので我慢する)は、面積が大きいため、使わなくなったバスタオルはどこかに持って行ったか処分したらしい。
妻が23で私と知り合うまで、どう生きて来たかどうしても話してもらえないが、バスタオルを使う習慣がなかったんだろう、
ずっとタオル数枚の生活を送っていた様だ、私と結婚し、おそろいのバスタオルを2枚買って初めて、
わぁー、バスタオルって大きいね、と言ったのを思い出した。
病院の待合室や、病院の往復の間、色んな親子を見かける。
キャーキャー奇声を発して走り回る子を、全く注意もしない親、懸命に静かにしなさいと何度も注意する親、
道を歩いていてすれ違う時に子供の顔を見ると、明らかに親に怯えている子、子供が元気なら他人に迷惑をかけていても笑っている親、
さまざまだ。公衆道徳を全く教えない、躾ない親もどうかと思うが、私が気になるのは、親に怯えている子だ。
遠い昔の妹を見ている様な気になる。子供は親を好きでいたいんだ。けれどその親が、子供に恐怖心を与えていたら、子供は心のよりどころも何もあったもんじゃない。
イジメられたりした時、自分を無条件に守ってくれる筈の、最後の逃げ場であるところの親が、自分を攻撃して来る。親からも逃げなければならなくなる。
悲しくて悲しくて、あの子、辛いだろうな、と勝手に想像してしまう。
今は子供だけど、いつか大人になったら、そんな人間らしい生活の送れなかった所から、出て行くんだ、頑張れ、18才まで我慢するんだぞとやはり勝手に思ってしまう。
本来、子供から見た親は、怯える存在じゃない。もちろん悪さをしたら叱る、なぜいけないのか教える、しっかり抱きしめてやる、
親子の関係が悲しいものであって欲しくない。妹も妻も私も、どれだけ学生時代、家族の話を楽しそうにしている同じクラスの人が羨ましかった事か。
休み時間、友達といるのは楽しかったが、家族の話だけは嫌だった。妹の話くらいしかしなかった気がする。
バスタオルがない、歯ブラシもない、妻の寝る布団がない、妹が「どうやって夜寝たの?」と聞くと、ソファに寝ると意地悪な兄弟姉妹に横たわれない様に、重いものをソファの上に置かれて横たわれないので、
床の上に新聞を敷いて寝たそうだ。もういい、もうやめてくれ、妻の鬼畜家族。修学旅行や遠足に1度も行かせてもらえなかっただけでも酷いと思ったが、
こんな壮絶な扱いを受けていたなんて、あんまりだ。妹も獣親父に酷い目に合ったが、私が親父に「やめろよ!」と馬乗りになって殴り、妹は未遂で済んだ。
こんな事書くつもりはなかったのに、二人の仲の良さが不自然だとよく周りに言われるので、
『おまえらに二人の生い立ちの何が解る?!』と何度か心の中で叫んだ。そりゃ、一応私も社会人だ、「おかげ様でウマが合いまして」とか「それなりに色々ありますよ」と笑ってごまかすが、
妻と妹の結び付きは、毒親による毒家庭で育った者にしか解らない。
嫁ちゃん、ごめんな。妹も、な。
明日、3人でマクドナルドへ行こうな。好きな物を注文して、腹一杯食って、楽しい時を過ごそうな。
まだ昼間は暑い時間帯があり、衣替えは私もしたものの、冬用掛け布団にいつ替えたものか、3人とも迷っている。
というのも、今のこの時期、夏用掛け布団にタオルケットで充分なんだ。ちょっと厚着して寝ると、そのタオルケットすら朝になるといつの間にか暑くてよけていたりする。
こんなふうに、家の中の事をあれこれ考えるのも家庭なんだなぁ。小学生のうちから母親に丸投げされて、やらないと親父に殴られる怖さからしぶしぶして来たのとは、妹も私も訳が違う。
妻と3人で話し合って決める。おそらくよその家庭とは色んな面でトンチンカンかも知れない。けれど、3人とも、この温かい生活を壊したくないんだ。
妻は、家族に無視されて来たと何度も過去レスに書いたが、人間、本当に家族に無視されて生活をしなければならないというのは、想像を絶する。
最初から一人暮らしならわかる。けれど、ウン人家族でひとりだけ無視される事の辛さは、子供の頃からでは、一人暮らしも出来ず、
何もかも、子供の時から仲間外れの中から妻はやって来た。
質問に答えてくれない。ひとりだけ食卓を囲ませてもらえず、
ミカン箱をひっくり返した上に、フチの欠けた茶碗と塗装の剥げたおわんに自分で一人ぼっちでご飯と味噌汁をよそい、藁に包まれた納豆が1つとたくあんが3切れだか2切れ。
妻以外の家族は楽しそうに鍋をつついていたそうだ。妻は、口角をあげて、笑い話にしようとしていたが、目も鼻も真っ赤で、声が震えていた。
妹は耐えられずに妻を抱きしめて泣いた。何度思い出しても、妻の家族は理解出来ない。
妹が化粧品のサンプルで肌にトラブルをおこした時、私はその昔、現場仕事で毛虫退治をし、その際、何ヵ所か毛虫に刺されて痒く、
妹は少ない小遣いで私に痒み止めの塗り薬を買ってくれた事があった事を思い出した。
あの時、妹は特に私の虫さされが移ったとか、かぶれた、痒がった、塗り薬にアレルギー反応をおこした、などは一切なかった。10代だった事もあったとは思うが、
50を過ぎてから身体や顔などに現れるなどという事は、あるのだろうか。人間の身体は複雑だ、特殊な環境におかれ、異常な緊張状態の時は何も現れなくても、
人間らしい生活を送れる様になってから、症状が出る事もあるのだろうか。なんだか、もし自分の虫さされも少なからず関わっていたら、妹に申し訳ないと思った。
当日を含め、妻の機転で3日で元に戻ったが、同じ物を顔にぬって、妹だけ病院沙汰になったのが、気になった。
けれど、この事で妻はやはり心を痛めていたし、妹は私たちに気を遣わせたくないと振る舞っていたのが伝わって来たので、
ほじくり返すのは止めた方がいいとも思っているんだ。妹、ごめんな、嫁ちゃん、ありがとうな。
毛虫退治なんて何十年してないだろう。
スレ主です。どうにかこうにか、5分の4までレスする事が出来ました。
また話は昭和や平成に戻ったりすると思いますが、こんな下手くそな独り日記をここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます。🙏
昔を思い出しながら、あと100レス、頑張って書いていきたいと思います。
m(_ _)m
そう言えば、2年以上前だったか、薬局で買い物をした二人は、レジで某化粧品会社の、化粧水と乳液のサンプルをもらって帰宅した。その時私は仕事で居なかった。
二人はさっそく、洗顔して、そのサンプルを顔に付けてみたが、妻は何でもないのに、妹は、顔がヒリヒリして痛いと言って慌ててぬるま湯でそのサンプルを洗い流したそうだ。洗い流してもまだヒリヒリ感が引かず、頬っぺたがみるみる赤くなっていったらしく、
妻は、妹の手を引いて、皮膚科へ連れてってくれた。事情を話し、診てもらい、処置してもらった。
妻の機転だった。2日後には綺麗に治っていた。妹の肌に合わなかったんだろう。同じ物を付けて、妻は何でもなかった訳で、これはメーカーさんに言う事じゃないね、となったと言うが、
妻は、妹ちゃんの顔になんかあったらイヤ、同じ女として辛い、と言ってくれたんだ。それで、妹がバイトでいない時に、妻はその化粧品メーカーに問い合わせ、
こういう例もありました、と話してくれたんだ。相手方はとても丁寧に謝罪してくれたそうで、皮膚科の治療代を当社より支払います、まで言ってくれたそうだが、
妻は、お金はいいです、こういう事がありました、とお伝えした方がいいと思ったので、と、揉める事もなく、終わった事があった。
もし妹がひとりだったら、ちゃんと皮膚科へ行ってただろうか、少し心配したが、妻のおかげだったんだ。
お姉ちゃんありがとう、どうしようって焦ってしまってたよ、病院にすぐ連れてってくれてありがとう、と妹は妻に泣きながらお礼を言ってたし、
妻は、大事に至らなくて良かった、これから何でも手の甲で試してからにしようね、とやはり泣きながら二人はハグしてたんだ。
嫁ちゃん、あの時はありがとうな。本当の家族だと強く思ったぞ。
妻も妹も、外見だけは頑張っている。こんなふうに書いたら二人に悪いか。
コラーゲンが1本になんぼだか入っている小瓶を1日1本、寝る前に仲良く台所で飲んでいるんだ。あと、粒状の何だかも飲んでるんだ。ヒアルロン酸?とプラセンタ?とか、それらに金かけているらしいが、
二人ともバイト代から買っているそうで、私は生活費以外何も出してやってない。それに、白髪も染めているなぁ、と思ったら、
美容院は高いから、伸びた時にカットに行く以外は、市販の白髪染めを買って来て、お互いに染めっこしているんだ。
「あなた(お兄ちゃん)、染めっこって言葉、おもしろい‼😄」と、なんだかウケた。そうか、でもお互いの白髪を交代で染める事を何て言うんだ?染めっこ以外、浮かばないが。
確かにあれをひとりでやるのは、真後ろなど大変だ。二人で協力し合うのはなかなか良い事だな。
弟君、安心してくれ。妹と妻は、色々と決め事をし、1日を、1週間を、1ヶ月を、人間らしく生活しているぞ。及ばずながら、私も力になってやりたいと思っているんだ。
私が今年の7月下旬に退院して、自宅療養になってからも、私の回復に合わせて、3人暮らしのスケジュールやルールを決めて生活しているんだ。安心してくれ、な。
何曜日だったか、妻と妹で、衣替えをしてたな。半年前までは私が仕事で居ない時に、二人が休みの時にやってたそうで、ここで3人で暮らす様になってから、初めて見たんだ。
「妹ちゃん、これまだ着る?」「あ、もう着ないかな、お姉ちゃん、これクリーニング屋さんに出す?」「ん~、クリーニング代高いから洗濯してしまうね~。」など話している。ん?いくら仲良くても、服は別々じゃないのか?
と聞くと、全部ではないが、お互いが納得している物は、共有しているらしい。あの通販の、4本8000円のズボンみたいに。普通の家庭で育った人の感覚は私ら3人には解らん事もあるが、
二人は、一緒に暮らしている同性と、服の貸し借りが出来る事が本当に嬉しいんだそうだ。二人は楽しそうだ。私の服の量の倍くらいはあるが、二人はずーっと、リサイクルショップで300円位で買ったセーターなどを大事に着ている。なので、1本2千円のズボンは、二人にとっては高い物らしいんだ。
ごめんな。そんなに安い物ばかりじゃなくていいんだぞ、と言ったら、老後のための貯金もしておきたいそうだ。クリーニング代位出すぞ、と言っても、本当に出さなきゃならない物はちゃんとクリーニング屋さんに出してるからね、と明るく返事が返って来たんだ。
今、病院の待合室にいる。
ここに書き始めた頃は、100レス続くだろうか、と自信などなく、なんとかこんな下手くそで酷いものでも読んで下さっている方がいて下さり、
もう少し書いてみよう、と続けていたら、200レス、300レスと書いて来られた。そしてもうすぐ400になりそうだ。
突然昭和に戻ったり、平成の出来事を書いたり、令和の、つい昨日きょうの事を書いたり、一貫性も計画性も何もないレスで申し訳ない内容なのに、
懲りずに読んで下さっている方、本当にありがとうございます。
ここまで書いたので、なんとか仕事復帰までに、500🈵レスまで書いてみたいと思っています。
いつも、本当に本当に、読んで下さってありがとうございます。
m(_ _)m
たまに、例の小箱の中を見てみるんだ。となりの箱の恐竜のチビたちもかわいいが(妻と妹にはかわいくないらしい、なぜだ?)、
昭和50年代半ばのヨーヨーのしぼんだやつが一番の古株で、あとは妻と妹がファンだった、アイドルグループ、光ゲンジさんのコンサートチケットの半券などが入っているんだ。
裏を見ると、丁寧に、年月日の他に、二人のフルネームが書いてあった。そうか、こんなふうに書いておくと30年近く経った時に懐かしく見る事が出来るんだな。
この30年間、色々あったな。人の半生を1から書いたら、500レス以上にはなるだろう。もちろん思い出しながら書くのと、その日に書くのでも違うだろうし。
その時は書けなくても、歳月を経て書ける事もある。世の中の人は皆、悲しみや悔しさや、理不尽な思いをどうにかして乗り越えて来られたんだろうな。
辛くても、何かが心の支えになるんだ。皆、ささやかな楽しみを見付けて生きているんだろう。
私も妻と妹との、いや弟君も含めた4人家族を支えに生きていこう。妹は、今も変わらず毎朝お仏壇を掃除しているんだ。
この頃は、朝寒く、日中は少々暑い。こういう季節は、妻も妹も、私もかも知れないが、自律神経をやられる。二人とも動悸や不安感が強くなる様だ、出来るだけ安心して生活させてやりたい。
私も眠くてかなわない。洗濯物たたみがいつになく億劫になっている。現場仕事で一番しんどいのは真夏の炎天下なのだが。クーラーのない所での仕事だ。
真冬も辛いが、やはり1日のうちに寒さと暑さが交互に来るのは、着る物にも困る。家に1日おられる主婦の方も、ご体調にはお気を付けて下さい。
毎年、11月はこんなだったろうか。私が年を取ったのも大きいが。どうも身体がなまって良くない。かと言って運動などしてまた医者や家族に叱られるのもバツが悪い。
きょうは具をたくさん入れた味噌汁を作ろう。そう言えば、二人が百円ショップで買って来たクリスマスグッズを見かけないので聞いたら、
あれは12月1日に部屋に飾るそうだ。女性がいると、部屋の中が華やいで綺麗だな。昔、辛い思いをしたんだ、二人とも、幸せに生きろ、な。
これからも楽しい思い出をたくさん作ろうな。
きょうは二人とも3連休明けの休みで、ゆっくり休んでもらっている。テレビで再放送している「おしん」を3人で見たんだ。登場人物のうちのひとりの女性が亡くなる、というストーリーだった。
妻と妹がボロボロ泣いている。もちろん私も、可哀想な最期だな、とは思ったが、二人の号泣には驚いた。またしても妹めが、「お兄ちゃんたら泣かないなんて冷たい」と、なんだか悪者になっている。
いやいや、そちらはドラマで、あんたら二人の人生の事実の方が私には充分、泣けましたから。男はそんなにドラマでは泣かないが。私だけだろうか。男性でもドラマや映画で泣くヤツいるのかな。
世の中色んな人がいる、ドラマで泣く男性もいるだろうな。悪い訳でもない。ただ私は現実の方が泣けるんだ。脳ミソの違いかな。
今晩のメシは、何を食おうかな。そっちが大事だ。けれど余計な事は言わないでおこう。そう言えば、女優の田中裕子さんの演技力はすごいな。そこは二人と話が合ったな。
昭和58年と言ったら、私はもうハタチを過ぎてたな。まだ嫁ちゃんと知り合う3年位前かな。
病院から出してもらっている薬でなんとか家事が出来るので、助かっている。私もそろそろプーさんのエプロン取ろう。今年の6月までは、後半、こんな生活しているとは想像もしていなかったな。
おかげで、妻と妹が交代で大変だった事も解ったんだ。それだけでもありがたいと思わねば。
もう冬用の布団に替えないと。ああ、衣替えもあったな。いつも二人は、「あなた(お兄ちゃん)、無理しないでね」と言ってくれるが、私にしてみれば、3人分の家事を毎日するのは結構大変だと思った。
妹と二人で暮らしてた時、妻と二人で暮らしてた時、若かったからか体調が良かったからか、家事が苦ではなかった。けれど今だって決して苦ではなく、面倒だな~と思いながら、気持ちは幸せなんだ。解るかな。
子供の頃の家族には、愛情を感じなかったから苦だったが、今は、しっかりと、幸せなんだ。
予定表を見て、そろそろ休もう。
おやすみなさい。🌛
m(_ _)m
嫁ちゃん、妹、3連休お疲れ様。この頃は朝寒くて日中暑い。体調くずさないでな。って私が言っても説得力ないが。
そろそろ鍋の季節だな。給料前は豆腐と野菜と茸類が多いが、二人とも私の分まで頑張ってくれているんだ、カキ鍋や白身魚もいいな。鍋は温まるし、3人の会話も弾むな。
あ、二人はいつでも会話は弾んでるな。最近テレビで女優の石田ゆり子さんをちょくちょく見かけるが、そのたびに妹は「お姉ちゃん似てる!お兄ちゃんにもったいない!」って、あのな~。確かに妻は私が言うのもなんだが、美人だ。でもな~、
私は弟君に妹がもったいないなんて思った事なんて…ちょっとだけあったが、そんな会話も弟君がいなくなってから出来なくなったな。
もうすぐ冬だな。クリスマスが来て、正月だな。24年か。色んな事があったな。
きょうは二人でバイト帰りに百均へ行った様だ。赤い、クリスマス飾りを買って来たんだ。また家の中がにぎやかになるな。
なんとか年内に事務仕事にでも戻りたい。30年以上同じ所に勤めたからと言って、在籍している会社から働いてない月の給料が振り込まれるのは心苦しい。私は、とにかく治さないと、このままでは、この生活に甘んじてしまう。
家の事をするのは嫌ではないが、また身体を丈夫にして、現場仕事に戻りたいんだ。
二人とも、きょうはゆっくり休んでな。また仲良く二人でスヤスヤ寝てしまった様だ。
私は、最初の会社の人、今の解体屋の仕事仲間と、お陰様で何人かつながりを持たせてもらっているんだ。プロ級の写真の腕前のヤツがいて、彼にはよく、京都や色んな場所の紅葉の写メを送ってもらう。
京都は、神社仏閣など、拝観料を払ってまで仕事の休みを取って行くヤツなので、彼の写真好きは半端じゃないが、良い趣味だと思う。すごいな。
私が、春の桜も嫌いじゃないが、紅葉が一番好きだと話したら、俺さんもですか?と、なんだか盛り上がって、以来、彼からはよく、私などが逆立ちしても撮れない様な綺麗な写メを送ってもらっている。
彼は独身だから、三脚まで持って写真撮影の旅に行けるのかも知れない。本当に、富士山の日の出から北国の雪の写真まで、どれだけ写真やカメラに財産をつぎ込んでいるんだろう。まあ、それも彼の収入での事、とにかく凄いとしか言い様がない。
私は、家族3人がほのぼの暮らす事が一番かな。
仲良く暮らしていれば、色んな形の家族があっていいと思っている。
この話を最初に妻に話した時、「それでどうなったの⁉妹ちゃんと会えたの⁉」と身を乗り出して聞いて来たっけな。
うん、会えてなきゃ今ここにいないし、と思いながら続けた。🐷🐮
どうやらお互いにお互いを探し回っていた様だ。人とはぐれた時は、片方が1ヶ所にじっと居た方が見付けやすいのだが、当時は携帯も何もなかった。
その遊園地には確か、クレープ屋さんがあった。何度か通ったので、妹もここを通ってるだろうと思い、
思い切って、そのクレープ屋さんのお姉さんに聞いてみた。
「あのすみません、この豚のぬいぐるみと同じ位の大きさの、牛のぬいぐるみを持った女性を見かけませんでしたでしょうか」と聞くと、
クレープ屋さんのお姉さんはニコッと笑顔で、「あ、その方でしたら、やはり牛のぬいぐるみを手に、同じ位の大きさの、豚のぬいぐるみを持った男性を探してらっしゃいましたよ。😊」と教えてくれた。
私も笑ってしまい、そのお姉さんにお礼を言い、兄妹で同じ事するな、と思いながら、少しして、なんとか妹に会えた。ちょっとベソかいてたな。
いくつか乗り物に乗って、クレープをいただき、夕方には遊園地を出た。34年以上前の事か。
妻は大笑いし、妹は、そんな事あったね~と、懐かしそうだったな。
遠い昔の事だ。あのぬいぐるみ、どこへいったんだろう。
私は勉強は出来ず、計画性もなく、文章も下手くそだ。が、運動神経は良い方で、時間の使い方も自信はある方だ。
おまけを付けると、UFOキャッチャーも、2~3千円あれば7~8個はゲットする。妹も知っていて、帰りの電車で困らない様に、UFOキャッチャーで取った物を入れる大きめのビニール袋をたたんで持参する。
ああいう時の百円はすぐ無くなるので、3千円以上は遊ばない、と決めてやるんだ。
その遊園地へ行った時は袋を忘れたので、1個か2個取ったらやめような、と話し、妹が四百円か五百円遊んで取れず、私の番になった。
私はまず、すぐに遊ばず、他の人がやっているのをよく観察するんだ。ここはアームの角度が90℃より鈍角で、出口前に滑り落ちる様になってるな、とか、アームの、景品をつかむ所がスベりやすくなってるから出口まで来る前に落ちる様になっているな、など、
取れそうかムリか、からあたりをつけて、取れそうな所にしか百円は入れない。男のくせに、と思われるかも知れないが、やはりゲットすると嬉しいし、妹も喜ぶので、色々考えて、ゲームに挑むんだ!
そこで、同じメーカーの、動物のぬいぐるみを2つ取った。丸い球状の、牛と豚だった。ポケットに入る大きさではなく、妹のバッグにも入らないので、1個ずつ手に持って歩く事になった。
妹は「私、豚の方、やだ💦」と言うので、妹に牛の方を、私が豚の方を手に持って歩く事になった。
そしてしばらく歩いて、私と妹は、園内ではぐれてしまった。
まだ妹と二人で暮らしてた頃だったかな、何しろ昭和の60年より前頃の事なので、記憶も怪しいが、両親から逃げて、あいつらはまだ亡くなる前だった事だけは覚えている。
その頃はバブルのはしりの時代だったと思う、給料は良かった。
妹は、家事以外の時間、図書館で本を読んだりして、私のいない間をつぶし、下手に外で働くと、あいつらに見付かって妹だけでも連れ戻されたら、私も妹も嫌だったので、家にいてもらったが、
図書館は目立つ様な所にはなかったので、スーパーの帰りも髪をカットする美容院も図書館も、あいつらに見付かる事はなかった。
それより(初めの方のレスに書いたが)、あいつらは私たちを探している様子がなかった。妹の銀行口座AとBのうちの、あいつらの知っている口座Aに振り込まれていたものを全部Bにうつしたが、
当時、銀行の人にさりげなく、うちの両親から電話なりなかったか聞いたが、全くありません、ただ、一度お金をおろそうとして、残高が30円位なのが分かると、おろすのをやめて(記録が残るらしい)、そのまま帰ったらしい。
世間体を気にするやつらだ、ハタチ前後の娘の口座から金をおろす事で、行員さんに訊ねたくなかったんだろう。それが幸いした。
私は休みの日、いくら逃げて来たとはいえ妹も毎日つまらないだろうから、二人で遊園地へ行ったんだった。
そこでちょっと面白い、今でも思い出すと笑える事があったんだ。
妹がつまようじで、桃でパイナップルを挟んで、妻に勧めてみたら、妻はおそるおそる食べてみた様だ。
妻「うん、混ざってたら食べられるかも」妹「本当?じゃいくつか作ってみるね‼」妻「う、うん、2個位でいいや。💦」私と妹「あはは…😊」やはり妻は、桃だけの方が良いみたいだ。
桃、パイナップル、桃のサンドと、パイナップル、桃、パイナップルのサンドを作るとして、輪切りのパイナップルは8等分、切ってある桃を2切れ使って1切れを4等分すると、
それぞれのサンドは何個出来て、それぞれの切った物は何個残るでしょう、って、算数の問題になってしまった。ちょっとめんどくさいが、まな板の上でやったら計算式はいらないが。
やはり妻は、筋金入りのパイナップル嫌いの様だ。妹ちゃん、工夫してくれたのにごめんね、と言いながら、コソッと桃の残りをつまようじで食ってたな。パイナップルはまな板の、自分から遠い方に置いていたんだ。
立ったままお行儀悪いが、3人でまな板の前で桃とパイナップルで盛り上がって楽しかったんだ。
順番に風呂に入って歯をみがいて寝た。私もそろそろ休むとしよう。
おやすみなさい。🌛
スレ主です。なんとか380レスまで書いて来ました。カブッたり感情的になったり、誤字脱字が相変わらずだったり、
本当に、ド素人の中でも下から数えた方がいい位の酷いものですが、
たったひとりでも、読んで下さっている方、本当にありがとうございます。独り日記のつもりでしたが、共感票を見てビビり、ミクルさんに調整していただき、
これは途中でやめたら、逆に申し訳ない、という気持ちに変わって来ました。
なんとか、昭和、平成、令和と、🈵レスまで書いてみたいと思います。
こんなものに時間を費やして下さって、ありがとうございます。
m(_ _)m
少しムキになり過ぎた様だ。私たち4人よりもっと辛い人生を送って来られた方もおられるだろう。申し訳なかった。
言い訳ばかりだが、人間、自分の経験が、世の中でどの位幸せの部類に入るのか考えた時、どうしても自分より幸せそうな人と比較してしまう。自分より辛かった人を見聞きしない訳ではないが、
比較の対象は、幸福な方になってしまう様だ。人によって違うのか。
私は今、ありがたい事に、やっと妻と妹と3人で幸せに暮らしているんだ、それで良し、としないとバチが当たるかも知れないな。
とにかく、親以外の人たちには恵まれて来たんだ。それぞれの人に感謝しなければ。
今回の仕事中のケガと見付かった病気も、なんかのバチかな。私は少し、謙遜する事を忘れていた様だ。気を付けねば。
3人でパイナップル缶と桃缶をいただこう。嫁ちゃん、妹がなにやら桃とパイナップルを小さく切って、つまようじで、パイナップルを桃で挟んでいたぞ、目つぶったら食えるかな?無理かな。
風呂上がりが楽しみだぞ。🍑🍍🍑
子育てが想像以上に大変なんだろう、という事は、ここミクルを見ても解る、が、みな一生懸命に母ちゃんしているし頑張ってる。少なくとも私たちの両親とか言うあいつらとは違う。
子供を殴って育て、無視して育て、18になったら我が子を金ヅルにし、金が無くなると夫婦で刺し違えて無理心中をはかって、辺り一面を血の海(ごめんなさい)にして死ぬ、これを当たり前の両親、夫婦だと思える人が、世間にどれだけいるのかは知らない。
逆に、どんなに子育てがしんどくても、子供の笑顔や寝顔を見ると幸せ、という人が、涙が出るほど羨ましいんだ。羨ましくて羨ましくて、世の中のどこに、そんなあたたかい父ちゃん母ちゃんがいるんだよ!と叫びたくなるんだ。
妹も妻も、悲しかっただろう。訳も分からず生まれて来て邪魔にされバカにされ、殴られ無視されて成長し、さあ、あたたかい家庭を築きなさい、って、ふざけんなよ。両親の壮絶な死を知り、家族はいいものって、ふざけんな。
いつか弟君が「家族っていいですね」と言って、4人が固まり、弟君が慌ててすみません、と言った事があったが、弟君は何も悪くないんだ。
弟君の言った、家族っていいもの、というのは、私たち4人の関係の様な事を言うんだと、私は即座に理解したんだ。誰が毒親のいる家族をいいものだなどと思うだろう。
きっとミクルの一生懸命な方々や、優しい方々、まともな感覚の方々には解ってもらえると信じている。
妻も妹も、バイト先でお子さんのいる人に聞いた事はないと言ってたな。そうだよな、あなたのご両親は毒親でしたか?なんて聞ける訳がない。自分の親がこんなでした、とも言える訳がない。
皆、自分が子供の頃、親にさんざん迷惑かけた事なんて忘れているか、記憶にないだろう、私も。
覚えているのは、親父に殴られた事、妹がしょっ中ビンタされてた事、暴言を吐かれた事、
妹が国語のテストで百点取って帰った時も、「百点取ったからっていい気になるんじゃない!」と怒鳴られた事、生きてて1度も褒められた事のない事、など、上げたらそんな事ばかりだ。
これが、まともな大人に成長してほしい、と願う親の育て方なのか?家族仲、親子仲のいい家族の子供はみんな、聞き分けの良い子だったのか?解らない。
私が人に感謝出来る様になったのは、やはり友だちに恵まれていたからなんだろう。ありがとな、この言葉は、他人から教わった気がする。ガキの頃から仲良くしてくれたみんな、ありがとな。楽しい事を教えてくれて、ありがとうな。
叔父からまた缶詰めが送られて来た。きょうは妹が休みで、妻も午後には帰って来る。
叔父にお礼のメールを送り(仕事中に私用の電話は出来ないだろうから)、また焼酎を送ります、と書き、
先日の、妻と妹のバスツアーで撮った、紅葉の前で二人が笑顔で写っている写メも添えた。
「お姉ちゃんに、桃缶を多めに取っておこうね」と妹。私は歩いて7~8分の所の事務所に、適当に缶詰めを見繕って持って行った。
この前助けてくれた後輩君がいた。事務所は、缶詰めを食べられる物が揃っているので、皆さんでどうぞ、と渡し、
少し仕事の話をして帰宅した。人と繋がっていると思うとありがたい。
フッと思った。母親とか言うあいつは、私や妹が小さい頃、人と繋がっていたんだろうか。育児で籠っていたのか?それは、そういう日常生活を送る事になると、想像は付かなかったのか?
保育所や幼稚園の知り合いは?昭和40年代の母親は、ほとんどが専業主婦だった気がする。
いわゆるよそのオバチャンも、私たちの母親の様に、子供を置いて、自分だけ実家に帰っていたのか?こういう謎は、男の私だけでなく、
家族にひとりだけ無視されて来た妻も、私がいなかったらどうなってたか分からない妹も、謎なんだ。育てる気のない子供をなぜこの世に誕生させたのか、自分たちの存在を否定したくはないが、
あいつらが理解出来ない。子供を生めば解る、という人がいるが、あいつらの様な毒親になったらと思うと怖くて子供のいる人生を選ぶ勇気がなかったんだ。
レスを読み返してみた。はっきりと記憶している事と、曖昧なところがある。3ヶ月を、普通に仕事して過ごしていると早いが、
こうして自宅で療養しながら過去を振り返って書き残して過ごすと、割りと長く感じる。
中には、こんな事まで書いていたのか、と、自分で驚いたりもする。消そうかとも思ったが、こんな物でも読んで下さっている方が押してくれた共感票まで消してしまうのは申し訳ない。
自分の感想と世の中の出来事、そして昔の自分の家族(と思いたくないが)と、今の幸せな本当の家族と、思い付きでバラバラに書いている。
もう少し、文才があったらなぁ、まとまりのあるレスの流れが書けたのにな。いつも、だいたいが「そう言えば」と浮かんだり思い出したりして書いている。
そしてこれはいくらなんでも、と思った事もいつの間にか書いている。本当に酷いもので、申し訳ないです。
読んで下さっている方、ありがとうございます。
m(_ _)m
事情を知っている人に、両親の事で警察の人がアパートまで来て、近所の人や、私さんの会社の人に知られなかったの?と聞かれた。
近所の人には、よくある姓なので、兄と妹で暮らしているうちの姓の人たちには全て聞きまわっていると警察の人が言ってました、と強気でキッパリ言い切ったんです、と話し、
どうか、私たちはなんでも警察の方にお話しますから、会社へは行かないで下さい、とお願いし、私も妹も特に警察のご厄介になった過去もないので、担当?の刑事さんは、むしろ同情的だった事を話した。
何がなんでも、妹の将来に傷が付かない様に、私は妹を守るために必死だったんだ。私のついた嘘は、人の心を傷付ける様な嘘じゃないと思っている。
妹が結婚する時も、妹は、弟君にちゃんと両親の死の真相を話した。弟君は、妹ちゃんが悪い事をした訳じゃないからと、一緒になってくれたんだ。それも、弟君自身、親父さんがお袋さんに酷い事をしているのを見て育って来たからだろう、
子供は何も悪くない事を理解してくれる人としか、私らの様な者は、一緒になれないんだ。だからだろうか、今、3人はどんな事があってもしっかりと家族でいたいんだ。
しばらくは地元の人にも会えなかった。妹は泣くばかりで、警察の人へ話すのはほとんど私だった。
あのまま4人で暮らしていたらと思うとゾッとする。もし私や妹の収入が無くなる様な事があったら、私たち兄妹も殺されていたかも知れない。私たちは、意を決して逃げ出して良かった。
親に、殺されるかも知れない恐怖や絶望や悲しみが解るだろうか。
そんな思いをして来たんだ、今の幸せを壊したくない気持ちは強い。
妻の、15~23までも、出来るなら知りたい、現実を受け止めてやりたいんだ、一緒に悲しんでやりたいんだ。けれど、妻が話したくないと言っている以上、ムリヤリ聞いてはいけないだろう。
嫁ちゃん、私は何を聞いても嫁ちゃんとは今までと変わらないぞ。
話は突然、昔に戻るが、人間誰でも、辛かった時期の出来事で、何十年経っても話したくない事と、今だから話せる事、と両方あると思う。
私も、こうしてここに吐き出して、気持ちがラクになる事と、どうしても1文字1文字入力したくない事とがある。
吐き出したい、でも辛い、そんな事は皆あるんだと思っている。
昭和の昔、両親とか言うあいつらが互いを刺し違えて無理心中をはかり、亡くなった時、私と妹は、逃げ出していて良かった。
地方の新聞に小さな記事が載ってしまった時、当然、両親の名前が載った。地元の人らは、私たち兄妹がいた事を知っている。
もちろん居所を知っているのは、あの、法律に詳しい、車を貸してくれた彼だけだった様に記憶している。いや、叔父と、親戚のお姉ちゃん(今は還暦過ぎ)に、教えていたんだったか?しばらく経ってから教えたんだったか?曖昧で申し訳ない。
当時、私と妹に、非難の声と同情の声の両方があった。新聞記事に、家庭の事情など載るはずもなく、ただ「この夫婦には、子供が二人いるが、行方不明だ。」と載った。
私たちはかなり実家から離れた所に逃げ、半年位?経ってから、両親はこんなバカな死に方をした。
幸い世の中にたくさんある姓だったので、偶然です、違います知らない人です、で通せた。妹には家事だけやっててもらってた時期で、私が当時の上司に、君の親御さんか?と聞かれ、全く知らない人です、としっかりと言った。
警察の人が聞きに来た時は本当の事を話したが、それはボロアパートでも家の中でだった。
正直、ショックしかあまり覚えていない。
二人はよく喋るんだ。聞いているだけで楽しいが、女性はあんなに喋って疲れないんだろうか、という位、昨年まで何度か乗った観光バスで乗り合わせたオバサマ方は、本当に、バスの車中、ずっと喋ってたな。
3人でバスの席を申し込む時は、妹が気を遣って、通路をはさんでひとり、私と妻で並んで座る様にと初めは座るが、私はあまり車内では話さないので、観光地からバスへ戻ると、二人が結局並んで座り、私が通路をはさんだ方に座る事になるんだ。
自然にそうなるので仕方ないんだ。私がバスに揺られて眠っていても、二人は、他のオバサマ方に負けず劣らず喋っている。いったい全体、女性は何をあんなに話す事があるのだろうか。
かく言う私も、ここには色々と吐き出して来たが。
今回の二人旅の写メを見せてもらった。私はガラホだが、二人はスマホなので、写りも綺麗だ。紅葉をバックに二人並んで写っている写真は、二人とも美人だぞ。
二人の話は尽きないんだ。添乗員さんはこんな感じの人だったとか、昼飯が美味かったとか、楽しそうで、本当に良かった。
私も早く治して一生懸命働いて、来年の紅葉はまた3人で行こうな。荷物持ちになってやるからな。
それにしても、男が女性ほど喋ったら疲れるだろうな。昔、弟君と飲みに行った時も、男は、「そうか」「そうだな」で会話が終わる。相手の話を聞いてない訳ではないんだ。ただ、あんなに、のべつまくなしには話せない。
男女の脳の違いは、面白いものだな。
そうか。せっかく築き上げたあたたかい家族だ、壊したくないのは私も同じだ。何度も書いたが、妻と妹が、ウマが合って本当に良かった。
幸せが何だかよく解らず、妹は、弟君を無くし、妻は妹を大事に思ってくれて、妹も妻を「お姉ちゃん」とまで呼ぶ様になったんだ。私が頑固を少し反省しないといけない。
神様に、今は感謝している。あとはこの厄介な病気を早く治してくれます様に。
「これ、おいしいね」とか「これ、おいしくないね💧」と言って3人で笑いながらメシを食う。他愛もない事が幸せだ。
カエルやトカゲや恐竜のキーホルダー、大事にするからな。嫁ちゃんも妹も、ありがとうな。
時々、仕事の事で事務所にいる人と話す。私がまだここに独り日記を書き始める前から、妻と妹の仲が良い事を羨ましがる人や、不思議がる人がいる。
人間、どんなに仲良しでも、1つの不平も不満もない人なんていないだろう。けれど、皆、折り合いを付けて、なんとか人と仲良くやっていこうとしている。
それが妻や妹の様に、特殊な環境で成長しなければならなかった人は、私もかも知れないが、
若い頃、幸せになっている自分、という姿が具体的に想像出来ないで生きていたんだ。ただ、両親みたいにだけはなりたくない、と漠然と思って来た。
それが段々に、周りを見て、そうか、この人はこんな将来を夢見ているのか、と、他人さんの影響を受けて、色々変わって来たんだろうな。
妻と妹も、本当にそれぞれがいない所で悪口を言っているのを聞いた事がなく、むしろお互いを心配し合っている。
一度(過去レスに書いたかも知れないが)、「嫁ちゃんと妹ってさ、ケンカした事ないのか?」と、ストレートに聞いた事があった。二人はサッと顔を見合わせ、「ケンカ?…」と、キョトンとしているんだ。
二人の話をよく聞いてみると、どうやら互いに、あたたかい家庭も、仲の良い家族も知らずに育ったため、今の幸せを、自分の我を通す事で壊したくない、二人それぞれが、特別何かをガマンしていると言うより、
自己主張をして、嫌われるのがこわい、悲しい、自分の考えが通っても、二人に嫌われる方がイヤ、こんなに良くしてくれる二人(私も入れて)から、離れて行かれる方がつらくて耐えられない、そうだ。
きょうは皮肉にも青空だ。二人とも(パン屋もカラオケ店も)、土日は書き入れ時で、バイトに行った。50代でも元気ならまだまだ働ける、私も、職場で症状が出なければ仕事したい。
医者には、治らない病気ではないから、焦らない様に、と言われたが、テレビで解体屋さんと思われる方をチラッとでも見かけると、私だって現場で重い物でも重機でも動かせるのに、と、つい自分にイライラしてしまう。
けれど、周りにこの前の様な迷惑をかける訳にはいかないので、今は家で出来るだけの事をしよう。私は、あいつらと4人暮らしの時からこの仕事をして、
50を過ぎてから事務仕事になったが、今シーズンの様に災害が多いと、50代だろうが、人手が必要な時は、現場に駆り出される。
もちろん、災害、被害がないのが一番だ。が、起きてしまったら、ひとりでも必要な場所が増えたら、なんとかしてやりたいんだ。悔しい。
悔しさを忘れないで、妻や妹たちと一生懸命に生きてやるぞ。私の頑固は、こんな時にでも役に立てないと、二人に申し訳ない。
今、患っておられる方も、どうか気持ちだけは強く、希望を持って生きてって下さい。
スレ主です。台風による大雨、皆さん大丈夫でしょうか。何事もない事をお祈りしています。
今年は水害が続き、生活もままならない方もいらっしゃると思います、どうかこれ以上、被害が出ません様に、また被災された方々が、1日も早く、普段の生活に戻られます様に、お祈りしています。
1日違いとは言え、私の家族の観光旅行の事など書いて、なんだか申し訳なく思っています。
妻も妹も、早めに帰宅させられました。万が一、バイト先から動けなくなったら困るというお店側の判断の様です。
どうか、ここを読んで下さっている方もそうでない方も、ご無事です様に。
明日(もうきょうか)、妹は金曜日という事もあってバイト、ちゃんとバイト先へ土産を買って来た様だ。
私が病院へ行くので、妻は午後からのバイト、やはりバイト先への土産は忘れずに買って来た様だ。男はいちいち仕事場に土産など持って行ったりしないので、男性の仕事仲間からなんかもらった事ないな。
ひとりで病院に行けるのに、妻はこの間の事で、主治医の先生に色々聞きたいそうだ。私が聞くからいいんだぞ。確かにな、頭痛、目眩、嘔吐には参った。
精神的には妻や妹よりは強いつもりだが。
二人とも休みたいだろうに、私がこんなでごめんな。妻が一番忙しいだろう、病院から帰ったら、私が晩飯の支度をするからな、きょうの土産の佃煮や漬け物を3人で食べような。
まだ話し足りない事がありそうだったので、明日の夜ゆっくり聞くからな。二人ともリフレッシュしたいい顔で帰宅したぞ。
おやすみなさい。🌃
帰宅した二人は、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃよく喋るんだ、旅の疲れなどどこへやら。
簡単な晩飯を食って、風呂に入って寝てしまった。やはり、疲れは時間と共にあらわれたんだろう。
ところで、袋の中に、私へのお土産があるから、見てね~と言うので開けてみた。
普通に、ご当地の佃煮やら漬け物やら、色々うまそうな物が入っていた。おー、3人で食べよう、と思って、まだ何かあるので、ん?と思って開けてみた。(あまり期待しないで下さい。)
え?カエルとトカゲのキーホルダー?恐竜のオモチャ?は?私は子供じゃないぞ。確かに百円のガチャガチャでは出ては来ない様な物だ。
どうも二人は、私が爬虫類系が好きだと思っている様だ。確かに嫌いじゃないが、女の子にはかわいくない物らしく、それで「妹ちゃん(お姉ちゃん)が変なお土産買ったよ~」ってなメールが来たんだな。
まあ、この年で、カエルだのトカゲだの恐竜だののキーホルダーを人様からいただく事はない。大事にしよう。子供の頃、いらなくなった友だちからもらった以外、手に出来た事はなかったしな。
子供の頃ってのは、友だちがいらなくなる時期は、自分もあまり欲しくなくなる時期だったなぁ。
そーっと二人の寝顔を見ていたら、なんだか微笑ましくなったんだ。こんな私に、変な物と思いながらも選んでくれたんだな。私がこういうのを喜ぶと思って買ってくれたんだ。
嫁ちゃん、妹、ありがとうな。大事にするな。例の小箱にしまっておこう。あ、となりの箱な。
4年半前からの3人暮らしも人生で初めてだが、きょうの様な留守番も、考えてみれば初めてだな。
高校を卒業して、しばらく前の会社で働き、妹が働き始めてしばらくして、二人で実家を逃げ出し、
両親の死、妹が弟君と結婚、遅れて私が結婚、妻の母親のストーカーまがいの妹への付きまとい、
4人での出し抜き、そして弟君の悲しい死、何回かの引っ越し、あの一連の流れから、今の幸せは想像もしなかったんだ。
自分の不注意でケガをし、病気まで見つかり、今は自宅療養中だが、体調が毎日悪い訳じゃないので、自分としては、事務仕事位はしたいところだ。
こんな留守番は初めてだが、バイト帰りの二人ならとっくに帰っている時間だ、観光バスに乗って帰って来る二人を待つのも、ある意味、幸せなのかもな。
二人は私が仕事を休職する様になってから、バイトの時間を1時間ずつ延ばし、5時間と6時間、働いてくれているんだ、こんな日があっても良いだろう。
道が混んでいるとメールがあった。家に着くのは8時過ぎるだろうか。心配だな。帰りはタクシーで帰って来い。
あ、BSで再放送している「おしん」、録画しておいたぞ。
薬が効いて、少し眠った様だ。なんかおかしげなメールが来ているな。
妻「妹ちゃんが変なお土産買ったので楽しみにしててね。」
妹「お姉ちゃんが変なお土産買ったので楽しみにしててね。」
???何だろう。もうバスは帰り路を走っているだろう。メシぐらい炊いておこう。
まあ、お餅じゃなければ何でもありがたい。無事に帰宅します様に。
変な土産って何だ?!
