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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣珍道中・改

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旅人
20/03/09 08:54(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。







No.2796560 19/02/13 05:40(スレ作成日時)

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No.51 19/03/24 14:00
旅人 

車中から托鉢のお坊さまをおみかけしました。何年?いや何十年振りでしょう。子供の頃はよく行脚なさる姿をおみかけしましたし、自宅にもおいでになっていた記憶があります。子供の頃は田舎のとはいえ、駅の近くのメインストリートとも言える場所に住んでおりましたし、商店が多く建ち並ぶ土地柄もあったかもしれません。
夫は、といえば「生まれて初めて見た」(失礼)と。夫のほうが市の中心街の、○○市といえば△△通りというくらいの街に住んでおりましたが、少し通りを入ったところに実家があったため、そこまで托鉢のお坊さまが廻らなかったのかもしれません。

若い女性がちょうど置き看板を出しに外に出て来たところ、托鉢のお坊さまが通りかかり、何やらお話をされました。ほとんど話を聞くそぶりすらみせずに、若い女性は店内に。その待ち時間、お坊さまはずっと深々と頭をさげておられました。女性は二度と外にでてくることはなく、お坊さまは合掌してその場を離れられました。
夫ですら、初めて見たというくらい、異形のいでたちであります。不審に思ってしまったかもしれません。お坊さまは足早にまた歩き始めました。菅笠に草鞋をはいた、本格的ないでたちであります。生憎寒の戻りで昨日もそして今日はさらに寒い一日であります。草鞋は冷たかろうし、アスファルトや石畳の道は足が痛かろうと思います。
しかしその足取りは速くて、しっかりされておられました。

修行。
この世を生きること自体が修行かもしれませんが、なかなか修行になってはいない私であります。

No.52 19/03/24 15:35
旅人 

今日、二十四日はお地蔵さまのお縁日。
群馬県桐生市の観音院さんに参拝いたしました。

真言宗豊山派の寺院で、奈良の長谷寺さんを総本山とされているお寺さんであります。その名の通り、御本尊は聖観音菩薩さま。寺号は詳しくは【諏訪山観音院能満寺(すわさん かんのんいん のうまんじ)】であります。あらためて書くにあたり、そうなんだぁと思ったくらいでありますが┉(^^;
ただ一般には「日限地蔵尊」として有名であり、地元桐生市では【お地蔵さま】と言うだけでここをさすくらいに有名なところで、かつて、信心深いお年寄りたちが健在の頃は、遠くから電車を使ってまで毎月24日の縁日には、多くの参拝者が訪れるお寺さんでありました。その勢いはだいぶ衰えたとはいうものの、いまなお観音院さんを中心とした通りひとつが車を通行止めとして、露店商が軒を並べるものであります。ひと昔┉二昔前くらいまでは、その通りいっぱいに露店商が居並び、セルロイドのおままごとのバラ売りなどもあり、わが家の上の子供を連れてそこでおままごとのおままごとの小物を、┉どちらかといえば私が楽しんで買ったものであります。美味しい方のたい焼き屋さんはどこそこ、というくらいに同じ食べ物の屋台があったくらいでありました。
今はその何分の一、なのでしょうか。子供向けの屋台はなくなり、たい焼き屋さんも一軒のみ。十年くらい前は本当に閑散としてしまっておりました。

いま、┉往年の賑わいこそは取り戻せはしないものの(たぶん)その賑わいを取り戻しつつある観音院さん┉いや、日限地蔵さん。
御朱印のブームであります。
どうやら桐生市のお寺さんは御朱印に大変力を入れているところが多いようで、桐生市のお寺さんに休日出向こうものなら、車はいっぱい、人は行列、といったお寺さんまであるくらいで、ここ、観音院さんもそのお寺さんのひとつになったようであります。私どもが最初にこちらで御朱印をお受けした時にはなかった、お地蔵さまのお縁日限定の御朱印を始められておりました。

その御朱印、大変風雅な季節のお花を直に御朱印帳にお描きくださるものであります。一目見て「わあ、綺麗」と声に出てしまったくらいに綺麗な絵をひとつひとつお描きくださっています。
朝九時半くらいに参拝して御朱印をお願いしてすでに七十~九十番台の受け付け番号になるくらいの人気であります。


   ┉続きます。

No.53 19/03/25 00:49
旅人 

観音院さんは、かつてわが家の子供たちの手を引いて、参拝、というよりは屋台目的のお祭り気分で訪れた頃より、境内にいろいろな参拝するゾーンが増えておりました。

まずは立派な仁王門が建ち、その中心には大きな提灯が提げられています。
弘法大師さまの御像が建ち、その石像の周りには四国のお寺さんの砂が埋められているとのことでその周りを廻ることでお遍路ができるというところがあります。
仏舎利ということで、お釈迦様の石像があり、その石像のもとに仏手、仏足の彫られた石盤があって、そこを目指してあえて石の凹凸を残し裸足で歩く参道があるというゾーンがあったり。
回すとお地蔵さまの真言を唱えたのと同じ効果が得られるというものがあり。
水掛け不動尊の石像があり。
大黒天の御堂があり。
禰宜師大明神がまつられ、背中合わせに金精大明神がまつられた御堂があります。
記憶に間違いがなければ、地蔵堂もなかったような気がするのですが、それはもしかしたら、私が子供を連れてお祭り気分で訪れていたせいで、そんな風に記憶しているだけかもしれませんが(^^;


御本堂には【心の間】という、外陣が衝立で仕切られたゾーンがあり、そこでは自分の悩みや願いを、個別に御本尊さまと向き合うことができるようになされております。
まずは塗香で手を清めて、合掌したのち、心のなかで願ったり、紙に書いて納めることもできるようになっています。紙に書くのも一切書式などなくて、記名もしたければする、したくなければ無記名でと自分の思うようにお参りさせていただくことができます。
私がお参りさせていただく間にも何人か心の間にお入りになる方がおられました。

御住職をはじめ、スタッフのかたもいつも穏やかな笑顔で接してくださる、私の好きなお寺さんのひとつであります。

No.54 19/03/25 06:14
旅人 

群馬県桐生市の文昌寺さんを参拝させていただきました。
看板を見るもののなかなか参拝する機会に恵まれなかったお寺さんであります。今回、観音院さんの参拝にこちら方面に出かけた足で、夫が【小雀観音】さんを参拝したいということで、【文昌寺】さんと【小雀観音】さんの参拝をさせていただきました。


文昌寺さんには、伝承のない石塔(?)があり、縄文時代のものだろうということはわかっているものの、当時は寺院、というものの存在がなく、なんのために建てられていたものかわからない、という石塔があるということを、何かの折りに読んだ記憶がありました。
それは鐘楼の隣の陽当たりのよい場所に、古い石仏さまと一緒に奉られていました。先端の尖った、ちょうど大きなサイズの┉2.5Lのペットボトルくらいの太さでしょうか┉高さは1メートルくらいの┉人造のものか、自然にできたとしたら現代人であっても自然の神秘を感じるような石塔でありました。


┉私どもは神社仏閣の参拝を済ませたあと、境内の散策はおのおの単体でまわります。それは取り決めではないものの、フワァっと興味のあるところへさっさと行ってしまう妻と、ゆっくりひとつひとつの建造物やそのいわれなどを視て歩きたい夫が、自然にたどり着いた、スタイルでありまして。私が興味のあるところを回り終えれば夫のもとへ行き、夫のほうが先に視終われば夫が私を探し回る、という┉f(^ー^;


名ガイドの夫が今回語るところ、こちらの文昌寺さん、
「小雀観音のいわれである小雀とよばれる馬がいて、その馬はこの辺りを治めていた細川内膳が京の八条殿より拝領した愛馬だったんだ。当時、桐生を治めていた桐生大炊介が、ある時細川内膳の館を攻め、細川方は敗れ、内膳は自害してしまったんだ。その後、桐生氏がその名馬小雀をもらい受けようとして乗ろうとすると、一歩も歩かずその場で死んでしまったんだって。主君のあとを追うように亡くなった愛馬小雀を、二君にまみえず死を選んだ名馬ということで、崇め、またその死をあわれみ冥福を祈って祀ったのが小雀観音なんだ。
こちらに細川内膳のお墓があるようだよ」

ほぉー。
時々、この辺りを車で走るたびに「この辺りに小雀観音があるわけなんだけど┉」と言っていたのは、そういう伝承があったのか。

   ┉続きます。

No.55 19/03/26 06:14
旅人 

歴史の教科書に出てくるような、有名な方のことすら名前を聞いたことがある┉程度の薄い知識、薄識?しかないような私は、当然のように、桐生氏さんも細川氏さんも存じ上げないので、「へー」と思うだけなのでありますが、私にすれば超歴史オタクの夫は満足そうでありました。
地元でもないところの、地方の歴史すらも、その当時の日本の歴史と絡めて記憶している人間は、どんなところへ行っても楽しいのだろうな。
知らないことばかりのところへ行けば、新たな知識として今までのものと繋ぎあわせて。知識として知っていた現地に行けば、いにしえのかつてあった歴史を偲んで。
同じくらいの年数生きてきて、私、無駄に過ごしてた時間が多かったのかな?(._.)
覆水盆に帰らず。


閑話休題。


文昌寺さんは、お地蔵さまがそれはそれはたくさんおられるお寺さんでありました。
〖子育て地蔵〗と道案内の看板に掲げられてはおりましたが、地蔵堂があり、そこにお祀りされたいろいろな時代のお地蔵さまが何体かおられて。┉そこには絵本やらお菓子やらが、まるで子供グッズのお店の平台のように綺麗に並べてお供えされておりました。その地蔵堂の前にもいく体かのお地蔵さまがおられ、参道の両サイドにもお地蔵さまが花道を作られておられるように並んでお立ちになっています。仁王さまのおられる入り口のすぐ脇にも、古くからの六地蔵さまが優しい笑みを浮かべておられます。

