夢でもし
もしもここが過去ならば、逢ってみたい人がいますーー。
※タイムパラドックス恋愛小説。
※ちょっぴり性的描写を含みます。苦手な方はご注意ください。
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新しい口紅を塗り終え、唇を咥え込むようにして馴染ませると、桜(さくら)は鏡に乗り出していた姿勢を正し、化粧の出来栄えを確かめた。
ふんわりとした眉に、発色の良いローズの唇。
生まれつきの大きな目は、手を付けすぎるとケバケバしくなってしまうので、アイメイクはどうしても控えめになる。
それでも、流行りメイクのポイントは抑えたし、これなら「枯れてない女」に見える…だろうか。
「うん、悪くない悪くない…」
励ますように呟くと、ぬぅっと、左横から洗面台に割り込む影。
「お前、心の声がだだ漏れ」
夫の一冬(かずと)が、歯ブラシを咥えたまま鏡ごしに笑いかけてきた。
追いやられるように洗面台を明け渡しながら、桜は照れ笑いを浮かべる。
「新しい口紅買ったの。店員さんがね、濃いめの色味も似合うって言うから」
元々濃い顔立ちがさらに濃くなってしまうのではと、なかなか手が伸びなかったローズ系の色味は、我ながら確かに似合っていた。
若い店員のセールストークと20%オフに乗せられたにしては、悪くない買い物だったなぁと思う桜だった。
一冬が口を濯ぎ終えるのをまって、「どうどう?」と微笑みかける。
「あはは、いいじゃん」
そう言って、一冬は桜を抱きしめたーー化粧が擦れないよう、遠慮がちに。
「綺麗だよ」
「うふふ、ありがとう」
塗りたての口紅がはげないよう、キスはせずに見つめ合った。
この人と結婚して1年半ーー
桜は、愛しい夫の頬に手を添えた。
涼しげな細い目にメガネを掛け、柔らかく微笑む一冬。
標準よりややふっくらとした身体で、彼をイケメンと称するには賛否ありそうだ。
しかし、営業マンらしい黒い髪をジェルで流し、サッパリとカッターシャツを着こなす姿は、何度見てもーー
「好きだなぁ…」
ーーと、また心の声が漏れる桜である。
「俺も、大好きだよ」
一冬は桜の頬に軽くキスをして、「さて行かないと」と名残惜しむように身体を離した。
途端に、うっとりとしていた桜の顔に陰りがよぎる。
本当なの?
いや本当なんだろう。
でも…
洗面台に残された桜は、横の鏡をもう一度眺めた。
鏡に映る化粧の濃いその女は、寂しげな、枯れたような顔をしていた。
〜〜〜
「つまり、巷で流行りのセックスレスってヤツ?」
「ちょ、ちょっとヤダ…!」
桜は歯に絹着せぬ物言いに、慌てて周囲に目を走らせた。
正午のカフェにはあまりに浮いたワードだったが、店が賑わっていたのが幸いだった。
頬を紅潮させながら、向かいに座る友人に顔を寄せ、声を潜ませる。
「薫(かおる)、声が大きいよ…!」
「でもさぁ、3ヶ月でしょー?」
薫は椅子の背もたれに身を預け、腕を組んで、気にする様子もなく続ける。
この高校からの長い友人は、彼氏はいるものの結婚に対してあまり興味のない、サバサバとした性格の持ち主だった。
黒く長い髪をハーフアップにキリリとまとめ、マツエクもチークも怠らない、美しきキャリウーマンだ。
桜に言わせれば、そう、枯れていない女性。
「普段の様子は変わってないんだし、ちょっと仕事で疲れてるだけなんじゃないの?」
「そ、そりゃあ…そうかもしれないけど」
桜は水の入ったグラスに口をつける。
それをテーブルに戻すと、縁に残った口紅の跡を見つめた。
こんなに愛されていいのかと思うほどに、一冬に包まれて結婚した。
それは一方的な愛ではなく、桜も彼を愛していた。
28歳での結婚は晩婚と言って良いのか、昨今わからなくなってきているが、先に嫁いでいった友人や後輩たちのことを思い返し、なるほど結婚とはーー最愛の人と家族になるということは、こんなに幸せなものなのかと噛みしめたものだ。
甘い結婚生活。
周囲から「新婚のうちだけよー」と言われながら、「それなら今のうちに楽しんでおかないと」とポジティブに返し、その一方では、私たち夫婦は一生このままかも、などという希望を失わなかった。
実際、1年半も変わらない生活が続いているのだから。
それなのにーー
「当たり前のようにあったことが、ぱったり途絶えちゃうとさ…」
桜は目をグラスに伏せたまま、ボソボソと言った。
「付き合ってた頃からずっと、一週間と開いたこともなかったのにーー」
ハッとして、また頬を赤らめた。
こんなデリケートな問題、他人に相談などして良かったのだろうか、と、今更ながら恥じらう桜である。
しかし、それが不安のすべてだった。
週に2、3回とあった夫婦の営みが、年末ごろに途絶えて3ヶ月になる。
年末年始、一冬の仕事も11月ごろから立て込み始め、なんだかんだと忙しかったのも事実だ。
けれども、お正月の休みでさえ、2人は交わることがなかった。
暖かい布団の中で、抱き合い、キスもした。
頭を撫で、身体を撫で、乳房を優しく包まれてーーしかし、そこまでなのだ。
一冬はその手を肩へ滑らせ、桜をもう一度抱き寄せて、そのまま眠る。
疲れてるのかな、と自分を納得させてきた桜だったが、さすがに不安にもなる。
しかし、その不安を口にするのを躊躇っているうち、あっという間に、3月になろうとしていた。
ーー私じゃダメになってしまったの?