何やら楽しそうなメールが来た。女性は買い物となると、なぜテンションが上がるんだろう。見てまわる所ももちろん楽しんでいる様だが、
次は土産物屋さんへ行きます🎵とメールが来た。確かに、二人に小遣い五千円ずつ渡したが、私への土産も忘れるでないぞ。
まだ少し紅葉には早い所へ行った様だが、二人の楽しそうな姿が目に浮かぶ様だ。
思いっきり楽しんで来い、な。
またメール待ってるぞ。🍁
女性はお化粧に時間がかかるらしい。きょうも午前3時半に起き、メイクや身支度をして、午前6時半に二人でバス出発地へ出かけて行った。今頃、観光バスの中だ。
私はと言えば、会社に一度は電話をし、仕事状況を聞き、洗濯と簡単な掃除をしたら、あとはゆっくりしていよう。ひとりでメシ食ってもなんだか味気ないが、まあ、そのうち妻と妹から、今どこにいるだのメールが来るだろう。
薬が効いている間は眠っているだろうが、出来るだけ二人にメールの返事をしてやりたいな。
添乗員さんは美人か。あ、嫁ちゃん違う違う、嫁ちゃんと妹より美人はいないぞ。そして男はつらいぞ。
私はいつから紅葉が好きになったんだろう。40を過ぎてからだろうか。妻と見に行ってから、妻が、妹ちゃんも、と言ってくれて、3人で行く様になったんだったな。
弟君にも見せてやりたかった。4人で行きたかったなぁ。秋は、寂しい様でもあるが、こんな、自然界から素敵な贈り物もあるんだ。
妻と妹に、今年の紅葉をしっかり見て来て欲しい。皆50代だ、今のうちに見ておいて損はないぞ。
ちなみに前の写真2枚は、知人が送信してくれたもので、ミクルに載せていいよ、と言われた写真だ。なかなかこんな見事な紅葉写真は撮れない。
また綺麗な写真を見付けたら載せてみよう。
今年は私がこの様な体調のため、妻も妹も、紅葉は見に行かないと遠慮している様だったので、私は、留守番しているから、二人で行って来る様に勧めたんだ。
お土産買って来てな、写真もたくさん撮って来てな、と頼み、二人は観光バスで行く事にした様だ。良かった。私も来年は行けると思うし、仲の良い女性二人で行って来て欲しいんだ。
私は、写真で我慢するとして、紅葉は本当に限られた期間しか見られないので、綺麗な紅葉を見て、良い思い出を作って来て欲しい。
読んで下さってる方も、色鮮やかな紅葉に恵まれます様に。
そうか、きょうは令和天皇の即位の礼の日か。昭和天皇から平成天皇に代わった頃を思い出す。平成2年だったろうか。退そうの礼、と言う儀式が放送されたっけな。妻と見ていたな。確か2月だか、寒い季節で、
やはり、きょうと同じ様に雨が降っていたと思った。記憶違いなら申し訳ないが、当時のレーガン大統領などが、寒い中、屋外の儀式にさらされて、本当に寒そうだったな。世界中のお偉いさん方も大変なんだな。
令和天皇と、こんな1国民の私は、殆んど年は変わらないんだな。私の方がちょっと年下か。
これは本当にあった話だが、当時パソコンもなく、街のレンタルビデオ屋がカラッポになった。テレビがつまらなかったと言っては失礼だが、それが国民の正直な姿だったんだ。
けれど、皇室の方は、昔に比べたら、だいぶ開けた感じだ。令和は何十年続くのか。
そんなに土地を持ってたなら、私や妹の現金収入の4割など当てにしなくても、と思われるかも知れないが、なにしろあいつらは動く、行動に出るのが嫌いで、
ただ持っている土地をあそばせて、毎年、固定資産税だけは現金で納めなければならなかったらしい。土地なんて、ただ持っていたってもったいないだけだ。
親父はあんなのでも一応会社勤めをしていたが、月給だけもらったら、あとは何もしないし、母親とか言うあいつは、夏休みに自分だけ実家に帰るだけじゃなく、しょっ中帰ってたし、
私らに家事を一度だけ教えると、あとは丸投げだった。私ら、もしくは母方の祖父母がそれぞれ会いたいと言うと、祖父母と孫、だけで会わせ、あの女は、そんな時は親父と二人で家にいた。変な話だ。
とにかく私たち子供二人と極力一緒に居ようとしなかった。電車に乗って、妹と祖父母に会いに行った。祖父母は私たちに優しかった。
親父の方の祖父母は、叔父の話だと、正確な時期は知らないが、もう亡くなっていたそうだ。ん?この記憶合ってたか?またいつか叔父に聞いてみよう。
そんな訳で、まだ20代前半の私は、叔父が「何千万円相続しても」と書いたが、実際、叔父が動いてくれなかったら、せっかくの土地は、宝の持ち腐れ(あってるか)で終わっていたんだ。
同じ親から生まれて、叔父と親父の違いはあまりにも大き過ぎた。
自分の実家が事故物件だなんて、誰だって嫌だろう。
スレ主です。なんとか350レスまで来る事が出来ました。
スレ本文と、始めの方の共感票にビビってしまい、ミクルさんに調整していただき、ほそぼそと書いています。
これからも、誤字脱字、辻褄が合わない、どうしても思い出せない、年代と年齢にズレがある、なんだか支離滅裂、突然思い出す、など、酷い内容が続くかと思いますが、
なんとか頑張って、昭和から令和まで書いてみたいと思います。
ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます。時代が突然飛んだりしますが、独り日記という事で、なにとぞお許し下さい。
m(_ _)m
「甥君たちが何度か、事件後に来たよな?」から始まり、私と妹が相続を放棄し、正式に叔父が相続する手続きを何回かに分けて行い、その後、私たちは寄り付きもしなかったので、その後どうなったか知らなかったが、
叔父は半年もしないうちに、その事故物件の家を壊し、更地にし、今は駐車場になっているそうだ。他の土地にもアパートを立て、駐車場代と家賃収入で生計を立て、
缶詰め工場での仕事は、友人の手伝いでしているそうだ。それで、私たち3人に、年に4回も缶詰めの詰め合わせを送ってくれてたんだ。
焼酎のお礼も、「年に1~2回でいいぞ、もちろん何回でもうれしいが。ははは…」と笑いながら言ってくれる、気のいい叔父なんだ。
私たちがあまりにも、もうあの家で暮らしてた事など思い出したくありません、と強く言ったため、
叔父が気持ちを察してくれたんだ。本当に、私と妹は、この叔父がいなかったらどうしていたんだろう。足を向けて寝られないひとりだ。
妻は、私さんと妹ちゃん、本当に辛かったね、よく乗り切ったね、と言ってくれたが、
妻の方こそ、家族全員に無視され、ひとりぼっちでどんなに悲しかったろう。妻と妹の結びつきは、変な話だが、あたたかい家庭で育っていたら、なかったかも知れない。
お互い、形こそ違っても、親の愛情を知らずに大人になった悲しみで、今の幸せを失いたくないんだ。
だいぶ前に書いたレスで、おそらく読んで下さった方がおかしいと思われただろう事(たくさんあるが)のうち、書き落としていた事で、気が付いた事を読み返しながら書いてみたいと思う。
私と妹の、両親とか言うあいつらが無理心中をはかり、お互いを刺し違えて凄惨な死に方をしたあの家は、いわば事故物件だ。そんな家を、いくら人のいい叔父でも、
当時20代前半の世間知らずの私とそのいくつか年下の妹が相続を放棄したからと言って、好きこのんで、手続きまでして相続するとは思えない事は容易に察したと思う。
あいつらは、なんだかよく知らないが、土地をいくつか持ってたらしい。私も妹もこの年になっても興味ない。叔父には本当に、過去レスにも書いたが、葬儀屋からお寺(墓)まで支払いの立て替えやら、香典返しの発送、喪中のハガキの印刷、郵便代まで世話になったので、
それらの立て替え分のお返しをしなければならず、叔父に色々調べてもらい、相続を放棄した方がマイナスにならないのか(相続した方がプラスになるのか)、叔父が放棄した場合、私が分割で叔父に返していく事になったが、
思いの外あいつらの持ってた土地がなぜだか広く、叔父がプラスになると判り、叔父に相続してもらった。事故物件になってしまったあの家は、
この前、缶詰めを送ってくれたお礼の電話をした際、その後どうなったのか、聞いた。
4日前に体調を崩し、色んな人に迷惑をかけたので、きょうはお留守番だ。晩飯はあったかい煮物にした。漬け物も納豆も用意したんだ。妻はやっと、私たち3人での晩飯で、納豆が食える様になったんだ。
子供の頃の、仲間外れの藁の納豆は辛かっただろう。が、今は、家族3人で、刻みネギにタレを混ぜて、笑顔で皆で食べる様になったら、妻は、納豆って、幸せな食べ物だったのね、と、嬉しそうだ。
妹も、なんでも3人で分けるっていいね、と、楽しそうなんだ。
カラオケ店を6時半に出て、7時に二人は帰宅、それから晩飯だった。後片付けは二人がしてくれたので、やっとプーさんのエプロンから開放された。二人のエプロンは花柄で綺麗だ。なぜ私だけプーさんなんだ?!
ゆっくり風呂に入った。私が自宅療養する前は、その日1日休みのどちらかが家事全般をやっていた。洗濯やら掃除やらメシの支度やら、天気のいい日は布団を干したり、タオルを換えたり、日曜日に買い忘れた物を買いに行ったり、
雑用も入れたら結構忙しい。ガキの頃、親に丸投げされて、妹と二人で手分けして夢中でやってた頃は、やらないと親父に殴られたので怖くて訳も解らずやってたが、
人間らしい生活を送ると、幸せな忙しさ、を感じるんだ。
また悪天候だな。明日は二人とも仕事だろうか。無理しないで家にいて欲しい。50代3人の家庭は、そんなものだろうか。
最近は台風が多いな。解体屋泣かせだな。ああ、早く現場仕事に戻りたい!
きょうは二人ともバイトなので朝飯作る私は、4時に目が覚めてしまった。味噌汁も出来たし、メシが炊けるまでちょっとあるな。
妻と妹は時々、古新聞を広げては、二人並んで足の爪を切っている。切りながらお喋りしている後ろ姿は、なんだか微笑ましいんだ。こんな何気ない日常が幸せなんだ。
神様は、私と妻を巡り合わせてくれたと同時に、妻と妹にも良い縁をもたらしてくれたのかも知れない。女同士、ウマが合うって、見ててもいいものだな。
けれど…。弟君が生きていたら、妹と弟君は今も夫婦だったんだ、本当なら2組の夫婦だったんだよな。いや、妹の悲しむ様な事は口にはすまい。
きょうはなんでも、バイト帰りに二人でカラオケ行こうと話してたっけな。あなた(お兄ちゃん)も1~2時間どう?と誘われているが、体調が良かったらな。
二人は、妹のバイトあがりに普通に客としてそこへ行く。私が現場仕事の頃から、二人だけで5時間は歌って来る。すごいな。きょうは私が仮に少し一緒だったとして、何時間になるんだろう。
家でも一緒、買い物も一緒、バイトあがりも一緒って、二人の仲の良さは私なんか入る隙ないじゃないか。おっと、僻んでいるみたいだ。
そろそろ起きて来るかな。私は、何が悲しくてこの年でプーさんのエプロンをしているんだ?!
こういうところへ長く書き続けた事がないため、酷いレスですみません。過去レスとカブッたり、書いたと思ったら書いてなかったり、かなり無茶苦茶です。
なんとなく書き始めたら、いつの間にかこんなレスになってしまいました。昭和に戻ったり、2、3日前の事を書いたり、脈絡も何もなくてごめんなさい。
とにかく、書けるところまで書いてみようと思っています。
読んで下さっている方、ありがとうございます。
m(_ _)m
神に誓って、私も妹も、警察沙汰を起こした事はない。おそらく妻も、あの結婚の挨拶に行った時のご家族の雰囲気からして、妻自身が悪さをした過去がある様には、私には見えない。
いつもニコニコしている、と書いたのはウソではないが、どこか申し訳なさそうな、人に強い態度に出ていいのだろうか、という表情をするんだ。(それで、女優の石田ゆり子似、と書いたんだ。)
妹は、少し無表情なところがあるんだ。(それで、相田翔子似、と書いたんだ。)でもそんな妹を、弟君は解ってくれたんだなぁ。妹も、弟君を好きになり、お互いの気持ちに間違いないと、結婚したのに、
結婚10年の年、弟君は神戸の震災で帰らぬ人になってしまった。私にとっても、彼は本当の弟みたいな、人の好いヤツだったんだ。
頑固な私も、妻や妹、弟君の影響で少しは丸くなったはずなんだが、まだまだ頑固な面は簡単に直りそうもないのか。
今週こんな事があったのに、少しでも体調がいいと、仕事に行きたくなるんだ。また周囲に迷惑をかけるので、我慢して治そう。
人間、必要とされなくなるのが寂しいし、怖いんだ。今は、とにかく風呂掃除でもなんでも任せろ、な、嫁ちゃん、妹。
バイト、ご苦労様。ありがとな。
毒親の事を思い出しても何も良い事はない。考えない様にしよう。そう思っても、自分の人生の間違いない現実は、ふっと何かの拍子に思い出してしまう。妻も妹もそうなんだろうか。
今、幸せなのはありがたい。けれど、自分の生い立ちもよく知らない、名前の由来も知らない、両親に憎しみの目を向けられて生きて来ると、恨み言も簡単に消えるもんでもない。
ガキの頃から、友だちと一緒に遊ぶのだけが楽しかったし、それぞれが「おめーんちの父ちゃんさ~」などと言ったり言われたりしているのを聞くたびにヒヤッとした悲しみは、今でも消えない。
だからか、今、3人で会話する時、私も妻も妹も、誰も両親、妻に至っては兄弟姉妹の話に一切触れない。たまに妻が、「私さんと妹ちゃんは、ずっと一緒だったの?」と聞かれ、顔を見合わせると妻が「あ、ごめんね」と、さっと話を変える。
逆に、私がすっかり忘れていて「そう言えば、嫁ちゃん、15才から23才までどこにいたんだっけ?」と聞くと、妻は、目に涙を溜めて首を横に振る。慌てて私が「あ、ごめんな」と話を変える。
これは、それぞれ私たち3人だけのせいでこんな会話をしなければならなくなった人生なのか?
自分の事なのに大切な人にさえ話せない、そんな事、そうそうあるのか。世間の女性はみな、父親におぞましい目に合っていたのか。
私は妻も妹も、しなくていい辛い思いをして来たと思っているので、これから幸せな毎日を送って行って欲しいだけなんだ。
明日は(きょうだな)、桃缶とパイナップル缶を食べような。
ウトウトして、夢を見ていた。私と妹と、ランドセルを背負っていた。昭和の40年代か。あの頃、今の様に至る所にコンビニがあったら、土曜日の菓子パンは違っただろうな。
母親とか言うあいつは、私らとメシを食うのを嫌がるため、土曜日の午前中、4時間授業を受けた後、昼は外で食ってこい、とパン代を投げる様によこし、妹と、菓子パンを買って食ってたな。
何百か前のレスに書いたっけ。妹はそういうものだと思ってたのか、土曜日の菓子パンを楽しみにしてたっけな。
普通のお宅では、家族そろって土曜の昼飯を食ってたんだろう、経験がないので想像するしかない。
日曜日は1番、あいつらの機嫌が悪かった。子供の私たちが1日家にいるのが相当嫌だった様だ。
なら、なんで子供が二人いる人生を選択したんだよ。邪魔者扱いしやがって。あんたらから逃げ出し、あんたらが亡くなり、私たち兄妹はやっと人間らしく生きられる様になったんだ。
土曜日の昼の菓子パンだって本当は悲しかったんだぞ。
まあ、居ても勘定に入れてもらえず家族に無視されて生きて来た妻も相当つらく悲しかっただろうが。
思い出したくない過去でも記憶として付いて来るものは、どうしようもないんだな。忘れてしまいたい。あんな奴らと家族だったなんて思いたくもない。
今月に入ってからガチャガチャを1回もやってないな、また3人であの辺りに行ったら何百円かやってみような。
消費税が上がる前はレジの行列でガチャガチャどころじゃなかったしな。それに、嫁ちゃんはマクドナルドへ3人で行くのを楽しみにしているのに、
店内で食ったら10%(1割)、持って帰って自宅で食ったら8%、になって、家でしか食ってないもんな。税金ってヤツは、本当に私ら納めている者が希望している様に使われているんだろうか。
ここのところ台風の被害が酷いので、被災した方々や被災地の役に立っていればいいが。
令和元年は、個人的にはトホホな年だった気がするが、昭和の、あいつらと暮らしていた頃よりはまだマシだと思う。人間、生きていくのに金は必要だが、
耐えられない目に合ってカネだけあるのも違う気がする。あったかい人間関係が構築されてはじめて、人はそこに居られるんだ。
私は、妻と妹に、迷惑かけてしまっているのに、いつも良くしてくれて、嫁ちゃん、妹、ありがとうな。いつか必ず恩返しさせてもらうぞ。
また早朝になってしまった。私の自宅から事務所まで、歩いて7~8分だ。昨日は、午前3時に寝て7時に起き、
顔洗って朝飯食って歯をみがいて薬飲んで、家を出たのが朝の8時20分、半には事務所に着いていた。9時半頃体調がおかしくなった。妻も妹も同じ物を食べているので、食べ物が悪かったとは考えられず、
やはり病気のため弱っているのか。早く治したい。ずっと眠っていたのだろうか。今回はさすがに懲りた。
妻に、謝られてしまった。私がしょっ中、妹ちゃんのところで寝る様になったから、あなたを疎ましく思う様になったと思われたのね、ごめんね、
確かに7月下旬から生活のリズムは変わったけど、あなたを疎ましいなんて思ってないよ、妹ちゃんが、「お兄ちゃんに全部合わせてたらお姉ちゃんの生活リズムが狂ってしまうよ」と言われて、それで妹ちゃんと寝起きする回数が増えたの。気を悪くしたらごめんなさい。と。
いや、嫁ちゃん、私の方こそごめんな。嫁ちゃんは仲間外れにされたりしたりする事が一番、生きてて辛いんだったよな、嫁ちゃんや妹に、出来るだけ迷惑かけない様にするから、な、完治するまで、二人ともごめんな。
またきょうから通院と家事に専念して、ひと月でも早く治すから、な。
外仕事が好きなのも考えものだ。学生時代から時間の使い方と体力と運動神経だけは自信があったが、頭の使い方と気の遣い方は下手くそだった。こういう時は、女性の能力?の方が上なのかも知れない。
また元気になって、外仕事、力仕事を頑張ろう。
早朝のレス、すみません。m(_ _)m
悔しい。私は悔しい。きょうも朝から事務所へ行き、もうひとりの後輩君と色々、現場組の段取りなどを聞き、しっかり仕事をしようと気持ちは張り切っていたのに。
薬も朝飯のあと、ちゃんと飲んだのに、1時間たった頃、頭痛がし、目眩がしたと思ったら、嘔吐してしまった。後輩君が、「大丈夫ですか?!」と、事務所を開ける訳にいかないので、タクシーを呼んでくれて病院へ。
あ~あ、役に立てなかった上、医者と妻と妹と事務所の所長に(電話で)怒られちまった。情けない。なんでだよ!まだ被災している所はたくさんあるんだ、なんで私が今こんななんだ!悔しい。
医者に、「私さんね、気持ちは解りますが、あなたが倒れたら、それだけお仕事の復帰が遅れるんですよ、お辛いでしょうが、今は、完治する事を最優先にして下さいね。」と、お説教をいただいてしまった。
後輩君が知らせて(余計な事しなくていいぞ)、たまたま二人とも休みだった妻と妹が病院へ。
こってり絞られた。「無理しないって約束したじゃない?」「お兄ちゃんのバカ!命に関わったらどうするの?!」……はい、そうです。トホホ。
いつもの薬の他に頭痛薬をもらって帰宅、そして今に至る。
午前中は目まぐるしかったな。まだ昼か。昨夜、夜中に寝たから寝不足だったか。4時間は眠ったんだが。
嫁ちゃん、妹、心配かけてごめんな。会社の皆さん、迷惑かけてすみませんでした、後輩君、すぐに車を呼んでくれてありがとう。お医者さん、子供みたいですが、ごめんなさい。
少し休みます。本当に身体が思う通りにならなくて悔しいです。撤去作業でもかき出しでも重い物の移動でもやりたいです。悔しい。
結局、昨日も朝8時半から私の携帯を連絡先にして、連絡を受けたり他へ伝えたり、自宅で出来るので、会社の人と、連絡係として仕事をしてしまった。
その間、このガラホが使えず、書けなかった。(すみません。)
明日は事務所に行くかも知れないので、夜遅い時間までここにレス出来ないかと思います。
やはり、事務所の固定電話にかかって来る事もあり、皆、出払っていると、誰かひとり連絡係が必要だ。周りの人は、無理しないで下さいと言ってくれるが、
1日事務所にいて電話の受けかけをするだけで、力仕事をする訳じゃないので、薬持参で頑張って来よう。
こんな大災害に、ただでさえ、一軒でも危険な物は取り除いてあげたいのに現場に行けなくてもどかしい。
50年前の人たちとは違うヘルメットを早くかぶって、会社の人たちと一緒に現場で仕事がしたいんだ。
妻にも妹にも、本っ当に無理しないでよ!と言われた。私も倒れたりしたくないので、適度に休みを取ろうと思う。
今回の台風被害は、50数年の経験で、初めてかも知れないくらい甚大だ。テレビで報道されてない所でも被災している所はたくさんある。なんとか力になりたい。
そんな訳で、しばらくはマメに?レス出来ないかと思います。ごめんなさい。また自宅で安静にする様になったら、書けるかと思います。
いつも読んで下さって、ありがとうございます。おやすみなさい。
m(_ _)m
叔父も、花火大会で一緒だった結婚した二人も、還暦過ぎた親戚のお姉ちゃんも、法律に詳しい、昔、車を貸してくれた彼も、そのほかずっと繋がってくれてる友人も、皆、無事だった。
安否確認をする時は緊張する。あの弟君の時のショックな知らせがいまだに震えが来たのを覚えているからだ。
両親の知らせの時は、ショックだったが悲しくはなかった。バカ野郎、と思った。
妻や妹がもし、あんな家庭でも、こんなにまっすぐ生きて来なかったら、親はどうしたんだろう。
もし仮に、妻がグレて問題ばかり起こしていたら、無視していたんだろうか。妹が、私という兄がいなかったら、どうやって家庭内で自分を守っていたんだろう。
すべては仮説だが。今の現実を大切に生きる事だ。
妻も妹も疲れているだろう。こんな時に体調を崩すとは、私は自己管理がなってない。
久しぶりに人様と何かが出来た達成感があった。けれど、台風の災害でなく、体調を完全に良くしてから、正規の仕事としてするべきだった。
まだまだ、私の様な者のでも、腕力の必要な所はたくさんあるんだろうな、と思うと、この体調不良をおこす病気がうらめしい。
今はとにかく自宅療養をしながら、妻と妹のサポート(あってるか)に努めるのが一番なんだな。
二人とも良く頑張ってくれてありがたいんだ。なので二人を見ていると、自分も頑張って外仕事をしたくなっちまうんだ、それがいけないんだな。悔しい。病気の症状なんていらない!と言いたいところだが。
もっと辛い思いをしておられる方々の事も考えねば。どうか1日も早く、被災された方々や場所が、復旧します様、お祈りします。
災害の被害というのにも、何十段階もある様で、テレビで報道される様な、本当に気の毒な状態の場所もあれば、
店先に少し水が入って来た程度で済んだ所(軽んじている訳ではないので、お気を悪くされた方、ごめんなさい)もあり、
被害の大きかった所から救助しなければならない訳で、自然の災害とは言え、神様はなぜこんな酷い事をするのだろう、とあらためて思った。
過去レスに書いたが、私たちは、昭和53年頃、世田谷区の新玉川線沿線に住んでいたので、テレビで二子玉川が映ると、当時友だちだったヤツらが心配で、見てしまうんだ。
うちは、申し訳ない位、被害がなかった。今は世田谷区住みではないが、坂を上りきった所のマンションの最上階だ。
ベランダに、最上階でも色々飛んで来るんだ、と知った。
洗濯挟み、パンのみみ(我が家のではありません)、プラスチックの破片、小さいタオル、お子さんのと思われる靴の片方、種類の解らない葉っぱ、
これらがどこから飛んで来たのか分からないが、とりあえず、マンションの1階の、拾得物入れ、に入れておいた。靴が片方無くなったお子さん、不便だろう。
川沿いの土手を高くするにも、全国規模で考えたら、気が遠くなる位の金がかかるのだろう、が、皆さんが納めている税金は、こういう事に使われるべきじゃないだろうか。学のない私が言っても何の役にも立たないと解っているが。
別の所というのは、普段、夜7時に閉める八百屋さんだ。
少しだが、やはり水が入り込み、かき出しをしていたそうだ。店主さんも夜までボーッとしてらした訳じゃなく、やれる事をご夫婦でなさっていた。
売れる野菜と、これは店頭に出せない、という物を分けられ、
高い台が必要だった様で、私がチャチャっと応急処置的に、ノコギリと板を借りていくつか高い台を作って、野菜を移してもらった。
恐縮する位、お礼を言われ、お断りしたが、野菜をいただいてしまった。
また買わせて下さい、と丁寧に頭を下げ、帰宅すると、妻と妹は喜んでくれたが、
頭痛と目眩がし、食事もとらずに眠ってしまった。ちょっと張り切り過ぎた。
二人にまた心配をかけてしまった。今朝まで眠り、目が覚めたら食事が置いてあり、二人の「無理しないでね」のメモがあり、
ひとり寂しくいただいて、今こうして書いている。
健康が一番だとあらためて思った。
少し疲れを起こしてしまった様だ、体調がすぐれない。
妹のバイト先のカラオケ店はビルの上階だったため、水の害はなかったが、妻のバイト先のパン屋は、商店街の並びの1階で、
床数センチ、水が入り込み、妻たち従業員で水をかき出したらしい。
私は、休職中とはいえ事務所に電話したら、水害はなかったが、こういった災害の際は、解体屋も力を貸せるところは皆、現場へ行くので、色々と滞る事もあり、
私の携帯(ガラホ)を連絡先にしてもらい、昨日は、及ばずながら、久しぶりに会社の人と仕事が出来た。
出来れば災害などなく、仕事に戻りたい、と思った。
妹が朝飯を作ってくれてバイトへ行き(こんな時でもカラオケ店に来る人は来るんだな、悪いとは言わない)、
私は夕方、また別の所へ行った。
そう言えば、若い頃、バス停でバスを待っていた時、前に並んでいた年配の方々が、チラッと私の方を見て、
今の若い人はねぇ、戦争があったなんて、なんのこっちゃってな顔しかしないからねぇ、とイヤミっぽく言っていたが、
私は密かに心の中で『あんたらだって、徳川様ってどなた様?って時代に生まれたんだろう』と、時代や歳月の移り変わりはいつも子供や若者には平等だったはず、と思っていた。
我が子が平和な時代に生まれて良かったと思わない親なんているのか?我が子が戦争で人を殺したり殺されたりする時代に生まれる事を望む親がいるのか?
そんな事を、昭和30年代後半生まれの私は時々考える。おそらく妻も妹も、世間の皆さんと同じ様に、戦争などない平和が当たり前なんだ、と堂々と思っていると思う。
窓のテープから、ここまで話が飛んでしまった。
また妻や妹に、アイドルグループ、光ゲンジさんの動画でも無理やり見せてもらうとするか。そうだ、懐かしいついでに安全地帯さんの曲も聴こう。「風の中の少年」と「風」が心にしみるな。
それにしても、今回の台風は大きな爪あとを残して行ってくれたもんだ。
窓の内側は、ガラス飛散防止シートを貼り、小窓には、養生テープ(面白い名前だ)を、米印に貼り、それらを貼ったり剥がしたりしている時に、
中学高校時代の、授業を脱線して、太平洋戦争の話を必ずしてた先生を思い出した。
焼夷弾(しょういだん)とかいう、町や人を焼き尽くすための恐ろしい爆弾を米軍が何十機も飛んで来ては、大都市の上からばらまき、多くの犠牲者が出た、という話だ。
何レス目だったか、私の中学高校時代の学校の先生は、まだ大正生まれと昭和生まれの先生が半々だった、と書いた。
ものの解る年になっておられた先生は、爆風で、ご自宅のガラスや障子が割れて(破れて)飛び散らない様に、やはり、その当時あった丈夫なテープを内側から米印に貼ったと話していたっけな。
私たちは自然災害に備えてだったが、これが国と国との戦争ゆえのテープ貼りだったら、どんなに怖かっただろう。
いや、自然災害も充分に怖い。が、いくらでも命を守る行動が取れるが、戦争は、人を殺す事を目的にしていた訳で、人を殺そうと爆弾を落として来る人たちから命を守らなきゃならない恐怖は、いかばかりだったろう。
親世代は、祖父母世代に、どれだけ「恐怖から身を守る恐怖」を教わって来たんだろう。
それが原因なのか?私や妹が平和な時代に生まれた事が、親は面白くなかったとでも?
バカな。我が子が不幸な時代に生まれる事を望む親がいるのか。
スレ主です。皆さん、台風の被害に遇われませんでしたでしょうか。こちらはなんとか無事でした。
多少、ご近所で、男手が必要だったので、数人で車を押したりした位でした。
妻と妹は手分けしてご飯を作ってくれたりテレビのニュースを見ておりました。
深夜、雨風が強く、二人が怖がるので、3人で川の字になって昨夜は休みました。当然、私が真ん中、と思いきや、妻と妹が懐中電灯と貴重品を枕元に置き、
不謹慎かも知れませんが、おしゃべりしたあと、仲良くひっ着いて眠ってしまったので、私がはしっこで眠りました。
きょう1日、大変だった方々、お見舞い申し上げます。どうかこれ以上、被害が大きくなりませぬ様に、お祈りしています。
1日も早く、日常生活が送れます様に。
いつも読んで下さって、本当にありがとうございます。
m(_ _)m
スレ主です。かなり悪天候です。どうぞお気を付けてお過ごし下さい。
窓ガラスは内側から、ガラス飛散防止シートなどを貼り、色々情報を聞き、ただ指示に従うのではなく、
自分たちで、動かない方が良いのか避難した方が良いのか考えて行動を取る様にして居ます。
ここを読んで下さっている方も、何事も起こりませぬ様、お祈りします。
こちらも3人ともなんとか無事です。皆さんどうぞ、危険な目に遇われません様に。
そうだ、桃缶もパイナップル缶もあるぞ、と言ったら、妹がエヘヘって顔で、「お姉ちゃん、パイナップル缶食べる?」と言い、
妻は「もう~、妹ちゃんめ~、イカとタコのキーホルダー、バッグに付けちゃうからね~」と追いかけっこしてたな。もちろん、こんな夜遅くは近所迷惑だから、もっと早い時間だったが。
私は二人の笑顔を見るのが幸せだ。
実の家族にひとりだけ無視されて、ひとりポツンと誰にも口をきいてもらえなかった妻が、修学旅行にも遠足にも1度も行かせてもらえなかった妻が、
子供の頃から親父に殴られて来た妹が、思春期に、殺されても仕方ない様な事をした獣親父と一緒に暮らさなきゃいけなかった妹が、
両親の凄惨な死を知らなきゃいけなかった妹が、
今、女性二人が笑顔で暮らしているんだ。私たち3人が、幸せを噛みしめて生きているんだ。この幸せは、壊したくないんだ。特に二人から笑顔を奪いたくないんだ。
妹は、生涯を共にしようとした弟君を神戸の震災で亡くしたんだ。
もう、この二人に辛い思いはさせるもんか。嫁ちゃん、妹、これから年は取るが、もっと幸せになろうな。🌛
いつもは妻が、売り物にならなくなったパンをもらって帰って来ていたが、きょうは思いの外パンが売れ、残ったパンも20円引き30円引きで売れたそうで、なんとかパンのみみをもらい、冷凍庫に固まっている。
妹は台風前から八百屋さんに、おそらく金曜日は野菜も売れるから、曲がったキュウリやいびつなトマトも、いつもの店じまいの時間にまとめて千円で分けてあげられないと思うのよ、ごめんねー、と言われ、
ご商売だ、当然の事、と、きょうは私の病院帰りに、バイトあがりの妻と妹と3人でスーパーへ行って買い込みをしたんだ。あ、もう昨日だな。
本当は妻は、3人休みの日はマクドナルドが楽しみなんだが、さすがに悪天候の中、家で出来るだけ美味しいものを食べようとなったんだ。
二人はそれでもこうして家族が3人、肩寄せ合って、台風から身を守り、昔、過ごしたくても過ごせなかった悲しい歳月を取り戻すかの様に、
この悪天候を乗り切ろうね、と頼もしいんだ。
いつからだったかな、なんかの拍子に妹が妻の事を、お姉さん、と言うところ、とっさに、「お姉ちゃん!」と言ったんだ。
ハッとして、ごめんなさいと言おうとしている妹が妻の顔を見たら、なんと妻は涙ぐんでるんだ。
「妹ちゃん、嬉しいよ、お姉ちゃんって呼んでくれて嬉しい。これからもお姉ちゃんって呼んでくれる?」と妻が言い、妹も、「いいの?本当にいいの?」と、泣いていたんだ。
私は本当にこの二人に感謝しているんだ。それから二人は、お姉ちゃん、妹ちゃんと呼び合っているんだ。
今頃のレスに書いているが、1年かそれ以上前だったな。
二人ともありがとうな、この台風も3人で乗り切ろうな。
読み返してみると本当に矛盾だらけで、誤字脱字が多く、すみません。
全部言い訳ですが、人間、良い思い出悪い思い出、どちらかだけを鮮明に覚えていて、どちらかを全く覚えていない、というものではない様です。
変な事を覚えていたり、大事な事をどうしても思い出せなかったり、50年間忘れていた事が、突然フラッシュバックして記憶が甦ったり、自分だけなのかと思ったら、
妻も妹もそうでした。悲しい事も嬉しい事も、ちゃんとあるんですが、計画性もなく書いていたら、この様なレスになってしまいました。
ここまで書いたので、書けるだけ書いてみようと思います。本当に、こんな酷いものを読んで下さり、いつもありがとうございます。
m(_ _)m
いざ、食卓につくと、あいつらの方に(セコい話だが)、私たちの分のおかずが山の様に皿に移り、
私は申し訳程度に少々、妹に至っては、ご飯と味噌汁と沢庵が3切れだった。私は自分のおかずの半分を妹に分けたが、あいつらは、「働かざる者食うべからずだ」とぬかしやがった。
腹に据えかねた私は、「お袋の方こそ何もしてねーだろ!」と怒鳴ってしまった。親父は私じゃなく、妹を睨む。私と妹は、お盆の上に自分たち兄妹の分だけ乗せて、別の部屋で食った。
妹はしょんぼりしてたので、気にするな、うちはちょっと変なんだ、と言いながら二人だけで気を張らずに食ったんだ。
台風の時期になると思い出す。妻も常にひとりだったため、妹の気持ちが解るんだ。きょうも3人で充分な買い込みをし、
明日は相当な悪天候だから、外に出ちゃダメだぞ、と二人に言い、
ベランダの物置小屋などを補強しておいた。現場仕事からしたら、中学生の頃の技術の授業みたいなものだ。
昭和の40年代は、台風が来るとなると、皆、家の外側から釘打ちをし、自分も小学校高学年にもなるとやらされた。
そして台風が去ると、釘を引っこ抜いていた様に記憶している。ご近所皆さんでやっていた。
近所のオジサンの方が、父親とかいうあいつより優しかった。こうすると、手に当たりにくいよ、と教えてくれたんだ。
近所に、いつもニコニコしたオジサンやオバサンが、必ずひとりはいた気がする。世間体を気にするあいつらは、他人の前では言い親のフリしやがった。けれど、いったん家に帰るとまたいつものフンってな顔だった。
妹は女の子で手も小さいため、釘仕事は親父と私がやっていたが、どこのお宅でも、小学生の女の子に台風に備えた釘打ちをやらせているのは殆ど見なかったのに、
あいつらは妹に「この役立たず!」と怒鳴っていた。私は中学生になってやっとあいつらに、妹に暴言を吐く事を、やめろよ、と言える様になった。妹はいつも下向いて泣いていた。
ある時、台風の直撃前に買い物に行くのを忘れ(あの女はほとんどの家事を私たち兄妹に丸投げしていた)、暴風域の中、意地でも買い物に行こうとしたら、
世間体の悪い事するな!と、家にある物で4人で食事する事になった。食事、なんていう楽しい雰囲気の家じゃなかったが。
妹と手分けして、4人分、食卓をととのえたが。
また大型の台風が来ます、皆さんどうぞお気を付けてお過ごし下さい。
さすがに明日は妻も妹も休みだ。私もきょう中に病院へ行って良かった。帰りにスーパーで買い物したら、レジは長蛇の列だった。
自然の災害は怖い。何事も起きません様に。
早朝になり、すみません。着レス通知設定している方、眠っているところを起こしたら申し訳ないので、解除される事をおすすめします。
こんなものでも読んで下さり、ありがとうございます。不定期的な更新でごめんなさい。独り日記、という事で、お許し下さい。
m(_ _)m
4年半前の春、私たち夫婦と妹の3人が一緒に暮らす事になった。3人とも50才になり、互いに助け合って生きて行こう、と、考えは一致していたんだ。
何しろ妻と妹が、本当に仲が良く、過去レスにいくつか書いたが、お互いがお互いの人生に一緒になって泣いてやれる仲なんだ、ありがたい。
引っ越し先は、この沿線はやめようとなり(妻の兄弟姉妹に突き止められたくないという、妻の強い希望で)、
妹の気持ちを聞き、かつて弟君が利用していた電車の沿線の、利便性や治安の良い所にしよう、と話し合い、今の物件に決めたんだ。
家を、ローンを組んでまで買うほどの財産も将来的に見込めず、毎月家賃を払う生活に決めた。
私は自分の収入に見合った家賃、間取りを考えて選んだ。すると妹が思いがけず、私の月々はどの位がいいかな、と言って来たんだ。
妻は、妹ちゃん、いいのよ、食費をちょっとだけいただけたら助かるから、ね、と言ったが、
妹は、ううん、だってお兄ちゃん夫婦が暮らしている所に一緒に住まわせてもらうんだもの、ケジメとして、払わせて、と言うので、
妹の気持ちを組んで、例えば家賃が6としたら(6万円という意味ではない)、1でいいぞ、と言ったら、なんと妻までが、「私も仲間に入れて」と言い、
自分も、1入れると言い出し、夫婦でおかしいぞ、と言ったが、妻は、私だけ仲間外れはイヤだからと言うので、
私4、妻1、妹1、という比の値になった。他人さんから見たら変かも知れないが、私たち3人は、こういう結び付きなんだ。
こうして振り返ってみるとやはり50数年は長い。これから仮に30年、40年、若しくは百歳まで生きたとして、どんな人生観になっているんだろう。
今、百歳以上のご健在な方は、50年前の50代の事をどんなふうに記憶しておられるんだろう。
大昔なのか、はたまたつい最近の様なお気持ちなのか。忘れたい事ほど覚えていて、忘れたくない事ほど記憶が薄れていくのはなぜなんだろうな。
いや、私や妹、妻が、弟君を忘れない。そして、両親とか言うあいつらは遠い人になっていけばいい。
去る者日々に疎し、というが、弟君の様な人の事はずっとずっと家族として覚えていたいんだ。あいつらこそ、日々に疎くなって行ってもらいたい。
妹も妻も、そうだよな。妻とは、妹が結婚してから知り合ったんだ。このご縁には、神様に感謝しているんだ。
私が安全地帯さんの「風」という曲を好きになったのは、妻と付き合う様になってからだったっけな。
そして、いい曲なのに辛くなるのが、中島みゆきさんの「糸」だ。
妻にとって私は本当に縦の糸の人なのだろうか。私にとって妻は、本当に横の糸の人だと思っていいのだろうか。妻はどう思っているのかなぁ。
妻を信じて生きているのに、私の弱さが時々こんなふうに自分に自信を無くさせる。私は頑固なくせに、人と縁が切れるのは異常に怖いんだ。
人間、機嫌の良い日悪い日、体調の良い日悪い日、色んな日が誰にだってある。私にも、妻にも、妹にも。
でもそれが人間なんだ、理解を示し、それぞれがそれぞれと折り合いをつけてやっていくものだと思って生きて来た。
でなければ、私たち3人の暮らしも成り立たなかったろう。私たちは、幸か不幸か、毒親に育てられて来た。幸、という事はないな。
あいつらは、いつから私や妹を育てる事を放棄したんだろう。なぜ子供の存在を否定したんだろう。妻の親や兄弟姉妹はなぜ妻だけ無視して来たんだろう。
世の中には、子供のいる事を幸せ、と生きているご両親がいる。なにが、この両極端の夫婦に分けたんだろう。ケースバイケースなのは解る。手のかかる子と育てやすい子がいるのも解る。
ならば、手のかかる子供の親は皆、毒親か?聞き分けの良い子の親は、ひとりも毒親になってないか?違うだろう。
子育てをどれだけ甘くみていたか知らないが、自分も昔子供だった頃、
一度も親に迷惑かけた事ないのか。ここミクルの母ちゃんたちはみんな一生懸命だ。もうこの子殺して私も死ぬとまで追いつめられた母親でも、みんな励まして助けている。
なのになぜ、うちの両親とか言うあいつらは、夫婦で刺し違えて無理心中をしたんだ?子育てが辛かったらなぜ誰かに助けを求めなかったんだ?
