モノクロ
近くにいてもつかめない想い。
距離だけではない隔たりに戸惑う沙奈。
沙奈からは、レンズの向こうのジンの心は見えない。
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「ねえ、これ、タダなの?」友人にたずねると、
「あたりまえじゃない。アツミでしょ?その人評判いいよ。あんた、髪、そろそろ切りなよ。夏になったら暑苦しいよ」と、言われた。
「そうかなあ、パーマかけたいんだけど、、」
「冬にかければいいじゃん。夏はショートだよ。明日、また、授業終わったら、おいで。予約入れとかなきゃ」
翌日、アツミという人が、私の髪を切ってくれることになった。
空いている教室の片すみで、ブルーの丸いイスに座り、大きな白い布にくるまれる。
「学生?沙奈ちゃんって」
「はい。今年、二十歳になるんです」
「ふーん、ね、耳くらいまで切っちゃっていい?」
「あ、いいですよ。バッサリ、涼しい感じにしてください」
アツミさんは、黒いシャツに、タイトなジーンズをはいて、器用に私の髪を切り落としていった。
明るい日ざしが、大きなガラス窓からさし込んでくる。
車の排気音が、どこかの民族音楽のように、心地よくまわりをとり囲む。
「アツミさん、今、何やってるんですか?」友人がたずねる。
「んー、オレ、最近、バイト。ジンさんのところに、また、やとってもらおうかなって思ってるんだけど」
「へぇ。あたしも、また遊びに行こうかなぁ、呼んでくださいよぉ」
「でも、おまえこのあいだジンさんから怒られたでしょ。ご機嫌がなおるまで、しばらく行かないほうがいいと思うよ」
アツミさんのハサミが、うなじのあたりを通過する。
パサッと音をたてて、私の髪の毛のひとふさが、床に落ちる。
「ね、沙奈ちゃんは、学校で何の勉強してるの?」
「私ですか?イヌとかネコとかの、お医者さんになりたいんです」
「あ、じゃ、もしかして、あっちの学校から来た?」
アツミさんは、細いクシで、窓の向こうにぼんやりと見える動物の専門学校を示した。
「はい。ここは、知り合いも多いから、時々ごはん食べに来たりしてるんです」
「そっかぁ」シャキ!と音がして、パラパラと頭上から髪の毛が落ちてくる。
「前髪、どうする?」
「まゆ毛ギリギリくらいにしてください」
「はい」
目をつぶったら、街の音がガラス越しに伝わってくる。
ゆっくりとトラックが遠くを通り過ぎていく音。友人が、雑誌のページをめくる音。時々、ひたいを通り過ぎていくアツミさんの冷たい指。
「沙奈ちゃん、獣医さんになりたいんだ」
「はい」そっと、目を開ける。
「ネコとか、飼ってるの?」
「いいえ、、、アパートの大家さんが、飼わせてくれないんです」
「内緒で飼っちゃえばいいじゃん。みんな、そうしてるよ」
「でも、狭い部屋で飼うのって、なんかかわいそうで、、、学校に行けば、イヌもネコもいるんですよ。ほとんど放し飼いで。このあいだ、空き地に、小屋を建ててあげたんです。みんなで」
「ふーん、すごいね。いいね、楽しそうで」
そう言って、アツミさんは、私の目の前に鏡を差し出した。
「どう?」
「うわ、、、すごい、みじかくなってる!」
「すごいでしょ。沙奈ちゃんに似合ってるよ」
アツミさんにそう言われると、今までしたことのないショートヘアも、自分に似合うような気がしてきた。
「あー、沙奈、かわいい。みじかくなったねぇ。ね、アツミさん、今度あたしも切ってぇ!」
友人が、アツミさんにまとわりつく。
「空いてたらね」
「空けて下さいよぉ」
「じゃ、例の件、OKしてくれる?」
「え?みーちゃんのケータイ?あーでもあのコ、最近、機種変わったみたいだしぃ、、、、、、」
ガチャガチャと、机の上のハサミが片付けられていく。
立ち上がると、私の肩から、パラパラと小さな髪の毛が、ゆっくりこぼれ落ちていった。
三日後、アツミさんから電話がかかってきた。
「あのさぁ、沙奈ちゃん、今度いつ、うちの学校に来る?」
「え?、、、、明日、行きますけど、、」
「じゃ、そのとき、また会えないかな?写真とりたいから」
「写真?」
「カットモデル募集の、貼り紙につける写真」
私は、一瞬迷ったが、三日たっても、アツミさんの切ってくれた髪型にはすごく満足してたので、OKすることにした。
「いいですよ。アツミさんが撮るんですか?」
「いや、もっと上手い人が撮ってくれるよ」
「へぇ、何着て行こう?」
