【黄昏の時】
「でさぁ、彼が慌ててメールでごめんって」
「アハハ、そんなにイジメちゃ可哀想ですよ」
給湯室のドアが開かれると、さっきまでの賑やかな話し声がピタリと止んだ
「あ、木ノ下先輩、お疲れ様です」
二人は、声をかけ終えた後に振り返って軽く頭を下げた
「お疲れ様、悪いけど先に帰らせてもらうわね」
『この子達..背中に目でもついてるのかしら』
木ノ下は、夕刻に突然、訪れた来客へ、お茶を出し終えたところだった
「はい、わかりました。お疲れ様です」
二人はもう一度言い、木ノ下の手からお盆を受け取った
木ノ下は踵を返すと、歩きながらに無意識に首筋を拳でトントンしていた
クスクスという含み笑いに気付き、「ハッ」として手を下ろしたがドアを締め終えると、給湯室から二人の大きな笑い声が廊下にまで響いた
「はぁ..」
木ノ下は笑い声を背に聞きながら溜息をついた。手は首筋を揉み始めている
「ねぇ、木ノ下先輩って何歳か知ってる?」
「さぁ..無理して若作りしてるようだけど..33くらいですか?」
「キャハハハ!あの人、それ聞いたら泣いて喜ぶわよ」
裕美は笑い過ぎて、涙まで浮かべていた
「何歳なんですか?」
由香が本気で知りたがっているようだ
「42歳」
「え!42歳って..」
裕美は由香の次の言葉が何であるか察しがついていたのだろう..ニヤリと唇を歪ませ、大きく頷いた
「由香もここの『暗黙の了解』を知ってると思うけど、普通は30までに結婚して寿退社していくんだよね..でも、あの人は居座っている」
毒づくように裕美は鼻を鳴らした
「でも..付き合ってる人や、彼氏とかいるんじゃないですか?」
「いない、いない」
裕美は『とんでもない』と言わんばかりに顔と手を大げさに振った
由香は、この職場に配属されて日が浅い。木ノ下とは、仕事以外に会話をする事はあまりないが、嫌悪感を持っているわけではなかった
しかし、裕美の木ノ下に持つ感情は、憎しみに近いような異質なものを由香は感じ取っていた
「それよりさぁ、上原君っていい男じゃない?」
裕美の眼差しが、しっとりとするように艶めかしさを帯び始めている
「先輩、彼氏いるんじゃないですか?」
「あら、あなた見た目に似合わず真面目なのね」
裕美は鼻白むように由香を見た
「は、はぁ..」
由香は裕美の視線から逃れるように、洗いかけのコップに手をかけた
- 投稿制限
- スレ作成ユーザーのみ投稿可
更衣室に入ると学生時代を思い起こさせるような、若さ溢れる声が飛び交っていた
合コン、飲み会、デート。そういえば今日は金曜日だった。木ノ下咲子は隣の着替えをチラリと見て、少々肉付きのよくなった自分の腹と見比べた
「木ノ下先輩、お先に」
「あ、お疲れ様」
声をかけられた瞬間、腹を見られまいと力を入れたため、咲子の声はドスの効いた声音となった
ドアの閉まる音と共に、賑やかな声が遠ざかっていく
「ふぅ..何やってんだろ」
自嘲気味に笑うと、力の抜けた腹がジーンズの隙間を埋めた
「木ノ下先輩!」
咲子はピクリとして声の方へ振り返ると、鼻から安堵の息を漏らした
「岡崎、何が先輩よ。私と同級の遅生まれなだけじゃない」
「へへへ。でも、あちきの方が三ヶ月若いでありんす」
しなを作ると、岡崎晴代は悪戯っぽく舌を出した
今でこそ二人はからかい合えるほどの仲になってはいるが十二年前に一人の男を巡り、熾烈な争いを演じたライバル同士であった
その男、原沢隆一は全てに置いて非の打ち所のない、所謂『いい男』だったのである。だが、それが逆に仇となってしまった。誰にでも分け隔てなく与える非の打ち所のない優しさに、咲子と晴代は『私を好いている』と勘違いをしてしまった
お互い思い込みが激しく気性も似ているためか、先手必勝とばかりに二人による猛烈なアタックが展開された。咲子が夕食に誘えば晴代が割り込み、晴代が誘えば咲子が着いてくるという奇妙な三角関係が数年続いていた
他の女子社員が原沢に近付こうものなら、陰険なイビリこそしないが、その時ばかりは阿吽の呼吸で、こめかみに青筋を起て威嚇くらいはしていた
仁王様のような三十路女二人の鬼気迫る勢いに太刀打ちできるものはいなかった
しかし、それは突然、まさに青天の霹靂とでもいうべき事態が起こった
その日、咲子と晴代は原沢に呼び出されていた。根っからのおめでたい性格なのだろう
『ついに..きた!』
二人は、プロポーズを確信していた。『思い起こせば数年間の努力は涙ぐましいものだった。訳の分からない女が事あるごとに邪魔してくれたけど障害があればこそ愛の絆が深まったってわけよね..』
咲子と晴代の瞳から、涙がこぼれた。二人は鏡に向かい笑顔をみせると、濃い目の化粧を始めた
「15時に駅前のカフェバーか。お洒落な原沢さんらしいわ」
二人は幸せに満ち溢れた未来を思い浮かべていた
時計を見ると、まだ十四時を少しまわったところだった
咲子は待ち合わせの店の窓から中を覗いてみたが原沢の姿はまだ見当たらない
『まだ一時間あるものね』
咲子はクスッと笑った。嬉しさと緊張で、いつもの自分と違う事がとても可笑しかった
「少し歩こうかな..」
白のワンピースとヒールが暑気を涼しげなものに変えていた
駅周辺は雑多な店舗が建ち並んでいた。気分の高揚とは、普段全く関心のないものまで、愛おしく感じさせるものだ
咲子は花屋の前に屈み込むと、うっとりと鉢に植えられたサボテンを見つめていた
店員は売り物ではないサボテンを三十分も恍惚と眺めている女を、怪訝そうに見ていた
「あ、そろそろ行かなくちゃ」
腰を上げようとすると『カツカツカツ』と歩道のタイルを踏み割るかのような足音が近付いてきた。『あっ』という間もなく、立ち上がりかけた咲子の腰の辺りに女の膝が叩き込まれた
「うっ..」
咲子は呻いた
見上げるとお互いギョッとした表情になった
「岡崎..」
「木ノ下..」
お互い声には出さなかったが、こんな所で何をしている?と言いたげな顔つきであった
暫く沈黙が続いたが晴代が気を取り直したように、謝りもせず黙々と歩き始めた。咲子も『詫びなどなくて当然』のように、腰をさすりながら晴代と同じ方向へと歩き出した
晴代の姿は一足先に見えなくなっていたが、先ほどの店に着くと晴代の後ろ姿が目に入った。が、何か様子が変だ。店の窓ガラスから盗み見るように中の様子を窺っている
『こいつ..また、邪魔をしにきたのか?』咲子は殺意にも似た眼差しで見下ろすと、腰をかがめて覗き込む晴代に、花屋での御礼とばかりに脇腹へ膝を突き上げた
「グッ..」
「岡崎、あんた何してんの?」
晴代は悶絶し、暫く声もでなかったが『シッ!中を見ろ』と脂汗を滲ませながら顎で指した
「何よ」
咲子は晴代の隣りにズキリと痛む腰を屈め、中を覗いて見ると痛みなど一瞬で吹き飛んだ
店の中には原沢と、その向かい合わせにいる楚々とした女性が楽しそうに談笑していた
咲子と晴代は顔を見合わせ
「あんた..呼ばれたの?」
どちらからともなく尋ねていた
「あの女..誰かしら」
「社内にはいないわね」
暫く考えてたが分からない。原沢から話しを聞くしかなさそうだ
扉がゆっくりと開かれていく..プロポーズの文字が一字ずつ消えていくようだった
扉を開くと原沢が目ざとく二人を見つけ手招きした。連れの女は振り返ると席を立ち、原沢の隣りへと座り直した
咲子と晴代が二人の待つテーブルへと近付いた
「やぁ、まぁ座って」
原沢が愛想よく手を差し出した。二人はノロノロと椅子に座ると女の視線とぶつかった。咲子と晴代を品定めするかのように一挙手一投足をジッと見ていたのだ
「紹介するよ、こちらはフィアンセの真坂響子さん」
原沢がはにかむように二人を見た
二人はカッと目を見開いたまま凍りついた
「初めまして。真坂響子と申します」
屈託のない笑顔を見せた響子だったが、それには哀れみが濃く含まれている事を咲子と晴代は鋭く感じ取っていた
「二人とは本当に楽しい時間を一緒に過ごして頂いて、とても感謝している。響子は親父の会社の取引先の娘さんでさ..」
二人の耳には、もう何も入ってこなかった。原沢と響子を見ていれば日の浅い付き合いでないことがよく分かった
「と、いう事情なんだ」
長い演説を終えたようにアイスティーを一気に飲み干すとカウンターへ向かった
「隆一さんのお友達だそうで..そ、そのワンピース素敵ですね」
二人は沈黙している。何が素敵なワンピースだ..響子の身に付けているものと比べれば値の違いが一目瞭然であった
微動だにせず能面のような表情の咲子と晴代を前に響子は、間を持たせようと焦り出し、逆にそれが二人の神経を逆撫でするような言葉にしかならなかった
「グスン」
響子は涙ぐみはじめた。原沢がアイスティーを咲子と晴代の前へ置いた
「響子どうした!」
響子の異変にいち早く気付くとハンカチを取り出し人目も憚らず、かいがいしく世話をやきはじめた
咲子と晴代は俯いて肩を小刻みに震わせていた
「君達もどうしたんだい?」
原沢の目が行ったり来たりと忙しく動いている
「ククク」
「プププ」
次の瞬間、大きな笑い声が響き渡った
咲子と晴代は馬鹿馬鹿しくなってきた
「原沢さん、今までありがとう。本当に楽しかった..真坂さん、お幸せに」
二人は席を立つと原沢と響子に軽く手を上げ店を出た
原沢と響子はポカンと口をあけていた
少し歩きたい気分だった..
晴代の頬に涙の跡を見つけた
「何、泣いてんのよ」
「泣いてないわよ!脇腹が痛むのよ!」
晴代がゴシゴシと目を擦る
黄昏時の夕焼けが咲子と晴代の頬をいつまでもキラキラと輝かせていた
「へい、お待ち」
会社帰りの人間で混雑していた裏通りも、ようやく落ち着き、屋台ののれんが香ばしい匂いを運びはじめた
咲子と晴代の前に炙りたての焼き鳥が八串と熱燗四合が添えられている。優に一升ほどは空けていた
「次は砂肝ちょうだい」
二人は自分で酒をついだ。つぎつがれが性に合わない二人は、勝手に手酌で杯を満たすのだ
「岡崎..あんたも古い話しをいつまでも、覚えているねぇ..十年以上前だよ」
咲子はあきれたように晴代をみた
「覚えているからって、あの男に未練があるわけじゃないんだよ。あんたに蹴られた脇腹が痛むのさ」
晴代の口調が変わってきた。顔色が青白くなり剣呑な雰囲気が漂いはじめた
咲子は苦笑いをするとクッと飲み干し、杯を満たした
「あんた..この先どうやって生きるのさ」
晴代は頬杖をつき焼き鳥を宙にかざして眺めている
「どう..って何が?」
「親父!焼きが甘いぞ!」
晴代が空串を突き出した
「へ、へい。一本勉強させて頂きますんで..ご勘弁を」
親父が頭を下げて一本焼き出すと、晴代はニンマリと機嫌良くなった
「何がって..この先独りぼっちで生きて行くかってことよ」
咲子も晴代も結婚願望がないわけではなかった。結婚し家庭持ってと、あれこれ思いを巡らしているうちに『別にいいか..』と自己完結してしまうのだ。しかしそれ以上に結婚により、自分の中の大切な何かが失われていくようで怖かった
「そうねぇ..」
咲子は空串を突き出すと
「親父!焼きが甘いぞ!」
晴代の真似をした
「お嬢さん、勘弁して下さいよぉ..」
親父が泣きそうな顔になった。ニンマリと咲子の顔がほころんだ
「フフ..冗談よ。岡崎、そろそろ帰るよ。いくら?」
「へい、9600円になります」
咲子は財布から一万円を取り出すと『釣りはいらないよ』飲み足りない晴代の背中を叩き、バックを肩に吊してゆっくりと歩き出した
「どうしたんだい急に?」
「ううん、別に。ただ歩きたくなっただけよ」
火照った顔にジングル・ベルの音色と共に冷たい風が包んでくれた
晴代と別れると暫く独りでクリスマス一色に染まった街中をブラブラしていた
夜が更けるのを待つように恋人達が寄り添って歩いている
「真っ赤なお鼻の..」
路地裏へ入ると月明かりが仄かに道を照らし出していた。咲子は口ずさみながらジャンパーの襟をたてた
この時期になるとクリスマスや年末で毎年、慌ただしくなってくる。何か予定があるわけではないが、仕事や周囲がバタバタしてくると、此方もつられてしまうようだった
咲子は30分以上もコピー機の前で奮闘している。台車にコピー用紙の束が降り積もった雪のように山積みされていた
「木ノ下さん、後どのくらいかかりますか?」
まるでロボットのように黙々とコピー作業をする咲子の後ろから、恐る恐る上原が訊ねた
「あ!?」
咲子は急に声を掛けられ驚いたように振り返った。チラッと顔を見ると上原の持つ書類が目に留まった
「コピーするの?何枚?」
咲子はコピー機から原稿用紙を取り出すと、上原の持つ書類を取り上げた
「あ、はい。10枚..」
ウィーン..と、旧式コピー機の間延びした音が続いた
「はい」
咲子は振り向きもせず後ろ手に原稿とコピーを渡した
「ありがとうございます」
上原はコピーをパラパラと確認すると軽く頭を下げた
咲子が作業に戻っても上原の立ち去る気配がなかった
「何よ?まだ用があるの?」
顔だけを後ろに向けると上原の目とぶつかった
「あ、いや..別に」
瞬かせた目をコピー用紙に落とすと、重たそうな足取りで扉のないコピー室を出て行った
『何だアイツ?』
不思議そうに首を傾げ、また黙々と作業を始めた
昼食になると社員食堂は女子社員の井戸端会議に花が咲き、専ら男子社員の噂話で持ち切りとなる。ここで男子の査定が行われ、今後の明暗が別れると言っても過言ではないだろう。それ程、社全体を女子の占める割合が圧倒的だった
「裕美、上原君さぁコピー室で木ノ下さんと一緒だったよ」
加奈は、上官へ報告するように言葉を切り出した
「ふぅん..」
まるで、気の無いかのような返事をしたが、次の二の句を継いでこない加奈を睨み付け、『で?』とイラつくように促した
「5分くらいして上原君が出て来たんだけど、なんか、重たそうな足取りでトボトボ歩いてたんだよね」
「私も最近上原君が木ノ下さんの近くにいるのをよく見るわよ」
まるで斥候隊から逐一報告を受けるように、次から次へと目撃情報が入ってくる
「ふぅん..」
やはり裕美は気の無い返事をしていた
「裕美、大丈夫よ。あんなオバサンを上原君が好きになったりしないって」
勘の鋭い貴子が慌てるようにフォローした。裕美は気の無いように両肘を付いてコーヒーを啜っている
その日、上原は普段よりも30分早く出社していた。別に仕事が遅れていた分けではなかったが、どうしても人目につかない内に片付けておきたい用事があった
『多分..あるよな』
上原は少し憂鬱そうに、エレベーターに乗り込んで携帯を見た。まだ8時前だ。後30分もすれば、2回は待たなければならないところだ
「チン..」
音もなく扉が開くと足下から冷たい空気が流れ込んだ。ビル内は薄青色のカーペットを敷き詰めている。歩いても足音が吸い込まれていくような不思議な感覚だった
このビルには社長室以外の部屋に、ドアや扉といった類のものを取り付けていない。『ドアを開ける数秒間が無駄だ』という社の方針だった。会社自体は忙しくもなく、暇でもない年中のんびりとした雰囲気なのだが、地元では名のある老舗の部類に入るだろう
上原は少しだけ入口から顔を覗かせ、誰もいない事を確認すると、自分のデスクへと足早に向かった
「上原、今日はやけに早いな」
ギクリと背後へ振り返ると、油ぎった肌と年齢に不相応な茶髪をした顔がニヤついていた
「川見先輩..」
上原はバツが悪そうに机の上に置かれていた、青いリボンで飾られた小さな箱と、メッセージカードを隠そうとしたが遅かった
「何だそれ?」
後ろ手に隠そうとする上原の肩を押しのけると、川見は上原の手から小さな箱とメッセージカードを取り上げた
「お?広谷裕美からのプレゼントじゃないか」
川見は今にも分厚い唇で口づけしそうな程まで、小さな箱へ顔を近付けた
「は..はぁ..」
「お前、毎年、広谷からクリスマスプレゼント貰ってるのに、何故アイツの気持ちに応えてやらないんだ?」
メッセージカードに目を走らせながら、良き先輩を演じるかのように川見は訊ねた
川見は以前、広谷裕美が入社した年のクリスマスに告白をしたが無碍なく振られていた。どちらかと言えば美男と呼べる川見だったが社内の評判は芳しくなかった。結婚はしているが、入社した女子社員を物色し目当ての女を見つけると無節操に近付いた。親子程の年齢差があってもお構い無しにだ。社内に川見の女癖の悪さを知らない者はいなかった
「あぁ..俺、外見は良くても性格悪い奴って、嫌いなんですよ」
一瞬、川見の表情が気色ばんだ。広谷裕美への未練が、ありありと浮かんでいる
