frederick
10月17日。
いつもと変わらない朝だった。
17/12/28 02:06 追記
忘れられない朝になった。
新しいレスの受付は終了しました
frederick。17日の朝、いつもと同じように支度を済ませて、いつもの時間に家を出て、いつもと同じ電車に乗った。
次の町田で偶然にHが乗ってきた。
いつもは通勤時間帯に一緒になることなんてまずなかった。
Hが隣に座って、私は内田の話をし始めた。
このあいだ夢を見て、なんだか様子がとても気になって、電話してみたけど出ないし折電もない。
メールをしても返信がない。
そんなに無視するなんて、よほど元気をなくしているんじゃないかって、気になって我慢できず、アポなしで会いに行った。
伝えたいことがあった。もう有無は言わせないと思った。
必ず時間作るから待ってて。
なるべく早く会いにいくから待ってて。
何度もそう言ってた。
その言葉を信じていたけど、その日はその言葉を待てなくなった。
待っているだけでは、内田が壊れてしまいそうな気がして。
瞬発的な行動だった。
終電まで待ったけど、結局会えなかった。
翌日また電話をしても、メールをしても、応答はなかった。
私がこんなに心配してるのに、あいつは何を考えてるんだろ。なんてことをHに話してたけど、実らず終いの自分の行動でも、行動に起こしたことで納得していた。
黙って静かに待って、来たらすべてを受け入れ、受け止めようと思っていた。
必ず会いにくるはずだから。
信じて待つことが最上級の愛情表現だと思っていた。
もうそれしか選べなかった。
新横あたりでWさんからのメールを受信した。
今日は出勤ですか?
頃合い見て連絡もらえませんか。
一言一句まちがえてないと思う。
なんだろう、と思った。
ラウンドのついでに横浜に来るのかな、それにしては連絡くれなんて、いつもと様子がちがうな、なんて、一瞬にいろんな考えがめぐった。
横浜を降りたら電話しようと思った。
そのあともHと何か話していただろうけど、覚えていない。
横浜を降りて、そのあいだも何を話していたんだろう。
従業員入り口で、ロッカーに行くHと別れて私はひとりでたばこ部屋に行った。
すぐにWさんに電話した。
出なかった。
もやもやした。
なおさら気になって仕方なくなった。
たばこを吸いながら考えているうち、内田に何かあったんじゃないかと思い始めた。
>> 1
そうだ、内田のことだ、と思った。
考えに耽っていたら、たばこの火が落ちて、着ていたワンピースに穴が開いた。
ウールジャージの、衿から胸元にかけてラッフルがついた黒いワンピース。
売れ筋なのに。
どうしよう、この穴、直るかな、かけはぎっていくらかかるっけ、今日お直し屋さんが来たら見てもらおう、なんて、開いた穴に甚大なショックを受けた。
スタッフにワンピースの穴を見せ、あー、やだな、どうしよう、とかやったけど、そんなことよりWさんの用件はなんだろう、この人を昼休憩に出したら、ここから電話をかけようと考えていた。
いつものように12時にスタッフを昼に出した。
自分の携帯を取り出し、Wさんの番号を出して店の固定電話からかけた。
出た。
おつかれさまです、とか普通の決まりきったあいさつなんかして、店からなの?とか、前置き的な会話があったと思う。
そして言った。
率直に言うとね、内田が死んだんだよ。
一言一句間違わず覚えている。
そのあと、説明が入った。
脳出血でね、10日に倒れて救急車で運ばれて、ICUに入っていたけどずっと意識が戻らず、今朝亡くなった。
うそですよね!と絞り出すように言った。
会う約束してるのに、死ぬなんて考えられない。このあいだ、Oさんから聞いていた。内田は元気だったって。そう、ほんの1週間くらい前に。
嘘でこんなこと言うわけないだろう!とWさんは怒鳴った。
それからあとは、何を話したか、どうやって電話を切ったのかも覚えていない。
そのあと、Oさんに電話をした。
何を話したか覚えていない。
Oさん、なんで私に教えてくれなかったの、と言ったような気がする。
私に教えたら、普通じゃいられなくなるでしょう、と言われた気がする。
よく覚えていない。
落ち着いてください!と、強く制された、そのことだけ覚えている。
電話を切ったあと、売場はいつものように売場だった。
どんな顔して立っていたのか、自分でもわからない。
昼休みは社食に行かなかった。
中にはとてもいられなかった。
ひとりになりたかった。
地下街にある、ドトールみたいなお店に入って、Hにメールをした。
内田が死んだって。
それしか覚えていない。
>> 3
Hからの返信の内容は覚えていない。
Hと内田は仲が悪かった。
Hからは内田とのことを反対されていた。
それでも、突然死んだなんてことを知らされたら誰でも言葉が出なくなると思う。
営業時間中、自分がどんなふうだったか覚えていない。ただ、業務に障りが出ないように、それだけは肝に命じていたはず。
1日をどうにかやり過ごして、従業員口を出たら素になった。
その日1日平常心を保ち続けようとしたことも大義だったと思う。
そこから泣きながら帰った。
歩いていても、電車の中でも、がまんすることができなかった。
自宅の最寄りを降りて、奥の路地に入ると暗くて人通りもなくなる。
声を出し、泣きながら歩いた。
部屋に入ってドアを閉めたら、その場に座り込んで大声をあげて泣いた。
会いたかった。
伝えたいことがあった。
どうしても会って伝えたかった。
内田は悩んで苦しんでいた。
楽にしてあげたかった。
助けることができなかった自分を責めた。
その晩は一睡もできず、その日から眠れない夜がはじまった。
>> 4
眠ってなくても、食事をしてなくても意識はしっかりと覚醒していた。
売場では感情を出さずにいられたけど、バックヤードに下がれば、本来の自分に戻ってしまい、すぐにも泣き出してしまいそうだった。
訃報の翌日から、休憩はいつも館から外に出て、地下街のコーヒーショップにいた。
その日は、休憩時間にブラックフォーマルの売場に行って、仏事用のハンドバッグと、オニキスのネックレスと数珠と、黒いレースのハンカチを求めた。
それまで私が参列したことのある葬儀は、実母と養父と、会社関係の数回。
そういう席で決まって見かけるのが、ありあわせの黒服に、レザーのバッグ、ファー付きのストールやグローブ。
とりあえず黒ならいいって感じの。
レザーやファーは持ったことはないけど、ブラックの礼装にはなっていなかった。
今回ばかりはそうであってはならないと思っていた。
内田を送るからには、礼儀をつくしたいと思った。
服は在庫から選んだ。コーディネートによっては、フォーマルにもオフィシャルにもなる、YDの定番素材トリアセダブルクロスのワンピースと、ジャケットのセットアップ。
ワンピースの着丈が中途半端に長くて野暮ったかった。内工にクイックで丈つめを頼んで、その日のうちに仕上げてもらった。
夕方にはお通夜と葬儀の日程の知らせがきた。シフトをくずして、両日とも休みにした。
内田をしっかり送り出すこと。もうそれしかできることがなかった。
それまではしっかりしていようと思ってた。
>> 5
伝えたいことがあった。
もうその会社を辞めてほしかった。
心身とも追い込んでいる姿が見ていられなかった。
時には組織の犠牲になりながら、もう十分すぎるほど時間も頭も体も酷使してきていた。
仕事の挫折も、私生活の失敗も、新しくやり直して取り戻せる。
それにはまず、私と一緒に暮らして、生活費にかかる負担を減らす。そうしたら、失業期間があってもだいじょうぶ、生活は私が守るから。そうして、自分らしく仕事ができる会社をじっくり見つけてほしい。
私は絶対に離れない、ずっと一緒にいる。
ずっと味方でいる。
そう決めてたんだ。
あとは本人に伝えるだけだった。
女のくせに、こんな男らしいことを言ってしまったら、本物の男の人の自尊心を傷つけてしまいやしないかと、すごく不安だった。
傷つけたら、傷つけてしまったことに自分自身も傷つく。
電話とか、メールとかじゃなくて、会って目を見て話したかった。
本当の気持ちは、会って話さないと伝わらないし、相手の気持ちも汲み取れない。
伝えたいことは伝え、あとは内田が考えてくれたらいいと思っていた。
内田をしあわせにしたかった。
人生なんて、仕事なんて、嫌なこと、大変なことがごろごろしてる。
だけど、明日も頑張れるって、人生をそんな毎日にしてあげたいと思っていた。
ひとりじゃない、ひとりで頑張らなくてもいい、私がいるんだから。
頑張れる時も、頑張れない時も、安心していられる、そんなふうになりたかった。
そんな毎日を送れることが「しあわせ」だと思ってた。
どんな状況にあっても、あれこれ思っては
悩みを抱え、苦しいときも悲しいこともあるのが人生。どんな生き方を選んでも、苦労というものはなくならないなら、内田と苦労したいと思っていた。
だから戸塚にも行った。内田となら、もし失敗したとしてもかまわないと思ったから。
ほらね、戸塚は失敗した。
それでも行ってよかったと思ってるよ。
伝えたいことがある。
だけど、どうしても会って伝えたいから、次に会える時まであたためておくね。
伝えられたのはそこまでだった。
>> 6
いい時代もきっとあった。でも時代は流れていて、変化していく。
気がついたら、社内での居心地が悪くなってる。風当たりも強い。
そんな時勢になって、理不尽に憤慨することが多くなる。
何が正しくて、どれが成功への道順か、そんなことよりも政治と自己保身。
まじめに努力している人よりも、上役に対しイエスマンでいて、世渡上手の人にこそ今の社会はやさしい。
自分を削り、努力しても報われない。
組織では、そんなことがいっぱいある。
今に見てろよなんて、反骨精神を持ったところで自分が疲れてしまう。
