守られるべき者
取り残された加害者家族の姉弟のお話しです。
完全フィクションです
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玄関のチャイムが激しく何度も鳴りづける。母親が夕げの支度の手を止め、エプロンで手を拭きながらパタパタと足早に玄関のドアを開けると、黒い服を着た男が5〜6人立っていた。
「どちら様でしょう?」
新しく出来た近所の塾かコンビニなどの挨拶周りだろうと少し迷惑顔でドアを開けた母親は、その異様な雰囲気の男たちに嫌な予感を感じた。
「長倉優一くんのご家族の方ですか?」
「はぁ…」
その男たちは二畳程の狭い玄関のたたきに一瞬のうちに入り、背にしたドアをバタンと閉めた。
一番前にいた背の高い40歳前後の男が胸から警察手帳をみせた。
母親はその手帳を見た瞬間、訳が分からない様な恐怖で胸がバクンバクン鳴った。
「長倉優一くんのお母さんですか?」
「はい…そうですけど」
「お父さんはいらっしゃいますか?」
「何ですか?何があったのですか?」
母親は震える声で聞いた。隣りには奥から出てきた父親が立っていた。
「実は、先日起きた幼児殺害事件の件で優一くんに事情を聴くため、優一くんを中央署でお預かりしています」
一瞬、その場が凍りついた。
「ご家族の方にもいろいろとお伺いしたい事がありますので、お父さん、お母さん、それとご兄弟にもご協力願います」
「えっ、えっ、どう言う事ですか?優一がどうしたんですか?」
母親は目が血走り、全身がガタガタ震えていた。
「ともかく中に入れて下さい。それからカーテンは閉め、電話線は切っておいて下さい」
返事を待つ間も無く、次つぎと家の中に入ってくる黒い男たちの横で、父と母は呆然と突っ立っていた。
〜一章〜
同じ職場の敏也と四年前25歳で結婚した長倉沙織は、度重なる敏也の浮気に愛想を尽かして半年程前に実家に戻っていた。
長身で物腰が柔らかく、清潔そうな笑顔の敏也は社内でも女の子たちの憧れの的だった。
噂好きの同僚や上司に内緒で付き合っていた沙織と結婚の報告をした時には、周りから驚きと嫉妬の声が響いた。
結婚から二年後に産まれた女の子には
「茜」と名付け、溶けるような目をして我が子を可愛がる敏也の姿を見て、沙織もまた目を細めていた。
だが、一年ほどして敏也の様子が変わってきた。残業などほとんど無い会社だったのに、週に一度、三日に一度、といった具合に敏也の帰りが遅くなった。朝方五時ごろに戻りシャワーだけ浴びて出勤する日もあった。
付き合っていた当時から度々女にだらしない部分は感じとっていたが、結婚となればまた違うだろうと始めは残業を信じていたが、さすがに三日に一度ともなれば疑う。
顔を合わせれば喧嘩ばかりの毎日、夫のいない孤独な夜。こんな生活にきりをつけようと沙織は離婚を決意したのだ。
「茜がいればいい。この子の笑顔が私の全てだ」
二歳になろうとしている茜を腕に抱きしめ、沙織は実家に戻った。
沙織の実家は都心から電車で二時間程の中核市で材木屋を営んでいる。
従業員はいない家族だけの小さな会社だが、近所の建設会社からは信用のおける取引先として仕事をもらっている。
二歳年下の弟、優一は無口ながらも真面目で手先が器用で高校を卒業して稼業を手伝い、両親の期待を背負っていた。
沙織はそこの事務を手伝った。
小さな会社だがやることはたくさんある。沙織が仕事している間、茜はすぐ横の畳部屋で待っていた。
幸い茜はお絵かきやままごとが好きな女の子らしい子で、毎日大人しく一人で遊んで待っていた。
お昼休みは少し長めにもらい、近くの公園に連れて行き砂遊びやブランコで遊ばせたが、経理の忙しい月末などには沙織に変わって優一が茜の相手をしてくれた。
茜は優一によくなつき、優一も茜の前では笑顔になることもあった。
優一のことは沙織も両親もきがかりな存在ではあった。稼業を手伝うようになって少ししてからはほとんど言葉を発せず、たまにふらふらと何処かに出かけたと思えば無表情で帰ってきて部屋に閉じこもってしまう。
友達もいる様子は無い。仕事で必要な言葉をたまにぶっきら棒につぶやくだけだ。
でも、茜が来てからは優一の顔が少し明るくなった気がする。何年も見ていなかった笑顔も見れた。
お見合いでもさせてみようか、そんな話しが持ち上がった頃にあの事件は起きた。
沙織と茜が実家に戻り、半年が過ぎた頃だった。
その日は朝から真夏日だった。
沙織は午後の5時に一連の仕事を終えて、仕事場から地続きになっている実家に戻った。
茜の手を引き、キッチンに入るとすでに仕事を終え作業着からTシャツ姿に着替えた優一が出かけようと車のキーを片手に立っていた。
「出かけるの?」
沙織が問いかけたが無言だ。
「何処にいくの?夕飯は?」
「…いらない」
トボトボと薄暗い廊下から玄関に優一は歩いて行った。
しばらくしてガレージから優一のワンバックスカーが出て行くエンジン音がした。
「優一また出かけたの?」
母親の恵美子が戻り、買ってきたお惣菜を開けてテーブルに出した。
「夕飯はいらないってさ」
沙織は不機嫌そうに言った。
「何処にいくって?」
「知らないわよ、聞いたけど答えないもん」
「全く、毎日何処行ってるんだろうね」
「まあまあ、子供じゃないんだし、あんまり詮索しなくてもいいじゃないか」
父親の憲司が冷蔵庫を開け、ビールの栓を抜きながら言った。
翌朝、沙織が朝食の支度をしようとキッチンに降りてきたらすでに優一が起きていてテレビを見ていた。
沙織は一瞬ギョッとしてしまった。
いつもはギリギリの時間まで寝ていて、何度も母親に起こされ、寝癖だらけの姿でだらだらと朝ごはんを食べているからだ。
「あんた、早いじゃない。夕べ何時に帰って来たの?」
「…」
「ご近所さんに迷惑だからあんまり夜中に車動かしちゃだめよ」
優一は沙織の言葉などに耳もかさず、テレビをじっと見ていた。