この問答は毎年々、クリスマスの朝には見慣れた光景となっていた。上原はウンザリしていた
咲子は階段を使い一階から十階までを汗ばむくらいに往復をしていた
「次は..専務さんか」
階段を登りながら小脇に抱えたメール便を確認した
「ふぅ..」
一階から九階までを登り切り、額の汗を袖で拭いながら大きく深呼吸をした。地元で名だたる老舗だと言っても、建物まで古い分けではない。ビルディングと呼ぶには、おこがましいが、十階建の瀟洒な造りであった。勿論エレベーターを完備してはいるが来客専用となっていた。『最近の若いもんは直ぐに楽をしたがる』と、年始の挨拶で社長自ら体力増進をスローガンに、社員は男女問わずエレベーターの使用禁止が発令されたのだった
「まさか、十二月にこんな目に遭うとはね..」
咲子の仕事は雑多なものだった。メール便からお茶汲み、さてはトイレ掃除まで雑用係とも呼べた
しかし、入社当時から雑用係紛いの仕事をしてきた分けではない。『創立以来、初の女性管理職誕生』と謳われていたが、ある日突然、咲子は一週間無断欠勤をし、翌日に退職願いを出したのだった
当時を知る者の話しによれば
「泣いた後のように目が赤く..瞼が腫れていて..」
まるで幽霊のような印象を受けたと誰もが感じたそうだ
同期入社し、犬猿の仲とも呼べる岡崎晴代でさえこの時ばかりは、咲子の変わり果てた姿に絶句したという
結局、退職願いは受理されなかった。咲子の能力を惜しんだ現専務取締役の説得もあったが、それ以上に咲子を慕う周囲からの嘆願が、退社を思い留まらせた一番の理由だった
「気持ちの整理がつくまで、休職させてもらいたい」
専務は咲子の希望を承諾し
「気持ちの整理がつくまでは、今手掛けている業務から外れ、雑務をしてくれたらいい」
と、組織の人間には似つかわしくない人情味ある言葉をかけたのだった
「専務さんに会うの久しぶりだな」
立場的に専務と顔を合わせる機会は殆どないが、ばったりと顔を合わせると決まって専務は
「木ノ下君、気持ちの整理は着いたかね?」
「は、はぁ..」
雑用係の気楽さにどっぷり浸かり、気まずそうな咲子の肩をニンマリと叩いてすれ違うのだった
咲子は、今までのそんなやり取りを思い浮かべながら扉のない専務室に近付いた
「私を利用しないで!」
「晴代、待ちなさい!」
聞き慣れた声と只ならぬ気配に咲子は隣の応接室に身を隠した
『岡崎..?』
目の前を走り過ぎた晴代は咲子の知らない別人のようだった
あの日の出来事以来、咲子の気分は晴れないでいる。晴代と専務のやり取りが頭から離れなかった。岡崎が誰と付き合おうと気にはならない。むしろ心から祝福してあげたいと、思えるようになっていた。晴代と原沢を巡り、競い合った頃の若さはもうない
晴代には友達として、いや、戦友として悔いの残らない人生をと願っていた
「岡崎が不倫だなんて..」
咲子は沈鬱な表情で夕陽に柔らかく包まれた更衣室を出ようとした
「おぉびっくりした」
岡崎も仕事を終えて着替えにきたところだった
「木ノ下、今帰り?」
「う、うん」
あれから暫く晴代と顔を合わせる機会がなく、どんな顔で接していいのか悩んでいた矢先だったため、どこか不自然だったに違いない。それを十年以上の付き合いである晴代が見逃すはずがなかった
「何よ」
晴代の目つきが鋭くなった
「別に、何でもないよ」
咲子は作り笑いをして一瞬、晴代と目を合わせたが直ぐに視線を逸らした。晴代の不信感はますます募った
「言いたい事があるならハッキリ言いな!」
晴代は腕組みをすると肉付きのよい長い足を『でん』と開き仁王立ちとなった。白状するまではここから帰さないつもりらしい
「ふぅ..わかった」
俯きながら溜め息を一つ吐き出すと咲子は微笑んでみせた
「それじゃハッキリ訊くけど、あんたと専務ってどういう関係なの?」
「うっ」とたじろいだ晴代を今度は咲子が見逃さなかった
「まぁ、あんたがどこの誰と付き合おうがいいんだけどさぁ、不倫なんてあんたが惨めな思いをするだけなんじゃないか..って言いたいわけよ」
眉間にシワを寄せた晴代は、ポカーンと口を開いている
「は!?誰が不倫って?」
「だ、だからあんたが不倫だって」
咲子はほんのり頬を赤らませ身じろいだ。晴代は困惑している
「あんた熱でもあるんじゃない?」
腕組みを解くと咲子の額に手を当てて、真剣に熱を計っていた
「熱なんてないわよ」
白々しいとでも言いたげに晴代の手を静かに下ろした
「誰に聞いたの?」
「そこまで惚けるなら教えてあげる。この前偶然あんたと専務の会話を聞いたの」
少し考えてから『ははぁん』と合点がいったように晴代は大きく頷いた
「あんたの思い込みの激しさはあの頃とちっとも変わらないねぇ」
晴代は嬉しさと懐かしさをない交ぜにしたように咲子を見つめ『続きは一杯やりながらね』と咲子の肩を叩いた
木漏れ日のような暖かさがカーテンの隙間を見つけ、ベッドからはみ出した爪先に触れている。頭まで被った毛布を少し捲ると、時計の針は午前10時を指している。咲子の頭の中ではまだ除夜の鐘が打たれていた
「頭イタ..」
昨夜『一杯やりながらじゃないと話せない』という晴代たっての希望もあり、いつもの焼き鳥を肴にした晴代は、生い立ちにまで遡り訥々と語り始めていたのだが、やはり場所が悪かった。肝心な専務と晴代の話しに近付いた頃には二人とも、へべれけになっていた。晴代の『オジガ』『オミア』という意味不明な言葉を断片的に覚えているだけだった
しかし、別れ際に
「木ノ下、心配してくれてありがとう」
言うことをきかない舌を懸命に操りながら晴代が手を上げ微笑んだ姿だけは鮮明に覚えている。結局、専務と晴代の関係は今一つ解らなかったが咲子の心配していたような事はなさそうだった
二日酔いも治まり始めた頃には12時近くになっていた。咲子はノロノロとベッドから這いだすと、思いっきりカーテンを開いた。小雪でも舞いそうな昨夜の冷たさも今日は嘘のように暖かい。目を細めたまま大きく背伸びをすると、両手を頭の後ろに組んだまま暫く突っ立っていた
「散歩でもしてみるか」
そうと決めると、いそいそと支度にかかった。丹念に化粧を終え髪を纏めあげると器量は十人並みだが、なかなかに上品な女性に見えた。白いコートに黒のタートル、少々キツくなったがタイトなデニムに黒のブーツが咲子のお気に入りだった
誰かと会う分けでもないが気分転換に咲子は、よくこんな事をしている。街で晴代と偶然に出逢うと『木ノ下咲子様でございましょうか?』等とからかわれたりした
玄関先で二日酔いのせいか目の霞みを覚えたが、アパートの階段を降りきった所でコンタクトをしていない事に気付いた。『あっ』と立ち止まる。
「ま、いいか」
面倒やの咲子はコツコツとブーツの音をアスファルトに小気味よく響かせ街へと歩いて行った
春先のように穏やかな昼下がり、休日とあってか子供連れの家族がよく目についた。歩道脇の花壇に目をやりながら暫く歩くと、咲子の勤務先のビルが見えた。入口にはまだ角松がドカリと腰を据えている。誰もいないビルを少し眺めて、また歩き出した。少し歩くと反対車線の歩道から咲子を呼ぶ声が聞こえた。ハッキリと顔が判らないが男が手を振っている。周りには咲子しかいない。訝りながら咲子も手を振った
咲子が手を振り返すと男は嬉々として此方へと繋がる歩道橋を全速力で駆けて来た。歩道橋の中央辺りまで近付くと
「木ノ下さーん!」
大声を上げながら更に手を振りながら転げ落ちそうな勢いで歩道橋を降りて来た
『な、何..』
コンタクトを忘れなければハッキリと顔も分かったはずだろうが裸眼では数M先がボヤケる目の悪さであった。咲子は少々腰の退けたように軽く身構えた
3M程近付いたがやはり咲子には見覚えのない顔であった。男は息を切らしながら咲子の前に立つと何とも言えない笑顔を見せた
「こんにちは。雑用係の木ノ下さんですよね。お出かけですか?」
「は!?はぁ..こんにちは」
名前を知ってるからには間違いではなさそうだ。しかし、咲子の方は一向に記憶がない。もしかすると仕事関係のお客さんだろうかと、とりあえず愛想笑いをしてみたが中途半端な表情になってしまった。男は咲子の心中を察したかのように自己紹介をした
「あ、いきなりすいません。同じ会社の上原って言います。会社に忘れ物を取りにきた帰りだったんです」
上原は少し照れくさいように頭を掻いた
「上原..君」
自分より一回り以上は違うであろう上原の顔をじっと見つめていると社内で何度か見かけた事を思い出した
「この前コピーをありがとうございました」
年の暮れにコピー機と奮戦中にコピーを頼まれた事をようやく思い出した。他の女子社員であれば嬉しさで忘れられない日となっていただろうが、ときめく感覚等はとっくの昔に錆び付いた咲子にとっては、歯牙にもかからない出来事でしかなかった
「別にいいわよ」
白い息を両手に当てながら咲子は言った
上原は咲子が軽く手を上げ立ち去ろうとすると引き止めるように話しかけた
「前にも何度か木ノ下さんと顔を会わせた事があるんですよ」
1月の寒さのせいだろうか上原の顔は火照ったように赤みを帯びている
「...」
「僕、ずっと前から憧れていたんです!」
「雑用係になりたいの?」
上原の思いがけない一言で長く錆び付いていた感覚が輝きを取り戻しかけていたが、そんな自分を嫌悪するように咲子は話しを逸らした
偶然とは恐ろしいものでこの日この場所に居合わせたのは咲子と上原だけではなかった
「ほほぉ..」
晴代は二人の目の前にある喫茶店でガラス越しに目を細めていた。晴代の席から少し離れたソファーでは裕美が固まったように二人を見ていた
薄青色のカーペットが敷かれた廊下にキコキコとメールカーの車輪の音だけが聞こえる
「ドンッ」
「イタッ」
晴代は咲子の背後から更に忍び足で近付くと勢いよく咲子に肩をぶつけた
「岡崎、何よ!」
「へへへ..見ちゃった」
晴代が肩を並べてニヤリとした
「何を見たのよ」
メールカーを押しながら咲子が訊ねた。心なしか化粧も以前とは少し違って見える。香水もつけているのだろう、あるかないかの淡い香りも漂っている
「昨日、上原と下の喫茶店の前で話してたじゃない」
晴代は咲子と上原が立っていた路上を顎で指した
「え!?どこで見てたの!」
メールカーがつんのめりそうになった。咲子の一重瞼がこれ以上ないくらいに大きく見開いた
「だって、その喫茶店にいたんだもん」
うろたえた自分が何だか滑稽に思えた。何でもないのに何を期待してんだろう。自嘲気味に鼻で笑うと綺麗に仕分けされたメールを手持ち無沙汰に触り始めた
「そうなんだ。まぁ別に見られて困るような事はないけどね」
「結構いい感じだったじゃない?木ノ下さんに憧れている。なんて言われてさぁ」
「げぇ!何でそんな事まで..」
何が何だか分からないようにキョトンと晴代の顔に釘付けとなった
「ん?趣味で読唇術習ってるから..」
晴代が事も無げに言う
「あんた一体何者..」
長い付き合いの晴代ではあるが今ひとつ正体をつかみ切れない咲子は、ようやくその片鱗を垣間見たような気がした
「それよりさ、あんたどうすんの?あれは告白と考えていいんじゃない?」
晴代が優しく訊ねると咲子の頬にぽっと赤みがさした
「べ、別に..そんなんじゃないもん」
まるで子供みたいに赤い頬をプクッと膨らませた咲子を見ていると、とても四十路を過ぎた女とは思えない。たとえ年齢は積み重ねても多感な心が失われなければ、ふとした瞬間にあどけなさが無意識に出てしまうのだろう
「上原は人柄も悪くないよ。勤務態度も真面目だし」
顎をさすりつつ思い浮かべるように晴代は言った
「何で上原君の事に詳しいの?」
さっきとは打って変わった表情で訊ねる咲子の口調に何か手応えを感じた晴代は嬉しかった
「だって、あたしの部下だもん」
これでも晴代は実力でのし上がった商品開発部の課長である
「そうだ。あんた課長さんだったねぇ」
思い出したように手揉みしながら愛想笑いする咲子であった
何とか上原との一件は話しを逸らし、晴代から逃れたが、やはり休日とはいえ出社していた人達が他にもいたのではないだろうか
『あんな目一杯、お洒落した格好で二人でいる所を見られれば勘違いされるだろうねぇ』
後ろめたい事があった分けでもないが、咲子の気分は晴れないでいた
「木ノ下先輩!」
総務課の前を通り過ぎようとすると、野乃由香が咲子の乳母車を押しているような後ろ姿に声を掛けた
「え!?」
「それそれ」
振り向くと、えくぼを覗かせた由香が咲子の手に持たれた封筒を指差した。封筒を見ると総務課宛だった
「あ、ごめんね。でもよく分かったわね」
頭を掻きながら由香に封筒を渡すと、照れくさそうに肩をすくめた
「いえ..この時間くらいに届くだろうって先方から連絡があったので」
由香の声には姉にでも話すような親しみが込められていた。幼い頃父親を亡くしてから母親と姉との三人暮らしであった。母は二人の娘を育て上げるまで、早朝から深夜まで働き詰めだった。咲子ほどの歳の離れた姉が母親代わりとなり由香の面倒を見ていた。そんな姉も半年前に病気で、あっと言う間に死んでしまった
「木ノ下先輩、それよりちょっとお話しが..」
由香は辺りをキョロキョロと見回し、咲子の袖を掴んで隣の給湯室へ連れ込んだ
「ど、どうしたの!?」
由香の緊迫した表情に咲子もつられるように表情が強張った
「木ノ下先輩、上原さんと付き合ってるんですか?」
ハッとする咲子を切実な視線で由香が見つめていた
咲子の気分が晴れないでいたのは、このような場面を予測していたのかも知れない。確かに上原はイイ男であったが、咲子にしてみれば年下は恋愛の対象外であり、また『縁のある者同士が結ばれればいい』この終生不変の恋愛哲学が芯から築き上げられていた
「とんでもない!!」
目を丸くして大袈裟に首を横に振った
「野乃さん、多分昨日の事を誰かに聞いたのかも知れないけど、私と上原君は何でもないからね」
苦笑しながら答えた咲子の胸が、なぜかチクリと傷んだ
咲子を見ていると由香は何かに気付いたらしく慌てて
「あ、私はどうでもいいんですけど。広谷さんが..」
「広..谷さん!?」
由香の顔を見ながら暫く考えていると、ようやく広谷裕美の顔が浮かんだ
「そうです、その広谷さんが昨日、木ノ下先輩と上原さんが喫茶店の前で恋人みたいに話してるの見ていたそうです」
『あんなオバサンのどこがいいんだろう..』
仕事中、PCに向かっている時でも、ふと指が止まり上原の楽しそうに咲子と話している姿が目に浮かんでくる。上原が咲子に好意を寄せている事は明らかであった
暫くするとPCがスクリーンセーバーに切り替わった。プロのカメラマンに撮影して貰った裕美の写真がゆっくりと浮かんでは消えていく。男を弄ぶことはあっても、あしらわれる事などなかった裕美には信じられない事態であった
「この私が袖にされるなんて..」
小さな黒い空間には、モデルのような衣装に身を包んだ自分が微笑んでいる。裕美にしてみれば恋愛の次元を超えたプライドの問題であった
「絶対に..」
独り呟いて見せた微笑は、端正な顔立ちに不釣り合いなひどく残酷なものに映った
「裕美ちゃん!」
背後から粘っこい声音と共に両肩をがっしりと掴まれた。裕美は仰け反るように背筋がピンと伸びた
「川見さん..」
ほんの少しだけ首を動かすと左肩に、川見の脂ぎった顔が乗るような型で覗き込んでいた
「お!この写真、裕美ちゃんだよね。可愛いなぁ」
川見の両手は必要以上に裕美の肩を掴んだまま離れなかった。以前、裕美に交際を申し込んで断られたが川見は執拗であった。『一度狙った獲物は手段を選ばず、必ず物にする』という性癖をこの男は持っていた
「あ、あの何か御用でしょうか?」
キーを素早く叩き、両肩に置かれた手を払うように勢い良く椅子をクルリと回して向き直った
「あぁ..少し時間が空いていたからさ、裕美ちゃんの恋愛相談でも聞いてあげようかなと思ってさ」
肩から振り払われた川見の両手が宙を掴む格好となった
「結構です」
視線を川見の足下に落としたまま、素気なく答えると
『出て行って下さい』
とでも言いたげに、クルリと椅子の向きを変えた
川見は暫く裕美の首筋から背中を禽獣のように視姦すると、満足するように口の端を歪め裕美から離れて行った
川見に掴まれた両肩が、ねっとりと湿りを帯びている。裕美は汚物でも見たように顔をしかめると、席を立ち更衣室へと向かった。PCには煌びやかな裕美の姿が、主を捜すように浮かんでは消えていた..
