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戦争を経験した家族

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通行人
14/08/05 16:54(更新日時)

私の話を聞いて不快に思ったり、嫌悪感を抱いた方いる可能性もありますので、もしそのような方いらっしゃいましたらスルー願います。


うちの家系で戦争に行った人いるのか?気になり聞きました
私のひいお祖父ちゃんが戦争で満州に行ってた事、祖母の最初の旦那さんが戦争で帰還しては来たが、精神的におかしくなりそのまま強制的に離婚したと聞かされました


私の彼氏にも、そう言う話を聞いたら、彼氏の祖父が満州に行ってたと話し石原莞爾とは会った事があると話してたそうです。
彼氏の祖父は満州での戦時中、戦友と約束を交わしたそうです。

「もし、生き残れたら俺の妹を嫁に貰ってくれないか?」と、彼の祖父は戦友に言われたそうです。
結局、二人とも命からがら日本に戻り、地元で暮らしたのですが、彼の祖父は戦友の約束を守り結婚しました

その祖父は95歳くらいまで生きたそうです。
彼氏曰く、死ぬまで漁師だった人、寡黙で顔は潮で赤黒く傷(漁師なので釣り針でやった傷)がある怖顔だったが、優しい祖父だったと。
どうせ戦争で死ぬのを覚悟した身だからと、周りは恐れて行かないくらい荒れ狂う波でも、船を出して漁に出てたと話してました

余談ですが、、彼氏曰く「戦友の約束でも…祖母と結婚した祖父は凄い…祖母は昔の人なのに迫力がある体型、怖い顔、性格もキツい人」だと話しました(それだけ戦友との約束は絶対だったのでしょうけど)
ちなみに、祖母は96歳くらいで元気だそうです

戦争はよくないとは勿論思いますが、こう言う逸話を聞くと…何となく複雑ではありますが、考えさせられました

皆さんの中にも、祖父母やそのまた上の方で戦争に関する話など、逸話などありましたら記載出来る方お願いします

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No.2122892 14/08/02 16:27(スレ作成日時)

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No.1 14/08/02 16:48
たみこ ( 30代 ♀ nvS01b )

私の祖父も、92歳で亡くなりましたが満州に出征し、シベリアに抑留されて戦後数年して戻ってきたそうですよ。

戦友が沢山亡くなったそうです、抑留中や、帰りの船のなかでも。

母方の祖父ですが、カチンとくるとすぐ暴力をふるう恐ろしい人だったのですが、孫が生まれ(私たち世代)、私が初ひ孫をうんだころにはすっかり丸くなり、特に私が里帰りしている間85歳くらいだったかな、毎日自転車で通ってきてくれて、卵などを買ってきては「乳は吸っているか」と 心配してくれましたよ。実子(母の兄弟)が栄養失調で亡くなっているからでしょうね。

晩年も、腰痛がひどかったのですが、沖縄や特攻にゆかりのある場所をまわり、手を合わせていました。

No.2 14/08/02 17:57
通行人0 

>> 1 1さん、貴重なお話ありがとうございました。

色々と考えさせらる話と体験談で、胸が苦しくなります。


今、自分や周りの人達がいるのはそう言うご先祖様たちのお陰だと思います。


私は、2ヶ月ほど前に広島に旅行した際、原爆ドームや史料館などを見て改めて戦争の恐ろしさ、人間の尊さを感じました。

No.3 14/08/02 18:30
匿名3 ( 30代 ♀ )

祖父は戦争で兵士(炊き出し係)だったそうで一番最後尾の方で被害はあまり無かったそうなんですが病気になり帰ってきたそうです。その後、祖父母は満州に渡り生活をしていたが戦争で日本が負け満州にはいられなくなり(見つかると殺される)日本に逃げて帰ってきたそうです。その時、祖母は赤ちゃん(叔父)を抱えて逃げてたんですが赤ちゃんが泣く度ビクビクしてたそうです。

No.4 14/08/02 18:45
匿名 ( ♀ jWGRi )

父と父の兄弟父の両親父の祖母がロシアから船で北海道に逃げて来る時
祖母が船の中で首かっ切って自殺したそうです

No.5 14/08/02 18:59
主婦5 

私の父は戦地には行きませんでしたが、軍人になりたかった人で、爆心地在住ではありませんでしたが原爆被爆者でもあります。

幼い内からお国のために働くのが立派なことと教育され、軍人になれる年齢までが待ち遠しかったそうです。
ですがその年齢が来て徴兵試験を受けるも、身体都合(幼い頃に縄をなう機械で指先を失った)で不合格。
戦争が酷くなって送り出す兵隊も足りなくなったことにより、再度受けた試験で合格したものの出兵する前に終戦となったそうです。

