怪
不可解な話。
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1.こんばんは
トントン!
「こんばんはー!」
女の人の声がして、その声の近さに一瞬ぎょっとするのだが、ああ裏の家を訪ねてきた人か、と納得して、私は再び洗面台の鏡に目を戻す。
私の横にある窓の外の、壁の向こう側が、裏の家の玄関なのだ。
裏の家にインターホンがないことは、引越しの挨拶の時に知っていた。
この辺りは古い家が多く、長屋のように密集して建っている。
我が家も例に漏れず築50年以上の古い家で、それ故に、薄い窓ガラスや壁越しに、外の音は筒抜けによく聞こえた。
トントントン!
「こんばんはー!」
なかなか住人に気付いてもらえないようだ。
トントントン!
「こんばんはー!」
……
トントントン!
「こんばんはー!」
一本調子に繰り返されるノックと呼びかけ。
高く澄んだ女性の声が耳について、だんだん不愉快になってくる。
トントントン!
「こんばんはー!」
トントントン!
「こんばんはー!」
ああもうしつこい!
留守なんじゃないの?
私は、イライラして窓をガラリと開けた。
もちろん壁があって、裏の家の玄関が見えるわけではないのだが、時刻も午後10時。
近所迷惑を考えろ、という気持ちを、窓の音に託したのだ。
街灯や、玄関の鈍い明かりによってぼんやり照らし出されている壁越しに、長い髪をした女の人の後頭部が見えた。
音に気づいて、こちらを振り返ろうとしている。
「こんばんはー…」
その顔が振り返る前に、私はぴしゃりと窓を閉めた。
裏の玄関が見えないように設置されたその壁は、もちろん玄関扉より高く作られている。
そこからにょっきりと生えた女性の頭。
身長は3メートル近いことになる。
私は家中の鍵を閉めて、今夜は早々に布団に入ることにした。
ガタンガタン!
「こんばんはー!」
ガタンガタン!
「こんばんはー!」
窓が揺れている。
3.ぶつかったのは
私の住む町にはニュータウンと呼ばれる市営の集合住宅地があり、かつては、モダンなデザインにフローリング、システムキッチン、水洗トイレ完備という、当時最新の設備で大変多くの人が住んでいたそうである。
しかし、ヤのつく職業の人たちや出稼ぎの外国人、独居老人といった訳ありの人たちが多く住むようになってからというもの、全国的にも治安の悪さで有名な掃き溜め団地と化した。
昭和の終わり頃までは、シンナー片手に自転車に乗る老女、10階近くある棟の屋上から放尿する輩、残忍な殺人事件も起きたりしていたそうだ。
それでも、周囲では新興住宅地の開発が進み、また何十棟も立ち並ぶ建物の一部はリフォームされて若い家族(おそらく他府県から来た事情を知らない人たちだろうが)も住むようになり、大分マシにはなっている。
さて長くなったが、こんな話を聞いた。
ある中学生の男の子が夜中に自転車でフラフラと自宅のあるニュータウン内を走っていた。
すると、斜め前から何者かが、身体をめちゃめちゃに揺さぶるようにして突然現れ、自転車の前に飛び出した。
ガシャン! ーードシャッ!
