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続・ブルームーンストーン

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自由人
21/03/27 13:58(更新日時)

ブルームーンストーンの続編です。

内容は4人で遊んでいた頃の話のブルームーンストーンとは違い、
職場中心の話になってしまいますが、
これも懐かしい思い出日記の様に書いていけたらなと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

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No.2726135 18/10/14 16:28(スレ作成日時)

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No.14 18/10/27 20:56
自由人 

「ただいま!」

やっと大ちゃんが新人2人を引き連れて帰ってきた。

新人達は、人当たりは良さそうだが、どことなく我の強さを感じさせる新井 慎太、

お坊ちゃんな雰囲気で、本音をあまり出しなさそうな大川 弘樹、

この2人も個性強そうだな…

もう本当に不安しかない。

こんなメンバーで本当にやっていけるのか?
新米副店長!

「お姉さん、今から何します?」

ボーッと考えている私に、サイヤ人牧田が探るように声をかけてくる。

「お姉さん言うな、私は田村です。」

そう言いながらも2人に目で合図をし3人で事務所を出ると、入れ替わりに大ちゃんが新人の2人を事務所に座らせた。

「今から軽~くオリエンテーションやるから!」

大ちゃんが意味ありげにニヤニヤしながら言うのを新人2人は真剣な顔で頷きながら聞いている。

やれやれ。

初日からあまりとばさないで下さいよ?

私はため息をつき事務所のドアを閉めた。

大ちゃんが2人にオリエンテーションをしている間に、私はバイト2人を従え店内に入り、店内での作業の説明を行う。

品出し、レジ業務がバイトの主な仕事になるが、ベテランになると発注や売り場作成も任される事等も説明。

「店内に人も少ないし、ちょっと空いてるレジを触ってみようか。」

端っこにあるレジにキーを差し込み起動させると「研修モード」にセットする。

「これでレジに商品を通しても売上に反映されないから、少し練習してみよう。」

私の言葉に2人は「おおっ!」といった表情でいそいそとレジの周りに寄って来た。

「2人ともバイト経験は?」

私はまず加瀬君をレジの前に立たせながらそう聞いた。

「親せきの居酒屋と新聞配達!」

牧田君がすぐに元気良く答えてきたが、加瀬君は黙ってレジ前で俯いている。

「バイト経験ないよな。」

牧田君が代わって応えると、

「ずっと〇〇ばかりやってたから…」

と加瀬君はある格闘技の名称を出した。

「そうなんだ、強そうだね。」

「もうやってないから別に…」

シーン。

「ダイゴ、顔に似合わないから暗くなんなよ!」

牧田君の能天気な声で少し重い空気が一変。

「顔に似合わないって何だよ!」

文句を言う加瀬君の声はさっきよりも元気になっている。

「よしっ!じゃやりましょか。」

私は加瀬君の横に立ち、レジ操作を開始した。

No.15 18/10/27 21:51
自由人 

私達が〇〇店に揃って3ヶ月。

心配していた新入社員も新人バイトも何とか店に馴染んできていた。

新入社員の新井慎太と大川弘樹は性格が逆で「神谷店長」に対する接し方もまるで逆。

すぐに大ちゃんに懐き、大ちゃんの考えている事を察する能力に長けていた新井君。

仕事の能力はそこそこあるが、私と同じ様に大ちゃんに気圧されるばかりで、なかなか完全に実力を発揮できない大川君。

全く違うタイプの2人だったが、妙にウマが合うのか互いに足りない所を上手く補い合い、それぞれそれなりの成長ぶりを見せていた。

「来月の地区会議はミューズも一緒においで。」

前月、シフト決めの際に大ちゃんはそう言うと、私の返事を待たずに勝手にシフトを組んでしまった。

「会議は夕方の5時からだから、俺とミューズは早番で、あいつら2人はまとめて遅番でいいだろ。」

地区会議の場所は2ヶ月前にできたばかりの新店舗。

車で15分程の距離にある。

大ちゃんが
「あの店舗ができたらうちは食われる。」
と言っていた例の店舗だ。

幸いまだ大きな影響は出ていなかったが、遅かれ早かれ売り上げに影響も出て来るだろう。

それに加え、その店舗の店長は以前のここの店の副店長君。

田上 洋介 26歳。

童顔で大人しそうな見た目とは裏腹にかなり頭がキレる一筋縄ではいかないタイプとの事。

なかなか厄介な相手だな。
私は彼と話した時抱いた、食えない相手という印象を思い出し気が重くなった。

会議当日、

「じゃあ行ってくる、何かあったら電話して!」

大ちゃんが機嫌良く社員君達に声をかけると私達は揃って店を出た。

「他の店舗に出向いて会議なんて初めてです。」

少し緊張気味に話す私に、

「大丈夫、同じ地区の親睦会を兼ねてるみたいなもんだから気楽なもんだよ。」

大ちゃんがのんびりと答える。

「はい。」

頷く私に、

「同じ地区なんだから仲間みたいなもんだよ。
だから仲良くやって?
そのために他の店長たちへ引き合せるのも兼ねてるし。」

と、大ちゃんが優しく言う。

そうなんだ。

大ちゃんの心遣いに感謝した。

新米副店長頑張ります!

私が心の中で決意を新たにした所で車は新店舗の駐車場に着いた。

No.16 18/10/28 14:03
自由人 

〇〇店とは比べものにならないほど新店舗は大きくて立派だった。

店舗横にある細い通路を奥に進むと横手に小さな入口のドアがある。
そこを開けて入ると、うちの店舗の倍以上はある広いバックヤードがあり、突き当りに事務所と休憩室のドアが並んでいる。

ミーティング室はどこなんだろう。

キョロキョロと見回す私に、

「こっち。」

と、大ちゃんが反対側の方に立って手招きする。

見ると反対側にもドアがあり、入ると広いスペースの真ん中に長テーブルが2つくっつけて置かれ、その周りに10脚ほどパイプ椅子が置かれていた。

はあ、広いな…
うちとは桁違いだ。

少々気後れしつつも大ちゃんと並んで隣に座る。

と、ガヤガヤと賑やかな声が近づいてきて、ガチャっとドアが開く音と共に地区長と他店の店長達が談笑しながら入ってきた。

「あ!お疲れ様です!」

慌てて立ち上がり頭を下げて挨拶をする私の横で、

「お疲れっす。」
と大ちゃんも軽く頭を下げてにこやかに挨拶をした。

「お?今日は彼女も同伴か?」

地区長がニコニコしながら冗談を飛ばすと、

「まあ彼女って言うより、妻ですね。」

と大ちゃんがにやける。

ぐげげ。

「あはは、田村さん、余り緊張しないで。噂のやんちゃ坊主の監視役をこれからもしっかり頼みますよ。」

ひきつる私に地区長はそう優しく声をかけてくれると、

「さて、ここの店長もすぐに来ると思うしとりあえず始めていようか。」

と椅子に座り資料を取り出した。

途端に和やかな空気は一変してピリリとしたムードが広がる。

「まずは、✕✕店…」

皆に地区全店の資料を配り終えた地区長が資料を元に各店の売り上げ状況や問題点、対策、施策等を質問したり報告を受けたりしていく。

「次は〇〇店…」

地区がそう読み上げた途端、

コンコン!

ノックの音がして、

「遅くなりました。」

と、この店舗の店長の田上洋介店長が入ってきた。

田上店長は大ちゃんの方に少し目をやると軽く頭を下げ席に着く。

「じゃあ、〇〇店。」

地区長が再びうちの店舗の資料を読み上げる。

「神谷店長はまだ〇〇店に配属されて3ヶ月ほどだし、周りに競合店も次々にできたという事で大変だとは思うが…」

「競合店なんて目じゃないですよ。」

いきなり大ちゃんが鼻で笑う様に地区長の話を遮った。

No.17 18/10/29 00:56
自由人 

「ん?」

地区長の不思議そうな声を無視するかの様に、

「とりあえず僕にとって負けられない相手はココですから。」

大ちゃんが冗談ぽく笑いながら言う。

おい…でも目はぜんぜん笑ってないぞ?

「それは光栄…と言っていいのか?
まあでも勝ち負けじゃなく同じ地区同士助け合って…」

「地区長、本社からも色々言われてるんでしょ?〇〇店の事。
助け合い?
うちを食う店はどこも敵ですよ。」

大ちゃんはゆったりと笑いながら返す。

おいおいっ!笑いながら毒を吐くんじゃない!

ほ~ら周りの店舗の皆さんがあからさまにドン引きしてらっしゃる…

「そうか神谷君らしいな。
〇〇店はここらの郊外型店舗では最も古い店だから本社の思い入れも強いのは確かだし、僕もできる限り力にはなるつもりだ。」

地区長は穏やかな笑顔を大ちゃんに向けると、

「では次の△△店…」

と次に話を進めた。



私にとって大波乱となった会議は2時間ほどかかり、

「もう7時過ぎか、俺達は退店の時間だな。
店に電話をかけて特に何も問題が無いようならこのまま直接帰るか。」

と、大ちゃんはミーティング室の外に電話をかけに出て行った。

はあ、荷物も何もかも置きっぱなしで…

大ちゃんの残した荷物を自分のカバンと共にまとめて手に持ち、ミーティング室を出ようとした私に、

「田村さんお疲れ様でした。」

と田上店長が声をかけてきた。

「あ、お疲れ様です。
あの…先程は…」

もごもごと言いながら頭を下げる私に、

「やっぱり神谷店長は面白い。
僕は神谷店長みたいなタイプは好きですよ。」

田上店長がニコニコとしながら答える。

でも…貴方様の目も全く笑っていらっしゃらない様に見えるのは私の気のせいかしら?…

「うちの店長は何せ強烈な負けず嫌いでして…」

「あはは、そうですね。」

「いやもう、本当に気がやたら強くてもう。」

「あはは、さすが狂犬の異名を持つだけの事はある。
戦国武将の織田信長公を思い起こさせますよ彼は。
敵も多そうですし部下に寝首をかかれなきゃいいんですけどね。」

「そうですね。でも…」

少しカチンときた私は田上店長の顔を正面から見据えた。

No.18 18/10/29 12:59
自由人 

「うちの店長が織田信長だとするならば、田上店長は徳川家康といった所でしょうか。」

「僕が?」

「はい。狂犬の噂とは逆に冷静でなかなかの策士でいらっしゃるとのお噂を少し耳にしましたもので…」

「え?僕が策士家の家康?」

田上店長は少しボカンとした後に、

「じゃあ田村さんは濃姫ってとこですか。」

と即座に笑いながら言い返してきた。

「いや…濃姫ってわけでは…」

「いやいや濃姫でしょう?
それとも明智光秀にでもなるつもりなのかな?」

少し皮肉を込めたつもりがガッツリ笑いながら返されてしまった…

「田上店長、じゃあまた!」

声がしたかと思うと、
ドアを開け顔だけ覗かせた大ちゃんが田上店長に声をかけ、私の顔をチラッと見たかと思うとそのままぷいっと外に出て行ってしまった。

うげっ、なんなんだよ。

引きつる私に、
「神谷店長は何歳でしたっけ?」と田上店長が問いかけてきた。

「え~と23歳です。」

「マジか。僕より3つも歳下には見えないな。」

「ええ…むしろ…歳上に…みえる…かと…」

「あはは!顔立ちが大人っぽいですからね~。」

田上店長は可笑しそうに笑うと、

「さ、早く行かないと、せっかちな彼がヤキモキしながら待ってますよ?」

と、ミーティング室のドアを開けながら私に出るようにと促してくれた。

「あっ、すみません。では。」

慌てて頭を下げ挨拶をして外に出ようとした私の後ろから、

「困った事があったらいつでも言って下さいね。力になりますよ。」

と、田上店長の愉快そうな声が追いかけて来た。

No.19 18/10/29 21:02
自由人 

「何を話してたの?」

車を発進させながら大ちゃんがわざと明るく聞いてくる。

「あ~、うちの店長が織田信長タイプなら、田上店長は徳川家康ですねって…」

「ふ~ん、それどういう意味?」

「いや、田上店長が神谷店長はキャラ的に織田信長を思わせると言うから、まあちょっとそれに乗っけて田上店長を策略家と言われた徳川家康に例えたわけで…
ちょっと…嫌味だったんだけどね…」

「ふ~ん、要は田上店長に喧嘩売ってたってわけね。」

おい…先に喧嘩の叩き売りをしたのは誰だよ…

「まあいいや。それよりもこの後予定ある?」

「えっ?ううん特にないけど…」

「そうか。じゃあ夕飯食べて帰ろうか?」

「うん。いつものファミレス?」

「いや、ちょっと遠出でもいい?」

「あ、うん。」

私の返事に大ちゃんは高速道路方面へ車を走らせた。

「今、実家から通ってるの?」

「うん、やっと隣の地区に良さそうな2LDKのマンション見つけたから近々家を出るけど。」

「2LDK?一人暮らしなのに?」

「あ~…彼女も…住むんだ。」

大ちゃんが少し言いにくそうに答えた。

「そっか。遠距離じゃ寂しい思いさせるもんね。良かったね。」

そう言いながらもフッと心が寂しくなる。

いやいや何考えてるのよ。

私だって翔平という彼氏いるじゃない。

「ミューズはどうなの?
彼氏とラブラブなんでしょ?」

大ちゃんに聞き返され、少し答えに詰まった。

「う~ん、ラブラブと言うよりも、
一緒にいても疲れない相手って言うか、気楽に過ごせる関係っていう感じ。」

「そっか。それが1番大事じゃないの?
疲れる相手なんてまずダメでしょ。」

「そうかもね…」

疲れる相手はダメか…

やはり私達は
ダメになって当たり前の相性だったんだな。

「俺は疲れるタイプなんかな。
顔色を伺いながらビクビクするのに疲れたってフラれても仕方ないんだよな。」

大ちゃんがポツンと呟いた。

思わずドキン!とする。

私のこと?

「高校の時付き合ってた子だけど…」

あ、なんだ違うのか。
ビックリした。
それにしても、やはりみんな同じ事を思うんだね。

妙な所で共感をする。

「雨、降ってきたな。」

空は晴れているのに雨が降っている。

「狐の嫁入りって言ったっけ?」

私は独り言の様に窓の外を見ながら呟いた。

No.20 18/10/30 12:47
自由人 

「本当に1番欲しいものほど手に入らないよな…」

大ちゃんが私の呟きにまるで噛み合わない言葉を呟く。

大ちゃん?

「もしかして…まだ昔の彼女さんの事を?」

「いや、それはない。
完全に吹っ切れてる。
こうやって人に話せてるのがその証拠。」

「そうなんだ。彼女もいるしね。
ちゃんと大事にしてあげてる?」

「うん。今度の同棲の事もあいつが寂しいのは嫌だって言うから休日潰してずっと部屋探ししてた。
間取りもあいつが気に入る間取りが見つかるまで俺1人でも徹底的に探したし。」

「あれ?2人で探さなかったの?」

「うん。遠いからいちいち来るの面倒臭いしって託されてた。
俺の探した物件の品定めだけはして文句ばっかり言ってたけどね。
でも今の物件を見せたら喜んでくれてたからそれでいいんだ。」

「彼女のこと本当に好きなんだね。」

そう言いながらも、私は内心大ちゃんの彼女さんが羨ましかった。

「好き…か。
これ以上何も失いたくないって思うから、好きだ離したくないと思う相手と、
手に入らないと思うから、逆に欲しくて欲しくて仕方ないと思う無いものねだり?的に好きな相手と、どっちが本当の好きなんだろう…」

「どっちが?
う~ん、どっちなんだろう。
難しいこと言うね。」

「ミューズならどっちだと思う?」

私は…
どっちなんだろう。

「私は…私ならこれ以上失いたくないって思う方かな?
無理だとわかってても恋焦がれるのは辛すぎるし、途中で諦めちゃうだろうから。」

私は完全に大ちゃんの事を思いながらそう言っていた。

手に入らないものを今更望んでも仕方ないと思う自分がいる。
だからそれはきっと本当の好きじゃない…

「そっか。変な事聞いてごめん。」

大ちゃんは車のワイパーを止め、

「雨、上がったな。」

と言った。

「本当だね。」

私は車の窓越しに空を見上げた。

「そういえば、さっき田上店長にミューズはノーヒメだとか言われてなかった?」

大ちゃんが急に話題を変えてふってくる。

ノーヒメ?
ああ、濃姫ね。
聞こえてたのか。

濃姫。
織田信長公の正室。
このお二人、
ドラマ等、創作の世界ではよくベストカップルの様に描かれている。

「さあ?ノーヒメってなんだろうね。
私もよくわからなかった。」

何となく大ちゃんに言ってはいけない気がした私はシラを切った。

No.21 18/10/31 20:20
自由人 

「何だ、わからなかったのに返事してたのか。適当だな。」

大ちゃんが笑う。

私もつられて笑う。

車は少し前から高速道路を走っていた。

大きく視界のひらけた前方に夕焼け混じりの薄青い空が広がっている。

「綺麗な空だね。」

確か大ちゃんと初めて行った海で見た空もこんな感じだった。
懐かしい…

「ミューズはこういう空が好きだったな。」

あれ?
覚えててくれたの?

考えてみれば昨日の事すら忘れてしまいがちな鳥頭の私と違い、大ちゃんは色々な事を実によく覚えている。

「うん。あのビルの上あたりの薄いブルーの空。
あの色とか特に好き。
だってまるで…」

大ちゃんにもらったブルームーンストーンの様な色だと言いかけた私は慌てて口をつぐんだ。

「なに?途中で止めるなよ。」

「あっ、いや、この空の色がこの前見た変な夢と同じだなって思って。」

私は咄嗟に以前見た夢の話とすり替えた。

「なに?どんな夢?」

「えっ?え~と、笑わない?」

「笑うか笑わないかは聞いてから判断する。」

「うわっ、じゃあ言わない。」

「何だよ!早く言え!笑わないから!」

「う、う~ん。」




私は大ちゃんと再会する数ヶ月前にある夢をみた。

今でもその情景をしっかり思い出せる程ハッキリとしてとてもロマンチックな光景は私の胸に焼き付いて離れない。

まるでテーマパークのアトラクションの体験をしている様な、現実と非現実が混ざりあった世界の様な、不思議な感覚。
目覚めてもしばらくの間ボーッとした頭で、今体験していた事が夢であったと認識するのに時間がかかった夢。


大ちゃんに急かされて私はその夢の内容を語りだした。

No.22 18/11/01 08:11
自由人 

夕闇迫る空の下、霧に包まれた橋の上に私が1人でポツンと立っている。

目の前には広大な海が広がっており、
水平線の向こうには大きな夕日が沈みかかっていて辺り一面に黄金の光を放っている。
その海の沖合に夕日の光を受けてキラキラと浮かび上がる様に1隻の大きな海賊船らしきものが停泊していた。

その海賊船に行かなければいけない、
早く行かなくては!
謎の使命感と焦りで暮れゆく空と海賊船を眺めていた私の耳元で不意に声がした。

「飛んでいきなよ。飛べるでしょ?」

えっ?

声のした方に目を向けると、小さな妖精らしき生き物がフラフラと飛び回っている。

ティンカーベル!?

あ~、これ夢だ。

瞬時に全てを悟る。

「何で夢だと思うの?」

私の思いが即座に通じたのかティンカーベルが不満げに私の周りを飛び回った。

「えっ?だって、ティンカーベルに海賊船でしょ?これじゃまるで…」

ピーターパンと言いかけて私は止めた。

何となくティンカーベルに怒られそうな気がしたからだ。

「私、ティンカーベルじゃないけど。」

ティンカーベルもどきが不満そうな声を漏らす。

と、同時にそのティンカーベルもどきの姿が見えなくなった。

「飛べないの?じゃあ早く練習しようよ!早くしないと船が行っちゃうよ?」

今度は頭の中で声がする。

慌てて海賊船の方を見ると、
陽がほとんど沈みかけ黒に近い濃紺の空と薄い青い空がグラデーションになっていて、その空と黒みがかった海の間にキラキラとした光が点在している船の姿があった。

よく見ると、海賊船の至る所にランプが取り付けられており、それがいっせいに灯されている。
その光景はとても幻想的でまるで夢の中の世界の様であった。

いや…
実際に夢なのだけど…

「今夜はパーティーだからね。」

私の頭の中でまた声がする。

何のパーティーなんだろう…

「船長の結婚式。」

ウフフと笑う様な声の後に、

「だから早くして!
時間が無いから!」

とイライラとした声に急かされ、

「どうやって飛ぶの?」

と思わず聞いてしまった。

「自分が飛ぶことを想像するの。」

え?それだけ?

「それだけ。」

嘘くさいなあと思いながらも心の中で想像すると、

フワッ。

体が浮いた。

No.23 18/11/01 12:59
自由人 

「嘘っ!浮いたよ!」

「もっと強く想像して!」

グ~ン!!

体が高く飛び上がる。

うわわわわっ。

焦った途端に体はストンと着地した。

「想像するの止めたら飛べなくなるよ。」

なるほど。

妙な納得をする。

いつの間にか私の頭の中で、
これは夢なのだという気持ちは消え失せていた。


「じゃあ早く船に向かって飛んで!」

頭の中の声が更に私を急かす。

「ちょっ、ちょっと待って、進まないんだけど?」

「船まで行きたい!って思うの!」

こんなことも分からないのかと言うようにイライラした声が頭に響く。

そうだ。
早く行かなきゃ。

心を落ち着けて空に浮かぶ自分の姿を想像する。

フワ~~ッ。

体がどんどん上に上がっていく。

もっと。
もっと。

そのうちに自分が今までいた橋がどんどんと眼下で小さくなりだした。

よし、そろそろだな。

船に行きたい!!

ヒュンッ!

進んだ!

頭の中の声はいつの間にかしなくなっている。

後は自力で頑張れってか?

途端に速度が落ち出しユルユルとその場に停止してしまった。

あ、常に船に向かって意識を保たないと止まっちゃうのね。

もう一度、船に向かって意識を強く持ち願う。

ヒュ~ン!

また船に向かって真っ直ぐに進み出す。

だんだん船が近づいてくる。

何て大きな船…

今で言うならば、
ちょうどパイレーツ・オブ・カリビアンの映画に出てくるような立派な海賊船が私の行く手に待ち受けていた。

近づくにつれ、沢山のランプに照らされた甲板の様子が見えてきたが、甲板には誰もいない様だった。

だが、ざわめく人の声や音楽らしきものもうっすらと聞こえてくる。

みんな下の船内にでも集まっているのだろうか。

船長の結婚パーティーって言ってたけど、私は何故そこに行くんだろう…

考えた途端、意識が現実に戻り始めた。

これ…夢だよね?

途端に失速したかと思うと、どんどん体が落下し出す。

ヤバイ。

後、少しなのに…

お願い。
船まで何とか…

落下しながらも必死で手足を動かし何とかたどり着こうともがく。

後少し…

もう少しの所で力尽き海に落ちようとしていた私の腕が誰かに捕まれて船に引きずり込まれた。

えっ?だれ?

驚いて見ると、それはよく映画等で見るような海賊の出で立ちをした大ちゃんその人であった。

No.24 18/11/01 22:10
自由人 

「え?あの、大ちゃん?」

腕を掴まれたまま問いかける私に、

「え?」

と大ちゃんは不思議そうな声を出す。

「え?人…違い?」

よく見ると彼はかなり日に焼けており、剥き出しになった腕は浅黒く筋肉がガッチリとついていて太い。
少しクシャクシャとなった髪も肩につく程長く無造作に後ろで束ねられていた。

もしかしてこの船の船長?

咄嗟にそう思った私は慌てて掴まれた腕を振りほどこうとするが力の差がありすぎるのかビクともしない。

「………か?」

私の腕を掴んだまま、怖いくらいの真剣な顔つきで「船長」が何かを問いかけてきた。

何を言っているのか聞き取れはしないものの、私とその「船長」は初対面に間違いないと思った私は、

「この船の船長さんですか?」

と聞こうとして口を開きかけたが、

「会いたかった…」

え?

「あなたに…やっと…会えた…」

え?え?え?

突然、自分の質問とはまるで違う言葉を耳にした私は少なからず狼狽えた。

その言葉を発しているのは紛れもなく私自身の口からであり、その言葉と共に私の目から止めどもなく涙が溢れ出す。

私の言葉を聞いた船長は少し悲しい目をすると静かに首を横にふり、私を抱き上げるとお姫様抱っこの様にして歩き出した。

船長は私を抱っこしたままゆっくりと船室に繋がる階段を降りて行く。

「あの?どこに?私はどうなるんですか?」

やっと「自分の言葉」で質問をした私に、

「お前が決めろ…俺は…」

また何を言っているのかちゃんと聞き取れなかった。

この時にはもう「目覚めの時」が近づいていたのであろう。

声が聞き取りにくくなっているのと同時に周囲の景色がだんだんボヤけてきていた。

消えないで。
もう少し。
もう少しだけ。

私の中の違う誰かが必死で懇願している声が聞こえた様な気がして、すがりつくように私は船長の顔を見上げる。

船長の唇が私の唇に触れた。

柔らかい…

もう辺りの景色はほとんど無くなっている。
そして…

「私は!!」

遠くから叫ぶ様な声がし、私はその声によって眠りから目覚めた。

No.25 18/11/03 17:09
自由人 

「はっ、何それ。」

大ちゃんが鼻で笑う。

ちっ、やっぱり笑うんじゃん。

しかも馬鹿にして。

「笑わないって言ったのに…」

拗ねたように言う私に、

「ゴメンゴメン。
でもよくそんなに恥ずかしい夢見るもんだなと…」

うっせ~よ。

「で?俺か俺に似た奴だかがミューズをお姫様抱っこしてその後は?」

「えっ…それは…」

キスのくだりは流石に恥ずかしくて話してはいなかった。

言えばどうせ、

「欲求不満なんじゃない?」

とか言って更に笑うに決まってる。

返事に詰まる私の代わりに、

「お姫様抱っこしたミューズをそのまま階段の下に投げ落としたかな?」

「そのあと、身代金をがっぽり請求とか?何せ海賊だしな。」

大ちゃんが嬉しそうにストーリーを外道な方向に進めていく。

「なんでわざわざ、会いたかった!って泣きながら身代金取られに行かなきゃいけないんだよっっ!!」

私の言葉に大ちゃんが不意に笑うのを止めた。

「ね?その2人…結局どうなった?」

「えっ?」

「いや…何でもない。
さて、もういい加減、妙な夢の話は終わりにして何を食べたいか考えてよ。
腹減ったし。」

自分が話せって言ったんじゃん。
妙な夢とか言うなあっ…

ブツブツ小声で文句を言う私を無視し、急に真面目な顔つきになった大ちゃんは無言でハンドルを握りしめていたが、

「お姫様抱っこして欲しい?」

「へっ?言われてる意味がよくわかんないんだけど?」

「まあそのうちしてやるよ。
抱き上げてゴミ捨て場に捨ててやろっ♪」

私の疑問をまるでスルーし、小学生男子が言うような全く面白くも何ともない冗談を言い放つと、
大ちゃんは嬉しそうにクックッと1人で笑った。

No.26 18/11/04 11:05
自由人 

「ほら焼けた。」

大ちゃんが焼けたお肉を皿に入れてくれた。

「ありがとう。
うわっ!美味しい!」

「でしょ?ここの焼肉屋安くて美味しいんだ。」

喜んで頬張る私を大ちゃんがニコニコと見守る。

大ちゃんオススメの焼肉屋。

そういえば私達って何かといえば焼肉食べてたよね。

で、大ちゃんがやっぱりこうやってマメに焼いてくれて、私はただ食べるだけで。

昔に戻ったみたいだな。
少し心が和んだ。

「さてと、ではこれからの事なんだけど。
とりあえず朝礼や終礼で今後の店の方針について話をしたいからミューズもフォロー頼むね。」

……

何の前振りもなく仕事の話かよ。

いきなり現実に戻ったみたいだな。
少し心が荒んだぜおい。

「う、うん、わかった。
フォローってどうすれば良いかまだわからないけど…
私にできる事って何かあるかな。」

「副店長は店長の女房役だろ?
俺が皆をとにかく引っ張るから、細々した事やその他雑用的な事を頼む。」

妻か!

あ、女房役か…

「わかった。なるべくフォローできるように頑張る。」

頷く私の唇の端に大ちゃんの人差し指がそっと触れる。

えっ?

「タレついてる。お子様かよ。」

大ちゃんは笑いながらその人差し指を軽く舐めた。

あっ…
胸がドキーンとなった。

「うん?なに?」

大ちゃんは平気な顔で不思議そうに聞き返してくる。

「あ、いやっ、なんでもないよ。
それよりも、とりあえず明日は土曜日だからパートさん以外は揃うね。」

「そうだな。パートさん達には俺が個別で話をしていくから問題ない。
ミューズは主にバイト達への指導を頼む。」

「わかりました。」

私は大ちゃんの恋のパートナーにはなれなかった。
だから仕事のパートナーとしては何としてもその役割を果たしたかった。

「うん、頼む。」

大ちゃんがニッと笑うと私の方に拳を突き出してきた。

「うん!」

私はその拳に自分の拳を軽く当てる。

こうして、私と大ちゃんは店長と副店長として新たな関係のスタートを切った。

No.27 18/11/05 12:46
自由人 

「おはようございます!」

朝の出勤のバイトの子達が続々と出勤して来る。

朝のメンバーはと、高3の加瀬大吾君、1ヶ月前に入った大学生の渡部真由ちゃん、1年目の専門学校生の井川理恵ちゃん、そして…

「あれ?牧田君は?」

「さあ?」

3人が揃って首を横に振る。

ま~き~た~。

また寝坊だな。
これで3回目かな?

2回は私の早番の時だったから注意をして済ませていたが、さすがに3回目ともなると…

遅番の大ちゃんが朝礼に参加するために朝から来る。

大ちゃんはかなり厳しい。

3回も寝坊で遅刻となると、クビにされる事は容易に想像がついた。

電話かけてみよう。

まだ牧田君は携帯電話を持っていない。
自宅の電話に電話をかける。

プルルルル。
プルルルル。

「おはよう!」

背後から声がして、振り向くと大ちゃんがニコニコとしながら立っていた。

げげっ。

思わずガチャリと電話を切った私に、

「どこにかけてた?」

「あ、あの…牧田君がまだ…」

「なるほど。じゃあ俺がかけるよ。
朝礼は後回しにするから、他の子達に開店準備を先にさせて。」

「わかりました。
あの…甘いかもしれませんが…
叱るのは程々に…」

「ん?叱られないとわからないでしょ?」

「ま、まあそうなんですけど…」

そう答えながらふと後ろに視線を感じて振り返ると、バイトの3人が不安そうな目でこちらを見守っていた。

「ああ、ごめんね。
先に開店準備します。
今日の朝礼に時間を取りたいから作業割り当ての分が済んだ人は終わっていない人を手伝って早急に終わらせて!」

私の指示に「はい!」の返事と共に3人が散らばっていく。

さて、私もレジの準備をしなきゃ。

金庫を開け、キャッシュトレイを取り出しレジのドロアにセットする。

キーを差し込みレジの起動。

店内の電源ON。

店内チェックその他諸々…

「終わりました~!」

作業中の私の元にバイト3人が戻ってきた。

「は~い!店長を呼んで来るから店内で待ってて。」

大ちゃんを探しに行くと、大ちゃんは休憩室でのんびりとタバコをふかしていた。

「牧田君に連絡つきましたか?」

「ああ、ついた。
やっぱり寝てた。
もうじきすっ飛んでくるよ。」

大ちゃんは笑いながらタバコを消すと、

「さて、先に朝礼始めてようか。」

と立ち上がった。

No.28 18/11/06 13:50
自由人 

大丈夫かな?

「神谷店長」と仕事をし出してから3ヶ月、神谷店長はひたすら厳しく怖い。

狂犬と言われるのも頷けるレベルだなとつくづく身をもって思い知らされ出していた。

牧田君、怒鳴られすぎて怯えて落ち込んでなければいいけど…

牧田君は自由奔放で扱いにくい所はあるが、私に服装等の注意を受けた次の出勤時には髪を黒く染め、ピアスも全部外してきた。
もちろん足にはスニーカーも履いている。

「なかなか真面目君スタイルになったね。」

「だって姉さんがあれじゃダメって言うから…」

「姉さん言うな。田村さんと呼びなさい。」

私の呆れ顔にへへへと嬉しそうに笑う彼はどこか憎めない。

明るくて物事の飲み込みが早く仕事も早い彼は、バイトの中でも人気者になっていた。

できれば辞めて欲しくはないんだけどな。

「すみません、直ぐに戻りますから先に朝礼を始めててもらえますか?」

大ちゃんが軽く頷いたのを見届けた私は駐車場に様子を見に行こうと外に出た。

途端、
ババババババ!
原付バイクがものすごい勢いで駐車場に入って来る。

バイクのエンジンを停めるのもそこそこに転がり落ちる様にバイクを降りた男の子がこちらに向かって猛突進してきた。

「牧田君?!」

「あ!おはようございます!
まさか店長から電話あるとは!」

「怒鳴られた?」

「いえ全く。でも逆にそれが怖くて!」

かなり焦った様子の牧田君が走りながら叫ぶ。

ヤレヤレ。

私の時にもそれぐらい焦れよ…

呆れながら少し安心した。
怯えてはいるがあまり落ち込んではいない様だ。

「とにかく直ぐに店内に行って!
朝礼始まってるから!」

私も走りながら叫び返した。

2人で店内に駆け込むと、

「すいませんでした!!」

と牧田君が大ちゃんに向かって深く頭を下げた。

「おう!やっと来たか。」

大ちゃんは笑顔を向けると、

「まだ始めたばかりだから、ちゃんと話を聞いておけ。」

と牧田君越しに私に頷き、

「では朝礼を始めます!!」

大きく引き締まった声で朝礼を開始した。

No.29 18/11/07 13:00
自由人 

「この店はハッキリ言って今のままではダメだ。
根本的に改革する。
売り場、接客、クリンリネス等の雑務、
やる事は色々ある。
そこで短期間で効率良く進めるために各自役割分担を設けた。」

「役割分担?」

バイトの子達が少し不安そうな声を出す。

「心配そうな顔するな。
バイトの役割は重要だが細かい分担はしない。
バイトチームは田村副店長の下についてくれ。
もちろん田村さんが休みの時は俺か他の2人の新入社員の指示を仰いでくれ。」

2人の女の子達が小声で、

「やった!」

と嬉しそうに呟くのを聞いて心が和んだ。
若い女の子達は歳の離れた妹みたいで本当に可愛い。

「うおっ!やったっ!
姉さんよろしく~!」

牧田が騒ぐ。
はあ、あんたってば…

呆れながらも憎めない牧田君につい笑ってしまう。
和やかなムードの中、ふと気がつくと加瀬君がじっとこちらを見つめている。

加瀬君?

私と目が合った途端に加瀬君は急に下を向いてしまった。

この子もねえ…
仕事は真面目にやるんだけど、ちょっと影あるっていうか…

「じゃあ朝礼はここまで!
各自持ち場について開店に備えて!
今日もよろしくお願いします!!」

元祖影キャラが元気良く朝礼を〆め、

「よろしくお願いします!!!」

バイト、いや田村チームのメンバーが元気に返事をして一斉に広い店内に散らばっていく。

よしっ!

頑張るか!

気合を入れ直した私の耳に、

プルルルル
プルルルル

と電話の鳴る音が聞こえてきた。

「もしも〜し!
お疲れ様で〜す!
本社の森崎です!」

電話を取った私が名乗るや否や電話の向こうにユッキーの元気な声が響き渡った。

No.30 18/11/08 21:36
自由人 

「おお!どう?
本社は慣れた?」

「ボチボチだよ~。
でもまだ慣れるとかの前にいきなりそっちの地区に行くことになったよ。」

ユッキーがふふふと笑う。

「えっ?!そうなの?!じゃあまた一緒に仕事できるの?」

思わず声が弾んだ。

ユッキーは私が〇〇店に赴任するのと入れ代わりで本社に呼ばれた。

ユッキーが入ったのはこれまた新しい試みで作られた部署で、
本社が郊外型店舗にどんどんと取り組んでいった様に新しい時代の流れに乗るべく今までとは違うやり方を一気に増やしたため、現場に本社からの人間を派遣し、
本社と現場の意思の疎通を良くしようという、
簡単に言うと、本社と現場の連絡係&アドバイザー係的なものにユッキーが任命されたのだ。

各地区毎に1~2人が配属される予定らしく、今週は〇〇店、翌週は✕✕店、合間に本社。
という様な、なかなかに忙しそうな役割ではあったが、

「ウロウロする方が性に合ってるし、また神谷&田村ペアと仕事ができることが嬉しいしね。」

ユッキーも嬉しそうにそう言うと、

「あ、だから神谷店長に代わって頂けます?」

とわざとバカ丁寧な言葉で返してきた。

「ああ!ごめんなさい。
直ぐに代わるね。」

私は慌てて受話器を置くと、
店内放送のスイッチを入れ、大ちゃんに電話の外線を取るように伝えた。

電話を切った後の大ちゃんは案の定ご機嫌だったが、

「本社からの人間に入り込まれるのは面倒だけど、
ユッキーなら賢いから余計な事は言わないだろうし、逆に本社へも言わないだろうし、店側としてもやりやすいよね。」

え?

少し打算的にも捉えられた大ちゃんの言葉に寒々しい物を感じた私は大ちゃんから視線を逸らすべく少し下を向いた。

純粋にユッキーと仕事ができるから喜んでるんじゃないんだ。

大ちゃんのその言葉に 昔の様な友達関係の感情を持ち込んで甘えた気持ちで喜んでいた自分とのギャップを感じた。

正しいのは勿論大ちゃんの方なのだろう。

でも…

妙な寂しさがこみ上げる。

もう大ちゃんは私よりもずっと先を歩いているのかな。

いつまでも昔のままの気持ちで立ち止まって職場で友達ごっこしてる方がおかしいんだよね…

ふわっ。

頭に軽く何かの重みを感じ慌てて視線を戻すと、大ちゃんがそっと私の頭に手を置き、その眼差しは愛しむように優しい光を帯びていた。

No.31 18/11/09 12:16
自由人 

「そんな顔しないの。」

私の頭を撫でながら大ちゃんが優しく微笑む。

「えっ…」

あまりにも急な大ちゃんの優しい声と眼差しに戸惑った。

「あの…」

バーンッ!!!

言葉を発しかけた私の背後のスイングドアが突然勢いよく開いたかと思うと、

「店長~!!」

元気な声と共に
牧田君が私達のいるバックヤードに顔を覗かせた。



うわわわっ。

ガコーン!

焦って大ちゃんから離れようと後ろに下がった私は、後ろ向きのまま足元の鉄製のゴミ箱に躓き倒してしまった。

「大丈夫っすか?」

牧田君が倒れたゴミ箱を元に戻してくれる。

「あ~、田村さん頭に虫がとまってたから取ってやろうとしてたらビビった
みたいだな。」

大ちゃんの笑いながらしれっとついた嘘に牧田君も笑う。

「へえ、姉さん驚き過ぎ!ゴミが散乱してますって!」

「姉さん言うなと何度言ったら…」

ブツブツ言いながらほうきとちりとりを用具入れから出し散らばったゴミを掃き集める私の頭の上で、

「そういば牧田、俺に何か用があったんじゃ?」

「ああ、お客さんが取り寄せを頼んでいた商品の引き取りに来てるんですけど、どこにありますか?」

「早く言え!
お客さんのお名前は?」

「平田様です。」

あっ、私が注文を受けたお客様だ。

それは数日前に会社のイベントの景品で使うからとまとまった数の注文を頂いて私が発注した商品だった。

「それなら昨日入荷してるはずだから…」

私は牧田君を連れて倉庫に向かうと、

「あった!これこれ。」

商品は出入口のわかりやすい場所に置かれていたが、その積み上げられた商品のケースを見た途端私の背筋に冷たい物が走った。

数が…足りない?

「牧田君ゴメン、これと同じ物が他の場所にも置いてないか探してくれる?」

私の言葉が終わるか終わらないかのうちに察しの良い牧田君が素早く倉庫を捜索しだす。

「おい何やってんだ?
いつまでお客さんをお待たせするんだ。」

少し不機嫌気味になった大ちゃんが倉庫に入って来て、私はますます焦り半分パニック状態になっていた。

青ざめた私の顔色を見て瞬時に察した大ちゃんは、

「入荷伝票を調べて来い。」

そう言いながら牧田君と共に倉庫の商品をくまなくチェックしだしたのを合図に私は事務所に走り、昨日の伝票を引っ張り出し入荷状況のチェックをした。

No.32 18/11/10 13:04
自由人 

「注文数100」
うん間違いない。
注文数は合ってる。

「メーカー品切れにより入荷数50」

えっ?…

目の前が真っ暗になる。

大量に注文をした時にごくたまにこういう事態がある。

そのトラブルを防ぐために、お客様からの依頼時には念のために必ずメーカーに問い合わせをして在庫確認をするのだが、
生憎と注文を受けたのが日曜日でありメーカーが休みだったため、翌日の月曜日に問い合わせをしなくてはならない所を完全に忘れてしまっていた。

慌てて店内に入るとお客様の元に走り、
「大変お待たせしております。
お客様、失礼ですが商品のご入用はいつ頃でございましょうか?」

「え?明日の日曜日なんだけど。」

私のタダならぬ様子を見見てとったお客様が訝しげな声を出す。

どうしよう…

「まさか無いっていうんじゃ…」

「平田様!申し訳ありません!
本日の入荷予定が配送の具合で遅れておりまして、夕方には入荷する予定なのですが!」

突然、お客様の声を遮るかの様に私の後ろから大ちゃんの声がした。

No.33 18/11/10 13:09
自由人 

「えっ?本当に間に合うの?」

お客様が不審そうな声を出すも、

「はい!入荷次第お届けに上がります!」

大ちゃんが深々と頭を下げる。

「いや、近所だからそれはいいよ。
じゃあまた出直すから入荷したら電話して。」

「はい!申し訳ございませんでした。」

大ちゃんはもう一度深く頭を下げ、
お客様が帰られたのを見届けると、
バックヤードに入るよう私に目で合図をした。

「申し訳ありません!」

「何故、確認を怠った?
お客さんに迷惑をかける事を何とも思わないの?」

「すみません…」

情けなくて声にならない。

「もういい。ウジウジしてる暇あったらやることサッサとやって!」

大ちゃんに厳しく言われ涙が出そうになるのを必死でこらえながら私は電話に手を伸ばした。

商品移動。

店舗間で商品のやり取りをする事。

発注ミス等で過剰な在庫を他店舗に貰ってもらったり、品切れになった商品を分けてもらったりする。

同じ地区の近隣店舗に片っ端から電話をかけ商品移動のお願いをした。

困った時はお互い様とどの店舗も快く商品を譲ってくれることなったがそれでもまだ数が足りない。
どこもそんなに大量の在庫を抱えている商品では無いのでそれは無理からぬ事だった。

やっと20個か…

受話器を置き、少しためらいながらも近隣店舗の電話リストの最後に載っている店舗の番号を確認しつつダイヤルボタンを押す。

「はい!お電話ありがとうございます!…」

電話の向こうから元気の良いハキハキとした声が響いてきた。

「あの…お疲れ様です。
〇〇店の田村です。」

「おお!お疲れ様です!
先日の会議はお疲れ様でしたね。」

気さくで親しげな声に妙な安心感に包まれた私は少しホッとしつつ、

「お忙しい所、申し訳ありませんがお願いがありまして…」

事の次第を説明し、商品を1個でも分けてくれるように頼んでみた。

「あ~そうなんですね、あと30個足りないのか…
ちょっと待ってて下さい。」

電話の向こうから保留音が流れ出す。

あ、これ未来予想図IIのサビの部分だ。

優しいオルゴールの音色にざわついていた心が落ち着き癒されていく様な気持ちになる。

何回目かのサビのメロディーが突然途切れ、

「お待たせしました!うちの在庫は10個ですね。」

と電話の相手が戻ってきた。

No.34 18/11/11 16:53
自由人 

「そうですか!あの、もしよろしければ5個ほど譲って頂けるとありがたいのですが…」

「5個?う~ん。」

電話の向こうで悩んでいる声がする。

だよね。

メーカー品切れの商品だもん。

いつ入荷するか分からないし、
あまり渡したくないよね。

「あの…無理なら2個でも…」

言いかけた私の言葉を遮り、

「いやっ、丸々10個渡しましょう。
それでも足りないですが。」

と明るい声が返ってきた。

「ええっ!?
でもそれじゃあそちらの店舗が…」

「なあに構いませんよ。
取りに来てもらえれば直ぐにお渡しできる様に用意しておきます。」

電話の向こうの人の良さげな言葉に思わず涙が溢れてくる。

「助かります!
ありがとうございます!」

私は涙をグッとこらえると、
電話の向こうの田上店長に心の底からお礼を言った。

電話を切ると直ぐに大ちゃんの元に報告に走る。

「田上店長のおかげで…30個までは何とか揃ったんですが…」

「ふ~ん。田上店長のおかげ…ね?」

大ちゃんの視線が冷たい。

ううっ気まずい。

私のミスのせいで田上店長に借りを作ってしまったばかりか、まだ足りない20個をどうしたらいいのかという問題が残っている。

どうしよう。

「田村さん。俺は今からちょっと出てくる。夕方までには戻る。
足りない分の商品の事はとりあえず気にしなくていいからしっかり店番しててくれ。
あ、それと中番の大川がちょっと遅れて来ると思うから。」

途方にくれていた私に大ちゃんはそう言い残すとさっさと店を出て駐車場の方に歩いて行ってしまった。

あ~今から私が電話をした周辺の店舗に商品をもらいに行ってくれるんだな…

私のミスのせいであっちこっちに散らばっている店舗に車で廻って…

本当に迷惑ばかりかけている。

ヤキモキして気分が沈んだが、大川君が出勤したら説明はしておかないといけない。

ちょっと遅れて来るって店長が言ってたな。
30分くらいかなぁ?

私は早番社員の仕事をしながらとりあえず大川君を待つ事にした。
しかし、

「おはようございます!
道が思ったより混んでまして…」

疲れた~といった感じの大川君が出勤したのは、30分どころか出勤予定時間を2時間も過ぎてからだった。

No.35 18/11/12 12:49
自由人 

「事故渋滞でもあったの?
相当遅かったね。」

今頃、地区内を車で移動しているであろう大ちゃんも巻き込まれているかもしれないと不安になった私は大川君にそう聞くと、

「いえ、そこまでの渋滞じゃなかったんですけど、何せ地区の店舗巡りだから時間がかかってしまって…」

と、大川君がおかしな事を言う。

えっ?

「もしかして、大川君が店舗移動の商品を持って来てくれたの?」

「はい。家を出る前に店長から電話がかかってきました。
商品は倉庫に置いてあります。」

そういえば大川君も車通勤だった。

と、すると大ちゃんは一体どこに?

大ちゃんはお昼を過ぎても戻って来ない。

携帯にかけてみたが着信に気づかないのか、運転中だからなのか、出ない。

「店長、どうしたんですかね?」

大川君が少し不安そうに聞いてくる。

「もしかしたら地区外の店舗にも商品をもらえる様に頼みに行ってくれてるのかも…
とにかく先にお昼休憩に行ってて。」

「え?でも田村さんは休憩まだですよね?」

「うん、私はいいから休憩とってきて。」

休憩に行ってもとてもじゃないがご飯など喉を通らない。

「おはようございます!」

そのうち夕方からのバイトの子達が続々とやってきた。

もうこんな時間!?

慌てて事務所で簡単な夕礼をする。

「店長は外出中ですので、もう少しすれば戻って来られると思…」

「あ~っ!!疲れたっ!!
お客さんに電話して!!」

突然、外で大声が聞こえたかと思うと事務所のドアが勢い良く開いた。

「あっ!うわっ!ビックリしたっ!」

驚く私に、

「早く平田様に電話っ!」

大ちゃんが私に移動商品の受け渡し伝票を押し付けながら急かす。

数枚ある伝票には平田様にお渡し予定の商品名と受け入れ個数が記載されていた。

5…5…4…3…2…1…

6枚の伝票の合計は20個。

20個!?

「早く電話っ!!」

大ちゃんの厳しい声に私は飛びつく様に電話の受話器を取った。

No.36 18/11/13 12:40
自由人 

「これで全部積み終わりました。」

商品をお客様の車に積み終わった大ちゃんがお客様に声をかける。

「いやあ、2人がかりで手伝ってもらって悪かったね。」

「いえ、とんでもないです。
それよりもこちらこそ何度も御足労頂きまして申し訳ありませんでした。」

大ちゃんはピシッと足を揃え深々と頭を下げる。

続いて私も頭を下げる。

「近所だから大した御足労じゃないよ。ありがとね。」

ニコニコと優しい笑顔のお客様が帰られたのを見届けると、大ちゃんは私をじっと見つめた。

「あの…本当にすみませんでした。」

「お昼食べたか?」

「え?あ…食べて…ません。
店長は?」

「俺もだ。」

うっ、地区外の店舗を廻って商品をかき集めてくれてたから食べる暇が無かったのか…

「すみません。」

シュンとうなだれる私に、

「もういいよ。」

大ちゃんは優しく言うと私の肩を軽くポンと叩き、

「この埋め合わせは今度休憩が一緒になった時のランチ奢りでいいよ。」

と軽く笑った。

店長と副店長の休憩が一緒になる事なんてほぼ無いのに…

事務所に戻った私は移動商品伝票のデータ入力をしようとパソコンに向かったが、

……

え?

私は伝票を何度も見直した。

伝票にはそれぞれ移動商品の伝票を発行した店舗の名前が記載されている。

大ちゃんが持ってきた伝票の発行店は以前大ちゃんがいた地区の数店の店舗だった。

100kmは離れてる地域だよ?

しかもその地域の店舗間の距離はかなり遠いはず。
そこに行って店舗を廻って…だと余裕で更に倍位の距離になる。

「どした?何かおかしかったか?」

ちょうど事務所に入ってきた大ちゃんが私の肩越しに覗き込んで来た。

「あの…店長…
この地区まで行ってくれてたんですか?
かなり走ったんじゃ…」

「ああ、合計300km程だから大した事ないよ。
少々無理が通せる地区はここしか無かったし。」

「すみません…」

「いいよ。それより休憩取ってないんだろ?
もうそろそろ上がりの時間だから時間になったら早く帰れよ?」

笑顔の大ちゃんに私は思い切って、

「あの、店長。もし良ければ夕食ご一緒しませんか?
気持ちだけですがご馳走させて下さい。」

と聞いてみた。

No.37 18/11/13 21:36
自由人 

「えっ?今日?」

「はい。」

「あ~ごめん。夕飯は…」

少し間が空き、気まずそうに言い出した大ちゃんの態度で瞬時に察した。

「あっごめんなさい。
彼女さんと…食べるんですね。」

「うん、ごめん。」

「いえいえこちらこそ。
じゃあせめてもの気持ちとして、仕事終わってから店長含めみんなにジュースでも差し入れしますよ。」

「うん、ホントごめん。」

「いえいえこちらこそ。」

仕事を終えて近くのコンビニに皆のジュースを買いに行きながら後悔した。

もう気軽に誘ったり馴れ馴れしい事しちゃいけなかったんだ。

私には彼がいるし向こうにも…ね。



店に戻るとジュースの袋を大ちゃんに渡し、

「今日は本当にすみませんでした。
お手数ですがバイトの子達に後で配ってあげて下さい。」

と頭を下げて帰ろうとしたが、
大ちゃんは何故かムッとした顔をして袋を受け取ろうとしない。

「あの?どうしましたか?」

「何で敬語なの?」

「へっ?何がですか?」

「だから何で敬語なの?」

「えっ?上司なので…」

「いつも仕事外は敬語使ってないでしょ?」

えっ?えっ?えっ?