アツミさんは、受話器の向こうで、ちょっと笑って言った。
「いつものカッコでいいよ。オシャレしなくても。あ、あれから、髪の毛染めてないよね?」
「染めてません」
「ああ、よかった。沙奈ちゃんの髪、キレイだから、黒でも十分イケてるよ。じゃ、1時くらいに、来れる?」
ということで、翌日は、アツミさんたちの学校のテラスでダッシュでランチを食べ、このあいだ髪を切ってもらった教室に向かった。
1時10分前。ちょっと緊張してドアを開けると、そこに、背が高くてがっしりした男の人がいた。
「ジンさん、沙奈ちゃん、来ました」
アツミさんが、紹介してくれた。ジンさんは、カメラを準備しながら、ちらっと私を見て、すっと、向こうへ行った。
かなり、緊張してきた。アツミさんのようにかるい感じの人かと思ったら、なんだかこわそうな人だ。
ジーパンに、薄いペラペラのブラウス、という私の格好が、気に入らないんだろうか。
「よろしくお願いします、、、、」
という私に、ジンさんは、「そこに座って」と、青いイスを示した。
あわてて座ると、1分もしないうちに、カシャ、と、シャッターが切れる音がした。光がまぶしくて、思わずまばたきする。
おかまいなしに、ジンさんは、連続でシャッターを押していき、私は、だんだんと目がくらんできた。
ジンさんのかたわらでアツミさんが、ブラインドのひもを動かしている。
「はい。おしまい」
アツミさんの、やさしい声がした。え、これだけ?と思った私は、イスから立てずにいた。カメラマンの撮影なんて、30分くらいはかかると思ってたのに、、
「じゃ、アツミ、俺、時間ないから、ここ頼む」
そう言って、ジンさんは、素早くカメラをショルダーバックに入れ込み、ドアのほうに向かって歩き出した。
途中、ぼう然としている私と一瞬目が合い、「じゃ、どうも」と、表情を変えずに言った。
すごく、低い声だった。
「ありがとうございました」
アツミさんは、ちょっとだけ頭を下げて、ジンさんを見送った。
そして、アツミさんは手際よく何本かハサミとかクシを片付け、その後、書類や、袋に入ったネガフィルムとかを整理していた。
しばらくの間、教室の中は、アツミさんが片付けている書類のガサガサいう音が響くだけで、あとは沈黙が続いていた。
キキッ、、と音をたててイスから立ち上がった私に、アツミさんは、「一週間くらいしたら、貼り紙するからさ、また、ごはん食べる時、見においでよ」と、にっこりと笑った。
ジンさんが撮ってくれた私のショートカットの写真は、なんだか遠くを見つめていて、私じゃないみたいだった。
「カットモデル募集! by ATSUMI」と、マジックで簡単に描かれた貼り紙の右下に、まるでモデルのような顔で、私が写っている。
ふうん、プロが撮ると、こういう感じになるんだ、、と、妙に客観的に眺めてしまう。
ジンさんは、「スタジオ•ジン」というお店のカメラマンだった。後で聞いたのだが。本名は、仁(ひとし)といって、名字はわからない。ちょっと、近寄りがたいムードの人だ。
あれから、何回か、居酒屋でアツミさんに会った。
アツミさんは、いつもきれいでかわいい女の子や、モデル系の男の子たちとワイワイ楽しそうにしていたが、私を見つけると、「沙奈ちゃん!」と手をふり、「髪、もうちょっとふわっとしてごらん」というしぐさをした。
今日も、同じクラスの女の子とカウンターにいると、いつものようにアツミさんが突然、ポン!と肩をたたいて、
「今度、ジンさんの所でパーティーするから、来ない?」と、聞いてきた。
迷った私は、「どうする?」と、一緒にいた女の子に聞くと、「私、会ったこともないし、課題もあるから、、、」と言うので、私もやめとこうかなぁ、と思っていると、アツミさんは、
「オレのともだちがさー、今度、4区に、ヘアサロンの店、出すんだよね、その前祝いって感じの、くだけたパーティーだからさ、沙奈ちゃん、キミもカットモデルまたやってもらうかもしれないし、ぜひ、おいでよ!ね、そっちのお友達も。ちょっとしたエステやカウンセリングも、してくれるんだよ。今度、チケットあげるから、よろしかったら、おいで、ね?」
と、やや強引に誘ってきた。
私の横にいる女の子は、警戒心が強いタイプなのだが、なにしろ美形に弱く、アツミさんは酔ってはいても、貴公子のようなきれいな顔だったので、「じゃ、お店がオープンしたら、沙奈と一緒に行きます」と、よそゆきの顔でやさしげに答えていた。