夏の終わり頃に、実はメンタルクリニックに通っていると言った。
それまでのメールの往復で、それを言うに至った。
その文字を見た時、何かに気持ちが射抜かれたような衝撃を感じて、返信ではなく電話をした。
出ない。
今の今、その手に携帯を握りしめて文字を入力していたはずなのに、出ない。
出張帰りの新幹線の中だとメールがきた。
どっちにしても、今はこれ以上なにも言わせないでほしいというように感じてしまった。
よくわからないけど、もしかして、鬱なの?そう思って、それからネットや本で鬱の人への接し方を調べたりした。
無理強いせず、内田の気の向くに任せようと思っていた。
しつこくないように、ときどき電話やメールで点呼を取っては安否確認のつもりだった。
待ってて。といつも言ってた。
それと、ごめん。
どうにもならなくなったら助けを求める。
その言葉に、私を信用してくれているなら少しはよかった、と思った。
今この世の中に、信用できる相手なんて滅多にいないから。
助けを求められるのを待っていた。
自力で頑張ろうとしている人に、今すぐにも助けに行きたいという思いは、やさしさの押し売りなんだろうか?内田は頑固だから、私が差し出す手を取らないかもしれない。それでもただ黙って案じているだけでは自分の気持ちの収まりがつかない。
いつも悶々として、内田がひとりで苦しんでいると思うと涙が出た。
私に何ができるんだろうって、いつもそればかり思ってた。
待つしかできないのかなって思った。
今はそれをいちばん求められているのかなって。
>> 7
頼っても甘えてもいいと思うのに。
頼りたい、甘えたいが本当。みんな同じだよ。
いけなくなんてないし、だめなんかじゃない。
頼って、甘えて自分がまた元気になれたら、補って余りあるほどのお返しをすればいい。そうすれば、相手もきっと喜んでくれるし、弱って甘えちゃった自分を許してあげることもできる。
私はそう思うよ。
私はなにも望んでいなかった。内田にただ自分らしく生きてほしいと思ってた。
自分が嫌いだとか、自分を許せないだとか、もうそんなことを言わなくていいような生き方をしてほしい、その手伝いをしたかった。
内田を助けることが、自分自身を救うことだった。
私は生まれてきた理由も、生きてる意味もわからないまま生きてた。
このために生きてる。そう思えることを探しながら生きてた。
そう思える仕事を見つけた。だけど、その店は撤退した。この時一緒だった。
次にまた、そう思える仕事にめぐり会った。だけど、今度は百貨店自体が閉店した。
そして再び内田に会った。
また一緒に仕事をするようになって、ひとりで生きてる私の、唯一の理解者、同志だと思った。
内田を支えながら生きていられたら、それが私の生まれてきた理由、生きる意味だと思ってた。
それなのに、私はいちばん大切にしているものをいつも失う。
いちばんというか、たったひとつの大切なものを。
そんな大切な人を私は放っておいて、心が苦しいまま死なせてしまった。
その思いしかなかった。
>> 8
仕事において信頼されていた。その自負が毅然とさせてくれた。
心の中で何が起きていようとも、職業人として自分を崩すことはできないと思っていた。
訃報から3日目も昼休みには外に出た。館内で知った顔に会えば、自分を作っていなきゃならない。そんな気持ちの余裕はなくて、人目が煩わしかった。
食事はできなくて、キャラメリゼされたマカダミアナッツが中に入ったチョコレートをときどき何粒か食べていた。食べたもの
の記憶といえばそれしかない。
今はふつうにごはんを食べるし、お菓子も食べるし、夜も眠れる。
思い出して泣いてしまうことがあるとしても、あの頃よりも涙の量はずっと少ない。
人間の回復力はすごいな。と思う。
帰り道は泣いていた。
とにかく泣いた。がまんできずに泣いてばかりいた。
泣くことをがまんしようとも思ってなかった。
>> 9
お通夜には、どこかで待ち合わせをして一緒に斎場に行こうとWさんに言われたけど断った。
Wさんには、在籍中は私はかわいがってもらっていたほうだと思う。
再入社後にまた退職をして、私がYDに来てからも、ときどき横浜に顔を出してくれて食事をごちそうしてくれたりしていた。
私みたいな暴れん坊、うまくやれてるのかなって、仕事軸で心配してくれているのかと思っていたけど、あるとき、そうじゃなかったと知る。
たぶん10歳も離れていないと思う。
それでも「お父さんみたいな人だと思ってます」と言ってはぐらかした。
それ以来、会うこともなかったし、この間の連絡までまったく疎遠になっていた。
そんな背景があって、あろうことか内田と告別をする席に、Wさんと一緒に行くなんて、どうしてもいやだった。
葬儀のあと、Wさんから内田とのことで残念なメッセージが届いたりした。
相手はもう亡くなっているというのに、なんでわざわざこんなこと言うんだろうって、そんな内容の。
熱血漢で情に厚い上司の典型みたいな人
だった。でも、もうちがった。
私がいけなかった。
自分では仕事を売りに生きているつもりだった。
故か、女として見られていたことに気づかず。
>> 10
運命は、自分の心がけと日々の努力次第で変えられるというよ。
ほんとにそうかな。
そうだとしても、あらかじめ定められた人生の予定を上書き修正するのは、とても困難なことなんだと思う。
これまでもたくさんいろんなことがあって、そのたび受けて立ってきた。つもり。
でも、結果はどうにもならないことばっかりだった。
それをそういう運命だったと言うなら、運命には抗えないのだと思う。
ただ、運命に流されるだけじゃなくて、逆境だからこそ、それを跳ね返そうとしてみることで得られることがある。
必死に頑張った、頑張ろうとした自分の記憶。その思いをシェアして、応援してくれる存在があったこと。
運命が過酷なら過酷なほどつらいけど、つらいことだけではないよね。
痛みを経験したからこそ、ちいさな喜びをとても大きな感動に変えてくれたりもする。
それが頑張った人へのごほうび。
運命なら、結末は変えられないことのほうが多いのかもしれない。
それでも、自分がなにを考え、なにをしたのか、どんな結果になろうと、自分の行いに納得できたかどうか、結果よりもそのことのほうが重要だと思う。運命だというなら。
>> 11
それまでの自分に後悔していることはひとつもなかった。
どんな局面でも「私はこうです」と言ってきた。そのために人と対立することも、うまく運ばないことも度々あった。傷つくこともあった。それでもよかった。自分の信念を曲げずにいられたから。失敗したことすらも納得している。
いつも全力を出しきっていられたんだと思う。あのとき、ああしておけばよかった、と思うようなことはひとつもない。
だけど、内田のことだけは後悔が残った。
あのときどうしてもっと早く会いに行かなかったのか、大切な人を助けられなかった自分を責めた。
あのときはああするしかなかったと、気持ちを鎮めさせても、明日にはまた同じことを考えるくりかえし。
自分に納得ができなかった。
待ってるだけでよかったのか、本当のやさしさとか、思いやりっていうのがわからなかった。
あの日に死んでしまうことが運命で、それを変えることはできなかったのだとしても、何もできなかった自分を許せなかった。
>> 12
もし、立場が逆だったら。
私が内田で、内田が私で、内田が自分を責めていたとしたら。
私は内田に自分を責めないでと願う。私は自分の意思で精一杯闘っていた。だから何も悪くないんだって。
だから今、その後悔っていうのは内田に対してではなく、自分に対してだと思っている。
本来自分がしたかったことができなかった、言いたかったことが言えずに終わってしまった、自分への後悔。
内田が死んでから、明日が当たり前にやってるくわけではないだと思うようになった。
今日会えた人に、また次も元気で会えるかわからない。
だから、あのときどうしてああしなかったのか、あのときどうしてああ言わなかったんだろう、と同じ後悔をしないように。そう思って生きてる。
今日、いま、この瞬間だって、絶対に取り戻すことはできない。
昨日には絶対に戻れない。だからいま何をすべきか。
まだ元気だった頃に私にそう言った。
だから今を頑張れって言いたかったんだ。
- << 15 お通夜は20日だった。誰よりも早く行こうと思っていた。 たしか18時半からだったと思うけど、16時半には自宅を出た。 宮前平の駅を降りて、駅前でお茶を飲んで気持ちを落ち着けてから、タクシーで斎場へ向かった。 内田が死んだっていうことを確認することがすごくこわかった。 斎場近くになってきたのか、内田の名前と「告別式式場」という大きな文字の看板が場所を知らせているのが目に入って、やっぱり現実なのか、って思ってた。 タクシーを降りて、斎場の入り口にまた告別式式場と案内があった。 中に入ると、遺族らしき人以外まだ誰もいなかった。外はまだ明るかった。 受付で、このたびはなんとかとか、たぶんそんなあいさつをしたんだと思う。香典と名刺を渡して芳名帳に名前を書いた。 壁を隔てた向こうに、祭壇が見えた。その下に棺が横たわっていた。 祭壇にある遺影、写真は確かに内田だった。まちがいないことなんだ、と思った。 ただ、その写真は履歴書か運転免許か、指名手配写真みたいで、あんな無表情な顔、見たことないけどな、と思った。 喜怒哀楽にいつも生命の躍動があった。そんな顔しか記憶にないのに。それはもうどこ探してもないってことなのか、と思った。
frederick。先週からまた体調が芳しくない。胃にきてる。昨日は起きられなかった。
そのうち自然に良くなるかと思ってるけど。市販薬を飲み漁ってる。
なんだろう、この会社来て、ほんとにいいことない。特に今年は当たり年かも。
今日はまた、取引先から変な企画を持ち込まれた。
外商サロンで拡販?
