不純愛
―この愛は、純愛ですか?
―それとも、不純ですか?
喉がカラカラに乾いた。
「今まで…異性と付き合った事ないの?」
神妙な顔で尋ねる僕に、彼女は俯いてコクリと頷いた。
「キスした事はある?」
すると今度は、虫の鳴く様な小さな声で「ないです…。」
と応えた。
僕はゴクリと生ツバを飲む…。
もう全身が冷たくなっていた。
「…じゃぁ、セックスは?」
彼女の身体が震え、顔が赤くなるのが見えた。
「…あっ……。」
彼女の小さな声を抑える様に、僕は彼女の唇を自分の唇で塞いだ。
…もうダメだと思った。
初めてだったのにもかかわらず、あんな僕を受け入れてくれた事。
僕の、あんな自分よがりな乱暴な行為を受けても…まだ僕を守ろうとしてくれた事。
そんな彼女のいじらしさに僕は、もう自分の気持ちを抑える事は出来なかった。
彼女への愛情が溢れて…彼女の全てが欲しくて…もう、止められない。
呼吸をするのも忘れてしまいそうな位、長いキス。
涙が出そうだ…。
こんなにも人を好きになった事などあっただろうか…?
こんなにも苦しくなる程、誰かを欲しいと思った事なんかない…。
「君を…愛してる。」
彼女の頬を撫でる。
瞳に溜まった大粒の涙が彼女の頬を…僕の指に伝わると…僕はもう一度、彼女に口付けした…―。
「…先生?大丈夫ですか?」
白くなった指の痕を、なぞる様に彼女の指が触れた。
この大丈夫…?は、僕があの時、清美と孝之の姿を見たからだと分かる。
「あぁ…大丈夫だよ。今はもう、気にしていない。」
寧ろ、あの二人が長い年月を経てやっと結ばれたんだと思えば、僕は救われた。
「あのさ、思ったんだけど…。」
僕は照れくさくて、口ごもる。
「何ですか?」
「…名前。
そのさ、下の名前で呼んでも良いかな…?」
年甲斐もなく、恥ずかしさが溢れる。
実は、彼女の名前を初めて活字で見た時から好きな名だと思っていた。
それは、あの論文に記されていた。
(Mio Sinozaki)
教授に聞けば、漢字で書くと
(篠崎 美桜)
だと教えてもらえた。
美桜…僕はその字を指でなぞる。
「君の好きな花の名前だな。」
教授はそう言って笑ったが、いつか自分に子どもが出来て、それが女の子だとしたら名付けたいな…と密かに思っていた。
そのくらい、気に入った名前だった。
「…吉宗。」
彼女からの返事を期待していたが、予想に反して出た言葉は、僕の名前だった。
「良い名前ですよね…かっこいい。」
父親が、歴代の徳川将軍の中でも震いの吉宗ファンだったから僕に名付けたのだ。
でも、西島 吉宗って言いにくいし、僕自身はあまり気に入ってない。
滑舌も悪いから尚更。
「私も先生の事、吉宗って呼ぼう。」
ニコリと笑って見せた彼女の顔に、登った朝の光が照らされて眩しかった。
こんなに、美しい光景を見たのは生まれて初めてだ。
美桜…僕の好きな花。
願わくば、どうかずっと僕の側で美しく咲き誇ってくれ…。
君だけは、何があろうと放したくない。
一生に一度の願が叶うのなら、僕はそう切に願う…―。
夏休みに入ると、僕は夏期講習に追われ、美桜は課題研究に追われて互いに会えなくなった。
彼女に会えないと寂しくて辛い。
今にして思えば、ハードなスケジュールを組んだ自分を誉めてやりたい。
学生達は大変だが、理数系の強みになりそうな僕の講習は、評判が良かった。
その中には、岡田の姿もあった。
彼は、流石だ。
僕の用意した無理難題もただ一人、易々と解いてみせた。
おまけに、実験後の面倒な片付けも進んで手伝ってくれる。
相変わらず、ぶっきらぼうで可愛気のない態度だが、なかなか嫌な奴でも無さそうだ。
「先生さ、篠崎の事どう思う?」
午前中の講義が終わって、二人で昼食をとっている時だった。
唐突な質問に、僕はコロッケパンを詰まらせた。
「ゴホゴホっ…!!」
「~…大丈夫かよ?」
彼は、少し呆れ顔で僕にペットボトルのお茶を差し出す。