結局、好奇心もあって、その祝賀パーティーには、私一人で行ってみることにした。
「スタジオ•ジン」は、裏通りのちょっと入り込んだ所にある。
アツミさんの描いてくれた地図を頼りに、2、3回路地を迷いながら、やっと探しあてた「スタジオ•ジン」は、わりとそっけなく無機質な感じの白い建物だった。
ガラス張りのドアの前に立ち、さあ、中に入るぞ、と思って、ふと、ドアに続いているガラスの壁の向こう側を見た時、ジンさんが、こちらを見ていた。その視線に、ぶつかった。
あらためてジンさんの顔を見ると、なんだか、日本人ばなれした線の太い輪郭だった。無造作に切りそろえた焦げ茶色の髪に、まっすぐな瞳。ハンサム、とかいう言葉ではいいあらわせない男っぽさが、顔全体からただよっている。
「ちょっと」
と、ハスキーな声がして、後ろから赤いマニキュアの手が伸びてきた。その手がぐいっ、と、ガラス張りのドアを開ける。
私もあわてて、その女の人につられるようにドアの中へ入っていくと、
「グロリア!しばらくぶりじゃん!!」と、赤いマニキュアの女の人が、たくさんの人たちに迎えられている。
「アツミ!もー、あんたなかなかつかまんないんだから!もうちょっとで今日もここに来れないところだったよ!」
「グロリアちゃん、髪、伸びたねー、切ってあげようか?」
「あー、だめよ、この子、モデルクラブの社長さんが、長髪好みなの」
グロリア、と呼ばれる、キラキラした服を着たスタイルのいい女の人。
その後方で、壁際にたたずんでいる私。
ふと、大理石の壁に埋め込まれた鏡を見ると、ショートカットで、半そでの細かいレースが付いた紺色シャツに、薄いピンクのデニムのジーパンを着て、さえない顔色をしている、獣医志望の学生が、うつっている。
スタジオの中は、外からガラス越しにのぞいたよりも、なんだか広々として見える。
ポップな原色の服を着た人、パステルカラーのグラス、ブティックの店頭にあるようなきれいな服を着て、スマートにタバコを吸っている女の人たち、、
場違いだ、と、とっさに思う。私なんかが来れる場所じゃないんだ。
どうしよう、中に入っちゃったけど、今のうちに、あのドアから、またこっそり出ていこうかな、、、と、思いをめぐらせていると、金髪の男の人が、トレイにのせたブルーのグラスを、ひょいと、私の目の前に、差し出した。
「どうぞ」
いやおうなくグラスを渡された私は、とまどいながら、「どうも」と、グラスを受けとり、なんとなく中の飲み物を飲んだ。
舌が、ヒリヒリする。炭酸の強いアルコールだ。
「で、さあ、こいつ、N.Y.帰りのおねーちゃんの店に、入りびたってやんの、笑ってやってよぉ!」
あちこちで、歓声があがる。
ちびちびとグラスのアルコールを飲む私は、身の置きどころがなく、かろうじて白いテーブルクロスがかかった丸テーブルの間に、立ちすくんでいる。
「なに言ってんの、ジン!」
クセのある、テンションの高い女の人の声がする。ふと、ジンさんの姿を探すと、シュロのような木の横で、さっきのグロリアという女の人と話し込んでいる。
ジンさんに呼びかける声が、ざわめきの中からはじけとんでくる。
そのたびに、ややうっとうしそうに、その声に背を向けて、ジンさんはずっと、グロリアと話を続けている。
艶のある深い黒いロングヘア。シャンパングラスを時々持ち替えながら、そのグロリアというモデルの人は、上目遣いに、ジンさんの腕に届くくらい近い位置で、嬉しそうにしている。
時々、笑い声をあげて、グロリアがジンさんの肩につかまっているのが、シュロの葉陰から見えかくれする。
ーなんだ、ジンさん、この女の人のことを、ずっと待ってたんだ。
今度、撮影に使うモデルかもね。モデル、兼、恋人、ってやつ?よくある話だよね。
そういえば、なんか、雑誌で見たことがあるような、きれいでかっこいい人が、あちこちにいるな、、、
そんなことを考えつつ、てきとうにテーブルの上のカナッペとかを食べ、スピーカーから聴こえてくるジャズ音楽に耳をかたむけ、ひとりで来ても、つまんないから、帰ろ、、と思っていると、いつの間にか人数が増えてごちゃごちゃしてきたスタジオの人波の中から、ふと、男の人が現れた。ジンさんだった。
「このあいだは、どうも」
低い声で、つぶやくように、ジンさんは、私に向かって、言った。
「いえ、こちらこそ、どうも、ありがとうございました」
「もう、帰る?」
「え?」帰ろうかと思っていた私の心を見透かしたかのような問いかけに、返事につまってしまう。