スタッフを増員して、什器持ち込み、ノベルティもしくは優待つき。その経費負担は全部こっち持ち。
ただでさえ赤字店舗だっていうのに、実入りの期待できないことに経費を上乗せされたら赤字が拡大する。
それで予算はいくらでお考えですか?と聞いてみたら、そこまでは考えてないって。
予算も組まない販促計画が存在するなんて今まで知らなかった。
組まないんじゃなくて組めないんだろう。当てずっぽうでやってるから。
無駄だと思うのに、結果を求められるこの理不尽。言うだけ勝手であとは丸投げ。
だめすぎちゃって迷走してるとしか思えない。
あれもやった、これもやった、でもだめだったっていう証拠だけつくりたいの。
ここ、ほんとだめだと思う。老舗の看板に甘えてられた時代はもうとっくに終わってるよ。
>> 13
もし、立場が逆だったら。
私が内田で、内田が私で、内田が自分を責めていたとしたら。
私は内田に自分を責めないでと願う。私は自分の意思で精…
お通夜は20日だった。誰よりも早く行こうと思っていた。
たしか18時半からだったと思うけど、16時半には自宅を出た。
宮前平の駅を降りて、駅前でお茶を飲んで気持ちを落ち着けてから、タクシーで斎場へ向かった。
内田が死んだっていうことを確認することがすごくこわかった。
斎場近くになってきたのか、内田の名前と「告別式式場」という大きな文字の看板が場所を知らせているのが目に入って、やっぱり現実なのか、って思ってた。
タクシーを降りて、斎場の入り口にまた告別式式場と案内があった。
中に入ると、遺族らしき人以外まだ誰もいなかった。外はまだ明るかった。
受付で、このたびはなんとかとか、たぶんそんなあいさつをしたんだと思う。香典と名刺を渡して芳名帳に名前を書いた。
壁を隔てた向こうに、祭壇が見えた。その下に棺が横たわっていた。
祭壇にある遺影、写真は確かに内田だった。まちがいないことなんだ、と思った。
ただ、その写真は履歴書か運転免許か、指名手配写真みたいで、あんな無表情な顔、見たことないけどな、と思った。
喜怒哀楽にいつも生命の躍動があった。そんな顔しか記憶にないのに。それはもうどこ探してもないってことなのか、と思った。
- << 18 はじめ、告別式は福岡ですることになるかもしれないとも言われていた。 もちろんどこへでも行くつもりでいた。 結局は内田が暮らしていた街での告別式になっていた。 祭壇のあるホールには男性が二人と女性が一人いた。 お父さんだろうなと思う人は、白髪まじりの髪を短く刈り上げていて、頭も顔も小さくて、細くて小柄だった。 小さいけど、筋金の入った人のように見えた。 もう一人の男の人は、内田よりも長身でがっちりした感じだったけど、内田によく似ていたから、すぐにお兄さんだと思った。内田は末っ子だったから。 とても険しい表情をして立っていた。 似ているけど、似ているだけの人を見て息苦しくなった。 女性はお姉さんだと思った。静かで穏やかそうな人柄を思わせる人だった。 お母さんらしき人の姿が見えなかった。 お母さんは入院してると聞いてた。 病床にいるお母さんに、内田の死を伝えることができたのだろうかと思った。 聞く方もつらければ、言う方だって苦しい。 知っていたとしても、ベッドから起き上がって、福岡からこんなに遠くまで来ることはできなかったのかもしれないと思った。 そのホールに足を踏み入れることはできなかった。 内田が死んだと、情報として認識はしている。でもそれは、テレビのニュースで知った、どこか遠い所で起きた事件や事故のことみたいに、実感のわかないものだった。 祭壇があって遺影があって、棺がある。 もうそれだけで十分だった。 棺の扉から顔を見てしまったら、現実に襲われる。 死んでしまったということを認めるのが恐かった。 あんなに会いたくて、あんなに見たい顔だったのに、どうしても近づけずに、向き直って何も見えないように、受付のあるホールの壁の角に貼り付くように身を寄せた。何かに体重を預けていなければ立っていられなかった。
frederick。さっき部長が来て、来年のリニュアルオープン時の人事について、なにやら話していった。
今そんなこと聞かされても。
今の時点で聞く必要なかったかも。
不信感がさらに深まった。
私もどうなるかわからない。
前もそうだったけど、会社がこの店をどうしたいのかわからない。
いつまでも振り回されてるより、辞めるっていう選択肢だってある。
frederick。昨日も今日も雨。今日は昨日より寒かった。
気がついたら、虫の鳴き声が聞こえなくなってる。けっこうたくさんいたと思うのに。
みんなどこ行っちゃったんだろう。
いなくなっちゃったら淋しいよ。
>> 15
お通夜は20日だった。誰よりも早く行こうと思っていた。
たしか18時半からだったと思うけど、16時半には自宅を出た。
宮前平の駅を降りて…
はじめ、告別式は福岡ですることになるかもしれないとも言われていた。
もちろんどこへでも行くつもりでいた。
結局は内田が暮らしていた街での告別式になっていた。
祭壇のあるホールには男性が二人と女性が一人いた。
お父さんだろうなと思う人は、白髪まじりの髪を短く刈り上げていて、頭も顔も小さくて、細くて小柄だった。
小さいけど、筋金の入った人のように見えた。
もう一人の男の人は、内田よりも長身でがっちりした感じだったけど、内田によく似ていたから、すぐにお兄さんだと思った。内田は末っ子だったから。
とても険しい表情をして立っていた。
似ているけど、似ているだけの人を見て息苦しくなった。
女性はお姉さんだと思った。静かで穏やかそうな人柄を思わせる人だった。
お母さんらしき人の姿が見えなかった。
お母さんは入院してると聞いてた。
病床にいるお母さんに、内田の死を伝えることができたのだろうかと思った。
聞く方もつらければ、言う方だって苦しい。
知っていたとしても、ベッドから起き上がって、福岡からこんなに遠くまで来ることはできなかったのかもしれないと思った。
そのホールに足を踏み入れることはできなかった。
内田が死んだと、情報として認識はしている。でもそれは、テレビのニュースで知った、どこか遠い所で起きた事件や事故のことみたいに、実感のわかないものだった。
祭壇があって遺影があって、棺がある。
もうそれだけで十分だった。
棺の扉から顔を見てしまったら、現実に襲われる。
死んでしまったということを認めるのが恐かった。
あんなに会いたくて、あんなに見たい顔だったのに、どうしても近づけずに、向き直って何も見えないように、受付のあるホールの壁の角に貼り付くように身を寄せた。何かに体重を預けていなければ立っていられなかった。
>> 18
生きている中で降りかかってくる、困難なことや想定外のことは、避けて通ることを許されない現実ばかりだった。
それならば、現実を直視して、受け入れ、立ち向かうこと。それしかないと思う自分になっていた。
それなのに、内田の死は直視できなかった。
中に入って椅子にかけるようすすめられたけど、曖昧な返事をしたまま、その場を動くことができなかった。
気持ちが凍りついたまま立ち尽くしていた。
どれくらいたったかわからないけど、だんだんと人が増えてきて、見知った顔も現れた。
Kくんとはアイコンタクトであいさつを交わしただけ。何も話せなかった。
Wさんには連絡をもらっことのお礼とか、たぶん話したと思う。
内田が嫌っていた部長のTとは会釈だけ。戸塚にいた頃、私も説教部屋をされたことがある。
毎回、店に来た時にストックやカウンターの引出しや扉を全部開けては見ていた。あれにはどういう意図があったのか、今でもわからない。
見た目を、のび太みたいな人と揶揄したら、スネ夫だろ、と内田が言って、あーそうだそうだ、なんて言って笑った。
そしてHさんにつかまった。
KL当時、部長だっけ課長だっけ、忘れたけど、名ばかり管理職だったことは確か。
KLの組織が解体された時に離職していた。
場内がざわめいてきて、どさくさにまぎれてHさんと奥のホールへ入り、隣の席にかけた。
話した内容は覚えてない。ただ、葬儀の時に散見する、死を悼むでも惜しむでもなく、世俗の義理で来てる人のようだった。
要は故人との関わり方の問題だから、社交の辞令としてでもいいと思う。だけど、私は隣にいる人として間違えたと思って、お化粧室に行くと言って席を立った。そうしたら、ちっと舌打ちをされた。
こういうやつが生きているのに、なんで内田が死ななきゃならなかったんだろうと思った。
