不純愛
―この愛は、純愛ですか?
―それとも、不純ですか?
「ただいま、清美。」
「あなた、お帰りなさい。
ひどい雨だったでしょう?」
清美は、帰宅した夫の背広を脱がし水滴を払いながら、優しい笑みをこぼした。
「あぁ、季節外れの嵐だな。」
やれやれ…とリビングのドアを開ければ、たちまち夕食の良い匂いが立ち込める。
「うわ~スゴいな。 何かのお祝い?」
夫の問いに、清美は「ふふっ」と微笑む。
「出張で、一週間も居なかったでしょう?
そろそろ、私の手料理が恋しくなってくる頃だと思ってね。」
「ああ、ほんとだ。 外食だかりで飽き飽きしてたし、清美の手料理が恋しかった。」
「でしょー?」
端から見たら仲の良い夫婦。
いや、実際に僕はそう思っていた。
その事に、一切疑いを持った事はない。
清美とは大学の頃に知り合った。
研究生として大学院に残っていた僕。清美は同じ大学の一年生で、僕が公私ともにお世話になっていた坂田教授の一人娘だった。
まだ18歳の彼女は、少女とは言えない程の妖艶な色気を放っていた。
だからと言ってそれが厭らしく見えたとかじゃなくて、なんと言うか…胡蝶蘭の様な凛とした奥ゆかしい美しさがあったのだ。
僕も、他の研究員の連中も清美には儚い憧れを持っていたと思う。
なぜ、儚い憧れなのか…。
―僕らはメガネをかけた、もやしっこだ。
ダサい、面白みもない、そして何より女の子に全く持って免疫がないのだ。
当然、そんな僕らが高嶺の花の清美に話し掛けられるハズもない。
あ……たった、一人を除いて…だ。
その事実を知った時には、憧れの人に会えた様な嬉しさと同時に、夢が壊された様な落胆した様な…何とも言えない複雑な気持ちになった。
でも溢れ出る好奇心には適わず、僕は彼女に色々な質問をした。
本来なら僕が彼女に教えてやらなきゃならない立場なのに。
彼女の口から出る物語の様な研究成果を、僕はきっとバカみたいなキラキラとした目をしながら聞いていただろう。
自分のオタク気質にはほとほと呆れる。
「先生って、まるで子どもの様な笑顔。」
「…は?」
夕暮れに染まる窓辺に、彼女の顔が赤らんで見えた。
「先生の笑った顔、初めて見ました。」
夕暮れ…僕は自分の顔が熱くなるのを感じる。
だがそれは、夕陽に照らされて赤く見えるだけだと…それだけなんだと…なぜか言い訳を繰り返す。
その日、僕は彼女に渡す資料をまとめる為に早朝出勤した。
「待って!」
校舎裏の方から、けたたましい女性の声がした。
こんな時間に…?
胸騒ぎを覚えて声のする方へと向かう。
「離せよ!」
嫌な予感が過ぎる。
ここはあの日、初めて彼女を見かけた場所だった。
そして今、目に飛びこんだのはやはり…彼女と、あの男子生徒だった。
「待って…!爽(そう)、お願いだから話を聞いてっ!」
彼女はそう言いながら、必死に彼の腕を掴む。
「なんの話だよ!あんたこそ、もういい加減…。」
男子生徒がそこまで口ずさむと、僕の存在に気づいて驚きを見せた。
そして、そのまま無言で掴まれた腕を振り解いて去って行った。
すれ違い様に男子生徒は、僕を鋭い瞳で睨み付けた。
あぁ…。
彼には見覚えがあった。
入試で一番を取って総代になった秀才。
(岡田 爽太)だ。
僕は取り残された彼女を見た。
「あの…。」
マズい場面を見られたとばかりに彼女は動揺し、手元が少し震えていた。
何か言いたげだったのだろうが、僕は冷たい視線だけ送ってその場を去った。
トボトボと自宅に着くと異変に気づいた。
「あれ…。」
呼び鈴を押しても清美は出てこない。
留守か…。
しかし、カギを開けてもドアが開かない。
チェーンが掛かってる…中に居るのか?