妻として愛しているけど女としては…ということ?
飽きてしまったの?
私は…
枯れてしまったの?
桜は手を伸ばして、指でグラスの口紅を拭った。
ーー女として見れない相手が化粧を変えたくらいで、気になんかしないよね…
「ははあ、なるほど。それで、頑張って化粧して、髪もいい感じにしてるわけだ」
薫が図星をついてきて、桜は恥ずかしそうにパーマ風にセットしたショートボブに手をやる。
「そうなの。もともと化粧っ気がないのがよくなかったのかなって」
「ふぅん、でも確かに、合流した時『綺麗になったなー』って思ったよ」
「本当!?」
嬉しくなって、はにかんだ。
昔からあまり自分に自信のない桜は、薫に背中を押されるととても安心した。
背が高く、高校時代もよくモテて、しかしサバサバと我が道を行く薫は、いつまでも桜の憧れだった。
「うん、いい女感が出てる」
「良かったー。化粧濃すぎないか心配だったんの。えへへ」
「あはは。それで、不倫でも始めるわけね?」
「へへ… えっ!? ち、違うわよっ!!」
〜〜〜
寺や神社が密集する観光地だからというのもあり、平日にもかかわらず人通りが多い。
風情のある石畳を、暖かい服を着た人たちが、連れ合いと楽しそうに話しながら行き来している。
「ふぅー寒い!もうすぐ3月だっていうのに、なんだってこんなに寒いの!」
薫がダウンジャケットに首を埋めながら、イライラとした口調で言った。
「本当ねー。ほら雪が溶け残ってるよ」
路肩の黒ずんだ氷の塊に目をやりながら、桜もコートの上に巻いたマフラーの首元をキュッと寄せた。
もともと今日は薫の初詣に付き合う約束で、時期遅れの初詣は毎年の恒例になっていた。
サービス業だけに1月はめっぽう忙しいという薫だが、寒さに弱いというのも一つの理由なのだろう。
「彼氏さんとも初詣行った?」
「あいつ、人混みに弱いのよね。『行く?』とか言われたけど断っちゃった。どーせ疲れて、早く帰ろうとか言うのよ」
「か、可哀想…」
「私は神社の雰囲気が好きだし、ゆっくりお参りして、おみくじ引いて、そのあとは甘味処てまったりしたいわけ。彼とは、無理してそんなとこ出掛けなくても、コタツに入ってお酒飲んでれば十分なのよ」
色んな関係があるものだ、と桜は思った。
桜と一冬は、いつでもどこでも一緒だった。
ーーそれが良くなかったのかな?
無理してたのかな?