意味がまるでわからなかった。

「あっ、え~と、ついまだ仕事中のつもりで…」

私の言葉に嘘は無かったつもりだったが、大ちゃんは更にムッとした様子で

「そこに置いておいて。
ありがとう。お疲れ様。」

とぷいっと店内に行ってしまった。

何なんだよ一体。

仕事のミスのことまだ怒っているのかな。

悲しみがどっと押し寄せて来て涙が出てきた。

さっさと帰ろう。

早く帰って、そして、
優衣に電話だあっ!!!

妹の優衣は私とは真逆な性格でタイプ的には大ちゃんに似ている(と本人が言っていた。)

優衣なら大ちゃんが何故怒ったか教えてくれるかもしれない。

優衣は人見知りで物静かなタイプだったが、何故か私とはウマが合い姉妹仲はすこぶる良かった。

優衣~~!
私の愚痴を聞いて~~!!

思えば自分にとって何の得にもならない姉の愚痴を聞かされる気の毒な妹。

でも妹にベッタリ甘えていた姉はそんな事など構い無しに、話しを聞いてもらう事を心の支えとしていそいそと家路を急いだ。

No.38 18/11/14 12:50
自由人 

プルルル

ガチャ

「もしも…」

「優衣っ!私だよっ!」

「美優ちゃん?どしたの?」

毎度毎度いきなり叫ぶ姉の声に慣れ切っているのか、全く驚いた様子もなくのんびりと返してくる優衣。

ダダダダダ!と機関銃の様に一気に喋りまくった後に、

「あ、ごめん。今時間空いてる?」

とようやく相手の都合を聞く姉に対して、

「大丈夫だよ~。
でも、ちょっと先にトイレ行ってきていい?」

と、怒る所か逆に気を使って聞いてくる優衣。

「ああっ!ごめん!早く行って来て!
私のせいで膀胱炎になったら大変!」

「膀胱炎っ。」

優衣が笑いながら席を外し、戻ってきた時には私の話に対する分析は既に終わっていたようで、

「それね~、美優ちゃんの誘いを断ってしまって悪かったなと凄く気にしていた所に、美優ちゃんがよそよそしい態度を取ったから寂しくなっちゃったんだね。」

と言い出した。

「えええええっ?!
そんなつまんない事で?」

さすがに優衣の見解は外れているであろうと思った。

あの「信長」とも言われる狂犬がそんな女々しい事で?

「え~と、仕事のミスして迷惑かけたのに、更に厚かましく彼女持ちの自分を食事に誘ったりして無神経な奴め!!と怒ったんじゃないの?」

「何でそんな発想になるのかわかんないんだけど…逆だよ逆!」

優衣が面白そうに笑う。

「美優ちゃんが自分に対して気を使ってくれた事が嬉しかったんだよ。
でも断ってしまったからものすご~く気にしてたとこに、
よそよそしく敬語使われてガーン!といった所だね。」

「迷惑をかけたお詫びのつもりだったから気にしなくていいのに…」

「こちらはそうでもさ、
向こうはせっかくの好意を無下にした事が気になるのよ。」

「仕事のミスの事はもう怒っていないの?」

「もうとっくに完結してるよ。
仕事は仕事。
結果オーライになればそれで終了。」

「それにさ、」

と優衣は続けて言う。

「彼がそこまでしてくれたのはもちろん店長としての責任が1番だけど、
すみませんと凹んだ美優ちゃんの顔じゃなく、
ありがとうの笑顔を見たかったんじゃないかなあ?」

なるほど。

「接し方が分からなくて難しい…」」

自信喪失気味な私の言葉に、

「2人は逆のタイプだからね。
気まずくなった時の回復呪文を教えてあげるよ。」

優衣は楽しそうに笑った。

No.39 18/11/14 20:20
自由人 

「おはようございます。」

翌々日の月曜日、中番の私は事務所のドアを開け中を覗き込んで挨拶をした。

今日の早番は大ちゃん。

昨日は大ちゃんは公休だったため、あれ以来の顔合わせとなる。

「おはようございます。」

予想通り、いや予想以上に大ちゃんの声が暗い。

私の方を見ようともせず、パソコンのモニターにかじりつくようにして入力作業をしている。

うっは~
気まずい。

仕方ないのでとりあえずそのまま休憩室奥のロッカールームで着替えを済ませ店内に入った。

「おはようございます!」

平日の朝~昼はバイトの子はおらず、
パートさん達が中心のシフトになる。

パートさん達に挨拶をしバックヤードに戻って来ると、事務所から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

笑っているのは店長と沖さんだ。

ちっ、沖さんには笑えるんじゃねえかよ。

「じゃあ店長、入力よろしく~!」

上機嫌な声と共に沖さんが事務所から出て来た。

「おはようございます。」

「あっミュ~ちゃんおはよ~!」

「店長ったらね、なかなかパソコン使わせてくれなくて、
もうっ店長!独り占めしないでよねっ!
って責めちゃった。」

沖さんが嬉しそうに報告してくる。

うはぁ…命知らずだなおい。

「でも私も入力作業あるから、どうしようかなぁ?って待ってたら、
もうっ!僕がやっておきますよ!だって。粘り勝ちしちゃった。」

マジか。
それ、私がやったら粘る前に斬り捨て御免だよ…

「そうだ~!ミューちゃん、昨日の伝票で入力し忘れてたのあったでしょ?
店長がわざわざそれを横にどけて放置してたよ?」

オーマイガーっ!!!

「店長、しばらくかかりそうだからミューちゃんも入力をお願いしちゃえば?」

沖さんが死亡フラグ確定な提案を嬉しそうに押し付けてくる。

ぐぬぬぬぬ。

「ほら、早くしないと12時過ぎちゃうよ?」

沖さんが完全に楽しそうだ。

当時、システムの関係で前日の伝票入力は翌日の午前中までにしなければならない鉄の掟があった。

これは行かねばなるまい。
行かねばなるまいて…

「田村行きま~す…」

昔懐かしい機動戦士ガンダムの
「アムロ行きま~す!!!」

のパクリの様なセリフを弱々しく吐き、

「頑張って~!」

と沖さんの声援?浴びつつ、
アムロもといタムラはヨタヨタと戦地へ赴いたのであった。

No.40 18/11/15 12:12
自由人 

敵は背後に私の気配を感じつつも、
あくまで「気づかないふり」を貫き通す。

気づかないふりどころか、
「話しかけるな」オーラもその全身に纏出し、どうやら戦闘モードに入った様だ。

カタカタカタ!!
乱暴に鳴り響くキーボードの音が
ミサイル攻撃の様に私を襲う。

うおおおっ!
どうしよう…

あっ!!そうだっ!!

優衣に教えてもらった魔法の回復呪文を思い出した。

効きますように。
ドラクエの回復呪文の中でもヘッポコ中のヘッポコ「ホイミ」程度の効果でも良いです。
どうか効きますように…

祈る様な思いで呪文を唱えてみる。

「あの…先日は…ありがとう。」

カタカタ…カタ。

何と!
敵の動きが止まった。

「私、本当に嬉しかった。
ありがと…ね?」

敵がゆっくりとこちらに体を向ける。

え~と、え~と、

教えてもらった呪文は「ありがとう」
と「嬉しい」のみなんだけど?

ちょっとこの後何を唱えりゃいいのよっ。

「別にいいよ。」

敵が少しはにかんだ。

何と!呪文が効いている!!

更に、更にアドリブで何か言わなくてはっ!

「あの、あの、お昼奢らせて…だから一緒に食べ…あああっ!
違う時間だった!ああ~…」

シ~~ン

早番の店長と中番の私は当然ながら休憩時間が違う。

敵の顔からはにかんだ表情は既に消え失せ、「無」の表情になっている。

詰んだなこりゃ…

「俺この作業終わらないと休憩入れないから。
このペースだと難しいかも。」

あっ、もう参りました。
だから「無」は止めて下さい…

「あっ、うんわかった。
お邪魔してごめんね。」

慌てて立ち去ろうとした私に、

「これどうすんの?」

敵が私の未入力の伝票をヒラヒラさせる。

ひょおおおおお!

しまった。
それを解決しに来たんだったっ!

「俺がやる方が早いでしょ。
やっておくから俺の休憩はズレるからと沖さんに伝えといて。」

敵はそう言うとまたパソコンに向かい、さっきよりも凄いスピードでキーボードを叩き出した。

「はい。あの、いつも…ありがとう。」

「い~え!」

もしかして…
ベホイミくらいの効果はあっ…た?

背中を向けたままの大ちゃんが少し笑っている様な気がした。

No.41 18/11/16 12:33
自由人 

当時バートさんは短時間勤務の方も何人かおり、朝から13時までと、入れ替わりで13時から16時までというシフトがあった。

人の入れ替わる13時台は社員の休憩を避け、社員は12時、14時、15時の休憩を取り、朝の部のパートさんやバイトの子達は12時、13時に分かれて休憩を取る。

「店長ったらとうとう休憩に来なかったわ。
13時からにでも行くつもりなのかしら。」

12時からの休憩が終わった沖さんが事務所の方を見ながらため息をつく。

14時になっても大ちゃんは事務所から出て来る気配がない。

「休憩行ってきま~す。」

店内のスタッフに声をかけ、
事務所を覗いた私に、

「何か買いに行くの?」
と相変わらず凄まじい勢いでキーボードを叩く手を休めずに大ちゃんが聞く。

「マックにでも行こうかと。」

「じゃあついでにフィレオフィッシュと照り焼きバーガーとポテトとコーラ買ってきて。」

「あ、はい分かりました。」

電車と徒歩通勤だと時間がかかるため、私は原付バイクを購入し、それで通勤を始めていた。

バイクに乗りマックへと急ぐ。

戻ると事務所を覗き、

「休憩室に置いておきますね。」
と声をかけ椅子に腰掛けた。

と、数分後に、

「終わった~!!!
はあ疲れた。全力出し切ったからしばらくはバソコン見たくないよ」

と大ちゃんが休憩室に入って来て私の隣の椅子にドカッと腰を下ろした。

それはおそらく大ちゃんに数時間に渡って力まかせに叩きまくられたキーボードも同じ気持ちであった事だろう。

キーボード壊れてなきゃいいけど…

「いくらだった?」

ひたすらキーボードさんの無事を心配していた私は大ちゃんに不意に話しかけられ焦った。

「え?あっ今日は奢りって事なのでお金はいいです。」

「ふ~ん」

シ~~ン

ああっ!
これから昼食って時に、いきなり消化が悪くなりそうな気まずい空気が漂ってきた~っ!

呪文、呪文を唱えねばっ!

「あの、私がお昼を一緒に…と誘ったんで仕事を頑張って早く終わらせてくれたんですよね?
ありがとうございます。」

焦り過ぎて結構な「上から目線発言:をした私に、

「うん。」

大ちゃんがあっさり頷いた。

No.42 18/11/17 10:02
自由人 

「ぐえええっ!?なんでっ?」

「ぐええって…死にかけのアヒルかよ?
行きたいオーラをムンムン出してたからでしょ?」

あ…左様でございますか。

行きたいオーラっていうよりは、呪文を唱えねば!の必死オーラだったのだが…

「誰かさんのワガママのおかげで仕事を片付けるの大変だったなぁ。」

大ちゃんが口では嫌味を言いながらも顔は可笑しそうに笑っている。

大変なら無理しなくて良かったのに。

逆の立場なら私は無理しないよ?

でもきっとこれ言うと怒りそうな気がするから黙っておこう。

「あ~疲れたな~。」

まだ言ってるよおい。

身体は疲れてもお口は達者の様だな。

「だ、だから~ご馳走しますって!」

「あ~肩凝ったなあ。」

「も、揉みましょうか?」

「そう?揉みたかったら揉んでもいいよ?」

こいつ…
肩揉むと見せかけて首しめたろか…

「ほれ。」

大ちゃんが後ろを向いてから肩をちょっと動かす。

「な、なんですか?」

「揉んでくれるって言ったじゃない。」

「ああ、はいはい。」

立って大ちゃんの肩を揉む。

大ちゃんにこうやって触れるのは久しぶりだな…

ふと、後ろからそっと大ちゃんを抱きしめたい衝動に駆られた。

……

無言の時間が続く。

グッ。

突然、大ちゃんが右手で私の左の手首を掴んで引っ張り寄せた。

「えっ?わわっ!」

引っ張られた勢いで後ろから大ちゃんの頭を抱く様な形になる。

「えっ?なに?」

驚く私の声に答えず、

「………」

大ちゃんは無言で私の腕をグッと抱く。

あ…
私の好きなシャンプーの香りだ。

私の鼻腔を懐かしい香りがくすぐる。

私の好きだった匂い。

大ちゃんの匂い。

私はそっと大ちゃんを後ろから抱きしめ大ちゃんの頭に顔を軽く押し当てた、

大ちゃんは何も言わず私の腕を抱く手に力を込める。

ずっとこうしていたいな…

もう何も考えず、ただこのまま心地よい大ちゃんの匂いに包まれていたかった。

ピリリリリ!!!

「わっ!!ビックリした!!」

いきなり私の携帯が大音量で鳴り響き、
それに驚いて立ち上がった大ちゃんの後頭部が私の顔面にクリーンヒットした。

No.43 18/11/18 11:17
自由人 

「痛って~ごめん、痛ってごめ、ごめごめ…」

大ちゃんが左手で後頭部を押さえ、右手てごめんごめんのポーズを取りながら「痛ごめん」を繰り返す。

お互い浮気の天罰じゃあ~~

しかし、バチが当たるとはよく言ったものの、まさか大ちゃんの後頭部に当たるとは想像だにしなかった。

それを言うなら大ちゃんの後頭部も
23年間生きていた今、まさか私の鼻と前歯にぶち当たる事になるとは夢にも思わなかっただろう。

大ちゃんが痛ごめのセリフを繰り返しながらのたうち回っている横で、
私はジ~ンコジ~ンコする前歯を押さえ、痛すぎて感覚の無くなりかけた鼻からの分泌物をひたすら気にしていた。

鼻血…出ません様に!

そのうち、溢れる涙と共に鼻からもサラサラした液体が流れ出し、
ビビりながらもティッシュで拭いてみると色は無色透明。

鼻水だっ。
セ~~~フ。

鼻と前歯は相変わらず
「ジンジンジン!ジンジンジン!ボワボワボワ~ン!」的なリズムで激しく痛かったが、少し余裕の出た私は自分の携帯を新ためてチェックした。

着歴1件。

あっユッキーからだ。

急いでユッキーに電話をかける。

「もしもし!お疲れ様で~す!」

嬉しそうなユッキーの声がする。

「お疲れ様~!どしたの?」

つられて嬉しさ全開の声を出した私に、

「今日は大ちゃんもミューズも出勤かな?
夕方に顔出しにでも行きたいんだけど。」

「そうなの?私は中番だけど大ちゃんが早番だからユッキーが来るまで帰らないように言っておくよ。」

私の言葉に、

「ありがとう。
大ちゃんを待たせないようになるべく早く行くからね!」

ユッキーは張り切った声を出し、じゃあまた後で!と電話を切った。

後頭部を時々触りながらもやっと落ち着きを取り戻し、氷と炭酸がほぼ消え失せたぬるいコーラをすすりつつ冷え切ったポテトをポソポソと食べていた大ちゃんに電話の件を伝える。

「そうか~、パートさん達がいる時間に来てくれたら紹介出来るからいいんだけどな。」

大ちゃんは相変わらず事務的な事を返してきたが、その顔にはいっぱい無邪気な笑顔を浮かべていた。

No.44 18/11/19 12:45
自由人 

ユッキーはパートさん達が上がる少し前に店に着いた。

早速大ちゃんがパートさん達にユッキーを紹介する。

「ユキちゃん、お久しぶり~」

さすがの沖さんもユッキーと久しぶりの再会に上機嫌だったが、

「もっとゆっくり話したいけど、主婦はそうも行かなくて…
また話しましょ!」

と名残惜しそうに帰って行った。

沖さんは少し前に結婚しているのだが、職場では旧姓の沖を名乗っている。

「次はバイト達に紹介するから。」

大ちゃんも素直に嬉しそうな声でユッキーに話しかけた。

バイトの子達は既に出勤していてそれぞれの作業を始めている。

2人がは店内に向かったのを見送り、私は事務所に入るとパソコンの前に座った。

今日は大ちゃんにパソコン占領されちゃってたからな。

その日の伝票の入力や本社への報告書の作成を始める。

コンコン。

事務所のドアがノックされ、

「姉さん、両替お願いします!」

と牧田君が入ってきた。

「姉さん言うなと…」

金庫を開けながらブツブツ言いかけた私の言葉を遮り、

「あの森崎さんて人、前にこの店にいたんですか?」

と牧田君が嬉しそうに聞いてくる。

「ああ、うん。キレイな人でしょ?」

「キレイですよね~!上品で優しそうだし!」

牧田君がやたら興奮する。

若いのう。

「森崎さんはこの地区のアドバイザーとして来てくれるんだから失礼の無いようにね。」

「アドバイザーって偉いんですか?」

「そうだね~無理矢理当てはめると店長と副店長の間くらいかな?」

「え~っじゃあ姉さんより上なんだ。
何もかも負けてるじゃないですか!」

うっせ~よ。

「でも大丈夫です姉さん!
森崎さんの方が上ですけど、僕だけは姉さんを応援しますから!」

かなりディスリ感入ってるけど
「僕だけは…」って、もしかして少しは私に気があるの…かな?

「じゃあ聞くけど、もしも私と森崎さんのどちらかとデートするってなったらどっちを選ぶ?」

「森崎さんですよ!!!」

もう帰れ。


コンコン!

「ユウヤ~両替は?」

遅い両替を取りに来たのか、ドアが開き加瀬くんが事務所を覗き込み牧田君に問いかける。

「あっ!ごめん。」

慌てて両替を渡すと、彼は軽く頭を下げて出ていった。

この子もねえ…

寡黙で陰のある加瀬くんの後姿を見ながら私は小さくため息をついた。

No.45 18/11/20 13:02
自由人 

「あの、田村さん。
少し良いですか?」

大ちゃんとユッキーが帰った後、
仕事の上がり時間となり、休憩室で帰り支度を始めていた私にバイトの井川理恵ちゃんがそっと声を掛けてきた。

「うん?どしたの?」

休憩室のドアを閉める様に目で促し、
椅子に腰掛けながら理恵ちゃんの顔を見る。

「あの…加瀬君の事なんですけど…」

やっぱり。

「また不機嫌なの?」

「はい。あの…私と真由ちゃんがゴミ捨て場で話しながらゴミを捨ててたらそれが気に障ったみたいで、早くしろ!みたいに横で大きな音を立ててダンボールを潰されて…」

「それからずっと機嫌が悪い訳ね?」

「はい…」

「ちょっと様子見て来るか。」

私は立ち上がり店内へ入った。

暇な時間帯ということもあり、お客さんのいない店内の薬壁カウンターで遅番の大川君が何やら作業をしていた。

「大川君!ちょっといい?」

顔を上げて私の顔を見た大川君に、

「加瀬君、荒れてるの?」

とそっと聞くと、

「店内ではそうでも無さそうなんですけど、どことなくピリピリした物は感じます。」

バーーーーン!!

苦笑しながら大川君がそう答えたのと同時に突然バックヤードの方で大きな物音がした。

「なんだ!?」

大川君とレジに立っていた牧田君が同時に声をあげた。

「積んでいた商品が崩れ落ちたのかも。見てくるよ。」

1人バックヤードに入ると、入ったすぐにトイレットペーパーのケースが転がっておりその横に加瀬君が立っていた。

トイレットペーパーのダンボールケースの横っ腹には大きな穴が開き、中のトイレットペーパーがボロボロになっている。

こいつはすげえな。

さすが元格闘家だと一瞬感心したが、
そんな事を言ってる場合じゃない。

「ついイライラしてしまってすみません。」

私が問うより先に加瀬君がボソボソとあまり気持ちのこもっていない謝罪の言葉を呟く。

「何故イライラしたの?」

「だって他のバイトの奴らまるでやる気を感じられないっていうか…
何かもうこんな店ずっとバカバカしいって思ってたらイライラがたまってきて…」

プチーーン

「はあっ?じゃあアンタがした事は何なのよ?
ふざけんな!!
そんなに嫌ならすぐに帰れ!!」

人生の中で後にも先にもあんなに人を怒鳴った事は無い。
店内にも確実に響き渡る大声で私は加瀬君を怒鳴り続けた。

No.46 18/11/21 18:56
自由人 

頭に血が上っていたので何を言ったのかはあまり覚えてないが、加瀬君の態度で周りが振り回されていること、何か不満があるならこういう形ではなく社員に報告すること等などを言った様な気がする。

はっ!

加瀬君の蒼白になった顔を見てやっと私は我に返った。

やば、言いすぎた。

加瀬君の拳がギュッと固く握られている。

殴られるな。

今度こそ鼻血出るかな?

何故か鼻血の事が気になって仕方なく、殴るなら顔はやめろ!ボディを狙え!
等バカな事を本気で心配する私をよそに、加瀬君は握った拳を緩めたかと思うとおもむろにトイレットペーパーを片付けだした。

「すみません…ダメにした商品は買います…」

「廃棄処分にするからいいよ。
それよりも閉店まで倉庫整理して頭を冷やしなさい。」

加瀬君を倉庫に行かせ店内に入ろうとスイングドアを開けると、大川君が近くに立っておりその顔は恐怖で引きつっていた。

丸聞こえだったか。

説明は不要だな。

「ごめん帰るね。後はよろしく。」

大川君が必死で首をブンブン縦に振る。

もうやだ帰りたい。

いや帰るけど。

気まずい思いをしながらも早く帰らなくてはと急いで帰路につく。

明日は副店長の会議&勉強会だ。

朝早いから支度して早く寝なきゃ。



翌日、殺伐とした店長会議とは逆に和やか~穏やか~な半分交流会を兼ねた会議&勉強会を終え、帰りの電車に乗ろうとした私の携帯が突然鳴った。

ん?
知らない番号だ。

スルーして電車に乗ろうとしたが、電話はいつまでも鳴り響く。

誰だ?

「もしもし?」

電話をとった私の耳にボソボソと元気のない声が響いてくる。

「あの…すみません。加瀬です。」

「加瀬君?どうしたの?」

「あの…店に来たら田村さんは会議って聞いたんで、もし良かったら終わった後少し話せませんか?」

さては昨日の件だな。

「もう帰るとこだしいいよ。店で話すのも何だからどこかで待ち合わせしようか。」

私は駅前の小さな喫茶店の名前を出した。

喫茶店に着くと加瀬君が店の前で待っていた。

しょげきっている様子で大きな身体が一回り小さく見える。

叱られた犬みたいだな。

大ちゃんといい私の周りにはワンコが多いなあ。

少し可笑しくなりながら

「お待たせ!中入ろうか。」

と加瀬君の大きな背中をポンッと叩いた。

No.47 18/11/22 20:13
自由人 

「ピアノだ…」

加瀬君が目を見開いて感嘆の声を漏らす。

シックなレトロ調にまとめられた店内は外から見るより広く、コーナーの一角にグランドピアノがドンと置かれている。

ここは私が以前住んでいたマンション近くの最寄り駅前。

近いと逆に行かないという通説通り、
私もこの店に来たのは初めてだった。

「何か大人のお店って感じですね。」

加瀬君がソワソワと店内を見回す。

「ご注文は?」

品の良さそうなマスターらしきおじいさんがオーダーを取りに来た。

「えと、ウインナーコーヒーお願いします。」

「え!?ウインナーコーヒー!?
あ、俺もそれで!」

加瀬君が興味津々といった目をして私の真似をする。

絶対「何か」を期待してるだろお主。

案の定、ウインナーコーヒーが運ばれて来ると加瀬君は不思議そうにカップを覗き込んだ。

「あれ?ウインナーは?」

……やっぱり。

てか本当にコーヒーにウインナーが浮いてたら飲むつもりだったのか?

「ウインナーコーヒーはウイーン風コーヒーって意味だよ。」

笑いながら教える。

「あっそうなんだ。俺、あ、いや、僕こんな大人っぽい店に来たことなくて…
何かいつも同級生とマックとかそんなとこしか行った事ないから、大人の女の人とこんな店に来れて緊張します。でも…嬉しい…」

「こらこら緊張する所が違うでしょ。今日話しに来たのは昨日の事でなんじゃないの?」

「あ、はいそうです。昨日は本当にすみませんでした。」

その言葉を皮切りに加瀬君は色々な事を私に話してくれた。

やっていた格闘技はスカウトされるほど強かった事、そんな中怪我をしそれが完治しても何故か急に格闘技に対する気持ちが冷めてしまったこと、友人関係、進路への不安etc.
彼は胸の中に溜めていたものを吐き出すかの様に一気にそれらを話し切った。

「そうか。色々あったんだね。
でも辛い気持ちがあっても周りへ八つ当たりはダメだよ?」

「はい。もうしません。
皆とも仲良くします。
だから…あの…またこうやって…」

「ん?また大人っぽいお店に行きたいの?
いいよ。今度パスタのお店でも行こうか。
その代わりちゃんと仕事頑張るんだよ?」

「ほんとですか?!
はい!頑張ります!!」

加瀬君が明るく答える。

そこには今までの暗い陰は無く無邪気に笑う18歳の男の子の姿があった。

No.48 18/11/24 22:05
自由人 

「大吾に随分なつかれたな。」

閉店後の軽いミーティング&雑談タイムで大ちゃんが可笑しそうに茶化してきた。

「へっ?何がですか?」

「知らないの?あいつが『田村さんの大ファン』ていうのバイトの間で広まってるぞ。」

「ええっ!?何でファン?
しかもバイト間の話の事を何故知ってるんですか?」

「牧田が笑いながら報告してきた。」

ま~き~た~!!!

「バイトの高校生をたぶらかすのは社員としてどうなの?
オバサンが11歳も下の若い男に手を出すなんて痛てえ!!!」

バチーーーーーーーン!!!

「痛っあ~~。今一瞬息が止まったぞ。絶対背中に手の形ついたわ。」

懐かしいフレーズだな。
てかそのまま息止めてしまえ。

「冗談だって!大吾に怒鳴り散らしたんだろ?
それでアイツがビビって服従してるんじゃないの?」

「うっ服従…というか怒鳴った事を何で知ってるんですか?」

「大川がビビりながら報告してきた。」

……………

「いやまあ確かにちょっと私も冷静さに欠けてたっていうかアレは大人気なかったと…」

「まあいいんじゃない?
アイツも本気で叱ってくれる人がいて嬉しかったんだろうし。」

だから大ファン?
大不安の間違いじゃね?

「はあ、てっきり嫌われるか怖がられると思ってましたけど…」

「最近の若い奴にしては骨があっていいんじゃない?」

「若干23歳の」大ちゃんがしたり顔で頷く。

まあ確かに。

「まあ何だかんだ言っても田村チームは大丈夫だろ。
それに引き換え俺のとこは…」

大ちゃんがため息をつく。

「新人君たち…ですか?」

「ああ、いや、新井はまあ何とか物になりそうだけど大川がなあ。」

私の脳裏に自信もやる気も無さげにふるまう大川君の姿が浮かんだ。

と同時に、
「神谷店長に睨まれたら病院送り…」
という田上店長の言葉を思い出す。

大ちゃんは情は深いが、
仕事に関しては自分にも人にもかなり厳しい。

それで体調や精神に不調をきたしたり、辞めたりした人はパート社員共に何人かいた事実を副店長同士の交流の中で私は既に把握していた。

うちの店初の「脱落者」にならなければ良いんだけど…

新井君にも相談してみようか。

そう考えた私の思いを覆すように、

「それと近々新井が他店舗に移動になるから心しといて。」

と、淡々と大ちゃんが私に告げた。

No.49 18/11/25 21:26
自由人 

「えっ、もうですか?」

言葉が出ない。

「ああ。うちの地区にまた新店が出来るだろ?
そこで使える奴ということで新井が抜擢された。」

はあ、いつもの事とはいえうちの会社のやる事といったら…

「ちょっと使えるようになったら抜かれるし。
うちの店は養成所じゃないっての。」

「養成所の神谷教官」はフウと息をつく。

「まっ文句言ってても仕方ない、大川はしばらく俺がついて再教育してみるからフォロー頼む。」

「わかりました。でも…私も何かあれば店長に頼っても良いですか?」

「もちろん!何かあったら直ぐに言って。」

大ちゃんが力強く返事をした。

この人とは大抵何でも乗り越えられる様な気がする。

彼は本当に厳しくて怖くてそれでもついていこうと思わせる。

強いカリスマ性を持つのだろうか。

現に新井君や牧田君は大ちゃんを崇拝し大ちゃんの言うことは絶対とばかりになっている。

でも「強すぎるもの」は時に人を潰す。

そして自分自身でさえも…

「何を考えてるの?」

大ちゃんが探る様に聞いていた。

「俺って怖い?」

げっまた心を読んだのか?

「うん。怖いよ。」

読まれてるなら…の私の言葉に、

「えっ…そうなの?怖い……」

驚く程に大ちゃんが凹んだ。

「えっ?だってみんなビビってるし、私も何回か胃痛起こしたよ?」

「えっ?!そう…なんだ…」

アカ~ン!正直過ぎる私のバカ。

てか自分の怖さをわかってなかったのか?
その事実が1番怖いわ。

「ま、まあまあ、美味しいココアでも飲んで帰りましょうか?買ってきますよ?」

慌てて敬語で機嫌を取ってみる。

「ココアなんて甘ったるいの嫌だ。」

子供かお前はっ!!

「じゃあコーヒー買ってきますね?」

「ブラックじゃないと飲まない。」

殴るぞ貴様っ!!

それでも急いでコーヒーと紅茶を買って帰ると、大ちゃんは見事に復活していた。

「おう悪いな。ご馳走様。」

嬉しそうにコーヒーを飲む大ちゃん。

やれやれ。

私も紅茶を1口飲む。

「あっこれ美味しい。」

「どれ?ちょうだい。」

大ちゃんが手伸ばしてくる。

「あ、口をつけちゃったから拭くよ。」

「いいよ。そのままで。」

強引に紅茶を奪い取った大ちゃんは、

「何これ甘い!よくこんなの飲めるな。」

と笑いながら更に紅茶をコクンと飲んだ。

No.50 18/11/29 20:32
自由人 

「新井が新店に行く予定が1ヶ月延びた。」

大ちゃんがいきなり切り出してきた。

「あ、はい分かりました。何か事情でも?」

唐突に話を振ってくる大ちゃんにやっと慣れてきた私は冷静にそう切り返した。

「新井の後釜の社員が先日中途採用で入った奴に決定したから。」

何だか嫌な予感…

「本社でほとんど教育受けずにこちらに放り込まれるから基礎教育をとりあえず頼む。」

やっぱり…
うちは養成所じゃないっつーの!

「で、その人が慣れるまでの1ヶ月、新井君がいてくれる事になったんですね?」

「そう。裏を返せば1ヶ月でなんとかしろ!ということだ。出来るな?」

出来るか?
ではなく出来るな?ってあんた…

やれ!ということか。
う~~む。

基礎を教えて…
パートさん達のフォローを仰ぐかな?

パートさん達はバイトの子達よりも職歴が長い。

30代の主婦さんがメインでしっかりした方も多く、フォローも上手くやってくれるだろう。

ただ…
気に入られたらの話だけどね。

どうか、可愛がられるタイプが来ますように!
心の中で必死に祈るも、そんな私の心配は杞憂に終わった。


「今日からお世話になります神田です。
よろしくお願いします。」

照れているのか少し顔を赤くして挨拶をする彼にパートさん達が一斉にざわめきたった。

「すっごいイケメン、モデルみたい。」

そう。
彼は人の顔の好み云々をぶっ飛ばす程に本当にイケメンだった。

モデルにはなるには少し身長が低めだったが、細マッチョでスタイルも良いし少し恥ずかしそうに話す姿も可愛らしい。

私も思わずボーッと見とれてしまったが、残念ながらイケメン=仕事ができるわけではない。

副店長の立場としては素早く現実に戻る必要があった。

「さて、じゃあとりあえず事務所に行きましょうか。」

まだザワザワしているパートさん達を残し彼と事務所に入り新ためて彼の履歴書に目を通す。

神田正樹 23歳。
え?神田正輝!?

思わず名前を2度見した私の様子で察したのか、

「あ、字は違うんですけどよく笑われます。」

神田君が恥ずかしそうに言う。

「あっいやいや、神田君もすごくイケメンだから大丈夫だよ。」

慌てて意味のわからないフォローをした私に、

「照れますね。でもありがとうございます。」

神田君が人懐っこい笑顔を見せた。

No.52 18/12/03 18:38
自由人 

「おはようございます。」

遅番の出勤時間よりかなり早く大ちゃんが出勤してきた。

「おはようございます。早いんですね!」

そう挨拶を返す私に、

「今日は中番が居ないからずっと1人だったろ?ちゃんとやれてたのか?」

大ちゃんが探る様に聞き返してくる。

うっっ

「あ~すみません。実は…」

かくかくしかじか、大ちゃんに説明する。

神田君への教育がほとんど出来てないから怒られるかな?
と秘かに怯えていたが、

「あっそ。松木さんは午後からもフリーだっけ?」

意外にも大ちゃんはアッサリそう言うと自分でスタッフの作業予定表を見に行った。

「フリーだね。神田君には午後一でレジを教えてから引き続き松木さんを付けて売り場メンテでもさせて。」

「分かりました。」


元々、松木さんはパートさん達の中でも断トツにシフトが入っており、レジにはほとんど入らずにフリーの立場も多い事から、こういう時に実に頼りになる。
この日から「神田君のフォロー役は松木さん」という図式が何となく出来上がった。

秘かに心配していた沖さんの事も、
沖さん自身が「頼るのは良いが頼られるのは嫌い。」というスタンスだったため、むしろ面倒臭い事を松木さんがやってくれるとばかりに喜んでいた。

他のパートさんも特に異論を唱える人もおらず、当初は何もかも上手く進んでいく様に見えた。


ある日、

「カンちゃんがお菓子を買ってくれたんですよ。」

松木さんが嬉しそうに私の目の前でチョコレートを軽く持ち上げてみせた。

松木さんは神田君に少しずつ甘える様になり、お菓子やジュース等をたまに買ってもらったりしていた。

「またオネダリ?綾ちゃんもお返ししてあげなきゃダメだよ。」

少し笑いながらたしなめる。

休憩時間等にはみんな少し気を抜いてお互いに愛称などで呼び合い、
神田君はカンちゃん、松木さんは綾ちゃんと呼ばれていた。

「大丈夫ですよ!今度休憩が一緒になった時はマクドナルドに行って奢ってあげるね!って約束してますから。」

「そうなんだ。」

「はい!私達もうすっかり友達なんですよ!」

松木さんが嬉しそうな笑顔を見せる。

仲良しの友達か。
いいな。

私もつられて笑顔になる。

異性の友達か、いいね。
カンちゃん優しいし羨ましいな。

私はそんな2人を微笑ましいと心の底から思っていた。


No.53 18/12/04 22:15
自由人 

「田村さ~ん、森崎さんて彼氏いるんですか?」

松木さんとの2人の休憩時、
口調は冗談めかしつつも、目はかなり真剣な松木さんが聞いてきた。

「え~?どうかな~?モテてはいるみたいだけど…」

何となく嫌なものを感じて曖昧に誤魔化した私に、

「そうなんですか?森崎さんて凄く綺麗ですよね。
カンちゃんと並んで話してるのを見たらまるでお似合いのカップルみたい。」

と松木さんは少し拗ねたように言う。

昨日から森崎さんことユッキーがうちの店舗にまわって来ている。

立場上、店長だけではなく他の社員達とも色々話をする機会も多い。

まさかと思うけど、ヤキモチ!?

「え、え~と、ほら、綾ちゃんの旦那さんも前に写真を見せてくれた時に思ったけどカッコイイじゃない?
綾ちゃんも可愛いし綾ちゃん夫婦もホントお似合いだよね?」

返事に困り松木さんの旦那様の話題を出したが、それが大きな地雷だった。

「田村さん知らなかったんですか?
私達はとっくに破綻してますよ。」

「えっ?えっ?ええっ?でも旦那さんの実家にまだ同居してるんだよね?」

「してますよ。だからこそ余計…なのかも…」

もう何か言えば言うほど地雷を踏む。

「あの…無神経な事ばかり言ってごめんね。」

謝る私に、

「大丈夫ですよ~!他のパートさん達にも普段から愚痴ってますから。」

松木さんがカラッと明るく笑顔を見せた。

「綾ちゃん職場ではいつも明るく笑ってるから…色々…あるんだね…」

「そうですね。ほんと色々あって辛いです。1人に…なりたい…」

松木さんは今までに見たこともない悲しげな表情をして呟いた。

「綾ちゃん?大丈夫?」

「あ、はい、ごめんなさい。
最近特に辛くて…」

「綾ちゃん、あの、吐いて楽になる様だったら良かったら話聞くよ?」

「ありがとうございます。実は昨日もね…」

松木さんが話しかけた途端、

コンコン!

「休憩中、すみません。
本社からの書類について店長から何か聞いてますか?」

新井君が休憩室を覗き込み、私にそう尋ねてきた。

No.54 18/12/05 13:04
自由人 

「あ~、休憩終わってからでいい?」

「それが今本社と電話中でして、至急確認したい事があるからと…」

「わかった。」

私は渋々立ち上がり、

「ごめんね。ちょっと待っててね。」

と松木さんに声をかけ休憩室を出た。

事務所に入ると店長の書類ボックスから人事関係の書類を取り出し電話に出る。

話は思ったよりややこしく時間がかかったため、電話を切った時には休憩時間はとっくに過ぎていた。

あちゃ~悪かったな。

慌てて松木さんを探しに行くと、松木さんは1人黙々と倉庫で作業をしていた。

「さっきはごめんね。良かったら仕事終わってからでも話しない?」

私の言葉に、

「ありがとうございます。
でも仕事が終わったら夕飯の買い物もあるし急いで帰らないと。
それに…」

松木さんは少し言葉を切った。

「遅く帰るとお義母さんに嫌味を言われますから…」

「そう…なんだ。話を聞いてあげられなくてごめんね。
良かったら夜に電話でもしようか?」

「いえ。旦那やお義母さんに聞かれちゃいますから。」

「あっ…そうだね。
じゃあまた何かあったら遠慮なく話して?でも本当に今日は大丈夫?」

「はい大丈夫です!明日の作業予定表を見たらカンちゃんと2人で休憩入ってるのが分かったんで元気出ました!」

「そうなんだ。良かったね。」

「はい!カンちゃんは私の栄養ドリンクみたいなものですから!」

悲しそうに落ち込んでいた休憩時とは打って変わって無邪気に嬉しそうな松木さんの顔を見ながら私は安心感と同時にモヤモヤとした不安感に襲われた。

松木さんの様子が私が今まで知っていた松木さんとは違う様な気がしたからだ。

何が?と言われても分からなかった。

ただ、漠然と得体の知れない不安がこの時の私を包んでいた。

No.55 18/12/06 08:44
自由人 

それはいきなりだった。

「店長!!松木さんが!
来て下さい!!」

大川君がひどく慌てた様子で事務所に飛び込んできた。

パソコンで入力作業中の大ちゃんはすぐに立ち上がり店内へと走って行く。

松木さん?!

気になりつつもお客様と電話中だった私は行くことが出来ない。

ようやく電話を切った私の元に沖さんと共に松木さんを両脇から支えた大ちゃんが戻ってきた。

松木さんは真っ青な顔をしている。

「松木さん?!」

「ミューズ!!休憩室のドア開けて!!」

驚いて立ちすくむ私に大ちゃんが半ば怒鳴る様に言う。

慌てて休憩室のドアを開け、崩れ落ちそうになっている松木さんを何とか座らせたが松木さんはそのまま机に突っ伏してしまった。

「寝かせた方が良くない?」

と沖さん。

確かに。

でも休憩室の床は土足で歩きまわっているから汚いし…

「大ちゃん!潰したダンボール沢山持ってきて!」

私の言葉が終わらないうちに大ちゃんがダンボール置き場に走っていき何枚かのダンボールを持ってきた。

ダンボールを床に敷き更に私や大ちゃんの上着を敷いて松木さんをその上に寝かせる。

沖さんが予備のスタッフエプロンを丸めて枕にし、自分の上着を松木さんの上に掛けてくれた。

ふう。

「松木さん?大丈夫?救急車呼ぼうか?」

私の呼びかけに、

「大丈夫です…最近、寝られなくて…
ちょっと目眩した…だけです…」

うっすら目を開けた松木さんが弱々しく答えた。

「貧血起こしたのかもしれないわね、彼女元々貧血気味だし。」

沖さんがしたり顔で言う。

なるほど。

ってすげえな!

スタッフの健康状態までガッチリと把握してらっしゃる…

「店長~しばらく私が松木さんに付いてるね?」

沖さんが意気揚々と申し出たが、

「いや、ここは田村さんに任せますから僕らは仕事に戻りましょう。」

と、大ちゃんは淡々と答え、

「暫く様子を見てやって。」

と言い残すと沖さんと共に休憩室を出ていった。

うわあ、沖さんの申し出をスパッと切るなんて怖いものしらずだな…

そう思った瞬間、

「店長!さっきミューズとか大ちゃんとか呼びあってたわね?
店長副店長としてそれはどうなのかな?」

とドアの向こうでガッチリと
「大声で大ちゃんに注意する」沖さんの声が聞こえてきた。

うわ…
すみません…

No.56 18/12/07 13:00
自由人 

「沖さんだって田村さんの事をミューちゃぁん!て呼んでるでしょっ?」

「パートの私はいいのよっ!立場のある店長と副店長が…」

「え~?それを言うなら沖さんは僕の大先輩ですから立場は雲の上の人…
あっ!年齢も-」

「もうっ!バカっ!!」

わあ…
楽しそう。

飄々と返す大ちゃんと何だかんだ言いつつ楽しそうな沖さんの声がしなくなった後、私はそっと松木さんの横にしゃがみ込んだ。

ぐっしょりと汗をかいているが顔色はかなりマシになっている。

「すみません…」

気配を察し松木さんが目を開けて起き上がった。

「起き上がって大丈夫?」

「はい、もう楽になりました。」

しっかりした声だ。

私はホッとして、

「もう少し落ち着いたら帰ろうか?
店長に送ってもらえる様に頼んでくるね。」

と声をかけたが松木さんは急に俯き返事をしない。

「松木さん?」

「もう…平気です…いて…いいですか?」

「え!?でも家でゆっくり寝た方が良くない?」

「帰ったら何を言われるかわかんない…
ゆっくりなんて出来ない…
ここだけが…落ち着ける場所…
嫌だ…帰りたくない…」

松木さんの息がだんだん荒くなる。

「松木さん!?」

松木さんの様子が何だかおかしい。

「松木さん!!」

松木さんはまるで呼吸困難を起こしたかのように息苦しそうにゼイゼイ言い出した。

もしかして過呼吸?!

「松木さん!!落ち着いて!!
大丈夫だから!
ここに居ていいから!
ゆっくり息して!!!」

とにかく落ち着かせようと松木さんの背中を優しくゆっくりポンポンする。

松木さんの呼吸が私のポンポンのリズムに合ってきて乱れた息も治まりだした。

「病院行く?」

松木さんは黙って首を振る。

「そっか。わかった。
じゃあここで休んでて。」

店内に入り、大ちゃんに事情を話すと、大ちゃんは私と一緒に休憩室までついてきた。

「マッツン大丈夫か?」

休憩室に入って開口1番、大ちゃんから発せられた「マッツン」の言葉に松木さんが少し驚いた顔をした後に微笑んだ。

No.57 18/12/08 22:35
自由人 

「マッツン、その呼び名懐かしい…」

ん?ん?ん?

「えっ?あのマッツンて?懐かしい?」

「あれ?言ってたろ?俺が前の地区にいた時、少しの間だったけど松木さんと同じ店舗にいたって。その時の松木さんのあだ名。」

大ちゃんが、もう忘れたのかよ?といった呆れた声を出す。

あ~!思い出した。

大ちゃんが赴任した先の店舗で松木さんが働いていたが、それから数ヶ月後に松木さんは旦那さんの転勤に伴い実家に同居が決まりこちらに来た。

で、暫くしてから大ちゃんがまるで後を追うようにこちらに来たんだった。

ここに来てからは2人が特別に親しげにしている様子もなくその話題も出なかったので忘れかけていたが、
初めて聞いた「マッツン」の言葉に何故か気持ちがザワザワと波打つ。

松木さんはもうすっかり顔色も良くなり、敷いていた私達の上着を畳んでテーブルに置いてくれていた。

「も、もう大丈夫そうだね。
私はダンボールを捨てて来るから後は店長に指示もらってね。」

私はそそくさとダンボールを片付けると両脇に抱えて休憩室を出た。

ダンボールを捨てながら色んな思いが頭を巡る。

松木さんの前であんなに呆れたような声出さなくても…

だって…

マッツンとか知らないもん…

あだ名で呼ぶほど仲良かったなんて知らないもん…

だから気にしてなかったもん…

なんであんなにバカにした様な言い方するのかな。

それに比べてマッツンって呼んだ時の大ちゃんの声優しかったな…

はっ!

まさか…

大ちゃんがわざわざこの店に来る事に決めたのは…

松木さんがいるから?!

妄想がどんどん膨らむ。

うううううう。

うおおおおおおお!!!

何かもうやり切れない感情が沸き起こり、乱暴にダンボールをバンバン積み上げるうちに粗末な扱いにご立腹されたのか、ダンボールが一気に私を目がけて崩れ落ちてきた。

バサバサバサ!!

痛った~。

ダンボールに直撃されたおでこをさすりながらまたダンボールを積み直す。

もう泣きそう。

「…何やってんの?」

背後で声が聞こえ振り向くと
呆れ顔の大ちゃんが立っていた。

No.58 18/12/09 17:18
自由人 

「何って、ダンボールを片付けてますけど?」

少し淡々と答える私に、

「あっそ。何でもいいけど早く片付けて松木さんに何か仕事の指示出して。」

大ちゃんは冷たくそう言うとプイッとその場を去ってしまった。

なんだよ。
元々はそっちが嫌な言い方したからじゃない。

いつもそう…

自分は気に入らないと直ぐに顔や態度に出して、私が気を使わないと余計に機嫌悪くなるくせに、
私がちょっと嫌な態度を取るとこうなるんだよね。

はあ、何でいつもこんな良い時と悪い時の差が激しいんだろう。

「店長はすご~く分かりやすいのに、何でミューちゃんはよく店長をイラつかせるのかな?」

沖さんに笑われた事がある。

「店長の地雷なんてむき出しで転がっているのに、なんでそこをわざわざ踏んで歩くんですかね?」

と牧田君にでさえ呆れられた事がある。

分かりやすかろうがなんだろうが私は人の気持ちが読めないもん。

はあ…

おっと、いけない。

松木さん。

松木さんの事を思い出し気持ちを切り替える。

この切り替えの早さは昔からの私の取り柄?だ。

慌てて店内の化粧品コーナーに行き、カウンターの引き出しから顧客様名簿とDMハガキを取り出し休憩室に戻った。

「松木さん、DMハガキの宛名書きをしてくれる?
これなら座って出来るからここでゆっくりと書いてて。」

「はい。」

笑顔で受け取る松木さんの様子はもうすっかり元気そうだ。

「顔色戻ったね、良かった。」

ホッと安心する私の言葉に、

「はい、ここ何日も寝られない日が続いてて…」

松木さんが少し苦笑する。

「寝られないのは辛いね。」

「はい。あ、でもね、昨日はずっと朝方までカンちゃんと電話してましたから少し救われたかな。」

え?

「あの…おうちは…大丈夫なの?」

「はい。真夜中でみんな寝てたから、こっそり外に出て話してました。」

「えっ?!そんな夜中に外なんて危なくない?」

何と返して良いのか分からなく、色んな意味で「危ない」という言葉を使った私の気持ちを察したのか、

「大丈夫ですよ。外といってもうちの敷地内にある納屋の中ですから。」

「そう?なら良いけど…」

「私とカンちゃんの会話は他愛もない友達の会話ですよ?友達ですから。」

私の不安を更に読み取ったのか、
松木さんが友達という言葉を強調して屈託なく笑った。

No.59 18/12/11 17:16
自由人 

「お先に失礼します。」

夜のバイトの子達が出勤してきて、入れ替わりに松木さん含むパートさん達が帰っていった。

バイトの子達は可愛いが、パートさん達に比べるとどうしても細やかな指示が必要になり、手間がかかる分あっという間に時間が経つ。

「あっ!もうこんな時間だ。」

私の仕事上がりの時間間近になっていた。

大ちゃんは仕事の時間に対してとても厳しい。

会社は残業代を出さないので、こっそりサービス残業をする社員も多かったが、大ちゃんはそれを一切認めず定時になる前に仕事を終わらせる様に私達に徹底指導していた。

あと5分か…

大ちゃんの徹底指導の成果で、
私達は上がりの時間の5分前には仕事を切り良く終わらせる癖がついている。

でも…

何となく帰りたくなかった。

私、馬鹿なヤキモチ妬いちゃったな…

時間が経って冷静になると自分の態度が悪かったなと反省した。

謝りたいけど…

ちらっと作業中の大ちゃんを見る。

大ちゃんは黙々と推奨商品の大がかりな陳列売り場を作っている。

ちょっと話しかけられる雰囲気じゃないし、仕事中にこんなくだらない事言ったらまた気を悪くされるだろうしな…

暫く悩んだ末に帰ることにした私は、松木さんに宛名書きをしてもらったDMを帰り道の途中にあるポストに入れて帰ろうと軽くDMをチェックした。

あれ?

DMが違ってる…

前回の宛名書きした残りのDMを誰かが捨てずに名簿と共に引き出しに入れていたらしく、私は日付などを書いている裏面を確認もせずにその古いDMを松木さんに渡してしまっていた。

今回出すDMは?と探すと隣の引き出しに入っていた。

何たる凡ミス。

切手をまだ貼っていなかったのだけは救いだな。

さて、どうしよう。

DMは遅くとも明日の昼過ぎまでには出さなくてはならない。

仕方ないな…
誰か夜のバイトの子に書いてもらうか…

それにはまず遅番の社員にお伺いを立てるのが礼儀だった。
夜のスタッフの人数も結構ギリギリで回しているからだ。

謝る所か余計に怒らせるな…

物凄く憂鬱な気分になったが仕方がない。

私はDMハガキと顧客様名簿をむんずと掴むと、意を決して大ちゃんの元に歩いていった。

No.60 18/12/11 23:58
自由人 

「店長…」

返事がない。

「あの…店長……」

返事がない。
ただの屍の様だ…

ドラクエならここはさっさとスルーしてタンスを漁り、壺の1つでも割ってとっととオサラバするのだが、あいにく敵は屍に見せかけたボスキャラ。
ここは対決しないとエンディングを迎えられない。

仕方ないので大ちゃんの横に立ったままボソボソ呟く。

「DMが…手違いで…ボソボソボソ」

「はあっ?!」

おっと!いきなりボスキャラが攻撃を仕掛けてきて戦闘モードに突入した!