フライパンの目玉焼きがちょうどいい硬さになる頃、両親が起きた来た。
連日の暑さで年老いた両親は疲れが溜まっているのかだるそうだ。
沙織が皆んなのご飯をよそい、席についた順に食べ始めた。
テレビでは今日の天気が流れている。その時アナウンサーが臨時ニュースを告げた。
「臨時ニュースです。臨時ニュースです。
昨夜から行方不明となり捜索されていた
五歳の女児、駒村真澄ちゃんが、今朝遺体で発見されました。」
家族四人がテレビに釘付けになった。
「えっ、昨日行方不明事件なんてあったのか?知らなかった」
話し出す父親に、沙織はシーっと指を立てる。ニュースが聞こえないでしょ、と苛立ちぎみに。
「昨夜6時頃A市で、ピアノ教室に行く途中で行方不明になった駒村真澄ちゃん五歳が今朝、犬の散歩中の人によってB市の河川敷で遺体となって発見されました」
アナウンサーは興奮気味に同じ文面を二度繰り返した。
「A市だって!近くじゃない!やだやだ怖いね、あんた茜から目をはなすんじゃないよ」
「そうだね、しばらくは公園も行かないようにするわ。」
沙織はまだ二階で寝ていてる茜を思い出し、幼い女児が殺され姿を想像して背筋がゾーッとした。
「本当に気を付けろよ」
父親も心配そうに付け加えた。
優一は無言のまま、ご飯をむしゃむしゃと食べながらテレビをじっと見ていた。
ショッキングなニュースが流れてから一週間、連日ワイドショーではその事件が流れていた。
駒村真澄ちゃんらしき子が大柄な男に話しかけられていたとか、二人組とコンビニにいたとか、情報は錯綜していたが、これと言って確かな情報はない様だった。
いくら茜が大人しいといっても一週間も家の中に閉じ込めておくとさすがに茜もききわけがなくなってくる。
沙織は少しだけ、と思い茜の手を繋ぎ公園に行った。
道中にはパトカーや警察官がウロウロしていて、逆にいつもより安全ではないかと思う位だ。
しかしやはり心理的に怖くなりすぐに帰って来た。他の親子も同じようで、ごねる子供に手を焼き出てきたもののすぐに帰ってしまう。
町中から子供の声が消え、パトカーの赤いランプだけが光っている異様な光景だった。
優一は相変わらず毎日夕方になると出掛けて行く。
しかし、この頃は前のようにいつ帰ってきたかわからないほど遅くはならない。
五時半位に出掛け、九時すぎには帰って来るようになった。
彼女でも出来たのかも、いやそれはないでしょう、と、半分笑い話し、半分期待の気持ちで家族で話していた。
その日の夕方も優一は出掛けて行った。
三人の夕飯も当たり前になり、そろそろ出来上がるという頃にチャイムがけたたましくなったのだ。
〜二章〜
息が出来ない。苦しい。死んでしまう。
沙織は額に汗をビッショリかいて跳び起きた。
隣を見るとスヤスヤと寝息を立てて茜が寝ている。
そーっと布団から出て、水を一気に飲んだ。
あの日、黒い服を着た警察官が家に来た瞬間から沙織の人生は一変した。
五人の警察官の後から十人以上の警察官が押し寄せ、家中を家宅捜索された。
手袋をはめ、絨毯の裏や米びつの中まで入念に調べ、写真を撮っていた。
電話線は切っていたが、玄関のチャイムはひきりっなしに鳴り続け、閉めたカーテンの隙間からテレビ局のライトが何十個も光っていた。
その間、両親と沙織と茜は抱き合うようにして座り込み、ただその光景を呆然と見ていた。
警察官から出された押収物の用紙に父親が震える手でサインをし、一旦捜索が終わったのは夜中の1時だった。
茜は泣きながら沙織の腕の中で寝てしまっていた。
もちろん、その家にはいられるわけもなく、警察の車でマスコミから逃げるようにその日はホテルに泊まった。
タンスがひっくり返り、冷蔵庫の中身も全て出され、本棚、押入れ、全てが荒れ果てたこの家に帰る事はこの日以来二度なかった。
女児殺害事件の犯人逮捕で、日本中がざわめきたった。
優一の顔は全国に流れ、家屋や材木工事までもテレビに流れない日はなかった。
当然、材木屋は閉め、両親は離婚した。離婚したのは母親と沙織だけでもと姓を変えた理由もあるが、何より家族中がメチャクチャになってしまい、とりわけ両親の中が悪くなってしまったからだ。
優一がこうなってしまったのは無理やり稼業を手伝わせたからだ、と毎日父親を罵声する母親に父親も鬱状態になってしまった。
連日の警察からの事情聴取。
マスコミの攻撃。
近所や知り合いはどう思っているのだろうか。
父親も母親も沙織も気が狂う寸前だった。
離婚して母親は自分の郷里に戻り、沙織も遠く離れた場所で一人暮らしを始めた。
母親の郷里だってマスコミにばれている。少しでも優一に繋がるものは避けたかった。
今、沙織は茜と二人小さな田舎町で暮らしている。
事件から二年がたち、茜は4歳になった。
アパートを借りるにも戸籍で優一の事がばれてしまい、何軒も断られた。
弟の優一の存在を知っているのかどうかわからない不動産屋が、唯一何も聞かず入居させてくれたのが、今住んでいる部屋だ。
古びたお世辞にも綺麗とはいえないボロアパートだか、沙織にとっては天国のような場所に思えた。
その近くのキノコ工場でパートをしている。履歴書には嘘を書いた。個人でやっている工場では身元の確認などしないだろうと、怯えながら履歴書を出し、見事沙織の予想通り、何も疑われずに採用された。
茜を預けた保育園には、唯一園長だけに話した。他の保育士には絶対に漏らさないで欲しいと頼み込む沙織に、園長は目を赤くして茜を抱きしめ承諾してくれた。
少しづつ、少しづつあの事件を世間が忘れて欲しい。
加害者家族がそんな事を願うのは間違っているのはわかっていた。
けれど、茜を守りたい、その一心で毎日をやっとの思いで過ごしていた。
夜、クタクタになり布団に入る、しかし時折見る黒い服を着た警察官が家中かき回す夢で苦しくなり、飛び起きる事が二、三日をあけずあるのだ。