死ぬ事なかっただろう。しかも妹に人でなしな事をしておいて。
妻の家族もなぜなのか理解出来ないんだよ。私たちは、自分たちが毒親しか知らないので、自分たちが毒親になったらどうしよう、と、こわくて子供のいる人生を歩めなかったんだ。
私がこの話をしたのは、人生で2度目だったと思い出した。1度目は、高校を卒業して最初に就職した会社の人だった。そうだ、先輩から学生運動の話を聞いた流れだった。
私が19の時、30代前半の先輩(団塊の世代の人だ)が、昭和の30年代より40年代に入ってから学生運動に参加していた話をしたのだった。
順番は違うかも知れないが、成田闘争だの三億円事件だの(これは何となく覚えている)、昭和30年代後半生まれの私には、正直、ウルトラマンやウルトラセブンより分からん話だったが、
社会人として先輩の話は聞くのが礼儀だと思い、解らないなりに相づちを打って聞いていた。
その時、例の電話ボックスの話をしたら、団塊先輩は、「おめ~小学生だったのか~!?」とビックリしていたが、
私にしてみれば、この先輩が、ヘルメットにタオルにゲバ棒の兄さんたち世代だったのかと、驚いた。
もちろん、直接あの時の人ではないだろうが、今一緒に仕事をしているんだ、と不思議だった。
昭和50年代半ばの話だ。その辺は少々、身バレ防止をさせて下さい。
妹の、思い出したくない過去も前後するので。
私は何も悪い事はしていなかったが、数人のお巡りさんを見て、固まってしまった。
そしてひとりの警察官が私に尋ねた。「ぼく、あのね、黄色いお帽子をかぶった、お兄さんお姉さんを見なかったかな?」と。
私は、お巡りさんにウソをついてはいけないとは思ったが、あの棒を持った人らの、誰にも言っちゃダメ、が恐ろしく、
とっさに変な方向を指差して、「あっちへ行きました」と、ウソを言ってしまった。
警察官は何か会話をしたかと思ったら、二手に別れて走って行った。
私は、電話ボックスからその人らが出て来ると思っただけで恐怖で、今来た道を一目散に引き返した。
なぜかランドセルをつかまれやしないかという怖さで、走りながらランドセルを肩から外して両腕で抱き抱え、家まで泣きながら走って帰った様に思い出した。
難しい考えの人たちだったんだろう。今現在、70才前後の方たちか。
こんな話を妻と妹に、リンゴを食べながら話したら、「あなた(お兄ちゃん)、怖い目に遇ったのね」と一緒になって聞いてくれたんだ。
その昔の出来事は、両親とか言うあいつらへは話せなかった。私が泣いて帰ろうが、なんの関心も示さなかったからだ。
嫁ちゃんも妹も、半世紀も前の事を聞いてくれて、ありがとうな。
この電話ボックスの思い出は決して良い思い出ではないが、吐き出せた事、二人が聞いてくれた事がありがたかったんだ。
その大きいお姉さんお兄さんたちは私を見ると、少しこわい顔で、確か女性の方だったと思うが、
「ぼく、ここで私たちを見た事は誰にも話したらダメよ。わかった?」と、強い口調で言われ、なんだか解らないが怖かったので首を縦に振った。
言い終わると急いでその人らは電話ボックスに隠れる様に入って行った。内側から扉を引っ張って閉めていたんだろう。当時の私の目の高さからは窓の下の事は分からなかった。
今思えば、ヘルメットを被りタオルを首に巻き、こん棒だかゲバ棒だか持っていた気がする。
そこへ、制服姿の警察官が数人、これまたスゴい勢いで細い道からドドドと走って来た。6才か7才の私は完全にビビった。
50年前、私は小学生だった。はっきりした記憶はさすがにないが、昭和40年代前半、1年生か2年生のあたりに、学校帰りにちょっと怖い事があった。突然、思い出した。
なぜか集団下校ではなく、ひとりでランドセルを背負ってたと思う。まだ妹は幼稚園にも上がってなかっただろうか。
細い道から出て来ると商店街になっている所をトコトコ歩いていた気がする。そこに、扉の付いた電話ボックスがあった。
当時の電話ボックスは、後のスケルトンと違って丸見えではなく、クリーム色のボックスの、上半分だけが、新幹線の窓の様に中が見える様になっており、
下半分は全く見えないタイプの電話ボックスだった。私は、商店街にしてはあまり人が歩いてない時間帯に、電話ボックスに向かって、商店街を歩いていた。
もう少しで電話ボックス、という所で、横の細い道から3~4人位の大きいお姉さんお兄さんがものすごい勢いで駆け出して来て、ランドセルを背負った私とバッタリ出くわした。大学生位の大きい人たちだった。
間違えた。留守番してもらったのは妻だった。妹を連れてったんだった。花火大会の頃はまだ、妻とは知り合ってなかったな。
なんだか薬でボーッとしたか。妻が、私がご一緒させてもらったら、夫婦2組と妹ちゃん、という5人になるから、
その時の4人で行って来て、と言ってくれたんだったな。あの時はありがとうな。
妻にも妹にも気を遣わせてしまっている。ごめんな。
こんな時間まで読んで下さって、ありがとうございます。おやすみなさい。
先日も引き出しの中の小箱を見たくなって、始めはとなりの箱の、ガチャガチャで当てた恐竜のチッコイのを見てたが、
妻と妹で作った思い出の小箱を開けてみた。いちいち断らなくてもいいそうなので。
中に入ってる物は、幸せな思い出の物ばかりだな。ヨーヨーのしぼんだヤツ、こやつが1番の古株か。何しろ昭和55年の花火大会の出店のだ。
あの結婚した二人、元気でいるかな。またみんなで会いたいな。妻の助言だと、妹を連れてったら、夫婦2組と妹、になってしまうから、
向こうからも独身者がひとり来てくれればいいなぁ。独身男性?いや、妹には弟君しかいないんだ、いくら妹がかわいいからって、男性はダメだ。
こんな事を、箱を閉めてからメシの時に話したら、二人に笑われてしまった。「お兄ちゃん、私、いくつだと思ってるの?」「妹ちゃんは独身なんだから、これから恋愛したっていいのよ」と。
う~ん、複雑だな。が、私の心境をよそに、妻と妹はなんだか勝手に盛り上がっているんだ。
ねえねえ妹ちゃん、イケメンさんが来たらどうする?え~、亡くなった夫に悪いな~、じゃ、弟さんに似てたらどうする?え~どうしよう~、と二人でキャーキャー楽しそうだ。
いやいや、まだ6人で会う話はありませんから。女性の想像力はスゴいな。
でも二人が楽しそうで良かったんだ。二人とも、明るく生活出来ているのか、良かった。嫁ちゃんも妹も、ありがとうな。
忙しくしていると、昔を振り返る暇もなかった。けれど時間が出来ると、昔あんな事やこんな事があったな、と思い出してしまう。
良い事だけ覚えていられたらどんなに良いだろう。人間の記憶は、曖昧でいい加減だったりするが、
その時の自分の感情も思い出したりするので不思議だ。今だったらこうしたのに、とか考える。
たられば、は、もしこうだったらという話だ、結果論なんだろうな。
妻の人生、妹の人生、これで良かったと、最後まで思わせてやりたいんだ。
二人には、本人のせいでないところで身に付かなかった、人としての色々を、
たくさんの人を見て、自然に覚えてくれればいい。せっかく毒親から逃れられたんだ、
まっとうな人生を送ろう、な。
妻が妹の部屋へ泊まりに行く回数が増えた事を、私は少し勘違いしていた様だったんだ。
完治するまで家で養生する様に言われ、2ヶ月を過ぎたので、妻がそろそろうんざりして来たかな、と思っていたが、妻と話してみると、少し違ったんだ。
私が元気で働いていた頃は、妹も、夫婦は同じ部屋で休むのは当たり前、と思っていたらしいが、
今の様に、薬が効いて眠ったり起きてたりすると、お姉さんもリズムが狂っちゃうよ、と妹のアドバイスがあり、
また妻も、私が眠れずに夜中の2時3時に起きてここに書いている際、わざわざリビングに移動させたくないからと、妹のところで早めに眠ったりしていたんだ。
悪い事してしまった、ごめんな。仲良く気を遣ってくれて、ありがとうな。
金銭の話でなんだが、1日百円貯金も、3人で8ヶ月もすると、缶に8万8千円も貯まっていた。
いちいち数えた訳ではなく、妻と妹が、900円になったら千円札と替え、4900円になったら5千円札と替え、
9900円になったら1万円札と替えていたので、数えやすかった。
強制ではなく、バイト代の出る前の苦しい時はいいからと二人に言い、二人は私がコソッと300円入れておいたりするのに気が付き、
バイト代が入ると、二人とも300円入れておいてくれたりするんだ。嫁ちゃんも妹も無理するな。
私は二人が百円ショップで化粧品を揃えているのを知り、顔につける物は、良いのを買え、な、と言ったが、特に困ってないからと、
ファンデーション?とか言う粉やらなんだか塗るやつやら目の化粧品やら、みんな百円ショップの物で済ませているんだ。
化粧品って何千円もする物じゃないのか?そんな安物じゃなくていいんだぞ。
その代わり?二人はコラーゲンだか毎日飲んでいる。肌質もあるだろうが、二人とも何度も言うが、50代に見えないぞ。
うちの石田ゆり子似の妻と、相田翔子似の妹は、綺麗だぞ。私にはもったいない妻と妹だ。
来年2月、3人の休みに、ディズニーランドへ行こうな。今まで2回か3回(3人の記憶が曖昧)しか行ってなくて、
いつもカレーとチュロスだけでごめんな。お土産も、ひとりクッキー入りの缶2個までと、アナ雪のなんだか2つだけでごめんな。
2月は4人(弟君)も入れて、良い思い出のあった月なんだ。
また行こうな。今度はレストランに入ろうな。
以前、書いただろうか。私は、歌手でタレントの、つるの剛士さんは本当に素晴らしい家庭で育った方なんだなあ、と思ったんだ。
ご本人が公言なさった事なら引用させていただいて良いだろうか。
「僕は、自分の両親が理想の夫婦なんです。」と、つるの氏は仰っている。私は目頭が熱くなったんだ。
世の中には、私や妹の様に、両親みたいにだけは、なりたくないと逃げ出す兄妹もいれば、
つるの氏の様に、真逆の方もおられるんだ。素晴らしい家庭で育たれ、羨ましい。そうでなきゃ、お子さん5人もいる人生はなかなか送れないだろう。
そして、「夫婦円満が最大の育児」とも仰っている。すごいな。
ただひと言、息子さんの、つるの剛士さんにそこまで言わせたのは、他ならぬご両親様の愛情を注いで育まれた賜物だと思っている。
私は、感動したが、自分の人生に経験のない事は、どうしても出来なかった。親御さんや育つ環境は本当に大きいと、はっきり悟った。
そしていづれの場合も、気が付くのは大人になってからなんだ、とも思った。
自宅療養中、と言っても、ものすごく悪い病気とかではなく、気長に治していきましょう、という状態なので、
事務仕事だけでも、週3、4だけでも、医者からもらった薬で働けない事もないのになぁ、悔しいんだ。もう少し頑張って治そう。
妻は、私がケガ&病気の前から、色々妹に気を遣って、基本は夫婦で一部屋、妹が別の部屋で寝ているが、
夜中まで二人で話し込んだ後や、何か女性だけで話したい事がある時は、互いの了解の上で、
きょうは妹ちゃんの部屋に泊めてもらうね、と妹の部屋へ行ってしまうんだ、いつだったか枕投げしてて、楽しそうだったな。明るい声が聞こえて来て、嬉しかったんだ。
最近は私が2ヶ月以上家にいるからか、妻が妹の部屋へ行く回数が増えた。これはいかん、会社と病院に内緒でバイトでもせにゃ。
バレたら、二人と病院の先生と会社の3方向から叱られるな。
早く治って欲しいものだ。そして、療養中になんとか500レス🈵レスにしたいな。
小、中、高と、1度も修学旅行に行かせてもらえなかった妻は、旅行に行ける事がよほど幸せなんだろう、本当に嬉しそうなんだ。
リュックサックも水筒も持った事も見た事もなかったんだ。遠足はどうしてたの?と聞くと、毎回、家の都合で行けません、と学校に報告されていたそうだ。
寂しかっただろうな。ひとりでポツンと家にいたんだ。家族に無視されて。
私がリュックサックと水筒を買ってやった時は、まだ妹とは別居だったが、今は30年以上経って、だいぶ古くなり、
買い換えるにあたり、妹と色違いのお揃いにしているんだ。また取り替えっこして、イタズラするなよ~。
昔、初めてリュックを妻に買った時、本当にぎこちない開け閉めをしていたんだ。可哀想だった。
もうすっかり慣れた様だ、これからも色んな所へ行こうな。
もう10月なんだな。もう少ししたら、紅葉の季節だな。毎年、3人の休みの取れる日、1日日帰りで紅葉狩りに出かけるんだ。
車がないので、電車で出かけたりもしていたが、妻と妹で、観光バスのツアーを探して決めてくれるんだ。楽しそうに二人でパンフレットを見ているんだ。
大体予算はひとり一万円かな。今年も色とりどりの綺麗な紅葉を楽しみにしているんだ。女性はこういう時、行き先から車中でいただけるお弁当まで、よく吟味してくれているんだ。
男はおおざっぱだから、どこでもいいぞ、ってなもんだ。こういう事は、女性陣に任せるんだ。不思議と二人が決めたツアーはいつも当たりだ。
今年はどこへ行くのかな。綺麗な紅葉を楽しみにしているんだ。
3人で、いや弟君も4人で、紅葉狩りに行こうな。🍁
妻は、地方紙に小さく載った、私たち両親の刺し違え事件を知っていた。姓が同じだった事で、私からわざわざ言わなくても、
え……そうなの?と静かに聞いたので、うん、と頷いたと思う。妹は結婚して弟君の姓になっている。
妻だって辛い家庭で育ったのに、泣いてくれたんだ。私さんも妹ちゃんも、よく乗り越えたね、どんなに悲しくて怖くてやりきれなかったでしょう、もうそんな思いしない人生を送ろうね、と。
嫁ちゃん、ありがとうな。何があっても嫁ちゃんを守るからな。私が年老いていなくなったら、妹と助け合って暮らしてな。
私は本当に、両親以外の人たちに恵まれて生きて来たんだ。感謝しても感謝しても足りないくらいだ。
嫁ちゃんの分のパイナップルは、私と妹で食ってやるから、な。
遠い遠い昭和の昔の事だ。1度、家や土地の事で叔父に呼ばれて、妹と実家から逃げ出して以来、数年ぶりにあの家に行ったが、
普通に上がり込める状態になってはいた。実家なら懐かしがったりするものなんだろうけど、恐ろしい事があったんだ、懐かしくなどなかった気がする。
叔父は本当によくしてくれたんだ。後片付けやら、むごいものを見てつらかったろうに、私と妹には優しい叔父だ。
そんな叔父が今、缶詰めを送ってくれる。叔父には、1番好きな銘柄の焼酎を送る様にしているんだ。
手続きをどうしたかなどは、レス45~46に書いた。自分の実家とこんな別れ方をした人も、そうそうはいないだろう。
あの俳優さんも、妹さんがいたっけ。どの様にしてご実家と決別なされたのだろう。
ずっとずっと書けずにいた。私は、人は誰でも他人に言いたくない事を抱えて生きていると思っている。
それから30数年、家も墓も、私たちは寄り付かない。毒親と暮らした挙げ句、あんな亡くなり方をされた家に、嫌な記憶はあってもほのぼのと懐かしむ所じゃない。
私と妹にとって、ふるさと、は、妹と弟君夫婦、そして妻、この4人がいる場所がふるさとなんだ。
すべては、叔父と、親戚のお姉ちゃんと書いてきた彼女の両親から聞かされた。
あまりの事で、警察に私や妹まで色々聞かれたが、すべてを正直に話し、私と妹は、両親の葬儀には行かなかった。行きたくなかったんだよ!
妹は、あんな目にあったのに、わんわん泣いたんだぞ。あんたら、そんなバカな死に方して、それでも親なのかよ!酷いだろう?死ぬ事ないだろう!何してくれたんだ!
もう、私は当時涙も出なかった。こんな人生、恨まないヤツいるのか、と放心状態の様な、訳分からなくなってた。
なぜ生きようとしなかったんだ、生きて、生きて、いつか妹に謝ってほしかったんだぞ。
私だって、あったかい家庭で育ちたかったんだぞ。優しい父さんと母さんのいる、妹と4人家族幸せな家庭で大人に成長したかったんだぞ。
なんで、なんで、妹も私も、こんな両親のもとに生まれなきゃいけなかったんだろう。
ここに書かないつもりだったのに、ごめんなさい。
こんな夜中まで、読んで下さった方、ありがとうございます。
私と妹を探そうにも、友だちの名前すら知らない様な親だ、叔父たちに私と妹は心配され、
それこそ、行方不明で捜索願いを警察に出すか?と言われたらしいが、もし家を出た事に心当たりはあるか聞かれたら、
あの獣親父は、妹が見つかった際、自分のおぞましい犯罪が明るみに出る事を恐れたんだろう。
いや、上の息子(私の事だ)と一緒の様だから、そこまでしなくていい、と言ったそうだ。おまえらを親だと一生思いたくないと強く思った。
叔父をはじめ、周囲の人たちにも生活がある、あいつらだけに関わってばかりもいられなかっただろう。
クソ親父とバカ母親は、だんだん追いつめられていったんだろう。
なぜそういう結論を出したのか、いきさつは知らない。けれど、常識的に生きていれば人間のする事じゃない死に方だった。
絶対に昭和何年などと言いたくない、地方紙に小さく載ってしまった。
父と母は、お互いを刺し違えて絶命した。玄関から、
ごめんなさい。赤いものが流れ出て、近所の人が通報して、警察の方が玄関を壊して中に入ったら、あたりは、本当に本当にすみません、血の海だったそうです。
バカ野郎。父さんって呼びたかったんだぞ、母さんって呼びたかったんだぞ、なんでだよ!
私と妹に、そんな親の姿を、どう見ろっていうんだよ!
ごめんなさい。あんなのでも両親だったんです。
レス44に、両親が亡くなった理由は書きたくない、と書いたが、心のどこかで吐き出したいと、苦しい気持ちもある。
最近テレビでお見かけしなくなったある俳優さん(やはり50代の方だろうか)のご両親の亡くなられ方と、私たちの両親の亡くなり方が、申し訳ない書き方かも知れないが、とても似ている。
両親(と思いたくないが)は、私と妹が実家から逃げ出した後、私や妹の手取りから4割ずつ生活費にあてていたのが無くなり、生活が苦しい、と、あの叔父をはじめ周りへ愚痴をこぼしていたらしい。
が、ハタチ前後の息子や娘の収入を当てにしていたのか、と逆に周りから厳しい事を言われたらしい。
冷静に考えれば、4人で生活していたのが二人になったんだ、親父だってあんな獣でも一応は仕事してたんだ、母親がやりくりすれば生活出来ない事もないだろう。
母親とかいうあの女は、パチンコ屋によく入り浸っていたとか。最低だな。私や妹がいた頃は、しょっ中自分だけ実家に帰ってたし。
本当に、家庭を機能させようなどという感覚のない母親だったとあらためて知った。
スレ主です。どうにかこうにか、300レスまでたどり着きました。
時間のある時に過去レスを読み返してみますと、同じ事を書いていたりすっ飛ばしていたり、読んで下さっている方が脳内で話を補完してくれないと話が繋がらなかったりと、かなりムチャクチャですが、
見捨てないで読んで下さっている方、本当にありがとうございます。これからもこんな感じですが、頑張って、続けてみたいと思います。
酷い内容でごめんなさい。🙏
よくよく考えてみると、妹が1番引っ越しをして来た。初めは私と一緒に実家を逃げ出した事から始まったが、
次に2DKに引っ越し、結婚して弟君と所帯を持つ新婚夫婦の家に引っ越し、
弟君亡き後、妻の母親のストーカーまがいの待ち伏せから逃れるために引っ越し、そこに30代後半から50まで住んで、
そして今の3人暮らしの所へ。今でも妻は、自分の母親のせいで、とあの時の引っ越し代を半分出してくれただけでなく、私と妻とで半分こしてでも妹を守りたかった気持ちは強く、
今でも妻は毎月、妹の名前で積み立て貯金をしているんだ。月々五千円だが、もう10数年続けているんだ。妹ちゃんには内緒にしといてね、と言われながら。
どうも妻は、妹名義の他に、私名義の口座も持っている様だ。妹も妹で同じ様な事をしているんだ。
二人とも安心しろ、な。私に万が一があったら、ちゃんと生きて行ける様に、生命保険に入っているから、な。だがもう少し、幸せな家族の、楽しい二人のやりとりをあと20~30年は見せてほしい。
ヘアーカラーゴムだかを持って、妻を追いかける妹や、イカやタコのキーホルダーを持って、妹を追いかける妻を、楽しそうに笑って生きている二人を、まだ見ていたんだ。
50数年って、けっこう長いな。
何だかんだ書いて来て、ここまで来ました。昭和に戻ったり平成を思い出したり、今年、令和に入ってからを書いたり、
色々と飛んでいますが、これからも思い出しながら、ゆっくりと書いていこうと思います。
妻の人生、妹の人生、私、皆それぞれ違い、3人が半世紀を生きて、今やっと3人暮らしに落ち着き、ささやかな幸せの日々を送っています。
独り日記と思い、だらだらと書いていましたが、共感票にビビりまして、これ以上増えない様にミクルさんに調整していただいている次第です。こんな、毒親を書いた、決して読んでいて明るく楽しいものでもないものを、
読んで下さっている方、ありがとうございます。これからも誤字脱字、メチャクチャな文章でお目汚しするかと思いますが、
書けるところまで書いていきたいと思います。読んで下さって、本当にありがとうございます。
m(_ _)m
きょうから10月、とうとう消費税率が1割になってしまった。昨日、おとといと、妻、妹と手分けして、ホームセンターへ買い物に行った。
レジが長蛇の列だった。中には「うちねぇ、7人家族なのよ」という女性が、トイレットペーパーを百個位買っていた。
ポイント還元とやらで、きょうからの方が安くなる買い方もあるそうだが、その女性も私同様、スマホが使えない様だった。
ワイドショーを見たが、全く同じ物を買っても、店によって金額が違うとか。そんなバカな。
レジの人も大変だな。けれど私らも、混乱する。こんな混乱は、政府のお偉いさんは想定していたんだろうか。
皆、安く買いたい、店も儲けなきゃならない、レジでトラブルがありましたと言いながら、具体的にはトラブル内容は報道しない。
なんだ、昔話の北風と太陽でいうと、このやり方は北風な気がする。現金派の人は財布の紐をしめる。8%の時より、いや5%から8%に上がった時に政府のお偉いさんは学習しただろうに、
皆にどんどんお金を使ってもらって経済を回そうとしているんだろうに、これではカード派と現金派ではっきり明暗が別れるな。
それとも年寄りは早く天に召されろとでも?私らの働いて払って来た税金・年金は、若くて元気いっぱいの、家でニートしている人らの生活費になるのか?
やはり太陽ではなく北風だな。旅人はいよいよコートの襟もたてて来た。10%が原因で、生活苦による死者が出ない事を祈る。
妻も妹も、ぜいたくなんかしていない。ごめんな。私がもっと稼いでくるからな。今はごめんな。早くこんな病気治すからな。
缶詰め工場で働いている叔父は、親父の弟だ。同じ兄弟とは思えないくらい、私らに親切な叔父だ。
兄貴(私たちの父親)は昔から気難しくてプライドが高くてな、私が兄貴より成績がちょっとでも良かったりすると、機嫌が悪くなってな、ガキの頃からあまり遊ばなかったなぁ。
叔父はなんでもポンポン話してくれるので、こちらも話しやすいんだ。妹の事も含め、なんでも話せる訳ではないが、
叔父の方が、実の父親より話しやすいというのも、おかしな話だ。いや、叔父には感謝しているんだ。
両親が話してくれなかった事を叔父に聞いてみた。なんでも両親は見合い結婚だったらしい。けれど、あまり幸せそうには見えなかったそうだ。
○子さん(母親)とも、お見合いが終わって、気に入らない女、と言っていたが、周りへの手前、仕方なく結婚した様だったなぁ。
そんな…………。
私と妹がショックな顔をしたのを見て、叔父は慌てて、あ、いやいや、結婚して甥君たちが生まれたら変わったんだよ、とフォローしてくれたが、
私たちの方が、生活して来た真実を知っている、が、叔父は何も悪くないので、教えて下さってありがとうございます、と言っておいた。
人間、知らない方が良かった事もあるんだ、と、この時思った。
母親の方はなぜ見合いを承諾したんだろう、いや、昭和30年代の田舎の見合いなんて、断ったり出来ない、そんな風潮だったんだろう。
妹も私も、がっかりした。同時に、納得いかない結婚の結果、子供など生まれたら、毒親になるんだ、と学習した。
こんなふうに、個人的には辛く嫌な子供時代でも、魅力的な場所を訪れていたんだなぁ、と、地名を聞いて、何となくだが思い出す。
今は親戚も誰もおらず、世田谷区には知人がいなくなってしまった。住んでいた訳ではないので、親戚の彼女ほども詳しくないが。
妻の過去は、妹の様に共有していないので、知らない事が多く、ただ悲しい顔をする妻を見るのは辛いので、根掘り葉掘り聞かない様にしている。
誰かひとり、妻の味方はいなかったのだろうか。妻は私だけではなく妹にも人当たりはやわらかく、いつもニコニコしているところも、普通に好感が持てるんだ、
悪目立ちもせず、親兄弟姉妹さんから嫌われる様なところは見当たらない。
確かに大人になってから出会ったが、家族全員に無視される様な印象のある女性でもないし、ましてや親兄弟姉妹から逃げ回るくらいだ、私らに嘘をつく理由も見当たらない。
それより何より、30年以上夫婦でいる事の方が大きな実績だと思うんだ。
今の3人のささやかな幸せを、3人とも壊したくない。守っていきたいんだ。妻から、パイナップルよりもっと嫌いな過去を取り除いてやりたい。
妹も同じだ。お姉さんとお兄ちゃん、離婚なんかしないでよ、と言われているんだ。
こんな真夜中にすみません。眠れず、もう1つ思い出した事があり、書いておこうと思います。
昭和40年代の半ばか後半だったと思う。しばらくうちで預かった親戚のお姉ちゃんの住んでる所へ、一度、あいつらに連れて行かれて妹とそのお姉ちゃんともうひとりの男の子と遊んだ様な記憶がある。
還暦過ぎた彼女にいつだったか聞いてみたら、遊びに行った所は、
なんでも世田谷区の、等々力不動尊とかいう所だったそうだ。緑が多く、某保険会社の建物のある場所から、川が流れている所まで、とんでもない下り坂だった。
そして下りきった所に、妙な洞穴があり、入れない様に柵で隔ててあった。近くにいたお婆さんに聞いたら、
あれは防空壕の跡地だよ、と教わった。子供の頃は解らなかったが、
あの昭和20年8月15日に終わった太平洋戦争の戦時中、当時の方々が逃げ込んだ場所が、20数年後に、私たち戦後生まれの子供がこの目で見ていたんだ。
今はもうないだろう。私は、歴史は繋がっていると、大人になって思った。
こんな時間にすみません。
おやすみなさい。
どんな地域にも歴史はあるだろう。懐かしいな。けれど、人が懐かしめるのは大抵、良い思い出なんだ。
思い出したくない事は、あまり懐かしい、という表現はしない。妹も、普通の家庭に育っていたら、今頃、妻と3人で昔住んでた辺りに出かけてみようか、となっていたかも知れない。
妻に至っては気の毒過ぎる。もう25年以上前に、弟君が元気なうちから、実の母親や兄弟姉妹から逃げ回り、
4人でひと芝居打ったにも関わらず、震災後、まだ妹がなんか知ってるんじゃないかと妹の家の前で待ち伏せしたり、
15才からを語りたがらない。もちろん妹も毒親の毒牙にかかって、弟君と健全な夫婦になるのに遠回りした。
いつも毒親の犠牲は子供なんだ。私らの両親とかいうやつらはもうこの世にいないが、
妻の、老人ホームに入った80代の母親以外にも、地元にはまだ兄弟姉妹がいるらしく、学生時代の友だちと連絡も取れず、会えずにいる。
妹は、花火大会の彼女と時々連絡を取っている様だ。あの二人、結婚して元気でやってるかなぁ。
まず、各駅に、垂れ幕があった。例えば二子玉川駅には、「なんと渋谷まで13分!」、用賀駅(あってるか)には、「なんと渋谷まで11分!」、という様に、
ひと駅進むにつれ、「なんと渋谷まで何分!」と、垂れ幕が駅のホームから見える、線路と線路の区切りの壁にかかっていたんだ。
今の若い人には信じられないかも知れないが、私も近所の人も学校のヤツも、「渋谷まで速くなったわねぇ」「渋谷まで13分かよ、はえーな」ってな会話をしていた。
それだけ、二子玉川という所から渋谷まで行くのに13分は、世の中、速く便利になったもんだ、と、皆が認識する様な時代だった。
今は都心方向も郊外方向ももっと延びたんだろうな。
妹も、すっかり変わったんでしょうね、と言いながら、親と暮らしてた頃を思い出したくないせいか、行ってみたいね、とは決して言わない。
その沿線の方、ごめんなさい。
独り日記の1ページという事で、お許し下さい。
40年ちょっと前だろうか。私は、昭和53年頃、世田谷区内の、新玉川線(今もそう読んでいるか分からないが)の、沿線のある地域に暮らしていた時期があった。
いかにのどかな時代だったか少し書いてみようと思う。
その前の年だったか、新玉川線が開通した様に記憶している。それまでは、二子玉川から渋谷まで行きたい人は、自由ヶ丘で東横線に乗り換えていた。
それが不便だという声が10年以上前からあったんだろう、地下に穴掘って、二子玉川から渋谷まで1本で行ける様になった。
その頃の事を、10代後半だった私はよく覚えている。
まったく他地域の方、都道府県の離れている方、興味のない方、どうぞここから何レスかスルーして下さい。
本当に、もし今、半蔵門線?田園都市線?を当たり前に利用している方には、信じられないくらい、のどかな時代だったんだ。
とにかく、妹が高校生の頃のあのおぞましい地獄の出来事から親戚のお姉ちゃんの家に半年お世話になって、そこからも妹は通学し、また卒業までの数ヶ月は家から学校に通った事、これだけはなんとか時系列で覚えている。
二人であいつらから逃げてから、やっと人間らしさを取り戻し、緊張しなくて良くなったら、不思議なもので、
あれはいつだったか、と記憶が飛ぶ。子供の頃の記憶も定かでないのは、思い出したくなくて、記憶に蓋をし、思い出さない様にしていたからだろう。
妻は、もっと闇が深いんだろう。15才から話したくないなんて。家族に無視されるより、もっと辛い思いって。
毒親の被害は、決して表には出てこない。勝手に死んで、私は悲しくなかった。妹は号泣していたが。
今、が幸せでも、過去がそうじゃないと、やはり心に傷はのこってしまうと、身に付いてしまった。
レス80を見て、思い出したくない事をまた思い出してしまった。
両親とかいうあいつらは、妹が小学生の時、テストで百点を取っても、褒めてあげもしないで、百点取ったからっていい気になるんじゃない!と罵っておいて、
通信簿を見せればバカなの?こんな成績しか取れないのか?と叱ってるんだか文句言ってんだか解らない人たちだった。
あんたら、そんなに成績良かったのかよ、と今さらながら思う。
妹は理数系が苦手だったから、それが言われたんだろうけど、私の通信簿の方が妹より悪かったんだぞ、自慢出来る事でもないが、
なぜか男の私より女の妹にあいつらは辛くあたるので、それが許せなかった。
いつだったか親から逃げるのに成功して二人で暮らしてた時、「俺の方が通信簿悪かったのに、偉そうに励ましたりしてたな、子供だったんだ、妹、今さらだけど、アホな兄で、ごめんな。」と言ったら、
まだ19かハタチになったばかりの妹が、急に涙目になり、「お兄ちゃんに褒めてもらって、私、どんなに嬉しかったか。」と言ってくれたんだ。
「2から3に上がった時も、アイスキャンディーをお小遣いでご馳走してくれた時も、本当に、本当に嬉しかったよ。」と言ってくれたんだ。
良かった、妹が喜んでくれた事を、大人になって覚えていてくれたって事は、あんな家で暮らしていても、妹には、良い思い出もあったんだ。私は、それが何よりも嬉しかったんだ。
毒親、本来なら、あんたらの役目だろ?子供に良い思い出を残してやるって。
あ、いや、失礼なつもりはないんだ。
毎日同じ菓子パンを買うのは自由だし、一時にたくさん買って下さる方、ありがたいです。
私はとてもひとりじゃカラオケ店に5時間も6時間も居られないので、居られる方は、持久力が凄いと思う。百点なんて出たら、そりゃ店員さん呼びたくもなるだろう。私は一生出ないが。朝からお酒飲んだって悪い事じゃない。
妻も妹も、世の中色んな人がいるね、と笑顔で話していたんだ。
悪気はなかったとはいえ、お気を悪くなさった方、ごめんなさい。
m(_ _)m
7月下旬から家にいるが、丸2ヶ月以上家にいた経験は初めてだな。
世間では嫁がうんざりするらしいから、なんとか早く職場復帰したいんだ。うちは、妻が忙しくしてくれて、妹と仲良くしてくれて、
帰宅すると色々話してくれるので楽しい。甘えてはいけないが。
パン屋さんにもカラオケ店にも色んな客が来る様だ。人物が特定出来なければ良いか。
同じ菓子パンだけ毎日買いに来る人、いつも20個以上買って下さる人、ランドセル背負った兄妹がお小遣い数えながら来る二人……
昭和40年代の私と妹の様な子供二人だな。ちょっと泣けて来たな。
また、カラオケ店にも色んな人が来る様だ。ひとりで5時間も6時間も歌う人、百点が出た、と喜んで店員さんを呼ぶ人、朝9時からお酒を飲んで歌う人、それぞれ個性的だな。
昔、弟君と4人でカラオケ行ったけな。弟君が1番、歌うまかったっけ。
懐かしいな。また日常生活に余裕がある時、みんなでカラオケ行こうな。
楽しみだな。妻も妹もカラオケに行くとはしゃいだっけ、な。
ここのところ、妹は、10月1日から消費税が1割になるに当たり、レジ以外も色々変更があり、大変な様だ。
こんな時に手伝ってやれず、自分だけ家にいるのが会社にも申し訳ない。私は手続きをゴチャゴチャしてから仕事をするより、すっ飛んで行ってすぐ手伝いたい性分だ。
妻はパン屋のバイトで、すべて持ち帰りのため8%でそのままで(店内に飲食コーナーはない店舗)、
妹はカラオケ店のバイトで、すべてが1割(10%)になるため、客へのサービスの説明など、客の方が混乱している様だ。
カラオケ店は、お部屋代から飲食代まですべて1割増し計算。
私の様なアナログ人間、いや原始人に近い者は、カードがなんちゃらキャッシュレスがどうたらこうたら、分からん。50代後半にして情けない。
損得勘定は、妻と妹にあらためて聞こう。今はとにかく、1日も早く、医者の外での労働許可をもらうまでは、頑張って家の事をしよう。はぁ、なんとも歯がゆいが、
1ヶ月を焦ってまた症状を悪化させたくはない。そろそろ家にいる生活も、3ヶ月に入ろうとしている。なんとしても完治して、復帰するんだ。
嫁ちゃん、妹、世話かけてすまない。風呂掃除でも布団干しでも任せなさい。
今の若い人は、自分たちが20代の頃より綺麗だね、と妻たちは話している。いやいや、あなた方も綺麗ですよ。昔の50代女性は失礼だがかなりオバサンだった様に記憶している。
私たちは大体、両親世代が昭和のひとケタ生まれ、祖父母世代が明治生まれ、の方が多いだろうと思う。お洒落も何も、時代が違う。
私は五千円札の、樋口一葉が享年23才と聞いて驚いた。失礼だがもっと上の方かと思っていた。お団子頭の女性は、老けて見えるな。
身内のひいき目かも知れないが、妻も妹も、30代に見えるぞ。これも私のひいき目だが、妻は女優の石田ゆり子似で、妹は、元二人組の、相田翔子似だ。どちらも雰囲気似、だが。
弟君は、誰だろう。坂本九さん似、かなぁ。人当たりの良い、遠慮がちな、欲のなさそうな人懐っこい感じの男性だったんだ。
私は……。誰にも似てないな。まぁ私の事などどうでもよいが。
あと4日で9月も終わるんだな。秋到来か。
私は勉強より運動の方が好きだった割には、オリンピックなどにあまり興味がなく、音楽の方が好きだ。
妻は、妹ちゃんほど賢くないよ、と言いながら、私よりは色々詳しい。妻と、歴史の話などしている時もあるが、私はチンプンカンプンだ。
やはり、女の子は居場所のない学生時代を送ると、勉強の方にいくのか。でも楽しく勉強したのでなかったなら、辛かったろうな。
二人とも、よく頑張って生きて来たな。
なかなか仕事に戻れず病院通いの日が続いている。出してもらってる薬でなんとか、事務仕事なら出来るので、どうも歯がゆい。
二人ともバイトの日は、私が洗濯して掃除して、朝と晩のメシを作る。家族で暮らしているので、今さら女性の下着だなんだ言ってられない、二人とも、どちらかが仕事の日は休みの方が家事を手伝ってくれ、
二人とも休みで3人家にいる日は、みんなの休みの日、にして、外に食べに行ったり、給料が出たら、出前の寿司をいただいたりする。
簡単にうどんやラーメンで済ます日や、ご飯と適当にあるおかずで済ます日が多いので、寿司の日やマクドナルドへ行く日は、妻が本当に嬉しそうにテンション上がるんだ。
握り寿司3人前。妻はずっと、子供の頃から家族の勘定に入れてもらえず、店屋物を取っても妻の分だけなかった家庭で暮らして来たんだ、どんなに悲しかっただろう。
この家ではそんな事ないから、な。間違いなく3人家族だ。いや、弟君も入れて4人だ。
缶詰め工場で働いている叔父の事を、妻は、桃缶のおじさん、と呼び、昔から知っている妹は、名前の一文字を取って、○おじさんと呼ぶ。同じ人なのに呼び方が違う。面白いな。
私も○おじさんと呼んでいたが、妻と会話する時は桃缶のおじさんになっている。3人で話す時は、なんとなく、おじさん元気?みたいな感じか。
ある時、妹がふざけて「パイナップルおじさんって呼ぼうかな?」と言ったら妻が、「もう~妹ちゃんたら~、あ、こんどガチャガチャでイカかタコが出て来たら、妹ちゃんの枕元に置いちゃお~」とか言って、やだお姉さん、と二人でふざけてキャッキャしてたっけな。
家の中が明るいって、本当に幸せだな。こんな他愛もない事が普通にありがたいんだ。
嫁ちゃんも妹も、ありがとうな。二人が幸せに生活してくれているならそれが1番なんだ。
また缶詰めの○おじさんに焼酎を送ろうな。おじさん、色んな呼ばれ方してますが、悪気はありません、また連絡します。
私は決して、自分がとても良い兄でした、などと書きたい訳じゃない。本当に、こんな家庭で暮らしていた事が嫌だった、毒親のもとになど生まれたくなかった。
妹が単純に可愛かっただけなんだ。そんな私でも頑固は昔から変わらない。だからあの地獄絵図の様な出来事の時、父親を殴った。
普通に考えたら、家庭内暴力になるのか。じゃ、あの時私がクソ親父を殴ってでも止めなかったら、妹はどうなっていたんだ?恐ろしくて震えが来るので思い出したくないが。
幸せで楽しい時間を過ごしたいのはみんな同じだと思う。私も最初から妹を親から庇えていた訳ではなく、私自身がやっと小学生になったぐらいの頃は、
同級生と遊びたくて、チコチコ追っかけて来る妹を走ってまいた事もあった。けれど、夜、親にビンタされ怒鳴られている妹を、チビなりに、可哀想だと思う様になっていったんだ。
そんな流れで、いつの間にか、妹を親から守ってやらなきゃいけない様な気持ちになっていったんだ。
今は、守る人が増えたんだ。妻は、私が守る。そして妹は、妻が守ると言ってくれたんだ。
昭和40年代後半だったかな。小学3年生頃の妹が、国語のテストで百点を取って来たんだ。すげ~な、と私は驚いたし褒めた。なんだか自慢の妹だったんだ。
けれどあいつらは、百点取ったぐらいでいい気になるな!と、妹に褒め言葉1つかけようともしなかった。それどころか怒鳴り、フンってな顔をした。
私は、泣きそうな顔の妹と別の部屋へ行って、いっぱいいっぱい褒めてやったんだ。妹、良かったな、百点なんてめったに取れないぞ、きょうはうれしいな。きょうはなんかお祝いしたいな。
そう言って、当時確か50円のアイスキャンディを妹におごり、二人で百点を祝ったんだ。妹も私に、ありがとう、と嬉しそうに言ったっけな。
この話、妻にしていいものか迷っている。実は、妻の兄弟姉妹の中にも兄さんがいるんだ。お袋さん同様、兄弟姉妹にも無視されて来た妻だ。なんだか言えない。
けど、妻なら、妻なら、そんな良い話、聞かせてよ~、って言ってくれるかな。まだ判断しかねている。わざわざ言う事もないが。
大人になって、年老いた親御さんや、成人したお子さん、まだ子供のお孫さんに囲まれて暮らしておられる方は、どんな幼少期を過ごされたのだろう。
私も妹も、そして妻も、おそらく弟君も、実在した自分の親を重ねて想像してみようとしたが、
どんな暮らしをしていたか、想像がつかないと言うより、考えたくもない。
初めこそ、同居でいい顔もするだろうが、だんだんに本性を現すだろう、これは毒親でない方もそうだと思う。
みな生身の人間だ、疲れた顔も見せるし体調の良い日悪い日、機嫌の良い日悪い日、あって当たり前だろう。
けれど、例えばうちだったらどうだ?嫁ちゃんがあのクソ親父やあの母親とかいう女と暮らして、私は嫁ちゃんが幸せになれるとは思えない。
他人さんの親御さんを、失礼だが、弟君の両親と妹が暮らしたら、姑さんは優しいだろうが、弟君父は乱暴な人の様だ、そんな人のいる所へ妹を住まわせたくない。(弟君、ごめんな。)
嫁ちゃんのお袋さんと暮らしたら、いい様にこき使われて、こっちが熱でも出そうもんなら完全に無視されるのがオチだろう。(嫁ちゃん、ごめんな。)
私たちは今3人で幸せに暮らしている事を、お互いが認識しているんだ。ここに毒親が入って来たら崩れてしまうだろう。
子供を持てなかった事もどこかで恨んでいる。私たちは少なくとも、サザエさん一家にはなれなかった。アニメとはいえサザエさんはみんなが憧れる家族だな。
妹と弟君は間違いなく夫婦だったんだ。今だってそうだ。どんなに疲れて帰宅しても、必ずお線香とお水はあげる。朝は1日の始まりだからと、短時間でも仏壇の掃除をする。
私と妻もお線香は必ずあげて、弟君に話しかけるんだ。いつだったか、妻のパイナップル嫌いを話したら、弟君、俺、平気なので、お姉さん、パイナップル余ったら下さい、と例の遠慮がちな顔で言っていたので、
みんなで缶詰めをいただく時は、弟君にパイナップルをお供えして、妻が、弟さんごめんね、桃缶の方もたまには供えるわね、と声をかけるんだ。
弟君、私たちの中にずっと生き続けてくれて、ありがとうな。
私は自分の両親には、1本の線香もあげるつもりはない。
あいつらの墓、今はどうなっているのか、どうでもいい。
妻が私に余計な事を言った、と思う人もいるかも知れない。妹が、なんでも妻に言い過ぎ、と思う人もいるかも知れない。
けれど、人間なんて完璧じゃない。ましてや悩んだり苦しんだりした事だ、心を許せる同性に話す事で気持ちがラクになったのかも知れないと思う。
獣親父の事は、妹は被害者だ、そんな事はなかった事にしたいだろう。
私は妻に、話してくれてありがとな、私は何も聞かなかった事にするから、な、と言った。
妻は、悪くない。妹は、悪くない。ただただ悲しい。
どうして世の中、悲しい事や悔しい事が無くならないんだろう。
人間、誰だって間違う。私も。けれど、獣親父のした事は、間違いでした、じゃ済まない事だったんだよ!ちくしょう!ちくしょう!
