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私の半世

レス21 HIT数 3152 あ+ あ-

ぷりっつ( F5cjye )
13/10/27 23:07(更新日時)

私の半世を書いていきます。
思いついた事を書いていくので
時期はバラバラ。
だから読みにくいです。
私が自分とは?を見つける手掛かりに
なればと思っている。

覚えているのは
ベビーベッドの柵。
天井から吊されたメリーゴーランド。

保育園には0歳から預けられたらしいが
記憶にない。

とにかく手の掛からない幼児だったらしい。

母は父の舅、姑と同居していたが
父の働いた お金は一銭もくれなかったので
働いたのだと大人になってから
聞いた。

私が小さな頃は
母親が家に居ないと言うことが
珍しかったので とても寂しかった。

私は2歳前後で肺炎に二度ほど掛かり
生死をさ迷った。
医者も奇跡と言うほどの回復だった。

入院して体調が良くなった私は
大部屋にいた。
その頃 各自テレビ持参だった。

私も他の子ども同様
テレビに見入っていた。

ある朝 父と母が来た。
勿論お見舞いだと思ったが
テレビだけ持って出て行こうとした。

どういうことか分からず不安になった。
焦って「テレビどうするの?」と聞いた。

私は体調が良くなった気がしたけど
本当は駄目なのかと思ったのだ。

母は「他の子どものテレビ見てな!」と
一言言うと帰ってしまった。

不安は解消されないまま
大人しくよそのテレビを
見たことを覚えている。

結局それは退院前日だと
後でわかる。
何故明日退院だからだよ
の一言もなかったのか
今でも思う。

母は無口な人だった。
姑の虐めで無口になったのかと
思った時期もあったが
最近では 元々だなと思える。
父は自営で私が幼い頃は
仕事を貰うための接待と言う名目で
毎晩飲みに行っていたので
父と言うより怖くて近寄りがたい
おじさんと言ったイメージだった。

舅も姑も子どもが好きではない感じでした。
ただ父の妹たちの子どもは
それなりに可愛がっていたと思う。

私は一人っ子だから
寂しくて一生懸命
余り年齢の変わらないいとこの
面倒をみた。

父も舅、姑も話し掛けない状態で
2歳にして
言葉を理解したなぁと
思う。
唯一長所と言える。

それから記憶が飛んで
幼稚園。

ある日私は高熱を出して
母に迎えに来て貰った。

私を寝かしながらも
「全く!すぐに体調崩して!私は仕事だったんだよ!」と言われた。

熱は42度越え。頭がグルグルして
トイレにも立ち上がれなかった。
母に言ったが
「動けないなら寝てな!私は仕事行くから」
と言われた。

幼稚園で既に愛されている
自信はなかった。

次回続きはまた今度。



13/07/14 20:04 追記
全て事実。
もっと大変な人がいることは理解しているが
未だにトラウマになっているため、
書いているうちにスッキリ出来たらと
はじめました。

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No.1973352 13/07/11 08:01(スレ作成日時)

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No.1 13/07/12 07:50
ぷりっつ ( F5cjye )

続きです。

私は熱で母を呼び出すと
怒られるとまなんだ。

少しして
また体調を崩す。
動くことがしんどいけど
先生に知られると
また母を呼び出すことになる。
また怒られる!と思い
遊具の日陰で休み
歩いて家に帰って来た。
幼児の足で片道50分の距離。

歩いたせいか?38度であった。
私は頑張ったつもりだったけど
やっぱり母から怒られた。

肺炎、幼稚園では熱をたまにの状態だったから
母には虚弱体質と言う印象が
あったようだ。

小学校に上がり
私の通った学校の校風は
真冬でも半袖、半ズボンだった。

しかし虚弱体質と思われているので
学校でただ一人長袖、長ズボンで通った。
体操服が変にごわごわで
上下真っ白。囚人服みたいで
当時の私には苦痛であった。

嫌なんだけどと言おうものなら
「呼び出されるのは私なんだよ!体調崩したら
どうするつもり!?」と
言われたので反抗しなかった。

今思うと少しは親として心配してくれていたのかも?といい方に考えれば思えなくもない。

私のコンプレックスは
母がとても綺麗だったこと。
小泉今日子をハーフにした感じで
パッチリ二重が印象的。
そして頭も良かった。

小さな頃はヒラヒラとお洒落な
ワンピースを着る母を
自慢に思った。

しかし私は完璧に父親似。
完全に日本人顔。
お母さんと似てないね。
お父さんソックリ!と言われるたびに
コンプレックスは強くなった。

私の主人も母の若い頃の写真を見て
「当時はさぞかしモテたでしょう!」と
言ったくらいである。

また明日自分探し書きます。

No.2 13/07/12 15:17
ぷりっつ ( F5cjye )

