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豊臣秀次について。

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通行人
21/04/12 19:53(更新日時)

2年前の大河ドラマ真田丸で、豊臣秀次が出て来ました。
豊臣秀次は、叔父の豊臣秀吉や徳川家康程の実力はないものの、力量はそこそこ、あったと再評価されています。
もし、秀次が処刑されず、従兄弟の秀頼に関白の座を譲り渡していたら、豊臣政権は長く続いたと思いますか?
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No.2688328 18/08/05 18:34(スレ作成日時)

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No.1 18/08/05 20:06
かに男 ( xeh5Sb )

秀次は秀吉の甥だから、秀吉嫡子の秀頼を推す派閥と秀次を推す派閥で、関ヶ原と同様の権力闘争が起こったと思う。

関ヶ原は豊臣政権内の派閥闘争であって、100万石を超える外様が多すぎて中央官吏では制御しきれなかったことが豊臣政権崩壊の最大の要因だよね。

秀吉がもう少し生きていたら、徳川征伐は起こったと思う。
石田三成の他にも中央官吏の多くは、外様を危険視してたから。

室町時代の初期から鎌倉公方は中央に反旗を翻して、中央が制御しきれていなかったように、坂東に一団の勢力があってはならなかったんだよ。

No.2 18/08/05 20:23
匿名2 

 家康が居る以上、そこそこの身内くらいでは、幼主を担ぎ切れない。
 せめて秀長が家康より長生きするか、秀頼自身、秀吉存命中に元服して実務実戦を経験して求心力がないと無理だったろう。
 織田政権が証明してる!
前田利家でも五奉行でも、家康の横暴を止められなかったんだから……

No.3 18/08/05 21:14
通行人0 

ご感想、ありがとうございます。
私見を述べると秀次派と秀頼派に別れて、内紛が起きる頃には、家康は亡くなっているでしょうから、野心家の伊達政宗がどちらかを焚き付けていたでしょう!そうなると、日本は戦国時代に逆戻りしていたのかもしれません。

No.4 18/08/06 12:30
かに男 ( xeh5Sb )

主君個人の能力はそれほど影響ないよ。
あれはドラマだけ。
封建制度の主従関係は、主君の独裁というより、勢力下の大名・家臣・国人衆の影響力が強いから。

例えば、信虎を追放した武田晴信が主導的な立場だったとドラマでは描かれてるけど、実際は家臣の反乱であって、酒宴に明け暮れていた若き晴信を担ぎ上げただけだしね。
晴信が家臣団を掌握できたのは、宿老の板垣・甘利・横田が早い時期に討たれたからだと思うよ。

賤ヶ岳の戦いも、秀吉対勝家というより、三法師派の秀吉と信孝派の勝家の戦いであって、その後に秀吉が織田家を手中に納めたから、織田家内紛と描かれないだけだしね。
信長後継の信忠が死ななければ、家中が分裂することもなかったと思う。

豊臣家も勢力下の大名を掌握しきれていなかったから、秀次と秀頼の意思とは関係なく、勢力下の大名はどちらかを担いで派閥闘争になるんだよ。

政宗が小次郎を粛清したのと同様で、小次郎派家臣の反乱による家中分裂を懸念したためで、秀次の粛清も豊臣政権の分裂を避けるためだよ。
樹立間もない豊臣政権を安定させるためには、家督の一本化が必須だったんだよ。

あと、豊臣政権内での伊達政宗の影響力は低いよ。
蒲生や上杉の転封で領地を取られて、惣無事令に反して大崎一揆を起こしてるから、奉行衆からは警戒すべき外様の一つと思われていたと思うよ。
現代の評価は低いけど、一門格の宇喜多秀家や一門の小早川秀秋のほうが影響力を増す可能性があった。

No.5 18/08/06 13:48
通行人 

かに男さん。
もし、秀次派と秀頼派による内紛が起きていたら、徳川家康はどちらについていたのでしょうか?
秀次は家康に小牧・長久手の合戦で負けた事があるから、家康を敵には回したくないし、家康もその小牧合戦で信雄を担いだ過去があるから、体よく、秀次を利用していたのではないのでしょうか?