- << 21 Hさんから離れて席を立ち、外に出たら、ついさっき誰もいなくて閑散としていた受付前が、誰と見分けがつかないくらい人でごった返していた。 その中にMさんの姿を見つけて、人をかきわけてMさんのところに行った。そしたらNが一緒にいた。 Nは、KL立て直しの際に他ブランドから異動してきた。 ほかの参画者とともに旧体制を蹴散らし、幅をきかせてた。旧体制の人たちの中からはリストラやら異動になった人が何人も出た。新体制に残った人間のほうが大変だった。そこに残ってしまったことは、内田にとっては不運だったかもしれない。 Nは内田を追い込んだひとりだと思っている。 私自身も、必要ない店の必要ない人扱いだった。 実際には大して接点はなかった。それは、クローズ待ちの必要ない人だったから。 大して接点がなく、相手のことをよく知ってもいないのに、嫌いな理由はそこだった。 私はあの時がいちばん荒れた時代だったかな。内田にもさんざん悪態をついた。 あの時、内田にしか相手にされていなかった。 Nにとって、内田と私はセットだと思う。ダメな者同士の。 内田は後々までNだけは許せないと言ってた。 だけど、すでにKLはライセンスを打ち切り、解体されていて、この頃Nは総務にいるって聞いてた。立て直し失敗したね、と思ってた。 現在は、TRの事業部長兼執行役員に這い上がっている。 あー、大嫌いなやつがいる。いちばん会いたくないやつがいる。と思った。 あいさつもしなかった。 その時Mさんとどんな言葉を交わしたかは覚えてないけど、Mさんなら安心して一緒にいられると思った。 本当はOさんがいてくれたら心丈夫だったけど、Oさんは札幌の新店オープンのために両日とも参列できないと言ってた。 MさんNと再び中へ入って、Mさんの隣の席に落ち着いた。
frederick。人間はね、満たされない生き物なんだよ。せっかく手にした幸福感や満足感に対しても、やがてはもっと違う何かを求めるようになったり、望みが大きくなったりして、不満を持ち始める。
あんなに求めてやっと手にすることができたことも、大事にできなくなったり、そのくせ失ってしまったら困る。
たとえば失って、代わりを得たとしてもまた、いずれは同じこと繰り返し、また悩む。
でもそれでいつかは自分のプライオリティを見つけられるのかもしれない。
>> 19
生きている中で降りかかってくる、困難なことや想定外のことは、避けて通ることを許されない現実ばかりだった。
それならば、現実を直視して、受け…
Hさんから離れて席を立ち、外に出たら、ついさっき誰もいなくて閑散としていた受付前が、誰と見分けがつかないくらい人でごった返していた。
その中にMさんの姿を見つけて、人をかきわけてMさんのところに行った。そしたらNが一緒にいた。
Nは、KL立て直しの際に他ブランドから異動してきた。
ほかの参画者とともに旧体制を蹴散らし、幅をきかせてた。旧体制の人たちの中からはリストラやら異動になった人が何人も出た。新体制に残った人間のほうが大変だった。そこに残ってしまったことは、内田にとっては不運だったかもしれない。
Nは内田を追い込んだひとりだと思っている。
私自身も、必要ない店の必要ない人扱いだった。
実際には大して接点はなかった。それは、クローズ待ちの必要ない人だったから。
大して接点がなく、相手のことをよく知ってもいないのに、嫌いな理由はそこだった。
私はあの時がいちばん荒れた時代だったかな。内田にもさんざん悪態をついた。
あの時、内田にしか相手にされていなかった。
Nにとって、内田と私はセットだと思う。ダメな者同士の。
内田は後々までNだけは許せないと言ってた。
だけど、すでにKLはライセンスを打ち切り、解体されていて、この頃Nは総務にいるって聞いてた。立て直し失敗したね、と思ってた。
現在は、TRの事業部長兼執行役員に這い上がっている。
あー、大嫌いなやつがいる。いちばん会いたくないやつがいる。と思った。
あいさつもしなかった。
その時Mさんとどんな言葉を交わしたかは覚えてないけど、Mさんなら安心して一緒にいられると思った。
本当はOさんがいてくれたら心丈夫だったけど、Oさんは札幌の新店オープンのために両日とも参列できないと言ってた。
MさんNと再び中へ入って、Mさんの隣の席に落ち着いた。
>> 21
Mさんは課長だった。戸塚の店長として内田に連れられ、初対面した私に「内田が納得しているならいい」と言った。私に任せて売上が上がらなければ内田を叩くだけだと言った。あー、やなやつ。と思った。
実際、売上は低調だった。
着任して数ヵ月後の会社の新年度を迎えた時に、Mさんの采配で内田が担当を外されることになった。その時、私は内田に「なんでこうなっちゃうの」と大泣きした。
数字で内田を助けたくて戸塚に来たのに、担当が変わってしまったら私が戸塚にいる意味はない。進捗は悪かったけど、異動で打開策を図ろうと判断されるにはまだ早すぎると思った。
内田は、もうなにもしてあげられなくなるから、辞めるなら辞めてもいいと言った。
私が戸塚に来た理由を内田はよくわかっていたから。
私はMさんに直訴することにした。
内田は、99%覆らないだろうけど、やるだけやってごらんと言った。
内田はいつも、私の気が済むようにやったらいいというスタンスだった。それは私の気質に対する理解か、言っても聞かないというあきらめか、たぶん両方。
内田を外さないでほしいと話をしたら、Mさんは私に「内田の良いところも悪いところもわかった上で内田を信頼しているんですね」と言った。
なんだかその言い方が引っかかった。
私情で言ってるんだろうと言われているみたいだった。
その時、私は内田を好きだったけど、仕事以外での接点はまったく持っていなかった。
でもたぶん、私の内田に対する思いを読まれていたと思う。
もちろん人事は覆らなかった。
鉄面皮のやなやつ。やっぱりそう思った。
翌月から新しい営業が着任して、早々に喧嘩をした。それからその翌月には私は川崎へ異動が決まり、辞令を受けた時にMさんに退社を申し出た。
退社までの1か月を川崎で過ごした。
最終出勤日にMさんが私に小さな花束を持ってきて、意に添えず申し訳なかったと言った。
マイナスイメージしかない人にそんなことをされたら、単純にも、なんだか払拭された感じがした。いろいろあったけど、私は私でやるだけやって、納得して辞めるのだし、腹立たしく思ったことも水に流せると思った。
だから、お通夜の席でもMさんの顔を見て安心したくらいだった。
>> 22
私が退社したとき、内田は「会社の都合で振り回してすまなかった」と言った。
自分の異動が決まった時、内田自身も無念さみたいなものがあったと思う。まだこれからという時だったから。
自分が担当でなくなったら、あいつは辞めると言うよ、とMさんに言っていたと、内田の死後に聞いた。
Mさんとは、内田の死後に2度食事をした。
内田の思い出話しがしたいのもあって、誘いが嫌ではなかった。
内田亡きあとの私を心配してくれているものと思っていた。
2度目の時に、あの異動についてのことを聞かされた。
内田に対する嫉妬があったから離したかったと。
その場は曖昧に笑って聞いていたと思う。
そうするしかなかったと思う。
正確には、すぐに理解ができなかったと思う。
そのうちに、自分の家庭のことを話しはじめて、家庭の外に心休まる相手がほしいとかなんとか。
Mさんに対して、とても冷たいものが心に流れて、それきり会うことも連絡もしなくなった。
異動の理由は、絶対に許せないと思った。
あのとき異動がなければ、私は辞めなかったと思うし、内田ともっと仕事がしたかった。
戸塚にいくのには、ポテンシャルが低いからと、いくら内田が持ってきた話しでも、私はとてもためらっていた。
それでも決心した理由は、もう一度内田と仕事がしたいと思ったから。
それがたった4か月で異動になった。
そして、もう内田がいなくなってしまったがゆえに、その理由はなお許せなかった。
>> 23
僧侶が入場してお通夜がはじまると、ざわめきが消えて、なんとも言えない静けさに包まれた。
お通夜とか葬儀の時って、こんな時だからこそ揃う顔触れに、なんだか盛り上がり感みたいなものがあって、ふしぎな感じがする。
それが、セレモニーがはじまると同時にかき消される。その空気感がたまらなく悲しさを連れてくる。
聞いただけにすぎなかった訃報の中身を思い知らされ、私は涙が出て止まらなくなってしまった。
読経のあいだ何も考えることができず、ただ涙に暮れて、ハンカチで押さえていても涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだった。
いくら我慢しようと思っても嗚咽が漏れた。
ほどなくして焼香の合図があり、私は後ろのほうの座席だったから、順番まで間があった。
そろそろ順番が近付いた頃、やっと顔を上げて前を見たら、二人ずつ焼香をあげていた。私はMさんと一緒だった。
その時も泣いたままで、どうやって焼香したのか覚えていない。
内田の顔はまだ見ていなかったけど、本当に内田は死んでしまったんだということは認識していた。
焼香台から出口へ進むと、自分を制していたものがほどけ、思うにまかせて泣いた。
Mさんが「大丈夫ですか」と声をかけてくれて、Mさんに支えてもらいながら通路を進み階段を降りた。
どこへ行くのかわからなかったけど、促されるままにしていた。
階段を下りきると、そこは清めの席になっていた。私は焼香が最後のほうだったから、そこにはもうたくさんの人たちがいて、ざわめき返っていた。
お酒が入っている人もいたせいか、なんだか陽気な雰囲気さえして、すごく異様な気さえした。
そこではじめて我に返って、テーブルにつくと放心してしまった。