そして、見たことのない石塔があったり(鳥が二羽と猿かと思われるものが2匹彫られた古いもの)、〖薬師の水〗、という、整備されているわけでもない小さな池があり、境内からは見えないほど雑木林を分け行ったところにあるという百庚申塔やら、いわれをうかがうことができたら、御由緒をうかがうことができたらいいなと思ったお寺さんでありました。
お彼岸の日曜日でありましたので、御朱印をお受けできただけでもありがたいことで、再拝させていただけたらいいなと思ったお寺さんでありました。
ただ┉お寺さんに向かう道はナビを使えばなんとかなるとしても、入り口が狭くて、対向車が来たらアウト!といった難問題を、私が攻略できるかどうか┉(。-ω-)


陽当たりのよい、居心地のよい境内のお寺さんでありました。



    平成三十一年三月二十四日  参拝



           

No.57 19/03/26 11:37
旅人 

小雀観音さんは、文昌寺さんから少し車を走らせて、細い細い住宅街用だけの道路を入り、駐在所と郵便局を通り越し┉てしまうともう車が停められないので、お休みなのをいいことに郵便局に車を置かせていただいて、車では入れない細い道、参道のむこう、小さな御堂がありました。
御堂の前には自然石に馬頭観音と彫られただけの石碑が二体。
なぜか、馬頭観音の石碑に人参が一本お供えされておりました。
┉馬頭観音さまは、小雀観音とはちがうんだけど┉、という言葉は飲み込んで、お参りさせていただきました。
主君細川内膳さんのお墓は御堂もなく、小雀は自分の御堂に居心地悪かったりしていないかな。┉いやいや細川内膳さんのお墓は、陽当たりのいい場所に安置されておりましたし、そんなことを気にするようなお人柄ではなかったような名君であったようでございます。
きっとあの世では内膳さんを背にのせて、雲の上を誇らしげに駆っているのでありましょう。そして、自分をただ一人の主君として勤めあげた名馬小雀を、内膳さんも誇らしく思いながら、雲の上の野を駈けておられることでしょう。

No.58 19/03/31 20:15
旅人 

栃木県鹿沼市の医王寺さんの仏像見学会に参加してまいりました。
元々、行きたいとかねてから思っておりましたお寺さんで、時々医王寺さんのホームページをチェックしており、偶然この見学会のご案内を拝見いたしました。募集が始まって六日が経過しております。
無理かなぁ、と思う私と、
「えぇ?、全然大丈夫じゃない?」と言う夫。
┉1日限定で、午前の部、午後の部、共に先着三十名の募集です。
まあ、なんにせよ申しこまなければ絶対に当選しません。

早速ネットで申し込み、その日のうちに返信いただきました。
そして何日かしてすでに午前の申し込みはいっぱいとのことであります。なんとか午後の部に滑り込むことができました。

仏像展といえば、昨年東京都の上野で開催された【運慶展】が
初めて🔰で、それが最後になります。

どんな仏さまにお会いことでしょう。




No.59 19/03/31 21:28
旅人 

栃木県鹿沼市の医王寺さんは初めての参拝でもあります。

ドキドキで医王寺さんに向かったその日は、花冷えといわれる、寒い寒い日となりました。
到着するとなんと!駐車場が満杯です!
どうしよう⁉困った車が三台、「この区画も大丈夫ですかね」とアイコンタクト。
まあ、臨時駐車場の車の置き方自体がそもそもあまり決まりがなくて、まあ、事故なく置きさえすればどうでもよかったようでした。

石段をのぼっていくと仁王門があり、こちらは比較的新しい御門であります。仁王さまは御門に比して古い時代のもののように思われます。まあ、今日は参拝ではありますが、参拝後仏像見学会ということで、解説をいただけるのかも知れません。

初めてのお寺さんではありますが、見学会ということで境内には案内の立て看板が出ております。一目散に唐門の奥にある御堂に向かうことができました。入り口で受付をしながら、絶句!
┉御朱印帳、忘れた! !Σ( ̄□ ̄;)
何人かの先に御堂に入られた方々の御朱印帳が山に積まれておりました。どこか、参拝させていただく、という感覚が薄れていたのかなぁ。


御堂にはびっしりと人が座られています。まあ、駐車場が満杯になっていたくらいです、さもありなん。
 ! 内陣の境にある欄間の龍の見事なこと。
欄間の彫刻、龍の手が欄間の枠からはずれるように下に軽く下げて彫られています。そのおかげで奥行がでて、なおかつ迫力がでております。もう、龍に釘付けの私の意識。
髭が立体的に欄間から浮き出すように作られているものは数多くありますが┉とは言っても、その繊細さゆえ髭が取れてしまって、しかも紛失してしまっていることが多いのですが、手、であります。
いいなぁ。

そんなことを考えていると、副住職さまのお話が始まりました。
どうやら、見学会、武蔵野美術大学の先生が解説してくださるようであります。




No.60 19/04/01 17:28
旅人 

医王寺さんは、聖徳太子が自ら薬師如来を造立して伽藍を整えられた、というお話が縁起として残されているとのことであります。
さらには日光開山の勝道上人が夢告にしたがい、山中より薬師如来を発見し御堂を建立して尊像を安置したとも伝えられているようです。
また、弘法大師空海が東国を巡礼した際に、ご自身の御影像や不動明王などを納めて道場とし、高野山の開創によって当地を「東高野山」と呼ぶようになったと伝えられているということであります。


しかしながら、ちょっとびっくりしたことに、解説を務められた大学の講師の方は、いとも簡単にそのへんはバッサリと否定しておりました。仏教界における三大スターをあげたい気持ちはわかるけれども、と。

といったぐあいで、医王寺の創建については必ずしも明らかではないようですが、講堂の〖秘仏本尊薬師如来坐像〗が、平安時代後期の作と推定されることから、遅くともこの頃までには寺院としての体裁を整えていたものと考えられるということであります。
鎌倉時代には、金堂の〖本尊薬師三尊像〗を始めとして、数多くの仏像が造立され、そのころに大がかりな造営事業が進められたようだというお話でありました。中世以降、地方における仏教修学の道場としての機能を有していたようで、江戸時代には幕府から朱印地として寺領五十石を下賜されたようでありました。

1624~1644年頃に焼失したとされる多くの堂宇も、当時の住職等の尽力により次々再建されて、現在の伽藍が完成したと考えられているとのことでありました。


さらには近代に入り、明治35年(1902)の足尾台風により仁王門・金剛力士像が倒壊する被害があったとのことで、倒壊した門の下敷きとなって金剛力士はバラバラになってしまい、阿形の金剛力士はお顔を失われてしまうほどであったようです。その後、再建に至る昭和50年代まで、御堂の中に箱詰めにされてしまわれていたのだそうです。
それで、はじめに通らせていただいた仁王門は新しいものであったのだなぁ。平成四年に完成したものだということであり、その際失われたお顔も再建されたとのことであります。お顔にさほどの違和感がないのは、現代人の技術、なのでありました。

No.61 19/04/01 19:35
旅人 

解説にあたられた先生の仏像愛の深いことといったら┉
まあ、それはそうですよね、それを学ぶべく大学にいき、それを教えとくことを生業とするくらいに大好きなことなのですから。

そして┉こういった仏像見学会などで出会う方のなか、仏像や仏教に詳しく、それこそなにも見ずに仏さまのお役目であるとか、仏像の造りであったり作者についてだったり、スラスラと語りながら見学されている方のなんと多いことか。
今回隣に座られた方もお若い方ですが、仏像がたいそうお好きなようで、奈良や京都などあちこち仏像にあいに出向いておられるようなお話を、お仲間に熱く語っておられます。
そして会が始まって、ご住職が般若心経をお唱えになられると、自らの経本をリュックから取りだし唱和されていらっしゃいました。

はあぁ、場違いなんじゃないかな、私。   

解説をききながら、しばし反省した次第であります。
また解説を聞くにあたっても、
メモを取るのにえんぴつやシャーペンを使って記入するものだとか、
小さな単眼鏡を持っているとよいとか、 
いろいろ学ぶことができました。


No.62 19/04/01 22:15
旅人 

今回は参拝、であり、仏像見学会。
大好きな御仏像を像として拝観してもさほど罪悪感を覚えずにいてもいいのであります。
なんともそれがありがたい。
仏教は決して偶像崇拝ではなく、あくまでも私のような仏さまのお教えを必要としながらも、なかなかお教えが伝えにくいような人間のために、お姿が造られているだけ、ではありますが、そうは言ってもやはり〖仏さま〗であらせられ、そのお姿が好きだとか、お美しいとか、細かな細工が素晴らしいとか申し上げるのはなんとも気がひけるものであります。まあ、そうは言っても、いつも結局そう言ってしまっているのではありますが┉

医王寺さんの薬師三尊像の素晴らしいこと!
薬師如来さまはお顔がすっきりとされた、美男子さまであられます。なんとも見るものに安心感をあたえてくださる、お顔であられます。そして月光菩薩さま!薬師如来さまを見守るような視線をお身体を軽く薬師如来さまにむけてお立ちになられておられます。美智子妃殿下が陛下のお側に立たれておられる姿に似ている、如来さまにそっと寄り添うような立ち姿であります。
日光菩薩さまは薬師如来さまの方に微かにお顔を向けておられるような、ほぼ前をお向きになられているような立ち姿で優しい微笑みを浮かべていらっしゃいます。如来さまが何かおっしゃれば、すぐに動けるような構えにも思われます。まるで左右の立ち姿が異なる、日光月光菩薩さまでありました。
薬師如来さまの光背におられる小さな仏さまにもその表情がわかるくらいにまで細かな彫りがほどこされた見事な御仏像であられました。

そして、そのとなりには左右六柱づつ十二神将がお立ちになっております。その表情の豊かなことといったら。聞けば、少し前まで極彩色に塗られており、もとのお姿に戻されたとのことで、以前の極彩色に彩られていたころよりかえって表情が豊かになられたように感じました。お手が失われたりされお痛わしいところもございましたが、細かなところまで細工のほどこされた素晴らしい御像でありました。

