薄茶色のセロファン
あこがれのトム先輩をめぐる学生たちの思惑。
くり返される毎日の中で、「私」と女子と先輩たちとの追いかけっこは、続いていく。
うそみたいに、あたりまえじゃない、キラキラした人たち。その中で、ひときわ輝きを放ち、思わずすうっと視線がすいよせられる、まぶしいひと─
それが、トム先輩だった。私の、高校生活の、はじまりの日だった。
「あのとき、トム先輩たち、新1年生の女の子たちを物色しに来たんだってさ」
そう言って、涼子は、コーヒー牛乳を飲んだ。
「物色‥… 」
「そ。でもべつに、女好き、とかそんなんじゃないってよ。かるいひとたちなんだよねぇ、いい意味でね。おもしろいことを追求して生きてるんだって。部長サンたちと話してた」
少しはなれた席で、女の子たちが何かにウケてドッと笑い声をあげる。にぎやかなランチタイム。私も、クリームパンを、ぱくりと一口ほおばった。
開け放した窓からは、春から初夏へとうつりかわる前の、ゆるやかな風が入りこんできている。なんだか、すごく気持ちがいい。
私は、気持ちがよくなった勢いで、涼子の手をとり、たずねてみる。
「ね、トム先輩のファンクラブ、入ろーよぉ!」
涼子は、パサパサした茶色っぽい前髪の下からじっと私の目を見つめて、言う。
「……ゆず子って、ほんっとに、トム先輩にやられちゃったんだね」
「なによーぉ、涼子だって、かっこいーって、さわいでたじゃない」
「そうだけどさ、そこまでハマりこむのも、なんかね… それに、ファンクラブってさ、こわいおねえさんたちばっかりいるんだよ。第一、トム先輩、彼女いるしさあ」
「ああん、わかってないなあっ」
私は、涼子の手をにぎったまま、天然パーマの頭を左右にふる。
「彼女は彼女。トム先輩はトム先輩。わたしはわたし。わたしのねぇ、トム先輩に対する想いは、つきあいたいとか、彼女になりたいとか、そんな不純なものじゃないのよ。もっと、ミネラルウォーターみたいに、プラトニックな気持ちなんだからぁ」
「あんた、プラトニックって、意味わかってんの?」
涼子は、冷めた目でこちらを見ながら、コーヒー牛乳のパックを持ち上げて、中身が残ってないかふっている。
「わかってないわけないじゃん」
「じゃあ、説明してごらん」
「んーとね、」
私が、時間かせぎのため、意味もなく机の中をのぞき込んだ時、
「ねー、次の歴史の時間、小テストだったよねえー?」と、さっきまでさわいでいた女の子のひとりが、声をかけてきた。
「あーっ、やってなぁーい!!」
「今日、何日?」
「15日」
「えっ、私、35番! 5番つながりで、答えあわせの時、あてられる!やっばーい!!」
35番の涼子が、あわてふためきだした。私は、「プラトニック」という単語から解放されて、ひとまずホッとする。
「ねー、ゆず子、勉強してきた?」
という呼びかけが、耳の中を素通りしていく。
─ない。歴史の、教科書。
いくら目をこらしても、机の中の暗い空洞の中に、歴史のぶ厚い教科書は、見当たらない。まわりのざわめきが、だんだん遠ざかっていく。
「教科書、忘れた!!」
ガタンと、椅子から立ちあがる。まわりのクラスメイトが、「またあ?」というあきれた目で、私を見つめている。
「C組、今日歴史あるよ」
しっかり者のえんちゃんが、声をかける。
「うん、借りてくる!!」と、いきおいよく机の間をすり抜けて、C組へ向かう。
廊下に出ると、窓から3年生の教室が見える。
私が、絶対に入れない空間。
トム先輩は、いるのかな。
こんな時でさえ、私の視線と思考は、トム先輩を探し始める。
3年生の教室からは、男子の先輩たちの手拍子と、なんだかよくわからない調子のはずれたダンスナンバーの合唱が聞こえてくる。
手拍子が、だんだんはやくなり、拍手でフィニッシュとなる。
あーっ、いいなあ、楽しそう
そう思っていたら、予鈴の一音目が響き始めた。
私は、くるりときびすを返して、C組へ向かう。
美術部の部室。