「はい、、、、 ちょっと、学校のレポートとかもあるし、そろそろ帰らないとヤバい、、、、かなと思ってるんですけど、、、、」
「あのさ」
ジンさんは、胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、サラサラと何か書き込み、ちぎって、私に渡した。
「今度、あいてる時、電話して」
「は?」
とまどう私の右手に、くしゃっとメモ紙を押しつけ、ジンさんは、ちょっと鋭い目付きになり、パーティのざわめきのうずの中へ戻っていった。
私の右手の中のメモ紙に、11ケタの電話番号が書き込んである。
どういうことだろうーー
答えてもらうには、ここに、電話するしかない。
スピーカーから、陽気なサキソフォンの音が鳴り響いて、狭いスタジオ中に反射している。
その次にジン•スタジオに行った時、ジンさんは、カットモデルの時のように、またいきなり何枚か写真を撮り、カメラ機材の説明を始めた。
「あの、ジンさんーー」
「ジンでいい」
それから、ジン、と呼ぶようになった。
どうやら、多目的に使われているスタジオ内の雑用をしてほしいらしい。
「私、こういう業界のこと、まったくわからないんですけどーー」
「そういうやつのほうがいいんだ」
しょっちゅう人が入れ代わるスタジオの中で、私とジンの距離は、どんどん近づいていった。
「あの、沙奈ってのが、ジンさんの一番新しい子?」
ふと、そういう会話が、耳に飛びこんでくることもある。
自分でも、(何か、利用されてるんじゃないかな、、、、)と思いつつも、ジンから私に発信してくる見えないパワーには、どうしても勝てない。
恋人の関係になるのに、そんなに時間はかからなかった。はじめてジンから写真を撮ってもらってから、1ヶ月、ないし2ヶ月未満。
スタジオから10分ほど離れたジンのアパートのベットの中で、何も身につけずに2人で抱きあっていると、街の排気音が、なんだか違う空間から聞こえてくるようだ。
「沙奈」
そう言って、ジンは、ゆっくりとなめらかにキスしてくれる。そして、そのすぐ後に、枕元の携帯で、メールをチェックする。
「、、、、、」
ジンが、携帯の画面を見ながら、ずっと黙っているので、「仕事?」と、聞いてみる。
「いや、違う」と言って、ジンは、起き上がり、裸のままタバコを探す。
一度、2人でベットに倒れ込み、お互いにTシャツを脱いで、私がジンの肩に腕をまわしたその時、ジンの携帯から着信音が流れ出したことがあった。
反射的に、ジンが携帯を取り、低い声で「はい」と言う。
同時に私は、両腕を投げ出して、ベットに仰向けになる。
「、、、、はい、、、、、うん、、、はい、、それはちょっと、、、いや、間に合わせるけど、、はい、はい」
ピッ!と、電話を切る音。
「、、、、誰?」
思わず、聞いてみた。
「今度、お世話になるモデルクラブ」
と答え、携帯を閉じ、ジンは、私におおいかぶさり、しっかりと抱いてくれた。
ひろい腕の中で、溺れてしまわないように、強くしっかりと、ゆるやかな固い背中につかまり続ける。
そんな感じで、あまく、せつない日々は過ぎていった。
まだ未成熟な私の体は、まるで、ジンの一部になってしまったかのように、やさしいキスと共に溶け込んでいってしまう。
ある日、なんだか下着を付けたくなくて、放り出されているジンの白いシャツをはおって、3つだけボタンをはめ、サッシを開け、ベランダに出てみた。
風がやわらかい。バラバラな背丈のビルのすき間に、ジン•スタジオが見える。ぼんやりと遠くに、私が通っている学校の壁が見えている。
ペンキがはげかけたベランダの手すりを握りしめ、しばらくの間、ぼんやりと街の風景を眺めていると、カシャ、と音がした。
ふり返ると、ジンが、窓を開けて、カメラを手にしている。
「、、、、逆光じゃないの?」
「いや、大丈夫」
なんだか、急に恥ずかしくなって、急に部屋に戻り、ちゃんと服を着た。
後で、その時の写真を渡された。
白っぽい影に浮かび上がった私の体と、ジンのシャツ。
異空間から送られてきたような、狭いアパートの風景。
ジンが引き伸ばしてくれたその写真を、私は、いつまでも長い間、じっと、見つめ続けていた。
私の学校でも、「沙奈ちゃんが、プロのカメラマンと付き合っているらしい」と、ウワサになり始め、先生からも、「じゃ、今度、沙奈ちゃんに動物園の写真でも、撮ってきてもらおうかな」と、ひやかされたりするようになった。