No.63 19/04/02 04:53
旅人 

普段は閉ざされた金堂の中、須弥壇のすぐそばまで寄らせていただくことができました。ため息が出るほどにお美しい薬師如来三尊像と、十二神将像であります。

そんな金堂を後ろ髪をひかれる思いで後にして、向かったのは大師堂であります。そちらに安置された弘法大師像に、私は目が釘付けとなりました。まるでマネキン┉というより蝋人形のようにリアルな感じなのであります。色彩もさながら、手の指の折られたときの皺一つ一つにいたるまで、リアルな感じであります。
薄暗い御堂の中に超リアルな男性像。┉なんだか怖いようなイメージでしょうか。いえいえ、決してそんなことなく、凛とした、眼光鋭い御像でありますが、なんとも親しみやすくともすればお優しい表情の、イケメン、といった感じであります。
そして、そんな超リアルな、と私が感じている御像でありますのに、講師の方によると五鈷杵を持つ手が不自然なのだそう。ありえない方向にまでねじられて五鈷杵を持っていると。そう言われてもそう感じない私は、とうてい美術の才がないのだなとあらためて認識いたした次第であります。右手の御数珠は本物が握られており、五鈷杵は本物?┉(;゜゜)?そのくらいリアルな御像でありました。先生いわく、江戸くらいの造りかと思っているとのことでありました。
こちらはこの見学会のために特別に開放していただいたようであります。

そのとなりには地蔵堂もあるのですが、なぜかこちらは素通りで講堂と呼ばれるいわゆる御本堂にもどるようであります。
やはりお優しいお美しいお地蔵さまの御像が安置されておりますのに┉。あとあと調べたら、こちらは他所にあった御堂を移築されたもののようでありました。お地蔵さまの御堂にありがちな犬の像┉ビクター犬とかも一緒に飾られておりました。『絵で見る地獄と極楽』というしっかりとした作りの本が一冊五百円ということで御堂の賽銭箱のところに置いてあり、一冊購入してまいりました。

No.64 19/04/02 05:13
旅人 

┉講堂に戻って、最後のご挨拶かな?

そう、講堂では先ほどすでに内陣前でお焼香をさせていただいております。
まあ、私の場合は(半紙に)御朱印をご用意いただきますことになっておりますので、いずれにしても講堂に戻る必要があり、お美しい仏像を間近で拝観することができてご機嫌な私は足取りも軽く┉夫を置き去りにして┉講堂に戻りました。
席に着席する前に少し屏風等を観させていただこうと、一旦着席しかけてまた立ち上がったその瞬間、内陣の横の間の、私が立つ少し前の襖が開け放たれました。

 !  

その時の私はまさに「ビックリマーク、絶句!」といった感じでした。
そこにはこれでもかといったくらいに見事な御仏像がところ狭しと収められておりました。何故?
まさかこの見学会のためにここに集結させたわけでもあるまいに。まさに展示、といった感じに安置されておりました。
「どうぞ、お入りになってごらんください」
┉吸い込まれるように、ふらふらとそちらの間にはいる私。


うわぁぁ。



No.65 19/04/02 20:35
旅人 

はいって真正面に、大きな御厨子の中に、大きな、
穏やかでお優しいお顔立ちの、お美しい【弥勒菩薩さま】が安置されておられます。はあぁ┉。
御本尊でこそない仏さまでありますが、これだけの大きさ、この繊細で丁寧な造りは、御堂があったに違いありません。この弥勒菩薩さまは鎌倉時代の作であるとのことで、金堂におわします薬師三尊像と同時代の作であるようであります。手で触れることなどはとうていできはしませんが、撫でたらどれだけすべすべで滑らかであることでしょう。
十二神将像も、そしてこのお部屋に安置されておられる仏像┉
不動明王の脇士(わきじ)として矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制吒迦童子(せいたかどうじ)が祀られておられますがこちらも鎌倉時代の作であるようです。ほかにも聖徳太子や、狛犬、獅子の御像が安置されておりました。

もうため息しかでない。

【弥勒菩薩さま】の右てにやはり大きな┉ちょうど人と同じくらいの大きさの立像、【十一面観音菩薩さま】がすっとお立ちになられています。
こちらもこれだけの大きさの立像、ひとつの御堂があって然るべき仏さまであるかと思うのであります。そんな仏さまが、あまりに無造作に、ぽんぽん並べて置かれているのであります。

十一面観音さまは十世紀の作と伝えられているようで、医王寺さんの秘仏本尊であります薬師如来像(十一世紀)よりも古い仏像で、こちらで一番古い御像と伝えられているとのこと。
さらに平安の作とされている仏像が、不動明王二体と、
おそらく普賢菩薩さまがお立ちになっていた【象像】が安置されております。

凄い数の、御仏像です。
しかも保存状態がかなりよいかと思います。無造作な保存をしていた時代もあったようで、何より火災にあってこの状態!
前に述べたレスがあるかと思いますが、光背部分も本当に繊細であり、よくぞ火の粉を浴びながらこれだけの数の仏像を安全なところに運び出したものであります。
本当に本当に、ありがたいことであります。
重いでしょうし大きさも大きくて、それをお助けどこかにぶつけることもなく!

その先人のお陰で、こうして今日私が胸をときめかせる仏さまたちにお会いできたのでありました。


   平成三十一年三月三十日   参拝

No.66 19/04/03 06:33
旅人 

悲しいニュースを目にしました。

私はそちらにうかがったことはないのですが、夫とふたりで「いつか、暖かなころに必ず行こうね」と言っているところであります、白虎隊のお墓。そちらに御朱印があることも知らず、ただお参りしたいと思っていたのでありますが、全国的に勃発している、御朱印騒動のまさに氷山の一角であるかと思います。
自分は御朱印ブームに乗って御朱印をいただいているわけではない、と思っているのではありますが、そうは申しても納経してお受けした御朱印は数えるくらいで、ややもするとミーハー的な時があることも否定しきれない。群馬県桐生市の観音院さんの日限地蔵さまの縁日限定の御朱印を何度かお受けしたりしていることをミーハーな行動と言われれば否定できないと思っていたので。
ただ、そうは申しても必ず御本堂で御本尊さまと地蔵堂でお地蔵さまにお参りしてから、御朱印の申込みをしております。それだけは必ず自分なりに律しております。
こちらは以前述べたように、九時半で七~九十番代の受付番号となり、四~五時間待ち!ということもあり、お参り前にまず御朱印受付に並ぶ方が多いのですが、その待ち時間にお参りしていらっしゃいますし、なによりも文句をおっしゃる方をみかけたことはないのですが┉。
これだけの数の御朱印をお書きになられたらしんどいだろうな、と思いますし。本来、お昼の時間帯は避けるという決まり事も守られているのかどうか。
基本、お寺は庫裏=御住職の御自宅ですので、ご家族もおられますし、当然一般的な社会生活をそこを基点としておくられています。「お寺に生まれたから」「お寺に嫁いだから」と、当たり前に考えて受けとめられていらっしゃることも多々あるかとは思いますが、生活している自分の敷地に誰ともわからない方が突然前触れもなく侵入してきている、と考えれば一般的な考えでいけばこれはこれで本当にスゴいことであります。
お寺さん、お寺さんでルールを作られているところはよいのです。
正午から一時間はお休み、とか、何時までで門を閉める、とか。あるいは御朱印のためにスタッフがおられて、番号札を用意されているとか、「書き置きの御朱印のみ」とか、御朱印帳を預かっていついつまでに書いておくので取りに来てくださいとか、┉普通に宅配を受け付けているシステムすらあるお寺さんもあるくらいです。

   ┉続きます。

No.67 19/04/03 13:59
旅人 

こちらは白虎隊の墓守りをされている方がご厚意で始めてくださった御朱印であるようです。対応も書き手もすべてをお一人でなさっておられます。

「ただ判を押すだけでは申しわけないような気がして」とおっしゃっておられました。「わざわざ参拝に来られた方々に礼を尽くしたいのでお一人お一人と対話をし、一筆一筆丁寧に書きたいので、時間がかかります」と貼り紙もして、そのスタイルをとっておられたところ、「遅い!」「しゃべってないでさっさと書け!」等を直接言われてしまうことが増え、そのストレスで御朱印自体をお休みしたいと思われたとのことです。どこの神社仏閣でも、一人あたり五分程度は当たり前にかかります。参拝させていただいて御朱印もお受けした数もそれなりにはあるかと思うのですが、いまだかつてそんな暴言を口にする方に出会ったことがないです。
穏やかにその場におられる方と会話を楽しまれたり、御朱印帳を預けてその土地の名物を食して来られたり。
鎌倉などではさすがにそれこそ長い列はできてはおりましたが、外国からの方々や小学生もその列を崩すことなく、不満を口にする方は一人もおられませんでした。

観光の一環で訪れて、たまたま御朱印をお書きになってくださっているのを知り、たまたま御朱印帳をお手持ちになっていて、次の観光地に行きたい思いでもあったのでしょうか。

この女性は、ならばとお書き置きの御朱印で対応なさったところ、ネットで高値で取引されていることを知り、お書き置きを止めたという経緯もあったようです。
たしかにネット上で高値での御朱印の取引があることを、親しくお話くださる御住職からうかがったことがあります。
もはや言葉が悪いけれど御朱印スタンプラリー、ということですらないです。

神社仏閣巡りの初心者がいろいろおこがましく語って申しわけありませんが、その墓守りの女性のお手は、たいそうお心のこもった素晴らしいものでありました。
どうかいま一度、御朱印をお受けになられている方のごく一部の方、心こめた御朱印はもうそこに〖縁〗というものがうまれております。時間がなくてお受けできないのもその時のご縁です。
例えば煽り運転をして、結果人一人の心を深く傷つけたこととなんら変わりがない行動であるかと、私は思います。

No.68 19/04/03 15:51
旅人 

ちなみに、「飯盛山には栄螺堂があるんだよ。いまはお寺ではなくなっているようだけど」 大学生のときにかの地を訪れた夫。
すばらしいところだよとかねてから語っておりました。



