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対馬丸事件で亡くなった子の特定について

レス15 HIT数 1170 あ+ あ-

社会人
19/02/25 21:21(更新日時)

対馬丸事件で亡くなった子の特定ってどうやってしたんですか?サメに食べられて亡くなった子も少なくないと聞きましたが。昔のDN A鑑定ってどうやってしたんですか?

No.2795448 19/02/11 17:19(スレ作成日時)

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No.1 19/02/11 18:01
トラトラトラ ( ♂ Vag41b )

対馬丸事件と言うと、第二次世界大戦中の1944年8月22日、沖縄から本土へ疎開する為に貨物船で移動中に米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した日本の貨物船の対馬丸の事ですよね。因みにその時の疎開学童の数は800名。その船の乗員と他の乗客数を含めると1788名になります。残念ながら、その頃の時代では、DNA判定等々の技術は日本はもとより世界中にも存在しておりません。これは無事に救出された人員数と各自の名前を、予めこの対馬丸に乗り込んで疎開して行く人員数と各自の名前を、救出された人員数と各自の名前を照らし合わせて初めて分かる案件です。→続く

No.2 19/02/11 18:18
トラトラトラ ( ♂ Vag41b )

>> 1 勿論、その頃は第二次世界大戦の真っ只中なのでまともな救出作業も出来ません。そして更に、戦闘に関係ない船舶は攻撃対象にはしてはならないと言う国際間の決まり、法律がありました。因みに対馬丸は確か、日本の郵便を運ぶ為の郵便船舶です。そして見分ける為の船舶旗もキチンと掲げておりました。それをキチンとハッキリと潜望鏡を通して確認しておきながら、また戦闘に全く関係ない船舶だと分かっておきながら、米軍はわざと意図的に対馬丸を無差別に魚雷攻撃して撃沈させたのです。米軍は本当に人間ではありません。               

No.3 19/02/11 18:28
社会人0 

スレ主ですありがとうございました!

No.4 19/02/11 18:46
トラトラトラ ( ♂ Vag41b )

最後に。 この対馬丸事件で救出された人員数はこの対馬丸に乗り込んでいた1788名中僅か312名です。内訳は学童800名中僅か59名。そして兵士7名。乗組員21名。そして残りは一般人の疎開者の方々です。地元の2隻の漁船に救出されたり、漂流物に掴まって近くの島に流れ着いた方々のみだけです。その時に対馬丸と共に犠牲になった方々の数は1476名。船長以下24名の乗組員も対馬丸と共にしております。                       

No.5 19/02/11 18:55
社会人 

乗ってた人全員は血液型は何型が多かったのでしょうか?戦争時代は着てる子は国民服に血液型を書いていたと思いますが。

No.6 19/02/11 19:37
トラトラトラ ( ♂ Vag41b )

>> 5 血液型までは残念ながらこちらも分かりません。各種の型それぞれでしょう。確かに戦時体制下なので血液型も着ていた衣類等々記載していると戦時下の治療時には医療もそれだけ捗ると思いますが、残念ながら何せ当時は日本は石油も食料も物資も何から何までが連合国側から輸出禁止にされていた状態なので、戦争末期にはもう日本は物資不足の真っ只中なのでまともな治療も施せる状態ではありませんでした。食べる食料もまともにありませんでしたから。               

No.7 19/02/11 20:44
名無し7 

血液型って必ず調べたんですか?
私は43歳ですが任意でしたよ。

No.8 19/02/12 07:31
社会人 

おひさまというドラマでも血液型つけた国民服着てましたけど戦時中はどうやって血液型調べてたんですか?