その頃、ジン・スタジオの中は、なんだかザワザワしていて、よくわからないモデル系のおねえさんと、どう見てもホストらしい男の人が、つまらない事でひどいケンカをして、ジンが、そのとばっちりで、「人の女連れ込んで撮影して儲けやがって!!」と言われ、そのカップルの関係者一切が出入り禁止になったりする事もあった。
スタジオの質を落としたくない、というのが、ジンの口ぐせだった。
「でも、こういう仕事って、いろんな所のコネが大事なんでしょう?」
「コネクションっていうのは、簡単に一つにできるものじゃない」
けわしい表情でそう言った後、カメラをテーブルに置き、
「子猫の名前、決まったか?」と、素っ気なく聞いてくる。
そういう時、私は、ジンに抱きつきたくなる気持ちをおさえて、
「まだ。同じクラスのみんなは、ティファニーとか、シャネルとか言ってるけど、私は、ミケコがいいと思うんだ」
「ミケコって、、三毛猫じゃないんだろう?」
「うん。雑種。でも、猫っていったら、やっぱりミケコだよ。なんか、こねこって感じがしない?」
そんな、たわいなく、ふわふわとした私たちにとって幸せな日々。
学校とスタジオの往復、時に、ジンのアパート。そういう忙しい毎日の中で、ちゃんと「動物と人間の感染症の病原菌」
のレポートとかも、パソコンや図書室の本を使って、期限までに仕上げたりしていた。
時々、立ち読みしていると、都内のクラブや、アートギャラリーや、来日している新鋭アーティストなんかの写真の下に、ジンの名前が印刷されていたりする。
ーーへえ、こんな仕事もしてたんだ。いつのまに。
私は、恋人と思っているけれど、ジンは、自分の全てを明かす事はしない。
硬派なカメラマンといえばそれまでだけど、生活も、仕事も、その50パーセントも、私はジンについて知ってるんだろうか。
ーーやっぱり、ウブな小娘と、ちょっと遊んでるだけなのかな、、
そう考えると、心が沈んでいってしまい、雑誌を閉じて、棚に戻し、立ち読みする人波をすり抜け、バックの中から携帯を取り出す。
誰か、ヒマな友達に、連絡取れるかなーー
そう思って、石だたみの地下道を歩きながら、メールをチェックしていると、
『明日から、旅行に出る』という、ジンのメールがあった。
ーー旅行?
とっさに、歩くのをやめて、あわてて、ジンの携帯めがけてボタンを押す。
、、、、つながらない、、、、
遠くから、地下鉄が駅に着いたアナウンスと、人のざわめきが聞こえてくる。
スマートフォンのキャンペーンのビデオが繰り返され、店先のおもちゃの汽車が、ガラスケースにぶつかって、前に進めず、空回りしている。
「では、今週急上昇!インディーズのファンからも熱いリクエストが殺到しているこのナンバー、、、、」
電気店のテレビの画面で、少年達がマイクを持って踊り出している。その横で、去年話題になったアクション映画が、DVDになったというCMが繰り返される。
「ーー旅行?だれと?」
わからない。ジンが、誰と旅行に行くのか。どういうメンバーを選んで、どういう仕事をしてくるのか。
今まで、2、3日、撮影で遠くに行ってたことはあった。
そんな時は、いつも、私がアパートに来た時に、今度いつ帰るのか直接伝えてくれていた。
ーースタジオか、アパートにいるかもしれない。
高校生たちの人波が、前方から押し寄せてくる。テンション高く会話する彼らは、立ちすくんでいる私をチラチラと横目で眺め、誰かのくだらない冗談に爆笑しながら、通りすぎていく。
30秒ぐらいたって、やっと、頭から足へと指令が下る。
「歩き出すのよ。ジンに会って、きちんと、確かめればいいのよ」って。
私の足が、地下道の出口に向かって、歩きだす。
でも、ジンには会えなかった。
すでに、アパートにはいなかったし、ジン・スタジオは、オーナーの人が仕切っていた。
「まあ、撮影旅行だからね、、、、 前にも、ちょくちょくあったんだよ。沙奈ちゃん、最近のジンしか知らないだろうけど、もともとあいつは、大陸の景色を撮りたくて、プロになったやつなんだよ」
「大陸って、、、 アメリカとか、中国とか、ですか?」
「一般的には、そうなるけどね。考えようによっては、日本にだって、大陸のような風景っていうのは、あるはずなんだよ。今の現状じゃ、そういうのを見つけるのは、難しいだろうけどね」
オーナーさんは、スケジュール表を、トン、トン、と整理しながら、ちらっと壁時計を見上げる。
