注目の話題
男性心理と女性心理
旦那がいちいち人のやることにけちつけてくる。
評価してください こんな僕は人生負け組でしょうか?

【死のアウシュビッツ】

レス5 HIT数 1077 あ+ あ-

高校生
18/10/09 22:30(更新日時)

1933年、ナチスドイツによるユダヤ人弾圧が激化。オットー・フランクはドイツを脱出してオランダに移住する事を決意するも、ドイツ軍は西ヨーロッパにも進駐し、当初は平和だったオランダの生活も1940年に入るとユダヤ系住民の申告が義務づけられ、以降、ユダヤ人弾圧の為の法令が多数制定される。

・ユダヤ人は黄色い星印をつけなくてはいけない。
・ユダヤ人は電車に乗ってはいけない。
・ユダヤ人は15時〜17時までの間にしか買い物ができない。
・ユダヤ人はユダヤ人の床屋にしか行ってはいけない。
・ユダヤ人は夜8時〜翌朝6時までは家から一歩も出てはいけない。
・ユダヤ人は劇場や映画館、その他の娯楽施設に入る事を許されない。
等々、徹底したユダヤ人隔離措置が施行された。そして1941年末にはドイツと占領下のほとんどの国でユダヤ人の登録と隔離が完了。ヨーロッパに住む1100万人のユダヤ人を1人残らず抹消するという方針が固まり、絶滅の為の処理手続きが実行されて行く。

そして魔の手はフランク家にも忍び寄る。
フランク家にドイツ警察が来たのは午後3時頃だった。「マルゴー・フランクはいるかっ!?」と警察の怒鳴り声が響く。夫のオットーは不在で、慌てて妻のエーディト・フランクが出ると、警察からカードを渡される。それはマルゴーへの強制収容所への出頭命令だった。帰宅したオットーは、妻からこの話を聞かされるとすぐに潜伏生活に入る事を決める。

フランク家の隠れ家生活は、1942年7月から1944年8月までの約2年強に及んだ。
父オットー・フランク、母エーディト・フランク、姉マルゴー・フランク、そしてアンネ・フランクの4人と、ヘルマン・ファン・ペルスと、その妻アウグステ、息子のペーター、さらに4ヶ月後の11月からはフリッツ・フェファーが加わり、8人の隠れ家生活となる。

隠れ家生活を支えたのは、オットーが経営するオペクタ商会で最も信頼していたスタッフのミープ・ヒース、ヨー・クレイマン、ビクトル・クーフレル、ベップ・フォスキュイルの4人だった。

1941年夏、オットー・フランクとヨー・クレイマンは、隠れ家に食糧や生活必需品を密かに運び始めていた。協力者の1人、ミープ・ヒースは戦後、次のように語っている。
「オットー・フランク氏から潜伏計画を打ち明けられ、『君は反対しないか?』と尋ねられました。私は『全く反対しない』と答えた。するとオットーは、『ミープ、私たちが隠れ家に住んでいる間、面倒をみてくれるかね?』と尋ねてきたので、私は『もちろん』と答えました。『ミープ、ユダヤ人に協力する人間には厳しい罰が待っているのだよ、収容所に入れられるかもしれない…』オットーがそこまで言ったところで遮り、『私はもちろんと言ったのよ?心の底から』と言ったのです」

オットー・フランクの人柄がものをいった事は言うまでもないだろう。彼は誠実なビジネスマンで、どんな人にも手を差し伸べるという人徳があったようだ。もし彼が横暴で我が儘な人間であったならば、協力者達は手を貸さなかったであろうし、あるいは手を貸す素振りを見せ、実際に潜伏生活が始まった時点でオットーをドイツ秘密警察に売ったかもしれない。

タグ

No.2723736 18/10/09 22:28(スレ作成日時)

投稿制限
ハンドル名必須
年齢性別必須
投稿順
新着順
主のみ
付箋

No.1 18/10/09 22:28
高校生0 

その日は突然きた。

1944年8月4日、午前10時過ぎ、ドイツ秘密警察が突然オペクタ商会に踏み込んできた。銃口を向け、「責任者は誰だ」と問うと、隠れ家生活の協力者で、オットーに変わってオペクタ商会の責任者をしていたクレイマンは、「私ですが…」と名乗り出る。何者かによってオペクタ商会にユダヤ人が隠れている事が密告されたのだ。秘密警察はクレイマンの背中に拳銃を突き付け、「案内しろ」と脅迫した。クレイマンは「分かりました」と静かに答えた。

恐れていた事がついに起きた。3階の踊り場にある、隠れ家に続く回転本棚の前に来た時、クレイマンは口から心臓が飛び出そうなほど鼓動が高鳴っていた。本棚の向こうには何も知らないアンネ達がいるのだ…!
ドイツ警察は本棚を指し、『開けろ』とクレイマンに命ずる。
おしまいだ…