母に愛されたい病は酷くなり 私が不細工だから
何やってもトロイから愛されないんだ
と ありとあらゆる理由を作り出していた。
小学校の時 一度も勉強を見て貰ったことは
ないが100点じゃないと頭を叩かれ続けてヒステリーに怒られた。自分は頭も悪いんだと
更にコンプレックスは大きくなった。

私は小学校一年から夏休みになると
お昼ご飯を自分で作って食べていた。
レトルトは嫌いな母だから フライパンで食品を炒めたりチャー飯作ったりしていた。
祖母は専業主婦で家にずっと居たが
全く何もしてくれなかった。
私も祖母のことは諦めていた。

傍らで夏休みにいとこが来れば面倒も見ていた。
いとこにはどうやら お昼ご飯がでるようだが
私には無いから 毎回作ったご飯を
二階でコッソリ食べていた。
いとこも 何故一緒に食べないのかは
聞かない。もしかすると祖母に
適当に何か言われていたのかもしれない。

夏休みが終わり学校からの帰り道近所の友人といつもの場所で遊ぶ約束をして別れた。
帰ると いとこが来ていた。
何か用事があって預けられたのか
祖母が呼んだのかはわからない。
私と遊びたくて来たのかもと思ったが
約束を優先させてしまった。
私はランドセルを置くと二軒先の空き地に向かった。
後ろから いとこがついて来ていたが
走っている私は気付かなかった。
後ろから「お前は この子を殺す気か!!」という祖母の怒鳴り声で振り返り気付いた。
ビックリして状況を把握しようとしたが
すぐに祖母は いとこの手を引いて帰って行った。
空き地で待つ友人達は凍り付いていた。
私も 恥ずかしかった。

だいたい、悪い奴には天罰がくだるとか
嘘で祖母は90歳を過ぎても痴呆がある以外は元気。祖母を嫌う私を天が試すように
ボケて私のとこにニコニコしてくる。
学生の時までに こんなに優しく
微笑まれていたら、嫌いになんかならなかったのに。ボケて いい人になるなんてズルいよ!

その頃母は離婚も視野に入れていたようで
部屋から話しを録音する機械が戸棚に隠されていた。
掃除の時見つけて母に聞くといざって時用と答えた。
時々姑と喧嘩しては実家に帰っていたが
私は母方の祖母が大好きだった。
離婚すれば母も楽になるだろうから
余り怒らなくなるかもと言う気持ちもあった。
結局思いも虚しく最後まで離婚しなかった。

その頃にはテストの点以外でも仕事から帰り
気にくわないことで叩かれたり怒鳴られていた。
内容はどこそこの○○ちゃんは頭がいい!とか
しっかりしているとかだった。
だから参観会があった日の夜は
最悪で比べられ怒られ続けた。

怒りが長い人だから必死に謝り続けた。
母は夜のテレビ、特にサスペンスが大好きで
だいたい始まるまで怒られていた

No.3 13/07/15 00:18
ぷりっつ ( F5cjye )

サスペンスが終わるのは11時。
毎朝6:30起床だったから、一年生の頃から
睡眠時間は約7時間30分だった。

毎朝起きるのが非常に困難であったが
それも出来ない私のせいと思っていたし
母も そう言って叱った。

更にホラーが大好きで小さな頃から観ていた。
それは私の息子にまで及ぶ。

幼い脳には良くないと説明しても
聞き入れない性分らしい。

小学校も3~5年生になると「仕事で遅くなる」と言って度々帰りが遅くなるようになる。
私は素直なに「お母さん、大変だなぁ。頑張っているんだ」と思い一人でも頑張った。

ある日母は思い切ったように
「一緒に行く?」と聞かれ本当に嬉しかった。

居酒屋に着くと一人の男が待っていた。
母とかなり親しいようだった。
そう言うことか…と理解したが
お父さんが居るのに!と言う思いはなく
私は一人で母を待っていたのに
男と会っていたことにガッカリしていた。