咲子は一人だけの残業を終えると誰もいない更衣室を出た。今日は金曜日若い女子社員達は、それぞれの予定がある事だろう。
だが咲子には、あの一週間の無断欠勤の後に幽鬼のような姿となって会社に現れて以来、週末の楽しみ等には無縁の人生を送っていた。当時の咲子を知る者は皆、退社をしており事の真相は誰にも分からず、咲子の胸の内だけで月日が過ぎ去っていた
「あぁ肩イタ..」
大きな背伸びを一つすると、拳で肩を叩いた
「木ノ下!」
咲子はスポーツバックを肩に吊したまま振り返ったが、春の兆しと共に柔らかくなった夕陽が窓ガラスから差し込んでいるだけだった
「岡崎?」
あの声は確かに晴代のものであったが、姿が見えない。咲子は暫くオレンジ色の廊下を見ていたが、小首を傾げると歩き出した
「わッ!!」
「うわッ!!」
此処にあの日の咲子を知る人物がいる事を忘れていた。晴代だ。声と同時に背中を叩かれた。飛び上がるくらい驚いて後ろを見ると晴代がヒールを両手にブラブラさせたまま、悪戯気な笑顔を見せていた
「ちょっと、何よあんた心臓止まるじゃないの」
「ワハハ!それより今からどう?」
咲子の肩に手を回しながらクイッと指杯を傾けた
苦笑いしながら横目で晴代を見ながら
「一杯やるか」
二人の影が肩を並べ歩き出した
「岡崎、どこで飲むつもりなの?」
香ばしい薫りだけを嗅ぎながら、いつもの焼鳥屋を通り過ぎて行く
「今夜は、ちょいとお洒落な場所で飲もうかなとね」
「ふぅん..」
咲子はスポーツバックとスポーツシューズ姿の自分と、晴代のブランド品のパンツスーツを見比べていた
「そうだ。あの路地の角に辻占がいるでしょ?よく当たるんだってよ」
晴代が二十メートル程先を指差した。見ると、小さなテーブルに純白のクロスが掛けられている
「あんな場所に辻占なんていたの?」
咲子は、この界隈には足を向ける事がなかったので疎かった
「うん。私達が入社した頃に開店したそうよ。かなりの霊能力の持ち主だって」
「何か怖いな..」
咲子は幽霊とお化けの類が大の苦手であった。以前、宿泊した旅館で小さな女の子が人懐っこくて一緒に遊んであげたのだが帰り際に
「え!見たんですか?その女の子、座敷童だよ!良かったねぇ」
と、旅館の主に言われて失神した過去を持っていた
「大丈夫よ『涼子おばちゃん』って、皆から慕われているんだから
仕事帰りに飲みに行く者達で通りは賑わっている。近頃は女同士で肩を組んで夜街を闊歩するという、咲子と晴代も顔負けの女性も多くなってきたようだ
咲子は晴代に誘われるまま、占い師の方へ近付いた
「涼子おばちゃん、私の友達..じゃないんだけど、木ノ下咲子っていうの。お願いね」
どう見ても友達にしか見えない二人であったが、友達という言葉を口にすると何か照れくさいようで、お互いに友達という言葉は使わなくなっていた
晴代は乗る気のない咲子の肩を椅子に座るように導くと、少し遠くに離れて携帯を取り出した
「あ、どうも..お願いします」
占い師の顔をチラッと見て、ちょこんと頭を下げた
「此方こそ宜しくね」
そう言って占い師は微笑んだ。まだ、五十代前半であろうが髪は染色されたような綺麗な白髪であった。しかし、顔には小皺ひとつなく透き通るような白い肌はまるで二十代のようであった
咲子の両手を取ると純白のクロスの中央に描かれた黒い星印の上にそっと置いた
咲子はじっとテーブルを見つめている
占い師は左手を咲子の両手に乗せ右手の中指を自分の額に暫く当てていると哀切な表情を浮かべた
「あなた..大切な人を失ったのね..」
ハッと顔を上げた咲子に占い師が小さく頷いた
「お互いの気持ちに気付いて、意識し始めた頃だった..」
咲子は目を閉じている
「僕の事が忘れられなくて苦しんでいるのなら、せめて幸せになってほしい..彼がそう言っているわ」
咲子の頬に一筋の泪が零れ落ちた
「ありがとう..もう十分です」
泪を拭うと咲子は笑顔を見せた
「あなた..私の大切な友達に似ているのよね」
「大切な友達..ですか?」
懐かしむように占い師は頷いた
「その友達って..今は?」
「死んじゃった..」
占い師は哀しみを乗り越えた者だけが持ち得る特有の眼差しだった。咲子は占料を支払うと、もう一度礼を言い晴代と店へ向かった。最後に
「あなたに好意を寄せている男性がいるわね..年下だけど、その方ならあなたを大切にしてくれるはずよ」
と告げられた。間違いなく上原の事であろう。だが咲子には、どうしても死んでしまった『彼』とも呼べない彼の事が二十年以上経った今も忘れられなかった。それ程までに咲子の情は深いものなのだ
晴代に連れられて入った店はジャズの流れるしっとりとしたバーだった
店の中は程良い薄暗さに包まれて、スーツ姿の男女が高めの椅子に腰掛けて談笑している。赤提灯の味しか馴染みのない咲子であったが、『静かな雰囲気も悪くないな』と感じつつ店内を見回した
「あら?晴ちゃん久しぶりね」
二人がカウンターに座るとサラダを盛り付けていたママが振り返った
「ママ久しぶり。元気だった?」
「まぁね..ボチボチ」
と肩を竦めて見せた
「何する?」
ママがカウンターに両肘をつき、ざっくりと襟の開いた黒いブラウスから、ふくよかな胸元を少し覗かせて尋ねた
「私は..ターキーのロック。木ノ下は?」
「じゃ、私も」
「ターキーのロック二つね。ちょっと待っててね」
ナッツの盛られた小皿を二人の前へ置くと本棚のようにびっしりと並んだボトルを探し始めた
「お洒落なお店知ってんだ」
咲子はそう言うと、改めて店内を見回した
「あぁ..叔母の店なの」
「え、そうなの!?」
言われて見ると切れ長の目元と、ほっそりした顔立ちが似ている
「うん..叔父も時々、来るけどさ」
そう言った晴代の表情に翳りが滲んで咲子はちょっと驚いた
「叔父..さんて?」
晴代の頭がゆっくり咲子へと向き直った
「あんたっ!あの時酔っ払って話しを聞いてなかったね!!」
晴代が呆れ顔で言い放った
「え、ちゃんと聞いてたよ!ほら何だっけ..」
咲子は必死で記憶の糸を手繰り寄せた
「そうだ、オジガ..オミア..」
断片的に覚えていた言葉を口にしたが、尻すぼんだように小さな声になった
「何だ、ちゃんと聞いてるじゃない。そうなの叔父がお見合いをしろってくどいのよ」
晴代が溜め息をつくとカウンターにロックグラスが並んだ
「晴ちゃん、どうしたの?溜め息なんかついて」
そう言って咲子へ尋ねるように視線を移した
咲子はポカーンと口を開いたままだ
会社での晴代と専務の会話、晴代から聞いて断片的に覚えていた言葉等が結びつき、ようやく専務が晴代の叔父である事を理解した咲子であった
BOX席からママを呼ぶ声がした
「ゆっくりしてね」
如才なく周りの客に愛想配りをしながら二人の前から離れた
晴代が忙しなく時計を気にしている
「占いどうだった?」
何か隠すように晴代が訊いた
「うん..優しい占い師さんだった」
咲子はグラスに手を伸ばした。その時
「岡崎課長!遅くなりました!」
上原の大きな声が響いた
上原の声に静かなざわめきが一瞬、息を合わせたように止んで軽快なジャズだけが店内を包んだ
「お?来たな」
晴代が半身を捩り片手を上げると赤面していた上原が恥ずかし気に頭を下げながら近づいた
「ん、何?」
咲子はほんのり酔いの回った目で、晴代が片手を上げた先を見ると慌ててカウンターへ向き直った
「ちょ、ちょっと何よ!どういう事?」
動揺と困惑がない交ぜとなった表情で晴代の膝を突ついた
「え、あぁ..あいつ、よく仕事頑張ってるからさ、上司として労いの意味で呼び出したんだよ」
晴代が四杯目のバーボンを飲み干すと剣呑な口調に変わり始めた
「何も今夜でなくても良かったじゃない」
咲子が小声で抗議すると上原が二人の後ろに来た
「岡崎課長、お疲れ様です。ご馳走になります!」
上原は晴代に頭を下げ終えると思いがけず、『あっ!』という驚きの声を漏らした
「どうも今晩は」
咲子は上原の顔も見ず、横向きに軽く頭を下げた
「木ノ下さん..あ、今晩は」
上原が思い出したように頭を下げた
「上原、まぁ座れよ」
晴代が促すと迷う事なく咲子の隣りへ腰を下ろした
咲子は身動ぐとグラスとにらめっこを始めた。頬が桜色に染まっているのは酔いのせいであろうか
「何飲む?」
晴代が咲子の肩越しに訊いた
「木ノ下さんは何飲まれてるんですか?」
咲子の両手に握られたグラスを見ながら尋ねた
「私は、ワイルド・ターキーだけど..」
「なんか、カッコいい名前ですね。じゃ、僕も同じ物を」
晴代はBOX席にいるママを呼び掛けたが思いとどまると、少しよろけながら高めのイスを降りてカウンター内へ入って行った
「岡崎課長..勝手に入り込んで大丈夫ですか?」
上原は心配そうに咲子に訊いた
「あぁ大丈夫よ。岡崎の叔母さんのお店だから」
「あ、なるほど」
上原はホッとしたように笑顔を見せた
「はいよ、お待ち」
晴代は手慣れた手つきで、お絞りとバーボン・ロックを上原の前に並べた
「岡崎課長、板についてますね」
ジャケットを脱ぎワイシャツの袖を捲り上げた晴代の立ち姿はプロのバーテンさながらである
「まぁね。学生時代にここでバイトしてたから」
ははぁんと二人は頷いた
「とりあえずお疲れさん」
三人がグラスをカチリと合わせた
「ゲホッゲホッ」
一口飲むと、上原は顔を真っ赤にして咳き込んだ
夜街の喧騒から少し離れたホテルで広谷裕美の肢体は揺れていた。冷たい色をした街のネオンが暗い海の底に差す光のようだった
「裕美、どうしたんだ」
男は荒い息を吐き出しながら訊いたが動きを止めようとはしなかった
「早く出してよ」
抑揚のない声で裕美が言った
男は耐えきれず裕美の体内に放出すると、ゆっくりベッドへ身体を沈めた
「裕美どうしたんだ?まるで人形を相手にしているようだったぜ」
裕美の耳元に弾んだ息を抑えながら言った
「別に..」
覆い被さった男の体を押しのけ裸のまま立ち上がると窓際へ近付いた。カーテンを引き裂くように開くと裕美のしっとり濡れた身体をネオンが包んだ
「もう、あんたとは終わりにする」
「あ!?」
男は暗がりの中で均整のとれた裕美の影を睨み付けた
「どういう意味だお前?」
男は怒気を孕めて言った。ネオンが明滅する度に背中の彫り物が浮かんでは消える
「あんたと別れる」
裕美はこの男を好きになり付き合っていたわけではなかった。『チョットヤバい感じの男だけど付き合ってみない?』と、友人に紹介されたのだ。興味本位で付き合い始めたが外見通りの人間だった。仕事はしていると言っているが、どうやらチンピラの真似事をしているようだった。そんな男と交際が続いていたのは、男に惚れた分けではなく身体の相性が良かったからであった
「お前、俺の体なしで生きられんのか?」
男は煙草に火をつけ深く吸い込んだ煙りを天井に向かって吐き出した。ネオンが煙りを赤や紫に彩る
「あんたが心配する事はないよ」
「何だと!?」
男は裕美の肩を激しく掴み自分の方へ向き直らせた
「なぁ、裕美..そんな事言うなよ」
先程とは打って変わったように顔を歪ませながら哀願した。裕美の財布を宛てにしながら暮らしていた男にとって、裕美との別れは生活を失うという事だった
「じゃぁね..」
背を向けたまま財布から数万円抜き出すと、男の足元へ放り投げて衣服を着け始めた
「なめんじゃねぇ!!」
男は裕美の後ろ髪を引き摺ってベッドへ押し倒した。着けた衣服を剥ぎ取ると頬を殴りつけもう一度、自分のモノを激しく突き入れた
裕美は死んだように男のされるままになった。睨み付けながら動いている男をぼんやりと見ている
「上..原くん..」
今までのものとは違う上原に対する感情が裕美の中に生まれ始めていた
暗闇をネオンが彩っていく
「咲子!早く起きなさい!今日は入社式なんでしょ!」
「うぅ..ん」
咲子は母の呼ぶ声を遠くに聞きながら、毛布を引き寄せて寝返りを打った。うっすらと瞼を開くと時計の針は8:30を指している
「ギャーッ!!」
けたたましい叫び声を上げるとベッドから飛び起きた
「お母さん!何で早く起こしてくれないのッ!」
二人分の朝食が整えられたテーブルで母親は味噌汁を啜っている。パジャマ姿の咲子は今にも泣き出しそうな顔で母を見た
「あらぁ咲子ちゃん。何言ってるの?何度呼んだと思ってるの」
と、冷ややかに母親は食後のお茶を口にした
「もう!」
咲子はドカドカと部屋へ戻り就職活動以来、クローゼットに仕舞い込んでいたリクルートスーツを手早く着込んだ
「ご飯どうする?」
洗面台で支度を整える咲子に母親が呑気に尋ねた
「いらない!」
もごもごと答えながら歯磨きを終えると玄関へと急いだ
「そんなに慌てると危ないわよ。入社式は何時からなの?」
母親は野太いヒールを突っ掛ける咲子にセカンドバックを渡した
「9時よ、9時!」
咲子は都内の難関と呼ばれる大学を主席で卒業すると、大学側の斡旋した一流企業への就職を惜しげもなく断り生まれ故郷へと帰った
一年程実家でブラブラと時間を過ごし、ようやく勤労意欲が湧いたのか去年の暮れに御河商事という中小企業への内定が決まった。御河商事は中小企業であるが創業は明治であり、地元では名の通った老舗であった。商いは主に貿易を扱っているが数年前より金融関連にも食指を伸ばし、これがなかなかの利益を生み出しているという
勢いよくドアを開けると猛然と庭先に駐車した赤い軽自動車に乗り込んだ。「今日は朝から地元のお祭りだから道路が混むわよ」と言った母親の声は届かなかった
「イタッ」
咲子は颯爽と車の天井にぶつけた頭をさすりながら乗り込んだ