僕はそれを一気に流し込んだ。
「…何て?」
そして今一度、彼に質問の意味を聞きなおす。
「姉さんだよ。
あいつ、自分の事とかあんまり話さないし…何て言うか、自分の気持ちを伝えたりとかすんのが苦手なんだよな。
だから、先生にとったら篠崎ってもしかしたら一緒に仕事し辛いタイプなんじゃないか?って…。」
…何だ、仕事の心配か。
僕はホッと胸を撫で下ろした。
僕は、じっと彼を見た。
「何だよ。」
「岡田…お前って、姉さん想いだよな。」
僕の一言に彼は、真剣な眼差を向けた。
「当たり前だよ。」
「シスコンだな(笑)」
「ハァ…、勝手に言ってろよ。」
軽い冗談だったが、彼には通用しなかった様だ。
軽く吐き捨てて、不機嫌な態度で準備室を出て行ってしまった。
「なんだ…あいつ。」
取り残された僕は、ポツリと呟いた。
でも確か、前にも岡田はあんな風に思い詰めた顔で言ってたな…。
(俺のせいで…。)
岡田と彼女に何があったのか…。
なぜ、彼女は叔母の養子に入ったんだ?
そしてなぜ、弟である彼と10年もの間会えずにいたのか…?
僕は二人の関係性が気になって、職員室の資料を漁った。
至って普通の、ホームページが出て来た。 医院長の顔写真や経歴を見る。
医院長の「岡田 章一(しょういち)」は 、美桜や岡田を思わせる様な顔立ちで、確かに親子なのだと感じさせた。
ここには何も無いかと、ホームページを閉じようとした時だ。
病理の医師名に、よく知った名前が目に入った。
「孝之…?」
え…?医師って、医者に転職!
いつの間に?
…ってか、あれ(大学院卒業)から医学部に入ったって言うのか?!
「また、どうして…。」
てっきりあのまま卒業して、研究所に入所したかと思っていた。
よりによって岡田総合病院…いったい、なんの因果なんだ?
これが只の偶然だとしたら、どんだけ世間は狭いんだよ。
恐ろしくなって、僕はページを閉じた。
No.248>医院長が政界と繋がっていて、金を受け流している。
No.351〉(`ε´)
No.349〉待ち時間4時間、診察3分。もう二度と行かない。
No.619〉↑予約入れろよ!
No.267〉外科の看護師の平均年齢が低い。
No.668〉内科は逆だぞ。
No.657〉医院長ってイケメソだよね。
オヤジだけど、子どもいるなら期待できそう。
No.498〉独身だろ。 ×1だっけ?
子どもいんの?
No.668〉〇〇高校の二年に息子が通ってるww
たまに、病院内を闊歩してるw
坊ちゃんって言われてんのウケるよ(爆)
No.657>〇〇高ってめちゃめちゃ頭いいじゃん!でも、どうせメガネのダサ男だな(笑)
いくら読んでいっても、こんな下らないやり取りばかりだ。
諦めかけたその時、あるスレが僕に飛び込んできた。
No.108〉10年前の岡田総合病院の長男、朋樹(ともき)さん自宅で事故死ってあり得んwww
…長男、事故死?
10年前…。
あまりにも衝撃的だった。
恐ろしくも、想像してしまうのだ。
最悪…美桜の兄の死に彼女自身が関わっていたとしたら…?
僕は、頭の中の考えをふるい落とす。
そんなハズない!
美桜の儚げな顔が浮かんだ…。
俺は…、父親と、その愛人との間に産まれた子どもだった。
母親は、俺が4歳のときに交通事故で亡くなった。
それからすぐに、俺は岡田家へと引き取られた。
父さんには他に、大きな家と、二人の子どもがいた。
その事を知ったのは、この時が初めてだった。
今まで住んでいた狭いアパートとは違い、広過ぎる家が僕には居心地が悪かった。
この家には、父さん・兄さん・姉さん、それからお手伝いさんが住んでいた。
父さんの本当の奥さんは、3年前に病気で亡くなっていたそうだ…。
父さんは、兄弟の中でも俺を一番に可愛がった。
そんな俺を一番上の兄は、毛嫌いして邪険に扱った。
時に、父さんのいない所で暴力を振るう事さえあった。
「クソガキっ!!
