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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣珍道中・改

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旅人
20/03/09 08:54(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。







No.2796560 19/02/13 05:40(スレ作成日時)

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No.251 19/07/11 17:59
旅人 

観世音菩薩さまの御縁日は毎月18日があてられていますが、室町時代末期頃に、【功徳日】といわれる縁日が設けられるようになったのだそうです。
功徳日とは、〖その日に参拝すると、百日分、千日分などの功徳が得られるという特別な日〗であります。
寺社によって旧暦を使うか、新暦でいくかで功徳日が異なるようではありますが、このうち【七月十日】近辺、もしくは【八月十日】近辺は、その日に観音さまを参拝すると、実になんと!四万六千日分の功徳があるとされ、特に「四万六千日(しまんろくせんにち)」と呼ばれています。
46,000日はおよそ百二十六年に相当し、人の寿命をすら超えており、【一生分の功徳が得られる縁日】ということであります。
ちなみに私、昨年も偶然休みだったため、七月十日の四万六千日の功徳日に、観音さまをお参りさせていただいております。齢(よわい)二百五十二歳! ┉立派に妖怪であります。
 ┉欲をかくと妖怪になるとかいう続きがあったりはしないでしょうか?(;´・ω・`)

┉功徳日だからと山ほどのお願いごととかするわけでもなく、ただただ功徳日という区切りに日頃の感謝をするため参拝をする、ということなのでしょうね。┉信心深い方々は功徳を得られるから参拝する、ということはないのです(^-^;

それでも┉神社仏閣に縁のない人生を送ってきた私には、「今からでも充分まにあうよ」と言っていただいているようで、ありがたく感じます。

No.252 19/07/12 05:11
旅人 

┉と、いうわけで。

四万六千日に私が参拝させていただきましたのは、先月の功徳日に参拝させていただきました群馬県桐生市の【観音院】さん。
そして、去年に引き続きまして四万六千日に御開帳をなさる栃木県足利市の【瑞泉院】さん。であります。


【観音院】さんではいま、まっさらの透明の風鈴が用意されていて、志納金八百円でその風鈴をお受けして、ご用意いただいているペンで絵を書いて、境内に飾るといった催しをひそかになさっておられました。
一瞬心が動いたものの、絵心のない私は、心の準備がないと絵を描くことができず、いくつか飾られていた風鈴の音色に癒されてまいりました。御本堂で持参した塗香で身を清めてから、御本尊さまの聖観音さまに参拝させていただきました。
御本堂を開放してくださっているため、こころゆくまで御仏の御前にいられるという贅沢な空間であります。特に仏教徒でない私のような者でも正座しているだけで心が落ち着く、ありがたいお寺さんなのであります。
【季節の風雅御朱印】は御朱印帳をお預けすると二十四日のお地蔵さまのお縁日に参拝できなくてもお受けできるようになったのですが、参拝の証である御朱印、なので、その美しい御朱印には心ひかれるものの、私はお縁日に参拝して当日お書きいただくと決めています。
今日も【一生観音】と、お書きくださいました。


【瑞泉院】さんは昨年から初めて四万六千日に御開帳を始められたお寺さんです。その日に導かれるように瑞泉院さんのHPを開き、参拝させていただいた、なにかご縁を感じるように勝手に思っておりますお寺さんなのであります。足利市にありながら新田義貞公の開いたとされるお寺さんで、真新しいものではありますが境内には義貞公の墓所もあります。
こちらの御住職は新田の姓でありますが、ご子孫というわけではなさそうです。
禅の心を取り入れなさり、お茶のご用意をくださっています。
御開帳日限定の御朱印をお書きくださる日でもありますので、御朱印を求めての方も何人かお越しになられていました。御朱印で有名なのか、御朱印をお書きくださる日が月に何日かきめられており、オリジナルのこちらの御朱印帳もご用意されています。
御住職が、毎年秋に開催される足利市文化財一斉公開日を教えてくださいました。


No.253 19/07/12 20:28
旅人 

少し前に、【喫茶去(きっさこ)】という禅語を知りました。
「お茶を一杯いかがですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」というような、ほっとさせられる言葉。さらには、気の会わない相手にもお茶を出すことができるような心のゆとりを持って生きる、というような素敵な、含みのある言葉だなぁと心に残りましたものです。

瑞泉院さんでは、それはたくさんのお湯のみ茶碗と茶托をご用意くださり、さらにはその用意くださったお茶も、温かい緑茶のための急須と、冷たい麦茶の入ったポットがご用意されておりました。
いまはエコを心がけることが推奨されております時代ではありますが、このお茶のご用意は結構大変なことだと思うのであります。
【もてなす】という思い、大切な客人としての扱いをしてくださっているお心を感じるものであります。

さりげないおもてなしで、私にはっとするような学びをあたえてくださいました。


お茶をご用意いただくだけでもありがたいことであります。温かいものと冷たいものと用意する配慮。きちんとしたおもてなしであるという気持ちを表す湯飲み茶碗と茶托をご用意くださっていること。
そこにあるあたたかなお気持ち。かたずけが面倒だなどと思わない、生き方等々。


ありがたい、お寺での学びでありました。

No.254 19/07/13 05:13
旅人 

栃木県足利市になぜ新田義貞がお寺を建てたのか。
足利市といえば足利氏の地。
まあ、もとをたどれば同じ源氏の流れを汲むもののようですし、私のように歴史に詳しくないような人間にとっては、「ふーん、それならそういうこともあるか」とか単純に思っちゃったりするのですけど┉。
もとが同じだからこそ生じる、人のさまざまな感情やらは当然あるだろうし、すぐに戦っちゃう時代だったし。なにより領土を巡っての争いこそが戦いの原因というか理由だったりすることが大半。
私ほど簡単に単純には、足利市に義貞公が建立したお寺があるということを考えられはしないのかもしれません。
お寺の御住職も、調べてみてもわからなかったとおっしゃっていました。

このたび、新しい御代となったこともあってか、足利市と新田の郷が寄り添うことを考えたようで、毎年秋に行われる足利市の文化財一斉公開でのサブテーマみたいになりそうなことを御住職がチラッとおっしゃっておられました。
一度参加させていただいたことがあり、大がかりで楽しく、また普段ではみることのできないお寺さんの御本堂にも入らせていただくことのできるありがたいイベントであります。
今年はどうかな?
参加できたらいいな(ーー;)


        令和元年七月十日

No.255 19/07/13 05:48
旅人 

六月にお参りさせていただいた【大岩毘沙門天】の本坊にあたります、【最勝寺】さんに参拝させていただきました。土日には法要がない限り【毘沙門天】の方にお出向きになられておられるとうかがいましたので、平日に是非最勝寺さんに参拝させていただこうと思っておりましたものですから。
最勝寺さんの御住職は、人をひきつける方であります。

ナビを使っての移動、にもかかわらず見事に迷子になりました。(*T^T)
ナビが示す辺りにお寺に入っていくような道を見つけられないまま、毘沙門天のはるか下にある広い駐車場まで行ってしまいました。毘沙門天の長い長い参道の始まりの地点であります。
最勝寺さんにお電話をさしあげ道に迷ったことを素直に申し上げました。┉御住職のお声です。
「どこにいるの?ああ、じゃあ迎えに行ってあげるからそこで待っておられなさい。軽トラで行くから、少し待てば行けるから」
┉さきの毘沙門天の御開帳の日に、足が少し御不自由とおっしゃっておられました。御住職にそこまでしていただけるほどの人間ではありません。(*T^T)
「御住職にそこまでしていただかなくても、なにか目印とかをお教えいただければなんとかうかがいますので」
┉そんなやり取りのあと、戻った道筋、ありました。見事にナビが示していた場所に!はああぁ、ナビが教えてくれてさえ迷子になるおばさんって┉(-`Д´-;A)


え?この道を登るの?(ーー;)
うーん、毘沙門天の本坊にあたるお寺さんだからなぁ。この先、どうなっているか不安だぞ。どうしよう。ぁ、この先に広い空き地があった!よーしあそこに停めてそこから歩こう。

No.256 19/07/13 22:35
旅人 

最勝寺さんの道は思ったより広く傾斜もなだらかでした。
坂の途中は趣のある季節の花が、まるで散りばめられているように咲いています。山寺というのとも違う、自然を愛して山に住まわれている方のお住まい、といった風情の庫裏であります。
お寺は、低めの二階┉といった高さのある、まるで木の香りがしそうな、白木造り!の御本堂であります。

参拝を済ませて庫里に向かい、御住職さまにお詫びを申し上げました。「わかりづらくてすみませんね」と笑顔をむける御住職さま。
「御本堂はどうされますか?」「今、参拝させていただいてきました。」「ご不動さまにおあいになりますか?」
┉ありがとうございます。 ((´д`、)
和尚さんは鍵を持ち、先を歩いて御本堂へと向かいました。庫裏のそばには桔梗。その他にもさまざまな花がさいています。
足下にホタルブクロの花が揺れています。
先ほど一度外から拝ませていただいた御本堂への階段を登りました。
階段下には鯉の泳ぐ池があります。それを目で追ういとまもなく、和尚さんの「どうぞお入りください」というお声が聞こえます。
中はまだ電気もつけていないけれど、思ったより明るい外陣であります。本堂があまり広くない分、お不動さまが身近に拝することができます。大きな迫力あるお不動さまであります。
お不動さまの正面、本堂の扉付近には立って参拝できるように几が置かれ、香炉と、蝋燭の炎が揺らがないようにカバーのついた蝋燭立て、そして信徒のための経本が何冊も山となって置かれておりました。
内陣の蝋燭に灯をともし、やがてその香炉の香に火をつけて、几の上の蝋燭にも灯をともされました。
「般若心経はお唱えになれますか?」
「┉いえ。」正直に答えました。「そうですか。ではその経本に書いてあるとおり一緒に唱えてみましょう。雨音を┉雨垂れの音をイメージしてください。」
「┉せっかくだから、最初から全部唱えてみましょうか」
ええっ?ええー?!

経本丸ごと、ということであります。
和尚さまぁ!それは結構ハードルが高い!!