自宅から御河商事までの距離は二駅なので車だと20分前後でつくはずだ
「あ..ウソ」
スムーズに流れていた車が次第に数珠のように繋がってきた。先頭車両の前を御輿が「ワッショイ!」と威勢のよい掛け声と共にうねりながら横切る
「あ~ッもう早くしてよ」
後15分で開式だ。「お祭りなんて広い運動場でやればいいのに」等と独りごちた
どうにか渋滞をやり過ごし駐車場に乗り込んだがほぼ埋め尽くされている。咲子はグルグルと場内を周りようやく一台分の空きを見つけた
「あった」
加速しながら空スペースへ車を寄せていく。経費節約の為か場内は舗装されておらず砂塵を巻き上げた
「ブォォン」
轟音と砂塵を引き連れるように真っ赤なポルシェが咲子の前に突っ込んで来た
「わぁーッ!!」
咲子は慌てブレーキを踏み込んだ
真っ赤なポルシェは「クンッ」と咲子の前を直角に曲がり頭から駐車した
「な..」
咲子は車内で呆気にとられていたが「ハッ」と気付いてクラクションを数回鳴らした
「バタンッ」
真っ赤なドアが勢いよく開きタイトスーツにサングラスの女が出て来た。女は車の前に立つとサングラスを鼻先へ滑らせ上目遣いに咲子を見た
車内で何かを必死に訴える咲子を前に「フンッ」と鼻であしらい、女は腰のあたりまで伸びた髪をゆったりと靡かせながら悠々とビルへ入って行った
これが岡崎晴代との出会いであった
晴代は16歳になると父親の住むアメリカへ移住した。母親は晴代が幼い頃、行方知れずとなっていた。父親も多忙を極め、家に帰って来る事は殆どなかった。名門校を高校、大学と咲子に勝るとも劣らない成績で卒業すると「なんか疲れた」と、咲子よろしく全ての誘いを断り日本へ帰国したのであった
帰国してからはブラブラと野山の散策に出掛けたり、書物を読みふけったりとまるで隠遁者のような暮らしを続けていた。このような生活を一年程すると「暇ならうちで働かないか」と叔父から連絡があった。こうして取り敢えず叔父の勤める御河商事へ落ち着く事となった
社内は咲子と晴代の話題で持ち切りであった。才女二人の入社により「御河商事初の女性管理職誕生か」と期待する者がいれば「迷惑な新人さんだ」と自分のポストを危ぶむ者も大勢いたが、咲子と晴代は俗な噂を尻目にメキメキと頭角を表していった
こうして三年が経った。咲子と晴代は部署こそ違うが二人の果断にして的確な仕事ぶりは社内中の評判になっていた。駐車場での一件以来、すれ違えば視線がぶつかり何かと張り合う犬猿の二人だったが周囲の目にはお互いに好敵手としか映らず密かに「御河の竜虎」等と呼ばれていた。少しずつ業務の難易度が増していく事も仕事の醍醐味として味わえるようになり平凡な日常を充実したものに変えてくれた
「お母さん、明日から電車通勤するから」
珍しく定時で帰宅した咲子は味噌汁と魚の煮付けをつつきながら台所の母に言った
「車どうしたの?」
「煙りが出てさ、もう寿命みたい」
「まっ、待ってぇー!」
咲子はホームの階段を駆け下りた。残り五段ほどを一気に飛び降りようとしたが昨夜から降り続く雨が行き交う人の傘や靴を濡らし、黒いシミのように階段を彩っていた
「プワァーッ」
咲子は下ろし掛けた右足を止めると恨めしげに発車した電車を見つめた
「もう..」
電車は20分置きに出ている。混み合う時間を避けようと早めに家を出たので出社時間まで十分に余裕はあった。咲子は傘を畳みながらワックスのように光っている階段を慎重に下りた
反対車線から下りの急行電車が通過した。三人程が座れる長椅子に腰を下ろすと構内に滞留する梅雨間近の湿った空気が咲子の首筋に巻きついた
「コツコツ..コツコツ」
人混みが台風のように去るとホームに乾いた音が響いてきた。咲子は音の方を見た。腰の曲がった老女が杖を突きながら濡れたホームの端を慎重に歩いている
「あっ」
咲子が思わず声を上げた。力を入れた杖先が滑り老女が倒れ掛けたのだ
「大丈夫ですか?」
柱の陰からスッと手が伸びると老女の小脇を抱え上げた
「あ、ありがとうね」
老女が礼を言った時に柱の陰から男の顔が見えた
「滑るから気をつけて」
そう言葉を掛けると男は何とも言えない笑顔を見せた。咲子は一瞬、締め付けられるような息苦しさを覚えた。咲子は今まで男と付き合った事が無かった。かといって咲子に魅力が無いという訳ではない。器量は人並み以上のものを持っている。男から声を掛けられる事も一度や二度ではない。男嫌いとも違うが関心が湧かなかった
幼い頃から『相手の立場になって思いやりを大切にしなさい』と育てられていた。その為だろう相手の表情や口調、置かれた状況から相手の真意を見抜くという卓越した洞察力が培われていた
咲子は自分の器量を鼻にかけた事はないが客観的に自覚していた。下心を巧みに隠し近づく者、優しさを振り撒き周囲から時間をかけて近づいて来る者。咲子はウンザリしていた
「フフ..」
咲子は柱の陰から見え隠れする男をチラチラと目で追っていた。暫くすると
『何やってんだか..』
と自分が可笑しく思えてきた
「プワァーッ」
電車が入って来た。車内はそれ程混んではいない。この時刻であれば混雑する事はないようだ。扉が開き何人か降りるのを待って乗り込んだ。男も同じ車両だ。咲子は男の真向かいに座る。視線が合った。お互い何かを感じたように視線を逸らした
「咲、どうしたの?」
同僚の大谷好子が丸顔に糸を引いたような細い目で咲子を見ていた。二人は昼食を終えると御川商事に隣接するビル一階の喫茶店で時間を過ごしていた。二ヶ月前に開店したばかりでアンティーク調に統一された店内が異国の風情を漂わせている。二階より上はフロア事にテナントが入っており雑多な業種の人間が頻繁に店内を出入りしていた
「え?あぁ..別に」
「別にって、二週間くらい前から..なんか上の空なんだよねぇ」
好子は紅茶を啜ると咲子の言葉を待った
「そ、そう..かな」
ティーカップを口元に運びながら取り繕ったように微笑んだ
「そうだって。呼んでもボケーッとしてるし、仕事中も心ここに在らず..って感じだし..まぁ、仕事上のミスはないようだけど..」
好子は此処で言葉を区切ると意味有り気に咲子の表情を伺った。普段はおっとりとした好子がなかなかに鋭い観察眼の持ち主である事に咲子は驚いた
「う..うん。分かってる」
この時期が大事である事は咲子にも良く分かっている。来春に通達される人事で係長就任がほぼ確定していた。だが、昇進の為に仕事漬けの日々を送った分けではない。咲子にしてみれば結果が後から付いて来たといったところだろう。しかし、自分の功労が形として認められ女性初の管理職という快挙を眼前にすれば咲子でなくとも不手際なく春を迎えたいものだろう
「もしかしてコレ?」
好子がニヤリと親指を立てた
「ち、違うわよ!」
咲子は嘘が隠せない体質らしい。首から耳までを桜のように染め上げた
「アハハハ。咲って正直だね。で、どんな人?」
好子はカラカラと一笑いすると真顔でテーブルに身を乗り出した。咲子は観念したようにポツリポツリと駅で見かけた男の事を語り始めた
「咲..あんたってば今時珍しいくらいの奥手だねぇ。その人の名前も知らない..勤め先も分からない..言葉を交わしたこともない..声の記憶と時々視線が合うだけって」
好子は半ば呆れたように咲子を眺めた。カランと乾いた鈴の音が響くとスーツ姿の男が数人、店内を横切るように正面のエレベーターに乗り込んだ
「ま、待って下さい!僕も乗ります!」
数人から少し遅れエレベーターへ滑り込んだ男の声に咲子は弾かれたように顔を向けた
「いた..」
それは咲子が恋い焦がれている名も知らぬ男、織田尚司であった。右手のティーカップは傾きテーブルに紋様を描いている
「織田ッ!何ノコノコ戻って来てんだよ!」
織田尚志は一階の喫茶店内からエレベーターに乗ると陰鬱な面持ちで三階のボタンを押した。扉が開くと仄暗い廊下が左右に二十メートル程続いており、四店舗が看板を掲げている
織田が『スマイル・キャッシング』とシールに手書きされただけの扉のノブに指を掛けると内側から勢いよく開いた。社長の斎藤だった
斎藤はべっとりとしたオールバックに黒のスーツを着ている。銀縁の薄紫色のサングラスを胸ポケットへ投げ込むと間髪入れず罵声を浴びせた
「社長、すみません」
色褪せたアタッシュケースを足下に置き深々と頭を下げた
「織田、別によ謝れなんて言ってねぇだろ?頭を上げろ」
斎藤は車のキーに付けたアクセサリーをジャラジャラと指で弄んでいる
「...」
それでも織田は必死の形相で頭を下げ続けている。斎藤は戸口に背が届く程の長身で筋骨隆々とした体格だ
「ア・タ・マを上げろ」
ゆっくりと自分の爪先から斎藤の腰まで視線が上がった時、織田のネクタイが鷲掴みされ胸元まで引き寄せられた
「謝れなんて言ってねぇんだよ!金取ってこいって言ってんだよ!バカヤロー!」
男はネクタイを掴んだまま拳で胸を突き飛ばした。織田は尻餅を着いたが直ぐに土下座する格好で仄暗い廊下に両手を揃えていた
「ここに来てもう何年だ?金の回収もまだ出来ねぇのか?」
斎藤は股を大きく割るとしゃがみ込んだ
「すみません」
尚志は高校を卒業しても就職先が決まらず、腰掛けのつもりで始めた金融業のバイト生活がズルズルと続いていた。何度も辞めようとしたがその度に斎藤が脅したり賺したりして執拗に辞めさせなかった
「そんなに難しい仕事じゃねぇだろ?たった一人の客から回収してくるだけだろう?」
確かに尚志の顧客は一人ではあったが、この男が普通の客ではなかった。暴力団との付き合いがあるような男だった。尚志は追い込まれていた。斎藤と客との板挟みになり精神が蝕まれていくようであった
「いいか今日の分、十万取るまで戻って来るなよ。お前のアパートには張り込み付けるからな」
斎藤はそう言って肩をポンと叩くとエレベーターに乗り込んだ
「...」
尚志はそこから暫く動かなかった。両端にある窓が僅かに陽射しを捕らえ陰影を映し出した
「おう俺だ。そろそろ逝きそうだからよ、近いうちに仕上げろ」
斎藤は携帯を切ると黒いベンツのドアに手をかけた
「わかりました..」
斎藤にそう応えると奈々原哲也は携帯を閉じた
擦り切れた四畳半に蛇口から、ピチャ..ピチャと水滴の零れ落ちる音だけが聞こえている
―もうすぐか..
仰向けに体を投げ出すと悪魔が微笑んだようにも見える天井の染みを見つめた
奈々原は斎藤と通じていた。斎藤は金融業を営む傍ら保険業にも手を付けていた。街中で仕事もせずブラブラしている若者を見つけては
「俺の所で働かないか?お前は..直ぐに店長クラスになれると思う」
と神妙な顔付きで相手をその気にさせては引っ張り込んでいた。そして
「こいつは当座の生活資金だ。うちで働けば百万なんて端金..一ヶ月で返せるぞ」
と、百万の現金を渡し借入金の契約書を社員契約書類に紛れ込ませ判をつかせるのだ。こうして蜘蛛の巣にかかった蝶のように動きを封じる
斎藤の狙いは社員契約を交わす際、生命保険を契約させる事だった。当座の百万で動きを封じ、死亡保険が満額支払われる頃合になると、数万円程度の小口の顧客の担当を外し、数百万の借入金者である奈々原の担当を任せるのであった。そうして回収不可能な取り立てを押し付け、斎藤が業績不振を叩き、奈々原が返済拒否を続けるという構図だ
実際に斎藤は奈々原名義の借入証を揃えていたがあってないようなもだった。書類は警察が動いたときに備えた防衛手段だ
事実、これまで二人の社員を自殺に追いやり三億数千万の保険金が支払われていた。不信に思った保険会社が警察へ相談し任意の立ち入り捜査を行ったが、違法性は微塵も嗅ぎ取られなかった
奈々原は煙草に火をつけると白い輪を天井の染みに向けて吐き出した。白い輪は形を崩すことなく悪魔の歪な口元へぶつかっては消えた
「トントン」
薄っぺらな玄関の戸を叩く音が蛇口から零れ落ちた水滴の音と重なった
「奈々原さん、スマイル・キャッシングです」
「...」
奈々原は仰向けになったまま煙草をくわえている。戸を叩く音が激しくなっていく
「奈々原さん、居ますよね。ご近所迷惑になりますから開けてもらえませんか」
織田久司は今日の分を取り立てるまでは帰らないと腹を決めていた。それから一時間が経過した
「チッ」
奈々原はのっそりと起き上がった。捲れたシャツから不動明王の彫り物が覗いた
「うるせぇな!今でるよ!」
一歩々を踏みつけるように玄関に向かった。乱暴に戸を開けると悲壮な面持ちの久司がいた
昼休みに木ノ下咲子は、いつもの喫茶店アンティークへと足を運んだ。もう、顔馴染みとなり常連客の一人となっていた。アンティークは御河商事に隣接するビルの一階にある。マスターとも、気兼ねなく会話できる仲になっていた
「咲ちゃん、織田君が金曜日の六時にここで待ってますって」
咲子が扉を押すと店内も昼時のひと段落がついたところだった。前島の捲り上げたシャツから浅黒い逞しい両腕が見えた。前島の年の頃は五十半ばだという。以前は会社員をしていたが、脱サラし、思い切ってこの店を開いたそうだ。会社員をしていたというが、時折見せる眼光の鋭さは尋常ではない。しかし、その鋭さを包み込むような言葉使いと柔らかな物腰であった
「そ、そう..マスターありがとう」
咲子は嬉しさのあまり、思わず声を上げそうになったが、どうにか押し殺した
前島は咲子が織田尚志の姿を見つけると、口元手前でカップを傾けてブラウスを汚したり、サンドイッチを食べていれば指ごと噛んで流血沙汰になったりと、様子が変わることをかなり前から気付いていた
―もしかしたら..咲ちゃんは織田君のことを..
