先生と。
もうすぐ夏休みがやってくる。
7月の暑い日。
校庭ではうだるような暑さの中、野球部の男子生徒達がグラウンドを規則正しく走り回っていた。
(……あ、恵斗)
蟻の行列のように均等に配列されたランニングをする生徒達の中に、崎谷恵斗の姿があった。
家が隣同士で、幼稚園から一緒の私の幼馴染み。
高校2年の夏。彼にとっては勝負の夏だ。
(がんばれ、恵斗)
心の中で声援を送りつつ、私はぼんやりと教室から窓の外を見ていた。
とくに部活動に入っていない私にとって、野球部で一生懸命にボールを投げている恵斗の姿は眩しかった。
幼馴染みでありながら、恋心のようなものを抱いているのかもしれない。
ふと、教室のドアがガラリと空いた。
そちらを見ると、副担任の藤沢が入ってくる。
ワイシャツの袖を折って、現れた逞しい腕で額の汗をひとつ拭う。
藤沢は細いのに適度に引き締まった体を持つ、現代文の教師だ。
顔もそこそこ整っていて、女子生徒達から受けがいい。
まだ20代でノリも良く、男子からも好かれているまさに人気者の先生。
「宮野、まだ残ってたのか」
「瑠奈が文実終わるの待ってんの」
「仲いいなぁ、おまえら」
藤沢はくくっとおかしそうに笑って、私の隣の机の上に腰を落ち着ける。
隣に来ると、やはり彼が長身だということがわかる。
私は何気なく藤沢の顔を見上げて、いつものように友達にするように話しかけた。
「先生、なんで水泳部の顧問やめちゃったの?」
「ああ、坂田先生の方が適任だと思ったから、譲ったんだよ」
「なんで? うざいくらい熱血だったじゃん」
「今年になって、おまえが退部しちまったからな。俺が教えたい部員がいなくなったの」
「え?」
思わぬ言葉に、私は呆気にとられた。
私、宮野咲良は、1年生の時に水泳部に所属していた。
ただなんとなく、泳ぐのが好きで入ってみた部活。
その時の顧問がこの藤沢だ。
彼の指導のおかげで、私のタイムは驚異的に縮み、泳ぐことが楽しくなった。
だけど2年生になり、私は部活をやめた。
理由は誰にも伝えていない。
そしてその後を追うように、藤沢は水泳部の顧問をやめたのだという。
彼のその行動の意味がよくわからずに、私は腑に落ちない顔で藤沢の少しつり目気味の瞳を見つめた。
藤沢はニヤリと口元を歪めている。
「おまえこそ、なんでやめたんだよ。水泳部」
「……先生には関係ないじゃん」
「冷たいこと言うなよ。俺はおまえのこと、特別に感じてんのに」
「はぁ? キモいし」
ストレートな藤沢の言動に気恥ずかしくなり、つい突き放すような言い方になる。
そんな私を、藤沢は相変わらずニヤニヤと余裕の笑みで見つめていた。
「本当だよ。俺はずっと咲良のこと、見てた」
「……何言ってんの?」
「おまえさ、俺のものになんない?」
「はぁっ!?」
思わず見開いた私の目の前に、藤沢の顔が迫った。
次の瞬間、私の唇は藤沢の薄い唇に塞がれていた。
新しいレスの受付は終了しました
誰もいない放課後の教室。
薄く空いた窓の外から、野球部のランニングの掛け声が聞こえてくる。
私の目の前には副担任の藤沢がいる。
藤沢の唇は私の唇を挟み込み、吸い付くようにちゅるっと音を立てて離れた。
頭の中が真っ白になった。
なんで私、先生にキスされたの?
次にはそんな疑問が沸々とわいてくる。
「な、な、なっ……!」
混乱した頭はなかなか言葉を成さなかった。
狼狽える私とは裏腹に、藤沢は無表情で冷静に私を見ている。
「……悪い。ついにやっちまったな」
言うなり、藤沢は深いため息をつきながら少し伸びた襟足を撫でた。
その手首が少し色っぽくて、つい目で追ってしまう。
そんな私の視線は、すぐに藤沢の瞳で捕らえられた。
「俺さ、ずっと咲良のこと欲しかった。1年の時、おまえが水泳部に入ってきた時から、ずっと……」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 暑くて頭おかしくなってんじゃないの?」
「違う。とっくにおかしくなってんだよ。おまえのせいで」
藤沢は鋭い目元を吊り上げて、私ににじり寄る。
後ずさりながら、私はあっという間に黒板まで追い込まれた。
背中には黒板の粉っぽい感触。
目の前には真剣な顔をした先生。
そして、彼の逞しい腕はバンッと黒板に押し付けられた。
壁ドンならぬ、黒板ドン?
「責任とれよ」
「なんで、私が……」
理不尽だ。
まるで責められている気がして、私は顔を横にずらした。
それでも藤沢は許してくれずに、私の顎を指で掴んで固定する。
じっと瞳を見つめられて、時が止まる気がした。
藤沢の瞳は深くて、黒くて、すべてを見透かされそう。
私はただ動揺していた。
藤沢は熱い眼差しで私を見ている。
「責任とって、俺のものになって」
「え……?」
呆然とする私の唇に、再び藤沢の唇が重なる。
もう訳がわからなかった。
夏の暑さのせいなのか、それとも極度の緊張のせいなのか、額に汗が伝う。
唇は否応なく藤沢の唇で吸われ、柔らかい刺激に支配された。
「んんっ……やめてよっ!」
急に罪悪感が襲ってきて、私は思いきり藤沢の胸を両手で押した。
引き締まった胸板は離れ、藤沢は泣き出しそうな顔で私を見つめる。
沈黙が訪れた。
まるで私が先生を虐めてるみたい。
気まずい空気が流れる。
「……ごめん。頭冷やしてくるわ」
藤沢は自嘲するように小さく笑って、教室を去っていった。
「……ワケわかんない……」
私は力が抜けたように、その場に座り込む。
いつも授業を受けている教室で、副担任に「俺のものになれ」とか言われて、ファーストキスを奪われて……。
一度に襲いかかった出来事たちに、私の脳内は追い付かない。
これは夢なのかもしれない。
そうだ、これは夢なんだ。現実のはずがない。
―ガラガラッ
勢いよく引き戸が開いて、クラスメイトで親友の相川瑠奈が教室に入ってきた。
「やっと終わったわー。おまたせ、咲良。帰ろっ」
明るく放たれた瑠奈の言葉で、これが全て現実の出来事だということを思い知らされた。
* * *
「咲良ー? どうしたの?」
「え? あ、なんでもない……」
瑠奈の声で我に返っても、まだ私の頭は混乱していた。
さっき教室で藤沢に奪われた唇が熱い。
指で触れてみると、キスの感触が蘇る。
帰り道。
何でも話せる瑠奈にも、藤沢のことは言えなかった。
「暑くて具合悪いかも。熱中症かな?」
「まじ? やばいじゃん。早く帰って寝た方がいいいんじゃないの」
瑠奈は心配そうに私の顔を覗きこんでくる。
本気で心配してくれる親友に、いっそ全て話してしまおうか。