(ここからドラクエの戦闘シーンのBGM流れ出す。)

思いっきり怒った声で、思いっきり呆れた顔で、最大級の「はあっ?!」光線を浴びせかけてくる。

うっっ。

さすがボスキャラ、今の攻撃だけでHPの半分を持っていかれてしまった…

「えっと…だからその…すみませんが…
夜のバイトの子に宛名書きをしてもらいたい…の…です…が…」

「無理です。」

わあおキッパリ。

「夜のバイトの子はアナタの失敗のフォローをするために来ているのではないから。」

わあおグッサリ。

か、回復呪文、回復呪文、
このままではHPが尽きて教会に直行しそうだ。

「そ、そうですよね、すみません、失礼しました。」

慌てて「逃げる」コマンドを選択した私の前に、

「どうするんですか?」

と、敵がまわりこんできた。

「あの…顧客様名簿とハガキを持って帰って書いて…きます…」

「大事な名簿は店外には持ち出し禁止だけど?」

おうっ。
更にダメージ…

もうHPは残り10くらいしかない気分。

回復呪文!ここで回復呪文を発動せねば!

って、「ありがとう」と「嬉しい」なんてどこで使えるんだあっ!!

もう…ダメだ…ガクッ…

「あの…残業はダメだと分かってますけど、どうせ家で書くつもりだったので、ここで…書いて…も…良いですか?」

逃げ場を失い、更にボスの攻撃力を上げるであろうセリフを
「捨て身攻撃!」とばかりに私はボスにぶち当てた。

No.61 18/12/12 12:53
自由人 

「はあっ?そこまでしなくていいでしょ?」

おっほぉ!
攻撃がいとも簡単に弾かれたあっ!

しかもっ!更に怒りのオーラが強くなってはるっ!!

「あっ、でも私は明日は遅番なのでっ、
間に合わ…ないのでっ、それに…あの…
店長の仕事終わってから…話…したい…な…と…」

「話ならここで今して下さい。」

おうっ…終わった。

「ミューズよ死んでしまうとは情けない…」

私の頭にドラクエの教会の神父様の声がひたすら響く。

「えっ、ここで?!」

「はい。仕事しながら聞きますからどうぞ。」

うわっ、ここで「ごめんなさい」言うの恥ずかしいな。

私は周りを見回した。

幸い店内はお客さんが途切れ、スタッフも周りにはいない。
更にボスはまた売り場の方に目を向け私から視線を逸らしている。

これは逆に話しやすいかも…

意を決し、恥ずかしさと気まずさを押し殺し、
私は大ちゃんの後ろ姿に向かってボソボソと話しかけた。

「あの…ただ…ゴメンねって言いたくて…私…大ちゃんと仲直りしたくて…だって大ちゃんとはいつも仲良くしたいから…だから今日はずっと悲しくて…寂しいなって…」

「ぶぼおっ!!!ゴホゴホ!!!」

突然、ボスが奇妙な声を発したかと思うともがき苦しみ出した。

と同時に振り向いたボスの顔が真っ赤になっている。

そんなに苦しかったのか!?

思わぬ所でボスに会心の一撃を与えた様だ。

「な、なに恥ずかしいことこんな所で言ってるんだよ!!」

え?
だって言えっていったのはボス…

「と、とにかくこっち来て!」

大ちゃんは私の手を引っ張り休憩室に連れ込み、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと私に差し出した。

「ほら、これ飲んで!落ち着け!」

いや、落ち着いてますけど?

むしろ君が飲んで落ち着け。

ポカンとして水を受け取らない私を見て、大ちゃんは自分が水を一気に飲んだ。

「あの…店長?」

「あ、えと、DMの宛名書くんだったな?ごめんな。じゃあ頼むな!」

はいっ???

訳が分からずポカンと立っている私に向かって、大ちゃんは軽く手を挙げると店内に入ってしまった。

恐ろしい程に物凄い笑顔と共に…

あれは…
ボスの最終技「死への微笑み」
だろうか?

店長のあまりの豹変ぶりに、
ドラクエには存在しない新たなボス技の名前をぼーっと考え込む副店長であった。

No.62 18/12/16 22:10
自由人 

「あれ?ミューさんどうしたんですか?」

閉店作業を終え、休憩室に入って来たバイトの加瀬君が不思議そうに尋ねてきた。

ミューズだの、姉さんだの、ミューちゃんだの、ミューさんだの、
みんな呼びたいように呼ぶ。

「あ~、ちょっと手違いでDMの宛名書きをやり直してるのよ。明日の昼までには出さないとマズイんだ。」

いい加減飽きてウンザリしていた私は苦笑しながら答えた。

閉店までには余裕で終わると思っていた宛名書きだったが、
運が悪いというか、間が悪いというか、今回のDMはご丁寧にも「お客様へのメッセージ欄」が設けられており、一人一人お客様に何かひと言メッセージを書かなくてはならない。

変な所で生真面目な私は、いちいちお客様の顔や会話を思い出しながら書いていたため、閉店時間になってもまだ幾枚か残していた。

「大変そうですね。良かったら手伝いましょうか?」

加瀬君が心配そうな顔で聞いてくれる。

加瀬君は見た目のいかつさとは裏腹に本当に心の優しい男の子だ。

「ありがとう。あと20分もあれば余裕で終わるから大丈夫だよ。」

加瀬君の優しさに癒されつつも少し不安になった。

店を閉めちゃうからここには居られないな。

宛名書きは終わって後はメッセージのみだから持って帰って書くか。

「お先に失礼しま~す!」

バイトの子達が次々に帰って行き、

「もう閉めるけど出られそう?」

と大ちゃんが声をかけてきた。

「あ~宛名書きは終わって、後はメッセージだけですから持って帰って書きます。」

慌てて立ち上がり、化粧品カウンターの引き出しに名簿を戻しに行こうとした私の背中に、

「手伝うよ。とりあえず切手を貼ればいい?」

ゆったりと優しい大ちゃんの声がかかった。

No.63 18/12/18 12:41
自由人 

「はい!貼り終わった!」

大ちゃんがまだメッセージを書いていない分のハガキも含め切手を貼り終わった。

「うっっ、ちょっと待って…」

「焦らなくていいよ。それとも急いで帰りたい?」

「あ、いや、特に…」

「そうか。なら自分のペースで書いて。さすがに化粧品のお客さんへのメッセージは俺は書けないから。」

大ちゃんは笑いながらそう言うと、自分も書類の様な物を広げて読み出した。

が、直ぐに、

「あ~ダメだ。ゴミ入ったかな疲れてんのかな。
目が痛い。」

ブツブツと言い出す大ちゃんの顔を見ると、なるほど目が赤い。

「コンタクト?外した方が良くない?」

「そうするか。メガネ好きじゃないけど。」

大ちゃんはそう言いながらもコンタクトを外し、リュックからメガネを取り出すとかけた。

「メガネかけた顔見るの久しぶりだな懐かしい。」

思わず笑みが出る。

「そうだっけ?いつだったかな?」

「確か…」

言いかけて少し躊躇した。

確か、初デートの時だったね。

遊園地に行って観覧車に乗って3on3のコートに行ってそして…

「ん?山田さんやユッキー達と初めて呑みに行った時かな?」

私の言葉を継ぐように大ちゃんが聞いてきた。

「ああ、うん。そうそう。
その頃だよ。楽しかったよね。」

大ちゃんが勘違いしているのを逆手に取り、曖昧に誤魔化した私の言葉に、

「ああ、山田さんが最高に面白かったな。」

と大ちゃんも思い出した様にクスリと笑い、しばらく懐かしい笑い話に花が咲いた。

「ユータンさ、ユッキー以外には目もくれないの分かるけど、私なんか完全にどうでもいい扱いだったから酷いよね。」

笑いながらそう言う私に、

「そうそう!山田さんは本当にユッキーのこと好きだったからなあ。」

大ちゃんも笑いながら相槌を打つ。

「だよね~大好きなの丸わかりだったもん。」

当時を思い出しウキウキと楽しくなる。

「あのさ。」

浮かれて楽しくなっている私に大ちゃんが急に真面目な顔で話しかけてきた。

No.64 18/12/20 00:17
自由人 

「丸わかりと言えば、神田と松木さんってどうなってんの?」

「え?」

「いや、ちょっとスタッフから最近のあの二人は目に余るものがあると苦情みたいなのきてて…
まあ正確には松木さんの方が色々と2人の事を言いふらしているみたいなんだけど…何か聞いてる?」

あ~。

私は松木さんから聞いた深夜の電話の事を掻い摘んで大ちゃんに話した。

「それは初耳だな…」

大ちゃんは溜息混じりにそう呟く。

「えっ?他にも何か話してるの?」

「何かも何も2人で出かけたとか色々と言いふらしてるんだって。」

「えっ?でもそれは友達としてやましい事がないからじゃ?」

「あのさ、やましいやましくないじゃなくてそれを聞いた周りがどう思うか…だよね?」

大ちゃんの言葉はしごくもっともに思えた。

「う、う~ん、まあ、ね。出かけたって…何処に行ったんだ…ろうね?」

「ああ、新井が配属された新店に2人でちょっと顔出しに行っただけらしいけど。」

ああ。
二人とも新井くんとは仲が良かったもんね。
もっと凄い所に行ったのかと内心勘違いしてビックリしちゃったよ…

「それなら別に特に問題も無いんじゃない?」

「まあね、正直俺は仕事外で誰が何処で何しようとどうでもいいしさ。」

大ちゃんは少し肩をすくめて興味無さげに呟いたが、

「マッツンって前はそんな事をペラペラ言うようなタイプじゃなかったんだけどな?」

と自分に問いかける様に首を捻った。

「ほら、松木さんは既婚者だから皆に黙って行動して変に勘ぐられるのを危惧して…の事じゃないかな?」

私の言葉に大ちゃんは頷きつつもスッキリとしない顔をしていた。

勘のいい大ちゃんはこの時に何かを感じ取っていたのだろう。

そう。
この日を境に
少しずつ少しずつ彼女の様子が変わっていく。

今の私の持論は

「救いを求めて誰かにとにかくすがりたい人に徹底的に寄り添える覚悟がないなら、中途半端な優しさは見せない。」である。

冷たい人間だと思われるかもしれない。

でも、

中途半端に関わる事が相手にとってより残酷だと思うから。

場合によっては更に相手を追い詰めてしまうと思うから。

しかし、当時の私はそれが分からず、ただ人に優しくする事が思いやりだと勘違いして自己満足していた。

No.65 18/12/22 19:21
自由人 

「最近、松木さんが全くやる気ないんだけど、ミューちゃんの方からも注意してもらえる?」

遂にパートさんから私の方へも松木さんへの不満の声がかかり出した。

「あ、うん。ちょっと仕事の様子みて注意すべき事があればさせてもらうね。」

「お願いね。皆が迷惑しているから。」

ふう…

そのパートさんが事務所から出て行った後、一気に気持ちが疲れた。

松木さん、どうしちゃったのかな?

前日の夕方の出来事をあらためて思い出す。



「ちょっと買い物のついでに来ちゃいました。」

前日の夕方、休みだった松木さんがフラリとバックヤードに顔を出した。

「あれ?うちでもお買い物?」

事務所に行きかけながらそう聞く私に、

「特に買い物はないけど、カンちゃん頑張ってるかな?って。
ちょっと冷やかしに来ました。」
松木さんはイタズラっぽく笑う。

え?
カンちゃんはこの日が初めての遅番シフトで色々と気忙しいから余裕ないと思うんだけど…

でもまあそんなカンちゃんを気遣って様子を見に来たのかもね。

好意的に考えた私は、

「カンちゃんは事務所で作業中だよ。」

と声をかけ事務所に入った。

「あっ、今日はもう上がるよ!」

事務所にはカンちゃんの他に早番の大ちゃんがいて、事務所に入った私にいきなりそう声をかけてきた。

少し慌て気味でそそくさと手元の荷物をかき集めカンちゃんに、

「入力完了した?」

と聞きながらその荷物をリュックに詰める。

なに?

入力って事は何かを社割で買ったのかな?

うちの会社には社員のために社割制度というものがあり、不正防止のために必ず他の社員に購入する商品をその場でデータ入力してもらい購入済み伝票を発行してもらう決まりになっていた。

焦る大ちゃんの態度につられ何気なく大ちゃんの手元を見ると、
数点の化粧品、生理用品等など…
えっ?化粧品?!生理用品?!

あっ…
これは見なかった事にしよう。

「お疲れ様です。明日も早番ですよね?明日は森崎さんが朝イチから来るとの事なので…」

さり気なく視線を逸らし、翌日の予定の話をしかけた途端、

「え~っ?!店長ってすっごく俺様キャラだと思ってたのに!
彼女?頼まれたんですか~?
化粧品とか生理用品まで買って帰ってあげちゃうんですか~っ?!」

私の後ろで少し大袈裟に驚いた様な松木さんの声がした。

No.66 18/12/23 23:31
自由人 

「えっ?あ、ああ…
ちょっと…具合が悪いらしくて…
買い物にも行けないって言うから。
男の俺がレジで買うのもちょっと…」

大ちゃんが気まずそうにモゴモゴ言うのを見かねたのか、

「店長、今日大量に入荷した商品は売り場に大々的に展開して良いんですか?」
と、カンちゃんがさり気なく話題を変える。

「ああ頼む。加勢を助手にして今日中に出しておいて。」

「わかりました。」

カンちゃんは直ぐに立って倉庫の方に出ていく。

それで何となくその話は終わったかに見えた。

が、

「ふ~ん。でも社割で生理用品を買うのも恥ずかしいですよね。
具合が悪いって、私なら旦那に頼むなんて出来ないけどな。
絶対買ってきてくれないし。
それにちゃっかり高い化粧品も買わされてるんじゃないですか。
お金もらうんですか?」

松木さんがやや嘲る様に言い出した。

「別に。
面倒臭いしもらわないよ。」

「へえ、優しいんですね。
うちの旦那と大違い。」

松木さんのその言い方は羨ましいとか微笑ましいというより、少し馬鹿にした様な雰囲気があり、私は慌てた。

「松木さん!神田君に用があったんじゃない?
倉庫にいるうちに話してくれば?」

「そうですね。そうします。」

松木さんが倉庫の方にあるいて行くのを見送りながらチラっと大ちゃんの様子を見る。

大ちゃんはまるで何事も無かったかの様にリュックを背負うと、

「じゃあ帰るよ。お疲れ様。」

と倉庫とは逆方向の店内側から帰って行った。

ふう。
気まずかった。

やれやれとため息をつきながら大ちゃんが買っていた商品の事を思った。

彼女の具合が悪いからか…
大ちゃんらしいな。

住居探しの件といい、大ちゃんって彼女のためなら尽くすんだな…

……

「ミューさん!!」

突然、頭の上で声がし私は驚いて飛び上がった。

「うわっっ!ビックリした!」

振り向くと加瀬君が後ろに立っていた。

180cmを優に越した高身長で私を見下ろしている彼は威圧感が凄い。

「すみません。少しここに居ていいですか?」

加瀬君が少し懇願する様に言う。

「え?神田君の手伝いのことを聞いてない?」

「聞きましたよ。でも今は松木さんがベッタリくっついてるから。」

あ~。

「神田君を呼んで来るよ。」

「待って!」

倉庫に行きかけた私の腕を加瀬君が急に掴んだ。

No.67 18/12/28 21:29
自由人 

えっ?

「少し話をしていっていいですか?
俺…またイライラしてて…」

…私は安定剤か?
まあそれで気持ちが落ち着くなら良いけど…

「いいよ、どうしたの?」

開いたままになっていた事務所のドアを閉めながらそう聞く私に、

「俺、松木さんって人嫌い…
いちいち癇に障る事ばかり言うし…
だからあの2人がイチャついてるの見たら殴りたくなってくるっていうか!!」

少し申し訳なさそうに話し出したものの、直ぐにイライラした様に加瀬君の語気が強くなりだす。

はあ…
熱くなり出してるよ。
これは水をかけねば。

「あのさ、加瀬君ももう18歳でしょ?
小中学生みたいなこと言わないの!」

「わかってます。だからこうやってミューさんに話して気持ちを…」

途端にクールダウンする加瀬君がなかなか可愛くて面白い。

「気に障ることって何か言われたの?」

シュンとした加瀬君に私は優しく声をかける。

加瀬君がいくら好き嫌いが激しくて怒りっぽくても何か理由はあるはずだ。

「特に何か言われたとかじゃなくて、話す事そのものが気に障るっていうか…何か色々全体的に無理っていうか…」

「はあっ?何も言われたわけじゃないのにそんな事を言うの?
松木さんはいい人だよ。
素直で可愛くて優しい人だよ。」

自分で聞いておきながら、加瀬君の松木さんへの気持ちを聞きついイライラしてムキになってしまった私に、

「可愛くて優しい?
まあ…ミューさんは松木さんと仲が良さそうですもんね。」

加瀬君は一瞬何かを言いたそうな素振りを見せたが、

「そうですね。松木さんは確かに悪い人ではないです。
僕が子供過ぎるって事です。
変な事を言ってごめんなさい。」

と素直に頭を下げた。

「あ~いやごめんね。そんなつもりじゃなくて…」

と慌てて謝るも加瀬君に、

「それはそうと、神田さんの助手って、僕は何をするんですか?」

と話を変えられてしまい、何かスッキリしないモヤモヤした気持ちだけが残ってしまった。

No.68 18/12/28 22:11
自由人 

帰宅後も何となくモヤモヤが続く。

そうだ、優衣に電話してみよう。

何か胸がモヤモヤとした時は優衣に限る。

姉にまるで占い師か胃薬の様な扱いをされていつつも優衣は穏やかにアドバイスをくれる。

そういえば優衣って人の悪口言わないな。

私が大ちゃんの事でブツブツ文句を言っても穏やかに大ちゃんの良い所を挙げてアドバイスしてくれる。
私がどんなに否定的な事を言っても優衣は決して人を否定する様な事を言わない。

ユッキーと同じだな。
私の周りはイイコばかりだねえと今更ながら感心する。

案の定、電話に出た優衣は、
「どしたの?美優ちゃん。」
と穏やかな声を出したが、

私がサラッと松木さんの話をしだした途端、急に黙り込んだ。

「それでさ~加瀬君てば人の好き嫌いが激しいとこあるから松木さんへの決めつけがね~悩む所よ…ってあれ?
もしも~し!聞こえてる~?」

「聞こえてるよ。」

えっ!?

ゾッとするほど冷たい優衣の声。

「あの…ごめん…優衣?」

「美優ちゃん、私もその松木さんって人好きになれないわ。」

驚く私の声を無視するかの様に、優衣が更にまた冷たく言い放つ。

「あの…私、そんなに松木さんの事を酷く言ったかな?」

「言ってないよ。」

「松木さんとカンちゃんの事ならやましい事なんて何もないと思うよ?」

「わかってるよ。」

なら、なんで?

「美優ちゃん、これは私自身も何と言っていいのかわからないから上手く説明出来ないんだけど…
加瀬君の言葉を借りて言えば、何となく全体的に無理…と言ったらいいのかな。」

いつもは私の話の聞き役に徹する優衣が珍しく饒舌になる。

「私なら彼女には近づかない。
加瀬君と同じだね。
美優ちゃんも深入りしない方がいいよ。」

初めて聞く、優衣の人を否定する言葉に私は少なからずショックを受けた。

「優衣どうしたの?優しい優衣がそんなこと言うなんて。」

「美優ちゃん、私は大ちゃんと似てるって言ったよね?
私も好き嫌いが激しい方だし、自分の好きな人に害を及ぼしそうな人には徹底的に冷たいから。」

優衣は狼狽える私の声を無視するかの様に更にキッパリと言い切った。

No.69 19/01/03 21:07
自由人 

「ねえ、〇〇の映画一緒に行けないかな?」

「〇〇の映画?そうだね~行きたいかも。でも…」

松木さんと2人で休憩中の昼休み。

松木さんからの突然の誘い。

〇〇とはその当時大ヒットしていた映画で興味はあったが、私は冷静に可能か否か頭の中で判断してみた。

夜なら良いけど…
夜に出歩けない松木さんは昼間希望だろうし、そうなると一緒に休みを取らないと…
無理だな。

私は早々と結論を出した。

今はカウンセリング化粧品を扱っている店舗は教育を受けさせた専門のスタッフがいたりする事も多いが、
当時は女子社員が各メーカーや自社実施の研修を受け、ビューティーアドバイザーを兼ねる所も多かった。

私も例に漏れず徹底的に仕込まれ
ビューティーアドバイザーを兼任していたが、私が休みの日には代わりの人が必要になる。

それが松木さんだ。

松木さんには接客に必要な程度の知識を詰め込み、私の休みの日の接客を何とかこなしてきてもらっていた。

私達が揃って休んだら化粧品の接客できる人いないもんね…

「ダメだよね~」

松木さんの言葉に苦笑いをする。

松木さんはあの倒れた日以来、急にぐっと距離を詰めてきて、店外ではタメ口で私への呼び方も田村さんから美優ちゃんになっており、
私も屈託のない明るさを持ちながらもどこか危なげな雰囲気のする彼女を放っておけずで、私達2人は急速に仲良くなっていた。

「美優ちゃんがダメならカンちゃん誘ってみようかな。」

「えっ?!そういうの…旦那さんに…あの…バレたら怒られない?」

松木さんの冗談とも本気とも取れる言葉に私は驚いて松木さんの顔を見たが、

「なんで~?1人で映画観るのつまらないからカンちゃんなんかでも居ないよりはマシって程度だよ?
旦那にも余裕で言えるよ~」

と松木さんに逆に笑われてしまい、
変な想像のし過ぎか~と恥ずかしくなった。

それにしても…
その言い方はちょっとカンちゃんが可哀想だよ?

私がそう言おうと口を開きかけた途端、

「カンちゃんってイケメンだよね、優しいし。でも…」

松木さんが何かを言いかけ出して急に口ごもる。

「でも?」

聞き返す私に、

「うん?いくらイケメンで性格良くてもそれだけじゃね。」

松木さんはそう呟くと、

「店長って〇〇の俳優に似てない?
私ずっとファンなんだよね。」

と軽く笑った。

No.70 19/01/10 01:03
自由人 

「えっ?ファンって店長の?」

思わず聞いた私の言葉に、

「俳優さんの方だよ~。」

松木さんが、何言ってるのよ!と言わんばかりの調子で笑う。

そ、そうだよね。

「でも、店長って似てない?
私、前の店で初めて会った時から似てる~!って店長に言ってたんだけど。」

そう…かな?

目力強くてインパクトあるのは同じだけど…

「美優ちゃんていかにもお人好しって感じだよね?言われない?」

「えっ?まあたまに言われるけど…」

いきなりまるで違う事を松木さんに言われ驚く私に構わず、

「美優ちゃんてお人好しでちょっと要領悪くていつも店長をイラつかせてるじゃない?
きっと気が合わないから見てて余計イライラするんだろうね。
美優ちゃんももっとテキパキ動くとかせめて空気読めればイライラされないのに。」

松木さんはかなりキツイ事を冗談っぽくサラッと言った。

うっ。

松木さんの毒舌はいつもの事だ。

でも最近はその毒舌がシャレにならないくらいキツクなってきたと感じてはいたが本人に悪気は全くなく、言われていることは的を得ているので腹を立てる方が大人げない気もして私はそのまま黙り込んだ。

「私ね、前の店では店長と結構気が合ったのか直ぐに仲良くなったんだ。」

「そうなんだ。」

マッツンと呼んでいた大ちゃんの姿を思い出す。

「ゴミを捨てに行った時に、店長が先にいてゴミを捨ててたから、後ろから丸めた紙ゴミぶつけたらそれから紙ゴミのぶつけ合いになっちゃったりね。」

松木さんが懐かしそうに当時の事を話す。

なんか…楽しそう。

「あ、ねえ神田君と結局映画に行くの?」

これ以上、大ちゃんの話を聞くのは辛くなった私はカンちゃんの話題を持ち出し話の矛先を変えた。

「カンちゃん?そうねえ。
一緒に歩いてると周りの視線が痛いけど優越感には浸れるよね。」

「えっ?見た目だけ好きですっていう感じはちょっと…」

「やだ美優ちゃん、
私は正直な話、カンちゃんの見た目は全く好みじゃないんだよ」

「えっ?そうなの?ごめんね。」

慌てて謝り、
てっきりカンちゃんの見た目を好きで仲良くしているのではなく、人として好きだからという言葉が返ってくるものと思っていた私の耳に、

「私の好みは店長に似てるって言ってた
俳優の〇〇だから。」

と言う松木さんの言葉が深く突き刺さった。

No.71 19/01/11 21:44
自由人 

「神田が入院する事になった。
退院しても多分会社を辞めるだろう。」

滅多にない2連休の翌日出勤時、
顔を合わせるや否や、大ちゃんが苦い顔をしながら私にそう告げた。

「そうですか。」

私は自分でも驚くほど冷静にその言葉を受け止めた。

カンちゃんは前の職場で腰を傷め、うちの会社に転職してきたのだが、うちの業務内容も体力を使うし腰に負担もかかる。

大丈夫なのだろうか?と心配はしていたが、生真面目で仕事に手を抜けない彼はつい頑張りすぎたのであろう。


それでもまだ早めに腰の具合を大ちゃんに伝えていればまだ何とかなったかもしれないが、何も言わず愚痴もこぼさず頑張り通し、
いよいよ隠し通せなくなった時には、
手術をしなければいけない程に症状は悪化していた、という事なのだろうと私は何となく推測した。

「もうあいつにはこの仕事は無理だ。
こうなる前にちゃんと報告し、病院で治療すべきだった。
それを怠ったあいつに同情する気はない。

いいか?これは他人事じゃないから田村さんにも言っておく。
自己管理は社会人としての最低限の常識だ。
それは絶対守れ。」

「.はい、わかりました。」

答えながら薄ら寒い物を感じる。

遊んでて悪化したわけじゃないのに、

頑張って頑張って、

きっと、弱音吐いちゃいけないと思って辛いのを言い出せなかったんだろうに…

そんな冷たい言い方って…

何度も言っているが、大ちゃんは人の心を読む。

思った事がすぐに顔に出るタイプの私の気持ちなど即座に読み取ったことだろう。

「返事だけで何もわかっていないんだな。」

大ちゃんは冷たくそう言い捨てると、その日はもう私に話しかけてくることは無かった。

No.72 19/01/13 21:03
自由人 

カンちゃんが辞めうちの店舗は社員が3人になった。

この頃には会社が各地に新店舗を展開しており、社員の数が不足気味になったため、社員4~5人体制が一部大型店舗以外3人体制になってしまっていた。

それに伴い社員の出勤形態も変わり、
早番、遅番のみ。
社員の層が薄くなった分のフォローはパートさんに頼ることになる。

しかし、要のパートさんの1人の松木さんがその頃から更におかしくなりだした。

おかしいと言うと語弊があるかもしれないが、
仕事へのやる気が遂に全く感じられなくなり、人を不快にさせる言葉も増え、家庭の愚痴も延々と繰り返し周囲をウンザリさせているという、今までの彼女の通常状態とは言い難い話がポチポチと私の耳に入ってきた。

「完全に情緒不安定なんじゃない?
いきなり怒りだしたり、泣き出したり、せっかく話を聞いてあげてアドバイスしても全く改善しようとしてないしさ。」

パートさんが呆れた様にそう言うのを聞き、何とか彼女を救ってあげたいと思った私は、積極的に松木さんに関わりを持ち出し、私達はますますその仲を深めていった。

「綾ちゃん、カンちゃんとはまだ連絡取ってるの?」

「う~ん、たまに電話もあるけど、あんまり頻繁にできないし、もうどうでもよくなってきちゃった。」

「友達でしょ?どうでもいいなんて…」

「うん、でも年下の男の子には私の事なんて所詮分かってもらえないよ。
友達か。
私の事を受け入れてくれる人いないからよくわからないけど。」

少し自虐的に話す松木さんから寂しそうな空気がそこはかとなく漂ってくる。

「そんな…綾ちゃんの方が遠慮とかして心を開けないんじゃないの?」

「そうなのかな?
でも、私が近寄るとみんな離れて行っちゃう気がするんだ。」

自分が近寄るとみんなが離れていく?

「.綾ちゃん!私は離れないよ?
だからそんな寂しいこと言わないで!」

私の言葉に松木さんは少し意外そうに目を見開いたが、

「そう?じゃあ私のことイヤにならない?」

と何ともわからない薄笑いを浮かべる。

「うん、ならないよ。
なる理由なんて無いでしょ?」

「そう?じゃあ時々甘えていい?」

「勿論だよ!私なんかで良かったら甘えてね。」

「美優ちゃんてやっぱりお人好しだ。」

松木さんは少し皮肉な笑いを浮かべるとそのままふいっと何処か に歩いて行ってしまった。

No.73 19/01/15 13:09
自由人 

カンちゃんの事があって以来、大ちゃんとはぎこちないままだった。

さすがに仕事の話はするが、雑談の類は一切しない。

今までは、私が折れて何だかんだと話しかけてまた元の鞘に戻り…を繰り返してきたのだが、松木さんの事で頭がいっぱいになっていた私には大ちゃんの機嫌を取る余裕もなく、
時々、ふと視線を感じると大ちゃんが何かを言いたげにこちらを見ていたり、周りを意味もなくウロウロする事にも一切気づかないフリをしていた。

そんなある日、

「私もうダメかも…
私を必要とする人なんていない…
私の居場所なんて何処にもない…
家族なんていらない…
疲れた…」

青ざめた顔の松木さんが今にも泣き出しそうな様子で言う。

「綾ちゃん、大丈夫?」

「ん。もう無理…
旦那の横暴な性格は直らないし、お義母さんは子供を自分の味方につけてるから、最近は子供も私に懐かなくなってる。
もう子供の事すらも可愛いと思えない。
家出たい…
もう何も要らない…」

「綾ちゃん!ね!今日仕事終わってから話す時間取れない?話そうよ?」

松木さんの呼吸がまた荒くなり出した様な気がして私は慌てた。

松木さんは黙って首を横に振る。

やっぱりダメか…

「ね?綾ちゃん、今ちょうど翌月のシフトを作っている最中だから店長に頼んで2人を一緒の休みにしてもらおうか?
それならゆっくり話せるでしょ?」

シフトは月終わりにギリギリに作成していたため、翌月までは数日しかない。

「月初めのこの日はどう?
今から3日後だし。」

言いながら、どうかシフトが完成していませんように!とひたすら心の中で祈る。

「うん、美優ちゃんと話したい。
でも…大丈夫?」

「うん!大丈夫だと思うよ!
店長っていつもシフトをギリギリまで作らないし。」

松木さんの嬉しさと不安の入り交じった顔を見てますます引っ込みがつかなくなった私は半ば願う様にそんな返事をした。

「うん、わかった。
仕事のふりして家を出るから、夕方まで時間作れるよ。」

松木さんがやっと穏やかな笑顔を見せる。

「うん。シフトの件は店長に頼んで来るから任せてね!」

そう虚勢を張ったものの、恐る恐る大ちゃんのいる事務所のドアを開けた私に、

「シフト出来たから渡しておく。」

と大ちゃんの淡々とした声と共に印刷されたばかりのシフトが私の目の前に突き出された。

No.74 19/01/16 22:27
自由人 

「もう出来たんですか?」

「早い方が助かるでしょ?」

「あ~…」

いつもなら早くても明日の朝くらいなのに…

今更ながら大ちゃんとは全く噛み合わない事を実感しつつシフト表をチェックしていた私に、

「なに?何か休み希望でもあったの?」

大ちゃんが明らかに気を悪くした様な声を出す。

「あの、この日なんですけど…」

私が希望を出そうとしていた日のシフトは、松木さんが休みで私が出勤という形になっていた。

「この日?いいよ。俺が休みだから変わるよ。松木さんの休みも他の日にずらせばいいし。」

「いえ、あの、松木さんと…2人で休みを欲しいんですけど…」

「は?どういうこと?
化粧品販売できる2人が揃って店を放ったらかしで遊びに行きたいわけ?」

大ちゃんの背後から燃える様なオーラが発動しだす。

「いえ、あの、実は…」

その強烈なオーラに怯えながらも事情を説明する。

ダメかな。

考えが甘いかな。

更に気まずくなる事を覚悟しながら話し終えた私の耳に、

「そうか。ならいいよ。
話をゆっくり聞いてあげな。」

と思いがけない程に優しい大ちゃんの声が聞こえてきた。

「えっ?いいの?」

思わずタメ口になった私に、

「うん。実は松木さんの事は俺も気になってて1度本人と話をしようかと考えていたとこだったし。
先ずはミューズが話しを聞いてやってくれれば松木さんも俺にいきなり話すよりも話しやすいだろうし。」

大ちゃんが優しい笑顔でそう返してくる。

「ありがとうございます。よろしくお願いします。」

喜んで事務所を出ていきかけた私を

「ちょっと待って!」

と、大ちゃんが呼び止めた。

「2人で休みを合わせて会うことは周りには内緒にしとけよ。
あくまでも2人の休み希望が偶然に被った事にしとけ。
他のスタッフ、特にパートさん達はこんな風に誰かと休みを合わせて遊びに行くとか出来ないんだから。
ましてや、化粧品担当者が2人揃ってだから…な?」

はい。勿論。

私達が2人で休んだら、

「化粧品のお客さんが来たらどうするの?」

と沖さんが大ちゃんににブウブウ言うんだろうなあ。

でもそれを宥める役も引っ括めて許可してくれた大ちゃんに感謝しながら、

「うん!ありがとう!」

と笑顔で答えた私に、

「おう、頼む。」

と大ちゃんも笑顔を見せた。

No.75 19/01/17 18:50
自由人 

「おはよ~!」

改札口を出た私をいち早く見つけ、松木さんが走り寄ってきた。

「ごめんね、待った?」

「ううん。予定より1本早い電車に乗れたから少し早く着いただけだよ。
それより、遠出させてごめんね。」

「大丈夫だよ。
とりあえずそこに入ろうか。」

家や職場の近くだと職場の人や松木さんのご家族に見られる可能性がある。

電車で20分程の市内まで足を伸ばし、
そこでランチ等をして話そうという事になっていた。

まだランチの時間には少し早いため、とりあえず座れる所と私が指した場所は、駅の構内の小さなセルフタイプのコーヒーショップ。

店外側に向いたカウンターと簡素なテーブルと椅子があるのみの店はあまり小綺麗な場所とも言いがたかったが、松木さんは嬉しそうに、

「こんな所に来るの久しぶり!
何にしようかなぁ。
美優ちゃんはなに?
買っておくから場所取りお願い。」

と、いそいそと券売機の方に向かって行った。

私が奥のテーブル席に座り待っていると、コーヒーを2つトレーに載せた松木さんがこちらに向かって歩きながら、

「お待たせ~!
ちょっとこぼしちゃったよ。
ごめ~ん!」

と屈託の無い笑顔を見せた。

「こぼした分はちゃんと弁償してよ?」

「え~っ?いくらなのかな?」

「高額だから24回ローンでいいよ。」

私の冗談に更に口元を緩めた松木さんがトレーをテーブルに置くや否や笑い転げる。

「あはは、おかしい。
涙出てきちゃった。」

「綾ちゃん笑いすぎ。
笑いのハードル低すぎだよ~」

「え~っ?そうかな?
普段楽しく笑うことがあまり無いから耐性が無いのかな?」

そっか…

綾ちゃん、普段はこうやって楽しく友達と出かけたり出来ないって言ってたっけ。

目の前の綾ちゃんが無性に可哀想で愛おしくてたまらなくなり、

「綾ちゃん、今日は何でも吐き出してよ?聞くからね。」

そう言う私に、

「うん。ありがとう。
美優ちゃん、あのね、ランチはどうするの?愚痴も聞いてもらいたいけど、美味しいもの食べて楽しい事もしたいんだ。」
松木さんは少し遠慮がちに希望を言う。

「うん。考えている店はあるんだ。綾ちゃんが良いならそこにしようかと。」

「えっ?どこどこ?
美優ちゃんのオススメのお店って何だか楽しみだなあ。」

松木さんは子供の様に目を輝かせ嬉しそうにはしゃいだ。

No.76 19/01/25 21:15
自由人 

美味しいランチに楽しい会話、
ウインドウショッピング…
ふと気づくと空には真っ赤な夕焼けが広がっている。

「そろそろ帰らなきゃ。」

同時に腕時計を見て、同時に同じセリフを発した私達2人は顔を見合わせて笑ってしまった。

「ねえ綾ちゃん、今日あまり愚痴らしい愚痴を聞けてなかったけど大丈夫だったかな?
モヤモヤ溜まってない?」

のんびり散策していた中央公園から駅へ向かう途中、そう尋ねた私に、

「うん。大丈夫。
楽しいと愚痴を言う気も無くなるし、家の話なんかしたらせっかくの楽しい雰囲気台無しになるしね。」

松木さんはそう言うと、

「さっ行こっ!」

と軽く私の腕に自分の腕を絡めると
少し私に寄り添う様に歩き出した。

「またこうやって遊びに来れるかな?」

少し甘えた様に聞いてくる松木さん。

「う~ん、私と綾ちゃんが同じ店で働いてる限り厳しいかも…
今回も綾ちゃんを心配していた店長の計らいあっての事だし…」

私はそんな松木さんに今回2人で休みを取れた経緯を簡単に説明した。

「そうなんだ。店長そんなにこんな私に気を使わなくてもいいのに。」

松木さんが小馬鹿にした様にふっと鼻先で笑う。

んっ?
もしかして松木さんは大ちゃんの事をあまり好きではないのかな?

カンちゃんと仲良かったもんね。
カンちゃんは見た目も中身も大ちゃんとは逆だもん。

大ちゃんのタイプは松木さんにはちょっと無理かも。

その点、カンちゃんは優しい見た目そのままに穏やかでかなり優しい性格だ。

「やっぱりさ、店長に気を使われても何か怖いだけだよね。
これがカンちゃんなら自然なんだろうけど。」

ちょっと冗談っぽく笑いながら松木さんにそう話を振った私に、

「カンちゃん?誰それ~?
興味のない人の事は直ぐに忘れちゃうから覚えてな~い。」

松木さんは冗談とも本気ともつかない曖昧な笑顔を向けた。

No.77 19/02/03 23:30
自由人 

「おはようございます…」

遅番の大ちゃんが淡々と挨拶をしながら事務所に入ってきた。

「あ、おはようございます。」

挨拶を返した私の顔を一瞥すると、
ぷいっと顔を背けそのまま書類ボックスを覗き込むようにゴソゴソ引っ掻き回しだした大ちゃんの態度を見て嫌な予感がする。

またか…

どう見ても私と顔を合わせたくないからだよね?

「店長、パソコン空きましたのでどうぞ。」

ピタッ。

本当にそんな音が聞こえて来そうなほど、瞬時に大ちゃんが書類ボックス内を引っ掻き回すのを止めたのを確認した私は黙って事務所を後にした。

はあ、やれやれ。

今回はなんだ?

確か、前回は自分が気に入らない取引先の人と私が仲良く談笑してたのが気に入らないからと半日拗ねられてたんだっけ。

今回はそれよりも長引きそうな顔つきだしなあ。

少なくとも今日は会話は無いな。

案の定、大ちゃんは私に全く話しかけて来ようとせず、私も黙々と店内で1日作業を終え、さてそろそろ上がりの時間だなとチラリと腕時計に目をやった瞬間、

「田村さん、ちょっといいかな?」

後ろから妙に暗い大ちゃんの声がした。

「は、はい。」

おそらく私の上がり時間まで悶々としながら待っていたのだろう。

何が原因かは分からなかったが、わざわざ私の上がり時間まで待っていたということは、話が長引くかもしれないという事が予想され一気に気が重くなる。

「こっち入って。」

大ちゃんに事務所に入るように促され、すすめられるまま椅子に座る。

やだな。
何の話だろう。

どうにも心当たりが無く、募る不安な気持ちに耐えられなくなり、

「あの…」

と言葉を発しかけた私の声に被せる様に、

「松木さんと遊びに行ったことベラベラ言いふらしてるんだってね?
聞いたスタッフ達が嫌な気持ちになるのもわかんない?」

大ちゃんが心底呆れた様にそう吐き捨てた。

No.78 19/02/05 12:14
自由人 

「松木さんの相談に乗ってあげたいって聞いたから休み希望を受けたのに。
化粧品販売者が2人揃って居ない事を挙げて沖さんに文句を言われたら可哀想だからって、ユッキーがその日は2人の代わりにずっとうちの店で化粧品販売してくれたのに。
なのに、当の2人は散々遊びまわってたとか…
俺に嘘ついてまで遊びに行きたかった?
忙しいユッキーに迷惑かけてまで遊びたかった?
なら最初からそう言えば?」

一気にまくし立てる大ちゃんの顔色が怒りで赤くなっている。

「あの…ごめんなさい…
私…本当に松木さんの話を聞くつもりで…遊びに行くとかそんなつもりじゃなくて…
でも…松木さんを喜ばせたくて…
松木さん美味しいもの食べて…嬉しそうで…
いっぱい笑って…幸せそうで…
ごめん…なさい…」

大ちゃんの剣幕に怯えながらグチャグチャな答えを返し、
それ以上言葉が出なくなり俯いた私の周りの張り詰めていた空気が突然フッと少し緩んだ。

「いや、どんな形にしろ休み許可を出したのは俺だから休みに何をしようとそれは自由だ。でも…」

少し優しくなった大ちゃんの声に顔を上げると、

「俺を騙して遊びに行ったの?」

大ちゃんが私の顔を少し覗き込むように聞いてくる。

私は慌てて首を横に振った。

「わかった。信じるよ。
でも、何で他のスタッフ達に2人で楽しく遊んで来たよと言いふらしたんだ?
俺の気持ちや周りの気持ちを考えてくれてないのかと思ったら…」

「ちょ、ちょっと待って下さい!
さっきから出ている、皆に言いふらしたってどういう意味ですか?
私、誰にも何も話してません!」

私はここでようやく大ちゃんの話に反論した。

No.79 19/02/06 12:51
自由人 

「どういうこと?
ミューズはパートさん達とも仲が良いから、つい浮かれて皆に話したんじゃないの?」

大ちゃんが全く納得していない表情を見せる。

「一体誰からその話を聞いたんですか?」

「えっ?!いや…まあ…忘れ…た…」

やっぱり…
沖さん確定だな。
でもとりあえず問題はそこじゃない。

「私がその人にも松木さんと遊び回ってきたとか何とか言いふらしていると聞いたんですか?」

「いや…他のスタッフから聞いたらしくて、美優ちゃんだけが特別扱いなの?と俺に苦情を言われたから、てっきりミューズが…」

「私、最初から遊びに行くつもりも無かったし、誰にも何も話してません!!」

泣きたくなってきた。

ただ、松木さんを心配して、
ただ、松木さんの喜ぶ顔を見たくて、
ただ、松木さんに寄り添ってあげたくて、それだけなのに…

なのに、
なんでこんな風に言われなきゃいけないの?
私がそんな人間だと大ちゃんに疑われていた事が何より悲しかった。

「もう2人で休みを取ったりしません。申し訳ありませんでした。
お先に失礼します。」

私は大ちゃんの顔を見ることも無く深々と頭を下げるとそのまま休憩室に向かった。

「あれ?姉さんまだいたの?」

「あっ!美優ちゃん!お疲れ様~。」

着替え終わり店の駐車場に出た私に、そこで談笑していたらしい牧田君とユッキーが口々に声をかけてきた。

「あれ?こんな時間にどうしたの?」

思わぬ所で出会ったユッキーの優しい笑顔に涙が出そうになり、
慌てて誤魔化す様にそう聞いた私に、

「明日本社に持っていく書類でもらい忘れた物があったから慌てて取りに来たのよ。」

相変わらずユッキーの話し方は穏やかで優しい。

「ユッキー、この前は私の代わりに化粧品の販売をしてくれてたんだってね。ごめんねありがとう。」

「ああ、それね。あれは…」

ユッキーが何か言いかけたが、涙を堪えきれなくなり、

「ごめん、ちょっと急ぐから帰るね。」

と足早にその場を離れた私の後ろから、

「美優ちゃん?…泣いてた?…」

とオロオロしたユッキーの声が聞こえた様な気がした。

No.80 19/02/08 21:10
自由人 

早く帰ってシャワー浴びて1杯やりたい。

こんな日はお風呂でサッパリした後に冷たいビールでも飲んで好きな音楽ガンガン聴いて…に限る。

なのに、

こういう日に限ってバイクで来てないんだよなあ。

朝に結構雨が降っていたため、安全を考慮し電車+徒歩で出勤した事を後悔しながら、ひたすら駅への道を急ぐ私の携帯がいきなり鳴り出した。

「もしもし?」

「美優ちゃん!今どこ?」

電話の向こう側から少し焦った様なユッキーの声がした。

「え?駅の近くだけど…」

「まだ電車乗らないで!迎えに行くから。ご飯食べに行こうよ!
どうせ暇でしょ?」

ユッキーは最後の「どうせ暇でしょ?」をわざと強調しながら笑う。

ユッキーなりの気遣いと優しさだ。

私を心配してわざわざ話でも聞こうと思ってくれているのだろうに、わざと憎まれ口をきいて軽い感じで誘ってくれる。

「うん、まあ暇だけど…」

「じゃあ決まり!駅に着いたらまた電話するから!」

有無を言わさぬ慌ただしい声と共に切れた電話を握りしめ、

「おい、まだ行くとも何とも返事してませんけど?」

と電話に向かって文句を言ってみるも、気持ちは嬉しくて仕方なかった。

私にゴチャゴチャと考える余裕を与えないためわざと早く切ったな。
それくらいお見通しだよ。
ユッキー…
いつも、ありがとね…

駅に着き、10分も待たないうちにまた携帯が鳴った。

「着いたよ~、ロータリー横の駐車スペースに車停めてるから来て。」

急いでそちら側に向かうと、駐車スペースに停められているユッキーの車が見えた。

あ…
そこは…

大ちゃん…

大ちゃんと付き合っていた数年前。

私との待ち合わせの時に大ちゃんがいつも停めていた場所…

大ちゃん…

切ない様な、悲しい様な、腹立たしい様な、寂しい様な、
ふと胸に覚えた奇妙な胸苦しさを払う様に私はユッキーの車へと駆け出した。

No.81 19/02/11 00:45
自由人 

「そかそか、誤解されちゃったんだ。大変だったね。」

美味しいパスタと可愛い手作りケーキが人気の小さなカフェ。

ユッキーがまるでお姉ちゃんの様に私の頭を優しく撫でてくれる。

「うん、話がいつの間にか広まってて大事になっちゃってさ、大ちゃん私の事を完全に疑ってるんだもん、ショックだったよ。」

怒りに任せてタバスコをふりかけ過ぎたパスタにむせながらブツブツ言う私に、ユッキーは終始優しい目を向けてくれていたが、

「大ちゃん、きっと今頃どうしようどうしようってパニックになってるんじゃない?」

とイタズラっぽい笑顔を見せた。

「え~っ?そんなことないよ!
私と松木さんが休みの日にユッキーが気を利かせてくれてた事だってしっかり嫌味言われたしさ。」

私のその言葉にユッキーは更に可笑しそうな笑みを浮かべると、

「その話なんだけどね、大ちゃんが美優ちゃんにどういう説明をしたのかは知らないけど、実はあの前日に大ちゃんから電話があって、ミューズの代わりに1日うちの店に来てくれないか?と物凄く頼まれて急遽お手伝いに行ったんだよ。」

と私の頭をポンポンと軽く叩いた。

「えっ?!ええっ?ユッキーが自分から言い出してくれてたんじゃないの?!」

「知ってたらきっと自分からも言ったと思うけど、店長の出勤予定表しかもらってないのに、他のスタッフのシフトなんて知りようもないでしょ?」

そりゃそうだね…

「大ちゃん必死だったよ~、
まあ私も元々その日辺りに行こうと思ってたからスケジュールをちょっとやりくりするだけで済んだんだけど、すっごく感謝されちゃってさ。」

「そんなに…化粧品販売する人欲しかったんだ…」

「半分当たり、半分ハズレ。
化粧品を販売する人は欲しかった。
でもそれはね、きっと美優ちゃんが後で沖さんに嫌味を言われたら可哀想だと気を使ってくれたからだよ。」

「沖さんに文句を言われたら可哀想だから…」

大ちゃんが怒っていた時の言葉を思い出す。

あれはユッキーが言った言葉ではなく、大ちゃん自身からの言葉だったのか…

「大ちゃん、美優ちゃんのこといつも結構気にしてるんじゃないの?
今日だって美優ちゃん帰った後に…」

プルルルル

突然ユッキーの携帯が鳴りだし、

「おっ、早速かけてきたかな?」

とユッキーは意味ありげに笑い、電話に出るために店の外に出て行った。

No.82 19/02/12 22:32
自由人 

出ていくユッキーの後ろ姿を見送った後、私は少し手持ち無沙汰気味に窓の外を眺めた。

窓の外には小スペースのオープンテラスがあり、誰もいない空間が静かにライトアップされて浮かび上がっている。

とそこに、外に出て電話で話しながら歩いてきたユッキーが、私のいる窓の近くにある椅子に座った。

ユッキーは私の視線にすぐに気づくと
、「早く食べちゃって!」と言うようにゼスチャーで合図をしてくる。

ん?
なに?
なに?

訝しげに思いながらも、言われた通りに急いで食べ終えた私の様子を見ながらユッキーが電話の相手に何かを言っている。

なに?
私に関係あるのかな?

私は2人分の荷物と伝票を持って立ち上がり会計を済ませると、外に出てテラス席側の方へ歩いて行った。

「うん…ちょうど美優ちゃん来たから…
あ、うん…わかった。じゃ…」

私の気配に気づいたユッキーはすぐに電話を切り、

「さて帰ろうか。」

とニッコリ笑った。

「え?ああ、うん。
あの、電話って誰からだったの?」

「ああっ!ごめん!お会計してくれたんだよね?」

「え?あ、うん。電話…」

「ごめんごめん、いくらだった?」

「いや、今日は話を聞いてくれたお礼にご馳走するよ。
それよりも電…」

「そお?じゃあ遠慮なくご馳走になるね!ありがとう!」

「あの…で…」

「ほら!早く乗って!置いてくよ!」

ユッキーがさっさと車のドアを開け、
私にも早く早くと促す。

電話の件は触れられたくないのかな?

私の名前が出てるのが気になるんだけど…

しかし、あまりにもあからさまに白々しく話を逸らされ続け、流石にこれは聞かない方が良いのだろうと私は質問をするのを止めた。




「え?あれ?私の家なら右に曲がった方が良かったんだけど…」

また来た道を戻る様にハンドルを左にきったユッキーに、私は疑問の声をあげた。

「うん、いいんだよ。〇〇駅まで送るから。」

「え?何の冗談?そこまで戻るよりも私の家の方が近いってば!」

私の声を無視する様にクルマは走り続け、

「着いたよ。」

と言われた場所は本当に〇〇駅のロータリーだった。

No.83 19/02/14 12:55
自由人 

2月14日になると思い出す。

正確には、バレンタインデーでの出来事ではなかったのだけど、
それでもチョコをプレゼントする=バレンタインデーのイメージが強いのか、
何となく毎年思い出すので、番外編としてその話を書こうと思います。


「ね?唐辛子入りのチョコって知ってる?美味しいらしいよ!」

大ちゃん、ユータン、ユッキー、私の4人がまだ同じ店舗で働いていた頃、

ユッキーと2人での休憩時、
どこからそんな情報を仕入れてきたのか、ユッキーが目を輝かせて私にそう告げる。

「なにそれ?どこに売ってるの?」

「わかんない。ちょっと噂で聞いただけだし。
食べてみたいのに残念だなあ。」

ユッキーがいかにも残念そうな顔つきで言う。

ネットで何でもすぐに買える現代と違い、1990年代前半のその頃の私達にはネットで欲しいものを買うという発想がまるで無かった。

そっか~。
でも私もちょっと興味出てきたかも?