前島の感は当たっていた。あまりにも咲子の態度にもどかしさを感じ、まんざら知らない客でもない織田尚志のことを、それとなく切り出してみると、無表情の顔を真っ赤にした咲子であった
しかし、当の織田尚志は
「木ノ下咲子さん?誰だろう..マスター、この店によく来る方ですか?」
と、この調子である
少々お節介かと感じた前島であったが、咲子のひたむきさと、織田尚志の人柄の良さに、ついつい仲を取り持ちたくなったのだ
「織田君、そろそろ彼女でもどうですね?仕事一筋もいいが恋も人生の仕事の内ですぞ」
「仕事一筋..ですか」
尚志は、少しの間忘れかけていた暗い靄が、足下から絡みつくように思い出した。斎藤から当座として渡された百万円はとっくに使い果たし、八百万円と膨らんだ高額な利息分だけを追いかけるような支払いに疲れ果てていた
尚志は残りのコーヒーを飲み干すと、何かを心に決めたように小さく頷いた
「そうだよね、マスター。恋も人生の仕事の内だよね」
尚志は笑顔を見せた
「木ノ下さんに会ってみるよ。それじゃ明日、金曜日の午後六時にここで待ってると、お伝え下さい」
束の間の幸せが、咲子と尚志に訪れたようだった。通りを見ると風に煽られた二匹の蝶がゆらゆらと、頼りなく漂っていた
斎藤は毛羽立った畳を気にしながら、奈々原の前にドカリと座り込んだ
「奈々原、お前何やってんだ?」
「....」
奈々原は胡座をかいて、指先を見ている
「何で織田の奴ぁ、毎月お前の返済分を回収して来るんだよ」
苦虫を噛み潰したように斎藤は睨み付けた
「さぁ..」
「さぁ?じゃねぇだろテメェ!」
斎藤は目の前に置かれた灰皿を掴むと、力任せに奈々原の頭を殴りつけた
「グ..」
低い唸りをあげながら、奈々原の体がぐらついた
「俺..じゃない..スよ」
殴られた頭を両手で押さえながら、ようやく声絞りを出した。傷口から滴る血が瞬く間に両肘まで真っ赤に染める
「それじゃ、織田はどこから金引っ張ってんだ?」
「.....」
奈々原の血が興奮を鎮めたのか斎藤の口調は落ち着きを取り戻したようだ
「憶測ですが..あんだけの金を、毎月都合つけられのは、身内かサラ金ですかね」
「織田に身内はいない。親が死んで、田舎から出てきてるからな」
「そうですか。それじゃ、サラ金の線で間違いないでしょう」
「どこのサラ金だ!?あの野郎なめやがって..」
斎藤は呟くと無精髭に覆われた顎をさすった。血溜まりになった畳が変色を始めている
「アイツ..もう、跳ぶ寸前じゃないスかね」
奈々原は押さえていた手をゆっくりと外した。微かに血糊が剥がれる音がした
「そんなこたぁ分かってんだよ!跳ばれる前にケリつける段取り考えろ!」
斎藤は焦っていた。織田に破産宣告などされると面倒な事になる。それよりも行方を眩まされることが、何よりも気掛かりであった。そんな事にでもなれば、織田に掛けていた高額な保険料がフイになる。保険会社は遺体と死亡診断書を確認するまでは、保険金を支払わないのだ
「アイツ..女がいるんじゃないスかね?街で一緒に歩いてるのを何度かみましたよ」
「女?」
斎藤は考えるように額に皺を寄せた
「そういやぁ、事務所下の喫茶店で女といるのを最近見かけるな..あの制服は..隣の御河商事だな」
斎藤が顔をあげると、奈々原の視線とぶつかった。二人は不敵な表情で頷いた
「織田から目を離すなよ、それと女もだ」
「わかりました..」
斎藤はそう言い残すと部屋を出て行った。奈々原は傷口が開かないように静かに横たわり煙草に火をつける。天井に浮かんだシミに煙を吐き出すと悪魔が微笑んでいた
近頃、木ノ下咲子の評判は以前にも増して、高くなっていた。いよいよ本腰を入れて、管理職を意識し始めただのと噂が尽きることはなかった。咲子にしてみれば『普通に仕事してるだけよ』と言いたいところであった。確かに仕事が面白く気力旺盛であるが、それだけではないようだ。やはり、織田尚志の存在がプラスの連鎖反応を引き起こしてくれるのだ
尚志と付き合い始めてからの咲子は、何か柔らかい物に包まれて行くような自分を感じていた。初めて駅のホームで見た尚志の優しさは偽りではなかったのだ
咲子は幸せという実体のない安心感の心地良さに横たわっているようであった。体の関係はまだなかった。尚志が求めてこないわけではないが、もう少しの間、精神的な陶酔を味わっていたかったのかもしれない。しかし、この事が後の咲子の胸に小さな疵痕となり締め付けるのである
岡崎晴代の評判も咲子に負けず劣らずのものだったが、人望も集めながら高まる咲子の評判とは対照的に、ミスを完膚なきまでにあげつらう、能力・完璧主義者である晴代は孤立していた。ミスを指摘された本人も自分の間違いを認めはするのだが、立つ瀬もない程叩きのめされると、何を指摘されたかではなく誰に指摘されたかとなるのだ。当初はそんな晴代を宥めたり庇っていた上司もいたが、最近は触らぬ神に祟りなしとばかりに、だんまりを決め込んでいる。出来ることならば同部署の晴代を御河商事初の女性管理職にと願わなくもなかったが、人望の薄い晴代には無理だといった空気が漂いつつあった
―くだらない..
晴代は同僚の犯した不手際の後始末を終えると、頭の後ろに手を組んだ。ひとつ溜息をつき、椅子の背もたれに大きく背中を預けると時刻は八時を回っていた。誰もいない部屋を椅子を回転させながらグルリと見回した
― 木ノ下咲子..か
晴代は入社式の日の駐車場での一件を懐かしく思い出していた
― あのトロくさい奴が私と張り合う程の女だったとはねぇ..
ゆっくりと目を閉じ、誰もいないビルの静けさを聴いた
― 世の中..またまだ捨てたものじゃないっ..って事だろうねぇ..
晴代はそう呟くと机の引き出しから、ウィスキーを詰めた純銀のスキットルを取り出した。グビリと一口呷る。無機質な冷たさが火照りを帯びた唇に心地良かった。窓際に立つと街灯の途切れた歩道に、ぼんやりと電話ボックスの薄暗い明かりが滲んでいた
織田尚志は使用不可になったクレジットカードを無造作にゴミ箱へ投げ捨てた
― これで何枚目だろ..
ATMを押す扉が重く感じる。四、五枚目辺りまでは覚えていたが、いつしか数える事さえやめていた
街中で斎藤に声を掛けられ、与えられた百万円と利息は、数百万に膨らんでいたが、投げ捨てたカードと引き換えに手にした三十万を斎藤に渡せば、全てが終わるのだった
― これで全てが終わる
奈々原哲也の件もカードを使い始めてからは、斎藤に怒鳴られる事もなくなっていた。まだ未収金があるが、辞めてしまえばそんな事は関係ない。とりあえずは、斎藤の魔手から逃れられるが、問題はその後だ。徐々にクレジット会社が狩りに入るだろう..その時どうするかだ
近頃、尚志は咲子にプロポーズをしようか思案していた。スマイルキャッシングから縁が切れるとはいえ、次はクレジット会社が黙ってはいないだろう。大きな荷物を背負った男と結婚する物好きな女はいやしない。しかし、咲子と別れる事は、無気力な日々に戻ってしまいそうで恐かった
―破産宣告...か。今更真っ白な人生に戻れる分けでもない。墜ちるとこまで墜ちるか
咲子は尚志の借金の事など微塵も知らなかった。こんな男のプロポーズを咲子が受けてくれるだろうかと尚志は考えていた
―やっぱり無理..だな。どちらにしろ咲ちゃんとは一緒になれないか
自嘲気味に笑うと携帯が鳴り出した
「俺だ。今から事務所下の茶店に来い!」
斎藤だった。一方的に告げると携帯を切った
― 何だろう..残りの三十万も渡したいし丁度いいか
時計を見ると十六時を少し回ったところである。鈍色の雨雲が這うように街を包み込んでいた
「オウ、こっちだ」
織田尚志が事務所下にある喫茶店アンティークの扉を押すと、目ざとく見つけた斎藤が腰を浮かし手招きをした。席に近づと尚志は呆然とした
「どうも、こんにちは」
あの奈々原哲也が、斎藤の隣に座っており、にこやかに挨拶をした
「....」
「織田、まぁ座れよ。実はな、奈々原さんが残りの金を払いに来てくれたんだ」
「え?」
「織田さん、今までご迷惑おかけしまして」
尚志は神妙な顔つきでコクンと頭を下げた奈々原を、何か別な生き物を見るように眺めていた
前島はコーヒーを淹れながら三人のテーブルに目をやった。視線が合うと斎藤は舌打ちして目を逸らした。雨がポツポツと通りを斑模様に変えていく
「織田、ご苦労だったな」
テーブル越しに、くたびれた織田の肩を斎藤が叩いた
「奈々原さんのような大口のお客さんは、なかなか完済が難しいからねぇ。織田、よく頑張ったな」
「....」
そう言って、斎藤は隣の奈々原を見た。奈々原も応えるように、はにかんで笑う
奈々原哲也は今年で二十三歳になる。十代の頃から裏街道を歩き始め、殺し以外の悪事には全て手を染めたという。その若さに似合わない険しい顔つきが、これまでの生き様を物語っているようだった
「そこでだ」
言葉を止めると、斎藤はテーブルに身を乗り出し織田の顔をジッと見た
「お前に、新しく作る支店を任せたい」
「は?」
「お前に支店長をやってもらいたいんだ」
織田は、今まで悪鬼のようだった斎藤の顔が、菩薩のように見えていた
「ほ、本当ですか!」
興奮した勢いで膝がテーブルを突いた。ガチャンとコーヒーカップの跳ねる音が響く。店内の客はまばらだった
「本当だとも。支店長に昇格すりゃ、月給二百万は堅いぞ」
斎藤は織田の心情を知ってか、足元を見るようなニヤつきを見せた
「や、やります!やらせて下さい!」
「頑張ってくれるか」
「ぜひ、お願いします!」
尚志はテーブルに額を擦り付ける程、深く頭を下げた
「それなら話は早い。しかし、まだ開店準備中でな..事務所を構えるには資金が少し足りないんだよ..」
斎藤は尚志の顔色をチラチラと伺いながら、話を続けた
「オレんとこみたいな日計り金融会社には、なかなか融資してくれる業者が見つからなくてな」
斎藤は深く溜め息をつくと、織田尚志の言葉を待つかのように、爪の垢をむしり始めた
「斎藤さん、その心配はありませんよ」
尚志は力強く、俯いた斎藤の視線が戻るのを待った
「知り合いがいるのか?」
惚けた表情で斎藤が訊いた。ここ数年、御河商事が金融関連で、かなりの利益を上げている事は百も承知だった。そして尚志の恋人の木ノ下咲子が、企業向けの融資を扱っていることも調べ挙げていたのだ。斎藤は吹き出すのを必死で耐えていた
「大丈夫ですよ。大船に乗ったつもりでいて下さい」
尚志は胸をたたくように、力強く頷いた
「さすがに、新しい支店長は頼もしいな。俺が霞んで見えちゃうよ」
斎藤がおどけて見せると、尚志と奈々原が一緒に笑った
前島は洗ったカップを拭うと、煙草に火をつけた。長引きそうな雨が降り出していた
「一緒になろう」と言う、織田尚志の突然のプロポーズに咲子は戸惑いを感じていた。尚志の勤めるスマイルキャッシングが支店を出すことになり、その支店長を任されるというのだ。恋人のプロポーズと栄進を喜べない分けではないが、店舗融資に三千万の相談を持ち掛けられていた
―個人経営の支店にしては、額が大き過ぎる
大規模な支店計画という話しでもあり調査の結果、経営状態も健全であることから融資決定をしたが、何故か胸がざわつく咲子であった
「咲ちゃん、プロポーズの話OKなんだね」
尚志の念を押すかのような問いに、咲子は桜色に頬を染めてコクリと頷いた
御河商事に隣接するビル一階の喫茶アンティークで、咲子はプロポーズの返事をした
日曜日の午後、昼食を終えると二人で近くの美術館を巡った。この美術館では著名な芸術家の作品を展示することはあまりなく、どちらかと言えば無名だが新進気鋭の鋭気溢れる作品を展示していた。2時間程鑑賞をすると、アンティークへ向かった。店内には、百年程昔の代物であろう古い時計が掛けられている。純金製の針は17時を少し回ったところだ。18時からスマイルキャッシングの斎藤蔵人と融資契約を交わす約束であった
18時を15分過ぎた頃、カランと扉を開ける音が聞こえた
「イヤイヤ、お待たせして申し訳ない」
斎藤は二人を見つけると近寄りながら、ずぶ濡れになったスーツを濡れたハンカチでせっせと拭き始めた
「お得意様の所に行ったんだが、近くだから歩いて行ったらこの雨だ」
斎藤は上着を脱ぐと隣の椅子に掛けた。ワイシャツにまで濡れている。風も強くなって来たようだ。時折、風に巻かれた雨が大きな窓ガラスを叩いた。外はもう真っ暗闇である
斎藤が熱めのコーヒーを注文すると「それでは」と契約内容の説明を咲子が始めた。1時間程で説明を終えると、書類作成に入った
「これで全てです。お疲れ様でした」
咲子は軽く微笑んだ。斎藤と織田の、緊張の解けた溜め息が聞こえた
「明日の午前中には、会社名義の口座に振り込まれます。また、確認の連絡をさせて頂きます」
時刻は22時を過ぎている。咲子と尚志が席を立とうとすると「織田支店長と話しがあるから」と咲子は一人で帰ることにした
「咲ちゃん、傘使っていいよ」
咲子はマスターから赤色の傘を借りて激しい雨音に包まれた路地を歩き出した
「すごい雨..」
遠くに電話ボックスの灯りが滲んでいた
後に商品開発部課長となる岡崎晴代はこの頃、経理・会計部に属していた。晴代は数年毎に各部署に配属され、着実に御河商事でのキャリアを積み重ねていた
「岡崎さん、これどう思いますか」
晴代がこの部署に配属されるまでは、陰で女帝と呼ばれていた豊田明美が書類を差し出しながら訊ねた
「スマイルキャッシング融資契約?」
数ヶ月分の収支をPCで確認していた手を止めると、受け取った書類に素早く目を走らせた
「三千万の融資依頼..」
書類を見ながら晴代は訝った。御河商事での融資決裁は、経理・会計部のお伺いを立てなければならなかった
「何か変..ですよね」
晴代の反応を認めると、豊田明美の視線が鋭さを増した。明美は晴代が経理・会計部に配属されると、晴代の仕事ぶりを何も言わず観察していたが、暫くすると『我が師得たり』とばかりに、年下の晴代に急速に近づいた。今では晴代の右腕的存在の御河商事の『キレ者』の一人である
「契約は今週の日曜日の18:00か。まだ上には話しは通ってないわよね?」
「はい」
「この件は私が預かるわ」
まだ晴代に役職は与えられていなかったが実質、晴代と明美がこの部署を取り仕切っていた
「担当者には融資承認と報告して」
―時間は十分にある。念入りに裏を探るか
と晴代は思った。ただの担当者であれば、即断で融資不可としている所だが担当者が、あの木ノ下咲子であることが腑に落ちなかった
―木ノ下咲子が、何でこんな馬鹿げた融資を..