でも、そしたら藤沢はどうなるんだろう。
「うん……今日はもう寝る」
私は曖昧に笑いながら、家までの道を急いだ。
家に帰ると、食事もそこそこに自分の部屋に引きこもった。
思い出すのは、藤沢の真剣な顔と突然のキス。
一体どういうつもりでキスなんてしたんだろう。
一方的な彼の言動に、子供の私は見事に振り回されている。
(はぁ……どうしよう、明日から……)
現代文の授業の時間が憂鬱になりそうだった。
顔を見たら、きっとあの感触を思い出す。
ぐるぐると忙しい感情を落ち着けたくて、私は部屋を出た。
玄関をくぐって、外の風にあたりにいく。
すると、隣の家の前に恵斗がいた。
家の前の壁にボールを投げつけている。
夜遅くにも関わらず、自主練習をしているのだろう。
「あ、咲良」
恵斗は私に気づいて、ボールを投げる手を止めた。
額に浮かんだ汗さえも爽やかで、私の心は幾分か浄化される。
「頑張ってるね」
「大会近いからな」
「偉いなぁ、恵斗は。尊敬するよ」
「何だよ、気持ち悪いな」
恵斗は茶化すように笑って、再びボールを握った腕を振り抜いた。
彼なりの照れ隠しに見えて、思わず私も笑う。
「勝てるといいね、県大会」
「うん。今年こそは勝ちたいよな」
「エースがピッチャーとして出るしね」
「プレッシャーかけんなって」
恵斗はふと思い直したかのように、持っていたボールを私の方に軽く放った。
硬い球体を必死でキャッチして、私はジンジンと痛む手のひらの感触を覚える。
こんなに硬いものを、恵斗は思いきり投げてるんだ。
「あのさ、大会見にきてくれる?」
「え? うん、瑠奈といくよ」
「咲良に見ててほしい。そんで、もし勝ったら……」
「ん?」
「……勝ったら言うわ」
気のせいか、恵斗の顔が少し赤い。
そんな意味深なことを言われると、こちらまで意識してしまいそうだった。
私は平静を装って、「絶対勝ってね」と明るく告げた。
恵斗が県大会で勝ったら、私だって嬉しい。
幼馴染みだし、身近な友達だし、それに……。
壁に向かってボールを投げ続けている恵斗の横顔を、私は気付かれないように盗み見ていた。
朝のホームルーム。
教壇に上がったのは、担任の田中先生ではなかった。
よりによって、副担任。
昨日、この教室で私の唇を奪った張本人だ。
「なんで藤沢がいんの?」
「先生、ついに担任に昇格?」
生徒たちから散々にからかわれても、藤沢はいつものように明るく笑いながら「黙っとけ」と余裕で往なしていた。
私は藤沢の顔をまっすぐ見れなくて、目線を机に落とす。
「田中先生は今日と明日、お休みすることになった。その間は俺が担任代わりだから。覚悟しとけよ、おまえら」
まるで悪戯っこのような口調で、藤沢は楽しそうにそう言った。
生徒たちからまた野次が飛んで、朝から明るい空気に支配される教室。
なのに私の心はモヤモヤと複雑だ。
「とりあえず、期末試験お疲れ。追試の奴にはプリント配るから、ちゃんと読むように。それが終われば夏休みが待ってるし、頑張って乗りきれよー」
「先生」
不意に、一番後ろの席に座っている恵斗が手をあげた。
野球部のエースピッチャーで注目されている恵斗の声で、一同は静かになる。
「どうした、崎谷」
「夏休みに野球部の大会があるんで、みんなに応援に来てもらえたら助かります。って、宣伝してもいいですか?」
「おお、いいじゃん。予定ない奴は応援行ってやれよ。もちろん、俺も行くし」
「藤沢行くの? なら俺もー」
「崎谷くん、頑張ってね」
またガヤガヤと騒がしくなる教室。
私は女子生徒たちに声援を送られている恵斗の方をぼんやりと見ていた。
恵斗は女子人気が高い。
体育会系で硬派なのに爽やかで、人当たりもいい。
そして、容姿も格好いい。
まさに完璧なのだ。
女子たちに次々に声をかけられている恵斗を見ても、私は嫉妬を感じなかった。
それよりも、藤沢が野球部の大会を見に行くという言葉が引っ掛かった。
今も男子たちと大会会場へ向かう段取りを話している。
夏休み中も顔を見ることになりそうだ。
「咲良、ライバルの数、半端ないね」
隣の席の瑠奈が、小声で私に囁いた。
瑠奈は私が恵斗のことを好きだと思っている。
だから時々発破をかけてくるのだが、私はいまいち積極的になれずにいる。
「別に、ライバルじゃないし」
曖昧に笑いながらそう返すことしか、今の私にはできなかった。
藤沢は何も言ってはこなかった。
私だけに特別に話しかけることもなく、涼しい顔でホームルームを終える。
今日は現代文の授業もないし、藤沢の顔見ることももうない。
私は安堵して、やっと息が吸えた気がした。
授業を淡々とこなし、昼休みは瑠奈とお弁当を食べる。
いつも通りの学校。
こうしていると、やはり昨日の藤沢とのキスは夢だったのかもしれないと思える。
このまま彼と接触を断っていれば、なかったことになる気がした。
それなのに……。
「宮野。話あるから、来てくれる?」
放課後。
教室にやってきた藤沢は、私に向かってそう言った。
昨日は馴れ馴れしく「咲良」と呼んできたくせに、みんなの前ではよそよそしく名字を呼ぶ。
それに何だか背徳感を覚えて、私は瑠奈に先に帰ってと告げてから教室を出た。
行きたくはない。
だけど、教師の呼び出しを無視できるほど、私は不良キャラではなかった。
廊下に出て、ぎこちなく藤沢に尋ねた。
「……何ですか?」
「悪いな、帰るとこ。こっち」
少しも悪いと思っていなさそうな声で囁いて、藤沢は私の手を引く。
廊下の端にある空き教室まで引っ張られ、私はされるがままに藤沢と二人きりの空間に押し込まれた。
机も椅子もない、ただの空間。
その真ん中に立って、私たちは無言で向き合っていた。
妙な緊張が襲ってくる。
最初に口を開いたのは藤沢だった。
「あのさ、悪かったな。昨日……」
「べっ、別に……」
「誰かに喋ったりした?」
「……誰にも言ってない。言えるわけないじゃん」
私は藤沢を睨んだ。
副担任にキスされたなんて、親にも友達にも言えるはずがなかった。
言ったら大問題になる気がする。
でも、私の中では大きな問題だ。
「なんであんなことしたの? 私、初めてだったのに……」
「本当にごめん。昨日はちょっと頭に血が上って、暴走してた。謝っても許してもらえるとは思ってないよ」
藤沢は真剣な顔で私を見つめたまま、大人らしい落ち着いた口調を保っている。
「宮野がどうしても許せないと思うなら、訴えてくれてかまわない。できるなら、忘れてほしい」
「え……?」
それは想像していない言葉だった。
忘れてほしい。