やりきれなくて、感情的になって、ごめんなさい。
夫婦の、寝室での会話だ。いや、他の部屋で話せない事でもなかったが。
妻と妹は、女性同士でないと話せない事や悩みも話していた。もちろん、いくらなんでも言えない事は言えなかっただろう。
妻の話だと、妹は弟君と結婚して、しばらく、1年以上、弟君と、夫婦の関係が持てなかったそうだ。
妹ちゃんね、怖がってたらしいんだけど、なんかあったの?と聞かれたが、私が、言える訳もない。
あまりにも怖くてガタガタ震えていたみたいで、弟さん、妹ちゃんがかわいそうで、ただ手をつないだり抱きしめたり、キスだけして眠ってたらしいの。でも妹ちゃんは、これは夫婦になっておいて、夫(弟君)に申し訳ない事だとずっと悩んで、
やっと、時間はかかったけど、無事に夫婦として結ばれたらしいの。その時もね、私、妹ちゃんに、夫婦の大切な事、そんなになんでも言わなくていいよ、と言ったんだけどね、妹ちゃん…
泣きながら、私にとって、あなたがはじめて心も身体も許した人だから、あなた以外いないから、と言ったらしいの。弟さんも、うん、うん、そう思っているから、と言ってくれたそうよ。
私は、あの獣親父が頭に浮かび、妻の前で必死に取り繕いながら、あのクソ親父!と、怒りが込み上げて来たのを覚えている。
妹の人生を、そして弟君にまで…
弟君、ごめんな、ごめんな、妹を怖い思いから守ってやれなかったために、健全な夫婦になるのに遠回りさせて、本当にごめんなさい。
私は、昔が良かったなどとは思わない。それは個人的な事もだが、医学の進歩のおかげで生きている。
だから尚更早く仕事に復帰したい。毒親に育てられた人って引きこもりが多いだの言われたくないからだ。私はたまたま頑固な性格に生まれたが、
妻や妹の様に人に面と向かって強い事の言えない人もいるんだ。優しい大人しい人は、何かとイジメのターゲットになったりする。
私はそういう人を、本来強い人が守るものだと思って来た。けれど、両親とかいうあいつらから生活の中で見せられて来たのは、
弱い者イジメと、大人になった我が子は金づる、だった。
普通は私も洗脳されておかしくなかったんだろう、けれど、妹という守る存在のおかげで、そして学校の友だちのおかげで、
自分の親はおかしい、と気が付いた。いや、気が付いて良かったんだ。
妻から数年前に聞いた事で、私はまた、あいつらの血が通っているおぞましさと気持ち悪さに叫びたくなった。
物心のついた頃からだったか、お年玉を親戚の人にもらっても、その人が帰ると、妹も私もあいつらに取り上げられた。
お年玉、という物を持っていた記憶がない。妻も同じらしく、他の兄弟姉妹はそのままもらってたらしいが、妻だけ、客人が帰ると無言で取り上げられたそうだ。
生活費に困ってたとかじゃないのは解った。もらった子は嬉しかったろうな。人生で経験のない事は、
この年でも3人でやってみよう、と、端から見たらアホみたいな事でもやってみたんだ。ポチ袋を用意し、私は二人それぞれに1万円を入れ、正月に渡した。二人からも五千円ずつもらったんだ。
二人とも無理しなくていいぞ、と言ったが、渡した経験もなかった3人は、お年玉をあげる側もワクワクするという経験もしてみたかったんだ。
妻と妹もやりとりしていたな。ポチ袋を選ぶのも楽しそうだ。
今、生きていて、昔出来なかった事はやってみよう、と話し合って決めたんだ。子供の頃、みんなお年玉って何に使ってたのかな。
今年もあと何ヵ月もしないでポチ袋を選ぶ季節になるなぁ。
3人で暮らす様になって、もう4年か。今年が長く感じられるのはなぜだろう。平成から令和に変わったからだろうか。
こんなふうに過去を振り返ったり思い出して書き残したりする時間も50代後半までなかったな。誰にでも時期ってあると思う。
忙しい時期、数日ならゆっくり出来る時期、悲しい時期、穏やかな時期、今は、病気は嫌だが、こうして過去を振り返る時期なのかも知れない。
妻も妹も、恐らく弟君も、いろんな人生の分かれ道があったんだろうな。でも選ばなかった方の人生の未来なんて考えても仕方ない、
今、生きている人生の未来を考える方が大事だな。先に結婚した妹に、まだ結婚前の妻が、どうしたら結婚に踏み切れるのか聞いていた、と、2ケタ位のレスに書いたっけな。
考えてみれば、4人とも親を見て、結婚に決して良いイメージがなかったのに、結婚したんだ。相手を解ってやれるか、自分を解ってもらえるか、そこだったんだろうな。
こんな形の家族で、二人が幸せならいいんだ。妹、本当に弟君以上に思える人には巡り会えなかったんだな。
そうだな。妹だってあの頃の事は死んでも言いたくないだろう、妻にもあったのかも知れない。男の私に、夫の私に、知られたくない過去が。私は悔しい。
妹も傷付き、妻も何かを抱え、どうしたら拭い去ってやれるんだ?私が女だったら良かったのか。
もう、妻も妹も、今が幸せなら、それでいいんだ。私が悔しがって妻の心の傷にまた塩をぬる様な事をしてはいけない。
自分の妻の過去を8年間近く知らないのは悲しいが、妻が悪い事をして生きて来たとも思えない。妻を信じているんだ。
ただ、ただ、妹も妻も、自分の人生に於いて、自分の落ち度で人に言えない過去なんかない、と、堂々としていてほしいだけなんだ。
昔、妹が高校生の半年間、住まわせてもらっていた、親戚のお姉ちゃん(と言っても60才を過ぎて、孫もいる)、とは、両親が他界してからも引っ越す度に住所を知らせている。
妹が結婚しました、私が結婚しました、それぞれ報告し、そのお姉ちゃんも結婚や出産やその子の結婚、孫の誕生などの報告、今はメールのやりとりも時々はしている。
なかなか親がああだと会いづらい。私はそのお姉ちゃんが(子供の頃の呼び方は幾つになっても変わらないな)、妹が半年間、お世話になる事になった理由は、恐らく知らない。
あのおぞましい出来事をあの両親とかいう人らが話すはずもなかっただろう。
妻には、妹が高校生の頃、半年間だけ住まわせてもらった親戚のお姉ちゃん、とだけ言ってある。
妻は、中学時代の友人に会いたいだろうに、恐らくみんな結婚して姓も変わって、私の事など忘れてしまったと思うからいいの、と言っているが、友だちがいたなら、かわいそうだ。
高校は行かなかったのか?と普通に聞いても、行ったとも行かなかったとも言わない。15才からの妻を知らないのは、やはり寂しい。が、泣いて話すのを嫌がるものを無理に聞くのも酷な事だ。
嫁ちゃん、もう昔の事だ、吐き出してくれていいんだぞ。
妻と妹がケンカしているのを見た事がない。いないところでもいつも感謝の言葉を言うんだ。
意見が合わない時とかどうしてるのか聞いたら、基本は妹が、お姉さんとお兄ちゃんの夫婦の家に私が住まわせてもらってるから、
まずはお姉さんの言う事を聞いて、で、と言うと今度は妻が、でも妹ちゃんも家族だから、こうしたい、っていう事があったら言ってね、って決めてるの、だそうだ。
意見が平行線の時はどうしてんの?と聞いたら、二人は顔を見合わせて、
なんとなく、その時の感じで決まるよね、と自然な返事だった。
二人は本当にウマが合う様だ。私の様に頑固はいけない、相手に気持ちを譲る事が大切なんだな。
弟君の人の良さが今さらながら羨ましいなぁ。
昨日、きょうと体調が思わしくなく、レス出来ませんでした。すみません。
妻も妹も、これと言って病気もせず、元気でいてくれるのでありがたいが、年齢的にも、人間ドックなどの検査を受けてもらってほしい。
年を取るとやはり健康が一番気になる。ひとりじゃ心細いなら、二人で同じ日に受けるといいな。
これからも笑って暮らせる様に、私も今の病気を完全に治そうと思う。私に何かあったら、二人が心配だ。
両親とかいうあいつらみたいな亡くなり方はしないが。
「今度の二人の休みの日、3人でマクドナルドへ行こうか」と話すと、妻は喜んで、妹もテンションが上がった様だった。
ところがその日は朝からどしゃ降りだった。「あれ~お天気悪いね。」二人は、特に妻はがっかり気味だ。車はないが、私は家で3人で食べようと思い、買いに行く事にした。
が、二人が、どしゃ降りの中、悪いから、と言うので、私は現場仕事の頃、何度どしゃ降りに合ったと思ってんの?と言い、二人の希望を携帯にメモって買って来た。
二人は、花柄のテーブルクロスの上に、かわいいあれ何て言うんだろう、ランチョンマット?だかを敷いて、ハンバーガーやポテトや飲み物を並べたんだ。
女性は百円ショップで綺麗な物やかわいい物を買うのが上手いな。
雨ガッパを脱ぎ、タオルで妻がふいてくれて、手を洗って、食卓についたんだ。3人で楽しく食べたんだ。妻と妹でポテトを口に入れっこしてたな。
たまにはご飯じゃなくてもいい。こんな、何気ない日常が、3人とも嬉しかったんだ。うまいな。ひとりで食っても味気ない。
こんな生活を、親や兄弟姉妹と送ってみたかったよな。
な、弟君。君も一緒だぞ。ずっと一緒だ。
妻と妹はよく一緒にスーパーへ行く。最近妻はやっと、パックの納豆が買える様になったんだ。
藁にくるんであるのは、見かけなくなったが、妻には酷な食べ物だった。
妹は、買い物と言えば、ガキの頃から私と一緒だったからそんなには心細くなかった様だ。
昔、会社の女性で、日曜日の夕方になると、小学生の頃ひとりで買い物に行かされ、頼まれた物を全部買えずに帰ると親父さんに怒鳴られ、晩飯抜きだったと話してくれた人がいた。
彼女は今でも日曜日の夕方に買い物に行かなきゃいけなくなると、震えが来ると言っていた。大人になって結婚が嫌で独り暮らしをしていると言ってた。
世の中には、親バカもいれば、バカ親もいる。誰も子育ての完璧な人なんていないのは分かる、が、あまりにも極端だったり、
私と妹の様に、人の道を踏み外した親と暮らさざるを得なかった者は、一生、何かを失ったまま生きなきゃならない。
両親の両親、つまり祖父母も毒親だったのだろうか。
私がガチャガチャで当てた恐竜のちっこいのは、その箱に入ってない。二人に聞くと、恐竜はかわいくないからヤだ、と、となりの箱にまとめて入っていた。
そりゃ、毎回無造作にテーブルに置いた私も私だが、私が冗談半分で「俺だけ仲間外れかよ~」と言ったら、妻の顔がさっと変わり、「ごめんね、ごめんね」とあわてて最初の小箱に恐竜のキーホルダーも入れようとしたので、
「嫁ちゃん、違う違う、こういうのは別々でいいんだ、俺、仲間外れにされたなんて本気で思ってねーから、な。」と話した。
妹も、「お姉さん、お兄ちゃんは、こんな事、へでもないよ。」と言ってくれて、妻は「うん、変な雰囲気にしてごめんね」と謝るんだ。
普通の感覚の人には解らないかも知れないが、妻の、仲間外れ、という事に対する絶望と悲しみは、並みの感情じゃない。そういう家庭で育ったんだ。だから、私の事も、とても悪い事をしてしまった、と思ったんだろう。
嫁ちゃん、50を過ぎても忘れられない位、辛かったんだな、でももう昔の事は忘れて生きて行こうな。
ちょっと探し物があったので、引き出しを開けて、小箱を見つけたので二人に、「これ、開けていいか?」と断って開けてみたんだ。
中には、アイドルグループ、光ゲンジさんのコンサートチケットの半券の他に、
ふうせんの空気の抜けて小さくなったやつ、出し切って中身のない色褪せた古い塗り薬、壊れて使えなくなった腕時計、リスのキーホルダーと仲良く繋がれた、パイナップルのキーホルダーなどが入っていたんだ。
二人も小箱を覗き、3人で一つ一つ見てみたんだ。
「これ、あの時のヨーヨーか?」妹も妻もニコニコしている。妻は、妹ちゃん、良かったね、と言い、私も昭和55年頃ヨーヨーだったやつにここで対面するとは…。
そして、虫さされに塗る塗り薬、もう中身はほとんどないが、この薬を見ると、毛虫を思い出すなぁ。
腕時計は、いつ止まったか妹も忘れている。薄情だぞ~。そして割りと最近のガチャガチャで当てたもの…あれ?
リスとパイナップルが繋がってる?!二人は笑いこけたんだ。リスとパイナップルは、離ればなれにしないで繋げたんだそうだ。
妻は、繋がってる、という事に餓えてたんだ、パイナップルが苦手でも、妹や私と、この小さな箱の中に、なんか妹と世界を作って、こんなふうに幸せを作っている。
私はこの箱の中に、昭和も平成も令和も詰まっている様な気がしたんだ。
これからも増やして行こうな。
あれ、何を探してたか忘れてしまった。
時々ふっと思うんだ。世の中の人たち皆さん、誰だって辛い思いはしているはずだ。けど、誰もそれを言わずに働いたり学校に行ったりしているんだろうな。
弟君の家庭の様に、親父さんがお袋さんを半殺しの目に合わせて、しまいには親父さんが鉄格子の病院に入れられた、という家庭で育った人、
妻の家庭の様に、家族全員に無視されて育ち、15才からどうやって生きて来たか、誰にも、信頼している夫にも(信頼している人だからこそ)、言いたくない人生を歩んで来た人、
妹の様に、おぞましい、惨い目に合って生きて来た人、
私の様に、妹を親父から守らなきゃいけなかった、お袋も母親とは思えない様な、
そんな毒親家庭で育った人は、いったいどの位いるんだろう。
妻のバイト先の人、妹のバイト先の人、私の勤め先の人、誰も私たちの親がそんなだったなどと知るよしもない。
ごく普通の家庭で育ったと思われているだろうし、私も、この世で接した人の家庭の事情までは知らない。
どれだけの人が、端から見て幸せそうに見えても、人に言えない過去や現在を抱えて生きているんだろう。
芸能人さんの中にもいるんだろうな。役者さんはすごいな。
以前、弟君のお墓を、ローンを組んで立てた事で、会社の人に、義理弟さんの○○家のお墓ってないんですか、と聞かれた事があった。
あるとは聞いていたが、彼は、母親には申し訳ないけど、自分の父親と同じ墓に入りたくない、と、一緒に酒を飲んだ時に何度も言っていた。
私はその事を覚えていた。お袋さんに彼の訃報を知らせ様にも、電話は通じない、手紙は戻って来る、
まだ正気を取り戻していなかった妹をひとりにしておけず、妻と3人で聞いていた住所を訪ねたら、知らない家族が住んでおり、
弟君のお袋さん(実家家族)の行方は解らなくなってしまった事は、だいぶ前のレスにも書いた。
勝手かも知れないが、私たち4人でいづれ入る墓だと思って建てたんだ。
弟君があまりにも突然だったため、冷静になれなかったのは、妹だけじゃなかった。言い訳かも知れないが、あの平成7年当時、
これが私の出せる精いっぱいの結論だったんだ。
あれから24年、弟君、この結論が間違っていたら、本当に申し訳ない。でも弟君はひとりじゃないから、私たち4人家族だから、な、妹も、弟君を生涯の人と、再婚なんてしてないぞ。
妹は、本当に、弟君一筋だったんだ。
ベソ書いて、おめかしデートから帰宅した時、「一番会いたいのは、神戸に行ったきりのあの人なの!」と、悲しい声で言ったんだ。
弟君、妹と結婚してくれてありがとうな。
妻が時々バイト帰りに、売り物にならなくなった菓子パンやパンのみみを相変わらずもらって来るので、かなり節約になっていると思う。
妹も、八百屋さんが店を閉めそうな時間に行っては、曲がったキュウリやいびつなトマト、カーブしたナスや多少しなびたその他の野菜をまとめて千円で買って来るんだ。
パンのみみを細長く切って野菜と炒めたり、ハチミツに付けておやつにしたり、色々と工夫してくれるんだ。
ハチミツももらい物だったな。いや、うちは決して貧乏な訳ではなく、何かあった時のために現金を貯金しておく事が、過去の引っ越しで教訓になったんだ。
シャンプーも薄めて使うのが当たり前になっている。だけど、そんな事が幸せなんだ。
普段の雑貨は百円ショップで買う。もうすぐ110円ショップになるが。
空き缶に小銭を貯めている。3人だと割りと貯まる。これでまたディズニーランドへ行こうな。
50を過ぎて、3人で暮らして、初めて家庭の様な気がしている。
明日は病院か、夜更かしはこれまで、また書きます。
おやすみなさい。🌃
それからは、妹が危険な目に合う事はなかった。家に居ない。私や妹だけではなく、あいつ(親父)も仕事はしてたし、あの女も一応、私たちが給料の4割を入れたら、メシ作って洗濯はしてくれる様になった。
けど決して明るい家庭じゃなかったし、私は妹を常に親父から守る様になった。私の帰りが遅くなる時は、最寄り駅か、親父に会わないで済む喫茶店かどっかで妹に待っててもらい、一緒に帰宅したんだ。
妹は私の顔を見ると、ホッとしてた。
弟君、妹に罪はない事だ、男なら、女の子のそういう事には触れないでおこう、と思った気持ち、分かってやって欲しい。
私は弟君の心の中を全部解る訳じゃないが、もし仮に弟君の知るところとなっても、弟君が妹から離れていくとは思わない自信がある。
弟君のお袋さんが親父さんに酷い目に合って来た中で育った弟君なら、理不尽な思いをして来た人の気持ちは解ってくれると思うんだ。
なぁ、弟君、そうだよな、違ったらごめんな。
スレ主です。ショッキングな事を書いてしまい、ごめんなさい。私自身、つらくて吐き出したかったんです、私の我が儘です。ごめんなさい。
こんな夜中まで読んで下さってありがとうございます。私が言うのも変ですが、どうか読んで下さった方が眠れます様に。もし眠れなかったら、光ゲンジさんの「太陽がいっぱい」でも聴いて下さい。
どうか、おやすみなさい。🌛
間違えた、就職祝いは腕時計だった。靴はその後だった。
そして秘かに二人で家を出る計画を立てた。最初の方のレスに、妹が「それから何年か経って高校を卒業した」とぼんやり書いたのは、
このおぞましい事を書けなかったからだった。そして、
普通の、あったかい家庭で育ちたかった、と何度も書いたんだ。
この事は、亡き弟君には話してない。話せる訳がない。それから、妻にも話してない。性犯罪は話す方も聞く方も辛い。
今、3人がこうして暮らしている事が、どれだけ幸せな事か。
親父は入院しなきゃいけない位、ケガをしていたのに、入院しなかった。
私に殴られたと言ったら、私がなぜ親父を殴ったか話す事になる。
世間体を大事にするあいつらは、話し合って、親父と息子の親子ゲンカの末の、親父の大ケガという事にした。私の事などいい。
一番心配なのは妹だろう。
妹はしばらく学校を休み、半年ばかり、いとこのお姉ちゃんちで暮らした。獣親父とは同居させられないし、あの女も、妹を可哀想に思うどころか、夫の浮気相手くらいにしか思わない様なクズ女だった。
半年経ってうちに帰って来た時、私はいの一番に妹に謝った。「あの、妹、ごめんな、ごめんなさい。俺どうかしてた、無神経だった、本当にごめんなさい。」手をついて謝ると、妹は優しい顔で言ったんだ。
「お兄ちゃん、助けてくれてありがとう。あの時お兄ちゃんがいなかったらと思うとゾッとするもの。私、大丈夫。健康だから。将来、結婚出来るから。あの時は、本当にありがとう。」
妹…。私は泣き崩れた。妹、優しい言葉を、ありがとう。ありがとうな。
それから数ヵ月、妹は自宅から高校に通って、無事卒業、かねてから決まってたところに就職した。いとこのお姉ちゃんちからも学校に通い、素行も悪くなかったので、
小さな会社だったが、就職出来たんだ。そしてお祝いに、靴をプレゼントしたんだ。
嫌な事は、この靴で踏んづけちまえ!
肝心な事は、避けてしか書けないのはなぜなんだろう。自分の人生に、そんな事実はない、と、絶対に認めたくないからだろう。
私より妹の方が地獄だったはずだ。
苦しい。吐き出したい。でもこんな頑固な私でさえ心臓がバクバクいう。あれは、なぜ記憶が断片的なんだろう。
その前後が、ほとんど思い出せない。
これから書く事は、心臓の弱い方は読まないで下さい。お願いします。
妹が高校生の時の事だ。何年生と書くのさえ震えが来る。ここまでのレスにどうしても書けなかった。
私の脳裏に浮かぶのは、私があの乱暴なクソ親父の上に馬乗りになって、喚きながらメチャクチャに親父を上から何度も殴ってた。うつ伏せの親父の、下には、
すみません。服を着ていない妹が泣きながら身体をかくす様に固まっていた。ふざけるな!妹になにしたんだよ!親父だって許せない事がある!妹の将来を考えろ!私が親父を殴り続けているうちにグッタリした。
母親とかいうあの人は、親父じゃなく、私にやめて、やめてと言った。なんでだよ。あの女は、あろう事か、言うに事欠いて、
あんた、お父さんが死んだら私の明日からの生活はどうなるのよ?あんたは警察に捕まればいいでしょう、それにそこの、お父さんを誘惑した女(妹だ)、その子は未成年で何の罪にも問われないで済むでしょう、少しは私たち親の事も考えてちょうだ…
私は母親とかいうその女をビンタして黙らせた。親父が気を失っている間に、その辺にあったバスタオルみたいな何かで妹の身体をとっさに覆って隠した。
妹は、実の父親に乱暴された。私はデリカシーにかけていた、妹に、妹の心を折る様な質問をしてしまったんだ。
「大丈夫か?その、最後まで、か?」と。妹は泣きながら私を睨んで隣りの部屋へ逃げた。
なんであんな酷い事を妹に言ったんだ、私はおかしくなってた。
ずっと昔、思い出せない位昔、まだチョコチョコ歩いてた妹と、家に帰りたくなくて、家出をしようと思ったが、親父に見つかったらきっと死ぬほど殴られるだろうと、
帰りたくない家に、我慢して無理矢理帰って、夜真っ暗な部屋の中で布団の中で泣いたのを思い出した。自分はどうしてここにいるんだろう、両親に邪魔だと言われて、いなくなりたいのに、
お金もない子供の私に妹と生活など出来る訳ないのに。
私はずっとずっと20年以上、同じ事を考えていたんだ。この人らから逃げないと、私や妹は、廃人になってボロ雑巾の様に捨てられる、逃げなきゃ、逃げなきゃ、と。
けれど、同じ年頃の子たちは、ご両親と仲が良い。不思議でならなかった。
あの感情はどこから来たのか、今もって解らない。
私が退院した頃、昔からお世話になって来た、今は果物の缶詰め工場で働いているあの叔父から、お見舞い、と、また缶詰めが送られて来た。
開けてみると、桃缶とパイナップル缶が半分ずつ入っていた。3人で、叔父にお礼をした。妹と私は、なぜかパイナップル缶を見てから妻の顔を見ると、「あはは!」と笑ってしまうんだ。
新婚の頃、冷蔵庫に入ってたゼリーから始まり、中華料理屋の酢豚、最初の叔父からの缶詰め、はてはガチャガチャに至るまで、
妻は、苦手な割りにはパイナップルと縁がある様だ。妹は、「お姉さん、パイナップルって甘いのに、どんなところが嫌いなの?」と聞くと、「味がダメなのよ~」と即答した。
人間、大人になってもこれだけは、って物が誰にでもあるだろう。
私も以前、餅、と書いたが、白玉も正直、口に入れたくはないな。妹のシーフード嫌いも、特にイカやタコは、噛んでも噛んでも、どこで飲み込んだらいいか分からないってところは、餅に共通しているかもな。
こんな話は、親や兄弟姉妹とするよな。嫁ちゃんはただ私はパイナップルが苦手、と話せる家族がいる事が嬉しそうだ。
叔父には、叔父の好物の焼酎を送った。
私は学生時代、いやガキの頃から勉強より運動が好きで、動作の速さには自信があったんだ。妹は女の子らしく、本を読むのが好きだったんだ。
昔は自分の背丈より高い鉄棒もグルングルン回ってたが、寄る年波には勝てぬ、で、若いヤツの俊敏さが羨ましくなって来ている。
俺君、と呼ばれていたのが俺さん、に変わり、18や19の新人君には、「俺さん、僕の父より10才年上なんですね」と、さらっと言われる。ショックだなぁ。
妻も妹も、きょうの美容院の美容師さん、お母さんと私が同い年だって~と、やはりショックな顔だ。
年はみんな取るんだ。逆らわず、健康に気を付けて長生きしたいもんだ。今の3人だから思うんだ。
妻たちは、コラーゲンだの騒いで飲んでいる。二人とも、50代には見えないぞ。
平成から令和になって、まだ4ヶ月半なんだな。もうだいぶ前から令和な気がするな。
まさか元号が変わって、私がケガをして病気まで見つかるとは思わなかったな。ケガは治ったが、病気ってやつは厄介だ。
寝たきりな訳ではないし、事務仕事なら出来るのにな。見舞いに来てくれる人にも申し訳ない。妻か妹がいると、気を遣って30分位で帰ってしまう。
私も自分で動いてお茶くらい出せるのに、女性二人が、見舞い客が来ると、いいから寝てて、というので、結局横になる。昔見た、昭和のコントみたいだ。いや、真面目な話、1週間でも早く仕事に戻りたいんだ。
私にとって令和元年はトホホな年だったので、来年は良い年にしたい。
長い長い独り言だな。
確かに。以前、妹が話してくれた。妻は、妹ちゃんの方が苦労してると思う、と言ってくれてたけど、
私には、お兄ちゃんっていう、助け合える人がいたから、親から逃げる家出も出来たけど、お姉さんは、家族全員から無視されてた訳だから、お姉さんの方が生きるの辛かったと思う、と。
そうだな。毎日生活していて、誰かひとりでも妻の理解者がいれば違っただろう。親父さんの話があまり出て来ないが、
昔から朝早く仕事に行き、夜遅く帰って来る人だったらしく、あまり親父さんの姿も見た事ない様な事を言っていた。
それでお袋さんひとりに子育ての苦労がいってしまったのかも知れないが、なぜ妻だけ、露骨な差別をしたのか解らない。
妻が、どうやって15才から生きて来たか、聞いても泣いて首を横に振るだけなので、気の毒で、しつこく聞けないんだ。どうにかして生きて来たんだろうな。
いつもニコニコしてるのも、その方が人とぶつからない、と学習したんだろう。
私は、嫁ちゃんのどんな壮絶な過去を知っても受け入れるつもりだが、彼女が話したがらないものを、無理強いはしたくないんだ。
例え男性がらみでも、それが生きるために仕方なかったなら、責めたりしない。
ただ、そっとしてやりたいんだ。
スレ主です。いつも読んで下さって、ありがとうございます。なんとか半分の250レスまで来ました。
決して明るく楽しいレスではないのに、文章も下手くそで酷いものなのに、見捨てないで下さってる方、恐縮します。夜中まで、なんだか申し訳ないです。
あと残り半分、自分などの人生の話で満レスまで書けるかどうか自信ありませんが、書けるところまで書いてみようと思います。
つまらなくなったら、どうぞ読むのを終わりにして下さい。せめてものお詫びです。
ここまで読んで下さり、本当にありがとうございます。
m(_ _)m
レスを、全部ではないが読み返してみた。かなり記憶も曖昧で矛盾している。けれど、紛れもない、私や私の周りの人の人生の一部だ。
レス50番台に、妻の両親は80代で今も健全と書いているが、あの頃を書いていたためか、親父さんの死を知らされずに突然、妻の母の同居申し出事件?に2組の夫婦が強力し合って一芝居うった事の方が印象深かったためか、
今読むと完全に時系列順になってないな。
また、私が2DKに独り暮らしになってしまった時の事も、妹が弟君と結婚して幸せになってくれて良かったと安心した頃はまだ、妻と出会ってないのに、20年以上経ってから妻が、良かったね妹ちゃん、と言ってくれた事を、まるでその時に言われたかの様に書いてある…
本当に、もう少し国語を勉強しておくんだったな。
だけどもここにこうして吐き出せて、かなりホッとしているんだ。
妻も妹も、おそらく弟君も、本当に辛かった事は口に出せてないんだろう、私もそうだからだ。
人間、オブラートに包んで書いてある事を読むと、大した事ないじゃん、と思う様に出来ているんだ。でもそれでいい時もあるんだ。具体的に書くと、
書く方も耐えられない事がある。だからか、テレビはネットと違い、閲覧注意な事は、初めから報道しない様にしているんだな。
私が中学、高校時代の学校の先生は、まだ、大正生まれの先生と昭和生まれの先生が半々だった気がする。
10代の頃は、あまり違いが解らなかったが、大人になって、時代が平成に変わり、色々と自分なりに解って来た気がする。
あの頃は、昭和生まれの先生は、大正生まれの先生に、一目置いていた様に思い出される。
けれど今は、すべての人とは言わないが、昭和生まれの人が、平成生まれの人たちの顔色や機嫌を伺っている様に見える。
私は頑固なので、そんなアホらしい事はしたくないが、先輩にも、若い人を上手く使って欲しいと言われ、嘆かわしいと思った。
これが時代なのだろうか。私たちの毒親が正しかったのか?いや、違う気がする。悪さをした子供をきちんと叱って教えて出来た事は褒めて自信を着けさせるのと、
感情のままに怒りを子供にぶつけ、なんのフォローもせずに子供の心に傷だけ残すのとでは、明らかに違うだろう。
子供がかわいくても持つ事が恐ろしくなる様な人間に育てるのが親だとは思えない。妹も、自分も毒親にならなかった保証なんてないと、悲しそうに言ったんだ。
弟君も妹も妻も同じだと解ったんだ。
50年以上生きるって長いな。あっという間なんてウソだなぁ。
今は医学の進歩で皆、長生き出来る様になった。世の中の女性たちも若く綺麗だ。昭和40年台の50代は、もっとオジサンオバサンだった気がする。
いや、言い換えれば、長く生きて来た、人としての重み、みたいなものがあった。私たちはどうも昔の人に比べると、どこかが幼稚な気がしてならない。皆、苦労しているはずなのにな。
明日は朝4時起きなので、また書きます。
おやすみなさい。いつも読んで下さってありがとうございます。
弟君のお墓をローンを組んで立てて、なんとか20年で支払い終わった。平成27年だったか。
変な話、私たち4人、最後のひとりまでそこに入ろうと3人で話し合って決めているんだ。
寺の住職さんが人柄の良い人で、普通はお墓のローンに20年も待ってくれないらしいが、平成7年当時、私がまだ30代前半だった事、
阪神淡路の震災で突然だった事などを考慮してくれて、ちゃんと完済します、と一筆書いて、20年待ってくれた。
私や妻が、あの時の妹の気持ちを考えると、安い墓石は弟君に悪いし、出来る限りの立派な墓を立てたかった事もあり、少し自分たちには値の張るものだったが、
せめて、弟君にそれくらいはしてやりたかったんだ。弟君、最上級の墓を立ててやれなくてごめんな。みんな一緒だから、弟君ひとりじゃないからな。
よく墓石に、姓の違う名前が彫ってあるのを見た事があると思う。私たちがそうだ。弟家の墓、私家の墓、という様に。
でもなぁ弟君、頼むから、妹と私の妻を先に呼ばないでくれ。これだけは心からの願いなんだ。
みんな、4人ともみんな、あったかい家庭で育ちたかった。
金持ちの家なんかじゃなくていい、悪い事をしたらちゃんと叱ってくれていい、ただ、両親と子供が笑って暮らしたかっただけなんだ。
4人は、こうして親が毒親だった事で繋がっている事が何も嬉しかった訳じゃない!
解るんだ。そして解ってくれるんだ。その位、あんな家庭でなんか育ちたくなかったんだよ。
同じ4人で繋がれるなら、良い家庭で育って繋がりたかった。みんな本当に悲しくて悲しくて、
わたし、親に叱られた事な~いとか言ってるヤツ、ブッ飛ばしたくなるんだよ。
ふざけるな。妻の様に家族全員に無視されて育ってみろ、弟君の様に、親父さんがお袋さんを半殺しにする様な家庭で育ってみろ、
妹の様に、父親にビンタされて生きてみろ、生きてみろよ。
感情的になってごめんなさい。
私自身の事と、私の昔の家庭(あれが家庭だったのか)については、どうしても文字の入力がなかなか出来ない。
弟君、嫁ちゃん、妹、ごめんな。
昔、弟君が元気だった頃、4人で前に住んでた家で、家族仲の良いドラマを見た時の事だったなぁ。
弟君が珍しく、友だちにびっくりされた話をしたんだ。
何とかいう映画を見て、家族仲が良く、その映画の中で、親父さんがお袋さんを大事にする、という内容だったらしく、見終わったあと弟君は、
「ウソだよな?映画だから作ってんだよな?お袋にあんな優しいオヤジなんていないよな?」と普通に言ったら友だちにドン引きされたらしい。
弟君のお袋さんはいつも親父さんに殴られ、紫色に腫れ上がった手で弟君を抱きしめてくれる様な人だったそうだから(だいぶ前のレスに書いたと思う)、
弟君からしたら、両親の関係ってそういうものだと思っていて、真剣に好きになってくれた妹に、そんな乱暴な事は出来ません、と、男泣きしたのを覚えているんだ。
私たち4人は、弟君の感覚がすぐに理解出来た。毒親に育てられると、あったかい家庭なんてウソだ、と、当たり前に思ってしまう。
でも、自分たちは親の様な家庭だけは築きたくないと、強く思うんだ。
昔、私が仕事で毛虫退治の際、何ヵ所か刺されて痒かった時、妹が小遣いを貯めて虫さされに利く薬を買ってくれた話も、
妻は、やっぱり妹ちゃんは優しいな、と言ったあと、羨ましいな、と言ったんだ。
自分は、お小遣いなどなかった事より、百円でも2百円でも貯めて、薬を買ってあげたい、と思う人が家族の中にいた事が、羨ましかったんだ。
仮に買ってあげたとしても、妻は、自分のあげた物など捨てられるのがわかっている様な家庭だった事を、笑顔で話すんだ。目は赤くなっていた。
子供の頃、画用紙にクレヨンで(先生か周りに1枚もらって借りて書いたんだろう)、お母さんの顔、を描いて、家に持って帰ったら、
他の兄弟姉妹の絵は、お袋さんは大事に取って置いたそうだが、妻の絵は、目の前で破り捨てたそうだ。
なぜそこまで酷い事が出来たんだろう。そして、大人になったら一緒に暮らそうなどと、
どの口が言ったんだ。妻の気持ちを考えてみろよ、と言いたかった。
妹は自分の事の様に泣いてたんだ。
妻と妹は、私が早めに寝てしまうと、二人とも次の日が休みの時は、夜中まで話している。私がこの独り言日記を始める前からだ。
昔、話したかった事など、よく話しているんだ。子供の頃の話など、今だから言えるんだろうな。
でも私は妹が、本当に話したくない事は決して語らない事に気付いている。という事は、妻もなんだろう。心の傷が深い話ほど人間は話したくないものだ。
けれど、本当は吐き出したいはずなんだ。私たちよりもっと辛い思いをした方もそうかと思う。
ずっとしまい込んで黙って人生が終わる人もいるが、少なくとも私たちは、子供思いの優しい親御さんに育てられました、などと、嘘が後世に残るのは耐えられない。
妻がどんな辛い事に耐えて来たのか、聞いている以上の事は、あって欲しくない。妹も気付いても何も聞かないんだ。
スレ主です。台風による被害に遇われた方、お見舞い申し上げます。停電は、クーラーも効かず、冷凍庫、冷蔵庫の物もダメにしてしまいます。
どうか、命を守って下さい。自衛隊の方が助けに来て下さってます、1日も早く、日常生活が戻られます様、お祈りしています。
やはり、辛かった事より楽しい事の方が、思い出すとほのぼのして心が軽くなるんだ。
いつだったか、妻がやだやだ言いながら逃げているのを妹がなにやら追いかけていたんだ。
何かと思って見ていると、妻の髪の毛をてっぺんで結わくとかわいくなるからと、妹が髪止めゴム?を持って妻を追いかけていたんだ。
なぜ嫌がっているのか妻に聞くと、パイナップルの上の部分みたいになるからだと言うので、食べる訳じゃないんじゃないのか、と言って、出来上がりを妹の頭でやってみせてもらったら、
なかなかかわいいので、妻も同じ頭にして、あ、ほんとだ、いい感じね!と喜んでいたんだ。こんな些細な日常が微笑ましい。
家の中が明るいって、なんて幸せなんだろう、と思ったんだ。自分はあまり男のおしゃれもしないが、まあ自分にあった格好ならそれでいいか、というところだな。
家族っていいですよね…いつか弟君が言っていた言葉だ。
ケガや病気をすると、家族が本当にありがたい。それだけに迷惑をかけたくない。妻も妹も、退院してからも本当に良くしてくれるんだ。
彼女らになんかあったら(あって欲しくないが)、出来るだけの事はしてやりたい。
ここ1ヶ月半、やたらと昔の事が思い出され、どこかに書き残してみたかったんだ。
両親とかいうあの人らの事は、あまり書きたくないが。あの人らの亡くなり方も常人では考えられない最期だった。
妹も思い出すのも嫌だろう。普通に生活している夫婦の死に方じゃなかった。妻に昔、話したろうか、何度も話題にしない事は、
話したかどうかも忘れてしまうんだな。
なんと妻が、あなたと妹ちゃんの名前の由来、私が考えたんだけど、こんな理由でいい?と、素敵な由来を考えてくれたんだ。
私も妹も嬉しくて、妻の名前の由来を考えて、妻に伝えたんだ。私のと妹のと、「じゃあ、1つずつ、父と母が考えてくれた、って事に…」と言いかけて、
ううん、と首を横に振り、「あんな人らじゃなくて、あなたと妹ちゃんがそう思ってくれた、って堂々と人には言うね!」と話したんだ。妻の目は赤く、妹も涙ぐんでた。
なぁ、弟君、君の名前の由来は何だったかなぁ。3人で考えてもいいか?
私も妹も、自分の生い立ちをほとんど知らない。名前の由来を聞いても教えてもらった事がない。
例えば、おまえが生まれた日はこうだったんだよ、とか、こんなふうに育って欲しいと願いを込めて、この名前を付けたんだよ、などと、
あの人らは、一切話してくれた事がない。いつだったか聞いてみた事があったが、母親とかいうあの人は、うるさいわね、忘れたわよ、と言い、親父とかいうあの人には、
鬼の様な恐い顔をして、そんな事聞いてどうする!と一蹴された。
私も妹も、なぜ自分の名前の由来を聞いて叱られるのか分からず、
小学生の時、わたしの名前の由来、という作文を書く宿題があったが、分からないので書けず、
宿題はやって来なさい、と担任に叱られ、授業中、真面目なヤツからおちゃらけたヤツまで、ご両親に付けてもらった名前の由来をちゃんとみんなの前で笑顔で話していたのが羨ましかった。
私は男なので、つまらなそうな顔でやり過ごせたが、数年後、同じ宿題で同じ思いをした妹は、学校から帰って泣いてしまった。
嘘でも、私が子供なりに辞書を引くなりして、妹の名前の由来を考えてやれば良かった、が、当時はそこまで頭が回らなかった。
妻は、学校でその様な由来の宿題はなかったそうだが、やはり名前の意味も生い立ちも親御さんから聞いた事はなかったそうだ。
50を過ぎても悲しい事実だ。
その時は子供だったので分からなかったが、後で分かったのは、うちは特別貧乏でも金持ちでもない、真ん中取った様な経済状況の家だった。
けれど、私も妹もランドセルは近所の要らなくなった人から譲り受けた物で新品ではなかった。
せめて妹にだけでも新品を買ってやって欲しかった。あの人らは、私たちに金かけるのは嫌だった様だ。中古で済むならそれでいいでしょ、という人たちだった。
今思えば、筆箱も下敷きも人様からの譲り受けだった気がする。鉛筆や消しゴムだけは買ってもらえた。ずっとそんな子供時代だった。
それが当たり前だと疑いもせずに暮らしてた。
50年前、私は小学生だったんだな。半世紀違うと色々違うもんだ。
今がどうかは分からないが、昭和40年代は、土曜日は午前中4時間授業があった。
みんな昼飯は家族と一緒なので家に帰る。自分はあのどよ~んとした家に帰るのは気が重かった。
妹が入学して、少し変わった。母親とかいうあの人は、乱暴な親父と4人で食卓を囲むのを嫌がるので、
パン屋で菓子パン買うからとお金をもらい、妹と土曜日は二人で、外で菓子パンを食ったんだ。雨の日は、学校のどっかで食ったっけな。
妹は、土曜日の菓子パンが楽しみな様だった。みんなその頃、家族で食卓を囲んでたんだな。
パンを食べ終わると、二人でランドセル背負って家に帰った。あまり帰宅はしたくなかった。
誰の名言だったかな。30、40は人生のまだいち学生、50にしてまだ学んで足らんだろう、という言葉に出合ったっけな。
人は生きている限り学ぶんだなぁ。身に付けずに年取りたくない。
本来なら妹は母親に教わる事を、学校の保健室の先生に教わったそうだ、そして、なんと妻もそうだったと言った。それで二人は、本当はお母さんに教わりたかったね、と話したと言う。
思春期に、人に言えない思いをしたんだ、大人になって、一緒にお赤飯を炊きたかったのは、そういう事があったからだったんだな。
こういう時、男は何にも力になれなくてごめんな。
時々わからなくなる。ここミクルを読んでいても、一生懸命な親御さんがほとんどだし、
子育てで、親に完璧であれ、などとも思わない。泣きたくなる日も、子供をぶっ飛ばしたくなる日もあるだろう。
何も分からずオギャアと生まれて、1日ずつ成長していくのが子供だと思うのだが、
子供が言う事を聞かない、親に反抗する、といった内容の書き込みを見ると、
それが子供じゃないのか?と思ってしまう。初めから子供は、聞き分けの良いいい子じゃないと、その子は悪い子供なのか?
私たちの親も、私たちに、初めからよく出来た子供であれ、そうじゃなかったから殴って来たのか?と疑問に思う。
親になった人も昔は子供だっただろう、親を困らせた事は一度もないのか?
