人には言えない、本当の貧困。
10年間、ある村で壮絶な貧困を経験しました。
凄まじい貧困の中で、現実から目をそらし、刹那的に生きることしか知らない高齢者の村。
そこで受けた精神的なダメージは、今も時たま襲ってきます。
「貧困」から生まれる「絶望」。
人には言えない惨めで恥ずかしい過去。
前に進むために、経験したことを綴ります。
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「ここに引っ越して、今月で5年になるのか。」
黒田美紗子はカレンダーから庭に目を移した。
雨に濡れた紫陽花の紫がかった青が美しい。
その隣にはパンジー、ラベンダー、百日草、オリーブやブルーベリーもある。
5年前は何もないマサ土の敷地が、今は近所でもちょっと話題になるくらいのナチュラルガーデンになった。
この庭を、業者に頼まず自力で作り上げたことは、美紗子の自慢である。
美紗子はしばらく庭を眺めていたが、コーヒーを飲み干すと携帯電話を手にとった。
「もしもし、黒田です。お願いしたいのですが今日は空いてますか?」
2時間後、美紗子は小さなビルの前にいた。
一階は古本屋、美紗子が向かうサロン「根っこ」は二階にある。
小さなプレートがかけてある扉を開けると、仕切りの向こうから50手前の女が出て来た。
直子である。
決して美人とは言えない丸顔は、いつ見てもツヤツヤしていて、女の美紗子から見ても色気がある。
「ごめん〜! あと15分待っててくれる?」
いつものことである。
美紗子は笑顔で頷くと、下の書店で時間を潰すことにした。
再び扉を開けると、ちょうど先客が帰るところだった。
歩行に介助が必要な老婆だった。
直子に挨拶をして、付添人と一緒に出て行った。
「あんなご高齢の方も、直子さんに教えを求めて来るんだ。」
美紗子は改めて直子を仰ぎみた。
「元気だった? この前来たのは何月だったっけ?」
「確か3月の終わりでした。」
「ふふふ、そろそろ来る頃かなって思ってた。今お茶入れるね。」
直子は人懐っこく微笑むと、キッチンに消えていった。
美紗子は、直子が自分を覚えてくれていることが嬉しかった。
直子は人気のメンタルトレーナーである。
毎日何人と面会するのだろう?
直子は、1年くらい前から、美紗子を「友人」の域に入れてくれたらしく、予約が満杯の日でも
空き時間に入れてくれるようになった。
おそらく「昼休憩」として確保してあった時間なのだろう。予約は12時からが多い。
「友人」と「客」の中間どころの美紗子には、直子もいくらか砕けたところがあり、カウンセリングは、しばしば簡単な昼食会となる。
いつもサンドイッチや菓子パンをご馳走になっているので、今日は美紗子が手土産を持ってきた。
お惣菜が美味しいスーパーの巻き寿司である。
ほうじ茶を手に戻った直子は、巻き寿司を喜んだ。
「ここの巻き寿司美味しいんだよね。」
まるで懐かしい友人とランチをするように、セッションに入った。
「それで、今日は何を聞きたい?」
「直子さん・・・私、たまに負の感情が波のように襲ってくるんです。」
「うん、負の感情・・・。」
「不安や怒りや悲しみや憎しみ、ネガティブが一気に吹き出して、フラッシュバックして。思わず『わー!!!』って声を出しちゃうんです。」
「うん、何を思い出してマイナス感情が押し寄せるの?」
「前の家での生活。」
美紗子は10年前のことを思い出していた。
絶望の淵を時速90キロで走っていた。
暗い山道はカーブが多い。
ガードレールの向こうは崖である。
後部座席のチャイルドシートから寝息が聞こえる。
クタクタだった。
寒かった。
自分の将来はこの道と同じ。
真っ暗な先には、貧困しかない。
頼る相手もいない。
大きなカーブに差し掛かった時、ふと美紗子は思った。
このままハンドルを切らなかったら、楽になれるだろうか。
自分の考えに驚いて、アクセルを緩めた。
家に帰り着くと同時に大きなため息が出た。
自分はギリギリの境界にいるのだ。
正気と狂気の境目、そして生と死の境目。
息を整え、車を降りようと後部座席を見て驚いた。
二人の子供たちがじっと自分を見ていた。
幼心に、母親の中に何か大変なことが起こったことを察したに違いない。
私は今、どんな顔をしていたのだろうか。
鬼の形相だったのではなかろうか。
その時、一気に美紗子の母性が蘇った。
子供たちが不憫で仕方なかった。
死を考える母親が運転する車に乗っていたのだ。
この子達の前では笑顔でいなければいけない。
絶対に絶対に、幸せに育てよう。
「あ〜着いた着いた! お母さん肩がこっちゃった!」
美紗子は肩を叩いてしかめっ面を作って見せた。
これで鬼の形相の言い訳になるだろうか。
次の日、美紗子はパソコンに「悩み カウンセリング」そして市名の文字を打ち込んで検索した。
当時の田舎町では心の問題は恥とされ、精神的なメンテナンスに関しては都市部に比べてかなり遅れていた。
ヒットしたサイトは「心療内科」「精神科」がほとんどだった。
以前、美紗子は心療内科に行ったことがあるが、ぞんざいな態度の医師に訳のわからない薬を手渡されただけだった。
「こんなんじゃダメだ」美紗子は思った。
おそらく病名がつくほどではなく、症状が良くなる薬を処方するのも、病院として間違っていないのだろう。
でも問題はもっと深いのだ。
心の闇と向き合う時が来たのだ。
子供たちの為にも、自分のためにも。
「根っこ」の文字を見つけたのは、数ページ進んだところだった。
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