私は、見知らぬ大陸の風景の中にいるジンを思い、少し重たい気持ちになった。
「、、、、」
「沙奈ちゃんには、そのうち、連絡すると思うよ。それまで、いい子で、待っていることだね」
「、、、、どれくらい、待てばいいんだろう、、、、」
「それは、ジンにしかわからない」
さりげなくスラックスをはき、白シャツの上にこげ茶のベストを着て、香港の俳優のように無造作なオールバックの髪をしているオーナーさん。たぶん40代だろうけど、年齢不詳の人だ。
ジンが、この人と、仕事の話をしている時、どんなに近くにいても、どうしても私は、話の中には入れなかった。
専門用語がわからない、という以前に、何か、取り巻く空気の流れが、私と反対側へとなびいているような気持ちになるのだ。
「これから先も、また、こういう事があるかもしれない。それでも、あいつのそばにいたい、と思うんだったら、信じることだよ。ーージンの才能だけじゃなく、その人間性とか、もろもろ、すべて。
沙奈ちゃんは、若いから、そういうのは、ちょっと大変かもしれない。でも、君たち二人が、お互いを選んだんだ。そうだろう?ちがうかい?」
オーナーさんがそう言って、私が答えにつまっていると、ルルル、、、、と、カウンターの電話が鳴った。受話器を取ったオーナーさんの表情と声が、ビジネスマンのように、硬質に変わっていく。
私は、ぺこりと頭を下げ、スヌーピーのショルダーバックを肩にかけて、イスから立ち上がる。
オーナーさんは、電話で話しながら、やさしく、片手を上げる。
「また、いつでもおいで」
ジン・スタジオのガラス張りのドアから出ようとした私に、オーナーさんが、声をかけてくれた。
少し、強い風が吹くビル街のすき間を歩きながら、ずっと、私は、「ジンを信じること」について、考えていた。
「ーー滝を、撮りたかったんだ」
「滝?」
やっとかかってきたジンからの電話は、雑音の混じる国際電話だった。
「そう」
「、、、、今、どこにいるの?」
「南米の、、、、 ここはまだ、ブラジルなのかな、、、、 かなり、奥地」
「アマゾンとか?そんなとこにいるの?」
「現地でも、あまり知られてない滝があるんだ。専門家の地図をたどって、南下してる」
びっくりした。南米のはずれからかかってきた電話に、今、自分が出ている、という実感が、よくつかめない。心のピントがずれているというか。
でも、この声は、まぎれもない、ジンの声。ジンの話し方。
「ジン、あんまり無茶しないでね」
「わかってる」
低い返事の中の、微妙に投げやりな感じ。
心の中が、つんとする。
「切るぞ」
私は、携帯を耳に押しあてたまま、黙っていた。
ジンが、電話を切らずに、次の言葉をかけてくれるのを、少しだけ待っていた。
それでも、プツン、と、電話は切れた。
見えない小さな鎖が、引きちぎれたような音だった。
ジンが帰ってきたのは、その電話から、25日目だった。
1ヶ月くらい、会ってなかったことになる。途中、3回、電話がかかってきたが、電波の状態が悪かったらしく、あまりちゃんとした話はできなかった。
私にとって、長い、長い、1ヶ月だった。
ジンを待つ間、こんな事もあった、
「ねー、沙奈、見て!これ!ジンさんが出てるよ!!」
以前、私をアツミさんのカットモデルにさそってくれた友人が、外国の雑誌を広げて、興奮している。
「、、、、ジンが、出てる?雑誌に?写真が?」
とまどう私の目の前に、友人は、「ほら!!」と、いきおいよくその雑誌を広げて見せた。
英文の羅列が、視界に入る。
ページの左下のすみに、派手な感じの写真がある。
陽気な、どこかのクラブのパーティーのワンシーン。艶のある長い髪で、スタイルのいい、茶色い肌の女が、精悍だけど、どこか翳(かげ)りのある、がっしりした男の腰に腕をまわしている。その男が、ジンだった。
「ーーー」
「ね!? びっくりした? ふふ、これ、こないだね、同じ学部の先輩が、アメリカ旅行から帰って来る時、飛行機の中で読んでた雑誌なんだけどね、何気なく見せてもらったのよ。
そしたら、ジンさんが、写ってるじゃない!もお、びっくりして、もらってきちゃったよ。なんか、この女の人、ブラジルのタレントなんだってね。今度、リオデジャネイロに、お店出すんだって。で、これは、そのおひろめパーティー。何年か前に、ジンさんと一緒に仕事したらしいよ。
『日本からかけつけた才気あふれるカメラマン、ジン』だって!
