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しょうがい

レス102 HIT数 7245 あ+ あ-

名無し
18/04/04 15:57(更新日時)

私は生まれるべきではなかった。

私が生まれてから1年5か月後、妹が生まれた。
私と違い、それはもう可愛い女の子だ。
母は妹を溺愛した。自慢の娘だ。
朧気ながら覚えている。
その頃から私は母に抱かれなくなった。

18/02/26 12:14 追記
~~~~~~~~~~
お久しぶりです。
また更新をすることにしました。
宜しくお願いします。
この話のタイトルは『しょうがい』と改めさせてもらいます。

2018年2月26日(月)

18/03/02 02:45 追記
~~~~~~~~~~~~~
『しょうがい』
あなたも抱えていませんか?

2018年3月2日(金)

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No.2462082 17/04/23 02:46(スレ作成日時)

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No.1 17/04/23 03:11
名無し0 

可愛い妹に私は触りたかった。
そうすると母は否応なしに私をひっぱたいた。
平屋建てのボロい家には目の前に白いコンクリートの駐車が備え付けてあった。
私はよく外に出されて一人、1日を過ごすことが多くなっていた。
だけど、駐車場の外に出ることは許されない。
私には私を可愛がってくれる、おばあちゃんがいて、おばあちゃんの家に行こうとして迷子になり警察のお世話になったからだ。
後から父に聞いた話だが、私は車の往来が激しい交差点の真ん中でボーッと座っていたそうだ。
大好きなおばあちゃんの家に行こうとすると母は布団叩きで私を叩いた。
妹は母に抱かれて愛くるしい目で私を見ていた。

No.2 17/04/23 03:41
名無し 

その後、私は妹とどんな風に接触していたか覚えていない。
次に覚えているのは私が3歳になった頃、引っ越しをしたことだ。
引っ越しと言っても車で5分位の一軒家への引っ越しだったので、父と母だけで荷物を運び出していた。
そうなると母の手も妹ばかりに張り付く訳にもいかず、ようやく私は妹とふれ合えるようになっていった。
しかし、引っ越しの最中、私が「おしっこ」と言っても我慢しろとないがしろにされる日が続いた。妹が「おしっこ」と言うと母は急いでトイレに連れて行く。
とうとう私はお漏らしをしてしまった。母は私をビンタし、そのまま引っ越し先の家に荷物を運び続けた。
私はそのまま放置され寒さに震えていた。

No.3 17/04/23 03:57
名無し 

一軒家と言っても玄関は2つ有り中は1枚の壁で仕切られていた。今で言う二世帯住宅みたいなものだ。
急勾配な階段があり2階建て。古い家ではあるが子供部屋として一室、私と妹の部屋が用意され私は凄く嬉しかった。
2つに二分された家は1つは父が自営業として始めた設計事務所として使われることになった。
これからは、お父さんも側にいる..そう思うと何故かしら私の中に安堵が広がっていった。

No.4 17/04/23 04:25
名無し 

新しい家に引っ越してから母は、あれだけ妹を私に近づけさせまいとしていたのに、急に妹を私に任せ家の掃除に勤しんだ。まるで年末の大掃除のように。
私が冷蔵庫を開けようとすると「汚い手で触らないで!」とビンタがとんだ。
掃除が終わると母は妹を呼びよく一緒にお絵かきをしていた。私はその隣でクレヨンを片手に妹を真似てチューリップの絵を描いた。妹がチューリップの輪郭を描くと母はその中に色を塗っていき「上手に描けたね」と妹の頭を撫でた。
私のチューリップに色が塗られることはなかった。きっと私が下手くそだったからだろうと当時はそう思っていた。

No.5 17/04/23 05:23
匿名5 

続きが気になるなぁ。

No.6 17/04/23 09:01
名無し6 

二世帯住宅じゃなく二軒長屋じゃね?

No.7 17/04/24 22:28
名無し 

どうにも私には歳の割りに物事を知らなすぎる節がある。小さな頃からそうだ。友達や友達の親、先生などからどれくらい指摘されただろうか。
その年齢になれば大概の人は知っている物事や常識を知らないでいることは大きな恥だ。だからなのか幼稚園児の時から知りもしないのに、さも知っていたかのように私は振る舞っていた。
今の私もそうだ。何故、ここに書きつらねられるという誇大妄想が先走ってしまったのだろう。
ろくに勉強もしてこなかったくせに。文章をしたためる能力なんて皆無なくせに。