「ね?買えそうにないなら、自分達で作ってみない?」

「えっ!自分達で?それいいね!面白そう!!」

ユッキーの目が俄然輝き出した。

「よし!決まり!じゃあ明日はちょうど2人揃ってお休みだから、買い物行って私の部屋で一緒に作ろう!」

「わあ!楽しみ~!」

「だよね~!ね?大ちゃんやユータンにもプレゼントしてあげちゃおうか?」

「いいね~!美味しすぎて感涙されちゃったりして~!」

「えっ?なに?なに?俺がどうしたの?」

休憩室の戸を開けたまま、2人でキャッキャッと喜んでいる声が外まで聞こえたのか、ユータンがヒョイと休憩室に顔を覗かせた。

「あっ!ちょうどいいとこに来た。
ねっ、ユータン明日は中番で大ちゃんが遅番でしょ?
良かったら閉店後に4人でご飯食べに行かない?」

「おっ!いいね~、じゃあ俺仕事終わっても適当に時間潰して待ってるよ。
大ちゃんにも言っとく。」

ユータンが嬉しそうに大ちゃんのいる店内に向かったのを見た私とユッキーは何だか楽しくなり、顔を見合わせて笑った。

No.84 19/02/14 18:30
自由人 

「ねえ、レシピってわかんない…よね?」

2人で出かけたスーパーの製菓材料コーナー。

ユッキーが悩み顔で言う。

う~ん…

食べた事があれば、想像で何とか近い物に仕上げる事も出来そうだけど、
全く味も知らないのにどうやって作るつもりだったんだ私達?!

と…いう問題に今更ぶち当たる。

「唐辛子チョコでしょ?
唐辛子をチョコに混ぜればいいんじゃないの?」

シンプルと言えばシンプル、アホと言えばアホな意見を真面目に述べた私に、

「そうだよね!さすが美優ちゃん!
頼りになるねっ!」

と、たまにいささか残念気味なユッキーがひとしきり感心した様に頷く。

早速「材料」を買い揃えた私達は、
ショコラティエよろしく気取った様子で私の家のキッチンに立った。

ショコラティエ達が挑戦するスペシャルチョコは、


①削ったミルクチョコレートに少し温めた生クリームを適量注ぐ。

②唐辛子(瓶入りの一味唐辛子使用)
を適量入れ混ぜ合わす。

③1口サイズのハート形アルミケースに流し入れ、ある程度冷ましたら冷蔵庫で冷やし固める。

出来上がり。

の予定。

「んっ?あんまり辛くないっていうか、唐辛子の存在感が意外とないね?」

チョコを溶かしたガナッシュに唐辛子を混ぜ入れていたユッキーが首を傾げる。

「足りないんじゃない?
もっと入れてみたら?」

「う~ん、結構振り入れてるんだけどな…
瓶を振り過ぎて手が疲れちゃったよ。中蓋開けて入れようかな?…
アーーーッ!!!」

ユッキーの突然の叫び声に驚いて振り向くと、ボールに入ったガナッシュの上にまるで「お約束」の様に丸々1瓶分の一味唐辛子が乗っていた。

オーマイガーーーッ!!!

「ふ、蓋がなかなか開かなくて…
思い切ってエイッ!ってやったら中身が飛び出して…」

と、うなだれながらユッキーがこれまた「お約束」の言葉を吐く。

「だ、大丈夫だよ。
混ぜたら案外辛味もマシになると思うよ。」

ユッキーをなだめるべく慌ててかき混ぜ、混ぜ終わった所でふと気づいた。

スプーンで一味唐辛子を取り除けば良かったんじゃ…

時すでに遅し。
後の祭り…

※覆水盆に返らず
起きてしまった事は元には戻らない。

※唐辛子瓶に戻らず
混ぜてしまった一味は瓶には戻らない。

諺というものは、実生活に密着しているものなんだなと痛感した一瞬だった。

No.85 19/02/15 12:51
自由人 

不安しか無かった唐辛子チョコの見かけの出来栄えは予想以上に良かった。
…と、私は「個人的に」思った。

程よく混ぜた生クリームのおかげで生チョコよりもやや固め程度に仕上がったその中に、唐辛子がまんべんなく混ざり込んでいるのだが、
これがどことなく夜空に散りばめられた満点の星をイメージさせた。

うん。
意外にキレイ。
それに星空をイメージ出来て何かロマンチックだし…

赤は火星。
オレンジは金星かしら…

うっとりとチョコに見とれる私の横で、

「なんか全体にザラザラしてるし、いかにも唐辛子まみれって感じだよね。辛そう~…」

とユッキーが身も蓋もない現実的なセリフをのたまう。

「いや意外にオシャレな見た目じゃない?」

「そ、そうかな?」

ユッキーの目が何かを言いたげに泳いだが、

「美優ちゃんが言うなら間違いないね、よしっ!ラッピングしよっか!」

と、素早く気持ちを切り替えたのかいそいそとラッピングの作業にとりかかり、

「できた~!」

と出来上がった物は、

チョコを小さなハート柄の小箱に配置良く均等に並べ、その小箱をフワフワの不織布で包み、カーリングリボンをかけてアクセントに小さな薔薇の蕾の造花を添えた、なかなかに手の込んだラッピングであった。

化粧品販売のための勉強会等に参加していると、こういうラッピング技術も教わったりするのである。

「可愛いね~バレンタインチョコみた~い!」

チョコの出来栄えを見た時の異様に低いテンションから一転、ユッキーが少し興奮気味にはしゃぐ。

うんうん。
確かに予想以上に可愛く仕上がった。

「じゃあ、閉店までまだ時間あるけど、どうせ中番のユータンが暇してるだろうからそろそろ店にいこうか?」

「は~い!ねっねっ何食べに行く?
ご飯食べた後に2人にチョコあげよ~ね!」

「うんっ!そ~だね!何食べに行こうかな~」

ラッピングの可愛さとこれから皆で味わう未知の味の期待に心を踊らせながら私はユッキーの車に乗り、ユータンと大ちゃんの待つ〇〇店へと向かった。

No.86 19/02/17 23:09
自由人 

「お疲れ様~」

「あ、ちょっと待ってて。」

店の事務所を覗くと、パソコンで何やら入力作業中だったユータンが振り向きもせずそのまま返事をした。

が、

「ん~?まだ仕事してるの?」

私の後から事務所を覗き込んだユッキーの言葉に、

「いや、もう終わるからミューズと食事に行く店決めといてよ。」

と、ユータンは手を止め振り向くと、ユッキーに向かって優しく微笑んだ。

おいこら~!
毎回毎回ユッキーと私への態度がまるで違うのはど~ゆ~ことだよっ!

ま~ったく、唐辛子チョコにタバスコクリームでも忍ばせてやろうかしら…

そう思いつつも、何故かユータンには本気で腹が立たない。

だって、ユータンは本当にユッキーの事を好きなのがわかるもん。
ユッキーの手作りチョコなんて食べたら嬉しくて嬉しくて涙が止まらなくなるかもねフフッ

自分の想像で勝手にニヤニヤしている私の横で、

「なによ~!人任せなんだから~、
焼肉にしちゃうよ~?」

ユータンに対してはいつも強気なユッキーがちょっと強めにブーブー言うも、ユータンは嬉しそうに笑うとまたパソコンの方を向いてしまった。

「うん、わかった。じゃあ休憩室で待ってるね。」

私はユータンの後ろ姿にそう返事をすると、

「まったく~」

ブツブツ言うユッキーを先に休憩室に行かせ、店内の化粧品カウンターコーナーに行くと、引き出しからサインペンと小さなハート型のPOP用カードを取り出した。

せっかくプレゼントするんだから、メッセージカードくらい添えなきゃね。

「お待たせ~!ね?チョコにメッセージカード付けようよ。」

休憩室に戻り、そう言いながらバッグからチョコを取り出した途端、

「お?なに?なに?それ?」

と背後から、ものすご~く期待に満ちたユータンの声がした。

No.87 19/02/18 13:05
自由人 

「わわっ!」

焦ってチョコを隠そうとするも、

「なにそれ?俺にくれるの?」

人当たりが良く愛されキャラのユータンは、プレゼントは貰い慣れているらしく、冗談めかしながらも自然な態度で私の手からチョコの箱を取り上げたが、

「それ、私とユッキーの手作りチョコだよ。」

と言う私の言葉に瞬時に固まった。

「ユッキー…の…手作り…だ…と?」

…おい、どうでもいいが「ミューズと」の主語が抜けとるぞ?

「ば、ば、ばれんたいん…かな」

…おい、夏だぞ今は。
その上にバレンタインの発音が物凄くおかしい。
「ばばばれんたいん」とか、新しい夏の行事か?

私の真冬のブリザードの様に冷ややかな目とは対照的に、ユータンの目は真夏の太陽の様にギラギラしている。

「ちょっと…食べていいかな?」

「ダメだよ~!!」

ここでようやく呆気にとられていたユッキーが我に返り反対の意を唱えた。

「ぐえ~っ!!!」

余程食べたかったのか、ユータンが瀕死のアヒルの様な声を出す。

「もう見つかっちゃったんだしいいんじゃない?
私達が食べようと思っていた箱を開けよ?」

私は自分とユッキー2人の味見用のチョコの箱を取り出しながらそう言った。

「それは嬉しい!せっかくユッキーから貰った手作りチョコは観賞用に置いておきたいし。」

とユータンが何かのコレクターの様な事を言い出す。

…って、おい、「ミューズと」の主語が抜けていると何度も…

「じゃあ早速食べるよ!
いただきま~す!」

私の抗議の目をものともせず、
私の手から半ばひったくるようにして箱の蓋を開けたユータンは、

「わあ、チョコレートに何かがいっぱい散りばめられてて綺麗なチョコだね。」

とうっとりしながら口に入れた。

…ちょっと…やだわこの人。
感性私と同じとか勘弁してほしい…

「ねっ?どう?美味しい?」

待ちきれない様に味の感想の催促をしたユッキーにユータンは、

「.うん!何かこれジャリジャリしてるけど、それもアクセントになって美味い!!!」

と叫んだ後、急に、

「ぐえっはおっはひ~!!!」

とこの世の者とも思えない声を発してもがき苦しみ出した。

No.88 19/02/19 20:10
自由人 

「辛っ!辛っ!何いれたの!ミューズ!!!」

何って唐辛子だけど…
ていうか、そういう時だけ「ミューズ制作」にスイッチするのはやめんか。

「唐辛子チョコっていうのが美味しいって聞いたからミューズと作ってみたんだけど、美味しくなかった?」

ユッキーが身体を震わせながら聞く。

「あ、いや美味しいのは美味しかったよ。ただちょっと唐辛子入れすぎじゃない?
あまりの辛さにビックリしただけ。
心配しないで?」

そんなに俺の事心配してくれたんだぁ。
でも大丈夫だよっ!
と言わんばかりに、ユータンはまたチョコを口に入れながら無理矢理笑ってみせた。

馬鹿め…
ユッキーが震えているのは、「心配し過ぎ」だからじゃなくて、
「笑いをこらえ過ぎ」だからだわ。
激辛チョコ食べて早よ目を覚ませ…

「これ味見したの?」

心の中でユータンを罵倒していた私にいきなりユータンが鋭い所を突いてくる。

「うっ…いや、まだ…」

「とりあえずミューズ達も食べてみなよ?
どうせ大ちゃんにもあげるつもりなんでしょ?」

それはごもっともだが、涙をポロポロ流しながらそれを言うユータンの顔を見てるとどうにも手が出ない。

「ねえ、それよりも…なんで…泣いてるのかな?
ユッキーの手作りで感動しまくって…
じゃ…ない…よね…?」

「アホっ!」

ユータンはぐちゃぐちゃな泣き笑いの表情のまま私達にチョコを食べる様に促した。

うっ、
仕方ない。
食べるか…

恐る恐る少しかじってみると、意外や意外、
あ…悪くない。

唐辛子とチョコが意外に合うことを初めて知る。

「あれ?案外いけるんじゃない?」

残りを口に放り込み、ユッキーに話しかけた瞬間、
それは猛烈に襲ってきた。

「辛っ!!やばっ!これ後で来るよ!」

慌ててユッキーに注意したが、ユッキーは既に号泣している。

「俺、ちょっと慣れたわ。」

相変わらずポロポロ涙をこぼしながらユータンがうそぶく。

「とりあえずこれどうする?
大ちゃんにも渡す?」

私の言葉に涙を流しながら頷く2人。

「じゃあメッセージカード書こうっと。喜んでくれるかなぁ。」

喜びより発狂のリスクの方が高めだが、

「大ちゃんにも食べさせてあげたい…」

その思いをどうしても抑えきれず、

私は込み上げる涙と鼻水をそっとティッシュで押さえながらサインペンを手に取った。

No.89 19/02/20 13:01
自由人 

「大ちゃんへ
頑張って作った手作りチョコです。
食べてね。
ユッキー、ミューズ」

うん、これでいいかな?

頑張って作ったというより、頑張って食べる必要があるチョコです。
が真実なんだけど、それではあまりにも色気ないしね。

「んん?私の名前はいらなくない?」

ユッキーが私の手元を覗き込み、そう言いながら「書き直せ」と言わんばかりに新しいカードを私の目の前に置いた。

「えっ?なんでよ?2人で作ったじゃない。」

「いいの、いいの。
黙ってミューズからって事にしときなって!喜ぶから。」

「そう?なら、そうしようかな。
じゃあついでにキスマークとかも付けちゃったりしよかな。ププッ」

「お~っ!!いいね!やりなよ!」

私の冗談にユータンが即座に食いついてきた。

「やだよ。冗談だよ。そんな事したらその場で投げ捨てられるし恥ずかしいよ。」

「なんで?全くミューズは分かってないなあ。大喜びで持って帰るから喜ばせてあげなって!若いアイツに…(以下自主規制)」

ユータンの私への説得が何だか変態じみている…

「やだ~ユータン変態~!」

ユッキーが半分引いている。

「なに言ってんだ?!二人とも男の気持ちが分かってないだろ?
この前、大ちゃんと話した時に、
ミューズの事を…(自主規制)(自主規制)(自主規制)って言ってたぞ?」

ユータンの私への説得?が完全に変態化していて目眩がしてきた…

「げげげげっ、大ちゃんたらミューズの事をそんな目で見てるんだ…」

ユッキーが完全にドン引きしている。

「若い男ってそんなもんだよ?キスマークあげなって!喜ぶから。」

自分もまだ20代前半のユータンが何故かしたり顔で頷きながら言う。

「ねえ、ならさ、ユータンがキスマーク付けてよ。
私は絶対嫌だから。」

私の提案に嫌がるかと思いきや、

「おうっ!それ面白そう!」

と何の躊躇も無くユータンが即座に食いついてきた。

No.90 19/02/21 18:50
自由人 

「大ちゃんへ。
一生懸命作りました。
食べてね。 ミューズ。」

よし書いた。

わざと字を小さくカードの上部の方に固めて書き、下部に余白を残す。

そこに口紅を付けたユータンが
「チュッ!」
と軽くキスをした。

「うわっ、気づかなかったけど、こうやって見るとユータンって形の良い唇してるんだね。思わず食べたくなる唇って感じ。」

ユッキーが無意識に小悪魔的なセリフを吐く。

「うほっ、そ、そう?
実物はどう?ね?どう?」

「ほらっ!そろそろ閉店作業の時間だよ。大ちゃん来る前に早く行く店決めようよ!」

案の定、調子に乗ってユッキーに向かって顔を突き出したユータンを引き戻し、あれやこれやと希望を出し合った結果、ユッキーおすすめの個室焼肉屋さんに決定した。



「あれ?もう3人とも来てたんだ。」

私とユータンとユッキーによる
「三者会議」も無事終わり、チョコを再びバッグにしまい込んだ所に、大ちゃんがひょっこり休憩室に入ってきてそう声を掛けてきた。

「あ、うん。もうお店も決めたよ!
焼肉でいいよね?」

私の言葉に、

「うん。焼肉好きだし。
それに…俺どこだっていいよ。」

みんなと一緒ならどこだって嬉しいと言わんばかりに満面の笑顔で答える大ちゃん。

まるで嬉しくて尻尾を振りまくっている子犬みたいだ。

こういう時は可愛いんだけどなあ。

「大ちゃん、そろそろ閉店作業だろ?
手伝うよ。」

ユータンが立ち上がり大ちゃんに笑いかける。

「あ、いいっすよ!僕らでさっさと片付けてきます。」

「いいって、いいって。」

「すみません。」

そう謝りながらも大ちゃんはとても嬉しそうだった。

「大ちゃん嬉しそうだね。」

2人が休憩室から出ていく姿を見送りながらユッキーに話しかけた私に、

「もしかして大ちゃんは、私達3人の中ではユータンの事を1番好きなのかもしれないね。」

とユッキーは優しい笑顔で答えた。

No.91 19/02/24 23:15
自由人 

「さて~、そろそろ〆のデザートにいきますか?」

焼肉をタップリと堪能し、そろそろ甘いものが食べたいよねという雰囲気が流れ出した頃合をみて、こう切り出した私に、

「あ、私バニラアイス~」

「じゃあ俺は抹茶アイス。」

ユッキーとユータンが待ってました!とばかりに即答してくる。

「私はストロベリーにしよっと。
大ちゃんは何にする?」

「俺はいいよ。甘いものあまり好きじゃないし。」

私の質問に大ちゃんは、
甘いものはちょっとなあと言う風に少し顔をしかめて見せた。

「えっ?そうなの?アイス美味しいのに~」

そう言いながらアイスを注文し、
ここではっと気がついた。

チョコレート!!

「あの!大ちゃん!チョコレート食べない?」

慌ててバッグからゴソゴソとチョコレートの箱を取り出す。

「えっ?!なに?これ俺に?」

「あ、うん。メッセージカードもあるんだけど…
甘いもの…好きじゃないんだよね?」

「数個でしょ?楽勝で食べれるよ!!」

満面の笑顔でそう言いながら素早く箱を開けた大ちゃんは、

「ん?これ何か混ざってる?
いっぱいツブツブが見えるけど。」

と私に箱を差し出しながら聞いてきた。

「ぶぶっ、ぐぶっ…」

テーブルを挟んだ斜め前のユータンが奇妙な声と共に真っ赤な顔をして笑いを堪えている。

その隣に座っているユッキーに至っては、

「早く食べさせろ、早く食べさせろ。」

と言うようにチラチラ上目遣いで合図を送ってくる。

この2人ってば…

「あのね、これ唐辛子入りなんだ。
そこそこ美味しく出来たけど割と辛いんだよ。
辛いのダメだったっけ?」

つい先程までチョコを食べさせる事にワクワク感を覚えていた私も、いざ土壇場になると怖気づきひとまず予防線を張った。

「この意気地無しっ。」

向かい側の2人の心の声が聞こえてくる。

あんたら~…

「なに?3人で変な顔して。」

不審に思ったのか、大ちゃんは手に持っていたチョコの箱をテーブルに置いてしまった。

あああ~っ!!

勝手なもので、あれだけ食べさせる事に躊躇していたものが、いざ食べないとなると何としてでも食べさせたくなる。

「えっ?!食べないの?」

必死でそう聞く私に、

「俺って慎重派だから。」

と大ちゃんはすまし顔で答え、チョコの代わりにメッセージカードを手に取った。


No.92 19/02/26 12:52
自由人 

「大体さ~、チョコに唐辛子とか
なんなの?絶対不味そう。
イタズラっぽいから止めとく。」

大ちゃんは、「その手には引っかかりませんよ~」的なニヤニヤ顔で手に持ったカードの方に視線を落とす。

ちいいいいいい。

「騙されたと思って1個くらい食べてみてよ~」

「そもそも何でそんなもん作ったの?
そんなの食べようと思うなんて趣味悪~!悪食なんじゃない?」

「ん~っ!んんんっ!」

私の向かい側にいる、言い出しっぺの「悪食女」が妙な咳払いをする。

が、大ちゃんはカードに気を取られているのか気づいていない様子で、

「これってミューズが書いたの?」

と真顔で聞いてきた。

「あ、うん。なんで?」

「いや、あの、この、何か口の形のやつって…これも…?」

口の形のやつ???

「これ…」

大ちゃんはカードのキスマークを少し恥ずかしそうに指さした。

「えっ?あ、えと…」

返事に困り俯いた私の姿を見て、
「何かを察した」大ちゃんは、

「あはは!そうなんだ!綺麗な色の口紅だな~、ミューズらしい色だよな~面白いこと考えるな~。
ありがとう。じゃせっかくだから頂きます。」

と大事そうにリュックの前ポケットにカードをしまい込んだ。

おいっ、持って帰る気だよ。
持って帰って何する気だよ…

ユータンに散々変な話を聞かされたせいか、私とユッキーの脳裏に咄嗟にその疑問が浮かぶ。

「ん?なに?」

大ちゃんが妙に機嫌の良い声を出す。

「えっ、あ、あの…チョコは?」

まさか、「あんた!そのカード持って帰って舐め回すんじゃないだろ~ね?!」
と考えてたとも言えず、慌てて誤魔化すように聞いた私に、

「ああ、せっかく作ってくれたもんな、食べるよ。」

と、さっきとは打って変わった上機嫌な様子で、大ちゃんはポイッとチョコを口の中に放り込んだ。

No.93 19/03/04 18:16
自由人 

「ん?う~ん。
何か食感がショリショリしてる…
これ唐辛子?どれだけ入れたの?!」

「え…1瓶丸ごと…」

「マジかよ、狂ってるな。
あ~でも悪くは無い。
ちょっとピリっと来るのがアクセントになってて。」

……
…ちょっと?

「え?!(辛くて)泣きそうにならないの?」

「泣く?泣く意味がわからないけど?」

そう言いながら、大ちゃんは残りのチョコを次々に口に入れた。

その激辛チョコを何の反応も見せず次々に食せるアナタの味覚の方が余程意味わからないけど?
大丈夫か?
本当に人間なのか?

「ん。まあそこそこ美味しかった。
ご馳走様!」

いささか引き気味な3人の様子を気にすることも無く、あっという間に完食して満足気な大ちゃんに、

「あ、大ちゃん。
さっきのカードなんだけど…
持って帰るの?」

ずっと呆気に取られたようにポカーンとしていたユッキーがここでようやく口をきいた。

「うん?せっかく書いてくれたし…」

大ちゃんが心なしか少し顔を赤らめながら答える。

や~め~ろ~!!
何故そこで赤面する?!

異様に引きつる私とは逆に、
ユータンが謎の喜びの表情を浮かべる。

「あのっ、大ちゃん、キスマークなんだけどさ。誰が付けたかわかる?」

耐えきれなくなり、冗談めかしながらも暴露に踏み切ろうとした私に、

「えっ?ミューズじゃないの?
じゃあユッキー?」

大ちゃんが少し意外そうに驚く。

「この中の誰かだよ~」

イタズラ好きのユッキーがわざとからかうように焦らす。

ユータンはますます謎に嬉しそうだ。

「え~?何だよそれ~」

と言いながらも大ちゃんの顔はますます赤らみ「笑み」が一面に浮かんでいる。

ダメだ。
完全に喜んでいる…

「あのっ、これね、付けた犯人は、
実はユータンで~す!!
ははっ、私達ホント馬鹿なことしてるでしょ?」

やはり真実は伝えた方が…

大ちゃんがあのカードに何をしでかすか分からないし…

今思えば完全に大ちゃんを変態扱いしており、我ながら相当失礼な奴だったなあと思うのだが、その時の私は
「ユータンと大ちゃんの間接キス」を阻止するのにとにかく必死だった。

「………えっ?」

大ちゃんの反応は意外にも静かだった。

何か派手なリアクションをするかと思いきや、彼はその一言を発した後、静かにリュックからカードを取り出した。

No.94 19/03/09 18:00
自由人 

大ちゃんはカードの端をそっとつまみ上げるとユッキーの目の前に置いた。

「あげる。」

「ええっ?!なんで~?!」

突然の事にユッキーが怯む。

「いらないから…」

遠い目をして大ちゃんが呟く。

「ええっ?!こんなのもらっても困る…」

こんな…の…?

ユータンの眉がピクリと動く。

「ちょっと大ちゃん!せっかく美優ちゃんが書いてくれたのに~私にくれてどうするのよっ!」

以前にも何度か書いたが、ユッキーは真面目モードや真剣モードの時には私をミューズではなく美優ちゃんと呼ぶ。

つい先程までは散々私をミューズ、ミューズと呼んでいたのに急に「美優ちゃん」に切り替わったって、どんだけ嫌なんだよ…

「だってホントにいらない…」

しかし、そんなユッキーの抵抗も無視するかの如く、
虚ろな目をして大ちゃんが呟く。

ホントにいらない…だ…と?

ユータンの眉が悲しげに下がる。

そんなユータンの微妙な表情の変化に全く気づくことなくカードを押し付け合う2人。

止めて、
もう止めたげて。
ほら、ユータンが引きつってる…

「あの…ユータン…」

いたたまれなくなりユータンにそう声をかけたのと同時に、

「大ちゃん!それはちょっと酷いんじゃないか?!」

と、それまでずっと押し黙っていたユータンが少し憤慨した様な声を出した。

おわっ、ユータン?

汚い物扱いされて怒っちゃったかな?

そう思う間もなく、

「俺のキスマークが嫌ならそれでいい!だが!ミューズがせっかく書いたメッセージを無下にするのはどうなんだ?
ミューズのメッセージも嫌ということなのか?!」

と、ユータンがカッコ良いんだか悪いんだかなセリフを吐いた。

「えっ?!ミューズのメッセージだけなら全然嫌じゃないですよ?」

正直者の大ちゃんがこれまたどストレートにとどめを刺す。

「おっ、おおっ、そか、そうなの…か…なら良かった…良かった…」

ユータンはウンウンと頷きながらそっとカードをポケットに入れた。

わあ…

結局カードは悲しみ溢れるユータンが持ち帰ったが、チョコとカードを結局どうしたのだろう。

その後ユッキーと付き合い、別れ、更には長く音信不通になっていたユータン。

些細な事だが何となく聞きそびれたまま、バレンタインが来る度何となく思い出す事を繰り返し…のまま、
今年でもう26年目になる。

No.95 19/03/09 21:35
自由人 

チョコ&メッセージカードの思い出が長引いてしまいましたが、また本編に戻りたいと思います。



ユッキーとの食事の後、
当然私の家に送ってくれるかと思いきや、ユッキーの運転する車が着いた場所は〇〇店の最寄り駅というまさかの逆戻りに私は驚いた。

「えっ?ええっ?!〇〇駅じゃん!」

「だから~〇〇駅まで送るって言ったじゃない。」

呆気に取られる私の頬を軽くつつきながらユッキーが笑う。

「なに?本当にここから電車で帰れと?」

「あはは、ごめん。流石にそれはないよ。」.

ユッキーは笑いながら、車を駐車スペースまで移動させ停めた。

「さてと、そろそろ美優ちゃんを送ってくれる人が来るから安心して?」

「えっ?それってまさか…」

「美優ちゃんが帰った後に、牧田君と美優ちゃん泣いてたよね?どうしたんだろう?ってオロオロしてたら
それを後ろから来た大ちゃんに聞かれてたみたいでね。」

ユッキーは返事の代わりにそう話し出した。




「あいつ…泣いてた?」

ユッキー達への問いかけとも独り言とも取れる呟きに、

「何かあったのかな?」

とユッキーは既に薄々感づきながらもストレートに口に出した。

賢いユッキーは、大ちゃんに対する扱いをよく心得ている。

「うん、実は…」

大ちゃんのざっくりとした説明を聞き、

「そうなんだ。
まっ、美優ちゃんもいきなりでビックリしちゃっただけだと思うから気になるなら直接話せば?」

「えっ…でも…」

「大丈夫だよ。大ちゃんの仕事が終わるまで私がまず美優ちゃんの話でも聞いておくよ。
美優ちゃんもそれで少しは落ち着くだろうし。」

「そう?じゃあ…」

「うん。仕事が終わったら連絡して。
駅で待ち合わせしよう。」

大ちゃんが頷いて店内に戻って行く後ろ姿を見送りながらユッキーは私に電話をかけるために携帯を取り出した。


「…というわけなんだよね。」

ユッキーは話し終わるとふふっと軽く笑った。

「ちょっ、ちょっと待ってよ!
いいよ!話したい事なんてないし!」

「あっ!来た来た!」

抗議をする私の声を遮るかの様にユッキーが指さした方向から、1台の車がこちらに向かってゆっくり近づいてきた。

No.96 19/03/11 00:15
自由人 

その車はゆっくりと私達の乗っている車の左横に停車した。

駐車スペースが少し狭めなのとユッキーの車が大きめなのが相まって、車同士の感覚がギリギリドアを開けられるくらいの至近距離になっている。

うげっ、左を見るとすぐ隣に大ちゃんが…

「ほら降りるよ。」

私に躊躇する暇を与えないかの様にユッキーが私を急かす。

「あ、あ、うん。」

モタモタとドアを開けようとしている間にユッキーはさっさと車を降り、大ちゃんの車の助手席側にまわると、空いた窓から車内に向かって何やら話しかけた。

と、ユッキーと少し言葉を交わしたらしい大ちゃんが頷いたかと思うと急に振り向いて、まるで「早く降りろ。」とでもいうように私の顔を凝視しだす。

「あっ、は、はい!」

誰もいない空間で慌てて1人呟くように返事をし、急いで車を降りるとユッキーの立っている助手席側にまわる。

「明日は✕✕店に1日いるから何かあったら連絡して…」

私が横に立つと、ユッキーは大ちゃんにそう声をかけながらも車のドアを開け、さり気なく私の背中に手を回すとシートに座るように促してくれた。

私がチョコンとシートに座ったのを確認したユッキーは、

「閉めるよ?」

と優しくドアを閉め、

「じゃあ私は帰るね。お疲れ様。」

と手を振り、自分の車に戻った。

「お疲れ様!また明後日にな!」

大ちゃんが運転席側の窓を開け、ユッキーに向かって軽く手を挙げる。

「は~い!」

ユッキーも軽く手を振ると直ぐに車を発車させ帰って行った。

……

……

……

「さて…どこか行きたいとこありますか?」

必死で首を後ろに向け、リアガラス越しにユッキーの車を見えなくなるまで見守っていた私に大ちゃんが声をかけてきた。

「えっ?ええっと、あの、どこでも…」

「絶対そう言うと思った。」

急に聞かれて返事に困った私に大ちゃんは少し苦笑しながら言う。

思えば大ちゃんは2人で会う時はほとんどといって良い程の確率で、私に何処に行きたいか何を食べたいかを先ず聞いてくる。

例え自分が行きたい場所、食べたい物を予め決めていたとしてもそれを言わずに先ずは私に聞いてくる。

適当に行き当たりばったりの私にとってそれが実は苦手だった。


No.97 19/03/12 12:51
自由人 

懐かしの童謡で
「クラリネットをこわしちゃった」
という曲がある。
男の子がパパが大事にしていたクラリネットを譲り受けたは良かったが、それを壊してしまったらしく、その事を嘆く内容である。


1番で、
「ドとレとミの音が~出な~い♪」
という歌詞を聴き、

「ドとレとミの音が出ないって演奏する曲もかなり限られて致命傷じゃね?気の毒に…」

と同情してたら、2番の歌詞で、

「ドとレとミとファとソとラとシの音が~出なあい!」

おいっ!
それ全く音が出ないって事なんやないかいっ!!

思わずツッコミ入れてしまうレベルのたまらん童謡なのであるが、
更にそれを歌う歌のお兄さんお姉さんが、悲惨な状態になっているクラリネット&持ち主ボーイの気持ちを逆撫でするが如く、
妙に嬉しそうな顔と声で踊りまでつけ、幸せそうに歌っているという、何ともそのシュールさが印象に残る童謡であった。

で、そのシュールさゆえ、
その童謡が私の脳裏に深くこびりつき、
何か困った事態に陥った時になると、ジワジワと私の脳内にそのクラリネット…が湧き出てくる様になってしまった。

本編にさして深い関わりのないクラリネット…の説明が長くなってしまったが、
パパがとっても大事にしてたクラリネットを壊してしまった少年の困り度を想像して頂きたい。

さぞや困ったであろう。
狼狽えたであろう。
その現実から逃げたかったであろう。

車内で大ちゃんと2人きりになった私の脳内にはまさにこの時ひっそり静かにクラリネット…がBGMとして流れていた。

No.98 19/03/14 23:08
自由人 

「とりあえずちょっと車で走りながら話しようか?
それとも何処か行く?」

「えっえっえっえ~と…」

ドとレとミの音が~出な~い♪

「なに?行きたいとこあるの?」

「えっ、いや、あの、すぐには浮かばないっていうか…」

ドとレとミの音が~出な~い♪

「じゃあとりあえず車出すよ?車で走りながら話すのね?」

「.あっ、は、はい、ド、ドライブだね!久しぶりにそれもいいかも~…」

「本気?運転するのは俺なんだけど?仕事で疲れてるから、ずっと運転しっぱなしっていうのは正直キツイんだけど?」

ど~しよっ♪ど~しよっ♪

「あ、ああ、疲れてるんだね。
じゃ、じゃあ、今日は帰ろうか?」

「は?そうなんだ…帰りたいのか。
ふ~ん、わかりました。帰ろっ!!」

ドとレとミとファとソとラとシの音が~出な~い♪

おめえが嫌味っぽく疲れてるって言うから気を使ったんじゃね~かよっ!!

「どうするの?帰るの?
なら送っていくけど?」

数分後、
話が帰る方向で決着したと思っていた私の右横からいきなり大ちゃんの更にイラついた様な声がした。

パッキャマラド、パッキャマラド、パオパオ パンパンパン♪

おめえさっき自分でも帰ろ言うたん違うんかいっ!!

だんだん面倒臭くなってきた。

さっきまで大ちゃんの機嫌を取ってビクビクしていたのだが、機嫌を取るのも面倒臭くなってきた。

もう嫌われても怒られてもいいや~

自分の言いたい事したい事を適当に言おうと決めた。

「あ!行きたいとこ浮かんだ!
前にユッキー達と4人で行った河川敷、でもあそこはここからだとそこそこ距離があるけど。」

「あの時の河川敷?」

「あ、うん。ふっと浮かんだんだ。
あの時は楽しかったね懐かし…」

言い終わらないうちに大ちゃんが車を発進させた。

「へっ?!なに?まさか行くの?遠いでしょ?」

「大丈夫!大丈夫!俺、車の運転はあまり苦にならないから!」

……

私の記憶に間違いが無ければ、
疲れてるから運転しっぱなしはキツイ言うたよな?!
その口が言うたよな?

それとも何か?
おめえの体力は数分で回復するのか?
ファイト一発リポビタンD!!

パッキャマラド、パッキャマラド、パオパオパンパンパン♪
パッキャマラド、パッキャマラド、パオパオ パン♪♪

No.99 19/03/17 20:20
自由人 

「やっぱり帰る?」

信号待ちの車内、大ちゃんが前を向いたままポツンとそう問いかけて来た。

「やっぱり運転辛くなっちゃった?
ユッキーから少し話を聞いたから大ちゃんが仕事終わってから何故わざわざ来てくれたか大体わかったし、私も悪いとこあったからもうお互い気にするの止めるって事で解決じゃない?
だからわざわざ河川敷まで行かなくても大丈夫だよ?
話はあらかた済んだみたいなものだし。」

河川敷に行くと言ったは良いが、やはり運転が辛くなったのであろうと気を回した私はそう返したが、

「あっそう。ならもうそれで話は終わりって事ね。
じゃあ帰ろうか。」

大ちゃんは急にかなり不機嫌そうな声を出し、

「あそこのコンビニの駐車場でUターンするから。」

と後は無言で車を走らせコンビニの駐車場に入ると車を一旦停めた。

「はい、Uターンしますから。」

「あ!ちょっと待って!」

私は相変わらず不機嫌な顔で車を出そうとした大ちゃんを止めた。

「何ですか?」

「ちょっと買い物してきたいんだけどいいかな?」

「どうぞ。」

私は急いで車を降りると店内に入りコーヒーとココアを買った。

車に戻ると大ちゃんが物凄い形相でじっと前を見つめて座っている。

顔が怖ええなおい。

これは帰りの車内も気まずくなりそうだ。

つか、なんでこんなに機嫌が悪いんだ?

元々私への誤解から気まずくなって、その事を気にして話し合おうと来てくれたんだよね?

私はもう気にしてないって伝えたつもりだったのだけど…
上手く伝わってなかったかな?

それにしてもなんでこんなに喧嘩腰でつっかかって来るんだろう…

「.お待たせっ!ごめんね~、はい!これ買って来たから飲んでね?」

相手が不機嫌なのでこちらはわざと明るく優しい声を出す。

それが功を奏したのか、大ちゃんは素直にコーヒーを受け取りプシュッとプルトップを開けるとゴクゴクと一気に飲んだ。

「私も飲もっと。」

私もココアを飲もうとプルトップを引き上げようとしたが固くてなかなか開けられない。

「かして。」

大ちゃんが私の手からココアを受け取ると簡単に開けて

「はいどうぞ。」

と返してくれた。

No.100 19/03/17 20:47
自由人 

「うっわ!さすが男の子だね~」
思わず感心した私の言葉に、

「23歳の男に男の子はないんじゃない?」

大ちゃんが苦笑する。

「ああ、もう23歳になったんだね。」

そう返しながら、
別れてから彼の誕生日におめでとうすら言っていなかったなと思った。

それはお互い様なのだが…

「この前の誕生日におめでとうも何も無かったよね?沖さ…他の人はちゃんとおめでとう言ってくれたのに。」

私の心を読んだかの様に大ちゃんが少し恨めしげな声を出す。

「あはは。沖さんは言ってくれたんだね。
じゃあこれから毎年誕生日にはおめでとうを必ず言い合おうか?」

沖さんの名前を出しかけて慌てて誤魔化した大ちゃんが何となく可愛く思え、思わずそう提案した私だったが、

「うん。でも多分そのうち忘れて自然消滅になると思うけど。」

大ちゃんがそんな私にすかさず現実的な返事を返してくる。

まあ、そりゃそうだ。

「うん。それでもねいいんだ。
それでも、いつまで続くか分からないけど、やろうよ。
七夕っぽくて面白くない?」

「なにそれ?」

大ちゃんは馬鹿にしたような声を出したが、さっきまでのトゲトゲした雰囲気は消えかけていた。

「ミューズ…」

「ん?なに?」

「帰りたい?俺といるの嫌?」

大ちゃんがさっきまでの威勢は何処へやら、少し探る様に少し自信なさげな様子で尋ねてきた。

「ん?なに?嫌な相手ならこんな風に話したりしてないでしょ?」

私の言葉に大ちゃんは頷くと、

「さっき俺の車に乗った時、ミューズが帰りたそうな顔をしてたから俺といるのが嫌なのかと思って…」

と言い訳の様に呟いた。

あ…そういう事か…

大ちゃんが不機嫌だった理由がやっとわかった。

「いや、ごめん。嫌とかじゃなくて私も気まずかったから…
仲直りしようと疲れてるのに来てくれたんだよね?本当にありがとうね。」

「俺もごめん。ミューズを疑う様な事言って。本当にごめん。」

私の言葉にホッとした様に大ちゃんも謝ってくれ、何となく仲直りをしてしまった。

何もかも違う私達はこんな些細な事ですれ違ってばかりだった。

それでも何故惹かれあったのだろう…



年月が流れ、主な連絡ツールは電話からメール、そしてLINEになったが、

「誕生日おめでとう。」

「大輔」から今でも誕生日にメッセージが届いている。


No.105 19/04/18 12:50
自由人 

「ほら!ミューさんも手伝って下さいよ!
やりながら話を聞かせて下さい。」

加瀬君が私に気を使わせない様に私にも仕事を割り振ってくれた。

これじゃどっちが歳上の社員かわからないな。

苦笑しながらもせっかくの好意に甘え先程の事をザックリ話す。

話の途中から牧田君は少し小馬鹿にした様にニヤニヤ笑い出し、対照的に加瀬君は厳しい表情になっていった。

「まっ、つまらない事でイライラしちゃったけど話したからスッキリしたよ。ごめんねありがとう。」

加瀬君の怖い表情が気になったが、仕事も片付け終わり、そう言ってその場を離れようとした私に、

「スッキリしたなら良かった。」

笑顔で応えてくれた牧田君とは反対に、

「俺は店長の気持ちわかりますよ。」

と加瀬君が冷たい表情でそう言った。

「えっ?!あの…」

私は加瀬君のその予想外の言葉と態度に戸惑った。

加瀬君は以前私が彼を叱り飛ばした一件以来、何故かとても懐いてくれて私に対する態度はいつも優しく好意的だった。

だから加瀬君は私の味方で私に同情してくれるに違いない。
心の中にあったそんな甘い期待は一瞬で砕けた。

その加瀬君も私に対してイライラするのか…

これには流石の私もショックを受け、

「あの…加瀬君も私を見てるとそんなにイライラするんだ…」

かなりへこみ気味にそう聞いた。

「えっ?!違いますよ。
俺がイライラしたのは松木さんです。」

えっ?!

「あの?どういうこと?」

「そりゃイライラするでしょ?
松木さんはミューさんのことを…」

「大吾!」

いきなり牧田君が穏やかに、でもキッパリした声で割って入ってきた。

「ああ、ごめん…」

加瀬君は牧田君に謝ると急に黙り込んでしまった。

「え?なに?私がどうしたの?
加瀬君?!」

加瀬君に詰め寄る私をチラチラ見ながらも加瀬君は返事をしない。

「加瀬君?」

私の声に加瀬君は今度は牧田君の方にチラチラと視線を送った。

「ユーヤ…」

加瀬君の助けを求める様な声に
「仕方ないな…」と
牧田君が小さく頷いた。

No.106 19/04/22 12:48
自由人 

「ねえ牧田君、 松木さんが私の事をってなに?あまり良い話じゃなさそうだけど逆に聞いておきたいよ。」

気まずそうに下を向いてしまった加瀬君に聞くのも躊躇われた私は代わりに牧田君にそう問うた。

「ん、まあたまたま俺と加瀬が作業している横で聞こえてきた会話なんですけど…」

牧田くんがそう話してくれた内容をまとめると、
松木さんが他のパートさんに私と休みを合わせて出かけた事を言いふらしていた際、

「松木さんそれってズルくない?
私達だってたまにはパート仲間同士で遊びに行きたいって思うのを我慢してるのに…」

と気分を害したパートさんに突っ込まれ、

「うん、でも誘ってくれたのは田村さんからだし。
私もダメなんじゃないかな?と思ってたのに、田村さんが大丈夫だからって…
店長には上手く言っておくからって…
出かけた時も、店長が私の事をすごく心配してくれてるから2人で休みを取らせてくれたんだよって言ってた。
私、ちょっと家の事かで色々あって辛くて仕方なかったから…」

「そ、そうなんだ,」

相手のパートさんはそれっきり黙ってしまったらしい。

「ざっとまあこんな感じです。」

牧田君は
「大した話でもないでしょ?」
と言いたげな顔で横にいる加瀬君の背中をドン!と叩いた。

「あ、ああ、そう…なんだ…
まあ…確かにその通りと言えばそうだね…」

松木さんの言っている事は確かにそうと言えばそうだ。

でも心の中に生じたモヤモヤを吹っ切れずに私はしどろもどろな返事をした。

「でもおかしくないか?!
そうだとしたら尚更ミューさんのためにも内緒にしとくっていうのが…」

「加~瀬~」

牧田君がグーで加瀬君の背中をこずいた。

「加瀬君、松木さんはあの日すごく喜んでくれてたんだ。
だからきっと嬉しくてついみんなに話してしまったんじゃないかと…」

牧田君の背中への一撃でむせ込む加瀬君の背中をさすりながらそう言う私に、

「姉さん。世の中姉さんみたいに単純な人ばかりじゃないんですよ。」

と真顔に戻った牧田君が冷めた声でそう言った。

No.107 19/04/24 13:03
自由人 

「仕事入ります。」

店内で作業中の私に、休憩が終わった大ちゃんがそう声をかけてきた。

あれ?
もう怒ってないのかな?

いつもなら一旦拗ねると凄まじい顔つきとドスの効いた低い声での挨拶になるのだが、その時はあまりにも普通の表情と声に私は戸惑った。

「田村さん、この前指示した売り場展開の下図は書けた?」

そんな私の思いに構わず大ちゃんは「ごくごく普通に」話しかけてくる。

ちょっと不気味だけど…
まっいっか。

「あ、はい。
ちょっと待ってて下さい!」

慌てて事務所にある自分専用の書類入れから下図を引っ張り出し大ちゃんの元へと急いだ。

「ぷっ!なにこれ。」

「えっ…下図ですけど?」

「汚い図だなあ!そりゃラフに描けとは言ったけど…寝ながら描いた?」

グサーッ

「す、すみませんね汚くて。」

「しかもなにこの配置!これじゃ何をメインに売りたいのかわからない。」

「す、すみません…
全面的に描き直してきます…」

ドンッ!

大ちゃんの手から半ばひったくるようにして下図を取り返した私は、いつの間にか近くに立っていた松木さんに気づかずにぶつかってしまった。

「あっごめんなさい!」

慌てて謝る私の手から下図が落ちた。

「綺麗に描けてる方だと思いますけど。」

松木さんは微笑みながら下図を拾うと大ちゃんに渡そうとしたが、

「描き直してもらいますから田村さんに渡して下さい。」

と大ちゃんに淡々と言われ、

「私は良いと思うけどな~」

とわざと大きめな声で私に向かって微笑みながら私に下図を返してきた。

「店長は美優ちゃんにいつも厳しすぎますよね?でも私は美優ちゃんを応援してるから頑張って!」

続いた松木さんの言葉に、

「そ、そうだよね!応援嬉しいなあ!
持つべきものは友達だ!ありがとう!」

とわざと笑って返すも、チラッと見た大ちゃんの顔は異様に引きつっており
モゴモゴと何かを言いかけては止めての繰り返しが続いたかと思うと、

「松木さん、今日はレジが混みがちですから残りの時間はレジフォロー中心でお願いします。」

それだけを口にして事務所の方に歩いて行ってしまった。

え…
なんなの一体…

モヤモヤとした気持ちのまま、仕事を上がる時間になり休憩室に向かうと、
たまたま同じ時間に上がる牧田君と遭遇した。

No.108 19/04/25 20:02
自由人 

「あ!姉さんも上がり?お疲れ様で~す!こういう偶然滅多に無いし今からデートでもします?」

相変わらずノリがライト感覚の牧田君だが、その誘いにふと思い立ち、

「ねえ、ご飯奢るからちょっと付き合ってくれない?」

と逆に誘い返した私に、

「んっ?うん。いいっすよ。」

一瞬意外そうな顔はしたものの、牧田君はすぐに真面目な表情になり頷いた。

「牧田君は原付バイクだよね?
私もそうなんだ。すごく遠出は出来ないけどどこに行く?」

「マクドナルド!!」

えっ、マジか?

高校生カップルかよ。

あ、高校生だったわ。

「わかった。じゃあ先に行って待ってて。」

「は~い!」

相変わらず妙なテンションではしゃぐ牧田君を見送り、急いで着替えを済ませた私は駐輪場に向かったが、
ふと隣接する駐車場に目をやると、
買い物客らしい女性が車を降りてこちらに歩いて来るのが目に付いた。

「あれ?松木さん?お買い物?」

私が思わず声をかけた女性は少し俯き加減に歩いていたが、私の声に驚いた様に顔を上げ、

「あぁ。もうお帰りですか?
はい、買い忘れがあったので…
店長ってまだ…いるんですよね…」

と元気のない声を出した。

「え?!うん。
今日は店長は遅番…でしょ?
松木さんも今日出勤して知ってたじゃない?」

おかしな事を言い出す松木さんに私はどう対処していいか分からず恐る恐る返事をした。

松木さんは私に少し近づくと下を向いたまま、

「私ね、店長と仲良しだったんですよ。店長も私の事気に入ってくれてたと思います…」

と、ポツンと呟いた。

「え?」

思わず聞き返した私の声に松木さんは今度は顔を上げ、

「こっちの店に来てから店長がだんだん冷たくなっちゃった。」

と私の顔をしっかり見据えてそう言うと軽く会釈をし、そのままサッと店の入口の方に歩いて行った。

No.109 19/05/06 20:01
自由人 

えっ…
それって…

流石に察しの悪い私も何かがわかりかけてきた。

「姉さん…マクドナルド行こう?」

不意に肩を叩かれ振り向くと、いつの間に近くに来たのか牧田君が「行こ?」という風に停めてあるバイクの方に顎をしゃくってみせた。




「姉さん、席取りしてきてよ。
俺が買っておくから。」

「じゃあレモンティーで」

マクドナルドの店内に入るや否や段取りの良い牧田君らしくテキパキと私に指図をしてくる。

しかしその言い方は高圧的な所が微塵もなく、無邪気で物怖じしない彼の性格がよく表れていた。

「お待たせ!今日は俺の奢りだよっ!」

窓際のソファー席に腰を下ろしぼんやり窓の外を眺めていた私の向かい側の席に座ると、驚かす様にレモンティーを私の鼻先に突き出しながらイタズラっぽく牧田君が笑う。

それはいかにも人懐っこく互いの距離を急速に縮める雰囲気があり、
私は10歳以上も歳下の牧田君に何だか甘えたい気分になった。

「姉さん俺に話があるんでしょ?
どした?」

そんな私の心の動きを察したのか?
牧田君が少し大人びた表情で優しく私の顔を覗き込む様に聞いてくる。

「あ、いや、つまらない事なんだけどね…
なんというか、ずっとモヤモヤしてたからちょっと第三者の立場から見た意見を聞きたいと…」

不意に顔を近づけられドキマギしてしまった私は窓の外を見るふりをして顔を背けた。

「恥ずかしいの?
純情ぶっても似合わないよ。」

そう言いながらも牧田君は私から離れるとソファーの背もたれにもたれかかって大きく伸びをした。

「ふぁ~あ、まっ、言わなくてもわかってるけど。
駐車場でもガッチリ嫌味言われてたね?」

「えっ?!あれって…嫌味だったの?」

「嫌味っていうか、何だろ、
あんたさえいなければ店長と私が1番仲が良かったのに!キイッ!嫉妬の炎が~!って感じ?」

えっ。

「で、でも、私達友達だよ?
私は綾ちゃんの力になってあげたいとそれだけで…
だからそんなの聞いたらショックというか…
それに綾ちゃんはそんな事を思う子じゃないよ!」

引きつりながらもなんとか反論した私に、牧田君は少し小馬鹿にした様な笑顔を向けると、

「あのね、姉さん、
俺さ、姉さんのそういうとこハッキリ言って嫌い。
それは松木さんも同じじゃないかな?」

とサラリと事も無げに言ってのけた。

No.110 19/05/07 13:07
自由人 

牧田君の言葉は予想外のものだったが、何故かさほどショックは受けず、
むしろ、「ああ、それであの態度を…」
と妙に納得した気持ちの方が強かった。

「じゃあ、私と出かけたことを言いふらしたのも私を嫌いで陥れたかったから?」

「う~ん、それはちょっと違うと思う。
単純に『私は店長や副店長に気にかけてもらっているのよ!私は特別なんだから!』アピールしたかっただけじゃないかな?」

なんで…すって?