お前なんか生まれて来なけりゃ良かったんだっ!」
そう、罵りながら腹や背中を蹴られる度に俺は兄さんを憎んだ。
中学3年生の兄は、幼い俺にとっては立派な大人で、とても刃向かえる様な相手ではなかった。
そんな俺をいつも庇ってくれたのが、姉の美桜だ。
姉さんは優しい。
保育園に通う俺の送り迎えも、姉さんが自ら望んでしてくれていた。
手を繋いで二人で歩く。
姉さんは、紺色のランドセルをカタカタ揺らして踊ったり、歌ったりして俺を喜ばせた。
俺が笑うと、姉さんは嬉しそうだった。
姉さんが居たから…俺は兄の、日々エスカレートしていく暴力にも耐えられた。
事件が起きたのは、それから更に3年後の事だった。
今からちょうど…10年前。
その日、兄さんは高校の全国模試で前回の順位を大幅に下げて凄く不機嫌だった。
家中を荒らしまくった。
止めに入る家政婦に対しても、暴言を吐いた。
高校に入学してから、兄は段々と不安定になっていたのだ。
その様子に父さんも、手を拱いていた。
そんな父さんの態度で、兄さんは益々おかしくなった。
悪循環だった。
一通り暴れ倒すと、兄さんは部屋に籠もった。
怯えた俺達は、途方に暮れながら、荒らんだリビングを片付けた。
姉さんと家政婦は泣いていた。
姉さんのすすり泣く姿を見て俺は、湧き上がる怒りを覚える。
落ちたガラスの破片を拾ってポケットに忍ばせた。
「爽…お兄ちゃんを許してね…。
父さんの期待や重圧を背負って辛いのよ…。」
姉さんは言う。
俺を抱き寄せて言う。
あの人を許してと泣くのだ…。
殴られるっ…―!
そう思って目をギュッと瞑る。
今度は本気で殺される…!
そう…覚悟を決めたが、鈍い音を立てて倒れ込んだのは姉さんだった。
俺に覆い被さる様に、背中でバットを受け止めた。
目線を上げると、苦痛に顔を歪ませる姉が居た…。
「あ…あ…!」
そんな姉さんを俺は、嗚咽を漏らして見つめていた。
大切な人を傷つけられた痛みが体中に走る…。
「…無事で…良かった。」
姉さんが安堵の表情で言った。
俺は姉さんの肩を抱いたが、すぐに剥がされる様に離された。
「お前…ジャマするなっ!!」
兄が、姉さんの胸ぐらを掴んで引っ張っる。
姉さんの制服のリボンが、俺の目の前にポトリ…と落ちた。
家政婦の悲鳴が響いた時、誰かが階段を駆け上がって来る音がした。
「爽っ…!ダメっ!」
兄さんのとこまで後少しという所で、姉さんは俺の腕を掴んだ…。
俺は泣いた。
―だって…なんで止めるのさ…。
ここで殺らないと、いつかは僕が…。
そして…お姉ちゃんが、アイツに殺されるかも知れないのに…。
俺は、破片を伝う真っ赤な血液を見て驚き、手を離した。
姉さんの手には深い傷が付て、血が流れていた。
「美桜ちゃんっ…!」
家庭教師が姉に気を取られてた一瞬…、兄は呪縛を解いて、家庭教師を殴りつけた。
家庭教師が倒れて、兄さんは俺の髪を掴んだ。
「出てけ…!」
俺を引きずりながら部屋を出る。
俺は、痛みで足をバタつかせる。
その後ろを姉さんが、ボロボロの身体で追いかけて来た。
階段にさしつかると、髪を引っ張ったまま俺は宙に浮かされた。
「お兄ちゃん…!
嫌、やめて~っ…!」
姉さんは、兄さんの腕を掴んで食らいついた。
その衝動で俺は解放され…逆に、姉さんと兄さんはもつれる様…勢いよく共に、階段を転げ落ちて行った…ー。
グルグルと景色が回る…―。
スローモーションみたいにゆっくりと。
目の前に気を失った妹の顔が見える…。
「美桜……。」
僕は、いつからこんなに狂ってしまったの…?
