リフレイン
日常の生活の中で
少しずつずれていく二人の距離は
やがて重ならない音になって
誰もいない空間に響いていく─
「おかえりなさい」
帰ると、妻が玄関で、笑顔で出迎えた。
「……は?」
私は、眉間にシワを寄せ、前かがみになって靴を脱ぐ。
リビングに入るまでの間、妻は、ずっと笑顔のままだった。
なんとなくその笑顔を正面から見れずに、ソファーにカバンを放り投げる。
「ねえ、今日はあなたの好きな物でまとめてみたの。はやく食べてみて」
テーブルの上には、牛肉のそぼろ煮、カツオのたたき、コーンサラダが整然と並べてある。
「……風呂、先に入る」
そう言い残して、私は、足早に寝室へ向かう。
クローゼットの前でネクタイをほどきながら、私は、
「……何の、冗談だよ……」
と、つぶやいた。
食事中、妻は、ずっととりとめのないことをしゃべり続けていた。
今日昼間見たテレビの話、部屋を模様替えしようとしたけどやめて、結局そのままになっていること、夕方、空の色がすごくきれいだったこと…
私は、好物を口に運びながら、何も話さなかった。
相槌さえも打たない。相槌がなくとも、妻のおしゃべりは、延々と続いていった。
ふっと、話がとぎれ、妻がぼんやりと私を見つめる。
食事を終えていた私は、やっと区切りがついた、と思い、「ごちそうさま」と、立ち上がった。
寝室のベットに寝転んで、闇の中で目をこらす。
妙に意識が冴えている。薄暗い中で、クローゼットやドレッサーや、ひとつひとつの家具の輪郭が、際立って見える。
そのうちに、ドアが開き、妻が部屋に入ってきた。
私は、あわてて目を閉じる。
妻は、悪びれることもなく、ベットに入り、くるりと、私の横にもぐりこんだ。横を向いている私の背中に、やわらかい妻の気配がする。私は、じっと、身をこわばらせた。
やがて、規則正しい妻の寝息が聞こえてきた。
私は、それからしばらく寝付かれず、そっと、妻に体が触れないように、何度か寝返りを打った。
妻は、微笑んだような表情で、深く、眠りに落ちていた。
「自分ちの奥さんが何考えてるかなんて、わかんねーよなぁ」
同僚の山口が、カウンターに置いたジョッキを握りしめたまま、だいぶろれつが回らなくなった口調で、言う。
「ああ」
「最近全然しゃべってないなと思って、久しぶりに早く帰ったら、帰ってなくて、仕方なくひとりでごはん食べてたら、あら、今日は早かったのねなんて言って、私英会話始めたからなんて、事後報告でごめんねなんて言われてもよー、それ、授業料、オレの働いた金でしょ?なんて、言ったら怒るから言えねーけどさあー」
周りのガヤガヤとした喧騒と、食器やグラスが触れ合う雑多な金属音が、やけに耳につく。
私は酔えないたちなので、同じくらいの酒量で、すでに表情も服装も崩れている山口を、うらやましく思う。
「あいつ、ほんとに英会話習ってんのかなあー、もてるヤツだからさあー、外人と浮気なんて、しないかなぁ…」
「それは、ないだろう」
「ええ?どういうこと?裕平クン、うちのカミさんは男にもてないって?そーいう意味?じゃ、聞くけどさ、おまえ、自分の奥さんが絶対に浮気しないって保障じゃなくって、確信みたいなもの、ある?」
「うちは、もう、そういう段階じゃないから」
私が言うと、山口の目が、ちょっと正気に戻った。
「は?なに?もしかしておまえたち、やばいの?」
「うん。いっそ浮気でもしてくれてたら、いいきっかけになる」
山口は、けげんな顔をして、私を見る。
店の中は、私達と同じようなサラリーマンや、OLたちの歓声で包まれ、酸化した油の匂いが、アルコールと混じっている。
山口は、黙ったまま、会話の続きを待っているようなので、私は話し始めた。
「ほんとは、こっちが悪いんだよ。ずっと放ってたから。もうちょっと、話も聞いてやればよかったんだけど… そんな余裕、なかったからさ。いつのまにか、顔を合わせたら、ケンカしかしなくなってた… よく、手が出なかったよ、お互い」