「え?でも私の事嫌いなんだ…よね?」

嫌いな人に気にかけられている事を周りにアピールする心理が理解出来ず恐る恐る再確認した私に、

「嫌いだろうね。」

牧田君は何の躊躇もなく答えた。

グサッ。
流石にちょっと今のは刺さったわ。

「ああ、でも俺は違うよ?
俺が嫌いなのは姉さんのイイ人ぶる割には常に外してるっていう一部分だけで他は好きだから。」

ドスッ。
ガッカリしている私の表情を見て取り慰めようとしたのか、フォローつもりが逆にトドメをさす言葉を吐く牧田。

「うっ…なんで…松木さんに…嫌われてるん…だろ…う…
それに…そんな嫌いな私に特別扱いされて…嬉しい…?」

トドメをさされグッタリ気味にそう聞く私に、

「ちょっと俺の言い方も悪かったけど、松木さんは店長以外の人の事は好きじゃないと思うよ?
姉さんみたいなタイプは特にね。
いい人ぶって必死でやってる割にはどこかズレてるし人の気持ちをまるでわかってないしね。
見ててイライラするんじゃない?」

ちょっと俺の言い方も…
と反省する素振りを見せつつ更に追い打ちをかける牧田。

…あんた絶対私に恨みあるよね?

「でも…」

引きつりまくり言葉を失った私に構わず牧田君は言葉を続けた。

「松木さんが姉さんみたいに悪気なくズカズカ自分の中に踏み込んで来る人を敬遠するのは、迂闊にそれに気を許した後に捨てられるのが怖いからだろうね…」

No.111 19/05/08 12:54
自由人 

「えっ?!何言ってるの?
私は松木さんを捨てたりは…」

「姉さん!」

私の話が牧田君の少し強めの声によって遮られた。

「もうやめましょ?姉さん。
松木さんの闇は姉さんが思ってるより深いですよ。」

なに言ってるの?

全く意味がわからなかった。

「納得できないって顔してますね。
じゃあハッキリ言います。
姉さんのやってる事は捨て犬に気まぐれに餌をやったり撫で回したりしているのと同じです。
最後まで責任持って飼えないのにその時の気分で可愛がって、捨て犬に構ってあげてる私優しい!とか。
そういうの無責任な優しさですよ。
とことん向き合えないなら下手に構わないのが犬のためです。」

「牧田君どういうこと?
その言い方だと松木さんの事をよく知ってるみたいだけど….
そんなに松木さんと関わる事あったっけ?」

「えっ…あ、ああ…」

私の疑問の声にそれまで饒舌だった牧田君が急にきまり悪そうに口ごもる。

その顔を見ているうちに私は今更ながらおかしな点に幾つか気づいた。

あれ?

確か倉庫で加瀬君が松木さんの事を何か言いかけた時に話を止めようとしたのは牧田君だよね?
その後、仕方なしに牧田君自身が話してくれたけどその話を適当な所で終わらせたいからって感じがしてた。

私と松木さんのゴタゴタは自分達には訳がわからないからという雰囲気を出していたのに、何故今はこんなに詳しく松木さんの事を語るんだろう?

そういえば…

先にマクドナルドに行っててと牧田君を行かせたのに、私が駐車場に行った時には何故かまだいたよね。

私が駐車場に出るまで15分以上はかかったのに…

一体何をしてたのか?

あ、まさか…

「牧田君、いかにも店長なら言いそうな事を言うんだね?」

サラッとわかりやすくカマをかけた私に、

「店長と少し話していましたからね、
それにしても遅っっ!!
や~っと気づきました?
帰りの挨拶時に今から姉さんとマクドナルドに行くと店長に言ったら、あいつに上手く話してやってくれ。と頼まれた事を話したんですよ。
俺は松木さんの事なんてまるでわからないし。」

と、やれやれ鈍いんだからとでも言いたげに牧田君が呆れ顔で答えた。

No.112 19/05/09 12:37
自由人 

「松木さん今月いっぱいで辞める事になったらしいですよ。」

早番の大川君からそう聞かされたのはその翌日の事だった。

あの時…

昨日の夕方駐車場で会った時、松木さんは買い物に来たと言っていた。

でも本当は大ちゃんに辞める事を言いに来たのだろうか。

それとも話をしていて何かがあり急に辞める決意を固めたのだろうか。

「誰から聞いたの?」

「店長ですよ。報連相ノートに書いてありました。」

大川君がノートを差し出す。

報連相ノートは、店舗の全スタッフ用の物とは別に社員専用のノートもあり、店長から社員への指示や社員から店長への報告等に使われていたそれには本日は公休の大ちゃんの字で、
「松木さんが一身上の都合で今月いっぱいでお辞めになります。」
とだけ書かれていて、その下に大川君の確認の印が押されていた。

「あ、私もハンコ押さなきゃ、先にちょっと着替えてくるね。」

大川君にノートを返し着替えに向かう途中、言い知れぬ寂しさが襲ってきた。

松木さん、私には何も言ってくれないんだ…


やはり、昨日牧田君が言っていた松木さんが私を嫌っているというのは本当だったのかな…

今日は松木さんは確かお休みだな。

もしかして電話をくれているのかも!
と思い慌てて携帯を取り出すも着信履歴は1件も表示されなかった。

更に寂しさが加速する。

結局、何の解決もないまま昨日はあれでお開きになっちゃったしな…

松木さんにどういう接し方をするのが理想的か牧田君に聞いてみたい気もしていたが、牧田君が私に言った言葉はほとんどが大ちゃんの言葉であり、いつも小憎らしいくらい私にタメ口な牧田君が後半は微妙な敬語を使っていた辺り彼もどうして良いのか戸惑っているのが分かった気がして、私はもう何も聞くことが出来ず、互いに氷が溶け味の薄まった飲み物を飲み干した後はそのまま自然に解散の流れとなったのだった。



着替えが終わり事務所に入ると机の上に置かれていたノートを開き自分の確認印を押す。

この瞬間、松木さんが辞める事に対して自分も認めた様な気分になり、積もっていた寂しさの上に奇妙な罪悪感がプラスされた。

No.113 19/05/10 11:57
自由人 

松木さんが辞めると聞いた時のスタッフ達の反応は驚く程に冷静だった。

みんな「仕方ないよね。」といった表情で特に何のコメントもない。
陰口を言うわけでもなければ惜しむわけでもない。
あまりにもアッサリとした態度に、
送別会をしようかとパートさん方を中心に呼びかけてはみたが、おそらくもうここの店舗には来たくないのであろう、そんな松木さんが送別会など望まないのではないかという沖さんの言葉の中に、
「空気を読みなさい」という気持ちを感じ取った私は自分を恥じつつ引き下がった。

案の定、松木さんは残りの出勤予定日を全部有給休暇で消化して店にはもう来ない事になったが、

「〇日までに辞める方に退職関連の書類を書いてもらって本社に送って下さい。」

本社からそう指示を受けた私は電話をかける口実が出来たことを少し嬉しく思い松木さんに電話をかけた。

「もしもしお疲れ様です。
急な事でご迷惑お掛けしてすみません。」

電話に出た松木さんは拍子抜けするほど普通に明るく、内心心配していた私はほっとした。

「あのね、書いてもらいたい書類があるんだけど、都合の良い時に店に来れるかな?」

「ちょっと…それは…
郵送してもらってはダメですか?
書いたら送り返しますので。」

「目の前で書いてもらう方が間違いなど何かとその場で直せるから都合が良いのだけど…
そうだ!ファミレスででも待ち合わせしない?
明後日休みなんだけどランチでもしない?
ご飯食べてその後に書いてくれれば。」

「ああ、それでも良いですよ。
平日の昼なら子供を保育園に連れていった後に出かけられます。」

松木さんの明るい声に嬉しくなった私は、

「じゃあ明後日12時に〇〇のファミレスでね。」

と約束を取り付け電話を切った。


No.114 19/05/11 16:39
自由人 

「おはようございます。」

電話を切った私の後ろから遠慮がちな声がかかり、振り向くと加瀬君が大きな体に似合わない小さな声で、

「松木さんと電話してたんですか?」

と聞いてきた。

「ああ、うん、そうだよ。
書いてもらいたい書類があるからランチしがてら書いてもらいに行こうと思って…
今日は出勤?」

「はい。家に帰らず学校から直で来たんでちょっと早く着きすぎてしまったんですけど。」

言われてみるとなるほど、加瀬君は制服を着ている。

「いつも私服を見慣れているから少し違和感あるけど制服姿もなかなか似合うね。」

笑いながらそう言う私に、

「ミューさん、松木さんには…もう関わらない方が良いです。」

対照的に渋い表情をした加瀬君が少し言いにくそうに返してきた。

「えっ?!
もしかして店長や牧田君にそう言えと言われたの?
そういえば加瀬君もこの前倉庫で何かを言いかけてたよね?」

「はい。あ、いえ、ユーヤや店長に言われたわけじゃなく…
あの…気を悪くさせるかもしれませんが…倉庫でユーヤがミューさんに話した事は実は全部じゃなくて…」

加瀬君は大きな身体をモジモジさせて言おうかどうか悩む様子を見せたが、

「なに?途中で止められたら気になるよ。言わなきゃ逆に失礼だよ?」

と、私に促され、

「はい、あの…松木さんがミューさんの事を内心では何を考えているかわからないとか信用してないから実は苦手なんだとか…
結構大きな声で他のパートさんに話してて相手のパートさんも嫌な顔をしてたんですけど全然気にしてないみたいで…
あ、でもこれはミューさんだからというわけじゃなくて…きっと松木さんは誰の事も信用してないっていうか…」

とポソボソ話し出した。

そう…
なんだ…

きっと本当はもっと色々な事を他にも色んな人に愚痴っていたんだろうな…

本当の事を言っていると見せかけている加瀬君だけど、実は彼もかなり私に気を使ってなるべく当たり障りなく言葉を選んで、話してくれているのだろう。
加瀬君の表情や話し方でそれは容易にわかった。

と同時に大ちゃんが何故私に何も語らず、
「何もわかっていない奴」
と怒りながらも牧田君に自分の言葉を代弁させたのか、牧田君が何故私に本当の事を言わず誤魔化そうとしたのか少しわかった様な気がした。

No.115 19/05/12 17:19
自由人 

私が傷つくと思って本当の事を言えなかったんだろうか…

どことなく共通している点がある大ちゃんと牧田君の事を思いながらそう自分を納得させた。

「あの、俺は、ミューさん好きですから!俺だけじゃなくて、えと、ユーヤも、少なくともバイト達は全員ミューさんを好きですから!」

私が何も言葉を発せず考え込む表情を見せたためか落ち込んでいると思ったのであろう。

加瀬君が必死でフォローをするように私にそう言ってくれた。

優しい子だな。

「加瀬君は見た目は少し怖いのに優しくていい子だよね。
ありがとう。」

加瀬君の気遣いが嬉しくてそうお礼を言う私に、

「いい子とか…止めて下さい。
子供じゃないんだし。
それに…俺がミューさんを好きなのは本気ですから。」

加瀬君が少しムキになって返してきた。

「えっ?!え~と…」

何と返して良いのか言葉に詰まり、え~との続きが出てこない。

好きって、え~と、好きって…意味?

いやあ~!まさかね~!
11歳も下だし~
ないない!

「あ、え~、好きって姉的な?
あ、11歳も上のお姉さんて変かな?
お、叔母さん的な?」

もうしどろもどろになり松木さんのショックがかなり薄らぎかけていた。
もしかして私の気を逸らそうとわざと言ってくれているのだろうか?

「18なんてミューさんにとってはガキですか?俺だって一応何人かと恋愛してきて尽くしてもらう方ばかりだったけど…ミューさんになら尽くしてもいい…です!!!」

そんな私の困惑をよそに
何をとち狂ったのか加瀬君がとんでも無いことを力強く言い出した。

「えっ?あっ?へ、へええ、す、すごいんだね。そ、そうは見えないね。」

全く、何がすごいんだか何がそうは見えないんだかよくわからないセリフを吐きつつ私は完全に舞い上がっていた。

「ミューさん!!」

加瀬君が更に何かを言おうと私に近寄りかけた瞬間、

「大悟!!来てるのか?
来てるんだったらちょっと手伝ってくれ!」

私達のいた事務所の外から大ちゃんの大きな声がした。

「は、はいっ!!」

加瀬君が弾かれた様に事務所の外に飛び出す。

「とりあえず着替えてこい。」

加瀬君への指示らしい大ちゃんの声が聞こえたかと思うとそのまま事務所に入って来た大ちゃんは、
少ししかめっ面で私のおでこを人差し指で軽くツン!と押した。

No.116 19/05/14 12:00
自由人 

「わっ!な、何なんですか?!」

「な~に若い男に手を出してんの?」

ちいっ、やっぱり聞こえてたのか

てか自分だって23歳の若い男のくせに。

「なに?」

「い~え何でもないです。」

「大吾と付き合うの?」

「まさか。彼氏いますし。それに
5歳以上年下なんて弟みたいで有り得ませんよ。」

大ちゃんの眉がピクリと動いた様な気がして、私は瞬時に自分の失言を後悔した。

しまった。
元彼のこやつは6歳下だった…

「あっそうだな!女は歳上の男がいいっていうしね。」

私が失言だと思ったのは気のせいだったのか?
大ちゃんが何故かニヤニヤしながら言う。
あ…
自分の彼女が歳下だからきっとそれを思ってるんだな。
そんなに彼女の事を好きなのか…
少し寂しくなったが、この気持ちを表に出す訳にはいかない。

「店長の彼女さんも歳下じゃなかったでしたっけ?理想的ですね。」

と気持ちを押し隠して少しサービス気味に話をふると、

「えっ?!あ~あいつは何歳だったかな?忘れた~」

と大ちゃんは少し焦った様にそう言った。

照れてるのかな?
本当に好きなんだな。

「店長って彼女さんのこと本当に…」

「あ!!!そうだ!!!
明後日の休み悪いけど出勤してくれないかな?
急に本社に行かないといけなくなって大川1人になってしまうから。」

大ちゃんが急に大きな声を出したので驚きつつ思わず頷いてしまった。

「悪いね助かる。それで申し訳ないけど明日を休みにしてくれるかな?」

あ…
松木さんに明日に変更可か電話をしなきゃ…

「ん?大丈夫?」

「あ、は、はい大丈夫です!」

「そう?じゃあ悪いけど頼むね。」

大ちゃんが出ていった後、私は慌ててまた松木さんに電話をかけた。




No.117 19/05/17 12:15
自由人 

「もしもし。」

「あ、田村です。
さっき電話したランチの件なんだけど…」

私は手短に事情を話した。

話しながら休みの日のランチの話なのだから綾ちゃんと呼んで良かったんじゃないかな?等と細かいことが何故か気になり出す。

「ダメになりましたか。」

私の予想とは裏腹にアッサリと何の感情もなく即答され、私は自分が悪いことをしている様な感覚に陥り少し焦りながら、

「あの、ごめんね、明日はダメかな?
何か予定ある?」

相手には見えないのに何度もペコペコ頭を下げた。

「そんなに謝らなくて大丈夫です。
明日か~、ごめんなさい。
ちょっと用事入ってますね。」

私のそんな姿が見えでもした様に笑いながらそう言ってくれた松木さんの声に少し安心したものの、何故かモヤモヤとしたものがあり、もう無理に合わせてランチに行かなくても良いのでは?という思いが私の中に芽生え出した。

そうだ。

明日の休みの次は当分土曜日や日曜日にしか休みがない。
松木さんは土日祝日は子供さんや旦那さんが家にいるから遊びに行けないと前に言っていた。

それらの次の休みを待つと書類提出の期限が過ぎてしまう。

そうだ。
無理だ。

うん。
これは仕方のないことなんだ。

「松木さん、ごめんね、ちょっと無理そうだね。
書類を送るから書いて送り返してくれる?」

期限に間に合わないからということを言い訳がましく説明する私に、

「そうですね、じゃあお手数ですがよろしくお願いしますね。」

と松木さんは答えてくれたが、
それはいつもの私が知っている松木さんの雰囲気だった。

「ごめんね。
またあらためて落ち着いたら行こう。」

「はい。また行きましょう。」


それが、

松木さんと交わした最後の言葉だった。

その後、私は忙しさを言い訳に松木さんに連絡することをしなかった。

松木さんからも連絡はなかった。

松木さんは陰で私を信用していないと言っていた。

おそらくは嫌っているとも。

だからきっとこうなる事は決まっていたのだ。

でも…

「はい。また行きましょう。」

その言葉の前に松木さんはクスッと笑った。

その笑いは何だったのだろう。

「あなたも綺麗事を並べるだけ…
結局は私から離れて行くのね。」

そう嘲った笑いだったのではないか、

20年経った今でも心の底にその思いはへばりついている。

No.118 19/06/15 21:47
自由人 

結局、松木さんの本当の気持ちは最後まで分からなかった。

でも振り返ってみて思う。

松木さんは自分を受け入れてくれる人を欲しかっただけじゃないか。
でも裏切られるのが怖くて拒否されるのが怖くて壁作って、精一杯強がっていたのではないか。

そんな彼女を私は結果的に裏切って離れてしまった。
「離れないよ。」
そう言ったのに。
「友達だよ。」
そう言ったのに。

私は松木さんに連絡するのが怖くて忙しさを口実に連絡をしなかった。

モヤモヤを心の奥底に沈めたまま、かなりの年月が過ぎたある日、あるコミュニティーサイトで1人の男の子と知り合った。

まだかなり若いその男の子は何人かの仲間内で何故か私に1番懐いてきた。

中性的で女の子の様な綺麗な顔立ちをしており、
寂しがり屋のくせに神経質でどこか人を信用しないいわゆる難しいタイプのその子は大ちゃんにもだが、どことなく松木さんにも似ていて私は彼を放っておけず何くれとなく構った。

なかなか心を開かなかった彼が私には甘える様になり「大好きだよ!」と可愛い事も言うようになった。

そのうち、彼の束縛が始まり出した。
嫉妬と束縛が酷く拗ねると、私の事を信用できない、していないとかつて松木さんが私の事をそう言っていた同じ事を私に言った。

結局、私は疲れきり、彼と縁を切った。

散々、私を信用できない実は嫌いだとまで言っていた彼が途端に何度も謝ってすがってきた。

好きだから、大好きだから、いつか捨てられてしまうかもしれないのが怖いから、先に予防線を張るのだと。

裏切られたら悲しいから立ち直れないから、信じようとしないのだと。

彼のそんな言葉の数々に私は松木さんを重ねた。

松木さんもそうだったのだろうか。

今となってはわからない。

ただ、
その男の子が泣きながら私に言った言葉、

「ミユはずっと俺と居てくれるって言ったじゃない?!
なのに離れて行くの?
俺が本気で望むといつもこうだ。
俺の本当に欲しいものはいつだって手に入らないんだ。」

その言葉は松木さんの心の声でもあったのかもしれないと何故かそう思う。

そうして私はそれから自己満足の中途半端な愛情を人に注ぐのをやめた。

中途半端な優しさほど残酷なものはないと私はあの時から今現在までずっとずっと思っている。

そしてこの思いはおそらくもう変わることは無い。


No.119 19/06/19 13:00
自由人 

先日ふと視たテレビのドラマに、ある女優さんが出ていた。

久しぶりに見るな、
この方。

それにしてもさすが女優さんだけあって20年以上経ってもあの頃の面影をしっかりとどめていらっしゃる。

それに比べて私はしっかり歳をとり、もう貴女とは似ても似つかぬ容貌になってしまいました…

私は苦笑しながらも懐かしい思いでテレビ画面に映るその女優さんを眺めた。

20年以上も前のあの頃、
おこがましくも私は貴女に似ている似ているとよく言われていたんですよ?

私は心の中でそっとその女優さんに語りかけ、そしてまたあの頃の事を懐かしく思い出した。






「美優ちゃん髪切ったの?
似合うよ~!可愛い!」

話は少し遡って1993年頃。
私達がまだ新入社員だった頃、


背中まであったウェーブロングヘアを肩につく長さまで切りストレートヘアにした私をパートさん達が口々に褒めそやしてくれた。

思い切ってイメチェンして良かった~

容姿やファッション等を褒められるのはやはり同性からが嬉しい。

かなり気を良くしていた私に、

「ねえ美優ちゃん、女優の〇〇さんに似てない?」

と1人のパートさんが言い出し、

「あっ!!似てる~!!」

と他のパートさん達も口々に同意し、
その話はあっという間に店舗スタッフの間に広まり、皆が口を揃えて似ている似ていると言ってくれた。

店舗スタッフだけではなく、お客様何人にも似ていると言われたので、私史上最も似ている有名人だったのであろうと思う。

当時、その女優の〇〇さんは気さくで飾らない笑顔と演技で好感度の高い女優さんとして人気が出てきており、後に月9ドラマにも出演した有名な方で、
「謙遜」という言葉に全く無縁な私はすぐに有頂天になり、鼻高々で大ちゃんに自慢した。

「は?自分で自分のことそこまで言える人滅多にいないと思うけど?」

案の定、大ちゃんの反応は冷ややかだったが

「え~っ?!でも私あの女優さん好きなんだよ!好きな芸能人に似てるって言われたら嬉しくない?」

今思えば我ながら相当恥ずかしい奴だが、大真面目にそう言い返す私に大ちゃんは可笑しそうに笑うだけで、もうそれ以上は何も言ってこようとしなかった。

No.120 19/06/20 13:24
自由人 

さて、それから3年後。

話はまた1996年頃、大ちゃんが店長で私が副店長の時代の話にまた戻る。

松木さんが辞めた後、
私と共に化粧品販売をしてくれるスタッフが居なくなったため、かなり困った事になった。

「〇〇店の化粧品の売り上げがこの2ヵ月前年度割れしているけど大丈夫?
いつものパーティーももうすぐあるし。副店長の仕事がある田村さん1人では手が回らないのでは?」

各店舗の店長とビューティースタッフが出席するビューティー部門販促会議に出席した私と大ちゃんに向かってブロック長がやや難しい顔をしながら問いかけてくる。

ブロック長がここで言う「パーティー」とは、
某大手化粧品メーカー2社が合同で催した、毎年8月31日までのうちの会社の各店舗ごとの1年間の売上に対して目標値に対する進捗率のトップ10の表彰、及び9月からの次期への決起大会を兼ねた立食パーティーの事である。

バブルが弾けた後とはいえ、まだまだ当時の大手化粧品メーカーの羽振りは良く、
大きなホテルの会場を貸切っての立食パーティーには各店舗の店長とビューティースタッフの2名ずつが参加する事になっており、新米店長&ビューティースタッフである大ちゃんと私は初参加になるので全くその様子はわからなかったが、ビューティー部門に力を入れだしていた会社の雰囲気からいくと、そこで表彰される事はその店舗の地区のブロック長にとっても名誉な事らしく、ブロック長が必死になるのも無理からぬ事ではあった。

「最近雇ったビューティースタッフはまだ研修中ですし、田村さんには他の仕事がありますからね、まっ化粧品なんかに構ってる暇はないですね。」

ブロック長の気持ちが分かっているくせに、「ビューティー部門販促会議」の場所なのに、そういうセリフをしらっと言う大ちゃんに、ブロック長は一瞬何かを言いかけたが、

「田上君、君の所はなかなか好調の様だね?このペースでいくとトップ10入りは確実じゃないか?」

大ちゃんの様子をニヤニヤしながら眺めていた田上洋介店長の方に向かって話を振った。

No.121 19/06/20 20:49
自由人 

「僕の所ですか?伊野さんがガッチリと化粧品コーナーを守ってくれてますから。6位入賞狙えたらと思いますね。」

声をかけられた田上店長は瞬時にニヤニヤを引っ込めると、隣に座っているビューティースタッフの 伊野さんに目配せをして、控えめに笑ってみせた。

最初の方にも書いたが、この田上店長は〇〇店の元副店長で、今は〇〇店の倍も大きさも売上もある大型店舗✖✖店の店長。
大ちゃんより少し歳上なのだが、何故か大ちゃんを尊敬し好いていると公言している一風変わった人物である。

「店長はいつもそんな事ばかり言うんだから。」


伊野さんはそんな田上店長を軽く睨んだが、その顔には自信に満ちた表情が浮かんでいた。

伊野妃美子
38歳

他のビューティースタッフ達からヒミコ姉さんと呼ばれている彼女は、元大手化粧品メーカーのBCで
結婚を機に今年度に入った頃から✖✖店にパート勤務している。

とてもアラフォーとは思えない抜群のスタイル、全身から溢れ出る大人の女性の色気、接客技術も優れており、面倒見が良く、サバサバした中に細やかな気使いもある姉御肌タイプ。
かなり高めのプライドを除けば完璧とも言える女性であった。

「うん、確かに。
伊野さんがいてくれる✖✖店は今期は安泰だな。その調子でよろしく頼むよ。」

ブロック長が少々デレっとした様子でニヤける。

「ブロック長!ヒミコ姉さんにばかりデレデレしてないで私たちの店も応援して下さいよ!色気はないですけど食い気とやる気はありますから!」

△△店のビューティースタッフの上尾さんの一言にみんながドッと笑い、
和やかに会議は終わったが、唯一大ちゃんだけがニコリともせず難しい表情で何かを考えこんでいた。

「店長?店に戻りましょうか?」

他の店長達がミーティングルームを出て行く中、1人まだ椅子に座っている大ちゃんにそっと声をかけると、

ガタンっ!!

いきなり大ちゃんが立ち上がりその拍子に腰掛けていたパイプ椅子が派手な音を立てて倒れた。

「わっ!ビックリしたっ、何なんですか?!」

「おい、今日残業できるか?」

「え?!は、はい大丈夫ですけど。」

「じゃあ早速対策会議をやる。」

「え?!なんの対策ですか?」

私の言葉に大ちゃんは少し呆れた様に、でもごく当たり前の様な表情でサラリと言った。

「トップ3に入るためのだよ。」

No.122 19/06/21 21:24
自由人 

「じゃあ早速やることわかるな?」

大ちゃんが唐突に話を振ってくる。

「えっ?!え~と、えっ?」

「アーッ!!!使えねえ奴!!!」

ええええええっ??!!

大ちゃんのいきなりの「使えねえ奴」発言で呆然と立ち尽くす私に、

「そこどいて!」

と、大ちゃんはまるでそれがスタートの合図かの様に、言葉と同時に駐車場に向かって猛ダッシュした。

え?え?え?

呆然としたままその場に取り残された私の中に遅ればせながら怒りの感情がフツフツとこみ上げてきた。

何なんだよ?

説明なしに何いきなりキレて全力疾走してんだよ。

コケろ~コケろ~コケて膝がズルムケな~れ~!!!

心の中で必死で呪いをかけたが、敵はそんなヘボい呪いなぞどこ吹く風。悠々と駐車場から帰還した。

「あれ?ユッキー?」

「ふふっ、これから会議やるんだって?」

敵が得意げに連れ帰った「戦利品」はビューティー部門のアドバイザーとして本社から派遣されているユッキーであり、ユッキーも立場上、この販促会議に参加してくれていた。そのユッキーのその言葉を聞いた途端、流石に察しの悪い私もピンときた。

「あ、ユッキーも会議に付き合ってくれるの?」

「もちろん!こういう時に役に立たなきゃ私がいる意味ないしね。」

ユッキーが優しげにゆったり笑う。

ユッキーの笑顔を見ているうちに大ちゃんへの怒りの感情は薄らぎ、むしろいち早くユッキーの協力を仰ぐ事を決めた大ちゃんの頭の回転の速さに感心すらした。

おそらくこの地区のうち以外の店舗のビューティースタッフ達は先ずはヒミコ姉さんに販売ノウハウ等を学びに行くだろう。

確かにそれは最初のうちは確実で売上も上がる。

だがしかし、それでは✖✖店には勝てない。

いや、同地区の小さな範囲ばかり気にしている場合ではない。

トップ3に入るためには150店舗以上の全店舗を相手に戦うことになる。

ユッキーが何のために本社から派遣されて来ているのか。

遅かれ早かれ他の店舗のビューティースタッフもその事に目を向けるだろう。

そうなるとユッキーは多忙になり、なかなかうちの店舗のみに割く時間が無くなるのは目に見えている。

「何でも早い者勝ち。
あいつらがユッキーの取り合いをする前にうちが極力独占させてもらう。」

私の心を読み取ったのか大ちゃんがニヤリと笑ってそう言った。


No.123 19/06/22 18:30
自由人 

「さてと、おい大川!お前は書記をやってくれ!重要事項を自分なりに判断してまとめとけ。」

大ちゃんの言葉に社員の大川君が慌てて筆記用具を用意する。

閉店後の休憩室。

私達社員3人とユッキー、
そして会議をすると聞きつけた牧田君、加瀬君含むその日出勤していたバイトの子達全員が会議に出たいと申し出てくれた。

「長引いて遅くなりそうなら途中でも帰らせるからな?それでもいいなら。」

と大ちゃんは口ではぶっきらぼうに言いながらも目は優しく嬉しそうに笑っていた。

会議が始まり、先ず大ちゃんとユッキーの共通の提案として出されたのは、
今まで普通の化粧品店の様に接客重視だったものを、徹底した売り場作りでセルフ方式メインにするものだった。

「POPに接客させる、機会ロスはゼロにする、売り場にボリュームを出し…」
大ちゃんが挙げた数々の細かい提案は意外にも特に目新しいものでもなく、ごくごく当たり前の事ばかりだったが、

「この当たり前の事こそちゃんと出来ていないから売り上げが伸び悩む!」

と大ちゃんは強く言い切り、
ユッキーに売り場の厳しいチェックと本社を通じて各化粧品メーカーに売り場作りのための販促物を貰う手配等を頼んでいた。

「他にも本社に頼みたいことはない?
本社と現場を繋ぐために私が派遣されているんだから。
遠慮なくどんどん言ってね?」

「じゃあ、化粧品の売り上げが高い他企業店舗の売り場偵察はやってるよな?
そのレイアウト図を書いてきて欲しい。」

ユッキーの言葉に大ちゃんは遠慮なく更に頼み事を追加する。

本社と現場を繋ぐこのアドバイザー制度はまだ出来たばかりで、アドバイザーとは名ばかりの「連絡係」「人員不足の時の応援役」としての便利屋にやや成りつつあったユッキーにとっては、こんなに現場に重要な頼み事をされて頼りにされるのは嬉しかったのであろう。

「うんうんわかった。」

少し頬を紅潮させたユッキーがメモを取り終わるのを待って、

「悪いけど、今月中に頼む。それ以降はそろそろ目ざとい✖✖店あたりが俺と似たような事を考えだすだろうから、ユッキーが一気に忙しくなるし。」

大ちゃんはそうつけ加え、少し笑うとタバコに火をつけ、

「牧田!加瀬!女の子達を送ってお前らもそのまま帰れ。」

と、まだ話を聞いていたそうにしていたバイトの子達を全員帰宅させた。

No.124 19/06/23 13:54
自由人 

あの頃のドラッグストアは現在の様に乱立しておらず、比較的珍しかった上に品数の多さと値段の安さから来店客数は多かった。

〇〇店の様な150坪程の小型店ですら月の売上が3000万は下らなかったが、大ちゃんが店長になってから売上は更に上がり傾向にあった。

しかし肝心の化粧品、特に高額化粧品はカウンセリングをしないとなかなか売れないため、私はそれをいかにセルフでも売れる様にするかを考えて考えて毎日考えて、寝ても醒めても化粧品の事ばかり考えていた。

手配りチラシを作って配布し、ラッピングの工夫をし、機会ロスを無くすために在庫管理には細心の注意を払う。

商品特徴や使用方法等のわかりやすい説明、見やすい文字配列、それらを各商品ごとに下書きして、POPを書くのが上手いバイトの子に仕上げてもらい、接客の上手いバイトの女の子には、新米ビューティースタッフのパートさんと共に化粧品の基礎知識を叩き込み最低限の接客が出来るように仕込む。

大ちゃんは牧田君や加瀬君を使い化粧品コーナーの売り場の改装を行い、大川君は私が極力化粧品の事に専念出来るようにその他の事をフォローしてくれた。

ユッキーは案の定、他の店舗からフォローやアドバイスを頼まれる様になり、こちらが想像していた以上に多忙になっていたが、どことなくよそ者扱いされていた以前よりずっと楽しそうにその表情もイキイキとしていた。

最後の追い込みとなるお盆の頃、

「すごいね!12位だよ!頑張ったね~」

ユッキーが出力したばかりのデータ表を大ちゃんに手渡しながら感心したように微笑んだ。

「12位じゃ表彰されないけど?」

大ちゃんは鼻で笑いながらデータ表を丸めユッキーの横にいた私の頭をポコンと叩いた。

「あたっ!何で私?!もうっ、わかってますよ!何としてでも10位以内に入れるよう頑張りますから。」

「3位だろ?」

ゲッ。

引きつる私の顔色を読んだユッキーが、

「〇〇店の過去最高記録は90位だよね、それを12位まで引き上げたんだもん、きっと目標は達成出来ると信じてるよ!」

と自信に満ちた笑顔を向けてくれた。

No.125 19/06/23 22:13
自由人 

本社から急遽8月末頃の数日間に化粧品のポイント5倍企画をやるとの通知を受け、嬉しさ半分焦り半分の私はかなりテンパっていた。

今でこそポイント〇倍とかはさして珍しくもないものになっているが、当時はまだまだそこまで浸透していなかったのである。

この年は会社にとっても「〇〇周年」という記念すべき年だったためとリベートの関係で、いつもの年よりもかなり化粧品の売上を伸ばしたいという会社の強い意向があり、土壇場になってこの「テコ入れ」が決まった。

うわっっ、急いで告知ポスター作成して貼りまくって、DM出して、手配りビラまいて、あ、近隣にポスティング行こう。

売上大幅アップの機会、1人でも多くのお客様に知って頂いて来店して頂きたい。

とにかく必死だった。

肝心のポイント5倍期間はビューティースタッフのパートさんとバイトの女の子との3人体制でいつでも誰かしら化粧品の接客が出来るようにし、ユッキーも各店舗に半日ずつ応援に入ってくれたため、接客して接客して接客して、売って売って売った。





「終わったね。長丁場お疲れ様でした!」

8月31日、最終日。
閉店後にユッキーが店に寄ってくれた。

「どうだった?」

そうユッキーに聞かれて、

「う~ん、強気で押して売ればもっと売れたと思うけど、お客さんに押し売りまでして売上取りたくなかったんだ…」

と私は正直に答えた。

「そっか。私はそれで正解だったと思うよ?」

ユッキーは私の肩を優しく叩き、

「大ちゃんは?」

と少し伺う様に聞いてきた。

「事務所。今日の売上とにらめっこしてる。」

「そっか~、明日にならないとハッキリした順位がわからないから落ち着かないよね。」

「そうなんだよ。とりあえずお陰様で10位以内は確定かな?思うんだけど…」

私達は話しながら事務所に向かい、パソコンのモニターをじっと眺めている大ちゃんの背中越しにモニターに映し出された全店売上進捗率データを覗き込んだ。

No.126 19/06/24 13:15
自由人 

「7位か…」

ユッキーと同時に声を出す。

データは集計のため、3日前までの売上分しか反映されていない。

一昨日、昨日、今日の分を含めた最終のデータ結果が分かるのは明日。

明日は例のパーティーの日。

パーティーが始まるのは午後6時から。

遅くても店を4時30分には出ないといけない。

データ更新がされるのは午後5時。

間に合わないな。

行く途中で店に電話をかけて結果を聞いてもいいけどな…
でもとりあえずは10位以内に入ってる。
良かったぁ。

「本当にそう思うか?」

いきなり大ちゃんが振り向いてそう言い放ち、私は腰を抜かしそうなほど驚いた。

「な、な、な、なんで思ってることわかったんですかっ??!!」

「お前の事だからどうせそんなこと考えているんだろうと思って。」

大ちゃんが淡々と答える。

超能力者かよ…

「今の時点で7位だと…もしかしたら5位くらいになるかもしれないし…あの…」

ユッキーが私の横で何か言いにくそうに口ごもる。

「ユッキー?」

意味が分からずそう問いかけた私に、

「暫定7位程度ではひっくり返されて10位圏外に落とされる可能性が十分あるってこと。」

と代わりに大ちゃんが先程と同じく淡々と答える。

あ…

そうだった。

ラストスパートかけて頑張ったのはうちの店舗だけじゃない。

「このポイントセール期間でかなり頑張ってくれてはいるから、進捗率は相当アップしているけど…他がどこまで伸ばしているか…だな。」

「そうだね。うちの地区も皆かなり頑張ってくれてたみたいだし、それはそれで嬉しいのだけど…」

ユッキーは少し身を乗り出して指でモニターをなぞる様にしながら呟いた。

「いつも上位6位までは強豪店揃いのA地区とB地区の店舗がしめてて、後もC地区、D地区の強豪店が争ってるからね…
毎年表彰される店舗は決まってきていてそこにどれだけ食い込めるのか…」

ユッキーの呟きを聞いた私は愕然とした。

えっ?!
そんなに大変なの?!
ダメじゃん…

もう3位がどうとか言ってられないじゃない。
せめて、せめて10位に、何とか10位に…

私は心の中で必死に願った。

No.127 19/06/24 21:58
自由人 

先日の会議で、
「お前らはもう帰れ。」
と大ちゃんがバイトの子達を先に帰らせる事にしたので、私は出入口の鍵を開け閉めするために一緒について行った。

「今日はみんなありがとうね。
一緒に残ってくれた気持ちが嬉しかったよ。」

そうお礼を言った私に、

「姉さん、お礼を言うのは早いよ。
まだ何もしてないでしょ?
これからこれから。
俺達も出来る限り手伝いをさせてもらうし、それで目標達成した時にまたちゃんとお礼を言ってよ。」

牧田君が笑いながら手を振ってきた。

周りの子達もニコニコしながら頷いていた。

あの子達の気持ち嬉しかったな。

あの子達の気持ちに答えるためにも何とか10位以内に入って賞状をみんなに見せて、ありがとうって伝えたい。

どうか…

どうか…

「おい、あまり思いつめるな。
3位取るとかは冗談だから。
90位から暫定とはいえ7位まで上げた努力は皆に誇っていいと俺は思うから、な?」

思いがけない大ちゃんの優しい声に涙が出そうになり、私は慌てて誤魔化す様に笑ったが不安な気持ちは消えることがなく、案の定その晩はあまりよく眠れなかったが、その翌日、朝番出勤のため、私は朝早くからボーッとした頭を抱えつつ、パーティー用の着替え等を携え店に出勤した。

No.128 19/06/25 12:41
自由人 

「そろそろ支度しないと遅れますよ?」

ギリギリまで仕事をしていた私に大川君が気を使って声をかけてくれた。

「そうだね、じゃあ悪いけど支度させてもらうね。」

慌てて休憩室の奥のロッカールームであたふたと着替える。

そんなにかしこまった服装はしなくても良いとは言われていたが、今年は例年より豪華になるとの事で会場もいつもよりランクの高いホテル。
男性はスーツ、女性は少し華やかなスーツやワンピースが良いだろうという事になった。

白衣とスニーカーを脱ぎ、
膝丈のフワッとした女らしいワンピースを着てサマーニットのカーディガンを羽織る。

普段履くことの無い華奢なミュールを履き、わざとカッチリ編み込みをしていた髪をほどいてウェーブのついた髪をルーズにまとめ上げ、夏らしく淡いブルーのストーンの飾りの付いたヘアコームを差し込んだ。

耳にはピアス。

ヘアコームと合わせて、
いや…
本当はヘアコームの方をわざわざ合わせて買ったのだけど、
耳には大ちゃんからもらったブルームーンストーンのピアスを付けた。

このピアスを付けていると不安な気持ちがスーッとおさまっていく様な気がする。

「よしっ!行くか!!」

気合を入れて時計を見ると、予定の時間をかなりオーバーしていた。

ヤバイ!!!

今日は公休だった大ちゃんと最寄り駅で待ち合わせしていたんだ。

慌ててタクシーを呼び駅へと向かう。

駅に着いた時には待ち合わせの時間がまた更にオーバーしていた。

はおっ…
終わったな…

心臓が口から出そうなほど緊張し、憂鬱な気分で改札前の人混みの中に大ちゃんを探す。

ふっと人の切れ目に大ちゃんの姿が見えた瞬間、私は大ちゃんに向かって猛ダッシュを開始した。

「す、すみませ~ん!遅くなりました~!」

声をかけながら駆け寄る私に、

「遅いっ!!!」

と大ちゃんが言いかけ、私を見た瞬間大ちゃんの動きが一瞬止まった。

…えっ?

「あ、あの、すみません…」

「あ、ああ、あ、何か雰囲気違うな?」

「あ、へ、変ですか?」

「いや、うん、似合ってる…」

「良かった…」

シーン…

「あっ!電車来ます!早く行きましょう!」

何となく気恥しい沈黙を破る私の声に大ちゃんも頷き電車に乗り込み、私達は決戦会場のホテルへといざ出陣した。

No.129 19/06/25 21:55
自由人 

「遅かったね。もう始まってるよ。」

会場の受付係をしていたユッキーが、私達に参加者名簿を差し出しながら微笑んだ。

「なに?ユッキー受付やらされてるの?」

大ちゃんが笑いながら名簿の自分の名前の横に〇を付ける。

「私の所属は本社だからね、こういう行事は裏方だよ。」

ユッキーも笑いながら名簿とペンを私の方にそっと寄せてくれた。

裏方というだけあって、ユッキーのスタイルはシンプルな黒のパンツスーツにかっちりとしたまとめ髪、全体に地味めにまとめた中で胸に付けたコサージュが唯一華やかさを出している。

しかしそんなシンプルなスタイルであってもユッキーは完璧に着こなし、上品な雰囲気さえ漂わせていた。

美人は何を着ても似合うのね…

「おい、行くぞ?」

ぼーっとユッキーを眺めていた私に大ちゃんが声をかけてきた。

「あ、私も行くよ。来場者は大ちゃん達で最後だし。」

ユッキーが急いで名簿を片付け、私たちは一緒に会場の中に入った。

「と、言うわけで、集計が遅れておりまして申し訳ありませんが…予定のスケジュール通りに表彰式までには何とか間に合いそうですので…」

広い会場の中心には白い布がかけられた大きなテーブルが幾つか置かれ、沢山のグラスやお皿が置かれている。

その前で丁度本社の商品部のスタッフが集計が遅れた事について説明をしている最中だった。

あ…集計は5時に発表されてなかったんだ…
かなり時間が押しており、店に電話をかけて集計結果を聞く余裕がなくて
そのままここに来てしまい、気にはなっていたのだが…

「何だ、どちらにしてもまだ分からなかったのか。」

大ちゃんが少し鼻で笑う。

「では、先ず来期の全体予算について、運営部部長、〇〇化粧品様、△△化粧品様にそれぞれお話し頂きたいと思います。
その後に表彰式、その後に立食パーティーの運びとさせて頂きます。」

私達がそんな話をしている間にも会はどんどん進み、来期予算について御三方の話が済んだ頃、本社のスタッフが司会者の商品部スタッフに何やら資料らしきものを手渡した。
その直後、

「お待たせ致しました。
では今期の売り上げ進捗率上位10店舗の発表をしたいと思います。」

受け取った司会者の高らかな声が会場内に響き渡った。

No.130 19/06/26 13:09
自由人 

ザワザワ…

会場内が一瞬ざわめいたかと思うと直ぐに静まり返った。

「では10位から発表していきます。
呼ばれた店舗の店長とビューティスタッフの方は前に起こし下さい。」

にこやかに告げる司会者の表情とは対照的に、周囲はピーンと張り詰めた様な緊張の面持ちで司会者を見守っている。

ドキドキドキドキ

どうかお願いします…

頑張ったんです…

どうか10位に…

お願いします…

「10位、B地区※※店!!」

ワッと歓声が上がり、※※店の店長とビューティースタッフの2人が周りに拍手をされながら司会者の元に歩いて行った。

ダメ…だった…

それからも更に順位が発表され、呼ばれた店舗の店長とビューティースタッフ達が嬉しそうに進み出ているのを、どこか夢の中の様な気持ちで呆然と眺めていた私の耳に、

「.次は3位です。E地区…」

という司会者の声がいきなりハッキリと飛び込んできた。

え?!

E地区はうちの地区だ。

まさか、まさか…

胸が高鳴る。
心臓の動悸が激しくなり立っているのが辛くなった私は、

ギュッ!

思わず大ちゃんの腕をギュッと掴んでいた。

「.E地区、✕✕店!」

………えっ?………

「わ~!おめでとう!」

目の前が暗くなり一瞬頭の中が真っ白になったが、私の後ろに立っていたユッキーのその歓声でハッと我にかえった。

「おめでとう!!」

大ちゃんが心底嬉しそうに田上店長に声をかけている。

ヒミコ姉さんがハンカチで目元を押さえながらこちらに向かって小さく手を振った。

手を…振り返さなきゃ…

おめでとう言わなきゃ…

何とか無理矢理に笑顔を取り繕いヒミコ姉さんに向かって拍手を送った後、
視界がみるみるうちにボヤけてくる。

「泣くな。泣くことじゃない。泣くな。」

大ちゃんが私の手をそっと握り、前を向いたまま呟く様に言った。

と、同時に、

「第2位は、E地区〇〇店です!!」

唐突に司会者の声が辺りに響き渡った。

ワーッ!!

E地区のビューティースタッフや店長達が歓声を上げる。

「やった!!!美優ちゃん!!
やった!!!」

ユッキーが半泣きになりながら私の背中をドンドン叩く。

え?
呼ばれた?
え?

「ほら行くぞ!!」

呆然としている私に大ちゃんは優しくそう言うと、私の手を握ったまましっかりした足取りで歩き出した。

No.131 19/06/26 21:05
自由人 

「おっと!〇〇店さん手を繋いで登場です!仲が良いんですねぇ。」

司会者のスタッフにからかわれ、慌てて手を振りほどく私に対して、

「うちのビューティースタッフはもういいお年なんで、転ばないように手を引いてあげないとね。」

と大ちゃんがしれっとした顔で会場の笑いを誘う。

ひ、ひどい。

ムスッとした顔で✕✕店の横に並ぶと田上店長が、

「本当に仲が良いですね。羨ましいです。」

とそっと囁いてきた。

え?
そう見えます?
一方的に貶されてばかりなんですけど?

心の中で田上店長にツッコミを入れているうちに1位の店舗の発表が終わり
、あらためて順位と店名を紹介されるとそれぞれに賞状と副賞の目録が渡されて、私達はまた盛大な拍手を受けながら深々と頭を下げた。

私達が元の場所に戻ったのを見届けた司会者のスタッフが 近くにいたスタッフに合図をすると、あらたにまたメモの様な物が司会者の手に渡され、

「いつもはこれで表彰式は終わりなんですが、今年は特別な年ということで
特別に地区ごとの団体戦として上位3位を表彰させて頂く事にしました。
では3位から。」

渡されたメモを見ながら
間髪入れず司会者のスタッフが引き続き団体戦の表彰式を開始した。

「第3位 B地区!ブロック長と地区の皆さん全員こちらにお願いします!」

司会者の呼ぶ声にB地区のブロック長始め、スタッフ達が笑い合いながら前に出て行く。

B地区のブロック長がコメントを求められはにかみながら話すのを、B地区のスタッフ達は嬉しそうに頷きながら眺めていた。

仲の良い地区だな…
見ていて微笑ましくなった私は精一杯の拍手を送った。

「続いて第2位は、A地区!!」

朗らかだったB地区に比べA地区のスタッフ達は少し残念そうに控えめな笑顔を浮かべているのみだった。

「あそこの地区は強豪店揃いだから。
1位を取ったのもA地区の店舗だったでしょ?
でも2位でも十分凄いと思うんだけどな。」

ユッキーが私にそっと囁いた。

No.132 19/06/26 22:02
自由人 

「でもそのA地区を抑えて1位になった地区があるんでしょ?凄いよね。」

「それはうちだよ!!
なんてねっ、そうだったらいいよね。」

私達の会話にブロック長がいきなり乱入してきた。

「ブロック長、それは望み過ぎですよっ」

私の言葉にブロック長が照れ臭そうに笑う。

そんな会話をボソボソしている間にA地区の表彰が終わり、

慌ててした拍手が終わる頃、

「では第1位。
E地区です!!!おめでとうございます!!!」

司会者が高らかに声をあげ、
ブロック長の方を見て拍手をした。

「ええええっ??!!」

ブロック長が白目をむく勢いで驚いた。

「ほらっブロック長、行きますよ?」

誰よりも1番驚いたブロック長を大ちゃんと田上店長が優しく促し、私達はまた司会者の待つ場所に向かった。

「おめでとうございます!
ではブロック長、何かコメントをお願い致します。」

そう言われ司会者にマイクを渡されるも、ブロック長は泣いてしまいなかなかまともに声が発せない状態になっていた。

余程嬉しかったのだろう。

普段は男らしくしっかりしたイメージだけにそんなブロック長がとても可愛いらしく、もっともっと頑張ってブロック長に喜んでもらいたい気分になった。

「ブロック長が感極まって下さっているので、代わりに〇〇店の神谷店長!一言お願い出来ますか?」

ブロック長の泣きに根負けした司会者が大ちゃんに代役を頼む。

大ちゃんは静かにマイクを受け取り、

「このE地区がこんな好成績をあげられたのはそれぞれの店舗の頑張りがあったのはもちろんですが…」

と言いかけて言葉を切った。

「もちろんですが?」

司会者が続きを促す様に問いかけた途端、

「ユッキー!!!ユッキーが表彰されなきゃダメだろ!!!」

と、大ちゃんが後ろの方で微笑みながらこちらを見ていたユッキーを大声で呼んだ。

「ええっ?!いえいえいえ、私は…」

完全に逃げ腰のユッキーに、

「ユッキーがいなかったらこの地区はこんなに頑張れてなかった。
ユッキー!ありがとう!」

大ちゃんがそう言いながら更に手招きをする。

「ユッキーさん!どうぞこちらへ。」

同じ本社勤務でユッキーの事を知っている司会者も笑いながらユッキーを呼ぶ。

ユッキーが恥ずかしそうにそろそろと前に向かって歩き出した途端、周りから盛大な拍手が起こった。

No.133 19/06/27 20:03
自由人 

「何か食べにでも行くか?」

日が落ちて明かりがきらめき華やかな雰囲気の夜の街を歩きながら、大ちゃんがそう問いかけてきた。

表彰式の後の立食パーティーでは、普段なかなか関わることのない他地区との交流、本社の方への挨拶などでほとんど飲み食いする事も出来ないままにパーティーが終了してしまった。

「そうだね、じゃあ行ってみたいお店があるんだけどいい?」

「いいよ。それよりもそんな高いヒール履いてて大丈夫か?
今日は結構歩いたし。」

大ちゃんが優しく気遣いをみせてくれる。


ずっとそうだよね。

何を食べるとか何処に行きたいとか、いつも私の意見を優先だよね。

それはつきあっている時も別れてしまった今も変わらない。

変わらないと言えば、
みんなの前や仕事関係の関わりの時には、私を貶したりぞんざいな扱いをするのに、プライベートで2人きりの時はこうやって、同じ人間か?と思うくらい優しいよね。

いつも変わらない私からしたら理解出来ないんだけど…
でもこの優しさがとても心地よい。

「うん、ここから歩いて10分くらいのビルにあるから何とか頑張れる。
ただ…ちょっと足が痛くて…
少しゆっくり歩いてくれるとありがたいかな。」

「そうか。」

私の言葉に大ちゃんは私に合わせ歩くペースをぐっと落としてくれた。

「これくらいでいい?」

「うん、あの、軽く腕につかまっていい?少しグラグラするから。」

「好きなだけどうぞ。」

「うん…」

腕につかまっていい?と聞いてはみたものの、恥ずかしさが急に出てきた私はそっと大ちゃんの服の袖をつまんだ。

「んっ?それでいいの?大丈夫?」

大ちゃんが優しく笑う。

「あ、うん…」

「そっか。」

ちょっと恥ずかしくて下を向いていた私の頭を大ちゃんは軽くポンポンとして、

「ミューズの行きたい店ってどんな店?」

と、優しく聞いてきた。

「インドネシア料理のお店なんだ。
バリをイメージした内装がかなりオシャレらしくて、もちろんお料理も美味しいらしい。」

「誰に聞いたの?」

「えっ?えと…グルメ…本…」

「へえ。なら期待出来そう楽しみ。」

大ちゃんが本当に嬉しそうに笑う。

「インドネシア料理って大丈夫?
私も初めてだけど…」

「ミューズが行きたい店だろ?
俺は何でも大丈夫だから。」

大ちゃんは力強くそう言うと笑った。

No.134 19/06/28 12:54
自由人 

ビルの5階。
エレベーターのドアが開いた向こうはいきなり南国の世界だった。

バリ島をイメージしたムードのある内装、広いテラスには本物の火が燃えているたいまつが数箇所に配置され、リゾートホテルのレストランを思わせるかなり洒落た作りになっていた。

「うわっ何か凄いな。」

大ちゃんが感心した様に言う。

「ご予約のお客様ですか?」

インドネシアの民族衣装の様な衣装に身を包んだ綺麗なお姉さんに笑顔を向けられ、

「あっ、いえ、違うんですけど…
席は空いてますか?」

ドギマギしながらお姉さんに尋ねると、

「それがあいにくと満席でございまして、30分ほどお待ち頂ければお席をご用意出来ると思うのですが…」

お姉さんが申し訳なさそうに言うのを聞き私は大ちゃんの顔を見て「どうする?」と目で合図を送った。

「大丈夫です。
ただ椅子を1つ貸してもらえませんか?
彼女が足を少し傷めてまして…」

私への返事の代わりに大ちゃんはお姉さんに椅子の貸出を頼んでくれた。

「あ!それでしたら宜しければですが、テラスに装飾品を兼ねたベンチソファがございますので、そちらにおかけ頂いても…」

言いながらお姉さんが私達を外のテラスに案内してくれた。

南国の庭園を模したテラスには先だって見たたいまつの他に噴水、本物の草木も配置よく植えられており、その奥に設えられた南国ムード溢れるスタンドバーの横にそのベンチソファが置かれていて、お姉さんはそれに薄いクッションを敷いてくれた。

「お!待ってる間に何か飲んでようか?いいですか?」

大ちゃんがにこやかにそう聞くと、

「かしこまりました。
ではまた席のご案内に参りますのでもうしばらくお待ちください。」

と、お姉さんがバーカウンターの中に何やら声をかけ、中にいたスタッフが、

「装飾品で申し訳ありませんが、テーブルの代わりにでも…」

と大きなビア樽を横半分に切ったものをベンチソファの前に置いてくれた。

私の足を気遣い座って飲める様にしてくれたのだろう。
スタッフさん達の心遣いに心が暖かくなり気持ちも浮き立つ。

「わあっ何を頼もうかな?」

ウキウキとドリンクメニューを広げて心惹かれる名前のドリンクをそれぞれ注文する。

スポットライトに照らされた噴水や草木が幻想的な雰囲気で浮かび上がり、夏の終わりの夜風が心地よく私の頬に当たった。

No.135 19/06/30 22:03
自由人 

「お待たせしております。ロフトタイプのお席なら空きましたが、ハシゴを上がらないといけないので…どうされますか?」

お姉さんが私の足の具合を伺う様に聞いてくれる。

「あ!はい!大丈夫です。」

私の返事にお姉さんはニッコリ頷くと私達を案内してくれたが、
その「ロフトタイプの席」は、店の端にある吹き抜けスペースに設けられており、ハシゴを上がると中二階の様になっていて周りからは見えない隠れ部屋の様なスペースだった。

「わあ、すごいね!」

2~4人用のスペースには何故かクッションが沢山置かれていて、私達は真ん中のテーブルを挟んで思い思いにくつろぎ、美味しい料理とお酒の酔いも手伝い好い心持ちになって今日の表彰式の話を楽しんだ。

話しながら私は、大ちゃんが化粧品メーカーの担当者さんに質問された時の事を思い出していた。

「今回、〇〇店さんはS化粧品様の売り上げに関しまして全店1位です!
そこでS化粧品様からも特別賞を授与して頂く事になりました!」

表彰式の最後、メーカー特別賞として、決起大会を催してくれた某大手化粧品メーカー2社のうちの1社から賞を授与される事になり、大ちゃんは満面の笑みで賞状等を受け取ったが、

「弊社のCMモデルの女優の△△〇美さんはご存知ですか?
ちなみに、神谷店長はお好きな女優さんは誰ですか?」

の質問に、

「〇〇✕子さんですね!」
と堂々と答えた。

………

………えっ?