No.6 18/08/06 17:18
かに男 ( xeh5Sb )

>> 5 豊臣家の天領は大きくないから、家中分裂=政権崩壊だったと思うよ。

徳川秀忠の娘・千姫を秀頼に嫁がせてるから、徳川は秀頼派として武断派を引き連れて、秀次派を一掃し、秀頼も廃したと思う。

関白秀次と太閤秀吉の二頭政治とは言え、実権は太閤秀吉にあって、秀吉の統一事業に与した大名は直系の血を立てるよ。
足利尊氏が政務を弟の直義に委ねても、武断派(将軍派)の高師直と対立して観応の擾乱が起こったように。

幼君を補佐する地位は実質的に最高権力者になるからね。
三成が失脚してから、徳川が政権運営していて、豊臣家の名代として、反徳川派を成敗していたわけだし。

元々、関白の譲位は、政務代行と後継者の保険の意味合いで、織田家の血が入った嫡子による政権移行は画策されていたんじゃないかな。
秀次では血統が弱いからね。

No.7 18/08/06 20:02
通行人 

>かに男さん。
家康は秀次を担いでも、後に秀次を粛清していたでしょう。丁度、福島正則や加藤忠広(清正の息子)を改易したように…

No.8 18/08/06 21:08
かに男 ( xeh5Sb )

>> 7 家康が秀次に与することはなかったと思う。
秀次は一門衆との結び付きがあったし、家康は大老筆頭としての発言力があったから意思能力がない幼い秀頼を立てるよ。
秀頼の名代として、秀次派勢力を討つほうが家康の勢力を強大にできるから。

というか、秀吉が秀次を粛清しないことは考えられないよ。
争いの禍根を残すという選択肢はなかったと思う。
家康が将軍を秀忠に譲って後継者を内外に明示したり、信長や伊達政宗や今川義元が弟を討ったように、家督の一本化は必須だったから。

No.9 18/08/06 21:50
通行人 

やはり、豊臣秀次では、徳川家康には勝てませんね!
家康が先に亡くなっても後を継いだ徳川秀忠とその家臣団が秀次を粛清していたでしょう。

No.10 18/08/12 17:42
通行人 

100万石を越す大名は、徳川家康(240万石)、上杉景勝(120万石)、毛利輝元(120万石)と言った大名達が三人もいましたからね!
豊臣秀次では、これ等の大名達を一纏めには出来なかったでしょう!

No.11 19/11/06 19:56
通行人 

秀吉→秀次→秀頼と政権交代がスムーズに進み、尚且、家康が早くに亡くなったら、豊臣政権は藤原政権みたいに、長く続いたでしょうか?

No.13 20/03/19 20:24
通行人 

ヤフーの検索欄に、「秀次が生きていたら」と検索したら、ヤフーの知恵袋やその他のサイトがありましたけど、豊臣政権は室町幕府みたいに形骸化していたとか、徳川家康は、秀次か秀頼かどちらに着くかで決まる?など、否定的な、見解が記載されていた。
織田政権が、形骸化したように、豊臣政権も、形骸化して行った可能性が高い。 徳川家康は、織田信雄を担ごうとしたように、秀次と秀頼のどちらに着いても、強かな、徳川家康の事だから、上手く双方を手玉に取っていただろう。

No.14 20/05/16 22:55
通行人 

戦略家の徳川家康の事だから、豊臣秀次を担いで、秀頼派を粛清し、豊臣秀次も何かに理由を付けて改易し、一万石かニ万石の所領を与えるだけで、飼い殺しにしていたでしょう…家康が改易しなくても、秀忠がしていた可能性が高いです。 織田信雄が、そうであったみたいに…

No.15 20/09/14 22:04
通行人 

「豊臣秀次が生きていたら」と検索したら、一番、可能性として上げられるのは、豊臣秀次が生きていても、豊臣家の滅亡は避けられなかった😭二番目に上げられるのは一大名として生き残ったとあった🙆 事実、関ヶ原合戦で負け戦を経験しながらも生き残った大名は、上杉氏、佐竹氏、島津氏、毛利氏、立花氏などの事例を考慮すると、この可能性は、十分、考えられます😁
とは言うものの、福島正則や加藤忠広などのように改易された、事例もあるので実際は、なってみないと分からないのが結論です💦

No.16 21/02/05 07:06
通行人 

織田信長亡き後の織田家みたいに豊臣秀次が生きていたら、豊臣家は一大名として、存続していた可能性が高いです。
とは言うものの、政権トップからは、脱落するでしょう!