隠れ家への扉を開けた時、クレイマンの目に最初に入ったのはエーディトだった。クレイマンが「ゲシュタポ(ドイツ秘密警察)だ」と言うと、エーディトは放心状態となり、そのまま動かなくなった。そしてそばにいた娘のマルゴーは恐怖のあまり、すすり泣き出した。

オットーはペーターの勉強を見る為に、4階のペーターの部屋にいて、何やら階下から音が聞こえるとは思ったが、気にせずペーターの勉強を見ていた。しかし、突如、誰かが階段を駆け昇ってくる音がして、ドアが開くと同時に銃口を向けたドイツ警察が現れ、階下へ降りるよう命令される。
こうして隠れ家にいた8人は、全員、呆気なく捕らえられたのだ。

隠れ家での2年間は、恐怖・苦痛との戦いだった。
夜中、誰もいるはずのない階下で物音がし、もしやドイツ警察が捕まえに来たのでは!?と、8人は全員4階の部屋に集まり、息を殺して身を寄せあった。実際には泥棒に過ぎなかったのだが、階下に行って確認する事も出来ない隠れ家の人々は、ただひたすら恐怖に震えた。
また、消火器点検や、建物の修繕などで大工といった外部の者が会社に入ってくる時なども、全員が入り口から一番遠く離れた4階に集まり、見つかる事の恐怖に耐えながら、見つからない事を祈った。

No.2 18/10/09 22:29
高校生 

狭い隠れ家で8人が暮らす窮屈さ、絶対に物音を立ててはいけないという、慎重な行動を要求される暮らし、外に出れない、いわば閉じ込められた中での生活は想像以上のストレスであった。

しかし、最初は存在に気付かれぬよう注意を払っていた住人達も、2年間という隠れ家生活の中で徐々に慣れが出ていた。事務所の人たちが帰社した後、また、会社が休みとなる土日には、住人たちは階下に降りて行水をしたり、息抜きをするのだが、気配を悟られぬ為の後始末が雑になり、倉庫番の男性職員が月曜に出社すると、その異変(人の気配)に気付いたりと、住人たちに緩みが出ていたのは否めなかった。
回転本棚は隠れ家側から金具を掛けて固定し、外側からは動かせないようになっていた。しかし、ドイツ警察がアンネたちを捕らえに来た日、回転本棚の金具はきちんと掛かっていなかったそうだ。

私が隠れ家で生活する事となったらどうであっただろう。家族だけでも色々と衝突は起こるのに、ましてや他人と狭い部屋の中で、一歩も外に出られず、プライベートも、娯楽もなく、いつ秘密警察に見付かって強制収容所送りになるかも分からない生活なんて、とても耐えられなかっただろうと思う。まぁ、耐えられないといった所で、生き延びるにはそれしか道が無いのだから、耐える以外に無いのだが…。

午後1時頃、護送用のトラックが到着し、隠れ家の住人8人と、協力者(クーフレルとクレイマン)の2人を乗せ、オイテルペ通りにあったドイツ秘密警察局に連れ去って行った。
ミープとベップは逮捕を間逃れた。
協力者のクーフレルとクレイマンは短い尋問を受け、ドイツ軍によってアムステルフェーンゼヴェフの拘置所連行され、1944年9月7日まで拘留された。その後、市内の別の拘置所で4日間すごした後に、アメルスフォールド通過収容所に送られるが、胃潰瘍を患うクレイマンは収容所で出血が酷くなり、このため9月18日に釈放された。
クーフレルは9月末に厳しい強制労働が待つツヴォレ収容所に送られ、さらにヴァーヘニンヘン収容所でも重労働を課された。その後、ドイツ送りの部隊に選ばれた際、ドイツ国境近くでイギリス軍の攻撃を受け、その隙に脱走する。

No.3 18/10/09 22:29
高校生 

隠れ家の住人達は、1944年8月5日から8日まで、アムステルダムのヴェーテリンフシャンスにある拘置所に収監されていたが、8日の早朝、中央駅に連れて行かれ、懲罰対象者としてヴェステルボルクに送られた。皮肉にもこの列車の旅で、隠れ家の住人達は久しぶりに夏の美しい景色を目にする事となる。そして数時間後、ドイツ国境に近いオランダのドレンテ地方の荒野に囲まれたヴェステルボルク通過収容所に到着。次はどこに連れて行かれるのか常に不安が漂う中、いよいよ死の収容所、アウシュヴィッツ送りとなる。

隠れ家に住んでいた8人のうち、最初に亡くなったのはヘルマン・ファン・ペルスだった。1944年9月5日、アウシュヴィッツに到着した人々は直ちに選別される。まず男と女に分けられ、15歳未満の子供や老人、病弱な者はその場ですぐにガス室に送られた。隠れ家の住人は全員、それぞれ強制労働キャンプに収容され、ここでは人間としての尊厳を徹底的に陵辱する事だけを目的とした数々の措置が取られた。収容者はみな髪を剃られ、囚人服を着せられ、腕に入れ墨でナンバーを刻まれる。ヘルマン・ファン・ペルスは野外で作業を行う強制労働グループに入れられ、数週間後、ガス室で亡くなった。54歳だった。