あいつ…、爽太が家に来てから僕は毎日の様に怯えていた。
父さんの愛情が…関心が、全てあいつに向けられているのを見ていた。
僕は、こんなにも頑張っているのに…。
ただ、愛されたくて…振り向いて欲しくて…。
美桜…何故、お前はそんなに強い?
なんでそんなに真っ直ぐでいられるんだ?
僕は…ダメだったよ…。
弱くて…お前まで傷つけてしまった。
母さんとの約束も守れなかった…。
ごめん…。
美桜…ごめんな。
階段の縁に頭が当たる度に、鈍い痛みが走った…。
その痛みを感じる度、僕は幸福感に満たされていた。
これで…やっと楽になれる…。
美桜…たった一人だけ、お前だけが僕を愛してくれたから…。
本当はもう、それだけで満足だったのに…。
僕は、妹の頭をしっかりと両腕に抱えて落ちていく…。
美桜…幸せになれ。
いつか、愛する人と一緒になって…
必ず幸せになるんだ。
僕が、叶えてやるから…な…。
僕は瞳を閉じる…。
暖かな温もりを感じて妹の幸せを願った…―。
階段から落ちた時…兄さんが、姉さんの身体を守る様に抱えていてくれたお陰で、姉さんは奇跡的に軽傷で済んだ。
―だが…兄は全身を強く打って亡くなった。
その後、警察の事故検証で家の中が騒がしくなった。
割れた窓ガラスや、血痕の付いた破片。
負傷した家庭教師と姉…。
壮絶な…家庭内暴力の末の、大事故として処理された。
しかし、父さんは見抜いていた。
不自然な、あのガラス破片を取りだしてと姉と僕に、突きつけた。
「朋樹に対して殺意があったのか?」
鋭い口調だった。
父のあんな顔を見たのは初めてだった。
俺は、握りしめた拳を小さく振るわせた…。
その様子を父が見逃すはずなかった。
「爽…―「「私です!」」
父の声に被せて、姉さんは言った。
「暴れるお兄ちゃんを止めたくて…でも、どうしたらいいか分からなくて…だからっ…。」
「だから、これで刺そうとしたのか?」
父さんの、姉さんを見る目は氷の様に冷たかった。
こんな目線…俺には耐えらない。
「こんな事までマスコミに知られたら、うちの病院はお終いだ。」
俺は、父さんの言葉に自分の耳を疑った…。
「今度の事件で、只でさえ世間を騒がしたっていうのに…。」
頭を抱える父の姿に俺は、失望した。
(この人は…自分の子供達よりも、自分の病院の方が大切なんだ。)
この人に報いろうと苦しんだ兄を、今更ながらに哀れんだ…。
「美桜…お前は、この家にもう必要ない。」
父さんは姉さんに、眉一つ動かさないでそう告げた…。
姉さんもまた、凛とした態度で父さんを見つめていた。
「…家業を継いで、医師を志す人間が、簡単に人を殺めようとするなんて背筋が凍るよ。
そんなお前を…父さんは軽蔑する。」
「……はい。」
姉さんは呟く様に返事を返すと、そのまま父の書斎から出て行った…。
荷物を詰める姉さんに、俺は何度も「行かないで!」と泣いて頼んだ。
姉さんは何時もの様に優しく笑って、
「大丈夫、いつか必ず会える日が来る。」
そう繰り返して言った…。
そして…、
(父さんを頼む…)
とも…―。
姉さんは、秋田に住む自分の母親の妹の家に養子に入った。
父さんは、岡田の家から完全に姉さんを消したのだ…。
俺は…自分のせいで、誰よりもかけがえのない人を無くしたんだ。
父さん以上に…俺は俺を許せなかった。
僕は、爽太の話を通して彼女の孤独に触れた…。
彼女が…あれだけ慈悲深く、僕を受け入れてくれたのは、兄の事があったからなのだと理解できた。
傷付いて荒れている僕に、兄の姿を重ねたのだ…。
「爽太…大丈夫か?」
辛い記憶を探って、語った爽太は酷く疲れていた。
夜も更けていたし、僕は爽太をこのまま泊める事にした。
彼にベットを譲って、僕は床に寝袋を敷いて眠った。
「…先生って結婚してないの?」
暗闇の中でポツリと爽太が言った。
「バツイチだよ。」
僕は目を瞑ったまま答えた。
「だせぇな…(笑)」
「あぁ…だせぇよ(笑)」
いつか、爽太にも言える時が来るだろうか…。
僕が、君の姉さんを愛している事…。
一生、彼女を守って生きて行きたいと思ってる事…。
その日の為に、僕も少しは身体を鍛えておくよ…。
おそらく君は、僕を殴るだろうから。
孝之は僕の顔を覗き込むと、マジマジと見つめてから「ぷぷっっ…!」と吹き出して笑った。
「何だよ!」
僕は、そんな孝之の態度にイラつきながら問いた。
「すまん(笑)いゃさ…お前って歳とんないなぁ~って思って!