少し落ち着きを取り戻し、Mさんと二人で話をした。
>> 24
「こんな人を放っておくなんて」とMさんが話しはじめた。
彼女はお前のことをとてもよく理解しているね、早く一緒になっちゃえばいいのに。と内田に言ってみたことがあった。
そうしたら内田は「あいつが俺のことを嫌になっちゃう」と言っていた。
という話しを聞いた。
私は嫌になんてならないのに。と思った。
内田とは、たとえ関係がこわれてしまっても、どんなかたちででも一生関わっていこうと決めていた。内田とならそうなると思っていた。
私のことを「話せばわかる人」だと言っていた。私にとってもそれは同じ。それ以上に、私が主張をしなくても私のことをわかってくれていたと思う。
仕事のいろんな場面で、こういうこと気になるでしょ、とか、俺がどう思っているか聞きたいでしょ、とか、私の心中はいつも的確につかまれていた。
戸塚で、売れなくてどうしようもなくて、どうしようどうしよう、どうしたらいいの、と言った時に、あなたには「こういうことをします」と言える人になってほしいと言われたことがあった。
その言葉に、すんなり「うん、わかった」と私は言えた。
希求することに、相手へ期待も包含して、
どう言ったら私のエナジーを充満させらるのか、そんな算段なんかなかったと思う。
ただ、こいつはもっと頑張りたいはずなんだということを知りつつ、また、本人が望むとおりに頑張らせてあげたい、その思いだったと思える。
だからいつもパズルのピースがはまるように心にしっくりきて「そうか、そうだよね」って、内田がそう言うなら頑張るよと言えた。
どうしようどうしよう、というのは私の思い癖だと思う。困ると必ず心の中で連呼している。今でも。
そんなときいつも、あのときの内田の言葉が聞こえてくる。
自分でなければ手に負えない。Mさんにそんなことも言っていたと聞いた。
そのとおりだよ。それなのに私を置いていってしまったなら、私はどうしたらいいのよ。と思って涙がこぼれた。
>> 25
内田は2度離婚していた。
はじめて会ったのは、今から12年前。その頃は2度目の結婚をしていた。
はじめは意見がぶつかって、激しく対立した。頑固で譲らない嫌なやつだと思っていた。それでも営業と店頭は切れない関わりがある。おたがい本気のぶつかり合いが、返って理解を深めたのかと思う。
そのうちにクローズが決まり、デリバリーのない店を「俺がなんとかするから」と内田は言ってくれた。好きになった瞬間だった。
それから半年してクローズを迎え、最終日、売場撤収という日に内田は風邪で熱を出して、会社を早退した。
店に電話が入ったときに「店長とはこれが最後じゃないから」と内田は言っていた。
最後は顔を見れないまま私は退職をして、それきり会っていなかった。
その後、すぐに同じ百貨店の新規ブランドに入って、自分の仕切り直しをした。
軌道に乗った3年半の頃、今度は百貨店自体が閉店することになった。
前回のクローズから、やっと立ち直って、新しい会社での位置付けを確立しつつあったというのに、また私は店を失うのかと思ってくやしくてたまらなかった。
その時、退職後はじめて電話をした。
21時近かったけど、私はまだ店にいた。
出るかな、と少し緊張したと思う。
電話に出た内田は、わりと明るい調子で、久しぶりだねー、今なにしてるの?結婚した?俺は×2でーす、Oは課長になったよ、俺はまだ係長、とか、自分がしゃべりたいことを一気にしゃべってた。
私が話せる番になって、クローズの話しをしたら、すぐに戸塚の話しをしてきた。
戸塚なんて、ハイクオリティの服が売れるような商業施設なんてあったっけ?と思って関心のない態度を示した。
そのときはそれで電話を切った。
それから、私はまた転職をしていたけど、あの電話以来、何度か内田から連絡が入るようになった。戸塚へのオファーだった。
- << 33 すでに新しい職場で仕事をしていたのに、 うまくやれてるのか?っていう疑いを含んだ打診。 確かに、新しい職場になじめない感があって、一ヶ月もするうちに自分には合っていない気がしてきていた。 そんな心情の時に、こっちの道はどう?と誘導されたら、考えなくもなかったけど、戸塚の話しはどう考えても良い話しとは思えなかった。 戸塚は、百貨店でもファッションビルでもなく、大型スーパーの中に併設されたショッピングモール?その一角だけ小洒落た呼び名をつけられていたけど、ただのスーパーのワンフロアーにすぎなかった。 そこに展開するブランドとしては、まわりのブティックは安価すぎて、まずプライスで敬遠されると思えた。 内田に聞いたことがあった。 もし自分がオーナーなら、その環境にそのブランドを展開しようと思う? 答えはNOだった。 自分の主観でも勝算ないと思える店を私にやれと言うのかって、その時ひどく憤慨して一蹴した。 そんなことも正直に言うのが内田を信頼する由縁。 本心でも、そんなことを言ってしまえば、こいつは怒るだろうと知っていても本当のことを言う。 現実を理解して、それでも「やる」と言ってもらえたらいい、そんな願いもあってのことかと思う。 説得とも言えないご機嫌伺いみたいなことが度々あったけど、失敗するとわかっていることを引き受けたくはなかった。 そのうちにOさんが店にきた。 その時、私はここを辞めたいと思っているとOさんに話した。 それが内田に伝わって、なんで相談しないんだよ!と、すごい剣幕で電話がかかってきた。 戸塚の話しなんか絶対いやなのに、相談なんかするわけないとやり返した。 あの時、人の手配に相当困っていたのだと思う。私じゃなければ困るというわけではなくて。 それがまた一層不快だった。
frederick。10月はずっと体調が芳しくなかった。胃腸を壊しがちで、良くなったと思ったら風邪をひいた。まだ治ってない。
後半からは不眠が続いてた。寝不足でも、仕事はなんとかなってた。
でも今日は帯状疱疹ができていて、一気に気力も落ちた気がする。
そんなに免疫力下がるほど疲れていたかな私。身体に現れるってことはそうなんだろうな、って実感させられてしまう。
自分ではぜんぜん平気なつもりでいたのに。
疲れたな。
frederick。祭日も診療している病院へ行って、遅れて出勤したけど、結局スタッフの昼休みだけ回して帰ってきた。
こんなに具合悪く感じるの久しぶりだな。
明日改めてちゃんとした病院で診てもらう。
明後日からイベントで絶対休めない。
frederick。今朝は開院前から並んだ。いつもすごく混んで待たされるから。おかげで待たずに診てもらえた。早く治ってほしいから、早く診てもらいたかった。
薬をもらったけど、あまり変わりない。
夜になったら、すごく痛みを感じるようになった。
午前中のうちに店から電話が入った。
明日休みのスタッフが、明日代わりに出勤するから休んでくださいと言ってくれた。
体調を思うと、明日も休めたら、というのが本心だったけど、明日はイベントの初日で、そのためにもともと増員しているし、無理しても行かざる得ないと思ってた。
でも、厚意に甘えることにした。
こんばんは
体調いかがですか❓
季節の変わり目は古傷が痛んだり、抵抗力が無い時にはいろんな病原菌が元気になります
少しのんびりしませんか
そう言っても頑張り屋さんだから仕事行くんだろうな
症状が収まるまで休みながらコントロールして下さい
いつも勝手にレスして🙇🙇🙇
>> 31
北の旅人さん、こんばんは。
いつも心配してくださってありがとうございます。
頑張り屋さんの私ですが(笑)、明日は休みます。
先月も「今日は休みたいな」という体調の日がありましたが、人員的にぎりぎりでやっているので、休むわけにはいかず、なんとか体を保てていたので、案外大丈夫!と思って安心していたのですが。
今はもう、これは「休みなさい」のサインだな、と都合の良い解釈をしています。
ちょっとしたことが引き金になって、一気に崩れるものですね。
こんなになるなんて自分でも意外に思っています。
11月になってますます寒くなってきました。北の旅人さんも体調を崩さないようになさってくださいね(^^)
>> 26
内田は2度離婚していた。
はじめて会ったのは、今から12年前。その頃は2度目の結婚をしていた。
はじめは意見がぶつかって、激しく…
すでに新しい職場で仕事をしていたのに、
うまくやれてるのか?っていう疑いを含んだ打診。
確かに、新しい職場になじめない感があって、一ヶ月もするうちに自分には合っていない気がしてきていた。
そんな心情の時に、こっちの道はどう?と誘導されたら、考えなくもなかったけど、戸塚の話しはどう考えても良い話しとは思えなかった。
戸塚は、百貨店でもファッションビルでもなく、大型スーパーの中に併設されたショッピングモール?その一角だけ小洒落た呼び名をつけられていたけど、ただのスーパーのワンフロアーにすぎなかった。
そこに展開するブランドとしては、まわりのブティックは安価すぎて、まずプライスで敬遠されると思えた。
内田に聞いたことがあった。
もし自分がオーナーなら、その環境にそのブランドを展開しようと思う?