そんな人間らしさのない子供なんて見た事ないぞ。手のかかる子に、泣いても愛情を注いで育てたら必ず大人になった時、親を大事にしようと思うぞ。
嫌いなら、初めから子供を作らなきゃよかろうに、子供のいる人生を自分たちで選んでおきながら、
子供を邪魔者扱いするって、どれだけ子育てを甘くみてたか知らないが、子供は何にも分からないで今を、きょうを生きてるんだぞ。
将来、私や妻や妹や、妹の夫の様に、親から逃げなきゃいけない人間が、親の愛情を知りたかったと悲しい思いをする人間が、社会人になるんだ、
一言、優しい言葉をかけてやって欲しい。今、目の前にいるのは、まだ大人の様な判断力も気遣いも出来ない子供なんだ、
それにどうか理解をしてやって欲しいんだ。
こんなふうに、昔解らなかった事でも、10年、20年、30年後に謎が解ける事もあるんだ。生きていく、年を取る、ってこういう事だったんだ、と思う。
皆、辛い事や悲しい事、たくさんあるだろうけど、生きていれば悪い事ばかりじゃない。
妻と妹が仲が良いって、周りに不思議がられるが、互いに、妹ちゃんに嫌われたくない、お姉さんに嫌われたくない、と言うんだ。これだけは、私は人生でありがたい事だと思っているんだ。
二人とも、ありがとうな。
まだ結婚前、昭和61年頃だったか、テレサ・テンさんの「時の流れに身をまかせ」がヒットした頃、
正直、20代前半の毒親家庭で育った独身男の私には、当時はこの曲の歌詞は感覚的にさっぱり解らず、スルーだった。
それがいつ頃からだろうか、ふっと妻を見て、彼女と出会ってなかったら、結婚してなかったら、自分はどうしていたかな、妻はどうしていたんだろうな、と思った時に、
この「時の流れに身をまかせ」の出だしの歌詞から意味が解る様になり、音楽は、歌は、長い歳月をかけて、人の人生に入り込んでいるんだなぁ、と気が付いたんだ。
こういう曲は、皆さんにもあるんだろうな、と思っています。
私は男のくせに、スポーツより音楽の方に興味があり、オリンピックがどうでもほとんど見ないが、
テレビやラジオから聞こえてくる音楽は、好きな曲だと手を止めてまで聴くんだ。
音楽の持つ力や威力、受ける影響はすごい。若い頃、意味のわからなかった歌詞が、年を取ったら解る様になったり、ああ、そういう事だったのか、と謎が解けたりするんだ。
仕事中に音楽を聴く事はないので、なおさら聴きたくなるんだ。
妹のバイト先がカラオケ店なのも、音楽好きのところから来ているのかな。
昔、今の仕事に変わってからだったか、私は、安全地帯さんの音楽が好きで、給料日にはアルバムのカセットを買ってたっけな。
妹は高3だったか。ボーカルの人を、カッコいいお兄さんと言ってたんだ。ラジカセも数千円の、1万円以下のを買って、妹と交代で聴いてたんだ。
何しろ手取りの4割は家に入れていたので、そうそう贅沢は出来ない。それでも妹とはささやかな楽しみに音楽を聴いてたんだ。
妻と出会って、妻の家庭環境を聞いて、私は一番心に残る曲が、安全地帯さんの「風」という曲になっていったんだ。
そう言えば、アイドルグループ、光ゲンジさんの曲の中でも、「風の中の少年」が心に残る悲しみを感じる、と最初の方のレスに書いたな。
私は風という言葉からは、寂しさや悲しみを感じるんだ。優しい風とか、風が良い事を運んで来るとかのイメージはあまりない。
もちろん、人によって違うんだろうな。
妻はパン屋さんのバイトを3時間から5時間に、妹もカラオケ店のバイトを6時間に増やしたんだ。私のために、ごめんな、と言っても二人とも、
自分のためだよ、あなた(お兄ちゃん)のためじゃないよ~と気遣ってくれるんだ。
曜日を書くのはなんだが、二人が別々にいない日、二人一緒にいない日、二人とも休みの日、をうまく調整しているんだ。
私も出来るだけ早く仕事に戻りたいが、医者のゴーが出ないので、その間はなんとかこの日記を書こうと思う。
大概の事にはビビらなくなったつもりだが、今回はさすがにケガや病気もほっといたら恐ろしいと思った。
昭和から順に、令和まで書いてみようと始めたが、如何せん長きに渡って文章など書いた経験がないので、ぼんやり書き始めたら、
案の定、レス半分もいかないうちに、令和までたどり着いてしまった。けれど、ここまでなんとか書いて来たのと、
こんなものでも読んで下さっている方がいるので、なんとか書けるところまで思い出しながら書いてみようと思います。また昭和に戻ったり平成に飛んだりするかと思います。
本当にこんな酷い下手くそなものを読んで下さっている方、ありがとうございます。
m(_ _)m
今年の7月初め、久しぶりに事務所から現場仕事になり、張り切ってしまい、ケガをし入院した。ついでに?ちょっと病気も見つかり、
あえてケガも病気も具体的な事は書かないが、数週間で退院、7月下旬から自宅療養する様に言われ、仕事が出来ずに今、家にいる。保険に入ってて良かったが、妻と妹に申し訳ない。
最近は出来るだけ家事をする様にしているが、変な時間に目が覚めるため、この独り言日記を始めた。
自分が病院に担ぎ込まれて意識が戻ったら、妻と妹が泣きながら枕元にいたので、え?俺死んだのか?と思ったが、主治医の先生や看護師さんの現実的な声で、ああ、生きていたのか、と思った。
妻は泣きながら私のケガしてないところをバカバカ言いながら叩くし、妹も、お兄ちゃんになんかあったら私たちどうすんのよ!と言われるし、なんか、怒られたんだった。
痛みはかなり引いたけど、まだ病気治療の方で、事務所仕事にも行けない。まだクビにしないでくれてるだけありがたい。
二人のどっちが何色のズボンを買ったか全部は把握してなかったが、
だいたいワインカラーのズボンは妻、モスグリーンのズボンは妹、と生活してて覚えたつもりでいたんだ。
髪型は、あれなんて言うのか、ポニーテールか?(ぽ、で出て来た)や、色々結わえっこして楽しそうだ。本当に姉妹の様でほほえましいんだ。
子供の頃、母親にもしてもらえず学校の友だちに教わった妹、やはり母親と姉妹に無視されて来た妻も、友だちから教わったんだろうな、
今、二人でお互いを可愛らしくして、50代なんて年、関係なく二人とも青春時代を取り戻すかの様に、
百円ショップで買った髪を縛るゴム?で可愛くしているんだ。
そしてある日、二人が並んで台所に立っていて、どっちもそのポニーテールだかの頭だった。
私はまず妻に給与明細を見せて、それから妹にも見せる、の順で、生活のケジメにしていたんだ。
見ると、右側のズボンがワインカラーで、左側のズボンがモスグリーンだったので、てっきり右が妻だと思い、
あのさ~、今月の手取りこれな、と右に立ってた方に話しかけたら、それは妹だった。
二人して、ズボンの交換して、私を騙してくれたな~。二人が、わ~お兄ちゃん引っ掛かった~とか、あなたズボンでだませる~とか、大笑いしてるんだ。
私も一緒に笑ってしまったんだ。
いつか仕返しするぞ~。
少しは明るい話も書いてみたいな。妻と妹は、背格好や体型が似ていて、服の貸し借りを時々している。
初めの頃は、それこそスーツなどのカチッとした服の貸し借りだけで、クリーニングに出してから返したり、女性の服の感覚はわからんが、親しき仲にも礼儀ありをお互いに守っていた様だ。
それが一緒に暮らす様になると、二人とも貸し借りが嬉しいらしく、
妹は兄の私しかいないし、妻は姉妹さんとの接触がなかったため、日常的に、楽しそうに貸し借りしているんだ。
ある時、ズボン(ウエストも股下もほぼ同じ二人なんだ)の、4本で8千円という通販のカタログを見て、
ねえ、妹ちゃん、2本ずつお金出し合って買わない?と、妻と妹で楽しそうにカタログ見て、同じ色を2本買ってもいいんだね~とか、本当に楽しそうにズボンの色を決めてた。
送料?も半分こしたらしい。洗濯したら、貸し借りしようね、と盛り上がってた。
そしてある時、私はまんまと二人のイタズラに引っ掛かったんだ。
昭和の良かったところ、平成の良かったところ、そして令和。
私は、もしこのスレの、未来のレスが読めるなら、きょう中に読んでしまいたい位だ。
いや、また矛盾する様だが、永遠の命などないから、人様の助けになる様な事なら良いが、まず信じてもらえないだろう、と、
妻、妹の寿命は知りたくないな。私も知ったら絶望するだろう。
人間、勝手だな。弟君の時は、未来を知って、神戸の出張に行かせなかったのに、とレスしたくせに。こんなふうに、人は命と向き合って生きているんだな。
一度は、両親の墓参りに行った方が良いのだろうか。墓の前で恨み言を言わなければいいが。
50を過ぎると、私も妻も妹も、あれはいつだっけな、と、記憶も怪しくなる。
平成元年の4月1日から消費税が3%で導入されたのは覚えているが、
いつ5%になり、いつ8%になったのか、はっきり思い出せない。けれど、今年は令和元年、消費税が10%に、1割になる(後で読んだらなった)と、覚えているだろうな。
妻も妹も、なぜテレビの人は、百円玉と十円玉で説明するの?と言っている。
1万円札と千円札で説明して欲しい。この1万円の買い物をしたら、この千円の税金を払うんですね、と言って欲しいそうだ。
確かに。うちはいっぺんに1万円の買い物をする事はめったにないが、私も、8%が10%になる、ではなく、
消費税がとうとう1割になった、と言って欲しい。人にごまかされるのはもうたくさんだ。
それになんだかややこしい。酒は10%、つまみは8%、会計に時間がかかりそうだ。
皆、生活が大変になるだろうに。
読んで下さってる方の中には、子供を育てた事がないからこんな事を書いている、と思っておられる方もいらっしゃるだろう。その通りなんです。
私たちは、自分の親が苦労をして私たちを育ててくれたと、肌で感じた事もなければ、親を見ていたら、子供は邪魔、いらない、と思いながら生活している、としか伝わって来ませんでした。
小学生の時から、周りの子の親御さんと、なんか違う、と感じ、それでも友だちを失いたくなかったので、謎や疑問も彼らに問う事なく遊んで、出来るだけ家に帰らない様、公園に行ったり学校の教室にいつまでも居たりしました。
そうやって成長していくと、自分の親が毒親だったんだと気が付くと、大人になって、自分が毒親になったらどうしよう、と恐ろしくなるのです。
どこの方もそうかと思いますが、自分の親の、子供の育て方しか知りません。そして、それが間違ってたのだと気付いても、他の、健全な育児の方法に見当もつかないのです。
特に自分は男なので、妻の様に、私が無条件に守ってやりたくなる存在なのか、自分に自信がないのです。
日記からはみ出したらごめんなさい。
妻と妹はよく、中学時代など、親にプリントを渡さなきゃいけない時、どうしてたの?などと話していた。妻は、母は今入院してます、と担任の先生に苦しい嘘をついていたそうだ。
何もつきたくてついた嘘じゃなかっただろう、まさか自分だけ親に無視されてます、などとは言えなかったからだろう。
妹も私も一応渡すには渡したが、めんどくさいわね、と嫌な顔をされ、それでいて学校の先生には世間体でいい顔をしていたので、呆れたのを覚えている。
いずれにしても、こういう親がいまだに理解出来ない。自分たちも子供がいたら、そんな親になってたのだろうか。
とても悲しい、いまだに解決も親の気持ちも解らない。親は幸せになりたくなかったのか、子供を二人ももうけておきながら、不幸だったのか。
妻も妹も私も、毒親に育てられていながら、毒親の気持ちは一向に解らない。
我が子、がいたら、両親は手本にはしなかった。
先日、珍しい人に会ったんだ。世話になった人だ。
古くは私と妹が実家から逃げる際、車を貸してくれた、その後、妻の母が、居所を教えないと行方不明で捜索願いを警察に届けると脅しの手紙をよこした時も、
俺君と夫婦でいる事を知っていて、行方不明も何も、娘婿さんが解体屋で仕事している事も知らないのかと警察に呆れられますよ、と教えてくれた彼だ。
彼は結婚していて(彼の結婚式に呼ばれていたが、当時、神戸の震災から何ヵ月も経っておらず、妹の様子がおかしく、離れる訳に行かず、お祝いだけ送って、披露宴は欠席させてもらった)、
その彼に、成人したお子さんが二人いて、時間の流れを感じたんだ。
子育ての苦労を知らなくてすみません、と彼に話したら、彼は、
俺君は、実家から妹さんを連れて逃げなきゃいけない様な家庭環境だったんだ、子供を育てる事に抵抗や疑問があっても仕方ないと思う。俺君のせいじゃないさ。と言ってくれたんだ。
私は年甲斐もなく、久しぶりに会った彼の言葉を聞いて、何か緊張の糸が切れたんだろう、号泣してしまったんだ。
弟君が亡骸になって帰って来た時と、妻が、これ以上母の事で迷惑かけたくないので離婚して下さい、と言った時以来だった。男が号泣するなんてみっともないと思ったが、
懐かしい彼に優しくされ、こらえきれなかった。
またいつか会って下さい、もう泣きませんからと情けない事を言い、
彼は、いいさ、と言って優しく笑ってくれて、私たちはその日は別れた。
相変わらず、私は解体屋の事務所で働き、人手が必要な時に現場仕事に駆り出され、妻はパン屋でバイト、妹はカラオケ店でバイトをしていた。長く勤めるとそれなりに昇給、バイト代アップもあり、家事は3人分担だった。
今までで一番お金を使ったのは、トータルで考えればやはり引っ越しだった。
妻の母はあれから、妻の居所を聞かない約束のいとこだかに外であって聞いたところ、80代になり、老人ホームに入ったらしい。家を売ったお金は、妻以外の兄弟姉妹の家を転々としている時に半分以上、その時世話になった家族に生活費として渡してたとかで、
僅かに残ったお金でホームを契約し、足りない分を、兄弟姉妹でしぶしぶ出し合ったらしい。妻は、
私も無視されなかったら、母も兄弟姉妹も無視なんかしなかった。私は、あんたなんか生むんじゃなかったという事は、子供の勘定に入ってなかったんだ、そんな人に1円も出す義理も義務もないよ、
あなたと妹ちゃんに何かあったらいくらだって出すからね、そのために貯金しているから。
妻は、本当は、本当は悲しかったんだろう。優しいお母さんと、兄弟姉妹とケンカしたり仲直りしたり出来る家庭で育ちたかったんだ、そしてお母さんがホームに入るにあたり、自分だけお金を出さない(ある種の仲間外れ)なんて事、
ひとりだけしたかった訳なかったんだ。邪魔者扱いされ、無視され、家族旅行にひとりだけ置いて行かれ、食卓を囲ませてもらえず、修学旅行に一度も行かせてもらえず、
私だってそんな親には1円だって出したくない。人様の親御さんに失礼だが、バカな親だと今さら思った。
2年前だったか、食卓にお赤飯を出された。私は、何かめでたい事でもあったのか、二人に聞くと、二人は顔を見合せて、微笑んだんだ。
やっぱりあなた忘れてる~、お兄ちゃん覚えてない~、と二人。ん?どちらかの結婚記念日でもないし、なんだっけな、と色々頭の中を巡らせたが、思い出せない。
聞くと、レス20あたりに書いた、昔の約束を二人は覚えていたんだ。女性は、なぜ30年前の約束を覚えているんだろう。不思議だ。
そう言えば妹がその2年前頃、毎月お腹が痛いと言わなくなったな、位にしか思わなかった。どうも、毎月の、女性の日?が終わりそうだと思ったらお赤飯炊こうね、という約束を果たす日が来たらしいんだ。
なんかそんな事言ってたな、と言うと、あ、お赤飯いらないんだ~、と言われてしまった、いやいやいただきますよ。なんだかよくは解らないが、
二人が、「先の事は分からないけど、もう二人とも50過ぎたし、子供生んでないから、早く終わると思ってね、きょうにしたの」だそうだ。
私は、男性は本当に女性の事は詳しく知らないんだな、とつくづく思った。
ただ、妻も妹も形は違えど、毒親家庭で生活して来た日々はもう忘れて、今は笑顔なのが私は本当に嬉しいんだ。
弟君のお仏壇に、「お仏壇にお赤飯なんておかしいけど…」とお供えし、
3人で、女性の日の卒業?に赤飯をいただいたんだ。
もう9月なんだな。本当は、誰の誕生月が何月、と書きたいところだが、身バレもバツが悪いので、年に4回の、弟君も入れたバースデー乾杯は、今も続いているんだ。
50代で乾杯もなんだが、やめられないんだ。弟君の時は、写真を置いて、ジョッキも4つ(これは4回ともだが)注文して、残すのは店の人に悪いので、弟君のジョッキのビールを3人で分けて、ちゃんと飲み干すんだ。
そして妹に、弟君はこうだった、こんな面があった、など思い出話を聞き、私たちもツッコミを入れたりするんだ。なんだか弟君がそこにいる気がするんだ。
実は、平成7年からしばらくは出来なかった。妻の母の件があり、妹が引っ越してから、弟君が亡くなって10年以上経ってから、やっと出来る様になったんだ。平成何年からだっけなぁ。
妹が辛くなったらやめるつもりだが、ここ50を過ぎてから続いているんだ。みんな年を取ったんだな。
私たちは、かろうじて親に殺されなかっただけマシだったのか。そんな事を考えずに済む人生を送るのが、健全な家庭じゃないのか。
世間の、親御さんの愛情を知らずに育った人と、親御さんにたくさんの愛情を注がれて生きて来た人との、生まれた赤ん坊の時、どれだけの違いがあったんだろう。
すべては大人の都合で右へやったり左へやったりされる。せめて優しい言葉の1つでもかけてくれたら、子供は嬉しいんだ。
子供は仲の良い両親が好きなんだ。子供に憎しみの目を向けて、子供が幸せを感じるはずがない。
ずっとずっと50年以上、吐き出したかった。私も妹も悲しくて悲しくて、これが自分たちの親だとは思いたくなかった。
妻も弟君も、よく真っ直ぐ育ったと思う。
私が小学校高学年の頃、友だちと遊ぶのだけが幸せだった。妹にも妹の友だちがいて、家の中が嫌な雰囲気だったので、あまり家にいたくなかった。
殴られたり暴言を吐かれたりするたびに、妹だけは守らなきゃと必死だった。あんな人たちでも親だったのか。
私は頑固だが、妹は優しかったので、余計に両親にはイジメの様に接してこられ、兄(私)に言うんじゃない、と口止めされていた事も、あの人らが亡くなってから知った。
なぜだ?子供がかわいくないなら、前にも書いたが、私で終わりにすれば良かったろう、妹は、イジメるために生んだのか?男の子だったらどうしたんだよ?
あんたらから逃げ出し、あんたらが他界して、初めて私たち兄妹は幸せになれたんだ。
あんたらを反面教師にしてる、と、本当は中学生の時、作文に書きたかった。けれどそんな作文、担任が受け付けないだろう、と諦めた。
多分、今やっとぶちまけているのかも知れない。
本当に、子供のいるまともな家庭で育ちたかった。私も妹も、妻も。そして弟君も。
スレ主です。読んで下さってありがとうございます。
あっちへ飛んだりこっちへ飛んだり、時代も戻ったり進んだり、何ともいい加減で申し訳ない限りです。
昭和に戻ったり、平成も何年だったか忘れたり、今年の令和の話だったり、ゴチャゴチャになったレスですが、なんとか、独り言の日記として思い出した事を書いて行きたいと思っています。
読んで下さっている方の親御さんが毒親でなかった事を願うばかりです。
本当に、こんなお粗末な独り言日記で、ごめんなさい。
レス205で、昔の写真やアルバムに触れているが、私と妹の写真の数に比べて、妻の子供の頃の写真が格段に少ない。
修学旅行に一度も行かせてもらえなかった様な妻だ、運動会の写真も、番号で注文してた頃、1枚も買わせてもらえず、見かねた友だちが、1枚、2枚と買ってくれたそうだ。
赤ちゃん、幼児の頃の写真が1枚もないんだ。私と妹はさすがにしばらくは、ガキの頃の写真も妻に見せるのを遠慮したが、
妻はニコニコして、あなたと妹ちゃんの写真、見せて欲しいな、見せてもらえない方が寂しいよ、と言うので、初めて妻に見せたんだ。
わ~妹ちゃんかわいいね、とか、え、あなたの小さい頃ってこんな感じだったんだ~、と見てくれたが、妻の写真がないためにコメント出来なかったのが寂しかった。
親の、子供への無視や差別は、こんな形で歴史として残るんだ、妻の気持ちを考えたら、どんな環境で育ったか、察するに余りある。あんまりだと思った。
これからも、たくさん写真撮ろうな。大丈夫、昭和63年春から31年間の移り変わりは撮ってあるから、な。嫁ちゃんと妹の写真もたくさんあるみたいだな。
妹を、「妹です」と言ってくれて、ありがとうな。
人間、悲しくても前を向いて生きなきゃいけない。ひとりだと自暴自棄になってたかも知れないが、3人で助け合って生きて来たんだ。
この年で、笑われるかも知れないが、妻が、ガチャガチャが好きで、月に何百円までと決めて、妹と3人で時々ガチャガチャをする。何が出て来ても大事にするんだ。
私は男の子用?の、恐竜のチッコイのなどを、女性二人はかわいい物を、ワクワクしながらやるんだ。特に妻は、お小遣いなど親からもらった事がなかったので、バイト代で楽しそうにガチャガチャするんだ。
ある時、妹がかわいいリスを引き当て、妻が、あろう事か、丸々1つの形のパイナップルのキーホルダーを当てた。それを見た瞬間、3人とも爆笑してしまった。
わ~、私、パイナップルに好かれてるのかな~と笑い声。すかさず妹が、お姉さん、良かったら、私のリスと交換してくれませんか?と言い、妻が、いいの?ありがとうね、と交渉成立。
私の恐竜は、二人とも「いらな~い」そうだった。うん、私もやらな~い。こんな、他愛もないやり取りが楽しいんだ。百円、2百円の物でも楽しめて、それを大事にし、
こんなひとときを過ごせる事が、こんなに幸せなんだ。ありがたいんだ。
弟君だったら、どんな物を当てたかな。4人でやりたかったな。
始めの方に、人生で、小さな場面場面では後悔はあっても、やり直しがきいたとしても大して変わらない人生だったと思う、と書いているが、それは、自分の事で、
弟君の事となったら別なんだ。弟君に限らず、突然命を奪われた人の大切な人は、事前に知っていたら、教えただろう。
あの飛行機には乗らないで、この時間この道、運転しないで、あの親切そうな人に付いて行かないで、そして、住んでる人たちに、未来の映像を見せられるものなら、
阪神淡路の人たちにも、東北の人たちにも、事前に大事な物を持って遠くに逃げて欲しかっただろうし、お金持ちの人なら、引っ越しをして(私や妹が逃げ出したボロアパートと違って)、とにかく命だけは助かって欲しかっただろう。
私たち3人もそうだ。弟君に、神戸に出張に、引きずってでも行かせなかった。もちろんあのエリアの人たちにも事前に遠くへ離れてもらいたかった。
私は、人間、未来を知らないから生きて行ける、と書いた事があったが、違う。
未来を知ってたら生きてたんだ。
悔しくて、たまに照れた笑顔の弟君を思い出しては、いまだに辺りをはばからずに号泣してしまう。人の寿命は誰が決めるんだろう。
もし神様なら、なぜ神様はこんな深い悲しみを人の心に残すのか、教えて欲しい。
50代も後半になると、ずい分長く生きて来た気がする。色んな事が思い出される。すっかり忘れていた記憶がよみがえったり、
実家からガキの頃のアルバムを持って出て来て、今見ると、確かに一緒に遊んだヤツなのに、どうしても思い出せないヤツが写ってたり。
それは妻も妹も同じ様だ。「あ、うん、悪気はないんだけど、この子誰だっけな、って人、いるね、申し訳ないんだけどネ。」と、二人。やはりそうか。
って、おいおい、俺の事誰だっけとか言うなよ~と言ったら、二人に突っ込まれてしまった。
お兄ちゃん(あなた)が1番年上でしょ、と。はい、そうでした。まだまだボケる年じゃないぞ。
なぁ、弟君、初恋の女の子は忘れないよなぁ。でも、嫁たちの前では内緒な、彼女らにも初恋はあっただろうな。
きょうから遡ると、30年ちょっと前だろうか。妹と妻が、アイドルグループ、光ゲンジさんのファンだった頃、同じCDを買うのはもったいないからと、新曲のシングルCDが出ると交代で買い、カセットテープに録音して、音楽を聴くのもお小遣いのやりくりをしていた。
まだコンサートチケットが、それでも4千円か4千5百円の時代で、二人は、たった1回行くのがやっとだった時もあったんだ。
今でも二人は、懐かしいね、と昔話をするんだ。妹の楽しそうな顔、妻の嬉しそうな顔、見ていてほのぼのするんだ。
弟君の「ねぇ、お兄さん、僕たちっていう夫がいるのにねぇ。」と苦笑いしていた顔が思い出される。確かに。
妹はよく喋るセンターの人のファンで、弟君は物静かなヤツだったし、妻はスラッと細い1番年上メンバーさんのファンで、私は短足だ。無い物ねだりなのか、格好の良い男性が昔から羨ましかったな。あ、弟君、君は今でいうイケメンだったぞ。
4人とも若かったんだ。
長く住まないつもりだった妹の新居は、37~8才から結局50過ぎまで住む事になった。
今でも弟君と写っている写真を飾っているんだ。4人で写っている写真と並べて。弟は家族なんだ。
義理とか血のつながりなんて私は考えない。実の親子でも世間では事件が起きたりする。
あれから妻の母も兄弟姉妹も、元々無視して来た様な妻を、探している様子もなかった。妻はその方がホッとすると言ったんだ。
私は自分の本籍をしばらくあの実家から動かさなかったが、叔父さんに教わって、叔父さんの住所を本籍地にさせてもらった。
そうすれば、私と結婚して姓が変わった妻も、本籍は叔父の所、現住所は、1つ前に住んでた所から動かさず、5年位は現住所と居所を別の場所にした。いちいち見ないだろうし、妻がなにしろ実家を今度は自分が無視すると言うんだ。
余程の事がない限り、親子がこうはならないだろう。妻だって温かい家庭で育ちたかったろう。
弟君も妹も、私も。
それにしても解らない。妻の母は、「あんたなんか生むんじゃなかった」と面と向かって言う様な、家族の勘定に入れない様な、無視して一切コミュニケーションを取らなかった様な、
そんな酷い扱いをして来た娘に、一緒に暮らそう、などと思うものなのだろうか。
自分は妹と逃げて来たので、毒親にも色々いるのは分かったが、子供には心や感情がないとでも思っているのか。
昔、子供にした事なんて、子供は忘れているとでも思っているのだろうか。
ふざけるな。妻は今でも安定剤を飲まないと震えて生活してるんだぞ。時々夜中に寝言で「私も入れて、入れてよ」とムニャムニャだけど言うんだぞ。
どんなに悲しい思いをしたかわかるか?ひとりだけ仲間外れにされて、家族旅行にもひとりだけ置いて行かれ留守番をし、独りぼっちで2晩過ごした中学生の寂しさがわかるか?
家族でマクドナルドへ行くのに、妻だけ置いて行かれる気持ちが、みんなでお寿司を食べようという時に、妻の分だけない気持ちがわかるか?
食卓を囲ませてもらえずにひとりだけポツンとメシ食ってた妻の悲しみがわかるか?わかるのかよ…
今さら一緒に暮らそうって、どの口が言ってんだよ。嫁ちゃん、嫁ちゃんのお母さんを悪く言ってごめんな。ごめんな。
妻が妹に言ったんだ。「妹ちゃん、私の身内のせいで、弟さんと暮らしてた思い出の家を追い出す様な事をして、本当に、なんてお詫びしていいか…本当にごめんなさい。もう母や兄弟姉妹とは縁を切ったつもりなのに。」
妹は、「お姉さん、私、嫌だったら引っ越しなんかしないよ。いつまでも夫の幻にしがみついてたら、前へ進めないもの、何かきっかけがあってくれて良かったの、あ、お母様の事、良かったって変かも知れないけど、」
「こうやって人生って変わっていくんだと思うの。これでいいの。私が今、一番失いたくないのは、3人の関係だから、ね。」と、妹も、あのおめかしデートからショボくれて帰って来た時とは違って、
真っ直ぐ前を向いてたんだ。
妹ちゃん、ありがとう、ありがとう、と妻はずっと妹に泣きすがってたんだ。
神様、妹と妻を引き合わせてくれて感謝します。
スレ主です。どうにか200レスまで来られました。読んで下さって、ありがとうございます。
これからも、思い出したり曖昧だったりするかと思いますが、なんとか頑張って記憶をたどっていきたいと思います。
つまらないものにお付き合い下さり、本当にありがとうございます。
妹もそうそう仕事を休めないので、引っ越すなら土日だ。物件は割と早く見つかった。
駅3つの所から、今度は反対方向へ駅4つ、うちと離れている所だった。家賃は前の所とほとんど変わらず、引っ越し費用は私と妻とで出す事にした。妹はお金の話になると申し訳なさそうにしてたが、
妻は、今度の引っ越しでもまだお袋さんがなんか言って来る様なら、裁判沙汰も覚悟すると言い切ったんだ。
引っ越し当日、私たちは新居の方ではいくらでも手伝えるが、今いる所を出る手伝いに行けなかったのが歯がゆかった。私と妻がばったりお袋さんと鉢合わせする訳にはいかないからだ。
当日は引っ越し業者さんと妹だけで済ませた。万が一お袋さんと引っ越しの荷物の運び出しに出くわしたら、私の両親のいる北海道へ帰るんです、と話す様にと業者さんにも話を合わせてもらった。
トラックが出る時も、後をつけてる車はないか、気を付けてもらった。
幸い、引っ越し当日、妻の母と会う事もなく、後をつけてる車もなく、不動産屋さんに中をあらためてもらって鍵を返す時も、これと言って困った事もなく、
妹の引っ越しは成功したんだ。
3人はホッとしたのを覚えている。
お袋さんは妹の勤め先までは知らないし、そこの住まいしか手掛かりはない。私の解体会社の事務所までは来た事はない。
妹は、しばらく私たち夫婦にここへ来ない様に連絡をくれ、今後どうするか、電車を複雑に乗り換えてうちまで来たりして、3人で話し合った。
長く住まない条件で、妹は引っ越す事を決めた。妻は、本当に本当にあの母のせいでごめんなさい、引っ越し費用は私が出すからと言い、
妹は、無理しないで、私は、お姉さんとお兄ちゃんとの3人の関係が壊れないためなら、なんでもするからね、と言った。
かいつまんで書くと、お袋さんは妻の兄弟姉妹の家を転々としたらしいが、結局どこへ行っても疎ましがられるので、妻の居る所を知らないか聞きに来たそうだ。
妹は、さんざんお姉さんを無視して差別しておいて、今さらこのオバサン何?と思い、自分は面識がない事になっているのを思い出し、
あの、前にもお話しましたが、私、おたくの娘さん知らないんですよ、私に付きまとうの、やめてくれませんか?と強気で言ったらしい。
お袋さんは、そんな事言わないで、何か知ってるんでしょう、教えて下さらない?としつこかったらしく、
妹は、今すぐ警察呼びますよ、と携帯から11れいをかけようとしたら、また来ます、というので、
もう来ないで下さいと言い、お袋さんが帰るまで家の玄関を開けようとせずに睨んでいたら、その日は帰ってくれたが、
またお袋さんは来たそうだ。妻は妹に、何度も何度もごめんなさい、と言っていた。
弟君がいなくなり、妹の独り暮らしが続き、クラシック音楽の彼とのデートも一度で終わり、妹は変わらず働き、私たちは時々会っていたが、
妻の母の事はもう済んだと思って忘れていた。が、その妻の母(お袋さん)は、なんと時々、妹の所へ来ては、旦那がいない事までつきとめていた。
離婚したかなんかとでも思ったんだろう。男性がいると声をかけずにいたお袋さんが、妹の帰宅時間を調べて、ある日、玄関前で待ち伏せして、妹に声をかけて来たというのだ。
もう7~8年会ってないはずで、妹は一瞬、どこのオバサンかと思ったらしかった。
「あの、○○さん?」と声をかけられて、妹はやっと、お姉さんのお母さんだ、と思い出したらしい。
まずい、兄夫婦の住所を知られたら大変だ、と、妹は頑張ってくれたんだ。
妹は、お姉さんだけ仲間外れは嫌だからと、私たちがパイナップルの缶詰めを開けて食べる時のためにと、桃缶を買って置いている。
妻は、妹ちゃん、いいのに~と言ったが、妹は、3人で食べたいからね、と、器3つにフォーク3本必ず用意して、一緒に食べるんだ。女性らしいな、と思った。
家族の中で、自分だけ勘定に入れてもらえずに育つって、どんなに妻は悲しかったか知れないのに、いつもニコニコしているから、私は妻を好きになったんだと思う。いや、のろけではないんだ。
本当に、ここに弟君がいてくれたら、もっと弾んで楽しかっただろうに、神様、もう悲しい事は勘弁して下さい。
そう言えば、妹はあの弟君と暮らしてた所から、50を過ぎて3人で暮らす様になる前に、一度引っ越してた。それは決して、クラシック音楽好きの男性のせいなどではなかった。
昔、私と妹が実家から逃げ出し、その後、他界した両親の事で、家や土地の事でお世話になったあの時の叔父とは、今も続いている。
年賀状はもちろん、引っ越す度に連絡し、携帯を持つ様になってからも、ほんの時々、叔父さん、お元気ですか、と電話したりメールのやり取りで繋がっている。
叔父は今、果物の缶詰め工場で仕事をしているらしい。先日、「3人で食べて下さい」と缶詰めを送ってくれた。
開けたら、パイナップルの缶詰めだった。妻は、戴いたんだもの、お礼をしなきゃね、とニコニコしていたが、顔はちとひきつっていた。
私と妹でせっせと食べた。嫁ちゃん、ゴメンな、叔父に悪気はないんだ、嫁ちゃんがパイナップル苦手なの知らないんだ。今度さりげなくやんわりと、
パイナップルも好きですが、桃も好きです!と、遠回しに図々しいメールしておくな。
スレ主です。読んで下さって本当にありがとうございます。
どこかで、私のレスが辻褄が合わなくておかしい、変だと言われているかも知れませんが、
古くは昭和40年代50年代から思い出した事やその時頭に浮かんだ事を書いているので、確かに変だと思って居ます。
どうしても思い出せない事、突然フラッシュバックする事、長く生きていれば、あると思います。
すべて言い訳ですが、始めは毒親の事をあまり書かずに、妹に懐かしいアイドルグループの曲を動画で聴かされて、楽しい日記を書こうかと思ったのですが、
自分の人生経験を綴っていたら、この様な流れのレスになってしまいました。
書けるところまで書いてみようと思っています。
こんな時間まで読んで下さって、ありがとうございます。おやすみなさい。
その後、妹は、その男性に、デートに誘ってくれた事、色々知らない事を教えてもらえた事のお礼を言い、
自分にあなたは出来すぎた方で、会話も私とでは楽しめないかと思い、今後はお仕事での先輩として接しさせて欲しい、と、やんわりと伝えたそうだ。
何度か男性は妹を口説き続けてくれたそうだが(兄としては、しつこいぞ半分、妹にも魅力はあるんだという鼻高半分)、
真剣だったら申し訳なかったとも思ったが、2年もしないで他の女性と結婚したと聞き、私といくつも違わない男性だ、いつまでも若くない、そんなものだろう、としか思わなかった。
誰にでも、その人の人生がある。人の人生を壊す権利は誰にもない、例え親であっても。
幸いその日は土曜日だった様な気がする。きょうはもう遅いから妹ちゃん、泊まってって、と妻が言い、
明日の日曜日、3人で美味しいもの食べよう、男性で泣く事があった日は、女性といた方がいいから、ね、と妻。
嫁ちゃん、ありがとうな。
その後、1円でも大事にする妹(妻もだが)は、
「せっかく買ってもらったのに」と言うので、私と妻が、リサイクルショップに売っていいよ、と言い、
なんとか3点売れて、そのお金を封筒に入れて、妹はテーブルの上に置いてったけな。
3人ともそのデートの話はその後18年間一度も話題にしなかった。
それで私たちは、花火大会の二人の結婚披露宴のおめかしと、なんだか記憶がごっちゃになってたんだった。
だいぶ前のレスの謎がとけました。
読んで下さってる方、本当にいい加減な記憶でごめんなさい。こんなものでも読んで下さって、ありがとうございます。
妹は続けた。「まだ一度しかデートしてないから、お互いの事よく知らないのは当たり前だと思うのね。でも…」
「この人といて、心が休まるのかな、って思ったの。正直、かなりクラシックに詳しくて、いくら説明されても、ただ聞いてうなずくばかりで、会話にならなかったし、」
「昔、お姉さんと光ゲンジで盛り上がった、あの感じは全くなかったし、私が楽しめなかったって事は、彼も楽しめなかったと思うの。」
「それに…。」急に妹は涙目になり、
「きょうデートして、私、無性に夫に会いたくなったの。もう会えないの分かってるのに、デートして何言ってるの?って言われそうだけど、そうじゃないの、そうじゃない、私が会いたいのは、神戸に行ったきりの夫なの!あの人に会いたいの。会いたいよ。」
妹はおめかししても幸せなデートなんかじゃなかったんだ。
泣き崩れる妹を、妻がまた抱きしめたんだ。妹にとって、弟だけが一生涯の人だったんだ。
妹は、その男性に、入った事のない高級レストランで食事をご馳走になり、会話も良い感じだったらしいのだが、
「あのね、その、なんか会話が合わないの。愛想も感じもいいし、気も遣ってくれる人なんだけど、時々出てくる言葉が、解らなかったり、その人はそれを普通に話すから、私に教養がないのがバレたと思うの。」
私も妻も、なんて言ってあげたらいいのか、言葉が見つからない。
「彼もデートにかなりお金を使ってくれたと思うの。演奏会のチケット二人分は高かっただろうし、帰りに、家まで送りたいけど、女性の独り暮らしの家まであなたを男の僕が始めてのデートで送っていいものかどうか、とどこまでも紳士的な人で、」
「電車を降りたら家までタクシーで帰りなさい、と2千円も渡してくれて…」
かなり妹に気を遣ってくれるヤツなんだな、と思った。
夜も遅くなり、妹はもう家に着いただろうかと心配になっていた時、玄関のチャイムがピンポーンと鳴った。
妹だった。デートの帰りだ。まっすぐここへ来たんだ。
浮かない顔をしていた。何かあったのか!?妻も私もとにかく話を聞く事にした。
相手の男性は何も悪くなかった。
店員さんのアドバイスを受け、演奏会に来て行くドレスを決め、妻はそれとコーディネートした靴とバッグを妹にプレゼントしたんだ。
妹は恥ずかしそうにしながらも、妻と私に何度もありがとう、ありがとう、と言ったっけな。
そして妹はその男性と、デートに出かけた。私としては複雑だが、妻もニコニコしていたので、見守る事にしたんだ。
その頃まだ独り暮らしだった妹は、ずっと事務職を続けていた。
会社の、ある真面目な男性から、きちんと、交際して下さいと言われ、とても誠実そうな人だった事や、こんな私に、と妹は考え、
妻に相談したらしい。妻は、妹がずっと弟君の事を引きずって生きるよりは、このお話をきっかけに、幸せになってくれるなら、と、後押ししたそうだ。
その男性に誘われた最初のデートが、クラシック音楽の演奏会に出かける、というものだった。
妹も私も妻も、クラシック音楽とはまず縁がなかった。そのため、普通の地味なスーツで良いのか分からず、決して派手ではない、その場にあった落ち着いたトーン?のドレスを買いに、3人でデパートへ行ったんだった。
なぜか妻が張り切っていたが、今にして思えば、妻もドレスが欲しかったのかな、と、少し反省している。
妹が36才の頃だった。男性に、たった一度だけデートに誘われて、断り切れずにデートする事になったが、これはお付き合いとは到底言えない事だったと記憶している。
そうだ、ドレスを買う事になったいきさつを思い出した!
弟君が亡くなった時、妹は30才だった。その後20年以上、男性とひとりもお付き合いせずに今もバイトしている。
妻も、妹ちゃんまだ若いのに、一生ひとりはなんだかもったいないなぁ、もう弟さんもあちらの世界で許して下さると思うし、誰かいい人いないかな、と10年以上前に言っていたんだ。
私は、40過ぎて年甲斐もなく、嫁ちゃん、俺が死んだら誰かとお付き合いするの?などとアホな質問をしたっけな。
妻は、縁起でもない事言わないでよね~と言っていたが、お互い、先に逝って欲しくないと思っている。
それだけに、妹がどれだけ弟君を思って夫婦でいたか、悲しい位、伝わって来るんだ。
何十年経っても、弟君の存在は決して私たち3人の心の中から消える事はないんだ。
50代3人が暮らし始めて数ヵ月たった頃だった。夜中に便所に起きた時、妻と妹が二人でとんでもない会話をしているのを聞いてしまった。
「お姉さん、私が一緒に暮らしたら、夫婦の行為、出来ないんじゃない?そうだったら申し訳ないや」
「あ、ううん、これから子供つくる訳でもないから、そういう事はなくてもいいの。それより妹ちゃん、弟さんが亡くなってから、誰とも一度もないの?」
「うん。私も子供どころか夫もいないし、あんな行為、なくてもいいや」
二人は笑ってたが、私は心臓が飛び出そうになった。女性は、女しかいない時、こんなあからさまな会話をするのか。
弟君、やはり君にいて欲しかったぞ。その後は朝まで眠れなかったんだ。
親以外の人には恵まれて来たんだ。それで良しとしようと思いたい。
今の、落ち着いた50代は、妻も妹も昔より幸せだと言っている。
が、どうしても過去を振り返ってしまう。そして、懐かしく子供の頃をほのぼの話せない事に、苛立ちを感じてしまう。
毎日の積み重ねが人をつくるんだと、思い知った。
若かった頃、あるいは今、息子でもおかしくない年齢の仕事仲間が、子供が出来て喜んでいる姿を見て、どこかで羨ましく、どこか別の世界の人になってしまう様な、複雑な気持ちになる。
生まれてから手のかかりそうな時期のお子さんの写メを、娘です、息子です、と嬉しそうに見せて来ると、私らの親も、あの時代に携帯があったら同じ事してくれただろうか、いや、しなかっただろうな、などと寂しく想像する。
せいぜい世間体のために撮る位はするだろう。しかし愛情で、私や妹の写メを撮る様な人たちじゃないのはあの人らと暮らした人なら分かるだろう。
妻は、きっと私だけ写ってないから、と明るい声で言ってたが、目は赤かった。
毒親、あんたらがこの世の中にした事、それは、まともな社会性を身に付けさせずに成人してしまった人間を無責任に社会へ放り出す事だ。
私も妻も妹も弟君も、親に当たり前の愛情を注がれて育っていたら、普通に、我が子のいる人生が歩めただろう。
親を選べるなら選びたかった。
結局私たちは、親との思い出したくない生活が頭から離れず、子供のいる人生を選ぶ勇気はなかった。
子供が地獄をみるのも嫌だし、子供に愛情をどう注ぐか解らぬまま大人になってしまった自分たちに、子供を育てる事など出来ない、と思ったからだった。
親と子の愛情なんて、理屈じゃないんだろうな。
私たちが話した内容はおそらく理想論、空想論、絵に描いた餅なんだろう。それでも話さずにはいられなかった。
実際、親子家族仲の良い人たちはたくさんいるだろうし、うまくいってない家族もたくさんいるだろう。
なんの問題も抱えてない家族なんていないだろうし。私は妹と弟君夫婦にケンカしたらどう仲直りしているか聞いてみた。もちろん私と妻も答える羽目になったが。
温厚な弟君は、妹とぶつかりそうになったら、君も間違ってない、僕も間違ってない、それでいいよね、と言うと、妹もそっか、そうだよね、で大体は大ゲンカにならないで終わる、と言ってたっけな。
私と妻は、私が頑固なのがいけないので、とにかく、お互い全部吐き出そう、悪意で結婚したんじゃないんだから(当たり前だが)、
自分はこう思っていた、私はこう思っていた、なんだ、そうだったのか、妻は私にそっぽを向かれるのが嫌で、ごめんね、と言い、私は頑固なくせに人と仲違いをするのが嫌で、ごめんな、と言って、大概は終わる。
こんなふうに、2組の夫婦でも違う。でも夫婦の在り方に正解なんてないんだ、その夫婦なりに関係を築いていけばいいんだ。
親たちはどうだったんだろう。子供が生まれたら私たち夫婦の関係ももちろん変わっていくんだろう。
けれど毒親にだけはなりたくない。
まだ弟君が元気な頃、子供について話した事があったんだ。
自分たちも、子供が出来たら毒親になってしまうのだろうか、それは嫌だ、子供がかわいそうだ。けれど、自分たちの親の様にならなければ必ず良い親、とも言えない。
街中で子供を見ると、育児は簡単ではないだろうけど、世の中、毒親になる人とならない人がいるのは、何が境界線で、何が決定打なんだろう、と、よく話したんだ。
弟君は、子供の前でも子供の見てないところでも、夫婦が仲良くないのは子供が悲しいと思うので、乱暴や暴言だけは嫌です、と言い、
妻は、とにかく兄弟姉妹に差を付けたり無視せずに、忙しい家事の合間でも、子供の話をしっかり聞いてあげるお母ちゃんになりたかったと言い、
私と妹は同じで、やはり子供に向かって「汚い」とか「うるさい」という言葉を投げたり、通信簿を見て「バカなのか」と罵ったり、全く育てる気なんかない、と態度に表したりする親にはなりたくない、
家族みんな一緒に笑っている様な、子供がパパママ大好きって思う様な家庭を築きたかったな、と話した。
話しているうちに、それらが皆、自分の親への願望だと気付いた。
皆、悲しかった。
結局、分からない事はどうしようもないので、正確に思い出したら書く事にしよう。正確に、というのも実は曖昧だったりすると思うが。
今から5年位前だったか、ディズニー映画のアナ雪が流行った頃、妻と妹は二人ともハマッて見ていたっけな。お小遣い遣り繰りして、グッズを買ったりしてた。
私はわざわざは見に行かなかったが、今年だったか正月にテレビで放送されたので妻と妹と3人で見たんだ。
姉妹愛の映画なんだな。あのクライマックスシーンと言うのか、姉(名前分からん)が男に剣で斬られそうになった時、あいだに妹(アナか?)がとっさに姉を庇う様に入って、手を高く上げたまま凍ってしまうシーンのあと、
姉が妹を抱きしめ、アナ、アナと涙を流すシーンで、妻と妹は手を握りあって泣いて見ていたが、
私にしたら、君ら二人の絆の方が深く感じたぞ。実の姉妹以上だと思う。
姉の涙でアナだかが元に戻るんだっけな。映画は素敵だと思った。
男は現実的なのか、良い映画だね、とは言ったが涙までは出なかった私に妹が、お兄ちゃんたら冷たいの~だと。
いやいや、君ら二人の絆にたくさん泣いて来ましたから。
私は今でも4人は家族と思っているし、妻や妹はもちろん、弟君にも伝わっていると信じている。
妻の母から妻を守る時の2組の夫婦の結束も固かったし、世の中、毒親に育てられた人がみんな気が合う訳じゃないだろうから、
この4人を巡り合わせてくれた神様に感謝している。
それだけに、弟君の事はみんな悲しいなんてもんじゃなかったんだ。
もちろん、失われて良い命なんてないだろう。でもなぜ、あんな人の好い彼が…。
やっと妹を理解してくれる人と巡り会えて、結婚の挨拶の時も、自分には妹さんはもったいないとまで言ってくれた彼が、
私などに頭をいつまでも下げていた彼が、妹と同時に頭を上げた時に涙ぐんでいた彼が、
私より勉強家で、難しい漢字も読み書き出来る彼が、
いつも遠慮がちで欲のなさそうな、頭を掻いて苦笑いしている様な彼が、
頑固な私と違って温厚な彼が、
なぜ命を落とさなきゃいけなかったんだよ、って、悔しいんだ。
彼が居なくなってからの記憶は、なんだか順番通りではなくなってしまったんだ。
だからもう、妻も妹も失いたくないんだ。私が更に記憶に自信がなくなってしまいそうだからなんだ。
結局、弟君が元気だった頃の記憶ははっきりしていて、4人の結束は固かったが、弟君が天に召されてからの記憶は曖昧になってしまった事がわかったんだ。
妹のあの時期の、おかしくなってしまった時も、妻が妹の支えになってくれたり、妹が逆に妻に力を貸してくれたり、
今思えば、弟君がいてくれて4人のバランスが良かったんだ。辛い事もあったし、今の方が生活は落ち着いているかも知れないが、
人間、失いたくない人を失うと、当たり前だが、その後の人生、大きく変わるし、また年を取るとそれまでが平成の何年だったかもあやしくなるんだ。
思い出せない事に関してはもう仕方ないので、なんとなくでも覚えている事を書いてみたいと思う。
弟君、君のせいなんかじゃないんだ、むしろ悲しいんだ。
こんな書き方、ごめんな。
ん?ん?レス164に、貯金をおろして私も礼服を買ったと書いてあるぞ?本当に私は礼服を買ったのだったろうか?
何だったんだ~このデパートの買い物。妹にドレス買ってやった、妻が靴とバッグをプレゼントした、3人しかいなかった、この記憶は3人に共通している。
何かキツネにつままれた気がするな。
また思い出したら書く事にする。
3時半に歯科へ行かねば。総合病院は助かる。
その後、後輩君にはちゃんと、この辺りの土地にはなんの曰くも付いてないと話すと、また日に日に元気を取り戻していったんだ。良かった。あ、私が悪かったんだ。ごめんな。
なんとなく思い出して来た、がまだそんなに刑事ドラマみたいにはいかないが。
花火大会の二人の結婚披露宴の時、私たちはドレスや礼服を買うお金は、最後の引っ越しで使ってしまってなかったんじゃなかったか?