No.8 17/04/24 22:45
名無し 

ドクドクと血管が波打つ。
訳も分からず廊下を行き来している自分に気が付く。
とにかく今日は寝ることにしよう。
それからだって遅くはないはずさ。
おやすみなさい。

No.9 17/04/24 23:35
名無し 

眠れない。
今からでも書けるかな。
不安。

No.10 17/04/25 00:26
名無し 

記憶は断片的にしか残されていない。
次に記憶が蘇るのは私が幼稚園に通い出してからだ。
母は毎日のように父が自営業を始めたことで自分には他のサラリーマンの奥さんみたいな自由がないと愚痴をこぼしていた。
確かに父は母が仲良くしようとする友達を非難し、母は地域では孤立していた。
父には深く信仰する宗教があって母もその団体に強制的に参加させられていた。..母が狂い出すきっかけはそこから始まってたのではなかろうか。母は鬱憤を晴らすように更に掃除洗濯に拘りを持ち異常なまでに潔癖を徹底していった。無論、私が部屋を散らかすと烈火のごとく私を殴りつけた。妹の、かほちゃんは、それを見て学んだのか遊んだ玩具は必ず片付ける習慣が身に付いていた。しかし私は何時まで経っても片付けられない子供であった。
そこから、かほちゃんの言うことが絶対的になっていった。かほちゃんが私を蹴ろうと髪を引っ張ろうと母は、あんたはお姉ちゃんだから我慢しなさいと諭すだけだった。
それでも父は私達、姉妹を平等に扱ってくれていたので、かほちゃんが悪い時には、かほちゃんを叱ってくれた。私の主張を公正な目で聞いてくれる父が私は大好きだった。母には暴力を振るうけど。私には手を上げたことはない。
そんな父が1番喜ぶことは私が仏壇にある御本尊様に題目をすることだった。題目をすれば父は、えらいえらいと抱き締めてくれた。
それを見逃す母ではなかった。母は私に対抗意識を燃やして、あれだけ嫌がっていた宗教活動に積極的に参加するようになっていった。それでいくらかは父から母への暴力は少なくなったと思う。

No.11 17/04/25 05:12
名無し 

幼稚園は小さな規模で少人数の児童で成り立っていた。
他にキリスト教系の児童学習に力をいれている大規模な幼稚園に母は私を入れたがっていたが、宗教上の関係で父に却下された。
私は、この小さな幼稚園が大好きになっていった。特に田所先生はいつもニコニコと私が散らかした後を一緒に片付けてくれたりとフォローをしてくれる、優しい先生で私のペースを乱したり叱ったりすることがない。
幼稚園で私は、滑り台からブランコやら矢継ぎ早に遊具で遊んでいるような子だった。室内では特に積み木が大好きで、あちらこちらに散乱させては大喜びをしていた。
そんなある日、私は園長先生に呼び止められ園長室に連れていかれた。

No.12 17/04/25 12:13
名無し 

この絵は何の絵かな?
園長室に入ると1枚の画用紙を見せて訊ねてきた。動物の絵を描きましょうと言われ私がクレヨンで描いたものである。黄色い太陽を描いてみんなからバカにされた絵。
キリンの絵。
私はうつむきながらボソッと答えた。園長先生も黄色い太陽を笑うのかな。そう思いながら。
そうだね、キリンさんだね。じゃあ、キリンの足に描いてあるのは何かな?
少しホッとして私は顔を上げた。園長先生に黄色い太陽のことで怒られると思っていたからだ。
そこには一面の青空と太陽に照されるキリンが描かれていた。キリンの4本の足下は黒い紐状のものがグルグル巻きにされている。
それはヘビ。
私は笑顔で答えた。
園長先生は、そう、と哀しげな顔で微笑むと、もういいよ、と頭を撫でてくれた。
園長室を出て私は何故、呼ばれたのだろうと考えながら軋む廊下を歩いていた。
そっか、キリンの柄が黒だったから変に思ったんだ。きっとそう。だってキリンの柄は茶色だもんね。しまったなぁ。
私はしきりに悔しがりながら窓越しから降り注ぐ太陽の光りに気付き空を見上げた。
やっぱり太陽は限りなく白に近い黄色にしか見えない。
みんななんで太陽を赤く描くんだろ?
目を細めてじっと見ても空の太陽が赤くなることはなかった。
やっぱり赤くないよね?
不思議に思いながら私は田所先生に聞こうと運動場で児童と遊んでいる田所先生に向かって駆け出した。

No.13 17/04/25 16:51
名無し 

次の日、園長室には母がいた。
母が園長先生と何やら話し込んでいるようだった。
そのうち母の顔が険しくなり終いには園長先生に怒鳴り散らし、母は園長室を飛び出してしまった。
母のそんな様子にお構いなしに私は母に近寄っていった。
何でお母さんがいるの?
そう問いだした私に向かい母は無言でキッと私を睨みつけ、足早に園を後にした。
私は訳も分からず、その場にボーッと立ち尽くしていた。