この墓守を代々受け継がれておられる女性は、すでに五代目ということで、【飯盛山参道】の記念に御朱印をお書きくださっておられます。
【飯盛分店での白虎隊御朱印の始まり】は、当時の藩主松平容保に頼まれた当時の白虎隊墓守が書いたのに始まり、白虎隊御朱印では一番古く、唯一、容保公の一言で始まったものであるとのことであります。
お店ではありますが、元々が茶屋を営まれていた女性が墓守を始め、徳川将軍家とも深く関わっておられた藩主松平容保に頼まれ始まった歴史ある由緒ある御朱印であります。
また、この御朱印も白虎隊墓守以外の方が記入はなさらないというこだわりもあるもの、お店が御朱印ブームにあやかって始めたものでもありません。
そして、代々収益は全額養護施設や福祉、震災等へ寄付しておられるということであります。

一部の心無い御朱印を求め、暴言を吐かれた方、┉どうやら何年も前からそういった方がおられたと、今回の件に関わることなくかつてネット上で嘆かれていた方もおられました┉あなたの暴言が、こんなに歴史ある御朱印を、心こもった素晴らしいお手の御朱印を、一時的とはいえ途絶えさせたのですよ。


一日でも早くこの貼り紙が取り外され、何よりもこのような暴言を口にする方がなくなりますように(。-人-。)

No.69 19/04/03 22:17
旅人 

二月に、夫によるミステリーツアーで行った、群馬県甘楽郡の小幡の桜まつりに行ってまいりました。とはいえ、ここのところずっと戻りっぱなしの寒の戻りで、桜は二~三分咲き。しかも本来なら三月ではなく四月に行われているこのお祭り、今年は選挙のため一週間早めざるをえなかったということであったようでありました。

織田信長の孫である織田信良公が治め、その後も松平家が明治を迎えるまで治めた小幡の地をいつまでも伝承し周囲にも知らしめるために、武者行列が行われているとのこと、先日参拝の際に寶積寺さんにポスターが貼ってありました。
寶積寺さんの垂れ桜の花はまだまだ早い頃ではあろうかとは思ったのですが、小幡八幡宮の天井画も見事なようで、武者行列の祈願式が終えたあと、天井画が公開されるという┉これは行くしかないでしょう。
現地では駐車場がなく、四キロほど離れた駐車場からシャトルバスが出るとのことであります。
私たちの前で定員数となりバスが発車となりました。
ところが待てどくらせどバスが来ない!三十分以上経ってようやくバスがきたものの、武者行列はとうの昔に出発してしまっている!
走って追うしかありません。


走って走って、それでも武者行列の歩いた形跡すらありません。

涙。

No.70 19/04/04 22:16
旅人 

┉そして結局、シャトルバスが発着駅に到着すらしていなかった頃、号砲の音を合図にスタートしたという武者行列に追いつけるはずもなく、武者行列は休憩地点で休んでいました。泣
シャトルバスの発着地点で、係りの人が「直接会場近くの駐車場に行けばまだ空いてたから、間に合ったのにねぇ」┉はぁ⁉
ネットの案内では会場近くの駐車場はなないということで、こんなに離れたシャトルバスの発着地点しか案内がなかったんですけど。せめて、係りの人はそれを口にしないで欲しかった。

┉復路がある。

すっかり仮装したお祭りムードの人達に戻っている武者行列の方々を、八幡宮の参道でみることとなり、寒さと花曇りの天気も手伝って私はすっかり異邦人、お祭りに参加しきれないでおりました。
それでも気をとりなおして、写真など撮っていると私がたまたまカメラを向けたところにおられた方が優しく笑って写真を撮らせてくださいました。お礼を言っている途中でなにやらその人めがけて何人かの人が集まってきて「わあ、会えた!うれしい」 ┉⁉
地元で人気のある方なのかなぁ┉。
あ!ゲストのお笑いタレントさんだった。私、結構ついてるんじゃないかしら。

No.71 19/04/04 23:53
旅人 

閑話休題

武将に扮した方たちは祈願をするため、八幡宮の拝殿にむかい石段をのぼって行くのが見えます。拝殿を見上げると、慣れた一般の方たちはすでに境内で待機しているのが見えました。行かなくては!
私は石段を一気に駆け上がりました。
境内には神職の方と武将の方の席が設けられていました。祝詞をあげていただき、お祓いを受けて、祈願をし。榊を捧げて、御神酒をいただき祈願式はつつがなく終了。武将たちは再び行列の中央におさまって目的地に向けて出発していきました。

私はといえば┉ 行列を見送ることもなく御朱印所にむかい、御朱印をお受けして、再び拝殿に。八幡宮の天井画を拝見させていただきに拝殿に参上させていただきました。
素晴らしい天井画です。迫力ある龍が描かれその周りには花鳥風月、そして歌人の絵も描かれています。


そこで┉写真撮影が許されているのをいいことに、あろうことか拝殿に寝ころんで写真を撮る女性がおりました!
拝殿の中、中央です。拝殿のしたで鈴を鳴らして拝んでおられる方もいるというのに。しかもスカート!!三十代後半から四十代後半くらいの体格のいい女性が、拝殿のど真ん中、大の字に寝ころぶ図、って┉
あり得ない!┉インスタにでもアップするのでしょうか。
人として、同性としてもたいそう恥ずかしくて情けなくて。


今回の珍道中は、毒を吐いてばかりの私であります。
申し訳ありません。
そんな私自身、未熟で恥ずかしい。

No.72 19/04/05 07:56
旅人 


小幡八幡宮の天井画はこんなにも迫力あるものでありました。
甘楽町指定重要文化財となっております。群馬県指定にはダメですか私は凄いと思いましたし、ひとめで好きになりました。これからもより良い状態で後世に残していっていただきたいと、強くおもうのであります。

No.73 19/04/07 01:32
旅人 

夫と結婚して何年経つのだろう┉覚えてもいないところがなんともがさつな女でありますが、親と暮らしたのが18年間、夫とは30年は越えています。親よりも長く一緒に暮らしていることになりましたが、いまだになかなか『阿吽の呼吸』とはまいりません。軽い冗談に結構なお怒りをかったり、こんなことを私が教えねばならないのかとかむかっ腹をたてたりと、未熟者の似た者夫婦、なのかもしれません。
私がいい歳をして神社仏閣に詣でることが初心者なのはそういった家庭に育ったから他ならないのでありますが、知らなかったことが多くて、かえって新鮮な思いで参拝することができます。

左右二体でおられる狛犬や獅子、金剛力士像のほか、随臣像もみな、【阿吽】の形相をされていることを、実につい最近知りました。そういえば沖縄のシーサーも阿吽の二対の像であります。


信心深いお年寄りがいつものような自然体で、お寺さんや神社にお参りされている姿を見かけると、いつかはああなりたいものだと思うのでありますが、いまだに興味深そうに随臣門を覗きこんだりしている私はまだまだ到底先、なようであります。
お地蔵さまにお供えされた飴などを、ごそっと持っていかれるお年寄りもおられるのですが、あれはお供物をいただいている正式なお参りのひとつの形なのか、よくないお参りなのか、聞くに聞けないでおりまして、未熟者の神社仏閣珍道中は当分珍道中のままのようであります。


No.74 19/04/07 02:25
旅人 

先日、群馬県前橋市の【産泰神社】さんに一人お参りして参りました。産泰道路と呼ばれる道路があるくらいの有名な神社さんでありますが、三年ほど前に夫に連れていってもらうまでは、お名前もうかがったことがなかったほどの神社仏閣超初心者であります。
夫は以前から知っていた様子でありましたが、こちらは安産の祈願をする神社さん、知っていたなら私が妊娠中に一体くらい御守りを授与してきてくれてもいいものを。入退院を繰り返していた初めての子の時すら御守りの一体すらいただくことなく。
時々、安産の御守りを授与していただいている若い男の方をみるといまだに羨ましく思う未熟な精神の持ち主であります。

平日でありましたが、ちらほらと子供連れの参拝の方がおみえになっており、御祈祷をお受けになっている方もおられました。
こちらの主祭神はコノハナサキヤヒメさまであられ、優しい気の満ちたあたたかな雰囲気の神社さんであります。
拝殿の鈴もしゃらしゃらと優しい音のするたくさんの鈴を束ねたものであります。
本殿の右斜め後方には安産祈願の胎内くぐりの岩があり、拝殿脇には抜けびしゃくというやはり安産の祈願をするところがあります。
安産の祈願にご利益のある神社さん。女性の守り神さまでもあらせられ、女守りという御守りを一体お授けいただきました。
綺麗な桃色の御守りなのでありますが、「二十歳まで」「二十歳から四十九歳まで」「五十歳以上」という、年齢によって異なる御守りであり、見る人が見れば年齢がわかってしまうこの御守り、アラフィフのような微妙な年頃の方には、ちょっと持つのにためらいが生まれそうな御守りであります。


  平成三十一年四月一日  令和の元号発表の日に

No.75 19/04/08 04:36
旅人 

今年の一月に初めての参拝をさせていただいた、栃木県足利市の【浄因寺】さんに再拝してまいりました。

四月八日の灌仏会(かんぶつえ、降誕会ともいう)の前にあたる日曜日に、そちらに境内から見上げる位置、巨石の上に少し岩からはみ出すように建てられたお茶室があるのですが、お釈迦様の誕生を祝ってお茶を点てると書いてあり、必ずやその日に再拝をしようと誓ったものですから。それが今年は今日。
ただ、その浄因寺さん、細い細い、車一台がやっとの山道を登っていく、かつて関東の高野山といわれたお寺さんで、私のような運転技術の者では到底参拝できるところではありません。
どなたかに連れていってもらわなければ、片道四時間(!)の道のりをひたすら歩いてようやくたどり着く、といったたいへんな参拝となります。
頼りの夫はちょうど一カ月前に風邪から肺炎を患い、ようやく治ったところで、行けるかどうか、たいへん危ぶまれることでありました。
山道の運転をお願いすることぐらいは容易いところまでに回復したと
はいえ、その後の歩く山道も足元の悪い急傾斜すらある、しかも広い広い境内です。
大丈夫、と言ってくれたので、ありがたくその言葉に甘え再拝にたどり着いたといった、ようやくの実現、だったのであります。