キノコ工場の時給は850円
朝8時半から夕方5時半まで働き、15万そこそこだ。
そこから家賃の三万五千円を引き、国民健康保険や光熱費、保育費を払い、八万程残る。
沙織は毎月四万づつ貯金をし、後の四万を食費や茜の洋服代、たまにふたりで買い物に行く時の交通費やアイスクリーム代にあてた。
優一が事件を起こす前の沙織は、どちらかというと派手なタイプだった。
暗く無口な優一に比べ、社交的で華やかな雰囲気の沙織は友達も多く、身なりにも気を使っていた。
しかし今は毎日髪をひっつめ、白の割烹着の様な作業エプロンをかぶり、マスクで目の下まだ覆っている。
流れてくるベルトコンベアの上のキノコを定規をつかい黙々と計っている。
昼休みも十人程いる他のパートと必要以上には話しをしなかった。
下手に仲良くなり、詮索好きなおばさんたちにあれこれ身の上を聞かれるのが困るからだ。
たまにある飲み会もいくら誘われても行った事は無い。
母子家庭という事だけははなしてあるおばさんたちに、子供を連れてきてもいいからおいでといわれても、なんだかんだ理由をつけて断ってきた。
酒など飲み、うっかり出身地などでも口走ってしまったら今の生活が全て壊れてしまうからだ。
最も、時たまやりきれない気持ちになり、1人で茜の寝顔を見ながらビールを飲む事はあったが、全く酔えない様になっていた。
このまま自分は歳を取って行くのだろうか、茜はこんな重荷を背負って結婚出来るのだろうか。
いっそ、二人で死んでしまおうか…
そんな事ばかり考えてしまう。
朽ち果てた毎日だった。茜の笑顔を見れば愛おしくて顔がほころぶ。
けれどそれも一時だ。すぐにまた絶望感が押し寄せてくる。
そんな沙織の生活を変える1人の男が現れた。
〜三章〜
キノコ工場の仕事を終え、茜を自転車に乗せた沙織は保育園とアパートの間にあるコンビニに寄った。
今日は月に一冊だけ買っている茜の楽しみにしている幼児向け絵本の発売日だ。
保育園で教わったばかりの歌を唄い、上機嫌の茜の手を取りコンビニに入ろうとした瞬間、
「こんにちは」と声をかけられた。
沙織はドキッとして咄嗟に茜を自分の背中に隠し、ゆっくり身体を回した。
そこにはいつもキノコ工場にくる取引先の男が立っていた。つい一週間前に入社してそこの担当になったと挨拶されたのでよく覚えていた。
沙織は心底ホッと胸を撫で下ろした。
マスコミに嗅ぎつけられたのかと思ったからだ。
この田舎町に沙織の事を知っているなど、キノコ工場のおばさんや社長、保育園の先生位しかいない。男ならなおさらいない。
「岸本さんですよね」
両親が離婚して沙織が移した母親の姓だ。
「Yフーズの三浦です。わかりません?」
三浦はハキハキとした大きめな声で話しかけてきた。
「こんにちは。わかりますよ」
沙織は素っ気なく答えた。
「あれ〜、岸本さんのお子さんですか?
可愛いですね」
三浦は沙織と手をつなぎ、不思議そうな顔で見ている茜のまえにしゃがみ込み
「こんにちは」と、寄り目にしてふざけた顔を見せた。
茜は笑いをこらえながらもはずかしそうに沙織の後ろに隠れてしまった。
「あの、いつもマスクしてるのになんで顔がわかったんですか?」
「そりゃ、わかりますよ。あの工場で岸本さんだけでしょ、若い人。後は皆んな五十過ぎですもん。なんであそこに岸本さんみたいな若い人がいるのか不思議だったんですよ。だからいつも岸本さんの目だけでてるマスク顔、じーっと見ちゃってました。 あっ、でもこの話他のパートさんには言わないで下さいね」
焦り気味で話す三浦の姿に沙織は少し吹き出してしまった。
沙織を寝かし付けた後、テーブルの上のメモをみつめていた。
彼らしい少し濃い目のボールペン字で
電話番号が書いてある。
彼が書いた文字。それだけで沙織の胸は高鳴った。
今時、好きな人の文字を見るだけで胸が高鳴るなんて女子中学生でもいないだろう。
それほど沙織は愛情に飢えていた。人間そのものに飢えていたのかもしれない。
夫に裏切られ、親とも会えず、弟は巨悪犯罪者。追いかけ回すマスコミ。
人間なんて大嫌いになった。でも同じくらい人間に飢えていたのかもしれない。
沙織はそのメモをそっと畳んで引き出しに閉まった。
次の日、三浦が来ていつもの様に沙織を見た。しかし沙織は俯いて三浦を見ない。
いつもは控えめながらも一瞬三浦の顔を見てくれていた。それは三浦の思い過ごしではなく、あきらかに二人の瞬間だったのに。
次の日も、また次の日も沙織は顔を上げる事はなかった。
仕事が終わると、沙織は誰よりも早く着替えて工場を出る。
これはいつもの事だ。
一刻も早く茜を迎えに行きたいのと、おばさんたちから話しかけられるのをさけるためだ。
その日もいち早く工場の裏手の駐輪場に向かった。
すると、沙織の自転車の横に三浦が立っていた。
「ゴメン、でも岸本さんと話したかったからメモ置いたんだけど、迷惑だったよね。それだけ謝りたくて…」
三浦はいつものような元気のいい口調では無く、さみしげに言った。
「工場のおばさんたちから、岸本さんはバツイチって聞いたから、それなら電話くらいいいかなって…図々しかったよね、ゴメン。もう気にしないで忘れて下さい。」
沙織は黙ってうつむいていた。
工場の裏手からおばさんたちの談笑する声が聞こえてきた。
「みんな来ちゃうね。本当にゴメンね」
走り出そうとする三浦の腕を沙織は咄嗟的に掴んでいた。
〜四章〜
もう一生誰かを好きになるなんてないと思っていた。
そんな権利は無いと思っていた。
いや、そんな事を考えることすら別の世界だった。
しかし、今沙織の横には1人の男が寝息を立てている。
茜がお泊り保育という名のレクリエーションで保育園に行った日、始めて三浦が沙織のアパートに泊まった。
駐輪場で三浦の腕をつかんだあの日から
週に一度の割合で三浦とのデートを重ねた。
もちろん、いつでも茜は一緒だ。
