やっほー、地球
平凡な日々だ。それなりの高校に通い、適当な大学に入る。
学生生活は満喫していた。
恋人もいて、そこそこの成績で単位も取れていた。
特に理由はなかったが、新入生勧誘の時期にたまたま声をかけられた音響関係のサークルにも入り、裏方の仕事に楽しみを見つけられていた。裏方とはいえ、やる作業はとても繊細で、とても面白かった。
就職活動もそれなりにうまくいきそうだ。
多分、それなりの人生を過ごせそう。
それなりの人生って?
その頃は、そんなことは考えもしなかった。
会社では、心機一転というか、できる限り明るく振る舞うようにしていた。
飲み会などにも、可能な限り参加し、同じ部署の同僚や、同期入社の連中とも仲良くしていた。
そんな風に装っていたつもりだった。
自分の意図とは裏腹に、周りからの印象はそうではなかったようだ。
なにか、どうでもよいことを気にするヒト、ときどき無理やりテンション高く話すヒト、ちょっとでもプライベートなことを質問をすると何かごまかしがちに濁すヒト。
「そういう風に見えてるよ」
そのように伝えてくれたのは、会社の全く別の部署の、自分より少し年上の女性だった。
特に親しいわけではなかったのだけど、たまたまご一緒することになったランチ。何気ない会話の中で、そんなことを言われた。
その時は、ちょっとうろたえる自分が居た。
なぜ、この間柄で、こんなことを、このタイミングで伝えられたのだろう。疑問だらけだ。
それから、それほど期間は経っていなかった頃だったと思うが、結構な時間まで残業している中、たまたまオフィスで二人きりになり、なんとなくの流れで飲みに行くことになった。
週末、金曜日の夜だった。
特に恋愛対象の女性として意識したことはない。
「アンタさぁ、地球に足つけて生きてる? ち、きゅ、う、に!」
席についてから、しばらく時間が経過した後、唐突にそう言われた。それまでは、ごく普通の、サラリーマン同士のある意味適当な会話だったのに。
地球にって?
この人は、唐突に人との接し方を変えるのだな。そう思いながらも、初めてのサシでの居酒屋で、いきなりこんなことを言われ、また、混乱する自分がいた。
「アンタ」って。
「地球」って。
どういう意味での問いかけなのか、ただの暴言なのか、分からないまま沈黙を続ける。
「見ててむかつくというか、なんかもどかしいというか、普段から、そういう時とても多いよ」
そんな風に見られていたのか。いや、そんな風に見られてしまうような振る舞いをしていたんだな。
そのように解釈するしかなかった。
その言葉に真剣に向き合えるほどの自分は、今は居ないと瞬間的に察知した。
なんとなく恥ずかしげに、反省した感じの面持ちで、なんとかやり過ごしたい一心で返事をしつつ、話題をそらし、時間が過ぎて行く。
その日は、そのまま終わった。
翌朝、目覚めた瞬間に自問自答する。
地球に足をつけているかと問われた意味は?
それなりの人生を送っているつもりだった。
例の警察沙汰になってしまった事件を除けば、なんの不満も不安もなかった。
「事件を除けば」という前置きがつくわけではあるが、そのことがあった後も、なんとか自分なりにリカバリーしてきたつもりだ。
でも、本当にこれでよいのか?
「それなりの人生とはなんだろうか。それなり以上とはなんだろうか」
なんだか哲学的な話。そんなことは考えたことはなかった。
初めての、自分の人生への疑問。
いまさら、そんな疑問を抱くのって、どうなのかとも思いながら。自分の未熟さを痛感させられる。
自分探しの旅とかってやつ、そういうことをしている人たちって、そんな気持ちからなのかな。
なんてことを、どうにか自分を落ち着けるように考えたりもした。
それでも、疑問は払拭されない。不安が押し寄せる。しばらく苦しんだ。そんな中でも、これまで考えたことがなかった自分の人生にぶつかることができたように感じたのは、偶然ではなかったのかもしれない。そう思うようにした。
考えるきっかけをくれた、その女性とは、時々、飲みに行く間柄になった。
なぜだか分からないが、時に鋭い視線で、自分の人生に問いかけをしてくれる瞬間がある。本人にはそのつもりはないのかもしれない。でも、そう感じ続けていた。
指摘される内容自体は、自分にとっては厳しいことなのだが、毎回、不快に思うことはなく、ただ、その通りだなぁと感じ、少しなにかに怯え、結果、自問自答することになる。
こういうヒトが身近なところに、ずっといてくれたら、自分の今は、いくばくかは変わっていたのだろうな。
そんな風に感じながら、会社の先輩とのお付き合いの延長で、仕事終わりに、お酒好きな、その女性と飲みに行く機会が増えていった。
一緒にいるときは、どんな言葉を投げかけられても悪い気分はしない。自分の人生に対して、向き合うキッカケをくれる。ときには、おそらく世間一般の常識的には、その場で発してはいけないような言葉を、少し大きめの声でするようなことがあったり、本人的には、ちょっとした「ツッコミ」なのだろうが、自分的にはそこそこ痛いビンタをくらったりもする。これは、ある意味、被害者談。