その茶室『清心亭』は、その横にある細い太鼓橋を渡って行くのですが、その景観を葛飾北斎が描いたという『足利行道山雲のかけ橋』と題する画が存在するくらい、ここ浄因寺さんは人々に崇拝され愛されたお寺さんでありました。

いま┉。
私のようないい歳をして神社仏閣の初心者すらが存在する時代、こちら、浄因寺さんはだいぶ衰退をしてしまっております。嘆かわしいことではありますが、御住職が亡くなられて無住の、檀家を持たないお寺さんとあれば、それは悲しいけれど仕方のないこと、なのかもしれません。こちらを兼務される僧はおられるようですが、ご自身のお寺さんの法要があり、法会があり、実際にはこちらのお寺さんを守っておられるのは地元の保護会の方々のような状況であります。



   ┉続きます。

No.76 19/04/09 11:03
旅人 

一説によるならば、浄因寺さんまで駐車場から二キロ。

んなに距離があるかどうか┉なにせ山道を人が登れるだけに加工した細い石段を登っていくものなので、体感的にはさほどに距離があったようには思えませんでした。石仏に癒されながら登っていくので、距離を感じないのかもしれません。一月にはなかった、春の顔をした山道でありました。
二つ山門をくぐり鐘楼が見えてきました。清心亭での景色はどんなでしょう❤



┉戸が締まったままであります。人も数えるほどしかおられません。?気持ちを落ち着けて、落ち着けて。とにかく御本堂にお参りです。ひなたになき住職の形見の四匹の猫が寝ころんでいます。┉まずはお参り!
御本堂も閉ざされたまま、人の気配はありません。ガラス越しに御住職が使われていたままに経本がおかれ座布団が敷かれているのがみえます。遺された猫たちの気持ちと遺した御住職の気持ち、そこには諸行無常の寂しさ、儚さを含んだ空気がとどまっているように感じます。
お参りをすませしばし猫と戯れ、ふと御本堂の脇の入り口付近に貼り紙がしてあるのが見えました。花まつりの行事は今年は中止です。
えっ?┉
たしかに御本堂へのお参りあっての参拝です。それがあってはじめて花まつりの行事はある、かとはおもいます。ですが駐車場にもこの貼り紙、あってもよかったのでは?

修行、でしょうかね。(;´・ω・`)

仕方ありません。

もうひとつ、今日の目標があります。前回あまりにも軽装で来てしまい諦めたさらなる上にある寝釈迦さまの石像のお参りです。今回はパンツスタイルで山道用の杖を持ち、しっかりとした靴を履き岩道を登る支度で来ております。

さぁ、いざ登らん‼



   ┉続きます。





No.77 19/04/09 15:15
旅人 

浄因寺さんの御本堂の横には庫裏があり、そこで猫たちは雨風をしのぎ、ご近所の方がここまでの道のりをひたすら歩いて届けてくれたエサを食べているようです。
さらにその脇に上へと向かう階段があり、そこを登っていくと、境内を一望するところに御堂があります。熊野清心堂。その脇に山に分けいって行く大きな大きな大岩の間をすり抜けるような階段が設けられています。
人一人が通り抜けるだけの階段で、しかもその幅も段差も傾斜もバラバラ。そこに濡れ落ち葉が敷き詰められていた一月、ここから上を断念いたしました。前述した通り、今回は山道を歩く支度で訪れておりますのでここから┉書いてある通りであるならば┉六百メートル、登っていきます。
さっきの階段にケチをつけていた自分を恥じるくらいの、なんとか登りやすいようにと作られた階段とは名ばかりの道を登っていきます。もちろん、ぶーたらぶーたら言いながら┉。修行には一切なっておりません。
お、あっという間に広いところに出ました。
なんだぁ(*´・∀・)

ん?┉違うな、ここは。歴代住職のお墓、でありましょうか。
その向こうに赤い御堂が見えます。「ここはあかずの御堂と呼ばれる開山した僧が入定したところのようだよ」あ、運転手にして無料ガイドの夫が、今日はじめての解説であります。なにやらいろいろ話してくれておりますが、なかなかハードな山道で(もちろん、私たち二人に、ではありますが┉)これから先どのくらい登ればいいものか、そればかりが気になっている私はふんふんと聞き流して、再び先へと続く階段を登りはじめるのでありました。

おぉ、看板です。あともう少し!
山の中腹かな。
展望台があるようです。えっ?ええ
ここを?

ここを登らないと寝釈迦さまを拝することができない?

道は┉あると言えばあり、ないと言えば、ない。
もう杖は捨て置きよじ登ります。

No.78 19/04/09 16:33
旅人 

┉ご想像通り、ブツブツと文句を言いながら、ほんのわずか岩をよじ登ると、
パアァァっ❤ (┉私の心を表した表現です)
石仏さまがそれはそれはたくさん、小高いところにおられるのがみえました。たぶん、普通ならば、目の前に広がる足利市の展望に感嘆するところなのでしょうが、私は正直、それがまるで目に入らなかった。

たくさんのたくさんの仏さまたちがまさに
「不生不滅不垢不浄不増不減」という、般若心経でお説きになられている空間に、石仏像のお姿を借りて、私たちを見おろしてそこにおられるような気がいたしました。

江戸の元号の刻印された石仏さまがほとんどのようです。なかには長い年月の間に、その石の欠けてしまわれたもの、元の形をとどめておられないものもございます。倒れてしまわれた像もございます。その自然のなしたままに、一切石仏に手触るることなく、そこにあるがままに、石仏群は山の頂にございました。
私は、なんとそこに五十分!ただただたくさんの石仏と向き合っておりました。
それはたったいま、カメラで確認した驚愕の事実でありまして。
一言も私に声をかけることなく、夫と息子は、私の心のすむままに付き合ってくれていたのでありました。そして、二人の元に戻った私に、息子が無言で一粒の飴をくれました。

感謝、です。


それでも私はそこを立ち去る際、名残惜しんだことを記憶しております。


私の癒しの空間であります、栃木県足利市の浄因寺さん。
しかしながら、そこは自力だけで到達するには片道四時間の道のりを歩くしかない、近くて遠い遠いお寺さんであります。
これから先、歳を重ねて、努力するとしたら、運転技術をみがくなどと戯けたことは考えてはいけないので。片道四時間の道のりを五時間かけようと登ることなら┉まあ、努力するとしたならば間違いなくそれくらいであります、がね (;´・ω・`)

「いつかまた、私を浄因寺さんに連れていって」┉言えないな、五十分待たせたなんて┉ (;ω;`*)


     平成三十一年四月七日   参拝

No.79 19/04/14 18:56
旅人 

今日は、先日御朱印をいただきましたお寺さんの御住職の奥さまから、
「お祭りがあるの、よかったらどうぞ是非お出かけください」
とありがたいお言葉を頂戴し、ずうずうしくも参加させていただきました。
ただし、この度のお祭り、メイン会場は小高い山の上にあるお社であります。先代の御住職の夢枕に半僧坊さまがお立ちになられたことから、お社を建て半僧坊さまをお祀りするようになったとのことでありました。

半僧坊大権現さまのお社には副住職がおられ、半僧坊さまについて語ってくださいました。立ち話のような気安さでお話しくださったことに、
【半僧坊大権現】さまは【天狗】さま。元はインドの鳥の神様、【ガルーダ】さまであって、その神様が仏教に取り入れられ【迦楼羅】(かるら)・金翅鳥(こんじちょう)となり、さらには日本では神格化され、神道と結びつきさまざまな神様の眷属として親しまれることとなった、ということであります。
さらにそこから【烏天狗】となり、中世には人格として祀られるようになったのが【半僧坊さま】であるということで、
諸悪を退散させ、良きことをかなえてくださる神様として信仰を集めておられると。
【迦楼羅】が火を吐き、悪龍を退治したことから、焔との結びつきを考え、天狗さまの祀られるところには火防稲荷を祀ることにとなっているということで、こちらの半僧坊の下にも稲荷社がありました。

明治の廃仏毀釈以前はもともと寺院内に神様が祀られていたりしたこともあり、鳥居もあるお社でありますが仏教側の神様なので禁忌はないのだということであるようです。


うかがったお話に忠実に書いているつもりではありますが、なにぶんにも書いている私が咀嚼できていないため、わかりづらいことで申しわけありません。
仏教側の神様、というお話はよく耳にするのですが、奥が深く、私にはまだ到底理解にまでは至らないものであります。
そういった仏教にも神様がおられるのだと単純に覚えてしまうのでよいのかな
 (;ω;`*)

No.80 19/04/15 03:31
旅人 

【御朱印】をお受けすることについつい重きをおいてしまいがちになる神社仏閣めぐり。今回半僧坊のお祭りということでお邪魔いたしましたお寺さんでもそういう方が多くて、と御住職がおっしゃっていました。
「それでも寺ってものに興味を抱いてくれてるってことでそれはいいことだと思うんだよね。わざわざこんな片田舎のはじっこにあるような寺に来てくれてるんだ、ほんとありがたいと思うよ。ただ、うちの場合は必ず本堂にあがってお参りをしてから、それならば書きますってことにしてるんだ」
┉ありがたいことであります。
御本堂に入れていただけることだって、お断りされることの方が圧倒的であります。
「御朱印ブームってのかい?だから、1回御朱印をもらったとこにはもう二度と行かないのさね。まあ、月替わりみたいな御朱印を書くお寺さんは別だけど」
御住職のお寺も御朱印がだいぶ増え、いくつかの御朱印があります。御住職のスタイルは御本堂で、目の前に座って、御住職とお話をしながら、といったものであります。
このたびは本来の御朱印の受け方、『納経をしてから』というものもご用意なさっていました。特別な御朱印をご用意され、寄付金をセットしたものなのでそれなりの金額となります。
「それでも、という方や、写経に興味を持つ方が結構いるんだ」

商売!となっているお寺さんもあるし(実際、そういった発言をしていました。「書き入れ時だから頑張ろう」と。)それはお互いの感じ方。
でもやっぱり、最低の礼儀はして欲しいと思っちゃう、生意気な神社仏閣珍道中者であります。┉ 参拝、しようよ。おひるどきや夕方になったら諦めようよ。


