地獄に咲く花~I'll love you forever~
例え、世界が限りなく終わりに近づいて。
目の前の全ての事象が存在意義を失いかけたとしても。
私はこの世界を愛し続けるでしょう。
だって
世界というものは、こんなにも美しいのですから。
――A.omega
※このスレッドは後編となっています。初めて御覧になる方は以下のリンクから前編、中編を読むことをお勧め致します。
前編
http://mikle.jp/thread/1159506/
中編
http://mikle.jp/thread/1242703/
そうだった。
その大きすぎる運命の歯車がゆっくりと回り出したのは、この時からだった。
私はすっと目を閉じる。
そうすると瞼の奥で、今まで自分の中で固く閉ざしていた記憶が鮮やかに蘇っていくのが分かった。まるでこの手で触れることが出来そうなくらいに――
ズ………ン
空間が揺れた。
その感覚はうまく表現できない。けど確かに感じた。何か、とても重い衝撃波がゆっくりと全体を揺らしたような。私は拭うことも出来ない涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「…ぇ…?」
『カプセル』をもう1度見てみると――オメガの沸騰が止まっていた。そして、私は中のルチアの姿を見て息を呑んだ。
何故なら、
「…!!」
ルチアの目が
開いていたのだ。
それはとても静かな眼差しだった。ボロボロに千切れた体を痛がる様子もなく、ただ真っ直ぐ前を見つめている。
私はそれで、希望を垣間見た。
「ああ、やっとルチアが目を醒ましたのだ」と。
体がオメガ溶けるのも止まっているし、今からでも体を直してあげることが出来れば、ルチアはまたリタに会えるかもしれない。そうすれば、きっとルチアは想いを伝えることが出来る。もう『カプセル』の中でずっと寂しい思いをしなくても済む。
ルチアは助かったのだ。
そんなぼんやりとした考えに、私は藁にもすがるような思いで逃避したのだった。その希望が幻でしかなかったと気付くのは本当にすぐのことだった。
その内、私は違和感に気付いたのだ。
まずルチアの顔がやけに青白い。青白いというよりも、真っ白に近い感じだ。いつも研究所で見る書類の色よりも白く見える。それに、綺麗な金色だった長い髪まで何だか銀色っぽくなっていた。
しかし、これらはまだ些細な事の方だったと思う。問題は、目の色だ。
初めて会った時は1番印象的だった。彼女は透き通るようなブルーの瞳だった。
けれど、今。
「…ルチア?」
遠くからでもはっきりと分かった。彼女の青い瞳が、赤く変色していっている。その赤はどんどん濃くなり真っ赤な血の色に近づいていっているような気がした。
「ねぇ…どうしたの…?」
そして瞳が完全な赤に染まりきった時。予想通り、それは血の色と同じになった。どこまでも、どこまでも赤い色だった。
「ルチ…、」
私の呼びかけは
そこで途切れた。
バキバキバキ!!バキン!!!!
突然、物凄い音が聞こえた。それは今までに聞いたことのない異様な音。複数の骨が一気に折れて、砕けたような音だったと思う。
「えっ…?!?!」
その音が鳴った原因を見て、私は目尻が裂けそうな程に目を見開いた。その後は、もはや叫びも上げられなかった。
ビーッ!ビーッ!
ブザーがけたたましく鳴り響き、赤い光が部屋全体に明滅した。
『……!……!!』
天井のスピーカーから何やらバタバタしている音が聞こえる。それはこの部屋を囲む別室で起こっていることだろうと思う。私の所から見える何人かの研究員は、椅子から立ち上がって驚いた顔でこちらを見ていたり、忙しそうに右往左往に駆けたりしていた。
きっと私の真後ろには、まだマルコーがいる。
しかし私には彼が今どんな顔をしているかを確かめる余裕なんてなかった。私は『それ』を凝視したまま、微動だに出来ないでいたのだから。
バキッ…バキバキ!!
「……、」
どう考えてもおかしかった。『それ』はついさっきまでルチアだった筈なのに。ちゃんと人間の形をしていた筈なのに、今は違う。
あれは何なの?
どこが胴体で、どこが手足で、
どこが頭のつもり?
目の位置だけは分かる。白い所まで赤く染まった2つの眼球が、きょろきょろと落ち着きなく動いているから。けどそれ以外は、訳の分からない白い肉の塊だ。
『それ』は常に形が変わり、何かに成長しようとしているように見えた。
成長は急速に進むようだった。ぶちぶちと赤い肉が引きちぎられたかと思えば、そこから新たに白い肉が生まれたりしている。そうして今や元のルチアの体は完全に無くなり、異形のものへと変貌したのだった。
「……っ……」
息が出来ない。吐き気もこみ上げてきて、私は思わず口を手で覆った。
『それ』は、一応人型を作ろうとしているように見えた。さっきまでとは違って、腕や足が形成されてきている。けれどどちらも有り得ないくらいに長い。しかも腕に関しては、肩と思われる部分から3本くらい伸びていたりした。それらは胎児のように、足を抱えるようにして折りたたまっていた。
見れば、背中からは何か小さな鳥の羽のようなものも生えてきているのが分かった。それは他の部分より一際早く成長するようで、10秒程経った頃には全身を覆えるほどまでに大きくなってしまった。
そして最後には頭が形成されるようだ。剥き出しの赤い眼球が顔の位置に固定され、口を作るためにのっぺりした皮膚が裂けていく
――が。
バク!!!
突然、『それ』の口は勢いよく開いた。まだ裂けてない皮膚を無理やり剥がして、顎がはずれたのではないかというくらいに大きく開いた。中に人間のような歯並びが見えて、それが逆に気持ち悪かった。
そして次の瞬間。
オオオオォォォォォン!!!!!
『それ』は叫び声のようなものを上げた。その声は大きな見えない波となって空間全体を異常に振動させた。
ビシビシビシビシ!
叫び声と殆ど同時に『カプセル』のガラスがひびだらけになった。そして叫び声は私の耳にも届く。
キ………イイィィィィィン!!!!
「!!…っあ、ぁあああ!!」
オメガ特有の鋭い音波が混じった音が聞こえた。今まで研究室でオメガを扱う時にも同じ種類のものを毎回聞いていたけれど、今回はそんなものとは比べものにならない。あまりに常軌を逸した音だった。私はそれを聞いた瞬間全方向から頭を思い切り殴られたような衝撃を受けて、声を上げられずにはいられなかった。
「あああ、ぅあああ…っ!!」
耳を塞ぐことも出来ずに、私はその場にへたり込む。叫び声が終わっても物凄く強い頭の痛みが持続していて、気が狂ってしまいそうだった。私は必死に自分を保とうとして顔を歪める。
バチバチバチ…バヂ!!!
次に『カプセル』の上に繋がっている無数の太いコードが放電した。青く鋭い光がコードを伝ってどんどん広がっていく。それはコードを通して、あの衝撃がどこかに伝えられているように見えた。
あれらはどこに繋がっているのか?コードは全て、狭い壁の穴を通って外へ繋がっていた。
どうやら別の部屋に通じているようだ、と思った時。私ははっとして、がんがんと痛む頭で天井のモニターをゆっくりと見上げた。
視界がぼやけている。それでも目を凝らしてみると、モニターはさっきと変わらずに試験棟の『カプセル』が並んだ部屋を映し出していた。その1つ1つは、この部屋のものと同じ様に上部にコードが繋がっているのが分かる。
そして。
バヂ……ッ!バチバチバチ!!!
1分も経たないうちにその部屋で放電現象が始まった。やはり、この部屋の『カプセル』とあれらの『カプセル』は繋がっていたのだ。
すると、今度は放電現象を起こした『カプセル』の中のオメガが一斉に発光し始めた。鮮やかな緑色の光がその部屋全体をぱぁっと照らし出す。それは不気味さを通り越して、どこか神秘的な雰囲気さえ漂わせていた。
「何なの…あれ…」
殆ど掠れた声で、私がそう呟いた時だった。
ガッシャーーーーン!!!!