No.14 17/04/26 09:20
名無し 

どうしたんだろう。
どんなに思いだそうとしても思い出せない。
私が年中になり、かほちゃんが入園した筈なのに、まるで記憶に残っていない。
同じ園にいて1度も、かほちゃんと接触した記憶が無いのだ。
しかも、私が年長の頃には母は第3子を妊娠していた筈なのに、母の妊婦姿すら記憶に無いというのはどういうことなのか。
ただ、出産間近の母の記憶だけは残っている。父に連れられて、かほちゃんと私は病室に入った。かほちゃんは、お母さんお母さんと言いながら心配そうに泣いて母の手にしがみついていた。
私はというと、どうしていいか分からずに、ただただ父の手を握りしめ、父の後ろに隠れていた。
生まれたのは弟の、ひさ君だ。けれど、ひさ君が生後半年になるまでの家での生活や幼稚園の生活がスッポリと記憶から抜けてしまっている。
覚えているのは生後半年のひさ君を抱っこさせて貰えて初めて愛しいと感じたこと。赤ちゃんの温もりに私は感動を覚えていたこと。
しかし不思議なことに周りには、父と祖父と祖母しかいなかった。
お母さんと、かほちゃんはどうしたのだろう。
ひさ君は、かほちゃんに似て、とても可愛い赤ちゃんだった。

No.15 17/04/26 23:11
名無し 

わたしはとべる!
そう叫んで私は2階の階段から飛び降りた。
父は、そんな私を一定期間、祖父母の元に預けた。
今日、父に聞いた話である。
ああ、そんな小さな頃から私は。
今では成りを潜めたが、小中学校の頃は時おり、そんな思い..自殺願望が私を支配してしまうこともあった。
それで記憶が抜けてたのか。
妙に納得する自分がいる。

No.16 17/04/27 04:01
名無し 

卒園も迫ってきた頃だろうか。
この頃には大分、他動がおさまり部屋で折り紙をハサミで切って遊ぶことに夢中になっていた。
そんな私の様子を見てか、田所先生が、鶴を折ってみようよ、と声をかけてきた。私は、うん、と頷いた。
田所先生は私のペースに合わせ根気よく丁寧に教えてくれた。ようやく完成した折り紙の鶴に私はいたく感動し、一人、何時までも教室の片隅で、その折り紙の鶴を眺めていた。
帰る時間になっても、その場から動こうとしなかった。
これを見たら、お母さん喜んでくれるかな。
そう考えるとワクワクしてきて帰ろうと支度をし始めた時だった。
そのツル変だよ。そんなくちばしの曲がったツルなんていないし羽だってぐにゃぐにゃじゃん。
ポニーテールの女の子が指差して指摘してきたのだ。私は体がこわばっていくのを感じながら黙って、その女の子を見据えていた。女の子は私の顔をチラッとみて勝ち誇ったように帰って行った。涙が勝手に落ちてくる。体が前後に揺れている。
さっきまで膨らんでいた心がぺちゃんこになってしまった。
手の中で折り鶴もぺちゃんこになってしまっていた。

No.17 17/04/27 10:37
名無し 

家では父の働く設計事務所にいることが多くなった。
セブンスターをくわえ懸命に設計図に書き込んでいる父の後ろ姿が大好きだった。
設計事務所には他の従業員はいなかった。父一人の個人経営だ。
事務所には色々な機械やら道具などが散乱していた。
私の玩具はもっぱら、その道具達であった。要らなくなった基盤に、はんだごてで無茶苦茶に部品をくっつけて遊ぶのが、何より楽しかった。
物で溢れ返っている事務所は私の居心地のいい場所であった。母に怒られることもない、安心できる唯一の場所である。
そんなひとときも、数年後、ひさ君がパソコンをいじるようになってから、失うことになるが。

No.18 17/04/27 10:53
名無し 

私は小学校へ入学した。
担任は、いのこ先生といって気難しそうな女の先生だった。
そんなある日、訳の分からないテストをさせられた。
今、考えると知能テストかクレペリンテストか何かの類いのテストではなかっただろうか。
後日、私は母に連れられて大きな薄暗い建物に向かっていた。そこから先を思いだそうとすると吐き気がする。

No.19 17/04/27 11:10
名無し 

いったいそれは何だったのか数年前に父に聞いたことがある。
父もうろ覚えで、はっきり覚えていないが私は母に連れられて病院へ行っていたらしい。
そこでも何かテストのようなことをしようとしたが、私は泣いて暴れてそれどころではなかったとか。
お前は境界領域に入ってたのではないか?
父はそう言っていた。
それ以降、学校で、その類いのテストをやらせようとしても私は頑なに拒み、はっきりとした診断もされずじまいでうやむやに時が流れていった。