真っ白いキャンバスの上に、幾重にも木炭の線がひかれていく。
「いやあ、わかるんだよ」
そう言って、斉藤先輩は、たるんだ笑顔をまともにこちらに向けてくる。
男子の半そでシャツは、着る人によって、モデルみたいになる場合と、公務員みたいになる場合がある。斉藤先輩は、典型的な後者だ。
とても、17か18には見えない。マイホームパパ、という感じだ。
なんとなくナイーブで繊細な感じのする部長とは、正反対だ。
ましてやトム先輩と同じ学年だなんて、とてもピンとこない。
「デッサンを見ただけでね… なんだか、ふんわりとしてて、なんか、風にそよぐタンポポの種の粒子‥…って感じかなあ」
「はあ」
もしかしたら、ウケを狙ってるんだろうか。よくわからずに、私は、中途半端な笑顔を浮かべてみる。
「そうですかねえ」
「うん。柚山さんは、やさしい絵を描いていくよね、きっと。心が癒されるっていうか、素朴で、あたたかい感じの」
「そうかなあ」
私の顔は、にっこり笑っている。でも、心の表面が、ガサガサと音をたてていくのがわかる。
─この人、何言ってんだろ
決めつけられるのが、大嫌いだった。ともだちでも、クラスメイトでも、肉親からでも。のんびりやさんだよねえ、とか、まったりしてるのが、好きそーな感じ、とか。時には、やさしい、という言葉さえも、わずらわしい場合もある。
どうして、イメージだけで、中身まで見透かしたように私を定義付けていくんだろう。
けっこう子供の頃から、そういう想いを抱えて生きてきた気がする。
そんなことを考えつつ、木炭を走らせていた。ガラスびんは、まだ、キャンバスの上で真ん中がへこんでない。
あっ!!
キラリと、視界の中で、光がはじけたような気がした。
目があった! トム先輩と!
一瞬だったので、ほんとうに私を見たのかが、よくつかめない。
うわあ… ヤバい、やっぱり、かっこいい…
ふるえる手を必死にごまかそうと、何回も何回も同じところばかりなぞるので、ガラスびんの底辺は、異様に盛り上がって見える。
2回目は、はっきりと、私を見ていた。
トム先輩のこげ茶色の瞳が、私の瞳をとらえている。
と思ったら、先輩の唇のはしがもち上がり、にーっと、ドナルド・ダックのようなほほえみが出来上がっていく。
キャンバスの上で、木炭の動きが止まる。
トム先輩は、ふっと、また椅子の背もたれにひじをつき、部長との話の中に戻っていった。
金褐色の髪が、短くゆらりとそよぐ。
私は、まだ全然満足できてないガラスびんのデッサンを前にして、「えーっ、うれしいなあっ」と、最上級の笑顔で答える。
トム先輩の本名は、武藤直人という。ほんとうは、武藤のまえに、英語の名前がつくらしい。たとえば、ヘンリーとか、フレディとか。
お父さんが日本人で、お母さんがイギリス人なのだ。赤毛、茶髪の先輩もいるにはいるけど、まだまだ、ごく一部で、全校集会なんかだと後ろのほうにひとかたまり毛色のちがう集団がいる‥… という現状の中で、トム先輩の金褐色の髪は、ひときわ目立っていた。
なおト、ムとう、なので、トム先輩。トム先輩のイングリッシュネームは、あまり知る人がないらしい。
「Tバッククイーン、るなちゃん!」
大きな声をあげるトム先輩に、るな先輩がプリントを丸めて投げつける。くちゃくちゃのプリントボールは、見事にトム先輩の頭に命中する。るな先輩の彼氏が、それを見て笑う。
トム先輩は、肩をうなだれてしょんぼりした様子を気取っているけど、うつむいた顔は、きっと笑ってるんだと思う。
やがて、トム先輩とるな先輩とその彼氏は、3人で、楽しげにおしゃべりを始める─
ふと気がつくと、向かいの3年生の教室の外窓からも、そんなトム先輩を見おろしている3年生の女の人たちが、いる。
きっと、あのまじめそうな人たちは、ファンクラブにも入れず、ひっそりといつもああやってトム先輩を目で追ってるんだろう─
かくれファンというやつだ。