このことは未だに父は知らない。

No.4 13/07/15 00:51
ぷりっつ ( F5cjye )

その後、その男とはどうなったかは知らない。

母は度々私に出来の良い男だったり
父の会社の従業員と半ば強引に
くっつけようとした。

最初は中学一年の時の家庭教師。
次は二年の時。

最初の先生は ハッキリと付き合いたいとは
言わなかったが「身長比べ」と言って
私を立たせ、先生は目の前にたった。

余りに近すぎて〔5cm位しか間がない〕
思春期の私は一言で
気持ち悪かった。
ドライブにも誘われたが断り続けた。

母はかなり勧めてきた。
それが一層嫌だった。

母が先生の交代をしてくれないので
一年堪えた。
先生は卒業し、次の先生が来た。

安堵はつかの間。
今度の先生のほうが大胆で
デートに誘ったり、先生が卒業の時は
就職先に来て欲しい!と言われた。

変な虫がつかないように
後輩を交代で先生にさせるとまで。

今でこそ女の子も増えお洒落な大学になったが
当時は理系は男ばかりで焦っていたようだ。

当時13、14歳の私には24歳大学院、22歳大学卒業の人は考えられず(^^;)
母はイライラしていた。

就職先に行くように勧められ、助けてくれなかった。

次は社会人になってから。
22歳位の時、度々父の会社には顔を出していたが従業員が両親を通して一度デートしたいと言って来た。

私はその時彼が居るから無理だと告げる。
しかし母も引き下がらない。

母「一度でいいから!顔を立てると思って」
私「私は彼が居るからどうせ付き合わないんだよ!?誤解させたらどうするの?期待させて
実は無理って その人会社に居にくくなるよ」
母「大丈夫!一回行ってくれたら何とかなるから」と言われ
彼には一応報告して一回だけ行く事にした。
普通そんなこと頼まれてもする?と思うだろうが私は母に逆らえなかった。

当たり前だけどデートは一回で終わり
従業員は結局やめた。

母は ダメ元で会社の跡取りとなる
人を探していたのかもしれない。

大した家でもないのに
旦那探しされると、やっぱり引く。



No.5 13/07/19 01:11
ぷりっつ ( F5cjye )

こんな私だが全く逆らわなかっわけではない。

中学の時、さすがに母の言っていることは
理不尽なことが多い。体格も母より
大きくなったので「これなら勝てる!」と言う
勝算の元、逆らってみることに。

ある日何時ものように怒ってきた。
一言「クソババア!」と言った。

私が予想していた反応とは全く違った。

何と!一時的に狂ったのだ。
一階から刃物を持って私に突きつけながら
何やらブツブツ言っている。

結局刺されることはなかったが
しばらく怖くて枕元に小刀を置いていた。

更に半年ほどして
今回は我慢出来ずポロッと似たような
言葉を言った。

今度も何やらブツブツ言い出して
「○○の朝ご飯作らなきゃ」とか言ってる。
その時は夜なのに。

珍しく父が居たので助けを求めた。

母は脱力したまま連れていかれた。
しかし変な言葉は父の前では言わないので
あれは演技だったのであろうかと
今でも思う。

とはいえ、この一件から私の反抗期は
終わった。

結果的には母の勝ちであった。

No.6 13/07/19 22:29
ぷりっつ ( F5cjye )

中学生当時 私はまだまだ
楽天的で冗談など言って人間付き合いは
得意であった。

中学二年生の時 私の仲良くしている
グループの数人が
不良グループから ハブセに
なっている子を可哀想だから
入れてあげよう!と言った。

田舎だし人がかなり良かった。

私は割とシビアに一応優等生グループなのに
大丈夫?と思ったが

話してみると不良も ただの人間。
しかも優等生にはない、冗談も
言うので私と仲良くなった。

それが運の尽きってやつで
かなり気に入られた私は
彼女が元のグループから お許しがでて
戻るとき 一緒に来るように言われた。

しかし 私は家庭教師も母が必死につけている位だから
内申を悪くしてはいけないと思った。

丁重に断ったつもりだが
入らなのが むかつく!とイジメがはじまった

No.7 13/07/21 10:54
ぷりっつ ( F5cjye )