No.257 19/07/14 07:04
旅人 

仏教徒ではない私。
しかも無信心の家に育ち、無信心に近い家に嫁ぎました者でございます。家で御経を唱える者などない、イコール唱える機会もほとんどなく、家では聞く機会もなかったような生き方の人間でございます。
般若心経は何度か┉やはりお寺さんのご厚意で特別な法要、儀式や、あるいは仏像見学会などで唱える機会もありました。でも文字を追うのがやっとで、時々間違え、そうしたきっかけでつまずき、まともにお唱えできたことなどありません。
それが今回はみたこともない御経や御真言満載の経本丸ごとです。
ひええぇー!
┉頑張る。


┉頑張ってみましたが┉やはり撃沈。
一度でもつまずこうものなら全然ついていけなくなって、どこを唱えておられるのかを探して、部分部分をとばしての読経に終わりました。ごめんなさい、御本尊のお不動さまをはじめとした御仏さま。
┉和尚さん、お気づきになられたよなあ( T∀T)
読経を終え和尚さんはおっしゃっいました。
「土地を護るために十三仏さまにお護りいただけるようお祀りするのんだけど、始まりはお不動さま。修行など山などに入るときは必ずお不動さまをお参りします。そういったことでこちらではお不動さまをお祀りしております。」


最勝寺さんの御朱印をお受けしてお寺をあとにする頃、和尚さんのお飼いになられている猫たちが、「誰が和尚さんのとこに来たんだぁ?」と見に来たように、庫裏の方を見守っていました。



┉もう一度、再拝させていただいてもいいですか?和尚さん。



     令和元年七月十日   参拝

No.258 19/07/14 14:21
旅人 

夫も息子も心身共に疲れているようです。私はといえば、職場でのイライラがおさまらない。
せっかくの二連休。なんとか晴れた休みにみんなでマイナスイオンを浴びて来ようではないか!┉身体の疲れは休息のほうが大切なのことも無視する、自己中な妻と母親に今日も振り回されて、栃木県日光の滝目指して出発です。

今日はあくまでみんなでマイナスイオンを浴びてリフレッシュすることが目的なので、神社仏閣の参拝は考えていません。


┉群馬県にも滝はたくさんあるんですけど、ね。私の気分が日光だったんですもの。


「どこの滝に行きたい?」
え、えっとー。滝?┉いやいやきちんと明確に目的地を決めなければ!日光には滝がたくさんあります。
んー、「裏見の滝とか、華厳の滝とか?それとも龍頭の滝とか?」

┉ちなみにですね。ウチの家族はここで私が「袋田の滝」といっても別段びっくりしたりしないほど、私の馬鹿なところには慣れてはいますが、袋田の滝は茨城県!そのくらいはわかってますって
σ(`・・´ )

で、向かいましたのは【裏見の滝】。
さあ、普通の珍道中のはじまり、はじまり。

No.259 19/07/15 00:25
旅人 

珍道中┉そう、それはひとえに私がいるからそうなってしまうだけ。

写真が趣味の息子といつか日光に行く機会があったら、ここに行こうと思っていた場所があったことを突然思い出しました。
「以前一度行ったところで皇室ゆかりの公園があって、四季折々の植物がある御用邸の跡なんだけど、その時、もしかしたらこういうとこ好きかなって思っていたんだ┉行ってみる?」
【田母沢御用邸記念公園】であります。

以前、日光に突然思い立って行ったとき、特別公開の案内を見かけて急遽訪れた場所であります。「特別」とか「限定」という言葉に弱い私。珍道中には欠かせないキーワードであります。


現人神であられた大正天皇・昭和天皇のお使いになられた御用邸。ある意味、神様のおられた場所、であります。珍道中にふさわしい場所ではありませんか?



滝巡りと言って家を出たのに、一時間も経たないうちに目的が変わっております。しかも御用邸、広いんだよな(^_^;)
ちがう機会にすればよかったかな。┉一時間くらいゆうにかかると思われます。

No.260 19/07/16 01:09
旅人 

【日光田母沢御用邸】は明治32年に嘉仁親王(大正天皇)の静養のため造営され、昭和22年に廃止されるまで、3代の天皇・皇太子によって利用されました。
紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築して中核にしており、江戸・明治・大正の三時代の建築様式を合わせ持つ建物で、栃木県が修復し、2000年に記念公園として蘇らせました。

現人神であられた天皇がご利用された建物でありますので、さりげない工夫がいくつもなされています。立っていて体感はしないもののほんの少しづつ傾斜をつけることによって、外を眺めてご覧になられたとき、より広くご覧になれるようにしてあったり。
柱が天井まで続いているのだけれど、そう見せないように上の方は柱を隠して白くみえるようにしたり。
いたるところに菊の御紋がさりげなくいれられております。

106室、床面積1,360坪!


大正時代に造られた、賓客を迎える公式用の食堂の床はケヤキのまさ目寄せ木張り。まさに「匠の技」で作られ、90年以上経った今もまったく狂いがないそうです。

謁見所は大正天皇が即位後、御用邸での公式儀礼が増えたことから建築されました。柱・天井はすべて御料林で伐り出された最高のヒノキを使用、最高の技術で作られているそうです。

御厠、トイレは衝立があるだけでなぜかオープン。大便用のトイレにはなんと!トイレットペーパーを取りつける金具が!後付けではなく、当然大正天皇がお使いになられたとのこと。トイレットペーパーは三越が外国から輸入し納めていたということであります。

天皇陛下のプライベートスペースは赤坂離宮から移築した3階建ての部分。
当時の日本家屋では直線階段が普通だったそうですが、体が弱くここに住まわれた時にはすでに一息で上がることが困難だった大正天皇のため、途中に踊り場が設けられたのだそうです。
2階は寝室になっています。

剱璽の間(けんじのま)と呼ばれる部屋は皇位の印、鏡、剣、勾玉の「三種の神器」のうち、剣と勾玉を安置した部屋。 
安置される床の間に設置された畳の畳縁は最も格の高い絹の繧繝縁(うんげんべり)になっています。
大正天皇が長期にわたって滞在されたため、このような部屋が設けられました。鏡は最高の神器として重んじ、皇居から動かされることはませんでした。天皇の証とされる神器ってこんな時にも持ち移動させるものだったんですね。




No.261 19/07/16 17:43
旅人 

じ・つ・は。
思い付きで行ったので、当然イベントの情報も知らずに行った【田母沢御用邸記念公園】。
羽織るだけではありますが、打ち掛けと振り袖(┉だったと思うのですが)をほんの少しの間、係りのスタッフさんが上手に羽織らせてくださって、あたかも着ているかのように見えるようにしてくださって、写真を撮らせていただけるイベントをやっておりました。
息子と一緒だし躊躇いもかなりあったのですが、私の結婚式、白無垢だったもので┉気持ちがウズウズ。
後悔するなら、恥をかこう!そうそう、旅の恥はかき捨てっていうじゃないですか!
で、羽織らせていただいて、年甲斐もなく打ち掛けの写真。
その勇気をくださったのは、私の前に打ち掛けを羽織っていた六十代くらいの女性です。ノリノリにいろんなポーズをとって、うちひしがれるポーズとか、まるで大奥のドラマのワンシーンのようで。
このくらい楽しんじゃうほうが人生はきっと愉しいぞ♪と思わせてくださいました。

あ、もちろん、そんな写真は掲載しません。安心してください。笑。

わざわざ演出しなくても、すでに立派すぎるお部屋と計算され造られたお庭です。そんなすばらしい演出で、何枚か写真を撮ってもらいました。┉夫に肩に手を置いてもらい見つめあう┉というおぞましいポーズを提案されたのですが、丁重にお断り┉断固お断りして、束の間楽しい思いをさせていただきました。


そのイベント、実はその日までのものだったようで、あの女性の方に心から感謝です。

No.262 19/07/16 22:39
旅人 

打ち掛けにすっかり気分のよくなった私。 
心身共に疲れがたまっていたところに、悪いものを見せられた息子。
┉ごめんなさい(;A´▽`)


さあ、今度こそ、滝に行こう!
ただ┉もう時間的に滝巡りはムリかな。
どこか一つ。
腰が悪くて歩くことが大変な夫はスマホで駐車場からどれだけ歩くかを検索して吟味しております。┉ねえ?本当は滝巡り、だったんだよ?(;´・ω・`)
「裏見の滝は駐車場からだいぶ歩くようだな」
┉さっきから何度も聞いてますけど?だから、ダメってこと?
「寂光の滝はそんなに歩かないのかなあ」
┉つまりは【寂光の滝】ってことでいいんですかね。

さいわい寂光の滝は田母沢記念公園のすぐそばの道を入っていくようです。

┉細い!
狭い!
対向車来たらどうするの?
ムリムリ、私では到底無理!すれ違う待避するところが無さすぎです。(*T^T)しかも目的地まで結構登るようです。


まあ、当然のことながら、私の運転ではありませんが(^_^;)

No.263 19/07/17 06:27
旅人 

どこまで続く?
と、ドキドキしながらようやくたどり着いた寂光の滝駐車場。おや、一台ワンボックスカーが停まっています。この車がもう少し早く下山(大袈裟)を考えてすれ違うようなことにならなくてよかった。
で、肝心な滝はどちらの方向なのでしょう。あちらこちらから水の勢いよく流れる音がします。
ん?人が。
しかもこんな寂しい山のなか、お若い女性がふたり、白いワンピース姿の方とグリーンのワンピース姿の方が石段を降りて来られます。(あっちか!)┉涼しげな柔らかな笑顔で挨拶に応えてくださいました。これは、ここから先はそれなりに整備されているのだな。そんな風に思わせるおふたりの優雅な足どり。


っ! 神社だ!
石造りのしっかりした鳥居があります!