私も、あの人たちと一緒かなあ。トム先輩の眼中に、入ってるんだろうか。
窓わくのレールについたひじが、ヒリヒリと痛い。
家に帰ると、めずらしくお姉ちゃんと良高(よしたか)がそろっていた。
ただいまも言わず、どすんとリビングのソファーに腰をおろす。
テレビはついてない。それぞれの部屋は、夕方まで蒸し暑いので、暑さしのぎでこの場に集まっているのだ。
良高は、寝ころんでマンガ。お姉ちゃんは、足を組んで、難解な音楽雑誌を読んでいる。
お母さんが最近節約にうるさいので、クーラーはおろか扇風機さえも、まだ使えない。暑くなってきたら、うちわでパタパタとやり過ごす。
私は、しばらくぼおっと、見るともなく、目の前の金閣寺の版画やら、竹本米穀店の絵柄なしカレンダーやらを見つめていた。
カレンダーには、事務的に、お母さんの婦人会やらリサイクルアート教室やらの予定が書き込んである。
それぞれのお誕生日に、花丸でカレンダーにしるしがつけられなくなったのは、いつ頃だっただろうか─
「あんたってさあ、」
急に、お姉ちゃんが声をかけてきて、びっくりした。声をかけてきたということは、私がここにいるという事に、気づいてたんだ。
「まだ、あいつのこと追っかけてんの?」
「トム先輩のこと、あいつなんて呼ばないでよ」
「あいつはやめときなよ」
「べつに追っかけてなんかないよ。私、お姉ちゃんの忠告って、聞かないようにすることに決めてるから」
「あいつはタチが悪いよ」
私は、露骨にムッとした顔で、言う。
「どういうことよ。遊び人だとか、言いたいわけ? やめてよ。トム先輩のことよく知らない人たちが、勝手に誤解してんのよ」
「そうじゃないよ」
お姉ちゃんは、音楽雑誌をソファーの上に置いた。表紙では、ピンク色の髪を逆立てた男の子が、ボロボロのジーンズをはいて、ギターを弾いている。
「遊び人のほうが、まだいいのよ。救いようがあるの。あいつはね、もっと悪い。何事にも本気になれないやつなのよ」
「‥…なに、言ってんのよ、お姉ちゃんの言うこと、わけわかんない」
良高が、マンガ本の奥から、興味深そうな目を向ける。
「たとえばねえ… 」
お姉ちゃんは、視線を宙に浮かし、うまい例え話を考えている様子だ。
そういう表情を見ていると、この人は妙にミステリアスで、良高の持ってるマンガの中に出てくる、女占い師のように見える。
「あいつが、スポーツ部に入ってるとするじゃん。ありえない話だけど。で、弱小チームががんばって武藤というエースを中心に、みるみる強くなって優勝する。やったー、武藤、おまえのおかげだよ、俺たち、よくがんばったよな、次は全国大会向けて、またがんばろうぜ!って、固い友情ができあがる。で、翌日。はっきりした理由もないまま、いつのまにかその部をやめて、去っていく…
そういう感じなのよ、あいつって」
私は、心の中にチクチクしたものを感じながら、黙ってお姉ちゃんの話を聞いていた。お姉ちゃんの話し方には、不思議なリアリティが宿るので、今の例え話が即座にシュミレーションされる。
くやしいことに、正直なところ、なんとなくトム先輩のイメージが、だぶってくるのだ。
「……でも、優勝するのが、すべてじゃないし」
私は、説得力のない反論をする。良高のもの言いたげな視線に、なんだかイライラしてくる。
「だいいち、お姉ちゃん、トム先輩の学校での姿を見たこともないくせに、どーしてそう偏見持つわけ!? 人づてに聞いたことを、もっともらしくしゃべんないでよ!」
「あいつのことは、よーく知ってんのよ。彼氏が、あいつと遊び仲間だから」
「彼氏って、あの変な、アナーキーくずれみたいなやつでしょ!」
「それとは別の人」
「……あきれた。お姉ちゃんだって、男見る目ゼロじゃん。いっつも変なバンドやってる人ばっかりで、電話かかってくる声がコロコロ変わるんだから」
「えりか姉、しお姉に、1人くらいまわしてやったら?しお姉、男いない歴16年目突入だぜ」
