ヤマト
病院のベッドでマネキンのような放心状態の女性がいる。
仲埜《なかの》仁美。彼女は妊娠中であったが、パートナーはいない。
交際相手だった男と別れた後に妊娠が発覚し、悩みに悩んだ結果
シングルマザーへの道を決意した。
出産まであと1か月を切ったある日、アパートに押し込まれた強盗に
乱暴された挙句、お腹の子は死産となってしまったのだ。
2日後、失意のまま雪のちらつく道を歩いて帰宅した仁美は
アパートに帰ると布団に突っ伏して泣き続けた。
どれだけの時間が経過しただろうか、おもむろに起き上がると
洗面所へと歩き出し鏡の前に立つと、目の前にあったカミソリで
手首を切った。
目を覚ますと真っ暗だ。
しかし、見えなくてもはっきりと感じる。ここは家だ。
洗面所に倒れていた仁美は悟った(私は死ねなかったのだ)と。
そのとき玄関先に物音が聞こえた。
仁美は息をひそめ耳をすませると、なにやら猫の鳴き声が聞こえる
人の気配は感じられない。仁美はドアも開けず放心していた。
しばらくそのままでいたが、寒い外にいる猫が子猫だったら…と
思ったら可哀想に感じドアをそっと開けた。
そこにいたのは猫ではなく、段ボールに入れられた赤ちゃんだった。
手紙も毛布もない発泡スチロールの緩衝材に乗せられた男の子だ。
仁美はその「ヤマト」と書かれた段ボールを抱え上げるとドアを閉め、
中に入っている男の子に向かって仁美は呟いた。
「いらっしゃい【ヤマト】くん」
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ヤマトは現在6歳の男の子。親も兄弟もいない孤児だ。
一見暗い印象を受ける少年と向かい合うと、誰もが
己の恥ずべき部分を見せられたかのような錯覚に陥る。
そのため虐待を受けたり、遠ざけられたりを繰り返して生きてきた。
ヤマトは一切の教育を受けていないにもかかわらず、能力を発揮する。
言語は日本語を主体とするものの、世界中の全ての言語を理解する。
顔立ちは日本人にも見えるが、東南アジア系のようにも見える。
他の人と違うのはヤマトの目だ。黒目が大きく吸い込まれるような
瞳が特徴的である。ほかにも表情筋が弱く無表情にも見える。
端正な顔立ちなのだが皆が違和感を覚え、不気味に見えてしまうのは
ヤマトの特徴のせいなのかもしれない。
しかし、ヤマトは他人の感情に関して鈍感というか
感じていないのではないか?と思わせるくらい反応しない。
ヤマトの育ての親は3組いるが、全て不幸な結果となっている。
名付け親でもある最初の育ての親、仲埜ひとみはヤマトが2歳になる
少し前に自殺した。
児童養護施設を経由して里親になった倉田満は精神に異常をきたして
ヤマトを虐待しその後、ヤマトが4歳の時に精神病棟へ入院。
次に里親となった高橋夫妻は、ヤマトが6歳になってすぐの時に
奥多摩の山中にヤマトを放置した。
その帰りにトラックと正面衝突し2人とも事故死した。
現在は調布の児童養護施設に預けられている。
事のいきさつを知る職員は、ヤマトを気味悪がって自分からは
関わることを一切放棄している状況である。
小学校入学
調布の児童福祉施設ではヤマトの小学校入学について施設長と教育委員会とで協議を行っていた。
お互いの立場が違うことを理解しても、簡単に答えが出せる問題ではないからだ。
教育委員会の立場からすれば、義務教育であるからヤマトを小学校に通わせたいと思い、児童福祉施設の立場からすれば、ヤマトが様々なトラブルを引き起こすことはわかりきったことなので、学校に通わない選択肢もあると考える。
しかし、起きていない問題を理由に学校へ行かないことを認めるわけにいかないとの意見と、児童福祉施設も公的施設でありながら本人の意思を無視して決定するわけにもいかないということで小学校へ通わせることが内定した。
そして本人に意思を確認した。
「ヤマト君、今度から小学校に通うことになるんだけど行きたいと思うかい?」と施設長は言った。
するとヤマトは「うん!僕はみんなにわかってもらいたい事があるの。だから小学校に行きたい」と言った。
みんなにわかってもらいたい事…。
施設長自身がわかっていなかった。
この瞬間、ヤマトの小学校入学が決定した。
水原 彰吾
ヤマトには親がいない。
そのため児童養護施設の職員が入学式に付き添った。
クラスは1年1組 担任は学年主任の水原 彰吾(40)。
穏やかな性格で子供たちにも評判が良いらしい。
何も問題がないと良いが・・・
「真面目そうな先生だから大丈夫」
と施設職員は言い聞かせるようにつぶやいた。