弟君の葬儀で喪服を人に借りた位だ、
今はお付き合いのない人から借りて、クリーニングに出して返した様な、確かそんなだった。
そして妹は、一番最後に勤めた会社の女性の披露宴にドレスが必要だった気が…そうか、それで私は礼服を買う事もなく、弟もいなかったんだ。
まだ記憶に自信ないが、そうだった気がする。平成何年だったか忘れたが、その披露宴の女性は、妹より10才位年下だった様に聞いていた。
なんと頼りない思い出なんだろう。
人間の記憶なんて、こんなものなんだろうか。
私が解体先で後輩に怖い話をして、先輩やリーダーさんに怒られた事があった。
ちょっとお調子者なヤツだったので、少し怖い話をしたろ~と思った。私も悪いな。
「俺さんは、この仕事長いんッスか?」と後輩。私は、ああ、10年になるかな、と言ったあと、
あのな、この辺り、色々曰く付きの土地でな、ひとりになると、変なもん見るらしいから気をつけろな、と、ほんのからかいの気持ちで言ったのだが、
後輩は、日に日に元気がなくなっていく。先輩とリーダーが心配して気を付けて彼を見ていた。
ある日、「うわぁ~」と後輩の声。何?何?みんな声の方へ飛んで行った。
何も見えない所を指差しておびえる彼は、「俺さん、俺さんの言う通りに、あれ、あれ」と。
私には、な~んにも見えないのに、先輩とリーダーが「おい、俺、あいつに何言ったんだ?」とこわい顔。どうも後輩にはなんか見えたらしい。
先輩とリーダーには見えたのか分からないままだったが、「仕事場で怖がらせはするな!」と叱られてしまった。
根も葉もない事だったが、後輩君、ごめんな。それより、指差したところ、何だったんだろう。
悪ふざけして、すみませんでした。
これについては、妻にも妹にも絞られてしまった。
平成9年の1月は、間違いなく弟の三回忌だった。妹、妻、私と、弟の会社の人がそれでも数人来てくれたっけな。
妹もだいぶ落ち着いた様に見えたが、やはり弟君と過ごした日々を思い出すには辛かった様だった。
喪主?そうだ、妹が喪主で、葬儀の際、とても人前で挨拶出来る状態じゃなかったので、私が代わって弔問客に挨拶した。
3人とも喪服はどうしたんだっけな。なんとかしたんだろうな。けれど、デパートでドレスを買う訳ないし、
借りた喪服だったのかも知れない。その後、ちゃんと3人とも喪服を買って、一周忌からはそれを着てた気がする。
弟君、葬儀の際は、いくら間に合わなかったとは言え、借りた喪服なんかですまなかった、ごめんな。
この様なスレ・レスになってしまった。人間、困った事やしんどかった事、決定的な事は覚えているのに、幸せだった時と忙しかった時の事って、覚えてないものなんだな。
こんなものでも読んで下さっている方に申し訳もないですが、
覚えている事、思い出せる事をなんとか書いていきたいと思います。
人間の記憶がこんなに曖昧だったとは。呆れられても仕方ないので、このスレが嫌になってしまった方、どうぞ読むのを終わりにして下さい、こんな書き方、ごめんなさい。
貴重なお時間を、すみません。
m(_ _)m💦💦
もう1つ、いい加減な記憶の話を思い出した。
私たち3人は、人生で2度ほどディズニーランドへ行っている…と思っていたら、
妹は3回じゃない?と言い、妻は、どっちだったっけ?と言っている。
お金もかかるので、4回は行ってないね、で一致している。弟君がいなくて残念だというところも一致しているので、
平成8年からあと、から平成の30年、昨年までの22年間の記憶だ。記憶ってそんなものだったのか。
また、妹が自分で買った500円のイヤリングを片方、ディズニーランドで無くしている、
その事は覚えているのに、いつ、何回目に行った時に無くしたか、の記憶が、これまた3人とも曖昧だ。
なんとも人間の記憶は、日記でもつけておかないと本当に曖昧でいい加減なものなんだな。
読んで下さっている方、申し訳ないです。
何かの拍子に思い出すかも知れない。他の出来事を書いてみよう。
少し最近の話に飛ぶが、3人とも50代になった今、3人暮らしをしている。
私は解体の現場を離れたくなかったが、年齢的に会社が50代には気を遣うので基本的には事務所勤務で、人手がいる時にたまに駆り出される。
妻はまた、今の生活圏内でパン屋さんで1日3時間のパート、
妹は、その後会社の人がいくつか持って来てくれた縁談を丁寧に断り、今はカラオケ店でバイトしている。
もう再婚する気はないと、はっきり言ってから15年位経つだろうか。
記憶は曖昧だが、絆は強いんだ。
人間の記憶はいい加減だな。スレタイ間違えたか。曖昧な記憶、にでもすれば良かったな。
妻と妹に聞いた。3人共いい加減な記憶だ。
妻は、うん、うん、妹ちゃんのドレス姿がきれいだったの覚えてる、あの時、デパートに弟さんいなかったよね?でもお元気…だった頃よね?あれ?だし、
妹は、うん、お兄ちゃんにドレスを、お姉さんに靴とバッグをプレゼントしていただいて嬉しかったので覚えてるんだけど、あの時確か売り場には3人だったって覚えてる、あれ?夫は…え、震災前?あと?いつだったかな?だし、
3人の記憶がこんなものだ。弟君、ごめんな。
この感覚が解る方は、50代以上の方かと思います。
はて?花火大会の二人の結婚披露宴の時の事なのか、弟君の亡き後の事なのか、記憶がもはや飛んでしまっている。
何かが3人の記憶を混乱させている様だ。私も嘘など書きたくない。思い出せないものだろうか。
あれ、おかしいな。二人の結婚披露宴に招かれた時はまだ弟君は元気だったんだ、平成8年じゃないな。
あれ、あん時なぜ弟君いなかったんだんだ?いや、いたんだ、妻と昼飯食っててな、って妻にお金を渡してる。
あそうか、弟君、1ヶ月出張でいなかった?ん?なら妻にお金渡したりしないな。
何だったっけな、ドレスやら買いに行った時、確か3人だった。靴とバッグを妻がプレゼントし…あれ?
それは弟君が妹にするよな?何?何?私の記憶おかしいな。
この24年以上の間に、妹がドレス着た事ってあとあったか、あっても2着は持ってないはず。
いや、花火大会の二人の結婚披露宴の時は弟君はいたんだ。
私の記憶、完全になんかと刷り変わってる。申し訳ない。昭和から順を追って書いてたつもりなのに。
正確に思い出したら書こう。こんなに記憶力悪かったっけな。
申し訳ありません。
平成8年、弟君の一周忌の後の、花火大会で一緒だった二人の結婚披露宴に着て行く服がなく、私も妹も、失礼のない格好の服をそれぞれ1着ずつ、貯金をおろして買う事になった時の事。
私はまだ妹がギリギリの生活をしているのを知っていたので、自分の服と込みで、妹にも披露宴用のドレスを買ってやるつもりだった。
女性は、ドレスの他に靴やバッグなどもいると、妻に教わり、なんと妻は、妹ちゃんに靴とバッグをプレゼントしてくれたんだ。
初めは妹は、お姉さんにお金使わせて悪いから、と断ったが、妻の、「私も陰ながらでいいので、仲間に入れてね」と、気を遣った言葉で話し、
妹が着たい服を私が、妹が店員さんのアドバイスを参考に選んだ靴とバッグを妻が、それぞれ買ってやり、妹はずっと申し訳なさそうだったが、
それを試着した妹を見て、妻が、「妹ちゃん、綺麗よ。」と声をかけていたっけ。
妹は、いつか必ず、お姉さんとお兄ちゃんに恩返しさせてね、と言ってたんだ。
過去レスにはこんな細かい事書けなかったな。二人が女性同士、仲が続いているのは、お互い、相手に感謝を忘れてないからなんだ。
妻よ、レス159、許してくれ。妻のパイナップル以外の苦手な食べ物を書き落とした、仲間外れにしたんじゃないんだ、いつも一緒にいるので書いたつもりだったのが忘れたんだ。言い訳だ。
妻は、パイナップルの他に、最近見かけなくなった、ワラに包まれた納豆が、家族に無視された象徴の様で、食べ物としてと言うより、悲しかった家庭環境を思い出すのか、
容器が変わっても、自分からはほとんど納豆を買わない。子供の頃の体験はおそらく一生なのかも知れない。
嫁ちゃん、もう4人で、3人で、ふたりで食卓を共にしてるんだよ。
悲しい食べ物なんて今の嫁ちゃんにはないんだよ。
昔、私が仕事で毛虫退治で何ヵ所か毛虫に刺されて痒かった時、
妹は、毎月500円を使いきってた訳ではなく、いくらかずつでも残し、200円でも150円でも残して貯めて、
私に虫さされの薬、980円のを買ってくれたんだ。その時妹は、値札をはがしてくれたが、薬局に行った時、そんなにするんだと知ったんだ。
弟君はこの話に泣いてくれたんだ。そして、18才~19才まで、女の子らしいオシャレが出来なかった妹に、ありったけの愛情を注いでくれたんだ。
それはなにも金銭的な事ばかりじゃなかったんだ。
私も遅れる事数年、決して無駄遣いしない妻には、肩身の狭い思いはさせたくなかった。
過去レスに書いた、妹が、500円の物でもありがたいと大切にする事を、弟君に、お兄さんに感謝してます、といった内容の事を言われた時、
それは弟君の人柄のおかげだよ、と話した事があった。元々、ケチというより世間体しか気にしなかったあの人らと暮らしてた時、
月の小遣い妹500円、私はかろうじて千円、で1ヶ月をやりくりしていたので(中、高6年間)、
結婚して妹に、弟君が、頭かきかき、例の遠慮がちな人当たりの良い表情で、「1ヶ月のお小遣い、そんなにあげられなくてごめんな、ただ、美容院代だけは別に出すからね」と言われ、
妹は恐る恐る1ヶ月の小遣いの額を聞いたらしい。
弟君は、3千円しか今は月にあげられないけど、昇給したら、5千円に上げるから、な、と言ったら、
妹は、「そんな大金、毎月戴いていいの?」と言ったそうだ。妹は、高校を卒業して働いてお給料をもらうまで、人様からそんなお金をもらった経験がなかったからだった。
私が弟君にお礼を言いたかったんだ。
平成5~6年の、妻の誕生祝いで4人で集まった時だった。妻のパイナップル嫌いはみんなの知るところとなり、
皆それぞれに、これだけは食べるのは大人になってもしんどい、という物をあげる事になったんだ。
弟君はセロリやシソの葉など独特の味の物がダメで、妹は昔からいわゆるシーフード物がダメで、魚は平気だが、ガキの頃から、イカ、タコ、エビ、カニがダメだった。
私は、お餅がダメだ。あやつは、煮ても焼いても食えん。シャレではないのだが。
こんな他愛もない会話が本当に楽しかったんだ。そして、こんな4人での会話が、ジジババになっても続くと思ってたんだ。
弟君の亡き後、3人の誰も、セロリとシソの葉は食べなくなっていたんだ。
夜中に今晩は。スレ主です。再び私事で恐縮ですが、検査も終わり、結果、異常なしでした。
あえて、何の検査かは書きません。私よりもっと辛い思いをしている方がいらっしゃると思うので。
また少しずつ書いていきたいと思います。読み返してみましたら、文章になってない箇所の多い事、誤字の多い事…
こんな内容のものでも読んで下さっている方、本当にありがとうございます。もうちょっと国語を勉強しておけば良かったと後悔しています。
妹の夫(弟君)が元気だった頃の事も、もう少し書いてみたいと思います。
スレ主です。いつもこんなつまらないものを読んで下さり、本当にありがとうございます。
誤字、まとまりのない文、日記にしても酷いもので、本当にお粗末です。
私事で恐縮ですが、ちょっと、検査前日と月、火の3日間、書けないので、お休みさせていただき、早くて水曜日か木曜日に再開したいと思います。
共感票を見てビビっています。アホな私の独り言で、少しゆっくりしていただければ幸いです。
こうしてみると、時間は経っているんだな。年取る訳だ。妻の人生も、妹の人生も、これで良かったのかな、とふっと思う。
いくつも携帯の機種変をし、今はガラホとかいう、スマホでもガラケーでもない、コウモリみたいなヤツを使っている。
ガラケーは動画が見られなくなり、スマホはツルツルしてどうも気持ちが悪い。
あれからもなんだかんだあったが、親と暮らしてた昭和の頃を思えば、ありがたい生活だ。
本当に、妻も妹も、何十年と仲良くしてくれて、二人の絆は強い。
これを言ってはなんだが、50代になった弟君は、どんな男性になっていただろう。三人とも時々思うのだった。
また少し30代後半から40代も振り返ってみようと思う。
平成9年~10年、皆30代半ば~後半になっていた。妹は、コツコツ働き、少しずつだか給料も上がっていき、弟君の残してくれたものを引き落とさずに、なんとか毎月積み立て貯金も出来る様になっていた。
わずかな金額でもコツコツと続けると、何かの時に助かる。
弟君の三回忌の時だったかなぁ。
あれから2年経ったんだな。弟君、君があまりにもいい人だったおかげで、妹は、一生独身かも知れないな。
弟君の存在は、今こうして時代が令和に変わっても私たち4人家族には変わらない。
おっと、また平成9年~10年と令和元年が一緒になってしまった。それだけ、弟君はみんなの心の中にいるんだ。
いつの間にか、墓参りの時は、線香と花は妹、お酒とお供え物は私たち、になっていた。妹がお酒代払うと言ったが、妻も私も受け取る気などなく、
弟君の面白話を誕生祝いの乾杯の際に話してもらって、それを供養の気持ちにしたんだ。弟君は一度も、妹を怒鳴った事はなかったそうだった。根が温厚だったんだな。
頑固な私は、反省した。
携帯電話を持つ様になったキッカケは、やはり仕事仲間だった。元々、私は男のくせに機械音痴で、どう使うのか、覚えが悪く、先輩どころか後輩にも迷惑かけた。
昔はPHSだの、なんだか棒の様な物を引っ張り出して使ってたが、どこへ行ったのだろう。
あの頃は電話とメールしか出来なかったな。今の様に検索したりなんてなかった気がする。いや、あったのかも知れないが、私は知らない。
妻と妹は、二人で色違いを買うとか言って仲良く携帯ショップへ出かけて行ったんだ。
よく解らんので、登録ってのを二人にしてもらったんだ。嫁ちゃん、を押すと嫁にかかり、妹、を押すと妹にかかる。会社の人にもやってもらったが、これは便利だな。
私はお恥ずかしながら、この令和の今でも、ツイッターもラインも出来ない。
が、さして生活に困らない。ただ、携帯が無くなったら仕事にならないので困る。
携帯のない時代を生きてきたのに、いつからこうなったのかな。
家に帰ると、妻はまだ起きてた。ちょっと目が赤かった気がした。
懐かしいお友達に会えて良かったね。と笑顔の妻。
俺君の奥さんも一緒に来れば良かったのにって言われたよ、と話すと、
妻は、驚く様な深い考えを話してくれたんだ。
その事なんだけど、もし私が行ったと思ってみて。もちろん、4人にしか分からない話は、私も子供じゃないから、
へえ、そんな事があったんだ、と聞き役にまわるけど、そうじゃないの。
あのね、私が行ったら、あちらもご夫婦、私達も夫婦、妹ちゃんだけひとりだよ。
まだ弟さん亡くなって1年ちょっと。2組の夫婦を見て、自分だけひとりの妹ちゃん、どんな気持ちになると思う?
家に帰ったら、ひとりでわんわん泣いてしまうかも知れないでしょう?
もう妻は涙ぐんでいた。そんな思い、妹ちゃんにさせたくなかったんだ。
昭和の50年代半ばの気持ちに戻ってもらって、幸せな時間を過ごして欲しかったの。だから、これで良かったんだよ。(笑顔の妻)
嫁ちゃん…
ありがとう、ありがとうな、そんなにまで妹を思ってくれて。
私は思わず妻を抱きしめていたんだ。妻の優しさ、私には気付かなかったんだ。
久しぶり!元気だった?と4人。
妹の顔も明るかった(あ、そうだ、弟君の一周忌の後だった)。
あの時のたこ焼き、うまかったな、お小遣いあんま持ってなくて、8個入り買って、ひとり2個だったな、とか、
かき氷も、なんだか雰囲気が楽しかったよな!と、なんか私が一番テンション上がったんだ。
女性二人が、ヨーヨーありがとうね!と覚えててくれたんだ。
花火大会、良かったなぁ。本当に楽しかったんだ。
そっか~、十代だった二人も、31才か~、と言ったら、妹たちに、お兄ちゃんたちのがオジサンじゃん!と言われてしまった。
酒の飲める年になってまた4人揃えるなんてな。
また折を見て会おうな!と約束して、4人は別れた。
妹を家に送り、私は自宅へ帰った。
彼らと久しぶりに会ったのは、震災から後だったと思い出した。
花火大会の時の4人で会うとなると、妻だけ留守番みたいな事になる。私は妻の、ひとりだけハブかれる悲しみや絶望を知っていたので、
妹に話して、向こうの二人に訳をぼんやり話すと、ぜひ俺君の奥さんも一緒に、と言ってくれた。
そして妻に、5人で会わないか?二人は初対面だけど、私と妹も一緒だから、と言ったら、
意外にも妻は、私なら平気だよ、懐かしい人たちなんでしょう?4人で行って、昔話に花を咲かせて来てね。と。
妻は、私は今、仲間外れにされている意識なんてないよ、だって、あなたと妹ちゃんと天国の弟君と4人家族だもの、と言った。
妻はだいぶ人として前を向いて来ていたんだ。
妹にも話し、お互い、本当に信頼し合うって大事なことだと思ったんだ。
ちゃんと食ってな、と妻に言い、不安になったら薬はここ、夜の玄関チャイムは出なくていいから、と言い、
妹と落ち合って出かけた。
あれは平成何年だったかな。弟君の事の後だった。
昔、花火大会に行った4人のうちの二人が結婚し、披露宴に呼ばれた後だから、
いや、披露宴の頃は弟君は元気で、招待された私と妹が出かける日は、妻に、仲間外れにするんじゃないから弟君と昼飯でも一緒に食ってな、と言った後だったな。
久しぶりに会おう、となったんだ。
少し書き急いでしまった様だ。このままでは500レス前に、令和にたどり着いてしまいそうだ。
どうも私は配分が下手で、言葉のやり取りまで細かく書いてみたり、急いで引っ越した、の様に2~3行で終わらせてしまったり、
全体のバランスが悪い。まぁ、元々そういえば、で始めた日記だ。言い訳ばかりして来たが、
学もないし、ちゃんと立派な事など書けない。これからも、頭に浮かんだ、あの時はこうだった、を書いていこうと思う。
本当に、欠かさず読んで下さっている方、ありがとうございます。
こんな酷く下手なものに時間を割いていただき、なんだか申し訳ないです。
不定期的ですが、なんとか書いて行きます。
私のところは、仕事柄、怪我や病気にけっこううるさい。うるさいというのは、
例えばこんな仕事をしていると、運動神経に自信のあるヤツは、梯子がめんどくさいからと、2階の屋根から飛び降りたりするが、
これは仕事上、禁止されている。それで捻挫したの骨折したの、仕事中の怪我です、などと言われたら、会社はたまったもんじゃない。
いつか若いヤツが屋根から飛び降りをやっちまって、リーダーさんにこっぴどく叱られた。幸いそいつはなんでもなく着地したが、禁止されている事はダメだ。
「おまえになんかあったらどうするんだよ!」のリーダーさんのひと言で、そいつも反省した様だ。
ただ会社の対面を保つだけの言葉と、そいつを思い遣った言葉をかけてやるのとで、人間、違うんだと思ったな。
リーダーさんは、いい家庭で育ったんだろうな。
妻も妹も、眠剤や安定剤をもらうために病院で保険証が必要になった。
今はひとりに1つだが、何年か前までは、1世帯に保険証は1つあれば良かった。
妹は弟君の会社の社会保険の扶養家族だかに、妻も私の会社のそれになった。なんだかめんどくさいな。
妻は、あんなに逃げ回った、妻の母や兄弟姉妹にバレないかと心配したが、眠れず、落ち着かずに震えている妻が少しでも落ち着く薬があるなら、
そんな事は言ってられなかったんだ。
そして今は、妹は、自分の勤め先の会社の保険証を使っている。
読んで下さっている方、ありがとうございます。
話があっちこっち飛んだり、過去だか今だか分からない様な支離滅裂なものにお付き合いいただき、恐縮です。
令和元年まで書ききれるか分かりませんが、頑張ってみます。
出来るだけ楽しかった事を書きたいと思います。
思い返してみると、妻も、妹も、普通の家庭を知らない。私もだが。心を許せる人がほとんどいない。
この3人と弟君とで、色んな事と戦って来た、4人の結束が固かったからこそ、弟君がいなくなってしまった心の痛手は大きい。
ただある時、妻が言ったんだ。
妹ちゃん、一生ひとりなのかな、すぐには無理でも、再婚なんてしないのかな。
妹は、弟君以上の人はもう現れないと思う、と言ってたから、難しいだろうな。
未来の事は、誰にも分からないから生きていけるんだろう。
平成8年春には、だいぶ3人の生活もリズムが出来て来た。
私は解体の仕事にもそろそろ年期が入って来て、若い、高卒の新人君も入って来た、夏になったら怖い話をしてやろ~と楽しみにしてた。悪趣味だな。
妻は基本的には主婦してもらっていたが、妹ちゃんが心配だからと、妹本人の許可を得て、掃除しに昼間、電車で駅3つ往復してた。帰りにスーパーでお惣菜を買う。
仕方ない、私と妹が教えて、お料理を覚えたはいいが、ひとりポツンと台所は、やはりひとりだけという疎外感が強まるらしく、
仕事仲間の既婚者に聞くと、大概の奥さんは昼間ひとりでテレビつけて食事するのが一番よ~と言うらしいが、
妻は逆で、ひとりは落ち着かない、美味しくない、土曜日か日曜日に妹ちゃんが来てくれて、3人で食べるのが一番美味しいし楽しいそうだ。
妹も、普段わざわざ掃除しに来てくれているお姉さんに悪いからと、うちに作りに来たり、向こうに呼ばれて行ったり、そんなリズムだったんだ。
妹の収入も生活ギリギリだった、しばらくは弟君から相続したものを月1万円~2万円おろしていたが、決して妹は贅沢している様に見えなかった。
それぞれが毎日を頑張って生きてたな。決して弟君の事を1年やそこらで忘れる訳もなく、
いつも遠慮がちだった、欲のなさそうな、人当たりのいい彼は、お袋さんに似たんだろう。私に会うと、なんだか弾んでくれて、嬉しかったなぁ。
妹じゃなくても彼をいいヤツだと思った人はたくさんいただろう。
人の死がこんなに悲しいとは思わなかった。両親には悪いが、やはり人は死なれてホッとする人もいれば、悲しくて何も出来なくなる人もいる、と知った。
決して人の命を軽んじている訳じゃない。50代も後半になると、あと30年40年生きられたとして、同世代がどのくらいいてくれるんだろう、と不安になる。
妻も妹も、私より先に召されないでほしい。もしおばあちゃん二人になった時は、助け合って生きるんだぞ、と二人に言ったら、
私たちがおばあちゃんになる前に、お兄ちゃんが先におじいちゃんだから、と、妹。良かった、その位憎まれ口をたたける様になったんだな。
弟君、見てるか。聞いてるか。天国はもう春か。また墓参りで会おう。
時代が平成8年なのか、今の令和なのか、ごちゃごちゃになってしまったなぁ。みんな元気だぞ。
妹は静かに言ったんだ。
お姉さん、ありがとう。こんなに助けてもらった上、一緒に暮らそうって声をかけてくれて。
私、嬉しいです。お姉さんの気持ち嬉しい。だけど、しばらくは向こうの家にいたいの。
もっとホンネを言ってもいいかな。
妻は、「何でも言って、何でも言って。」と聞く。
あのね、お姉さんとお兄ちゃんは仲の良い夫婦。とても素敵な事だと思ってるよ。
そんな二人と一緒に暮らしたらね、私、性格悪いから、(妻は「ううん」と首を横に振る)
どうして私には夫がいないの?とヤキモチ妬いちゃうし、ねたんでしまうと思うの。私のせいで二人がギクシャクするの嫌だし、
ちょっと離れている方が長く仲良く出来ると思うのね。だから、しばらくは夫のいた家にいさせてね。ごめんね、ありがとう。
妻は「あっ」という顔をした。
こちらこそ、妹ちゃんごめんね、私、無神経だった。ゴメンね。
そうか。妹の出した結論だった。つまり、私たち夫婦、に気を遣ってくれたんだな。
二人とも、私が一番無神経だった。妻も妹も、ごめんな。
レス137に、弟の訃報を「私が知らせた」と書いてしまっているが、実際は、彼の身内の方に訃報は届いてないので、知らせた事にはならないな。
言い訳ばかりだが、人間、自分の中で、何かけじめのある行動を取ったと自覚すると、相手に伝わった気になるものなのだろうか。私だけか。
誰しもでこぼこしながら成長していくんだよな。世界中で私だけダメな人間だなんて事ないよな…
そんな事を若い頃から考えていたな。妻や妹は、目に見えて大人の女性に成長しているんだ。私もしっかりしなければ。
妹が元気に事務の仕事をし、弟の一周忌が済んだ平成8年。妻から提案があった。
妹ちゃん、独り暮らしじゃ夜怖いでしょう、3人が納得する形で一緒に暮らさない?ここじゃ手狭だから、3LDKに引っ越そうよ!
私はいいと思った。
結局、いくら電話しても弟君の実家とは繋がらず、彼の葬儀は、私たち3人と、彼の会社の人だけで終わったんだ。
彼のお母さんからの宅配便の宛名札を、妹が取っておいたので住所が解り(こういうところは妹も妻も、女の子だな、と思ったんだ。男は宛名札も剥がしたら捨ててしまう)、
そこへ、息子さん(弟)が震災で帰らぬ人となった事を丁寧に慎重に書き、ポストへ投函したが、戻って来てしまった。
内容が内容なので封書にした。妹が、弟君宛の年賀状を1枚1枚調べたが、あの優しいお袋さんからはなかった。
親父さんが…鉄格子の病院に入っている事は聞いていたし、お袋さんは、彼の兄弟姉妹のうちの誰かとその配偶者と暮らしている、のも聞いていたが、
どこかに引っ越されたのだろうか。四十九日の法要前に、私たちは、現実逃避している妹を抱えながら、たのみの住所のところへ電車を乗り継いで行ったが、
その所番地の家には、別の人が住んでた。
弟君のお袋さんの行方も判らなくなってしまった。
3人で電車に乗ったのは、妹をひとりにしておけなかったのと、気分転換になればと思ったからだった。
往復の移動中も妹は、ねぇ夫は?夫はどこ?と駅のホームでも探したんだ。あの時も妻も私も涙が出てどうしようもなかった。
妹夫婦の家の電話帳にあった、弟君の実家に電話をしたが、誰も出ない状態が続いた。
平成7年当時、携帯電話は…記憶が定かでなくて申し訳ないが、まだ私の周りでも持っている人は少なかった様に覚えている。
妹が、弟君の遺品整理をしていて、携帯がない、という言葉はなかったと思ったし、
平成8年か9年以降だろうか、自分も携帯を持つ様になったのは。何しろ20年前後も前の事となると、
自分がいつから携帯を持つ様になったか正確に覚えておられる方も少ないのでは?と思ってしまう。
現に今、妻や妹に、いつから携帯持つ様になった?と聞いても、二人も、いつからだっけ?と言っている。
そうだ、元気だった頃の弟君を含め、この4人が携帯電話で連絡を取り合った事はなかった気がする。
そうか、弟君は携帯電話を持つ事なく、亡くなってしまったんだな。
話が逸れてしまったが。
一周忌で思い出した。彼の身内の方々に、彼の訃報をどう知らせたものか、あの時は悩んだ。
妹はあんな様子で無理だったので、私が知らせた。
いつも手紙や果物を送って来てくれる様な優しいお袋さんに、なんと告げたものか、本当に辛かった。
少し飛んだり戻ったりするが。
あの平成7年の10月初めから、妹は、私が会社の人にどこか女性をひとり雇ってくれる所を探していると言ったら、事務職なら1つ空きがあると言われ、
面接や簡単な試験を受けて雇ってもらったんだ。妹は、弟の一周忌までは引っ越したくないと。
あんなに写真以外は処分してしまうほど悲しみのどん底だったのに、落ち着きを取り戻したら、あれもこれも捨てなきゃ良かったと。
頑張れ妹。私たち4人家族だ。見えなくても4人家族だから、な。
妻と3人で妹の就職祝いを静かにしたんだ。あ、ちがう、4人でだった。
妹は毎日お仏壇を掃除している。今もだ。
弟君は私なんかと違って勉強をし、漢字に詳しい人だった、昔飲みに行った時、一度だけ、亡くなった人の戒名について話した事があったっけな。
あれは、そこの寺の住職さんや宗派にもよるらしいが、
戒名にたった一文字なら、希望する字を入れてもらえるとかなんとか。普通はダメなんじゃないかとは思うが。
その時、弟君は、なんだか希望する字がある様な事を言っていたが、何しろ酔っ払っていたのと、
まさかこんなに早く…とは思ってなかったから、またお互いお爺さんになったらその時な、なんて笑って飲んでたんだ。
妹に、悪くて話せなかったが、毎日お仏壇をみがきながら話しかけている姿を見ていたら、正直に話せた。妹は、仕方ないよ、お兄ちゃんのせいじゃないんだから。と。
あの後色々あって、今は妻と妹と3人で暮らしているんだ。
妹は、お姉さん、ありがとう。いいの?と逆に妻の気配りに目が赤くなってたな。
妹も前へ進みたかったんだろう、妻と9月初めのグループさんの最後のコンサートにしっかりお別れして来るね、と仲良く出かけたんだ。
私は、嬉しかったんだ。妻が妹を思い遣る気持ちと、妹が前向きに生きて行こうとまで立ち直れた事が。
嫁ちゃん、アイドルの事はよく分からないが、ありがとうな。
妹、元気になって良かったな。私は、かつて弟君と飲みに行ってたお店に、ひとりでだけど、飲みに行って来るな。もちろん弟君も一緒に!
確かこの年の9月初めだったか、妻と妹がファンだった、アイドルグループ、光ゲンジさんが解散したんだったかな。
なんでも1年前に?メンバーさんがふたり抜けたと妻と妹が残念そうにコンサートへ行ったっけ。その後1年間、メンバーさんが5人で頑張ってるのを二人は応援してたっけ。
けれど、弟の事があって、コンサートどころじゃないだろうな、と思いながら、妻は、その5人さん最後の解散コンサートのチケットを2枚、密かに購入していたんだ。
弟の事で、行くのが無理だったら妻は自分も行かないつもりで、とにかくチケットだけは、行けるなら妹ちゃんと、と取っておいたんだ。
震災から半年以上経ち、なんとか日常生活を送れる様になった妹に、妻はそのグループさんが解散するから、もう彼らのローラースケートも歌も、見られなくなるね、と話し、
ねぇ妹ちゃん、最後のステージ見に行って、ちゃんと「さようなら」して来ない?とかなんか言った様だ。
今年は悲しい事があったから、もうアイドルさんともお別れコンサートで、しっかりお別れして来よう?そんな気になれなかったら、無理しなくていいから、ね、と妹に少しでも前を向いてほしかった妻が、精いっぱい声をかけたんだ。
平成7年も秋になってたと思う。変な話、妹も病院通いを続け、しばらくは仕事も出来ずに収入がなかったが、弟の、保険金やら、何だったか、遺族年金?だったか、少しは生きていけるものがあったが、
家賃も光熱費も毎月落とされる訳で、妹も、しっかり働かなきゃね、と言えるまでに回復していた。
少し戻ると、葬儀屋、お寺に払うお金、喪中のハガキの印刷代、切手代、その前に香典を下さった方々に、デパートからお香典返しの発送など、かなりかかったので、私も妻と話し合い、出してあげられるだけは出してやった。
こういう時、一般的には私の立場の妻が、お金を出す事にいい顔しないと、仕事現場の先輩から聞いたが、
妻は、過去に自分の母親や兄弟姉妹から、自分を守って助けてくれた妹ちゃんと弟さんに、こんな時に恩返しがしたいからと、妹の方が恐縮する位、援助を勧めてくれたんだ。
嫁ちゃん、妹にそこまで、ありがとうな。
妹は、付けてもらった戒名を、仏壇の弟に報告してた。希望の字が入ってなかったら、ごめんね、と。
妹が元の妹に戻るには、かなり歳月がかかった。弟君の物を見るとツラくなるからと、写真以外は処分したが、それにも半年近くかかった。
色々あった、プレゼントしたネクタイで首を吊ろうとしてあわやのところで助けた事もあった。妹がそれほどまでに弟君を思っている様に、
私も妻も、24年経った今でも、私たちは4人、2組の夫婦だけど、4人家族なんだ、とどこかで思っている。
実はあの神戸の震災前に、妹は30の誕生日を迎えていて、弟君の出張前に、4人で妹の誕生祝いの乾杯をしたんだ。それが4人揃った最後になってしまったが、
今でも私たちは「4人家族」意識でいる。妹は少しずつ少しずつ、なんとか生きる気力を取り戻し始めていた。
それで初めの方のレスに、30年近く続いている4人の関係を壊したくない、と書いたんだ。私たちは、ずっと4人だ。
なんでも4人で協力しようって言ったじゃない?花火見に今年は行こうって言ったじゃない?うちの主人は約束破る様な人じゃないって知ってるじゃない?なんで?なんで?なんでお兄ちゃんはそんな酷い事平気で言うの?
妹はクッションやらタオルやら私に投げ付けて来た。泣いてた。
妻が必死に妹をだきしめる。3人とも泣いていた。
両親には悪いが、私は、弟君の死が、人生で初めて悲しかったかも知れない。
妻が言った。あのね、妹ちゃん、私たちも弟さんの事、とても悲しい。悲しいの。妹ちゃんに励ましてほしいの。お兄ちゃんもね、弟が出来たって喜んでたのに、ずっと悲しんでるの。
どうか、妹ちゃんの力を貸して、ね、弟さんの事、これから何十年も聞かせて。これは妹ちゃんにしか出来ない事だから、ね。
やっと、やっと妹は、大声でわーわー泣いた。呼吸困難を起こすんじゃないかって位、泣いた。
その間、ずっと妻は妹を泣きながら抱きしめてくれた。
嫁ちゃん、ありがとうな。妹、きつい事言って悪かった、ごめんな。
妹の家で、3人で会った。
あのな、よく聞いてくれ。弟君はな、亡くなったんだ。妹もあの阪神淡路の震災は知ってるよな?
妹は私の事なんて、誰の話?という顔でお茶なんか入れてる。妻が、妹ちゃん、私がやるから、と言っても、いいから、お姉さんは座っててね、と。
あのな、ツラいだろうけど、もう妹(名前)もいい大人なんだ、事実は受け入れてほしい。俺達だって悲しいし、信じたくない。でも、
…お葬式しただろう?弟君、…顔は綺麗な、眠っている様な顔だったな、お前も見ただろう?
私も話しながら弟君の身元が判って返された時の事を思い出し、声が泣き声になっていた。
妻もボロボロ泣いていた。
突然、妹が私を睨み付けた。
「なんでお兄ちゃん、そんな酷い事言うの?」
私は言葉が出て来なかった。
酷な事を言う様ですが、と医者に、妹にまず事実を受け入れ、悲しみや苦しみ、悔しさを吐き出させてあげて下さい、と言われた。
妹は本当にこのままだとダメになる、と思った。弟の事を覚えてないなりに、無意識に二人分の食事の用意をしていた。
妹から電話があり、妻か私が出ると、「あ、お姉さん(お兄ちゃん)?うちの主人、そっちにお邪魔してない?」と言った。
妻は泣いていた。どうしたら、妹ちゃんは、普通の、健全な人に戻れるの?一生、こうなの?私に何が出来るんだろう、と妻なりに妹を思い遣ってくれた。
私にすべてがかかってるんだ。
医者に言われた病名もあえて書かない。同じ病名を言われ、頑張って治療している方もおられるだろう。
妹は、夫(弟)とどんな生活をし、何を食べ、どこで遊び、何をして過ごしたか、
ショックのあまり、何も覚えてなかった。
写真を見てもキョトンとし、彼の持ち物を見ても何の反応もないのだ。
現実が頭に入ってない状態だった。
弟君は、いや、弟は、平成7年1月17日に、帰らぬ人となった。
持って回った言い方も、詳細も書きたくないので書かない。
弟に限らず、6400人以上の命が消え、妹の様に、平常心を失った方が、どれだけ居たんだろう。
弟の会社は何も悪くない、自然の災害だった。妹のところに、社長だのが、この度は、と頭を下げに来てくれた。
妹は、まともに対応出来る状態ではなかったので、私と妻がついていた。
悲しいとか、そんな感情で終わる様な出来事ではなかった。
私は、しっかりしなければ、と、ローンを組んででも弟のお墓を建てた。
昨日、お盆前にと墓参りに行ったのは、弟に手を合わせに行ったのだった。
当時、妹の様子がおかしかった。泣くでもなく、弟の話をするでもなく、しばらくは私たちとも会話が噛み合わなかった。
私と妻で、妹を病院に連れて行った。
幸せに過ごし、平成も6年の師走になった。
弟君がいつもの様に、年明け1月に2週間ばかり出張しますので、と連絡をくれ、
その間、妻(妹)がひとりになるのですみませんが、お姉さんかお兄さん、時々一緒にいてやって下さい、との事。律儀な弟君だ。
安心して行って来なさい、といつもの返事。
私はこの先のレスを悔やまずに書く自信がありません。
平成7年1月、弟君は2週間の予定で出張に行った。
出張先は、神戸だった。
すみません、こうしてレスしていても手が震えて上手く書けません。ごめんなさい。
でも現実から目を背けません。ただ、神様を恨みました。
少し、時間を戻したり飛ばしたりするかも知れません。
本当に、読んで下さってる方、ごめんなさい。
妹と妻は、変わらず仲良くアイドルグループのコンサートへ行っていた。二人とも本当に幸せそうだったんだ。
初めの方のレスに書いた、そのアイドルグループ、光ゲンジさんの、30年近く前の曲を今も時々妹に、動画で無理矢理?聞かされるが、
私は数ある曲の中で、「風の中の少年」という曲を聞くと、やはり哀しくなるのだった。
ただ当時は素通りしていた、前の方のレスに書いたが。男と女には、避けて通れない時期があるし、女の子もツラいだろうけど、男もツラい。
あ、いや、こんな事を書きたかった訳じゃない。みんなそれぞれにそうやって人生で必ず通過する時を越えて来たんだな。
妹と夫、私と妻。大切な大切な、かけがえのない人と巡り合えて結婚出来たんだ。過去がなんだ!
私たちは、毒親から逃れて来た。お互いの、形こそ違えど、心の痛みも悲しみも解る。
これからも4人、支え合って生きていこう。
平成5年~6年は、充実した、幸せな時だったんだ。妻の身内も、私たちの徹底的なやり方に嫌気がさしたのか、全く妻を探している様子もなく、
まぁ私が会社に、1年間で二度も引っ越した事を少しひやかされたが(浮気したのか、とか揉めて引っ越したのか、など)、そんな事は男の世界である会話だが、
実際は、ここに書いたレスの様な事を会社の人に全部話せるはずもなく、引っ越しは妻といつも一緒で、別居もしてませんよ、先輩やだなぁ~、などと苦笑いしてごまかしていた。
妹は、昔、高校入学の祝いと就職祝いにプレゼントした腕時計と靴を大切にしてくれていたが、さすがに年数が経つと壊れ、これからは弟君が買ってあげるだろうし、
私も妻に、昔プレゼントした物を壊れるまで使ってくれた感謝の気持ちで新品を買ってあげたりした。
解体屋も一応会社だ。(当たり前だが)妹がサラリーマンの弟君にネクタイをプレゼントする事があっても、私は普段ネクタイをする仕事ではないので、
作業着を良く洗ってくれ、夏場も冬場もタオルを何枚も私の持ち物の中に入れておいてくれたんだ。
少し大きい現場だと、不景気なりに会社は給料に色をつけてくれた。ありがたかった。
気がつくと、私だけ30代、3人は20代だった。妹め、お兄ちゃんだけおじさん、などと言いやがったな~、妹が30になった時にはオバサンと呼ぶぞ~、
そんな他愛もない、他人さんから見たらアホみたいな事でも楽しかったんだ。
年に4回、誰かの誕生日だが、毎回プレゼントだのしてたら皆お金も気も遣うので、
その人の誕生日前後に、他の3人がおごる、そういう事にいつだったか決めたんだっけな。
つまり、弟君のお誕生日祝いで集まった時は、弟君にごちそうをし、4人分の会計を3人で支払う、という形にし、
妹の時、妻の時、私の時、それぞれ同じ条件にしたんだ。これなら一人あたりの負担も少ないし、
お誕生日おめでとう、と祝われて乾杯するのは皆嬉しそうだった。実際に私も最年長でも嬉しかった。
女の子二人には敢えて年は言わない様にしたな。私の様に昭和の30年代後半生まれは、子供の頃から、女性に年を聞くのも言うのも失礼、という風潮だったが、
今は違うらしい。時代も変わったものだ。
平成5年の年賀状を新住所で書くにあたり、妻は、学生時代の友人にも出さなかった。その友人が、妻の母や兄弟姉妹と同じ生活圏内だったからだ。
久しぶりの友人とも連絡取りたいだろうに、気の毒だった。が、妻は、もうこの3人と離れ離れにはなりたくないと、はっきり言ったんだ。
もう、もう仲間外れや無視されるのは嫌だ、あなたと妹ちゃんと弟さんと、私の4人っていう関係を壊したくない、と必死な顔で言ったんだ。
私は、嫁ちゃんを仲間外れだの無視だのしないから、安心しろ、な、と話したんだ。
そして妹夫婦は引っ越して普通に住民票を移し、私たちは、2つ前のアパートに次の人が入居するため1つ前の所へ住民票を移してから、またしばらく様子見のため、
ちょっとの間、住民票はそのままにしておいた。保険証も持っていたが、なんと妹が結婚して私が一人暮らしになったあの2DKの住所の保険証だった。
因果な仕事の割にはケガもせずにやって来られた事に感謝した。
サラリーマンの弟君に合わせて、通勤に良く、家賃や間取り、駅からの距離などを考えて、妹夫婦が先に物件を決めた。
私たちはそこから単純に、どちらに駅3つ離れた方が色々便利か調べ、最終的に引っ越しが決まったのは、11月だった。
前の、妻の家族から逃げる様に引っ越した時よりはだいぶ気持ちも違った。
もちろん、妻の母や兄弟姉妹の生活圏とは全く接点はないだろうと、あたりを付けて、どこかには住まなきゃならんので、
家具などは相変わらず要らなくなった人からもらい、妹夫婦も妻も、値段の高い物には興味がないため、
引っ越しの荷造りも当たり前だが自分たちですべてをし(当時、荷造りからしてくれるパックがあった様だが、10万円違って来るので)、
ようやく2組の夫婦は、師走には引っ越し先で落ち着いて正月を迎えられるメドもたった。
1年以内に二度も引っ越した経験は後にも先にもあのバルセロナの年だけだったろう。
墓参りの話は、また別のレスに書こう。話はまた92年秋に戻るが。
妻の身内の一件があってから、私たちは、出来れば妹夫婦も、全く生活圏内の異なる所へ引っ越した方がいいんじゃないかと3人に話してみた。
なにしろお金がかかる事だ、預貯金があれば出来なくもないが、難しい。
その当時住んでた2組の夫婦は、JRの駅で7つ離れてた。この前の事を考えたら、同じマンションという訳にはいかないが、駅で3つ位の距離がいい。
弟君は、夏のボーナスもそんなに使ってないので、年内には越せると思います、と言ってくれて、
妻は、また申し訳なさそうに、私に出来る事があればやらせて欲しいと言い、
相変わらず生理痛の重い妹に、しんどい日はご飯作りに行くからと、4人は手頃な物件探しを始めた。
若い時ってのは、今考えると行動力があったものだと、体力だけでも取り戻したい気になった。
きょう令和の8月は、墓参りの日だ。50代がぞろぞろと。
平成31年からの令和か。あのバルセロナオリンピックの年からも色々あったな。
そう言えば、両親の墓はどうなっているんだろうな。人にお参りに来られる両親ではなかったと思う。
きょうはしっかり手を合わせて来よう。
妻は4人でメシ食ったりする時、いつも不思議そうに言うんだ。
私は、お話を聞いてもらえるだけで幸せなのに、どうしてあんなにまでしてくれたの?みんなに迷惑や面倒かけてしまったのに…。
3人は、皆同じ気持ちだった。毒親から妻を引き離したかった。自分たちに重ね合わせる事が出来たからだった。
ありがとう、ありがとうね。私は、幸せです。3人に会えてなかったら、今頃、無視された上に母を押し付けられるところでした。3人が困った時は、私に協力させてね。
妻の気持ちはみんなに届いてた。私は、あんな人たちと暮らして来て、よく妻は、人に感謝したりいつもニコニコしたり出来る人に育ったな、と思う。
妹も、頑固な私と違うところが、女の子の優しさなのかなと思った。
けれど、弟君は男の子なのに優しかった。弟君は、お袋さん似なのかな。
みんな誰でも両親には仲良くいて欲しいし、自分を認めて欲しいものだ。
世間はバルセロナオリンピックで盛り上がっていたが、私たちはそんなこんなで、それどころではなかったが、妻の身内からはもう何も言って来なくなり、
前に住んでいた所には別の人が入居したため、うち宛の郵便は差出人に返されたんだろう。
連絡を取りたい人や繋がっていたい人には新しい電話番号や住所を教えていたので、郵便物が転送される事もなく、だんだんに皆、落ち着いて生活出来る様になったんだ。
妹が、妻をアイドルグループのコンサートに誘い、二人で横浜アリーナへ行くまでに妻も妹も笑顔になっていたんだ。300円だかのウチワをお揃いで持っていたっけ。
私と弟君はまた仕事の都合が合えば飲みに行ったんだ。こんなふうに生活したかっただけだったんだ。引っ越しや色々で物入りだったので、いっそう力を入れて働いた。
私は妻がまたニコニコして一緒に暮らせるだけで幸せだった。
その後、妹夫婦の家に何回かあちらの義母の他に妻の兄弟姉妹から電話があったそうだが、やはり面識がないという事が強みだったのか、
妹夫婦は、妻を守ってくれるために必死で、どうしてうちの電話番号を知ってるんですか?や、お宅ら何なんですか?うちはきちんと契約して入居して(事実そうだ)、何も世間様にとやかく言われる様な事はしてません、
それより(当時ストーカーという言葉は世間一般に使われていたかどうだったろう)、お宅はなぜそのうちが知らない人の事でなんだかんだ言って来るんですか?