藤沢は確かにそう言った。
その言葉は私に不安をもたらす。
「忘れてって……そんなの……」
「ごめん」
藤沢は深々と頭を下げて、ハッキリと謝罪した。
顔が見れなくてますます不安になる。
私にとって初めてのキスを奪っておいて、今更忘れられるはずなどないのに。
確かに怒りを感じるのに、すっかり私を遮断しようとする藤沢を目の前に、何も言えなくなった。
「最低な教師で、ごめんな。本当に」
最後に悲痛な声でそう言って、藤沢は空き教室を出ていった。
一人取り残された私は、動けなかった。
あんなに強引に私に関わってきたくせに、こうもあっさりと無かったことにされるなんて。
自分勝手な男だと思う。
昨日から私の頭からは藤沢のことが離れなくて、気まずい想いもしていた。
それらがすべて無駄になった気がして、行き場のない想いだけが胸に渦巻いていた。
「……最悪。先生の、バカ……」
届くことのない恨み言は、静かな教室の中に響き渡った。
* * *
そのまま何事もなく、夏休みに突入した。
私は藤沢とのキスを忘れるよう努力した。
藤沢に言われたからではない。
あんな自己中男に振り回されるのがごめんだったからだ。
夏休みはほぼダラダラと自宅で過ごし、時々瑠奈と遊びに行った。
学校まで野球部の練習を覗きに行くこともある。
瑠奈が勝手に気をきかせてくれて、私に恵斗との接点を作ろうとしてくれているのだ。
夏休みに中だというのに、グラウンドは賑やかだった。
練習に励む野球部員や、チア部。
どこからか吹奏楽部の演奏する楽曲音が聞こえてくる。
私はグラウンドの外から、ピッチャーマウンドに立つ恵斗の姿を見つめていた。
真剣な表情でボールを投げる姿は圧巻だった。
恵斗のファンであろう女子生徒たちから歓声が飛ぶ。
その黄色い声に反応して、恵斗がふとこちらを見る。
私の姿に気付くなり、恵斗は口元を綻ばせた。
「あっ、崎谷くんが私に笑いかけてくれた!」
「は? 絶対私の方見てたし」
「超絶カッコいいー」
騒がしい女達の声に紛れて、恵斗の爽やかな声が届いた。
「咲良、部活終わるの待ってて」
「え……」
「一緒に帰ろうよ」
面食らう私に、恵斗は明るく笑っていた。
それにぎこちなく頷く私を、女子生徒たちの冷ややかな視線が見ていた。
部活を終えた恵斗と一緒に帰路に着く。
家が隣同士だし、一緒に帰るのは決して不自然じゃない。
だけど私の胸中はドクドクと脈打っていた。
「練習、見に来てくれたんだな」
恵斗の穏やかな声で、私はつられるように微笑む。
「恵斗、本当にすごいよね。毎日あんなに練習してて、頑張ってるなーって思った」
「絶対勝ちたいから、今年こそ。それに……」
不意に足を止めて、恵斗はじっと私の顔見つめる。
真剣な顔。
昔はさほど背も変わらなかったのに、今ではすっかり恵斗の顔を見上げるようになっていた。
段々と成長していく、男になっていく恵斗。
そのギャップに、いつからか緊張を覚えるようになった。
「咲良が見ててくれたら、勝てる気がするんだよね」
「絶対見に行くから、頑張ってね」
微笑みあい、頷きあう。
穏やかで心地いい緊張感。
やっぱり私、恵斗のこと好きなのかもしれない。
歩幅を合わせてくれる恵斗の横顔は、すっかり男の人に見えた。
* * *
それからも私は野球部の練習を見に行くようになった。
瑠奈は文化祭の実行委員をしていて、そちらにかかりきりになることが多い。
今日は一人でグラウンドに行った。
私が見ているのに気付くと、恵斗は明るく笑いながら手を振ってくれる。
それにぎこちなく手を振り返して、私はくすぐったい気持ちになった。
ふと、視線を感じて振り返る。
そこには野球部の練習を見に来る常連の三人の女子がいた。
みんな隣のクラスの女の子達で、あまり絡みはない。
その中の一人が私の腕を掴んだ。
「宮野さん、ちょっと来てくんない?」
「え……?」
思わず呆気にとられる私を、三人は取り囲むようにして連れていく。
あっという間に、体育館の裏というベタな場所まで連れてこられてしまった。
この展開はもしかして……
「宮野さんさぁ、崎谷くんと付き合ってないんだよね?」
「幼馴染みかなんか知らないけど、ベタベタしすぎじゃね?」
「彼女気取りとか、超イターイ」
やっぱり。
嫌でも悟ってしまった。
恵斗のファンであろう三人の女子が、嫉妬の眼差しをまっすぐに向けてくる。
幼稚園から恵斗の幼馴染みである私には、この光景は珍しくなかった。
半ば宿命のようなもの。
対処法は心得ているつもりだった。
三人のよく知らない女子生徒たちに囲まれて、私は何も言わずに彼女たちの言い分を聞いていた。
要は恵斗と馴れ馴れしくしすぎ、身分をわきまえて距離をとれ、というようなことが言いたいらしい。
高校生にもなって低次元な発想に心底嫌気がさして、私は思わずため息をついた。
「だから、私は恵斗とはただの幼馴染みだから。別に彼女だとか思ってないし、一緒に帰るのも家が隣だから……」
「余裕ぶってんじゃねーよ」
突然、一人の女子が私の肩を強く押した。
反動で私の体はよろめき、壁に背中を打ち付けてしまった。
痛みで顔を歪める私に、三人の女たちはにじり寄ってくる。
「あんたさぁ、前から調乗ってるよね」
「崎谷くんだけじゃなくて、藤沢先生にもベタベタしてるらしいじゃん」
「宮野さん、水泳部の子たちからも超嫌われてるよー」
女たちに肩を小突かれながら、私はいわれのない言葉を浴びせかけられていた。
思い出す、あの感覚。
1年生の時、水泳部の部室でも女の先輩たちから同じように辛く当たられたっけ。
藤沢とよく話している。
藤沢に媚びを売っている。
藤沢に特別扱いされている。
主に顧問の藤沢絡みのことで、嫌というほど嫉妬をされてきた。
私としては特別藤沢に関わっているつもりはなかった。
勝手に指導してきたのはあっちだし。
そういったことが重なって、耐えきれなくなり、私は1年で水泳部を退部したのだ。
そして今、今度は幼馴染みの恵斗と仲良くしていただけでまたイジメに近い何かを受ける羽目になった。
こうなってくると、私はつくづくこういう星のもとに生まれてきたのだと諦めがつく。
悔しいが、ここは耐えるしかない。
女たちの言動はエスカレートしてきた。
三人とも恐い顔で私を罵り、強く背中や肩を押してくる。
キャッチボールのように私の体を交互に押しながら、三人組は更にひどい言葉をたくさん吐いた。
(なんで、私ばっかりこんな目に……)
理不尽な出来事にやりきれなくなってくる。
知らずに涙を浮かべて、私は何も言い返さないまま俯いていた。