No.20 17/04/27 16:31
名無し 

私には成人した自閉症の息子がいます。
息子が、今、幸せを感じているのか私には分かりません。
ですが、私さえ生まれてこなければ、自閉症というハンディを息子に背負わさないで済んだのではないかと、自分を責めてしまうのです。

No.21 17/04/27 16:44
名無し 

小学校では問題児扱いをされていた。
まず、学校から配られるプリントは必ず机の中でグシャグシャになって溜め込まれていた。
いのこ先生は、それを見つけては私に何故なのかときつく問いだした。
そう問われても、私自身にさえ分からないのに答えなんて出る筈もない。答えるまで、いのこ先生は帰らせてくれないので、口からでまかせばかりを繰り返した。
家に帰れば当然、母のお説教が待っていた。もう、その時点で母の言葉は私の耳には届いていなかった。

No.22 17/04/28 04:29
名無し 

小学校では勉強についていけない部類の私であった。
2年生までに修得したのは、ひらがなと九九と簡単な漢字くらいなものだ。
長時間、勉強に没頭することを苦手とした。飽きると周りの子にイタズラしたり、ちょっかいをかけたりするので、しょっちゅう廊下に立たされた。それで授業に出られず、ますます勉強が分からなくなっていた。
ひらがななどを覚えたのは、いのこ先生のクラスではなかった。
廊下に立たされる度に私は特殊学級に遊びに行っていた。

No.23 17/04/28 04:47
名無し 

私は特殊学級の先生も生徒も好きだった。
名前は忘れたが眼鏡を掛けた長身の穏やかな雰囲気をかもし出す男の先生だった。
男の先生は、いつ私が遊びに行っても追い返すことはしなかった。そこの生徒も笑いながら受け入れてくれた。
知能が比較的、高い子は、ひらがなや九九の勉強をしていた。それに習い私も何とか、ひらがなと九九を覚えた。
あとは、特殊学級の子と遊んだり先生の手伝いをしたりして過ごしていた。ただ、いのこ先生は、それを良しとしていなかった。

No.24 17/04/29 01:21
名無し 

私はタバコを吸っていました。
そんな私に息子は言いました。
「禁煙しないの?」
私は答えました。
「うん、しないよ」
そしたら息子は、こう言いました。
「病気になっちゃうよ」
私は、
「うん、そうだね」
と答え息子の顔を見ました。
とても心配そうな顔をしていました。
ねぇ、翔ちゃん、私はそれ以上に、あなたのことが心配なのよ。
涙が溢れて仕方がありませんでした。

No.25 17/05/16 15:02
名無し 

ちゃんと教室で勉強しなさい!!
いのこ先生にも父にも母にも叱られた。妹のかほちゃんにまで馬鹿にされた。
それでも私は隙を見ては特殊学級に顔を出した。その影響か、だんだん私のクラスの子達が私を含め特殊学級の子達をいじめるようになっていった。

No.26 17/05/16 15:24
名無し 

私と特殊学級の男の先生は、必死に特殊学級の子達を庇った。
私もからかわれていたが特殊学級の子達への負担は、相当なものだったろう。普段、大人しい子でさえ気が狂ったように奇声をあげた。
いのこ先生は言った。
あなたのせいで、こんな事になったのよ。
と。
私は身震いがした。本気で、いのこ先生が怖く憎らしかった。
その日から特殊学級へは行かなくなった。なのに特殊学級の子達へのいじめは更にエスカレートしていった。
ついには特殊学級が閉鎖されてしまった。全部は私のせいだと私は自分を責めた。
そして、いのこ先生を筆頭に自分のクラスの子達と私は、ますます険悪な仲となっていった。
そんなある日、いのこ先生から質問された。
あなたの行ってた幼稚園って給食がなかったの?

No.27 17/05/16 15:36
名無し 

すみません。
これからは「」を使います。
使うのを忘れていました。

No.29 17/07/10 17:49
名無し 

私の通っていた保育園では昼食に、菓子パンと牛乳しかなかった。
しかし、この事は、いのこ先生には言わないでいた私。
私は異様なまでに、いのこ先生に対して警戒を強めていた。
何も喋らない私に対して、いのこ先生は、
「まぁ、いいわ」
と言って立ち去っていった。
そして、ある日、保育園は廃園に追い込まれていた。
下校時、保育園の前を通る私に笑顔で、
「おかえり~」
と声をかけてくれた田所先生の姿もない。
いのこ先生の仕業だ。
私は、そう確信していた。
そして、私はいのこ先生とクラスメートが話しかけてきても、絶対に口を開こうとしなくなった。
こうして2年生の生活が過ぎていった。
相変わらず私は黒板の文字をノートに取れず、机の中はグチャグチャに丸め込まれたプリントが溢れかえっていた。