すごいよねぇー!!」
、、、、違う。ジンは滝を撮りに行ったんだ。わざわざ、こんな派手なパーティーに出席するのが目的で、旅に出たんじゃ、ない。
「ねぇ、どうする?!ジンさんが、世界的なカメラマンになっちゃったら?
あー、いいな、沙奈。うらやましい!!」
友人の声が、ざわめくテラスの中に、吸い込まれていく。
そのしばらく後で、久しぶりに、やっと、ジンに会えた。
なんだか、日に焼けた肌と、パサパサの髪が、南米の匂いを引きずっているようで、素直に再会を喜べない。
「ーーはい」
ふいに、ジンから手渡された写真には、ちょっと汚れて、丸く太った子ブタと、寄りそうように身をよせ、目を見開いた赤色のネコが、写っている。
「これ、、何?」
「ブタと、ネコだろ」
「それは、わかるけど、、何?自分は、滝を撮ってくる、って言って、そのついでに、タレントのパーティーに出たりして、私には、、これ?ブタと、ネコ?」
「、、、、おまえ、動物が好きだろ」
ジンは、悪びれた様子もなく、じっと、まっすぐに、私を見る。
この瞳を見ると、いつも、はしばみ色、という言葉を思い出す。
こんな時でさえも。
「好きだけど、、、」
「獣医になるんだろう?」
「うん、、、 なりたい、、」
ジンの部屋のソファーの上で、私は、うつむいて、さっき手渡された写真を持つ手を、ぎゅっ、と握りしめる。
ジンが、ソファーの上で近付いてきて、大きな腕で、私を抱きすくめる。
「沙奈」
その言葉の響きで、ジンが、ずっと私に会いたかったこと、私を求めていたことが、わかる。
このあたたかさ。少し、ごつごつしている胸。
うれしいのに、また、ジンに会えて、帰って来てくれてうれしいのに、その腕の中にいるのに、私はなんだか、せつなくて、泣きそうだった。
ジンが、南米で撮ってきた滝の写真は、パネルになって、ジン・スタジオの壁にかけられた。
これから先、ジンと一緒にいると、こんな感じで、「よくわからない」ことが、少しずつ増えていくんだろうか。
わからないまま、ただ、心やすらぐ相手として、そばにいればいいのだろうか。
大人になれば、わかるだろうか。
写真の中の滝と、私の心が、その時、少しだけ響きあう。
ーーたぶん、ずっと、わからないよ。
ゆらゆらと、小さなソーサーの中で揺らぐキャンドル。
人工的に造られた池。そのほとりには、たくさんの恋人たち。
夜が更(ふ)けていくにつれて、それぞれの場所からここへと集まってきた人々は、月に1度のキャンドルナイトを、ゆっくりと共有している。
ひとつの池の向こう側から流れてくる、沖縄の音楽。
不思議な音色と言葉が、あちこちに漂(ただよ)うキャンドルの炎と一緒に、夕闇の空気をふるわせている。
どうしてこんなに、この風景は、いつ来ても、あざやかで、懐かしいのだろう。
しだいに増えていくキャンドルの数。池の水面は、遠くから見ると、キラキラと、宝石をばらまいたようにも見える。
イスにすわってぼんやりとしている私のななめ前で、高校生ぐらいのカップルが、携帯電話で写真を撮っている。
最初は、青いトレーナーの男の子が、白いカーディガンの女の子を撮り、次は交代しているが、男の子のポーズが、決まらない。女の子が、笑いながら、あれこれと注文をつけている。
やがて、2人はお互いに肩を組み、男の子が腕を伸ばし、携帯の狙いをつける。ピースサインの女の子は、男の子にぐっと顔を近づけ、やっと、ツーショットが撮れたようだ。
三線(さんしん)の音が、静かな水の流れの音とともに、夜のざわめきの中でおだやかに響きわたる。
ジンは、いつも、話している時も、じっと何か考えているように見える。
ーーたぶん、写真の事だと思う。今度、いつ、どこで、何を撮るのか。そういう事が、きっと頭からはなれないのだろう。
どうして、私と一緒にいるの。
一度、聞いてみたくて、聞けない思い。イヤな答えが返ってくるくらいなら、うまくごまかして、聞かないほうがいい。
ジンのかたわらにあるカメラの中に、今、何が写っているのかさえも、わからない。私は、ただのアシスタントなんだ。そう思えばいい。
鼻の先に、ぽつんと、冷たいものが落ちてきた。水滴のような、小さな雪だ。やがて、羽虫のように、ゆっくりと白いつぶがふわふわと空から舞い落ちてくる。
「ーー初雪だな」
「うん」
「今日あたり降ると思ってた」
「私と一緒に見れてよかった?」
ジンは、少しうつむいて答えない。革のジャンパーにかくれた口元から、白い息が立ちのぼる。
「俺と一緒にいて、カメラの事が詳しくなっただろう」
私は、ちょっとだけ笑う。セーターの袖口の中で、にぎりしめた両手が、少しずつかじかんでくる。
「ねえ、私とジンってさ、遠い昔、すごく仲がいい友達だったかもしれないね。きっと、何もできない私の事を、ジンが助けてくれてたんだよ。だから、私は、この世界でも、ジンのそばにいるのかもしれないね」
そこまで言って、私は、立ちあがった。ジーンズのひざにも、セーターにも、肩くらいまで伸びた髪の毛にも、うっすらと雪が降りつもっている。
「沙奈」
ふり返ると、ジンは、まっすぐな瞳で、私を見つめている。
「俺は、今のお前の事が好きなんだよ」
私も、ジンの瞳を見つめ返す。
「動いて」
私は、粉雪の中を、くるりとターンする。泣き笑いのような表情のまま、ポーズをとる私を、ジンのカメラのシャッターが、何回もとらえ続ける。
降りしきる雪の中に、辺りの風景が、白く、染まっていく。
END.
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。