答えはNOだった。
自分の主観でも勝算ないと思える店を私にやれと言うのかって、その時ひどく憤慨して一蹴した。
そんなことも正直に言うのが内田を信頼する由縁。
本心でも、そんなことを言ってしまえば、こいつは怒るだろうと知っていても本当のことを言う。
現実を理解して、それでも「やる」と言ってもらえたらいい、そんな願いもあってのことかと思う。
説得とも言えないご機嫌伺いみたいなことが度々あったけど、失敗するとわかっていることを引き受けたくはなかった。
そのうちにOさんが店にきた。
その時、私はここを辞めたいと思っているとOさんに話した。
それが内田に伝わって、なんで相談しないんだよ!と、すごい剣幕で電話がかかってきた。
戸塚の話しなんか絶対いやなのに、相談なんかするわけないとやり返した。
あの時、人の手配に相当困っていたのだと思う。私じゃなければ困るというわけではなくて。
それがまた一層不快だった。
- << 37 そんなに言うなら一度会って話そうよって、私から言った。 ただ、プライベートのような感じで会うのはなんとなく抵抗があったから会社へ行くことにした。 そうは言っても、久しぶりに内田に会うとなったら、私はそのために新しい服を買った。 離れてから3年半がたっていたけど、内田は心の中で特別な存在だったから。 14時に約束していた。 受付を通って、内田がいる事業部のフロアまで上がると、おたがいすぐに相手の存在に気づいた。内田はぜんぜん変わってない。まさしく内田だった。 軽く手を上げて内田が近づいてきて、いちばん最初に私に言ったのは「相変わらずおきれいで!」 普通なら、相変わらず口がお上手ですねー、とか大人の会話ができるはずなんだけど、特別な位置づけにしている人からの意外な言葉に、なにもリアクションできないでいた。 固まるなよ、とすぐに突っ込みが入った。 パーテーションで区切られた一角に、テーブルと椅子があって、そこでコーヒーを出された。 とにかく、3年半ぶり。やっぱりKLの時の話しなんかして、おたがいにいろんなことがあったことを確認し合う。 次第に出てきた内田の本音。ほらね、やっぱり会わないと言えないことってあるんだよね。 会社や組織に対する不満、内田にとってはKLの時のしがらみもまだ影響があるみたいだった。あの時からうまくやれるタイプではなかったけど、そこも相変わらずだった。 でも、純粋さ故のストレートな物言いも、媚を売れないまじめさも、味方を作れない要因ではあると思うけど、自分というものがブレない、それはもう「生き方」だと思う。それこそが、壁を作り自分を苦しめる種になるのだけど、私はやっぱり内田の仕事に対する考え方に共感した。 変わっていなかったことに嬉しかった。 気持ちはわかるけど、もう少し受け流す練習もしてみるとか…って、ちょっと説教部屋が入ったけど、それはできない!って頑固で、だめだこりゃ。 肝心な戸塚の話しは、まだ答えは出せないと言ってその日はお開き。 内田が正面玄関まで送ってくれた。 別れ際に「どっちにしても応援してるよ、頑張って。あ、頑張ってって言っちゃいけないんだっけ」と言った。 頑張ってという言葉が、言うのも言われるのも好きじゃないと、以前に私が言ったことがあったから。
frederick。いま私の中にいるウイルスって、この薬に対して抗体できちゃってるんじゃないかって思う。
痛い。
明日は出勤しようと思って、店に電話を入れた。
外商サロンのイベントは、人が入らず盛り上がっていないと聞いた。そんなくらいだから二人で回せるからと、百貨店側にも話しをしてあるから、明日も休んでほしいと言われた。それがまるで嘆願みたいで、気遣いに涙が出てしまった。
いつも、店では厳しい姿勢を見せていたはずの私に、そんな暖かい配慮をしてもらえるとは意外な気がしてしまった。
捗らない売上に、責任者としての私の心痛を、普段はそれと口に出さなくても、理解してもらえていたような気がした。
誰にも頼らず、甘えずやってきてるなんて自負は思い上がりだと思った。
こうして人の厚意に甘えながら、助けてもらいながら、許してもらいながら生きてきてる。
自分がそんなに大切な扱いをされるとは思いもしないほどに、私は今のスタッフを信用していなかったと思う。
ほんとにだめなのは、私のほうだったのかもね。
先月は精神的に苦しかった。
でも今こんなふうに自分の活動を止められてしまったことに深い意味を感じる。
ちょっと止まって方向を見直してごらんて。
そんな時間を与えられた気がする。
ずっと走りっぱなしでは疲れちゃうよね。
誰かに、何かに強制的にでも止めてもらわなければ、私は止まれないから。
私がどんなに自分を酷使しても、見たこともない私の体内のすべての器官は、止まることなく黙って動き続けてる。
先月胃の調子が悪かった時に、おなかに手を当てて「どうした?」って胃に話しかけてみた。もちろん返事はないけど。
疲労を感じた時は「私の身体、いつもありがとう。もう少し頑張って」と言ってみた。
それでも、もうだめだと身体に言われてしまった気がする。
身体も物も人も、大事にしなかったら壊れる。
frederick。今日で3日目。症状も軽くなってきて、もう飽きてきた。
明日の公休とくっつけてもらった休みだから、明日も休み。4日目。
仕事に行ってれば行ってるでストレスを感じるけど、こう何日もひとりでいて、誰とも口をきかないでいるのも、社会から隔離されてしまったような疎外感を感じて、仕事が恋しくなってしまう。
やっぱりガツガツバリバリやってる自分のほうがいい。
普段は連休を入れるのも、有給を取るのもなかなかできなくて、仕事してる毎日の中では連休にあこがれてもいたけど、仕事をしていないと自分が自分でないみたい。
今回は体調を崩して休むことになって、追い詰めていた自分の負荷が意外に大きかったことを知った。
体を壊してしまったら、何もできなくなるし、気持ちも下がる。
一生懸命やってるつもりなのに、結果が出ないことにあせっていた。
一生懸命やってるのに、結果が出ないはずない、結果が出ないなんておかしいと思い込んでいたことが間違っていた。
一生懸命やったとしても、過度の期待を持たないこと。それがちょうどいいのかも。
頑張っても、すぐにはどうにもならない時もある。
それぐらいの余裕がないとね。
それから、今回はスタッフに助けてもらった。
誰の世話にもなりたくない、誰にも迷惑をかけたくないと思ってきた。それはたぶん、他人を信じない私の自己防衛本能のひとつ。
だけど、人との関わりの中で、人の世話にならず、迷惑もかけない生き方なんてできるはずないんだと思った。
迷惑をかけても、それを許し合える関係を築けたらいいんだと思った。
事象は常に、あらゆる結果を以て変化する。ただ変わっていく。
それ自体に、はじめから幸も不幸もない。
変化していく事象を自分がどう捉えるか。ただそれだけ。
ただそれだけのことなんだよ。
frederick。なんか大げさなことになってしまった。
明日から行こうと思っていたのに、部長まで話が届いて、来週金曜日の公休まで休んでいってことに。
症状はまだあるけど、あと1週間もなんてとても休む気になれない。
1週間も先まで休みを確定しなくてもと言って、厚意には甘えさせてもらいながら、まずは月曜日までの公休で区切らせてもらった。
>> 33
すでに新しい職場で仕事をしていたのに、
うまくやれてるのか?っていう疑いを含んだ打診。
確かに、新しい職場になじめない感があって、一…
そんなに言うなら一度会って話そうよって、私から言った。
ただ、プライベートのような感じで会うのはなんとなく抵抗があったから会社へ行くことにした。
そうは言っても、久しぶりに内田に会うとなったら、私はそのために新しい服を買った。
離れてから3年半がたっていたけど、内田は心の中で特別な存在だったから。
14時に約束していた。
受付を通って、内田がいる事業部のフロアまで上がると、おたがいすぐに相手の存在に気づいた。内田はぜんぜん変わってない。まさしく内田だった。
軽く手を上げて内田が近づいてきて、いちばん最初に私に言ったのは「相変わらずおきれいで!」
普通なら、相変わらず口がお上手ですねー、とか大人の会話ができるはずなんだけど、特別な位置づけにしている人からの意外な言葉に、なにもリアクションできないでいた。
固まるなよ、とすぐに突っ込みが入った。
パーテーションで区切られた一角に、テーブルと椅子があって、そこでコーヒーを出された。
とにかく、3年半ぶり。やっぱりKLの時の話しなんかして、おたがいにいろんなことがあったことを確認し合う。
次第に出てきた内田の本音。ほらね、やっぱり会わないと言えないことってあるんだよね。