No.30 17/07/11 04:45
名無し 

その頃からだろうか。
私は母の異変に気付いた。
私はおろか、あれだけ可愛がっていた、かほちゃんにも、ひさ君にも母は関心を抱かなくなった。
母は一心不乱になって仏壇の本尊に拝み続ける。
私は、そんな母が狂気じみて不気味に思っていた。
そんな私は何を思ってか、母の周りを徘徊してみた。
すると母は正気に戻り、
「あんたの顔を見てると功徳がなくなる!あっちへいけ!」
と、怒鳴り付けてきた。
そんな母の様子に私は安堵した。
そして愚かな私は、怒鳴られても、
「これは私の手柄だぞ!」
と舞い上がってしまい、母に頬を引っ張かられた。

No.31 17/07/11 20:35
名無し 

しかし母の奇妙な言動は、少しずつ少しずつ母を蝕んでいた。

私は小学3年生になっていた。
クラスも変わり安藤先生という女性の先生が担任になった。

安藤先生はプリントを机の中に放置する私を心配して、いつも一緒にプリントを連絡帳の袋の中に入れる練習をしてくれた。

そのお陰で私は小学4年生になる頃には、自分で連絡袋にプリントを入れられるようになっていた。

勉強の面でも安藤先生は、帰りの会が終わると毎日のように小学1・2年生のドリルを元に色々と教えてくれた。

授業中、私がそわそわしだすと安藤先生は、

「好きな絵を描いていいよ」

と動物図鑑や植物図鑑などを差し出してくれた。

そうすると何故だか分からないが、自然と授業内容を聞けるまでに落ち着きを、取り戻すことが出来るようになっていた。

しかし先生の話を聞きながらノートを取ることは、まだ私には至難であった。
同時に2つのことが、どうしても出来ない私であった。

絵はメキメキと上達を見せていっていた。

しかし、そんな私とは反対に、母の様子はどんどんと、おかしくなっていった。

No.32 17/07/12 07:50
名無し 

まずは幻聴が始まった。

私が学校からもらったプリントを渡しても、母は受け取りはしたが、何やら上の空で、ブツブツと目に見えない誰かと話しているようだった。

それに仏壇に向かって拝んでいる時も、時折、中断して何かを呟く。

それでも母は正常な時間が長く、私以外の家族には気付かれた様子はなかった。

私が小学4年生の時、定例のクラス対抗の合唱コンクールがあった。

普段着でいいと言っているのに、母は、真っ白なシャツと紺のスカート、白いタイツに黒光りする靴を買ってきてしまった。

なぜ?と訊くと、母は命令されて買ってきたと答えるばかり。
私が着ていかないと言っても、母は一向に聞き入れてくれなかった。

仕方なく私は母が買い揃えた服を着て登校した。

「おまえ、どこのコンクールに出る気だよ」

全く、その通りである。

私はクラスのみんなから爆笑されてしまった。

No.33 17/07/12 16:30
名無し 

~~~~~~~~~~~~~~~~

自己紹介をします。

私は舞草 恵子(仮名)と申します。

双極性感情障害と診断されていますが、実はADHDを疑われており検査を受けるように..と言われていますが拒んでいます。

子供は自閉症の翔ちゃん(♂)と健常者の萌衣ちゃん(♀)が2人います。

引き続き、読んで頂けると幸いです。

~~~~~~~~~~~~~~~~

No.34 17/07/12 17:11
名無し 

とは言え、まだ3・4年生の頃は母の変調も私だけが知るレベルで済んでいた。

私は小学4年生になると、多少はクラスの子と打ち解けていた。
それでも私には友達と呼べるまでの友達はいなかった。

4年生になった春のこと。
ホームルームの時間にクラスの代表委員を決めることになった。

男子には立候補者がいて、そちらの方はすんなりと決まった。

問題は女子の代表委員だった。
立候補する女子が誰もいない。

するとクラスの代表的な存在である女の子が、私を指名してきたのだ。

そうすると、その女の子の一声を引き金にクラスのみんな一同が私を後押ししてきた。

今では、あれは面倒な代表委員の仕の反論も出来ない私に押し付けただけの話だと理解出来が時の私は違っていた。

私が代表委員?!