「そうか… 身につまされる話だよなぁ」
手元のぬるいビールを見つめながら、私は続けた。
「たぶんもう、元には戻れない。もともと美希は、さびしがりやだからな、ずっとそばについていてくれる男が必要なんだよ。女は手がかかると思ってたけど、妻は、それ以上だ」
沈んだ空気にならないよう、冗談めかして言ったつもりだが、山口は、笑わなかった。
「最初は、幸せにしてやろうと思うんだよなぁ… しょせん、別々に生きてきた人間が一緒に暮らすんだもんな。それなりにひびも入ってくるよ」
「修復不可能だよ」
「もう一度、話し合ってみろよ」
私は、苦笑いして、ビールを飲み干す。
「話し合うべきことは、全部話した。もうたくさんだ」
「……」
「はっきりしたら、報告するよ」
山口は、しばらくうつむいて、カウンターに突っ伏して、
「あー、悪酔いしそうー」と、背中を丸める。
串の散らばった皿を寄せていると、私の目の前にある木目の壁が、一瞬、ゆらりと揺らいだ。
はじまりは、初夏の明るい頃だった。
朝になると、二人でベットから抜け出し、服を着て、何もなかったように大学に向かう。スリリングで、やさしい日々だった。
そして、親密になるにつれ、ささいなことでケンカするようになった。
いつも、美希が涙声になり、私に言う。
「どうして、わかってくれないの?」
そういう彼女の目は、キラキラと輝きながらうるんでいて、こいつには、オレがいなきゃダメだな、と思い、たいがい、こちらから折れてケンカは終わった。
ある時、ふいに、美希から「生理がない」と言われた。
驚いた私は、「とにかく病院に行け」と言ったが、彼女はしばらく、迷っていたようだった。
落ちつかない日々を送り、単位を取ることに明け暮れ、彼女に会えず、連絡を取れないもどかしさにあせっているうちに、三週間ぐらい過ぎた。
漠然と考えていた想いが、徐々に決心に変わる。
結婚するなら、美希しかいないということ。
それからは、就職するために、ありとあらゆる努力をした。
大学の就職担当員に面接を取り付けてくれるように頼み込み、反対する両親を説得し、内定を取り消された会社に直談判に行ったり、そんなくり返しで、なんとか、二人で生活するための道すじが見えてきた。
すべてのことが、もう、遠い過去に思える。
別れという結論が出た今となっては、彼女に言える言葉は何もない。
言えるとしたら、やっぱり、「ごめん」としか、言いようがない。
「……今朝から、体調がおかしいの」
妻が、パジャマ姿のまま、リビングに出てきた。
「今朝から?」
「うん…… ううん、昨日の夜から… 食あたりかな」
そのまま、ぐったりとソファーに横たわる美希を見下ろしながら、私は、「朝ごはんは?」と、聞いた。
「トーストでもいいかなぁ… 自分で焼いてくれる?」
ふと、炊飯器を見ると、スイッチが入っておらず、中には冷たい米がそのまま水に浸っている。
私は、黙って食パンの袋を探し、1枚、電子レンジの中に入れた。
「……あー……だるいー…」
美希の言葉を受け流して、コーヒーを作って、飲み、トーストだけの朝食をとって、そのまま会社に出かける。
いつも、彼女は低血圧気味なので、朝から食事を終えても横になっていることが多く、ほおっておいても大丈夫だろうと思い、仕事に没頭し、一日が過ぎた。
家に帰り着いて、玄関の明かりをつけて、ゾッとした。
妻が、朝とまったく同じ様子で、髪をふり乱し、ソファーに横たわっている。
「……まだ、具合悪い?」
私の問いかけに答えず、彼女は、乱れた髪を少し持ち上げ、こくりとうなずいた。
とりあえず寝室へと向かい、ネクタイを取り、妻に呼びかける。
「ごはんはー?食べてないのー?」
返事はない。