会社や組織に対する不満、内田にとってはKLの時のしがらみもまだ影響があるみたいだった。あの時からうまくやれるタイプではなかったけど、そこも相変わらずだった。
でも、純粋さ故のストレートな物言いも、媚を売れないまじめさも、味方を作れない要因ではあると思うけど、自分というものがブレない、それはもう「生き方」だと思う。それこそが、壁を作り自分を苦しめる種になるのだけど、私はやっぱり内田の仕事に対する考え方に共感した。
変わっていなかったことに嬉しかった。
気持ちはわかるけど、もう少し受け流す練習もしてみるとか…って、ちょっと説教部屋が入ったけど、それはできない!って頑固で、だめだこりゃ。
肝心な戸塚の話しは、まだ答えは出せないと言ってその日はお開き。
内田が正面玄関まで送ってくれた。
別れ際に「どっちにしても応援してるよ、頑張って。あ、頑張ってって言っちゃいけないんだっけ」と言った。
頑張ってという言葉が、言うのも言われるのも好きじゃないと、以前に私が言ったことがあったから。
- << 47 その後も私は煮えきらず、何度か内田と会って話しをした。 仕事に関係ないことまで話しが及んで、2度も離婚したこと、それが原因で親とも絶縁状態だとか、仕事も大変なだけで成果が上がらず…本当はとても疲弊した内田の姿があった。 だけど、なにを聞いても、内田の人格を私は好ましく思えた。 そのやりきれない気持ちはどれもわかる。だからこそ、過去なんか跳ね返して手に入れられなかったものを取り返そうよ!私はそんなことを言った。 ただ、こんなネガティブな人と仕事するのはいやだな、と思ったりもした。 ひとりの人間としての思いと、職業人としての考えと、そのふたつが交錯した。 うまくいく店とは思えないからと、いつまでも能書きを言う私に、しまいに内田は、説得に費やした「俺の時間を返せ」と迫り、いいからやれ!と半ギレした。 それはたぶん、内田としても、私と話をするうち、こいつになら任せていいと、値踏みをした結果だと思う。 私は意を決して、「それなら、私のモチベーションは、内田さんとまた一緒に仕事がしたい、それしかないけど、それでいい?」と言った。 内田が大きく頷いて、この話しはまとまった。 おたがいに相手に対する責任を感じ、同じものを背負うことに同意した。 もう一度一緒に仕事したい。 それだけだった。 近くにいたかった。 それで、内田のよろこぶ顔が見たかった。そのために私は頑張るんだと思った。 KLの時、助けてもらった。だから今度は私が助けたい。その気持ちも素直に伝えた。 この時もう内田のことをまた好きになっていた。 仕事が始まると、その思いは一層強く、でも伸ばせない売上に、力及ばずな自分がつらかった。 好きな人を助けられない自分がいやだった。 喧嘩も何度もした。 でもおたがいに持つ目標同じだったから、信頼していたから、できた喧嘩だった。 辞めることになった時、私はやっぱり落第してしまったけど、内田と仕事ができてよかったと思った。おたがい現実から目をそらさず、真剣に向き合えたから。 そんな営業は、もうどこ探してもいないと思う。 辞めてから初めて言えた。 私は、いつも、ずっと、内田さんの味方です。 今までたくさん傷ついてきたはずだけど、私を信じてほしいと、やっと言えた。
frederick。今日から仕事に戻る。
いつも当たり前だったことが、1週間離れていただけで違和感になった。
バッグはこんなに重かったっけ、ヒールはこんなに安定感がないものだったっけ。
慣れるって怖い。こんなに負荷をかけるものが当たり前になっていたなんてね。
慣れは見失わせる。
ときには大事なことさえもね。
おはようございます
帯状疱疹の痛みは良くなりましたか❓
先週の金曜日に🏥で看護婦さんが帯状疱疹の患者さんに痛みが1年くらい続く人もいますと言ってました
免疫力が低下した時に出てくるそうです、若いから回復が早かったと思います
それでも大事にして下さい
ほどほどにね(笑)
frederick。なつかしい人と話した。
数少ない私の理解者。
最近のことをいろいろ話して、わかったこと。
私って、やっぱり少数派だよねって。
人生には大きな流れがあって、それを運命と呼ぶなら、私にはそれがとても強力に作用しているように思える。
葛藤もあるし、衝動も感じるのに、動けない時。
感情に押されて動いてしまう時。
その結果が良い時も悪い時も。
どっちも、不可抗力を感じてしまう。
でも、選択してるのは自分。
どうしてこんなことにって思うことがたくさんあるね。
でも、その都度どうするかを自分で決めて歩いてきてる。
どうにもならないこともあるよね。
今までだって、たくさんあったしね。
どうにもならないことは、どうにもならないままで。
そのうちなんとかなるからね。
結局そうやって生きてこれたんだしね。
きっとね、すべては大難を小難にやり過ごせるようになっているって、私の人生ってそんなふうなんだ。今日はそう思った。
小難で済んでいて良かった…ってね。
frederick。大変すぎて、どうしようもなさすぎて、みんな頭がおかしくなっちゃってるの。
私にとって決定的なことが起きたら、私も腹をくくるつもり。
その決定的なことっていうのが、今は何かわからないけど、もう限界って思ったときがその時かな。
だからもう、どうとでもしてくれって感じ。
frederick。某俳優さんの訃報が最近気になっていた。
くも膜下出血。
おんなじだから、なんだか気を取られていた。
献身していた女優さんの悲しみは、筆舌に耐えないと思う。
一度目の発症から生還して、一緒に頑張ってきた。
反対を受けて、結婚はできなかったそうだけど、おたがいがおたがいのために懸命だったと思う。
人は結局、自分の痛み苦しみを自分ひとりで抱え、耐えていくのだと思う。
孤独だね。
大事な人がそんなふうにしていたら、その痛みを代わりに受けてあげたいと思う。
その苦しみを取り除いてあげたいと思う。
でも、どうしてもできないの。
そのことに、きっと自分もまた苦しむ。
だけど、相手の痛みは自分の痛みだと、おたがいにそれがわかった時に、人は相手を心から慈しむことができるのだと思う。
亡くなったその俳優さんは、病気で苦しんでいても、私はしあわせだったと思う。
最期の時まで痛みを分かち、互いに気持ち寄り添える人がいたから。
孤独だけど、その孤独の痛みをわかってくれる人がいたから。
残された側っていうのは、どれだけ尽くしても尽くし足りず、いくつまで生きたからもういいって思えるものでもないし、どうしてもっとやさしくしなかったんだろうとか、もっとこうしてあげればよかったとか、必ず悔いを残すものだよね。
それはきっと、生きてる人に対しても同じかもしれないね。
相手が半身不随になっても、結婚を望んだその女優さんの気持ちもわかる。
人を好きになる、愛するっていうのは、その人の精神に惹かれるっていうことだから。
たとえばその人が寝たきりになっても、その人の支えになれるなら、それが自分の望む在り方になるんだよね。
そんなふうに人を愛せたらしあわせだね。
あなたのそばにいれたら
なにも望むものはない
かけがえないこの愛のために
なにができるのだろう
frederick。強いけど弱い。私のことをそう言って、「難しい人」だとまとめたことがあった。
私は弱い人間です。
依存心が強く、だからとても感情的で、必要とされることを必要とし、わかってほしいと願い、誰もわかってくれないと言って内に閉じこもる。
自分が弱いことをずっと前から知っていた。
弱さを否定して、強くならなければと思い続けてきた。それは自己防衛手段。
幾重にも武装して、強い自分を保つ。
ゆでたまごの黄身のまわりに白身があって、いちばん外側を固い殻で覆っている感じ。
いつもアグレッシブに行動してきた。つもり。
動き出さなきゃ始まらないって、いつも思ってきた。自分の人生を動かすことができるのは自分だから。
その考え方すらも危機管理の方法だった。
運命を変えるには、行動を変えなきゃね。
止まっていても、何も変わらないしね。
強いけど弱い。
ほとんどの場合、私は強い印象を持たれる。
相当強いと思われている。
それも間違いじゃない。強くいようと思っているから。
でもなんでだろう、私の黄身の部分が、わかる人にはわかってしまうのは。
おんなじだからかな。
>> 37
そんなに言うなら一度会って話そうよって、私から言った。
ただ、プライベートのような感じで会うのはなんとなく抵抗があったから会社へ行くことに…
その後も私は煮えきらず、何度か内田と会って話しをした。
仕事に関係ないことまで話しが及んで、2度も離婚したこと、それが原因で親とも絶縁状態だとか、仕事も大変なだけで成果が上がらず…本当はとても疲弊した内田の姿があった。