「あらま、そこは社交辞令で△△〇美さんと言って頂きたかったのですが、神谷店長はなかなか正直でいらっしゃいますね。」

S化粧品さんが軽快な切り返しで場内をどっと沸かせ、大ちゃんも照れくさそうに笑っていたが、

「〇〇✕子さんという女優さんの事は昔からのファンなんですか?」

の質問に、

「そうですね。もう3年くらい前からずっと大好きです。」

と妙に真面目な顔つきで答えた。

〇〇✕子さんって…

そんな大ちゃんを見つめながら、私は何度も心の中でその名前を繰り返した。

なんで?
好きだなんて初めて聞いたよ?
胸がドキドキして締め付けられるような気分になる。

〇〇✕子。
その女優さんこそ、
私が3年前によく似ていると周りに言われていた女優さんその人であった。

No.136 19/07/02 13:05
自由人 

「どうしたの?」

大ちゃんの声で我に返った私は曖昧な笑顔で誤魔化し、まだ口をつけていなかったトロピカルカクテルを1口飲んだ。

大きめのグラスにたっぷり入っているこのカクテル、夕陽の色を思わせる綺麗なオレンジ色で、グラスの縁には本物のトロピカルフラワーやフルーツが飾り付けられ、向き合うようにストローが2本さしてあった。

「これ、なんでストロー2本?」

不思議そうにストローを弄る大ちゃん。

「さあ?恋人同士が一緒に飲むためじゃない?」

「ふ~ん。」

大ちゃんはそう言うと、おもむろに片方のストローを口にしカクテルを飲む姿勢を取った。

「んっ。」

そのままの体制で上目遣いに何かを訴えてくる。

「えっ?!んっ?」

「んんっ!!」

「えっ?!なに?!」

「ううううんっっ!!!」

「えっ?!飲んでいいよ?」

「違あうっっ!!飲めようっっ!!」

察しの悪い私に業を煮やしたのか、大ちゃんは私にもう1本のストローを押し付けた。

お子様かよおい…

「わかったよ、ちょっとだけだよ、恥ずかしいから。」

私はそっと顔を近づけてストローを口に…
と、いきなり、

「ミューズ…」

「ん?」

不意にストローから口を離し呼びかけてきた大ちゃんの声に少し顔を上げた瞬間、唇に柔らかい物が押し当てられた。

えっ?
キス…された?…

「え??!!え??!!
あ??!!え??!!」


カーッと顔が熱くなり汗が噴き出す。

「ちょっ、ちょっ、もしかして酔ってる?酔ってる?」

「えっ?!いや酔ってはない…」

「い~や!!酔ってるよね?ねっ?!」

「あっ、はい。
酔って…ます…」

私の意味不明の剣幕に気圧された大ちゃんがオズオズと頷くのを尻目に、

「と、とりあえずトイレ行ってくるぜ!」

と何故かオッサン口調になりながらハシゴを降りようとした私は、このままハシゴを上がって良いものかどうなのか悩んで途中で待機していたウエイターのお兄さんとガッチリ目が合った。

もしかして見られた?!
聞こえてた?!

カーーーーーーッ

恥ずかしさでクラクラと目眩がしている私に、

「あの…こちら当店からのサービスのデザートでございます。
本日はご来店頂きありがとうございます。」

と、お兄さんは少し顔を赤らめながらニッコリと優しく微笑んだ。

No.137 19/07/07 16:31
自由人 

2019年7月7日

早朝にふと目覚め、時計を見る。

「まだ5時過ぎか…」

昨日寝たのが深夜の1時を回ってからだ。

もう一眠りしよう。

即座に目を閉じ、再び眠りにつく…



「ミューズ、応援に来たけど、これはどこに置くの?」

不意に声をかけられ目を上げると、いつの間にか私は今勤めている職場におり、周囲では何人もの見知らぬ人達がまるで引越しか何かの作業の様に、机や棚を移動したり、床にワックスがけをしたり色々と忙しそうに動き回っていた。

…あれ?
何が起きているのかよく把握も出来ないままに声をかけてくれた相手の顔を見る。

「大ちゃん?」

「これどこ置くの?」

ぼーっとしている私に少しイラついた様な声を出し大ちゃんがロッカーを指さす。

「え、えと…」

頭の中のボヤーっとした霧の様な物が晴れてだんだん状況把握がしっかりと出来てきた。

そうだ。
今日は大掃除と改装の日だったんだ。
それで多くの人に応援に来てもらってたんだっけ…

「あ、じゃあ隣の部屋に…」

そう私が言いかけた途端、

「これは私達が運んでおきますので、応援者の方は上がってもらって良いですよ。」

大ちゃんの後ろから見知らぬ女性達数名が声をかけてくれ、

「すみません、じゃあお願いします。」

その言葉に何故か妙に安堵した私はそう返事をし、残りの作業を他の人達にお任せして、帰る大ちゃんを見送ろうと一緒に会社の外に出た。

「夕飯食べて帰るかな。
付き合える?興奮すると色々マズイからイチャつく事はしないけど。」

大ちゃんが冗談とも本気とも分からない中途半端な真顔でそう言う。

「何言ってんのよ。」

苦笑しながらそう返す私の手を大ちゃんは黙って握り、私達はそのまま手を繋いで歩き出した。

外は既に夕方になっており、
真っ赤な夕焼け空が一面に広がっていて、夕陽に照らされた外の景色は全く見たことのない風景だったが、私達は迷うことなく歩き続け、古い大きな教会の様な建物の前にたどり着いた。

「入ってみようか」

大ちゃんが教会を少し見あげながら言う。

「ん。」

大きな扉を開け中に入るとすぐに大きな礼拝堂の様な部屋になっており、
幾つも並べられた長椅子の後ろの方に何組かの親子連れやカップル達が座っていたが前の方には全く人がおらず、私達は1番前の長椅子にゆったりと腰を下ろした。

No.138 19/07/07 16:49
自由人 

私達はそこに並んで座って少し何か会話をしていたはずなのだが、何故かその言葉がかき消され、会話は成り立たせているものの何の会話なのかまるで理解出来なかった。

そのうち霧の中の様な会話が途切れ、
大ちゃんが少し私にもたれかかってきので、

「疲れた?」

と横を向こうとした瞬間、大ちゃんが優しく私の頬に何度もキスをしてきた。

大ちゃん?

大ちゃんの顔が至近距離にある。

私もそっと大ちゃんの頬にキスをすると、

「少し寝かせて…」

と大ちゃんが私のひざを枕にして寝転がった。

「子供みたいだよ。」

と照れ臭さをはぐらかすために茶化そうと顔を覗き込むと、大ちゃんの顔は出会った当初の18歳の頃の顔になっていた。

気がつくと私の服装なども20代の頃の様な雰囲気になっている。

不意にあの頃の情景が蘇る。

大ちゃんが愛おしい…

キス…しようかな…

色々な違和感がある状態の中でそんな事を思う。

「興奮すると色々マズイから…」

不意にさっき聞いた言葉が蘇ってきた。

ダメだ。
キスしちゃダメだ…

私はせめて大ちゃんの温もりだけでも感じようとそっと髪を撫でた。

途端、辺りは白くボヤーっと霧がかかったかの様な光景が広がり出した。

ダメだという思いが強すぎて意識が覚醒しだしたのだろう。

辺りが完全に真っ白になり、私は静かに目覚めた。




もっと長い夢を見ていたはずだった。

でも目覚めと同時に、少しずつその夢の記憶が欠落していき、これを書いている今現在でも相当抜け落ちてしまっているのが朧気ながらわかる。

教会での会話も本当は内容がわかっていたのだろうと思う。
再び思い出すことはないであろうが…

鮮明だったあの手の温もり、頬に当たった唇の柔らかい感触も次第に薄れていっている。

会いたいな…
ふと思う。

あの人は今でも、
「会いたい来て欲しい」
と連絡すればたとえ10分しか会えなくても遠い地から来てくれる。

そう。

どうしたんだと心配のあまりブツブツ怒りながら車を飛ばして来てくれる。
あの人はそんな人だ。
それが分かっているから私はあの人に連絡をしない。

1年ぶりに会ったね。
夢の中だけど嬉しいよ。

7月7日に見た不思議にリアルな夢。

勝手に七夕の奇跡としておこう。

どうかこの夏も元気で体調に気をつけて。

遠い地からそっと祈ります。

No.139 19/07/07 23:32
自由人 

化粧品部門の販売コンクール表彰式の帰りに立ち寄ったダイニングカフェにて、

大ちゃんに突然キスをされ、ウエイターのお兄さんにそれを見られ?1人慌てふためいた私は、

「酔ってるからね、酔った勢いってやつだよね、
これは無かった事にしとくから。」

と、つい口走り、

「え?」

と、何かを言いかけた大ちゃんを、

「大丈夫!忘れるから。」

と強制的に制して話を終わらせてしまった。

私達はその後は本当に何も無かったかの様に普通に会話をしてそれぞれ帰宅したが、もっと踏み込むべきだったのか、それともキッチリ話をすべきだったのか、モヤモヤとした気持ちが拭えず、私は一晩中ベッドの上をゴロゴロと転がり回りあまり眠ることが出来なかった。

明け方近くになり、転がり回るのにもいい加減疲れてきた頃、
でも…
と、部屋の天井を見つめながら考えた。

酔った勢いでって事で忘れてしまうのが1番良いんだよね。

そう、何も無かった。
何も無かった。

私は掛け布団を頭の上まですっぽり掛け無理矢理目を閉じた。

周りに迷惑かけて無理に一緒になっても、どうせまた上手くいかなくなるだけ。
手に入らないとわかっているから恋しいだけ…

どこかで聞いたようなセリフ…
何かのドラマだったかな?…

薄れゆく意識の中で私は交互にその言葉を繰り返し、いつしか眠りに落ちていった。

翌日、
幸い遅番出勤だったため、ある程度の睡眠時間を取れた私は、比較的スッキリした頭で店に向かった。

「おはようございます。」

朝番の大川君と挨拶を交わした後、昨日の表彰式の話をした。

「へえ、あのブロック長が男泣きですか。」

「そうなんだよ。ビックリしちゃった。でも感動したよ。もらい泣きしそうになったもの。あ!それから大ちゃんが大声でユッキーを呼んでね…」

「そんなあらたまった場所であだ名で呼ぶなんて…いかにも店長らしいですね。」

「そうそう!ほんとだよね。」

2人で笑い合いながら改めて、頑張って良かったなとしみじみ思った。

「そうそう!店長といえば今日の夕方、本社帰りに店に寄るって電話がありましたよ。」

ドキン!

大川君の何気ない一言に胸がドキッとした。

「そ、そうなんだ。」

平静を装おうとしつつも動揺が隠せそうになかった私は、店内の様子を見に行く振りをしてその場を離れた。

No.140 19/08/23 13:04
自由人 

「お疲れっす!」

夕方、スーツ姿の大ちゃんが暑そうにネクタイを緩めながら事務所に入って来た。

「あ、お疲れ様です。」

昨日の事を思うとドギマギして少し素っ気なく返す私をあまり気にする様子もなく、

「本社でユッキーに会ったよ。
後でうちの店に来るってさ。」

と手近な椅子に座りフゥと大きく息をついた。

「疲れてますね。
今日も本当は休みなのに本社行きだったし。
早く帰ってゆっくりされたらどうですか?」

少し呆れ気味の私の言葉に、

「大丈夫!それより気遣ってくれるんだったらコーヒーでも奢ってよ。」

と何故か大ちゃんは嬉しそうな顔をして答えながら、早く行け!と言うように事務所の出入口に向かって軽く手を振る。

ったく…
奢らされ+買ってくるんかいっ。

半ば呆れながらも無言で財布を握り、事務所の扉を開けかけた途端、

「あ!ちょっと待って!ついでに郵便局も!」

大ちゃんは急いで金庫からお金を出し、

「DM用のハガキ100枚くらいもあればいいか?」

と言いながら私にお札を握らせた。

郵便局まではさほど遠い距離でもなかったが、窓口が閉まる時間まであまり余裕が無く、慌てて原付バイクで駐車場に乗り付けた時には終了10分前になっていた。

ふう、何とか間に合ったな。

バイクを停め、中に入ろうとした私はふと前の道路で信号待ち中の1台の車に目が止まった。

運転席に20代後半くらいの男性が座っている。

その男性は私の視線に気づいたのかチラリとこちらを一瞥したかと思うと急に驚いた様に私の顔を凝視しながら車の窓を開けた。

「ミューズ?」

「ユータン!!!」

遠くの空に入道雲が浮かぶ9月の夕暮れ時、
ユータンが私にかけた声と私が叫ぶ声がほぼ同時に響き渡った。

No.141 19/08/26 13:00
自由人 

ププッ

信号がいつの間にか青に変わっていた。
ユータンの後ろの車が催促する様に軽くクラクションを鳴らす。

ユータンは少し慌てた様に一旦前を向いたが、再び目線をこちらに向けると軽く前方を指差し、また直ぐに前を向いて車を発進させた。

んっ?
なに?

歩道からユータンの車の向かう先に目をやると車は少し先にあるコンビニの駐車場に入って行き、それで察した私は急いでバイクに乗ると同じ様にコンビニの駐車場に入った。

駐車場では丁度ユータンが車を停め降りた所だったが、

「ユータン!!!」

私の再び叫ぶ声に少しバツの悪そうなはにかんだ笑顔を浮かべながら頭をかいた。

「ユータン!!今までどうしてたの?」

ユータンに掴みかからんばかりの勢いで問う私に少し圧倒されながらもユータンは飄々としたあの懐かしい笑顔を浮かべ、

「やっ!あんな所で何してたの?」

と笑いを噛み殺した声で返してきた。

「連絡取れないしまさかまた会えるなんて…えっ?郵便局にハガキを買いに…」

「DM用?」

「そうそう、いつもギリギリに買いに行くから今回は早めに…って、ああっ!!!」

ここまで一気に興奮して話した私ははたと気づいた。

しまった!
ハガキをまだ買ってない。

慌てて時計を見た。

窓口の受付終了まで5分を切っている。

「ユータン!携帯持ってる?!
ちょっと番号教えて!
とりあえず郵便局行ってくる!!」

何かを言いかけたユータンをそのまま振り切り私はまたバイクに乗ると急いで郵便局に戻り何とかギリギリ滑り込んだが、窓口では前に並んでいたお客さんに手間取ったため、
私がやっとハガキを買って外に出た時には予想以上に時間がかかってしまっていた。

ユータン待っててくれてるかな?

焦りながら急いでバイクに乗ろうとした時、
足を置くステップ部分に小石をおもしにして小さな白い物が置かれているのが目に入った。


No.142 19/08/29 12:44
自由人 

それは手帳を無造作に破り取ったらしき紙片で、
「ごめん急ぐからまた連絡して。」

とやや乱暴に殴り書きされたその文の下に、

山田勇人

090-✖✖✖✖-〇〇〇〇

と記してあった。


山田…勇人?

……あ

そういえばユータンの名前って
山田勇人だったっけ。

今更ながらユータンの名前を思い出す。

「ユート君🎵久しぶりだね。」

紙片に向かって小声で呟くと何だか妙に笑いが込み上げてくる。

あっダメだ、ダメだ。
周りから見たら1人呟いたりニヤニヤしたり、私完全に怪しい人だ。

慌てて笑いを引っ込めると
バイクに乗り店に戻った。

「お疲れ様!そしてお帰りなさい!」

事務所のドアを開けるとそこに立っていた大ちゃんとユッキーが一斉に振り向き、ユッキーがニコニコしながらそう声をかけてくれた。

ユッキー…

今さっきユータンに会ったんだよ。

携帯の番号も教えてもらったよ。

ユッキーにそう言って良いものか一瞬悩む。

ユッキーとユータンはかつて恋人同士だったが別れてしまった。

互いに冷めてや嫌いになってというよりもユータンのお母さんの事など色々と複雑な事情が原因ではあるらしかったが、逆に余計な気を使ってしまう。

ユータンと別れた後、ユッキーは取り引き先の営業の人と電撃結婚をしたが、程なくして電撃離婚をした。

敢えて理由は書かないがユッキーもかなり苦悩した末の事で、その事については気の毒としか言い様がない。

その頃、ユッキーから少しタイミングが遅れてユータンの結婚離婚の話を共通の知人から聞いた時、単なる偶然なのか?それとも…
と私は密かにある勝手な推測を立てたが、あくまでもそれは推測であり、人を傷つけかねない内容でもあるため、誰にも話さず1人そのまま胸の奥にしまった。

ユータンは離婚した後、稀にだが唯一連絡を取っていた知人とも音信不通になり消息が全く掴めなくなっていて心配していたので、今日の偶然の再会は私にとってはとても喜ぶべき事ではあったのだけれど…

「どうしたの?」

ずっと押し黙っている私を心配してかユッキーが少し伺う様に聞いてくる。

「………」

私はメモをギュッと握りしめたままユッキーの顔を見つめた。

No.143 19/09/06 13:02
自由人 

沈黙を破ったのは大ちゃんだった。

「ハガキは?」

「あ、はい!」

いきなりぶっきらぼうに短く鋭い声をかけられた私は慌ててハガキを事務所の机の上に置いた。

「私ちょっと売り場の様子を見てくるね。」

少し気まずい空気が流れたのを素早く感じ取ったユッキーが気を利かせて事務所を出ていく。

あ~…

ホッとした様な心細い様な…

微妙に複雑な思いでユッキーが出ていくのを見送った私に、

「で?」

と大ちゃんは容赦なく鋭い視線を向けた。

「えっ?!あ、あのっいえ、その、あの言った方がいいのかどうなのか…」

「領収書は?もらってないの?」

へ?

あ、ああ領収書か。

慌ててハガキの領収書を出す。

大ちゃんは不機嫌そうに領収書を受け取ると私の左手を見つめた。

私の左手にはまだユータンからのメモが握られたままになっている。

「何かいちいちコソコソしてる態度が…」

「えっ?!何の事ですか?」

「別に。そっちが何をしようと何を思おうと俺には関係ないし!!!」

…………

…………


は?

「あの…え~と?あの?」

相変わらず意味不明な大ちゃんの言動に私はまた振り回されかけていた。

「あの…ごめん…なさい…」

わけも分からず謝る私に大ちゃんは更に苛立ったように、

「ミューズは彼氏いるんでしょ?!
なのに他の男からヘラヘラと連絡先もらってるって軽くない??!!」

と吐き捨てるように言った。

うおっ、何で男からの連絡先のメモだとわかった?!
いつの間に読心術にプラスして透視能力まで身につけたんだおい。

つ~か、ならその彼氏持ちの女にキスしたおめえは軽さの最高峰じゃんか!
ヘリウムガスかよお前は。

私は恐怖と怒りと呆れが渾然一体となりしばらく呆然としていたがこれではラチがあかないと思い直し、メモを広げると大ちゃんにそっと渡した。

No.144 19/09/09 12:54
自由人 

「えっ?!」

まさかメモを渡されるとは思ってなかったであろう大ちゃんは一瞬あからさまに驚いた表情を見せたが、

「なに?何で俺に渡すの?意味わかんね。」

とつまらなそうにメモを私に返そうとした。

「いいからちょっと見てよ。」

「何で男の携帯番号を見なきゃなんだよ。興味ねえわ。」

うおっ、ちょっとお前…
まだメモ見てないだろ?!
なのに何で携帯番号って事までわかる?
(当時はまだまだ携帯は完全普及しておらず家電を教えてくれる人も多かった)
もうドラッグストア勤務なんか辞めて
すぐにビックリ人間大会にでもエントリーしてこい。
世界大会優勝も目じゃないぞ!
あれば…の話だけど…

心の中で色々ツッコミながらも

「見て欲しいんだよ。見て?お願い!」

と半ば押し付けるように大ちゃんの手にメモを握らせた。

「お?おお…」

大ちゃんは何故か急に大人しくなりいそいそとメモを開きかけたが、フッと私の方に目をやると急に思い直したように手を止めて、
あんた主演男優賞でも狙ってんの?ばりの巧みな演技でまるで何も興味が無い風にゆっくりとメモを開いた。

「んっ?ん?山田?勇人?」

あんぐりと口を開けるとは正にこういうことなのだろう。

大ちゃんは数秒間口をぽかんと開けていたが、

「ええええっ?!山田さん??!!」

と素っ頓狂な声をあげた。

「うん。ユータンだよ。
郵便局の前で偶然会って…」

「そうなんだ!山田さん!何やってんだよ一体!」

私の話を遮るようにして大ちゃんは半ば叫ぶ様にそう言うと顔中をクシャクシャにして笑った。

大ちゃん…

大ちゃんも嬉しいんだな。
無邪気に喜ぶ大ちゃんを見ているとまた私の中にも嬉しい気持ちが沸き起こってきた。

「ね?ビックリでしょ?
それで…ちょっと相談なんだけどユッキーにはどうしようかと?…」

ガタン

途端に後ろのドアが開く音が聞こえそれと同時に、

「ごめんなさい、ちょっと売り場の件なんだけど…」
と言いながら当のユッキーが入って来た。

No.145 19/09/10 12:33
自由人 

「ええっ?!ああっ?!ユッキー?!」

突然のユッキーの登場に私は狼狽えた。

「ん?まだ何か…お取り込み中…だった?」

少し遠慮したようなユッキーの言葉に、

「ユッキー!ミューズが山田さんの携帯番号ゲットしたってよ!」

と大ちゃんがメモをひらつかせ大声でそう言った。

げっ。

なにいきなり直球ど真ん中投げてんのよっ!

ひきつる私に構わず大ちゃんはメモを泳がせる様に振りながら

「はい」

とユッキーの鼻先に突きつける。

「コラコラ大ちゃん!」

ユッキーが笑いながらメモを取り、

「へええ、ユータンも携帯持つようになったんだ。」

とクスクス笑いながらそれでもどこか懐かしそうな目をしてメモをじっと眺めた。

ユッキー?

心なしかユッキーの目が潤んでいる様に見え、

「あ、ね?ね?大ちゃん凄いんだよ!
このメモを見る前に男性の携帯電話の番号が書いてあるって当てたんだから!エスパーかっつーの!」

慌てた私はわざとらしいくらいの笑い声をあげ必要以上に明るくユッキーに話しかけた。

「えっ?そうなの?すごいね大ちゃん。」

感心して驚くユッキーに、

「なわけないでしょ!ミューズが俺にメモを渡そうとした時に一瞬広げてさ、その時にちらっと見えただけ。」

ユッキーに対してもわりかし容赦のない大ちゃんが馬鹿にした様に鼻で笑う。

「なんだ~もお!手品みたいって思ったのに。あ、でも手品ってこんな感じかもね。」

「そうそう。種を明かせば単純!」

2人が可笑しそうに笑う横で、

え?
でも…メモを握ったままの状態の時に既に「男からの連絡先」って言い当ててたよね?
あの時は絶対に見えない状態だったよ?
何故わかったの?

1人モヤモヤとした思いが拭えず、

「あの…それならさ…」

と言いかけた私に、

「ね?今日は私もラストまでこの店にいるから閉店後にでもユータンに電話してみない?」

と、ユッキーがイタズラっぽい目をしながら話しかけてきた。

No.146 19/09/15 18:27
自由人 

「え~と090…」

閉店後の店の休憩室、

大ちゃんとユッキーが見守る中で私は緊張しながら電話番号を入力した。

「プルルルル…プルルルル…」

「ふう…出ないね…まだ仕事中かな?」

何コールか鳴らしたが出る気配を感じられず諦めて電話を切った私は独り言の様に呟いた。

「ちょっと貸してみ?」

大ちゃんは私の手から携帯を受け取ると何の躊躇もなくリダイヤルボタンを押した。

「…………」

「…………」

やっぱり出ないな…

そう思った瞬間に、

「この電話番号は現在使われておりません。」

いきなり大ちゃんが真顔でそう言った。

えっ?!

えっ?!

驚く私の方をちらっと見た大ちゃんはニヤリと笑うと、

「嘘で~す!俺ですよ、山田さん!神谷です!」

と嬉しそうな声を出し、直後に携帯の向こうから嬉しそうに大笑いするユータンの声が漏れ聞こえて来た。

「久しぶりっすね~生きてました?」

大ちゃんは相変わらず失礼な口をききながらも嬉しそうな笑顔を浮かべ、

「これミューズの携帯なんで代わりますね。」

と有無を言わさず私に携帯を返してきたので慌てた私は、

「あのっ、ユータン、また4人で遊びに行こうよ?だから電話したっていうか…」

と適当な事を言ってしまい、
しまった…ユータンとユッキーの気持ちを確かめもせずに勝手な事を言ってしまった!と瞬時に後悔した。

どうしよう…

「ユッキーは?いるの?」

焦る私の耳にユータンの声が飛び込んでくる。

「え?!あ、ああ、うん、いるよ…」

返答に詰まりながらちらっとユッキーと大ちゃんの方に交互に目をやると
大ちゃんは軽く頷き、私の手から携帯を取るとそのままごく自然な態度でユッキーに手渡した。

No.147 19/09/16 21:43
自由人 

「もしもし…あ、うん…有希だけど…えっ?えっ?…」

少し緊張した面持ちで電話に出たユッキーが少し相手の話を聞く素振りを見せた後いきなり笑いだした。

「あはははは!やだユータン!電話をかけた側がこの電話番号は現在使われておりません…になるはずないじゃないの!バッカじゃない?!」

どうやらユータンはさっきの大ちゃんのイタズラに本気で騙されていたようだ。

「あはははは!ちょっと聞いてよ大ちゃん!ユータンったら…」

ユッキーが可笑しそうに携帯を握りしめたまま笑い転げる。

「あはははは!」

電話の向こうでユータンも楽しそうに笑う声が聞こえてくる。

「ごめんごめん、勝手に盛り上がっちゃった。代わるね。」

予想外の2人の気さくなやり取りに対して少し驚き気味だった私に、ユッキーがニコニコしながら携帯を返してきた。

「えっ?まだ話してていいよ?」

「いいのいいの、あまり長々話すと通話料金がとんでもなく高くなるから。」

ユッキーが早く話してと言わんばかりに私に携帯を押し付ける。

詳しい金額は忘れてしまったが、当時携帯電話の通話料金はかなり高く、おいそれと気軽に長電話などできない時代だった。

通話料金がかかるのは嫌だからと相手にワン切りしてかけ直してもらうのを狙うという強者もいたほどだ。

「あっもしもし!また代わったんだけど…」

ユッキーの気づかいを受け、私は慌ててまた電話に出た。

「ミューズ!で、いつ集まるの?」

そんな私にユータンが待ちかねた様にいきなり切り出してくる。

「えっ?えっ?あの、ユータン…いいの?」

「んっ?大ちゃんとユッキーが良ければ俺はいいよ。っていうか皆の声を聴いたらむしろ会いたくて仕方なくなった。」

ユータンが懐かしそうな声を出す。

「大ちゃん、ユッキー、あの…ユータンが皆に会いたいって…言ってる…んだけど…」

送話口をギュッと押さえながらそう2人に問いかけると、

「いいよ!久しぶりにまた皆で会おうよ!」

戸惑いでオドオドしている私の不安を打ち消すようにそう真っ先に即答してくれたのはユッキーだった。

No.148 19/10/08 21:16
自由人 

「ご飯食べに連れて行って下さいよ!」

土曜日の休憩室、
一緒に休憩を取っていた加瀬君が少し甘えた声を出してねだってきた。

「え?!なぜ?!」

「なぜって…ミューさんまた連れて行ってくれるって言ったじゃないですか。」

あ、そうだった。

「ごめんごめんそうだったね。
いつにしようかな?」

「今日でもいいっすよ!」

「早っ?!まあ私も今日は朝番だからいいけど…」

トントンと話が進み、じゃあ今日、焼肉でも食べに行きましょうかとあらかた話が決まりかけた時、

「俺も行きま~す!」

と、いきなり牧田君が休憩室に乱入し私達は死ぬほど驚いた。

「わわっ牧田くん?!び、びっくりした!」

「な、な、な、ユーヤ!ユーヤ!ユーヤ!」

「なんだよ~そんなに何回も呼ばなくても聞こえてるって!」

牧田君は驚き過ぎて目を白黒させながら必要以上にユーヤ連呼を続けている加瀬君の肩を抱くようにして耳元に顔を近づけると、

「俺も焼肉好きなんだよね。」
とニヤリと笑った。

こいつも来るのか…
休憩室の中での話を一体どこで聞いていたのか…

やれやれと思いつつも、加瀬君と2人きりというのも何だか気まずかった私は内心少しほっとした。

でも高校生男子2人と3人でとか…

う~ん。

「お疲れ様~ちょっと寄ってみたんだけど。」

思案しかけた私の耳にノックの音が聞こえたかと思うと、ユッキーがニコニコしながら休憩室に入ってきた。

ナイスタイミ~ング!ユッキー!!

「ね、今日ここに何時までいるつもりなの?」

目をキラキラさせてやや詰め寄り気味に問いかける私の言葉に、

「えっ?!え、えと、ここには顔だけ出してすぐに✕✕店に行こうと思ってたんだけど…」

と、これまたユッキーもやや引き気味にオドオドと答える。

「じゃあさ、✕✕店に行った帰りにまたここに来てよ。
焼肉食べに行こうよ!」

私の言葉に、

「焼肉?!行きたい!行きたい!」

とユッキーが嬉しそうに頷き、とりあえずの焼肉メンバーが決まった。

「じゃあ美優ちゃんが仕事上がる頃に来るよ。」

ユッキーが嬉しそうに手を振って出ていくのを見送り仕事に入る。

数時間後。

「そろそろ上がります。」

遅番の大川君に声をかけ、帰り支度をしていた所に、

「お疲れ様~!」

とユッキーが戻ってきた。

No.149 19/10/11 12:57
自由人 

>> 148 ユッキーが戻ってきた。

ユッキーが…

「お疲れ様。」

えええっ?!

ユッキーの後ろにはこの日何故か休みだったはずの大ちゃんが立っている。

「え?!あの?あれ?お疲れ様です。
どうしたんですか?」

「どうしたもこうしたも。
お前ブロック長に提出する書類の期日を間違えてたぞ?
いちいち連絡するのも面倒くさかったから俺が仕上げてブロック長が立ち寄ってた✕✕店に届けに行った。
でそこでユッキーに会ったから一緒に帰ってきた。」

ぐはーっ…

「す、すみません。」

「おかげで昼も食わずにブロック長の話に付き合わされて…」

「す、すみません。」

「あ~腹減った。」

「す、すみません…この埋め合わせは…どうしたものか…」

「じゃあ大ちゃんも焼肉食べに行こうよ!」

気まずさ最高潮の雰囲気をぶち破る様に、突然ユッキーが横からニコニコしながら口を出した。

「焼肉?ユッキーとミューズと?」

「あ、いや、加瀬君と牧田くんもなんだけど、人数が増えてきてるからいっその事仕事上がった他の人も誘おうか?あ、でも早上がりした人達はもう帰っちゃった…」

私はここまで一気に話しかけた時、
ようやくユッキーの少し困った視線と大ちゃんの少し呆れた視線が微妙に絡み合っていることに気がついた。

後ろ…
後ろ…

ユッキーから私の脳内に謎のテレパシーが送られてくる。

クルン。

「お疲れ様!なあに?みんなでどこかに行くの?いいわね~。」

振り向いた私の視線の先にはとっくに仕事を上がったはずの沖さんが立っていた。

お、お、沖さんっ

「あ、あれ?どうしたんですか?!」

「忘れ物しちゃって、取りに戻ってきたのよ。今日は旦那もいないから急いで帰る必要もないしね。」

「あ、あ、そ、そうなんですね!
あ、あの、良かったら皆で焼肉で行きません?」

「え?でもお邪魔じゃない?」

「いえいえとんでもない!人数多い方が絶対にいいですし!」

「そう?じゃあご一緒しようかな。」

「はい!勿論です!行きましょう!」

ふう…

まあ沖さんも悪い人ではないしね。

寂しがり屋で可愛い所もある人だしね。

ね?

「じゃ、じゃあ加瀬君と牧田君を呼んでくるね。」

加瀬君と牧田君を呼びに行こうと歩き出した私の脳内に

「この八方美人め。」

と大ちゃんの声が響き渡った。

…気がした。

No.150 19/10/14 19:08
自由人 

焼肉店に着いた。

大人数での時は私はいつもサッと座るのが苦手で、皆を座らせてから何となく空いた所に座る。

「私、奥取った~!」

ユッキーが嬉しそうにサッと座敷の奥側にチョコンと座った。
座敷席の奥側は後ろの壁だけでなく、横の壁にも両方もたれられる事からひそかな人気場所だ。

「俺も~!」

大ちゃんも嬉しそうにそそくさとユッキーの向かい側の奥の席に座る。

この2人、本当に変な所で似ている…

後はそれぞれ2人ずつ座るわけだけど…

「姉さん!ボーッとしてないでサッサと座ってよ!俺達が座れないでしょ!」

皆の座り待ちをしていた私を、牧田君が何やってんだよと言わんばかりに大ちゃんの隣の方に押しやった。

え、え、え、なんでそこ?!
普通は同性のユッキーの隣でしょ?!

一瞬戸惑ったが、そこでうだうだと拒むといかにも大ちゃんの隣を嫌がっている様にしか見えない。

お、お邪魔します…
とチョコンと大ちゃんの隣に座ったが、
この時からその後20年にも渡り
大ちゃんや牧田君達との飲み会の時には、大ちゃんの隣の席は必ず私の指定席になる事をこの時の私は知る由もなかった。



「じゃあ私はユキちゃんの隣で。」

沖さんがユッキーの隣に座ったために私と沖さんがテーブルを挟んで向き合う形になってしまった。

うっ…
何となく気まずい…

なるべくツッコミどころが無いように静かにしていよう…

そんな私の気持ちをフル無視って大ちゃんがちょっかいをかけてくる。

「ほら~幹事!サッサとまとめてオーダーしてよ!」

「あ、あ、あ、え、えと、メニューメニュー…あれ?メニューはどこにいった???」

あたふたとメニューを探す私に、

「早くしろよな~幹事失格だぞ?」

と大ちゃんが笑いながら催促する。

「え、えと、何故かメニューが…あれ?あれ?」

「美優ちゃん、後ろを振り返ってみてよ。」

モタモタと焦る私を見かねたユッキーに笑いながらそう言われ後ろを見ると、私の真後ろにメニューが一式置かれている。

あれ?
なんでこんなとこに?

「ユッキー!教えちゃダメじゃん!」

大ちゃんが少し残念そうに笑いながら言う。

お前が置いたんかいっっ!!

ホッと気が抜けて大ちゃんを横目で睨みつけた途端に右斜め前方向から猛烈に注がれていた視線にやっと気づいた。

No.187 20/03/16 12:46
自由人 

亜美ちゃんと飲んできた。

「美優ちゃん、ここオススメの店だから。」

という亜美ちゃんイチオシの店で飲む所は昔と変わっていないが、いつの頃からか呼び方が「美優ちゃん」に変わり、敬語も無くなっていった。

「亜美ちゃん、実はあるサイトに小説を投稿しててね、みんなのことや亜美ちゃんのことも身バレしない程度に書かせてもらってるんだ。」

「へえ、面白そう!私の他に誰と誰が出てくるの?」

興味を持ってくれた亜美ちゃんに登場人物名を告げ、共通の知り合いのことを書いている内容だけ軽く話す。

「あははは、懐かしい~」

亜美ちゃんが可笑しそうに笑う。

「そうだよね。自分でも思い出して懐かしくなったよ。」

そう相槌を打つ私に、

「神谷さんのことも書いてるって言ってたけど、神谷さんと美優ちゃんってそんなに仲良いの?」

と亜美ちゃんにあらためて聞かれた。

亜美ちゃんは牧田君とは関わる事が多かったが、大ちゃんのことは名前くらいしか知らなかった。

だから私と大ちゃんが付き合っていた事は知らないし、私も特に話もしていない。

「数年ほど一緒に仕事したよ。」

と、サラッと流そうとした私に、

「神谷さんって本社の人でしょ?
前に私のいる店に来たことあったけど、あんまり良い感じの人じゃなかったな。」

と亜美ちゃんが顔をしかめてそう言い出した。

No.188 20/03/16 21:25
自由人 

またか…
即座に思う。

「えっ?!なんで?何があったの?!」
なんて思わない。

またか…
それなのである。

大ちゃんが店長の頃までに彼に知り合った人達は、なんだかんだいっても大ちゃんを好きな人が多い。

もちろん「狂犬」とあだ名をつけられるほどだから当然アンチもいるわけだが、それでも割合的には大ちゃんを好きだったり慕う人の方が多かった。

それがブロック長になった頃から彼の「やり手」の評判と共に「悪名」が一気に高まりアンチの割合が増え、嫌われる(いや正確には恐れ近寄らない)という極力関わりを避けたがる人が増えた。

亜美ちゃんも大ちゃんをよく知るようになったのはこの「後半部分」からなので、穏やかな性質を好む亜美ちゃんが大ちゃんに負の感情を持つのも無理からぬ事ではあった。

「何か嫌な事でも言われたの?」

さり気なさを装いながら聞いてみるが段々と気が重くなり始める。

大ちゃんの悪名…

ここにも何回か書いているが、織田信長に例えられる程の激しい気性。
私のいた地区はむしろ大ちゃんに惚れ込むタイプが多かったため特に悪い噂はなかったのだが、他県の比較的ずっと穏やかにやってきていた地区の場合、ついていけずに潰れる人も多かったと聞く。

遂には社長が自ら、
「お前は扱い方1つで良薬にも猛毒にもなる。」
と大ちゃんを現場から離し、ご自分の目の届く本社に置かれた。

No.189 20/03/17 19:10
自由人 

社長により首輪を付けられたかに見えた狂犬。

相当嫌がったらしいが、本社には田上さん始め、部長、専務クラスの猛者がゴロゴロいる。

部長など大ちゃんのあしらい方を昔からよく心得ており、まるで一流の猛獣使いの様であった。

そのおかげかそのうち上手くおさまり、本社でも彼はメキメキと頭角を表していったが、ますます近寄り難く怖い存在となっていったのは仕方がないと言わざるを得ない。
現場には直接関わる事が少なくなり、潰れる人も出なくなったのだから。

そのうち社長の大胆な社内改革により、新しい部署が幾つか出来た。

私が昔配属された「お試し」の小部署とは異なり、社運をかけるレベルの規模であり、大ちゃんはそのうちの1つに配属された。

今ではその部署のナンバー2として部下を何人も従え各地を飛び回っている。

流石にもう現場の人間を潰すことはないが「吠える」のは健在で、各地で物凄い勢いで吠えまくるため現場が凍るという状況になるらしい。

そうやって自ら「悪名を各地に広める」大ちゃん。
本人にはもちろん全くその気はないのだが…



「何か嫌な事でも言われたの?」

「言われた訳じゃないんだけど…むしろ話すらしてないし…だって取り巻き引き連れて何か偉そうにしてて、何様?みたいな感じで近寄りがたかったし…」

私の質問に対してあまりにも素直で正直な亜美ちゃんの答えには、流石の私も目眩を覚えた。

No.190 20/03/18 19:03
自由人 

「じゃあまたね!」

「は~い!おやすみ~!」

にこやかに声をかけ合い亜美ちゃんと別れるも、駅へと向かった私の足取りはやや重かった。

う~ん。
大ちゃんに敵が多いのは重々承知だけど、友達が大ちゃんに悪印象持ってるのを知るのはちょいとグッサリだな…

何となく重い気分のまま改札を抜けホームに降りる階段を降りきった途端、マナーモードにしている携帯が上着のポケットの中で震えた。

ちょうどタイミング良く来た電車に乗り、ガラガラの座席の端に座ると携帯をチェックする。

亜美ちゃんからのLINEだ。

「美優ちゃん今日はありがとう。
大事なことを言い忘れてました。
牧田さんがエリア長になったって!」

「おいおい笑それは最重要レベルの内容だぞ?」

冗談ぽく返信をし、LINEを眺めながら牧田君のことを思った。

エリア長。
私のいた会社では 店舗数が多いため、幾つかのエリアに区切り、それを更に地区ごとに分け、
エリア長→地区長→店長
といった感じの制度を取っている。
言わばエリア長はエリア内のトップの存在である。

あのスーパーサイヤ人みたいな男の子が現場のトップか…

頑張ったんだね、
頑張ってたよね、
牧田君を凄いなと思うのと同時に時の流れをしみじみと感じる。

あ、そうだ。

牧田君にLINEしとこう。

私はおめでたいスタンプと共に「昇進おめでとう」のメッセージを牧田君に送った。

No.191 20/03/20 17:03
自由人 

「ありがとございま~す!
しばらく忙しくなるけど嬉しいで~す!」

いつも返事の遅い牧田君から珍しく早くに返信があった。
たまたま時間が空いていたらしく、
忙殺され気味な彼にしては珍しくメッセージのラリーが続いた。

今度の人事移動に関する共通の知人の話で盛り上がった後、

「またみんなで飲みにでも行こうね。」

と〆の言葉の様に出した私のメッセージに、

「その件だけど、まだまだ神谷さんは忙しいみたいだよ。」

と泣き顔のスタンプと共にそう返事が返ってきた。

あ~
それ確か去年の秋頃に言ってた話じゃなかったっけ?

私は少し苦笑した。

牧田君、加瀬君、ユッキー、私、そして大ちゃんで久しぶりに集まりたいという話が牧田君とユッキーとの話の中で出て、幹事をやってくれる牧田君が大ちゃんに直ぐに伺いの連絡を取ってくれたが出張の予定が詰まり暫くは無理との事で、また頃合を見て牧田君が誘い直すという予定になっていた。

「そうなんだ。夏頃まで忙しいのかな?」

「さあ、何せまた社長からの新しいプロジェクト任されたとかで更に忙しくなったとボヤいてはったし。」

そっか。
頑張ってるんだね。

「そのうち会えたらいいのにね。」

私の言葉に、

「姉さん、僕も忙しくなるから幹事はちょっと無理そう。だから申し訳ないけど幹事を姉さんにお願いできるかな?」

牧田君がサラリと返事を返してきた。

No.192 20/03/21 14:23
自由人 

「了解!でも牧田君も暫く大変でしょ?5、6月以降くらいに企画しようか?」

「僕はそれくらいがありがたいけど、
先ずは神谷さんに都合聞いてみて。」

えっ…

「決めてから、報告じゃダメ?」

「ダメに決まってるでしょ。あ~あ神谷さん、僕が最初に誘った時に本当に会いたそうで残念がってはったのに…」

えっ、会いたそう?

あ、みんなにか…

ははっ

………

「わかった。とりあえず聞いてみるよ。お仕事がんばって!」

「は~い!」

牧田君とのLINEが終了した。

さて。
どうしよう。

いやいや、どうしようも何も幹事としてご都合伺いの連絡するだけじゃない。

なまじ小説で大ちゃんの事を書きまくってるから変に意識してしまってるみたいだ。

あ~やばいな。
緊張する。

どうしよう。
既読スルーとか未読スルーとかされたら凹むな。

何でこいつから連絡が来るんだ?
と思われたり。

いやっ、だ~か~ら~

幹事として連絡するだけだって!

返事が来なかったら牧田君に代わりに連絡取ってもらえばいいだけだってば!

うん、大丈夫。
嫌がられることはしてないはずだ。
というかそもそも誕生日メール以外の関わり無い。

あっ!!
小説のネタが出来たと思えばいいんだ!!
よ~しよし、これでOK。

うん…
今夜は遅いから明日以降に連絡しよう。

散々悩んだ末、私はまた携帯をポケットに入れた。

No.193 20/03/22 21:16
自由人 

え~と…
ドキドキする気持ちを抑えてLINEを開く。
何でこんなに緊張するんだろう。

かつて私達は恋人同士だった。
なのに緊張だなんて。

これではまるで初告白の中学生みたいだよ…
苦笑しながら「大ちゃん」とのトーク画面を久しぶりに眺めた。

「お誕生日おめでとう。」
のメッセージとスタンプ。

「ありがとう」
のメッセージとスタンプ。

ほぼそれの繰り返しのみ。

こんな中にいきなり何てメッセージを送ったら良いのだろう。

ドキドキドキドキ

緊張しながら入力する。

「お疲れ様です。お忙しいと聞いていますが忙しいですか?ご都合が合う良い時に飲みに行きたいと思い」

ここで、固すぎるかな?と気になる。

というか、それ以前に文章が詐欺メールの日本語なみにかなりおかしい。

あ~
もう嫌になってきた。

これが私の大きな欠点の1つである。

嫌だなと思ったらもう面倒臭くなってきてやめたくなる。

ウンザリしかけながらふと大ちゃんのトプ画に目をやると、私の大好きなアニメのキャラがかっこよくポーズを決めていた。

おっ?!
興味が沸き、もっとよく見ようとして拡大しようとした途端、
あ…
途中なのに送ってしまった…

LINEあるある。

慌てて削除しようとしたが、即座に既読がつく。

そして既読が付くや否や、

「おつ~!5月頃なら大丈夫だと思う!」

凄まじい早さで返事が来た。

No.194 20/03/24 12:39
自由人 

あ………

早いなおいっ!!

さっきまでの初々しい?ドキドキは一気に吹き飛び、携帯に向かってツッコミを入れる。

はっ!
あっ!!
あああっ!!!

そういえば大ちゃんは昔からこうだった!!!!

唐突に思い出す。

パターンとしては、

①誘う→②OK!の返事がすぐ来る。→③暇があるんだとコチラは思う→④なのに当日2時間程でバタバタ解散→⑤実はとっても忙しいと知る→⑥なら言ってくれれば誘わなかった「と言う」→⑦怒らせる

ざっとまあこんな流れだったのを
年数が経ち少し賢くなった私は⑥の「 」部分を改善し口には出さない様にしたのだが、

⑥なら言ってくれれば誘わなかった「と思う」→⑦怒らせる

うん。
全く意味が無かった。
どうやらエスパーなみの能力で心を読まれていた様だ…

そうだ。
「忙しいのに誘って悪かった無理に来させてしまった。」と気を使ったんだけどそれが逆に怒らせどうしていいのかわからなくなったりしたんだ。

でもあんなに揉めたはずなのに忘れかけていた…

う~ん。どうしよう。
でも他のメンバーは私と違って「大ちゃん寄り」タイプばかりだから私の分も上手く対処してくれるかな?

一応、念の為にユッキーに確認しておくか…

ユッキーにはちょうど亜美ちゃんとの女子会の連絡をする予定がある。

私は質問の内容を少し考え、女子会の詳しいお知らせと共にユッキーにLINEを送った。

No.195 20/04/06 12:53
自由人 

「大ちゃん変わらないね。」

ユッキーが了解!のスタンプと共にそう返してきた。

「大ちゃん変わってない?」

フォローよろしくねと頼むつもりが、まるで違う質問を私はユッキーに送った。

「会社での立場とか年齢のこととかそういう面では変わって見えると思うけど、本質っていうか根っこの部分は変わらないと思うよ。」

大ちゃんのまま?

