偽りのない気持ち
【常にあなたの傍に】
「ボス、こちらをどうぞ」
ボスは彼女を一瞥したのかどうかすら分からなかったが、それを受け取った。ボスの機嫌を損ねるようなことはできない。彼女にとってはボスは絶対であり、ボスこそが生きがいでもある。常にボスの状況を把握し、適切に対応をすることが使命だと感じていた。なんら理不尽なことでもない。
「ボス、着替えを持ってまいりました」
ボスは特に指示を出すこともなく自然な流れで服を着せ替えさせる。見慣れた光景だ。ボスは何を伝えるでもないが、彼女はそれを汲み取り、必要な対応をとる。
「ボス、食事のご用意ができました」
ボスは心地よさそうに食事をとる。
「ボス、そろそろお眠りになられてはいかがでしょう」
ボスはなかなか寝付けなかったようだが、そんなときもある。ボスにはやるべき仕事があるのだし、さまざまなことが脳裏をよぎっているのであろう。しばらくして眠りに入ったようだが、何やら突然と大きな声を出して彼女を呼んだ。
気まぐれなボスは時々このようなことがある。しかし彼女はそれに対応せねばならない。
「ボス、いかがいたしました」
彼女はボスを見るやいなや瞬時にすべてを察し、用意周到に整えていた準備の品を差し出し、なんとか機嫌を損なわないよう落ち着いて対処した。
落ち着いたボスを見つめ、彼女はニッコリとした笑顔を浮かべる。
「よかったわ」
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【幸福】
常に細心の注意を払って対応しているが、時にボスは予想もしない行動にでることもある。
突然、ボスから、危機が迫っているというシグナルを受け、慌てて駆けつける。
「ボス、何があったのですか」
ボスは彼女に視線を送る。
いくら注意深くボスの機嫌を伺い、常に用意周到な準備をし、誠心誠意尽くしていたとしても、時にはこのようなことも起こる。幸いボスの身は無事ではあったが彼女はいたく反省した。
「もっと自分を犠牲にしてでも尽くさなくては」
それからの彼女は、よりいっそうボスへの気持ちを強くし、日常のすべてを捧げた。
ときにはつらいこともあったが、それすらも喜びに変わる。ボスの傍にいられることが彼女の全てであり、彼女の望みでもあった。
【距離感】
彼女の日常は、常にボス有りきの生活だった。代わり映えがしないといえばそうだが、彼女にとっては、大変な努力をボスに費やしたのも事実だ。
それでも彼女は何の不満も感じること無く、日々の全てをボスのために捧げていた。
しかし、そのまま同じような月日が流れ続けることはなかった。
何かしらのキッカケがあったのかはさだかではないが、機嫌を損ねたのか、あるいはなにかしらの心境の変化が訪れたのか、徐々にボスは彼女を遠ざけるようになってきた。
彼女は彼女でなんとなくその気配を察知し、必要最小限の行動に留めるようになった。
彼女自身がボスの一番の身近な存在でなくなってしまった喪失感は想像以上に堪えたようだったが、ボスがあのような振る舞いで彼女と接するようになったのは彼女自身の責任でもあり、またやむを得ないものでもあると理解するように努め、現状を受け入れた。
とはいえ、関係が完全に途切れることはない。
必要に応じて彼女はボスの指示を受け動き、あるいは自分からボスに対して進言し、または要求されていたものではないが必要と思われる物資などを渡し、ボスの身をあんじていた。
ボスはというと、相変わらず彼女に対しては取り立てて興味を持つこともなく、無関心だった。
【ベイビーボス】
しばらく、そんな関係が続いたが、彼女のボスへの気持ちは変わること無く、必要に応じて、いや、おそらく必要以上にサポートを続けた。
ボスはそれを当たり前のように受け入れ、言葉としては、ひとことふたことを返す程度で、特にねぎらうこともない。
でも彼女は献身的にボスのために自分の出来うるすべてを与え続ける。
ボスと彼女との関係性は、それで成立し得るものだったのだろう。
彼女はボスの今後を案じ続け、ボスの方は、頭の片隅には彼女のことを思いながらも、特段、何かをすることもなかった。
時間は淡々と過ぎていくように思えたが、それは唐突だった。
ボスの身に思わぬトラブルが発生した。予期せぬ事故にあい、病院へ救急搬送されたのだ。
彼女が駆けつけた頃には、ほとんど意識はなく、相変わらず彼女のことは一瞥する程度で、いや、このときばかりは、それしかできなかったようだが、そのまま再びと目を開けることはなかった。
ボスは、そのまま帰らぬ人となった。
静寂に包まれる病院内で、ボスの亡骸の傍で呆然としている彼女のすすり泣く嗚咽だけが響き渡った。
「私よりも早く亡くなってしまうなんて、なんて親不孝なのよ。私のかわいいベイビーちゃん。何歳になっても、あなただけが私の支えだったのに。赤ちゃんの頃から、私のすべてを注いで来たし、思春期になっても、大人になっても、どんな関係になっても、あなたは私のすべてだったのに」
彼女が尽くすべき唯一の存在であり、自分にとってのすべてであった息子は、幸せそうな笑顔を残して、そのまま長くない生をおえた。
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