一人で考え込んでいると、正午を30分過ぎていた。書類を片付けると扉のない部屋を出て食堂へ向かった。社内には扉が殆ど取り付けられていなかった。扉があるといえばトイレと応接室、更衣室、給湯室ぐらいのものだろう。『扉を開閉する時間が勿体ない』という初代社長からの方針によるものであった。入社当時は誰もが戸惑うようだが馴れてくるとドア向こうにいる相手を気にする必要がなくなった分、効率良くスムーズに出入りが出来ることに気付くのだった
晴代は食堂のあるフロアーへ階段を使い降りて来た。食堂から出て来た女を見ると晴代の足が一瞬止まった。木ノ下咲子である
「....」
咲子の方も、晴代を見留めると一瞬立ち止まったが、そのまま通路の端に寄るように歩き始めた。二人がすれ違う
晴代が何か言いたげに咲子を振り返るが、幸せめいた咲子の背中は遠ざかって行く。晴代はまだ咲子の背中を見つめていた
咲子は傘を前に倒すようにしがみついた。駅に続く大通りと反対になる路地には、歩道と街路樹が整然と続いている。強烈な雨風に晒された街路樹が暗闇に姿を隠すように、ザッザッと葉音をたてている。咲子はゆっくりと歩いた
咲子が店を出て四十分程過ぎていたが、特別な話しをするわけでもなく斎藤は時間を潰しているだけのようであった
「斎藤さん..お話しというのは?」
話しを切り出さない斎藤に、気をもむように尚志が訊ねた
斎藤は取り出しかけた携帯の手を止めると、何だ?と言う表情で尚志を見た
「話し?あぁ..まぁ、頑張ってくれやって事だ」
斎藤は素気なく応えると尚志の事など気にする様子もなく取り出しかけた携帯を触り始めた
― そろそろか..
斎藤は、そう呟くと携帯の発信を押した
「俺だ、もうすぐ店を出るからな。手際よくやれよ。あ!?女?お前の好きなようにすりゃいいさ」
斎藤は二十秒程のやり取りを済ませると、所在なく座っている尚志へ顔を向けた
「そういやぁ、お前の女..なかなかの美人だな」
そう訊ねると、テーブルに両肘を預けながら尚志に顔を近づけた
「えぇ俺には勿体ないくらい、いい女ですよ」
「そうだろうな..うんうん。大事にしてやれよ」
そう言って尚志の肩をポンと叩いた斎藤の目の奥に酷薄な光が宿ったことを尚志は気付かなかった
「よし、それじゃ..帰っていいぞ。歩いて帰るのか?」
「はい..近道すれば駅に向かって電車を待つより少し早く帰り着くので」
尚志の借りているアパートは、ちょうど二駅の中間に位置する場所にあった。会社寄りの駅と、咲子の家に近い駅である。時折、仕事を終えると、時間を合わせ咲子と二人で歩きながら尚志のアパートへ帰っていた。咲子も駅と反対方向に歩いて帰ったということは、今夜はアパートで尚志の帰りを待つということだろう。咲子に合い鍵は預けている
尚志は、訊きたい事が色々あったが、斎藤の機嫌を損ねるのを憚るように、軽く一礼すると伝票を持ってレジに向かった
カランと扉が開くと、飛び込んできた風雨が荒れ狂うように逃げ場所を探した
マスターから傘を借りると尚志は咲子と同じ方向へと歩き出した。赤色の傘が今にも砕かれそうだった。咲子はもうすぐアパートに着く頃だろう..。尚志はそう思った
不意に巻き上げるような雨風で全身はずぶ濡れになっている。濡れ鼠のように肩を竦めながらゆっくりと尚志は歩いた
車の中で鉛でも打ちつけるような轟音を聴いている。斎藤からの連絡を受けると無造作に携帯を助手席へ放り投げた
― 女は好きにしろ...か
奈々原哲也は織田尚志を監視する内に、木ノ下咲子との関係を突き止めた。そして日曜日の夜は尚志のアパートで過ごす日が多い事も知っていた。奈々原は咲子の肢体を思い出すと陰部に手を伸ばした
― いい女だな..
倒したシートに仰向けになり煙草に火を付けると天井に白い輪を吐き出した。暫くすると遠くに赤い物がゆらゆらと揺れているのが目についた
「ん..?」
上体を少し起こし前を覗くと、赤い傘が風に煽られながらゆっくりと近づいて来るようだった。傘を前に倒すように歩いている咲子には足元から数メートル先しか見えていないだろう。奈々原の車は街灯の途切れた位置に停めていた。街灯の明かりがぼんやりと咲子に届くと、薄手のスカートがまとわりついた白い脚が青白く浮かび上がった。辺りに人家はなく、この時間に通る者もいないだろう。ましてやこの嵐だ。奈々原の車まで、あと十メートル程だが咲子は必死に傘にしがみつくように歩いていて気付かない。奈々原はじっと咲子の反応を伺っていた
「...!」
車に三メートル程近づいた所で咲子はようやく車の存在に気付いた。一瞬立ち止まり車内に目を凝らしたが、街灯の白い影がフロントガラスにうっすらと反射するだけで中の様子は分からなかった
― 何だろう..こんな時間に
咲子は警戒するように歩道脇に停められた車から少し距離をとるように歩き出した。二十メートル程離れて振り返ったが車に変化はなかった
― もう、びっくりするじゃない
自嘲するような笑いが込み上げてきた
「キャァァァッ!!」
街路樹の影から何かが飛び出して、咲子に体当たりをした。倒れた拍子に足を挫いたようだ。何が起こったのか咲子にはまだ理解できなかった。黒い影は腹の辺りで何かを外すと、剥き出しになった咲子の青白い脚を抱え込んだ。咲子は精一杯叫んだ
― レイプだ!!
上半身で必死に抵抗すると「ゴツン」とコンクリートで殴られたような感覚が襲ってきた。咲子は次第に抗う力を奪われていった。雨風に打たれながら、男の荒い息が何時間も続いている気がした
「もう..いいでしょ」
微かな咲子の声が届いたのか、男はスッと立ち上がると車の方へ歩いて行った
片唇から血が流れていた。咲子は泣いているのか自分でも分からなかった
「う..」
織田尚志は手から剥ぎ取られそうな傘を両手でしっかりと握り直した。外は酷い嵐だが尚志の胸の内は前途洋々としていた
― 支店長..か
自分の将来を考える事が、これほど幸せに感じるとは思いもよらなかった。支店長になれば借金もすぐ返せそうだし..それもこれも斎藤さんと咲子のおかげだな
辛うじて濡れずにいた顔に横殴りの雨が吹き付けてきた。それでも尚志は嬉しそうに赤い傘にしがみついて歩いていた
― よし、今夜渡そう
尚志はそう決心すると、胸の内ポケットに収めている小さな箱を嵐から守るように両腕できつく押さえつけた
アスファルトに漏れる電話ボックスの灯りが、間断なく打ちつける雨に掻き消されていく。時刻は十一時を回っていた。この嵐の影響は一週間程続くと天気予報は告げていた
「ん..」
電話ボックスを通り過ぎると車のエンジン音が僅かに聞こえた気がした。尚志は立ち止まり身を屈めたまま顔を起こして前後を見るが、車のライトも影も見当たらなかった。打ちつけられた雨風が飛沫となって路地を霞ませているだけだった
― 気のせいか
尚志は視線を足下に戻すとまた歩き始めた
「アッ!!」
嵐に紛れ、唸りをあげながら近付く異音に気付いて反射的に顔を上げた。尚志の目前に無灯火の車が迫っていた
「ドンッ」
赤い傘は高々と舞い上がり暗闇に吸い込まれていく。何かが砕け散る鈍い音が二度、三度と辺りに響き渡った。尚志はその音がどこか遠くで聞こえているような気がした。車はその場に停まっていたが、暫く何かを確認するとゆっくりと消えて行った。歪な向きに折れ曲がった身体に打ちつける雨が飛沫に変わる
尚志の目にうっすらと光が戻ってきた。うつ伏せに横たわっているようだ。アスファルトの冷たさが頬に心地よかった。画面のひび割れた携帯が開いている。咲子が微笑んでいた
「サ..キ..」
胸の辺りが気持ち悪い。芋虫のような身体から、たまらず吐き出すと血と何か塊のようなものが溢れ出た
― サ..キ..
咲子の笑顔が霞んでいく。打ちつける雨のせいだろうか..舞い上がった赤い傘はどこに消えたのだろう..そういえば咲子も..赤い傘を..差して..た..な
「終わりました」
「分かった。お前は今から車を処分して連絡するまで消えてろ」
「了解です。金の方は間違いないッスよね」
「心配するな」
奈々原は携帯を閉じると煙草に火をつけた
純金の大小の針がゆっくり重なると、重厚な造りをした古い時計が静かに日の変わりを告げた。前島はカウンターで洗い物をしていた手を止めて窓の外を見た。嵐が過ぎ去る気配はない。閉店時間は二十三時だが、客が帰るまでは開けていた
織田尚志を見送った後には、斎藤だけが店内に残っていた。斎藤が二十分程前に、電話で何か話していたが、話しを済ませると時折、不気味に顔を歪めては高笑いを響かせた
前島は織田と咲子と斎藤が揃い、店を出て行くまでの事を思い出していた。会話の内容は断片的にしか聞き取れなかったが、尚志の恋人である咲子の勤め先から、斎藤が融資を受け、その見返りとして支店長のポストを与えるといった筋書きであろう事は容易に察しがついた。この程度ならその辺りに転がっている話しだ
― ただ..
前島は以前、アンティークに斎藤が連れていた奈々原哲也の存在が気懸かりであった
― アイツの眼は直ぐにでも人を殺す目つきだった..
織田尚志が来るまでの間、斎藤と奈々原の態度や口調をそれとなく気にかけていたが、長い付き合いをしてきた者達の態度に間違いない..それが織田尚志が現れると、態度と口調をガラリと変えやがった..
テーブルの方でガタンと音がした。斎藤は席を立つとエレベーターに乗り込んだ。今夜は事務所に泊まるらしい。前島は片付けを終えると、店の一角を覆うように設置された格子状のシャッターを降ろした。前島は煙草に火をつけると、深く吸い込みゆっくりと吐き出した。隙間風が青白い煙を散らしていく。扉の横にある最後の置き傘を手に取った
― 止みはしねぇな..
前島は腹を決めると、暗闇を切り裂くような嵐の中へ飛び出した。終電はとっくに過ぎている。タクシーを呼ぼうとポケットを探った
「チッ」
煙草をくわえたまま舌打ちをした。店に携帯を忘れたようだ。服は上から下までずぶ濡れになっている
― 店を汚すのも面倒だ
前島はボンヤリと灯りを滲ませている電話ボックスへと向かった。整然と並ぶ街路樹が何かを振り払うように揺れている。途切れた街灯の灯りが頼りなく黒いアスファルトに吸い込まれていく。白線で仕切られた歩道は水面に沈んでいた
前島が電話ボックスのドアに手を掛けると足下に何かぶつかってきた
「ん..」
見るとボロボロになった赤い傘が二本、もつれ合うように転がっていた
「...」
前島は傘を放り出すと祈るように走り出していた
「クソックソッ!」
机を激しく蹴り上げると斎藤はパソコンのキーボードを何度も叩き直した
「チキショウ、何で振り込まれてねぇんだよ!」
昨夜、咲子の話しでは今日の午前中にはスマイルキャッシングの口座に三千万が振り込まれるはずだが、口座には十三万円の残高が表示されるだけであった
斎藤は御河商事に乗り込み、怒鳴りつけたいところであったが、昨夜、織田尚志が轢き逃げされた目撃情報を集めようと刑事や警官が朝から近隣の聞き込みをしているため、藪の蛇を突つきかねないと息を潜めていた
第一発見者はアンティークのマスターの前島であった。前島が駆けつけた時にはもう、尚志の息は無かった。無惨に折れ曲がった手足の内側からナイフのように骨片が飛び出していた。降り続く雨に血は流され、尚志の身体は白く、アスファルトに浮かんでいるように見えた。ボロボロの指でどうにか握り締めていた小さな箱を開いてみると、咲子と尚志のイニシャルの入った銀色の婚約指輪が悲しく冷たい雨に打たれていた
斎藤は従業員である織田尚志について、形式的な事を訊ねられただけで済んでいた。咲子や御河商事からの融資について何か聞かれるのではないかと内心穏やかでなかったが、刑事はその事を知らないのか、咲子と織田の関係や融資についても、一言も口に出さなかった
― しかし妙だな..
咲子は奈々原が暴行したと斎藤は聞いているが、その件について警察は本当に何も知らないのか。咲子も前島に発見されているはずであった
― 事件が事件だけに警察に届けなかったのか
斎藤は色々と思案を巡らせていたが、ふと我に返ると、もう一度キーボード叩いた
「チクショウッ!」
― 融資は流されたか..
契約違反として法的措置を取りたいところだが、叩けばいくらでも埃の出る斎藤には諦めるしかできなかった
― まぁいい..織田には高い保険金を掛けてんだそれで我慢するしかねぇ。保険金の支払い申請は済ませている。後は警察から書類を貰えばいい..
融資の立ち消えは誤算であったが、真の目的は織田尚志の保険金だ。融資は思いつきのオマケにすぎない
斎藤は自分にそう言い聞かせると、パソコンの電源を切った。窓を見ると風はないが、鉛色の空から街を閑散とさせるような雨が音もなく落ちていく。暗闇に紛れ込んだ嵐は、一人の男の未来と一人の女の人生を奪うと、静かに去って行った
社内は好奇と不穏な空気が混濁しているようであった。御河商事と隣ビルの路上で起こった轢き逃げ事件を境に木ノ下咲子が無断欠勤をしているのだった。来春には御河商事では初の女性管理職として係長昇進が確定していた矢先の出来事に誰もが驚きを隠せないでいた
一日、二日でも大事であるが、一週間の欠勤となれば尋常ではないと社内に勝手な噂が流れ出していた。一週間前に起きた轢き逃げ犯は咲子ではないかとか、どこで漏れたのか分からないが虚偽の融資で三千万を横領して逃亡しただのと、勝手な妄想は日が経つにつれ膨らんでいった
そして、あの日から八日目に咲子は退職願を届けに来たのだ。退職理由は「一身上の都合により」と無機質に印刷された文字だけであった。届けに来た咲子を見た同僚達は、あまりの凄惨な姿にその場に立ち尽くしたという
退職願を出した後、咲子は覚束ない足取りで御河商事のビルから出るところであった。腰の辺りまであった髪は、擦り切れたように所々短くなっていた。顔を覆うように横髪を前に流してはいるが、右半分の青紫に変色した皮膚はそれでも隠せなかった
「...」
ふらふらと幽鬼のようにビルから出て行く咲子の背中を瞬きもせず、岡崎晴代は見つめていた。スマイルキャッシングの融資を独自に調査していくと、咲子と織田尚志との関係も浮かび上がった
― その織田尚志の勤め先への融資となれば、織田に何らかの益がもたらされるのだろう..そうなれば申請前の木ノ下咲子による融資審査も自ずと甘くなるものだ
と、晴代は今回の融資の件を洞察していた
「命を粗末にしなければいいが..」
後の専務取締役となり晴代の叔父である前田源蔵は晴代の肩に並ぶとそう言った
「叔父さん、木ノ下は..」
「うむ、退職願を出しに来たよ。詳しい事情は分からないが、どうにか思い留まってくれた。復帰しても、身体と心の傷が癒えるまでは雑用でもやってもらうつもりだ」
「そう..」
晴代は自分の中で何かがポキリと折れたような気がした。咲子とは入社式での出会いから、お互いに「生意気な女だ」と、いがみ合いながら言葉を交わすことなく張り合ってきたが、いつしか心のどこかで、お互いに認め始めていることに気付いていた。晴代は今までの咲子との関係を後悔していた
― 木ノ下..
二人は、ゆっくりと小さくなっていく咲子の背中を見つめていた。命の灯火さえも、ゆっくりと小さくなっていくように見えた
「あれ!?ここの喫茶店..閉店したんだ」
十二月に入ると、通りを吹き抜ける風も冷たさを増し始めていた。日曜日の夕暮れ時に、若い二人の女性がコートの襟を立てながら扉の貼り紙を見ていた
『都合により閉店させて頂きます。アンティーク店主』
「あぁ残念。ここのマスター、渋くて好みだったのになぁ」
二人は暫くの間、ガラス越しに店内を覗いていたが諦めるたように足早に離れて行った。建ち並んだビルの屋上には、うっすらと月が浮かんでいた
前島は人影もない裏通りを車でゆっくり進むと小さな花束が供えられた場所に車を停めた
―あれから五ヶ月か..