「?!?!」
突然の大きな音に、私はビクッと肩を震わせる。
その音はすぐ目の前からした。私がモニター画面から目を離し、そちらを見てみると――
ドバドバドバ…
ルチアの『カプセル』のガラスが、粉々に砕け散っていた。ガラスの破片は床いっぱいに散らばっている。そこへオメガが、壁を失った『カプセル』からまるで滝のように流れ出していた。オメガは私の足下まであっという間に濡らし、私はそのひんやりとした感触を足の裏から味わった。
けれど私はそんなことは全く気にも止めずに、
「……あ、ぁ……」
ただ『カプセル』から解き放たれた、その不思議な生物を見ていた。
ずるり…
どうやらまだ立てないようだった。その生物は、まるで蜘蛛みたいに何本もある長い腕を折り曲げ、這った姿勢になっていた。背中から生えているぐっしょりと濡れた羽が、床を引きずっている。
生物は『カプセル』をまたいだ状態で、ガラスの壁の割れた部分が腹部らしき場所に刺さっていたりしたが、痛がっている様子は全くなかった。
そして、顔は真っ直ぐに私の方を向いている。
「…や、だ…」
私は床に崩れたままだったが、足を使ってその場を必死に後ずさろうとした。どうやったって今の私に逃げ場はないと分かっていても。
見れば私をしっかりと捉えているその眼球はすっかり血濡れになっていた。赤い血はどんどん内側から溢れてきて――やがて、
「!」
血は、涙の様にその頬を伝った。
涙?
あれが…ルチアの涙だとでも言うのだろうか?あんなに、真っ赤な涙が?
その時、私は変な感覚におそわれた。
「――え、」
私は何が起こったか分からず、小さく声を出した。あの涙の赤が異常に鮮やかに私の目に映ったかと思えば、
「うっ…」
その赤は私の視界の全てを一瞬にして埋め尽くしたのだ。世界の全てが、赤く染まって見えた。
どくん。
これは何だろう。足元が浮くような、現実が現実で無くなるようなこの感覚。しかも、またオメガ遺伝子が呼応している。
どくん。
同時に流れ込んでくる。とても激しい、怒りのような感情だ。ルチアの心が怒りに染まっているのだろうか?でも今となっては、もはやあの生物がルチアなのかどうか私には分からない。
どくん…
ただ、これだけは言える――私が今感じているこの怒り。きっとあの生物は全てを壊すつもりだ。現実の、全てを。
そうして赤い世界の中で、私の心もその怒りに染まっていった。今この時なら何でも出来そうな気がした。少なくとも、何かを壊すことに関しては。
『…素晴らしい…』
スピーカーから響いたその声に、私はぴくりと反応する。後ろにゆっくりと振り向いてみると、マルコーがガラス越しに身を乗り出してあの生物を凝視していた。ブザーがうるさく響きわたり周りがパニック状態になっているというのに、その中でただ1人。その目は爛々としていて、表情は歓喜に満ちているように見えた。
(…っ!!)
ぶわっと怒りが湧き出てくる。
今の彼は、私にとって格好の獲物だった。
そして私がどうしたかと聞かれると、うまく答えられない。でも強いて表現するとしたら――私は『念を飛ばした』。
イメージは何でもよかったと思う。ただその瞬間、私はそこにあるものが燃えて無くなるようなイメージをした。
すると。
パリーン!!
ガラスが割れた。鉄球が勢いよくぶつかって割れたように、沢山の細かい破片が宙に舞う。マルコーは驚いたようで、腕で顔を庇いながら急に身を屈めた。
そのせいだったのだろうか。
ゴオオオオオォォォ!!!!
「?!、うああああああぁぁ!!!」
私の念は何も無いところから炎を生み出し、焼き尽くした。――マルコーの、すぐ後ろに立ち尽くしていた研究員を。どうやら、狙いが外れたらしかった。
「……?!アンジェリカ…っ」
ルチア博士が、真っ黒な燃えカスになった研究員を、信じられないような顔をして見ている。けれど私はそんな事は全く気にせずに、次に私の手首を縛っているコードに意識を向けた。
ゴォッ!
するとコードは簡単に焼けて、私の両手は自由になった。
その時――
キィ……ン
唐突に、私の視界からすぅっと赤い色が消えていった。世界は元の色を取り戻し、私はふわりと現実世界へと戻ってくるような心地を味わった。
「?…」
戻ってきたその瞬間、
私の記憶は飛んでいた。
(今、私はどうなったの?私は、何をした?)
でも。
辺りに散らばったガラスと、立ちこめている何かが焦げたような臭い。それに、ルチア博士の蒼白な顔を見て――
「え…私、」
すぐに、
その記憶は私の元へと帰ってきた。
「?!?!」
私は解放された両手で自分の頬を抑える。そして、今更のように恐怖に震えた。
「…違う、わ、私…!!」
しかし、私にはいつまでも初めて人を殺してしまったことを嘆いている時間は与えられていなかった。生物は、さっきから折り畳まれた背中の羽をゆっくり、ゆっくりと広げていたのだ。
そして今。
バサッ……!
翼が完全に広がった。それは巨大で、両方の羽がこの部屋の隅に触れているくらいの幅がある。勿論高さも、身の丈以上はありそうだった。
生物は四つん這いの姿勢からぬらりと起き上がり、2本の足で立った。真っ白な肌を血涙で汚した両目は、まだ私を見つめている。
私は、未だに動けないでいた。立ち上がろうとしても足が強張って。
この場から逃げないといけないと分かっているのに。それは丁度横断歩道を渡っている最中、横から猛スピードで車が突っ込んできた時に体が固まるのに似ていた。何も考えている余裕はなかったけれど、多分真っ先に私が殺されるのだと体が認識していたのだと思う。
けれど、そうはならなかった。
次の瞬間。
「ゥオオオオオオオオォォン!!!!!」
再び生物は吠えた。さっきと同じ様にして、ばっくりと口を開いていた。
キイイイイイイイイィィィン!!!
今度は『カプセル』のガラスが無い状態で、直接その音は部屋に響きわたる。それに伴った耳鳴りが脳天を突き刺し、脊髄まで貫いたような気がした。
「っ……!!!!」
もう悲鳴の1つも上げられなかった。全身の感覚が麻痺して――
どさ。
私は床に、座った姿勢から倒れた。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!!!!
バキッバキバキバキ!!
2度目の叫びで今度は部屋全体が揺れ動いた。床に大きなひびが入ったり柱が壊れたりして、部屋の形は忽ち大きく歪んでいく。
「こいつ…化け物だ?!」
「くそっ何が起こってる?!試験棟からの応援を要請しろ!!」
「マルコー教授!早くこちらから逃げ…ぎゃあああっ!!」
パニック状態はピークへと達したようだった。多分飛び散ったガラスの破片が体に刺さったり、瓦礫が上から降ってきたりしたのだろう、辺りでは沢山の研究員の悲鳴がこだましていた。
けど、それらさえも私にとっては遠くの出来事のように思えた。私の意識はもうどんどん薄れていっているのだから。
「…?!試験棟からの応答がおかしいです!」
「何、どういうことだ!」
「分かりません……、おい、どうした?!応答してくれ!!何かあったのか!!」
もう私には訳が分からない。
何もかも。次第に辺りの喧騒なんてどうでもよくなってきた。
ルチアは、人間ではなくなってしまったのだ。彼女だけで悲しみを抱いた末に。そして現実を壊す。まずはこの研究所だろうか?
バサリ!!
背中の翼が大きく羽ばたく。
そして次が、私が見た最後の光景だった。
ズン!
空間が1つ振動すると同時に、生物はふわりと浮き上がった。まるで重力の法則に従ってないかのように宙に静止して、広げた羽をゆっくりと水平に伸ばす。
「ルチ…ア…」
私はその姿にある種の神々しささえ感じた。今までルチアと過ごした日々が頭の中に駆け巡って、再び涙がこみあげてきた。
「…リタ…」
私は霞んだ目を閉じる。すると、頬に暖かい涙が伝うのを確かに感じた。
「おい…あれ、こっちに来るんじゃないか?」
「なっ――」
「お前達、そこから離れろ!!!!」
……ヴン!!
ドガッ!!!!
ガシャーーーーン!!
…ガラガラガラ…!!