「おまえら、何やってんの?」
背後から聞き覚えのある声がして、目を開けた。
振り返るとそこには藤沢が立っていた。
いつもの明るい表情の中に、少し威圧感を感じる。
藤沢が怒っているように見えたのは、私だけではなかったようだ。
三人組はたちまち私の体を解放して、気まずそうに離れる。
「3対1? そりゃ、宮野は不利だよな」
呆れたようにため息をついて、藤沢は三人組に歩み寄る。
そのまま長身の彼は、大きな手のひらでポンポンと順に女子たちの頭を叩いていった。
「早く帰れ。野球部の練習、もう終わるぞ」
「……先生、このこと崎谷くんに言う?」
「言わねぇよ。でももうこんな小学生のガキみたいなことすんなよ。自分の価値下げるだけだろ」
そう往なして、藤沢は三人組をしっしと手で追い払った。
ばつの悪そうな顔をして、女子たちは小走りグラウンドの方へ去っていく。
私は気が抜けて、壁に寄りかかったまま大きく息を漏らした。
藤沢が歩み寄ってきて、片手を差し出してくる。
「大丈夫か?」
「……助けてくれて、ありがとう」
藤沢の手に掴まりながら、一応礼を言っておく。
一人ではあの場を切り抜けられそうになかった。
やっぱり藤沢は大人なんだな、と実感する。
「おまえも厄介な幼馴染みがいるな。崎谷と付き合ってるわけじゃないんだろ?」
「付き合ってないよ。勝手に周りがなんか言ってくるだけ」
「そっか。大変だな」
やれやれと肩すくめる藤沢に、私は少しの怒りを覚える。
他人事のように納得されるのもしゃくに障るが、水泳部の時に藤沢のことで同じような目に遭っていたことをこの男は知らない。
私が女子たちから目をつけられる原因の一端はこの男にもあるのだ。
「先生さぁ、私にばっか話しかけない方がいいよ」
「は? どうして」
「周りが勘違いするじゃん。贔屓してるとか、デキてるとか……」
「言わせとけばいいだろ」
教師とは思えないほどあっさりと、藤沢はあっけらかんとそう言った。
まるで悪びれていない顔で、次の瞬間にはにっこりと微笑む。
「だって俺、宮野と話したいし。それ我慢するのもおかしくない?」
「な、何言ってんの、まじで……」
そんな風にストレートに言われたら、嫌でも赤くなってしまう。
藤沢は本当にずるいと思った。
「と、とにかく、もう気安く話しかけてこないでよっ」
真っ赤に火照る顔を悟られないように、私はそう言い捨ててその場を走り去った。
藤沢に助けてもらって嬉しかった。
久々に話をして、正直ドキドキした。
どうしてこんな感情が湧いてくるのだろう。
あんな幼いセクハラ教師に、こんな風に振り回されてしまう自分の心が理解できない。
その日はグラウンドに戻らずに、まっすぐ家に帰った。
恵斗のキラキラした姿を見ることが、何だかひどく後ろめたかったから。
* * *
野球部の大会の日。
順調に勝ち進み、ついに決勝を迎えた。
ここで勝つことができれば、学校が始まって以来の快挙だ。
恵斗をはじめとする野球部員たちは皆真剣な顔でグラウンドの中央に並んでいる。
応援席では吹奏楽部がスタンバイし、チア部の女の子たちや応援団の男の子たちが念入りに準備をしていた。
私は応援席の一番前に腰掛けて、瑠奈と二人でその時を待った。
近くには同じクラスの生徒たちもいる。
そして、少し離れたところに藤沢の姿を見つけた。
宣言通り、観戦にきたようだ。
藤沢は男子たちと和やかに談笑しながら、「頑張れよー」と野球部員にエールを送っていた。
自然と藤沢の声に反応してしまう。
だけど私は試合に集中するように、必死に意識をグラウンドに向けていた。
「やばい、こっちまで緊張するね」
隣で瑠奈が高ぶった声をあげるのを、同じ気持ちで聞いていた。
恵斗が頑張って練習を続けていたのを見ていたし、絶対に勝ってほしいと思う。
『勝ったら言うわ』
恵斗の言葉が頭の中で反芻される。
今日、彼の本心が聞けるかもしれない。
そう思うと胸がざわついて、落ち着かなかった。
「プレイボール!」
審判の合図と共に、場内に歓声があがった。
「恵斗、がんばれーーー!」
私は何かを振りきるように、大きな声で叫んでいた。
9回の裏。
うちの学校は相手校に一点リードしていた。
ここで点をとられずにおさえることができれば、優勝。
ツーアウト、ツーストライク、スリーボール。
ピッチャーマウンドに立つ恵斗は、真剣な鋭い視線でホームベースの方を見つめている。
次の一球で決まってしまうかもしれない。
私は祈るように胸の前で手を組んでいた。
カキーン
大きく響き渡った打撃音の後、場内は歓声に包まれた。
恵斗の放った球は大きく空中を舞い、スタンド席に消えていく。
相手のチームの選手が立て続けにホームベースを通過していった。
9回サヨナラ負け。
私たちの学校の人間は、落胆の表情を見せていた。
ピッチャーマウンドに立つ恵斗は直立している。
遠目からでは表情はよくわからないが、ぼーっとホームベースの方を見ていた。
恵斗の夏は、残念な形で幕を閉じたのだ。
* * *
「惜しかったよねー。でもみんな頑張ったよ、決勝まで行ったんだし」
帰り道、瑠奈は明るい声で何度も励ますようにそう言った。
私は複雑な想いをひた隠しにして、笑顔で頷き返す。
恵斗の気持ちを考えると、胸が苦しくなってうまく笑えなかった。
ずっと勝つことだけを考えて部活を頑張ってきた恵斗にとって、今日の結果はきっと悔しかったに違いない。
でも瑠奈の言う通り、恵斗たちが頑張っていたことには変わりないし、ここまでたどり着いたこと自体がすごいことなのだと思う。
恵斗に会ったら、笑って「お疲れ様」って言おう。
私はそう決めていた。
* * *
家の前に着いて、私は足を止めた。
隣の家の前に恵斗がいる。
いつものように壁に向かってボールを投げていた。
何かを振りきるように、がむしゃらに。
力強いその投球を見て、私は何も言えなかった。
「……咲良」
視線に気付いたのか、恵斗は動きを止めて私の方を見つめる。
私は前もって決めていたように、笑顔で恵斗を見つめ返した。
「お疲れ様」
「……ごめんな。せっかく見にきてくれたのに、勝てなくて……」
「でも頑張ってたよ。決勝まで行けただけでもすごいと思う」
「あー勝ちたかったなぁ、まじで」
恵斗は天を仰いで、少し大きめに吐き出した。
次の瞬間には私の方を見て、気まずそうに笑う。
「勝ったらちゃんと言えたのに。咲良のこと、ずっと好きだったって」
「え……?」
耳に届いた何気ない恵斗言葉で、私の体は金縛りにあったかのように動けなくなってしまった。
ずっと好きだった?
