不純愛
―この愛は、純愛ですか?
―それとも、不純ですか?
彼女が家を追い出されたと知ったのは、随分と時間が経った頃だった。
医学部の同級生の親が、岡田総合病院に勤めていたから聞けた情報だ。
「俺から聞いた事は、誰にも言うなよ?」
「あぁ…もちろんだよ。
ありがとう、助かった。」
この話題は、病院内でもタブーのようだった。
それにしても…養女に出されたって…また、どうして?
思い当たる事は…
まさか!
俺が、余計な事を医院長に言ったからか…?
それで…娘を捨てたっていうのか?
あり得ない。
俺は、美桜がどこに行ったのか、懸命に探した。
事情を知る奴らからは、深入りすると消されるから止めておけと忠告もされた。
それでも、俺は彼女が心配だった。
自分の事など、二の次と思えたのは、この時が初めてだった。
学校の正門に着くと、俺は時計を見る。
あと、10分くらいで下校時間だ。
うまく見つけられるだろうか…?
部活とか入ってたらどうしよう。
急に、そんな不安が込み上げる…。
次第に、ぞろぞろと生徒が学校から出てきた。
皆、俺をジロジロと見ている。
無理もない。
美桜ちゃんが通ってるのは女子校だ…。
怪しげな男がうろついていたら気味が悪いよな。
いっそのこと、誰かに声を掛けて彼女を呼んで来てもらおうか?
…そんな事を思っていた時だった。
俺の横を、紺色のセーラー服を着た美桜ちゃんが通った。
久しぶりに彼女を見て驚いた…。
今まで、俺が出会った女の子達とは比べものにならない程、彼女は美しくなっていた。
「…綺麗になったな。」
サラサラとした髪の毛に、陶器の様な白くて透き通る肌。
あの頃と変わらない、優しい目元。
桜色の唇。
紛れもなく、俺の知る美桜だった。
俺は、彼女に声を掛けるタイミングを逃してしまった。
友達と一緒に会話を弾ませている、直ぐ後ろを付いて歩く。
(これじゃぁ、まるでストーカーだ…。)
そんな不審者に気付いたのは、美桜ちゃんの友達の方だった。
チラチラと、後ろの俺を警戒している。
俺は、苦笑いを浮かべた。
すると、彼女は美桜に何やら耳打ちをして、いきなり走り出した。
(マズい!!)
「ちょっと…待って!」
二人は止まらない。
「…美桜ちゃんっ!」
名前を呼ぶと、彼女は足を止めてゆっくりと、こちらに振り向いた。
カバンが、バタリと落ちる。
彼女は、口元を両手で押さえて驚いた。
「…本上先生?」
俺はカバンを拾い上げると、汚れを払って彼女に手渡す…。
「久しぶり…。」
(とても、君に会いたかったよ。)
やっと、見つけた。
俺は、自然と心から微笑む事が出来た。
こんな気持ちは初めてだ。
君になら、優しい人間になれるかもしれないと思えた。
美桜ちゃんの友達の名は、(沙希)ちゃんという。
「さっきは、逃げてごめんなさい。
まさか、美桜の知り合いだとは思わなくて…。」
顔を赤らめて彼女は言った。
聞けば、美桜は以前、ストーカー紛いの被害にあったと言うのだ。
他校の男子生徒に待ち伏せされたり、勝手に写真を撮られたりされたらしい。
(無理もないな…こんな素朴な田舎町だと、美桜は目立ち過ぎる。)
「美桜は、隙が多いし、人を疑わない所があるから心配で…。」
「沙希は、心配性だから(笑)」
「笑い事じゃないよ!