でも、これまでそんな風に真正面から、オモテヅラを気にする素振りも一切無く、自分に接してくれたヒトはいなかった。
なぜか、本当に心地よかった。
心地よく感じ始めていた。
「アンタさぁ、地球に足つけて生きてる? ち、きゅ、う、に!」
いまだに、この言葉が、ずっと頭の中に残っていた。
小さい頃、地球ってどうやってできているんだろうとか、宇宙ってすごいなぁ、とかから始まって、アポロ計画の話を調べたり、太陽系の星たちを解説してくれている図鑑を手にしながら、興味津々に、地球や、書物やニュースから見知りできる範囲の惑星のことを考えていたことはあったが、自分自身に対する「地球」の存在を意識したことはなかった。
地球に足をつける。どういう意味だったんだろうか。
自分にとっての地球とは? そんなことを意識して生きているヒトは、本当に少数だろう。
人生を思い返せば、多少は後悔したできごとはある。
学生時代の例の件は別として、いや、別にしては良くないことではあるが、ほかに頭に思い浮かぶ後悔は、誰にでもあるようなことだ。取るに足らないこと。気にしすぎる必要なんてないと思える程度のこと。
そのひとつひとつを、きっちりと全て消化しきって人生を送っている人が、どのぐらいいるのだろうか。
少なくとも自分は、完璧にそのようにしたと胸を張って発言できる自信はないし、それが自分自身にとって良くないことだなんて感じるはずもなかった。
自分の人生は、おおむね他の人と変わらないものであるはず。きっと、みんなも一緒。
そんな想いで生きていた自分に対して、少しだけ、何かを問い始める、もうひとりの自分を見つけた。
地球に生きるとは。
そんなことは考えたことはなかった。当然だろう? そう思いたかった。
地球上には生きている。それは間違いのないことだ。地球に生かされているといったほうがよいのだろうか。
ただ、生きているだけなのかもしれない。
ただ、そこに存在してるだけのモノなのかもしれない。
それなりの生活をし、いろいろなことを適度にやり過ごし、ただ、それなりに生きることを目標にしてしまっているだけだったのかもしれない。
それなりの人生って、良くないことなんだろうか。
答えなんて分からないまま、いや、そんなことすら考えてこなかった自分の生き方を見透かされていたのかもしれない。
考えたからといって、答えが出るものではない。ある日突然、信じられないようなアイデアを閃き、想像もできなかったような人生に転換するとも思えない。
それでも、それなりに日々をやりすごし、なんとなく生きてきた過去を振り返ることで、頭の中が整理されていく感覚を覚えた。
「整理されたから、何?」
仮に、誰かにそう問われたとしたら返事には少々困ってしまうだろう。
答えなんて出るものではないということを理解しながらも、必死に考えているのだから。
ひとりの人間としては、きっと弱い存在なのかもしれない。それでも考える。なにかを考える。
その女性とは、その後も相変わらず定期的に仕事終わりに飲みに行く。
ふたりの馴染みの居酒屋と言っても良いような所も出来た。強引に誘われることもあれば、こちらから声をかけることも増えた。
この頃には、もう地球という言葉の意味は、すでに、どうでも良いものになっていたのかもしれない。それぞれに、それぞれの地球が存在する。それでいいじゃないか。そんなことを考えながら、日々を過ごし、たまに、こうしてお酒の力も借りながらも、他愛もない話に興じる。
そして相変わらず、唐突に、自分の奥底に潜む得体のしれない何かを刺激するような言葉を投げかけてくる。
今日は、なにを考えさせられるのだろうか、なんて少しだけ期待をするようにもなってきたところだ。
「最近ちょっと変わってきた感じに見えるけど、なんかあった? 前よりも、なんていうか、分かんないけど。気のせっかなぁ。まあ、前までが、随分ひどかっただけかもしれないけどね」
いつも通り礼儀を知らない女性だとも思う。親しき中にも、だろう。たいへん失礼だ。いや、そういう風にしか思えなくなってきた。そして、いつも通り、なぜだか不快ではない。
お茶を濁しながら会話をしていた以前の頃と比べて、少しだけ自分は変わり、ふたりの関係性もちょっとだけ違うものになってきているようには感じていた。
その質問に対して、本当は
「貴女のおかげで、少しだけですが自分なりに、生き方への、というと大げさですが、意識というか、向き合い方が変わってきたからだと思います」
そんな風に言いたかったのだけれど、
「なぁにこんなとこでバカみたいに真面目なこと言ってんのよ。頭でも打ったぁ?」
なんていう風に茶化されるのが目に見えている数秒先の未来がやけに恥ずかしくなり、逆に突拍子もない言葉を返してしまったのかもしれない。
「気になるヒトが出来たんです」
ちょっとした沈黙の時間が流れる。
その後、その女性は、少しだけ微笑んでくれた。
いや、自分自身が、そんな風に観えたらいいなって、そう観るように努めただけなのかもしれない。
でも、その表情を目にした瞬間に、はじめて地球に、それなり以上に足をつけて立てた気がした。
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