恵斗が、私のことを?
そんな風に意識したことがないし、正直戸惑う。
立ち尽くす私の元に、恵斗がゆっくりと歩み寄ってきた。
私の目の前で立ち止まると、恵斗はじっと瞳を見つめてくる。
私は大人しく恵斗を見上げ、彼の言葉を待った。
無言の時間が流れる。
どちらも何も言えないまま、じっと見つめあっていた。
最初に口を開いたのは恵斗だった。
「なんか言ってよ」
「え、わ、私……?」
「負けたからには、俺からは言えないじゃん」
恵斗は苦笑しながら、急かすようになおも私のことを見つめている。
そんなに真っ直ぐな熱い視線で見られたら、私の鼓動もつい高鳴る。
まるで魔法の呪文のように、自然と言葉が口から溢れた。
「頑張ってる恵斗は……カッコいいよ」
「……サンキュ」
「私、恵斗が毎日野球部の練習頑張ってるの見てて、本当にすごいと思った。負けちゃったけど、それでも恵斗がやってきたことはすごいことだと思う。だから……」
言い終わらないうちに、私の体はギュッと恵斗の腕に包まれた。
突然きつく抱き締められて、何も言えなくなる。
恵斗の温もりに支配されながら、お互いの心臓の音をただ聞いていた。
「ありがとう。咲良にそういう風に言ってもらえるのが、一番嬉しい」
耳元で恵斗の低い声が響く。
私はくすぐったく思いながら、恵斗の背中に腕を回してギュッと抱きついた。
「俺さ、咲良に見ててほしいから余計頑張れた気がする。おまえが笑ってるの見るの、好きだからさ」
「……私も、恵斗が笑ってるの見てると、嬉しくなるよ」
「両想いじゃん」
顔を上げて、恵斗はにーっと口を横に広げる。
彼特有の照れ笑い。
昔から変わらない、明るい笑顔。
「負けちまったけど、俺の気持ちはやっぱり伝えたい。俺、咲良のこと昔から好きだった。今まではただの幼馴染みだったけど、これからは……俺の彼女になってほしいんだけど」
真剣な告白の言葉を受けて、私の頭は真っ白になった。
密かに憧れていた恵斗から、こんなに真っ直ぐに想いを伝えられるなんて。
まるで現実味はない。
だけど、これは紛れもない現実だ。
目の前の恵斗は緊張した面持ちで、じっと私を見ている。
すぐ目の前で吐き出される吐息は熱くて、こちらまで緊張した。
私は半ば誘導されるように、そのまま口を開いた。
「私も、恵斗が好き」
次の瞬間、目の前には太陽のような恵斗の笑顔。
夜なのにやけに眩しくて、私は恥ずかしさを隠すように俯いた。
恵斗と付き合うことになり、私に生まれて初めて彼氏ができた。
しかも相手は学校中の人気者。
いきなり一軍に躍り出たかのような出来事に、私の心は少し気後れする。
今まではただの幼馴染みだった恵斗と、デートしたり手を繋いで歩いたり。
そのうちキスとかもするのかもしれない。
(キス……)
そっと唇に触れてみる。
蘇るのは、夏休み前の放課後の教室。
藤沢の熱い眼差しと、腕の逞しさ。そして、柔らかい唇の感触。
私の初めてのキスを奪った藤沢からは、何の音沙汰もない。
夏休み中だし顔を合わせることもないからだ。
次の登校日には、私は恵斗の彼女として学校に行く。
もう必要以上に藤沢に関わらない方がいいと思った。
* * *
「明日の登校日、一緒に行こうな」
近所の公園のベンチに腰掛けながら、恵斗は明るい声でそう言った。
夜の公園。
最近はここで恵斗と二人で語り合う機会が多い。
恵斗の部活がない時は昼間にデートをすることもあるが、だいたいはこの公園で何気ないことを話していた。
「学校一緒に行ったら、みんなにバレちゃうかな……」
「バレるの気まずい?」
「ちょっとね。恵斗、人気あるし、ファンの子達から恨まれるかも」
「ファンなんていねーよ。俺は咲良のことしか好きじゃないし、問題なくない?」
「そ、そういう問題じゃないんだってば」
ストレートに好きなどと言われて、分かりやすく狼狽えてしまう。
赤くなる私に、恵斗はじりっと距離を詰めてくる。
気付いた時には、整った顔立ちがすぐ目の前にあった。
アイドルグループにいてもおかしくないくらいに、爽やかなイケメン。
そんな恵斗の瞳に至近距離で見つめられて、私は思わず固まった。
(そんなに見ないで……)
耐えきれなくなって、目を閉じる。
すると、恵斗の手のひらが私の肩の上に乗るのがわかった。
これって、もしかして……。
(キス、される?)