直ぐに庭に回り、桜の木に登る。
うちは周りの家より背が高い。
だから、いつも2階寝室の窓鍵は開いている。
木登りは幼少の頃から得意だ。
しかも、夏場は研究材料の蝉をよく捕まえる為に僕が木登りしているのは近日中が知っていて怪しまれる事はない。
「よっと…!」
一歩一歩、着々と登って二階を目指す。
「はは…まるで猿だ。」
そして、目に入る光景…―。
木漏れ日の光が目に刺さってぼやける視界…。
眩しい…痛い。
目が痛い…。
「な…んで…?」
カーテンの隙間から見える妻の身体。
妖艶に微笑みを浮かべて男の愛撫を受ける。
「…嘘だ…ろ?」
なんで…なんで…なんでだよ?
朦朧としながらさまよい歩いた。
何も覚えていない。
浮かぶのは裸の妻。
あいつの背中。
なんだよ…なんだ…なんで…。
幾つもの「何故」が頭を過ぎる。
「はは…、僕は…僕は何も知らずに…。」
自分でも不気味な笑いが湧きおきた。
「ここは…?」
雨の音がする。
微かに甘い桃の香り。
なんて優しい香りがするんだろう…。
「良かった、気が付いた。」
「…誰…?」
視界は未だぼやける。
「篠崎です。 先生、メガネしてないし見えませんか…?」
メガネ……?
顔に触れると確かにしてない。
それに、全身に痛みが走った。
「いっ…て…。」
「あぁ…ダメですよ、腕と足に大きな切り傷と肩は打撲してます。」
そう言いながら、彼女は再び僕を寝かせた。
「あぁ…僕はどうやら木から落ちたらしい…。」
そうか、少しずつ思い出してきた。
あの瞬間、僕は降りようと急いで足を滑らしたんだ。
おそらくメガネはその時に割れた。
「驚きました…先生、帰宅されたと思ったら遅くに傷だらけで学校に来て倒れちゃって…校内は私しか残ってなかったし、先生は酔ってたみたいで帰りたがらないしで結局タクシーに乗せて、うちまで運んだんですよ?」
「…じゃぁ、ここは君の家?」
「はい、ワンルームだし狭いでしょ?」
「いや…見えないし、暗いから正直分からない。」
「ふふっ…視力いくつですか?
メガネないと困りますよね…自宅には予備のがありますか? ご家族も心配してると思うので、お茶飲んだらタクシー呼びましょう。」
自宅…。
改めて他人から聞くと、どこか途方に暮れる…。
帰れる訳がないのだ…。
「篠崎君、悪いけど朝まで居させてくれないか…?
満喫行くにもメガネがないとダメだ。迷惑なのは―」
「構いませんよ。」
彼女のあっけらかんとした返事に面食らった。
「何があったのか分かりませんけど、言いたくない事や、知られたくない事って誰にでもありますから…。」
それは、君と岡田の事なのだろうか…―。
その時、昼間の怒りが僕の心を焦がした。
「…それにしても先生って凄くハンサムなんですね。
メガネない方が良いと思う。いっそのこと、コンタクトにしたらどうです?」
見えなくとも分かる。
彼女は今、あの屈託のない可愛らしい笑みを浮かべているんだ。
女はみんなこうなのか?
その笑みの裏で汚い欲望を抱いている。
刹那―
僕のどす黒い憎悪が渦巻いて、心が壊れた瞬間…
僕は彼女の腕掴んで無理やり押し倒した…―。
彼女は必死に抵抗した。
足をバタつかせて、「止めて」と叫ぶ。
身体中に痛みが走るのに、それすら感じさせない。
僕は、自分の身体を彼女に押し付けて口元を手で塞ぐ。
「生徒とはデキて、僕とはデキない?」
酷く冷たい口調で放った言葉。
「……………。」
みるみるうちに、彼女の身体から力が抜けた。
僕はそれを確認すると貪る様に彼女の身体を欲した…。
卑怯なやり方。
汚い。
僕はなんて汚い生き物なんだ。
そう自己嫌悪しても、直ぐに「僕だけじゃないだろ!」と肯定するのだ。
弱い人間。
時折、僕の腕や手に彼女の涙が伝った…。
そして、僕も止め処ない涙を抑えられないまま…彼女を汚していった…―。
「…ちょっといいっすか?」
彼の、中性的な美しく整った顔に僕は眉を顰めた。
「なんだ?」
疚しさがあるが、冷静を装う。
「あいつ…篠崎。なんで休んでんの?」
「体調不良。」
「あいつ、携帯にも出ねーし。
家にもいねーよ?」
こいつ、僕をナメてんのだろうか?