関係が悪化した訳ではないのに、ネガティブに考えてしまう。
よく知っているはずの夫のことが、すっかりわからなくなっていた。
すぐにぼうっと考えてしまう桜を見かねてか、薫が桜の肩に手を回して身体を密着させた。
「もー。そんな暗い顔して歩いてたら、ただの化粧濃いおばさんになっちゃうよ!」
「やだ、ひどい!」
「せっかくバッチリ決めてるんだから、ニコニコしなさいよ」
それにさ、と言って、薫が桜に少し顔を寄せ、今度は周りに配慮して声のトーンを下げた。
「そんなに大事なこと?セックスって」
ドキッとする。
恥ずかしいことにーー恥ずかしいことだと桜は思っていたーー桜はセックスが嫌いではなく、一冬とのそれを拒否したこともなかった。
一冬と寝ると癒された。
決して飛び抜けた美女でも、グラマラスな身体でもなかったが、一冬に愛され、抱かれていると、世界は狭いベッドの上だけになる。
その世界で最も美しい女、最も愛され、最も求められる女になる、そんな錯覚に酔いしれた。
それにーー
「子供がね、欲しいの。そろそろ」
「あぁ、そっか。私たち、今年30だもんね」
「ううん、30だからというより、一冬さんの子供が欲しい」
女にはリミットがあるーーそんな考えに囚われるつもりはない。
実際、2人の結婚生活は楽しいし、満たされていた。
将来的には子供をと思ってはいたが、母となって子供を育て上げる自信もあまりない。
けれどもここのところ、いつの間にか芽生えた「大好きな人の子供を産みたい」という感情が、だんだん大きくなってきていた。
「あー。それ、一冬さんに言ったの?」
「去年の夏くらいにチラッとね。でも、『ちゃんと母親できるのかぁ?』って、笑われちゃって。もう30になるのに失礼よね」
すると、薫は少し考え、「それかもね」と言った。
「え?」
「レスの理由よ。一冬さんは、もしかしたらまだ子供はいらないと思ってるんじゃない?」
「そう…なのかな」
それなら今まで通り、子作りではないセックスを続ければいいのではないのか。
腑に落ちない顔の桜に、薫が言う。
「あんたに、期待させちゃ悪いと思ってるのかもしれないよ」
「それなら、そう言ってくれればいいのに」
桜は不貞腐れた。
思ったことも言い合えない仲ではないはずなのに。
そんなに聞き分けのない嫁だと思っていたのだろうか。
「もしかしたら、だけど…ごめん、憶測だけどいい?」
薫が遠慮気味に言う。
「うん、大丈夫。なに?」
「子供ができない身体とか、なにか余程の理由があるのかもしれない。そうじゃなきゃ、いきなりレスになんかならないと思うの」
「なるほど、確かに…」
この言葉に、桜は一気に不安になった。
余程の理由ーーそれに当てはまる、あらゆる可能性が、胸の中に沸き起こる。
子供ができない身体?
隠し子がいる?
子供嫌い?
実は…不倫中…本命は不倫相手…
桜は死んだような顔になっていた。
「わ、桜ごめん!」
薫に肩を揺すられて、それらはかき消された。
「悩ますつもりじゃなかったの!ごめんごめん」
「う、ううん、ははは…」
桜は、引きずられるように境内へ連れられていった。
初詣の波もさすがに落ち着いていて、2人はお参りとおみくじをすんなりと終えた。
桜がお守りなどの販売所を覗いていると、薫が声をかけた。
「そうだ桜、向こう行ったことある?」
薫が指で示す方向を振り返ると、境内の裏の山を登るように、細くて歪な石段が続いていた。
「ううん、ない」
「石姫神社っていう祠と、大きな割れ目の入った岩があるの。私も随分前に行ったきりなんだけど」
2人は石段の入り口へ向かった。
その傍に立てられた看板に、『石姫神社』と、岩の割れ目を潜るとご利益がある、といったようなことがツラツラと書かれていた。
その文字があまりに達筆過ぎるのと、木製の看板が風化して黒っぽくなっていたのとで、所々読みにくい。
「へえ〜知らなかったよ。他の人もあんまり気付いてないみたいだね」
「まー知る人ぞ知るスポットかな。ねぇ行ってみない?せっかくだし。割れ目を潜る時にお願い事をすれば、叶うらしいよ」
悩んでいる桜への心遣いだろうか。
そう言って石段をスタスタ登っていく薫の背中に、思わず笑みを浮かべる。
ーーありがとう。
途端に、なんだかとても小さなことでクヨクヨ悩んでいるような気がした。
足取り軽く、桜は薫の後を追った。
やがて、29歳運動不足の桜の息が上がってきた頃合いで、石段が終わり、少し開けた場所に出た。
傍には古びた、百葉箱ほどの大きさの祠。
その奥に、しめ縄をかけられた大きな岩が、杉の木に埋もれるようにして鎮座していた。
「うわぁ大きい」
その岩の地面についている部分から人が身体を横にすれば通れるくらいの、二等辺三角形の割れ目が出来ていた。
その中は真っ暗で、向こう側が見えない。
結構暗い…深いのかな?
引け腰になって、隙間を覗き込む。
「途中で右に折れてるだけで、案外すぐ抜けられるわ」
怖気付いたのを読み取られたのだろうか、薫が言った。
「な、なんだ、安心した」
「私が先に抜けるよ」
「え?一緒に行かないの?」
「あのねぇ、それじゃあ願い事叶わないでしょうが」
「あ、そっか」
「ほんと、拍子抜けなくらいすぐだから。途中で一瞬真っ暗になるけど、パニック起こさないでよー?」
「そ、そんなぁ!」
明るく笑って、薫が割れ目に身体を滑り込ませる。
桜は割れ目を覗いていたが、不安になるより早く、岩の右向こう側から「ほーらもう抜けた」という声がした。
早っ…!