咄嗟に目を開けて、私は思惑を阻むように声をあげる。
「ごめん、今日早く帰ってこいって言われてた。帰るね!」
「あ、うん……帰るか」
急いで立ち上がる私につられるように、恵斗も立ち上がる。
その顔は腑に落ちない表情。
こんな調子で、私はことごとく恵斗とのキスのタイミングをかわしてきた。
キスしたくないわけではない。
その瞬間、何故かいつも罪悪感に襲われるのだ。
登校日。
私は朝練のない恵斗と一緒に登校した。
校門をくぐると、周りの生徒達からの視線が突き刺さる。
野球部のイケメンピッチャーの隣を女が歩いているだけで、一気に異質な空気が漂ってしまう。
恵斗は少しも臆することなく、すれ違う友達に向かって「俺達付き合ってるから」と爽やかにカミングアウトしていた。
いつだか私に嫌がらせをしてきた三人組の姿が視界に入る。
三人も遠巻きに私たちのことをじっと見つめていた。
居たたまれなくなって顔を伏せる私を元気付けるように、恵斗はにっこりと太陽みたいに笑う。
居心地の悪さを感じながら、私は早く教室に入りたいと思っていた。
教室に入るなり、席についた私の元に瑠奈が駆け寄ってくる。
「咲良、どういうこと? いつのまに崎谷くんと!?」
「決勝の後、好きって言われて……言うの遅くなってごめんね」
「やったじゃん! おめでとー」
瑠奈は嬉しそうに笑い、ぎゅっと私に抱きついてきた。
クラスの他の女子達も、いいなぁとか羨ましいとか、口々に話しかけてくる。
彼氏ができるってこういうことなんだ。
一気にその洗礼を受けて、私はただ恥ずかしく思いながら愛想笑いを浮かべていた。
―ガラガラ
引き戸が開いて、担任の田中先生が入ってくる。
藤沢じゃなくて安心している私がいる。
「席についてください」
生真面目な田中先生の言葉に、皆億劫そうに自分の席に座る。
田中先生は淡々とした口調で話し始めた。
「先日の野球部の試合ですが、残念でしたね。でも大変素晴らしい頑張りだったと思います。みなさん、野球部員のみんなに拍手を送りましょう」
クラス中がパチパチと手を叩く。
その音に混じって、男子達の「崎谷、彼女ゲットおめでとー」「宮野やったじゃん」という私達を祝福する声も混じっていた。
恵斗は少し複雑そうに笑うと、私の方に目線を合わせてくる。
その顔が気恥ずかしそうで、私もつられるように赤くなった。
たった一日で、私と恵斗のことは校内に知れ渡ってしまった。
これも人気者と付き合う宿命なのかもしれない。
急に有名人になった気がして、私は戸惑っていた。
夏休みだというのに恵斗は部活があり、一緒に帰れない。
瑠奈も文化祭の実行委員の集まりがあるらしく、仕方なく私は一人で校門に向かった。
校庭を歩きながら、ふとプールの方に目を向ける。
今時期は水泳部はきっと過酷な練習を積み重ねているはずだ。
去年の水泳漬けの日々を思い出す。
(泳ぎたいな……)
ふとそんな考えが過る。
泳ぐのが嫌いになって水泳部を辞めたわけではない。
私はただ、藤沢を取り巻く面倒事に巻き込まれるのが嫌だった。
結局は逃げるような形で退部をし、水泳部員たちとは疎遠になった。
そして、藤沢の期待をあっさり裏切ったのだ。
プールから目をそらすと、同じようにプールの方を見ている人物が目に入る。
他でもない藤沢だった。
「先生……」
「気持ち良さそうだな、水泳部」
藤沢は相変わらずケロリとした顔で笑いかけてくる。
その笑顔を直視できなくて、私は俯いたまま素っ気なく返した。
「もう関係ないから……」
「泳ぎたくなったんだろ?」
「……」
どうして分かったんだろう。
藤沢にはすべてを見透かされてるみたい。
顔を上げると、驚くほど優しい表情の藤沢が口を開いた。
「俺は宮野の泳ぎを見てるのが好きだった。一生懸命で、がむしゃらで。見てて元気貰えるんだよなぁ」
「……別に先生のために泳いでたわけじゃないし」
「自分のために一生懸命になれるのは、すごいことだと思うぞ」
そう言って、藤沢はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
身を固くしたまま、私はその場で固まった。
少し距離を置いて立ち止まると、藤沢は大きな手のひらで私の頭をポンポンと二度叩く。
それだけで心の中を掻き乱されそうになった。
「人気者と付き合うのは大変だろ? 何か困ったことがあったら言えよ」
「え……?」
「気を付けて帰れ」
にっこりと明るく笑って、藤沢は校舎の方に歩いていってしまう。
その背中を見送りながら、私は思わず呟いた。
「なにそれ……」
恵斗と付き合っていることは、やはり藤沢の耳にも届いてしまったのだろう。
それにしても普通すぎる態度に、何故か私は苛立ちを覚えた。
私が誰と付き合っても、もしかしたら藤沢にとっては大したことじゃないのかもしれない。
その日はまったく気持ちが上がらずに、とぼとぼと一人で帰路に着いた。
夏休みはほぼ毎日恵斗と会っていた。
恵斗の部活がない時は昼に出掛けることもあるが、夜は毎日近所の公園で話をする。
付き合っている以上、こうして接点を持つことが何となく義務化していた。
ベンチに並んで座りながら、ある時恵斗がぽつりと呟いた。
「咲良と付き合って、もうすぐ1ヶ月か」
「もうそんなに経つんだね」
「毎日会ってるけど、なんか今までとあんま変わってない感じ」
「そうかな……?」
恵斗の言う通りだ。
私たちは前までと同じように、普通に他愛もない話をして時々は遊びに行く。
友達の延長のような関係が続いていた。
恋人らしいことなんて何もしていない。
そういう雰囲気になりそうになると、私が自然と距離をとってしまうからだ。
「咲良、俺のこと彼氏だと思ってくれてんの?」
真面目な口調で、恵斗はじっとこちらを、見つめてくる。
茶化せない雰囲気。
私は内心で戸惑いつつも、笑顔になるように努めた。
「思ってるよ。なに、今さら……」
「じゃあ、なんで俺のこと避けんの?」
「え……」
やっぱり恵斗にも気付かれていた。
私が積極的になれないことは、彼から見ても明らかなのだと思う。
恵斗のことはもちろん好き。
ずっと仲の良かった幼馴染みだし、一番近いところにいた男の子。
居心地のいいその関係から、恋人同士という少し緊張を覚える関係に発展した。
だけど私には想像がつかない。
恵斗とキスしたり、それ以上のことなんて……。
黙ってしまう私の顔を、恵斗は隣からじっと見つめてくる。
その距離は徐々に詰まり、ついに私の目の前に恵斗の顔が接近した。
「俺、咲良とキスしたいんだけど」
「なっ、何言って……」
「付き合ってんだろ? 俺たち」
「……」
恵斗の表情は真剣そのもので、私は何も言い返せなかった。
覚悟を決めるしかないのかもしれない。
私は焦る内心を悟られないように、ぎゅっときつく目を閉じた。
そのまま何秒経ったのだろう。
ほんの5秒ほどのその時間は、永遠を思わせるほどに長い。
5秒後、私の唇に柔らかい感触が伝った。
瞬間、脳内に浮かんだのは藤沢の顔だった。
恵斗にキスされているのに、思い出すのは藤沢の唇の温もり。
途端に罪悪感に支配されて、私は思いっきり目の前の恵斗の胸を両手で押した。
体は離れ、恵斗は一瞬目を見開くと、すぐに気まずそうに目線を落とす。
「……ごめん、嫌だった?」
「う、ううん……こっちこそ、ごめん」
気まずい。
突然の事とはいえ、恵斗のことを拒否してしまったことには変わりない。
彼氏なのに、付き合ってるのに、普通にキスすることもできない。
何だかひどく悪いことをしているような気がした。
そして、何故か私の頭の中には、未だに藤沢の顔が残っている。
(なんで先生のことなんか思い出すの?)