この間だって…!」
俺は、二人のやり取りを見て笑った。
「良かったね、美桜ちゃん。
頼もしい友達がいてくれて(笑)」
「…うん。」
美桜は、照れ臭そうに答えた。
彼女は幸せそうだった。
子どものいない継父母に大切にされて、友人にも恵まれていた。
秋田の静かで穏やかな生活が、彼女には合っているようだった。
「何か困った事があったら、いつでも連絡しておいで。」
俺は、彼女と連絡先を交換してその日に、東京へと戻って行った。
東京に戻っても、俺は相変わらずだった。
だた、以前よりかは女遊びが減った。
何故だか、不思議と面倒臭くなったのだ。
身体が衰えてきたのかと内心、ヒヤヒヤしていた。
けれど、清美との関係は、まだ続いていた。
俺の言葉を鵜呑みにして、清美は吉宗と結婚していた。
清美の行動力には驚いたが、何より…あの吉宗が、研究所を諦めてまで清美との結婚を望んだ事が俺には信じられなかった。
「いつまでも、こんな事続けてていいのか?」
情事が済んだ後で、俺は清美に問いた。
「…分からないわ。 でも、こうしてないと自分を保てないの。」
清美はそう答えて、俺の背中を人差し指でなぞる。
「無理に結婚なんかするからだろ。」
俺は、呆れ顔で言った。
「…彼を好きになったのは本当よ。
あの人が、私を愛してくれているのも分かってる。
だけど…時々、苦しくなるわ。」
「…なんで?」
「あの人は…純粋で、真っ直ぐよ?
私とは正反対の心を持ってる。
あまりにも、それが眩しくて自分が惨めになるのよ。」
清美の言っている事は、痛いくらいに理解出来た。
俺と清美は似ている。
綺麗なものに強い憧れがあって…触れていたいのに、完全に手に入れる事はできない。
サンサンと照りつける太陽から逃げ込むように、俺達は日陰を探すんだ。
今…俺の目の前で、彼女はその微笑みを吉宗に向けている。
彼女の表情を見れば分かるさ。
彼女が…吉宗に恋をしている事ぐらい。
あんな笑顔…俺には一度だって、向けられた事はない。
激しい嫉妬心…
小さく震える右手。
俺の大切なものは全部、あいつ(吉宗)が奪っていく。
俺が、どんなに彼女を好きで…
それでも、どうしようも無い事もあると、自分に言い聞かせてきた…。
長い間…ずっと、ずっと年齢が離れているからと諦めて来た…。
苦しかった…なのに…何でお前は、そんな簡単に彼女の心を奪えたんだ…?
俺が、ずっと…触れたいと願った、彼女の髪に…肩に…頬に、唇に…何故、お前は簡単に触れる事が出来るんだ!
俺は、吉宗を憎んだ。
あいつから、必ず美桜を奪ってやる。
そう決心した。
夏休みが終わるまで残り、一週間。
僕も今日、めでたく夏期講習を終えて、明日から3日間の休暇に入る。
「あ゛~…長かった!」
理科資料室の椅子にもたれながら、背中を伸ばす。
何とも言えない解放感!
最高だ!!
僕は、側に置いた携帯を手に取った。
(メール1件)
フォルダーを開くと、顔が綻んだ。
Re:美桜
教授に論文提出して受理されました✌
吉宗さんは終わりましたか❓❓
先に、マンションに行って何か夕飯作っておくね☺💕
僕もすかさずメールの返信を返す。
Re:Re:吉宗
論文提出おめでとう😊
できる事なら、僕も読んでみたいです📓 今から帰るので、先に着いたら待ってて。夕飯は一緒に作ろう。じゃぁ、また後で😉
こんなもんか…。
ギリギリの絵文字だよな…
もうちょっと、デコメ?にした方が良いのかな…う~ん、でも…いい歳したオッサンがデコメってどうなの?
ここでもまた、ジェネレーションギャップが…。
「何してんの?」
「わぁぁぁっ!!」
背後から、耳元に声を掛けられて僕は驚く。
持っていた携帯が、宙を回って落ちた。
「大袈裟に驚くなよ…こっちがビックリしたって。」
落ちた携帯を拾い上げながら、爽太は言った。
僕は焦って、携帯を取り上げる。
「み…見た?」
怪訝そうな爽太の顔に、僕は問う。
「…何?もしかして、出会い系でもしてんの?」
「してないよ!!
だからっそんな、あからさまに軽蔑した様な目で、僕を見るなっ!」
顔を赤らめる僕に、爽太は腹を抱えて笑った。
「…で?何か用か?」
ふてくされ口調で言う。
「何って、約束の本借りに来たんじゃん。」
(あぁ…そうだった。 確かそんな約束してたな。)
「え~っと、ハーパー生化学の原書だったよな…。」
「うん。」
山積みになった本達を掻き分けて探す。
「おっ、あった!あった!あぁ…でもこれ、全英語版だ…。」
いくらなんでも、高校生には難し過ぎる。
日本語訳だってハーパーは難しいぞ?