だけど、なにを聞いても、内田の人格を私は好ましく思えた。
そのやりきれない気持ちはどれもわかる。だからこそ、過去なんか跳ね返して手に入れられなかったものを取り返そうよ!私はそんなことを言った。
ただ、こんなネガティブな人と仕事するのはいやだな、と思ったりもした。
ひとりの人間としての思いと、職業人としての考えと、そのふたつが交錯した。
うまくいく店とは思えないからと、いつまでも能書きを言う私に、しまいに内田は、説得に費やした「俺の時間を返せ」と迫り、いいからやれ!と半ギレした。
それはたぶん、内田としても、私と話をするうち、こいつになら任せていいと、値踏みをした結果だと思う。
私は意を決して、「それなら、私のモチベーションは、内田さんとまた一緒に仕事がしたい、それしかないけど、それでいい?」と言った。
内田が大きく頷いて、この話しはまとまった。
おたがいに相手に対する責任を感じ、同じものを背負うことに同意した。
もう一度一緒に仕事したい。
それだけだった。
近くにいたかった。
それで、内田のよろこぶ顔が見たかった。そのために私は頑張るんだと思った。
KLの時、助けてもらった。だから今度は私が助けたい。その気持ちも素直に伝えた。
この時もう内田のことをまた好きになっていた。
仕事が始まると、その思いは一層強く、でも伸ばせない売上に、力及ばずな自分がつらかった。
好きな人を助けられない自分がいやだった。
喧嘩も何度もした。
でもおたがいに持つ目標同じだったから、信頼していたから、できた喧嘩だった。
辞めることになった時、私はやっぱり落第してしまったけど、内田と仕事ができてよかったと思った。おたがい現実から目をそらさず、真剣に向き合えたから。
そんな営業は、もうどこ探してもいないと思う。
辞めてから初めて言えた。
私は、いつも、ずっと、内田さんの味方です。
今までたくさん傷ついてきたはずだけど、私を信じてほしいと、やっと言えた。
>> 47
わかってほしいと望むほど、人は他人に自己を開示できなかったりする。それはなぜなら、「わかってほしい」と希望することに限って、自分のダメな部分だったり、不都合な部分だったり、痛い部分だったり、ネガティブなことで、たやすく人前にさらせないことだから。
でも、限られたほんのわずかな、心を許せる人にだけは、そんな自分だけの秘密の扉の鍵も委ねることができる。
そして、そんな相手がいるかいないかで、心の持ちようが左右される。
「誰も信じられない」は、言い換えたら「信じられる人がほしい」だと思う。
誰にわかってもらえなくても、こいつだけはわかってくれる。
私はそんな存在になりたかった。
人は、わかってくれる人に話をしたい。
話しても、どうせわかってくれやしないと思う相手にエネルギーを消耗させようとはしない。
長い、長い時間をかけてできた傷は、同じように時間をかけなければ癒えないと思った。私は一生この人に関わっていたいと思っていた。おたがいがどんな生き方をしても、ずっとつながっていたいと思っていた。
また会えたのは、きっとそのためだと思ってた。
frederick。現状に行き詰まって、後ろを振り返るとき。あの頃はよかった、なんて思う。だけど、昔もそんなに良くはなかったよ。今が一大事くらいに必死でやっていて、あの頃だって「今」を少しもいいとは思っていなかったんだから。
時がたって、思い出したときにあの頃のことがよかったと思えるのは、その時には気付かなかったことに気付けるから。
そしてなにより、やっぱりあの頃必死に頑張っていた自分への愛着。
だから、今のことを「あの頃」のこととして思い出せるようになった時、いま振り返る昔のように「あの頃の自分、よくやっていたな」って思い出せる。
そんな時がくる。
いつかはまたそんな日が来るとわかっているから、静かに「今」を見つめる。
いつまでこうしているのかなあ、と思う。
本当は、現状を打ち破りたい。
辞めても解決しないかもしれない、そんな思いで毎日を踏みしめてきたけど、辞めても解決しないことかもしれなくても、環境を変えてリスタートを切れたら…と思わなくもない。
でも、会社とか、仕事とか、そんな小さなことことじゃなくて、人生レベルでシフトチェンジするべきなのかも…と思う。だから、次の修正はそういうものにしたい。
結局、人は極端な痛みと、出会いによって変わるものだと思う。
そのふたつのことに自分の内面が刺激される。
時は絶えず流れていて、決して立ち止まることはない。常に前に進んでいる。後ろには絶対に戻れないから。
前にしか進めないものだからね。
新しいレスの受付は終了しました
日記掲示板のスレ一覧
携帯日記を書いてみんなに公開しよう📓 ブログよりも簡単に今すぐ匿名の日記がかけます。
- レス新
- 人気
- スレ新
- レス少
- 閲覧専用のスレを見る
-
-
やるな、市販薬4レス 107HIT 匿名さん
-
人気がでるととこんなに…芸能界…f(^_^;)2レス 146HIT 匿名さん (♂)
-
死にたい1レス 107HIT 匿名さん
-
本当今の世の中終わってる2レス 103HIT 匿名さん
-
叶わぬことばかり3レス 127HIT 匿名さん
-
にっき
何で元気がないの?20さんにして見ればこれからの始まりの未来を向かって…(匿名さん1)
334レス 13249HIT 匿名さん -
トド君の日記、その2
4月24日(水)、☔.朝からずっとしとしとと降り続いていたー.気温が低…(トド君)
229レス 2939HIT トド君 -
やるな、市販薬
市販薬はCMのイメージで飲むから、期待値を超えない事が多いかも。 …(匿名さん4)
4レス 107HIT 匿名さん -
情けないバカな私 No.50
体調不良で寝ちゃ起きを繰り返してました。 空さんは病院だね。長男…(負け犬)
428レス 5562HIT 負け犬 (50代 ♀) -
🐱仲良し家族の日常⑱🐱
4/24(水)☔ 今日は弱い雨が降ったりやんだり、まぁ降ってる時…(匿名さん0)
58レス 680HIT 匿名さん
-
-
-
閲覧専用
良い方法求む17レス 234HIT 匿名さん
-
閲覧専用
あのとき27レス 1533HIT 匿名さん
-
閲覧専用
煌めく72レス 1406HIT 通りすがりさん
-
閲覧専用
🔥🔥🔥🔥🔥🔥続き(42)🔥🔥🔥🔥🔥🔥500レス 3438HIT 匿名さん
-
閲覧専用
剣道8レス 185HIT 通りすがりさん
-
閲覧専用
あのとき
言ってること支離滅裂だよ。子供か。 (通りすがりさん13)
27レス 1533HIT 匿名さん -
閲覧専用
🔥🔥🔥🔥🔥🔥続き(42)🔥🔥🔥🔥🔥🔥
窒素以外を代用で使うから、しんどいんじゃないでしょうか?❗(匿名さん0)
500レス 3438HIT 匿名さん -
閲覧専用
煌めく
あ! 誰のことかわかった またそれなんだ へえ 気持ち…(通りすがりさん0)
72レス 1406HIT 通りすがりさん -
閲覧専用
過去より現在 13
最後の日記😊 この日記は二世帯住宅での愚痴や 出来事を聞いてもらいた…(主婦さん89)
500レス 19182HIT 主婦さん -
閲覧専用
癒し専用ルーム 280
とんでもないです。 (名無し21)
500レス 571HIT 名無し21
-
閲覧専用
サブ掲示板
注目の話題
-
発達障害者だって子供が欲しい
発達障害があります。半年前に結婚しました。 子供がほしい話をしたら 「あなたと同じように仕…
64レス 1832HIT 育児の話題好きさん (20代 女性 ) -
初対面の人と仲良くなれません。
45歳彼女いない歴=年齢です。アプリ、結構相談所で10年間婚活してきましたが、お金と時間ばかりかかる…
59レス 1463HIT 結婚の話題好きさん (40代 男性 ) -
おばさんイジリされる職場
私は40代の女性会社員です。 会社は男性が多く昭和な社風です。 一応、私は役職もついていますが下…
24レス 663HIT 社会人さん -
同棲するなら1人になれる部屋が欲しいって言ったら号泣された
彼女と同棲の話になり、部屋はひとつでいいよね、と言われたので「喧嘩とかした時用に1人になれる部屋があ…
21レス 709HIT 恋愛初心者さん (20代 男性 ) -
誰からも愛されない
誰からも愛されない私は無価値ですか? なんのために生きているのですか?
13レス 397HIT 気になるさん -
「夫が家事を手伝うのは当たり前」
結婚2年目で子供はいません。専業主婦の妻が「夫が家事を手伝うのは当たり前」と言ってます。 こっ…
16レス 427HIT 相談したいさん - もっと見る