「本当に早いね!私も行くよー!」
安心して一呼吸すると、「一冬とまた愛し合えますように!」という強い願いを胸に抱いて、桜は割れ目へ手を掛けた。
毛糸の手袋越しに、ゴツゴツとした岩肌の冷たさが伝わってくる。
けれども、中へ一歩踏み込むと、外より少し暖かい空気が身体を包んだ。
しかし、思ったより暗い。
無骨な岩肌の狭くて暗い洞窟というのは、新築の暖かい壁に守られてぬくぬくと暮らす主婦でなくとも、馴染みのない異空間だろう。
右に折れるところなどは、完全に光のない真の闇になっていた。
心構えがなければ、確かにパニックを起こしたかもしれない。
ーー右に曲がったら、すぐ抜ける、大丈夫…
胸の中で呟きながら、壁に沿って右へ踏み込む。
その時だった。
怖さのあまり、焦ったのかもしれない。
壁に添えていた右手が急に空を切り、支えを失った桜は前につんのめった。
「ひぁっ!?」
タタァン…!
2、3歩よろけた足音が、岩肌に反響する。
どうにか転ばずに済んだ。
しかしまさか、こんなに広い空間になっているとは。
「あっぶなーい、転ぶかと思ったよー」
気が動転しそうになるのを抑えるように、わざと大きな声で薫に呼びかけた。
洞窟内に響き渡る自分の声。
薫からの返事は聞こえない。
自分が目を開けているのかどうかさえわからない闇の中で、恐怖がひたひたと足を登り、桜を飲み込もうとしている。
ーーとにかく、早く抜けよう!
桜は暗闇を掻き回すようにして、どうにか壁を探り当てると、手を添えて壁沿いに進んだ。
ーー抜けない。
ーーまだ抜けない…!
いよいよ焦り始める。
ーー薫ったら、私を安心せるために、走って洞窟を抜けて見せたに違いないわ。
その時、手を添えている岩肌が薄っすらと見え始めていることに気づいた。
外の光が近いのだ。
桜は安堵のため息を漏らしつつ、歩調をさらに早めた。
やがて、岩陰から入った時とは形の違う、台形のような出口が唐突に口を開いた。
抜けたーー!
「もー、薫ぅ!意外と長くてびっくりしちゃった…薫?」
岩の裏側に出たものの、杉林の中に薫の姿が見えない。
入り口の方へ回ってみたが、そこにも見当たらなかった。
「薫!もう、いい加減にやめてよ!」
恐怖、安堵、不安ーー揺さぶられ過ぎた感情が音をあげた。
これがもっと若ければ、泣いていただろう。
しかし、一応は30を迎える立派な大人として、桜は泣くどころか腹を立て、石段を急ぎ足で下っていった。
「隠れてたって、探さないから!出てこないと、帰るからね!」
ーーまったく、こんな子供みたいなイタズラするなんて!
ーー『ありがとう』と思った私の気持ちを返せ!
ずんずん石段を下りていき、境内の裏へ抜ける。
振り返っても、薫は降りてこない。
少し心配しつつ、桜はスマホを取り出した。
連絡はない。
『どこにいるの?先に帰るよ?』
というメールを打とうとして、あれ?と指を止めた。
「圏外…」
こんなところでも圏外なのかと、あたりを見回して、ようやく桜はその違和感に気づいた。
ーー誰もいない…
先ほど来たときには、観光客や桜たちと同じ遅い初詣客が往来していたのに、人影一つ見当たらない。
なんの音もしない。
ハト1羽さえいないのだ。
恐る恐る境内をぐるりと歩き回り、そして販売所を覗いた。
お守りやお札は並んでいるし、巫女がいる会計窓も開いている。
それなのに、誰もいないはずがない。
弾かれたように、桜は踵を返した。
ーーここ、おかしい!
「やだよ…!薫…、薫どこ…!」
呟くように叫びながら、元来た石段を駆け上がる。
硬くなった残雪を踏んで足を滑らせながらも、桜は石姫神社まで戻ると、岩の割れ目の出口へ回り込んだ。
ーー戻らなきゃ、戻らなきゃ、早くもどらなゃ…!
「桜!?」
強い力で引っ張られたかと思うと、突然、暖かく柔らかいものに包まれた。
服越しに、ぎゅうと抱きしめられる感触を覚えて、それが薫であるとようやく認識する。
「…大丈夫?落ち着いた?」
しばらく抱きしめられてから、薫のしっかりとした優しい問いかけに、ようやく頷いた。
抱擁を解かれると、そこには「まったく」という顔つきの薫がいて、杉林がさわさわと囁く、岩の出口であることがわかった。
「あれ…私、どうなったの?」
「わからない。なかなか出てこないから覗いてみたら、岩にしがみついたままじっとしてた。願い事してるのかなって思ったんだけど、呼んでも返事しないし」
ーー暗闇の中で、失神したのかな。
ーーさっきの誰もいない世界は、夢?