やっと、私たちの会話に口をはさむことができた良高が、うれしそうに笑って言う。
「あたしの知り合いに紹介なんてできないわよ。しおりは、ちょっと違うから」
「ひでーな」
「それなりのレベルってもんがあるのよ」
お姉ちゃんは、口ゲンカすると、感情的にならない代わりに、一刺しで獲物を倒す弓矢のように、言葉の表現が鋭くなる。同じ言葉を、良高が言っても、お母さんが言っても、私は傷つかない。でも、お姉ちゃんが放つ矢は、いつも的確に、私の一番脆弱な急所につき刺さってくる。
やがて、良高とお姉ちゃんは、ロックやらパンクやら、よくわからない話の中にいってしまった。とり残された私のまわりで、空気の比重がうすくなっていく。
良高は、最近、お姉ちゃんの元彼氏の影響で、髪をとがらせることに熱心だ。でも、顔そのものは中国系なので、全然似合ってない。
小さいころは、お姉ちゃんより私になついて、あんなにかわいかったのに。ウルトラマンごっこの時は、私がバルタン星人になって、キックも受けてやって、良高ウルトラマンが星に帰るまで突っ伏して、死んだふりしてやったのに─
「ただいまあ」
玄関で、お母さんの声がする。音楽談議が一瞬とまって、すぐふたたび続きが始まる。
私は、このままぼおっとだらしなくここに座ってたら、お母さんから「またこんな所でダラダラして!」と一喝されるのがわかっていながら、足元から立ち上がる気力をなくし、ソファーの上に沈み込んでいく。
ガサガサというビニール袋の音が、近づいてくる。私はふと、サンタクロースを連想する。この家に最後にサンタが現れたのは、もう10年以上昔の事だというのに。
「ほら、そこそこ、外からまわって!三吉(みよし)!なんでとらないの、あんたは!! ぼーっとしてるやつ、もっと、動きなさいっ!!」
ヒステリックな女体育教師の声が、体育館の中にビリビリと響きわたる。
にぶいベージュ色のバスケットボールが、中途半端な弧を描いて、落下していく。つかもうとした誰かの手が、すいっと空(くう)を切る。ボールはバウンドし、団子状に結集した女子生徒たちの中に引きずり込まれていく。
「あけみ!こっちこっち!」
「いやあー!ちょっと今踏んでない!?」
「チャンスよ、今!そっちから投げてー!!」
ボールの動きに合わせて、ドタドタとあずき色の短パン集団も、不規則に移動していく。
私も、1回ボールにさわれたが、すぐにバレー部のやまちゃんからカットされて、それ以来ずっとドタドタ組だ。
いまやっているのは、バスケではない。どちらかというと、ラグビーとかフットボールに近い。とにかく、ボールを奪いあって走るゲームなのだ。
途中、ドリブルしてもよし。かかえ込んで走ってもよし。三秒ルールなんてめんどうなルールは一切ない。コートから少々はみ出してさえも、その場の雰囲気で続行してしまう。限りなく、エキサイティングなゲームなのだ。
このゲームを体育でやる主旨が、いまいちよくわからないが、いかにも、血の気の多い女教師の好きそうなゲームではある。2年の女子なんか、だれかが髪の毛をつかんだとかで、そのあとグループに分かれて大ゲンカになったとかいうウワサも流れた。
いつも思うのだけれど、こういう争奪戦というのは、絶対、男子よりも女子のほうが異様にテンション高く盛りあがる。男子だと、戦いつつもどこか冷静にかまえ、トラブルの手前でスーッと栓を抜く役目を、誰かが請け負ってくれる。しかし、女子にはそれがないのだ。
いったん火がついた女戦士には、どんな抑制も制止もきかない。行くところまで行ってしまうのだ。ゴールシュートを決めるのがすべて。
そのためには、たとえ少々相手を踏みつけようと、腕をつかもうと、押しのけようとおかまいなし。こういう女たちが、そのうちバーゲンセールで死に物ぐるいでワゴンの中をかきまわすのだ。
白熱する先頭集団からやや後方の位置で、その熱気に引きずられつつ、私を含むトロ集団は、プレステの名もないキャラクターのように、頼りなく揺れ動いている。