爽太は、僕から本を取るとペラペラと流し読みをする。
「うん、大丈夫。
全然余裕だ。」
僕の化学者としてのバイブル本を、彼は絵本か何かと勘違いしているんじゃなかろうか…
そう、思わずにはいられない。
「岡田、やっぱり将来は医者になるのか?」
「…多分。」
(そりゃ、そうか…。爽太は、あの病院の後継者だもんな。)
「自分の将来が、決められてるって…辛くないか?」
爽太に質問しているフリして、本当は自分自身に投げかけていたのかも知れない。
爽太も、ジッと僕を見る。
「医者になる事は決まってるけど、どんな医師になるかは、自分で決められるから辛くないよ。」
爽太は、強い眼差でこう答えた。
「先生だって…。」
「ん?」
「先生の将来だって、誰にも縛られてないんだ。
…自分で決めて良いんだよ。」
僕は、身体中が熱くなるのを感じた。
目からウロコと一緒に、また別の何かが出そうになった。
「岡田…お前、カッコいいな。」
「よく、言われるよ(笑)」
ニカッと笑う爽太が、本当に眩しく見えた。
僕は、彼からもらった言葉に背中を押された気がした。
諦めた夢をもう一度、追いかけてみよう …
僕は17歳の少年に、本当に大切な事を教えてもらったんだ。
家に着くと、美桜が玄関まで僕を出迎えに来てくれた。
「お帰り。」
子犬が主人を迎えるような、キラキラとした瞳を輝かせる。
そんな彼女が、とても可愛くて愛おしい。
「ただいま。だいぶ、待ってた?」
「ううん、今さっき私も着いた所だから。」
「ふ~ん…その割には…。」
僕は、彼女が後ろに隠すように、持っている本を指さす。
指で、読んだ所まで栞をしているのを見ればわかる。
「あ…バレたか。」
跋の悪そうな彼女の頭を撫でながら、僕は微笑む。
「そんな、気を使わなくて良いよ。
遅くなってごめんな。 ちょっと、学校で爽太と話してた。」
「爽太と?」
僕は、靴を脱いで洗面所へと向かう。
美桜もその後をついて来る。
「本を貸したんだ。あいつ、スゴイな…よく勉強してるし、将来の事とかちゃんと考えてるよ。」
手を洗いながら、僕は彼女に話した。
すると、彼女は僕の背中を抱く。
「ありがとう…爽をちゃんと見てくれて…。」
僕は、濡れたままの手で彼女の手を握り締める。
「ありがとうなんて言わないで良いんだ。僕は爽太が好きだし、君の弟だから気にかけてるって訳じゃないよ…。」
「うん…分かってる。だから、嬉しいの。」
背中が暖かくて冷たい。
美桜は、爽太の事となると泣き虫になる。
翌朝、僕達はレンタカーを借りて、伊豆方面へと出掛けた。
車の運転なんて、久しくしていなかったから内心緊張していた。
一方で美桜は、楽しそうにお菓子を頬張って時々、僕の口にもお菓子を入れて食べさせる。
「吉宗さん、真顔怖いよ(笑)」
「真剣なんだよ。」
しばらく走ると、海が見えて来た。
海面がキラキラと輝いて波打つ。
美桜は、車の窓を開けて気持ち良さそうに風を浴びる。
「わーーっ、綺麗ーー!」
彼女の、こういう笑顔を見るのが好きだ。
無邪気で、子どもっぽい笑顔。
淑やかに微笑むより、ずっと彼女らしい。
本来の美桜は、明るくて活発的な女の子だったんだろう。
僕だけが知る…本当の彼女。
「美桜ー、楽しいかーーっ(笑)?」
「たのしーーっ!(笑)」
僕だけに向けられる笑顔だ。
途中で、水族館にも立ち寄った。
近海に住むという、魚達を一匹ずつ見て周る。
その度に、美桜博士による生態説明を聞いて、勉強会が始まるのだ。
よくある水族館デートのロマンチック感はない。
他のカップルの女の子はヒトデや、ナマコを嫌がって、触ったりはしない。
でも、美桜はヒョイと摘み上げて細部まで観察&説明。
周りの人々をドン引きさせた。
僕は、それが堪らなく可笑しくて終始笑っていた。
「次は、イルカね♪」
美桜は僕の手を取り、外に出る。
その水族館のイルカは、海を囲った網の中で飼育されていた。
「網の上をジャンプして、外に逃げたりしないのかな?」
僕がそう言うと美桜は、
「ここが、自分の家だと思ってるから。 私達には、不自然に見える光景でも、彼ら(イルカ)にとってはこれが自然なのよ。」
そう言った。
イルカの故郷が、自然界の海だと決め付けているのは人間だけ…。
いや…違うな。
美桜が言いたかったのは、こんな環境に追いやった人間が、今更彼らの自由を求めるのは罪深い…って事かな…?