No.81 19/04/15 21:02
旅人 

半僧坊で初めてお会いした副住職。
剃髪をまだされていない、法衣を着ていなかったら僧籍におられると思われない方であります。副住職も気さくな方でいろいろ興味深いお話をしてくださいました。

迦楼羅さまやガネーシャさまの絡みから、外国の神様や日本の八百万の神様について語られ、
「神様は死を不浄なものとして忌み嫌うんですよ。だから、神社の宮司さんは神社の敷地内で亡くなるようなことのないように現代でもしてるんですよ。あとは神棚のあるお宅でご不幸があると半紙で目隠ししたり。神様がお怒りになられると恐いですから」
「特に外国の神様は説教をしたくなるほど自由奔放です。ガネーシャという神様は、頭は象、身体は人間というお姿をされているのですが、これは父親であるシバ王がなにかに腹をたててガネーシャの頭を切り落としたところ、母親である妻が怒り狂って抗議をし、あわてたシバ王が首から下となった身体に象の首をすげたところ、母親はその姿で納得したため、今に至るまで全世界でガネーシャの姿は人間、というスタイルが定着されているというんですよ」
「ありえなくないですか?首を切り落としたり、そのあと怒られたからって象の首をすげちゃうって。」
┉はい、びっくりです。

「可愛い牛だと思うとその牛に交尾したゃったり」┉はあぁ?
「説教をしてくれたい!と思っちゃうくらいほんと奔放なんで」はぁたしかに。

まあ、そのあとだから仏教は素晴らしいという話にはもっていかないところはよかった、よかった。

No.82 19/04/16 00:16
旅人 

半僧坊の境内ではお参りをされた方全てにお赤飯をくださり、腕にはミサンガを結んでくださいました。

実はこちらの御住職、何度もインドに出かけ仏跡を訪ねておられ、今年もまたインドに行かれ、ほんの少し前に帰られたところでありました。
御住職が毎回インドに行くと必ず参拝されるのが、お釈迦様が最初に説法をされた聖地の一角にある、仏舎利が奉安されている寺院なのだそうです。その寺院ではお参りすると、住職が左手首にミサンガを結んでくださり、旅の安全と幸せを祈ってくださるのだそうです。
そのインドでのミサンガにあやかって、御住職が厄除開運・交通安全の御祈祷をしてくださった木綿の袈裟色(カラシ色)のものであります。糸が三本なのは仏法僧の三宝をあらわしているそうで、仏教の守護を象徴したものなのだそうです。

寒さのためにまだまだ見頃のさくらをながめながら境内におりると、本堂の斜め前に特設された野点のコーナーがあり、着物を御召しになられた女性がお茶を点ててくださいました。


お赤飯も野点の御茶も、ミサンガも、全てお寺さんのご厚意でありました。なんて贅沢なひとときを過ごしたのでしょうね。檀家の方やお寺の奥さまも「是非来年もお越しください」と口々にお声がけくださいます。なんだか人のあたたかさを感じる、心の豊かな方々に囲まれた、とても素敵な時間でありました。



      平成三十一年四月十四日  参拝



No.83 19/04/16 01:28
旅人 

半僧坊大権現大祭のあと、かねてから気になっていた神社さんにも参拝させていただきました。こちらの神社一ヶ月ほど前から春の大祭があるとのポスターも見かけておりました。
神事もあるとのことでワクワクしながらの参拝であります。
しかしながらこちらの神社さん、気になっていながら今日まで参拝に到らなかった理由が駐車場!どこを見ても駐車場が見当たらないのです。お祭りであれば特設の駐車場を設けたりするかもしれませんし。

んー、こ、ここかぁ(;´・ω・`)
私のクルマ、普通車でもでかいほうでありまして。んー。
交差点のすぐ脇の砂利のしかれたものですが、コンクリートを分厚く敷いたところがありかなりな高低差が見てとれます。切り返しきり返し (  ̄ー ̄)bよしオッケー
車を停めて鳥居を目指して!

(((・・;) ┉みんなお知り合いっぽい方々ばかりです。手には抽選券をお持ちです。 あれ? どちらかというとここらへんにお住まいの方のお楽しみ会的なお祭りみたいです。
まあ、いいか、神様は平等、平等!
で、主祭神様は?┉
御由緒の書かれたような看板は一切見当たらない。
┉。

┉さくらがきれいです。手水舎の鉢は大きな石をくりぬいたもので、流れる水にキラキラと日の光が反射してきれいです。そこにハラハラとさくらの花びらが舞い散っては水面に浮かんでおります。ああ、来てよかった。
そして大きな大きな樫の木が!うわぁ、なんて優しい気に充ちた樹なんだろう。子供たちが樹のまわりでじゃれあったり、話をしています。みんなに愛されている神社さんで樫の木、なんだな。

御朱印はないようですが、初詣と節分追儺、そして今日の春期大祭、秋期大祭にそれぞれこちらで四回朱印をいただいて満願祈願をするという用紙はありました。
抽選券とお菓子の引換券があってお菓子と一緒にお札?御守り?をお受けするようです。
境内では引換券無しでも無料でわたあめ、ポップコーンが配られ、金魚すくいや射的もできるようです。そのほか、焼きそばなどが販売され楽しそうな素敵なお祭りでありました。


お祭りのお礼にもう一度再拝させていただこう。
お祭りの賑やかな雰囲気のなか見逃してしまっていた御由緒が見つかるかもしれない。



No.85 19/04/16 05:44
旅人 

追記) こちらの神社さんで金魚すくいをやっていたことを書きましたが、実は拝殿の横で小さな┉四~五歳の男の子が手に持っていた金魚を袋ごと落としてしまったのです、。
…息子さんの悲しそうな顔を気づかうことすらなく、ご両親がそのまま地面に金魚を放置して立ち去って行ってしまったことに、私が気づいたのはずいぶんとあとになってから。
 
弱々しく体を横たえて、ほとんど動かなくなっている金魚。
私は金魚を手づかみにとかが出来ないので、とりあえず容器を求めて金魚すくいのコーナーに助けを求めに走りました。
すると┉、金魚すくいのそばに立っていた若いお父さんが私と金魚すくいの係の方について来てくれて、「かわいそうに」と一言言うとスッと両の手で金魚をやさしく包むように地面から掬い上げ容器に移してくれました。
優しいお顔だちの優しい眼差しをした、物腰の柔らかい言葉少なな若いお父さん。おかげで小さな命が二つ救われました。

金魚の命を命と思わないような輩、若い親たちに激しい憤りをおぼえたけれど、それを帳消しにしてさらに上回るような働きをしてくださった若いおとうさんのおかげで、本当に心暖まる、優しい気持ちになれたお祭りになりました。




       平成三十一年四月十四日 参拝

No.86 19/04/19 22:03
旅人 

神社仏閣初心者(何年これを名乗るのか 嘆き)は、当然のことながら、神さまのことも、仏さまのことも、存じ上げないままにお参りだけをくりかえしておるのではありますが、このままではいけないなぁと、時折自分の身の丈にあった神さまや仏さまについて書かれた本を読んだりしております。
悲しいくらい、両のまなこから入って直ぐに後頭部から抜けて出ていくような、そんな状況ではあるのでありますが(T^T)
仏教においては宗派などもあり、宮司さまも御住職さまもほんとに専門職であられるとつくづく思うのであります。

まあ、自分の身の丈にあった本、ついついこれから行きたい神社仏閣について書かれた本であったり、はたまた幸いなことに御朱印ブームであることから御朱印について書かれた本などを手に取ることも多くあります。


多種多様な御朱印が存在しており、私、御朱印においても初心者でありますが、たとえば思ってもみなかったところで御朱印をいただけたりいたします。先日述べました白虎隊の史跡の御朱印もその一つであります。
そして、登山。もともと神さまの住まれる霊山として崇められております御山はそもそもが霊場であり、そこに神社が鎮座することがあることはなんら不思議ではないのでありますが。富士山山頂には富士山本宮浅間神社の奥宮があるようで開山期間中には御朱印がいただくことができるようです。朱に富士の赤土が混ぜてあるため独特な落ちついた赤の朱印だということであります。┉今年の元旦に富士山にお参りされた御朱印仲間のご年配のご婦人に見せていただけないかなぁ┉。
そのほかの日本三霊山の、石川県の白山には白山比咩神社の奥宮が、富山県立山には雄山神社峯本社がそれぞれ鎮座しているようです。こと、白山は白山室堂まで約六キロ、四~五時間の本格登山をし、奥宮はさらに四十分ほど登るとか。


んーん、奥が深いなぁ。

No.87 19/04/20 11:49
旅人 

御朱印がブームとなっている現在、限定御朱印というものも数多く存在しております。月替わりの何月限定だったり、正月限定や季節限定であったり。なかには自分の誕生月限定などという限定御朱印まである寺院もあるようであります。絵手紙風の絵が添えられていたり、墨絵や水彩画といった絵が描かれたものもあります。何種類かを集めコンプリートするといただける御朱印もあったり、御朱印のあり方も時代とともに移り変わってきているようです。



限定御朱印が新しい時代のものかといえばそうでもなく。

私は基本限定のものに固執せず、縁あってお受けできたものだけを集めさせていただこうと思っておりましたが、どうしてもどうしてもお受けしたくて、時間ギリギリになってしまい、登り坂を走って走って、到着したときには言葉を発することもできないくらいになってしまい、僧侶の方が驚かれるくらいに息を切らしてお受けした御朱印が一枚ございます。
前スレに書かせていただいた、鎌倉の【円覚寺】さんの国宝舎利殿の御朱印であります。
普段は非公開である舎利殿の貴重な公開日であるのは正月三が日と十一月の三日間宝物風入という行事のとき。さらに、その御朱印をお受けできるのは宝物風入のときだけ、なのであります。
あくまで舎利殿の御朱印であるため、舎利殿でのみお受けすることとなっており、しかも公開の時間が円覚寺さんの閉門時刻よりもさらに早くなっていたため、余裕で御朱印をお受けできると思っていた私は、前述のようなぶざまな有り様での参拝となってしまったのであります。
再拝であるため、舎利殿の参拝自体はスムーズに行え息を整え御朱印の受付に戻ることができましたが、駆け込み寺でもない円覚寺さんに息を切らして駆け込んだおばさんを受付の僧侶の方が覚えていないはずはなく、「息も整って無事ご参拝できてよかったですね」と。
はぁ、すみません。以後気をつけます。
前年は御朱印をお受けするような参拝をしておらず、ゆったりと優雅にお抹茶までいただいたというのに┉一年経っても珍道中なおばさんで申し訳ない。