愚かな私は有頂天になっていた。

そう、私はみんなが自分に期待してくれていると勘違いをしたのだ。

私にとっては誰かが自分を認めてくれる..ということは、初めての経験だった。

それゆえ、私は安易に引き受けてしまった。

この後、どのような試練が待ち構えているかも分からずに..。

No.35 17/07/13 14:49
匿名35 

小説のように引き込まれます。

No.36 17/07/13 17:12
名無し 

>> 35 ありがとうございます(^^)

No.37 17/07/13 18:15
名無し 

学級委員になってから雑務が増えた。

あれもこれも同時に作業をしなければならない雑務をこなすのは、私には困難をきわめた。

例えば授業中、みんながうるさければ、

「静かにしてくださーい!」

と、注意をしなくてはならない。

議題が上がれば私は黒板の前に立ち、チョークでみんなの意見を綴らなくてはならない。

先生の話を聞くのがやっとで、ノートが取れなかった私には、無理。

学級委員会があると出席して、クラスのみんなに伝えなければならなかったのに、私はよくすっぽかしてしまっていた。
学級委員会がある日を度々忘れてしまっていたからだ。

そのせいで学級委員会での報告を、みんなに伝えることが出来なかった。

そんな私の失態に、みんなは苛立ちを見せ始めていた。

そして皮肉混じりに『天才さん』と私のことを呼び、からかうようになった。

「天才さん、ちゃんとしてください!」

授業中、そんな野次が飛ぶようになっていった。

そう呼ばれ注意されると、私は頭の中が真っ白になり、ますます身動きが取れなくなってしまった。

それでも私は、ひたすらドリルに向かうことで平常心を保とうとした。

しかし、どうしても平常心が保てなくなった時、私は保健室に逃げ込んだ。
保健室での私は、頭や腕を掻きむしり髪の毛を引っ張って抜いていた。

そんな時、保健室で同じクラスの福ちゃんという女の子と、よく遭遇するようになった。

福ちゃんはテンカン持ちで、よく泡を吹いて気絶してしまうような子だった。

No.38 17/07/14 18:39
名無し 

福ちゃんは私がパニックに陥って保健室に行くと、何も聞かずに、

「大丈夫、大丈夫」

と私の行動を押さえ付けるかのように、私を抱き締めてくれた。

福ちゃんはテンカン発作のせいで、みんなには奇異の目で見られていた。

そんな福ちゃんと私は学校の外でも遊ぶくらい、急速に、仲良くなっていった。
遊ぶと言っても、福ちゃんの物静かな口調のお喋りに、私が聞き入るといったものだ。

夏休みが近づき、私の学級委員の任務が終わろうとしていた。

そうすると、それを見届けたように福ちゃんは転校してしまった。

任務が終わったことにはホッとしたが、私には、福ちゃんが居なくなった哀しみの方が遥かに勝っていた。

私は、福ちゃんが座っていた席を見ると、涙が込み上げてきて仕方がなかった。

癇癪を起こして泣いても、私は、こういう涙は流したことはなかった。

こういう感情を教えてくれた福ちゃんからの、最初で最後のプレゼントだった。

No.39 17/07/14 18:46
名無し 

☆色鉛筆で描いたミニ薔薇です☆

No.40 17/07/15 17:48
名無し 

~~~~~~~~~~~~~~~

今日、息子が私に宣言してきた。

「僕は今日から鮭が嫌いになりました」

?!

なんてことだ!!

ただでさえ、偏食が激しい息子に悩んでいたのに、またしても食べられない物が増えるなんて!

オロオロする私を尻目に、息子は、

『きらいなものりすと』

に、いそいそと『鮭』の文字を追加していった。

~~~~~~~~~~~~~~~

No.41 17/07/15 18:56
名無し 

小学4年生の夏休みのことは、よく覚えている。

妹の、かほちゃんは夏休みの間、毎日、友達と遊びに行っていた。

かほちゃんは利発で愛嬌もあり、みんなのアイドル的、存在だった。

そんな、かほちゃんを見て母は、誇らしげに、よく、こう言っていたものだ。

「私も若い頃は、かほちゃんに似ていたのよ」

しかし母は、どう見ても顔も内面にある『なにものか』も全ては私に似ていた。

それを払拭するように、母は何度も繰り返し、自分に言い聞かせるかのように『かほちゃんに似ていた』
と、口走っていた。

母が、そう口にする度、私は自分の存在が汚らわしいと言われているようで、かほちゃんから逃げていた。

そんな私はと言えば、友達もいなかったので子供部屋のベットに横になり『ファーブル昆虫記』を、夢中になって読んで過ごしていた。

設計事務所では、もう遊べなくなっていた。
弟のひさ君がパソコンの勉強をするようになったからだ。

母は毎日、家にいる私のことを疎んじていた。

そこで母は私を、町内の子供会の行事に強制的に参加させるように、仕向けだした。

No.42 17/07/16 18:29
名無し 

私は通学班・町内会の集まりが苦手であり、嫌いでもあった。

私の住む町内会は比較的、裕福な人が住む、いわゆる高級住宅地。

その中で私の家だけ、古い造りの二軒長屋だ。

そういう訳で私は町内の子供達に畏怖の念を感じずにはいられなかった。
なぜなら、みんな、お金持ちで塾やお稽古を習っていて、何も習い事をしていなかった私には、別格の人間にしか見えなかったからだ。

別格の人間の放つオーラは、私には脅威であり不快であった。
・・・かほちゃんは、どうやって、このオーラを突き破ったのだろう?