父は戦時中の話を聞いても、思い出したくないと言って話してくれる人ではありませんでした。
ですが病気で余命宣告をされた後、聞きもしないのに自分から戦時中の話を色々としてくるようになりました。

近所で遊んでいる時に米機が飛んできて、大きな木の下に隠れるも、その飛行機の開いた扉に立っていた米兵に見付かり、自分の方に銃を向けられたそうです。
「死ぬと思ったが、米兵も子供だから見逃したんだろう。今でも黒いサングラスを見ると思い出して不愉快になる」と言っていました。

父は造船所で働いており、ある日出来上がった船の試運航に同乗したそうですが、その時また米機が飛んできたそうです。
「船なんて間違いなく狙われる、俺もこれで終りだと思ったが、頭の上を通り過ぎて行った。その時はなんで攻撃されなかったかわからなかったが、恐らく原爆を落とす前の偵察だったのかも知れないな」と言っていました。

自分の死期が近付いたことで「俺は何度も命拾いをしてきたが、病気でこれまでか」と言いたくて話してくれたようです。

他にも、近所に爆弾が落ちて見に行くと、知り合いの家だったそうで、家の周りに肉の塊が飛び散って、それはそれは悲惨な光景だったとも言ってました。

こういう具体的な話は亡くなる直前にしかしませんでしたが、日頃から私達には「今お前達が平和に生活できてることを当たり前と思ったらいけないぞ。戦時中はいつ爆弾が落ちてくるかわからない恐怖に脅え、食べる物もろくに無いひもじい生活をしていたんだ。今の生活を当たり前と思わず感謝しなさい」と言っていました。

昔からそう言われ続けてきたお陰で、私は戦時中を知らないのに何故か体験したかのような不思議な感覚もあって、多少のことでは不満も感じない強い人間になれたと思います。

No.6 14/08/03 11:43
名無し6 ( ♀ )

父が18歳になったばかりの頃赤紙もらって兵士として召集されました

訓練所(どこかは失念しました)では新兵だったので凄い厳しくてそのころの事は思いだしたくなかったようです

訓練所でさえそんなんですから現地は想像を絶すると思います

召集される前は軍需工場で働いていてそこは夜に空爆受けた のですが

父は非番で被害には遭いませんでしたが

たくさんの同僚が亡くなり父は遺体の世話をしたそうです

16.17歳の頃です

私が学校で戦争の事を調べてくるようにと宿題など出され
父に話を聞こうとすると
あまり話たがりませんでした

辛すぎで思い出したくないようでした

そんな父ですが
独立国には自衛は必要と説いてました


戦争体験者も考えは一律ではないですね

父は今年5月に逝去しました



No.7 14/08/03 14:20
匿名7 ( 40代 ♀ )

亡くなった祖父が、戦時中を体験してます。大病を患った為、徴兵はされませんでしたが、飛行機(戦争用)を造る仕事をしてたそうです。
爆撃は少なかった場所だったみたいですが、空襲を受けてスレスレのとこで助かった、と聞いた事があります。
話がそれてしまいますが、私は実父とは仲が悪いんですが、戦争や大きな震災、台風などを経験した祖父の言う事には重みや実感が込もっていたので、素直に聞けましたね。
ちなみに私の両親も幼いうちに戦争体験してますが、空襲から逃げ回った話は聞いた事があります。

今の時代は恵まれすぎてるのかもしれませんが、絶対戦争なんて起きて欲しくないですよね。

No.8 14/08/05 15:43
通行人0 

皆様、遅くなりましたが、色々な戦争に関する体験など聞かせて下さり、ありがとうございました。


私事ですが、2ヶ月ほど前に初めて、広島に旅行に行き、そこで原爆ドームや史料館を見ました

私は東北の北の方でして、なかなかそう行った場所に今まで行けなくて、実際見たら改めて戦争の悲惨さ、人間の尊さなどを感じました


皆様の貴重なお話ありがたく見させて頂きました。

No.9 14/08/05 16:54
社会人9 

祖父が旧陸軍第4連隊で支那事変直前の
時の連隊長は石原莞爾でした

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