心配になり、リビングへ戻ると、彼女は、さっきと寸分たがわぬ様子だった。もうすでに肌寒い時刻だったが、チェックのパジャマのまま、身動きひとつしない。
私の中で、何かが音をたてて崩れた。
「明日… 病院に行ってみたら」
自分の声が、やけに冷たく聞こえる。
「平日だから、予約しないでも診察してもらえるだろ。子供じゃないんだから、一人で行ってこいよ」
「うん……」
胸の中で、明日の仕事のスケジュールと、妻の体調をはかりにかける。
ギリギリのバランスで、仕事に針が下りた。
「先、シャワー浴びるから」
返事を待たず、リビングを出る。毛布を取り出すのも面倒くさいので、ヒーターのスイッチをつけた。
翌日帰ると、美希は、外出着のまま寝室のベットの上にぼんやりと座っていた。
「美希?」
呼びかけると、彼女は、ゆっくりとこちらを見て、「行ってきたよ」と、低い声で言う。
「どこに?」
「病院」
「……どうだった?」
「先生が、家に電話するって。ご主人のいらっしゃる時間はいつですか、っていうから、今日の夜は早く帰ると思います、って答えた」
「そう」
内科の受付で名前を告げると、若い男性の医師が現れた。
「青木と申します」
声の感じから、私と同じ世代の人間だとわかった。
「どうも… お電話頂いた長峰です」
「お忙しいところすいません。私も、内科の担当ではないんですが」
「と、言いますと?」
「正式には、心療内科です」
美希の病気が、体の疾患だと思っていた私は、かなり、驚いた。─心の病気?
「奥さんの血圧や心拍数が、通常よりかなり低下しているので、ちょっと専門的に検査したんですよ。なにか引っかかるものがあったので、脳検査しましたところ、少し… フィルムを、お見せしましょうか」
青木医師が提示した脳のフィルムには、ところどころに、くっきりと空洞が映っていた。
「萎縮でもなく、固まりでもない、いわば、欠落という状態です」
「欠落… 」
「そうですね」青木医師は、フィルムをデスクに置き、ゆっくりと私の目を見た。
「精神的な病気は、最近増加してます。ネットとかで、ご覧になったこと、ありますか?」
「え、はい、少し」
「ここ数年、心と体のバランスの崩れから、日常生活を人と同じようにおくれなくなっている人たちが増えてるんです。引きこもりとか、うつ病とか、まあ様々ですが、それでも体が健康であれば、精神の病が治った時、元通りに近い状態の日常生活を送れます。しかし、体に異常があれば、かなり難しい」
「妻は… どういう病気なんですか?」
「最近、生理痛がひどいとか、そういう事、おっしゃってないですか?」
「いえ… 以前、一度流産しまして、それからは、毎月、特に変わった様子はなかったんですが… 」
「4、5年前ですかね」
「はい、大学の頃です」
「女性の場合、子宮の疾患は、かなり深く脳と関わっています。脳というか、精神、心の状態ですね。ストレスを抱え込んでいると、生理の周期も変化したりする。奥さんの場合は、他の人が1年くらいで修復できる子宮の欠落を、5年ほどのサイクルがあっても修復できていない。
わかりますか?体の細胞も、治癒を拒否しているということです」
「………」
「脳の場合は─ まだ、研究も十分ではありません。はっきりしたことは言えませんが、あまり前例がない症状です。
ここでは、他の医者とも連携をとって、一人の患者の症例を分析して─ 分析というのも、変な言い方ですが、早く良くなってもらえるように、努力しています。そのためには、本人だけでなく、ご家族とも力を合わせないといけない」
私は、青木医師の言葉ひとつひとつを、焼け付くような気持ちで聞いていた。
黙って僕が片付けると、美希が、
「そのままにしといて」と言う。
「…ちゃんと、昼、食べてるのか?」
「まだ、ちょっとおなか痛いの」
「ちゃんとごはん食べないからだろ」
「だって、作るのもしんどいし、パンとか、軽いもののほうがいいの。心配しないで」