う~ん、難しい。
「次!ペンギン!」
考え悩む、僕をよそに、美桜はまたもや僕の腕を掴み、足早にペンギンの元へと向かうのだ。
「はぁ~、疲れたね…。」
ペンションにチェックインして、部屋に入ると美桜は、ベットの上に大の字で寝そべった。
まぁ…あれだけ、はしゃぎまくったんだ。
「ムリもないな。」
天を仰ぐ彼女を見て、
(ジャンプして飛び込んでやろうかな…。)
そんな邪な考えが浮かぶ。
「…変な事考えてる人がいる。」
美桜にジロリと見られて、僕は目を逸らした。
「図星!」
「…バレたか。
よし!」
僕は、彼女の手を引っ張って起き上がらせた。
「散歩に行こう!
もうすぐ、サンセットが見られるよ。」
美桜は「うん!」と大きく頷いて、笑うと
てそのまま、僕の背中に飛び乗ってきた。
全身に、美桜の体重がのし掛かって、フラつきそうになりながらも耐える。
彼女をおぶって、僕は部屋を出た。
夕暮れの海辺を二人で並んで歩く。
海風に揺れる髪を耳にかけながら、美桜は夕陽を見つめている。
僕は、思わず携帯のカメラでその瞬間を撮った。
「今、写メ撮った?」
シャッター音で気付かれてしまったけど、「それなら、待ち受けにしてね」と彼女は笑った。
本当に、そうしたいよ。
地平線に沈む夕日が、なんとも神秘的な色を発している。
この色を作るには、どの色の絵の具を混ぜればいいんだろうか…
そんな事をボンヤリと考えていると、横でカメラのシャッター音が聞こえた。
「撮っちゃった♪
ちゃんと、待ち受けにするね(笑)」
美桜は、そう言って逃げ出した。
「こら、待てー!」
「きゃーーっ!」
美桜を捕まえて抱きかかえると、僕は彼女を海へと放り投げるフリをする。
きゃーきゃー言いながら、首元に抱きつく彼女を僕は、どうしようもなく愛おしいと思った。
「愛してる。」
僕は、美桜の耳元でそう呟いた。
彼女は顔を上げて、僕に微笑むと
「愛してる。」
そう返して、キスをした。
波の音が、暗い部屋に漂う。
「…美桜は、爽太が家に来た時、嫌な気持ちとか無かったの?」
僕は、美桜の身体を抱き締めながら問いた。
爽太の話しを聞いた時から、美桜も兄と同じ様な気持ちになったりはしなかったのかずっと気になっていた。
異母兄弟とはいえ、父親の裏切りで生まれた爽太を、そう簡単に受け入れられるものだろうか…。
「…私、それよりずっと前に知ってたから。」
「…え?」
美桜の意外な答えに、僕は困惑した。
「どういう事?」
当時、美桜はまだ小学生だ。
父親の素行を知っていたと?