┉息子よ、今日は神社仏閣巡りではないといいながら、結局神社に来ているけれど、母は知らなかったんだ。決して嘘をついたわけではない。
でも、御導きなのかな。

わあっ、お不動さまだ!
お不動さまがお座りになられて、お護りくださっている!
ああ、だから、あの細い道で一台の車とも出会うことなくこちらまで登って来られたのだな。ありがたいことです。
少し、お疲れでしょうか?この滝を目指す方は多そうですものね。
ありがとうございます。
一人でしばしお不動さまに向き合っておりました。振り向くと夫が、いかにも手持ちぶさたといったていで立っていました。ごめんなさいね。


鳥居には【若子神社】という扁額。そうかぁ。ここが若子神社さんだったんだ。二荒山神社さんではたくさんの御朱印をお授けくださっていますが、そこに若子神社さんの御朱印が合ったのを記憶しております。寂光の滝、だから若子、なのかな。

参道脇には太くはないけれど、豊かな水量の川が流れております。

No.265 19/07/19 23:50
旅人 

寂光の滝も弘法大師空海が修行したと言われています。

その昔明治時代の神仏で【若子神社】となるまでは、こちらは【寂光寺】というお寺さんであったということで、弘法大師が【滝尾神社】を建立した後、寂光の滝で修業していた際、夢の中で女神のお告げを受けて、この地に【寂光寺】を建てたのが始まりと言われています。

室町時代には七堂伽藍が立ち並び、修験道場として修行の山伏などでにぎわったお寺のようです。弘法大師空海が彫ったという不動尊が御本尊。その像が納められている【不動堂】や寂光権現堂「求聞持堂(ぐもんじどう)」が、江戸時代まであったのだそうです。
今回、若子神社さんに初めて参拝をいたしましたが、そのような賑わいを感じさせる面影は一切ない、山のなかのひなびた神社さんであります。江戸時代まで続いたという寂光寺さんは、明治時代にはいって若子神社さんになり、その後間もなく、火災にあい全焼してしまったようであります。
しかしその後再建され、今なお、女体さんの入り口を護る大切なお役目をはてされております神社さんです。


また、寂光寺は「釘念仏」のお札を求める人で大変賑わったお寺だそうです。
これには、【地獄巡り】という言い伝えがあり、かつてかなりの視聴率を誇ったテレビ番組、【まんが日本昔ばなし】でも取り上げられた伝説であります。


覚源上人(かくげんしょうにん)という僧が、寂光寺で修業しているとき、ある日突然仮死状態になってしまいます。覚源上人はじつに地獄の閻魔大王に呼び出され、地獄めぐりをした、ということでありました。その頃の地獄は、毎日毎日、死者が地獄に堕ち、人が溢れていたとかで、閻魔大王は覚源上人に娑婆(しゃば)の人間に地獄に来るとどんなに大変な目に遭うか、地獄の様子を娑婆の人々に伝えてほしい。そして地獄に来ることのないように、これから授ける御札をもって念仏を唱え、人々が地獄に来ないようにしてほしい。とお願いされます。
覚源上人が仮死状態から目覚めると手には一枚の御札を持っていました。その御札には49の穴が空いていだそうです。
地獄に落ちると49日間毎日節々に生前の業の深さの分釘を打たれるそうで、生きているうちに49万遍念仏を唱えればそれを免れることが出来る┉というのがこの釘念仏の教えなようであります。




No.266 19/07/20 08:32
旅人 

寂光の滝は、さほど大きくはありませんが、ほとんど人の手を加えていない自然な道を歩いて、目の前に見えだした滝を目指すといったなんとも言えない風雅な気分を味わうことができます。
その滝を本当に愛する人が、その、自然な感じを考慮して作った道を、滝を目指す人たちが歩いて踏み固めて道を保っている、といった感の道であります。
そして、何よりありがたいことに、五十メートルといわれる滝がおちてくる滝壺すぐそばまで行くことができます。
それは、迫力というより、むしろ心静める音と水量の、なんとも至福の空間であります。そう、そばにいるだけで心を癒してくださる┉、それでいて凛としておられる、そんな女性のような雰囲気のある滝であります。
心が穏やかに癒される空間。
いつまでもそこにいたいと思わせる空間でありました。


寂光寺の跡は、本殿の裏のハイキングコースの道をさらに登っていくとほんの少しではあるようですが残っているようです。観音様の石像は今なおその地でしずかに土地をお護りくださり、訪れる人を見守って下さっているようです。
┉行きたいなあ。
行きたい。

でも、まずはここまでの、林道に近いすれ違い困難な道を登ってくるという難題があるのです。( ω-、)
クルマの運転は、クルマの運転だけは無理してはいけないし。五十の齢を迎えた人間が、これだけは努力して上達できるものではありません。
下から歩く?(^_^;)
┉上に登っていく体力、気力がすでにうばわれてしまう気がいたします。


祈 再拝!
どうかお不動さま、私の運転で無事に登下山できますよう、お護りください。
どうか観音さま、御前に参拝できますようお導きください。



      令和元年七月十三日  参拝



No.267 19/07/20 22:02
旅人 

【若子神社】さんの御祭神【下照姫命(したてるひめ)】さま。


国や家庭、事業の安泰を司る神さまであられるようであります。
八百万といわれる神さま、子供の頃子供向けの古事記などを読みはしましたが、畏れ多いことでありますが┉御名前を少しも覚えられず、神さまたちのご関係や、どのようなご利益をお与えくださる神さまでおられるのか、御名前を拝してもさっぱりわからない者であります。
本当に申し訳ない。
神社に詣でるときは、御祭神だけは調べてから伺おうと思ってはいるのですが、御導きいただいたかのように参拝となりましたときなどは、本当に申し訳ないくらい何もわからない状態で参拝させていただいております。

で、帰ってから、Google先生にお教えを乞いました。


下照姫命さまは、大国主神と多紀理毘売命(たきりびめのみこと)の娘であり、
阿遅須枳高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)の妹。
天稚彦(あめのわかひこ)の妻であります。

美人の誉れ高く、父神の国土経営を助け偉大な功績を立てられ、また和歌の祖神とあがめられている、容姿端麗・才色兼備の女神さまです。
天界から国譲りの使者として来た天雅彦でしたが、下照姫の美しさに心惹かれ、天から与えられた使命を放棄し、下照姫と結婚なさいます。
結婚後、二人は幸せな家庭を築き、仲睦まじく暮らしながら、父神の国土経営を助け、偉大な功績を残します。
しかし、天雅彦は神の放った矢に当たり亡くなってしまうのであります。


【和歌の祖】【芸能上達】【悪疫退散】【火難防除】の御利益をお授けくださるようであります。
十月三十日に大祭を行われるようであります。

No.268 19/07/21 06:43
旅人 

以前から行ってみたいと思っておりましたお寺さんに、ようやく参拝することができました。
群馬県前橋市にあります【魚游寺】さん、であります。
┉変わったお名前でありますでしょう?そこには昔から伝わる伝説があります。その伝説をずっと覚えてはいたもののお寺の名前が出てこない。(*T^T)
子供の頃に聞いた昔ばなし、とはいえ絶対実在するはず。
ということで、ネットで検索してようやくたどり着いたのが二年くらい前。行きたいお寺さんがあってということから、魚游寺さんの伝説について歴オタ氏に話したところ、興味を示していたので、一人で参拝せずに我慢してあたためておりました。

先週、魚游寺さんの周囲を囲むお堀に植えられた古代ハスが見頃を迎えているというニュースを目にし、矢も盾もたまらず「魚游寺さんに行きたい!」と叫ぶように話しました。┉ところが、ですね。歴オタ氏のなかでは歴史と結びつきのない伝説イコール昔ばなしは、記憶に残らないものらしくて、初耳のような反応です。
(-""-;)┉ヤツなど待たずに一人で参拝してしまえばよかった。何度そのそばを通ったことか。毎月最低でも一回、今月などはすでに二回もそばを通っていたものを。


まあ、長い前置きはとにかく、ようやくたどり着いた魚游寺さん参拝、であります。

No.269 19/07/21 08:36
旅人 

魚游寺さんは寺院的には乗明院と呼ばれることが多いようであり、実際、門には魚游寺の文字はありませんでした。承和年間(834~48年)に慈覚大師が、自ら彫った釈迦如来像を安置するお堂を作ったのが始まりとされているようです。

魚遊寺という寺名の伝説。
建長2年(1250年)のこと。この地の郡司┉お役人がお堂の脇に池を作り、魚を放して釣りを楽しもうとしたところ、池の水が一瞬にして熱湯になってしまったのだとか。驚いたお役人は僧を招き、殺生の罪を詫び一心に祈ると、池の水は元の水になり、魚も群れをなして泳ぎだしたということであります。お役人は大変喜び、寺を再興し魚遊寺と名付けたという。

さすが、伝説。昔ばなしでしょう?子供心に「なんで熱湯になった池の魚たちが、池が水に戻ると泳ぎだすの?」とその伝説を話してくれた大人に聞いた覚えがあります。当然、答は納得のいくものではありませんでしたけど。
「それは仏さまの力で熱湯になっていただけだから、術が解かれれば魚たちが泳ぐんだよ」
「だって熱湯になったら魚は死んじゃうでしょ」
「それは仏さまの術だから。仏さまは無駄に命を奪うようなことはしないんだよ」
┉ 大の大人になるまで無信心、無信仰(この点はいまも変わっていないかな。胸を張って言える宗教徒になっておりませんので)でありました私は、到底納得できませんでしたが、この質問はこの方を困らせるだけだな、と判断してそこで打ちきりにしたことも覚えております。


立派な仁王門があります。早くももう、嬉しさで胸が膨らむ私であります。楼門であります。仁王門脇には新しそうなお不動さまの大きな石像があります。さらにはそのうしろにひっそりと、┉おそらくはお地蔵さまが二体と、祠があってそのなかにはおそらく薬師如来さまがおられました。
その楼門の中に四方を取り囲むお堀があり、そこにいっぱいの古代ハスが根を張ってお堀の水面を覆いつくして蓮の葉と桃色の蓮の花が咲いています。





No.270 19/07/21 08:41
旅人 

御本堂にお参りして、早速境内のなかを散策させていただきました。
本堂裏手の向かって右側にある不動堂や、宝塔のひとつは、もともとは乗明院の末寺である覚動寺(昭和大橋の建設に伴い廃寺)にあったものだということであります。宝塔には南北朝末の永和4年(1378年)の銘がありました。橋が架かるという理由で歴史あるお寺のひとつが廃寺となってしまったのは、なんとも切ないことであります。
しかし、昭和大橋ができる前は渡し舟で対岸に渡っていたようで、流れも早く深いところもあり、また何度もその流れを変えてきたその利根川では水難事故も多かったようで、橋の架かったことによる利便は大きな大きなものであります。