アディダスの黒いジャージのまま、椅子に座り、じっとテレビを見続けている彼女を横目に、私は、新聞を広げる。
他国のニュースを目で追って、ふと、生活面の、『主婦層に忍び寄るストレス症候群』という文字を見つけ、思わず紙面をめくった。
ガサガサという音がわずらわしかったのか、美希が、テレビのボリュームを上げる。
うつろな目でパンをかじる彼女の目は、やはり、なんだか異様だった。
脳の欠落─
その言葉が、考えたくなくても、何度も心の中に浮かび上がる。
テーブルの上に散らばったままのパンくずを、気にすることもなく、パンをかじり続ける彼女の姿は、確かに以前と違う。
きれい好きだったので、食事の時は必ず私とセットになっている白い皿を使っていたし、栄養も気にして、間食なんかほとんどしなかった。
ダイエットの必要もないような、スリムな体型だし、逆に、「もっと食べたら」と人からすすめられるくらい、かぼそく骨ばった感じだ。
そういえば、普段、元気そうにしてたから、妻の健康の事まであまり考えてやらなかったな、と、しみじみと思う。
突然、美希は立ち上がり、スタスタと冷蔵庫に向かって歩き出し、扉を開けると、中から缶コーヒーを一本取り出した。
冷蔵庫の扉を開けたまま、プルタプを引き、ゴクゴクと飲み始める。
「……冷たいんじゃないの?」
温めて飲んだら?と言おうとする私に、美希は、
「ほっといて」
と答え、無理にのどに流し込むように、缶コーヒーを一本飲み終えた。
じっと目で追っていると、彼女は、流し台に空の缶を置き、また戻ってきて、椅子に座る。
テレビを見続ける彼女の顔には、表情がまるでない。
私に話しかけることもない。私から話しかけようか、と思ったが、じっと一点に集中した彼女の視線に、あきらめ、新聞を開きなおし、続きを読んだ。
その日、美希の母親から連絡が入った。
「娘から聞いたんですけど… 最近、あの子、病院に通ってるみたいで… 」
「─ええ、すいません、私も忙しくて、そちらのほうにお伝えしようと思ってたんですけど」
「いえ、いいのよ。裕平さんはお仕事があるから。私も、このあいだから、なんやかやとバタバタしていて、ろくにあの子と連絡もとってなかったから、びっくりしたんだけど… なんだか、病院通いも、長くなるようなこと言ってたんで、心配になってね。
あなたのほうも、出張とか何とか、家を空けることもあるでしょう?
ちょっと、久しぶりに、娘の様子を見に行こうかと思いましてね」
「はい」
「ごめんなさいね、今月は立て込んでいて、下旬になったら、いろいろと交通機関の予約も取れると思うんですけど」
「うちは─、25日以降だったら、私の仕事も一段落つくんですが」
話し合った結果、美希の母親が、家を訪れる日が決まった。
「それじゃ、娘によろしく伝えてね」
電話が切れたあと、私は、美希に、「今度、おかあさんが来るそうだよ」と言ったが、彼女の返事はなかった。
近頃は、ずっと、部屋のカーペットの上にうずくまり、ひざをかかえている時間が増えている。
雑誌を読んだり、テレビを見るわけでもない。頭をあげたり、時々体の向きを変えたりするが、だいたいいつも同じように、ダンゴムシのようにうずくまっている。
私は、食器を片付けながら、このあいだの診察のことを思い返した。
結局、あれからずっと、担当医は青木医師だ。
家での様子を伝えると、彼は、レントゲンを見つめて、言った。
「奥さんの場合、体の機能の回復が、ちょっと極端に遅いんですよね─。血圧も、なかなか正常値まで上がらない。内臓の活動にも、ストップがかかった状態です。おうちでは、ちゃんと食事も採ってられますよね?」
「いえ… すすめても、食べない時もあります」
「─まあ、もともと、食が細いようなお話は、聞いてますが」
青木医師は、椅子に座ったまま、腕組みをして、私を見据えた。