堂々と何言ってんだ。
「自分の彼女だから心配か?」
僕の問いに岡田は目を丸くした。
初めて見られた表情の変化だ。
「…は?何言ってんの?
あいつ、あんた…いゃ、先生に何も言ってねーんだ?」
「どういう意味だ?」
すると、岡田の口角がニヤニヤと上がって意味深な笑みを浮かべた。
「マジか…!先生さぁ、俺が篠崎と付き合ってると思ってたんだ!ハハっ、ウケる♪」
僕はその時に全身の血の気が引いて行くのを感じた。
「篠崎は俺の姉さんだよ。
先生、とっくに知ってると思ったのに。」
そうか…道理で…。
しっかりちゃんと見れば、分かったじゃないか…彼(岡田)と彼女(篠崎)はよく似ている。
ガクガクと身体が震えた。
目の前の彼の姿に彼女を重ねる。
僕は何て事をしてしまったのだろうか…!
身の上の不幸を彼女にあたってしまった…。
僕の怒りの矛先を清美でも無く、アイツでも無く…なんの罪もない彼女に向けて傷つけてしまったのだ…!
「先生、新学期の朝さぁ~俺達の事見てたよね?」
「…え?」
「そそくさと行っちゃったから絶対に勘違いしたな~と思ったけどさ。
姉さんが誤解といたとばかり思ってた。 あいつ、鈍臭いから言ってなかったか…。」
頭をポリポリと掻きながら岡田は言った。
「岡田…名字。」
めちゃくちゃな頭で僕はやっと一言発する。
「名字?
あぁ…違うって事? 姉さん、中学ん時に母さん側の叔母さん家に養女に入ったんだよ。」
「養女?」
「そう、俺のせいでね。
それから姉さんと会ったのは10年ぶりのあの日の朝。
そして、感動の再会を果たして今に至る。」
10年ぶりの再会…。
「…ごめん、岡田! 僕行かなきゃ!」
「え?おいっ…!」
僕は無造作にカバンを手に取ると急いで学校を後にした。
息を切らして彼女のアパートを訪ねた。
呼び鈴を鳴らしても、ドアを何度叩いても彼女は出ない。
やはり留守のようだ。
ドアの前にしゃがみ込んで、僕は彼女に対する償いを考えた。
―ふとあの甘い香りが鼻を擽る。
「先生…?」
顔を上げると彼女がいた。
困惑した様子の彼女を僕は抱き寄せる。
強張る彼女の身体に僕がした事の罪深さを思い知る。
「ごめんっ…!」
堪らなくなって離す。
「僕は君に最低な事をしてしまった。
どれだけ君を傷つけたか…本当に申し訳ない!
どうか、僕を訴えてくれ!
どんな社会的制裁も甘んじて受ける!」
僕は深々と頭を下げた。
クスっ…と聞こえた声に僕は彼女を見た。
いつもの調子で彼女は微笑んでいた。
「篠崎君…?」
「中…入りませんか?」
そう言って彼女はバックから鍵を取り出すと慣れた手付きでドアを開けた。
僕は、そんな彼女の態度に拍子抜けしてしまった。
小さなテーブルに運ばれた紅茶を口に含む。
そしてゆっくりと話し始める。
「どうか、僕を許さないで。
一生憎んで欲しい。」
すると、彼女は首を横に振った。
「ずるいのは私です。先生の弱さに漬け込んで…ああなる事を望んだんですよ。」
「…え?」
「先生の事、ずっと好きでした。」
―僕は困惑した。
「ずっと…って?
君が赴任した時から?」
更に彼女はフルフルと首を振る。
「大学の研究室にあった先生の論文や研究記録を見ました。こんな凄い人がいるんだ…なんて憧れました。学校に入ったのは、先生の元で学べると思ったからです。会ってしまったら、好きな気持ちが膨れてしまって…でも、先生には家庭があるから諦めようとしました。
幸い、先生は私が嫌いでしたでしょ?