たぶん、空腹感がピークに達する4時間目という事が、みんなのアドレナリンに拍車をかけているんだろうと思う。
突然、バン!!というドリブル音とともに、私の目の前にボールが飛んできた。なんの心構えもないせいか、ボールがやけに大きく見える。
「ゆず子おおっ!!」
と同時に、私を取り囲むまわりから一斉に、地響きのように呼び声が耳に入る。ある者は金切り声で、ある者は不安を含み、ある者はハイテンションで。ふっと目が合った女教師は、しかめっ面で、私を見ている。
とりあえず私は、ボールを受け止め、かかえて走り出す。
すぐに、先頭集団に追いつかれる。倒される。もみくちゃになる。
起き上がろうとすると、やまちゃんが背後からのしかかってくる。
取られるものかと抱え込んだボールのわきから、3人くらいの手が伸び、ボールを奪おうとしている。遠くのほうからチャイムの音がする。
しかし、決着はついてない。みんなのテンションが一気にあがったのが、こすれあう体操服越しに伝わってくる。汗と混じった柑橘系の匂いがする。
なんだか、絶対にボールを渡してはいけない気がした。すでに、敵と味方の区別もあいまいなこのゲームで、やっと私に、スポットライトが当たったのだ。
このボールをいかに死守するかで、これからの私の存在価値が形作られるような気がする。いじましい執着心で、うつぶせにされながら、ズルズルとボールにしがみついていく。
「やだあー、もう、ゆず子!卵を詰まらせたヘビみたいだよ!!」
誰かが言って、ドッと笑い声があがる。彼女たちにとって、ランチタイムのチャイムが鳴ってしまった今、もう勝負の行方はどうでもいいのだ。ただ、どうやって終わらせるか、そこらへんに、プライド高いスポーツ部の人たちがこだわって体勢をくずさない。
まさにその時。聞きおぼえのある声が、耳に飛びこんできた。
どんな雑踏の中にいても、聞き分けることができる、あの、クセのある明るい声─
「あれ、まだ終わってねーや」
「武藤、サワーヨーグルでいい?」
「あー 俺、なんでも」
おそるおそる顔をあげる。その瞬間、ボールが奪い取られる。ふざけたクラスメイトが背中にまたがってきて、「技かけようか?」と無邪気に声をかける。
トム先輩は、びっくりしたような顔で、私のほうを見ている。そういう表情をすると、ものすごく整った顔に見える。
どうやらゲームはうやむやに終わりつつあるようで、みんなダルそうに歩いている。女教師の姿は、すでに、ない。
さっきまで白熱していた子ほど、「なーんか、気の抜けるゲームだったよねぇ」とか言って、立ち去っていく。
そういう風景が、私の周りで、ドラマのエンディングのように、おぼろげにうつろいはじめる。
なんで、よりによってあんなところを─
せめて、ボールをとった瞬間とかだったらなあ─
「ゆず子、ねえ、着替える前にこのまま売店行こうよ!調理パンおさえとかなきゃ、売り切れちゃうよ!」
涼子の声がする。調理パンなんてどうでもいい。気持ちが、ズルズルとすべり落ちていく。
「昨日の新ドラマ、ヤバかったよねー!?」
「そう!私、絶対ハマると思う!」
クラスメイトたちが、楽しげにしゃべっている。
私は、できれば体育館の裏あたりで、ひざをかかえて雑草でも眺めていたい心境だったが、とりあえず笑顔を作り、「あー、昨日、見た、見た。録画もしたよー」と、泣きそうなこころで、どうでもいい話に自分をまぎれこませる。
「……というわけで、オイラはその時思ったさ、なんてこったい、彼女のピンチだ、ここで行かなきゃ、男がスタる!急いで、部屋の中を引っかき回して、なけなしのmoneyをかき集めたさ。
そしてオイラは風になった!スペシャルチャリンコ、リック号と共に!
→
→ 全速力でロイヤルの前。
あー、待ってたわ、マイ、タカシ!あのねえ、お金が足りないの。みんな、今、金欠中。おねがい、あたしを愛してるなら、ちょっとの間、立て替えてくんない?