No.9 19/02/12 13:12
トラトラトラ ( ♂ Vag41b )

>> 8 ●先ずはこの頃の戦時体制下の救護体制を見て行きましょう。でないと、この頃の正確な事が分かりませんので。因みにドラマは脚色された部分がありますからね。レス文章が長くなる事を予め御了承下さい。 ●先ずはこの頃の戦時体制下の救護です。主さんも既に知っておられると思いますが、今現在では【看護師】と呼ばれておりますが、20年位前迄は看護師は【看護婦】と呼ばれておりました。別に差別的な呼び名ではありませんので決して誤解しないで下さいませ。【本来的な真の意味で看護婦と言う呼び名は非常に大変高貴な呼び名なんです】ので。  ●戦争体制時下のその時は、傷病者を救護する目的を主としているので、その行為を【救護】と呼ばれておりました。正式名称は【日本赤十字救護看護婦】に【陸軍看護婦】に【海軍看護婦】です。 ●その当時は戦争開始時から【救護】は既に幾つかの組織体制が作れており、1番最先端の前線で戦闘している所の【前線】そしてその後方での隊付きの【包帯所】そして更にその後方の【野戦病院】から中間施設の【兵站病院】そして1番後方の【陸軍病院】と、傷病者の状態に応じて【救護体制】は段階的に作られておりました。 ●戦闘が行われている最前線で負傷兵が発生すると、【前線】で負傷兵を回復させて現隊へ復帰させるが、それが難しい場合は更にその後方に控えている【隊付き】の【包帯所】で応急処置が行われます。そして必要に応じて更にその後方に控えている【前線の野戦病院】から更にその後方に控えている中間施設の【兵站病院】へ運ばれて最後に1番後方に控えている【陸軍病院】へ運ばれて行きます。つまり、その時の負傷兵の傷病の症状の状態です。 ●他に【病院船】【病院列車】の救護組織もありました。→続く

No.10 19/02/12 14:19
トラトラトラ ( ♂ Vag41b )

>> 9 続きです。●そしてその当時の救護組織体制は【個班】と言う呼び名で構成されており、その救護班1班の救護構成員数は班長の【医師1名】【救護看護婦長1名】【救護看護婦20名】【書記1名】【使丁1名】で構成 されておりました。但し、戦中は戦闘による犠牲者続出で医師不足の為に班長は書記、若しくは救護看護婦長が勤めました。 ●そして各地へ派遣されたこれ等の救護班ですが、北は【樺太】から南は【ジャワ】まで。東は【ニューブリテン島】(現パブアニューギニアのラバウル)西は【ビルマ】(現ミャンマー)に迄の広大な広範囲に渡ります。 ●そしてその各地へ派遣された救護班の数ですが、中華民国への【114個班】満州への【55個班】等々に上り、内地では【666個班】に上ります。昭和12年1937年の日中戦争開始時の日赤救護班の数は【117個班】です。そしてその後は次第に戦況が拡大して行き、太平洋戦争に突入して行った時、その戦時の状態で次々に救護班が構成されて行き、最終的には【960個班】に上り、当初の準備数の8倍以上になりました。 ●そして参加した方々は【日本赤十字の看護婦】【陸軍病院の看護婦】【海軍病院の看護婦】に、その他に、軍隊には属さずに個人や集団で救護活動に参加された方々もおられます。 ● そしてその内訳と年齢は次第に戦闘状態下での犠牲者続出で看護婦の不足を補う為に、従来の看護婦を【甲種】新たに【乙種】看護婦と【臨時看護婦】を設けました。甲種看護婦は高等女学校を卒業した17歳から27歳までの方とし、3年間の教育過程を修了した方々。沖縄では那覇女子師範女学校と第一高等女学校の卒業生もおられ、彼女等はひめゆり学徒隊として動員され、多くが戦死と自決に追い込まれておられます。→続く

No.11 19/02/12 15:13
トラトラトラ ( ♂ Vag41b )