私の誤算は
不良の友人が案外早くお許しが出たこと。
それと来年になればクラス替えするしと
タカをくくっていた。

しかし担任は私といると
公正するかも?と思ったのか
不良メンバー全員とクラスが
一緒になり万引きしない私にイライラして
イジメに発展。

その頃には仲良かった昔のメンバーは
近寄らなくなった。

修学旅行で無理矢理同じグループにされ
現地でみんな走って逃げて
私は孤独。

それでも母には言えなかったし
何より今頑張れば!と堪えた。

でも不良メンバーが更なるイジメを考えたらしい。
私が煙草を吸ったと不良メンバー全員で
先生に言ってきたのだ。

私は全く知らず呑気に過ごしていた。

ある日校長室の掃除で皆〔掃除のグループ〕で先生の
ノートを見ちゃおう♪となり
コッソリ見た。

そこには私の名前が書かれており
日付、煙草を吸うと書かれていた。

勿論すぐに担任にどういうことか聞いた。

供述が複数人だったので
本当とされたこと。
既に内申は高校側に提出したから
今更撤回はむりだと言われた。

今まで頑張ってきたことは?
母はさぞかし落ち込むだろうと思った。

実際テストの点数だけなら
県のトップに入れる状態。

進路面談で先生があそこもここの高校も
無理だと告げた。

母は理由を聞いてくることはなかったし
謝ることも許さないかのように
教室から出るとワンピースを
ひるがえしながら一度も振り返らず
帰って行った。

高校の時、内申が悪いけどテストの点数は
取れている生徒の場合
隣県の高校に行かせることが
多いと知った。

しかし暫く母は口を聞かなかったし
仕方なく行ける高校に通うことにした。

そういえば卒業式の時、不良メンバーから
良い高校に行けなかったのは私たちのせい?
ゴメンね。と謝ってきた。

正直今更…と思ったが
「違うよ。大丈夫」と答えた。

今だったら「お前たちのせい!」と
言っただろうな。
耐えることにも慣れきっていたようだ。

No.8 13/07/21 23:15
ぷりっつ ( F5cjye )

高校生活

望んだ高校ではなかったけど
母からの「高望み」から逃れられて
まんざらではないかもと思った。

しかしストレスによる体調の変化は
すぐにやってきた。

中学の途中から怒られると
脳がギュッとされてる感じがあった。

酸素不足のような…
でも気にせず高校まできたら
私は突然倒れた。

高校にして持病持ちとなる。

母は結婚前から持病があるなんて
知られると不利になる。
絶対誰にも言うなと言った。
恥ずかしいとも。

自分は最悪の人間じゃん。
恥ずかしいまで言われて自暴自棄になった
時も一瞬あった。

No.9 13/07/21 23:29
ぷりっつ ( F5cjye )

小学生の時

近所の男の子と母の実家に遊びに行った。
祖母の家には猫が居た。男の子は
多分可愛がるつもりで猫に首輪、紐をつけて
散歩させた。

私はハラハラしたが、すぐに止めてくれたので
ホッとして その日は帰宅した。

夕方母が今日の出来事を質問攻めにしてきた。

正直に話したけど
祖母の猫が居なくなってしまったと言われた
母は祖母にかなり気を使ってたし
大好きなので 私は正座したまま既に自分だけ布団の中に入っている母に謝り続けた。

泣きながら 何回も「猫ちゃんゴメンね!お母さんゴメンね!お婆ちゃんもごめんなさい」と
謝った。

母は最後に「お前が猫の代わりに死ねば良かった」と言った。

後に猫は少し離れた所で
生きていたことが わかった。

しかし帰ってこなかったのだから
余程怖かったんだろうな…と改めて思った。

No.10 13/07/21 23:54
ぷりっつ ( F5cjye )

現在

主人と子供が一人。

主人も独立して仕事をしていたが
父の会社と合併したほうが
効率が良さそうと言うことで
一緒にやりだした。

社長は父。しかし実権を握っているのは
母だった。

一度子供が幼稚園に行きだしたので
母の仕事を引き継いだが
余りに バブルのまんまの会計に
「何で20~30万も飲みだいに使ってるの?明細不明は何?」と あれこれ
言ったので
会計はやらせて貰えなくなった。