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「しっぽ」0レス 40HIT 小説好きさん
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惨めな奴 🤪🤪🤪0レス 179HIT 匿名さん
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わたしとアノコ55レス 591HIT 小説好きさん (10代 ♀)
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また貴方と逢えるのなら0レス 81HIT 読者さん
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おすすめのミステリー小説はなんですか?6レス 151HIT 小説好きさん
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神社仏閣珍道中・改
(続きとなります) お焼香の作法は、宗派によって異なります。 …(旅人さん0)
147レス 4282HIT 旅人さん -
「しっぽ」0レス 40HIT 小説好きさん
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惨めな奴 🤪🤪🤪0レス 179HIT 匿名さん
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Journey with Day
リリアナは、そっと立ち上がり、壁のモザイクを指でさわった。 「この白…(葉月)
74レス 892HIT 葉月 -
西内威張ってセクハラ 北進
何がつらいのって草こんな劣悪なカスクソ零細熟すべてがつらいに決まってる…(自由なパンダさん1)
57レス 2162HIT 小説好きさん
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今を生きる意味78レス 468HIT 旅人さん
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黄金勇者ゴルドラン外伝 永遠に冒険を求めて25レス 894HIT 匿名さん
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勇者エクスカイザー外伝 帰ってきたエクスカイザー78レス 1750HIT 作家さん
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神社仏閣珍道中・改500レス 14753HIT 旅人さん
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真田信之の女達2レス 364HIT 小説好きさん
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おっさんエッセイ劇場です✨🙋🎶❤。
ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
57レス 1365HIT 檄❗王道劇場です -
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今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 468HIT 旅人さん -
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神社仏閣珍道中・改
この豆大師についての逸話に次のようなものがあります。 『寛永…(旅人さん0)
500レス 14753HIT 旅人さん -
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黄金勇者ゴルドラン外伝 永遠に冒険を求めて
『次の惑星はファミレス、ファミレスであります~』 「ほえ?ファミレス…(匿名さん)
25レス 894HIT 匿名さん -
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勇者エクスカイザー外伝 帰ってきたエクスカイザー
「チェンジ!マッドキャノン!!三魔将撃て!!」 マッドガイストはマッ…(作家さん0)
78レス 1750HIT 作家さん
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評価してください こんな僕は人生負け組でしょうか?
男性 社会人 年収 550 年齢33 身長176 体重67 彼女いたことない 病気等はな…
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12レス 365HIT 恋愛好きさん (30代 女性 ) -
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この前洗濯機が壊れて、縦型の乾燥機付き洗濯機を買った。 旦那も納得して買ったのに、今日乾燥機回して…
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