後ろ姿、普通に学生だと思ったし。」
よく学校でも、他の職員に同じ事を言われた。
なんていうか…僕の雰囲気は大学生みたいだと。
「童顔なんだよ、ほっとけ。」
僕はそれがコンプレックスだった。
若々しいとか言うなら嬉しいが、おそらく皆が言うのは、そういった意味ではないから。
「…で?お前、こんな所で何してんの?」
「助手に仕事を頼んでたから取りに来たんだよ。」
僕は足場に立ち去りたかった。
正直、孝之と世間話をするなんてゴメンだ…。
「吉宗って見掛けによらず、人使いあらいよね~。」
わざと、早足で歩いているのに皮肉を言いながら、孝之は付いて来る。
「悪かったな。
~ってか、付いてくんなよ!」
「―助手って、美桜ちゃんだろ?」
孝之の口から、彼女の名前が出ると僕はピタリと足を止めた…。
「…何で知ってんだよ?」
孝之は意味深な笑みを浮かべて
「あの高校に送ったの、俺だから。」
確かに、そう言った。
「…そっ…」
孝之に問いただそうとしたその時、僕の携帯が鳴った。
液晶画面に美桜の名前が載っている。
僕は横目で孝之を気にしながら携帯をでた。
「もしもし、先生?」
電話の先で、軽快な美桜の声が聞こえた。
「ああ…僕だ。」
通話している間、真面目な顔で視線を送ってくる孝之が気になって仕方なかった。
「…分かった、すぐ行くよ。」
電話を切ると、僕は美桜の待つ正門へと向かう。
すれ違い様に僕は孝之を見た。
真剣な顔をして彼もまた、僕を見ていた。
「彼女に手を出すなよ。」
背中に彼の言葉を受けて、僕は振り返る…。
その一言に、どんな意味が込められているのか分からないほど、僕は鈍感じゃなかった。
だから、僕は言う…
挑むような気持ちで …。
「もう、遅いよ。」
孝之は驚いた様子を見せた。
僕は、彼を置いて彼女の元へと急いだ…。
「せーんせいっ!」
手を振る彼女の姿が見えた。
僕は駆け寄り、たまらなく愛おしい彼女を抱きしめた。
「…人に見られますよ?」
美桜は僕の腕を解こうとするが、僕は一層と力を入れて強く抱きしめる。
彼女の髪に顔を埋めて、(何度も…君は、僕の物だと心の中で唱える。)
「…会いたかった。」
そう…君の耳元で囁く。
「ヨシヨシ、吉宗君は甘えん坊ですね~。」
彼女は茶化した口調で、僕の背中をポンポンと優しく叩く。
「雰囲気でないな(怒)」
そう突き放して、僕は、彼女の手からプリントを奪い取る。
「怒った?」
クスクスと笑いなが彼女は、僕に詰め寄った。
その上目使いが可愛い過ぎて、どうしようもないのだ。
「…怒ってないよ。」
「良かった(笑)!」
僕は、彼女の頭をクシャクシャと撫でて笑う。
そして、二人で少し歩きながら、互いに会えなかった間の近況を語らうのだ。
時に…じゃれ合いながら微笑みを交わす。
―そんな僕らを嫉妬と、憎悪で満ちた瞳で見つめる存在になど気付きもしないで…。
誰かの視線を感じて、僕は後ろを振り返る。
しかし、人影は見当たらない。
「どうかした?」
美桜が不思議そうに、僕の顔を伺った。
「いや…何でもない。」
気のせいか…。
いま一瞬、悪寒が走ったんだよな…。
「変なの!