始めは躊躇していた沙織も、込み上げてくる会いたいという自分の気持ちを押さえ切れずに三浦に引きつけられていった。
三浦の詮索しない性格も、沙織に歯止めがかからない材料だったのだろう。
三浦は一切、沙織の離婚の原因や出身など聞いてこなかった。
もともとサッパリしている男なうえ、なんとなく沙織が話したくなさそうな雰囲気を感じ取ったのかもしれない。
茜も三浦と会うのが楽しみだったようだ。
肩車や追いかけっこ、大きな車に乗せてもらい動物園に連れて行ってもらった。
何より、三浦は優しくいつでも茜と沙織を一番に考えてくれる。
そんな三浦をまるで本当のお父さんのように慕った。
沙織と三浦が男女の関係になるのは自然の流れだった。
そして、季節が変わる頃には半同棲のように三浦がアパートに泊まりに来ていた。
三浦はが泊まりに来るようになって
茜は今まで以上に三浦になついていた。
昼間買い忘れた物を近くのスーパーなどに買い行く時など、茜は三浦とお留守番しているからと
「ママ、1人で行ってきて」
と言われ、少し淋しい気もするが
「ゆっくり見てきていいよ」
と言ってくれる三浦に甘え、いつも慌ただしく回るスーパーもじっくり回る事が出来、そんな些細な事が息抜きになった。
しかもそんな時三浦はいつも茜を寝かし付けてまでくれていて、沙織と二人で飲めるように簡単なおつまみまで用意されていた。
確かに二人だけにしてしまった時間は何度かある。
でも、茜はあんなに三浦になついているではないか。
三浦の優しい笑顔は作り物とは思えない。
茜が深夜、高熱を出した時もおぶって病院に連れて行って朝まで付き添ってくれた。
あの優しさも演技で影では茜を虐待していたのだろうか。
茜の傷はあきらかに不自然だ。自分で転んだり、服の上からぶつけて出来る様なものではない。
茜は聞き分けがいいおとなしめの子で、三浦がかっとするほどワガママを言う事も考えられない。
いや、でも虐待なんてする人間は何の理由もなくする。自分のストレスのはけ口にするやつもいる。
でも、でも…
沙織が茜の病気以外でパートを休むのは始めての事だ。
ギリギリの生活をしている今は、少しぐらい体調が悪くても休むわけにはいかない。
しかし今日はパート先に風邪で熱っぽいので一日だけゆっくり寝ていると告げ、休みをもらった。
茜をいつもより30分早く保育園に連れていき、最寄りの駅から電車でN駅へ向かった。
N駅には三浦の自宅がある。
正確にはあると聞いているだけで、実際に行った事は無い。
それも、沙織が聞いたのではなく、パート先の社長と三浦が世間話しをしていた時に聞こえて来ただけだ。
茜と三浦がじゃれている時、
「おじちゃんの家はねぇ、小学校の隣にあるから今は毎日運動会の練習の音が聞こえるよ」
「おじちゃんの部屋は五階建てのアパートで窓にハトがたくさん留まるんだよ」
こんな会話を聞いた事がある。
子供相手に適当に興味を引く話しをしたのかもしれない。
でも三浦は沙織にも自宅のベランダにハトが糞を落として困ると言っていた。
まんざら適当でもないかもしれない。
N駅のそばに小学校は二つだけ。
ひとつはハトがたくさんいる公園がすぐそばにある。
三浦が本当にそこに住んでいるのか確かめてみようと沙織は思った。
住んでいるところが本当だったとしても、虐待してないとは限らない。けれど、まずはそこが嘘だとしたら全てが嘘なんだろう。
今のところ三浦という人間を調べるにはそれしか手が無かった。
N駅に向かう電車の中、沙織は不安と恐怖で錯乱していた。
三浦の何かを知ってしまったら2人の関係は終わりになってしまうかもしれない。
例えば、三浦には奥さんや本命の彼女がいて遊ばれているならこのまま知らないふりをして三浦と繋がっていた方がいい。
でも、それが茜の虐待となると話しは別だ。
許すわけにはいかない。
考えてみると不審な点はたくさんある。
いくらさっぱりしているといっても、沙織の出身地位は聞いてきてもいいのではないか。
聞かないのは自分が聞かれて困るからではないか。
それに、時々沙織がいくら電話しても繋がらない時がある。決まって月の真ん中辺りで、次の日には携帯の電池が切れてしまっていたと言いながらかけてくるのだ。
そして免許証が三浦のポケットから落ち、沙織が拾おうとした時、三浦はいつになく慌てて沙織が拾うより先に掴み取りまたポケットにしまっていた。
考えれば考えるほど思い当たる事がある。
そんな事を思っているうちにN駅に着いてしまった。
〜代六章〜
父の憲司は、祖父の時代から住んでいた材木工場から車で15分ほどの、古い県営住宅に1人ひっそりと年金暮らしをしていた。
酒浸りの毎日で風呂もろくに入らず、ベタついた髪の毛からは鼻を突くような酢いた匂いがしてくる。
息子の優一がおこした事件後、もともと悪かった心臓病も悪化し、今はほとんど寝ている状態だ。
妻の美恵子の様に、事件当時住んでいた場所から離れ、誰も自分を知らない遠い場所へ行きたい気持ちは当然あったが、家屋の売却、仕事での取引先への謝罪などやらなくてはいけない事がたくさんありすぐにその地から離れられなかった。
そもそも憲司にはみを寄せる親戚などがいない。
もともと地元で産まれたので親戚もそばにしかいない。
その親戚にも多大な迷惑をかけてしまった。甥っ子の婚約破棄、兄の失業、全て優一の事件を知り、周りの人間に自分がまるでモンスターの様に見られる様になったのは憲司たち両親や沙織だけではない。
そして、憲司は親戚とは二度連絡を取らないと決めたのだ。
今は酒と、たまに来る娘の電話だけがほんのちょっとの生きる糧となっていた。
沙織は定期的に両親に電話をしていた。
年老いた両親がどんな惨めな正確をしているのかは安易に想像出来た。
しかし、もうそばにいてあげる事は出来ない。
そんな事はどちらも十分わかっていた。
今の沙織はなにより茜を守ることが使命なのだから。