閑話休題。
境内には阿弥陀三尊画像板碑というものが、覆屋に納められておりました。高さはなんともりっぱで私の背よりも高く感じます。
建立は弘安年間(1278~88年)で、その板碑には、[極楽往生を願って読経した人を阿弥陀三尊が雲に乗って迎えに来る図]が描かれているとのことであります。残念ながら、ガラス張りのお社、覗きこんでも覗きこんでも、まるでその絵は見ることはできません。

蓮見会というものがあったようで、僧侶がお二人散華しながらという始まりだったようであります。この日は、お寺さんはお留守で、お話を伺うことはできませんでした。
新聞にも紹介されたようで、なん組も蓮見の方がお見えになっていました。


かわいい猫が自由に境内や駐車場を散策していたのが留守中のお寺を訪れた者たちの心苦しいような思いを、優しく取り去ってくれました。
今度写経会があるようです。そのときあらためて参拝させていただけるといいな。




      令和元年七月二十日  参拝

No.271 19/07/23 18:15
旅人 

今朝、目覚める直前に夢を見ていました。
夢だな、とわかっていての夢。

なんと、男性のどアップの笑顔です。何を語るでもなく、満面の笑顔。┉お坊さまです。お顔に見覚えのある、八十近いかたで、目覚めてからしばらく「どちらのお寺のご住職だっただろう┉」しばらく考えて、考えて、ようやく思い出せました。
前職でお世話になったお客さまのご住職でありました。もっとも、そのご住職のお寺さんには一度だけ、しかも偶然参拝させていただいただけで、袈裟やら作務衣のお姿は一度も拝見したこともないのですが。夏の絽の衣をお召しになって、ニコニコ笑って真っ直ぐに私をごらんになっていました。



ただ、それだけ、であります。
ただ、不思議で、┉なんとなくお坊さんの満面の笑顔の夢なんて、吉夢みたいに思えたりして、書いておこうと思った次第であります。

No.272 19/07/28 00:03
旅人 

短い期間に、二度目の群馬県前橋市【魚遊寺】さんへの参拝となります。
今日は写経会。

駐車場に到着したときには、すでに御本堂から木魚の音が聞こえてきています。御本堂に到着したときは、みなさまが声を合わせて開経偈(かいきょうげ)を唱えております。開経偈は、「お経をこれから唱えさせていただきます」という文言のようであります。
私、般若心経は読み上げるのもまだしどろもどろなくらいで、両の手のひらを合わせ無言で座っていることしかできませんでした。
読み上げるのにしても他の方々とテンポが合わず、しばし無言となって、また途中から声を合わせる、といったことばかり。まだまだ未熟なヤツであります。
お経は、やはり唱えたかった。まあ、ひとえに遅刻しちゃった自分がいけないので、それで大切な読経ができなかったことにも繋がり、本当に申し訳なく情けないことでありました。

写経を始めると、静かな御本堂に優しい風が流れているのがよくわかります。蓮の咲く堀の水に牛蛙でも住んでいるのか、ぶぉーぶぉーという声(?)が時折聞こえ、またひぐらしのカナカナカナという声が聞こえたり。
筆をとめて外を見やると、夏の空が広がっています。青い空にもくもくとした入道雲。
そして┉そんな自分が不思議でありました。
いつも写経の時は一心不乱に書くことに集中しているのに、なぜ、こんなに途中途中、手を休め、空間を楽しんだりしているのか┉。
飽きてしまったのともちがうのです。まあ、写経をしに来て写経することに飽きていたら、情けなさ過ぎでありますが。
写経することを楽しんでいるような、その文字のなかに今の自分が感じる思いを織り込むような感覚であったような気がします。
いつか墨を擦り、毛筆で写経をしてみたいと思うのでありますが、なかなかそこまでには至りません。殊に写経会などでは形だけは一人前でも読経もろくにできないようではちょっと恥ずかしすぎるので。



写経を終えるとご住職の尼僧さまがお菓子やお茶を振る舞ってくださいました。夫はおいしい珈琲大福に感動しておりました。群馬県では有名なお菓子屋さんのものです。さすが尼僧さま、おいしいものをご存じでいらっしゃる( 〃艸〃)



夫は写経を終えての帰り道、痛かった肩がだいぶ楽になったと申しておりました。



   令和元年七月二十七日  参拝

No.273 19/07/28 21:23
旅人 

それは七月二十六日、偶然目にしたテレビのニュース。

「【世良田祇園まつり】、明日だって。台風直撃かねぇ?」
以前からなかなか行けずにいた、【群馬県太田市世良田の八坂神社】さんのお祭りです。 
「うん、実は知ってたんだけど、台風だし、風邪ひいてるじゃない?だから黙ってたんだけど┉」
えっ?もしかして私、風邪ひいてても「ぜ~ったいお祭りに行きた~いっ!」って駄々でもこねるとおもわれているわけ?いや、さすがにそれはないから!
えっ?本当ですってば。(;´・ω・`)


大変な人出となるお祭りのようです。風邪くらいで仕事を休むわけにはいかないのであきらめました。┉半分┉




半分あきらめて、残りの半分って何?ってなりますよね。
夜の祇園まつりの屋台やら花火やらはあきらめたものの、翌日の八坂神社さんの御神輿ならば、昨日ほどの人出ではないのじゃないかなってことで、一夜明けた祇園まつりの本拠地(?)八坂神社さんに参拝してまいりました。

No.274 19/07/30 11:25
旅人 

世良田に入り、八坂神社さんに近づくにつれて┉あ、れ?
お祭りの雰囲気は一切ありません。┉ なにかまちがえた?いやいや、テレビで、少なくとも昨日は屋台巡業があると言っていました。しかも、かつては夜通し行われていた世良田祇園まつりです。少なくとも、なにか、その残りの気配とかくらいあるのでは?
まさか、場所が違う?
それでも近づくにつれピンクと白の提灯が連なる町内になりました。でも、一軒としてあのわたあめ屋さんだの、お好み焼き屋さんだのといった屋台はありません。非日常なのはその提灯だけです。八坂神社さんの参道すぐ脇の役場まで来ても、役場は役場のまま、一切ポスターや飾りといった類いはありません。その角を曲がって、八坂神社さんの鳥居真ん前に行って┉ようやく屋台(祭の)がありました。
でも┉人も疎らで、お囃子の子供とその親、それに指導者の方が一人いるくらいです。
あとは(おそらくは)普段どおりの境内と、開け放たれたお社に、参拝の方がチラホラ。
お祭り真っ最中というより、前々日とかに屋台を屋台庫から出してみてお囃子の練習をしているといった感じにしか見えない!

なんで?

三つある屋台も、一台だけが稼動しているだけです。
今日は御隠居さまと呼ばれる御神輿の渡御があるはずなんですが┉。


┉おかしい。
┉会場が違う?
まあ、いいでしょ。ずっと来たかった世良田八坂神社さんです。参拝させていただきましょう。

No.275 19/07/30 15:28
旅人 

あかるい、清々しい気に満ちあふれた神社さんです。昨日の御祭に神さまもお喜びになられている、ということでしょうか。
お天気は曇っているのに、あかるくて、初めて訪れた私まで楽しい気持ちになるくらいです。
手水舎のお水のでるところは亀の口となっております。尻尾のたいそう長い、いかにもおめでたそうな亀であります。
鳥居をくぐった真っ正面、拝殿正面はすべて上から下まで開け放たれております。拝殿のなかに入るまでもなく、すべてが見通せる状態です。真正面にお祀りされているのはおそらく御神体、本殿の扉まで開け放たれているということでしょうか。
こんな神社さんは初めてです。


御朱印や授与品をお受けする社務所に、境内の中一枚だけ貼られたポスターに、今日十三時から御隠居さまの御神輿が境内から町内中を練り歩くように書かれております。うん、ちょうどいいくらいの時刻に到着させていただくことができました。
御朱印はお祭りのためすべて書き置きでの対応であります。実はこちらの神社さん、御朱印も有名でありまして、御朱印帳も三~四種類があるようです。
季節の御朱印のほか、毎月22日の猫の日限定の御朱印や、雨の日限定御朱印等もあるようです。私は御祭限定の御朱印のほかに、勇ましい龍のイラストに御朱印の入ったものをお受けしました。
水槽の中には生きた白蛇さまがお休みになられていました。
御守りは、ゲゲゲの鬼太郎やドラゴンボールの悟空や悟天、ぐてたまやキティちゃんなど流行りの図柄がありました。

御神輿が動くまでまだ一時間ほどかかるようです。


ちなみに、
この文章力のない私が、御祭の屋台、わたあめやお好み焼きなどの屋台をちゃんと使い分けて、お読みくださる方に混乱なくお読みいただけているかどうか┉(^_^;)

No.276 19/07/30 16:07
旅人 

境内をまわらせていただきますと、神楽殿のほかに、大神楽殿とでも言いたいような、大きなステージのような建物があります。その側面の壁一面となるほどの大きな大きな扁額がありました。書かれた文字などは薄れておりますが、見事な彫りが施されています。
今現在の鳥居の扁額はいわゆる一般的な大きさのものですが、やはり見事な龍が二頭彫られております。これは拝殿の扁額だったのでしょうか。これほど大きな扁額を掲げられていたような大きな拝殿だったということでありましょうか。
その他にも壁にかつて使われていた神社の壁に掲げられていたような物が収められています。

拝殿の横を通り、裏に向かうとやはり見事な彫りの施された本殿であります。色はだいぶあせてはおりますが、屋台の色を修復したせいで、その屋台を見たあとなせいも多少ある┉のかなぁ。

裏には一段高く盛り土され、古くからあったお社がたくさんありました。白蛇弁天さまであったり、十二社ほどの小さな古いお社があったり、国作りの神イザナギさまとイザナミさまの二柱をお祀りしたお社や永寿大明神という御名前でお祀りされた少彦名命さまのお社がありました。御神輿が四基収められた御輿殿と、御神木であります杉の根がお祀りされたお社があり、また天王獅子という大きな表札(?)が立て掛けられた、お社が一つ、ありました。

そして本殿の横に引き車にお社がのったような、立派な屋根のついた┉お雛様の雛壇にある高貴な方が乗られる牛車のような車が一台あります。
御神輿と一緒に引かれる車でしょうか。
それにしても、御神輿四基はしっかり御輿殿に収められています。あの担ぎ棒がついておりません。あと少しで、御隠居さまの御神輿が渡御されるはずなのに┉?