フリッツ・フェファーは他の多くの収容者と同じように、アウシュヴィッツ以外の場所なら多少とも生活が楽になるかもしれないとほのかな希望を抱いていた。1944年10月、フェファーは医療専門家を中心とする移送部隊に志願し、アウシュヴィッツからハンブルクに近いノイエンガンメ収容所に送られた。しかし、淡い期待は外れ、過酷な労働環境に加え、不十分な栄養と衣服、劣悪な衛生状態、皆無に等しい医療、ドイツ警察や看守による虐待行為などによって、フリッツ・フェファーは1944年12月20日、55歳で息を引き取った。

No.4 18/10/09 22:29
高校生 

エーディト・フランクとその2人の娘は、同じ列車でアウシュヴィッツに到着した他の女性たちとともに、最初の数日間を入所の為の準備期間として過ごした。その後、大半の女たちが野外での重労働を行うグループに配属され、エーディトとマルゴーとアンネもこのグループに含まれていたと思われる。1944年10月末、多数の女たちが上シレジア地方のリーバウ強制労働収容所に移送されたが、エーディトは病を患っていた2人の娘とともにアウシュヴィッツに残る。その数日後、再び収容者の選別が行われ、マルゴーとアンネはベルゼン収容所に送られる事となり、ついに2人の娘に別れを告げる時がきた。数週間後、エーディトは別のバラックに移されたが、病気で高熱があった為、病棟に移される。冬には気温がマイナス40度まで下がるアウシュヴッツ、医療手当てなど皆無の中、エーディト・フランクはこの世を去った。44歳だった。

母親と離れ、ベルゼン収容所に着いたマルゴーとアンネ。駅から何キロも歩かされて辿り着いたベルゼン収容所は、アウシュヴィッツから人が送られてくる前から満員状態で、劣悪な環境の中で疫病が大流行していた。マルゴーとアンネが到着した当初はテントでの起臥を強いられる。最初のうち、2人は悪臭を放っていたテントの中で寝るのを嫌がっていた。しかし1944年11月にこの地方を猛烈な嵐が襲い、テントは全て崩壊。この為、2人は別のバラックに移される。バラックでアンネ達と一緒だった生還者の女性の証言がある。「私はアンネとマルゴーにバラックの中で再会しました。あまりに髪を短く刈られていたので、すぐには分かりませんでした。それにみんなと同じように寒さに震えていました。冬のさなかだというのに、それらしい衣類は全く与えられなかった。アンネとマルゴーは開け閉めの激しいドアのすぐ隣りという最悪の場所を与えられて、だから2人はいつも『ドアを閉めて!ドアを閉めて!』と叫んでいました。でも、その叫びが日を追うごとに弱くなっていって、2人の命のともしびが消えつつあるのが手に取るように分かりました」と…

No.5 18/10/09 22:30
高校生 

そして1945年3月、19歳の誕生日を迎えたばかりのマルゴーは、チフスと栄養失調の為、この世を去り、その数日後にはアンネも力尽き、息を引き取った。15歳だった。

そうして次々と亡くなって行く中、隠れ家の住人8人のうち、たった1人生き残ったのはオットーだった。
オットーはアウシュヴィッツ収容所で病に倒れ、他の収容所に移動させられて行く人達が多い中、そのままアウシュヴィッツに残った事が彼の命を繋いだ。
1945年1月末、ソ連軍によってアウシュヴィッツ強制収容所は解放されたのである。もし、アンネやマルゴーもアウシュヴィッツに残る事が出来ていたら助かっていた可能性が高い。彼女達はベルゼン収容所で3月頃までは生きていたのだから。


それにしてもユダヤ人虐殺は凄惨だ。息を引き取ったユダヤ人の頭蓋骨を切り開き、脳ミソが丸出しになった写真や、冷水を貯めた水槽にユダヤ人を沈め、低体温状態でどれくらい生きられるのか?また、仮死状態から甦生は可能なのか?という人体実験中の写真、ガリガリに痩せこけた子供たちを使って化学薬物、細菌の人体実験の写真など、とても見ていられない、おぞましいものだった。

隠れ家の住人を密告したのは、様々な諸説があるようだが、結局のところ誰が通報したのか、正確な事は分かっていない。
ただ、当時は戦争中という事で、食料事情が悪く、ユダヤ人狩りに協力した者には報奨金や食料が与えられたので、自分が生き延びる為にユダヤ人をドイツ警察に売った人も多かったようだ。

投稿順
新着順
主のみ
付箋
このスレに返信する

テーマ別雑談掲示板のスレ一覧

テーマ別雑談掲示板。ひとつのテーマをみんなでたっぷり語りましょう❗

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