ヤマトが席の近いクラスメートと楽しそうに何やら話しているのを見て、
「小さい子だと問題ないんだけどな」と言いながら学校を後にした。
水原は児童が下校した後、職員室でタブレットの中にある座席表を眺め
ぶつぶつと言いながら児童の顔と名前を覚えていた。
ふとヤマトの座席に目を止めると、何か不思議な雰囲気の子だな
と考えていた。ひと通り児童の名前と座席位置を確認すると、
タブレットを机にしまい帰り支度を始めた。
水原が学校を後にして向かったのは、自宅とは反対の方角だった。
駅に着き電車に乗ると、ポケットから携帯を取り出す。
どうも誰かと連絡を取っているようだ。
6つ先の駅を降りると閑散とした出口に向かって歩き出した。
駅を出たところで女子高生くらいの子が水原と二言三言話すと
ホテルのある路地へと消えていった。
児童養護施設の食事室。
テレビを付けた職員がニュースを
流しながら、朝食を食べている。
その向かいにはヤマトが慣れない
箸づかいでウインナーと格闘していた。
なかなか掴めないウインナーに箸を刺した。
すると向かいから「ヤマト、刺し箸はダメだよ」と注意すると左手で押さえて箸を抜き取った。
「ごめんなさい」とヤマトは素直に謝った。
その時テレビから殺人事件のニュースが流れていた。ラブホテルで17歳の高校生が刺し殺されたと言っていた。
被害者は布川有紗ぬのかわありさ公立高校に通う女子高生だ。
ヤマトの前で食事をしている職員の手が止まり、ウインナーが箸から落ちた。
布川有紗。
この児童養護施設にいた女の子だ。
9歳の時、里親に引き取られて布川姓となったが、ここにいた時は松岡有紗と言った。
食事室に施設長が入ってくる。
テレビに目を向け「可哀想に」と言った。
食事が済むとヤマトが胸の辺りを押さえて「この辺が苦しい」というと、施設長は「大丈夫か?学校に行けるか?」と聞いた。
ヤマトは「お休みしてもいい?」と言うので、「そんなに苦しいのか?」と施設長が聞くと「ううん、これから」とヤマトが言った。
施設長は首をかしげる他なかった。
プチ不登校
学校を休んでから3日が経つ。
担任からは電話もかかってこない。
一体どうなってるんだ?この学校は…
施設長は水原先生から連絡があったら、
ヤマトの事で話に行かせようとしてたのだが、待っている時は連絡がこない事も良くあるという勝手な解釈をしていた。
何故ヤマトは学校に行きたがらないのか?
何かトラブルでもあったのだろうか?
まあ、報せがないのは良い報せと
これまた妙な納得をした。
一方、学校では…
ヤマトが休んでいる以外、何も変わらない
1日が始まっていた。
ヤマトは考えていた。
自分が学校に行ったら悪いことが起きる。
行かなかったら何も起きない。
だから僕は学校に行かない。
僕が行かなければ何も…
ーーーガチャ。
施設長はヤマトの部屋に入ると布団の中にいるヤマトへ話しかけた。
『学校には行かないのかい?』
「うん、行かない」とヤマトは返事をした。
『まだ胸が苦しいのかな?』
「ううん、苦しくない」
『だったら学校に行こうよ』
「ううん、行かないから苦しくないの」
不登校だ。
と施設長は思った。
絵
真新しい鉛筆を画用紙に滑らせる。
そこには担任の水原の顔、鞄に無造作に入れられているサバイバルナイフ、4・1・5の3つの数字が描かれていた。
そのクオリティは、まるでモノクロ写真のようだ。施設長は「上手だね、これは水原先生だよね?」と描かれた人物を指差して尋ねた。
ヤマトは振り返って頷くと「水原先生、人を殺してるよ」と施設長へ向かって言った。施設長は少し目を見開いてヤマトを見つめた。
「僕、学校に行ってくるよ」というと部屋を出ようとするヤマトに施設長は「じゃあこのナイフで殺したのかい?」と尋ねると、「それはこれからのだよ」と答えると部屋を出て学校に向かった。
施設長はもう一度ヤマトが描いた絵に目を落とした。
「……4・1・5……これから…か。」
阻止
学校に着いたヤマトは既に授業の始まっている教室の前に立っていると、
「ヤマトくん?どうしたの?」と副担任の先生に話しかけられた。
ヤマトは伏し目がちに「今来たの」と言うと、副担任に促され教室に入った。
教室では水原が授業をしていてヤマトに気付くと近づいて行き、
「どうした?治ったのか?」とヤマトの肩に手を置き顔を覗き込んだ。
その瞬間。
自分が女子高生と行為の後サバイバルナイフで刺殺した映像が
水原の脳裏に鮮明に映し出された。周りにも見えているような錯覚を
起こすほどのリアルな映像だった。水原はパニック状態となって
ヤマトの首を絞めながら「なんでお前が知っているんだ?」と言った。