「ごめん。私…何か変なことになったみたい」
頭が寝起きのようにぼうっとしていた。
やはり、一瞬気を失ったのに違いない。
「ううん、私こそ変なところに誘ってごめん。桜、相当悩んでたのね」
薫が桜の頭を撫でた。
「でも、桜はちゃんと出口へ抜けたんだから。きっと叶うよ。大丈夫」
その後は、甘い物でも食べてお茶をする予定でいたものの、さすがにあの不思議な出来事のせいでその気になれず、早い解散となった。
タクシーに乗って家へ帰り着いても、頭はぼんやりしたままで、身体がだるい。
桜はコートを脱いでソファに腰を下ろすと、そのままパタリと横になった。
確かに迷い込んだと思っていた無人の世界のことは、早くも実感を失い、ただの夢だったような気がしていた。
疲れたーー。
〜〜〜
「…桜、桜」
身体を揺すられて、ズルリと、引きずるように目を覚ました。
ーー何か嫌な夢を見てた気がする…でもそんな事より、ここはどこ?
定まらない焦点をなんとか正面に据えると、明るいリビングを背負って逆光になった一冬の、心配そうな顔が覗き込んでいた。
「一冬…あっ!」
驚いてにわかに上体を起こすが、頭がクラっとして起き上がることは出来なかった。
ひどく気分が悪く、そして寒い。
ーーあのまま寝てしまったんだ。
「よかったー、意識がないのかと思った!」
安堵のような、呆れのようなため息とともに、一冬が桜の髪を撫でた。
その感触で、自分が寝汗でびっしょりになっている事に気付く。
「ごめん、ちょっと疲れて横になったの…、こんな時間…!」
「すごく熱いし、ひどい寝汗だな。具合が悪かったのか?」
心配のあまり、怒っているような口調の一冬に、桜は満開もう一度ごめんと言ったが、不意に吐き気を催して口を押さえた。
「えっ、ちょ、大丈夫か!?」
時刻は午後10時。
一冬が仕事から帰ってくるまで、暖房も付けず、布団も被らずに眠ってしまっていたようだ。
一冬に介抱され、どうにか服を着替えて寝室のベッドに入った。
その傍に膝をついて、一冬が桜のおでこを撫でている。
「疲れてたんなら、連絡をくれたら会社も早退したのに」
「ごめんなさい。こんな事になるなんて思ってなくて」
「ううん。それより本当に病院行かなくて大丈夫?」
「うん」
おそらく、あの石姫神社での出来事で、身体が困惑してるのだろうと、桜は自己診断を下していた。
そのことを一冬に話そうかとも思ったが、しかし、やはり夢だったのか現実だったのかがわからない。
「こんな時に、お粥でも作れたらいいんだけど…」
申し訳なさそうな一冬に、桜は微笑んだ。
彼が自炊というものを全くしないことは、付き合っていた頃からよく知っている。
おそらく米を炊くどころか、インスタントコーヒーさえ、湯を沸かすくらいなら自動販売機へ買いに出るだろう。
「味気ないけど、コンビニでごめんな。何食べたい?」
一冬が、桜の髪の生え際を愛しげにいじる。
その優しい笑顔を見つめ返しながら、桜は困って首をかしげた。
仕事から帰って早く休みたいだろうにと、こちらの方が申し訳ない気持ちになる。
「ありがとう。でも、あんまり食欲が…」
「少しでも食べたほうがいいよ。吐いたっていいんだし」
額に、柔らかいキスが降ってくる。
「うん」
今日は素直に、夫の優しさに甘えよう。
桜は一冬が買ってきてくれたうどんを食べ、少し元気を取り戻すと、寝汗をシャワーで流した。
寝支度を整えた一冬に包まれるようにして、もう一度眠りにつく。
しかし、さすがに長い時間眠ったので、目が冴えてしまっていた。
一冬の温もり、におい、鼓動、寝息。
先に眠った一冬の存在を確かめるように、胸に顔を埋め、目を閉じる。
こんな体調の時でさえ、一冬に抱かれたいと思ってしまう自分は、淫乱な女なのだろうか、と思う。
1人でしたいのではない。
一冬に触れて欲しい。
ーーこんなに愛されているのに。
体調の悪さに気を遣ってくれているはずなのに、どうしてこんなに寂しいのかな…。
やがて、だんだんと思考があやふやになり、何を考えているのかわからなくなってきた。
眠れそうだ。
夢と現実の境目の、フワフワと心地よいまどろみに沈みかけていた。
そのとき、すぅっと冷たい風が一筋、頬を撫でた。
その感覚が妙に鋭く、徐々に意識が引き戻されていく。
頬の冷たさは、やがて寒さになる。
包まれていたはずの一冬の温もり、抱きしめられた腕の感触が、まるで気のせいであったかのように、寒さの中に溶けて消えていく。
「…一冬?」
ウトウトとしていた脳が目覚める。
一冬にしがみつこうとして、両手は空を掻き抱いた。
ベッドが揺れて、ハッとした。
そうではない、桜がよろめいたのだ。
タタァン…!