「…お母さんが、病床で私に言ったの。」
「…何て?」
美桜は、瞳を閉じて母との約束を思い出す。
それは、まだ彼女が幼い頃の遠い約束。
「美桜は、女の子だから強くなってね。」
珍しく、弱々しい声のお母さんが言った。
キョトンとした私の髪を優しく撫でる。
「うちの男の子達は、傷付きやすくて弱いの。お父さんも、朋樹も私達で守ってあげないと、すぐにダメになってしまう弱虫なのよ…。」
「お父さんが…?」
お母さんは微かに微笑んで頷く。
「お母さんが、いなくなる事に凄く怯えているわ…。」
「お母さんは、いなくならないよ!」
私は、お母さんの腕にしがみついた。
母の死期が近いていると、初めて思わされた瞬間。
「美桜…お母さんの話す事、まだ小さなあなたに理解を求めるのは罪だと分かってる。
それでも、言っておかなきゃいけない…。
あなたは、お母さんの生きる意志だから。」
見上げると、強い眼差しの母がいた。
これが、最後の願いなのだと思った。
だから私が、母の生きる意志を継がなくてはいけない…。
父は、母の病が同じ遺伝子を持った私達に受け継がれる可能性を酷く心配していたらしい。
母の様にいつか、私達が消えてしまう事を恐れて、あまり私達と関わりを持とうとしなかったのは、父が弱虫だからだと母は言った。
母は父を心から愛していた。
だから、そんな恐怖に怯える日々から少しでも救ってあげたかったのだろう…。
当時、うちの病院で看護師をしていた若い女性が、父に好意を持っている事に気付いた母は、彼女に父と親しくなる事を望んだ。
「あの人の子どもを産んで欲しい。」
そう、懇願したと…。
でも、母の思惑通りにあの父が爽太の母親と関係をもつとは考えにくい。
今なら分かる。
父こそ、そんな母の想いに応えたんだ。
爽太は、二人の儚い願いを叶えた愛の証。
「…美桜、いつか新しいお母さんと弟が家に来る日が来たら…あなたは心から二人を受け入れてちょうだい。
爽太君はお母さんにとっても、とても大切な子なの…だから愛してあげてね。」
爽太…弟の名前。
私は涙を流しながら、お母さんと指切りをする。
「それと…もう一つ。
この事は、お兄ちゃんには絶対に内緒にしてね。
ずるいけど…お母さん、朋樹に嫌われたくないの。
母親は息子に最後まで愛されていたいものだから…。
ごめんなさい…美桜。」
その日、母はそこまで言うと電池が切れたみたいに深い眠りについた。
翌日、母の容態が悪化した。
息を切らせて学校から駆けつけると、酸素マスクを装着された母の姿が飛び込んだ。
お兄ちゃんは、お母さんの手をしっかりと握っていた。
「お母さん…?」
「…美桜ちゃん、こっちへ。」
担当医が、私に手を伸ばして母の枕元へと呼ぶ。
「…って…ね…。」
霞む声に耳を近づける。
「朋…樹…お父さんの…病院を…守って…力に…。」
苦しそうに話す母の言葉に、お兄ちゃんは無言で力強く何度も頷いていた。
「美…桜…、女の…子は…強くなって…みんなを…愛し…て…」
お兄ちゃんの手からお母さんの手が零れ落ちる…。
「お母…さん…?」
「母さん…!」
私達の問い掛けにも応えず、どんなに揺すっても動せず、母は永遠の眠りについてしまった…。
病室に、私達の泣き声だけが響き渡る。
その時から私達は、母の約束をそれぞれ胸にしまい込んで生きる事となった…。
二人とも幼かったから、不器用にしか母の言い付けを守れなかった…。
お兄ちゃんを亡くす前に、ちゃんと話せていたら……
私は、私の家族を守れたかも知れないのに………
今でも、夢に見る
失った家族の残像……。
夏休みもあと1日で終わる。
僕は、新学期の最終準備の為に朝から学校だった。
「西島先生…ちょっと。」
深刻な赴きで、準備室へと僕を呼びに来たのは、理事長だった。
率直に嫌な予感が走った。
僕は手を止めて理事長の椅子を用意し、カップにコーヒーを注ぐ。
「実は、君の奥さんから連絡をもらってね。」
(…奥さん?)
その言葉を理解出来ない。
「…え?」
僕が、硬直していると理事長は
「コホン」と小さな咳払いをした。
「君が、篠崎先生と不倫関係にある。
…そう泣きつかれた。」
僕は益々、理解が出来なくなってしまった。
「…これは、事実ですか?」
鋭い視線を突き付けられて、僕は蛇に睨まれた蛙の様に動けない。
混乱する頭で必死に考える。
奥さん…?
不倫…?