「うあああぁ、あ…ぁぁぁ!!」
「止めろ、こっちに来るなああああ!!!」
―――
「そう、意識を失う前に聞こえたのは――轟音と悲鳴だけ。」
ルチアは薄暗い廊下を比較的速く歩きながらそう言い捨てた。薄暗いと言っても、廊下の構造ははっきりと目視できる。辺りの壁にはまるで血管のように無数の線が走っていて、全ての線が怪しく緑色の光を発しているのが明かりになっている。
「…どういう、ことだ。」
ジュエルはそれについて行きながら、混乱したように低く呟く。ルチアはあまり間を入れずに返した。
「オメガプロジェクトは元々、『ルチア』というオメガ遺伝子を核にして『オメガの因子を組み込まれた被験者達』をオメガへと変換するマルコーの計画のことだった。
それによって膨大なオリジナルのオメガを生み出すことが出来れば、地球の環境条件が自分の手でコントロール出来るという考えだったのかもしれないけど。
それが失敗した。…それだけのことよ。」
「ジュエル。この時試験棟の被験者達はどうなったか、予想はつくかしら。」
アンジェリカがそう問いかけると、ジュエルは沈黙する。しかし、答えに気付くのにさほど時間はかからなかった。頭の中でパズルのピースがぴたりと組み合わさる。
「…まさか。」
その時ジュエルは目を丸くした。するとアンジェリカはちらりとジュエルの方に振り向いて、小さく頷いた。
「そう。これが、20年前の人造生物が放たれた日の出来事だったの。」
「!…」
「オメガプロジェクトの核だったルチアの原因不明の変容は、被験者全体の変容にも繋がることとなった。多分、ルチアの『カプセル』と被験者の『カプセル』を繋ぐコードが放電した時に事は起こったのだと思うけど。」
「人造生物となった被験者が…その棟にいた人間を喰い殺し、世界中に散った。」
「ええ。後は今の貴方が知っているとおり…っ、」
ルチアは一瞬だけ立ち止まったが、1つ息を吸い込むと再び歩み出した。
「記録では…研究所を脱出できたのは私と、ルチア博士とマルコーだけということになってる。ルチア博士は脱出した後、人造生物の生命エネルギーに魅せられたマルコーに色んな実験に協力させられたらしい。
マルコーは、人造生物からならより多くのオメガが得られると考えたのよ。だから彼はとある刑務所の囚人達や、『国』が裏で手を回して外の土地から集めてきた『スレーブ』という人達を使って人造生物の実験を繰り返していたの。」
ジュエルは瞬時に思い出す。ルノワールの地下刑務所と、ヴァイスと刀を交えたゴーストタウンの風景を。
「それに…新しいオメガ遺伝子を作るために、ルチア博士に子供を作らせたとも聞いた。」
それを聞くと、ジュエルはぎゅっと眉間にしわを寄せる。そしてあの2人の名前を呟いた。
「ロイ…ジルフィール…」
「ルチア博士が自分からそうしたのか。それともそうでないのかは、未だに分からないけれど。」
「アンジェリカがそこまで内部の事を知っているのは、」
「当然。私は目を醒ました後、既にマルコーの手の中だったから。――もう…逃げられないようにされてしまったから。」
すると、アンジェリカはまた立ち止まる。今度は廊下に真っ直ぐ伸びている手すりに片手をかけていた。
「洗脳…か。」
「そう…、オメガの音波を使って。最初はただの遺伝子の予備だったけど。気が付いたら、私は戦う人形になっていた。貴方達を始末するための…、」
ジュエルはそこで気が付いた。
「?」
アンジェリカが息を切らしているのだ。手すりにかけた手で体を支えて。それにもう片方の手は肩を抱いていた。背中を丸めて――小さかったが、確かに肩を上下させている。
「アンジェリカ、大丈夫か。」
「っ……何でもない。気にしないで…すぐに治るから。」
「?…」
それから、アンジェリカはしばらくそのままだった。息遣いは細く、どこかが苦しそうに見える。
「おい…。」
ジュエルはもう1度声をかけようとしたが、
丁度その時、彼女は手すりからすっと手を離した。
「…ごめんなさい。先を急ぎましょう。」
それからアンジェリカはゆっくりと息を吸いながら、曲がっていた背を伸ばした。
「もうすぐで目的地に着く。そこには『彼』がいるはずだから…戦いの準備をしておいた方がいいでしょうね。」
「『彼』?」
すると、アンジェリカはジュエルに顔を向ける。そこには多少疲れの色が見えていたものの、目の色はまだはっきりとしていた。そしてきっぱりとした口調でこう言った。
「貴方の模造品よ。」
ジュエルは思わず眉を潜める。
「俺の模造品?」
「通称『リタ・コンピューター』。リタが作り出した、『知識』としてのもう1人の自分自身――そうマルコーが言っていた気がする。コンピューターの本体を実際に見たことはないけれど。『彼』はきっと、後から本体に入力されたプログラムで遠隔操作されている人形にすぎない。」
「リタが、何故そんなものを…。」
「それは、私が貴方に聞きたいくらい。いつ作ったのかも、何のために作ったのかも分からないわ。」
ジュエルは苦々しい表情を浮かべた。リタとしての記憶が全く残っていないのだから、無理もない。ジュエルは片手を顔に当てて、髪をくしゃりと握る。
「リタは一体何を考えていたっていうんだ。何より、何故「必ず守る」と言いながら2人を守れなかったんだ…。」
「……。」
アンジェリカは、どこか切なそうに目を伏せた。
「――俺は――」
「その鍵は多分…『彼』が握ってる。この可能性は低いかもしれないけど、過去に貴方が自身の全ての記憶を、リタ・コンピューターに託したかもしれない。」
「記憶を、託す?」
「データとして保存することは、不可能じゃないはず。その後、貴方は記憶が白紙に戻った状態で『ジュエル』として生まれ変わった…どんな方法を使ったか見当もつかないけど。」
アンジェリカが最後に言った言葉で、ジュエルは少しはっとする。その時、ある人物の存在を思い出したのだ。
「――ルチア。」
「え?」
「ルチア、だ。」
「それは、ルチア博士のことを言っているの?」
「そうだ。アンジェリカ、これは知っているか。俺達強化人間を作ったのは、ルチアなんだ。」
「えっ?」
アンジェリカは目を丸くする。どうやら知らなかったようだった。そして、かなり驚いた様子でこう聞き直す。
「ルチア博士が、貴方達を作った?」
「ああ…。もし俺がリタであるなら、リタはルチアによって生かされたことになる。それもマルコーの目をかいくぐって。」
「!」
「話によれば、マルコーにとってオメガ遺伝子を隠していたリタの存在は邪魔でしかなかったはずだ。そのマルコーの実験に協力しながら、ルチアはリタを生かした。」
「なら…じゃあルチア博士は、リタを裏切ったわけじゃなかったということになるの?」
ジュエルは首を静かに縦に振った。
「リタ、それにルチアには何か目的があった…そう考えられるかもしれない。」
それからアンジェリカはしばらくジュエルの目を見たまま沈黙していた。しかし、やがてすっとそこから下に目を逸らすと、細い声でこうジュエルに呼びかけた。
「ねぇ。リタ。」
「…!」
ジュエルはぴくりと肩を動かす。
その後は何も言えなかった。言いたいことはあるが、何故か喉に引っかかったようにして声が出て来ないと言ったような感覚だ。
気がつけばアンジェリカは俯いて、今どんな表情をしているのか分からなくなっている。悲しんでいるのか、怒っているのか――無表情なのかすら分からない。
もしかすると、それがジュエルの声を出させなくしている原因だった。
「私にはいつだって、貴方が何を考えてたのか分からなかった。…今だってそう。貴方がこんな姿にまでなってまで何を成し遂ようとしているのか、私には分からない。
私は貴方の優しさとひたむきさに惹かれてた。だから、私は貴方の力になりたかった。
けれどね…結局私には何も出来なかった。ただただ守られて、貴方の荷物になっていただけ。終いには友達も――自分すらも守れなかった。
こんな私が今更、ずっと1人で戦ってきた貴方に何かを言うなんておかしいと思うかもしれない。
………でも。」
そこで、アンジェリカは視線をジュエルに戻した。
「――1つだけ。貴方に願いがある。」
その眼差しは真剣という2文字だけでは表しきれない。まるですがるように、あるいは訴えかけるようにしてアンジェリカは続けた。
「ルチアは、きっとまだ生きてる。例え人間ではなくなってしまったとしても。自身とは別の存在になってしまったとしても。きっと、どこかでまだ貴方のことを待ち続けてる。
私には分かるの。
だから、リタ…。」
その時、アンジェリカはジュエルの両肩をそっと掴む。
ジュエルはその手の温もりを確かに肩で感じた。強めに握られる感触で、そこから彼女の必死さがひしひしと伝わってくるような気がした。
ジュエルはアンジェリカよりも少し身長が低く、その分アンジェリカが屈んで目の高さを合わせた。互いに見つめ合うだけの時間が生まれ――そして。
「1度でもいい。ルチアに…会ってあげて欲しい。」
静かに、けれど強さを秘めた口調で彼女は告げた。
「何も覚えて無くたっていい。ただ…ルチアの前にいてくれるだけでもいいから。」
「アンジェリカ――」
「お願い、だから……」
ジュエルは、彼女の頬に一筋涙が伝っているのを見た。
「――分かった。」
ジュエルの一言に、アンジェリカははっとした表情を浮かべた。
「俺は『ルチア』を探すよ。今はきっとそれくらいしか出来ない。俺には、まだ『答え』が出ていないから。」
「…ジュエル。」
「すまない、アンジェリカ。」
「……っ、」
1度細くすすり泣くと、アンジェリカはジュエルの肩から手を放した。そして片手の甲で涙を拭う。
「『ルチア』を探して、会うときまで。俺は必ず『答え』を見つけてみせる。自分が何をして、今何をするべきなのか。必ずだ――だから、もう泣かなくていい。」
「!」
その時、ジュエルは僅かだったが微笑みを浮かべていた。本当に微量、よく見ないと分からない程だ。けれど、アンジェリカにはそれで十分だった。
アンジェリカはその微笑みをかつてのリタの面影と重ねた。すると再び、初めて会った日や研究所での記憶が次々と思い出され、溢れそうになる涙をこらえる。
「ありがとう。…ありがとう…」
それから少しして、ジュエルは下の方を見てぽつりと尋ねた。
「なあ、アンジェリカ。『ルチア』はどこに行ったと思う?心当たりはあるか…?」
すると、
「心当たりは……無くはない。」
「え?」
返ってきたその意外な答えに、思わず顔を上げる。アンジェリカは最後の涙を拭った。
「彼女は、」
その時だった。
ゴゥン…!