「身体は壊してないか?」
「茜は大きくなったか?」
「保育園は楽しいって?」
何ヶ月に一度に聞く父親の声は、かすれて弱々しいながらも、父としての愛情、そして孫への愛おしさが伝わって来る。
事件の事には一切触れない。それはいつしか親子の間で禁句になっていた。
一方、母親の美恵子とも連絡を取っていた。
こちらは相変わらずで、電話口でまくし立てるように喋り続ける。
「優一があんな風になったのは憲司のせいだ」
「自分と優一の人生を返してほしい」
などと、憲司を憎み、それによって自分の精神のバランスを保っているかのようだ。
そんな美恵子に沙織は嫌気がさし、しばらく連絡を取らないでいると、美恵子からひきりなしに電話がかかってくる。
夜中でも朝早くでもお構いなしで、うっかり出てしまおうものなら仕事の前でも
なかなか切れなくなる。
仕方なしに、二週間に一度は沙織から電話をした。
今、沙織住んでいる場所から美恵子の実家までは電車で一時間ほどの距離だ。
月に一度、その電車に乗って美恵子は沙織に会いに来る。
沙織を心配してでも、孫の茜の顔を見たいわけでもなく、沙織から五千円をもらうためだ。
仕事が終わり、茜を迎えに行く前、駅の待合室で落ち合い、沙織が封筒に入れた五千円冊を一枚渡す。
「ありがとね、助かったよ」
嬉しそうに封筒の中を覗く美恵子に
「じゃあ、私、保育園に行かなきゃいけないから」
と、沙織は冷めた口調でさっさと別れる。
こんなやり取りは一年前から続いていた。
五歳の駒村真澄ちゃんは家から歩いて五分ほどのピアノ教室へ、母親と一歳になる弟と一緒に向かっていた。
家の前の道を真っ直ぐ150メートル位行くと広い道に突き当たる。
その道を左にまがり四件目がピアノ教室だ。
母親は広い道まで真澄ちゃんを送っていき、ピアノ教室が見えると自宅に戻っていった。
いつもなら教室のドアの前まで送っていき中にいる先生に挨拶をしてから一旦自宅に戻り、レッスンが終わる頃また迎えに行くのだが、今日は違った。
夕べから熱を出していた弟が腕の中で泣きわめいていたからだ。
本当は外に連れ出さない方がいいのだけれど、まだ五歳の真澄ちゃんを1人で行かせるわけには行かない。
仕方ないので大通りまでは連れて行き、すぐに自宅に戻った。
母親が引き返し自宅に歩き始めた瞬間、大通りの後方にいたワンボックスカーが
真澄の背後に偲び寄ってきた。
窓から声をかける男の手には、綺麗な玩具のアクセサリーがたくさんぶら下がっていた。
〜代七章〜
沙織は油の中の唐揚げを見つめていた。
後ろのテーブルにサンドウィッチが大皿で鮮やかに並んでいる。
そのテーブルの横には茜と三浦がパズルゲームをしながらはしゃいでいた。
今日は茜の五歳の誕生日だ。
三人でお祝いしようと茜の好きな唐揚げやサンドウィッチを用意していた。
三浦の自宅を確かめに行ったあの日、三浦の話し通りのアパートに三浦の部屋があった。
アパートの裏の駐車場には、出勤前の見慣れた三浦の大きな車が停まっていた。
恐る恐る階段口のポストをみると
確かに「三浦」と書いてある。
そのあと、車が見えるファーストフード店で珈琲を飲みながら見ていたら、寝坊して慌て気味の三浦がいつもの営業服で飛び出してきて、車に乗って出かけた。
何も怪しいところは無い。
名前も住んでいる場所も嘘ではなかった。
言葉の端々で感じとられた、「一人暮らし」という点も本当らしい。
沙織は安堵で一気に力が抜けた。
もちろん、これで虐待の疑惑が晴れたわけではない。
じゃああの傷は何なのか。
三浦の時々見せる不審な行動は何故なのか。
沙織ため息をついた。
その時、バックの中の携帯が震えた。
母、美恵子からだった。
何よ、一週間前に電話したじゃない。
しかも本当だったら仕事している時間だし。
沙織は出るのを躊躇ったが、7コール目に通話ボタンを押した。
「はい。」
「沙織?お母さんだけど、今日仕事じゃなかったの?」
「ちょっと用事があったから休んだの。何?」
「あら、だめじゃないあんた、仕事なんて簡単に休んじゃ」
あんたこそ
働いてもいない、家事もろくにしてない自分を棚にあげて恥ずかしくないの?とでかかったが飲み込んだ。
「とにかく何?用事は?」
「ちょっと会えないかな?あんた今日休みなら調度いい、会える?」
どうせ金の無心に決まってる。
今月はもう五千円渡し済みだ。それだって苦しい生活費を切り詰めしてやっと捻出したものなのに、これ以上せびられたらたまらない。
「お金は無いわよ」
「そんなんじゃないよ、やだねぇ。ちょっと話しがあってさ」
沙織としては美恵子の話しなんて愚痴ばかりで聞くのもうんざりだったが、ここで断ればまたしつこく電話してくるだろう。
それなら休みの今日、会ってしまおうと思った。
時計は午前9時。
思ったよりも簡単に三浦の自宅を確かめられ、時間も有り余っていた。
美恵子にいつも五千円を渡す駅は
沙織の自宅から程近い駅だった。
そのために時間をさきたくなかったし、
こっちはあげるのだから、自分が取りに来なさいよ、という些細な主張だった。
その小さな駅の裏側の喫茶店で待ち合わせた。
沙織が先に着き待っていると、20分ほどで美恵子がやってきた。
いつも何かにイラつき、蔑む様な目つきをしていた美恵子だったが、この日は少しだけ違った。
心なしか嬉しそうなのだ。
沙織を見つけ、席に着くなりメロンソーダを頼んだ美恵子は、タバコに火をつけた。
昔からヘヴィスモーカーだ。
「あんたが急がせるから汗かいちゃったよ」
「あたしだって忙しいんだから急に言われたってそんなに時間取れないわよ、仕方ないでしょ」
「それにしたって、電車で一時間かかるのに、一時間半後に来いって言われたって、お母さんまだ支度もなにもしてなかったんだから…まぁ、いいわ、確かに急に呼び出しちゃったしさ…」
美恵子が折れるなんて珍しい…やっぱり金の無心なんだろうな…