この2つのフレーズだけが脳内を巡る。
「不倫…って、僕は妻とは離婚していますよ。」
僕の言葉に、理事長は深い溜め息を漏らす。
「やはり、篠崎先生とは深い関係なんですね。」
落胆と軽蔑の入り混じった瞳が向けられる。
僕は否定しなかった。
「職員同士で不謹慎と言われればそうですが、それでも僕は本気です。」
―…バン!と理事長がデスクを叩く音に、僕はビクついて目を閉じた。
「ふざけるなっ!
職員と言っても彼女はまだ大学に席のある学生だぞ!!
分別の分からない若僧が生意気な事を言うなっ!!」
理事長の気迫に負けて、僕は萎縮する。
だって、彼の言っている事は全て正論だ。
美桜はまだ学生なんだ。
常識ある大人なら、彼女には手を出さない。
でも…でも…仕方ないじゃないか。
正しい事なんて始めから分かっていた。
それでも、どうしようもなく彼女を愛してしまったのだから。
それは、都合の良い僕の甘え…。
正論者には勝てない。
理事長は一呼吸置いて、乱れた前髪を直しながら僕を見る。
「…とにかく、彼女とは別れなさい。」
嫌だ……。
「この事が、他の職員や生徒…ましてや保護者の耳に入る前に身辺を綺麗にしておくように。」
無理なんだ…。
分かってくれなんて思わない。
でも…無理なんだよ。
美桜と別れる事なんて出来ない。
嫌なんだよ……。
「冷静沈着な君が、泣くなんてな…。」
ベージュのチノパンに、僕の雫が落ちて水玉模様を作る。
泣いている事にも気付かない位に、僕は無心だった。
去り際に理事長は言った。
「君と、奥さんが離婚した事実は無いよ。
あまり、私の友人の大切な娘を傷つけないでくれ…。」
僕は、耳を疑った…。
覚醒していくように見開いた瞳…。
黒いポロシャツが、漆黒の黒へと変わるほどの汗をかいた。
角を曲がって見慣れた住宅地に入ると、一軒だけ高くそびえる家が目に入る。
僕にはそれが、最早他人の家にしか見えない。
庭の桜の木は青々としげる。
この時期になるといつも毛虫駆除が気になる。
今も、それだけは変わらない。
僕は、インターフォンを押した。
「はい。」
恐らく、モニターで僕の顔は確認出来ているはずだ。
「…僕だ。」
すぐに、鍵のロックが外され中から清美が出てきた。
「吉宗…っ!」
彼女は、出てくるといきなり僕に抱き付いた。
僕は困惑と、嫌悪感からとっさに清美を跳ね退けてしまった。
清美はそんな僕を一瞬、睨みつけた。
「…雰囲気変わったわね。
カッコ良くなったわ…メガネもやめたのね。
服装も前はそんなにカジュアルじゃなかった。」
彼女はマジマジと上から下まで見回して言う。
「あの娘の影響かしら?
あなたって、ただでさえ若く見えるのに…それじゃぁ、まるで本当に大学生ね。」
クスっと失笑する清美に苛立った。
僕が睨みをきかせると、今度は挑発的に僕の頬に彼女のしなやかな手が触れる。
「…勿体無い事をしたわ。
確かに、原形は昔から美形だったのよね…あの娘に感謝しなきゃ。
あなたを、こんなに魅力的にしてくれた事…。」
清美の唇が、僕の口に触れそうになる。
僕は、身体ごとそれを反らして家の中へと入って行った。
家の中は最後に見た日とは変わって、僕が生活していた頃と同じようにキレイに整えられていた。
「何にも変わってないでしょう?」
背後から清美が言った。
「…お帰りなさい。」
僕の背中に彼女の腕がまわされる。
「よせよ。」
離そうとすると、余計に力が入った。
「清美、よせって!」
「嫌っ…!」
「放せよっ!」
力ずくで腕を取ると、清美は僕を床へと押しつけた。
「あなたは、私のものよ!
あの娘には絶対に渡さない!!」
その危機迫る気迫に身体が動けなくなる。
僕の胸を掴んで、清美は涙を流す。
「あの娘には、その細くて長い手で触れるのに…!髪を撫でて優しいキスを贈って、あなたはあの娘を抱くんでしょう…?
あなたのその身体で、彼女は抱かれるのよね?