そう言って、マイハニーはキョンキョンスマイル。いったい、どこの誰が、キョンキョンに向かってイヤだと言える?オイラは言ったさ、まかしときなよ、ベイベー、オイラの愛の証を、見せてあげるよ…‥
親愛なる全校生徒の諸君、オレってバカ?!いやいや、お前たち、オレの彼女を見たことないから、そうやって笑えるんだぜ……」
くすくすくす‥…と笑い声がひろがる。木曜日のランチタイムはごきげんだ。トム先輩DJのスペシャルトークが、たっぷり聞けるから。
「…そんなタカシは、先日の物理で、マミーもぶっとぶような点数を取ったらしいというウワサが、ひそかに流れてる。ま、こいつの長所は、災難を災難と気づいてないところだな。長生きしろよ、タカシ、K! ここらで一曲。TOTOで、『アフリカ』」
曲が流れ出す。日替わりDJの校内ランチタイム放送は、軽妙なメンバーと幅広いリクエストナンバーで、絶大な人気を誇っていた。
中でも一番支持を得ているのは、やっぱりトム先輩。美術部と放送部を掛け持ちしているのだ。時に内容がどぎつくなるので、先生達からは再三警告を受けているらしいが、そんなものに屈する人ではない。おもしろがるかのように、きわどい内容をさらりとこなしてみせる。最近では先生達もあきらめムードだ。
ウワサでは、校長室ではこの時間帯だけスピーカーのスイッチがOFFになっているらしい。
「ねー、ゆず子、いいものあげようか?」
「ん?なに?」
「あんたが狂喜乱舞するモノ」
私は、フォークをお弁当箱に置き、瞳を輝かせて、涼子にすがりつく。
「なになに?ねぇ、もったいぶらないでよ」
「ふふふ」
涼子は、今日は機嫌がいいらしく、お弁当をきちんと全部食べていた。
ぺったりとした黒いカバンをぐいっと開き、中から写真を取りだす。
「ええーっ!!」
「ほら、トム先輩の生写真。お兄ちゃんからもらってきた。ちゃんと、一人で写ってんの選んでやったからね」
「あっ、ありがとおーっ!!涼子、あんたって、女神!」
「これなんかさあ、写りいいよねえ。前にシティ情報に載った写真より、イケてると思うよ。送って、商品券もらおうかな」
「だめー!!そんなことしたら、バチが当たるよおっ!」
お弁当もフタもハンカチもひとまとめにしてわきに寄せて、写真を3枚、机の上にひろげる。体育祭でハチマキを巻いたのと、教室で机に腰かけて笑ってるのと、校舎の裏に立っているのと、どれもモデル顔負けだ。
「どれにする?1枚だけね。あと、かすみたちにもあげるから」
「ええー、どうしよう‥‥ どれもいいよお、決まらない‥‥」
ふっと、写真の中の校舎の裏に立つトム先輩と、目が合った。
なんだか、なにかすごく大切な事を思いふけっているような目。
哲学的な目だ。
「…‥これにする」
「それね。じゃ、きぬやのバナナ大福でいいからね」
そう言って、涼子は手際よくお弁当箱を片付け、写真を手にとなりのクラスへと向かう。
私は、じっと、写真を手にとる。
緑色に伸びる鋭い夏草。ところどころに細いヒビの入った薄ピンクの壁。光線の加減で金髪に見える、トム先輩の髪。
バックから定期入れを取り出し、内側のフレームに写真をおさめる。
その瞬間、この写真の中のトム先輩は、私だけのものになる。
あらためてじっと見つめたら、このトム先輩をとりまく気だるい夏の風景が、遠いような近いような、奇妙な立体感をもって、心の中に浮かび上がってくる。
この、信頼感にも似た、心の安堵感は、いったい何だろう。
恋じゃ、ないよなぁ。しばらく前から、なんとなく気づいていた。
手がとどかないひと、とかじゃなくて、なんだか、自分にとって、決してクロスすることのない場所にいる、ってゆうか、いなくてはならない、いてもらわないと困る、そういう存在であってほしい、ひと。
まず、朝ベーコンエッグを食べていたら、私のだけ裏が真っ黒だった。
次に、学校に向かう途中、遅刻しないように走り始めたら、左右の靴下の色が微妙に違う青色だということに気がついた。
英語の時間、赤ペンを忘れて、となりの席の子の単語テストの答え合わせにシャーペンで黒丸をつけて返したら、「なに、これ?」と、露骨にイヤな顔をされた。