先生、今日はちょっと可笑しいね(笑)」
「そうか?
久しぶりに会ったからかな?」
はぐらかしながら、僕は笑う。
すると、彼女は急に顔を曇らせた。
「…今日ね、坂田教授の娘さんがいらしてたの。」
僕は足を止めた。
「吉宗の奥さんだった人でしょ?
まさか、先生が坂田教授の娘婿だったなんて驚いた…。
世の中狭いんだな~って。」
そう、無理に笑おうとしている彼女の手を取る。
「…僕にとっては、もう過去の事だよ。」
彼女は僕を見つめて
「うん。」と
小さく頷いた。
安堵の表情を浮かべる美桜に、僕も聞きたい事を聞いてみる。
「美緒、本上孝之とは知り合いなの?」
「本上先生は研究室のOBだけど…。
たまに、坂田教授の助手のアルバイトもしてるみたい。
遅咲きの研修医だから貧乏暇なしなんだって(笑)
??吉宗とも知り合いなの?」
なるほど…今日は、坂田教授も大学の研究室か。
僕にとっては、会いたくない、都合の悪い3人がいるんだな。
「君がうちの学校に新任されたのは、本上の推薦か?」
「うん、そうよ…爽の…、弟のいる学校に臨時教員の空きが出ると教えてくれて推薦してもらった。…でも、どうしてそんな事聞くの?」
「君とはどんな関係なんだ?」
詰め寄った様な言い方しか出来なかった。
「…え?」
明らかに困惑している彼女を見れば、彼女と孝之に深い関係など無いのは分かっている。
でもそれは、君が知らないだけだ。
「なにも…昔からお世話になってる、お兄さんみたいな存在で…」
「君の家庭教師だったんだろ?」
僕の一言に、美桜は目を見開いた。
…何で知っているの?
そう思っているんだろう?
「ごめん、美桜…。 爽太から聞いたんだ、君と家族の事…。 10年前の不幸な事故の事も…。」
「爽から?
あの子…話したのね。」
彼女は、うっすらと微笑んで涙を浮かべた。
「…え?ごめん!本当は、君から話しを聞くべきだったんだよな…!」
彼女の涙を見て、僕はオロオロと慌てふためく。
すると彼女は、涙を白衣の袖で拭いながら、「嬉しい」と言った。
美桜は美桜で、弟の爽太をずっと心配していたのだ。
久しぶりに再会した弟は、自分の殻に閉じこもったまま、誰にも心を開けなくなっていた。
美桜に対しても、どこか避けるような態度だったそうだ。
それは、爽太の意志では無く心がそうさせたんだろう…。
深い悲しみの中で、一人だけ取り残された子供が、自分を守る為に必死で殻に閉じこもったのだ…。
「爽が、誰かに心を許せるようになって嬉しいの…。
そして…その相手が先生で良かった。」
悲しいほど、不器用なこの姉弟は…
悲しいほど、僕の心を痛めつける…
こんなに優しい痛みがある事を、僕に教えてくれたのは君達だから…僕は強くなる。
そう決めたんだ。
時計台のアラームが午後5時を告げる。
美桜が研究室に戻る時間だ。
「さっきの…本上先生の事だけど。」
(うん。)と頷いて僕は、気まずそうな彼女の頬に触れる。
「…大丈夫。
何でもないよ、彼と僕とは同級なんだ。 だから、君とも関わりがあったと知って驚いただけ。 それだけだから。」
「そう…そっか。」
僕の手に、彼女の手が重なる。
そのまま微笑んだ彼女に、僕は軽くキスをした。
真っ赤な顔して、周りをキョロキョロと伺う彼女に、僕は意地悪く「誰にかに、見られたかも!」と笑ったが、本当は誰に見られても良いと思っていた。
疚しさなんてない。
堂々とした態度で、君を愛したいから。
君に出逢って、僕は変わった。
誰かの為に心から強くなりたいと思った。
だから、弱虫だった自分にはもう…戻らない。
孝之side~
「吉宗と一緒にいる、あの女(コ)誰…?」
清美が俺に聞く。
静かな口調だが、怒りに満ちていた。
それは、俺だって同じだ。
目の前で、二人がキスしている所を見たんだから
冷静でいられるハズがない。
「まだ、私と別れてから2ヶ月も経ってないのよ?」
「男と女の関係に、時間なんて必要ないだろ。」
「止めて!!」
彼女は、俺の言葉に耳を塞いだ。
「吉宗は…あなたとは違うわ!」
清美の言い分に、俺は鼻で笑う。
「同じだよ…あいつだって男なんだ。
あんな可愛いコが寄って来たら喰うだろ?」
不意に、頬に痛みが走った。
清美からの鮮烈な平手打ちだ。
「ふざけないで!」
大真面目だ。
いつもの調子で、おちゃらけて言ってる訳じゃねぇ。
冗談じゃない
自分の誤算に、煮え返りそうなくらい腹が立ってるんだ…!