諦められると思ってました。」
僕は、彼女の告白に戸惑っていた。
「…それでも、僕のした事は許される事じゃない。」
「それなら、私も同罪です。」
「違う…そうじゃないんだ…あの日…本当は…っ」
僕の固く震えた拳に彼女が手を添えて言った。
「良いんです。
言わないで…、愛されていない事も分かってます。
あの日、私達の間には何も生まれていない。
だから、何もなかったのと同じです。
先生は、奥さんの所へ帰ってちゃんと幸せになる方法を二人で見つけ出して下さい。」
たった数日なのに家が見えてくると、もの凄く懐かしく思えた。
高校教師が一生かけても建てられそうにないこの家を用意してくれたのも教授だ。
「僕の物なんて元々、何一つ無いじゃないか…。」
虚しさからポツリと呟く。
カギを取り出そうとポケットを探る。
すると、カチャリとドアが開いた。
しわくちゃの白いシャツを着たアイツだった…。
皮肉な笑みを浮かべる男。
「孝之……!」
「まぁ、入れよ。
自分家だろ?」
殴りつけたい衝動を抑えて僕は中へと入った。
まず、室内の荒れ果てた光景に驚愕した。
もはや絶句だ…。
リビングの床に、スリップ一枚でペタリと座り込む清美を見つける。
「お前が出て行った後、大変だったんだぜ?」
背後から孝之が言った。
「…は?」
「は?じゃねぇよ…言い訳も聞かず、泥だらけの血だらけでフラフラ出て行ったまま携帯にもでねぇ。
あいつ(清美)その後、暴れて酒浸りでさ。そんなん放って俺も帰れねーしよ。」
僕は、清美にそっと寄って落ちていたガウンを彼女の肩に掛けた。
酷く顔色が悪いが、怒りに満ちた彼女の顔にゾッとした。
クローゼットを開けて、旅行用のボストンバックに荷物を詰める。
ふと、窓辺に目を向けた。
窓から見える桜の木。
結婚祝いにと教授がわざわざ、京都から持って来て移植してくれた立派な大木だ。
「流石にあれは持って行けないか…。」
苦笑いを浮かべる。
「吉宗、本気か?」
名前を呼ばれて我に帰る。
「離婚なんてしたら、教授が黙ってないぞ?」
腕組みをしながら孝之は壁に寄りかかった。
「…いつから?」
僕は静かに問いかけた。
孝之は質問の意味を察した様に答える。
「お前らが結婚するずーっと前から。」
本当はもう分かっていた。
清美の身体を、僕よりも慣れた手付きで抱いていたあの光景―。
あんな風に、快楽に溺れる彼女を僕は知らない。
今なら分かる。
なぜ、僕らに子どもが出来なかったのか…。
君は、最善の注意を払っていたんだ。
確かに、父親がどちらか分からない子どもは産めないよな…。
ドレッサーの引き出しを開けて化粧ポーチを探る。
予想通り…小さな処方袋と、知った名前の薬を見つける。
僕は、深い溜め息を吐いて引き出しを閉める。
孝之の前を通り過ぎ、ボストンバックを手に持つと階段を下りる。
玄関先には清美が立っていた。
僕は、息を整えて彼女に最後の質問をする。
ずっと、聞きたかった事だ。
「なぜ、僕と結婚したんだ?」
彼女は、フッと小さな笑みを浮かべる。
「だって、あなたは父のお気に入りだったから。」
僕は無言で小さく頷いた。
「そうか…。」
「何よ?」
「いゃ…、君は最初から僕を愛してなんかいなかったんだね。」
一瞬、彼女の瞼が揺れた。
「…でも、感謝はしているわ。
あなたは、父の呪縛から私を救い出してくれた。
父も研究も大嫌いよ!あなたなら…何も疑わずに私を受け入れてくれると思ってた。」
彼女が、父である教授を嫌っていたなど微塵も思っていなかった。
昔から僕はこの親子を見てきたけれど、寧ろ親子関係は良好に見えた。
だから彼女の告白は、どこか信じがたい。
でも、理由はどうであれ彼女が僕を利用したのは事実。
今更、そんな事実を突きつけられても僕は痛みを感じなかった。
正確にはもう…痛みに慣れてしまって何も感じなかったんだ。
僕は今一度、玄関先から家の中を見渡した。
10年だ…そんな長い月日を此処で清美と共に過ごしてきた。
平凡な生活だが、その日々は幸せだった。
もう二度と戻る事はない。
…急に喉や目頭が熱くなる。
いけない…早く立ち去ろう。