前島は、あの事件直後から店を閉め、斎藤の行動を探っていた
「尚志くん、仇討ちって分けじゃないが..」
助手席のガラスの向こうに供えられた花束へ語りかけるように呟いた。前島には二人の子供がいた。生きていればちょうど、咲子と尚志の年頃の姉弟だったろう。前島は妻と子供と四人の、短すぎた幸せを思い出していた
以前、前島は裏社会で生きていた。組織のために、表には決して知られる事のない、血で血を洗う世界に生きていた。いつしか『殺し屋』として裏社会で恐れられるまでになっていた
しかし、そんな前島もふとした縁で、妻を持ち可愛い子供に恵まれると、この陰惨な世界から足を洗いたいと思い始めたことは、自然な成り行きであっただろう。ある日、忽然とこの世界から姿を消した。前島は妻子と共に、妻の親戚のいる片田舎に隠れ住んでいた。独り暮らしの前島の叔母も遠くない所に住んでいた
日に々、荒んだ心が和らいでいくのが目に見えるようだった。三年程して、前島のたった一人の身内である叔母が倒れたと前島の留守中に連絡があった。妻から搬送先の病院を聞くと車で五時間程の所だ。時計を見るとまだ日が暮れたばかりだ。夜明け前には戻ると言って病院に向かった。病院に着き叔母の病室を訊ねるが、そんな方は搬送されてないと言う。病院から叔母の家に電話をすると、年老いてはいるが元気そうな声が出た。今から帰ると家に電話したが誰も出なかった。特に気にする事もなく、前島は今来た道を戻って行った
夜が開けない内に自宅に着いた。古い造りの引き戸を開けると、何度洗っても消える事のない前島の身体に染み付いた同じ匂いが、生暖かく漂っていた
鼓動の高鳴りが白い息を忙しなく吐き出させる。玄関先の鉢植えに四つの芽が顔を覗かせていたが名前を思い出せなかった
黒いベンツが脇を通り過ぎる。前島は目を覚ました
―少し眠っていたようだ
妻子と死別して長い年月が経っていたが、冷たい季節が近付いて来ると必ず、あの日の悪夢が鮮明に甦ってきた。裏社会の掟は非道に徹している。一度足を踏み入れると出口は閉ざされている世界だ。嫌になり抜け出そうとした奴も数多くいたが、生き延びたという話しを聞いた事がない。前島自身も抜け出そうとした者を何人か始末するように依頼を受け実行した
―因果応報..か
だが、前島は生き延びていた。組織が見逃す代償として家族を奪ったという事なのだろう。或いは、前島程の腕を持つ者を殺すには惜しいと考えたのかもしれない。しかし、今となってはどうでもいいことだ
無機質な街並をぼんやりとしていた月が輪郭をハッキリと浮き上がらせている。脇をすり抜けたベンツがビルの下に横付けに停まった。ちょうど、アンティークの入り口の前だ。向かいは御河商事のビルがある。前島は車内から少し見上げ、灯りがない事を確認した
「バタンッ」
黒いベンツのドアが蹴るように閉められた。斎藤は扉の鍵を開けビルに入ると内側から鍵を掛けた。このビルの店子は、それぞれ一階の出入り口の鍵も預けられている。休日や深夜遅くにビルを出る者は、その都度鍵を開閉しなければならなかった
―部屋に入ったな
前島は、スマイルキャッシングの事務所に灯りが点いたのを確かめた。斎藤が月初めの日曜日には必ず事務所に泊まる事を調べ上げている
「さてと..」
髪、眉、と剃り上げた頭に目だし帽を被った。剃り上げた部分は頭だけではなく、前島は全ての体毛を除去していた。これは犯行現場にDNA等の痕跡を残さない用心の為だ。ブーツは足跡が分からないように灼けた鉄で底を削っていた
ライダースーツのジッパーを引き上げて車を降りた。青白い月が街路樹と街灯の並んだ路上に、鍛え上げられた身体の影を刻んでいた
前島はビルの前に立ち以前、予備に造っていた鍵で扉を開けた。ビルに入ると左手の一角が店であった。格子の先には、主の帰りを待ちわびるように大きな古時計がもの悲しく時を刻んでいた
「...」
前島はその時計を暫く眺めていた。そして、ゆっくりと階段を上り斎藤のいる事務所へと向かった
「ギャハハ!おぉ、バカ儲けしてよ、笑いが止まらねーとこだよ。まぁお前も頑張れよ」
斎藤はひとしきり笑うと携帯を切り、バーボンを瓶ごと口に運んだ
斎藤はバーボンを片手に立ち上がり、フラフラと独り掛けのソファーへ体を投げ出した。背丈があり隆々とした体つきではあるが、武道で鍛えたわけではない。そのためか、週に三日のジム通いを怠けると一週間もすれば、体がたるんできた
―そういゃ..ここんとこジムに行ってねぇな
ソファーに投げ出した体を見ると腹部が突き出し始めている
「ま、いいや」
自分を嘲るように言い捨てると、もう一度勢いよくバーボンを流し込んだ。両手をダラリと垂らすと、大理石で作られた応接テーブルを両足で前へ蹴り出した。ガチャリと音がすると、半分程氷の溶けだしたロックグラスがペルシャ製の絨毯に黒い水溜まりをつくった
「ふぅ..」
斎藤は目を閉じた。つけっ放しのテレビからは、ニュースが流れていた。深夜放送とは思えない騒がしさだ
「...」
斎藤は静かに目を開くとスーツの内ポケットから小さな写真を取り出した。写真には、病室で痩せ細った女が力無く微笑んでいた
「弘美..」
斎藤はサングラスをテーブルへ放り、諦めにも似た眼差しで暫く写真を見つめていた
「弘美..もうすぐ手術を受けさせてやるからな..それまで頑張れよ..」
そう語りかけると、ポケットに写真をしまい込んだ
「あと1000万..か」
バーボンを呷ると、天を仰ぐようにして目を閉じた。瓶の中で琥珀色の液体が波のように揺れた
生まれながらの悪人なんて、この世にはいない。誰しも小さな可愛い子供の時代があったのだ。それが何故、犯罪へと足を踏み入れてしまうのだろう..周囲の環境ためだろうか..或いは、育った家庭環境のためだろうか..愛する者の為に他人を犠牲にする悪とは一体、何者なのであろうか..悪人と善人との境界線は一体、誰が創ったものなのだろう..
斎藤は詮無い答えを自分に求めている内に、浅い眠りに誘われていた。足下に冷たい風が触れたように感じたが、そのままゆっくりと深い眠りへと落ちていった。左手からバーボンの瓶が力なく落ちていく
深夜のニュースがバーボンの匂いの漂う部屋に騒がしく流れていた
前島は階段を登りきると、人の気配がないことを確かめながら、静かに斎藤のいる事務所へと進んだ。ドアに近付くと、ガムテープに『スマイルキャッシング』と手書きされている。前島は壁に背中を寄せ中の気配を探った。ドアの隙間から小さな灯りが漏れている。ニュースを伝える声が聞こえた。右手でノブを掴む。黒皮のグラブがギュッと音を鳴らした。ドアが音もなく開いていくとアルコールの匂いと温かな空気が冷たい廊下に流れ込んだ
「...」
前島は、ソファーにもたれた斎藤の後ろ姿を見留めた。テレビの音が騒がしい。ゆっくりと斎藤の横へ回り込んだ。口を開けたまま首を後ろへ折るように寝ている
「ガフッ!!」
ボールでも蹴るように、いきなり斎藤の鳩尾へブーツの先を蹴り込んだ。斎藤の口から鈍い悲鳴と汚物が飛び出した
「...」
うずくまる斎藤を暫く見下ろすと、肉厚のある小さなナイフを取り出し、カーテンの端を上から引き裂いた
「な..なんだ..テメェ」
斎藤はうずくまりながら、どうにか目だけを上に向けて言った
「...」
前島は無言のまま斎藤に近付くと、斎藤をソファーに座らせ切り裂いたカーテンで後ろ手に縛りつけた
「な..なに..しやがる」
脂汗を額に浮かべながら斎藤が睨み付けるが、痛みで体が思うように動かない
「織田尚志を殺させたのは、お前だな」
前島は斎藤の真横に立つと前を向いたまま訊ねた。二人で正面のテレビを見ている格好となった
「あ..!?」
唐突に訊かれたことが分からないのか、斎藤は眉を寄せながら前島を見上げようとした
「ドスッ」
前島がもう一度ブーツの先を突き込んだ。斎藤の顔色が青く変色していく。骨でも折れたのかもしれない
「し..知らねぇ」
呻くように答える。もう一度、脚を上げると斎藤が体を震わせながら懇願した
「ま..待ってくれ..言う、言うからやめてくれ」
前島が脚を降ろすと、緊張が解けたように肩から力が抜けるのがわかった
「こ..殺したのは..奈々原って奴だ」
「お前とどういう関係だ」
「そ..それは」
前島が俊敏な動きで脚を振り上げると同時に、斎藤の胸へ蹴り入れた
「わかったッ!!話すッ!話すから蹴らないでくれ!」
胸から数センチのところで、前島の足先がピタリと止まった。それから斎藤は少しずつ、奈々原との関わりや、織田尚志との経緯を語り出した。バーボンの香りが鼻孔をついた
話し終えた斎藤の顔色は、幾分か戻っていたが時折、激痛に顔を歪めていた
ゴォン..ゴォン..
階下にある『アンティーク』に掛けられている古時計が午前二時を告げた
「それで、奈々原はどこにいる」
「分からねぇ..」
前島はテレビへ体を向けたまま、斎藤の眼前にナイフ突き出した
「ほ、本当だ!本当に知らねぇんだよ!」
「些細なことでもいい、心辺りはないのか」
手のひらにすっぽりと収まる程の小さなナイフが鈍い光を放っている
「ひょ、ひょっとしたら..フィリピンにでも高飛びしてるかもしれねぇ」
「フィリピン?」
確かに邦人の犯罪者がフィリピンの小さな山村に隠れ住んでいるという話しを裏社会にいた頃、耳にした覚えがある。だが、独りで手筈を整えることは無理だろう。現地人の口を塞ぐ為の金も相当いる。巨大な組織の力を借りなければならない筈だ。斎藤が組織との繋がりがないことは調べている。全く繋がりがない分けではないが、闇金の看板代に幾らかの金を小さな組に納めているだけだ
―可能性としては、日本に潜伏している方が高い..だが、居場所が分からない..か
「おい、もういいだろ?胸が、イテェんだよ。ヒモを解いて早く消えてくれよ」
激痛に耐えかねるように斎藤の顔色が青白くなっていた
「人ってのは、血液の三分の一を失うと死に至るそうだ」
「..!?」
斎藤の顔色が赤くなったり、青くなったりと目まぐるしく変わっていく
「ど、どうするつもりだ!?」
前島を見上げるが、目だし帽に隠れた横顔しか見えない。僅かに覗いた眼にはテレビの砂嵐が映り込んでいるだけだった
「お前の手首を切る」
そう言い放たれた瞬間、手首を金属に裂かれた感触が疾った。冷たい液体が溢れ出したように斎藤は感じた
「ギャァァ!!」
縛られた体を必死に揺らして解こうとするが、僅かな隙間もできなかった
「その巨体が何分で、あの世に行くか見届けてやるよ」
斎藤の背後から抑揚のない声が囁いた
「い..一体、お前は誰なんだ!?」
後ろを振り向こうとするが前島の姿は見えない
「そろそろ、四分の一くらいは流れたか」
斎藤が足下のソファーの後端を見た。ペルシャ製の絨毯が少しずつ黒いシミで覆われてくるのを微かに捉えた
「自分の血ってのは冷たく感じるものだろ?お前は人の血の温かさを知っているのか?」
斎藤の顔が土気色に変わり、全身が微細動を始めた
斎藤が激しく痙攣をした。ビクンッと二度、大きく体を震わせると力を失ったようにぐったりとした。前島はバーボンの瓶を掴むと、最後の一滴を斎藤の手首へ垂らした。切り裂かれたはずの手首の下には血溜まりなどなかった。もっとも手首は切り裂かれていなかったのだ
前島は、ナイフを斎藤の眼前にチラツかせ、心理的な動揺を作り出した。斎藤は「ナイフで切られる」と思い込んだ。そして、「手首を切る」「血液を三分の一失うと..」の言葉で、判断力を失わせると、ナイフの峰で手首を擦りつけ、その部分に脈と同じ間隔でバーボンを少しずつ垂らしていったのだ。そして斎藤は切られたと暗示に陥り、自ら生命を停止させた
「..ろ..み」
斎藤が口の中で何か呟いたが、それから二度と動くことはなかった。前島は斎藤のスーツの内ポケットから写真を見つけた
「...」
暫く写真を見ていると、何となく斎藤の背景が浮かんできた。写真をポケットへ戻すと、開かれたままの瞼をそっと閉じてやった
「因果応報..か。お前の悪は、何者だったんだ..」
前島は独り呟くと、静かに深い闇の中へ戻って行った
ゴォン..ゴォン..
アンティークの古時計が物悲しく、主に別れを告げているようであった。数日後、斎藤の死体が発見されたが手掛かりとなる証拠や目撃情報が一切掴めず、迷宮入りとなった。自殺とも他殺とも異なる死体に捜査員達は首を傾げていた
数年後、ビルは取り壊され、新しいビルが建設された。それから間もなくビルの一階に喫茶店がオープンした。『アンティーク』のような個人の店ではなく、チェーン店であった
奈々原哲也の足取りは掴めなかった。日本のどこかで息をひそめているに違いない。前島はあれ以来、消息をぷつりと絶った。ただ、どこかの街で若者同士の喧嘩を止めようとした中年男が刺されて死んだが、それが、前島ではないかという..
人の哀しみは、時の流れがゆっくりと癒やしてくれる。人の哀しみは豊かな四季が優しさにかえてくれる。人間とは強い生き物だ。決して弱い生き物ではない。自分の信じた正しい道を歩いて行けば、いつかきっと、微笑みに..
「...木ノ下」
咲子が誰かに肩を突つかれながら、呼ばれている
「尚..志..」
赤提灯を掲げた屋台で咲子はうつ伏せていた。晴代が揺すろうが叩こうが今夜の咲子は、どうにもならない。まだ宵の口だ。焼鳥の香ばしい薫りが晴代の鼻をくすぐっていた
新年も一過性の騒ぎを終えると、早くも立春を迎えようとしていた。御河商事も三月の決算期に近付くにつれ、社内のあちらこちらで慌ただしさが芽吹いてくるようであった
幾分、温かい日差しが薄青いカーペットが敷かれた廊下を広がっていた。木ノ下咲子はのんびりとメールカーを押している
―次は..総務の広谷さんか
咲子は輪ゴムで束ねられた封筒の宛名を確認した。社内の各部署にはドアがなかった。ドア向こうを気にしながら開閉する時間が無駄だという初代社長の信念が脈々と受け継がれている証であった
咲子はメールカーを入口の端に寄せると、覗き込むように総務課へ入った。女子社員達のパソコンを打つ音や電話応対の声が間断なく部屋を行き交っていた
―えぇと、広谷さんは..