沙織は呆れ気味に聞いた
「それで、話しって何なの?」
「ああ、うん。優一の事なんだけどね…」
美恵子は声のトーンを下げ、首を伸ばして沙織に顔を近づけた。
「実はさ… この間弁護士さんと会ってきたんだけど、なんとか無期懲役になりそうなんだよ」
優一の最終判決はまだ出てなかった。
対象被害者が1人という点では、有期刑か無期懲役のどちらかが妥当だが、被害者が子供という点、犯人に反省の色が見られない点から、無期懲役か死刑かで議論されていた。
ワイドショーでも評論家が世論を考慮しつつ、予測しあっていた。
沙織はその言葉を聞いて、嬉しそうな美恵子とは対照的に、背筋がぞっとして油汗が噴き出して来た。
あいつが⁈
まだ生きると言うのか⁈
なんで終わりにしてくれないのか…
何も言わない沙織に続けて美恵子は言った。
「優一にも早くこの話ししてあげたくてさ。弁護士さんからはもう聞いているだろうけど、お母さんから話して優一の喜び顔が見たいよ。 今月はもう面会出来ないから、来月になっちゃうんだけどね」
美恵子が優一の面会にかかさず行っているのは知っていた。
優一などという存在は沙織にとっては抹消したい、憎い、悪魔の様な存在でしかないが、母親とは子への愛情はすてられ
ないものなのだろう。
いや、どの子供にもそうというわけではない。
美恵子が沙織に対してこんな愛情を向けた事はなかった。
美恵子は、小さな頃から優一に特別愛情を注いでいた。
姉弟喧嘩をしてもいつも怒られるのは沙織ばかりだった。
食卓に並ぶ料理も優一の好物が多かった。
しかし、末っ子の男の子が可愛いのはどこの母親でも同じだろう。
その分、父親の憲司は沙織に甘かったので沙織もなんてことはなかった。
それに…小さい頃の優一は本当に可愛かった。
いつも沙織の後ばかりついて来た。
自転車に乗り遊びに行こうとする沙織を
いくら帰れと言っても走って追いかけ、転んで泣いていた。
「お姉ちゃん、待ってよ待ってよぉ」
沙織が引き返すと涙でぐしゃぐしゃの顔で笑い、沙織に抱きついた。
久しぶりにじっくり母親の顔を見ていたら、忘れかけていた記憶が蘇り
気が付くと沙織の目から涙が滝のように流れてきた。
何故泣くのか自分でもわからない。
憎い、憎い、弟だ。
自分と両親と、愛する自分の娘までを不幸にした弟。
その弟が死刑をまぬがれるかもしれない。
ずっとこの世からいなくなることを望んでいたのに…
沙織は肩を震わせ、嗚咽をあげながら泣いた。
沙織は喫茶店で母親と会ってから二週間、
茜の様子を注意深く見ていたが、あれから怪我は増えていない。
三浦ともいつもどおり楽しそうに遊んでいる。
三浦がいない2人だけの時に、茜に訊ねてみたりした。
「何かおじちゃんに嫌なことされていない?」
「おじちゃんに、お母さんに黙ってなさいって、叩かれたりしたことない?」
じっと茜の目をみて聞いてみたが、キョトンとした顔で
「どうしてママそんなこと言うの?茜、おじちゃんだーいすきだよ」
と決まって答える。
五歳の子が嘘や隠しごとなんてしたら、様子がおかしいとすぐわかるが、そんな感じは微塵もない。
やっぱり考え過ぎだったのかもしれない。怪我だって自分がわからないうちにどこかにぶつけたのかもしれない。
沙織はどこか納得しないまま、自分を納得させようとしていた。
三浦は今までと同じように沙織の部屋に来ていた。
今日の茜の誕生日には大きなぬいぐるみをプレゼントしてくれた。
その三浦からのプレゼントは沙織にとっても嬉しいものだった。
あの喫茶店での帰り際
「それでさぁ、やっぱり五千円用立ててくれない?」
美恵子にそう言われて、沙織は
…やっぱり、と渋々財布から出して渡した。
だから今月は特に苦しく、茜のプレゼントを買う金が無かった。
沙織からの小さな文具セットに三浦の大きな包みで、やっと見栄えがよくなった。
2人からのプレゼントを両手に抱え
茜は嬉しそうに飛び跳ねた。
テーブルの上には沙織の手料理がところ狭しと並んでいる。
食事の時はお茶か水と決まっているが、今日だけは特別にオレンジジュースだ。
もう、色々考えるのはやめよう。虐待も単なる考え過ぎかもしれないし、優一へのモヤモヤした気持ちも母親への苛立ちも、自分が落ちていくだけだ。
「さっ、食べよう!お腹すいたね〜」
沙織の言葉に、茜と三浦は待ってましたとばかりに箸を持つ。
「いただきます!」沙織が言おうとしたその時、テレビから速報テロップの合図音が鳴った。
(平成○年にA市で起きた幼児誘拐殺害事件の犯人、長倉優一の死刑が確定)
次の日沙織は茜を保育園に預けた後
母親に電話をかけた。
しかし電源は切れており、留守番電話のメッセージだけが流れている。
「もしもし沙織ですけど、連絡下さい」
朝から同じ用件を三度も入れた。
優一が死刑からまぬがれるかもしれないといってあんなに美恵子は喜んでいた。
今の美恵子の心境を考えると、沙織は心配でいてもたってもいられなかった。
変な気をおこさなきゃいいが…
本当だったら今すぐ飛んで行き、美恵子の無事を確かめたい気持ちだった。
しかし、美恵子の実家の周りにはマスコミが殺到してるだろう。
死刑確定のニュースで、当時の犯罪背景と共に以前住んでいた家屋や材木工場がまたテレビで流れていた。
当然一人暮らしをしている父親のところや、すぐに知られた美恵子の実家にもマスコミは集まっているはずだ。
ほとぼりが冷めるまでは電話にも出られないのかもしれない。沙織はそう思い、仕事場に向かった。
昨日の夜、速報テロップが流れた時のその瞬間、沙織の身体は凍りついた。
ショックとか、驚き、とかそのような言葉では表現できない衝撃で、一気に口の中が乾き、喉の奥が熱くなった。
しばらくはテレビを見たまま硬直してしまった。
「ママ?」茜の呼ぶ声に、はっとした沙織が我に返ったのはテロップが流れて2分以上たってからだった。