『?』
その音に、2人は同時に反応した。
ウゥーーーーン
何かの機械が起動するような音が、廊下全体に響き渡る。しかも、それだけでは終わらなかった。
「…これは…?」
ジュエルは辺りを見回す。何故なら、廊下の壁全体に走っている線の光が、とても強い蛍光を発し始めていたからだ。気付けば鮮やかな緑は、空間を眩しい程に照らし出していた。
アンジェリカは呆然とした様子で立ち尽くしていたが、やがて表情を強ばらせて言った。
「…まさか…もう始まるっていうのっ?!」
そして。
ダッ!!
アンジェリカはその場からきびすを返して、廊下の奥へと走り出した。
「?!、おい!」
ジュエルもあわててそれに続く。
2人の足音がそこに乱れて響いた。
「どうした?アンジェリカ、これは何が起こっているんだ?!」
「あの時と同じ。」
「え…?!」
「リタ・コンピューターは同じ事をしようとしているのよ。マルコーに入力されたプログラムによって!」
「同じって、…まさか!!」
「そう。今度は生命エネルギーの高い人造生物を使ってオメガを作ろうとしている。それも、あの時とは桁違いの数を変換しようとしているわ。それをさせてしまったら…多分、制御しきれなくなる。」
「どうなるんだ?」
「それは分からない。けれどとにかく急がないと…貴方の仲間が消えることになってしまう。」
瞬間、ジュエルの背筋に冷たいものが走った。
「……ロイ!!」
廊下はさほど長く続かないうちに、比較的広いスペースへと出た。その円形の部屋の突き当たりに、今までで1番大きな扉があった。2人はそこで立ち止まる。重厚な金属で出来ている扉は2人の前に立ちはだかって、全く開く気配はなかった。
しかし。
「下がってて。」
アンジェリカはそう言って、右手で軽くジュエルを制しながら1歩前に踏み出す。その時アンジェリカの瞳の色が急速に赤に染まっていき――
ゴオオォ!
直後、アンジェリカの前に大きな熱気が生まれた。赤い空気の塊のようなものが目に見える。その塊は扉の方へゆらりと進み、
ジャッ!!
ぶつかる。それから熱気はどんどん扉を溶かし、浸食していった。そうして全てを溶かしきるまでには10秒もかからなかったかもしれない。
ドシャ、ドシャリ!
かつて扉だったものは灰色の液体となって床に広がり、少しの時間で冷えて固まった。
それを見届けたように、赤い瞳はすぅっと元の色に戻った。
「っ――はぁ、はぁ!」
するとアンジェリカはがくりと折った両膝に手をつき、思い出したように息を切らし始めた。見れば、さっきよりも激しい息遣いだ。
「アンジェリカ!」
ジュエルはそこに駆け寄ろうとしたが、アンジェリカはまたそれを片手で制した。
「アンジェリカ、さっきから一体どうしたんだ。」
「私は…大丈夫だから。」
「そんな状態で大丈夫なんて言えるか!」
「っ…ジュエル。」
アンジェリカはよろりと背を起こした。見れば、その頬には大量の汗が流れている。そして苦しそうな呼吸を繰り返しながらも尚言葉を紡ごうとしていた。ジュエルはそれを見ると、何か耐えきれなくなった様子でこう言った。
「アンジェリカ、もう今はしゃべらなくていい。お前はここで休んでいろ。」
しかし。アンジェリカはそこで息をぐっと飲み込むと、首をゆっくりと横に振った。今にも倒れてしまいそうな程に肌は青くなっている。
「ジュエル、……私には、やらなければならないことがある。」
「だから!そんな状態じゃ――」
「聞いて!!」
「!」
「もう、時間がないのよ…いい?ジュエル。貴方はこの先の部屋にいる『彼』と戦って……少しでも長く、時間を…稼いで欲しいの。」
「時間?」
「そう。…その間に…私がリタ・コンピューターの本体の稼働を止める、から。…ここから右に行ったところに。コントロールルームがあるって…聞いたことがあるのよ。」
アンジェリカは目配せする。するとその先には確かにもう1本、大きな部屋の入り口とは別に小さな道が伸びていた。
「そこでリタ・コンピューターを止めることが出来たら。中枢を止められたことによって、きっとこの空中都市は崩壊する。だから貴方は無事に仲間を助けることができたら、すぐに空間移動ゲートを使ってここから脱出するの。
ゲートはこのフロアにあるわ。今は何も無いように見えるけど、そこのレバーを下げれば、円の中心部分にゲートが出現する。そこに立ってゲートの作動ワードを言えばいい。」
「……。」
「ただ覚えてて欲しいのは…コンピューターを止めたことで、ゲートを使える時間も限られてくる。多分もって5分。だから、その時は…本当に早く脱出するのよ。」
すると、ジュエルはこう聞いた。
「アンジェリカは、間に合うのか?」
「え?」
「ゲートが使えなくなるまでに。戻ってこれるのか?」
「……っ」
その問いに、アンジェリカは少しだけ沈黙する。そして下の方に目を逸らすと、細い声で途切れ途切れに答えた。
「ええ…私もすぐ戻るわ。その時には…この体の状態も元に戻ってるだろうから。」
「本当なのか。」
「ええ。心配してくれて、有り難う。」
ジュエルはすっきりしない様子で、アンジェリカを見つめる。どう見ても、彼女が大丈夫そうには見えなかった。しかし、彼女はそれ以上何も答えようとはしない。
「だから…ジュエルは行って。」
アンジェリカは静かに促す。その時、彼女の苦しい表情の中にかすかに微笑みが浮かんでいる様に見えた。それは寂しいような――けれど、優しい微笑み。
「私とは、ここでお別れね。」
そして。
ヴゥン……!!!
急な振動音と共に、辺りはより一層緑色の光に包まれた。するとアンジェリカの表情は陰になって、見えなくなってしまった。最後に、彼女の声だけが響いた。
「作動ワードは『Escape』。
ジュエル……いいえ、リタ。
ルチアは貴方の近くにいるわ。
だから、
きっとルチアに会って。
それが私の、たった1つの願いだから。」
アンジェリカは走り出した。
その時に上に纏めた髪がふわりと揺れる。走る際多少のよろめきはあったが、それでも確実に足を踏み出して。そして――ついに彼女が振り向くことは、なかった。
彼女の背中はここから横に繋がる通路へと消えた。
後に残るのは、遠くから響いてくる足音だけ。それもすぐに小さくなっていく。ジュエルは通路の入り口を見つめたまま、そこに立ち尽くした。
(…アンジェリカ…)
追いかけて、止めたい衝動に駆られる。しかし時間は待ってくれないと気付くと、ジュエルは強い眼差しでアンジェリカが開いた道に目を向けた。それはぽっかりと空いた大きな穴で、その先は暗闇に包まれている。
…ダッ!