私は、ふと、学生時代に、部活動の先輩から説教された場面を思い出した。
「回復力が、前進してません。どちらかというと、退行しています」
「退行?」
思わず、聞き返した。病室の白い壁が、くっきりとその白さを増す。
「外国では、心や精神の病にもいろいろと名称があり、研究の結果、分類もされています。人が退行していくと、ちゃんと回復していた機能が突然バランスを崩し、異常体となる─ たとえば、『古傷が痛む』という言葉がありますよね?」
「はい」
「子供の頃、骨折して、治癒したと思っていた手足が、なんらかの理由─事故かなにかで─寝たきりになると、再び骨折していた頃と同じように骨が痛み、動かせなくなる、そういったようなことです」
「……はい」
「スポーツの経験は、ありますか?」
「水泳と、野球をしていました」
「まあ、オリンピックでさかんにとりあげられるスポーツは、専門のドクターもそろってるんですけどね。問題なのは、小さい国で、ルールも何も決めずに行われる競技です。選手がケガをしても、治らないうちに試合をする。またケガをする。しかし試合は続く。結局、スポーツしかできない体になるんですよ」
「スポーツしかできない体?」
「リタイアした後、人の助けなしに、日常生活が送れなくなるんです」
「──」
私が黙り込むと、彼は、腕時計をちらっと見て、話を続けた。
「女性の場合は、男性より体が弱いし、出産して子供も育てなければならない。スポーツ選手と比べるのは、無茶かもしれません。
でも、その分、ストレスが表面化する機会が、男性より少ないんです。
ストレスを抱え込んだままの人は、どんどん体の機能を退化させていきます」
私は、青木医師の顔をじっと見つめ、いたたまれない気持ちになり、視線を床に落とした。
「とにかく、食事は、日に3回きちんと食べるよう改善して下さい」
「はい」
「次回のカウンセリングは、奥さん一人で来られますか?」
「いえ… 私も、付き添います」
「そうですね。お二人でいらして下さい」
次の診察の時間になったのか、青木医師は、ファイルを棚から抜き出し、「それでは、何か疑問があれば、看護士に聞いて下さい」と言い残し、ドアから出ていった。
私は、ひざの上にあるスーツの上着を手に取った。
立ち上がって、上着を着ようかどうか迷い、結局そのまま右手に持ち、ドアを出た。
ドアの外は、待合室のロビーから吹き抜ける戸外の風が、冷たくただよっていた。
思い出しながら、美希の様子をうかがう。
彼女は、うずくまったまま、部屋のカーペットの模様をなぞっている。
何をするでもなく、幾何学模様のデザインを人差し指でたどり、時々、つっ、と、携帯電話にふれる。
真っ白い携帯は、もうだいぶ前から、着信も途絶えたままだ。
電話を待っているのか、聞いてみたのだが、ただ、黙っている。
このあいだは、「もう、別に、いい。友達とは、みんなどうせ連絡も取れなくなるから」と言って、それっきりまた黙り込んだ。
結局、最近ずっと、私がうながして食事をさせ、風呂に入れ、早めに休ませる。入院患者と一緒だ。
やはり、きちんと病院で看護してもらったほうがいいかと、悩む。
そんな日々が続いていた。
ある休日に、美希の母親がやってきた。
肝心の美希は、お茶だけ飲んで、「頭が痛い」と顔をしかめながら寝室に閉じこもってしまったので、テーブルには、私と、母親だけ残された。
「美希ちゃんは… あの子は、昔から、弱い所があるんですよ。裕平さんが結婚してくださった時には、ああ、これで安心、って胸をなで下ろしたんですけどねえ、なんだか、かえって負担になってしまって、申し訳ありません」
頭を下げる母親に、私は、反射的に、「いえ、とんでもなです」と、一緒に頭を下げた。
「前にもね、一回あったんですよ」