狭い空間に足音が響く。
目を開く。
いや、目は開いている。
そこは光のない闇の中で、ひんやりと寒かった。
ここはーー。
〜〜〜
またここだ。
私は闇の中でげんなりした。
石姫神社の、岩の割れ目。
さっきまでベッドに横たわっていた記憶がしっかり残っているのだから、ここは夢の中で間違いない。
夢だと分かればこっちのもの。
怖さは微塵も感じなかった。
それにしても、怖かったからって夢にまで見るなんて。
「子供みたい」
呟きを、僅かに響かせた。
情けないわ、29歳にもなって。
こういうとき、どうやったら目を覚ますことが出来るんだろう?
私は見えない目をこらして、辺りを確かめる。
目が慣れてくると、うっすらと岩壁の輪郭を見出すことが出来た。
前に進んで右に折れると、台形の出口が見えた。
ということは。
私はそちらへは向かわず、入り口をめざした。
あの誰もいない世界に出るのは気持ちが悪かったし、あえて悪夢にすることもない。
とりあえずここから出てみよう。
狭い二等辺三角形の入り口を、身体を横にして通り抜けた。
途端にキンと冷えた空気に包まれて、私は思わずすくみ上がった。
ザクッーー
踏んだのは、20センチくらい積もった雪!
「ひぁっ、冷たぁ!」
その足元ーーあれ、この靴、ずいぶん昔に持ってた…。
茶色のローファーに、黒いタイツ、そしてふんわりとしたAラインのコート。
どれも懐かしいしい服装だ。
すると、下を向いた私の耳元から、サラサラと黒い長い髪が流れ落ちてきた。
「へ、えっ?これ…」
ストレートパーマを当てた、ツヤツヤの髪。
これは、確か高校生の頃の髪型!
私は辺りを見回した。
積もった雪以外は、今日の昼間薫と見た景色と変わりない。
やっぱり、無人なのかな?
おかしな夢。
でも、なんとなく楽しそうな気がして、私は足を取られないよう気を付けながら、石段を下りていった。
何度も雪に足を取られて、下にたどり着くのに苦労した。
しかも、この雪の中をローファーだなんて…足首から雪が入り込んで、凍るように痛い。
コートも薄いし、足元もタイツだけーーヒートテックとロングパンツと裏地起毛のコートが手放せない今となっては、かなり過酷な道行だ。
うう、確かに高校生の頃はこんな寒さへっちゃらだったけど。
変なところにアラサーの感覚を活かさないでほしいわ。
ようやく階段の終わりが見えたとき、行き交う人の往来も同時に目に入った。
人がいる!
妙に安心してしまい、それが良くなかったのだろう。
急いだ足が、残り三段というところでずるりと見事に階段を踏み外した。
「ひぁあっ!!」
ーードサッ、ズルル。
派手に尻餅をつき、階段を滑り落ちた。
い、痛い…冷たい…
寒さのせいで、痛みがジンジンと鈍くしつこい。
「く、うぅ…」
どうにか起き上がろうとして、階段の入り口に張り渡されていた鎖を掴んだ。
道行く人たちは、私のことが見えていないのか、誰も気づかない。
しかし、どうにか立ち上がって雪まみれになったコートを叩いていると、ザクザクと、まっすぐこちらに歩いてくる足音ーー
「コラコラ、立ち入り禁止と書いてあるでしょうが」
それは、40代くらいと思しき神主ふう男の人だった。
彫りの深い顔立ちで、静かに怒っている。
私は慌てて、鎖をまたいだ。
その鎖に、『立ち入り禁止』というプレートが下がっていた。
「ご、ごめんなさい…!」
私はペコペコ頭を下げながら後ずさり、逃げるようにクルリと背を向けた。
「ああ、これこれ待ちなさい」
ドキッ。
何をしてたのかと咎められるだろうか…
そう思ったが、神主ふうの男性ーー私の夢なんだから神主さんでいいやーーの口調はことのほか優しかった。
「甘酒を飲んで行きなさい。温まるから。それに、その足も」
「え? あ…」
見ると、ローファーがすっかり雪詰めになっている。
じわじわと、足の感覚が奪われていく。
私は情けなく笑って頷いた。
ガラスの引き戸に、黒いロングヘアの女の子が映っていて、不思議そうにこちらを見返している。
間違いなく、高校生の私だ。
相変わらず化粧っ気はないし、派手さもないものの、髪や眉はきれいに整えていたし、私なりにお洒落には気を遣っていた年頃だった。
そんな高校生が、土間の縁に座って円筒形のガスストーブに両手をかざし、傍に甘酒を置き、神主さんがくれた足用カイロをしっかり貼って、ぬくぬくとくつろいでいる。
なんてババくさい高校生。
かといって高校生らしい無邪気で怖いもの知らずの態度なんて、アラサーの私には到底無理だ。
「心ゆくまで温まっていきなさい」と言い残して、神主さんはどこかへ行ってしまった。
私はまたあの寒い雪の中に踏み出すのが億劫で、なかなか腰を上げられず、このまま夢から醒めないかなぁ、などと考えながら詰所を見回していた。
なんて地味な夢。
展開も何もありゃしない。
ふと、壁にかかっているカレンダーが目にとまった。
日付は定かではないけれど、11年前の3月であるらしい。
ということは18歳。
高3だわ。
なんて具体的な夢…。
18歳かぁ、と、昔に想いを馳せる。
あの時の私は、何をしていたっけ。
大学も決まったし、取り敢えず出席するだけの授業をこなし、友達と遊び、部活の後輩をかまいに行き、楽しいキャンパスライフを妄想しながら新しい服なんかを買い集めたりしてたのだろう。
なんにも考えてなかったなぁ…。
なんにも考えなくたって、生きていけたんだ。
家族に守られ、教師に守られ、友達に守られて。
結婚した今、私は一冬に守られながら、一方で一冬を守る立場でもある。
そういえば、一冬は?