(妹もかなり強かったと弟君の話)、これ以上何かうちの生活に言いがかりを付けてらっしゃるなら、
お宅(妻の母と兄弟姉妹)が、『うちに対してなさって来た事』を、嫌がらせとして警察に被害届を出します。ときっぱり言ってから、
パタリと何も言って来なくなった。そして、私は前の急いで引っ越した所から、電話番号も変えた。
妻が相変わらず申し訳なさそうにしているので、ある時やっと4人で会えた時に、
妹が、お姉さん、どうか前までの明るいお姉さんに戻ってね、それが私たちの幸せだから、と言い、
妻も少しずつ明るさを取り戻して行ったんだ。
ここまで読み返してみて、だいぶ省略したり、記憶も曖昧だったり、突っ込まれそうなところもたくさんありますが、
細かい事全部は書けず(言い訳ですが)、はっきり覚えている事だけは書きたいと思っています。
本当に、下手で話が飛んだりするものを、読んで下さってありがとうございます。
「あのこちら、○○さんのお宅じゃないですか?」と義母。「いいえ。」と妹。「あの○○夫さんか○○娘という名前の人に心当たりないでしょうか?」と義母。
顔を見合わせて、さあ、と言う二人に、なかなか引き下がらないしつこい義母に、妹は、「あの何ですか?さっきから、迷惑なんですけど」と言うと、義母は、「1つだけ、これだけお尋ねしたら帰りますので」と言い、
二人は何年位そこに住んでるのか、と図々しいプライバシー侵害質問をし、妹夫婦は、もう4年~5年になります、もういいですか、と玄関を閉めたらしい。
その後、妻の母は、妻の他の兄弟姉妹の家を転々としたらしいが、ガキの頃から可愛がって来たお子さんたちにはさぞかし良くしてもらったんだろうな。
ひとりだけのけ者扱いしたバチが今頃当たるとは、よもや思いもしなかったろう。
妻がその後、あちらの家族に探される事もなく、私の仕事現場に来られる事もなかった。
妻と離婚しないで済んだんだ。私は、義母さんが妻に愛情を注ぎ、他の兄弟姉妹さんと同じ様に育ててくれていたら、こんな事はしなかった。
4人とも本当は悲しかったんだ。
ここからは、妹夫婦から聞いた話。1ヶ月ぶりの我が家に戻り、普段着に着替え、エプロンをしたり髪をひっつめる妹、
弟君も勝手知ったる我が家、いかにもそこに長く住んでます風にくつろぎ、妹の話だと、お姉さん、綺麗にお部屋使ってくれてたのね、だそうだった。
30分もしないうちに、ピンポーン。
来た。人間、知ってる人を知らないふりするのは抵抗があるが、本当に知らない人だと、素のままが1番リアリティーがあるらしい。
インターホンで「はい」と妹。若い女性の声の区別もつかないのか、義母は、「あ、私。」
妹が「どちら様ですか?」と怪訝そうに尋ねると、義母は「何とぼけてんのよ、さっさと開けて」と横柄な態度。
妹と弟君と二人揃って玄関を開ける。知らないオバハンが立ってる。オバハンも驚き(そりゃそうだ、見知らぬ男女が出て来たんだ)、
あ、あのごめんなさい、と言ったとか言わないとか。で、部屋を間違えたかしら、と隣近所を見ると、それこそ知らない表札が出ている(あの頃はまだみんな表札出してる家が多かったな)。
しばらく義母は混乱してた様だったそうだ。
その日が来た。その日は土曜日だったので、弟君は休みで家(B宅、本来の我が家)に居てくれて、ひとりではやはり心細かった妹とずっと一緒に居てくれた。
昼前に、義母から電話があり、さすがに何か土産を買って行くから、1時間半か、もうちょっと位かねぇ、と言って、
年寄り扱いされるのは嫌だったらしく、大丈夫ですか?おひとりで来られますか?と言ったら、
失礼ねぇ、ひとりで行けるわよ、○○マンションの何階でしょ?と言った。失礼なのはどっちだよ、と思いながら、
ではお待ちしてます、と言って電話を切った。それっ!行動開始だ!
急いで妹夫婦に電話、お互いに間違っても妻と私と繋がりのある様な物は、特に私と妻は、部屋に残さずに、二人でB宅に向かった。
途中の駅で4人で落ち合い、玄関の鍵を交換し、私たちは義母の全く知らない本来の我が家へ、
妹夫婦はこれから妻の母が来る、本来の彼らの家にそれぞれ1ヶ月弱ぶりに帰った。
あとは妹夫婦の演技力にかかっている。妻が1番、申し訳なさそうな顔をした日だった。
家の固定電話しかない時代だ、A宅の番号で、義母とやり取りするしかなかった。あの頃、ナンバーディスプレイがあったかどうだったろう…録音は昭和から出来てた気がするが、記憶違いなら申し訳ない。
B宅(本来の我が家)にいる妹夫婦に、その日が近付いたら一時間以内に入れ換われる様に荷物をまとめておいてもらった。サラリーマンの弟君には、本当に申し訳なかったが、嫌な顔1つせずに協力してくれた。
義母は、私に妹がいるとか、家族構成などどうでもいいのか、一切聞いて来なかったので私も何も言わなかった。聞かれたら、私はひとりっ子で通そう、と4人で決めた。
私と妻は、Aで暮らしているフリをして、妻の母親に住所を教えた。当時(平成4年)は、携帯電話はなかったと思うので、しばらくは妹夫婦とは、こちらが公衆電話からかける以外はかけないでもらった。
妻の母親に、いきなりじゃなんだから、まず家を見に来て、と話し、Aに呼びつけた。
あら、いい暮らししてるじゃない?ちょっと狭いわね、と早速イヤミを言われた。弟君は真面目なサラリーマンなのに…と思いながら、
お義母さん、いつから同居希望ですか?と聞いた。妻はニコリともしなかったが、これも作戦だ。ここで妻がニコニコしたら、お義母さんは変に思うだろうから、わざと、不機嫌な顔をしてもらっていた。
そうねぇ、早い方がいいけど、向こうの家具もまだ全部処分してないし…1週間で空っぽにして不動産屋へ行って掃除して…
10日後にここに入居していい?
いい?も何も行方不明だの捜索願いだのさんざん物騒な手紙よこして妻を苦しめて、とムカッと来たが我慢して、
では何月何日という事で。と、二度と会うつもりもない人と口約束をした。
家賃などについても、変な話、うちの方が少々高かったが、差額を妹夫婦からもらうつもりもなく、妻は、自分のためだから、と、
住む所を交換しても、1ヶ月なら家賃や光熱費は引き落としだし、お互いに暮らす訳だからそのままで、となった。
そして、妹たちの住まいAに私たちが、私たちの住まいBに妹夫婦が、それぞれ1ヶ月暮らす事になった。
ちょっとややこしい話で、私のつたない文章で解っていただけるか自信ないですが、書いていきたいと思います。
まず、妹夫婦とあちらのお袋さんは面識がない事、妹の下の名はもちろん、今の姓(弟君の姓)も知らない事、を彼に確認され、
あちら側の兄弟姉妹は親父さん亡き後、ほとんど実家に寄り付かない事(手紙に泣き落としの文章で書かれてあった)、つまり、お袋さんがひとりで行動を取っている事なども彼に確認された。
そして、ここからなんだけど、たとえ兄妹とはいえ、別々の所帯を持った訳で、1ヶ月、家を、住む所を交換するのは抵抗あるかと思いますが、と彼が言うと、いの一番に妹が、
私、お姉さんさえ嫌じゃなければうちで生活してもらっていいよ、と言い、弟君も、3人がいいなら、と言ってくれて、私には二言はなく、妻が申し訳なさそうにしてたので、
お姉さん、4人で団結しましょう、お姉さんを、ずっと無視して来たお母様と二人暮らしなんてさせられない、お兄ちゃんと夫婦でいて、ね、私の姉でいて、と必死で話し、やっと、妻は、よろしくお願いします、と言ったんだ。
彼には本当に世話になった。私が世間の事をあまり知らないアホなのに対し、彼は色々知っていて、というか、私は仮に昔教わっていた事でも、
それを上手く活用する、という知恵が欠けていた。彼と4人で話した。
俺君、大丈夫。まず、俺君と奥さんは正式に結婚して戸籍上も間違いなく夫婦だとあちらのお母様は知っている訳で、
俺君と暮らしている事を知っていて、行方不明だの捜索願いだの、警察はまず、そのオバハン、あ、失礼、お母様は何を以てして娘の行方が解らないと言っているのか、俺君もろとも消えた、というなら、
解体現場で働いている事も知らないのか、と逆に問い返されるさ。
彼は次に、私たちがどの順で何をどうすれば良いか、丁寧に教えてくれたんだ。
そこからの記憶が曖昧だが、妻はやっと、私たちとあのお袋さんのどちらを失う方が悲しいか、正直になってくれたんだ。
そして、妹も弟君も協力してくれるというので、4人で一致団結して、妻にお袋さんを無理矢理押し付けられない様にしよう、と作戦を立てる事にしたんだ。
昔、私と妹に色々教えてくれて車で家から逃げた時のあの彼に、またもう一度、頭を下げた。
彼にはまたしても助けてもらったんだ。
それでも妻は、もう自分の家族が私や妹夫婦に迷惑をかけるのは耐えられないと、離婚を懇願して来た。
私は、妻と別れる方が耐えられなかった。
今、最良の方法は何か考えよう、と提案したが、妻は頑なに首を横に振る。
私は落ち着いている妻とは反対に、感情的になってしまっていた。
じゃあ、嫁ちゃんが残したパイナップルは誰が食うんだよ!嫁ちゃんがハンバーガー食べたい時、誰が一緒にマクドナルド行くんだよ!妹に、お姉ちゃんが出来たのは嘘だったのかよ!
私は妹と弟君の両方に身体を軽く押さえられてただ泣きわめいていた。
そして妹が言った。私、お姉さんをお母様から守るために協力させてもらうの迷惑だなんて思ってないよ、それより、もう一緒にコンサート一緒に行ってくれないの?
女の子同士の話はもう出来ないの?そんなの嫌だよ、やっと優しい姉が出来たと思ったのに。
妹も泣きじゃくっていた。
妻は急に力の抜けた顔になった。
あの、私ね、もういいから。今まで幸せだったよ。もうあなたにも、妹ちゃんにも旦那さんにも、これ以上、迷惑かけたくないから、
私が母親と二人で暮らせば済む事だから。私さん、どうか、離婚して下さい。それが私の心からのお願いです。今までありがとう。
私は固まってしまった。妻が何言ってるか解らなかった。が、すぐに正気に戻った。
ばかやろ…いや、悪い言葉はいけない。
そんなの、俺が嫌だ。嫁ちゃんと一緒にいたい俺の気持ちはどうでもいいの?俺と嫁ちゃんってその程度だったの?
4人とも泣いてた。
スレ主です。なんとか100レス書く事が出来たので、もう少し頑張ってみようと思います。
こんな酷い下手くそなものを、読んで下さってる方、本当にありがとうございます。
しばらく間があいたりしますが、なんとか書いてみたいと思います。
あちらと面識のない妹が、引っ越して空っぽになった前のアパートを見に行ってくれた。
表札も全部はずして来たのに、郵便受けにはいくつか郵便物が入ってた。そうだ、郵便局にも住所変更の届けを出さなきゃいけないんだった。
届けを出したら、妻の実家に引っ越し先はバレないだろうか、どうしたものか迷ってた。
そして妹が、お姉さん宛にあちらからの郵便物が入ってた、と届けてくれた。
中を見ると、そっちから居場所を教えてくれないなら、行方不明の娘を探して下さいと警察に捜索願いを出す、と、脅迫とも取れる内容の文章が書かれてあった。
私たち4人は青くなった。どうすはれば妻を守れるんだ。
どうすはれば、あのささやかな幸せな生活を妻に送らせてやれるんだよ!
妻は、実家の人たちと話し合いに行った。寄ってたかって妻に、母親を見捨てるのか、人でなし、とさんざん罵られたそうだ。
そして、お袋さんは実家を売り、身の回りの物を持って、あんた(妻と私)が暮らしている所へ行くからと、すでに勝手に決めて色々進めていたらしい。
帰って来た妻は私に、1日も早くここから引っ越そうと言い、
妹夫婦にも事情を話し、もの凄い勢いと早さで、私たちはとっとと引っ越したのだった。忙しかった時の事はあまり覚えてないものだ。
しばらくは住民票を移さなかったと思った。昔、妹と逃げた時の様に、住民票に記載されている住所と、生活している居所が違っても罪にならないとかいう法律?を思い出し、
とにかく妻が、完全に実家の人たちと縁を切りたがっていたので、気持ちの解る私の妹と妹の夫は、出来るだけ解らない様な所へ引っ越す事に、大変な協力をしてくれた。
妻はパン屋さんも辞め、しばらくは外も出歩かない様にした。妹だけが話し相手になった。
ふっと妻が気の毒になった。
ある時、妻宛に、実家から郵便物が届いた。結婚しましたのハガキは出してなくても、友人に出したハガキか、役所で戸籍謄本だか住民票だかで解ったんだろう、
親だ兄弟姉妹だと証明出来れば、結婚して出て行った娘の現住所は解るんだろう。私も詳しくないが。
妻曰く、見た事もない様な優しい文章が書いてあるそうだ。私は結婚のご挨拶以来、妻の希望であちらの方々とは会ってなかったが、
読んでいいよ、と妻が言うので読ませてもらった。本当に、無視して接して来た兄弟姉妹からの手紙とは思えない、温かい文章の手紙だった。
早い話が、親父さんが亡くなり(何の連絡もなかったので妻も私も驚いた)、お袋さんだけになってしまうので、
妻に、同居して欲しいという内容だった。つまり、他の兄弟姉妹さんらは、お袋さんと一緒に暮らす気はない様なのだ。
いつもニコニコして、いいよ、いいよと言う妻が初めて私の前でブチキレた。
ふざけんじゃないわよ…人の事、居ない者扱いして無視して、口もきかずに20年以上のけ者にして来たくせに…今さら何なのよ…
妻は、本当に怒っていた。私も、失礼だが、ずい分な家族だと思った。
私たち夫婦と妹夫婦の時間や都合が合えばよく4人でメシ食ったりした。学生気分ではないが、私は人生で、あの時期が、戻りたくない時期の中でも楽しかったと思う。
他愛もない話が楽しかったんだ。
なぁ、俺たち、違う親に育てられてたら、今頃こうしてなかったかもな。
そうですよね、お兄さんのお仕事場の怖い話も聞けなかったし。と弟君。怖い話やだ~と妹、私は平気かな?と妻。
給料日前は残り物を工夫して食ったりして、金が入ったら会おう、ってな感じだったんだ。
妻が、売り物にならなくなったパンをもらって来たのや、切り落としたパンのみみをもらって色々作ったっけな。
平成の4年だったか、バルセロナオリンピックの年頃の思い出だった。
現実の方が余程怖い。少なくとも、妻、妹、妹の夫は、人間や自然の災害が一番怖いと学習して生きて来た。私もだが、私はお陰様で、ガキの頃から友達には恵まれていたんだ。
悪い事は嫌いだったので、自然と仲良くなるヤツは、似た様なヤツらだった。私は決して優等生ではないが、ワルでもなかった、と思う。イジメもどちらでもなかった(イジメた方でもイジメられた方でも)。
頑固なため、ガキの頃ほど友達と時々、衝突したが、家で両親を反面教師にする様になり、妹と同じ様に一瞬私にビビる顔をされると、慌てて「ごめんな」と謝る様になり、それ以上の大ゲンカにはならずにすんだ。
前のレスにも書いたが、友達を失うのが異常に悲しかったし、ひとりぼっちになるのが怖かったんだ。妹を守るためにも友達は大事にしたかったんだ。
弟君も酔った時、似た様な事を言ってたっけな。乱暴な親父さんからお袋さんを守るためにも強く有りたかった、と。が、彼は何しろ人が好い。妹が好きになったのも解る。本当に、遠慮がちで人に優しいヤツなんだ。
妹が彼に惹かれていくのに時間はかからなかった様だったが、
妻はしばらく私に心を開いてくれなかった。きっとこの人(私)も、いつかは私を無視して別れて行く人なんだ、と諦めを前提に接していたと、結婚して何年も経ってから話してくれたんだ。
家族に殴られたり暴言をはかれて育つのも嫌なものだったが、全く存在を無視されて生きて来なきゃいけなかった妻の人生の絶望と悲しみは、いかばかりだっただろう。
私は怖い話を書くつもりはないので、具体的な事は書かないが、
ある先輩が、そう言えば、あの例の家もこんな感じでしたね、と言いかけた時、リーダーさんが青ざめて、
「おい、やめろ」と言い、先輩がすみません、と言ってその話が終わってしまった事があった。
私は何の事か解らず、例の家って何ですか?と聞いてみたが、リーダーさんに、「おまえも、知らなくていい」と言われた事が一番怖かった。
未だに真相は解らない話だった。
私の仕事には、以前書いた様な毛虫退治の他にも色々な経験がある。もちろん、どんな職業でもそうだと思うが。
家を一軒解体するにあたり、きちんとお祓いをしてもらう。人様が暮らしていた所を、法に基づいてとは言え壊す訳だ、作業をする者もケガをしません様に、
事故など、何事も起きませぬ様に、現場のみんなで手を合わせてから作業にかかる。
新人の頃はよく先輩にビビらされたものだった。この季節だから書く訳ではないが、
床下から白骨死体が出て来たりするぞ、だの、今で言う事故物件だぞ、だの、当時18~19才の私はお恥ずかしい話、怖がった。
まだ両親が健在だった頃だった。
両親が他界してからは、多少の曰く付きの家にはビビらなくなった。人はいつか必ず天に召されると割り切れる様になったのだろう。
けど、先輩のビビらせ話より、現場のリーダーさんが笑わない話が一番怖かった。
私はたまに仕事で遠方に駆り出される事があった。若かったからだろう。今はないが。弟君も時たま出張があった。
1週間以上家を空けると、妻は不安になるらしく、病院で安定剤をもらっていた。無視される事のつらさとは別に、ひとりぼっちになる事にかなり恐怖心があった。
私という信頼している者が2日以上いない事に、安心して生活できなかった様だ。50を過ぎた今はないが。
そんな時は、妹に、都合のつく時だけでも来てもらった。
弟君がひとりになるのが申し訳なかったが、逆に、弟君が出張で妹がひとりになる時は、妻がおじゃまする、というパターンが出来ていた。
夜、女の子ひとりは怖いだろう。ふたりなら心強い。私は少しは融通がきいたが、サラリーマンの弟君はそうはいかなかった。
こんな時も、妻と妹が一緒にいるのは安心だった。二人は、アイドルグループの音楽を聞いたり、誰にも話せなかった女の子同士の話などをしたそうだ。
二人がウマが合う、気の合う二人で良かった。弟君が理解ある人で本当にありがたかった。
妻は、パン屋さんのバイトも明るいうちに帰宅させてもらえる様、私からお願いした。妻のバイト代は緊張してまで手に入れなくても良かったんだ。パン屋さんに出来るだけ迷惑がかからない様、6月を中心に働かせてもらった。
昔、給料日に妻と中華料理屋へ行った事があったっけ。ゼリーの出来事の後だった。
妻は中華料理屋も当然初めてだった。自分は解体屋の先輩に連れてってもらった事があった。
酢豚を注文したら、案の定、パイナップルが入っていた。私はわざと、向かいに座っている妻にパイナップルをホイッと数個、笑って置いた。
すると妻も箸でパイナップルを私の前にまとめて返品して来た。笑ってる。しばらくパイナップルは、私たちに左右を往復させられた。
食べ物で遊ぶのはいけないので、お互い笑顔だったが、そろそろやめようと思い、私がまとめてパイナップルを食おうとしたら、
妻はニコニコしているのに泣いていた。こんな普通の事が嬉しかったんだ。
珍しく、妻はパイナップルを1個食べた。苦笑いして、やっぱりおいしくないや、と小さい声で泣き笑いの顔で言った。
お店の方、ごめんなさい。面と向かって言ったりしません。私が全部食べます。
二人でお店を出た。私も妻も、家族で外食するのは楽しい事なんだとしみじみ思ったな。
妹も、弟君とこんなやり取りをしているのかな。幸せな時間を、これから取り戻そうと思った。
妻の実家から、年賀状の1枚も、電話の1本もない。いくら勘定に入れず無視して育て、結婚して出て行って厄介払いした気でいたか知らないが、
私という夫になんの接触もはかろうとしないとは、私すらあちらは嫌いなのだろうか。
いや、私と関わる事で妻と接触するのが嫌なのだろう。どこまで悲しい家族なのだろう。妻は何も言わない。
ご家族の皆さんはお元気なの?と聞いてみたが、「電話しても、私の声だと分かると切るから」と。
もとから亡くなっていないのと、健在なのに無視されるのと、どちらが酷な話だろう。
けれど妻は、いないものと思われてるならそれでいいから。と明るく話すんだ。
私や妹に、両親の墓参りは行かないのか聞かれたが、場所だけ叔父に聞いており、1度も行ってない。
不思議なもので、皆、自分の家族の話になると、毒親に育てられた者ほど、なんとも思わない。
相手の親御さんの方が気になるのだった。
義理弟君の実家のお義母さんからは、弟君へ時々、元気でやってますか、という手紙や果物が送られ、弟君は私たちにお裾分けをくれる。
ありがたく頂戴するが、お袋さんはまだ親父さんの暴力にあっているのか聞いたら、何でも親父さんは…鉄格子の病院に入ったらしい。
お袋さんは、弟君の兄弟姉妹のひとりとその配偶者と暮らしているそうだ。彼はいつもの遠慮がちな、申し訳なさそうな顔で話してくれた。
いつも戴いてばかりで心苦しかったが、妹と私は故郷もないし両親は他界する前に逃げ出して縁を切ったため、ふるさとの物を弟君にあげられなかった。
そして、私は結婚して半年、1年、2年と経つうちに、ずっと気になっていたある事に、はっきりと気が付いたんだ。
以前のレスにも書いたが、私はこういったところへ長期に渡って長い日記や文章を書いた経験がないので、
時系列順に上手く書けず、頭に浮かんだ事をその時に書くしか出来ず、省略した事も含め、ずい分と話もあっちこっち飛ぶし、
どうだったっけな、と思い出しながら書いている。読み返してみたが、かなりとっ散らかっている。日記にしても曖昧だったり、かなりはっきり覚えていたり、
矛盾している様に読める事も書いているが、今の生活の中で書いているので、
こんなものでも読んで下さっている方、ありがとうございます。何しろボソボソと書き始めたので、酷く下手くそですが、
色んな人の色んな人生の1つ、と思っていただければ幸いです。
きっと私たち4人は、4人とも皆、結婚して初めて、人間らしい生活が送れ、人を信用する事が出来たんだと思っている。
ある日、嬉しい報告が届いた。
昔、妹とそれぞれの友達と4人で花火大会を見に行った事があったが、
あの時の私の友達と妹の友達が、なんと結婚します、と。ずっと付き合ってたらしい。足掛け10年か。
10代後半だったのが、20代後半になったな。おめでとう!
妹は新婦側の、私は新郎側の友人という事で、二人とも生まれて初めて結婚披露宴に呼ばれた。
特に人前で何かやる様な事はなかったが、初めての経験のため、ご祝儀はどの位かを、
出席経験のある弟君に聞いた。妻に訳を話し、決して仲間外れにする様な事じゃないから、
日曜日でもあったので、私たちが披露宴でいない間、弟君とメシでも食っててな、と話し、妹と出かけた。
結婚披露宴ってスゴいな。豪勢だしみんな着飾ってるし。芸能人の集まりの様に見えた。
妹も自分も、本当ならこんな事してたのかな、と帰る道々話した。
素敵な、感動的な披露宴だった。
結婚前に4人でマクドナルドへ行った時、あんなにはしゃいだね。嬉しかったんだね。
私の稼ぎで、妻の知らない美味しい物をこれから食べさせてやりたい。心からそう思ったんだ。
人様の親御さんを悪く言うのがいけない事位は解っているが、なぜ妻はこんなにまで家族の勘定に入れてもらえなかったんだろう?
まさか面と向かって聞けはしないが、聞けたとして、いいえ、娘はきちんと家族として暮らし、育てましたよ、と言うんだろう。
嫁ちゃん、これからだよ、人生、楽しい事があるのは、これからなんだ!
私が1つ1つ教えると、妻はお米を研ぎ、味噌を溶き、リンゴの皮を剥ける様になっていき、また妹も、妻を傷付けない様に、色々教え、いつしか、妻は私や妹と台所に立つ事が楽しい、と言う様になり、
もちろん今ではひとりで出来る様になっている。30年も経てば当たり前か。
話に聞くのと実生活では、相当違うんだろうな。私たちが小学生の夏休みに、自分だけ実家に帰ってたあの母親とかいう女が居ない間は、
父親の朝と晩のメシを作ったら、あとは遊びたくて、インスタントラーメンと菓子パンと果物にして、妹と手抜きして遊んでた頃、
妻は、世の中にあるうまい物を知らずに子供時代を過ごしていたんだ。
妹は洋服などどうしてたの?と聞いたらしいが、服は全て、どこのお宅でもある事かも知れないがお下がりで、
靴下から下着まで、洗濯してもらった事がないため、自分で洗ってたらしいが、いくら兄弟姉妹でも下着のお下がりはないだろうと思ったが、
妹の、お兄ちゃん、私たち下着はまっさらのを買ってもらったよね、という涙目を見て、妻の壮絶な人生にあらためて喉の奥が痛くなった。
妻は結婚した時、ご飯の炊き方も知らなかった。無理もない。母親や兄弟姉妹と並んで台所に立った経験が1度もなかったそうだ。
食事はどうしてたの?と聞いた。
こんなに差別されて生きて来たんだ、とやりきれなかった。
妻以外の家族は食卓につく。妻は少し離れた所で、逆さまにしたみかん箱の上に、ふちの欠けた茶碗にご飯と、塗装(あってるか解らないが)の剥げたお椀にみそ汁と、
たくあんが何切れかと、ワラに包まれたままの納豆が置かれ、他の家族はすき焼きだの揚げ物だの食ってたそうだ。
昭和の40年代は、納豆は縦長のワラにくるまれている物が多く、今の様に発泡スチロールの入れ物はなかったか、あっても珍しかった。
妻はひとりで、家族と口をきく事もなく、ワラをほどいてひとりで納豆をご飯にのせて、ポツンと食ってたんだ。
私たち兄妹の様に、家事を丸投げされて来た者は、仕方がなしに一通り出来るまで殴られながらもやらされて、
幸か不幸か、炊事、洗濯、掃除、布団干し、何とか出来る様になってはいた(愛情で教わったのではなかったのが悲しかったが)。
平成は、災害が多かったと言われるが、事件も事故も多かった。
昭和の頃とは、時代背景が違うため、何もかも違った。
万引き少年を捕まえ、母親を呼ぶと、母親はそこの店に謝るでもなく、「だからこの店はやめとけって言ったでしょ」と息子を叱る…。
おい、違うだろう、泥棒はいけない、と教えるのが親だろ、という声も加害者のバカ親子には届かず。
自分もこんな親に育てられたらと思うと、別の意味でゾッとした。
景気が悪くなると犯罪が増える。
まっとうに生きてりゃ、お天道さんと米の飯はついてくる、なんてのは死語なのだろうか。
皆、バブル崩壊後は死んだ目をしてた。それでも明るい人は明るかった。みんな救われる人って、必ずいたな。
私はあの狂った時代へ戻りたくはない。
妻は、前にも書いた様に、家族に完全に無視されて育った。誰も妻の通信簿を1度も見た事がないそうだ。誰も、1度も。
妻以外の兄弟姉妹とご両親が、頑張ったね、とか、あ~下がっちゃったね、とか、スゴいね、などと盛り上がっている時、妻だけ蚊帳の外だった。
1度、妻の方から思い切って、「兄弟姉妹ちゃん、通信簿見せて。」と笑顔で言ったそうだが、母親が完全無視をするので、兄弟姉妹さんも無視したそうだ。
なぜなんだ?と私は今更あちらのご両親に聞きたい。妻は特別、何かが極端な人ではない。
オール5でもオール1でも、特別人目を引く美人でも(嫁ちゃんゴメン、私にとっては1番の美人だよ)、ましてや特別ブスでも、言動が目立つ訳でもなく、むしろ控え目な方だし、話してて嫌みがない。
妻は思い出した様にうっすら涙ぐんだが、すぐに私たち兄妹を気遣い、
「後ろに放るなんて、失礼だけど、お義母さん、酷いね、妹ちゃんもあなたも悲しかったね」と言ってくれたんだ。
私は妻の方がなんぼつらかっただろうと思った。
私たち兄妹が通信簿を持って帰ると、冷たい顔の両親は、それを見ながら罵声を浴びせる。
「こんな成績しか取れないの?」「バカじゃないの?」「恥ずかしくないの?」と容赦なく、見終わると後ろに放る。
私は泣きそうな妹の手を引き、放られた通信簿を拾い、部屋へ行く。
妹の通信簿を見て、「お、2から3に上がってる、すごいな。俺より成績いいな、よく頑張ったな。」と褒めると、妹は恥ずかしそうに笑ったっけな。
そのうち、中学生になった妹が、私を褒めてくれる様になった。親には見捨てられても、私たちはお互いを見捨てなかったんだ。
が、この話を妻に話してから、しまった、と思った。
どうも暑くてかなわない。ポツリポツリと書き始めた思い出日記のつもりだったが、500レスまで書けるのか、
はたまた、何年かかけて小さな事を書き続けて500でまとまるのか、自分でも予想がつかないが。
妻とは色々話したなぁ。小学校の頃の通信簿の事や、長い休みは親が、特に母親が私たち兄妹をめんどくさがり、自分だけ夏休み中、実家に帰った事、
父親はお盆休み以外は昼間居なかったので、友達と遊んだり、妹とテレビを見たり、今考えたらインスタントラーメンと菓子パンと果物で過ごしていた気がする。
夜は父親が帰って来ても怖いだけで楽しくもなんともなかった。ただ、今にして思えば私たち兄妹は、まがりなりにもこの親父のおかげで暮らせてたんだな。
母親は本当に家庭を築くつもりなどなかったんだろう。だけど妹とふたり、それなりに互いの友達も交えて遊ぶのが楽しかったんだ。
結局、景気の悪い時もあるという事で、しばらくはそこに在籍して、現場仕事なので遠くまで行く事もあるという(これは前から知っていた)事で、
続けさせてもらった。お世話になって来たんだ、頑張ろう。月によって収入は違うが、生きていけないほどではなかった。妻は嫌な顔1つせずに、
いつも通り、いいよ、いいよ、と笑って答えてくれた。
そのうち、商店街のパン屋さんでパートを始めてくれた。彼女は、家族に無視されて生きて来た、私とコミュニケーションを取る事をとても大切にしてくれた。
何も話してもらえない方がイヤだと、何度も言った。
困った。バブル崩壊後、解体屋の仕事が減って来た。
皆、それまでは、新しく家を建てるなり買うなりして、古くなった建物は壊して更地にして駐車場にして人に月いくらで貸したり、
あるいはアパートを建てて家賃収入を得たり、とにかく古くなった家は壊す人たちが多かったが、
いかんせん、デカイものを壊すには金がかかるため、バブル崩壊後は皆、修理してまだ住もう、という人が増えた。
解体料金を安くすると会社の儲けが減り、辞めていく人が増える。
自分としては何年も世話になった所なので、簡単には辞められなかった。が、背に腹は代えられない。
さて、どうしたものか。妻に安心して暮らしてほしい。どうしたもんじゃ???
妹夫婦がうちに来て、妻と4人で夕飯食おうってなった時の事。
女の子二人が台所でなんか作ってくれて、私と弟君は仕事の話やらなんかしていた。
台所からふいに、妻と妹の揃った歌声が聞こえて来た。
「♪みんないつだって~自分に精一杯~すねてちゃ~何も起こらない~♪」と明るい歌だ。
弟君が、え、それ何の曲?と聞くと、二人はアイドルグループの歌だよ~と楽しそうだ。
なんだか明るい二人が嬉しかったんだ。弟君も、二人が楽しそうにしている姿を見るのは幸せだと前に言っていて、
私自身、25才より前には戻りたくないので(この曲が世間で流行った時、私は25ではなく、もうちょっと年いってたが)、
この一軒の家の雰囲気と、かつての私と妹がいたあの一軒の家の雰囲気とでは、雲泥の差だった。
4人全員、こうして繋がれて本当に私は幸せだと思った。
妹が、妻が、家の中で鼻歌が歌えている家なんだ。あったかい家だと胸張って言えるんだ。
妹、嫁ちゃん、弟君、良かったな。
私はこんなふうに頑固だが、弟君は気のいい、人当たりの軟らかい人だ。
男二人で酒を飲んでた時、色々話したな。妹と妻がアイドルのコンサートに行く話の時、
ねぇ、お兄さん、私達という夫がいるのにねぇ、と言う時も、文句を言ってるって顔じゃないんだ。なんとも優しい、遠慮がちな笑顔って解るだろうか、
こちらも微笑んでしまう様な、そんな人なんだ。
弟君のご家族も特徴があるので詳しくは書けないが、彼も親で苦労した人だ。
妹を大事にしてくれるのも、親父さんがお袋さんにつらく当たってたのを見るのは耐えられなかったらしい。親父さんは足で、お袋さんの顔を蹴ったりと、失礼だが酷いと思った。
お袋さんはいつもケガをしていたそうで、そんな中でも息子の弟君には優しかったそうだ。紫に腫れ上がった手で、弟君をなでたりギュッと抱きしめてくれたそうだ。
弟君は中学生の時、親父さんがあまりにも酷いので、お袋さんを庇おうとしたら、体が小さくて逆に殴り飛ばされ、何針も縫うケガをし、お袋さんを助けてやれなかった、と、
下向いて泣いてた。他の兄弟姉妹さんも何も出来なかったと。
私はむせび泣いている弟君の肩を抱き、背中をさすってやる事しか出来なかった。
つらい事を聞いて、ごめんな。
冷蔵庫のゼリーの話から湾岸戦争の話にまで飛んでしまった。
4人とも、結婚してそれぞれに夫婦で暮らして、ささやかでも幸せだった。それと同時に、両親は結婚して幸せになれなかったのはなぜなのか、
いくら考えても解らない。子供が嫌いだったのか?子供が出来ない様にする知識は昭和の30年代にはなかったのか?
子供を育てるというのがこんなに大変だと思わなかった、と言うなら、どれだけ子育てを甘くみてたのか?なぜ最初のひとりで子供をおしまいにしなかったのか?
また両親自身、祖父母に酷い扱いを受けたのか?私のところの様に、妹も私も同じ様に邪魔者扱いするならまだ百歩譲って理解したとして(いや正直、二人の子供をもうけてから、が解らないが)、
妻の様に、他に兄弟姉妹がいて、妻だけ家族の勘定に入れてやらなかった悪意はなぜなのか?