御祭を守る会の方の一人が教えてくださいました。
なんと、今年は御隠居さまの御神輿渡御は行われないことになったというのです。理由は担ぎ手がいない!
世良田の者でないと担ぐことができないからねとおっしゃいました。
そして重さが半端なく、とても世良田の者でこの御輿を担げる若いもんが居ないんだと、淡々とおっしゃっていました。
ポスターを作成した時分にはなんとかしたいという思いでおられたけれど結局ダメだったということなのでしょうか。

No.277 19/07/30 18:37
旅人 

かつての【世良田村】が【境町】と【尾島町】に分割編入される以前の祭礼は本当に賑やかだったそうです。全部で十二台の屋台があり、その分割編入によって、太田市世良田町には八台の屋台が残り、残りの屋台はその土地とともに『境』にあるのだそうです。なんだか切ないお話であります。

そして、そのかつての世良田村の頃の【世良田祇園まつり】といえば、東武伊勢崎線が夜通し運行し参詣人を運び、群馬県内、埼玉県各地から臨時のバスが出るほどの大祭だったそうです。屋台は八坂神社周辺を一晩中運行され、それを見る人で国道沿いの民家の2階まで人で埋め尽くされたそうです。当時を知る方にとってはなんともかなしいくらいの縮小でしょう。
そしてその時代も古く、織田信長の時代からとも伝えられているものなのだということであります。
現在の太田市がそれを大切に思い、屋台の修理修復に助成金をあて、
見事な屋台に復元されたのだそうです。屋台は大門、上町、上新田、下町、新町、今井、南八、下新田の八台があるそうで、八坂神社さんの参道脇に三台の屋台庫があり、翌日に行った私たちもその三台を拝することができました。

本当に豪華絢爛な大きな大きな屋台であります。天井画が描かれているものもありました。多少の差はあるようですか彫りも細かく、なによりもいまは、色彩鮮やかに甦っておりますのでこれは本当に見物だと思います。屋台の中には仕切りだったり、小部屋だったりが設けられていて、その中で雅楽などの楽器の演奏を行うようだったとか、おっしゃっていました。
屋台の牽き違いや、お囃子の掛け合いなど、来年こそは是非観たいものです。
ただ、今年こそ台風がおさまってくれたものの、世良田の祇園は雨祭りとも言われるくらい雨にたたられるようで┉
私が風邪さえひいていなければ┉、悔やまれるばかりであります。


No.278 19/07/30 20:35
旅人 

そんなお話をうかがいながら境内にいると、宮司さまが足早に歩いて来られ、天王獅子のお社に入って行かれました。
しばらくして、宮司さまがなにやら大切そうに抱えて┉、また足早に歩いて向かった先は、あの例の屋根のある立派な牛車のような車です。そして、車にそのなにかを載せると、また足早にどこかに歩いて行かれました。(┉何だろう)。その車のそばには誰一人おりません。
まあ、どなたも見張り番に立ったりしていないのだから、何を置かれたのか見に行ってもいいのだろう。そんなことを考えながら、車を覗くと「?!┉えっ⁉」


┉こちらの神社でお祀りしている牛頭天王さまのお頭?
角がひとつある、獅子頭といえば獅子頭。
こちら┉御神体なんじゃ?
なんでこんなに無防備に!
そうこうしている間に、またまた足早に宮司さまがなにかを手に持ち、そのお頭のそばに置きました。そして何人かの男の方たちが集結してその車を牽きます。
拝殿横から本殿横に左回りに歩かれます。おお、戻ってこられた┉
さあ、いよいよ出発┉と思いきや、もう一周!
さらにもう一周、もしかしたらもう一周?┉当たり~っ
時計回りに拝殿・本殿を3周すると、鳥居を抜けて参道へ。一つだけ山車でお囃子が演じられています。その音色に見送られながら参道を歩き、五百メートルくらい続く門へ歩いて行かれました。

No.279 19/08/03 07:43
旅人 

「┉まるで御獅子さまがお伴を従えて散歩にお出になったようだね」と、夫。まさにそんな感じです。
そんなうしろ姿を見送りながら、「せっかく世良田まで来たんだから総持寺さんに行こう」と夫が申します。
【総持寺】さんは、前回参拝の折、鐘楼が修復工事中で拝見することができなかったのですが、工事の足場の骨組みのすき間から、茅葺きの屋根が見えます。これは、絶対、工事が終えた頃再拝させていただこうと、夫と二人思っておりましたお寺さんです。

立派な彫刻の山門をくぐると、広い広い境内で、しかも樹木やら石仏などがあまりないお寺さんであります。きっとかつては大きなお寺であったのだろうと思わせる広さです。そしてそれに見合う大きな御本堂。広い境内にそびえ立つといった感じです。御本堂は、扉が閉ざされ、さらに障子が閉められて外陣も御本尊さまも拝見できないのですが、その障子の上に細かく繊細な彫り物が施されている欄間が連なっており、右手奥には襖でしょうか、これまた立派な武将の画が描かれているのが見えます。
外観は新しいもののようではありますが、中は古くからの建物が活かされているようです。


さて、まずは御朱印をお受けできるかどうか、うかがってまいりましょう。
インターフォンの応答がなかなかないので諦めかけたとき、若い女の方の応答がありました。出てこられたのは赤ちゃんを抱っこされた若いおかあさんでした。申し訳なさでいっぱいになりながらしどろもどろに御朱印をお受けできますかともうしあげると、快い御返事をいただけました。ありがたいことです。
しばらくして御朱印帳をお持ちくださいましたのはまた赤ちゃんを抱っこされたおかあさんでありました。
なんだか、小さな赤ちゃんのいるお宅に長居してはいけないような感覚になり、さあ、前回色々見させていただいたので、今回はこれでと、そそくさとお寺をあとにしようとしたところ、
「鐘楼、こんなことになっちゃったんだね」
えっ⁉ ┉いやいや、別に普通の立派な鐘楼でしょう、失礼な。
ん?┉あ、ああぁ!!どうしてこんなことに。
そう、茅葺きの屋根の鐘楼は、普通の銅板の屋根に葺き変えられておりました。 (*T^T)



No.280 19/08/09 02:27
旅人 

茅葺き屋根の維持は大変なことのようです。かつては一番安価な屋根と言われた茅葺きは、今、一番高価な屋根と言われているのだそうです。材料の調達も大変なことのようですが、なによりもその茅の屋根を葺く技術者がいないのが現状のようです。
こちらのお寺さんも苦渋の決断、しかたなかったことなのでしょう。

【総持寺さんの梵鐘】は、かつて、世良田祇園の宵宮に、普門寺の梵鐘(市重文)と呼応して屋台の町内引き廻しの合図にも使用されていたということであります。
この寺の梵鐘は、江戸時代中期に青銅で造られており、その特色として乳の間には乳がなく、梵字の金剛界五仏(大日如来・阿閦如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来)があるのだそうです。撞座(しゅざ)には梵字の胎蔵界五仏(大日如来・宝幢如来・開敷華王如来・無量寿如来・天鼓雷音如来)があるとのことであります。
ただ、こちらの鐘楼は他の寺院にくらべ高さがある部類のもので、その何一つ、下から見ることはできなかったのですが。


この総持寺さんは西側の早川を背に、三方を堀にした【館跡】であると言われ、東と西の一部に堀の跡が残っています。
居住者は新田荘の立荘者で、新田一族の祖新田義重居館説、総元家新田政義の失脚後一時期新田氏を代表した世良田頼氏(徳川義季の子)居館説、新田義貞居館説などがあります。
┉それにしてもいつも思うのでありますが┉、歴史に名高い武将の館の跡のようなものでも、長い年月がすぎると誰のものであったかすらわからなくなってしまうものなのですね。私のように無知無学な者にはなにか不思議に感じてしまうのであります。

No.281 19/08/09 02:40
旅人 

こちらにかつておられたとされる、【木造不動明王立像】は新田氏の祖とされる新田義重が館の一隅に建立した護摩堂の本尊であったといわれていますが、これを証する資料は残っていません。
一材から彫り出して、内刳を施さない一木造りですが、左ひじ前から先、及び左足先は別材で、はぎつけられています。
眉根を寄せ、両眼とも大きく見開き、忿怒の表情を示しています。像の前面で裳裾(もすそ)を膝までたくし上げて、両膝から下を露出しています。
この像は覚鑁上人が自ら刻んだものと伝えていますが、信憑性に乏しいと判断されています。平安時代後期(11世紀後半)の作と推定され、県内では十一世紀まで遡る木彫像は極めて少なく貴重な像で、現在県立歴史博物館寄託となっています。

【総持寺の木造伝新田義貞倚像】は、総持寺本堂に安置され、像高87.1cmのサクラ材を使用した一木造りの倚像です。巾子冠(こじかん)を被ぶり、袍(ほう)を着けて腰で締め、袴をはいて膝下で括り、脛甲(すねよろい)を当て沓(くつ)を履いています。
両目を吊り上げ、口を大きく開いて上歯・下歯及び舌をあらわし、顎鬚(あごひげ)が長く伸びています。彩色の大部分が剥落し、全面的に木地がむき出しになっています。
さきの【大新田氏展】に出展してくださっていましたが、その際「新田義貞像と伝えられていますが、一木から彫出しほとんど内刳しない造法、彫法も簡略で素朴な造形であり、【神像彫刻】の一般的な特徴に通じていることから、〖随身ないし何らかの神像〗とみるのが妥当と思われます」と解説の方が述べておられました。制作年代は鎌倉時代であるとされています。
八月一日にはこちら総持寺さんにおいて【義貞様】(新田義貞の木造と伝えられた神像)を祀る行事があるとのことであります。
┉たしかに、ほかの像や、肖像画とくらべると小さくて、やや貧弱(失礼!)であるのは私の目から見ても明らかなのではありますが、
義貞様をお祀りする日とかがあると知って、嬉しく思ったのではあります。あくまでも作品ではなく、御像であります。そこに伝わる伝承は伝承として、大切にされるべきものであります。できうるなら、いつかの八月一日の日に参列できるといいな、と思う私なのであります。