自分の思考回路なのに、まったく理解できなかった。
沈黙を破るように、恵斗がベンチから立ち上がる。
「帰るか。もう遅いもんな」
「うん……」
つられて立ち上がり、私は恵斗の少し後ろを離れて歩いた。
家に着くまでのほんの少しの時間が、やけに長く感じる。
恵斗に対する申し訳ない気持ちと、藤沢に対するよく分からないモヤモヤとしたものがずっと渦巻いていたから。
* * *
秋の大会に向けて、恵斗は夏休みでも朝から部活に行く。
部活がなくても自主トレーニングをしていて、あまり私と出掛けなくなった。
でもそれは口実かもしれない。
あの日以来、何となく私たちは気まずくなった。
夜の公園での密会も頻度が減った。
会ってもお互いに気を遣って、当たり障りのない会話をするだけ。
ドキドキすることはなかった。
夏休みも終わりに差し掛かったころ、いつもの公園で恵斗がポツリと呟いた。
「俺たちって、このまま続けてて意味あんのかな」
「え……?」
「なんか、前よりぎこちなくなった気がする。咲良あんま笑わなくなったし、もしかして無理してる?」
「そんな……無理なんてしてないよ」
思い当たることはあった。
楽しくなくても明るくするように無理しているかもしれない。
そうしないと、恵斗との時間を乗りきれなくなりそうだと思った。
俯く私に、恵斗は追い討ちをかけるように静かな調で言い放つ。
「俺、咲良が無理してんの見てるの辛い。そんなに気遣うなら、しばらく会うのやめる?」
「え……?」
恵斗の言葉で、私は思わず固まってしまった。
とにかく何か言わなきゃ。
私は焦っていた。
「なんで……? 恵斗、私といるの嫌になった?」
「そうじゃないけど、なんか……」
沈黙が訪れる。
もう限界なのかもしれない。
私は恵斗と付き合えて、嬉しかった。
だけどその先に進もうと思えない。
今までみたいに、仲良く話ができるだけで満足。
でもそれじゃ、付き合ってるとは言えないのかもしれない。
私たちは結論を出せないまま、気まずい空気を残してその日も別れた。
* * *
夏休みが明けた。
新学期。朝は瑠奈と待ち合わせて投稿すると言って、私は恵斗と別々に家を出た。
あれから恵斗とは気まずいままだ。
別れようという言葉はなく、何となく関係だけは保っている。
でも、私と恵斗の間にはとくに大きな発展はない。
駅で瑠奈と待ち合わせをして、二人で電車に乗る。
瑠奈は文化祭の構想を語りながら、ふと真面目な顔になった。
「今日から学校なのに、彼氏と一緒に行かなくていいの?」
「うん。恵斗とは……別にいつでも会えるしね」
「お、ラブラブアピール? いいなぁ、リア充はー」
「家が隣だからだよ。深い意味は……」
テンションの高い瑠奈の冷やかしにも、気分が乗らない。
作り笑いになる私に、瑠奈は不思議そうな顔を向けた。
「なんか咲良、元気ないね。どうした?」
「うん……。ちょっと恵斗とうまくいってなくて」
正直に呟いて、私はため息をついた。
瑠奈に話を聞いてほしくなる。
だけど電車は学校の最寄り駅に到着してしまった。
駅から学校はすぐ近く。
校門の前で、瑠奈は申し訳なさそうに両手を合わせる。
「ごめん、咲良。話聞いてあげたいけど、しばらく放課後は文実あるし、無理かも……」
「いいよ、大丈夫。文実がんばってね」
私は笑顔を作るように努めて、瑠奈に明るい顔を向けた。
瑠奈には頑張っている居場所がある。
恵斗にも。
帰宅部で何もない私は、こんな下らないことで悩むんだ。
自己嫌悪に陥りながら、教室の前の廊下で元凶の顔を見た。
笑顔で挨拶を振り撒く藤沢。
「お、宮野。おはよ」
「……おはよーございます」
素っ気なく小さな声で返して、私は藤沢を素通りするように素早く教室に入った。
すべてはあの男のせいだ。
怒りの矛先は、真っ直ぐ藤沢に向いていた。
9月の初めはまだ暑くて、夏服のシャツは汗で背中に貼り付く。
ジリジリと焼けるようなプールサイド。
生理中のため、私は水泳の授業を見学していた。
なんだか頭痛がする。
生理のせいか、最近あまりよく眠れていないせいなのか、原因は計り知れない。
クラスメイト達はプールの中で水浴び感覚で泳いでいた。
人が泳いでいる姿を見ていると、部活を思い出す。
水泳部にいたころ、あのプールで何度も往復をしてタイムを測っていた。
プールサイドには藤沢がいて、励ます言葉をくれた。
(泳ぎたいな……)
自然とそんなことを思う。
部活をやめて、恵斗とは気まずくなって、今の私には一体何が残っているのだろう。
モヤモヤとする頭は、そのままふっと意識を遠退かせた。
(……もう、どうでもいい……)
このまま居なくなれたらいいのに。
寝不足の私は余裕をなくして、そのまま熱いプールサイドに倒れこんだ。
* * *
目が覚めると、白い天井が見えた。
涼しい。
お腹までかかっている布団には見覚えがなかった。
どうやらここは保健室のベッドのようだ。
あのまま倒れて、多分私は保健室に運ばれたのだろう。
私はゆっくりと立ち上がって、仕切られているカーテンを開けた。
と、いつもは保健の美人先生が座っているはずの机に、保険医の姿はなかった。
代わりに座っているのは、副担任。
藤沢は私に気付くなり、立ち上がってすぐに歩み寄ってくる。
「目覚めたか? まだ寝てた方がいいぞ」
「なんで、先生がここに……」
「保健の並木先生、今日いないんだよ。田中先生は授業中だし、副担の俺が付き添うことになったわけ」
「……そうなんだ」
「わかったら、寝てろ。親御さん迎えに来てくれるから」
そう言って、藤沢は強引に私の体をベッドの上に連れ戻す。
そのまま仕方なく、私は再びベッドに横になった。
藤沢はカーテンを閉めると、ベッドの傍らにある椅子に座る。
「体育の時間に倒れたって聞いて、ビックリした。具合悪いのか?」
「……ちょっと寝不足なだけ」
「そうか。気を付けろよ」
優しく笑って、藤沢は横になる私の頭を手のひらで撫でた。
子供にするように、優しく。
その温もりに不覚にも安心してしまい、私は目を閉じた。
藤沢の手は温かい。
頭を撫でられて安心する一方で、私は少しドキドキしていた。
薄く瞳を開いて、藤沢の様子を確認する。
藤沢は先程までの優しい笑顔を封印していた。
真面目な顔で私を見ている。
思わずドキッとして、私は目を見開く。
「彼氏とは順調か?」
「え……?」