月に家のローンとは別に主人の給料は20万だった。

普段は大丈夫だが税金などくると
払えない月もあったりして
母から貰うと言うかたち。


しかも借りた お金は母のノートに
キッチリ書かれている

主人とデスノートと呼んでいる

多分私が逆らうか何かした時いざって時用に
とっておいてあるのだと思う

父の妹たちと父の母を介護施設に
入れる、入れないでもめた時、
「私たちは姑のためにこれだけ使っている!」と
几帳面につけたノートを見せ何も言えなくさせた。

あれと同じなんだな…と思っている。

会社の仕事の7~8割は主人が仕事を
取ってきている。
帰りも定時に帰る父とは違い
8、9時まで残業している。

実権握られても社長は父だからいいけど
お金足りなくなった時「こんだけしてやってる」って態度が嫌だ。

それって主人が働いた お金ですよね?と
思ってしまう。

それから散財がすごいので
会社の借金を0にして
渡してくれるのか
老後の お金はとってあるか
心配!

母は事業していれば借金当たり前と
豪語している。
不安…

No.11 13/07/22 09:17
ぷりっつ ( F5cjye )

家の事情

給料は20万だが主人の保険料は5万近い。
私は1万弱。

会社で何かあった時困るからと
事業主向けのにと母が言ったからだ。

普段父が社長だよ!従業員は父を軽視し過ぎ
と言うけど 仕事をせずにパソコンで
ゲームしている。
しかも暇なのに営業も行かない。
会社は主人がきりもりしていると
言って過言ではないので
主人に何かあったら困るから!と
母は大きな保険に入れたのだ。

No.12 13/08/11 23:46
ぷりっつ ( F5cjye )

子どもが夏休みで家に居るので
なかなか書く暇がない。

今回は子ども

発達障害だと小学校行きだして
心理の人に言われました。

それまで やんちゃだけど普通と言われ続けていたので
癇癪や衝動、多動が激しかったけど
わたしの育て方のせいだと思っていた。

私のせいじゃないんだ!と思ったと同時に
この子をどう育てて行くかに焦点が
絞られました。

癇癪がとにかく酷いので
漢方薬をのませました。
漢方薬だけで1ヶ月22000円です。

昔よりは良くなりました。
酷い時は幼稚園児のとき
いきなりパニックになり
暴れまくり、髪は本気で引っ張られ
蹴るは叩くはで外出もままなりませんでした。
今でも癇癪はありますが
ブツブツ怒る程度になりました。

No.13 13/08/12 00:04
ぷりっつ ( F5cjye )

結婚

私はバツイチです。
最初の旦那は若い頃から長く付き合った人でした。
仕事一筋の人なので その辺は
安心していたのに
ある日会社を辞めて来ました。
私はなんとかして
働いて貰わないと!と
職種は問わないからと職安に行くことを勧めました。

仕事については辞め、仕事については
辞めるを繰り返し最後は行かなくなりました。

離婚半年前には私の稼ぎだけでは
生活が苦しかったので私の実家に入りました。

それがいけなかった!
甘えて職安さえ行かなくなりました。
私が仕事から帰るとゲームしながら
「お帰り」と言う始末。
何回か職安行ったら?と言ったら
ガッツンガッツンに殴られました。

目の周りは青く腫れ上がりましたが
両親には
階段から滑ったで通ってしまいました。
本当は助けて欲しかった。
しんどかった。

元旦那の何も考えていない
一言で離婚を決意しました。
「そろそろ子ども作ろうか」でした。
わたしが臨月になり働けなくなったら
どうするつもりなの?と怖くなり
実家を逃げ出していました。

No.14 13/08/22 11:10
ぷりっつ ( F5cjye )

離婚手続き

離婚はスムーズに出来ると思っていたが
現実は甘かった。

最初別居と言う形にした時
私の母が間違えて
私の通帳を元旦那に渡してしまった。

家裁から元旦那からお金の請求されている
ことを知る。
金額は私の通帳の金額分!