「ユッキー、大ちゃん誘ってよかったのかな?まだ昔の様に誘いを喜んでくれてるのかな?」

「じゃあもし逆に美優ちゃんが誘われたとしたらどう?」

「嬉しい…」

「でしょ?大ちゃんは美優ちゃんの何倍も嬉しいと思うよ?」

「何倍は言い過ぎでしょ。」

「そう?でも大ちゃんは昔からずっとそうでしょ。」

「そっか。ありがとう。
ところで話は変わるけど…」

ユッキーにそう言われて嬉しかったのに、気恥ずかしくなった私は早々に話を変えてしまい、
その後は亜美ちゃんとの女子会の話をしてLINEは終わった。

さてと…
次は亜美ちゃんにLINEをする。
数時間後に亜美ちゃんから返事があり女子会OKの返事と共に、

「美優ちゃん、神谷さんのことは雲の上の存在みたいな人だから…って意味のつもりだったの、ごめんね。」

と謝りの言葉が添えられていた。

「え?何も怒ったりしてないよ?」

驚いてそう返した私に、

「怒ってるというより、美優ちゃんが悲しそうな顔になったから、そんなつもりじゃなかっただけに。言い方悪かったよ。ごめんね。」

素直な亜美ちゃんが更に謝る。

「謝らなくていいって。神谷さんが万人受けしないのは彼のキャラみたいなものだし。」

おどけたスタンプと共にそう返した私に、

「そっか。でも神谷さんはきっと美優ちゃんは自分のことを受け入れてくれてて、ずっと自分の味方でいてくれるって思ってると思う。そんな気がする。」

とニッコリ笑顔のスタンプと共に亜美ちゃんがそう返してきた。



5月に大ちゃんに会える。
そう思っていたけれど、
コロナの騒動が大きくなり、幹事の私は早々に飲み会中止を決めた。

またすれ違っちゃったね…

今度はいつ会えるのだろう。

でももしまた会えた時にはあの頃の様にみんなで楽しく過ごしたいな。

離れていても私はずっとずっとあなたの味方でいます。

だからどうぞ無理をしないで体に気をつけて。

大ちゃん。
またね。

No.196 20/06/11 21:23
自由人 

棚卸し

小売や製造、その他、多くの人が経験している重要な仕事の1つ。

その実施頻度は様々だが、私の勤めていた会社では2ヶ月に1回、そのうちの年に2回の半期決算と決算時にはかなり神経を尖らせピリピリとしたムードの中行うなのが常であった。



「……と、いうことで半期決算の今月の棚卸しは各自気を引き締めてカウントミスのないように。」

朝礼で大ちゃんがピリリとした口調でそう告げる。

「今からカウント場所の各担当を指示するから、名前を呼ばれたら田村さんの所に行って端末などを受けとり直ぐに作業を開始するように。」

そうやって大ちゃんに名指しされカウント場所を告げられたスタッフが次々と私の元に来る。

「雑貨部門は加瀬くんと牧田くんの2人?じゃあ1番通路と2番通路をそれぞれやっていって途中で合流…」

「沖さんは医薬品ですね。いつもの通りでよろしくお願いします…」

業務用端末を渡し店内見取り図を指し示しながら簡単な指示を出していく。

店内見取り図には事細かに棚ごとの番号が書き込まれ、各自カウントが済んだ棚番号にサインをしていく。

棚卸しが終わると店内見取り図はカウント者全員のサインで埋め尽くされ
皆で頑張った!というちょっとした達成感が味わえた。

「予定としては3時にカウント終了。
そこから4時からのバイトが来るまでに精算を終わらせる。」

大ちゃんの絶対的とも言うべき言葉に再びピリッとした緊張が走り、全員がそそくさと自分の持ち場に散っていった。

No.197 20/06/12 12:57
自由人 

「うちはロスが少なくて優秀だから今日中には棚卸しが完了するかもしれないな。」

大ちゃんがニヤリと笑ってさり気なく私にプレッシャーをかける。

「そ、そうですね、うちは逆ロスもほとんどありませんし…」

しどろもどろになりながらも何とか言葉を探して答える。

ロスとは、仕入れた商品(理論在庫)
と実際にある商品の数が合っているか調べた時に、実際の在庫が少ない場合のマイナスロス、逆に多い場合の逆ロスの2種類がある。

マイナスロスは万引きやその他諸々の理由で何となくわかるが、なぜプラスになる逆ロスと言うものが存在するのか?

答えは単純にカウントミス、仕入れ伝票の未処理等が主である。

厳密に言うと、メーカーさんが「オマケ」にとしてくれた商品等、プラスアルファの商品がある場合などもあるが、これはその都度伝票処理をするしさほど影響があるでもなく、細かく言うとキリがないので細かな事情は省かせて頂く。

販売業というものは悲しいかな万引きというものなどがつきもので、それを見越してある程度の「許容範囲」の金額設定が各店舗の売上や理論在庫に応じて設定されている。

対して逆ロスの「許容範囲」もあるにはあるが、逆ロスの原因のほとんどが先述の理由であり、要は「その店舗の社員がしっかり仕事をこなせていない」と見なされやすいため、逆ロスをいかに出さないようにするかは大切な課題の1つでもあった。

No.198 20/06/18 12:37
自由人 

「休憩行ってきます!」

12時からの休憩組がぞろぞろ揃って私に端末を渡しに来る。

「は~い!ごゆっくり。」

端末を受け取った私は端末に入っている棚卸しデータをパソコンに取り込んだ。

端末を使った棚卸し作業は単純なもので、商品のバーコードをスキャンし数量を入力する。

ただひたすらその地味な作業を繰り返し、 休憩などで一旦作業を中止する時などに端末を社員に渡して社員がそのデータをパソコンに取り込み集計…

「田村さん!それは俺がやっておくから。それよりも化粧品のカウントがほとんど手付かずだから頼む!」


大ちゃんの少し慌てた声で私の作業はいきなり中断された。

「あ、はい!わかりました!」

慌てて店内に入り化粧品コーナーに向かうと、化粧品担当のパートさんがお客様の対応に追われ忙しそうにしている。

あ~…
化粧品キャンペーンだからな~…
私はそっと彼女に目配せすると化粧品カウンターの上に置きっぱなしになっていた端末を手に取った。

決算月には化粧品の売り上げなどアップさせるためにポイント倍や景品プレゼント等、普段よりもお得な販促大作戦を展開する。

今でこそポイント〇倍デーなんてさして珍しくも何ともないが、当時は一気にお客様が押し寄せて下さったものである。

化粧品メーカーの景品もなかなか良さげな物を提供してくれていて、それを楽しみにまとめ買いをして下さるお客様も少なくなかった。

思い起こせば良い時代であった。

さて、長時間放置されていて電源が自動オフした端末の電源を再び入れると、棚卸し件数100件
と表示された。

うっ
まだ100…
化粧品アイテムは確か1500くらいあるんだよな……

ちらりと時計を見る。

12時過ぎか…
15時まで3時間弱…
接客がどれくらい入るからわからないけど休憩を後回しにすれば何とかギリギリには…

よしっとにかくやるか。

私は自分自身に気合いを入れると、
今までにないくらいの集中力とスピードで棚卸しを開始した。

No.199 20/06/19 12:44
自由人 

14:00

棚卸しカウント終了予定の1時間前。

「こちらの棚終わりました。」

「こちらももう少しで終わります。」

他の担当部所が早めに終わったスタッフ達が途中から手伝ってくれたおかげで1時間も早く終わらせることができた。

はあ疲れたはあ疲れた。

心の中で疲れたを繰り返しながら
自分の端末の件数を見ると、
棚卸し件数1010となっている。

1000件超えてるよ…

元々入っていた100件を差し引いても2時間で910件カウントしたことになる。

これはすごい我ながらすごい。

心の中で自画自賛を繰り返しながら

「じゃあデータを流して来るね。」
と手伝ってくれたスタッフ達に声をかけ端末を受け取ろうとした。

コーーーーーーン

あ…

「あ~~~っ!!!」

端末を受け取ろうとして自分の端末を落とす。

落ちた端末は床に直撃し電源が落ちた。

うっわ…

どうか電源入りますように…

祈る様な気持ちで再び電源を入れると
棚卸しモードに設定されたままの画面がすぐに表れた。

良かった~っ

ほっとして事務所に向かい端末からデータ移行しようとした時、その異変に気づいた私は一瞬目の前が暗くなり、続いて頭の中は真っ白になった。

「どうした?早くデータを流せ。」
タイミング悪く事務所に入ってきた大ちゃんの声が真っ白な頭の中に響く。

「あの…」

「ん?なに?」

「あの…店長…すみま…せん…」

おずおずと差し出した端末を大ちゃんは私の手から半ばひったくるようにして取る。

「棚卸し件数0」

端末の画面には「0」という数字が無情にもしっかりと表示されていた。


No.200 20/06/29 13:03
自由人 

「………」

「あの…店長…」

「なんで何も入ってないデータを流そうとした?」

「あの…すみま…」

この時点で既に察しの良い大ちゃんは気づいていたのであろう。

顔つきがみるみる変わり、凄まじい表情で手にした端末と私の顔を交互に睨んだ。

くっきりとした切れ長の二重、彫りの深い顔立ち、意志の強そうな口元。

優しく笑うと「イケメン」と言われる部類なのであろうが、この顔が怒りに打ち震えると瞬殺されそうな「逝けメン」顔になる。

「何をした?」

逝けメンが地獄の底から響くような声を出して威嚇を開始した。

「あの…端末を…床に…」

「は?誰が?」

「私…です…それで…データが飛んだと…すみま…せん…」

「田村さんの役職は何だったっけ?」

「副店長…です…」

「副店長ならこの端末がかなり高価で繊細だって知ってるよな?
それに今日は夜のバイトの人数も少ないから3時までに全部終わらせる予定は知ってるよな?
他のスタッフ達が頑張って終わらせようとしてくれてるのに副店長が足引っ張ってどうするつもりなんだ?」

「すみません…あの…私のお手伝いをしてくれたバイトちゃん達が2人いるんで…3人なら何とか3時までにやり直せると…だから…」

「その子らは今から休憩だろ?!
自分の都合でスタッフの休憩の邪魔をするのか!!それでも社員か?!
飛ばしたデータは何件だ?!」

「……1000件です…」

私の言葉に大ちゃんは少し目を向くと時計を見た。

「もう1時間もないか…」

大ちゃんは素早く店内見取り図に目を落とすと、

「ちっ、他のスタッフはまだ終了してないな…」

と呟き、

「俺の代わりに棚卸しデータ集計と店を回しとけ。」

と一言吐き捨てる様に言うと、端末を握りしめ店内に入って行った。

No.216 20/07/26 00:01
自由人 

心が折れるキッカケは意外と簡単なものなんだ…

勿論ここに記していない事も多々ある。

きっとそれらも含めて私の中で消化しきれないものが長年に渡って溜まっていき、
たまたま竹井さんの言葉が引き金になったのであろう。

何も考えず数日休めば元に戻る。

だが、楽観的に考えていた私の考えとは裏腹に、元に戻るどころか私の症状は更に酷くなり、心配してくれた人からの電話に出ることも買い物に行くことさえも怖くなった。

心配してくれた人には事情を説明しなくてはいけない。
買い物に行って〇〇店のお客さんに出会ってしまったら休んでいる理由を聞かれるかもしれない。


人に何かを話すということは、一旦頭の中で話す事柄を思い浮かべそして言葉にする。

その「頭に事柄を思い浮かべる」という作業が怖かった。

〇〇店のお客さんは子育て世代の主婦層やご年配の方が多かったのでかち合わない深夜の時間帯を選んで深夜営業をしているスーパーで買い物をした。


そして有給休暇が半分程過ぎた頃、店長から連絡があり私の容態と今後の勤務時間帯をどうするか聞かれたが、仕事に行くと思うだけで動悸がして苦しい旨を伝えると、残りの有給休暇を分割利用して夜のみ数時間の短時間から慣らしていってはどうか?と提案してくれた。

その時の私は正直かなりそれも厳しいと思われたが、そんな状態で他の店に転勤などは到底不可能な上にせっかくのご厚意を無下にするのも申し訳なく、何とか頑張ってみようと店長の提案を受けることにして
沖さんや竹井さんのいない夜の数時間からの勤務を開始した。

No.217 20/07/26 16:37
自由人 

最初は夜の3時間程度から。

〇〇店の客層は先述した通り子育て世代の主婦層や年配の方が主だったため、午前中と夕方が忙しく閉店前は比較的ヒマだった。

仕事の内容もガンガン接客する昼間に対して夜は昼間に売れた商品の品出し補充がメインで体力はいるがあまり人に気を使わず黙々とやれる利点がある。

それでもまだ私にはその仕事は辛く、

「化粧品コーナーにいて下さいね。」
と、店長はわざと楽な仕事を与えてくれた。

〇〇店は夜の化粧品コーナーには全くと言っていいほどお客さんが来ない。

売り場の掃除をしたりPOPを書いたり
1人で黙々と作業をする。

それでも暫く経つと、立っているだけで動悸がしてきて座り込みたくなる。

辛い….

もしこのままずっと調子が戻らなかったら…

そう考えるとますます辛くなり息があがってくる。

ハッハッ…

ちょっと…
きついな…

「田村さん、僕はそろそろ上がりますけど、体調は大丈夫ですか?」

外に出て少し深呼吸しようと歩きかけた私は店長に呼び止められた。
店長の隣には遅番の三木君が少し心配そうな顔をして立っている。

「あ、はい、お陰様で!ありがとうございます。」

咄嗟についた私の嘘に、

「そうですか。ではしばらくはこのパターンで様子見しましょう。
ではお先に失礼します。」

店長は安心したように笑顔を見せるとそのまま帰って行き、後には私と三木君が残された。

「顔色…少し悪いですよ?無理してるんじゃないですか?」

「ううん、そんなこと…」

ドクンッ

また動悸が来る。

「田村さん?!」

「あ、大丈夫…大丈夫…少し息を整えれば…」

「座って下さい。」

三木君は化粧品カウンターの接客用の椅子をカウンター内に入れると私を座らせ、そっと背中に手を当ててくれた。

あ…

少しずつだが動悸と不安感が治まってくる。

「大丈夫ですか?」

「うん…ありがとう。少し楽になってきた。」

「そうですか、良かった。
事務所にいますから何かありましたらすぐに声をかけて下さい。」

と三木君は優しく微笑む。

事務所に戻っていく三木君の後ろ姿を見送りながら、三木君が手を当ててくれた時の心地良い暖かさを私はじんわりと感じていた。

No.219 20/07/31 10:27
自由人 

翌日、私は仕事だったが三木君は休みとの事で店の近くまで車で迎えに来てくれた。

そこから車で15分ほど走った川沿いに予約をしたレストランがある。
レストランといってもカジュアルなイタリアンレストランで、1人頭せいぜい2000~3000円といったところ、そこらの居酒屋に行くのと変わらないが、
料理はボリュームがあり美味しいと評判で、前日にたまたま予約を取れたのが奇跡な程の人気店であった。

「美味しいですね!さすが大人の女性は良いお店を知ってますね!」

「私も知り合いに連れて来てもらったくちなんだよ。」

三木君の絶賛に気恥ずかしくなりやんわり否定する。

大人の女性か…

こんな若い子にはかなり歳上の女はどう見えているのだろう。
何でもできて何でも知ってて人間的にも円熟している完璧なイメージを持つのだろうか?

無駄に歳ばかりとって中身があまり変わっていない自分が今更ながら恥ずかしい。

「田村さん?1つ聞いていいですか?」

「えっ?!は、はい、どうぞ!」

ぼーっと考えていた私の頭にいきなり三木君の声が響いてくる。

「田村さんの名前ってなんて読むんですか?ミユウ?ミユ?」

「え?……ミユ…だよ?」

「そうですか。加瀬さんが呼ぶとミュー姉さんって聞こえるから。」

「ああ、加瀬君は元々私をミュー姉さんと呼ぶんだ…」

あれ?!

このやり取り…
かなり前にも…

不意にあの時の光景が蘇る。

大ちゃんと2人で駅前のロータリーのベンチで話した月の夜。

三木君と同じ質問をされて、ミューって聞こえるって言われて、
そして、
私のあだ名をつけられたんだ。

ミューズ
ミューズ

懐かしい…

大ちゃん
元気にしてるかな?

せめて声だけでも聞きたいと思う気持ちもあったが、こんな状態の私を見せたくなかった。

だから牧田君に固く口止めをした。

それでもやっぱり…

「田村さん?」

三木君の声にハッとする。

「あ、ああ、ごめんね。飲み物もう無いね、何か また頼もう。」

「じゃあ僕はジンジャーエールで、田村さんは運転をしないのだから遠慮せずにお酒を呑んで下さい。
お酒お好きでしょ?」

三木君はイタズラっぽく笑うと私にはアルコールドリンクのリストを開いて渡してくれた。

No.220 20/08/01 17:24
自由人 

お酒が少し入ると気持ちも少しリラックスする。

三木君の促しもあり、私は今までにあったこと、不安な気持ちを一気に吐き出そうとしたが、話し出して幾らも経たないうちに、

「そろそろラストオーダーになりますが…」

長身で物腰の柔らかいウェイターさんのやんわりと静かな声かけで、

「えっ?!もう?!早いですね。」

「予約は2時間の時間制限だから…
せっかくなのに…ごめんね…」

モタモタしてさっさと聞いて欲しい話をしていない事に気まずくなる。

おかしな話だが愚痴をあまり聞いてもらえなかった事に妙な申し訳なさがあった。

「まだ話し足りないんじゃないですか?良かったら場所を移動して続きをゆっくり聞きますよ?」

そんな私の気持ちを察したかの様に三木君が提案してくれたが、さて何処に行こう?とりあえず車に乗って走りながら考えるかということになり、食事を済ませて車に乗り込んだ。

「田村さんすみません。ご馳走になっちゃって。」

「いえいえ、こちらこそわざわざ車まで出してもらっちゃって。」

「車の運転は好きだから大丈夫ですよ。よくドライブとかも行きますし。
そうだ、このまま少しドライブでもしましょうか?」

「うん、三木君が良ければ喜んで。」

車は走り続け、私はポツポツと自分の漠然とした不安な気持ちを話し出した。

三木君は私の言うことを否定も肯定もしない。
ただウンウンと相槌を打って聞いてくれるだけだ。

でもそんな三木君に話を聞いてもらううちに少し気持ちが楽になるような気がしてきた。

車が赤信号で停車した時に右横に右折の車が停まった。

窓を全開にしたその車からは何か音楽が聴こえてくる。

「あれ?これ…」

思わず声に出した私に、

「んっ?ミスチルですね。僕、ミスチル大好きなんですよ。」

ちょうど信号が青に変わり、車を発進させながら三木君が嬉しそうな声を出す。

「えっ?!三木君みたいな若い人でもミスチルを好きなの?」

「年齢なんて関係ないですよ。大学生の頃はカラオケでよくミスチル歌ってました。」

「へええ聴いてみたいな。」

「良いですよ。良かったら今からカラオケ行きます?」

「うん行こう行こう。」

何となくノリでカラオケ行きが決まり、かなりの年齢差のある凸凹コンビで若干不安はあったが、そんな予想に反してカラオケはとても盛り上がった。

No.221 20/08/01 23:20
自由人 

三木君の歌はプロ並みに上手かった。

「え~?!すごいね!」

驚く私に、

「ミスチルのキーがたまたま合ってるだけですよ。」

と三木君は謙遜したように言う。

「田村さんもミスチル好きなんですか?特に好きな曲ってあります?」

「好きな曲…」

三木君の何気ない質問に少し躊躇う。

「あ、ごめんなさい。特に無ければ別に…」

私を困らせたと勘違いし謝る三木君に、

「いやっ、ごめんごめんあるよ。えと、すごく古い曲なんだけど…抱きしめたいって初期の方の曲なんだ。」

と慌てて曲名を告げると、

「抱きしめたい…う~ん、うろ覚えだけど…歌ってみようかな。」

三木君はポンポンと選曲し、曲が始まるとうろ覚えとは到底思えない程の歌唱力で歌い出した。

うわ上手い…

三木君の圧倒的歌唱力に驚きつつも、聴きながらいつしか大ちゃんとの日々を思い出した。

本当に懐かしい曲だな…

「田村さん?大丈夫ですか?」

ふと顔を上げると三木君が途中で歌うのを止めて心配そうに私を見ている。

「え?ごめんごめん大丈夫そうに見えなかった?」

笑って誤魔化すも、

「田村さん、無理してませんか?
あの…僕にできることあったら言ってください。」

三木君は変わらず心配そうな目を私に向ける。

本当に優しい子なんだ…

三木君の優しさに不意に涙が出そうになる。

「田村さん、僕やバイトの子達は田村さんの味方ですから、田村さんは1人じゃないですから。」

三木君の更に優しい言葉に私はもう我慢が出来なくなった。

「三木君…じゃあ私のお願い聞いてくれる?」

「無理だったらごめんなさいしますけど…何ですか?」

笑いながらそう返してくる三木君。

そうだよね…
引かれちゃうかな…
でも…

「あのね…ギュッって…ギュッって…大丈夫だよって大丈夫だよって言って…抱きしめて…欲しい…」

私の言葉に三木君の顔から笑みが消えた。

三木君の手がそっと私の肩にかかる。

「いいですよ。」

三木君はそう言うと私を静かに抱きしめた。

フワッ

優しいシャボンの香りがし、
途端に身体の隅々まで言いようもない安堵感に包まれる。

「大丈夫、大丈夫、」

三木君がまるで子供をあやす様に私の背中をトントンとしてくれるのが更に安堵感を深めているようだった。

No.222 20/08/03 12:43
自由人 

「落ち着いた?」

私を抱きしめたままの優しい声に、

「うん…また…辛くなったらこうしてくれる?」

とつい甘えてしまったが、

「いいよ。」

と三木君は更に優しい声でそう言いながら頭を撫でてくれた。

その日をキッカケに私は気持ちが不安定になると三木君にハグをしてもらう様になる。

歳の離れた姉弟というのでさえあまりにも歳の差がありすぎの若い子に甘えるのは申し訳ないと思いつつも、三木君にハグをしてもらうと不思議に気持ちが落ち着いた。

ハグだけではなく、話も色々聞いてくれた三木君に何故そこまで親切にしてくれるのかと尋ねた事がある。

「昨日のことも直ぐに忘れる様な美優さんのことだからどうせ覚えてないだろうけど…」

おいこら、
3歩歩いて忘れる鳥頭みたいに言うな!
とツッコミを入れまくりたくなるような失礼極まりない言葉を最初に、三木君は私と出会った時のことを話し出した。

「何年か前に加瀬さんのいた店に応援に来てくれたこと覚えてる?」

勿論覚えている。

牧田君と同様、社員になった加瀬君が副店長として赴任した新店にオープン前からも含めて1ヶ月ほど応援に行ったことがある。

普通、自店のシフトの都合もあり長期応援に行くことは滅多にないのだが、
オープニングスタッフが自己都合で何名か辞めてしまった上に化粧品販売ができる人材を確保出来なかったということで、社員の数が多い〇〇店の私に応援依頼が来た。

応援と言っても勿論自店での仕事もあるため、半々くらいの割合で両店をかけ持ちする。

これがなかなかに大変なのだが、
応援が好きな私としては結構充実した1ヶ月であった。

No.223 20/08/06 12:59
自由人 

K化粧品のロングセラー商品で、
知る人ぞ知る某フェースパウダーがある。

フェースパウダーとは昔風に言うと、おしろいってことなのだが、
それはちょっと特別感のあるフェースパウダーで、夏から秋くらいにかけて予約を取り、K化粧品はその予約の数を受注生産してクリスマスの頃に予約客のみに限定販売をする。

これが夏は汗をかいても崩れにくく、冬は乾燥しにくいという両極端の性能を併せ持つ高機能なおしろい様なのであり、お値段も当然それなりで、
「諭吉様と涙のお別れ覚悟」価格なのである。

で、前フリが長くなったが、このセレブなおしろい様の予約を取れば取るほど当然売上に繋がるわけで…



「ミューさん、何個でもいいです!
予約を取って下さい!流石に0個はやばいです!」

応援先の店舗で、副店長の加瀬君が大きな体を折り曲げる様にして私に両手を合わせて頼み込んでくる。

「う~ん…だよね~…」

私も顔をしかめて考えこんだ。

会社の方針として年末の売上アップのため各店舗にこれの予約目標値を設定しており、新店はかなり低い設定になってはいたがそれでも0個は流石にまずい。

長く勤務している〇〇店で、高額商品を販売することは応援先よりも当然たやすかった。

理由は至極簡単で、私についてくれているお客様達がいらっしゃるからだ。

勿論、単に高額商品を売りつけてばかりではお客様は逃げる。
お客様も馬鹿ではない。
自分がその金額を出してでもそれに見合う満足度が商品や接客にあるか、
きちんと判断されて次回の来店に繋がり私への指名に繋がる。

当然こちらにしてみると、その「期待」を裏切らないように商品知識を頭に徹底的に叩き込み、自分も実際に購入して使用し、お客様にどの様にご紹介するか考える。

そうやってコツコツと地道に積み重ねてきた実績があるからこそ、お客様はこちらを信用してご紹介する商品を購入して下さる。

逆に言えば、新店にはその歴史がない。
まっさらスタートなのである。
売り逃げは簡単であるけれど、次回からもずっと来て頂かなくてはいけない。
これから「固定客」作りをしていかなければいけない+高額商品の予約をして頂く様な接客をする…

さてどうしたものかな。

しかし、何でも基本が大事であるな。
よしっ!やるか!
私はとりあえず基本に忠実に先ずはやってみることに決め自分に気合いを入れた。

No.224 20/08/27 13:13
自由人 

私の応援期間は1ヶ月だ。

1ヶ月、と言っても休みや自店への出勤もあるため、30日丸々あるわけではない。

シフトをチェックしてみると
公休8日、自店8日となっている。

うむむ応援は2週間か…

先述したが応援先の店舗は化粧品販売ができる人材をまだ確保できていない。
ということは私がなるべく頑張っておかないと…

勉強でもそうだが何でも頑張ろうと思ったら、とにかく基本、基礎をしっかりやる。

私が大ちゃんの下で働いていた時にガッツリ叩き込まれた教えだ。

その教えを忠実に守り、
パートさんやバイトの子達の協力を得て、目標値の倍以上の予約を取ることができた。

本来は忙しくてなかなかスタッフの長所を上手く見極め使いこなす余裕などないのが常であるが、応援スタッフという点が幸いし応援先の事務作業などを一切やらずに済んだ分、パート、バイト一人一人の長所を見極め、個々に合った作業を振り分けてお願いすることができた。

POP作成スタッフ、売り場作りのアシスタントスタッフ、見やすくわかりやすい手作りチラシ作成スタッフ、化粧品接客時に一言ご紹介してその手作りチラシをお渡しするスタッフ、
通常の業務にプラスONの作業になったが、みんな嫌な顔1つせずむしろ喜んで引き受けてくれてとても助かった。

適材適所、

それぞれ得意な仕事をやってもらうと時として期待以上の成果が得られるものだ。
「人」は財産なり。
あの応援先のスタッフさん達には本当にお世話になった…


「加瀬さんの店に応援に来てくれた時に僕もその店にいた事を覚えてる?」

その当時の事を思い出し、
懐かしさに浸っていた私に三木君が更に重ねて聞いてきた。
その顔は「どうせ忘れてるでしょ?」
とでも言いたげであったが、悲しいかな見透かされている通りどうしても三木君の事を思い出せない。

「ええっ?!そうだったっけ?!え~と、え~と?あれ?なんで思い出せないんだろう?!」

焦る私に、

「POP作成リーダーの海(うみ)君と言えば思い出してもらえるかな?」

と三木君は少し懐かしそうな目を私に向けて微笑んだ。


No.225 20/09/11 12:11
自由人 

「え?!ウミ君?!あのウミ君なの?!」

驚く私に、

「そうですよ。かなり変わったでしょ?」

三木君が少し照れ臭そうに返してくる。

三木君はPOP作成のウミ君だったのか…
変われば変わるものだね全然わからなかったよ…




加瀬君が副店長として配属されている店舗に1ヶ月ほど応援に行った私は、そこのパートさんやバイトの子達に色々と仕事を助けてもらったが、
特にバイトの子達はずっと年上の私に懐いてくれてとても可愛く、それぞれ関わる時間は少なかったものの私は彼らと仕事をしている時間が楽しくて仕方がなかった。


「ねえ、物作りが得意な子って誰かな?」

「それなら中田さんじゃないですかね。かなり器用だしセンスも良いかなと。」

私の問いかけに、バイトリーダー格の堀江君が即答する。

「じゃあ彼女に売り場作成を手伝ってもらうか…」

個々の得意分野を見極め仕事を割り振るのにこの堀江君の意見はかなり参考になった。

こうして堀江君の意見も聞きながらバイト一人一人に仕事を当てはめていくうちに1番仕事量の多いPOP作成のメンバーが足りないことに気がつき、

「POPをお願いしている2人の子達ってもっとシフト入れないの?」

と堀江君に聞いてみるも、

「無理じゃないですかね、2人とも理系だから授業の他にも実習が…」

そう言われてしまい私は唸りながらも諦めざるを得なかった。

当時、加瀬君の店のバイトの子達は全員大学生や専門学校生等の学生軍団であり、学部にもよるのだがまだ比較的余裕のあった文系チームに比べ、看護学部や薬学部等の理系チームはみっちり詰まった授業&実習などで忙殺されていたのだ。

現にこうして話している堀江君自身も
臨床検査技師を目指し学業と両立させて頑張ってくれていたが、最近入れる時間が少なくなってきている。

う~んどうしよう…

私がやっても良いんだけど、
壊滅的に絵が下手で美的センス0なんだよなあ…

「文系の子でシフトいっぱい入れてる子いない? 」

藁にもすがる思いで聞いた私に、

「う~ん、少し前に入ったバイトで僕らがウミ君って呼んでる奴が確か文系…その子に頼んでみましょうか?」

「うんお願い!打診してみて?」

喜んだ私の言葉に中田君は早速ウミ君に電話をかけて話をつけてくれ、ウミ君のPOP作成メンバー入りが決定した。








No.226 20/09/14 20:26
自由人 

【ウミ君へ
ポスター大のPOP2枚至急、それと店内POPを指示メモ通りに…】

「よしっ、じゃあ堀江君悪いけどお願いね。お疲れ様でした。」

私は堀江君にウミ君への指示を書いたメモを渡して店を出た。

応援者である私は朝から夕方までの時間帯に入る。
なので、夜の数時間程度しか入らないバイトの子達とはほとんど顔を合わせる事すらなく、加瀬君や堀江君などを通じて仕事をお願いしていた。

他とバイトを掛け持ちしているらしいウミ君も日数こそ多いものの夜の3時間程度のシフトが多くまだ顔すら見たことがない。でもウミ君はかなり要領の良い子で頼んだ仕事は必ず当日中に仕上げてくれる。
しかも頭も良いらしく、
いつの間にかPOP作成メンバーのリーダーになっていた。




「ミューさん、明日の応援の時間を遅番にしてもらえないかな?」

そんなある日、焦った様な加瀬君から電話があった。

「遅番?いいよ。」

快諾した私の返事に、

「良かった~明日の夜のバイトの子が3人中2人も体調不良で入れなくなって、残った1人の堀江には品出しを頼みたかったし…」

加瀬君はほっとしたような嬉しそうな声を出し、

「それなら私はずっとレジでいいよ。」

との私の申し出に、

「助かります。ラストまでぶっ通しでレジはきついだろうからウミに1~2時間だけでも入ってもらえないか?と連絡してるから。」

と更に弾んだ声を出した。




「おはようございます。
加瀬さんに言われたので…レジを代わります。」

翌日、初めて顔を合わせて初めてかけられた言葉。

レジの両替チェックをしていた私はその言葉に振り向くと、
はにかんだ笑顔を浮かべたぽっちゃりめの男の子が立っていた。

「え?あ!ウミ君?」

「え?!あ、はい、あの…レジを…」

「あ、ああ、あ!ちょっとこのままレジを見てて!」

私は初対面でいきなりウミ君と呼ばれ戸惑っている彼をレジに残し、加瀬君の元に急ぐと、ウミ君にはPOPの仕事をしてもらうという許可をもらった。

「ウミ君!お願いがあるんだけど、私がこのままラストまでレジにいるからウミ君はPOPを仕上げてくれない?」

急いで戻ってそう告げた私に、

「え?でも…僕なんかのPOPって田村さんにレジを代わってもらって仕上げるほどそんなに大したものでもないですし…」

とウミ君は自信なさげに呟いた。


No.227 20/09/21 22:48
自由人 

「なに言ってるの?ウミ君のPOPの才能に甘えてお願いばかりしているこちらこそ申しわけないんだけど…
迷惑…だった?」

「いえいえそんな!本当に僕のPOPなんかで良かったんですか?お役に立ってますか?」

「うん!ウミ君がいてくれて本当に助かってるありがとうねウミ君!」

「は、はい…あの…ありがとうございます…」

私の感謝の言葉にウミ君は少し顔を赤らめながら小さく頭を下げるとサービスカウンターの方に小走りで向かって行った。
そこでPOP作成の作業をするのだ。

150坪程の小型店の〇〇店とは違い、加瀬君のいる店は300坪は余裕で超えている大型店舗、大きなサービスカウンターでは色々な作業ができる。
〇〇店くらいの規模の広さ方が作業も商品管理も楽で良かったのだが、こういう設備面では大型店舗が羨ましい。



「そろそろ閉店作業するんでミューさんもレジ検してもらっていっていい?」

それから数時間後に加瀬君にそう声をかけられた私は自分の使っていたレジからドロアーを抜いて事務所に向かった。

事務所に向かう途中でサービスカウンターの中をさり気なく覗き見する。
カウンター内のテーブル上にきちんと揃えて置かれているPOP数枚。

頑張って全部仕上げてくれたんだ…

私がレジ検をする間の応援のレジを開けてくれているウミ君をチラリと見ると、ウミ君は直ぐに視線に気づき照れくさそうな笑顔を見せてくれた。
ふっくらした丸顔にはにかんだ愛らしい笑顔がとても可愛らしい。

可愛い子だな…

その笑顔に私は弟というより、親子に近い年齢差のウミ君に母性本能の様な暖かい感情を覚えた。


結局ウミ君と直接関わったのはその日くらいで後は伝言メモのやり取りくらいだったが、器用なウミ君はPOPの仕事が終わってからも私のいない間に売り場の作成なども上手に仕上げてくれ、私は本当にただただ彼に対して感謝しかなかった。

No.228 20/09/23 13:08
自由人 

「その時の恩返しですよ。」

三木君が少し照れくさそうな笑顔を見せた後、それを誤魔化すかの様に私の頭を軽くこついた。

「え?仕事を助けてもらってばかりで恩返ししなきゃいけないのはむしろ私の方じゃない?!本当に助かったし今でも感謝してるよ。」

「感謝か…今でも?本当に喜んでくれてます?」

「当たり前じゃない!!あの高額のフェースパウダーの予約があれだけ沢山取れたのは三木君を始めとするみんなのおかげだよ?」

「その感謝の言葉が人によっては救いになることもあるんですよ。
誰かに認めてもらえて誰かに喜んでもらう。自分も役に立つんだって自分の様な人間も必要としてくれる人がいるんだって、そんなことで存在意義を見いだせるっていうかね…」

よくわからない…

三木君が通っていた大学はそこそこ名が知れていて、勉強ができたんだろうなと想像ができる。
おうちも地元のそこそこ裕福な家庭で育ちの良さがちょっとした所作でわかる。
手先も器用で人付き合いにもソツがない。
笑うと少しエクボのできる笑顔が本当に可愛くてお客さんやバイトの女の子達の中で何人か三木君ファンもいるほどだ。

傍から見る分には順風満帆な人生に見える。
そんな人がPOPの仕事を喜ばれたからと存在意義云々を持ち出すなんて…

「僕の言ってることの意味わかんないでしょ?」

黙り込んだ私に三木君がいきなり図星攻撃を仕掛けてくる。

「えっ?!あ、ああ、えと、そ、そういえば、三木君、随分と痩せたよね?
だからあの時のウミ君だとはわからなかったんだよ。」

「ダイエット頑張ったからね、
何か今までの自分じゃいけない気がして。」

「そ、そうなんだ。何かダイエット前は愛くるしいって感じだったけど、
かっこよく…なったよね?本当に誰かわからないくらい雰囲気変わったね。」

実際、三木君は以前とは見た目が驚く程に変わっており、スッキリしたスタイルに服装や髪型もかなりオシャレに決めていた。

「そうでもないよ。
それに…もし僕が全く痩せていなくて変わっていなくても、美優さんは僕のことなんてどうせわからなかったでしょうね。」

三木君は私の言い訳と誤魔化しが混ざった言葉に少し皮肉を込めた口調でそう返してきた。

No.229 20/09/23 20:56
自由人 

うっわ
この嫌味な言い方、何かどこかで…

「ん?なに?」

少し首を傾げ若干の上から目線な態度の三木君を見てその「どこかで…」の正体がハッキリした。

昔の大ちゃんだ!

「…もしかして気を悪くしました?
……ごめんなさい…」

返事をしない私の様子に三木君が調子に乗り過ぎましたすみませんといった様子で急に謝ってくる。

人の顔色をすぐに読むこういう所もそっくり…
でも三木君の方が100倍素直だけどね…

「あの…」

三木君が心配そうな声を出す。

「あ、ああ、ごめんごめん。
気なんて悪くしてないよ。ただ仲の良かった人に三木君が似てるなって思って…あ!そうだ!三木君って誕生日いつ?キャラ占いやってあげる。
性格とか結構当たるんだよ?」

慌てて取りなす様に三木君から誕生日を聞いた私はキャラ占いをやってみると、
狙った様に三木君と大ちゃんのキャラが見事に一致した。

うわ…
マジか…偶然って怖い…

「どうでした?僕は何でした?」

三木君が私の手元を覗き込んでくる。

「あ…うん…さっき言ってた仲が良かったって人とキャラが一致しててビックリしてたとこ…性格似てるのかな?…って何言ってるんだろ…もう忘れなきゃいけないのに…」

「美優さん?」

不思議そうな三木君の声を聞いた途端、私の中で何か無性にモヤモヤした気持ちが沸き起こった。

「三木君、いつも優しくしてくれてありがとうね。こんなオバサンの相手なんて何の魅力もないでしょうに…」

「美優さん?何言ってるの?」

「三木君、もう十分恩返しはしてもらったよ本当に癒されて嬉しかった。
だから…もういいんだよ。」

「美優さん?どうしたの?急におかしいよ?」

少し大きめの三木君の声にハッとした私はようやく我に返った。

「ご、ごめんなさい…」

「いや、いいけど…大丈夫?」

「あ、うん…」

うなだれた私の頭に三木君の手が優しく触れた。

優しい手…

ふっと身体の力が抜ける。

三木君はそのまま私を優しく引き寄せると何も言わず静かに抱きしめてくれた。

あったかい…

気持ちがスーッと落ち着いていく。

何であんなに取り乱したんだろう…
恥ずかしいな…

でも私は確実に大ちゃんと重ね合わせた三木君を好きになりそうな気がして急に怖くなった。

No.230 20/09/24 12:26
自由人 

親子でもおかしくない年齢差なのにそれは絶対有り得ないでしょ…

自分がもし三木君を好きになってしまったらきっと三木君はそんな私を敬遠するだろう、嫌われたくない、この温かさを失いたくない、

私はただ友達としてこうしてもらっているだけだ。

恋愛感情など全くない。

迂闊に揉めて三木君を失いたくない。

私は必死で自分にそう言い聞かせた。

それでも正直な話、男女の関係になりかけた事はある。

互いに酔っていてそのまま成り行きでキスをした。

そして流れに任せて…
になりかけたのだが、やはりどうしても私には無理だった。
断ることでもしも三木君が離れていったら…と思うと怖くて怖くていっそのことせフレでも良いか…
という考えすらよぎったが、やはり私にはそういうのは性に合わない。

だが断ってしまったことで気まずくなるかと思いきや、意外にもその後何事も無かったかのように三木君が他店に移動するまでの数年間この奇妙な関係は続いた。

しかし三木君が忙しい他店で多忙な日々を送る様になった途端、
LINEを送っても素っ気ない返事になり、そのうち返事も来なくなり…のありふれたパターンであっさり終了する。

あれだけ失うことを恐れていたはずなのに何故か不思議と寂しいとかショックな感情は無かった。
まっこんなものかとすら思っていた。
若い男の子にずっと構ってもらってハグしてもらって得したじゃん。
いい思いしてラッキー!くらいに思っておこう…
自分を納得させようとそう言い聞かせる。

それでも心のどこかで虚しさが消えない。
何かを求めれば求めるほどすくおうとした手からこぼれ落ちるように、掴もうとすればするほど伸ばした手をすり抜けていく。
私は一体何をしたいのだろうか…

本当に欲しいものは手に入らない。

いつか大ちゃんがポツンと言った言葉が浮かぶ。

私が求めているもの
本当に欲しいものは一体なんなのだろう…

No.231 20/09/25 12:53
自由人 

三木君の移動から少し遡るが、
彼が移動する10日ほど前に、後釜になる若手男性社員が入り、仕事を引き継ぐことになった。

小島大樹 22歳

若い

もう私とは完全に親子である

モデル兼俳優の成田凌君似でスリムな長身の上にとても顔が小さい。

いかにも今どき風の若者で、

「うちの店に来る若い子はイケメンが多いねえ、本社も〇〇店に女性客を多く取り込もうとする作戦かな?」

と店長がジョークを飛ばし、当の小島君を含めみんなでドッと笑ったが、
小島君の正面に立っていた私は小島君の笑顔に妙な違和感を覚えた。

なんだろう…

「小島君は登録販売者の仮免君だから田村さんと遅番で入ってもらうのでよろしくお願いしますね。」

ぼーっとしていた私の耳に店長の言葉がいきなり飛び込んでくる。

「あ、はい、わかりました。」

慌てて返事をすると、
小島君はニッコリして軽く会釈をした。

あ…
やっぱり違和感が…
なんだろう?

何となくモヤモヤしつつ小島君との新しい仕事生活が始まる。

今から10年ほど前に登録販売者制度が制定され、この資格がないと市販薬を販売することができなくなった。
しかも何度か改正され、小島君がこの資格を取得した頃は、資格取得から2年間、薬剤師か登録販売者が店舗にいないと1人では薬を販売することが出来ないと定められていた。

正に仮免状態。

店長は主に早番で入るため三木君は中番で入り、小島君は出勤時から三木君が帰る夕方まで、三木君から仕事の引き継ぎ説明などを受けた。

先輩である三木君が冗談も混じえながら笑顔で説明するのを小島君も笑顔で頷きながら聞いている。

何となく2人の様子を見ていた私は、
今まで小島君に感じていた違和感の正体に不意に気づいた。

この子、目が笑ってない…

否、全く笑っていないわけではない。

むしろ、笑ってるか?と聞かれれば笑っている。

なんだろう。
説明しづらいのだが、
彼の目の奥が笑っていないというか
妙な違和感があるのである。

同じことを感じているスタッフがいるかさり気なく周りに聞いてみたが、

「ニコニコして愛想の良い子」

という印象しか皆は持っていなかった。

私の思い違いだろうか?
勘違いだな…

そう思い直し、
それから私は小島君のことをあまり気にしなくなり、

そして
遂に三木君の〇〇店勤務最終日が来た。

No.232 20/09/26 17:14
自由人 

その日は珍しく三木君が遅番で、私と小島君は中番だった。

「今日、仕事終わったら飲みにでも行こうか?最終日だし奢るよ?」

「いや奢りじゃなくていいよ。
行きましょ行きましょ。」

三木君が快諾してくれたので、残っている納品を手伝いながら待つことにする。

「納品多そうですね?僕も残ります。」

納品を黙々とこなしていると、
気を使った小島君がそう申し出てくれたので、

「実は三木君が今日で最終日だから終わるのを待ってて飲みにでも行こうかと、小島君も良かったら行かない?」

と誘ってみたが、

「すみません。残念ですが今日はちょっと用事があるんですよ。」

と、納品だけは手伝ってはくれたもののそれが終わるや否や、

「では時間が無いのですみませんがお先に失礼します。」

とサッと帰ってしまった。

物腰は柔らかで丁寧だけど、
どこか冷たい感じがする。

三木君と話している時は特に…

またふっとそんな思いに囚われる。



「小島君とは加瀬君の店で一緒だったんだよね?」

〇〇店の最寄り駅前に新しくできた居酒屋のカウンターで、乾杯もそこそこに私は冷たい生ビールをグイッと飲み隣の三木君に話しかけた。

「僕が就活でバイトを辞める少し前に新しくバイトで入ってきたから関わったのは短期間ですけどね。」

三木君はさほど興味も無さそうにメニューを見ながら答える。

あんまり仲良くなかったのかな?

「大人しいタイプだったから自分から僕や周りのバイトの子に話しかけることは無かったですけど、仕事ぶりは真面目で優秀だったと思いますよ。
だから社員にと誘われたんでしょうね。」

さして珍しくも無いだろうが、即戦力が欲しい会社としては、バイトの子の中で優秀な子を社員にと直々に誘い、店長とブロック長の推薦をもらって本社の人事部の面接が通ると内定を出していた。

牧田君、加瀬君、三木君などもこれに当たる。

そうなんだ。
冷たいと思われた雰囲気は人見知りから来てるのかな?

「心配しなくても彼は美優さんとは相性良いと思いますよ。
僕なんかよりずっと仲良くなれるんじゃないかな?」

「え?どういう意味?」

「お代わり下さい!」

聞き返した私の言葉がまるで何も聞こえていなかったかの様に私の方を全く見ようともせず、三木君はビールのお代わりを注文した。

No.233 20/09/26 23:41
自由人 

三木君が他店に移動して数ヶ月、

小島君は三木君の担当部所の一般化粧品などを引き継ぎ、カウンセリング化粧品担当の私と組んで協力をし合って仕事をするうちに少しずつ打ちとけ、
仕事終わりに談笑などもするようになっていたが、最初に感じたよそよそしい雰囲気は変わらず付きまとっていた。


「登録販売者研修は小島君は初めて参加になるんで田村さんと二人で行くように同じ日程にしておきました。」

そんなある日、店長に呼ばれた私達はそう告げられ、お互いにお願いしますという風に会釈しあった。

企業に勤める登録販売者は年に数回ネット研修をしたり研修会場に研修を受けに行ったりする。
市販薬とはいえ、人の身体に影響を及ぼす「薬」というものを販売する以上勉強は不可欠なのである。

「現地集合でいいですか?」

そう尋ねてきた小島くんに私は言おうか言うまいか悩んだが、結局恥ずかしいお願いをした。

「あの…もし良ければ…スタート地点から一緒に行ってもらえると…」

「え?でも田村さんと僕の最寄り駅は違いますよ?」

「いや、だから、その…小島君の最寄り駅まで…自転車で行くから…そこから一緒に…」

「え?でもそれじゃ田村さんは目的地より後戻りになりますよ?何でそんなややこしい事を?」

もう隠してはいられない。

「あの…私…有り得ない程の方向音痴で…慣れないとこだと電車も反対方向に乗ってしまうレベルで…」

ううっ恥ずかしい…

小島君は少しポカンとした顔をしていたが、

「わかりました。御一緒しましょう。なら僕が田村さんの最寄り駅で途中下車しますのでホームで待ち合わせしませんか?」

と、相も変わらず距離感のある笑顔でそう言った。

すれ違いがあるといけないので、念の為にLINEの交換をし連絡を取り合える様にしたが、
当日、駅の改札を抜けホームに上がるとホームに設置されている椅子に既に小島君が座っていた。
彼は手にしたスマホで何か音楽を聴いていたが、私が近づくと直ぐに気づきイヤホンを外すとスマホをポケットにしまった。

「ごめんねかなり待った?」

「僕は待ち合わせは早く来て待つタイプですので気になさらないで下さい。」

小島君は社交辞令的な笑みを浮かべ、さっ行きましょうかという風に私に目配せするとタイミング良く来た電車に乗り込んだ。

No.234 20/09/27 16:28
自由人 

ガッツリ詰め込み研修が終わり、窓もカーテンも閉め切った閉鎖された空間の研修室から外に出ると、一気に明るい夏の日差しと熱気に全身が包まれた。

「夕方なのにまだまだ暑いね。」

「まあ夏ですからね。」

「この後、予定ある?無いなら夕飯兼ねて飲みにでも行かない?」

「こんな明るいうちからですか?」

「うっ…じゃあ…やっぱりいい…帰ろう…」

「え?いや大丈夫ですよ。こんな機会も滅多に無いですし行きましょう。」

……どっちやねん?

「いや何となくノリが悪そうだし無理に付き合ってくれると悪いから…」

小島君の真意がわからずボソボソ言う私に小島君はサッと顔色を変えると、

「あ~すみません…僕ね言葉足らずで、気が緩むと失礼な言い方になってしまう時があるんです。
職場や目上の方と話す時はかなり気をつけてるつもりなんですけど…
お気を悪くさせてしまいましたか?
本当にすみません。」

そうやって心底申し訳なさそうに謝る小島君に逆にこちらが申し訳なく思う。

「いや別に気は悪くしてないよ。
じゃあミニ親睦会も兼ねて行きましょうか。」

「そうですね。」

さて何処に行こうかフラフラと駅前の商店街の中を歩く。

数十メートルほど歩いた所でそこはかとなく肉の焼けるかぐわしい匂いが漂ってきた。

「焼肉食べたい…」

思わず呟いた私に、

「焼肉ですか?ちょっと待ってて下さい。」
と小島君はスマホでササッと検索し、

「この商店街の中に安くて美味しい行列店があるみたいです。
まだ時間も早めですし空いてるかも、そこに行ってみますか?」

と聞いてきた。

さすが現代っ子、スマホをサクサク活用してるな…

当の現代っ子小島君は店の所在地をチラリと確認すると、

「そんなに遠くないと思います。」
とスマホをポケットに入れさっさと歩き出した。

「え?もうお店の場所がわかるの?」

「こういうの得意なんです。
それに…」

ここで小島君は言葉を切り、私の顔をちらっと見て、

「いつもこういうことで面倒を見ている相手がいるんで僕が何でもしっかりやる癖がつきましたし…」

と少しおかしそうに笑いながら歩き出した。

No.235 20/09/28 13:12
自由人 

面倒を見ている相手…?

……

……

ああっ!まさか!

「ねっ!ねっ!それってもしかして彼女?」

「わっビックリした!突然大声出さないで下さいよ!」

焼肉屋に入り、座って注文を済ませ、早々に来た生ビールで乾杯。
さてキンキンに冷えたやつをググッと…という所でいきなり私に大声を出された小島君は危うくこぼしそうになったビールのジョッキを横に置き、
周囲を気にするかの様に周りを素早く見回した。

「ご、ごめんごめん。さっきのほら面倒を見ている相手の話…」

「あ、ああ、あれですか。」

小島君は、まだその話を?とでも言いたげな笑顔を浮かべながら、

「もう3~4年ほど付き合ってる彼女ですよ。」

と少し照れながら答えた。

おおおおおっ!!!

これは、良い酒の肴ができた!