キョロキョロと見回していると、野乃由香がえくぼを湛えながら、封筒を片手にのっそりと立ち尽くしている咲子に駆け寄った
「木ノ下先輩、誰を探してるんですか」
由香が封筒の宛名に目を移しながら訊ねた
「うん?広谷さん何だけど..」
咲子はもう一度辺りを見回しながら答えた
「広谷さん..ですか」
由香の表情から、えくぼが消えると速雲に覆われるように声音を鉛色に包んでいった
「なに?広谷さん、どうかしたの」
ここではちょっと..と、由香は咲子の袖を引っ張ると隣の給湯室へと連れ込んだ
「広谷さん、近頃、欠勤が多いんです。二、三日休んだ後に出てくると顔にアザがあったり..お化粧でごまかしているみたいですけど、やっぱり分かるじゃないですか..」
由香が咲子に向けた視線を封筒の宛名に落として言った
「誰かに暴行されてるってこと?」
少し沈黙を置くと由香は、小さく唸るように考えていたが、廊下に人の気配がないのを確かめると、咲子の肩に体を寄せた
「噂なんですけど、広谷さんの付き合ってる人ってのが、ヤクザ風の男らしいんです。広谷さんより少し年上とか..背中に刺青があるなんて話しも聞きました」
「....」
暫く言葉が途切れると、由香は促されたように話しを続けた
咲子は広谷裕美へ特別な感情を持っている分けではなかった。しかし、裕美の方は違っていた。プライドを賭けつつも、自分の男にできない上原の気持ちが、木ノ下咲子にあると知った日から、いや、何故だか分からないが、以前から咲子に対しある種の劣等感のようなものを抱いた自分を憎む気持ちが、咲子へ向けられているようであった
岡崎晴代は、新商品の関連書類に目を通し終えると両目を軽く押さえた。パソコンにもデータは保存してはいるが、じっくりと熟考するときには、必ず書類を手で持って考える。なぜか、この方が思考がまとまるのだ。部下に案を提出されるときも、まず書類で提出させ、その後電子書類を送らせていた。時計を見ると十九時を回っている。週末の金曜日、部屋に残っているのは晴代だけだった
「ふぅ..」
椅子の背にもたれると指先から爪先までを思いっ切り伸ばした
「ゴホンッ」
入口で咳払いが聞こえた
晴代はゆっくりと上体を起こすと、入口の男を見た
「あ、叔父さん」
半田辰蔵..晴代の叔父であり、御河商事の専務取締役で実質的な権力者である。一応、社長もいるのだが、こちらは各方面への『コネ』の為に用意された数年契約のポストであり、財界人や政界の要人等の天下り先として迎えていた
―叔父が仕事の話しでここに来たことはない。ということは
「何?お見合いはしないわよ」
そう言って顔を逸らした
「はは、相変わらずだな。残念だが今日は違うんだ」
白髪を揺らしながら辰蔵は苦く微笑んだ
「え?」
はて、何用だろうかと首を傾げていると、手頃な椅子をひきながら辰蔵が晴代のデスク脇に腰を下ろした
「実はな、総務課に人を回してくれないかと相談があってな..何でもこの時期に欠勤している者がいて困っているそうだ。また、その欠勤者が皮肉にも仕事ができたようでな、並の代わりでは務まらんそうだ」
「ふぅん..それで」
晴代はデスクの引き出しから純銀のスキットルとショットグラスを二つ取り出した
「まぁ、誰か雇うにしても直ぐに戦力になるわけではないしな、かといって業務を滞らせるわけにもいかんでな..誰か適任者はいないか?」
辰蔵は前に置かれショットグラスを指で掴むとチビと口に含んだ
「そうねぇ..」
二人は天井を眺めながら、手酌で二杯三杯と杯をすすめた
辰蔵はネクタイを緩め目を虚ろにし、晴代はどこから取り出したか知らないが、オールドパーの封を切り、目を据わらせている。酒好きは血筋であろうか。時刻は二十一時を回ったばかりだった
「あっ!」
不意に二人が思い出したように叫んだ
「適任者がいたっ!」
「ハクションッ」
ゴロンと横になりテレビを見ていると背中に悪寒がはしった
―風邪かなぁ
咲子は身震いすると台所で卵酒を作り始めた
御河商事の正面玄関。レンガ色のタイルが小雨に濡れて、黒雲を映し出している。咲子は傘の雨飛沫を払った
「あれ?何だろ..」
自動扉を過ぎると、右手にある掲示板に人だかりができていた。隣どうしで何かヒソヒソと話しをしている。咲子はその人だかりの後ろに立ち、掲示板を覗き込んだが、人の頭が邪魔してよく見えなかった
「あの何かあったんですか?」
咲子は掲示板を見ながら、二人で夢中になって話しをしている女に訊ねた
「何って、あの雑用係のことよ」
女は咲子の顔先にチラと視線をくれて、掲示板へ顔を戻そうとしたが、戻しそこなった
「ギャァッ」
女の鋭い悲鳴の後に、全員の視線が咲子へ集まる
「うわっ!ざ、雑用係!」
「で、出た!」
まるでお化けでも見たように叫ぶと、人だかりは蜘蛛の子を散らすように足早に去っていった
「...」
咲子は蜘蛛の子達の背中を見送ると掲示板へ近付いた
「なになに..木ノ下咲子、本日付けで、総務課へ臨時配属を命ずる。げぇッ!!」
沈黙の後、さっきの人だかりは、みんな総務課だったなと、咲子は力無く思い出していた
御河商事では、辞令が下ると直属の上司、上司がいなければ、社長、または専務から辞令を直接受取りにいかなければならなかった。咲子は迷わず専務室へ足を運んだが、足取りは重かった
「失礼します」
専務室の前で咳払いをすると、咲子は足首に鉛をつけたように室内へ進んだ
「おぉ、木ノ下君!元気か?」
専務から意味のよく分からない歓待を受けながら、おはようございます。と小さな声で、勧められたソファーへと腰を下ろした
専務取締役の半田辰蔵から、辞令に至る経緯を説明された。咲子は渋々と両手を添えて辞令を受け取ると恨めし気に部屋を出た
―はぁ..当分、真面目な仕事かぁ
咲子が御河商事の第一線から退いて、十年以上が経っていた。当初は心身の療養を兼ねてと専務から、社内の雑用係のポストを与えられたのだが、ものの見事に雑用係のお気楽さに浸かってしまった咲子であった
「木ノ下!」
晴代が壁にもたれて待ち伏せていた
「岡崎..」
咲子がのっそりと顔を上げた
「ようやく前線復帰だな!」
晴代が嬉しそうに、バンッと咲子の背中を叩いた
「へへへへ..」
咲子は不気味に微笑むと、背中を自嘲気味に震わせながら、ふらふらと消えていった。晴代は叩いた手を宙に浮かせたまま固まっていた
咲子は総務課の前に立つと目を閉じた
「ヨシッ!」
これまでの、ぐうたらな気分を一新させると、力強く目を開いた
「おはようございます」
咲子は元気よく挨拶をした。一瞬、ザワつきが止み、咲子へと視線が集まったが、直ぐにザワつきは戻った
総務課長の小早川が咲子に気付いて手招きをした。咲子は軽く会釈をすると、小早川のデスクに足を向けた。周りの者は、咲子の挨拶など気にも留めずパソコンを睨んでいたり、書類を分けたりしている
「本日付けで総務課へ臨時配属となりました。木ノ下咲子です」
咲子は小早川の前に立ち挨拶をすると、もう一度頭を下げた
「あぁ..木ノ下君ね」
小早川は露骨に嫌な表情を見せた
―なぜ..専務はこんな雑用係を広谷の代わりに寄越したんだ
小早川の年齢は三十五才。御河商事にくるまでは、別の総合商社に勤めていた。三年前に中途採用という形で入社していたが、実は専務取締役の半田辰蔵にヘッドハンティングされたという事実を知る者は岡崎晴代しかいなかった。小早川は、その事を鼻にかけ、口にこそ出さないが、事あるごとに上司を通さず、直に半田辰蔵へ意見をしていた
「何をすればいいでしょうか」
咲子はまるで新入社員のように、仕事の指示を待った。しかし、総務の業務内容を知らない分けではなかった。咲子の入社当時は、数年ごとに課の転属が義務付けされていて、総務課にも二年程、席を置いていたのである
「じゃ..とりあえず庶務業務でもやって頂きますかね」
庶務業務とは、郵便物の管理、事務用品の管理、印刷物の管理等である。小早川は値踏みしているのか、上目づかいに咲子を見ると唇の端を歪めてみせた
「はい。分かりました。席はどこを使えばいいでしょうか」
周りを見るが、広谷裕美の席しか空いていない。まさか、欠勤日だけ席を借りるわけにもいかないだろう
「そうだな」
部屋を見回すと、小早川の目に留まったものがあった
「悪いけど、あの中使ってくれないか」
小早川はアゴをのせていた両手の人差し指で、物置と札の掛かった扉を指して言った
「...」
「木ノ下君、臨時だしさ適当にやってくれたらいいよ」
今でこそ、雑用係の木ノ下咲子と社内で認識されているが、以前は御河商事の竜虎と呼ばれ、岡崎晴代と張り合った程の実力者である。この一言が、咲子の自尊心を奮い起こした
「ありがとうございます」
咲子は抑揚のない声で言った
「裕美、今夜も頑張って稼いでこいよ」
奈々原哲也は裕美の背中を抱き込むと、左腕の白いブラウスの袖を捲り上げ、細い注射針を刺し込んだ。黒ずんだ斑点が広がっている
「うぅ..」
広谷裕美は僅かに呻くと、体中に血液が流れ出したように生気を取り戻した
「クスリ..持って行く」
裕美の指先がテーブル上の、乱雑に置かれた小さな袋へと伸びていく
「ダメだ」
奈々原は裕美の手を払いのけると、手早く袋と道具を片付けた
「これは、ご褒美なんだからな。こいつが欲しけりゃしっかり稼いでくることだな」
奈々原は裕美の捲り上げた袖を戻してやると、尻を叩いて玄関へと追いやった
裕美の表情にはもう御河商事にいた頃の面影はなかった。二ヵ月前は欠勤しながらも、どうにか出社していたのだが、近頃は全くであった。並の会社であれば即座に解雇処分となるところだろうが、御河商事では、本人から直接、退職願を出さない限りは病欠扱いとし、一年間は社に籍を置けるのだ
しかし、広谷裕美の職場復帰は絶望的であろう。肉体も精神も朽ち果てた野良猫のようにボロボロだった。裕美は会社のこと、上原のこと、咲子のことも少しずつ思い出すことが出来なくなっていた
「裕美、頑張ってくれよ。後五百万収めりゃ、緒川組の幹部候補として杯貰えるんだからよ」
緒川組は全国規模で展開する広域暴力団、大府会の末端組織である。緒川組は裏社会の通り名であり、実際は十階建てのビルに緒川興業と看板を掲げており羽振りがよかった。社内も、組員だけではなく、一般人の社員も働いている企業ヤクザであった
しかし、組員の統率は行き届いており、堅気相手の揉め事や、薬物の扱いは理由の如何を問わず、御法度である。組長の佐伯薫は六十を越えていたが、ケジメと筋は昔からきっちりと通す男であり、直系に近い組からも一目置かれていた
奈々原は、竜一という同年の組員に、一千万上納すれば見習いからではなく、幹部候補として迎えてやるという話しを持ちかけられていた
「....」
裕美は俯いたまま、何も聞こえなかったように、ドアを開けた
―この年で見習いなんかできるかよ。一千万出せば幹部候補として迎えるって言ってんだ、金は女に稼がせりゃいい。こんな美味しい話しがあるかってんだ
奈々原は高笑いをすると、仰向けになり煙草に火をつけた
―もう少し..
吐き出した煙が輪を描きながら、薄暗い天井へと吸い込まれていった
退社時刻を過ぎても、上原は呆けたように、パソコンを見つめていた
「上原、残業か?」
バッグを肩に掛けた晴代が、デスクでぼんやりしていた上原に気付いた。他の同僚達はとっくに退社している
商品開発部は比較的、のんびりとした部署である。それに去年、開発した商品が軌道にのり、順調に売上を伸ばしていた。取り分け居残りをするほどの忙しさはなかったのである
「あ、課長」
上原は何か聞きたそうに顔を上げた
「あの..木ノ下さんは、なぜ総務課に移動になったんですか」
「ん?」
晴代は、ここ最近の上原の行動が妙に落ち着きがないように感じていた。仕事でのミスはなかったが、心在らずといった姿を頻繁に目にするようになっていた。その原因が分かったようである
―私としたことが..
咲子が雑用係をしていたときは、社内で何かと接触する機会があったのだが、総務課へ移動してからというもの、その機会が全くと言ってよいほどなくなっていた
―咲子の移動と上原の心情を重ねて考えれば、上原の釈然としない態度も容易に察しがついたはずなのに
私の洞察力も錆び付いたもんだと晴代は苦笑せずにはいられなかった
「あぁ、木ノ下か..あれはな、確か総務に広谷裕美ってのがいただろ?その広谷が欠勤が続いてるので、助っ人で配属になったとか言ってたな」
「広谷..さん」
上原は広谷裕美から毎年、クリスマスの日に机の上へプレゼントとメッセージカードを添えて置かれていた事を思い出した
―そう言えば、去年のクリスマスはプレゼントがなかったな
上原へプレゼントを贈る女子社員は広谷裕美だけではなく、他にも数人いた。上原が本気で口説いて、おちない女はいないだろうといった噂が密かにあるが、当の本人は女遊びなど一切しない大真面目な人間であった。逆に、その硬派な一面が好感に好感を呼んでいるということを上原は気付いていない
上原は毎年クリスマスやバレンタインの日に、同僚や先輩達からの、嫉妬の混濁した冷やかしを煩わしく感じていた
「そうなんですか..」
上原は気落ちしたように無意識に視線を落とした
「どうした?木ノ下に会いたいのか」
上原は胸中を、ズケと言い当てられて目を白黒させた
「そうか..お前の木ノ下を思う気持ちは、本気なんだな」
そう問いかける晴代に、上原は目で力強く頷いた。暮れなずむ夕日が、部屋中を黄昏色に染めている。その色はどこか哀しくみえた
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
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少女漫画あるあるの小説www0レス 58HIT 読者さん
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北進11レス 222HIT 作家志望さん
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こんなんやで🍀128レス 1171HIT 自由なパンダさん
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「しっぽ」0レス 100HIT 小説好きさん
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わたしとアノコ143レス 1442HIT 小説好きさん (10代 ♀)
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北進
「勘違い」じゃねぇだろ飲酒運転してたのは事実なんだから(作家志望さん0)
11レス 222HIT 作家志望さん -
西内威張ってセクハラ 北進
隔週休2日、みなし残業などブラック要素てんこ盛りいや要素っていうかブラ…(自由なパンダさん1)
74レス 2572HIT 小説好きさん -
神社仏閣珍道中・改
4月16日から春の土用に入っています。 土用とは、年に四回ある…(旅人さん0)
202レス 6696HIT 旅人さん -
わたしとアノコ
「私がやっておいたわ❤️こうゆーのは得意なのよ」 「あ,,,有り難う…(小説好きさん0)
143レス 1442HIT 小説好きさん (10代 ♀) -
こんなんやで🍀
この動画なくなってる😑 どんだけやるねん! とことん糞(自由なパンダさん0)
128レス 1171HIT 自由なパンダさん
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人間合格👤🙆,,,?11レス 117HIT 永遠の3歳
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酉肉威張ってマスク禁止令1レス 124HIT 小説家さん
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今を生きる意味78レス 503HIT 旅人さん
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黄金勇者ゴルドラン外伝 永遠に冒険を求めて25レス 942HIT 匿名さん
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勇者エクスカイザー外伝 帰ってきたエクスカイザー78レス 1779HIT 作家さん
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人間合格👤🙆,,,?
皆キョトンとしていたが、自我を取り戻すと、わあっと歓声が上がった。 …(永遠の3歳)
11レス 117HIT 永遠の3歳 -
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酉肉威張ってマスク禁止令
了解致しました!(小説好きさん1)
1レス 124HIT 小説家さん -
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おっさんエッセイ劇場です✨🙋🎶❤。
ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
57レス 1389HIT 檄❗王道劇場です -
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今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 503HIT 旅人さん -
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神社仏閣珍道中・改
この豆大師についての逸話に次のようなものがあります。 『寛永…(旅人さん0)
500レス 14816HIT 旅人さん
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いじめなのか本当に息子が悪いのか
小学4年生の息子の母です。 息子が学校で同じクラスの女の子のお尻を触ってしまうというトラブルがあり…
72レス 3361HIT 教育に悩むママさん (30代 女性 ) -
私が悪いのですが、新入社員に腹が立ちます。
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言い方とか、誹謗中傷等したりはやめて下さい。原因はなんだろね
腰痛になり整骨院通い始めたんだけど 相変わらず、行けばまぁ治るんだけど休みの日(病院が休み、自分も…
30レス 550HIT 聞いてほしいさん -
ひねくれてますか?
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私の人生観、おかしいですか?(長いです)
30歳を過ぎ、自分の考えに疑問に思うことが増えたので、聞いていただきたいです。 私は20歳を過…
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低収入だけど優しくて暴力(DV)をしない旦那ならいい?
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20レス 558HIT おしゃべり好きさん - もっと見る