大した金額じゃないけど
独身時代やっとの思いで貯めたお金だった。

離婚は恥ずかしいから反対していた
両親は相談にのってくれることはなかった。

裁判所に長く通うことになる。

訴えられたほうは
犯人のような取り調べが
待っていることを始めて知る。

毎回家裁の人が違うので〔一緒でも覚えてないと思うけど〕
毎回今までの説明をした。

一番辛かったのは
そんな状態を面白おかしく
聞いてくる友人。

私の言い訳や辛かったことは話し半分で
、結局お金払うの!?と聞きたいのはそこ。
お金払う=やっぱり私に落ち度 と
思えているのが凄くわかった。

No.15 13/08/22 11:27
ぷりっつ ( F5cjye )

だから私は「絶対お金は払わない!この田舎では払うと私にも落ち度があると思われる」と
意固地になった。

一年近く仕事中 裁判所に通う生活をして
私は疲れきったが
何とか決着つけることができた。

元旦那の両親に手紙を書いた。
短い間だったけれど その御礼と
暴力されたので
医者から診断書を書いてもらえる。
裁判がこれ以上続くようなら
不本意だけど裁判所に提出すると。

半分脅しである。

だけど効果は抜群ですぐに家裁は
和解となった。

私は辛労とストレスから拒食症になっていた。
勿論私の両親は知らない。

とにかく辛かった。振り回されてる状態と
〔裁判かけておいて当日仕事だからと来たり来なかったりがしょっちゅう。元旦那は自分の家の仕事を継いだから自由かも知れないが私は
よそに働きに行っていたので休みをとるのが大変だった〕食べでも吐いてしまう恐怖。
トイレに駆け込む毎日だった。



No.16 13/08/23 08:53
ぷりっつ ( F5cjye )

離婚後

離婚が成立すると
両親が仕事で借金し、困っていると
相談される。
このままでは倒産になるかもと。

私は深刻に捉え 少ない貯金だけど
と全額貯金渡した。

使い道は後から聞いてビックリした。
車買っていたのだ。
接待の時車とか見られて会社の
経営状態をみられるから!と言い訳。

そんなの関係ないよ!と文句言ったら
逆切れ。
そんなんだったら金返してやるよ!と
叫ばれた。
お金は戻って来たけど、スッキリしなかった。

倒産とか嘘なのか?

No.17 13/08/23 09:03
ぷりっつ ( F5cjye )

現在

またしてもイライラしている事がある。

私は息子を産んだ後、新たに持病を抱えていた。
血小板が少なくなる病気である。

最初その病気は薬を飲まなくても
ギリギリ生活出来る程度だった。

途中母が近所でどんな持病にも効くらしいよ
と、訳分からんドリンクを買ってきた。
免疫力が上がるのだそうで、癌にも効くと
言われた。

母が珍しく気遣ってくれたのが嬉しくて
この飲み物大丈夫?と思いつつも飲んでしまった。

これが良くなかった。
私の免疫力が上がり、血小板を殺してしまう
細胞まで活性化したのだ。
一時は入院か?とまで
思えたが強い薬を飲むことで
何とか助かった。

そこから一生飲むはめになる。

何年もかけて薬を減らし
やっと子ども作れるよと言う段階評価にきた。
長い年月だった。
しかし長く掛かったので私も年をとり
今年がラストチャンスだからと言われた。

No.18 13/08/23 09:15
ぷりっつ ( F5cjye )

そんなとき
今年足の手術するから!と勝手に
決めて来た母。
足が小学校の時から外れやすかったのは
知ってるけど
子ども今年ラストチャンスだし。と
言うが
私も年とってくるじゃん!
で終わった。
しかも子どもなんて一人いるから
いいじゃん!だって。

人の人生お前がきめるな!

結局サッサと手術したので
母の病院に行ったり、家に残った
父の面倒をみたりで大変になった。
退院して来た今も動けるわけじゃないから
1日買い物して
三食分用意したり作っているイメージ。

勿論子どもなんか作るどころじゃない。

因みに訳分からんドリンクのことを
サラッと言ってみたが
そぅお~~??で終わり。
今では忘れていると思う。

私は自分も飲んでみようと思ったんだから
仕方ないと思っているが
薬により
顔がパンパンになり
体重増加が辛かった。

今でも面影残ってしまっているし、
辛く忘れられない。

No.19 13/08/25 01:05
ぷりっつ ( F5cjye )

私は一人っ子で寂しかったから
息子には兄弟を作ってあげたかった。

私も弟妹いたら、少しは寂しくないかも!と
思った事はあるが小学校高学年で
母の性格だと
弟妹が可愛かったり、頭が良かったら
私の存在なんて ただでさえ
薄いのに更に惨めになりそう…と思い
一人っ子でいいやと思った。