…許せないわ、絶対にそんな事…許さない!」
清美の唇が僕の唇に押し当てられる。
その瞬間、美桜の笑顔が頭に浮かんだ。
僕は、清美を突き飛ばした。
そして、腕で自分の唇を拭った。
「…そんなに嫌?
そんなに、私がキライなの?」
「僕は、彼女を…美桜を愛してる。
君じゃない。」
清美の唇が少しだけ赤く染まっていた。
僕は自分の唇を切っていた。
彼女が噛んだのだと分かった。
彼女は唇に付いた僕の血を舐める。
「吉宗…あなた細胞すらも全て私のものなのよ?
それを拒否するなんて許されないわ。」
「僕は、君の所有物じゃない。」
「そうかしら?
この国の法律ではそうだと言っているわ。そしてあの娘は、それを奪う薄汚い泥棒…。」
記入したはずの離婚届を、清美は僕にチラつかせて見せる。
「やっぱり、出してないんだな…。
何でだ?
君は、ずっと孝之が好きだったんだろう?」
僕の問いに、清美はクスリと笑みを浮かべる。
「そうね、彼に恋してた時期もあるわね…確か、大学に入ってすぐの頃かしら。 でも…分かったの。」
「…何が?」
「私は、西島先輩が好きなんだって事。 …父が嫉妬するぐらい優秀な先輩が欲しくなった。
あなたを愛して、そして側で悔しがる父を見たいって思ったわ。」
(それは一体、どう言う事なんだろうか…。)
「研究の成果も、最愛の娘も…あなたに奪われたら父が苦しむと思ったのよ。
母を蔑ろにして捨てた父に、最大の復讐をしてやりたかった。」
彼女の艶やかな口元から、耳を塞ぎたくなるような言葉が次々と出てくる。
僕はずっと、彼女の何を見てきたんだろう…。
僕らの夫婦生活は虚像の中でなんの積み重ねもなく、ただ淡々と時間だけを貪っただけだと言うのか…?
実際は、空っぽだったって言うのか?
「あなたが、研究所に入れなかった事は 誤算だったの。
あの人は娘より、自分のプライドを優先させたのよ…その事だけはごめんなさい。」
(…ふざけるな!)
「…君だって、教授と同じだよ。
自分のプライドが一番大切だったんだろう!!」
清美は睫毛を揺らして僕を見つめた。
「でも、今は違う…本当にあなたを愛してる。
あなたに出て行かれて、本気で失いたくないと思ったわ…。」
「いや、そうじゃない。君は、僕と美桜との事で自分のプライドが傷つけられたからそう思い込んでいるだけだ…。
意地になってるだけだろ!」
彼女はフルフルと首を横に振った。
懇願するような視線を送って、瞳を潤ませる。
君は、今でもそんなに美しい。
だからそれ以上、惨めな醜態を晒すのはやめてくれ。
僕の、気高く美しかった妻のままで別れさせてくれよ。
じゃないと…僕は、君と過ごした10数年を心から後悔してしまう。
本当に空っぽな結婚生活を送った事になってしまう。
「…どうしたら、僕と離婚してくれる?」
静かに清美に問いかけた。
「…なら、最後にもう一度だけ抱いて。」
清美からの条件に、僕は絶望感を抱く。
「出来ないよ…。」
清美は、僕にすり寄って首に腕を回す。
「…なら、離婚はしないわ…。」
そう、耳元で囁いた。
(無理だ、出来ない。)
(美桜を裏切れない。)
「彼女の為に、自分を殺す事も出来ないなんて…あなたって本当に偽善者よ。」
(偽善者…。)
清美の言葉に、僕は怒りを覚えた。
その怒りはあの日、美桜にぶつけてしまった怒りを思い出させた。
クソっ…!
思えば、全てはあの日から始まった。
僕を先に裏切ったのは、他でもない君なのに…!
全部、君が悪いのに!
何で僕が、こんな制裁を喰らわなくちゃいけないんだ…!