「離婚届は後で送る…僕の荷物は処分してくれて構わないから…。」
震えた声だったかも知れない。
「分かったわ…。」
溜め息と一緒に清美が応える。
「教授にもお詫びをしに行くよ。」
清美は首を振るった。
「父には、落ち着いたら私から言っておくわ…。」
僕は少しホッとした。
「そうか、すまない。でも…助かるよ。」
心なしか、重たいドアを開く。
すると、夏の生暖かい風がまとわりつく。
僕は、振り返らずにそのまま歩いた。
汗ばむ身体と頬を伝う涙が気持ち悪い。
誰にも会うまいと、足早にホテルへと向かう。
明日からは忙しい。
やる事は、山積みの筈だ…。
―パタリ…と静かに閉ざされたドアの向こう側で、清美は静かに涙を流した。
「これで良かったのか?」
彼女に歩み寄りながら、孝之は言う。
「…あの人は戻って来るわ。」
キリリと強い眼差しで、清美は孝之を見る。
「お前も不器用だな…素直にさ、吉宗に縋れば良かったじゃん。」
「嫌よ。」
流れる涙を拭いながら、清美は強い口調で言った。
「私が縋らなくても、吉宗は自分から戻って来るもの。
必ず…だから…っ。」
清美は孝之を見上げ、そっと指先で彼の唇をなぞる…。
「―だから?」
孝之もまた、彼女の腰に大きな腕を回した。
「絶対に離婚なんてしないわ。」
そう言葉を放った二人は、激しく互いの唇を合わせた。
家を出てからの僕は、予想通りの忙しさを味わっていた。
学校が終わると、直ぐに不動産屋巡りをする。
3件目の不動産屋で、小世帯向きのマンションを借りた。
久々の一人暮らしはそこそこ快適だったが、毎晩夜遅くまで学校に残っている為、洗濯物が間に合い事も多々あった。
食事もインスタントや、コンビニ弁当ばかりになった。
いつも清美が僕の身の回り事をしてくれた事に、今更ながら 頭の下がる思いがした。
「…自炊くらいしないとな。」
誰も居ない部屋にポツリと呟く。
カップラーメンに湯を注いで3分待つ間に、(金魚でも飼おうか…)などと思うのだ。
部屋の時計は午前1時を指している。
僕は、役所から受け取って書いた離婚届に捺印を押す。
すっかりキツくなった指輪を無理やり外すと、それと一緒に封筒に入れた。
そして、何事も無かったかの様に麺を啜るのだ。
「…旨い。」
田舎の両親には、また明日にでも連絡しよう。
きっと、落胆させてしまうのだろうな…。
年老いた二人の事を想うと心がチクリと痛む。
「もう、37だぞ?」
40手前の息子を未だに、心配しなくてはならないなんて気の毒過ぎる。
情けなくて、我ながら嫌になった。
「こんなにタイトなスケジュール組んで大丈夫なんですか? 化学式と、実験教室…。準備だけでも相当、大変ですよ?」
早速、僕の地獄プランを篠崎君に見せた。
彼女とは、あの一件が嘘だったかの様に以前の僕らに戻っていた。
「夏休み返上作戦!(笑)」
こんな冗談も言って、笑える様にもなった。
ガラにもなく、おちゃらける僕を見て彼女も笑う。
―変化は確実にあった。
僕は、彼女のそんな顔を見つめる。
そして思う…。
愛おしいと…。
ずっと、そう微笑んでいて欲しい。
彼女の柔らかく、そして優しい笑顔に僕は満たされていた。
君の、その細く美しい髪に触れたい。
華奢な腕を引っ張って抱き寄せたい。
こんな事を思うのだ。
しかし、僕にそんな資格などない。
だから、ずっと心にカギを掛けて閉まっておこう。
初めて抱いた、淡い恋心だ…―。
ふと彼女と目が合った。
僕は慌てて、視線を逸らす。
「先生?
やっぱり、一人じゃこれの準備大変ですよ。」
「え?」
一人… ?
その瞬間、僕は大切な事を思い出した。
「あっ!そうだ…篠崎君、夏休みは大学に戻るのか!」
「忘れてました…?」
あぁ…そうか、そうだ、しまった。
しかしもう、校長にはプランを通してしまったし…。
しかも、やる気を見せて喜ばせてしまった。そんな今更、断れないよな…。
「参った~…。」
頭を抱えて、うなだれる。
そんな僕を見かねた彼女が、思い立つ様に言った。
「よし!じゃあプリントは全部、私が大学で作って来ます!」
「いや、それはダメだよ!
君だってやらなきゃいけない課題があるんだろ?