No.282 19/08/10 23:28
旅人 

【総持寺】さんをあとにし、向かったのは【世良田東照宮】さん。お近くまでまいりましたのでと、御挨拶をさせていただきました。明るく、穏やかな気であります。訪れる方がみな笑顔であります、そんな神社さん。
今回は拝殿前での御挨拶のみで参拝を終え、隣にあります、新田庄歴史資料館へとまいりました。新田氏のものだけではなく、新田氏ゆかりの神社仏閣の御像や、狛犬などもお預けになられていると知ってのことです。ずっと炎天下を歩いていての資料館は、身体全体を一気にしかもやさしく冷やしてくれる効果もありました。こちらの施設は入館料がかかります。

さて、そのあとは【普門寺】さんの参拝に。そう、かつてのあの世良田祇園の際、総持寺さんと合図の梵鐘を鳴らしていたというお寺さんであります。
普門寺さんに到着する、という超直前、もう一台の屋台庫があり、屋台庫の扉が開け放たれ屋台が見えるではありませんか!路駐が難しそうな道なので、普門寺さんの駐車場に車をいったん停めて、屋台庫を目指すと、なんと!だいぶ前に世良田八坂神社で出発を見送ったあの御獅子頭様の御一行が休憩されているではありませんか!
こんなに時間をかけてようやくここまでたどり着かれたのですね。

いつも思うことでありますが、伝統のお祭りを守っていかれるということは地道ではありますが、大変なこと。そして膨大な時間をかけてひとつひとつを着実に、決まりごとをこなしていく。それが守っていくということなのだなぁとつくづく感じさせられる一瞬があります。そしてそこにいたく感動いたします。
お祭りが実はそんな意味合いをもっているものでありますことを、知らないまま大人になり、ずいぶんと長いこと知らないままの大人でありました。
住んでいた土地のお祭りがそういった現代的な神仏との関わりのないものであったこともあるにはあります、また、親が無信心な家であったこともあります。でもだからこそ、いまありがたくも大きな感動をさせていただいております。


No.283 19/08/11 22:49
旅人 

┉実は、普門寺さんに向かう前に夫が行きたいと申しますお寺さんに寄らせていただいておりました。

源頼朝の兄【悪源太義平公の墓】があります世良田町の【清泉寺】さんであります。

通りからすぐにわかるよう看板が建てられていました。┉が、駐車場といった感じのものはなく、耕す前の畑のような土地があって、その奥に風情のある山寺の山門のような門が見えているのであります。そこに停めさせていただいてよいものかどうか判断に困るものでありました。
いったんその土地に置かせていただいて、中に入って確認してこようと、その空地スペースに車を停めるべくハンドルをきった途端、しずむ、しずむ!
なんだか本当に畑みたいな気がいたします。(・・;)

風情のある山門┉ですが、山名が消えてしまっています。門前にはやさしいお顔立ちの石仏さま。門をくぐると┉
┉庫裏┉どうやら長いことどなたもお住まいではないようです。無住のお寺さんでしょうか。
境内は一般家庭のお庭くらいの広さです。
ですが、そこはやはりお寺さんでありますので、形よく松の木が枝を伸ばし、そのかげに宝篋印塔がみえます。


清泉寺説明板に書かれた御由緒書きによると、創立はつまびらかでないがようですが、平安末期に悪源太義平の妻がここに庵を結んだのがこの寺の起源だといわれているようでありました。

【悪源太義平】は義朝の長男で鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄であります。十五歳の時叔父義賢(木曽義仲の父)を討ち、それ以降悪源太といわれたようであります。
このあたりの話は、いつぞやの車中の移動中、スイッチが入って止まらなくなった夫から、イヤというほど聞かされたくだりであります。ここで使われる【悪】とは『善悪』の悪ではなく『勇猛』という意なのだそうです。
平治の乱で父義朝と共に平清盛と戦い、待賢門の戦いでは平家の嫡子重盛と一騎打をしたことで有名。┉なんだそうです。
戦局は源氏に不利な結果に終わり、父義朝は討たれてしまいます。
義平は京に潜入し清盛父子の命をねらったのですが捕らえられ、六条河原で斬首されたといいます。享年弱冠二十歳であったそうであります。義平の妻は新田義重の娘で、夫の死を知り京に上ってその首を秘かに持ち帰りこの地に埋葬し、剃髪して妙満尼と称し夫の菩提を弔ったということであります。山号を義平山というのもそれゆえなのだそうです。


 

No.284 19/08/11 23:04
旅人 

無住のお寺さんで、確認のしようもありませんが、このお寺さんの境内の感じから想像するに、夫の菩提を弔う女性が、御仏とともに御本堂からすぐに見ることのできる夫のお墓。
いかにも一人の女性が、少ないお付きの者と過ごした庵といった広さのお寺さんでありました。

看板は市の案内としてわかりやすいよう立てられておりましたが、なにぶんにも小さな庵といった風情の無住のお寺さんでありますため、どこか寂しい雰囲気のただよう清泉寺さんでありました。



           

No.285 19/08/12 09:00
旅人 

【清泉寺】さん、実はその無念の最期を遂げた若い夫の菩提を弔ったという小さな小さなお寺が、無住であるがために、まるで廃寺であるかのような寂しい佇まいが、なんとも切なくて、書こうかどうかを迷っておりました。

ですが、【普門寺】さんにも悲話があり、ふたつのお寺さんのこと、書こうかこのまま私のなかにおさめておこうか、悩んだまま、筆が止まったままになっておりました。


でも、
┉私の認知症がすすんだら、この記録は消え失せてしまうのだな
と思ったとき、ふたつのお寺さんの記録もキチンとしておこうと思った次第であります。

普門寺さんは思った以上にネット上に資料がなく、できうる限り正しい記録をできるよう、キチンと調べて書いていこうと思います。

No.286 19/08/13 06:17
旅人 

群馬県太田市の【普門寺】さん。
かつて総持寺さんとこちらの梵鐘を合図に、世良田祇園が行われていたという歴史と由緒あるお寺さんであります。


こちらのお寺は平安年間に開山されたと伝えられ、南北朝時代には関東天台の名刹とされていました。
下って室町時代には、宗門僧徒子弟の研修道場の談議所として、二百余の末寺を有する大寺であったとされています。
また、戦国時代の頃太田金山城主由良氏の祈願所として金山に小屋場と称する出張所もあったと記録にあるとのことです。

また、源氏ゆかりの寺として、堂内に安置されていたとされる【八幡神像】は正元元年(1259年)の背名があり、【新田政氏造立】と云われ、【三代将軍家光】はその子【長松(後の甲府宰相綱重)の守護神】に定め、厨子を新調し御朱印地八石四斗を祭祀料として寄進したようであります。

寛永年間(1624-1645)に天海大僧正が長楽寺に入山するに際し、末寺と共に長楽寺末寺となったようであります。
元和元年(1681年)には【下田島に居住した旗本岩松家】より梵鐘が寄進され、境内には岩松家三代の廟所があったが元禄二年(1689年)に長楽寺に移されたようです。

享保二年(1717年)の失火により、本堂・客殿・庫裏・堂宇・宝蔵・一切経堂を悉く焼失したことが記されており、什物、古文書等の諸記録は灰燼に帰してしまったようであります。
その後九十年あまりの年月をかけて、文化文政年間に至りようやく再建されたようです。この火災の前にも一度火災にあったことが略記により確認されているようです。


【普門寺】さんは入口の石柱門、駐車場、山門はまだ整備して間もないようで非常にきれいであります。歴史あるお寺さんであっても、その維持に莫大な費用と手間がかかったり、すきま風やら雨漏り等などがあったりとさまざまな理由で、建てかえをされるお寺さんは多いのかなぁと感じます。
その山門をくぐるとすぐに目に付くのが【忠犬もん】の像。云われ等は案内はありません。右手に鐘楼があります。鐘楼に目をとられしばし、┉振り向くとなにやら不思議なコンクリートの箱のような┉何かの封印された蓋のような物がありその上に小さな小さな像が三体。
┉こ、これは┉まさか┉ゴ、ゴジラ?(・・;)
いやいや、そんなはずはない!┉もし、お聞きできたらお聞きしよう。忠犬もんとゴジラ?について。

No.287 19/08/13 06:55
旅人 

さらに境内を進みますと、御本堂や庫裡も大変新しそうでした。御本堂前にて合掌し、庫裡へ向かいました。高校野球の中継のアナウンスの声が聞こえます。呼び鈴を押しますと、御住職さん、なんと玄関すぐそばで小さな画面のテレビで高校野球を観戦されておられたようでありました。参拝させていただきましたこととと御朱印の件を申し出ますと、快く御朱印をお書きくださるとお返事くださり、さらには御朱印をお書きくださる間、本堂内で参拝をさせてくださるとのこと。
ありがたい。
御本堂も新しいだけでなく、御本尊も金色に輝いておられます。御本堂の建てかえに合わせて御本尊も修理修復をなさったのでしょうか。
その後少しお話をさせていただき、忠犬もんとゴジラの話をいつのタイミングでお聞きしようかと図りながら、そうそう、御由緒書きをお受けできないかもお聞きしないととまず、申し出ました。
?なにやら┉御住職さんが困ったような寂しそうなお顔を一瞬なさいました。(・・;)?

しばらくのちお持ちくださったのは、【普門寺 本堂・客殿再建報告書】?