苦しむヤマトに対して水原は、なおも指先に力を込め締め続けた。
異変を感じた副担任は、水原の背後から飛び掛かり
ヤマトの首にかかっている手を振りほどいた。
教室には子供たちの泣き声だけが聞こえていた。
その後、水原は警察に連行されて行きヤマトは病院に運び込まれた。
---病院---
連絡を受けた施設長が病室に到着すると、ヤマトはベッドに横になっていた。
「大丈夫か?ヤマト」と施設長が声を掛ける。ヤマトは施設長の方へ目をやると「あの絵。なくなったよ」と言った。
施設長は「なくなった?どういうことだい?」と尋ねると「死ななかった」と答えた。
施設長が「なぜ今日に殺人が起こることを知ったんだい?」と聞くと「眠いから明日言うね」そうヤマトが答えると、そっと目をつぶった。
ヤマトの秘められた力
ここは児童福祉施設の施設長室。
革張りのソファーに座っているヤマトは足をバタバタさせて、
初めての感触を楽しんでいるようだった。
向かいに施設長が座るとソファーがズンッと悲鳴を上げて沈む。
2人の間に割り込むようにノートPCが置かれていた。
「さて。ヤマトはなんで水原が人を殺したのを知ったのか教えてくれるかい?」
施設長はカタカタと指を動かしながらノートPCとヤマトの交互に視線を向けて言った。
「うーんと、見れば分かるの。先生の事を考えると全部見えるから」
ヤマトが言うと施設長はすかさず「もう先生って言わなくて良いからね?」と訂正し、「じゃあ僕の事も分かるのかな?」と興味半分に聞いた。
ヤマトは「分かるよ。昨日はおかずを盗み食いしたし、先生になった時は前の先生の事好きだったし、その前は…」
施設長はヤマトの言葉を遮り「ヤマト、それ以上言わなくて良いから」と言いながら、聞いた事を後悔していた。
「じゃあ、先の事はどうしてわかるの?」と質問を変えた。
ヤマトは少し考えると「よくわからないけど、お絵かきしていたりするとわかる時があるの」と言った。
要約すると、過去は見ればすぐにわかる。未来については無心に何かに取り組んでいる時に、ふわっと降りてくるような感じなのかな…。いずれにせよ【ヤマトくん】には特殊な能力があるかもしれないと言う事だろう。
もしかしたらヤマトを利用して一儲けできるかも知れないな…
施設長はヤマトを見ながらよからぬ事を考えた時、自分の卑しい気持ちが脳内で映像化された気がして考えを引っ込めた。
「今考えたこともわかるのかい?」
施設長が恐る恐る聞くと「わからない」と素っ気ない返事が返ってきた。
ヤマトが「先生、もうつまんない」と退屈そうに言うと、施設長は聞いた。「またお話し聞かせてくれるかい?ヤマトくん」
「うん!ねえ遊んできていい?」と聞くが早く元気良く部屋を飛び出して行った。
施設長は真剣な表情で、彼に社会生活は無理かも知れないな…と呟いた。
左口角がほんの僅かに上向いた。
変化
あの事件から6か月が経つ。
施設長の判断でヤマトは学校に行っていないが、彼は驚くほど変わらない。
ヤマトは事件があっても何も変わらないのだ。それどころか以前にも増して会話の時間は増えているほどだ。でもその多くは施設長に対してのものではあるのだが。
ヤマトの能力のおかげで施設の仕事が捗る。施設へ入所する子供との面談の時、ヤマトを同席させるだけで、子供の過去にどんな事があったのかが偽りなくわかるし、児相からの保護案件も、保護者の嘘が疑いではなく確定できる。
これは助かる!と施設長は思った。
このまま働いて貰いたいくらいだ、と。
職員も少しずつ心境に変化が見られるようだ。ヤマトに対峙することで自分の醜い部分を見せつけられる。それはヤマトから目を背けても消えない紛れもない事実だ。
それを反省して受け入れる職員が現れ始めた。
ヤマトの前では心の中に隠すことなど無意味であることを悟り、人間としての成長を促す結果となり始めていた。
施設長は自分を含めたヤマトの周囲の人間に変化が見られることに驚くのと対照的にヤマト自身が変わらないことに驚きを新たにしていた。
そんなある日ヤマトが施設長に言った。
「今日、誰か来るの?」
施設長は目の前の予定表を見て
「ああ、博幸の両親が面談に来るけど。」
と言うと、「連れて帰ったらダメだよ。博幸くんが死んじゃうから」ヤマトは落ち着いた口調で続けた。
施設長は
「……そうか、わかった。」とだけ言った。
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
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