政経の先生から、久しぶりに、「魔法使いサリー」と呼ばれた。これは、私の天然パーマから来ているのだが、私はイヤミったらしい男性教師からこう呼ばれるのが大嫌いだった。
「でもさあ、小学校の頃の天然パー子よりはましじゃん」
「まだそっちのほうがストレートだからいいよ」
「ふうん。私もう、ドロンジョって呼ばれるのに慣れたよ。アニメおたくだから、しょうがないよ。あ、ゆず子、これもお願い」
「……」涼子の雑巾をキャッチして、バケツの中に入れる。泥水色の中に、ズズズと雑巾たちの群れが沈み込んでいく。
要領のいい涼子は、きっとこれから適当に机を並べて、彼氏のお迎えを廊下で待つのだ。
私は、かなり重たい雑巾入りバケツを手に、よたよたと階段を下りる。ホコリの浮いた汚れ水の中で、雑巾たちが何かの死骸のように揺れ動いている。
途中、大きくシャツの胸元を開けた1年生の女の子たちとすれ違う。バカ話で盛りあがる女の子たちは、私の存在に気づいてないので、壁ぎわスレスレに、両手でバケツを持ち上げつつ、そろそろと片足を下ろす。
やっと、水道場にたどり着く。バケツを傾けると、ドサドサと雑巾たちがなだれ落ちてきて、洗い場の中に小さな関ができる。雑巾の一枚をつまみあげると、汚れた水が排水溝めがけてじわじわと流れ始める。
腕まくりをして、いきおいよく雑巾洗いに励む。
雑巾洗いは、けっこう好きだ。さっきまで汚れていたものが、自分が手を加えたことによって、汚れが落ち、(完全ではないけど)もとの白さに戻る。洗いあがったあとの雑巾のさわやかさと、洗う過程でしぼり出された汚れ水とを見比べると、なんだかひと仕事したなあ、というしみじみとした、宮沢賢治的な気分になるのである。
まるで、今日一日のイヤな出来事たちが、雑巾の汚れと共に流れ落ちていったような気がしていた。その瞬間までは。
ふと、何の前触れもなく、すぐとなりに誰かの気配がした。
と共に、ダン!とけっこう大きな音がして、流し台にバケツがのせられる。
おそるおそる横目をはしらせると、つやのあるピンとしたロングヘアが見えた。
─小松さんだ。
さあっと、黒いカーテンが、目の前を揺らいだような気がした。
彼女とトム先輩は、めったにツーショットにならないので、ガールフレンドなのか、恋人なのかあいまいで、いろいろな人がいろいろな見解をしていた。でも、この2人は、寄り添いあっても全然違和感がない。小松さんがトム先輩に一番近い存在であるのは、まちがいないだろう。
もぞもぞと雑巾の最後の一枚を洗い続ける私の横で、小松さんは洗った雑巾をバケツの中に放り込み、小犬を追い払うように右手を鋭く振って水のしずくを切ったあと、バケツを持ってスタスタと立ち去っていった。
彼女がいなくなってしばらくたってからも、あたりにただよう群青色の余韻は、なかなか消えていかなかった。
テンション低く教室に戻り、バケツと雑巾をベランダに片付け、帰ろうとしたとき、部費が今日までだったことに気がつく。
そうか、昨日、持って来たけど、出すの忘れてたんだ…
教科書とノート、ペンケース、カバンの中身を全部引っぱり出す。空っぽのカバンのどこをまさぐっても、財布が出てくる気配はない。
頭の芯が、じわじわと固まっていき、やがて、さあっと悪寒と共に体のすみずみまで逆流していく。
─よく考えて。今日、お昼食べたとき、涼子にコーヒーゼリーたのんで、その代金を払う時は、あった。確かに。
クマのプーさんのイラストがついた、黄色い二つ折りの財布… あの時は、無造作にいつもの動作として右手だけでカバンのチャックを開けて、その中にすべり込ませて、またチャックを閉めて─あの時、気持ちが完全に、コーヒーゼリーのほうにいっちゃってたからなぁ… 床に落ちたってこと、ないよね、
反射的に、くすんだ灰色の床に目を落とすが、周辺にそれらしき物は、まったく落ちていない。
パニックを起こしそうな頭で考えをめぐらしていたら、今日の日直が新井さんであるのに気がつく。