ぶつかる。
俺は悪くないよ、という思いもあって「大丈夫?」と他人事のように声をかけた。
倒れているのはおそらく女性だったがーー背中に後頭部が付くくらいに、首が折れていた。
少年は怖くなり、慌ててその場を立ち去ったが、様子がおかしい事に気付いた親に事情を打ち明け、翌日警察に出頭した。
無論、被害者は死亡。
スピードを出していたのか、前を見ていなかったのか、酒を飲んでいたのか、あるいはクスリか。
厳しい取り調べの後、少年は釈放されることになる。
現場検証の結果ーー
クスリ漬けだったその女は、遺書を残し、ニュータウンの屋上から飛び降り自殺をはかった事が判明した。
死に切れなかったのか、あるいは筋肉の痙攣だったのか。
不可解な事件である。
4.赤い花の街
あれ、ここにも…
助手席の窓から見やった、民家の軒先。
石垣の隙間から通りに向かって、群生する赤い花を見つけた。
ひょろりと細長く伸びた茎の先に、うな垂れるように下がる、ぷっくりと膨らんだ蕾。
開いた花は朱身がかった赤い色をしていて、薄い紙細工のような四枚の花びらがお椀のように広がっている。
どう見ても雑草ではないが、明らかに植えられたものではない。
それが、この道だけでも3箇所、コンクリートの端や庭先などに、鮮やかな花を咲かせていた。
スマホを取り出して調べてみると、ポピーという花であるらしい。
どこかから種が飛んだのだろう。
「何調べてるの?」
ハンドルを握る夫が尋ねる。
「花がね、あっちこっちに咲いてるの。赤い花」
「ああ、それならこの先に…」
白壁に囲まれた、大きな屋敷。
通り過ぎざまに垣間見た庭は、真っ赤なポピーの揺れる花の海だった。
「うわぁすごい」
綺麗……というよりは、異世界じみていて不気味さすら感じる。
「たしか昔、ここに住んでた男が嫁と子供と親を殺して庭に埋めたとかいう事件があったんだけどね。取り壊されないのは何でだろうなぁ」
独り言のように言って、夫はゆっくりハンドルを切る。
その庭に生えた、「慰安」という花言葉の赤い花。
じわじわと街を侵食するように広がっていく真っ赤な花畑に、私は薄ら寒いものを感じるのだった。
5.おねしょ人形
私が幼少期を過ごしたのはドがつくほどの田舎で、山と川に恵まれた山間の小さな町だった。
子供も少なかったので、私たちは年も性別も関係なくつるんで野山を駆け回っていた。
「なんだろ?」
私がそれを見つけたのは、河原で綺麗な石を拾っていた時のこと。
大きな岩の割れ目の奥に、丸い何かが挟まっている。
手を突っ込んでなんとか取り上げてみると、子供の手のひらほどのまん丸な石だった。
石の中央に穴が開いており、麻紐が通されている。
その紐は束ねてぐるぐるに縛られていて、石を頭に、ちょうどこけしのような形状になっていた。
もちろん、宝物を見つけたと大騒ぎ。
きっと昔の時代のお人形に違いない、そう思った。
考えてみれば、石と紐が組み合わさっただけの物を『人形』と思った時点で、不可解な事は起こり始めていたのだろう。
戦利品を持ち帰り、それを大事に箱に入れて、枕元において眠った。
なんと、その夜…
私はおねしょをしてしまった。
「もう3年生なのに」と母に叱られ、恥ずかしいやら情けないやらで、とても凹んだ。
しかし、その夜も、またその次の夜も…おねしょは酷くなっていった。
母は心配していじめでもあるのかと詮索してきたが、思い当たる原因は何もない。
おねしょが続いて3日目。
「ちょっと、あんた。何か、悪さでもしたか?」
学校帰りに、不意に声をかけられた。
学校近くに住む顔見知りのおばあさんだ。
戸惑っていると、おばあさんが言った。
「川が、迎えに来とるよ」
私は意味がわからず、逃げるように家に帰った。
その夜。
ジュク…
私は身体に違和感を感じて目を覚ました。
そしてぎょっとして跳ね起きた。
敷布団全体が、ぐっしょりと水を含んでいる。
なんとも言えない生臭い匂いが部屋に充満していた。
「お母さん!川が迎えに来る…!」
私は泣き叫びながら親の寝室に飛び込んだのだった。
翌朝、じっとりと湿っぽくなった部屋で、あの人形を入れていた箱が、ズルズルに腐敗していた。
私はその人形をおばあさんのところに持っていった。
おばあさんは「これは、人柱の身代わり人形だね。元あった場所に返しておいで」と言った。
あのままあの人形を持ち続けていたら、私は一体どうなっていたのだろう。
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