そう思いながら、僕は清美に覆い被さる。
乱暴に衣服を剥ぎ取って、痛む心を押し殺す。
すると、フッ…と突然、清美は口角を上げて微笑んだ。
上半身を少しだけ起こして窓縁の庭の方へと視線を向ける…。
僕は、背中に悪寒を走らながらゆっくりと後ろを振り返った。
「なっ…!!」
目に飛び込んできたのは
口元を手で覆って涙する美桜の姿だった……
美桜は、窓縁のカギが掛かっていないことを確認すると、窓を開けて無言のまま中へと入って来た。
清美の笑い声はもう聞こえない。
きっと、僕と同じで美桜の予想外の行動に言葉をなくしたんだろう。
美桜は、僕の腕をとって清美から引き離した。
「…美桜ちゃん!」
すぐに、息を切らせながら孝之もやってきた。
(何なんだ…コレ?)
僕には、何がなんだかさっぱり状況が把握出来ない。
美桜は孝之の方をチラリと見ると、何も言わず視線を僕の方へと戻す。
そして、僕に抱き付いた。
「…ちょっと!」
「美桜ちゃん…!」
清美と孝之の焦る声が聞ける。
次の瞬間、僕の肩に劇痛が走った。
「痛って…!!」
美桜が、思いっきり噛み付いたのだ。
「…吉宗さんのバカ!!」
そう怒って、僕に口付けした。
僕は、二人がその場にいる事も忘れて彼女の唇を支配する。
彼女を強く抱きしめて、深く…何度も何度も舌を絡めたキスをする。
こんな風に彼女を求めた事も、求められた事も無かった…。
「いい加減にしてっ!!」
堰を切ったのは清美だった。
清美は、僕と美桜の間に入り込こむと、美桜の頬を叩いた。
思いっきり叩かれた美桜は倒れ、清美はその上からも美桜を叩き続けた。
「ヤメロ…!!」
僕が止めるよりも早く、孝之は庇うように美桜の身体を抱いた。
そんな孝之に対して、清美は拳を震わせて悔しそうに唇を噛む。
僕は、美桜を抱く孝之に嫉妬したが美桜はすぐに孝之から放れて清美を睨み付けた。
頬を腫らしながら、清美に詰め寄る。
清美は、そんな美桜の気迫に一歩だけ後退りする。
「…なんなのよ、あなた…!」
「私、吉宗さんが好きです。
だから私、絶対に吉宗さんを諦めません!」
強い眼差しでそう告げる。
(美桜…。)
ダメだよ美桜…
君のその真っ直ぐで純粋な気持ちは
いつか、君を闇へと葬るだろう…。
そう…分かっていても、それでも…僕は嬉しいよ。
君の手を取ってしまいそうだ…
雲行きが怪しくなり、厚く黒い雲が空を支配する。
雷が鳴り響いて、突然の雨が降り出した。
家の中は一気に薄暗くなって4人を包む。
「私達を別れさせようと仕向けた罠ですよね?」
美桜は、清美と孝之に向かって言った。
(…罠?)
僕には、その意味がまだ分からなかった。
孝之は跋の悪そうな表情を浮かべたが、清美は腕を組んで微笑んでみせた。
「可憐で大人しそうなお嬢さんだと思っていたけど…意外と賢いお嬢さんね。
そして、図太い神経の持ち主だわ。」
「どういう事だ?」
二人のやり取りに僕は疑問をぶつけた。
「吉宗より、この娘方が一枚も二枚も上手だわ…。
あなたを誘き出して、この娘にあなたとのラブシーンを見せ付ける魂胆だったのよ。
泣いて逃げ出すと思ってたけど、意外と図々しい女だったのね…。」
清美は揶揄するように美桜の頬をなぞる。
「綺麗な顔ね…。
どんな笑顔と言葉で吉宗の心を奪ったのかしら…?」
そう言って、彼女の頬に爪を立てる。
「あなたが、どうやって私の旦那様を奪ったのか教えてくれる?
お嬢ちゃん…。」
美桜は、軽く微笑んで
「カラダで。」
そう答えた。
その瞬間、清美の立てた爪が彼女の白い頬に食い込んだ。
頬から血が伝っても、美桜は眉一つ動かさなかった。
「この…っ泥棒猫!」
僕は、振り下ろそうと挙げられた清美の腕を掴んだ。
「吉宗…!いや、放してっ!」
「もう…よせ。
僕も、彼女と同じ気持ちだ。
彼女と別れる事は出来ない。」
僕の言葉に、清美は涙を流す。
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