前スレに書かせていただいてありますが【舎利贍禮】とお書きくださり印を押していただけます。【しゃりせんらい】とお読みし、舎利を礼拝すること、という意味であるようであります。






No.88 19/04/20 12:33
旅人 

いつかは参拝しお受けしたい【限定御朱印】

奈良【興福寺北円堂】
通常は柵の外から国宝のお堂を眺めるのみであるこちら、春と秋に期間を限って公開され、弥勒如来、無著・世親像などの国宝仏を拝観することができるようであります。この開扉期間は御朱印をお受けすることができるというもので、限定御朱印と申し上げてよろしいかと。
さらには四国九番札所の【興福寺】さんには南円堂があるそうで、特に南北で対になっているわけではないようではありますが、こだわる方は南北合わせてお持ちなのかもしれませんね。


【薬師寺】
薬師寺でも定期的に国宝の吉祥天画像が公開され、この期間に吉祥天の御朱印がいただけるようです。印はお美しい吉祥天が忠実に写し取られたものであるようです。玄奘三蔵院が公開されている期間は玄奘三蔵の御朱印がいただけるようです。

京都【仁和寺】も通常も数種の御朱印があり、【阿弥陀如来】門跡寺でありますこちらならではの【旧御室御所】【勢至菩薩】などがあるようです。
限定と申し上げていいかと思うのは毎月二十日の薬師如来の御縁日のみお受けできる御朱印。ただしこちらの薬師如来さまは秘仏で御開帳もないようであります。

【東大寺三月堂】の執金剛神御開帳=十二月十六日。

【法隆寺上御堂】(かみのみどう)の公開日=十一月一~三日。

【祇園祭】七月の一ヶ月間に八坂神社と四条御旅所で【祇園御霊会】という御朱印紙がお受けできるとのことであります。
さらに山鉾巡礼の、前々日の宵々山および、前日=宵山には各山鉾のある各鉾町で御朱印を自分で捺すことができるようです。


そうだ、京都にいこう!
みたいな日が来るといいなぁ( 〃▽〃)


No.89 19/04/20 16:55
旅人 

涅槃会には休みまでとって、お寺さん巡りまでしたくせに、お釈迦様の御誕生された日とされる四月八日は?
私の住むところはちょうど入学式の日にあたり、ちょうど入学式のお子さんをもつママさんや、入学式のために早帰りになる子どもたちをお持ちのママさんがお休みをとっているため、花まつりにはお休みをとることはできなかったのでありました。

そう遠くはない、何年か先になれば好きなだけ神社仏閣巡りができるはず❤なので。

それになにより、涅槃会であらためてお釈迦様のこと、なんにも知らない自分を思い知りました。以前、手塚治虫の描いた〖ブッダ〗、少しだけ読んだはずだったんだけど、な(;´・ω・`)
なんにも残ってなかった。

お釈迦様。ゴータマ・ブッダ。ゴータマって「最勝」と意訳され「人類中最も優れたもの」って意味だそう。ただこれは、姓、にあたるシャカ族の種族名。もともと生まれながらにそういう姓の家であったということのようです。
約2600年前に実在した人物で、人として初めて“悟り”を得、仏となった、仏のなかで唯一実在の人間だった方。
釈迦牟尼”ともいわれこれは「釈迦族出身の聖者」という意味になるようです。お釈迦様は仏となっただけでなく、自分が獲得した真理=悟りを多くの人に、分かりやすく説き、人々の心を「苦」から解放する道筋を示し、これこそが仏教の始まりとなったのだそうです。

実在した方とはいえ、なにぶんにも2600年前も前のことであり、仏となられた方であることから、伝えられているものは宗教的・信仰的な“真実”を語り伝えられておるため、人間としての釈迦よりも、より超人、仏へと変貌させられているところはあるようであります。


そのお釈迦様の誕生はいかにも宗教詩風であります。おかあさまであられるシャカ族小王国の王の妻、摩耶婦人が、白い象が胎内に入るといった夢をみて身ごもり、お産のための里帰りの途中で突然産気づいて、なんと!右脇腹から釈迦をお産みになったということであります。
どこから産んでも痛いけど、それはそれで痛そうな(;゚д゚)
それがそんな異常分娩だったからかどうか、生後まもなくおかあさまの摩耶婦人は亡くなられております。それゆえお釈迦様は実母の妹にあたる継母に育てられたということでありました。

No.90 19/04/21 01:05
旅人 

お釈迦様の誕生された日をなぜ「花まつり」というのかといいますと、お釈迦様がルンビニーという花園で誕生されたからなのだそうで、神々が誕生を祝って大量の花の雨を降らせたとも、竜王が祝福して甘い雨を注いだともいわれているようです。
そのような伝説に基づいて「花まつり」は、誕生仏と呼ばれる釈迦の仏像に花を飾り甘茶を注ぎかけて祝うということであります。


誕生仏と呼ばれる仏像は右手で天を、左手で大地を指さしている、像で、それはお釈迦様が生まれ落ちてすぐに、東に七歩歩んでそのようなポーズをなさり、
『天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)
三界皆苦 吾当安此(さんがいかいく ごとうあんし)』
と話された、という伝説に基づいてのもの。
まあ、いかにお釈迦様でも、生まれてすぐに歩き話されるはずはないでしょうが、とは僧侶も話されてはおられることですが┉。

『天上天下唯我独尊』について、実は「唯だ私だけが尊い」という意味をあらわしているのではない、ということを口々に僧侶が語られます。
世間では「天下においても天下においてもただ一人私だけが尊い」と意訳されているが実は決してそうではないのだと。
「唯我独尊」とは、「唯だ、我、独(ひとり)として尊し」との意味で、それは、天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、このいのちのままに尊いという意味で、我とは釈迦本人のことではなく、人として生まれたすべての者のことなのだということであります。

まあ、たしかにその後お釈迦様が歩まれた軌跡をたどれば、一般的に使われる「唯我独尊」と全く異なるということのほうがしっくりきます。
なに不自由ない一国の王子として生まれ、冬用、夏用、雨期用の三つの宮殿を与えられ、裕福で華美な生活をおくられ、17歳で結婚され正妃との間に一子もいた王子が、29歳でほとんど蒸発のように、地位も身分も財産も捨てて出家され、悟りをひらかれるまでに修行されて苦しむ人々に教えを説いて生きられた方ですから。「生まれつき一番偉いんだよ」なんてカリスマ宣言は決してなさらないと思うのであります。



No.91 19/04/21 06:58
旅人 

真田幸村の旗印、一文銭を六個並べた『六文銭』はテレビの影響か見かける機会がだいぶ増えました。あの旗印、【六地蔵】さまに由来するものだという説を説くものを読みました。

お地蔵さまは仏教的世界観【六道】をあまねく巡回されすべての生き物を救う仏さま。地獄や餓鬼道を錫杖をついて(錫杖の上の環がシャリンと音を立てるのはインドで修行者が虎避けとしていたから、だそう)歩き、賽の河原で子どもを助け、閻魔の法廷では罪人の弁護にあたってくださいます。

本来ひとりのお地蔵さまが六道を巡回するところを、六道それぞれに専門のお地蔵さまがおられるとする考えが【六地蔵】さま。
六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、のそれぞれ六道。

幸村の旗印『六文銭』の意味するところは、六地蔵にそれぞれ銭一文を供養として、三途の川の渡し賃とする=死への備え充分という猛虎心を示したもの、ということだと。
死への恐れを感じない武人はただの猪武者、恐れを知りそれを克服して務めを果たすのが真の武士ということで、幸村はそういった機微を知り尽くしているのだという説でありました。

No.92 19/04/21 07:14
旅人 

『おばあちゃんの原宿』といわれる東京巣鴨・高岩寺、おばあちゃんという言葉に抵抗感をもつ年頃の私はなかなか足を向けることができずにおりますが、こちらの御本尊は【延命地蔵菩薩】。広く厄除け招福のご利益があるとのことで、毎月4の日(4、14、24日)は参詣者で賑わっているようですよね。
その起源は、江戸時代。
ある武士の妻が病気にかかり、日ごろからお参りしていたこちらに祈ったところ、夢枕にお地蔵さまが現れて印像(印判)をお授けになられ、それを捺印した一万枚の紙を川に流したところ、妻の病気が全快したこと。
針仕事の女が誤って針を飲み込み苦しんでいたとき、その印の捺された紙を水で飲ませたところ、針を吐き出すことができ、針は紙のお地蔵さまの像を貫いていたという。
そのような言い伝えがあって、【とげぬき地蔵】の功徳が知れ渡って、現在に至るということのようです。


┉いつかは?(^-^;

No.93 19/04/21 13:24
旅人 

お地蔵さまが身近に感じられるのは、圧倒的にたくさんの御像があることからなのだと思っておりました。がそれはどちらかというと後付けで、お地蔵さまがそれだけ身近に感じられ、お地蔵さまを頼り、お願いをしているからなのだと、お地蔵さまを奉るお寺をまわってみてあらためて思いました。

今とはくらべものにならないくらい、昔は、お産は母親にとっても、赤ちゃんにとっても文字どおりの命がけでありました。そんな時代、安産を願い【腹帯地蔵】【子安地蔵】さまを頼り。生まれてきた我が子の無事と健康を祈るとき【子育て地蔵】【乳授け地蔵】【夜泣き地蔵】に手を合わせ。
不幸にもこの世に生を受けることができなかった子には【水子地蔵】。
子どものそばにいつもお地蔵さまがいらっしゃいます。