息子は幼稚園の頃、ファミレスなどに
行った時 近くのテーブルに兄弟で
遊びながら食べていたりするのをみて
自分も遊びに加わっている想像しながら
ニコニコ眺めていた。
それが忘れられず、
薬の減量に挑戦したのに。

私の人生って
毎回母に翻弄されてるような孤独を感じる。

あの時通帳を渡していなかったら
長く拒食症で苦しまなかったかも。
あの時変なドリンクをよこさなければ
私は顔が腫れ上がることも
強い薬を飲む事もなかった。
なぜ今手術なんだ!?とグルグルする。

私は母の事はある日まで
矢張り自分の親だし悪く考えたことはなかった。

私が働き出して、夕飯も作って両親を待っていると言うときがあった。
半人前ながら 大人になったつもりでいた。

だから「小さい頃怒られ続けて寂しかった」と
訴えたのだ。

私の考えでは
「辛い思いさせてゴメンね」だった。
私が息子に言われても、そう言うと
今でも思う。

だから母の「それが何だって言うのよ!?そんなこと今更持ち出して!私だって小さな頃
そうだったよ!」と叫ばれた。

それからです。
全て母のことを否定的に考えるようになったのは。

姑に虐められ、可哀想な母と言うイメージは
壊れ ただの自分勝手な子どもじゃない?と
思うようになった。

子どもなら許してやれば?と必ず思われる
んじゃないでしょうか。

でも私は今まで我慢出来ていたのに
それから出来なくなりました。

母も被害者かも知れません。
しかし祖母は自分が母にしたことを
今でも覚えていて悔やんでます。

私が子どもに言われたら 矢張りゴメンなさいしか出てきません

しかし母は悔やんでなんかいない。
自分を責める事も。
その性格がうらやましい。

No.20 13/10/27 22:43
ぷりっつ ( F5cjye )

現在

足の手術を終えたばかりで余り動けないのに
猫を買って来た母。

と言ってもネットで買って
空港まで引き取りに行ったのは
私たち夫婦。

しかもまだ動けないので
預かって欲しいと言うので
「赤ちゃんの時が一番大変なんだよね~。まぁ、可愛いけどさ」とグルグルしつつも
最後は母が飼うわけで責任はないし
安請け合いした。

その猫は来た当日から風邪を引いていて
クシャミしていた。
程なくして治ったが我が家の猫3匹が
次々掛かり毎日点滴に獣医に掛かりました。
一番酷い猫は1日2回の点滴でした。

猫の風邪とは人間で言うとインフルエンザに
近いそうで
体力のない猫は死ぬこともあるそうです。
死なないまでも
鼻炎が残ったり…と説明されました。

私が安請け合いしたから
この子たち〔一時期駄目かと思えた時も〕が
こんな辛い思いしてるんだ…と後悔しました。

9月の中頃やっと治療が終わりました。
長かったし毎日大変でした。

No.21 13/10/27 23:07
ぷりっつ ( F5cjye )

新しく来た猫

他の猫も風邪が治り改めて
よく観察してみる。

未だに走った後は口呼吸だし
お尻フリフリ歩いてるような?

最初母に報告したが
「子猫だからじゃない?」で終わったが
主人に相談したら
「俺も気になっていた」と言うので
再度いってみたら
即当日のうちに
獣医に行った。

勿論私も連れていかれた。
掛かり付けの獣医は
2時間待ちは当たり前の場所。

私は持病の強い薬を更に減らした状態で
疲れやすかった。

毎回1ヶ月もすれば
疲労感はなくなるのだが
今回猫の容態が思ったより悪く
他県の獣医を紹介され
行った結果、横隔膜ヘルニアと
骨盤の奇形。更に胸骨の骨も曲がっていて
数も少なかった。

横隔膜ヘルニアは緊急手術しなければ
いけないと言うので次の週の月曜日
手術になった。
手術当日も3時間掛けて現地に行き
立ち合ったりで
バタバタしたせいか〔毎日の点滴で疲労困ぱいしていたのに また!?だったからだと思う〕
未だに疲労感や手足に内出血として
症状がみられる。

でも重病でも何年も患っていると
誰も気にしなくなってくるし
私も「重病人」と思われたくないので
無理をする癖がある。

猫の病院でバタバタ、ヨレヨレしていた時
友人が鬱になったので
話を聞いてあげたりと〔汗〕
自分を酷使していた。

内容がうまくまとめれなくて
すみません。
近況まで。

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