そこへ、ジュエルは決心したように駆け出した。床に広がった溶けた金属は、既に全て冷えて固まっている。それを踏み越えて、ジュエルは走った。暗闇の中を真っ直ぐ、真っ直ぐ。
すると。
「!」
ジュエルは立ち止まる。そこに着くまでにはさほど時間はかからなかった。
そこは今までとは桁違いに、広い。
特徴をあげるとすれば1つ。床から天井まで繋がる円筒形の水槽がひしめいているのだ。そしてそれらには全て、緑の蛍光を発する液体が当然の如く入っていた。
ジュエルにはもう分かっていた。この液体こそが、オメガなのだと。過去にリタが見つけた全ての元凶。星の血液なのだと。
ジュエルは大量の水槽の間を駆け抜ける。よく見ると、水槽の中に何かの残骸が入っているように見えるが、そんなものには目もくれなかった。
そうして1番奥まで行くと、
「……なっ?!」
ジュエルの息が、一瞬止まる。
そこには異様な光景が広がっていた。
そこには2つの水槽が並んであった。それは周りにあるものよりも比較的大きく、ジュエルの今いる位置より2、3段高い位置に置かれている。水槽は例によってオメガで満たされているようだった。
1つ目の水槽の中には、ロイが入っていた。目を閉じて、意識はないようだ。
ジュエルはその姿を見て絶句する。
大きな理由は彼の左腕にあった。破れた袖の下にあるその腕は、完全にヒトの形を失って巨大化していた。真っ黒な肌の下には驚くほど頑強な筋肉を持ち、手の指に至っては殆ど大きな爪になっている。歪んだ円錐形の爪は5本あり、そのどれもが鋭く尖っていた。
しかも腕は胸部の方まで深く浸食しているようだった。ロイの体を今にも全て支配しようとしているかのように、腕の付け根に浮き出た太い血管が脈打っているのだ。
(これは――)
ジュエルは思い出す。ロイと最後に分かれたときのことを。ロイは、あの時既に限界に達していたのだ。自らの手で入れた実験動物の細胞に支配されようとしていた。
(そうか、アンジェリカに会ったとき時に暴走したのか。)
アンジェリカがロイを拉致した。ならばその前に当然ロイは抵抗した筈。アンジェリカは左腕が暴走したロイと渡り合った――きっとそうだろうとジュエルは確信した。
そして、
次にもう一方の水槽に目を向けた。
2つの水槽の前にした瞬間からその姿は目に入っていた。けれどまだそれが信じられずに、今ジュエルは呆然とそれを見ていた。
「……どういうこと、なんだ。」
ごぽ…
水槽の中で、大きな白い泡が1つ下から上る。
そこに入っていたのは、
ジルフィールだった。
そう、あの古びた教会で分かれたのが最後となった――ロイの双子のジルフィールだ。こうしてロイと並べてみると、本当に顔が似ている。違うのは髪の色ぐらいのものだろう。少しだけ長めの金髪が、オメガの中で揺らめいていた。
ジルフィールは、ロイと全く同じ様にして水槽の中で眠っている。その姿は、互いに綺麗な対を成しているようにも見えた。
(何で、ジルフィールがここにいる?!だって…あいつは…!)
その時。
コツリ。
響いた固い足音に、ジュエルはぴくりと反応する。右の方から聞こえた足音は、こちらへ近づいてくるようだった。そして、
「!」
ジュエルは眉を潜める。『彼』が、林立する水槽の陰からゆっくりと姿を表した。
『彼』はスーツの上に黒いローブのような長い布を纏っていて、顔は目深に被ったフードに隠れていた。『彼』は段差を上がってロイとジルフィールの水槽を背にして中心に立つと、流暢な言葉遣いでこう言った。
「ようこそ、とでも言ったところだろうか。」
「お前が…」
ジュエルは低い声を出しながら、1振りの剣を真っ直ぐと『彼』に向けた。『彼』は微動だにせずに、黙ってそれを見ている。
「お前が元凶か。」
「……。」
「今すぐ、ロイとジルフィールをそこから出せ。…さもないと。」
「それは無理な相談だ。」
チャキッ!
ジュエルが剣を向けている手を素早く捻ると、軽快な音と共に銀の光が反射する。
「何故なら。こうすることだけが私が生まれた意味だからだ。」
「何?」
「私はただ、この与えられたプログラムを成し遂げるだけだ。リタに代わって。」
「…?」
一瞬、ジュエルは『彼』の言うことに違和感を感じる。それはそうだった。今の話は、明らかにアンジェリカが話したことと食い違っていたのだ。
「それはどういう意味だ。」
「フッ…どういう意味も何も。」
その時。
ゴ…ゴゴ…ゴゴゴゴゴゴゴゴ!!!
「っ!!」
突然、まるで地震のように部屋全体が激しく揺れ始めた。ジュエルはバランスを崩し、少し片膝を折った。
「何だ?!」
どうやらこの揺れは、空中都市全体で起こっているらしかった。その頃、都市で働く人々は皆ざわつき、不安げな表情を浮かべていた。空中に浮かぶ都市が揺れるなんて、これが初めてだったのだから。
『彼』はよろめきもせずに、おもむろに両手を上方に広げた。それに共鳴するように、
ヴン…!
この部屋の全てのオメガが眩しい光を放つ。
そして。
「私が、お前の願いを叶えると言っているのだ――リタ。」
ここは、どこかも分からない荒れ果てた砂漠の一角だ。
空は曇っていて、辺りはとても薄暗い。そのせいで、生命のない砂漠の寒々しさが余計に増しているような気がした。岩の縁に生えている枯草が生温い風にゆらゆらと揺れている以外に、動いているものは存在していない――そんな風景だった。
その上空に浮かんでいた。
地上からの高さとしては、40階立てのビルくらいの所だろうか。それは黒い円盤だった。円盤と言っても、例えて言うなら形はパンケーキのようにも見える。
直径は、中に1つの大きな街が入りそうなくらいに巨大だ。どういう仕組みで浮いているのかは分からないが、静かなエンジン音のような音がどこからか砂漠に響き渡っている。
これが『SALVER』の中枢である空中都市だった。今までずっと浮いているだけで、動きもしなければ形も変わらなかった。
しかし今、
初めて変化が起ころうとしていた。
ゥウ……ン
まず、円盤全体が光を発する。最初の方は普通に本体が光を発しているように見えた。だが、ある時点から何やら不思議なことが起こり始めたのだ。
ヴン!!!
空中都市周辺を、急に大きな衝撃波が襲う。そして次の瞬間には、もう始まっていた。
光が、空中都市を中心にして有り得ない形を作り出している。それは――羅列だった。
光を放つ無数の文字が列を成し、集合して、大きな光の帯を作り出しているのだ。帯は何本もある。平行する帯が空中都市の周囲を覆う形で、素早く流れるように動いていたり。帯の束が空中都市から溢れ出るようにしてゆっくりと地上へと向かっているのも伺えた。
よく見れば細かく羅列している文字は、数字だった。0と1だけが不規則に並んでいる列もあれば2、3、5、7と言った素数が沢山並んでいる列もある。
それは何かのプログラムだったのだろうか。しかしながら、それはとても美しい光景だった。帯の長さはどんどん増え続け、終いにはそこに巨大な光の渦が生まれていた。
音もなく、無数の帯は流れる。
その中で、真っ直ぐに地上に向かっていたある1本の帯が地面に突き刺さる。すると、その周りにあった別の帯も一斉に地面を目掛けて流れていった。
そして――
ゥーーーン……
どこからか機械が起動するような音が部屋に鳴り響いた。同時に、さっきまでの揺れが段々と治まっていく。それを確認すると『彼』は上に広げていた手をゆっくりと降ろした。ジュエルはそれを睨みながら、ゆらりと体勢を立て直す。
「っ…何をした。」
「ただの下準備だよ。これでここで生み出したオメガを、空間移動によって地中のオメガの流れに送り込むことが可能になった。あとはこの出来損ないの生命体達を1つにするだけだ。」
ごぽ、ごぽごぽ!
突如、ジュエルの後ろの方から泡が吹き出る音が沢山鳴った。思わずジュエルが振り向くと。
「――?!――」
全ての水槽だった。
全ての水槽の中に、それらはいつの間にかあった。ついさっきまでは何も無かったというのに。
それらは肉塊だった。高さ10m、直径4m程の水槽の中にぴったりと収まるくらいにとても大きい。色は白に近いが、若干ピンク色を帯びている。その異様さは近くの水槽をよく見てみるとよく分かった。肉塊は表面が半透明の膜で覆われていて、その中に見えたのだ。
ジュエルはぞくりとする。
中にはおびただしい数の人造生物や、半人造生物の死体が互いに癒着しあいながら詰まっていた。もはや1部の原型しか留めていないものが殆どで、何か訳の分からない結合組織のようなものから中途半端な腕が生えていたり、頭があったりした。
「………。」
全て元は人間だったもの。するとジュエルは気分が悪そうに『彼』に向き直り、こう言った。
「お前がさっき言っていたのは、どういうことだ。これが、俺の望んだことだというのか。」
「オメガ・プロジェクトは、元々お前の計画だった。マルコーがそれに便乗したようだが。」
「だとしたら何故だ。オメガを使って世界を統べたかったとでも言うのか…俺が!」
「……。」
すると『彼』は、
パサリ。
片手で、自分の顔を隠しているフードを取った。
フードの奥にあった顔。ジュエルはそれを見てはっとする。
「…お前にそれを知る権利はない。」
『彼』は言い放った。驚くほど冷たい視線をジュエルに向けながら。
――その顔はジュエルにそっくりだった。正確に言えば、ジュエルよりは歳が上に見えたが。
「何故なら、お前は失敗した。お前は成し遂げないまま全ての記憶を消し、こうして無様に生き延びることを選んだ。」
「何…」
「この私、リタ・コンピューターだけを残してな。」
よく見れば『彼』は生身の人間ではないことが伺えた。両目の眼球は只の金属球で出来ているし、頬には細い溝が走っているのが分かった。
そして『彼』は、繰り返す。
「――お前は、失敗した。」
ただ事実を述べるような静かな呟きだった。それは全てを諦めた虚しさが籠もっているようにも聞こえた。
その瞬間。
何故かジュエルはふっと視界がぼやけ、目の前の世界が遠退くような感覚に襲われた。
(――え)
剣を握る手が緩む。ジュエルは感じた。自分の真っ暗な頭の中に『彼』の声が反響しているのを。それによって何度も何度も同じ言葉が聞こえてくるのを。
…『お前は失敗した。』
(俺が何を失敗したって?)