俺は、ベットから出て冷蔵庫から水を取り出すと、一口だけ飲む。
「嫌…?」
縋る様な清美の瞳に、俺は困惑した。
「家なら別に、結婚しなくても出れるだろ?」
実際、大学に通う大多数が一人暮らしだ。
「父が許さないわ。」
「あのジジィ、どんだけ過保護なんだよ…。
大体、何で俺なの?」
「それは…。」
黙り込む彼女に苛立つ。
「どうしても結婚したいなら、吉宗にでもしてもらえよ。」
…悪質な冗談だった。
「西島先輩に?」
この面倒な状況から逃れたい一心で言った、最低な冗談。
「あいつ、お前の事好きだぜ?
それに、吉宗なら教授にも気に入られてるし…お前との結婚も反対しねーよ。」
…嘘だった。
吉宗が、清美に憧れを持っていたのは確かだが、惚れている訳じゃないのは百も承知だ。
教授が、吉宗を気に入ってるのは、研究チームとして一番の手柄を立てるから。
優秀な飼い犬が、自分の手を離れて手柄を立てるのとは、また意味が違う。
あのジジィは、吉宗の才能に嫉妬している。
本当は、最も憎らしい相手なんだ。
…沸々とした毎日を過ごしていたが、家庭教師の仕事の方は佳境を向かえていた。
この時…俺は、ほとんど美桜ちゃんの専属になっていた。
彼女が、受験生になったからだ。
「…ここは、こうすると簡単に体積が求められるよ。
こっちのが、解るかな?」
いつも通りの、変わりない授業だ。
勉強机に座る、彼女の身体を囲う様な体制で俺は、ノートに計算式を記す。
(コレって、結構な密着度だよな。)
ほんと、いつもならそんな事は思わない。
変化は突然にやってきた。
ふと、そんな風に思ったら妙に意識してしまった。
ポニーテールで上げられた髪。
美桜ちゃんの、白くて綺麗なうなじに、ドキッとなる。
今まで、意識した事は無かったけど、この2年で彼女は随分と女性らしくなっていた。
そして…あの悲劇の日がやってきた。
彼女の家の前に着いて、呼び鈴を鳴らそうとした時だ…。
ガラスの割れる音と共に、上からキラキラと無数の破片が降り注いできた。
穴の開いた窓は…朋樹の部屋だ。
俺は急いで、塀を乗り越えて、家に侵入出来る場所を探す。
すると、一階のリビングのドアガラスが割れていた。
(ここも…?)
人影は無く、異様な空気が漂う中、家政婦の悲鳴が聞こえた。
「…美桜…。」
俺は、胸騒ぎを覚えて朋樹の部屋へと急いだ。
目の前の光景に息を飲む…。
美桜は、朋樹に何度も頬を叩かれていた。
足元では、爽太が泣きじゃくっている。
何ていうことだ…。
俺は必死に朋樹を抑え付ける。
もう…何が何だか分からない。
気づけば、美桜ちゃんの腕からは大量の血液が流れていた…。
彼女に握られた、大きなガラス破片。
…そこで、俺の記憶は途切れる。
覚えているのは、階段下に倒れ込む二人を見た事…。
朦朧とした意識で、二人の元へと駆け下りる。
「大丈夫か…!」
美桜も朋樹も、意識は無かった。
俺はすぐさま、美桜の頸動脈に触れる。
(…良かった…生きてる…!)