「実はね、ここ、平成十六年に火事でみんな燃えちゃったんだよね。」!!(゜ロ゜ノ)ノ
こんなときに気の利いた台詞が言えるようなら、少なくともこんな珍道中だけはしておりません。行脚とか参拝録とかになるでしょう。
寂しそうな御住職がボツりボツりと話されるお話を聞くのがやっとであります。
御住職のお話が途切れたときに、(おつらい思いを思い出させるようなマネをすみませんでした)と、心中で語りながら、お寺を後にしました。


なんでも┉真夜中の零時五十五分ごろの出火で本堂と庫裏を全焼なさったとあります。漏電の疑いが強いとの見解だったようです。
御本尊のお釈迦様も薬師如来様も、十一面観音様もみな、新たに仏師が彫りおこしたようです。御本尊さまは御寄贈されたよう。

No.288 19/08/13 18:49
旅人 

普門寺さんの新しい御本尊様も、位牌檀中央に安置なさっておられる薬師如来様も、みな、寄贈なさった方の御名前が記されております。また、京都のお寺さまが十一面観音様を御寄贈くださったようです。

お寺さんの再建は長い年月をかけてようやく形が整ったようで、それまでは大般若転読会なども野外で行っておられたとおっしゃっていました。


御住職が誇らしそうに古いお寺の地図を見せてくださいました。そして、その地図を掲げた新しい庫裏の、自然な仕草で、その床をいとおしそうに撫でておられたのが印象的でした。



     令和元年八月三日  参拝

No.289 19/08/13 20:15
旅人 

┉話が前後します。
でも、今日あったことを書かずにはいられないので。



今日、いつものように離婚した父親と、祖父母の眠るお墓のあるお寺さんに墓参りにまいりました。
いつものように、御本堂に参拝して。
御住職さんが、「迎え火をお持ちになりますか?」と声をおかけになりました。「私は、離婚した父親の墓参なので」と申し上げると、
「ああ、そうだった。いつも来てくださっているんだった」
そう、おっしゃって奥に向かわれました。
覚えていてくださって、来てくださっているなんておっしゃってくださって┉ありがたい。お寺さんとしては檀家でもなんでもない私ですのに。
いつものように御本尊に感謝の参拝をして、御本堂をあとにしようとしたとき、また、御住職さんが出て来られました。真っ直ぐに私を見ながら、両の手で白い封筒をお持ちです。
「これ、御供物、お持ちください。中身は金平糖なんですけど」
「えっ?」( 。゚Д゚。)

「私、いただいてしまっていいんですか?」
「ぜひ。いつも来てくださっておられます。お寺としてもありがたいご縁です」



私は、なんにも宗教のことわからない人間です。
ですが、このような言葉をおかけ下さり、御供物まで下さってもてなしてくださる御住職さまは、本当にお心の美しい、しっかりと御仏の教えに従った生き方をなさっておられる方だと心から思いました。
これが、修行をなさっておられるということなのでしょう。



ありがたい。



父や祖父母の結んでくれたこちらのお寺さんとの縁にも感謝した、入り盆の日でありました。




No.290 19/08/14 15:53
旅人 

それでは、時をさかのぼってのお話になります。

大好きな榛名神社さんに参拝してまいりました。もう一つの珍道中で、榛名神社さんがどれほど大好きかを熱く語っていたか┉

まずは前回の珍道中録です。




┉立派な石の鳥居をくぐって、小川にかかる橋を渡ると、随神門が見えます。

さらに歩を進めると、みそぎはしと書かれた赤い橋があります。この橋を渡ると、凄いです、がらっと空気が変わりました。
清んでいるというのでしょうか。
凛としているというのでしょうか。
まさにこれを聖域、神域というのでしょう。神さまのお力とはかくも偉大なものであります。
しばらく続く登り坂も、軽やかに楽しんで登って行ける、そんな空気であります。
高いお山にいらっしゃる神様のもとに、老若男女誰もが軽やかな足取りで訪れることができるようにという神さまの優しさを感じます。


石段を昇りながら見えてくる三重の搭。参道のわき、山肌に沿って遠慮がちに建っています。参道を見守る大きくて苔むす狛犬さんが、実に可愛いらしい。左手に落ちついた朱の搭。右手には川が流れ、いくつか滝もあります

そして神橋を渡ってようやく手水舎。
大きな杉の脇を抜け、大きな大きな岩に囲まれる石段を昇り、一つ門をくぐって、振り返って見上げる位置、続く石段の上に見える、
岩を守るかにも見える門。
  「双龍門」
それはそれはみごとな龍が描かれ彫られております。
ため息がこぼれます。

さらに続く短い石段の先、拝殿が見えてきます。大きな大きな岩を従えて建つ拝殿、本殿。落ちついた、みごとな彩りのそれは神々しいお宮です。
こちらにもまた、みごとな龍。
拝殿、本殿を支える建物の下にもほどこされたみごとな彫り物。
お参りさせていただくことができたことを、本当にありがたいと心から思う美しさです。


向かい合う神楽殿には、雲を従えた雷神さまなのか、可愛らしい彫り物がほどこされています。

┉夫は、あまのじゃくと思ったようで、言われてしばらく私もあまのじゃくと思っていたのですが、落ちついて考えると、あまのじゃくはちょっと考えられない。
┉そんな相も変わらない夫婦の珍道中で、神さま、仏さまには本当に申し訳なく思います。







┉と、綴っておりました。

No.291 19/08/15 15:02
旅人 

【榛名神社】さんは、榛名湖畔からは三キロほど離れています。榛名富士と呼ばれる山頂にもたしか神社さんがありましたが、そちらではない榛名富士とは反対のお山自体が神さまであります、神社さんです。そのお山を目指しての道のカーブを曲がると、すでに空気が変わります。あとで知ったのですが、その道から見える土地からがすでに榛名神社さんの境内なようです。まあ、お山自体が神さまでありますので、考えてみればそうなのでしょう。
カーブを曲がると、やわらかな、おだやかな、それでいて凛とした、澄んだ空気がそこにあります。
男根岩という、お祀りされた大きな岩を過ぎたあたりから、心が浮き立つようなそれでいて引き締まるような不思議な感覚になります。

No.292 19/08/17 20:10
旅人 

今回、榛名神社さんの参道にありますお店がみな、無料解放をしてくださっていました。ありがたいことです。腰と脚に持病のある夫も榛名神社さんまでの参道を少し短くさせていただくことができました。参拝の前からもう、御利益があったかのようであります。

今回のお詣りは随神門の前からすでに空気が変わり、凛としたそれでいて包み込むようなやさしい空気に包まれます。上り坂にもかかわらず駆け登れそうなくらいに足取りも軽く歩けます。
参道わきにも側溝があり、やわらかに水が流れております。名も知らぬ紫の花が、その水の流れに彩りを添えています。
そして参道の右側には川がながれ、小さな滝がいくつかあります。その川の流れる上に、【鞍掛岩】というなんとも不思議な不思議な岩があるのが見えます。自然にできた岩がまるで細い細い太鼓橋のようにアーチ状に上にむかってのびているのです。神様がお作りになられたとしか思えない。おバカ丸出しのおばさんが一人でしきりに感心しているわきを何人もの人が通りすぎ追い越していきます。

参道の両わきには大きく育った何百年ものの杉の木々が林のように連なっています。そして石段が見えたら、そののぼりつめたさきに、それはかわいらしい狛犬さんがお出迎えくださっています。大きな狛犬さんなのですが、本当にかわいらしい表情としぐさをなされています。
そして狛犬さんが御守りされているのが三重の塔。神社なのに三重の塔。榛名神社さんの長い長い歴史が、そんな不思議な光景を違和感なくしておられます。


もともとは上野國式内社であります神社であります榛名神社さん。霊験あらたかでこのような山中にあっても参拝の人々が多い神社さんでありました。
ですが、戦国時代には一時期座主(独自性のある榛名山の進行のあり方でそのように呼ばれていたようです)すらいない衰退した時代もあったようで、それを復興させたのが近世、天海僧正の手によると言われています。
慶長十九年(1614年)に[上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事]が出され、以降、寛永寺の支配を受けるようになり、寛永寺末の中里見光明寺が学頭、榛名山満行院が別当に任命されたといいます。後には両職とも光明寺が兼務となり、【榛名山光明寺】など と書かれることもあったとか。つまりはこの時代にあっては榛名神社さんは寺院であったのです。

No.293 19/08/17 20:55
旅人 

お寺であった榛名神社さんが、神社に戻ったのはあの慶応四年(1868年)の神仏分離令が出されたことによります。

榛名神社の神仏分離として、堂塔、仏像、仏具の取り片付けの言い渡しが岩鼻役所からあって、光明寺さんに什物等の受け渡しが行われ、榛名神社として復活することになるのです。
明治三年に岩鼻県から神仏分離取締が赴任して、仏教的なものをすべて破壊するよう指導し、実行させました。(*T^T)
明治時代のかの悪法令のせいで、どれだけ多くの歴史ある寺院が壊滅的な破壊を受けてしまったのか。
このとき、榛名神社から仏教色は一掃されたといわれています。
ただ、現存している三重塔も実は神仏分離取締は壊すと書いていますが、なんとか残されることができたようです。



神仏分離令に引き続き、明治五年には修験宗廃止令がだされ、呪術、祈祷が禁止され、榛名神社さんがもっていたもう一つの顔も削ぎとられます。支配構造がくずれ、求心力を失っていた榛名神社を立て直すために、なんと一同協議の上で、「榛名神社教会」を開設することとなり、その旨内務卿と群馬県令に願書を提出し、明治十四年一月十一日認可され、教会が設立されました。
一月十一日はそれを記念して現在も「教会開き」という祭典を執行しているのだそうです。
昭和二十七年(1952年)にはさらに宗教法人「神道大教榛名大教会」と改称された榛名神社さん。ほんの六十数年前のことです。
榛名神社さんの長い長い歴史は、実は目が点になるほど翻弄されたものであったようです。


私がこちらに参拝したところで、違和感があるとしたら三重の塔があることくらいなのですが、それも実を言えばさしたる違和感を感じてはいないのです。お寺さんの中に神社があったりすることも多々あり、そのくらいの違和感も感じないくらいなのであります。


思うに、歴史のうえでその時代その時代の人間の考え方一つでねじ曲げられたものがあったとしても、お祀りされておられる榛名の山の神さまは不偏であったということ。
神さまがおられて、そこに仏さまが寄り添われた時代もあれば、修験という形で、人が祈ることもあって┉。
ただ、ずっと変わらぬ視線で神さまは、愚かな人間を見守ってくださっていた、ということなのだと。