今私が18歳なら、彼は20歳。
若い!
私は、一冬と過去について話した時のことを思い起こした。
あれは付き合って間もない頃だったか。
ーー昔は、随分荒れてたんだよ。中学と、高校と。髪も金やら銀やら忙しく染めてさ。
〜〜〜
「…。嘘だあ」
ややあって、私は笑いながら言った。
目の前に座っているのは、人当たりの良さそうな笑顔をした、自分のことを“俺”とも言わなそうな男性だ。
頬も丸いし、黒髪はていねいにセットされているし、真面目そうなメガネまでかけている。
「本当だって!写真見せようか?」
彼はスマホを取り出すと、しばらくいじって、私に画面を差し向けた。
友人と写っているプリクラ画像だった。
「え?これ…別人じゃない?」
想像していた、ただ痩せて髪の色が明るいだけではない、全く別人の一冬がそこにいた。
尖った輪郭に、鋭く細い目。
ホストのような、襟足の長いウルフヘアは、茶と金のグラデーションになっている。
黒いロングTシャツも白いパンツも、横に並びたくないほど細身で、ピアスからネックレスからブレスレットからと、シルバーの厳つい飾りがギラついていた。
そんなチャラ男が、こちらを見下ろすようにしてベロをだし、キメキメで写っている。
笑ってやろうと思った。
多分、私以外の人なら、ギャップのあまり笑ったに違いない。
でも、私は笑えずに、その画像に見入っていた。
そもそも私は、チャラ男という人種がーーつまり、異人種のように思っているわけだがーー苦手だった。
誰に対しても横柄な態度だったり、人を見下したり、我慢ができなかったり。
どうしても、そんなイメージが先行してしまう。
何より、全力の「俺ってかっこいい」アピール。
違うったら。
かっこいいのは髪型と服装だけ。
そんな偏見のせいで、私は今までチャラ男と呼ばれる類の男性を避けてきた。
もちろん、チャラ男の方も、私のような地味女は歯牙にも掛けなかったわけだけれども。
そう、私のタイプは一冬のように人当たりの柔らかい、配慮の出来る男性。
飾らない彼の顔が大好きだったし、かっこいいと思っている。
まったく、どうして一冬はチャラ男時代の写真なんか見せてきたのだろう。
昔はモテたんだよって言いたいのかな。
もう今で十分、私は彼に惚れてるって言うのに。
チャラかった過去なんてマイナスだよ。
チャラ男なんて、皆同じ…チャラ男なんて、私の人生にいらない、チャラ男…なんて…。
「か、かっこいいね…!」
あっさり前言撤回。
私は人生で初めて、チャラい風体の男性をカッコいいと思った。
「え!? いや痛すぎるだろ、黒歴史だよ。それは19か20か、高校出て働いてた時かな」
自嘲的に笑う一冬。
どうやらネタのつもりで見せたらしい。
やはり私以外の人は、こんなギャップの激しすぎるビフォーアフターを見せられると笑ってしまうのだろう。
けれども、私は気付いた。
タイプの顔というのは、太っていようと痩せていようと、若かろうと老けていようと、タイプであることに変わりないと。
「ううん、かっこいい。でも、こんな時に出会ってたら、友達にすらなれなかっただろうなー」
「そんなことないよ。桜のこと、どストライクだし、この頃ならもっと強引に迫ったかもね。昔の写真見せてよ」
「えー。私別にオシャレでもなんでもなかったよ。高2くらいまで化粧もしてない」
「いいじゃん、俺むしろ桜のスッピン好きだから」
「でも今ないよ。また今度ね!」
「よし、じゃ約束な?」
〜〜〜
不思議だった。
生涯関わることなどないと思っていた、チャラ男。
外見は変わったって、中身はそうそう変わるものでもないはずなのに、こんなに気が合い、まして結婚までしてしまうなんて。
「会ってみたいな…チャラい一冬」
「夢だ」という自覚のある夢というのは、ストーリーを思い通りに変えることが出来ると聞く。
確かに何度か、そういう夢は見たことがあった。