―しかし、朋樹は心配停止状態だった。
俺は、彼の軌道を確保して心臓マッサージを開始した。
「…戻って来い!」
(朋樹、戻って来い!)
何度も何度も、願いを込めて心臓を押し続ける。
(ダメだ…朋樹。
まだ、死んだらダメだ…!)
どのくらいの時間が経ったのかは分からなかった。
救急車のサイレンが鳴り響く。
「…もう、充分だ。」
そう言って、静かに俺の手を止めたのは、朋樹の父親だった。
「…なぜ?」
(あなたの息子なのに…。)
「…肋が折れてる。」
岡田医院長は、胸ポケットからペンライトを取り出して、朋樹の瞳孔が開いているのを確認した。
次に、腕時計に目を向け時間を見る。
よく、テレビドラマとかで見掛けるあの場面だ…。
「午後、17時23分。 …死亡確認。」
それだけ言うと…医院長は、朋樹を抱き上げて嗚咽を漏らしながら泣いた…。
悲痛な父の叫びだった…。
朋樹の葬儀が終わると、俺は医院長に呼び出された。
(あの日、何があったのか教えて欲しい。)
そう、聞かれた。
俺は、知っている事の全てを話した。
美桜が、ガラス破片を持っていた事も。
もしかしたら…二人はもつれ込んだ結果、階段から転落したのでは無いかと。
「…美桜が?」
「いえ…これはあくまで仮定です。」
眼鏡の奥に光る瞳が、恐ろしく冷たい人だと思った。
「そうか…分かった。
ありがとう。」
俺は、一礼して部屋を出ようとした。
「あぁ、それから…あの事件の事も、今の話も他言無用で頼む。」
そう言う院長に、俺は無言で頷いた。
大病院の弱みを握ってしまったようで、ものすごく跋の悪い思いがした。
その翌日、院長の秘書が、わざわざ俺を訪ねてきた。
「契約書?」
差し出された用紙には、幾つかの項目が記されていた。
基本的に、昨日の約束を全面に出した内容だ。
ただ、理解出来なかったのは…
「この、将来的約束っていうのは?」
「本上さんの望む職業を、斡旋するという事です。」
秘書は淡々と答えた。
つまり…口止め料って事か…。
それなら…。
「医者になって、あなた方の病院に就職させてもらおうかな?」
権力を使って、人を動かせるほどの地位ってものが、如何なるものなのか…
俺は、興味を持った。
「医学部に編入する…という事ですか?」
「はい。言っておきますが、自信ならありますよ?」
秘書はしばらく考えて頷いた。
「良いでしょう。
学費は全て、当院で負担致します。
しかし、医師になっても院長のお役に立てなかった場合は…逸れなりの覚悟をしておいて下さいね。」
それって、脅しか?
…ったく。
俺の周りは、寄ってたかって、性根の腐ったヤツらばかりだ。
類は友を呼ぶか…?
あんなに嫌った、親父と同じ道を歩んでいく事になろうとは……
俺は、契約書にサインをして秘書に跳ね返した。
契約書のチェックを終えると、秘書は席を立ち去ろうとした。
「あの…その後、美桜ちゃんは?」
すかさず、秘書に問いた。
兄を失った美桜ちゃんは、酷く嘆き悲しんでいた。
葬儀の時も、声を掛ける事は出来なかった。
「…お嬢様の事は、お気になさらずに。 家庭教師の方も、もう無用です。」
「え?でも彼女、もうすぐ受験でしょ?」
「ですから、お嬢様の事に関してアナタ様は、既に無関係なのです。
余計な詮索はお控え下さい。」
契約書をピラピラと振りかざして、秘書は言った。
足早に去る秘書に対して、俺は無力感を感じた。
美桜は、どうしているだろうか…。
まだ、家で泣いているはずなんだ…。
気になってはいたが、岡田家の出入り禁止を言い渡された今…美桜の様子を知る術は無かった。
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