No.294 19/08/18 02:44
旅人 

そんな過去があり、遺された三重の塔。塔の中には何が納められているのでしょう。


三重の塔を過ぎると岩肌がむき出しの、少し囲まれたような感覚になる通路を通ります。岩肌からも、そっと包んで見守られているようなやさしい気を感じます。岩肌の通路がまもなく終わろうかとする頃、岩肌につつまれるように【塞神社】さんが鎮座されています。そして、その岩肌の通路を抜けるとまもなく神橋があります。神橋を渡って行くと奥まって続く岩肌に扉があります。まさに岩肌に扉。【東面堂】というようです。
「扉の上に彫られてるのは、扉にたいしての屋根なんだろうね」と、夫がポツリ。?(・・;)?
!まさに岩肌にあります扉の、扉に屋根があるとしたらこの辺りかというところに屋根のようにも見える彫りが施されています。夫に言われなければ、扉にしか気づかなかったなぁ。修験のものでしょうか。
そして、御休み処が。なにもここに?と思うのはここに来るまで車で登っただけの私だから。ここまで登っていよいよ参拝の前に、足を休め、喉を潤し、あるいは腹ごしらえをする必要のある、高い山を登って登ってやっとここまでたどり着かれる、かつての参拝者たちには必要不可欠な御休み処であったことでしょう。
梅干し等のほか、キュウリの塩漬けやら、スイカやらが本当に良心的な値段で売られておりました。気持ちが揺らぐ一瞬です。
でも、車で来た私が参拝の前から休む理由などあるはずもなく。
┉進みます。夫はもとより参拝前に休む気などありません。
f(´・ω・`;)
萬年泉があります。日照りの続く渇水の時など、ここの水を持ち帰ると雨が降ったという霊験あらたかな泉であります。

手水舎が見えてきます。右手には細い細い滝が見えております。心が沸き立つような、踊るような、それでいて身の引き締まる、不思議な感覚です。矢立ての杉と呼ばれる杉のわきを通って、さらに登っていきます。

No.295 19/08/18 08:36
旅人 

石段の途中には【神幸殿】という建物があります。こちらは御神輿を納められているようです。そして、新しそうな【神門】という身の引き締まるような名前の門をくぐって、振り向き様に見上げる先には、大好きな【双龍門】が見えます。岩を山を護る龍の門、です。白木のままの門です。だからこそ、その技の巧みさがわかる、素晴らしい彫りが施されています。双龍の門の辺りでうろうろうろうろしているおはさんを、同じ日に榛名神社さんを参拝に訪れた方の何人かが記憶しているのではないかというくらい魅いられ見いってしばしこちらで過ごしていました。
さらに登ってまもなく、拝殿が真正面に見えてまいります。「四列でお願いいたします」と神社のスタッフさんが声をかけておられます。
正面にある本殿の左側は、建物の実物大の写真の写ったシートの掛けられた国祖社・額殿があります。
昨年8月から始まった補修修理工事は順調に進んでいるとのことで、国祖社は半解体状態・額殿は全解体され、木部の腐朽部分も取り換えられたようです。

四列で並ぶ列に二人並ぶ形で並ぶことができました。
柔らかなきよらかな気が拝殿の扉からあふれるように流れてきます。
うっすらと灯るのは灯明でしょうか。
拝殿の前での参拝を、二頭の紅白の龍が見守っています。
以前にも書かせていただいていますが、素晴らしい彫りが施されている拝殿、本殿であります。
本殿は、岩に直接連なって┉つながっています。その岩の高い、かなり高い位置に、どうやってつけたというのか、白い、神事のなにか(梵天?)が奉られています。これを拝見しただけで、もう、神のお力があってこその作業ではないかと思ってしまいます。榛名神社さんの神さまの人に寄り添ってくださるおやさしい御心とお力を感じます。


No.296 19/08/19 02:43
旅人 

今回、御朱印はお書き置きの御朱印紙のみとの貼り紙がありました。お盆前ではありますが、お盆休みの期間中の対応策のようです。榛名神社さんの御朱印の書き手の方は、それはそれはお美しい書、手をされています。少しだけ残念。お受けした御朱印紙はその方のお書きになられたものが印刷されたものか、それともパソコンソフトによるものなのか、判別がつかないほど、それほどまでに丁寧で整った書なのであります。
御朱印紙をお受けし、下山してまいりました。
御休み処で、今度こそなにか食べようと夫に声をかけると、「いいんじゃない?」┉日本語って、こうして文字で表すとどう考えても肯定なのに。彼が発したのは否定のアクセントのほう!「えっ⁉」
落胆が手に取るようにわかる私の返しに、「俺はいいから食べたければ食べれば?」(*T^T)
夫が手持ちぶさたに立って待つそばで、スイカにかぶり付くことに抵抗をおぼえた私は心で泣きべそをかきながら(おおげさな 笑)手頃な価格のスイカにそっと別れを告げました。
こんなとき素直に食べたければ食べて、あとに引きずらないほうがきっとお互いのためなんでしょうね。私は意地っ張りなのかな。気にしすぎ、なのかな。

そんな雑念をまだ境内、どころか神域にありながら抱く私はまだまだ未熟者。相も変わらぬ珍道中、榛名神社編、となってしまうのでありました。


     令和元年八月十一日   参拝

No.297 19/08/19 04:30
旅人 

榛名神社さんに向かう途中、群馬県高崎市箕郷町というところを車で走っていると【松之沢百観音入口】という小さな看板が目に入りました。!(*´・∀・)゚+.

みさと芝桜公園という大きな看板を通りすぎ、しばらく走行した、左側にややもすると見落としそうな小さな看板です。┉えっ⁉畑ですけど?(・・;)奥の方に車の一台停まっているのが見えます。その車は私たちの車とすれ違うように走り去りました。軽トラック。
木が生い茂り水の流れる音が聞こえます。うーん、百観音さまがおられそう。
┉百観音さま、おられません(・・;)
たしかに看板の案内通りに細い道を入ったのに┉。来た道を戻りながら、Google先生に教えを乞うと、細い道を入ってまもなく、ヘヤピンのように曲がった細い坂道を進んで行くようです。ええっ?ほんとに?何軒かの民家の私道ではないかとしか思えない道を進んでいくと、小高い丘に出ました。
あっ!ここだ。ここにあった!でも、駐車場どころか駐車スペースもない。道の端に寄せて寄せて┉まぁ、運転しているのは夫なんですけど(^-^;

入口の正面には六地蔵さまが並んでいて、中央には立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)が奉られています。



その奥に!たくさんの観音立像ずらーっと並んでおられる!
うわあ、何体おられるのだろう!?
蝉時雨です。車も通らないので、ただただ、蝉時雨の中、圧倒されるくらいの観音さまが静かに静かに黙想なされておられます。
おやさしいお顔立ちです。それぞれの観音さまがみな、表情もお顔立ちも異なっておられます。一体として同じと思われる観音さまがおられない。
いつ?どなたが、こちらの観音さまを┉?
一体一体が表情もお顔立ちも異なる、だけではなく、どうやら彫られた方も異なるように見受けられます。そんな信仰がこの辺りにあったということなのでしょうか。
お一人お一人のお顔を拝観させていただくと、どれだけの時がかかることでしょう。ですが、しばらく時を忘れて手を合わせ、お顔を拝観させていただいてしまっていました。
とんぼが止まり、小さなカエルがお身体にしがみつき、セミの脱け殻がついておられたり。
観音さまの慈愛に満ちた空間であります。
夏の代表的な風景の中にありながら、しかもこの猛暑、酷暑のなかにありながら、不思議なことに暑さも感じない、穏やかで、涼やかな空間です。 

No.298 19/08/19 04:34
旅人 


ここ、長さ30メートル奥行10メートルの敷地内に、十一面観音さま・千手観音さま・聖観音さま・如意輪観音さま・馬頭観音さまなど、実に合計133体の観音像が並んでおられるのだそうです。
造立の年代ははっきりしないようでありますが、一部に江戸時代後半の安永・寛政・享和の年号が見てとれました。

写し巡礼の目的があったかどうか。最初はそんな目的を持って観音さまの御像を納めた方がおられたかもしれません。ですが、百体を超える観音さまです。年代もお顔立ちや表情も異なる、造り手がそれぞれに異なっておられます。どちらかと言えば、時代をこえて、ここに手を合わせて生活される方々や、巡礼でここを通過された方が、なんとか自分も観音さまの御像をお納めしたいと考えて、それぞれが異なる石工に大きさだけを伝えて、どんな観音さまの御像にしてほしいか自分なりの思いを伝えて造らせ、納めた┉のではないかなぁ? 
なんて、あくまでここは私の推測にすぎないので。


偶然目にして、訪れた百観音さま。
癒され、穏やかな気持ちにしていただくことができました。
すべて御導きくださったのかもしれません。ありがたいことです。 



    令和元年八月十一日  参拝

No.299 19/08/21 22:29
旅人 

群馬県前橋市の県道40号線を走っていると、細い道を入る角に立てられた【矢島七観音】の小さな看板が見えてきます。
この珍道中を始めていなければ、走り去る景色の一コマに過ぎず、きっと目にも止まらなかった看板です。
いつか参拝させていただきたいとそこを通るたびに思っておりました。ネツトで調べると、年に二回の御開帳があるようです。二月十七日と八月十七日がこちらの観音さまの御縁日と定められているようです。そして今年の八月十七日は土曜日!
これはもう、ご縁を結んでくださるというお導きに違いありません。
┉と勝手に決めこんで。


【矢島七観音】さまに参拝させていただきました。 

大きな県道40号線=駒高線からくらべ一気に細い道になります。住宅街?お、少し大きめな食堂があります。んー。
ん?ここ?
ここ?
公民館みたいだけど?あ、お堂がみえます。
┉たくさんの赤い幟がはためいています。

No.300 19/08/21 22:46
旅人 

群馬県前橋市の県道40号線を走っていると目につく、細い道を入る角に立てられた【矢島七観音】の小さな看板があります。
この珍道中を始めていなければ、走り去る景色の一コマとして、目にも止まることすらなく流れ去っていたことでしょう。
いつか参拝させていただきたいと、そこを通るたびに思っておりました。ネットで調べると、年に二回、二月十七日と八月十七日に御開帳があるようです。そして今年の八月十七日は土曜日!
これはご縁を結んでくださるというお導きに違いありません。┉と勝手にきめこんで、行って来ました。【矢島七観音】さまの御縁日。

県道40号線=駒高線とくらべると、細い道を入っていきます。くねくねとした道、住宅街?大きな食堂が見えてきます。
ん?ここは公民館?いやいやたくさんの赤い幟がはためいています。赤い幟に書かれた文字こそが矢島七観音、であります。あ、お堂がみえます。え?駐車場がない?(;´・ω・`)

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