No.17 21/02/19 22:02
通行人 

豊臣秀次が秀頼が元服するまで、関白職を続け、元服したら、関白職を譲ると誓紙していたら、豊臣政権は、藤原政権みたいに百年は続いていたのではないか? と思います。

No.18 21/02/21 05:29
通行人 

豊臣秀次から豊臣秀頼へとスムーズに政権交代が起きて至ら、藤原政権のような摂関政治の体制になっていたのではないだろうか?
但し、あくまでも、「スムーズ」に行わればの話ですけどね…

No.19 21/02/21 06:34
通行人 

豊臣政権が続いて至ら、中国と朝鮮の国交回復には大部、時間が掛かったかもしれない。

No.20 21/02/21 23:07
通行人 

豊臣秀次の娘は成人したら、有力大名か天皇家に嫁ぎ、息子達は、五摂家や御三家のように分家して、豊臣政権内に一定の影響力を維持していたかもしれない… 分家していたら、太閤家や豊三家などと呼ばれていたかもしれません✊
自分自身は秀次贔屓なので、豊臣秀次が自害していなければ豊臣政権は安泰だったのではないか?と感じざるを得ない。 非常に惜しい、人材でした!

No.21 21/02/24 19:17
通行人 

関東地方を統治していたのが、豊臣秀次ではなかったとしたら、豊臣秀長が関東地区を統治していたかもしれない。

No.22 21/02/25 00:31
通行人 

豊臣政権が長続きするには、豊臣秀次が豊臣秀頼が元服したら、早急に摂政・関白職を譲ると宣言・誓紙しその後見役に徹する事を約束していれば良かったかもしれないけど、その間に、多くの名将・智将・豪将達が亡くなっている。
例えば、豊臣秀長、前田利家、小早川隆景、蒲生氏政、堀秀政などが亡くなっているので、豊臣秀次では、徳川家康を抑えられなかった可能性が高かった…

No.23 21/03/01 12:07
通行人 

豊臣秀長が関東圏を統治していたら、豊臣秀長が亡き後、黒田孝高が関東エリアを統治していたかもしれない。

No.24 21/03/05 15:54
通行人 

豊臣秀次は無能、愚将などと評価されていましたけど、秀次の失敗は小牧・長久手の戦いだけで、その後の紀州平定や四国征伐、小田原合戦などでは武功を上げているので、力量はそこそこあったと再評価されています!領国経営でも家臣達の意見を取り入れつつ、徐々に彼等を使いこなして行ったみたいです🙆
切腹していなければ、徳川秀忠のような評価を下されていたでしょう🙇

No.25 21/03/14 23:42
通行人 

豊臣秀次を初めて、知ったのはサピオでした!

No.26 21/03/22 18:05
通行人 

豊臣政権が長く続く条件として、豊臣秀次が中継ぎとして、関白職を務め、豊臣秀頼が元服したら、関白職を譲ると誓紙して至ら、豊臣政権は、室町幕府のような、緩やかな大名連合政権になっていた可能性があります。

No.27 21/03/24 20:06
通行人 

秀次政権が生まれていたら、中国・朝鮮との和解に時間とお金と労力などを費やしていただろう!
史実より、朝鮮との国交回復については、5年~10年ぐらい遅れていた可能性がある。

No.28 21/03/28 13:29
通行人 

「豊臣秀次が豊臣秀吉に対して謀反を企てた。」や「暴君だった。」や「秀頼が生まれたので秀次が邪魔になった。」などと言われて来ましたけど、近年は、これ等の定説を覆す、新たな新説が出て来ました! それは、秀次は身の潔白を証明する為に自分の意志で、切腹したという説です! この説が正しいと、秀次切腹によって、豊臣政権の威信が低下するのを、恐れ、豊臣秀次を悪く仕立てるようになったと言われています。
だとしたら、豊臣秀次の認識不足と言わざるを得ません!

No.29 21/04/07 14:08
通行人 

豊臣秀次の武将としての力量については、同時代の結城秀康、徳川秀忠、山内一豊、池田輝政、宇喜多秀家などと同じくらいの力量か、それ以上の力量を持っていたでしょう!
此からも、豊臣秀次に関連する書状や遺構、遺品などが見つかる可能性があると思います😁

No.30 21/04/08 17:04
通行人 

此からも、豊臣秀次が、更に再評価されるように期待している次第です!
否、もう既に、再評価はされていると思います!
総合的に評価すると、叔父の豊臣秀吉や徳川家康、程ではないけど、戦国武将としての力量は、山内一豊や池田輝政ぐらいの実力はあったと判断されています。

No.31 21/04/12 19:53
通行人 

豊臣秀次は、近江八幡市では、名君として記憶されて、銅像まで建っているぐらいだから、豊臣秀次を祀った神社が近江八幡市内に建てられたり、菩提寺の境内にも銅像が建っても良いかもしれないけど、お金が掛かるので、銅像が建つ事はないでしょうね…

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