僕のミスなんだし、自分で何とかするよ。」
すると、彼女は拳を胸にポンと当てて言う。
「大丈夫!
私、優秀ですから(笑)その代わり、夜遅くまで研究室に缶詰め状態だから先生が大学まで取りに来て下さい。」
彼女が天使に見えた。
「勿論、僕が取りに行くよ!…ありがとう!」
一命を取り留めた気分だ。
それでも、なるべく彼女に負担をかけない様にと、着々と準備を進めていった。
終業式の夕方、職員の打ち上げの飲み会に参加する為、僕らは急いで資料を片付けていた。
間もなく、いつも陽気な体育教師が僕達を迎えに来た。
一班と二班組に別れて、駅の反対側にある少し離れた繁華街へと向かう。
その間中にも体育教師が、彼女に対して「彼氏はいるの?」だとか
「初めて異性と付き合ったのは幾つの時?」
などと下らない質問を繰り返していた。
挙げ句、「俺なんかどうかな?」なんて言い寄る。
彼女はそんな体育教師に、茶を濁す様な受け答えばかりで正直、腹が立った。
(ハッキリ「困る」と言って断れば良いじゃないか。)
僕が焼く資格もないのだが、堪らなく嫌だった。
プンスカとふてくされていると、僕の周りが急にザワついた。
立ち止まって周りの様子に目を配ると、
「あれって…西島先生の奥様ですよね…?」
反対車線の通りで、清美が男と腕を組んで歩いているのが見えた。
サングラスを掛けているが、背丈からして相手の男は孝之だと分かった。
「え?なに?なに? うそ、西島先生の奥さん?」
周りがヒソヒソとざわついて、僕は気まずさから身体が動かなくなっていた。
「…っ!
痛い…痛たた!」
重たい空気を打ち破ったのは、腹を抱えてしゃがみ込んだ彼女だった。
驚いて皆が彼女を囲んだ。
僕だけ取り残された。
「西島先生!
すまないが篠崎先生をタクシーで送ってやってくれないか!」
教頭に言われて僕も急いで彼女の元へ走り寄った。
「どうした!?」
顔を歪ませて、腹痛を討ったえる彼女を支えて僕は大通りに出た。
タクシーを捕まえ彼女を先に座らせ、心配そうな表情の皆に挨拶を済ませると急いで一緒に乗り込んだ。
「運転手さん、近くの病院行ってくれ!」
そう言うと、彼女は僕の腕を取ってペロリと舌を出した。
呆気に取られた僕をよそに、運転手に向かって飄々と
「葛西に向かって下さい。」
そう言った。
「お腹痛いんじゃないの…?」
驚く僕に、彼女は気まずそうな顔をした。
そして僕は、彼女が芝居を打った理由に気がついた。
「皆の注意を僕から自分の方に引いたんだな。」
僕のムスっとした態度に、彼女はしょんぼりと肩を落とした。
「ごめんなさい…。」
ああ…神様、このまま彼女を連れ去りたい。
こんな仕打ち、あまりに残酷じゃないか。
無言の僕達を乗せてタクシーは走る。
夕暮れの薄暗い道をひたすら…―。
ただ広い場所に、巨大な観覧車が立ち尽くす。
まるで、そこに取り残されたみたいに。
その姿を圧巻だと感じるのか、寂し気だと感じるのか…。
僕らは乗客の少ない観覧車に乗って空中散歩をしていた。
観覧車なんて小学生以来だ。
「凄い!街が米粒みたいに見えますよ!」
彼女はハシャいで、ドア付近にへばり付きながら外を眺める。
「まるで、子どもだな。」
思えば、彼女とは一回り近く歳が離れているのだ。
僕がそう思うのは当然だった。
「だって私、観覧車とか初めてだし…。」
「ええ~?!マジ?」
僕が驚くと彼女は笑って答えた。
「マジ♪」
そのイタズラっぽい笑顔が岡田と重なる。
やっぱり…姉弟だな。
「遊園地とかってさ、初デートとか、グループデートみたいなので行かなかった?」
言った後で後悔した。
(グループデートって古いか…。)
世代の違いが…。
「ないですよ。
そもそも、デートってした事ないです。」
「えぇーーっ?!」
更に、驚愕な答えが返ってきた。
そして、僕の中である疑惑が湧いた。
指先が冷たくなっていく。
確信に振れたくないのに、僕はそれを確認しなければならない。
知らなくてはいけない事実だとしたら…余計だ。
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