子供を持たずに生きてきて、解らない事のまま終わるのだろうか。
個々のケースで事情が違うのは解る、が、人間ひとりこの世に誕生させて、何も解らずオギャーと生まれた子供そのものに、なんの罪があったのだろうか。
そういえば、昭和63年後半だったか、井上陽水さんがテレビコマーシャルで、車の窓から「皆さん、お元気ですか」と語りかけていたが、
ある時期から声がカットされ、口パクになっていたっけな。天皇陛下のご容態が良くないからと自粛、なんでも自粛ムードだった。
お若い方には、何の事か解らないと思うが。まだバブル全盛期の中の自粛という、不思議な雰囲気だった。
話が前後したり飛んだりするが。
昭和63年の大みそかから年が明けて、まだ昭和64年元旦だった。誰も元号が変わるなんて思ってなかった。
1月7日までは昭和64年だった。そして昭和天皇後崩御の発表をテレビで見た。1月8日から、新しく、元号が平成に変わった。
1つの時代が終わって、また1つの時代が始まるんだな、そんな事を思っていたのが30年半前か、と思っていたら、
今年は5月1日から令和元年。20代後半だった私も50代後半になってしまった。
けれど、特に戻りたい時期もなく、これからオジサンからおじいさんへ年を取るんだな。
4人それぞれに色んな事があったし、これからもあるだろう。
子供の頃に良い思い出がないからか、本当に落ち着いた今が、あの結婚前後の頃と、人生で幸せを噛みしめられる2大時期かな。
やがて、湾岸戦争で、日本の好景気までひっくり返ってしまった。
令和の今ほどでないにしろ、ゆっくり不況の波が押し寄せて、店は潰れるわ、銀行は金貸してくれないわ、皆、財布のヒモを閉める様になった。
確か平成元年の4月1日から消費税が3%で導入された。いちいち税金払うくせなんかなかったので、みんな文句言ってたが、
8%の今や、今度10%(1割)になる事を考えたら、3%はまだマシだったな。
それでもバブル時代の金銭感覚の人は、財布のヒモなんてしめなかった様で、その後、キリギリスになって行った気がする。
どうしようもない事は、どうしようもなかった。
妻も、妹も、結婚してしばらくは働いていた。何しろバブル全盛期で、パートのおばちゃんにまでボーナス百万円出てた時代だった。
私や弟君の収入で、それぞれの家庭が、大人ふたりなら生きていけると、専業主婦になってもらった。習い事がしたかったらしていいよ、と話したが、
妹と妻は、二人でお茶したり出かけたりして、十代の頃出来なかったお洒落をしたり、それも本当に値段の安い物を工夫して、女の子二人、可愛くしてたっけな。
妹の方が先に、初めの方のレスに書いたアイドルグループ、光ゲンジさんのファンになり、妻も影響を受けて、コンサートへ行ってたっけ。
私は、スターさんに焼きもちも何も、妹が、妻が、自分の人生に、こんな時間が持てるとは思わなかった、と、楽しそうに生活している姿を見るだけで良かったんだ。
まぁ、当然、弟君と二人で酒を飲む機会が増えたが。
妹が、そのスターさんのナントカいう、真ん中の男の子のファンで、妻は、痩せてスラッとした、髪型が半分前に、半分後ろにしている人のファンだった様だった。
弟君は、ねぇ、お兄さん、僕らという夫がいるのにね~。と、ちょっと焼きもちやいてたかな。
まぁ今のうちだけだろうし、はじめは二人ともコンサートなんてハードル高かったみたいだったのが行ける様になったんだ、
こんな人生経験もあっていいんじゃないかな、みたいな事を話してた。懐かしいな。
こんなゼリーの話でも、4人で集まると盛り上がった。嬉しかったんだ。
妹は、お兄ちゃん、お姉さんにゼリー1個買ってあげてね~などと言い、妻は、妹ちゃん、ありがとうね~と話しているんだ。
こんな他愛もない会話が楽しかったんだ。本当に、楽しかったなぁ。
義理弟君が、「家族っていいですね」とポツリと言った。
もちろん弟君には何の悪気もなかった、が、みんなその言葉を聞いて、4人とも黙ってしまった。
弟君は慌てて、あ、すみません、せっかく楽しかったのに、と謝るので、皆、いえいえ本当に、家族っていいものよね、と話した。
弟君も親の愛情を知らずに大人になった人だったから、気持ちが解るんだ。
あの時は全員20代だったな。バブルがどうより、私は妹を含むこの4人に繋がりが出来た事を、神様に感謝したんだ。
正直、両親と暮らしていた時は、神様を恨んだ。子は親を選べないけど、親(ひと組の夫婦)は、子を作らないという選択肢があったじゃないか、と。
4人は少なくとも、子供を作ってその子に愛情を注げなかったらどうしよう、という恐怖心があった。
どうする事が子へ愛情を注ぐ事なのか、知らないからだったし、自分たちの様な思いをさせたらどうしようと常に、親と子の関係に悩み、
他人さんを見て子供を育てるというのも違うと思った。
新居生活を始めて2~3ヶ月経った頃だろうか。昔の、それも食べ物の事を覚えている私もセコいかも知れないが、
好き嫌いはきちんと話しておいた方が良い、と学習した出来事があった。
冷蔵庫に、パイナップルゼリーとピーチゼリーが入っていた。私は妻がパイナップルが嫌いだとは知らなかった。自分の中ではパイナップルゼリーが1番美味しい、ピーチゼリーは2番目、だった。
そうだ、美味しい方のパイナップルゼリーを妻に取っておいてあげよう、と、風呂上がりに、「ゼリー1個もらうよ~」と言って、
私が上がった後、妻が風呂に入っている時に、ピーチゼリーを食った。
風呂から上がった妻が冷蔵庫を開け、「あ~、ピーチ取られた~」と笑いながら言うので、へ?取られたって?と思い、妻に聞くと、
自分はパイナップルが嫌いで、桃は大好きだと話した。つまり私は妻が楽しみにしてた方を食った訳だ。
いやいや、パイナップルの方が美味しい方だと思って嫁ちゃんに取っておいたんだよ~、と話して初めて、
お互いの好き嫌いが解った。そんなやり取りも、そんな事あったね、と今、30年前を思い出して、懐かしく笑い話になっているんだ。
お金の話を時々書いてなんだが、あの昭和63年(1988年)頃から平成元年(89年)、平成2年(90年)位までだったろうか、
銀行に、変な話、百万円預けると、利息が6~7万円付いた。本当に、今からは想像つかないだろう。300万も持ってたら、1ヶ月分の家賃込みの生活費位の利息だった。
それでも、妹夫婦も私達夫婦も、特別な贅沢はしたくはなかった。
妻の、女友達さんから聞いた話だが、東京の六本木という洒落た街に、よくおめかしして出かけていたらしいが(妻はそんな友達を特に羨ましがっている様にも見えなかったが)、
若者が集まってお酒を飲むお店で、ビンゴゲームが流行り、1番の人の賞金が、現金200万円だったとか。はあ~。その人がその現金をバッグに入れて帰宅しても、誰にも狙われもしなかったとか。
なにもかも泡となって消えてしまった昔の話だ。私達4人の誰も経験のない事で、逆に今の様に1円でも10円でも大切に生きる時代には、そんな狂った金銭感覚は身に付いてなくて良かった。
暗い話ばかりも気が滅入るので、前向きな話も書いてみたい。
まず、独り暮らしになった2DKに、彼女は、迷惑じゃなかったら、そこで一緒に暮らしたいと言ってくれたので、そうしようと思ったら、妹に、お兄ちゃんの無神経!と注意されてしまった。
お姉さんは新婚の花嫁さんなのよ、妹の私と暮らしてた所より、新居の方がいいじゃない?と。
ああ、そうか。そうだな。妻は、引っ越すとお金がかかるから、ここで充分よ、と言っていたが、やはり、新居の方がいいだろうと思い、
叔父さんからもらったお金もあったし、私たちも彼女の希望もあって結婚式は挙げないで、
妹夫婦と同じ様に、入籍、ウエディングドレスの写真、あ、プロポーズと指輪交換が抜けた、で、結婚しましたのハガキを出す、になり、
少し広めの2DKに引っ越す事にした。結婚って忙しいな。それでも私は昔、妹と親から逃げた後のヒヤヒヤした事を考えれば、こんなに堂々と未来を考えられる引っ越しは、幸せだと思った。
妻も夢を描いてくれている様で嬉しかった。
あの頃と、50代後半の今が幸せだ。
私は、長い文章を長期に渡って書いた事がないので、500レスも書けないかも知れない。
でも、出来るだけタイトル負けしない様、この令和まで書きたいと思う。
昭和ははっきり何年か思い出せるが、平成になると何年だったか少し怪しい。
妹夫婦や私たちの笑い話なども書いてみたいと思う。
けれど、まだ若かった私は、この時気が付かなかった。妹も幸せな話しかしないので、
それが私へ心配かけまいとしてあえて言わなかった事とも思わず…。
いや、平成の30年間が不幸だったとは言わない。が、妹夫婦も私たちも、
温かい家庭を知らない者同士が結婚するというのがどういう事なのか、結婚にどれだけ夢ばかりみていたか、現実を突き付けられた。
お互い、相手に精神的な要求を強く持ってしまい、両方が甘えてしまう側になり、
それもいけないと反省して、相手の要求に答えてあげようとするとズレが生じてしまう。
お互い、私は我慢した、私は譲った、と、褒める意識が自分の方を向き、相手は甘えた、相手は自分を通した、と否定する意識が相手の方に向けられてしまう。
これは、ひっくり返せば自分と相手を入れ替えてもそのまま当てはまる事なのに。若い時は、融通が利かない。
それでも人間、毎日毎日気を張って生活しているわけではないので、
なんとかその年齢なりに、下手くそなりに、ケンカしたら仲直りをしながら、31年、夫婦をして来られた。
お互い、これだけは、を1つずつ約束した。妻は、お願いだから話しかけたら無視しないで、仕事でどうしてもの時は合図してほしい、だった。
私は暴言を吐いたり人の悪口を言ったり嫌みな事はしないでほしい、だった。
お互いの内容は、結局、親への願望だった。悲しかったが、それを守る事で人を信用出来たのだった。
私たちはお付き合いをし、翌年の昭和63年に結婚した。妻の方のご両親(ご家族)に挨拶に行った時、とても感じ良く接してくれたので、
妻の言う様に、無視されて生きて来たなどとはすぐには信じられなかったが、
私に笑顔で話して下さっても、並んで横にいる妻(彼女)に笑顔でも、
目が合ってない時や、とっさの時のご両親の彼女への態度ですぐに解った。私が居なかったら、失礼だがこんなに愛想のいい人たちじゃないんだろうな、と。
彼女がしばらくご両親ご家族に私を会わせたがらなかった理由も、なんとなく解った。
親から逃げて来た私には、寂しそうな彼女の方が本当の姿なんだろう、とはっきり解った。
結婚の承諾はあっさりといただいた。娘をよろしくお願いします、とは言っていたが、
あのご両親の笑顔は、こんないらない娘、さっさともらってくれ、という雰囲気だった。
一礼して、彼女の家をおいとまして、帰りに歩きながら、彼女と手をしっかり繋いで、幸せになろうな、と伝えた。彼女も涙目だった。
この出来事が大体、昭和62年になる頃だったか。妻(まだ彼女)は、そんな家庭で育ったため、結婚に良いイメージがなかった。
よく妹に、結婚に踏み切れたのはなぜ?と聞いていたらしい。妹は、たったひとり、真剣に好きになった人に、もし自分の過去も理解してもらえたら、
その人と夫婦になって、生きていきたいと言った様だった。ただ、両親の様な夫婦にだけはなりたくないとも言っていた様だ。
ここに出てくる4人とも、子供が嫌いな訳ではなく、子供のいる健全な家庭を知らないまま大人になってしまっただけだった。
妻から聞いた事。マクドナルドに入った事ない(家族はあるらしい)。妻以外の兄弟姉妹とご両親だけで旅行に行って、妻だけ留守番させられた。
ウン人家族なのに、出前のお寿司を取ると、妻の分だけない。家族全員、妻を無視して来た。学校行事に親御さん来た事ない。
担任の先生の家庭訪問と三者面談の時だけ初めて、妻の事を先生と話す。
お前なんか生まなきゃ良かったと、面と向かって何度か言われた。修学旅行はどの学校の時も行かせてもらえなかった。
もういい、もうそんな辛い話、しなくていい、こんな私ら兄妹でさえ、修学旅行には行かせてもらった。
妻はこれらの話を笑ってするんだ。でも目は真っ赤なんだ。真っ赤なんだよ。気が付いたら妻を、泣きながら抱きしめていた。
妹だって1度位は少ない小遣いでマクドナルド位は行った事あった、私も、殴られはしたけど、友だちとハンバーガー食った事位あった。
私は、訳を話さずに、妹夫婦と妻(まだ結婚前)と4人でマクドナルドへ行った。
妻は、嬉しそうにはしゃいだ。何を注文していいか解らなかったらしいので、妹と同じ物を注文した。
楽しい時間を過ごした。4人と言えば、花火大会以来だ。あの時のハンバーガーは今でも妻は忘れられないと言ってくれるんだ。
それからも時々、妻とマクドナルドへ出かけた。
で、まあ色々あって結婚したんだ。ここは省略で。
いや決して妻を省略しているのではなく、プロポーズとか、人の話は聞きたいが、自分の話は顔から火が出るので、そのへんはそういう事で。なんか変な汗が出るな。
妻は、何か、やはり温かい家庭で育った人とは違うものを感じたんだ。ニコニコしていても、寂しそうなんだ。他のヤツには解らないだろう。
私の方が惹かれて行ったんだ。この女の子、妹とはタイプは違うが、何か心に闇を抱えているな、と思ったんだ。多分、そういう事はそういう目にあった人にしか解らないんだと思った。
妹の方が先に結婚したが、私はなんだか親心ではないが、ひと安心だった。
2DKの独り暮らしの家に帰ると、日に日に自分がだらしなくなって行ったのが分かった。部屋はとっ散らかるし、洗濯もゴミ出しも、決まりは守ったがいい加減になって行った。
今までは、妹の分も、と何かをチャチャッと作ったりしていたが、ひとりだと、なんでもよくなる。
妹は、旦那と新しい生活を始めた訳で頑張っているだろう、が、私は外でメシ食って帰宅すると、シャワーも適当、歯みがきも適当になってしまった。
そしてそれはすぐに妹にバレた。お兄ちゃん、ちゃんと食べてるの?と、よく弟君と3人で食べようと呼ばれたり、昼間、部屋の掃除に来てくれてた。
これじゃいけない、と妹や弟君の生活を考えたら、しっかりしなければ迷惑をかけてしまう、亡くなったあいつらみたいになってしまったらダメだ、と、また生活態度を改める様になったんだ。
そんなこんなしているうちに妻と出会ったんだ。
義理弟君は本当に人を大切にする人だ。月3か週1位で私に電話をくれる。妹が言わせてるのかとも思ったが、どうもそうではなかった。
私も弟が出来た様で嬉しかったし、おそらく、人に聞けない様な事でも、弟君がストレートに、こんな時、世間の人はどうしてるんでしょうね、と、頭を掻き掻きポンと言ってくれるので、
私も変に気負わずに、知ったかぶりをする必要もなく、本当だよね、僕もわかんねーや、と笑い飛ばせた。
妹も私と弟君がアホみたいな会話をして笑っているのを笑顔で見てた。
花火大会と、あいつらから逃げ切った引っ越しの成功と、妹の旦那と、人生、思い返せば楽しい事もあるんだ、とあらためて思ったんだ。
そして今、30年以上連れ添ってくれた妻。自分はあんなにニコニコ出来ないって位、妻はどんなに辛くても、笑顔なんだ。結婚前が悲し過ぎた。妻が今、幸せなら私も幸せだ。
結婚をすると、兄妹の絆も違って来る様だが、世間の皆がそうなんだろう。もちろん、仲が悪くなるとは限らず、新しい価値観が入って来るんだ。
それは、相手もそうなんだろうな。
2DKに私ひとりになってしまった。が、妹が幸せなら、と、出来るだけこちらからの連絡は我慢した。世の中の姑さんの気持ちってこんな感じだろうか。
まあ、私らの母親とかいうあの女が姑だったら、世界中のお嫁さんは嫌だったろうが。
レス50に書いた様に、私もあるところである時期、今の妻と出会って色々あって結婚した。
照れが半分と、妻の方の実家家族は今でも80代のご両親を中心に皆さん健在なので、書く訳にはいかないため、私は昭和63年前半に結婚した、とだけ書かせてほしい。
本当に、妻も、妹の旦那も、親で苦労したんだ、とつくづく思った。
あちらのご家族にも妹がまず挨拶に行き、次に私しか身内がいないので私と挨拶に行った。
義理弟の家族構成やどの立場の人がどうとは書けないので、少し悲しいが割愛する。
妹の結婚は、プロポーズをされ、指輪交換をし、新居を決め、ウエディングドレスの写真を撮り、婚姻届を出し、式は挙げず、前のレスにも書いたが、私に遠慮して、式のために取っておいたお金は頑として受け取らず、
結婚しましたという印刷ハガキを色々な人に送った。それで妹も義理弟も本当に幸せそうだったんだ。
妹ちゃん、良かったね、と妻は祝福の言葉を言ってくれた。
「へ?」というのが、失礼だが第一印象だった。
小柄でちょっと頼り無さそう(義理弟よゴメン)な、でも人当たりだけは本当に感じの良い印象だった。
なんだかいつも申し訳なさそうにしている、欲の無さそうな人で、間違っても親父とは正反対な人だった。あ、頑固な私ともちょっと違って、
妹は男性をよく見る様に、幼少期から身の危険を感じながら育ったのが解る様な、そんな男の子だった。
妹さんと結婚を前提にお付き合いさせて下さい、と頭を下げた。妹も一緒に頭を下げたんだ。
いつまでも頭を下げているので、あの、頭を上げて下さい、と言うと、恐る恐る頭を、妹と同時に上げたんだ。
見ると、彼も妹も二人とも泣いてる…いやいや、泣きたいのは私だ、とも言えず、
二人それぞれの、一緒になりたい思いを聞かされて、そして彼は、自分が立派な家庭なんかで育ってない事を申し訳なさそうに話し、
解ってくれた妹に感謝していますと何度かこみ上げてくるものを押さえながら必死に話す姿を見ていたら、私も泣けてきてしまった。
彼はいわゆる、親の悪口を言う様な人ではなく、あくまでも妹が自分にもったいない位の家庭環境だった事が伝わって来る話し方しかしなかったが、私には充分過ぎるくらいだったんだ。
妹を、よろしくお願いします。
私は彼の、話をしてない時の顔を時々見ていたら、妹が彼を好きになったのが理解出来たんだ。
未来の妹の旦那になる人に会う日だ。ゆくゆくは結婚したいと思っているけど、両親の様な家庭を築きたくはないと、妹ははっきり言った。
子供を育てる自信がないと言うより、子供のいるまともな家庭が分からない私たちにとって、それを理解してくれる人なのだろうか、
急に心配になったが、妹の話では、全部話した上で、お兄ちゃんに会わせて下さいって言ってるの、との事だった。
約束の時間に約束の場所へ行った。
妹は、家賃の安い所でいいよ、と言い、私もそんなに贅沢な暮らしをするのは違うと思い、
場所がバレるかも知れないので家賃は書けないが、2DKに入居した。私たちにとってはお城だったんだ。
私も妹もさらに士気が上がり、働いた。
そうしてお金をかけずにお洒落をする様になった妹も、兄から見ても綺麗な女の子に成長していた。
そしてある日、妹は、私に会ってほしい人がいる、と言って来た。
ちょっとムッとしたが、来るべき時が来たと思い、妹の会ってほしいヤツとやらに会う事にした。
私の頭の中で、中森明菜のミ・アモーレがぐるぐる鳴っていた。
慌てて引っ越す事も無くなって、しばらくはそこで生活していたが、いちいち妹の着替えや風呂に、お互い気を遣うのも、もらったつい立て?で仕切って寝る生活も、
そろそろ新しくしてもいいんじゃないだろうかと思い、妹と話し合って、引っ越す事にした。
昭和も60年に入って、いよいよ景気が良くなって来た事に、世の中の人たちが自覚する時代だった様に思う。
知人のお宅は、昭和50年代前半に、2500万円で購入したマンションが6000万円で売れたとか言ってた気がする。驚いた。
私も解体屋の仕事で(今の相場は分からないが)、まじめに働いて、月収30~50はもらってた。
金の話ばかりでなんだが、生きていくのに必要な事、今の生きにくい時代との差を書いておきたいからなんだ。
妹が勤め出し、今まで家事を全部やってもらっていたが、疲れるだろうから、当たり前だが分担した。
私の世代はギリギリ、男が家事なんて、と、男も家事は協力すべき、のあいだの世代だった気がするが、
あいつらと暮らしていた時の妹の苦労を知っているので、分からない事を妹に聞きながらなんとかやった。母親とか言うあの女は、どれだけ妹をこきつかっていたか分かった。
もちろん、母親が娘に家事を教えるのは大切な事だというのは分かる、が、それは愛情あっての事。
あの女はただ、何もかも妹に押し付けていただけだったのが解った。
妹は文句も言えなかったんだ。言うと親父にビンタされたからだった。
もっと幸せな気持ちで家事を教わりたかっただろうな。お互い、将来結婚する人とは、家事も、食卓も、笑顔でつとめたいな、とつくづく思ったんだ。
話は戻る。私も妹も、叔父からのお金を大切に銀行口座に入金して、本当に困った時に使おうな、と話した。
あの人らが他界して、私たちは誰はばかる事もなく生きていけるんだと、本当に長年の呪縛からとかれた気持ちだった。
妹も働いてお金を入れたいと言い、会社訪問に精を出していた。
当時は若い人は優遇された。私は変わらず解体屋を続けたが、
あの時代はバブル全盛期に向けて、日本はちょっとおかしくなってた気がする。
会社を訪問するだけで、往復の交通費から昼の弁当を会社が出してくれ、さらに追い風の会社などは、訪問して下さった謝礼として、1万円くれたりと、今考えたら本当におかしくなりそうな位、景気が良すぎた。
久しぶりに最初の勤め先で一緒だった同い年のヤツに会って聞いたんだ。
ズルい奴になると、その会社に就職する気もないくせに、謝礼の出る会社を調べて60社も訪問して、60万円ぼったくり…。働く意欲無くなるだろうに。
妹はそんな人間じゃないので、比較的、そんな時代でも浮かれてなさそうな良心的な会社を、あたりを付けて訪問し、その中の一社に採用された。
この時も就職祝いに、靴を1足プレゼントしたっけ。
この会社で、妹は未来の旦那に出会うんだ。
話は突然飛ぶが、妹が30過ぎた頃、私は妹に注意をされてしまった。
お兄ちゃん、いくら義理姉さんが優しくて良い人だからと言って、姉さんの前で、妹、妹、言ったらダメよ、姉さん、気悪いわよ。と。
てぇ~。妹に恋愛感情なんてねーよ、気持ちワリーな。と言ったが、妹の言う通り、1度、妻が珍しく悲しげに、
あなたと妹ちゃんは、特別な絆で結ばれているのね。私の入る隙ないかな?と本当に泣いていた。
私は慌てて、違う、好きで君と結婚したんだ、あんな家庭じゃなかったら、妹との絆なんて薄かったかも知れない。向こうにも旦那がいて、別の所帯なんだ、だからそんな事言わないでほしい。と告げた。
妻にも妻の、家族構成があり、色々があった訳で、お互い、生まれた家庭で生活するしかなかった訳で、その結果が今なんだ。私は君と結婚出来て本当に幸せなんだよ。と何度も何度も、兄妹と夫婦は別、と訴えた。
なんとか妻は解ってくれたと思う。50を過ぎた妻と妹は、今も仲良く二人でカラオケ行ったりしているんだ。
私は、人と人が仲が悪くなる事に、死ぬほど嫌悪感を持ってしまうのだった。
その後、何回か難しいやり取りに出席させられ、仲の良い家族だったらどうしてたのか、などと考え、
これで終わりです、となり、それから私と妹の私物で持って出られなかった学校の卒業アルバムなど、持ち出して良い物を確認してもらい、
それらを持って叔父さんに頭を下げて妹とアパートへ帰った。その後、あの家や場所がどうなったのか解らない。
1ヶ月以内に叔父さんから現金書留が2つも届いた。50万円ずつ2つ入ってた。驚いた。
甥君たちがあまりにも欲がないのでね、叔父さん気の毒になってな、これは相続分でないから、安心して受け取りなさい。将来の結婚資金にでもしなさい。また顔見せてな。と手紙が添えてあった。
妹は手紙を書き、私は電話で丁寧にお礼を言った。
例え叔父さんが何千万円相続しようが、私も妹も、あいつらの物などいらなかったので、こんな心遣いをしてくれた叔父に、泣けた。
四十九日の法要が過ぎた頃、叔父さんが私に、実家に来る様に言うので、妹と何年かぶりに、あの逃げ出した家へ行った。
家や土地の権利書だか登記簿だかなんだか、当時20代前半の私にさっぱり解らない話を、叔父は話して来た。
あの、僕たちは家を勝手に出たので、遺産相続とか、いいです、お金もいりません、と、妹とうなずき合って話した。
叔父さんには葬儀屋の手配からお寺さんへの支払いまで、相当な金額、立て替えて支払ってもらったりと面倒かけたので、
叔父さん、全部叔父さんが相続して下さい、と、法律を知らないアホな私はその様な事を言った様な気がする。
家や土地、また現金など両親がいくら持ってたか知らないが、私たちは1円ももらう気はなかったので、その叔父に丸投げする様な形になってしまったが、
税理士さんだかと話し合って、私はなんだか書類に名前を書いてハンコついた。妹も同じだった。
叔父さんは面倒事なのに、本当に要らないのか?と何度も聞いてくれた、私らは、相続なんてしたくなかった。
しばらくは力が抜けて、引っ越しを考える気力も無くなっていた。
妹もしばらくは笑えずにいた。私はこんな時も妹が心配だった。
それでも、あの人らの人生、何だったんだろうと考えた。私と妹という二人の子が出来、気に入らないと殴り、大人になったら金づる扱いをし、
両親は幸せだったのか?とても幸せそうには見えなかった。
ただ、ちきしょう、と思った。最後まで勝手だったとしか思ってない。
私の稼ぎでどうにかもう少しマシな所へ引っ越せる様なメドがついた頃、あいつらの家から逃げる引っ越しの際、車を貸してくれた友人から連絡があった。
俺君、落ち着いて聞いてくれ。ご両親が亡くなった。
え?なに、なんですか?
私はさすがに1回で事態が飲み込めず、聞き返した。
両親が亡くなった理由は、書けない。交通事故か病死か飛行機事故か事件か、どれかだと思ってもらえれば。
さすがにあんな人たちでも亡くなったと聞いて、あ、そうですかとは言えなかった。
妹も知る事となり、警察の人に色々聞かれたが、初めの方のレスに書いた様に、
私たちは、家庭として機能していない様なところで暮らしていたため、早く妹と家を出たかった事、
ここの住所は教えてない事などを正直に話し、特に疑われる様な事もなく、親戚が両親の葬式を出してくれたが、私たちは行かなかった。
非道に思うかも知れないが、いちいち書かなかった酷い仕打ちを思い出すと、とても両親の死を悼む気持ちになどなれなかった。
むしろホッとしたのだ。妹はわんわん泣いたが、私は泣けなかった。
後で知ったのだが、妹は相変わらず毎月お腹の痛い日があり、生理痛の薬を貯金をおろして買っていた。ちゃんと話して欲しかったが、
私には言えず、また、あいつらと暮らしていた時も妹は用品を、自分の小遣いで買わされてたらしい。
普通の事なのか、妻に聞くと、その用品はたいていの家庭では、初めの頃は母親が買って来ていろいろ教えるそうだ、
お小遣いで買ってたなんて、だそうだ。
違うかも知れないが、私が便所で用足したら、私の使うトイレットペーパーを自分の小遣いで買わされてた様な事か。それはずい分だな。
それからは、痛み止めの薬も生活費から買うんだぞ、と妹に話した。
女の子って、大変なんだな、と思った。腹痛だの出血だの、男性に必死に隠して、みんな辛い思いしてるんだ。いくら個人差があるとは言え、
男に毎月そんな事があったら、もっと神経質になってただろうな。
人生、後から知る事のなんと多い事か。
不思議な事に、あいつらが自分たちの事を探している様な気配も様子もなく、いなくなってずい分経つのに、
私や妹の収入の分、生活に困ってないのか、疑問だった。妹も同じ事を思っていた様で、
父さんと母さん今ごろどうしているのかな。とポツリと言った。が、ここが頑固な私と優しい妹の違いなんだろう、
私は、またあの生活に戻りたいか?と、ちょっと意地の悪い質問をしたら、妹もさすがに首を横に振った。
本当に、あいつらどうしてるのか、どうでもいいなりに気になった。まぁここがバレなきゃいいだけだが。
年が明けた。妹と二人暮らしも数ヶ月経ち、この間、妹は近くの図書館で本を読んだりして、家事以外の時間をつぶしていた様だった。
外で働きたいと言ったが、まだどこかであいつらに妹だけ連れ戻されでもしたらお互い嫌だったので、私が出来るだけ短期間に稼ぐから、
もっと違う所に引っ越そうと話し、妹には出来るだけ退屈しない様に、小型のテレビを買った。私もテレビを見るのは久しぶりだった。
そこを借りる時、私は成人になっていたが、保証人がいると言われ、両親は亡くなったので、と嘘を話すと、誰か必要と言われ、妹以外、身内はいないんです、と強気で話すと、
会社の上司か先輩でもいいと言われ、先輩に相談したら、「俺君の保証人ならいいよ」と、気立てのいい先輩がなってくれ、この人にも足向けて寝たらいけない、と思ったんだ。
色んな人に助けてもらってやっと妹と二人で暮らせる様になったんだ、一生懸命働いて生きなきゃ、と思った。
携帯などない当時、電話を1台入れるのがけっこう大変だったが、妹と連絡取る方法のためなら、どんな面倒な事も出来たんだ。
解体屋は仕事にムラがあったので、ない時は、別の現場で働かせてもらった。
この頃、妹は、松田聖子の「瞳は?ダイアモンド?」とか口ずさんでいたっけ。まだテレビは買えなくて、ラジオを1台家に入れた。
思い出した。確か、住民票に記載されている住所と、生活している場所、居所が違っても罪にはならないとか何とか、それを利用したのだった。
昔、私が小さい頃、親戚のお姉ちゃんを何ヵ月かウチで預かった様な記憶がある。子供には、何ヵ月がどの位か解らなかったので、2~3ヶ月かも知れないし、半年以上だったかも知れない。
あいつらが私たち兄妹にやたら優しかったので覚えていた。その間、その親戚のお姉ちゃんは住所変更などしてなかっただろうし、
私たちも車の免許など持ってないので、保険証もそのままだったが、病気やケガで、その保険証を使う事は出来なかった。
使うと、どこの病院にかかったか、あいつらにバレると思った。
おかげさまで妹も自分も病院にかかる様な事はしばらくなかった。
妹の通帳も2つ作っておいて良かった。別銀行の別支店の口座だった。片方をあいつらに知られていても、もう片方は知らない。
皆、友人や先輩からの知恵だった、私は本当に親以外の人たちには恵まれていたんだ。
しばらく妹には家事だけやっててもらった。助かった。
家具も、要らなくなったという人からもらったり、冷蔵庫と洗濯機だけは安くて小さいけど新しいのを何とか私の稼ぎで買った。
妹と二人、やっと笑って暮らせる様になったんだ!
まず私が引っ越し先を探して妹と見に行って、納得したらそこに決める。
私と同じ方法で妹に会社を辞めてもらう。あいつらから逃げるために二人で引っ越すので、勤め続けてたら、会社まであいつらが来て、あとでも付けられたら居場所がバレるからだ。
あの頃は、今とは法律は多少違っても、住民票の問題などあったが、友人の知恵を借りて、どうにか私たちは、
実家に分からない様に二人だけで引っ越す事に成功したんだ!
家具などを持ち出せなかったので、本当に身の回りの物だけを、あいつらが留守にしてる間にボストンバッグやデカイ紙袋につめて、友人の車で家とおさらばしたんだ!
友人には、世話になったので、まとまったものを渡した。恐縮して受け取ってくれたが、とにかく親の知らない友人だったので、
友人の名前も住所も勤務先も知らないあいつらに、私たちの居所が知られる事はなかった。
正直、1年も妹の収入から4割もあいつらに渡すのは私は嫌だった。少なくとも愛情を注がれて来たならまだしも、
邪魔者扱いされて来て、今度は金づるみたいに思っている様なヤツらに、妹がせっせと働いた4割を当たり前の顔して引ったくって受け取る様なヤツらには、私が耐え難かった。
早いとこ出よう、と妹と段取りを立てた。
晴れて妹は就職、私はお祝いに腕時計をプレゼントした。どれがいいか解らなかったので、日曜日に一緒にデパートへ行って、
あんまり高いのは買ってやれなかったが、妹も遠慮していたので、勝手に選ぶゾ~と言ったら、正直に欲しいのを言ったので、それにした。私にしたら、安かった。
妹は本当に喜んでくれて、ずーっと腕にはめて嬉しそうにしてたんだ。私もそんな妹が、可愛かった。
家に帰ると、あの女はムダな買い物してとか抜かしてたが、うるせーやと無視した。
妹の就職先が決まり、あいつらに報告をした。
高卒の新人は、身元保証人が必要なため、すぐには私たちの計画は実行には移せなかった。
妹は、最低1年は、そこで頑張ると言ったが、やはり女の子の月収から親に4割は厳しい、その頃の私はかなりまとまった金もあったので、
妹には普通に働いたらあいつらに4割渡して、私が内緒で4割分を妹の口座に入れる事にした。妹が直接作った口座と別の口座に。
初めは妹は遠慮していたが、私が勝手に入金する事にした。大した額ではなかった。
あいつらのいないところでのやり取りだった。
この頃、毛虫退治の際、何ヵ所か毛虫に刺されて痒くて困った。
救急箱の中には虫さされの薬はなかった。先輩に教わって、仕事帰りに塗り薬を買おう、と思っていた時だった。
妹が、ただでさえケチな親から渋々の顔でもらってた少ない小遣いをはたいて、私に虫さされに効く塗り薬を買って来てくれたんだ!
私は、ありがとう、を言うのがやっとだった。涙が出た。
落ち着きを取り戻して、もうこんな高い薬、買わなくていいから、自分のために小遣いは使え、な、と言った。
妹が悲しそうな顔をしたらいけないと思い、これは大事に使うからな、と、その日からせっせと塗った。
やがて毛虫の時期も過ぎたが、あんなヤツらからどうしたら、妹みたいな心優しい子が育ったんだろうと、不思議だった。
お世話になった会社の人に、家族で遠方に引っ越す事になったので、と、心苦しい嘘をつかなければならなかった。
2ヶ月後に退社し、前から口をきいてもらっていた、家の解体作業の仕事に就いた。百匹近くの毛虫退治だのしてしんどかったが、月収は前の会社よりかなり良かった。
あいつらは、デスクワークから力仕事に変わって、私が日焼けしようが、多少、家を出る時間や帰宅時間が変わろうが気にもしなきゃ何の質問もなく、
唯一、「あんた昇給はないの?あったら家に入れる金額もきちんと上げてよね」だった。
クソ両親だと思った。いや、両親だなどと思いたくなかった。
何年か経った。妹が高校3年生になった。妹も卒業したら働く、とあいつらに伝えていた。
あいつらは、金が入って来る事ばかり考えていた様で、「あ~あと1年学費払わなきゃいけないのね~。」と相変わらずの嫌みしか言わなかった。
けれど私と妹は、密かに計画していた。妹が就職が決まったら、とにかくこいつらから逃げよう、
最初は二人合わせてもボロアパートの狭い所にしか住めないだろうけど、
住所だけは教えずに、ひっそり二人だけで暮らそうな、と。
そのためには、まず私が今の会社を辞めなければならなかった。
私は結婚しているのに、妻より妹の話ばかりで、妻にも何度か申し訳ない、と言ったが、
妻は、いいよ、私と結婚してくれたんだし、妹ちゃん好きだし、私の身の上話も聞いてくれたし、私なんにも嫌な事ないよ、親と生活してた地獄を思えば、今は本当に幸せだよ、と言ってくれた。
私にはもったいない妻だ。妹に旦那がいる様に、結婚したら私は妻を大事にしないとバチが当たるな。
18才の私にとって、妻と知り合うのはずっと後の事だ。
妹は、申し訳なさそうに、あいつらのいない所で「ごめんね」と目を真っ赤にして謝るんだ。
私は、謝らなくていいから、堂々としている様に言った。だいたい自分たちで4人家族を望んだんじゃないのかよ、と昔からあいつらには腹が立っていた。
妹は小、中、と暗い顔をしてたが、高校生になると、無理にでも笑顔でいる様に変わっていった。
妹の笑顔には救われた反面、酷い家庭で育ったと思われたくなくて、無理に笑ってるんじゃないかと、複雑だった。
あの頃は、バブルの走りの頃だったろうか。まだバブル時代ではなかった。
が、消費税がなかっただけ有り難かったんだな、今の若い人、大変だな、私は政治家じゃないし、どうしてあげる事も出来ないが。
給料をもらうとさっさと6割を口座に入れて、4割を現金で封筒に入れて、あいつら二人がいる前で、きちんと渡した。
あいつら二人、金が入る時だけニコニコしやがって、それも初めのうちで、何ヵ月もすると、「あー、これも妹の学費に消えるんだわねぇ」と嫌みを言う。
私は妹が悲しそうな顔をするのを見てられなかったので、「やめろよ!」とあの女に怒鳴ってやった。
親父は相変わらずにらんでやがる。嫌な家族だった。
私は高校を卒業するとすぐに働いた。高校の担任の先生が見つけて来て下さった、ちゃんとした会社だった。
とにかく必死で働いてお金を貯めて、妹と1日も早く家を出ようと思ったんだ。
あいつらは、私に給料を全部家に入れろとか言いやがったが、それは拒んだ。そりゃ生活費を1円も入れないってのは違うと思ったから、
将来のために貯金したいと口座を作って、自分としては7:3の希望だったが、あいつらが5:5とか抜かしやがって、頑固な私は働く意欲なくなってクビになったら1円も入って来ねーよ、と強気で言ったら、
なんとか私6:家4になった。芸能事務所じゃないが。
私が社会人1年生の頃、妹はまだ学生だった。(中、高の何年生かという事だけにしておきます。)
花火大会は、昭和の50年代半ばの話。かれこれ40年近く前の出来事なんだなぁ。
書きたい事と書きたくない事があり、なかなか時系列順に書けず、文章も下手くそだし、話があっちこっち飛ぶと思う。
自分の事だけならいいが、妻や妹の旦那やそれぞれの家族の事は、人物が特定される様な事は書けないので、
話にまとまりもないと思う。ただ吐き出したい。みんなそれぞれに人生があったし、今の生活に落ち着くまで修羅場もあった。
そのほとんどが家族が原因で、人の身の上の話の方が自分の事より大変だったんだな、とつくづく思った。
楽しかった事もない事もなかったか。花火大会を妹や友達と見に行った時は楽しかったなぁ。
私と男友達、妹と女友達で花火大会を見に行ったんだ。ポケットには千円は入れてた。
空高く上がる花火の迫力と見事な美しさとで、4人とも、「わぁー!」と歓声をあげて見ていたっけ。
花火を見ている間は、毎日の嫌な事は忘れられた。ちょうど今位の季節だった。
人混みではぐれない様に4人つねに一緒だった。そんな事も嬉しかったんだ。
もうひとりのヤツに、お互い金持ってないけど、女の子にはお金使わせないであげよう、と話し、そいつもそうだな、って顔してくれた。
4人でたこ焼きを食べた。4人ともなんだか楽しくて、同じ物食って楽しいって、幸せだな、と思った。
2つのかき氷を女の子二人と男二人で分け合った。その時の雰囲気があまりにも楽しかったので、幸せな時間だったんだ。
あとはヨーヨーを女の子二人に買ってあげて解散だった。
もっといいものを買ってやりたかったが、妹は帰る道々、嬉しそうにヨーヨーありがとうね、と明るい顔をしてた。
花火大会は今でも本当に楽しい思い出だったんだ。
家が見えて来て、急に暗い気持ちになった。
そんな家庭で育った妻でも、いつもニコニコしていて、いいよ、いいよ、と遠慮や我慢しても不満な顔を見せないんだ。
妹ちゃんの方が辛かったと思うよ、と言ってくれる。
普通、私が高校生にもなったら、力で乱暴な親父を殴り飛ばす位、出来ただろうに、と思われるが、
もしそんな事をしようものなら、親父は「お前には何もしないぞ」と低い声で脅し、次に妹の方をギロッと見る。
妹だけはなにがなんでも私が守らなくてはいけない。親父には逆らえなかった。何度、拳を握りしめただろう。
母親とかいうあの女は、文句を言う時以外は私と妹とは、目を合わせようともしなかった。
私や妹がちょっとでも文句を言うと、「お父さんに言い付けるわよ」と吐き捨てる様に言っては、ニヤニヤしやがった。女親でもぶっ飛ばしたかった。
早く妹とこの家を出ようと思った。
人間、どんなにしんどかった惨めな話でも、人に話す時は笑って話すものなんだ。
妻も、「お赤飯炊いてもらったならいい家庭じゃない?」と言われそうだが、そこはそれ、結局、おめでとうと言われる事もなく、
妻を理由に家族が赤飯食えてラッキーといった雰囲気だったらしい。こういう事は、例え形だけでも「祝って」もらった側は何も言えないんだろう。
妻はそっちのけで家族は勝手に盛り上がっている様な雰囲気だったらしく、心が通ってない事をされると人間はすぐに気が付く。
けれど、妻は中学1年で、赤飯を目の前にして何も言えなかった、家族全員に無視されても、悲しかったと、ずーっと言えなかったんだ。
男の私には「そうか…辛かったんだね」しか言えなかった。あんな雰囲気なら赤飯なんていらなかったと話した。鼻の頭が赤くなっていたんだ。
酒が入ると、恐る恐る話していた親への恨みもハッキリと言える。
死んでくれてホッとした事、もう生き返って欲しくない事、義理弟も、テレビを見ていただけなのに、いきなり親父さんに殴られた事などを、目を真っ赤にして話してくれたんだ。
家族旅行なんてした事がないので、旅の仕方もよく解らず、妻と新婚旅行に行ったんだった。
働いてお金を貯めた。妹には結婚式を挙げさせたかったが、高いからいいと、ウェディングドレスの写真だけで、がんとして妹は、私のお金を受け取らなかったんだ。
義理弟は、500円の物でも大切にしてくれる妹をありがたいと言ってくれた。
そんな気持ちにさせてくれるのは、弟君なんだよ。ありがとう。
妹の旦那と、妻側の家族構成や家庭の事情は書けないので割愛する。
義理弟も人が好い。彼も辛かったろうに、私と会うと何だか弾んでくれる。嬉しい。
妹を取られた、などという気持ちにならない、欲のなさそうな人柄だ。
私たちの様に、親に憎しみの目を向けられて育った者は、他人に話せるものではないのだが、
どこかにとてつもない寂しさを抱えた者同士は、自分や相手を認め合える人とは仲違いをするのが怖い。
学生時代から、友達を失うのが異常にこわかったんだ。
親に見捨てられ、友達まで失ったら、こんな悲しい状況はない。
かと言って、友達を家に呼べる家庭ではなかった、だから人付き合いは気を遣った。妹もだろう。
お互い、子供を作らなかったから、なんでも「早く終わる可能性が高い」らしい。
そしたら互いに、終わったかな、と思った頃、お赤飯炊こうね、と約束したらしい。
詳しくは知らないが、仲のいい二人を見ているだけで幸せだ。
妹の旦那とも時々酒を飲む。昔、なかったものを取り返したい気持ちは同じだと思った。
妻は(照れくさいな)、「妹ちゃん、今からでもその日を覚えているなら、お赤飯炊いてあげるよ」と言ってくれたが、
妹は、あまりにも思い出したくなかったんだろう、「ありがとう、でも正確な日、覚えてないんだ、思い出そうとすると動悸と震えが来るのでごめんね」と話した。
妻は妹を泣きながら抱きしめてくれた。妹も泣いてた。
男はこういう時何も出来ないんだ。
妹に初潮?が訪れた頃だった。私は女の子のそういった事に、何の知識もなく、
結婚してから連れ合いに初めて、お赤飯を炊いてもらったと聞き、
妹がどれだけ酷い扱いを受けていたか知った。実の母親に「汚い」「汚すな」と怒鳴られていて、
お腹が痛い、と毎月言っても親は妹に「うるさい」としか言わなかった。
私は、お腹痛いのか?と聞いたが、兄にも知られたくない事だったんだろう、「何でもない」としか言わなかった。
連れ合いは、そんな妹の話を聞いてボロボロ泣いた。
連れ合いと書くより、妻、嫁の方が良いのだろうか。
こうして昭和から思い返してみても、個人的には、ひとケタの子供の頃にも、
10代にも20代にも30代にも、40代にも特に戻りたくはない。
50才の、落ち着いた年でいい。大体の自分の生きざま、これからの行き方がもう固まって来た今が1番穏やかだ。
若い頃ほど、違う人生があったんじゃないか、と悪あがきをしたが、この年ではもうない。
悪あがきをしている最中はただ苦しみもがいていただけで、良い事に気が付けないでいたと思う。
もったいない歳月の費やし方をしたものだ。
なんだ、こんな日記を書きたかった訳じゃなかったのに。
幸せになったと思っている。ただ、子供の頃、どんなお子さんでしたか?だの、ご両親は?と聞かれるのが嫌で、答えたくなかった。
あの人らが亡くなったと聞かされた時は、ホッとした。妹と、もうあいつらに苦しめられる事はないんだ、と、
目の前が開けた位の解放感でいっぱいだった。
私は親父によく殴られた。妹もよくビンタされて泣いていた。
どしゃ降りの雨の中、子供二人が外に立たされた事もあった。
よそのお宅に、傘を貸して下さいとお願いしに行くと、あとであの人らが傘を申し訳なさそうな顔で返しに行き、私ら兄妹が殴られた。
妹だけでも風邪ひかせたくなかった。あの鬼の様な人らは、なぜ私ら子供二人をこの世に誕生させたのだろう。
この場合、類は友を呼ぶ、があてはまるかどうか解らないが、
私の連れ合いも、妹の旦那も、聞けば悲しい家庭で育った様だ。
具体的な事を書く訳にはいかないので書かないが、世の中、いわゆる毒親に育てられた人はけっこういるんだと知った。
私は昭和の30年代後半生まれだが、今だったら私らの親とかいうあの人たちは、間違いなく児童虐待で捕まってただろう。
細かい事を書きたくないと言いながら書いているが。
今の気持ちは、階段をあと少しで60段、という所まで上って、ふっと振り返ったらずい分上ったな、といったところだろうか。
自分の頑固な性格があの人たちに似たのなら、ゾッとする。
ありがたい事に、私の連れ合いと妹が、ウマが合うらしく、私ぬきで遊んだりしてくれている。
妹の旦那も、こんな私をお兄さんお兄さんと慕ってくれるので、嬉しいんだ。弟が出来たみたいで本当に嬉しい。
30年以上続いている関係だ、大切にしたい。
細かい事は書きたくないが、高校まで出してもらえたのは、親の世間体で、
家を出たかったが、あの人らは、私たちがまるで子供二人を高校にも行かせてやれない親だと思われるじゃないか、高校だけは、親の私らのために出ておけ、
という人たちだった。その先は知らない、勝手に生きろってな人たちだった。
私にも、妹にも、学費を払う話になると嫌みったらしかった。だがバイトも禁止された。世間体だった。
けれども、25才より前には戻りたくないんだ。
戻りたくもない。私にはもう妹家族以外、故郷はない。
今のパートナーと助け合いながら人生をまっとうするつもりだ。
帰る場所なんてない方が、腹をくくれる。妹もそうだろう。
兄妹してよくあんな、家庭として機能していないところで生き延びたものだ。
普通の家庭とは、どんな家庭だろう。
おかげで私も妹も、結婚しても子供は持たなかった。
元号が、昭和から平成に変わった時も、平成から令和に変わった時も、一緒に過ごした。
昭和は遠くになりにけり、か。昔は明治は…だったのに。
妹の記憶によると、私は先程のアイドルグループ、光ゲンジさんが「パラダイス銀河」?とかいう曲を歌っていた頃、結婚したらしい。
自分の結婚で、アイドルの歌どころではなかったが、バルセロナオリンピックの頃は、なぜだか覚えている。
「風の中の少年」はそれより前だったか。私は、少年という言葉にとても懐かしさを覚える。
80年以上生きたら、今とはどんなふうに人生観が違うのだろう。
それより、長年連れ添ってくれた相手に、先に逝って欲しくない。
私のパートナーはよく出来た人だ。私よりたくさんの人に好かれ、何より人を大切にする。
いいよ、いいよ、といつもニコニコしている。私は自分の性格を時々恥じるが、悔しいので相手には言わない。
バレてるのかな。(苦笑)
こんなふうに、自分が年を取った事を思い知るんだろう。
「他人は、あなたが思っているほどあなたを若くは見ていませんよ」
「なんでも思い通りに生きた人なんていないから」
「生まれて、生きて、死ぬ、このパターンだけは皆同じ」
たくさんの人たちから名言をいただいた。そして年々、名言だけが増えていく気がする。
昔の自分は素通りしていた曲だった。
年を取って、遠い昔を思い出し、この位の年で初めて、アイドルグループさんの歌の歌詞に、哀しみを感じるとは。
自分にも若い頃があったはずなのに、いつの間に忘れてしまったんだろう。
若い男の子だから、好きだというんじゃないんだろう、その年頃特有の感情だろう、と、
大人たちは大人の醜い心でしか彼を見ない。
彼は違った。僕は、ただ彼女だけを真剣に好きなのに、彼女の嫌がる事は絶対にしないのに、
ただ彼女が好きで愛しいから、この手で抱きしめたいだけなのに、彼女とやさしい気持ちでいたいだけなのに、
僕はなぜいけないの?未成年って、どうしてなの?
とさんざん悩んで泣いて、それでも彼女から離れて行く事が出来ずに、
そしてあの「風の中の少年」の歌につながった。
私の想像がほとんどだが。
十代後半位の男の子と女の子が結ばれる歌の様だった。
この歌の歌詞の前を、勝手に考えた。
18才位の男の子だろうか。
真面目で礼儀正しくて、性格も良い子が、真剣にひとりの女の子を好きになるんだ。
相手の女の子もその男の子を好きだとわかっているんだ。
男の子は純粋に、その彼女を好きだから抱きしめたいと思う。
けれど、周りの大人たちは、彼をそうは見ない。
先日、昔妹がファンだったアイドルグループ、光ゲンジの動画をムリやり?見せられた。懐かしいものを見た。
その中の、「風の中の少年」という曲を聴いて、なぜだか哀しくなった。
若い男の子を純粋な目で見てあげられる大人はどれだけいたんだろう、と思った。
あと数年で還暦。また若い時に戻って、1から人生やり直したところで、
未来を知っている訳でもないなら、電話一本かけるタイミングさえズレなかったら、大して変わらない人生だった気がする。
私は頑固だ。後悔がないと言えば嘘になるが、その時々で、言いたい事はハッキリ言って生きて来た、
あの時、ああすれば良かった、しなきゃ良かった、は、人生の小さな場面場面でしかなかった気がするので、
大きく違った人生とやらを、やり直しの人生で送ってたとは思えない。
50の誕生日を迎えた頃だったろうか、ああ、半世紀生きたか、と振り返ってみた。
まず、結婚前の自分と結婚後の自分では、全く違う人の人生を生きた気がした。
私は25より前には戻りたくはない。いや、もっと言えば50より前にも戻りたくはない。
昔、解らなかった事や深く考えなかった事を、ここ最近思い返してみる様になった。
19、はたちの頃は、56才と65才の区別があまりつかなかったが、
最近では、19とはたちにあんなに拘っていた自分がなぜだったのか、もはや解らなくなってしまった。
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モヤモヤをつぶやこう1レス 60HIT 匿名さん (♀)
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サンリオとかキティーちゃん!6レス 100HIT 仲良しパンダさん (♀)
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モヤモヤをつぶやこう
あなたから行かなければ切れていたかもしれませんよね。あくまで自発的では…(匿名さん1)
1レス 60HIT 匿名さん (♀) -
。*4月*。5月*。
共感 ありがとう ございます(*´ー`*) 優し…(匿名さん0)
298レス 2800HIT 匿名さん -
ぽつり №3️⃣
初めまして😊 また寝てたので 返事が遅れました 申し訳あ…(ピノ)
123レス 2169HIT ピノ (50代 ♀) -
はるのきおく
明日ゎ薬を貰ぃに行かなきゃ。 混んでるし面倒⤵️ (友情不滅さん0)
16レス 789HIT 友情不滅さん (♀) -
蜻蛉の眼鏡は水色眼鏡③
東子さんは1人で外国に行ける度胸ある 人だからね。😁 飛行機…(スノースタイル)
285レス 7386HIT 塩辛蜻蛉 (♂)
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おっさん劇場、違法賭博‼️2レス 109HIT 檄❗王道劇場です
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つぶやく〜っ1レス 89HIT 匿名さん
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おっさん劇場、怪奇現象に悩む‼️6レス 192HIT 檄❗王道劇場です
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おっさん劇場、沖縄の皆さんツナミ逃げて‼️7レス 196HIT 檄❗王道劇場です
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HALの春🌱🌷🌱53レス 1058HIT おしゃべり好きさん (♀) 名必 年性必
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今日の俺ちゃん
本日☔️でもルスツで🛣️🏎️レース娯しむ😹 🌃💻夜もボートレースで〜…(rhyme04on)
145レス 2332HIT rhyme04on -
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彼奴は神でも何でも無いけども、人が神としてる。 彼奴は人の言う神…(Abtkey)
500レス 3716HIT Abtkey (♂) -
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ぽつり №2️⃣
あらーっ?そうなの?て、これで満レスになっちゃったーー😢😢😢.お終い(トド君)
500レス 10742HIT ピノ (40代 ♀) -
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おっさん劇場、怪奇現象に悩む‼️
仲良しパンダ3さん 犯人にお金を騙し取られました劇場でした✨🙋。…(檄❗王道劇場です)
6レス 192HIT 檄❗王道劇場です -
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おっさん劇場、違法賭博‼️
聖人君子劇場でした✨🙋。 突っ込みありがとうございます劇場です✨…(檄❗王道劇場です)
2レス 109HIT 檄❗王道劇場です
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