誰とも喋れないまま私は、町内会の行事に参加した。
公園の清掃に古紙回収と、あらゆる行事に母は、嫌がる私を無理矢理、参加させたのだ。

しかし私なぞ、参加しても何の役にもたたなかった。
それに比べ、町内会のみんなは生き生きと活動をしていた。

私は何を、どうすればいいか分からずに、棒のように立っているのが精一杯だった。
もちろん、そんな私に歩み寄る子はいない。

ただただ遠目に私を取り巻き、ひそひそ話をするだけであった。

そうやって、この長い夏休みが過ぎていった。

No.43 17/07/17 19:40
名無し 

長く苦しい夏休みが終わると、4年生後半の学校生活がスタートした。
学級委員から開放された私は、穏やかな生活を送っていた。

安藤先生はクラスの人気者だった。
私を含め、クラスみんなが安藤先生が大好き。

そのせいか、終わりの会が終わってからの私の勉強会?に、一人二人とクラスの子が参加するようになっていった。

もちろん、他の子は私と同じ勉強内容ではない。
しかし、みんなで他愛ない話をしながらの勉強は、とても楽しかった。

私はドリルの勉強に加え、新たに日記を書く練習を始めることになった。

どうしてかというと、安藤先生が、

「文章を書くことは、大人になってからも大切になってくるから」

と、諭してきたからだ。

安藤先生の言っている意味は分からなかったが、私はチャレンジを試みた。

とは言うものの、何を書けばいいのか、さっぱり分からない。
そこで私は得意な絵を描き、その絵に題名をつけることから始めた。

安藤先生も絵が得意であった。
先生の描く絵には、どれにも命が吹き込まれていた。

手で触れたら動き出すのではないか・・という程、安藤先生の絵は精巧に描かれていて、私は、とても魅了された。

文章の大切さは最後まで分からなかったが、大人になったら安藤先生みたいな絵を描きたいと、強く思った。

No.44 17/07/18 18:14
名無し 

☆突然ですが娘からプレゼントされた、折り紙で作った薔薇の花束です☆

No.45 17/07/18 18:30
名無し 

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息子は障害者枠で、清掃業者として働いている。

親戚からは、

「知的障害者は働いても続けていくのが困難だ」

と、言われていた。

しかし息子は、養護(支援)学校を卒業してから、5年もの間、同じ会社で勤務し続けている。

確かに息子は、理不尽な言葉を浴びせられ泣いて帰ってきたこともあった。

それでも辞めようとはせずに、毎朝、息子は鼻歌を歌いながら楽しそうに出勤する。

頼もしく育ってくれたと思う。

障害者も社会貢献できる世の中であって欲しいと、私は願う。

~~~~~~~~~~~~~~~

No.46 17/07/19 19:55
名無し 

小学4年生ともなると、母に折檻や暴言を受けるままの私ではなくなっていた。
腕力も付き始めた私は、必死に抵抗するようになり、母と取っ組みあいの喧嘩が出来るまでになった。

この頃の私は、突拍子もないことを思い付き、行動に移すようになっていた。

お風呂に石鹸を入れて泡風呂にしたり、母が大切にしていた松の盆栽を木っ端微塵に打ち砕いたりした。

その度に私は、母の怒りをかった。

なぜ私は、そんな行動に出たのか・・・きっと、どんな形でも母との触れ合いを求めていたのだろう。

それに私は、日増しに酷くなる母の幻聴を食い止めもしたかった。

けれど本当は私も、かほちゃんや、ひさ君のように愛されたかった。
しかし、それはとっくに諦めていた。

母は自分と同じ匂いのする私を、嫌悪していたからだ。

母との取っ組みあいの喧嘩では、私が母を捩じ伏せることが多くなっていった。

その辺りから母は幻聴だけでなく、幻覚を見るようになってしまっていた。

No.47 17/07/20 17:30
名無し 

私は小学5年に進級した。

担任は岡本先生という眼鏡を掛けた太った女の先生だった。
岡本先生は、とても教育熱心な先生だと、私は風の噂で聞いたことがあった。

慣れ親しんだクラスを離れるのは不安であり、辛いものだった。
特に、安藤先生との別れは私にとって、とても哀しいことであった。

それに追い打ちをかけるように、最悪なことが待ち受けていた。

「おい、おまえ、イモじゃん!」

その2人は、私が学級委員の時に、よくからかってきた子達だった。

「イーモ!イーモ!とろい奴が来たもんだ!」