それからはケーキを食べていても、サンドウィッチを食べていてもまるで味がせず、ただ作り笑いを浮かべ飲み込んでいただけだった。
心の中で黒いものが渦まく。
心臓がバクバクと急スピードで脈打っている。
それは、死刑確定がショックだったからでも、母親が心配になったからでもない。
我に返った沙織が、慌てて三浦の顔を見たとき…
三浦もまた身体を硬直させ、わなわなと震わせていたのだ。
目に涙を溜めて…
その時の三浦が尋常で無い事はあきらかにわかった。
顔は真っ赤に染まり、強張った口元で震えたっている三浦の様子に、沙織はギョッとしてしまった。
慌てて目を逸らし、キッチンにタオルを取りに行くふりをして立ち上がった。
その気配で三浦も我に返り、慌てて作り笑いを浮かべた。
「お腹すいたなぁ、もう食べていいかい?」
キッチンの沙織に話しかけたその声は
まだ震えが治まらず、少し波うっていた。
その日三浦はケーキを食べた後、自宅へ帰って行った。
明日の仕事が早いからと、それは最初からの予定だった。
「おじちゃんありがとう!」
茜が玄関先で三浦に手を振る。
茜の頭にそっと手を乗せ
「歯を磨いてから寝るんだぞ」
と三浦は言った。
となりにたつ沙織の顔をちらっと見て
「じゃあ、また」
と言って帰って行った。
…三浦は間違いなくあの事件の被害者の関係者だ。当然、私の素性知っていて近づいて来たのだろう。
やはり茜の怪我は三浦が、やったものなのか…
ともかくもう二度会わない方がいい。
いやそんな簡単な事ではない。
被害者の関係者に居場所を知られてしまった以上、ここにはいられない。
でも、どこに行く所があるのか?
今のアパートだって借りるのにどれだけ大変だったか…
沙織は一晩中考えていた
昨夜眠れなかった沙織は身体が、鉛のように重かった。
朝一番にキノコ工場に電話をして休みを取った。
工場に集配に来る三浦と顔を合わせるのが怖かった事もあるし、美恵子や憲司に電話もしたかった。
沙織は美恵子に電話が繋がらず、ふぅーっと深呼吸してから憲司の携帯番号を押した。
憲司にも繋がらないかもしれない。
でも、もし電話に出たら聞かなきゃいけない事があったからだ。
事件の被害者の事…
優一が事件を犯し、連日連夜沙織たち家族にも取り調べがあった。
でもそれは優一の生い立ちであったり、家族でのそれぞれの立場であったり、つまり、優一が何故犯罪を犯したのかという事に重点を置いた取り調べであった。
また、事件後優一の様子に変わった様子は見られなかったか、というものであった。
沙織や美恵子が被害者について知っているのは、名前、年齢、テレビのニュースで見た顔写真など、ワイドショーを見ていた一般の人と変わらないくらいだった。
むしろ、事件に関係のない野次馬たちの方が知っていたかもしれない。
沙織はこの事件について報道されたものから目を背けていた。
しかし憲司は警察から色んな説明を受けている。弁護士の手続きや、家宅捜索後の家の片付けも警察官と行った。
三浦の事を知っているかもしれない…
沙織は憲司に聞いてみようと思った。
沙織が憲司の携帯番号を押し、呼び出し音が一回鳴っただけですぐに憲司が電話に出た。
昨日の死刑判決のニュースでマスコミから避けるために、電源を切っているかもしれないと思っていた沙織は、あまりにもすぐに憲司が出たので少し驚いてしまった。
「お父さん?…沙織ですけど」
「ああ、うん…」
沙織は何て切り出そうか戸惑った。
事件後何度か憲司とは話しているが、優一や事件について話した事は無かった。
暗黙の了解で、互いその話しは避けてきたのだ。
でも、昨日死刑判決が出たのだから、今日沙織が電話をしてきた理由はわかっているだろう。
もっとも、沙織の電話の用事はそれだけではないが。
「…判決、出たね」
「…ああ …ああ」
しばらく沈黙が続いた。
「…マスコミは大丈夫?」
「……朝から玄関のチャイムが二度程鳴ったがでなかったよ…」
「そうね、しばらくは来るかもしれないけど出ない方がいいわよ。」
「お父さん?」
「…」
「……うぅっ…うぅっ…」
憲司は泣いていた。
沙織が憲司の泣き声を聞くのは生まれて初めてだった。
事件後、沙織と美恵子は毎日泣いていた。真っ暗な自分たちの未来に自暴自棄になり平静ではいられなかった。
しかし憲司はいつでも一点を見つめ黙っていた。
我慢しきれずに、喉元から嗚咽をあげて泣く憲司の声を聞き、沙織は苦しくなった。
「これで終わったのよ、お父さん… 」
「もう、後は時が過ぎるのを待っていれば時が優一に償わせてくれるのよ…」
酷い言い方になるのかもしれない。
時間が立てば優一は死刑になる。そしてこの世からいなくなる。だからもう終わったんだ…という意味なのだから。
憲司がその言葉をどうとったかは分からない。
けれど憲司の嗚咽はしばらくとまらなかった。
沙織は驚いた。
憲司は優一に対して憎悪の感情で溢れていると思ったからだ。
もちろん、親として、全く愛情が無くなったわけではないだろうが、それよりも自分や自分の家族を苦しめて崩壊させた優一を許せないのだと思っていた。
だから今まで事件や優一の話しはしなかったんだろうと思っていた。
それなのに、父はこんなにも悲しんでいる…
凶悪犯の息子がこの世からいなくなってしまう事に、身をよじりながら悲しんでいる…
しばらく沙織は、会話にならない嗚咽だけを複雑な思いで聞いていた。
嗚咽がおさまり、鼻をすする音が聞こえた後、長い沈黙を破ったのは憲司だった。
「仕事はいいのか?今日は休みじゃないだろ?」
憲司は気持ちを切り替えるように話題を振った。
「今日休んだの。茜は保育園に行ってるけど。お父さんに電話しなきゃって思って。」
沙織はうまい具合に切り出せた、と思った。
「判決が出てお父さんやお母さんが心配っていうのもあったんだけど、ちょっと他にも聞きたいことがあってね。」
泣き過ぎてしゃがれてしまった声の憲司が聞く。