ひとたび流行り病などあれば、祈ることしかできなかった時代、石仏のお地蔵さまを削った粉を薬としていたこともあり、その削られた石仏のえぐりとられた様は痛々しいことといったらなかったです。
そんな時代は実は私の母親の子どもの時分まで続いたものであり、それを知ったときも大きなショックでありました。
幼くして亡くなってしまった子どもの成仏を祈るときにも、お地蔵さまが寄り添ってくださいます。賽の河原で石を積むといわれる幼児の地獄での様子はさらに子を亡くした親たちにとっては胸の傷むものであります。自分が代わりたいと思うほど悲しんでいるというのに┉
今とくらべものにならない乳幼児の死亡率。
自分のちからではどうすることもできない、多産多死の社会では、喜びも悲しみもお地蔵さまとともにあり、身近の道ばたのお地蔵さまは心の拠り所であったことでした。
古くからお地蔵さまは庶民が費用を負担し願主となったことも多々あり、だからこそ御像がほかの仏さまより圧倒的に数多くあり、彫る人の気持ち、願主の思いがこもって、より親しみやすいお姿に彫られているのだと思いました。


そして現代にあっても我が子の健やかな成長を祈る気持ちは変わることのないものであり、多種多様化した社会のなか、ことあると人はお地蔵さまにおすがりし、手を合わせているのかもしれません。

No.94 19/04/21 13:45
旅人 

【十三まいり】という習慣があることを、私は小説を通して知りました。それも地域的なものだと思っておりましたが、たしかに、私の住まう辺りではそのような風習は定着していないようで、決して私の生まれ育った家が信心深くない家庭だったから、ではないようです。
小説は関西地方を描いたもので、現代においても広く親しまれているのは関西地方のようであります。
数え年十三歳になった子どもが、旧暦の三月一三日、親に連れられて虚空蔵菩薩さまにお参りする行事をいうようです。虚空蔵さんに知恵を授けてもらうため、「知恵まいり」「知恵もらい」などとも呼ばれるようです。
なかでも有名なのが“嵯峨の虚空蔵さん”として知られる京都嵐山の中腹にある【法輪寺】さん。
法輪寺へは渡月橋を渡って行くようですが、お参りの帰り道、「渡月橋を渡り終えるまで、決して後ろを振り返ってはいけない」と言われているようです。振り返るとご利益が失せる、知恵をお返ししてしまうと言われているためなようです。

数えの十三歳、干支が初めて一巡し、こと昔は育ちづらい子ども時代をようやく終え、精神的にも肉体的にも大人への一歩。めでたいめでたい儀礼でもありましょう。


┉私に知恵が足らないのは┉
十三まいりをしなかったせい? (;´・ω・`)

No.95 19/04/21 17:18
旅人 

知恵を授けてくださる【虚空蔵菩薩】さま。
一度見聞きしたものは絶対に二度と忘れないという、驚異的な記憶力を得る〖虚空求聞持法〗という行法があるということで、その行でお祀りするのが虚空蔵菩薩。弘法大師空海がこの修行を成し遂げたことで有名なのだそう。

虚空蔵菩薩像は、虚空蔵求聞持法を行う際の本尊は右手は与願印という印を結び┉というか与えるために開いた掌を相手に向けており、そうした特別な御仏像以外は右の手に剣を、左手には如意宝珠をもち、五仏のついた五智宝冠をかぶられておられるそうで、蓮華座にお座りになられているのが【虚空蔵菩薩像】、ということです。

お寺などをまわって御本堂で一緒になった方ですとか、仏像展に来ている方などはもうその形でどの仏さまであるかわかっておられる方が多く、私のようにお参りの作法からわからずにいる者とはくらべものになりません。


そういった方々はまさに【十三まいり】をしたのかなぁ (;´・ω・`)


暗記することを「そらんじる」とか「そらで覚える」というのは虚空蔵の空から転じたものだとか。
私はすでに覚えるどころか、覚えていたはずのものすら抜け出ていってしまうのですが┉。
虚空蔵菩薩さまに五十代の後半にさしかかった私がお参りして、なんとか認知症を食い止めることはできるのかなぁ(;ω;`*)

No.97 19/04/22 20:26
旅人 

┉鎌倉三十三観音札所巡りをまだまだ道半ばでありますが、お参りさせていただきつつ、御朱印をお受けしております。
が、始めたときに観音札所巡りがどのようなものか、しっかりと理解して始めたわけではなく、お参りのひとつの目標くらいの感覚で巡り始めております。

鎌倉に憧れて憧れて、ようやく鎌倉に行くことが叶い、御朱印の存在くらいは知っていたものの、まだ自分御朱印をお受けするほどの資格がないという自覚は持っていたため、いつか、少しは神社さんやお寺さんにくわしくなったなら❤と、御朱印はお受けせずにお寺さんをまわらせていただいておりました。
まだまだ、資格があるかどうか、甚だあやしいものではあるのですが、とりあえず御朱印をお受けする最低限のマナーくらいはなんとかなりそうだと、再拝となる【杉本寺】さんからスタートいたしました。杉本寺さんが一番札所で、そこから始めさせていただくと、発願印を捺していただけるということで、初めての御朱印、発願印にたいへんワクワクいたしましたものです。

【納め札】を知ったのも、ことし秩父三十四所観音霊場を巡りだせたらいいな、と思って調べて、初めてその存在を知ったくらいでして┉。
杉本寺さんには、鎌倉三十三観音札所用の納め札が置かれているようです。┉気づかなかった(^-^;



鎌倉の観音霊場を巡らせていただくにせよ、秩父の観音霊場を巡らせていただくにせよ、まず、もう少しは観音さま【観音菩薩】さまを、もう少しは知っておきたい、知っておかなくては、と思っております。

No.98 19/04/22 22:14
旅人 

【観音】【観世音菩薩】はその名を唱えるのを聞いて、悩みや悲しみを慈悲の心で救い、願いをかなえてくれるという仏さま。その時、観世音菩薩さまはその者の悩みや祈願に応じて三十三に姿を変えて救ってくださると言います。
例えば柳の枝を持つ【楊柳観音】、白い衣の【白衣観音】籠を持つ【魚籃観音】、【滝見観音】、【施薬観音】、月を眺める【水月観音】、岩に膝をつく【延命観音】、岩戸に座る【岩戸観音】香炉を持つ【瑠璃観音】等々、三十三のお姿があるとされ、三十三観音、というわけです。

実際に三十三のお姿の石仏のあるお寺さんや、洞窟内にたくさんの石仏の彫られた群馬県の高崎市にある【洞窟観音】などは、そのお姿ひとつひとつが素晴らしく、私などはいつまでも見ていたいと思ってしまうのでありますが┉。


三十三観音札所は、実は三十三のお姿の観音さまが三十三ヶ所のお寺さんにそれぞれおられる、というわけではなく、いくつものお寺さんで┉たとえば聖観音さまが奉られていたり、十一面観音さまが奉られていたり、なのであります。
そう、もちろんこの私、三十三のお姿の観音さま巡りなのだと思っておりましたので、そうでないことに気づいてびっくり!

悩みを払い、または現世利益を求めて願をかけ札所をめぐる観音札所巡礼は、鎌倉時代初期には西国三十三観音札所や板東三十三観音札所が開かれたようです。
現代の鎌倉三十三観音札所の歴史ははっきりとした資料がなく成立年代など不明ですが、お寺などで聞くと大正から昭和初期にかけて成立したのではないかと思われるということであります。

No.99 19/04/23 06:56
旅人 

【鎌倉三十三観音札所とそこにおられる観音さま】

一、  杉本寺  十一面観音
二、  宝戒寺  准胝観音
三、  安養院  千手観音
四、  長谷寺  十一面観音
五、  来迎寺  如意輪観音
六、  瑞泉寺  千手観音
七、  光触寺  聖観音
八、  明王院  十一面観音
九、  浄妙寺  聖観音
十、  報国寺  聖観音
十一、 延命寺  聖観音
十二、 教恩寺  聖観音
十三、 別願寺  魚籃観音
十四、 来迎寺  聖観音(子育観音)
十五、 向福寺  聖観音
十六、 九品寺  聖観音
十七、 補陀洛寺 十一面観音
十八、 光明寺  如意輪観音
十九、 蓮乗院  十一面観音
二十、 千手院  千手観音
二十一、成就院  聖観音
二十二、極楽寺  如意輪観音
二十三、高徳院  聖観音
二十四、寿福寺  十一面観音
二十五、浄光明寺 千手観音
二十六、海蔵寺  十一面観音
二十七、妙高院  聖観音
二十八、建長寺  千手観音
二十九、龍峰院(建長寺内)  聖観音
三十、 明月院  聖観音  
三十一、浄智寺  聖観音 
三十二、東慶寺  聖観音
三十三、佛日庵(円覚寺内)十一面観音


三十二のお寺さんを巡って、お会いできる観音さまのお姿は上記いたしましたが、お姿としては限られるものではあるようです。
まだまだ道半ば、お会いできていない観音さまに早くお会いできますように(。-人-。)

No.100 19/04/24 01:44
旅人 

平成の御代がまもなく終わります。
陛下はお生まれになられたときからすでに決められた道を歩むしかなく、終戦とともに【象徴】などという曖昧な存在として生きることとなり、それはどんな存在であるのか、誰にもわからないまま、美智子妃殿下と文字通り手をとり、懸命に、そして誠心誠意、御公務をおこなって来てくださいました。

宮中の行事が、ここ最近テレビで放映されることがあり、国民のためにこんなにも祈りを捧げてくださったことを知りました。そしてその上で、ことあれば一刻も早くにと被災地に出向いてくださいました。


ありがたい。
本当にありがたいことにございます。

私は昭和の生まれですので、さほど平成の終わることに感慨もなくおりますが、陛下にとってお身体にご負担のかかっていた御公務からの解放となられますことは心より嬉しく思っております。

どうかこれからは美智子さまと二人、御公務を離れた楽しい旅行やテニスなどをなさってお過ごしくださいますように。


私はといえば
平成最後の日、どこかのお寺さんで黙想して過ごせたらいいなぁ。

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