>> 10 続きです。●そして各自それぞれの看護婦の配置ですが、看護婦は女性である為に、特別に認められた方以外では、戦闘が行われている1番危険な最前線では勤務しない事になっており、前線の野戦病院では【軍の衛生部隊】が担当していました。つまり、専属の男性の衛生兵士になります。そして日本赤十字の看護婦は【兵站病院】までの衛生施設、陸海軍の看護婦は更にその後方の【陸軍病院】【海軍病院】に勤務する事になっておりました。●そして日本赤十字の看護婦しか記録が残されていないので他の看護婦の方々のものは分かりませんが、この大戦で動員された看護婦の方々の数は日本赤十字社救護看護婦、陸軍看護婦、海軍看護婦の総動員数は述べ3万3156名になります。恐らく、記録が残されていない日本赤十字社救護看護婦や陸軍看護婦や海軍看護婦以外のその他の看護婦の方々の数は、ひょっとしたらこの数を軽く簡単越えるでしょう。 ●そしてまたその他の各前線地域では、戦況が有利な場合の頃は、比較的安全に活動が出来ましたが、それでも戦時体制時の頃です。後方の陸軍病院も安全とは言えず、各地前線方面では例えば満州の一部地域では現地民の来襲があり、病院から出られず、また南方フィリピンやビルマでは、当初から連合軍の空爆が行われており、戦況が悪化するにつれて病院も爆撃の対象になり、看護婦の方々は患者と共に防空壕や洞窟に避難されて、最後は看護婦の方々も敗残兵と共に飢餓とマラリアに苦しみながらジャングルの中の白骨街道を数百キロから数千キロも行軍されておられております。また避難中に爆撃を受けて、その救護班の方々の全員が死亡した救護班も存在します。 ●そして戦時救護を主たる目的とする日本赤十字の看護婦が動員されるのは当然だけど、それだけでは不足した為に日本赤十字以外の養成所を卒業した看護婦も、果ては高等女学校の卒業生も動員され、正確な人数は分かりませんがかなりの数の方々が動員されておられます。その殆どの年齢が10代から20代の女性です。→続く

No.12 19/02/12 15:32
トラトラトラ ( ♂ Vag41b )

>> 11 ●前置きが大変長くなりましたが、主さんにその頃の救護状態をより理解し易くする為にこんなに長くなりました。これでもかなり圧縮して記載しましたよ。関心が無ければ飛ばしてしまっても構いません。主さんの質問のその時の血液型判定方法は今でも行われているABO方式だと思います。器材が非常にコンパクトで済むし現地での携帯にも便利ですから。今現在の時代は技術が当時よりも更に進み、判定プロセスがより更に正確により更に詳しく多岐に渡って調べる事が出来る様になっています。 また他のレスを寄せて下さった方の質問ですが、昔は子供が生まれたら、殆どが血液型も同時に調べていましたよ。戦後の後々の世になってから次第に血液型の判定まではしなくなってきました。                           

No.13 19/02/12 16:09
トラトラトラ ( ♂ Vag41b )

>> 12 ●因みにその当時に救護看護婦として動員された多くの方々にも、日本軍の兵士として出撃する為に政府から送られて来ていた通称【赤紙】と言われている召集令状で【従軍救護看護婦】として行かれておられますよ。因みにその当時の医師も看護婦の方々も、今現在とは全く比べものにもならない程の負傷を負った兵士や市民等々を、また今現在とは全く比べものにもならない程の物資不足とその状況下の中で、またその数も今現在とは全く比べものにもならない程の数の方々を治療して救ってこられておられますよ。30年位前に直接話を聞いた事がありますが、今現在の医師も看護師も、その時の自分達の医師や看護婦と比べたら、今現在の医師も看護師も全く比べものにもならない程に腕前が下手くそで全くダメだそうです。最前線に行かれて無事に帰還する事が出来た1人の医師の方は、「まともに何も無い場所で皮一枚でかろうじて繋がっている足や腕を、何の後遺症も残す事なく無事に数えきれない程何本も繋いできた」と話しておられました。また「それが出来ないとならない。それをやるしかない。その時の周りの状態関係なく、それ等をキチンと見事にやり遂げきらなければならない」とも話しておられましたよ。看護婦の方々も同じ様な事を話しておられましたよ。因みに当時に救護看護婦として行かれた方々は、今現在ではその年齢は80代後半から90代の年齢になられておられます。

No.14 19/02/18 20:15
社会人 

亡くなった子の中に国民服着てた子もいたそうですが何故血液型書いてないのですか?

No.15 19/02/25 21:21
社会人 

あと、子供が亡くなったのを保護者に伝えたのはいつですか?

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