新井さんは、みんなから「新井さん」と呼ばれている、ぽつんとした感じの子だった。髪の毛を二つに分けて結び、休み時間はいつも机に座って予習をしている。
よし、この人なら大丈夫。みんなにバレない。
できるだけさりげなく新井さんに近づき、そっと声をかけた。
「新井さん」
帰り支度をしていた彼女は、けげんそうな表情でゆっくりとふりむく。
「あのさ、今日、日直だったよね… 落とし物とか、届いてない?」
「届いてない」
それで、会話は、シャットアウトされてしまった。私のはかない望みも、断ち切られてしまった。
「おばちゃん、あたし、ガンモ!」
「牛スジある?」
「あるある。いっぱい仕込んどいたよ。ほら、あんたたち、そこじゃ外から見えるからさ、中にあがってお食べよ。先生がいつパトロールに来るかしれないからさ。見つかったら、やかましいんだろ?」
「わー、じゃ、おじゃましまーす」
ドヤドヤと、障子をあけて畳の部屋にあがりこむ。
何もない畳3丈の空間は、おでんの鍋とカセットコンロと、カバン付き女子高生4人が入り込んだらいっぱいいっぱいだ。すぐ横の障子の中からは、大きな音量のサスペンス劇場が聞こえる。
「お父さんが体悪くしてねえ、寝たり起きたりなのよ。ま、うるさい事はなんにも言わないからさ、どんどん遠慮しないでお食べよ」
「はーい、いただきまーす」
古びた駄菓子屋の奥で、私たちはすっかりくつろいで、1本80円のおでんを食べ始めた。夏はアイス、冬はおでん。
この店のおでんは、かなり好評なので、まだ制服が中間服のブレザーに変わったばかりだというのに、もうアツアツのはんぺんやら餅巾着やらが食べられる。
「ゆず子、学園祭のアート展に作品出すんでしょ?」
「うん… あちっ… その予定」
「人物画描いてるんだって?まさか、トム先輩がモデルじゃないよね?」
「ちがうよほおっっ… 雑誌の切り抜きのスクラップの中から、いろいろイメージして、描いてる」
「ふうん… あっ、卵が逃げるっ、このやろっ、… でもさ、そうゆうのって、絶対、好きな人に似てくるよね」
「そうそう」
湯気でメガネをくもらせながら、えんちゃん達がうなずく。
「トム先輩、卒業したら、どうするんだろ」
「イギリスに帰るってウワサもあるよ」
「大学には行かないみたいだよね」
「どっちみち、卒業したらそれまでじゃん」
何気ない涼子の言葉に、胸の奥がずぅんと沈んだ。
「でもさ、片想いって、一番いいよね」
真樹ちゃんがそう言ったことで、急に、その場の空気が変わった。
「なんでよ?」
「だって、相手を好きでいるだけでいいじゃん。何の見返りもなくてさ。
両想いになるとさあ、相手の悪いとこだけじゃなくて、自分の悪いとこもわかるじゃん」
「あー、そうそう、自分がいかにイヤな人間かってゆーのがわかるよね、ケンカした時とかね」
「傷つけたくなくて、黙って優しいフリしてたら、よけい煮詰まっちゃうんだよね、このおでんみたいにね」
おどけた感じで、真樹ちゃんは、割り箸の先で、つん、つん、と、はんぺんをつついた。
私は、話の中に入れずに、ハフハフいいながら、ちくわを食べていた。
「ガラスの10代なのよね、今はね」
「そのうち、傷つかない恋愛ってゆうのが、やってくるのかなあ」
「そーだね、いかに女に磨きをかけるかじゃない?」
「あー、はやく大人の恋がしたいっ」
えんちゃんが、ごろんとタタミの上に寝転がる。
「うん… そうだね、きっとできる、きっとなれる!とりあえず、今はそう思うしかないじゃん」
私は、黙っておでんの鍋を見つめていた。
卵やらガンモやら昆布やらが、グツグツと、ひとつの鍋の中で、次につまみ上げられるのを待っていた。
トム先輩は、美術部と放送部をかけもちしてたので、いつ作品を仕上げたのか、謎だった。家でコツコツやるタイプには見えない。
でも、学校では、まったくその気配がなかったので、家で仕上げたのだろう。
とにかく、それは、他の作品を圧倒していた。
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