母親は、淡い薄紫のスーツに、ブレスレットのような腕時計をはめている。時々、彼女が手を動かすたびに、テーブルの上で、小さな腕時計が、コツンと、かわいた音をたてる。
「その時は、私共がいろいろと家のトラブル続きでね…
あの子は、小学校の低学年じゃなかったかしら。私も、主人と、家屋を別にする話をしていて、美希ちゃんをどちらに住まわせるか、ちょっと、もめたんですよね。その時も、ちょっと目をはなしたすきに、お友達の家に一人で行ってしまって、翌日そのおうちのお母さんから送られてきたんですけど、家に帰ってからはすっかりふさぎ込んで、食事も取らなくなって… 学校には、カゼということで、一週間くらい休ませたんですよ。ほんとに、ちょっと熱も出たしね。今思い返せば、あれも、あの子のストレスだったのかしらね」
私は、黙って、冷えたお茶を飲んだ。
「今の人たちにはわからないと思うけど、女が仕事して自活していくのが困難だった時代でしょう? 私の仕事も軌道に乗ってきて、主人は主人で外にお勤めに出るわけだから、どうしても、ズレが、出てくるわけよね。パスポートひとつ取るにも、ものすごく時間がかかるし、その間私の実家に美希を預けてたり、そのくり返しで、結局、私達夫婦は、離れて暮らすことになったわけだけど」
母親は、そこで少し黙り込んで、テーブルの上で両手を握り合わせた。しわが刻まれた皮膚に、指の跡が残される。
「こんな話聞かせて、ごめんなさいね… でも、美希も、時間をかければ、きっと良くなると思うのよ。だって、中学校にあがる頃は、弱かった体もだいぶ強くなって、学校も休まなくなってきたし。
最近は、医療も進歩しているから、きっと大丈夫。連絡してもらえれば、私も協力しに来ますから」
「はい…… 当分は、私も仕事の都合はつくと思うので、病院のほうにも付き添います」
「よかったわ… 裕平さんのお仕事に差し支えたら、どうしようと思って、心配してたんですけど」
そう言って、母親は、ガサガサと紙袋から何かを取り出した。
「これね… とるものもとりあえず来たんだけど、あの子に渡してもらえます?」
「はい… 中身は、なんですか?」
水色の薄いビニール袋に、やわらかい布地のようなものが入っている。
「パッチワークみたいなものなんだけど、外国製でね、布を長くとれば、お洋服にもなるし、まあ、手芸品よね。あの子は、子どもの頃、よくこういうのを作ってて、コンクールで賞を取ったこともあってね。しばらく、家にいる間は、いい気分転換になるんじゃないかと思って」
朝夕、涼しい時期になってきた。
美希の通院も、半年を過ぎ、たくさんの時を費やした。
母親から気分転換にと勧められた手芸品も、美希なりに、完成しているのか、いないのか、リビングや寝室にたくさんの糸くずが散らばっている。
一度作りかけた服を、また、ほどいてバラバラにして、はさみで小さく切れ目を入れて、違う角度から縫いはじめる。
飾りを作ると言って、別の布地を取り出して、中にティッシュを入れて丸め、ふちを縫っていく。でこぼこの、てるてる坊主になりそこねたような布地ばかりが、部屋の中に増えていく。
一度、自分の大切にしていたブランドのスーツにハサミを入れようとしたので、さすがにそれは見過ごせずに、止めた。
「もったいないだろ… まだ、着れるだろ?」
「たくさん着たから、もういいの。はやく次のを完成させたいの」
そう言いながら、無造作に袖の部分にハサミを入れ、布地をゆっくりと切り刻む、美希。
すっかりと顔もやつれて細くなり、きれいだった髪の毛もパサついて、肩のあたりから、からまりあっている。
美容室に行くようにすすめたが、怖がって行こうとはしない。
知らない人に髪を触られるのは、いやだと言う。
家庭での様子を、カウンセリングの時、青木医師に告げると、彼は、むずかしい顔をした。