小島君の告白に私は密かに興奮した。

完璧にオバサンだねえ…と呆れられるかもしれないが、私は昔から他人の色恋沙汰話は大好きである。
他人の色恋の胸キュン話などを聞き、
まるで関係のない赤の他人の私は勝手に心躍らせ胸ときめかせるのである。

「で?で?どんな子?」

右手にビールジョッキ、左手に焼肉のトングを掴んだまま目を血走らせ鼻息を荒くして迫って来る仕事と人生の先輩に、

「ちょっと落ち着いて下さい…」

小島君は苦笑いをしながらさり気なく私の左手からトングを取ると、そっと自分の手前に置き、

「そうですね…」

とまた少し笑うと私の方をチラリと見て、

「失礼だったらすみません。キャラが田村さんとよく似ている…かなと思います。」

と少し気を使いながらそう答えた。

「え?私に?どういう所が?」

「そうですね、全体的に。
僕は彼女の考えることで今だに理解できない謎の部分が多々あるんですけど、田村さんなら理解できそうな…」

「謎?どういうとこが?」

私の質問に、

「そうですね、例えば人の言うことを無条件で直ぐに信じるとことか…たまに彼女を見てて馬鹿なんじゃないか?!ってイライラすることもあるくらい単純で…」

え…

ちょっと待て。

それって
私も…単純…馬鹿?!

いやまあ…
異論はない。

異論はないが…
人は図星を刺されると怒るというが、
無性に怒り狂いたい気分になったぜおい…

No.236 20/09/28 13:15
自由人 

そんな私の心情を知ってか知らずか小島君は彼女の言動の不思議な部分を更に幾つか話してか聞かせてくれたが、

あ、わかる。
彼女の気持ちめっちゃわかる!

手に取るように彼女のことがわかる。

私もきっと同じ言動をする。

あまりにも同じで親近感が急激に湧いてくる。

「ねね、それわかるよ!彼女の言動の理由を解説できるよ!」

「え?やっぱりわかりますか?」

「うんうんあのね…」

嬉嬉として小島君に説明する。

いつの間にか小島君からはずっと感じていた距離のある雰囲気は消え、
私達は心の底から笑いあって会話を楽しんだ。

「おっと僕の話ばかりしてすみません。とりあえずこの話はここで終わりにして食べることに専念しましょうか?」

小島君がほとんど手がつけられていない肉を慌てて網に乗せ、焼きながらそう促してくれた。

「そうだね、ところで最後に1つ聞いていい?彼女には何て呼ばれてるの?」

何となく聞いた私の質問に、

「大ちゃんです。」

と小島君は優しく答えた。

No.237 20/09/29 12:53
自由人 

焼肉屋の一件以来、小島君と少し距離が縮まった様で、小島君は以前の様なよそよそしさが無くなってきた。

小島君は自分より歳下のバイトの子達にも冗談を言ったり面倒をよく見たり、兄の様な存在になりつつあったが、それ以外の付き合いにおいては、とても礼儀正しく柔らかな物腰ながら相変わらず距離感のある態度で、笑顔もやはり目の奥が笑っていなかった。

「ねえ、何でいつも笑う時に目の奥が笑っていないの?」

ある日の遅番の帰り、店舗の施錠をし駐輪場に出た時に何となく尋ねた私に小島君は驚いた様に目を見開いた。

「えっ?!そう見えますか?」

「えっ…いや…何となく…」

「そうですか…やはり彼女と同じで謎ですね…僕は結構社交性はある方なんですけど…」

私の言葉を聞いた小島君が1人で何やらブツブツ言い出す。

「いや、社交性はあると思うけど…なんだろう…本当はちょっと違うかな?って…」

自信なさげにそう言う私の言葉は意外にも小島君の心を大きく揺さぶった様だった。

「失礼ですけど鈍感そう…あ、いや、あまり細かいことにこだわっていなさそうでいて、時々ズバッと深く切り込んで来ますね。まあ彼女でだいぶ慣れましたけど、それでも時々ドキッとします。
そうですね、僕は本当は人の好き嫌いがかなりありますし、根暗ですし、基本人のことは信用していないというかいつも疑うし、一言で言えばかなり腹黒なタイプです。」

「え、え~と、あの~、え~と…」

美優ちゃんは深く考えずにぱっと思いついたことを言う方が正解だよ…
昔から優衣によく言われてきた言葉。

正にその言葉が実証されたのか、
無意識に小島君の深淵に触れる発言をしてしまったらしき私は、小島君の思いがけないダークマター発言にただただ言葉を失うしか無かった。

No.238 20/10/13 12:46
自由人 

人を信用しない、人を疑うと言った言葉通り、小島君は一見人当たりが良く対人関係もそつなくこなしているものの、心を開く相手はかなり慎重に選んでいるようだった。

しかし、一旦心を開くと、今までの慎重な態度とは打って変わってその相手を全面的に信頼する姿勢を見せていた。

全てそうだというわけではないだろうがこういうタイプの人は、
心を開いた相手に献身的に尽くす傾向が強い様に見受けられる。

人を信じる気持ちが強く愛情深く献身的だからこそ、そんな自分をガードするために用心深い性格になってしまっているのだろうか?

人付き合いが広く浅くになりがちな私には絶対に知ることのない感情だ…

しかし
そんな何もかも違う年齢すらかなり違う私達は何故かよく気が合った。

いや
違うな…

気が合うというより、互いの話を聞くのが好きだった。

小島君は私の話で理解しづらかった彼女の言動の意味を悟り、
そして私は…

「本当に愛されてたんですね。」

仕事終わりの休憩室、
2人でコーヒーを飲みながらの雑談タイム。
私の思い出話を聞いた小島君が少しからかう様に、でもニコニコと優しい笑顔でそう言ってくれる。

「ええっ?!私の話のどこにそんな要素あるのよ?!」

本気でそう聞き返す私に、

「断定はできませんけど、もしも僕だったらそうだなと…」

「そうかな?そうだと…いいな…
あ、ごめんね、古い話なんかしちゃって…」

慌てて謝った私に、

「いえいえ僕もいつも彼女のことで相談に乗って頂いてますし、それに…」

ここで小島君は軽くふふっと笑うと、

「僕達下っ端社員からしたら、雲の上の存在のあの本社の神谷さんにもそんなお若い時期があったと思うと親近感が湧いてきますし。
それにすごくおこがましいことを言わせてもらいますと、僕は神谷さんの言動の理由が理解できる気がするんですよ。
あ、もちろんこの話は誰にも言いませんから。」

と、私の目を見ながら頷いた。


ああ、
そうか…

小島君のその表情を見た時に、
何となくわかった。

なぜ、この子には気を使わずに自然体でいられるのか…
なぜ、この子と話すのがとても楽しいのか…
なぜ、三木君の時の様にハグや優しい言葉をもらわなくても癒された気持ちになれるのか…

大ちゃんと気質が似てるんだ…


私は改めて小島君の顔をじっと見返した。

No.239 20/10/14 12:25
自由人 

大ちゃんに似ている…
いやいや何考えてるんだよ…
三木君の時にも同じことを思ったけど結局違ったじゃない。
ああ、
そうか…
私は…
私は…
いつも…誰かの中に
大ちゃんの面影を探そうとしている…んだ…



「え?何ですか?そんなに噛みつきそうな目で睨まないで下さい僕は美味しくないですよ。」

笑いながら冗談を言う小島君の言葉で我に返る。

「え?ああ、ごめんね。」

曖昧な笑顔で謝る私に、

「冗談ですよ。明日は早番でしたよね?そろそろ帰りましょうか。」

と小島君は笑いながらもテキパキと帰り支度を始め、それに促される様に私も慌てて荷物を持つと揃って店の外に出た。

「田村さんは明後日がお休みでしたよね?僕は明日は休みなんで、次にお会いするのは明後日の夜の飲み会の時ですね。」

「うん、前に行ったことのあるお店なんだけど、なかなか良かったから期待しててね?」

私は力強く答えた。

私は社内の男女4人ずつ計8人の飲み会の幹事を しており、この会のメンバーは仕事も遊びもできるタイプばかりで、向上心が強い小島君に何らかの良い影響になるのではないかと、彼をこの飲み会のメンバーにと少し前に誘ったが、
この「明後日の飲み会」は彼にとってもう既に3回目の会になっていた。

「楽しみにしてます。
行ったことのあるお店ならさすがの田村さんも迷わないでしょうし安心です。」

「大丈夫だよ失礼な!
あ、それともなに?友達だから心配してくれてるの?」

わざと茶化して「友達」という言葉を少し強調した私に、

「いやいや目上の方に友達は失礼過ぎます。強いて言うなら先輩…ですかね。」

「友達じゃダメなの?」

「いやいや、流石に大先輩にそれはちょっと…」

小島君はあくまでも真面目に誠実に返してくる。

そっか…

そういう返しは想定内の冗談のつもりだったのに、だったはずだったのに…

何故か少し距離を感じ不意に寂しい気持ちに襲われた私は心の中で苦笑した。

馬鹿だな…
これが当たり前の反応だよ…

いつまでも大ちゃんの幻影を追い求め、小島君の中に大ちゃんを見た気がして距離を詰めようとした自分が恥ずかしくなる。

「じゃあまた明後日に。
お疲れ様です!」

幸いそんな私の気持ちにはまるで気づかない様子で、小島君は軽く頭を下げるとバイクのエンジンをかけた。

No.240 20/10/15 12:36
自由人 

「ヤバイ…今日はダメな日だ…」

飲み会当日、
横になり目を閉じたまま思わず呟く。

竹井さん達との一件で長期休みを取って以来、身体の不調がいつもどこかしらあり、それは日に日に酷くなっていって日によっては目眩とふらつきで起き上がるのも困難になっていた。

耳鼻科、心療内科、婦人科などを受診したがハッキリとした原因はわからないものの、おそらくは元々ある貧血に加齢やストレスなどによる自律神経失調症の症状が合わさったものだろうという結論に達した。

お天気の良い日やゆったり過ごせた日は比較的楽なのだが、雨の降る前やストレスが少しでもあった日は、突然胸の動悸から始まり座ってさえもいられない程の目眩に襲われる。
横になっても込み上げる吐き気に悩まされる。

いきなり具合が悪くなっても逃げ場の無い電車やバスなどに乗るのが怖い。
しかし家にこもると気分転換出来ずにまた症状が出やすくなる。

座れないリスクのあるバスは避け、
タクシーや各駅に停車する電車などを利用して工夫しながら外出した。

しかし、いざ外出して色んなものを見て回ったり、友人たちと楽しくおしゃべりしたりすると、不思議なことに最初は辛くて仕方がない症状が次第に落ち着き、帰宅する頃には心身ともに憑き物が落ちたかの様にスッキリとしていた。

「田村さんに必要なのは気晴らしと休養ですからね~。
そりゃよく寝たり楽しいことをすれば楽になるでしょ。」

その話を聞いた心療内科の先生が笑いながらそう言う。

そんなことで楽になる病気?あるんだ…

不思議な気分だったが、たまたま婦人科でも同じことを言われたので辛くても無理して飲み会に顔を出し、みんなにはバレないように平気なふりをしながら動悸と目眩が治まるまで冷たいソフトドリンクを飲んで凌いだ。

冷たい物を摂取すると少し楽になってくる。
そうして不調が治まってくると楽しむ余裕ができて心の底から笑える様になる。
笑えるようになると一気にスーッと楽になってくる。


思いっきり楽しく笑うことは
心身の健康にとって本当に大切なことなんだなとつくづく思う。

しんどいのは最初だけ乗り切れるよ。
幹事だから行かなきゃ…

自分に言い聞かせ無理に電車に乗る。
静かにしていればそのうち少しは治まってくる…
幸い電車は空いており、座席の端に座った私は冷たいペットボトルを首に当て目を閉じた。

No.241 20/10/16 12:33
自由人 

目的の駅は終点の1つ手前、各駅停車の電車で30分足らず。
その間静かに目を閉じて気持ちを整えれば、着く頃にはある程度楽になっているはずだった。

ダメだ…

目眩が治まらない…

目的の駅まであと10分ほど、
私はかなり焦りを感じ出していた。

目をずっと閉じていてもグルグルフワフワと目眩がしているのがハッキリわかる。

この調子では目的の駅で降りるのは到底無理だ…

目的の駅は大きく人の数もかなり多い。
それでなくても人酔いしそうな混雑した広い駅の構内を歩き回る自信は無かった。
それに対しその次の終点駅は小さめでそこまで乗って行く人もあまりいない。

乗り越して次の終点駅で降りても飲み会の店には歩いて行けるな、
…まともに歩けたらの話だけど…

そんな不安な思いを抱えながら色々考えているうちに電車は目的の駅に到着してしまった。

ザワザワザワ……

目を閉じていても車内のほとんどの人が降車した様子が感じ取れる。

そのうちドアが閉まる気配がしたかと思うと電車が動き出す。

さっきまでとは違い、車内の空気がスッキリした様な気がしてそっと薄目を開けてみた。

あ、何とか立てそう…

人がいなくなったことで少し気分が楽になったのか、立ち上がってゆっくり歩くくらいはできる程に回復した。

何とかお店までたどり着いたら、
とりあえず顔出して挨拶だけして帰ろう…

まだフラフラする頭でぼーっと考えているうちに電車は終点駅に到着し、
私はそろそろと電車を降りて近くの改札口を出た。

あれ?

改札を出てから地下街を歩いて、飲み会をやるダイニングカフェのある方向に行こうとした私は、辺りの様子を見て少なからず狼狽えた。

地下街が改装中になってる…

元々酷い方向音痴の上にうろ覚えの地下街の雰囲気が、改装工事のために全く雰囲気が変わってしまいわけがわからない状態になってしまった。

どうしよう…
道がわからないよ…

途方に暮れながらチラリと時計を見ると既に集合時間を少し過ぎている。

「お疲れ様です。すみませんちょっと道に迷いまして少し遅れます。」

慌ててグループのLINEにメッセージを入れ、地下は諦め地上に出てみようと地上に出る階段を探し歩いた。

No.242 20/10/17 18:01
自由人 

やっと地上に出て、お店のある大通りの方向に検討をつけ歩き出す。

あれ?!
こっちで合ってたっけ?

普段出ない出口から地上に上がったために元々少ない方向感覚がまるで機能しなくなり、完全にお手上げ状態になってしまった。

どうしよう…

そうこうしている間にも時間は容赦なく過ぎていく。

焦りながら闇雲に歩いて行くうちに100m程先に大きな歩道橋が見えてきた。

ブルッ

と、マナーモードにしていた携帯が微かに震える。

「お疲れ様です!了解しました!」

「は~い、気をつけて来てね!」

さっきのメッセージを見たメンバー達からグループのLINEに返事が次々に入る。

「ごめんなさい。近くには来てるんだけどもう少しかかりそうなので先に始めてて下さい。」

更に慌てて送ったメッセージに、
「了解」や「OK」のスタンプがすぐに返ってきた。

さて…
あの歩道橋の上から周りを見渡せば何とか方向もわかるかな?

歩道橋に向かって歩きだそうと携帯をポケットに入れかけた私は、LINEにもう1件通知があるのに気がついた。

あれ?

小島君との個人トークの方だ…

通知に表示されている文が
「今どこにいるんですか…」
になっていて、慌てて画面を開いてみると、

「今どこにいるんですか?迎えに行きます。」

と有無を言わさない雰囲気のメッセージがあった。

No.243 20/10/18 09:27
自由人 

ええええ。

「いや、実はここがどこかもわからなくて説明のしようがないから…
何とか自力で行きますありがとう。」

と急いで送り返す。

ふう、やれやれ、
急がなきゃ…

ブーッブーッブーッ

再び携帯をポケットに入れようとした途端、今度は電話がかかってきた。

画面に表示された相手先は、
小島大樹

げっ

「あっもしもしっ?」

慌てて電話に出ると、

「今いる場所の周辺の何か目印になりそうな画像を撮って送って下さい。」

と間髪入れず小島君が言う。

「えっ?わかりました。」

小島君のテキパキとした指示に思わずそう返事をすると急いで歩道橋を含む辺りの景色を撮って送った。

ブーッブーッ

「はいもしもし」

「そこがわかりました。画像の歩道橋の所まで来られますか?」

「うん」

「良かった。じゃあそこで待ってて下さい。」

電話は慌ただしく切れ、

私が歩道橋に着いてから10分ほど経った頃、小島君が歩道橋の反対側からこちらに向かって走って来た。

「お待たせしてすみません。
これでも急いで来たんですけど…」

息を切らしながら小島君が言う。

「ご、ごめんね、 迷惑かけちゃったね…」

謝る私に、

「気になさらないで下さい。
それより…田村さんの家からかなり遠い上に迷うのに、どうしてわざわざここのお店にしたんですか?
幹事特権で田村さんの家から近い場所で良かったんじゃないですか?って皆さん不思議がってましたよ?」

小島君が不思議そうに言う。

そう…だよね…

店選びはいつも幹事の私の意見がほぼ通り、私の提案するお店に皆はいつも喜んで来てくれていた。
なのに、こんなに遠い場所に決めたのは何故か…

それには私なりの理由があった。

電車に乗るのも一苦労する私がわざわざここに決めた理由…

「さ、とにかく行きましょうか?」

「あのね…」

私は先に歩き出した小島君の後ろをついて歩きながらボソボソと話し出した。

No.244 20/10/19 12:12
自由人 

飲み会メンバーに私と同じ様に
原因は不明ながら電車などに乗るのに苦労している人がいた。

そのことは仲間の誰も知らない。

私がその人と2人で飲みに行った時に知った話だ。

電車に乗るのは短時間なら何とか凌げるから飲み会には是非とも参加したい、それをいつもとても楽しみにしているから…という話を聞いた時から私はその人に負担のかかりにくい場所で飲み会をしようと決めた。

今回の場所はそれも含め他の皆も来やすい場所ということで私なりに考え抜いて決めた場所、
の…はずだった…


「あのね…本当は道はわかってたはずだったんだけど…電車に乗ってて具合が悪くなったから…終点まで乗り越して…地下街の雰囲気が変わってしまってて…」

「そして迷子になったんですか?
そんなに無理して来て大丈夫なんですか?」

私の何とも間抜けな言い訳に、
小島君が少し心配そうに突っ込んで来る。

「あ、うん…最近は具合が悪くなる時の方が多いからこういうのも慣れたというか…幹事だし…でも行ってみて具合が良くならない様なら何か理由つけて早めに帰ろうかなって…」

ダメだ…
言えば言うほどダメな自分を露呈している様な…

案の定、私の言葉を聞いた小島君はやや呆れた顔をしていたが、

「そんなに…ここのお店に来たかったんですか?」

と静かな声を出した。

「いや…違う…来たかったわけじゃない…」

「え?なのにここに決めたんですか?」

「ここなら参加しやすい人が…だから…」

小島君にその人の事を言うわけにはいかない私は口ごもり曖昧な返答をしたが、小島君はすぐに何かを察したかの様に、

「 どなたかのためだったんですね。
不思議な行動の意味がわかりました。
でも皆さんには誤解されたままですよ?」

と言ったがその目は、この話はきっと内緒なんですよね?と語りかけていた。

「うん…誰か1人でも…小島君がわかってくれてるからそれでいいんだ…」

言いながらちょっと泣きたくなる。

人を気づかうつもりで逆に迷惑かけて気づかわれて…
私は何をやってるんだろう…

「ごめん…迷惑かけて…私のやることはいつも空回りばかりだから…」

情けなくてボソボソと謝る私に、

「迷惑?友達のために何かをするのは当たり前でしょ?姉さん!」

小島君はわざと、
「友達」と「姉さん」の言葉を強調し
少しイタズラっぽい笑顔を見せた。

No.245 20/10/21 12:29
自由人 

「じゃあまた!お疲れ様~」

ユッキーがにこやかに小さく手を振ると電車を降りていく。

「お疲れ様!またね!」
「お疲れ様です。またよろしくお願いします!」

私と小島君がそれぞれユッキーに声をかけると、閉まりかけた電車の扉の向こうでユッキーはまた笑って軽く手を挙げた。

「具合が良くなって良かったですね?
心配しましたよ。」

電車が動き出すと小島君は私の方を向き少し呆れた声を出した。

小島君に連れられて飲み会の店に行った私は、序盤こそ辛かったものの次第に楽になり、帰る頃にはすっかりいつもの調子を取り戻していた。

「お陰様で助かったよ。今日は本当にごめんね…」

「あ、いえ、怒ってるんじゃないですよ?本当に心配しただけです。
それにしても…こんな調子で僕までいなくなったら…」

ここで小島君は言葉を切り、言おうか言うまいか少し躊躇する様子を見せた。

「小島君?いなくなるって?」

「そういえば三木さんが他店に移動になった時、三木さんのおかげで色々と頑張れたと言ってましたよね?
三木さんがいなくなってからかなり経ちましたが僕も少しはお役に立っていましたか?」

私の問いかけに小島君が何やら思わせぶりな言葉を返してくる。

「え?小島君?まさか…移動?」

私の顔色が変わったのを見て小島君は
「しまった」とでも言うように少し顔をしかめたが、

「実は今日僕も初めて聞いたんです。移動と言っても同じブロックの店舗ですよ。それに飲み会には変わらず参加させてもらいたいですからまた是非誘って下さいね?」

と、働く店舗は変わっても今まで通りですからというニュアンスを強調した。

「うん、そうだね。
店が違う方が逆にシフトも合わせやすいから飲み会の都合合わせも楽かもね。」

わずかながらまた胸の動悸が始まってきていたが、小島君に合わせるように無理して気楽さを装う。

「姉さん…大丈夫ですか?
僕がいなくてもあの店で…頑張れますか?」

「ちょっと!どっちが歳上だと思ってるのよ!大丈夫!子供じゃないんだから!」

無理に笑ってそう言う私に、

「そうですね、つい彼女とダブらせてしまって…子供扱いしてしまってすみません。」

と、小島君は照れたように頭をかいた。

No.246 20/10/27 13:10
自由人 

「まだ、うちに来ても良いかな?って気持ちはある?」

小島君が移動になって1ヶ月経つか経たないかのうちにかかってきた1本の電話。

その電話の主はとあるIT関係の会社の役員さん。

IT関係というと聞こえは良いが、
元々、ある企業勤めだった社長が部下を何人か引き連れて独立して起業した小さな小さな極小株式会社なのである。

しかし、吹けば飛ぶような極小会社ながら優秀な頭脳やノウハウを持っている会社のため仕事は途切れることはなく、
大手企業からも仕事の依頼はよく受けている様だった。

ただいかんせん優秀過ぎて後継者がいない。

後継者になれるような優秀な人材は当然の様に大手に行くか自分で起業する。

それにこれはかなり致命的な問題なのだが、優秀な頭脳を持っているからといって、優秀な指導者になれるかというとそうでもないという残念な状態のため、
後継者がいないのではなく、
後継者を育てられない
と言った方が本当は正しいのかもしれない。

ある日、そんなちょっと「訳あり会社」を知り合いに紹介された。

役員さんとの雑談で聞かされたのは、
経理事務パートの年配の女性が家の事情で退職を考えている。
ただ収入が無くなることへの不安もあり、なかなか結論を出せない状態で宙ぶらりん。
もし退職が決まったらその時に声をかけるから、その時にその気があれば来てもらえないだろうか?ということだった。

パート女性の気持ち次第…のあまりアテにもならない話ではあったが、
後継者がいないその会社は社長の代で廃業にすると決めているらしく、将来のある若い世代は雇えない、社長とせいぜい10歳くらいしか変わらない私くらいの年代を雇うのが良いのだと言われ、なるほど…と納得し、
更に予想以上の好条件、高待遇にかなりの魅力を感じた私は、その時が来たら一応声をかけて下さいとお願いしてその会社を後にした。

そしてそれから何ヶ月も経った頃、
「その時」がなんの前フリもなくいきなり訪れたのである。

No.247 20/10/28 22:48
自由人 

ふぅ…

電話を切った私は小さくため息をついた。




「そちらも今の会社を退職するとなると色々事情もあるだろうから、
少し日にちに余裕を持って声をかけさせてもらったんだけど…」

役員さんは私の出方を少し伺うように言葉を途中で切る。

「あ、はい!大丈夫です!
ぜひよろしくお願いします!」

長年勤めて色々な想い出の詰まった会社を退職する事に繋がる大事な決断のはず…だったのだが、
自分でも驚くほどにアッサリと了承の言葉を口に出してしまった。

「え?!あ、ああ、あの…本当に良いの?」

早すぎる私の答えに相手も少し戸惑った様子だったが、

「いえ私なんかで良ければ頑張りますのでよろしくお願いします!」

との私の言葉を聞き、


「そうですか。ではこちらに来る準備として、資格は取らなくても良いので簿記の2級程度までをサラッと勉強しておいてもらえますか?
テキスト代などの費用はこちらに請求して頂いて良いので。」

「はいわかりました。
あの…未経験なのにすみません…」

「いえいえ、こちらも全く知らない人を入れるのはちょっと怖くなってまして…それに若い人より…あ、すみません…」

役員さんは慌てて謝ると、
「では詳しい話は直接しますので都合の良い日がわかり次第連絡をお願いします。」

と焦ったように電話を切った。




ふぅ…

若い人より…か。

まあこの歳ではね。

でも何の経験も無いのに通常なら不利になる年齢が逆に決め手になるとはね…
世の中本当に色々の事情があるのだなと思う。

詳しい事情は伏せさせて頂くが、
この会社は以前当時の経理担当とのトラブルがあったらしく 、それ以来素性の知れない人を入れたくないとのこと。
で、タイミング良く共通の知り合いの推薦をもらいほぼコネ入社的に私が雇って頂けることになった。

仕事は 簡単なパソコン操作とそこそこの簿記の知識があればできるとの事、

パソコンは今の仕事でも使っているから簡単な操作なら何とかなるだろう。

問題は簿記…なのだが…

そこそこ使えるくらいの知識を身につけておけば良いのか…
意外にも私は勉強はあまり嫌いではない。
確か…3級は簡単だよってよく聞くしとりあえず3級は楽勝かな?


翌日、早速TSUTAYAの資格本コーナーで簿記3級の本を手に取った私は、余裕綽々ご機嫌で本を開き目を通した。

No.248 20/10/29 23:08
自由人 

え~と…
3級は2週間くらい勉強して~
ちょっと難しいと言われてる2級を残りの期間でやって~
自分の頭の中で予定を立てながらページをめくる。

パラパラ…

過去問はどんなのが出てるのかな?

?!

??!!

???!!!

え…
3級は簡単だよぉって一体どこの天才が言ってるんだ?!

うっ…

もうね問題文がね何を言いたいのか全く意味がわからない…

ていうかそれ以前に漢字読めない…

売掛金て何て読むの?
ばい…ばいかけきん?
え…
じゃあ買掛金もばいかけきん?
あれ?
あれれ???


借方+貸方コンビの存在の意味もまるでわからない。

えっ?
借方はマイナスで貸方はプラスじゃないの?!


これはヤバイ…

さすがにちょっと焦りだしなるべくわかりやすそうなのを幾つか選んで購入。

要領の良い人は簡単にこなせるのだろうが、要領悪い上に悲しいかな歳と共にすっかり固くなってしまった脳は思うように働かない。
必死で覚えるそばからわすれてしまう。

勉強のコツは、
ある程度インプットの作業をした後に一気にアウトプット作業に取りかかることだ。

インプットのみでは脳の容量がいっぱいになってしまい結果データが消去(忘れる)してしまう。
アウトプットすることにより初めてデータのバックアップが取れ定着する。

これは知る人も多い一般的な勉強方で理論はわかる。
うん…
わかってる…
が…
インプットの作業時にどんどんデータが飛んでいくのはどう対処したら良いのだ?!

この調子では時間の余裕はあまり無い。
とにかく忘れる分余計にインプットしよう。

それから勉強して勉強して頭痛がするほど勉強した。

息も絶え絶えに3級を何とかマスターし、2級に突入。
範囲が一気に広がり工業簿記なる未知の物も加わった挙句、
連結精算、減価償却の面倒臭さに泣いた。

そして何とか2級もマスター。
やったぜ間に合ったぜ。

意気揚々と役員さんに報告。

「損益計算書作成も連結精算もバッチリできる様になりました!」

それを聞いた役員さん。

「あ~…うちは連結はいらない…んですよね…減価償却とか面倒くさいのも税理士さんがやってくれてるし、ただ簡単な仕訳ができれば…」

…泣いた…

ちなみに損益計算書も貸借対照表も財務ソフトが集計作成してくれてます。
便利だねぇ…


っておいっ!!

No.249 20/11/03 18:27
自由人 

転職することを即断し自分の物覚えの悪さを嘆きながら簿記と戦っていた私だが、同時に簿記の勉強よりも何倍も憂鬱で辛い「事」をやらなければいけない現実にも向き合っていた。

「店長、ちょっとお話したいことが…」

「え?…あの…じゃあ休憩室に行きましょうか?」

仕事上がりの挨拶もそこそこにそう切り出した私の顔色を瞬時に読み取った店長は、事務所の椅子から立ち上がると誘導でもするかの様に休憩室の方角を指さした。

この頃の〇〇店の店長は上岡という30代前半の若い店長で、若いながらもなかなかしっかりした賢い方だった。
私が長年この会社に勤めて一番最後の店長になった方である。

「何とか考え直してもらえませんか?」

私の言葉を聞いて上岡店長が真っ先に出した言葉がこれだった。

ドラマなどでよくある言葉、
会社を辞めますと言った相手に対し
テンプレの様に使われる言葉。

しかしこのテンプレはとても重い…

「最近、体調を崩すことも増えてきましたし体力仕事はきつくなってきまして…」

これも「理由の一つ」の筈なのに、
何故か嘘をついている様な後ろめたい気持ちになり自然と歯切れが悪くなる。

「田村さんの力を存分にふるってもらえないのは僕の力不足です。
本当にすみません。
もし良ければ✖✖店に移動…とかではどうですか?
ブロック長に話せばすぐに何とかなると思います。
このまま辞められるのはあまりにも残念ですよ…」

私の「言わない別の理由」を察したかの様に上岡店長は〇〇店より規模も売上も大きい✖✖店への移動を勧めてくれた。

が…

「いえ…体力的に〇〇店ですらやっていけない私が✖✖店などとても…」

✖✖店でやっていけるくらいならとっくに移動願いは出している。

「そうですよね。」

ついそう言わんばかりの返事をしてしまった私の言葉を、予め予想していたかのように上岡店長は直ぐにそう頷くと、


「あの、失礼なことをお聞きしますが、転職先は待遇は良いんですか?
もし田村さんが良ければまたちゃんとした正社員として本社とかへの移動とか…本社なら少なくとも体力仕事はありませんし。」

と少し遠慮しながら問いかけてきた。

仕方ない…

あまり言いたくはなかったが、
上岡店長が熱心に色々考えて下さるのが心苦しくなり、次の会社に提示された条件を全部説明した。

No.263 20/12/15 21:29
自由人 

「そんなことがあったなんて…」

亜美ちゃんから話を聞いた私は絶句した。

知らなかったとはいえ、
よりにもよってユッキーが「断られた」後に「特別扱い」されたことをベラベラ嬉しがって話すなんて、
しかも見たくもないであろう空き箱見本を無理やり押し付けられて、
さぞや嫌な思いをしたであろうユッキーにひたすら申し訳なかった。

「美優ちゃんは知らなかったんだし、それに有希ちゃんは親切にしてもらって嬉しかったんじゃないかな?
それに…」

亜美ちゃんはここで少し躊躇うように言葉を切ったが、

「あのね…阿笠さんだけじゃないんだ…本社の坂下さんも…美優ちゃんが1人で化粧品担当している時は注意とか何もされたことなかったでしょ?」

と坂下さんの名前を一気に押し出す様に言い切った。

坂下さんが?

亜美ちゃんの言葉がにわかに信じられなかった。

確かにハキハキとしていていかにもやり手の女性というイメージだけど…
気さくでいい人っていう印象しかないんだけどな?…

亜美ちゃんの言葉に何となく納得できないものを感じながらも私は黙って亜美ちゃんの話の続きを聞いた。



ユッキーの様に本社から化粧品関係の色々なアドバイザーが各エリアに派遣されていたものが、
会社が大きくなるにつれ各エリアごとのバラツキなど統一が難しくなったためその制度の廃止が決定され、代わりに本社に新しく化粧品専門の部署ができた。

そこのリーダーとしてある化粧品メーカーから桃田さんという女性が引き抜かれたが、その桃田さんが更に自分の直属の部下であった坂下さんを引き抜いてサブリーダーとした。

その坂下さんが本社で仕事をしている桃田さんの手足の様に現場の各店舗を視察に廻りアドバイスや指導をしたりもする。

いわば坂下さんは化粧品部門の現場のトップともいうべき存在であった。

ユッキーが○○店の化粧品のメイン担当をしていてくれた頃、
坂下さんが店訪問の日に私はたまたま休みであったが、翌日出勤した私に
落ち込んだ様子のユッキーが昨日の報告をしに来た。

No.264 20/12/21 22:23
自由人 

「昨日の坂下さんの店廻りの件なんだけど…」

ユッキーの表情がやや強ばって固い。

「ん?なに?叱られた?」

場を和ませようとわざと冗談ぽく返す私に、

「ううん…少し注意をされただけ。」

と笑顔になったユッキーが昨日の坂下さんとのやり取りを話してくれた。

「それで…本社からの指示が出ていたやり方より今までのやり方の方がお客様も喜んでくれるし…でも昨日そのことを坂下さんに指摘されたのね。
考えてみたら私が勝手なことをしてたから美優ちゃんにも迷惑をかけたんじゃないかな?…それが気になってて…ごめんね。」

いつもの調子に戻り明るく笑顔で謝るユッキーを見て私は心の中で安堵していた。

なんだ…
それだけの事か。
今にも泣き出しそうな顔をしていたからビビっちゃったよ…

「確かに本社の指示に従うのが正しいんだろうけど、うちみたいに古い店で昔からの固定客で成り立っている店はそれが正しいとも限らないんだよ。」

「うん。そうだよね。」

少し自信は無さげであったが、それでも嬉しそうに眼を輝かせるユッキーに私は頷くと、電話の「本社」と書かれている短縮ダイヤルを押した。

「もしもしお疲れ様です。
○○店の田村ですけど…坂下さんお願いします…」

今日は本社にいると聞いていた坂下さんと電話で話す。

ふう…これでよし。
もう文句は言わせない。

「美優ちゃん?」

電話を切った私に、横で電話のやり取りを全部聞いていたユッキーが少し心配そうに声をかけてくる。

「ああ、聞いてたでしょ?
ユッキーのやり方でやってくれて良いからって。だからこれからもよろしくお願いね。」

ユッキーの不安を晴らすように明るくそう答えるが、

「坂下さん、怒ってなかった?
ごめんね嫌な役目を押し付けたみたいで…」

まだ気にしている様子のユッキーを、その時に少し変だなと感じはした。
だがすぐに気のせいだろうと思い直し、

「ううん、坂下さんは良い人だし快く承知してくれたよ。」

とユッキーの肩を軽く叩くと、

「美優ちゃんはいつもすごいね。
みんなのお姉さんみたいだね。」

とユッキーはやっと嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。

No.268 21/01/06 13:01
自由人 

「坂下さんが帰った後に有希ちゃんと少し話したんだけどね。」

問いかけておきながら私の返事を待つこともなく、亜美ちゃんは至極マイペースな様子で話を続け出した。





「ごめん、たまたま聞こえたんだけど…何か坂下さんに注意された?」

坂下さんが帰って行った後の休憩室、
亜美ちゃんは外に人の気配が無くなったのを見計らい早速そう切り出した。

「うん、ほら本社から販売方法や売り場の展開とか色々な指示書来てたでしょ?あれ…それ通りにあまりやってなくて…そっちの店はちゃんとやってる?」

「うん、まあ、指示通りにやらないと…うるさいもんね。」

「さすがだね、私はそういうとこ融通がきかないから…」

苦笑いしながらそう返してくるユッキーに亜美ちゃんは 「あれ?」と違和感を覚えた。

「いつもこういう事には有希ちゃんが率先して取り組むじゃない?
どうしちゃったの?」

消極的や保守的に見えて、意外にも順応性及び応用力が高いユッキーは、
コロコロ変わる本社の指示にも上手く対応しそれなりに成果を上げてきた。

「変だよ?まさか坂下さんに反感持ってて逆らってるとか?
それとも何か思い詰めてることでもあるの?何かあるなら話聞くよ?」

原因はてっきり坂下さんのイジメか何かであろうと心配する亜美ちゃんに対して申しわけないと思ったのか、

「そんなんじゃないのよ。
実はね…」

とユッキーは少し恥ずかしそうに理由を話し出した…





「何か譲れない理由でもあったの?」

私は亜美ちゃんの話に一応質問はしてみたが、
ユッキーが本社の指示に従わないのは
単にユッキーの中で効率や売上の事などを考えた結果なのだろうと思ってはいた。

賢いユッキーのことだ。
総合的に判断してより良い選択が○○店のやり方だった…ということなのだろう。

どうせ聞かなくてもわかってる…


「有希ちゃんが本社の指示に従わず○○店の昔からのやり方を貫き通してたのは、」

私の質問に曖昧な笑みを浮かべた亜美ちゃんはここで言葉を切り、
フウっと小さくため息をつくと
後は下を向いたまま小さな声で言った。

「姉さんが○○店のお客さんに寄り添ってやってきたやり方だから…姉さんが有希ちゃんに懇切丁寧に教えてくれたやり方だから…
有希ちゃんにとって目標にしている姉さんが試行錯誤を繰り返してたどり着いたやり方だからだよ…」

No.269 21/01/18 13:10
自由人 

この話を皮切りに、
今まで知らなかったことが次々にわかってきた。

ユッキーを妬んでいるのは私だけでは無かったということ、
目立つのに控えめな性格のギャップが災いして疎まれたりすること、
仲間内では明るくて楽しいのに、
他では人見知りで気を使いすぎる所が逆に冷たく意地悪だと誤解されて嫌われることもあること、

そして

私を

好きで

私を

本気で尊敬してて

ずっと

ずっと

慕ってくれていたこと


ごめんなさい

ごめんなさい

ごめんなさい


酷い態度を取ってしまった。

心の奥底ではいつもずっと貴女を疎ましく思ってたから。

ごめんなさい

ごめんなさい

私が会社を辞めるのを聞いて
本気で驚いて悲しんでくれたのに。
必死で引き止めてくれたのに。

「亜美ちゃん…私は…ユッキーに好かれる資格は…ないんだよ…
私は…いつも…ユッキーと自分を比較して自分を卑下して…ユッキーを逆恨みさえして…ユッキーを…嫌いだった…」

いい歳した大人が何て大人気のないことだろう。

亜美ちゃんに言ってどうなるわけでもない。
軽蔑されるかもしれない。
いやむしろそれが望み…かな?

誰とでも仲良くやっている美優姉さん。
誰のことも好きな美優姉さん。

そんな誤解をよくされる。

本当は違うのに…

ああ、そうだよ。
「良い子ちゃん」は
「私」だったんだ…

「姉さん。」

私の言葉を聞いた亜美ちゃんは静かな声を出した。

「私も、私も有希ちゃんに嫉妬してたよ。」

え?

意外な言葉に驚いて亜美ちゃんの顔を見つめる私に、

「嫉妬されるほど有希ちゃんは凄いんだよ。流石だよね?」

と、亜美ちゃんは「ドリンクのお代わり頼む?」
と言いたげに私にドリンクメニューを差し出しながら微笑んだ。

No.270 21/01/22 23:22
自由人 

トゥルルルル

トゥルルルル…

亜美ちゃんと呑んだ翌日、
私はユッキーに電話をかけていた。

ユッキーが出たら何を話すのかも決めていない。
でも、
電話をかけなくては落ち着かなかった。
せめて、謝りたい…

「もしもし?」

電話の向こうでユッキーのいつもの声がする。

「もしもし、あの、私、…」

何と切り出して良いか言葉に詰まる私に、

「美優ちゃん、この前は忙しいのにごめんね。急な話に驚いちゃってなかなか電話を切らなくて。」

怒っているかと思いきや、
ユッキーがそう申し訳なさそうに謝ってきた。

まただ…

いつもそうだ…

「別に謝ることなんか何もないのに。
何でいつもそうなの?
ユッキーのそういうとこウザイんだけど?」

泣きたくなるのを堪えながら
キツイ言葉を返した私に、

「ええっ?!ウザイ?
う~ん、でも…そんなウザイ妹を好きでしょ?」

怒って何か言い返してくれるかな?とも思っていたが、妙に自信タップリな予想外のセリフ。

「何でそう思うの?根拠は?」

「根拠とかじゃなくて…
わかってたよ。だってずっと昔から美優ちゃんは私のことを可愛くて好きだという気持ちをムンムン出してたから。」

………

負けた…
完敗だ…

「馬鹿じゃないの?本当にウザイわ。」

悪態をつきながらも完全に笑ってしまっていた。

「何それ?ウザイ言い過ぎなんだけど?照れるにも程がない?」

私につられて笑うユッキーに、

「ごめん。やっぱり…
私、ユッキーのこと好きだわ。
ずっとずっと昔から…」

心の底からそう思った。

貴女には敵わない。

今までも
多分…
これからも。

でもそれでいい。

「50歳になっても100歳になってもずっと仲良く…」

そんな私にふとあの約束が蘇る。

「何か久しぶりに4人で会いたくなったな…」

思わずそう漏らした私に、

「いいね!あの2人を誘おう!
久しぶりに4人で集まろう!」

と電話の向こうでユッキーの弾んだ声がした。

No.271 21/02/01 13:11
自由人 

2018年初夏

飲み会のお店へと向かう途中の電車の中、

「美優ちゃんが転職することは
私はまだ知らないことにしとくね。」

ユッキーがそう気を回してくれる。

おそらく、大ちゃんやユータンより先に自分が聞いたということを知られるのは2人に申し訳ないとでも思ったのであろう。

いかにもユッキーらしい気使いだが、
この日の私にはこれが本当にありがたかった。

何故なら私はまだ大ちゃんには辞めることを伝えるつもりは無かったから。

本当は7月に辞め1ヶ月の有給消化後の8月から転職先に行くつもりで周りに挨拶を開始しだしていたのだったのだが、前任の方の都合と私の引き続きなどの関係で予定が急遽1ヶ月延び8月に辞めることになったため、
あまりにも早く伝えるのは間が抜けているだろうと思ったことと、
後は…

「ユッキー、私、大ちゃんになかなか伝える気にならない…というか…
どうやって伝えていいか…」

大ちゃんに辞めることを言うのは
他の誰に言うよりも勇気がいった。

どうしよう…

「大丈夫だよ。きっとその時が来たら上手く伝えられるから。
大丈夫。美優ちゃんなら大丈夫だから。まだ日はあるし今日は久しぶりの同窓会気分で楽しもう?」

そうか…
そうだよね…
せっかくの久しぶりの飲み会だもん。
今日は楽しむことにしよう。

ユッキーの優しい慰めの声で
元気が出てくる。

「いけない!ここで降りるんじゃなかったっけ?!」

ほのぼのしたと思った途端のいきなりのユッキーの声に慌てて電車のドアに目を向けると、いつの間にか私達の目的駅に着いた電車はちょうどドアを開けたところだった。

「わっ!!早く降りよう!!」

慌てて電車を降りる。
はあ危なかった。

「危なかったね。さっ後はあの階段を上がって改札出たら一本道だから。」

ユッキーの頼もしい声に私は頷くと
私達は足取りも軽く揃って階段の方に向かった。


No.273 21/02/17 23:57
自由人 

「姉さん、飲みに行こう。」

7月も終わりにさしかかろうとする頃、突然かかってきた1本の電話。

電話に出た私に元気な誘いの声がかかる。

「牧田君?!あ、うんわかった。
ちょうど相談したいこともあったし、いいよ。」

電話の主は牧田君。

辞めることを告げて以来、
久しぶりに聞く牧田君のいきなりの誘い言葉に戸惑いつつも、私はすぐに快諾した。

「えっ?なに?相談あるの?
何よ今言ってよ。」

私の返事を聞くや否やせっかちな牧田君が急かすように語気を強める。

「え?!う~ん、いま?」

少し驚いたフリをしつつも
長年つきあいのある牧田君の性格なら
「相談」というワードを翌日以降までそのまま放置するなど到底有り得ないだろうということは薄々わかっていた。

「早く話してよ、余計な焦らしはいらないから。」

これまた長いつきあいのため
私に対して遠慮もへったくれも無くなっている牧田君が焦れったそうに急かしてくる。

情緒のない奴め…

牧田君のこういうところに正直イラッと来るのだが、おそらくこれが逆の立場ならきっと私も同じ態度を取るだろう。

勿体付けてる暇があったらさっさと話せ
そしてさっさと解決しよう
というパターンが私と牧田君に共通している部分である。

こうなると下手な遠慮や勿体付けは
得策ではなく、

「うん実はさ、大ちゃんに辞めることをまだ言ってないんだ。」

と私も手短にスパッと答えた。

「えっまだ言ってないの?
何してんのよ姉さん。」

ある程度の予想はついていたのか?
呆れたような言葉の割には
さして驚く風もなく、

「じゃあ明日にはさっさと言ってね。
それで…飲みに行く話だけど…」

と牧田君はさっさと話を飲み会の方にスイッチさせる。

「簡単に言わないでよ…
あのさ…彼にはずっと黙って辞める…ってのは無しかな?…」

「は?何言ってるの?むしろ何があっても絶対に言わなきゃいけない人でしょ?!」

そうだよね…

シーン…

「大丈夫だよ。どうせ姉さんのいつもの取り越し苦労で悩んでるんだろうけど、大丈夫だよ。」

少しの沈黙の後、私の気分を救いあげるかのように牧田君の快活な声が響いた。


No.274 21/02/19 12:36
自由人 

ドキドキドキドキ

心臓の音が本当に聞こえてくるようだ。

やだな~

やだな~

憂鬱で仕方がない。

牧田君との電話は、あれから飲み会の日程を決めたいから早めに都合の良い日を教えてという宿題を出されて終わってしまった。

あの後、妹の優衣にも相談してみたが、

「早く電話してあげなよ。」
と笑いながらサラッと言われて終わってしまった。

この調子では誰に聞いても同じ返事が帰ってきそうなので意を決して大ちゃんに連絡をすることにする。

が、しかし、

気まず~
気まず~

いざとなると決心が鈍りしばらくウジウジとしていたが
このままではラチがあかないので思い切って、
「お疲れ様です。今電話しても大丈夫ですか?」
とLINEしてみる。

5分程してから既読がつき、

お、既読ついた、
相変わらず早いなおいと思う間もなく

私の携帯がいきなり鳴り出す。

わわわわわわ!!!!

アワアワしながら震える私の手の携帯の画面には「大ちゃん」の文字。

いきなり何の前フリもなくかけてくんなよ。
びっくりするやんか!

ビビりながら電話を取ると、

「お疲れ~」

と妙に明るい大ちゃんの声。

こういう時私なら、

「どしたん?何かあったん?」

とすぐに聞いてしまうのだが、
大ちゃんは絶対に聞いて来ない。
普通に世間話をする様な姿勢を見せて遠回しに相手の出方を見てくる。

私と大ちゃんは本当に細かい所まで逆なのだ。

「あの~…」

少し躊躇ったが、今までの長いつきあいからの経験から、こういう時は勿体をつけたりウジウジと要領を得ない様な話し方をすればろくでもない結果になる事をこの身に嫌という程しみつかせている私は、
いかにも大した話じゃないんだけどね?的な風にサラリと元気良く告げた。

「あのさ、私ね会社辞めるわ!」

No.275 21/02/20 16:32
自由人 

「えっどうしたん?」

大ちゃんは多少驚いた声を出したが、
まだ探りの姿勢を崩さないのか
それ以上特に驚きも取り乱しもない。

今まで色んな人達の反応で泣かれたり質問攻めや引き止め攻撃にあっていた私は、大ちゃんのその反応にいささか拍子抜けはしたものの正直ほっとした気持ちも強かった。

「あ~ちょっと体力的に仕事がきつくなってきてさ、ほらもう歳だから。」

わざと明るく茶化すが
どうかこの嘘が通じますように…
と内心ハラハラしていた。

仕事が大好きで心配性の大ちゃんに
仕事に対する意欲が無くなったからとか、
日常生活に支障をきたすほどかなり体調が悪いからとか言えない言いたくない。

「そうなんだ…」

大ちゃんがゆっくりと答える。

「そ、そうそう、実は簿記取りました~!へへっ!次は経理事務のおばちゃんになるぜ!」

大ちゃんが何か言い出すかもしれない怖さで
次の仕事も決まっているから安心してねと言わんばかりに聞かれてもいないことを必死でベラベラと一方的に話す。

「そうなんだ?」

「そ、そうなんだよ!だからほらまた皆での飲み会は私は金曜か土曜がありがたいかな~?
だって土日祝が休みになるんだよ!すごくない?!だから金曜日か土曜日が…
あっ!!大ちゃんも本社勤務だから同じじゃない?!」

「………」

私が辞めることと飲み会で私の都合の良い曜日の話の関連がイマイチよくわからなかったらしく
言葉を発しない大ちゃん。

ダメだ…

一方的に意味不明な話題をふっておいてなんだが、この沈黙は耐えられない。

「あ、そだ!今なにしてんの?」

「え?……えと…帰るとこだったから会社の駐車場だけど…」

「帰るとこ?!
ごめんごめん気をつけて帰ってね!!」

「え?あ、ああ、ミューズも気をつけて頑張って。」

「おう!ありがとう!じゃまたね!!」

電話切る。

ふう…

何とか伝えた。

これでやっと全員にだ。

ずっと音信不通だった三木君にでさえ
大ちゃんよりは前に伝えることができた。

そうなると
いよいよ終わりなんだなという気持ちが日に日に湧いてくる。

「8月〇日に大勝でいつものメンバーでやります。仕事が終わり次第来て下さい。」

大ちゃんとの電話から数日後、
そんなしんみりとした私の気持ちを吹き飛ばすかのようなタイミングで、牧田君から飲み会の日程の連絡が入った。

No.287 21/03/18 21:13
自由人 

2018年の5月からブルームーンストーンを書き始め、ほぼ3年近くの月日が経ってしまいました。

強烈な遅筆故に、ある程度はかかるだろうと予測はしていたものの、
まさかこんなに長くなるとは書いた本人も全く思っておらず、ブルームーンストーンを書き始めた頃から長年寄り添う様にずっと読み続けて下さった方々を始め、私の宣伝(笑)や偶然知って読み続けて下さった方々など全ての方々へ本当に感謝の気持ちがいっぱいです。

おかげさまでこんなに長くかかりながらも
区切りである「退職日」まで書き切ることができました。

元々は私のモヤモヤした気持ちを吐き出すために
書き始めた物でしたが、このブルームーンストーンを通じて声をかけて頂いたりキャラへの感想を頂いたり本当に嬉しく楽しい思いを沢山させて頂きました。

そして、時折注目スレの1位などに何度かあげて頂いて宣伝して頂きましたミクルの運営さん、
嬉しかったですスクショも撮りました(笑)
本当にありがとうございます。

なお、実話を元にしておりますので、最後までスッキリ解決しない点や、身バレしないよう小賢しい脚色ゆえの時系列や細かな設定などの辻褄の合わないお見苦しい点が多々ありましたこと
謹んでお詫び申し上げます。

ではあらためまして
皆様、長い間ブルームーンストーンに
お付き合い頂きまして
本当に本当にありがとうございました。


2021年3月

ミューズより




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