けれどもこの夢は嫌に現実的で、私が一冬に
会いたいからといって、電車で1時間半かかる市外へと場面を移してくれるつもりはないみたいだ。
会いたいなー会ってみたいなーなんて、ストーブの前で身体を揺すっている場合じゃない。
時間を無駄遣いすると、朝になっちゃう。
そんな気さえした。
いこう。
夢なんだから、どうにでもなるはず。
私は温もりを名残惜しみつつ、無人の詰所を後にした。
神社を出てしまうと、人の往来のおかげでコンクリートが見えるほどには雪が溶けていた。
最寄りの駅まできて、券売機の上の路線図を見上げたとき、私は「あ」と声を漏らした。
お金持ってない…
ポケットを探り、あたりを見回しーー無いかぁ。
「どうしよ…わっ!?」
思わず呟いた私を、誰かが後ろから突き飛ばした。
つんのめって、何事かと振り返ると、驚いた顔のサラリーマン風の男性。
「す、すみません」
ぶつかっただけかぁ…
と思っていると、またしても、今度は横から。
「痛っ!」
2人組の若いお姉さんがぶつかってきた。
「わ、ごめんなさい、すみません」
「あ、いえ…」
通り過ぎていく2人の会話。
「ビックリした、全然見えてなかった〜」
「私も気付かなかった〜」
…。
私、見えてない?
見えてないというか、著しく存在感がない、のかも。
案の定。
その5分後には私は特急列車の窓側の席に座り、電車を乗り継いで、しっかり一時間半旅をした。
駅員さんの前で、堂々と無賃乗車してしまった…
夢なのに、罪悪感も時間の感覚も現実そのもので、またうんざりとする。
私はほんのりと黄身を帯びた西日に包まれた、小さな駅をキョロキョロ見回した。
一冬が昔住んでいた場所はだいたい聞いている。
彼は高校を卒業して、しばらくは地元で鳶職に就き、その後市内の会社に転職した。
だから多分、まだこの辺りに住んでると思うんだけど…
私は駅のそばを流れる川沿いに歩き始めた。
取り合えず彼が住んでいたアパートのある方向へ。
土手から川にかけては、雪が踏み荒らされることなくこんもり積もっていて、おそらく散歩の犬であろう足跡だけが、転々と続いていた。
のどかだなぁ、田舎っていいなぁ…
そんな風に、のんびりと散歩気分で歩く。
小さな鳥がチチチと鳴きながら川を渡っていく。
「…っんのかコラァ…!」
遠くから何か聞こえた。
あ、鴨だ。
川の水冷たくないのかなぁ?
「…んなよオラぁ…!」
「…んのやろっ…!」
親子なんだ、ちっちゃいのがいっぱい、ピコピコ浮いてて可愛ーー
「オラァこのクソガキがぁ!」
「死ねゴラァ!」
なんなの!?
私は穏やかではない怒号と、入り乱れる足音のする方へ目を向けた。
土手を下った先の、川辺の橋の下で、数人の男子が暴れていた。
男子ーーそう、見るからに中学生といった風貌の男の子たちだ。
が、髪は立派な金髪や茶髪ばかりで、スカジャンやらオーバーサイズのパーカーやら、もう見るからにそっちの世界の子たち。
私の苦手センサーが、偏見に近いジャッジを下していた。
口汚く喚き、掴みかかり、殴りかかる、野蛮な種族。
私は顔をしかめて道の端に寄り、逃げるべきか、通り過ぎてしまうべきかで迷っていた。
というよりは、完全に足がすくんでしまっていた。
そういえばこの辺りは、学校も荒れてるんだっけ。
見ないように見ないように…あ、そっか。
私は存在感がないんだから、見つかりっこないかーー
怒号や、人が殴られる音がひどく不愉快で、ひどく怖くて、そんな事をせっせと考えていた。
こういうとき、私はいつも俯き加減で、極力視野を狭くして、自分を守る。
見えてない、気付いてない、私は関係ない。
だから、川沿いの車道を渡ってこちらへ歩いてきた3人組にようやく目をやったとき、雷に打たれたような衝撃を受けたのだった。
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