『お前は失敗した。』
(リタが――)
ザ、ザザザ。
反響する声に、ノイズ音が混じり始める。それは『彼』が聞かせているものなのか、それともジュエルの中で勝手に鳴っているものなのかは定かでない。初めは微々たるものだったが、次第にそれは強くなっていった。
ザザザ!!
ザザ…ザザザッ!ザーー!
強いノイズ音が重なり、
うるささがピークに達した時。
「…!!…」
ジュエルは両目を見開き、息を漏らす。
頭の中に、幾つもの景色や場面が見えた。それらは、まるでストロボのように一気にフラッシュバックしていく。だから見えるのは一瞬だけだったが、どれも驚くほどに色が鮮明だった。夕焼けの色や、花の色。それに誰かの優しい笑顔――
それがぷつりと終わったかと思うと、
今度は急にゆっくりとした映像が流れ始めた。それは見覚えのある最近の記憶。見えているのは、ある廃虚の薄暗い部屋の中だ。
ジュエルは呆然となりながらも思い出す。
そう。あれはヴァイスを追った後誘い込まれたゴーストタウンでの出来事だった。そこで、見たのだ。
金髪の少女の
幻を。
そして記憶の中で、少女の口元が動いた。声は聞こえなかったが、1文字1文字ずつゆっくりと何かを言っているようだった。その動きを繋ぎ合わせると、1つの単語が出来上がった。
『や く そ く』
…ヴン!!!
大きな音で、ジュエルははっと我に返る。急いで辺りを見回してみると、また異変が起こっていた。
『彼』が立っているすぐ前に、青く光るバリアのようなものが出現していたのだ。当然、『彼』の後ろにあるロイとジルフィールの水槽はその中ということになる。そして肉塊が入った水槽にも同じく、それぞれの全体を覆うようにしてバリアが出現していた。
「…っ!」
「これで殆どの準備は整った。今から5分後には、システムが発動する。――その間、お前はこれらの相手でもしてるといいだろう。」
シュッ!
『彼』がそう言ったと同時に、部屋の両脇から扉の開く音がした。ジュエルが左の方を見ると――いた。右の方を見ると、それと同じやつがもう1体いた。
それは今までの『SALVER』の兵士に似ていた。黒い戦闘服に身を包み、そこに立っている。しかし兵士とは幾つかの相違点がある。
まずは何の装備もしていない、いわゆる丸腰の状態ということだ。銃器はおろか、ナイフの類すら持っていないようだった。それに、背中にボンベがついていない。
次に、体型。今までの兵士は、殆どが普通の成人男性を思わせる体型だった。しかし今回は異様にがっちりとしていて、筋肉質の上巨体だ。身長は2mを軽く越す程度だろうか。
そして決定的な違いが
どちらも首がないことだった。
2体の『首なし』はのし、のしとゆっくり歩み寄ってくる。そしてジュエルとの距離が10m程になったところで少し立ち止まった後――
それは始まった。
「ヴォオオオォォ」
ドッ!ドッ!ド!!
どこから発せられているのかも分からないくぐもった怒声を上げて、まず左の『首なし』が拳を振り上げながら走ってきた。大きな、威圧するような足音が金属の床を揺らす。
だがジュエルは冷静に右の方にも軽く目配せした。どうやら、そっちはまだ動いていないようだ。それを確認した頃には、左の『首なし』はジュエルのすぐ近くまで近づいていた。
「ブゥ!!」
その巨大な拳が勢い良く振り上げられ、
ドゴォ!!!
ジュエルの場所を砕いた。床は大きく砕け、破片が飛び散る。しかしジュエルは既ににそこにはいなかった。それらを全て避けるようにして、一瞬にして中空に飛び上がっていた。
その最中、ジュエルは再び右の『首なし』を見る。するとそれは動いていた。真っ直ぐジュエルを目掛けて走り、
「ヴォ!」
ダンッ!!
跳んだ。拳をうならせながら、下から一直線にジュエルへ向かってくる!
「!」
ジュエルは反射的に上半身を左の方にぐっと捻り、落下の軌道を変更する。そうすると
ブンッ!
『首なし』の突進からの攻撃を避けることが出来た。『首なし』はジュエルの脇をすり抜け――その瞬間、
チャキ!
ジュエルは右手の剣を強く握った。
「…はぁっ!」
ザン!!!
バッ!
赤い血がそこにしぶく。ジュエルが『首なし』の背中を右肩から左の脇かけて斬ったのだ。『首なし』の体はそれに飛ばされるようにして、向こうにあった水槽に叩きつけられた。
そのまま、ジュエルは斬った勢いを利用して宙で体をくるりと1回転させると、今度は剣を両手で振りかざしながら急降下する。その下にいるのは、もう1体の『首なし』だ。
「っおお!」
ジュエルの吠えに『首なし』はぴくりと反応したようだった。そして、
ガキィン!!
『首なし』は振り下ろされたジュエルの剣を片腕で防いだ。腕に装着されている小手のようなものに剣が当たり、固い音が鳴った。
「っ、」
ジュエルが一瞬剣を押しても、『首なし』はびくともしない。小競り合いでは勝てそうにないと理解すると、ジュエルはすぐさま跳ね返される容量でそこから離れ、着地した。
するとその『首なし』はぶらりと防いだ方の手を垂れ、背の曲がった姿勢でのろりとジュエルの方に向く。水槽にぶつかって落ちた方も同じ様なゆっくりとした動きで体制を立て直し、ジュエルに向き直った。
「…こいつらも同じなのか。」
ジュエルは剣を構えながら呟く。その呟きに、
「ただの出来損ないの人形だ。オメガによって強化された殆どの人間は、こうなる。まともな形を保ったのはヴァイスやアンジェリカくらいのものだ。…もっとも、その2人も出来損ないだったわけだが、な。」
『彼』が答えた。
「何?……っ!」
ダム!!
ジュエルの目の前の『首なし』が踏み込む。先程ジュエルの攻撃を防いだ方だ。大きな踏み込みによって一気に間合いを詰めると、
ブン!ブン!!
1歩ごとに両腕を横に振り回すようにして、右、左と2回攻撃を仕掛けた。勿論ジュエルはそれを避ける。1回目は後ろに跳び、2回目はバック宙。どちらも無駄に後ろに行くことなく、紙一重で避けた。
「そう、どちらも出来損ないだ。オメガによるの制御がないと身体機能が崩壊する…脆い人形。しかしそのお陰で、彼等がよく働いてくれたとも言えるだろうか。」
次にジュエルは着地したところから剣を一瞬にして構えると、床を蹴って再び宙に躍り出た。狙いは――
「ふっ!」
ザッ!!
「ゥゴォ!」
『首なし』の腕だった。腕を勢い良く回したことにより生じた慣性によって、『首なし』の右肩が少しの間がら空きになっていたのだ。
ジュエルはその隙を突き、小手で守られていない二の腕の辺りをを切り上げるようにして剣を振るった。腕はとても太かったため、切り落とすまではいかなかったが、深い傷を与えることに成功した。
が、
バッ!!
休む間もなく、別の『首なし』が襲ってくる。一体いつそこに移動したのか、それはジュエルの真上から降ってきた。
『首なし』はそのままジュエルに向かって拳を振り下ろす!
「!」
ドゴオォ!!!
それは強力な1発だった。大きく破壊された床の破片が、仕舞いには砂埃となって辺りを舞う。ジュエルの姿はそれに隠れてよく見えなくなったが――
ザン!!
その中で剣が煌めいた。
それも、
ザシュ!ザ!!
「ヴオオォッ」
3回。
やがて砂埃が少しずつ消え失せると、その全貌が明らかになった。
『首なし』の胸に、アスタリスクを描いたような3つの傷が出来ていた。そこから血がだらだらと流れている。ぐらりと重心が傾いていて、立っているのがやっとな状態になっていた。
ジュエルは黙ってそれに背を向けるようにして立ち、少し遠くにいる腕を傷をつけられた『首なし』の方を見つめている。
ジャキ。
そして、来いと言わんばかりに血濡れの剣を片手に構え直す。『首なし』は腕の傷に狼狽していたようだったが、
「ヴォォォォ!!!」
ドッドッドッド!!