「なかなか時間がかかりますね… 人によっては、2、3回通院して、場合によっては投薬で治癒することもあります。奥さんの場合、静脈も細いので、点滴などの処置も好ましくない。お薬も、効きにくい体質のようですね」
「はい…… 副作用のほうが、強いみたいです。カゼ薬なんかは、よく、食事と一緒にもどしてました」
「そういう点をふまえたうえで、こちらとしても、なるだけカウンセリングのみで、よくなって頂きたいんですが」
青木医師は、ちらっと、となりの部屋に面している壁を見た。
白い壁の向こう側では、美希が、看護士と話しながら、私を待っているはずだ。
「治ろうとする気持ちが、見受けられないんですよね… どちらかというと、殻に閉じこもるような状態が続いてます。最近、外出されましたか?」
「……公園に、散歩に行きました」
「どんな感じですか?」
「何も話さないので、会話が続きません。時々、何もない方向を見て、ずっと長いこと立ってるんで、こちらが手をひいてやって、家まで帰りつくんです」
「そうですか。まあ、気長に様子を見るしかなさそうですね」
そう言われて、となりの部屋からおずおずと出てきた美希と、ゆっくりと時間をかけて病院の駐車場まで歩き、車で帰った。
帰りついて、しばらくリビングの椅子に腰かけてじっと窓からの風景を眺めていた私に、美希が、声をかけてくる。
「ねえ… これ、作ったから、あげる」
彼女は、笑いながら、両手で、水色の布をまるめて手足をくっつけた、なにかの動物のような、ぬいぐるみのようなものを、私にさしだした。
「……ありがとう」
私も、笑いながら、そっと、それを受けとる。
エアコンの室外機が、小さく、弱々しいモーター音を続けていた。
その夜、私は、寝室で彼女を抱いた。
離婚を決意して、はじめてのことだった。
パジャマと下着を脱がせた彼女の体は、骨が皮膚から浮きあがりそうで、筋のひとつひとつが懸命に全体を支えているようで、私の手は、終始何かを求めてさまよっていた。
力なく私によりかかっている彼女は、途中で、ふいに、涙を流し、枕をつかんで、顔に押しあてた。私は、彼女が窒素しないように、力ずくで枕を外し、そのまま、しっかりと抱きすくめた。すべてが終わった時、彼女の体が変形しているんじゃないかと思うほど、長い時間、そうしていた。
やがて彼女は、ふるえながら私から体をはなし、右腕でシーツをたぐりよせながら、自分もくるまっていき、まるでサナギのようになった。
私は、サナギになった彼女ごと引き寄せて、タオルケットをかけて添い寝した。
今まで出会ってから二人に起こったことを順々に思い返して、久しぶりに、涙を流した。
>> 28
二人で、なにもない平原に放り出されたような気持ちがする。
西も東も、北も南もわからない。寝返りをうてば、上下さえもわからない。
そんな思いをかかえて、かたく目をつぶっているうちに、眠りが訪れて、もう何も考えられなくなってきた─
冷たい風が、窓から吹きつけてくる。
カーテンが、バタバタと、美希のいない部屋の中で音をたてる。
じっと窓の外を見つめていると、携帯の着信音が鳴った。
仕事のスケジュール確認だった。
ゆっくりと携帯を閉じ、私は、外出の支度をする。
「行ってくるよ」
日課になっている、写真の中の美希への呼びかけ。
バスで行くか、タクシーで行くか迷い、結局タクシーにする。
「どちらまでですか」
運転手に聞かれ、ふと、交差点の方向を見ると、渋滞していない。
「すいません、ちょっと遠回りになるんですけど…」
私は、運転手に、行き先の道路の名を告げた。
運転手は、ゆっくりとハンドルを回し、私が通い慣れた道筋へ進み、やがて、スピードをゆるめていった。
〈終〉
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。
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