「夏休みだからって、羽目外してんだろ。いいよな、若いって」
ふと茶化すように笑って、藤沢は私の頭を撫でていた手を引く。
距離をとられたことを悟り、私は少し不服に思った。
「……別に羽目なんか外してないよ。そんなに会ってないし」
「デートとかしないのか?」
「か、関係ないでしょ?」
藤沢に恵斗とのことを話すのは気が引けた。
私は複雑な気持ちから顔を背け、壁の方を向く。
背後から藤沢の低い声がした。
「キスとか、した?」
その言葉で、あの夜の出来事が甦る。
恵斗のキスを拒んでしまって、気まずくなってしまったあの夜の公園。
途端に怒りに支配されて、私は上半身をベッドの上に起こしながら藤沢を睨んだ。
全部この男のせいだ。
怒りが込み上げて止まらない。
「キスなんてしてない。したくてもできないんだもん。全部先生のせいじゃん。キスしようとすると、なんか知らないけど先生のこと思い出しちゃって、できなくて……恵斗とは気まずくなっちゃうし……最悪……」
涙が溢れてくる。
私がこんなに辛いのは、全部藤沢のせいだ。
藤沢がキスなんてしてくるから、恵斗ともうまくいかなくなったんだ。
その怒りをぶつけても、全然スッキリしない。
藤沢は私を見つめたまま、無言を貫き通していた。その顔は無表情。
それに余計に腹が立って、私はキッと藤沢を睨み付ける。
「なんでキスなんてしたの!? 先生のせいで私、恵斗とはキスもできない……付き合ってんのに、全然そんな気にならなくて……」
「それはおまえが崎谷のこと、本気で好きじゃないからだろ」
「なっ! 違うよ、私はずっと恵斗のこと……」
「俺は後悔してない」
ピシャリと言い放って、藤沢は真面目な顔で私を見つめる。
その勢いに押されて、私は何も言えなくなった。
「おまえのこと好きだから、本気でキスしたかった」
「そんな……」
「咲良は? そんなに嫌だったのか?」
まっすぐに尋ねられて、呆然とする。
私、藤沢にキスされて、どう思ったんだろう。
作者です。
スレの設定をスレ主のみ書き込み可にしていませんでした。
雰囲気が作れないので、このスレは一旦閉じさせていただきます。
途中で打ち切ることになり、申し訳ありません。
今までお読みいただいた方々、ありがとうございました。
新しいレスの受付は終了しました
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。
- レス新
- 人気
- スレ新
- レス少
- 閲覧専用のスレを見る
-
-
猫さんタヌキさんさくら祭り0レス 42HIT なかお (60代 ♂)
-
少女漫画あるあるの小説www0レス 61HIT 読者さん
-
北進11レス 246HIT 作家志望さん
-
こんなんやで🍀182レス 1620HIT 自由なパンダさん
-
「しっぽ」0レス 102HIT 小説好きさん
-
仮名 轟新吾へ(これは小説です)
昔の事をいつまでも❗❗ごちゃごちゃと!!👊😡💢しつこい男じゃ❗ 【昔…(匿名さん72)
178レス 2761HIT 恋愛博士さん (50代 ♀) -
神社仏閣珍道中・改
(続き) ところで。 こちらのこの半僧坊大祭では護摩札の授…(旅人さん0)
211レス 7209HIT 旅人さん -
わたしとアノコ
ほんと,,,なの? 掴みとって良い幸せなの? 本当に,,,!本当に…(小説好きさん0)
156レス 1587HIT 小説好きさん (10代 ♀) -
こんなんやで🍀
水道水も、電流も、街灯のLEDからの光も、Wi-Fiも、ブルーライトも…(自由なパンダさん0)
182レス 1620HIT 自由なパンダさん -
西内威張ってセクハラ 北進
今はまともな会社で上手くいってるよ、ばーか、今の職場が良ければ良いほど…(自由なパンダさん1)
78レス 2681HIT 小説好きさん
-
-
-
閲覧専用
🌊鯨の唄🌊②4レス 99HIT 小説好きさん
-
閲覧専用
人間合格👤🙆,,,?11レス 120HIT 永遠の3歳
-
閲覧専用
酉肉威張ってマスク禁止令1レス 125HIT 小説家さん
-
閲覧専用
今を生きる意味78レス 509HIT 旅人さん
-
閲覧専用
黄金勇者ゴルドラン外伝 永遠に冒険を求めて25レス 946HIT 匿名さん
-
閲覧専用
🌊鯨の唄🌊②
母鯨とともに… 北から南に旅をつづけながら… …(小説好きさん0)
4レス 99HIT 小説好きさん -
閲覧専用
人間合格👤🙆,,,?
皆キョトンとしていたが、自我を取り戻すと、わあっと歓声が上がった。 …(永遠の3歳)
11レス 120HIT 永遠の3歳 -
閲覧専用
酉肉威張ってマスク禁止令
了解致しました!(小説好きさん1)
1レス 125HIT 小説家さん -
閲覧専用
おっさんエッセイ劇場です✨🙋🎶❤。
ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
57レス 1390HIT 檄❗王道劇場です -
閲覧専用
今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 509HIT 旅人さん
-
閲覧専用
サブ掲示板
注目の話題
-
発達障害者だって子供が欲しい
発達障害があります。半年前に結婚しました。 子供がほしい話をしたら 「あなたと同じように仕…
62レス 1584HIT 育児の話題好きさん (20代 女性 ) -
初対面の人と仲良くなれません。
45歳彼女いない歴=年齢です。アプリ、結構相談所で10年間婚活してきましたが、お金と時間ばかりかかる…
58レス 1423HIT 結婚の話題好きさん (40代 男性 ) -
おばさんイジリされる職場
私は40代の女性会社員です。 会社は男性が多く昭和な社風です。 一応、私は役職もついていますが下…
23レス 590HIT 社会人さん -
同棲するなら1人になれる部屋が欲しいって言ったら号泣された
彼女と同棲の話になり、部屋はひとつでいいよね、と言われたので「喧嘩とかした時用に1人になれる部屋があ…
21レス 591HIT 恋愛初心者さん (20代 男性 ) -
誰からも愛されない
誰からも愛されない私は無価値ですか? なんのために生きているのですか?
12レス 363HIT 気になるさん - もっと見る