やがて、突っ込んでくるようにしてジュエルの方に向かってきた。そこには防御の構えも攻撃の構えもない。
「ウゴォ…」
同時にジュエルの後ろの『首なし』がおぼつかない足取りで1歩踏み出す。そして、その震える拳をゆっくりと振り上げようとしていた。
ジュエルは、前の『首なし』の距離と、後ろの『首なし』の攻撃が来るであろうタイミングを計る。
すると――それらはぴたりと合わさった。
「ヴォオオオォ!!!」
「フオォオッ!!」
「おお!!」
その瞬間、ジュエルは剣を振った。
ザッ…!!!
回転斬り。
その1振りだけだった。
悲鳴すら上がらなかった。ジュエルを挟み撃ちにした2体の『首なし』の胴体が、宙を舞って。
ブシュウウウゥゥ!
下半身の断面から派手な血の噴水が上がった。
ドォ!
上半身が2つ同時に床に落ちる。
しかし、その前にジュエルは別の所に向かって駆けだしていた。
狙いは1つ――『彼』だ。
タンタンタン!
ジュエルは正面の段差を一気に駆け上ると、視界にしっかりと捉えた。バリアの向こう側に佇んでいる『彼』の姿を。
「は…ぁぁあああ!!!」
一直線に走りながら『彼』に向かって剣を上に振りかざし、
ブンッ!
振り下ろす!
ギイイイィィィィィイン!!!
バヂバヂバヂバヂ!!
剣は、当然バリアに当たった。すると激しい音と共に、青い電気のようなものがそこにほとばしった。『彼』の無機質な表情とジュエルの歪んだ表情が、眩しい閃光に照らされる。
「く…!」
しかしバリアはジュエルの思った以上に強度が高いようで、まるで分厚いコンクリートの壁に剣を食い込ませているようだった。それでもジュエルが渾身の力で刃を押しつけると、バリアはさらに強い閃光を発した。
『彼』は何も言葉を発することなくただ、先程と全く変わらない、限りなく冷たい瞳でそれを見ていた。
バヂバヂバヂバヂッ!!!
「全部、お前がやったことなのか。」
ジュエルは低く呟いた。
「リタ・コンピューター。お前はマルコーの意志に従っていたわけじゃなかったのか。事の全ては、お前自身の意志の元に動いていたというのか。『SALVER』の半人造生物の事も。ヴァイスの事も。」
バヂバヂ!バヂッ!!!
「…アンジェリカも。」
ジュエルには、先程の『彼』の言葉を聞いて納得できたことがあった。それは、部屋の前で別れたアンジェリカの事だ。
もし『彼』の言ったことが本当なら、アンジェリカ自身分かっていたはずだ…そう、ジュエルは思った。即ち。
自身が、オメガ無しでは生きていけない身体だということを。
別れる間際には彼女の体はかなり弱っていた。それを、彼女の身体がオメガを欲していたと考えれば辻褄があった。
ジュエルは確信する。
きっと、彼女は定期的に身体にオメガを曝露しないと正常な生体機能を保てないのだろうと。きっと、あの時はすぐにでもオメガが必要だったのだろうと。
更に。もしこの空中都市がリタ・コンピューターの機能を失って墜落してしまえば、もうオメガを身体に供給する手段はなくなってしまう。
しかし、彼女は行った。
自分は大丈夫だ。自分がリタ・コンピューターを止める、とだけ言い残して。
(最初から、生き残る気なんて無かった――)
ジュエルはその結論に辿り着くと、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
程なくして、ジュエルの問いに『彼』は言葉を返した。
「お前はただの鉄くずに、意志があると思うのか?」
その言葉の直後。
ピッ!
ゴォンゴォンゴォン…
何やら『彼』の後ろにある、この部屋の1番奥の壁が動き始めた。中心から真っ二つに割れて、ゆっくりとそれぞれ横にスライドしていくようだ。
すると次第に、その先にあるものが顔を出してくる。『彼』は静かにこう言った。
「――こんな。」
ジュエルはバリア越しにそれを見て、思わず息を呑んだ。
壁の向こうはまた広い部屋になっているようだった。もしかしたら、今いる部屋のスペースより広いかもしれない。その部屋いっぱいに、並んでいたのだ。
それらは黒い、大きな箱だった。1つの箱の高さは4m、幅2m程。奥行きが8mくらいあるだろうか。その箱が部屋を埋め尽くすようにして、いくつもいくつも整然と置かれている。
そしてよく見れば、全てのの箱の表面にR・Cという文字がプリントされている。R・C――つまりは、リタ・コンピューターのことだと、ジュエルはすぐに理解できた。
「機械に意志などあるわけもない。」
ナノ化した金属で出来た瞼を伏せ、『彼』は静かにこう告げた。
「この意志はただの模倣だ。かつての、お前自身のな。」
そして、
ヴゥン!!
今、全ての水槽が再び激しい光を放った。ジュエルはその眩しさに目を閉じ、俯く。しかし次の瞬間。
ゴボゴボゴボゴボ…!!
「?!」
前の方から異様な音が聞こえ、ジュエルはかっと目を開いた。顔を上げて音のする方にすぐさま注目してみると、何が起こっているのか数秒もしないうちに分かった。
ゴボゴボゴボゴボ!!
「あ…っ!!!」
脳の芯が凍り付くような感覚に、ジュエルは襲われる。
ロイの水槽のオメガが
激しく沸騰していた。
ジュエルの頭の中に、アンジェリカが別れる前に聞かせてくれた20年前の話が瞬時に過ぎる。同時に、彼女の言葉が鮮明に記憶に蘇った。
――『あの時と同じ』
「や…」
中で揺らめくロイの身体が、見る見るうちに泡に隠れていく。それは人間のものではなくなった巨大な左腕さえも飲み込んで。
「止めろ…」
ジュエルは掠れた声でやっと、それだけを零した。だがそんな呟きでこの現実が止まるなんてジュエルは欠片も思ってはいなかった。
何故なら。今のは僅かに保たれていた理性が示した言葉を、無意味に声に出しただけだったのだから。
ゴボゴボゴボゴボ…
時は止まらない。泡の渦に垣間見えるロイの腕や足は、もう一部を失っているのが分かる。手首から先が無くなっていたり、膝が欠けていたり。その傷口から吹き出る血は一瞬にして色を失い、オメガと同化していた。
だがそれでも、ロイは全く目を覚ます気配がない。
「…っ!!」
その時、やっとジュエルは完全に現実を理解できた。このままだと、間違いなくロイは消えるという現実が。
「ぅ、…あぁああああっ!!!」
ギィイイン!!
ばぢばぢばぢばぢばぢっ!!!!
ジュエルはバリアにあてがった剣にありったけの力を込める。すると耳障りな音が鼓膜を駆け抜け、電気の閃光はさっきよりもかなり大きくなった。けれどそんなことには構わずに、ジュエルはそこに力を込め続ける。
バヂバヂ!!ばぢばぢばぢばぢ!!!
「止めろ…止めろ止めろ!」
ゴボゴボゴボゴボゴボ!
「止めろおおおおぉおお!!!!」
ジュエルの叫びは、もはや悲鳴に近かった。声帯を潰さんばかりの声で――彼は叫んだ。
その時、『彼』は表情一つ変えずにバリアにすっと右手の指先を触れる。位置的には、丁度ジュエルの剣が食い込んでいる裏側の部分だ。すると、
バヂィッ!!!
「っ!!」
今までで1番激しい電撃がジュエルを襲った。さらに『彼』がその手にぎゅっと拳を作ると、バリアの全面に一瞬細かな数字の羅列が出現した様に見えた。
バヅ!!!
「ぅあ?!」
それとほぼ同時だっただろうか、ジュエルはバリアから弾き飛ばされていた。ジュエルの体は勢いよく段の下の方まで飛び、
ドッ!
「ぐっ!」
硬い床に背中を激しく打ちつけた。ジュエルはその痛みに思わず顔を歪める。
(くそ!)
それでもすぐに痛む背中を無理やり起こし、水槽に目をやった
が。
(?)