と2人は意地悪な笑みを浮かべ、私の周りをグルグル回り囃し立て続けた。

私は、みるみる内に体が硬直し、身動きが取れなくなってしまった。

そんな時だった。

「あんた達!何やってるの?!」

と叫ぶ、女の子の声が聞こえた。

No.48 17/07/22 09:59
名無し 

「だってよー!こいつ馬鹿なくせに学級委員やってたんだぜ?!」

と、小柄で痩せ細った男の子が口を開いた。

「委員会はスッポカスしよ!」

便乗して、眼鏡を掛けた利発そうな男の子が同調する。

「あっそ。だから何?・・・私、その子と話したいから、あっち行ってよ!」

そう言うと女の子は、シッシッ・・・と手で追い払うジェスチャーをした。

追い払われた2人は、舌打ちをして自分の席に戻っていった。

「ね?私のこと、覚えていない?」

硬直しながら事の成り行きを見ていた私に、女の子は話しかけてきた。
色白の肌に、薄く茶色がかった髪の女の子。

まじまじと女の子を見たが、私には思い出せなかった。

「ほら、同じ保育園にいた幸子だよ?恵子ちゃんでしょ?」

そう言われ私は、朧気ながらに思い出してきていた。

「同じ組にいた子?」

自信なさげに私は、そう答えた。

「そう、同じ組にいた幸子だよ!ねぇ、私、一人ぼっちなの。友達にならない?」

矢継ぎ早に喋りまくる幸子ちゃんに圧倒され、私は思わず頷いた。

「やった!これから、よろしくね!」

と言うと、私のことを恵ちゃんと呼び、幸ちゃんは抱きついてきた。

そんな体験のない私は戸惑ったが、幸ちゃんを受け入れた。

そして、幸ちゃんとは急速に仲良くなっていった。

No.49 17/07/23 08:08
名無し 

そんなある日、私が学校から家に帰ると、母は、天井の一点をジッと見つめていた。

「ただいま」

そう私が声をかけても、母は反応しない。

私は母の異変に気づき怯えてしまった。

すぐさま隣の設計事務所に向かい、仕事中の父に、私は震える声で話しかけた。

「お父さん、お母さん変だよ」

そうすると父は、製作中の設計図から目を離し、私の方に体を向けた。

「いったい、どういうことだ?」

優しく微笑みながら聞き返す父。

「いいから、とにかく、お母さんの所に来て!」

と私は、父の手を掴み引っ張った。

父は仕方がないな・・・とでもいうように、私と共に母のいる仏間へと向かった。

父を連れてきても、母は一点を見続けるばかりだった。

「おい!加奈子!いったいどうしたんだ!」

加奈子とは母の名前である。

父は母に呼び掛けながら、軽く母の肩を揺さぶった。

すると父の呼び掛けに気付いたのか、母は一点から目を反らし、無言のまま父を見上げた。

暫くの静寂が続いた。

そして我に返った母は、何事もなかったかのように、父に話し掛けた。

「あら、あなた。仕事中じゃなかったの?」

「加奈子・・・」

父も、やっと事の重大さに気付き始めていった。

No.50 17/07/24 19:47
名無し 

「いったい何を見ているんだ?」

父は母に問いかけた。
しかし母は何も答えようとしない。

私は父の腕を引っ張って、しゃがみこませた。
そして父の耳元に顔を近づけると、私は声を潜め父に話し始めた。

「あのね。お母さん前から変なの。誰もいないのに何かと話してたり、誰かに命令されたと言ったり・・・」

父は黙って頷くと、

「実は、お父さんにも思い当たることがあるんだ・・・」

そう父と話している時だった。

「恵子!何なの?!忙しい、お父さんを呼び出したりして!!」

と私の首根っこを引っ張り上げ、怒鳴ってきた。

いつもの、お母さんだ。

そう悟った私は、母の手を払いのけ怒鳴り返した。

「お母さん変だよ!何なの?!どうかしてるよ!!」

そう叫んだ私は、恐怖と怒りの感情が入り交じり、意図せず体が前後に揺れてしまっていた。

「何、訳の分からないことを言ってるの?!お父さんの仕事の邪魔をしているのが分からないの!!」

そう叫び返した母は、私の頬を力強く殴ってきた。
私は殴られると我を忘れ、母に反撃し取っ組みあいの喧嘩を始めた。

「いい加減にしろ!!」

見かねた父は、そう怒鳴りながら私達を引き離した。

そして父は私に、そっと呟いた。

「後で、隣に来い」

私はコクりと頷くと、子供部屋に行き自分のベットの枕に顔を埋めた。

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