「なんだ?」
「事件の後お父さん、被害者のお宅にお詫びに行ったわよね?」
言いにくそうに沙織は言った。
「……ああ。何度も追い返されたが、十回目くらいだったかなぁ。会っていただけたよ」
「その時、どんな話ししたの?」
「話しなんてものではなかったよ。こちらは加害者側なんだから…」
沙織は黙ってしまった。
「可愛い笑顔の女の子の写真を見せられた時には直視出来なかったよ。ただただ、頭を床に擦り付けてただけだ。
お前と同じくらいの若い両親でな…」
ここまで言うと、憲司はぐっと言葉に詰まった。
「たくさんのご親戚も来ていた。皆んなから愛されていたんだろう。……皆んな泣いていたよ…」
当時の状況を思い出し憲司は辛くなった。
「親戚の中に私と同じ年齢くらいの男の人いなかった?」
「…いや、男の人は父親と年配の方二人だけだったよ。お前と同じくらいの女の人はいたがな。確か、母親の妹だと言っていたよ」
「そう…。ありがとう。」
何故沙織が今になってそんな事を聞いてくるのか憲司は不思議だったが、沙織には聞かなかった。
聞いたって沙織は言わないだろう。そう感じとったからだ。
「それともうひとつ教えてほしいんだけど…」
沙織は、優一の弁護士の住所を憲司から聞き手帳にメモした。
沙織が、磨りガラスのついた古い木製のドアを開けるとドアを背にして座っていた50歳前後の女性が椅子から立った。
「あの、長倉優一の姉ですが…」
その女性は「お待ちしておりました」
と、深く頭を下げ、右側にある小さな応接間に案内をしてくれた。
沙織がソファーに座り待っていると
メガネをかけたメタボ気味の男が、ノックをして入ってきた。
「いや、どうもどうも遠いところからご苦労様です。」
弁護士の早川隆史は脇に抱えたファイルを沙織の前にある机の上に置きながら言った。
沙織は立ち上がり深々とお辞儀をした。
早川は立ったまま、沙織の顔を見て言った。
「この度は残念でした。」
頭を下げている。
死刑から無期懲役に減刑出来なかった事を言っているのだろう。
「いえ、いままで色々、弟の面倒を見てくれてありがとうございました」
沙織はもう一度頭を下げた。
「実は、今日は被害者の事について先生に教えていただきたくて伺ったんですが…」
沙織が言った事に
「私でわかる事なら何でも聞いて下さい。」
早川は快く承諾してくれた。
「被害者の関係で三浦という名前の方はいませんでしょうか?年齢は30歳くらいで」
沙織が質問すると、早川は一緒不思議そうな顔をして沙織の顔を見たが、すぐに目をそらし、「えーっと」
と言いながら机の上のファイルを開け、パラパラめくった。
分厚いファイルの真ん中辺りで手を止め
「あー、あったあった。これだ。」と
ファイルの向きを沙織に読めるように、くるりと回した。
「母親の妹の婚約者が三浦という方でしたよ。ここにも一度訪ねて来たことがあったからよく覚えてます。」
……やっぱり。
沙織の全身から血の気が引いた。
ある程度は覚悟してはずだったのだが、予想以上にショックを受けていた。
「三浦はここに何故ここに来たんですか?」
沙織の声は震えていた。
「彼は、そこの入り口で立ったまま、私をずっと睨みつけていました。
私は落ち着いてソファーに座るように言ったのですが、彼はそこからは一歩も中に入って来ませんでした」
本間は話しを続けた
「彼は、あんな人間を弁護して何になるんだ、あんたのやってる事は間違ってる、と私を罵倒し、弁護を辞めろと言ってきました。」
沙織はじっと話しを聞いていた。
「優一くんの弁護を引き受けた時点からそんな事、世間の皆さんから常に言われてたので、私はまたか、って思ったんですけどね…」
沙織は申し訳無さそうに、早川にお辞儀をした。
すると早川は
「いや、いやいいんですよ」と、沙織に向かって手を「違う違う」という風に降った。
「それで…その三浦と妹さんは結婚されたのですか?」
沙織が早川の顔をじっと見て聞くと、早川は
「いや、してません。」と目を伏せて言った。
沙織が何故しなかったのかたずねようとした瞬間、早川が言った。
「妹さんは、亡くなりました……」
沙織が弁護士事務所を出て、新幹線に飛び乗ったのは午後三時を回った頃だった。
なんとか五時半には保育園にいる茜を迎えに行けそうだ。
今朝、茜を保育園に預けた時には仕事にいくつもりで工場に向かったのだが、やはり早い段階で決着をつけたくて急遽休んでしまった。
だから茜の延長保育は頼んでいない。
沙織は新幹線の中で、早川から聞いた話を頭の中で整理していた。
早川の話しによると
優一が殺した幼女の母親が、そのショックで精神を壊して入院してしまった。
母親の妹はその入院先に毎日訪ねていき、洗濯などの雑用をしながら、精神を病んだ彼女の泣きわめきを聞いてあげていたそうだ。
家に帰ると、また幼い甥っ子の面倒見て、年老いた両親の世話もしていた。
仕事は辞め、家族や甥っ子、義理の兄の食事なども作った。
そんな生活が三ヶ月程続いたある日、姉の入院する病院へ行く途中、軽自動車のハンドルを持ちながら居眠りをしてしまった。
ほんの一瞬だった。
疲れていて頭がぼーっとしていた。
軽自動車の真横から、トラックが青信号を直進してきた。
トラックは大きなクラクションを鳴らしながらブレーキを踏んだが、軽自動車の運転席の横にめり込むようなかたちでやっと止まったのだ。
即死だったそうだ。
軽自動車の後部席には、入院中の姉の着替えと姉に見せるための甥っ子の写真が積んであったそうだ。
その、妹の婚約者が三浦だった。
二人は事件の半年前に婚約して、結婚式の日取りも決まっていたそうだ。
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
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