ジュエルは眉をひそめた。
「え…、」
そして声を零す。何故なら、
何も入っていなかったからだ。ついさっきまで――ロイが入っていた水槽に。
始めは、見間違いだと思った。
きっと自分は別の水槽を見ているのではないかと、疑った。
まさかこんな、弾き飛ばされた少しの時間で。本当にあっと言う間に。そんなこと、あるわけがないと思った。
だが、ジュエルは見た。
もはや泡の1つも立っていない水槽の中に。何かボロボロの布のようなものが、オメガに揺らめいているのを。
「――!!」
それが何なのか理解出来た瞬間、瞳孔が散大する。特殊な溶解液に曝され、原型は僅かしか留めていなかったが。
それは確かに、かつてロイの着ていた服の1部だった。
「…ロイ…」
ジュエルはずっとそれを見つめていた。何故か足に力が入らず、立ち上がれない。見ていることが、精一杯の出来ることだったのかもしれない。
受け入れることが出来なかった。
互いに力を合わせ生きてきた仲間の死が
――こんなにも呆気ないものだなんて。
「!」
途端に、ジュエルの見開かれた瞳の奥にあの日々が次々と蘇ってくる。初めて3人が出会った時の事。生きるために『国』からの依頼をこなした日々。ルノワールの地で、大きな敵に手を取り合って立ち向かった事。
ロイはいつだって前を見ていて、そこにはにっと笑った表情があった。
「嘘、だろ…。」
最後に、ロイがあの丘にいたことを事を思い出す。誰かを殺めることなく普通の人間として生きてみたい。そう語った時の彼の儚い笑顔が、印象的だった。
そう。それは手を伸ばしても届くことのない、とてもとても小さな希望の光だったのだ。
だが今。
その光は完全に、
一瞬にして消え去ってしまった。
「っ――」
ロイの願いは、もう絶対に
叶うことは無くなってしまったのだ。
「……ぅおあああああああああぁぁぁ!!!!!!」
慟哭が、そこに響いた。
「あああ…あぁ…ぁ…!!」
ジュエルはしばらく両手をこめかみに当て、床に向かって喘ぐように声を絞った。涙を流し、やがて叫びが尽き果てる頃。
「今。」
『彼』が呟いた。頭を抱えたまま、もはや完全にうなだれてしまったジュエルにその声が届いているかは定かではなかったが。
「2つの片割れは合わさり、1つの『鍵』となる。」
ごぼり。
また泡音が鳴ると、ジュエルは小さく息を呑んだ。そして恐る恐るまた2つの水槽の方に目を向けると、それは既に起こっていた。
ごぼぼぼぼ…
「…っ!!」
ロイの水槽のオメガが、抜かれ始めている。どうやら、オメガは水槽の下に繋がっている何本もの太いチューブに流れ込んでいるようだ。勿論、その中にはかつてロイの身体だったものが混じっている。
「止めろ…」
ジュエルは震える右手を水槽に向かって伸ばした。だが、そんなものが届くはずもなく。
…ゴォ…
ドクン、ドクン!
ロイの水槽は本当に空っぽになった。その代わり低い機械音と共に、チューブがまるで心臓のように激しく波打っていた。
ジュエルは痛む身体を押さえ、剣を杖にしながらゆらりと立ち上がる。そして目で追った。ぐねぐねと伸びる真っ黒なチューブ達が、どこに繋がっているのか――
よく見ると、それらは皆ジルフィールの水槽の下部に繋がっていた。1本1本のチューブが横に並んで繋がり、水槽の縁を囲むような形を取っている。
「そこで見ているといい。」
ブンッ
急に『彼』の目の前に何やら小さな電子パネルのようなものが出現した。そこに何が書いてあるのかは、字が細かくて判断できない。『彼』が手のひらでパネルに触れると、それはふっと反応した後消える。
「これを見せるために、お前を呼んだんだ。」
ヴーーーーン
ゴボ…ゴボゴボ
するとジルフィールの水槽へ、チューブからオメガが送り込まれ始めた。既に満たされている水槽だというのに、物凄い力でオメガが注入されているようだ。中の圧が少しずつ上がり、水槽の壁に小さなひびが入る。それが限界まで達したところで――
「…『Fusion』。」
『彼』が
呪文を唱えるように小さく呟いた。
刹那。
カッ!!!!
稲妻が走ったかのような閃光が、あたりを一瞬白く照らした。
「、…な?!」
そしてジュエルは息を呑んだ。何故なら、気付いたときにはジルフィールの体全体が金色に光り始めていたからだ。金色の光は神々しさを纏い、ジュエルはその光景に釘付けになってしまう。
「オメガ遺伝子。星の。生命の流れへの道標。それが今ここに完成する。」
コォォォ…!!!
『彼』が紡ぐ言葉で、ジルフィールはよりいっそう光を増すように思えた。そして光はジルフィールの鼓動に反応して波打ち、空間に現れる。
どくん。
どくん!
そこで『彼』は決意に満ちた眼差しでジュエルを見つめると、くるりと背を向けた。長いローブの裾がばさりと布の擦れる音を立てる。
「道標を辿って私はオリジナルへ『還り』
『迎えにいく』。」
どくん!!
「――ルチア。」
『彼』がその名前を呼んだのが、最後だった。
バシュッ……!!!!
「うっ…!」
ジュエルは片腕で顔面を覆い、ぎゅっと目を閉じた。
―――
ごぽり。
「くっ…」
泡音が1つするとジュエルはぎこちなく腕を降ろし、目をゆっくりと開く。視界がぼやけていたので、軽く首を振った。その頃には、既にこの空間から強い光は消えていた。
「完成、した。」
『彼』は、水槽のふもとに立って満足そうに目を細める。
「!」
ジュエルはそれを見上げた。水槽の中には、ジルフィールの身体が浮かんでいた。まだ薄ぼんやりとした消えかけの金色の光を纏って。
「まさか…。」
ジュエルはその場に立ち尽くし、ぽつりと零した。すると『彼』がそちらに振り向く。
「…分かるか。2つは、1つになったのだ。片方のオメガ化した生体分子をもう片方の身体に定着させる技術は、かつてお前が研究していた事だが。やはり全て忘れてしまったか。」
「…ロイが…ジルフィールに?どういうことなんだ…。」
混乱しているジュエルをよそに『彼』は続けた。
「だが本番はこれからだ。この完全な遺伝子をオメガと同化させ、人造生物を全てオメガ化する。それを『流れ』に帰せば。道は、開く!」
「!!」
ジュエルははっとする。このままではジルフィールまでもすぐに消されてしまう――
「止めろ…っ!」
ダッ!!
ジュエルは再び駆け出した。手に持った剣の先が床を擦り、火花が散らせる。それから彼は風のように段差を駆け抜け、
「ああぁ!」
ブンッ!
剣をバリアに振り上げる。
ギイイイイィィン!!!!!
バヂバヂバヂバヂ!!!!
「く…ぅううっ!!」
先程と全く変わらず、激しくぶつかり合う音と共に青白い電気が走った。
「無駄だ。この壁が破れることはない。」
歓喜することも、馬鹿にすることもない。『彼』はただ事実を述べるように淡々と告げる。その表情を見て、ジュエルは眉間にしわを寄せた。
何となく分かったのだ――ジルフィールを助けられる可能性は、殆ど無いに等しいということが。
そうしているうちに
『彼』は新たな『呪文』を紡ぐ。
…ゴボゴボゴボ…!
「っ!!」
ジュエルは音に反応してぴくりと肩を揺らす。しかしそちらの方は見なかった。今はもう、ただ残されている僅かな可能性に賭けることしか出来なかったのであろう。
「っおおおおおおお!!!!」
バヂバヂバヂバヂ!!!!!
ゴボゴボゴボゴボゴボ!!
躊躇せずに。剣を持つ手を緩めずに。
ジュエルは今自分が持てる力を、
ありったけ両手に込めた。
『彼』はジュエルの姿を目に留めたまま、そこから1歩も動かない。そして、剣からジュエルの手に伝わってくるバリアの抵抗は、どんなに力を込めても変わることがない。
「ぐ、うううぅぅううう!!!!」
バヂバヂバヂバヂ!!!!
残された時間は、恐らく僅か。さっき一瞬にしてロイは消えてしまったのだ。ジルフィールも同じ様にというのは、誰にでも予想がつくことだった。
だが、世界は無情にも一定の早さで刻々と時を刻んでいく。ジュエルには、その時点でもう絶望が見えていた。
(このまま…あいつの思う通りになるって言うのか?こんな、何も出来ずに!!)
ゴボゴボゴボゴボ!!!
さらに激しい泡音がジュエルを追いやる。それに押されたのかもしれない、ジュエルは最後に腹の底からこう叫んだ。
「くそおおおおおおおお!!!!」
その時。
キィ……ン
ボンッ!!
ドゴオオオオォォン!!!!
『…?!』
突然の爆発音が空間を揺らした。両者、その異常な事態に目を丸くする。そこで『彼』がすっと後ろの方を見ると――
「…何…。」
『彼』は絶句した。何故なら水槽の奥にある部屋から、火の手があがっていたからだ。
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